ある日のことでした。
「大和国へ帰ってきた……これで、父上にも……」
薄ら聞こえた独り言。
「オウスノミコト様!」
「……そなたは」
「私はオトタチバナと申します、オウスノミコト様。お戻りになられたのですね……!」
小碓命様はすっかりお窶れになられてはいたものの、生きて戻ってこられたこと、嬉しくて嬉しくて仕方がありませんでした。そして喜びのままに思わず声をかけてしまったのです。
「オトタチバナヒメ、そう、我は戻ってきた。この大和国へ。だがオトタチバナヒメよ、我はいまやオウスノミコトという名に在らず」
「……?では、今はなんという御名でございますか?」

「大和国の最も強き者、ヤマトタケルよ。」

この名を挙げたのは、そなたが始めてだ。とフフ、と口角をあげて微笑まれました。その微笑みが自分に向かっているなんて、信じられません。
ヤマトタケル様となられたオウスノミコト様は惚けた私を暫く面白いものを見るような瞳で見ておられましたが、その内スッと宮殿の中へ出向かれたのでございました。
私はその後ろ姿を見て、木ノ実を沢山収穫できた童が喜々として親に見せに行く――そんな情景が何故か朧気に浮かびました。
それから一時間も経過せず、ヤマトタケル様の御姿は宮殿前にありました。ヤマトタケル様はじっと戸の前で立っておいででした。
「オウス……ヤマトタケル様!」
「オトタチバナヒメ」
その後ろ姿にお声を掛けると、御返事をいただきましたがそのお顔を振り向かせることはありませんでした。ですが、お名前を憶えていただいていたのが嬉しくて、明るく言葉を紡いだのです。
「天皇からは何と?あの熊襲を討ち取ったのです、さぞ喜ばれ」「明日にはまた東に行け、と仰られた。矛一つと従者を一人賜った以外には、何も。よく帰った、よくやった。流石私の息子だと、そう、言っていただけると、思っていた我は愚かだった、のか……」
そういうヤマトタケル様のご様子が明らかにおかしいのはすぐにわかりました。声が処々掠れて、目は闇よりも暗く、このままでは東国でなく根の堅洲国や黄泉国へ行ってしまいそうな危うさがあったのです。
私はヤマトタケル様を何とかしなければならない、と思いました。何とかできるかどうかはともかく、このまま送り出して良い状態ではないと、そう感じたのです。
「ヤマトタケル様、どうか少しだけお時間を私に下さいませんか」
ヤマトタケル様は暫くそこに佇んでおられるのみでしたが、その内小さく頷いて下さったのです。
「ここはひと目につきます。場所を変えましょう。失礼します」
茫然としているヤマトタケル様の御手を引き(私はなんて大胆なことをしたんだ!と気づくのはもう少し後のことです)草を掻き分け獣道を行きました。
ぱっと視界が開けたと思えば見晴らしの良い崖。来た道は長草だらけで誰からも見えはしません。
「ここは私の秘密の場所なんです」
「そなたが秘密裏に所有する地ということか」
「いえ、そういう訳ではないのですが……。ただ、空気が澄んでいて町の喧騒からも遠く。好きだな〜と思っていて」
「確かに、良いところだ」
ヤマトタケル様の瞳に少しだけ光がさしたのが分かりました。良かったと安堵するやらこんな至近距離でヤマトタケル様とふたりきりで緊張するやら、内心忙しなくありましたが、とにかく、ヤマトタケル様にこの調子で元気になっていただきたいのです。そのためにはどのようなお話をすれば良いか、まずお話はすべきなのか、そこから悩みましたが、成功体験を語っていただければ、元気も湧くのではと浅はかな発想ながら考えたのです。
「どうやって熊襲を滅ぼしたのですか?」
「女人の格好をして、酒をどばどばついでやり、熊襲兄弟がフラフラ酔っ払ってきて、我の胸やら足やらにニヤニヤしながら手を伸ばしてきた時にぐっと掴んで、どりゃー、と飛ばして兄が気絶してる間に剣でぐさっとやって、弟が背を向けて逃げ出したから尻をさくっと刺してひねり殺した」
何とまぁ擬音の多い。よくある凄惨な話ですが、何だか童が話をしているのを聴いているようで、可愛らしくてクスクス笑ってしまった。
「何がおかしい」
「すみません、ですが女人の格……女人の格好!?」
私はヤマトタケル様のお言葉を反復して、その事の重大さに今ようやっと気づいたのです。女人の御召物を纏ったヤマトタケル様……さぞ私も羨む様な美しい女人であったことでしょう。最期に見た人がそんなヤマトタケル様であったなら、私はこの世に悔いもないでしょうが。
「我が叔母上、ヤマトヒメ様にきっと何かの役に立つからと……その言の葉は半信半疑であったが、うむ、流石ヤマトヒメ様。我には考えつかぬ妙案であった。お礼を申し上げに馳せ参じねば」
「すみません、女人の格好とは……」
「そなた、やけにその点を気にするのだな。こう、ひらひら〜っとしていた。」
「ひらひら〜っとした女人の装いに身をつつんだヤマトタケル様…………尊い!尊いです!」
「貴い……?我は神にあらず」
「神のように尊いのです、想像したら……!嗚呼、女人の格好のヤマトタケル様!尊い!!」
「そ、そうか。しかしそなた、表現が奇異だな。悪い気はせぬが。我に対し貴い、とは……フフッ」
「わ、わたしったら皇子様ともあろう方の前で大変取り乱して……失礼しました!」
「良い良い、少し元気が出た」
そう言いすっくと立ち上がると、ありがとう、と一言残され、踵を返されたのです。

「叔母上、叔母上。ただいま戻りました。」
「オウスノミコト……いえ、いまはヤマトタケルでしたね。」
ヤマトヒメはヤマトタケルの帰りを喜ぶと同時に少し驚いた。名前だけでなく、顔も変わったと感じた。あのあどけない雰囲気と神のような強さを秘めたあの顔が、一気に年を重ねた様だったのだ。戦をくぐり抜けると、生まれ持ったものではなく、なにか鬼気迫る……そういった顔つきになるのかもしれない。
「流石、大和国よりの情報は知れ渡るのが早いですね」
「そうですね、貴方が天皇から新たに賜った命も知っておりますよ。すっかり傷心していると思っていたのですが」
「…………。」
「ヤマトタケル……」
「父上は、私に死ねと思っておられるのです。こんな、こんな苦しいことがありましょうか。それでもこうして、ヤマトヒメ様の元へ馳せ参じることが出来たのは、あのヒメが居たからかもしれません。あのヒメに出会っていなければ、五十鈴川にでも、一つの肉塊が游いでいたことでしょう。」
「……とても、良いヒメに出会ったのですね」
ヤマトタケルは小さく頷いた。
そしてヤマトヒメはヤマトタケルに剣と小さな袋を一つ授け、その後ろ姿が大和国へ戻っていくのを見届けた。