恋ひ初めの街《短編集》

 私の思春期といえば、佐藤一郎の幻影を追い求め続ける日々だった。いつも例の鍵を見つめながら彼を思っていた。突然彼が現れ、私を優しく抱き締めてくれる場面を想像する。男性を見るとき、決まって彼と重ねてしまう。あの面影に似た顔をさがすのだ。だが、そんな男性は現れるはずもなく、ため息をつくばかりだった。佐藤一郎は完璧だ。長身で美男子で、私を見つめる目は澄み切って(にご)りはない。時が()つにつれ、それは自分の理想にデフォルメされていた。
 私はベッドの上で、鍵を見つめながら、いつか彼がこの鍵で私の扉を開けてくれはしないか、と胸を(ふく)らませ目を閉じる。最早、(まぶた)の裏にはデフォルメされた彼の顔とたくましい肉体しか映らない。私は身じろぎもせず彼のなすがままに任せるのだ。鼓動が早くなり、全身が熱くなる。下腹部に何度も波が押し寄せては引き、やがて堤を破って次第に大きくうねり出す。私はそれを鎮める方法を知っている。私は激しく体を揺さ振りながら大波に小舟を漕ぎ出す。彼はまだ私に向かって波を起こし舟を揺らす。私は一層激しく()をかいて抵抗を試みるものの、大波の勢いに負け、ついに身を委ねる。そうして何度も大きく息を吸い込み、一気に吐き出す。最後は自ら波間に身を沈めてしまう。私は打ち上げられ、徐々に凪が訪れる。静かに目を開け、すぐにまた目を閉じる。焦点が定まるまでしばらくその状態を保つのだ。
 喜びと寂しさ、やがて虚しさ。様々な感情が入り乱れ、心に押し寄せる。己の憐れさを嘲り、(さげす)み、後悔しながらも繰り返し求めてしまう。仕方のないことかもしれない。
 波に打ち負かされたあと、無性に彼が恋しい。妄想ではなく生身の彼の温もりが恋しい。そして悟るのだ。彼は私の初めての恋なのだ、と。
 私なんてちっとも美人じゃない。
 親戚連中は「十人並みが一番よ」なんて無責任な(なぐさ)め方しかしない。
 ──十人並み?
 ──普通ってこと?
 美人でもないし、ブスってわけでもない。どちらかというと、美人でないほうの部類という意味だわ。そんなこと本人が一番知ってることよ。わざわざ面と向かって言わなくたって……。余計に傷つくというもの。
 ──私ってそんな慰められ方されるほど酷いの? 
 私はまたウインドーを覗き込んだ。薄ぼんやりとガラスの向こうに浮かぶ相手を睨みつけてみる。擦れ違った男どもが皆振り返るほどの美貌なんて要らない。もてたいなんて思わない。だけど少なくとも彼が気に入ってくれる程度で満足する。私は心の中で神様に両手を合わせた。
 確かに色気なんて、まだない。男に()びるなんてのも嫌。こんなに色白じゃない。目だって大きいし、鼻だって低いけど結構可愛らしい。唇だってセクシーとは言い難いが、そこそこ形いいのがちゃんとついてる。脚だって長い美脚、とはお世辞にもいえない。胸だって小振り。けど、全体的には細身でなかなかスタイルはいいほうだわ。
 私は大きく深呼吸した。「よし」と回れ右をして、自分の虚像と決別した。
 ──自信を持ちなさい、弘美!
 もう一度医院の時計を見た。四時半を少し回っている。私の目の前を様々な影が()き立てるような早足で擦れ違ってゆく。めまぐるしく流れ去る波から目を背けたら、どこからともなく焼き魚の匂いが漂ってきた。
(さば)の塩焼きね」
 つぶやいて匂いの源流をさぐる。たぶんこの通りに面したスーパーの惣菜屋からだろう。その匂いを辿って、視線を向かいのビル群の右端のほうへ滑らせた。交差点で信号待ちのバスが目に留まった。こちらにくるのか、それとも左右どちらかに曲がるのか。もしかして、あのバスに彼は乗ってはいまいか。だが、しばらくすると、バスは進行方向を左に折れ、視界から消えてしまった。私の鼻腔(びこう)に焼き魚の匂いがこびりついて空の胃袋が鳴った。ふと母を思う。
 母は二年前に逝った。心筋梗塞だった。不整脈は以前より出ていたが、医者も心配いらないと太鼓判を押してくれていたし、本人もさほど気にしていなかった。たぶん病的なものだとは思わなかったのだろう。
 早朝、台所に立って朝食の支度の最中に倒れた。辛そうな表情で「大丈夫よ」と息も絶え絶えにつぶやいた。最初の発作でそのまま召されたのだった。
 私は慌てて救急車を呼んだ。そのあとのことはあまり覚えていない。まさか、母を奪われるとはこれっぽっちも考えもしなかった。食卓には鯖の塩焼きが、一切れずつ小皿に取り分けられ、それぞれの席に載っていた。私は母の亡骸を寝室に寝かせたまま台所に入ると、放心状態でそれを眺めていた。大学一年のキャンパス生活にも慣れ、ようやく充実してきた暮の寒い朝だった。
 喪失感と悲しみ、怒りに苛まれながら一年を過ごした頃、やっと立ち直ることができた。ひとりで生きねば、と決意し、あっという間に今日を迎えたのだ。
 高校を出てすぐに就職するつもりでいたのだが、高三の秋に担任に呼び出され、進学を促された。最後の三者面談の際にも担任は母に強く進言した。母はそのとき初めて私の考えを知った。
 母は最初から私を進学させたいと思ってくれていたが、私は頑として拒否するつもりだった。母を楽にさせてやりたい。その一念だったから。だが、母の説得についに私のほうが折れたのだ。
 思案の末、働きながら通える夜間部への進学を決めた。私立だったが、学費もなんとか母に負担をかけずにやっていけそうだった。深く考えて学部を選択したわけではない。たまたま商学部だったので、在学中に資格を取得するにも好都合だと思い至ったのだ。私は普通高校に入ったことを幾分後悔していた。商業科なら、もう少し就職にも資格を取るにも有利だったかもしれないと思っていたから。
 就職を決めて入学するつもりでいたが、母も周りの者も慌てることはないと強く助言をくれ、アルバイトをしながらということにした。早朝の新聞配達から始まって、午前中はファーストフード店で、午後は五時まで飲食店で仕事に勤しんだ。そのあと六時から九時頃まで講義を受ける。私には学生気分など微塵もなく、早く社会に馴染むことしか頭にはなかった。
 母の三回忌の法要を済ませて間もなく、得意な英語を生かして翻訳の仕事も請けるようになった。最初はさほどの収入にはならなかったが、そのうち独力で医学の勉強を始め、知識を少しずつ積み重ねつつ今では他のアルバイトは全て辞め、フリーランスで医学専門に絞って翻訳だけで生活費と学費を賄うまでに至った。このまま卒業してもこの仕事だけでじゅうぶんにやっていけるのだが、やはり実社会に身を置きたい。生来の寂しがりやな人好きからか、孤独な作業よりも人とかかわって生きたいと切望している。どこかの翻訳会社に就職するのもひとつの手かもしれないが、別の分野の世界も覗いてみたい、可能性をフルに発揮してみたい願望──否、欲望というべきかもしれない──のほうが勝っている。そして今は就職活動中なのだ。だが、今日ばかりはリクルートスーツは脱ぎ捨ててきたけれど。
「お母さん、お母さん……」
 何度かつぶやいてみた。頭の中で母の声が木霊する。
「弘美、好きな人はいないの?」
「うん……まだね」
「どんな人を選ぶのかしらね、弘美は」
「優しい人ね、きっと。現れるかなあ……? 私って、美人じゃないし……」
「あらっ、そんなふうに思ってたの? あなたは美人よ、とても」
「ありがとう、お母さん。それって親の欲目ってやつね。でもいいの、慰めてくれなくても。身のほどは知ってるつもり」
「そうかしら? わからないのは本人ばかりなり、じゃない?」
 母はそう言って声を上げて笑った。「そのうち、きっといい人が現れるわよ。あなたみたいな美人、誰もほっとかないのよ。お母さんの娘でしょ」
「もう、娘をからかって……」
 私は(ふく)れっ面を見せる。「娘で遊ばないの!」
 ゲラゲラ笑っていた母を、私も笑いながら睨みつけてやった。
「弘美……」
「なに、まだなにか?」
 私は取り澄ました。
「幸せになるのよ」
 母はこちらに優しい眼差しを向けた。私は仕方なく首を折って母を一瞥(いちべつ)した。その顔がやけに老けて見えた。母は炬燵(こたつ)を抜け出て夕食の支度に取りかかり始めた。私は何度も母の()せた後姿に目をやった。とても幸せな気分だったが、それがなぜか私の心に寂しさを誘ってきた。母の頼りなげな背中に一抹の胸騒ぎを覚えたのだった。それが何だったのかわからなかったが、翌朝、母は呆気なく逝ってしまった。今にして思えば、あれが虫の知らせだったのだろうか。
「私、幸せになるからね」
 空に向かってささやいた。自然と涙があふれそうになる。しかし、今はぐっと飲み込んだ。母と二人だけの生活を懐かしむ代わりに、私は未来を想像しようと思った。そうすれば、涙はこぼれはしない。
 脳裏にふと昨日の出来事が(よぎ)った。
「あの人は……?」
 確か、キャンパスで見かけたことがある。いや、最初に見たのは入学式会場へ向かうバスの中だ。それから二、三度、遠くから見かけただけだ。同じ学部ではないはずだ。私がキャンパスにいるのは夜だけだから、その時間に出くわすことはまずない。なぜ昨日に限って……。たぶんサークルか何かの都合だったのだろう。
 私が大学前のバス停でバスに乗り込んだとき、遠くのほうから手を振りながら彼は追いかけてきた。私は車窓からその様子を眺めていた。何か叫んでいたようだ。その声はだんだん近づいてきたが、内容までは聞き取れなかった。たぶん乗り遅れまいとして運転手を呼び止めていたに違いない。それにしても、彼の視線は私のほうにしか向いていなかったように思う。まあ、それも気のせいかもしれない。でも、そういうことにしといてもいいような気もするが。男性に追いかけられるなんて、悪い気はしないから。
 ──私、そんなにうぬぼれ屋じゃない。
 私はうつむいてクスッと笑った。
 彼も男性としてはなかなかかもしれないが、佐藤一郎には遠く及びはしなかった。また、彼の幻と重ねている。今となっては彼とてどれほどのものか。自分の都合のいいようにデフォルメされたに過ぎないのに。
 身のほどを知るべきかも。ペンギンは所詮飛べやしないし、気高(けだか)く華麗に舞う丹頂鶴(たんちょうづる)にはなれない。でも愛敬がある。それで満足しないと。それなのに相手には完璧を求めるなんて、愚かしい。滑稽極まりない。と、自分を叱りつけもする。
 皆なんてとっかえひっかえ、異性とうまくやっているのに、自分ときたら幻影に取り()かれて何の進展もないなんて。たまには恨みごとも言いたくなる。責任を彼の幻に転嫁(てんか)してもしょうがない。自分の性格なのだから。でもそれを認めてしまっては立つ瀬がないというもの。惨め過ぎる。女なの。だから少しぐらいは我がままでいてもいい気がする。そんな女を装ってみてもいつも中途半端なのが悲しい。私は自分を嘲笑した。
 そんなことをぐだぐだと考え、右手で髪をかき上げながら、ふと視線を滑らせた。目は一点に釘づけになり、息を呑んだ。例のキャンパスの彼が、こちらに近づいてくる。
 ──なぜ、こんな所に!
 目を合わせないよう咄嗟(とっさ)に傘で顔を隠した。
 彼は私の前で一旦立ち止まった。その足元だけが見える。車道のほうを向いていた。私は息をひそめて、早く去ってくれるよう祈った。ほどなくして願いは叶った。彼の足は、ゆっくりとその場から離れかけた。傘の陰から遠ざかるその後姿を確認すると、フウッと大きく息をついて胸を撫で下ろす。
「ああ、ビックリした!」
 少々声が大きかったようだ。若いカップルが怪訝(けげん)そうに私を見ながら通り過ぎてゆく。私はまた傘で顔を隠す。そして腕時計を覗いた。もうすぐ五時だ。五時まで待ったら、帰ろうと決めた。私は腕時計と睨めっこを決め込むと、時が満ちるのを待つ。
 ──あと五分……
 そして、一分前。腕時計の秒針を追いかけ、心の中でカウントダウンを開始する。
 ──三十秒……二十秒……十秒前……
 針は初恋の終焉(しゅうえん)を刻み続ける。大きく深呼吸を繰り返す。
 ──五、四……
「さあ、帰ろう」
 ──三、二、一……
「タイムオーバー」
 私は天を仰いだ。「さようなら、私の……」
 震える胸に十年分の想いが去来する。唾液を飲み込み、胸につかえたものを落とし込む。うつむいて息を整える。静かに目を閉じ、顔を上げゆっくりと目を開ける。
 雨はいつしかすっかりやんでいた。傘を畳んで、例の彼とは逆方向へ歩き出した。そのとき、スマホが鳴った。しばらくメロディを奏で続ける。ドヌーヴが私の脳内で役を演じ始めた。立ち止まり、ハンドバッグからスマホを取り出すと耳に当てる。
「もしもし、石川ですけど……」
 相手の反応はない。「もしもし? どちら様ですか?」
 間違えてかかってきたのだと思い、耳から少し離しかけたとき、ようやく反応が返ってきた。最初、何と言ったのか聞き取れなかった。辛うじて語尾だけを拾うことはできた。
「……だね」
 男性の声だ。内定の一報だろうかとの期待に、いささか慌て気味に小さく深呼吸して息を整え覚悟を決めた。よそゆきの言葉を用意する。
「あの、石川でございます」
「シェルブールの雨傘だね」
 今度ははっきりと聞き取った。
「な、何です?」
「ピッタリの曲だね。あっ、ごめんね、ビックリさせて。僕もお気に入りの曲だから……」
「そ、そうなの……?」
 素っ頓狂な声で答える。「どちら様……でしょう……?」
 相手は何も答えない。と、突然、切断音が鼓膜を突き刺した。だが、私はスマホを耳に当てたまま呆然とする。何が何だか、何が我が身に降りかかったのか、全く理解できない。
「シェルブールの雨傘だね」
 背後で声がした。私は振り返った。キャンパスの彼が立っている。彼は自分のスマホを掲げ、それを揺らしながら笑っていた。ストラップに目が留まった。丸いものが二つ見える。赤色だった。私は口を()いて固まった。
「久しぶり。元気だった?」
 彼はゆっくりと私のほうへ歩み寄った。
 私は金縛りに遭ったように手足が膠着(こうちゃく)した。やっとの思いで、声を絞り出してみる。
「ど、どうして……?」
 彼は愉快そうに声を上げて笑い出す。
「君の友達に聞いたんだ昨日、君の番号。君を追いかけて、バスに乗り遅れたあとに」
「私……入学式の日にあなたを見かけた。キャンパスでも二、三度……」
 私の思考は混乱を来す。「……あなた、ダレ?」
「僕もまさか君だとは気づかなかったよ。数日前までは。君の名前を偶然耳にしたんだ。その人に君のことを尋ねて、昨日、君を追いかけたんだけど、間に合わなかった」
「そ、そうなの? 私、全然気づかなかった。同じ大学だなんて……大学までは向こうだって……」
「ハイスクールまではいたけど、帰りたくてね。とうとう家族を向こうに残して、僕ひとり帰国したんだ」
「そうなの」
 自分の声が野鳥のさえずりにしか聞こえない。正しい発音かさえ怪しかった。私は瞬きも忘れて彼を凝視した。
「ねえ。顔に何かついてる?」
「本当に佐藤一郎君……なの?」
 彼は軽く頷いた。
「それより、スマホ……切れてるはずだよ」
 彼は微笑みながら自分のスマホを切る振りをした。
 スマホは、まだ私の左耳にしがみついていた。ハッとして耳から引き離し、自分の目線に掲げて肩を(すく)める。ストラップの鍵が揺れる。また、彼も私に(なら)って同じ仕種(しぐさ)を繰り返す。
 ようやく冷静さを取り戻したところで、彼の頭から爪先までを舐め回すように視線を這わせて、そのいでたちを確認した。不意に、フフフっと吹き出してしまった。彼は頭をかきながら首を傾げる。口元は相変わらず笑みをたたえたままで。
「だって、あのときと同じだから……」
「何の、こと?」
「わざとなの?」
 彼はまた頭をかきかき首を捻った。と、左手の甲に右肘を乗せ、人差し指と親指で顎をさすりながら眉をひそめた。それから口をすぼめ、何度か首を横に振って両手でお手上げのポーズを決めた。
 ──アメリカ仕込みなのね。
 私は、思わず手を口に当て、声を押し殺しながら笑った。
「ねえ、教えてくれない?」
 私は彼の傍まで寄ると、ショーウインドーを指差す。指先の延長線上に彼の視線は向けられた。
「本当に気がつかない?」
「うん、映ってるね」
 彼はショーウインドーと私を交互に見ると、また首を捻る。
「同じでしょ? あの日と。白のTシャツ、ブルージーンズ、白のスニーカー。とても爽やかよ。それに……」
 私は彼に鼻を近づけて、犬がするようにクンクンと鼻を鳴らして見せた。
「そんなに臭う?」
 彼は自分のTシャツの胸元を摘まんで鼻に近づける。
「そう、プンプンよ。洗剤とシャンプーの爽やかな……あのときと全く同じ匂い」
「そうだっけ? 覚えてないんだ。だけど君だって同じだよ」
「えっ! 何のこと?」
 私の正面に回り込んだ彼は、全身の輪郭(りんかく)を両の手でかたどったあと、不意に傘を奪って開いた。微笑みながらクルクルと回す。
「これさ。君のことはよく覚えてるよ。水色のワンピースに赤い雨傘。爽やかだよ、相変わらず。それに……」
 彼は傘を畳んで私がしたように犬の真似を始める。「いい匂い。全て同じだ、あのときと」
 彼の胸板が目の前に接近し過ぎて、私の顔は熱くなった。
「そ、そう、なの?」
「懐かしいね、それ」
「何が?」
「君の口癖」
「口癖?」
「そうなの」
 彼は私の口真似で大きく首を上下させ頷いて、おどけて見せる。と、私の顔は蒸され、今にも湯気が立ち上りそうになる。
「わ、私、バカみたいでしょ?」
 彼は少し屈むと、この顔を覗き込んだ。私の目線に合わせ、そのまましばらく見つめた。お互いの視線が一直線上に結ばれる。それから言い放った。
「そうなの?」
 彼の行為に息が止まった。胸が高鳴る。彼にそっぽを向くと、踵を返し、いきなり歩き出した。彼は小走りに私を追いかけ、横にピタリと並ぶと、また私の顔を覗き込む。私は自らの胸を押さえながら肩を竦め、舌を出した。そして、私たちは並んでしばらく歩いた。時折彼の横顔に視線を注ぎながら。たまに視線が合うと、彼は微笑んでくれる。
「ねえ、私、実を言うと……あの映画、まだまともに観たことないの。いつも途中で寝てしまうのね。ちょっと苦手なジャンルみたい」
「ミュージカル?」
「ええ。あなたはいつ頃観たの?」
「観たことないよ、一度も」
「えっ! でも、あのときの口ぶりなんか……。観たことないの、アメリカに住んでたのに?」
「うん。それに、あれフランス映画だよ」
「そうなの?」
「ドヌーヴはいいけど……」
「ああいう……」
 グラマラスな女性が好みなの、と思わず言いかけたが、寸でのところで飲み込んだ。自分の胸元を覗き、がっかりしながら苦笑する。
「なに?」
 私は、何でもないわ、と首を横に振った。
「どうして、一度も……?」
「ミュージカルだろう。しかも全編だよ。退屈じゃないのかなあ……?」
「ヒドイ! 私、てっきり……」
 予期せぬ彼の言葉に、私の足は制動をかけられた。「だましたのね!」
「だましたわけじゃ……曲は好きだよ、とっても」
 私は膨れっ面をして彼を睨んだ。ただし目には笑みがこぼれる。彼も立ち止まって肩を竦めた。
「それはないわよ!」
「僕たち、趣味が合うね」
 愉快そうな彼の声に、耳がこそばゆい。
「私、今の今まで観なかったこと気にしてたのに!」
 語気を強めて責め立てると、彼はまた私の顔を覗き込んできた。あまりにも近かったので私は少しのけ反った。
「そうなの?」
 彼はそう言うなり歩き出した。私はすぐさま体勢を立て直し、追いかける。
「そう、なの!」
 追いついて歩調を合わせながら一層語気を強めた。
「悪いのは……ぼく?」
「そう、なの!」
 二人は声高に笑い合った。胸の奥がくすぐったい。
 しばらく並んで歩いていると、突然、彼は歩みを緩めた。私も数歩いって立ち止まり、彼を振り返る。
「どうかした?」
「ねえ。背、ずいぶん高くなったね……」
 そういえば、あのときは、彼が頭ひとつ分ほど飛び出ていた。しかし、私の目線は今、彼の唇あたりを見ている。また、あの痛みがぶり返してきた。
「忘れてた!」
「何のこと?」
 私は顔をしかめながら屈むと、ハイヒールを足からもぎ取って右手に持ち、爪先で立った。彼を横目で見ながらゆっくりと地べたに(かかと)を下ろす。素足にひんやりとした感触が心地いい。やはり、彼は長身だった。これで全てがあの日と同じになった。
 辺りを見渡した。今きた方向に歯科医院を見つけ、小走りにそこを目指す。彼も私のあとを追ってきた。医院のドアをそっと開け、ハイヒールを玄関に(そろ)えてドアを閉めた。そして何食わぬ顔で胸を張り、堂々とした態度で歩き出す。その間、彼は目を丸くしながら私の行動を眺めていた。彼が追いついて横に並んだとき、私は気取ってウインクして微笑む。彼は私の足元を呆れ顔で見下ろしながら、楽しそうに声を上げて笑った。
「私にはスニーカーのほうが似合うみたい」
 微笑んだまま深々と頷いてくれた。
「ちょっと待って」
 彼はストラップを外し、両手で私の髪を後ろで束ねると、髪留めで括ってくれた。彼の手から伝わるなだらかな感触に心身(からだ)の奥底が震え出した。大きく深呼吸をして、辛うじて心の平静(へいせい)を保つと、うつむき加減に彼の表情を確かめながら微笑みかける。言葉など今は何の役にも立たない。
「これで完璧。全てが同じになった」
 胸底に落ちた声の(つぶて)は波紋を起こし、体の深部までをも揺さ振りながら締めつけ、上気させる。高揚した気持ちをおさめきれぬまま、私は肩を竦め彼に寄り添うと、その腕にしがみついた。だが、彼は私の行為を拒絶し、強引に腕を引き離した。孤独な風がひんやりと胸を渡り、凍えさせ、私は戸惑ってその場に立ち尽くしてしまった。と、彼は口元に笑みを浮かべながら私の手を握り締め、引き寄せた。掌に彼の温もりが、じかに伝わる。その手に操られる様に、この体は彼の意志に従った。彼が歩を進めると同時に足は自ずとそちらへとなびいていった。胸辺りまでもが熱くなる。
 目の前に大きな水溜りが立ちはだかり、二人のゆく手を遮った。すると、突如私の体は宙に浮き、水溜りを越えてゆく。この体は今、彼の腕にすっぽりとおさまっていた。彼は人目も(はばか)らず私を抱きかかえたのだ。
「あの店でスニーカーを買おうよ」
 靴屋の看板が目に入った。私はたくましい腕の中で小さく頷いた。擦れ違う人たちが皆、私たちを振り返りながら通り過ぎる。彼はまっすぐ前を向いて進む。
 ──これもアメリカ仕込みなのね……
 私は両手で顔を覆った。だが、どういうわけかそれほどの羞恥心(しゅうちしん)はなかった。
 彼はしばらく私を抱きかかえたまま歩いた。
「ねえ、下ろして」
「店の中まで構わないよ」
「いいの、ここで」
 私はずっとこのままでいたかった。全身で彼の体温を抱き締めていたかった。だが、じかに自らの足で地面を踏み締めなければと思った。彼は優しく私を下ろしてくれた。
「さあ、行きましょう」
 靴屋はもうすぐだ。私たちはまた肩を並べて歩いた。夕日が眩しい。私は目を細めた。そして彼の横顔を見つめた。夕日に浮かぶ彼の瞳はさざ波の反射のように揺れている。
 夕映えの色は最早悲しみの色ではない。
 空を見上げれば、ビルの谷間から夕映えに誘われて小さな虹が現れた。辺りを見渡すと、七色の色彩で街並が虹と呼応しながら私たちへのささやかな祝福をくれる。
 これから何かが始まるのだろうか。そうかもしれない。私は長い間待ち続けた。私たちは予感だけを胸に秘めながら一歩ずつ踏み出すのだった。
 こんな街も悪くはない、と私は思った。


【第一話】〈了〉


『いつかまた 織姫様に会えますように  彦星より』
『いつかまた 彦星様に会えますように  織姫より』
七夕の奇跡!
6年後、再会を夢見て七夕祭りへ・・・
初恋と、それを取り持つ友情の物語。
七月七日
見知らぬ男女が初めて出逢う日
恋の予感……
 七夕祭りの一週間は心が躍る。
 七月七日のクライマックスには、町内の十六歳から二十五歳までの男女を対象に自薦、他薦を問わず当年の彦星と織姫の候補者を募り、選出された二人をそれぞれの輿(こし)に乗せ、輿を囲んだ稚児(ちご)行列ともども天の川に見立てた神社の参道を、年に一度の再会の場所と設定された本殿まで練り歩き、そこで初めて二人を引き合わせるという趣向が三十年来の慣わしになっており、中にはこれがきっかけでめでたく結ばれた彦星と織姫もいる。結果的に若い男女の出逢いの場を町ぐるみで提供しているという予期せぬ展開に、実行委員らは殊の外ご満悦だともっぱらの評判だ。
 何ともロマンティックな成り行きに、自分もいつか輿に揺られてめぐり逢いの場所へ、などと妄想に取り憑かれ、仄かな夢と憧れを抱いている。見知らぬ男女が恋の予感を(はら)みつつ初めて出逢う場面ほど心揺さ振られる光景はない。生来の祭り好きの血が騒ぐ瞬間なのだ。祭り好き、というより、人同士がひしめき合う場所が好きなのかもしれない。
 祭りを通して伝統復古と失われかけた昔ながらの人情を取り戻すべく模索する町の姿は、巨大な捕食者に丸飲みされたものの、尚も胃袋の中でしぶとく息衝く小生物に思えてくる。喘ぎながらもささやかな抵抗で確かな存在感を示しつつ、大都市の片隅にこの町はひっそりと根を下ろしているのだ。私はそんな町に育った。
 夕方帰宅して自室のドアを開け、鞄を放り投げると、制服のまま一目散に神社へと向かった。祭りのクライマックスだけは見逃したくはない。
 普段の買い物客に祭りの喧噪までもがなだれ込んだ、人いきれでむせ返りそうな商店街を抜けると神社の鳥居をくぐった。参道の両脇に連なる出店を散策しながら、今年もひとり本殿を目指す。
 立ち止まっては一軒ずつ店先をうかがうようにトボトボと歩を進める。対向者をうまくかわしながら歩いていると、後方からの人波に押された拍子に前方へと躓いてしまった。危うく地べたに手を突くところを誰かが私の体ごと受け止めてくれた。
「大丈夫?」
「すみません。大丈夫です。ありがとうございました」
 すっぽりと(かいな)に抱かれたまま上目遣いに礼を言う。微笑む少年の顔がこちらを見下ろしていた。視線が重なった途端、頬が火照り、私は思わずうつむいた。
「その制服……一中(いっちゅう)だね? 従姉と同じだ」
「──何年生……ですか?」
 彼の庇護の元を離れた私は、照れ笑いを見せながら聞き返した。
「もう、とっくに卒業して、今は高校三年生……公立普通科の……新築の校舎を自慢してたよ」
「あの“ケンリツ”ですか?」
「通称“ケンリツ”で通ってるの?」
「はい。優秀なんですね?」
「そう……なの?」
 彼は首を捻りながら聞き返す。
 私は微笑んでペコッと首を折って頷いた。
「君、もしかして……一年生?」
「はい、一年です」
 変声期特有の、少年らしさを声帯の奥へと沈めようとする掠れ声を、こちらも精一杯背伸びして少々気取った声のトーンで受け止める。
「そうなの! 同学年か……」
「どこの中学なの?」
 長身の彼を見上げながら我が声は弾んだ。
「県外なんだ。小四(しょうよん)の妹にせがまれちゃって、今日、その従姉の家に遊びに来たんだ。さっきまで一緒だったんだけど、従姉の彼氏が現れて……僕が身を引いたってわけ。しょうがないよね」
 彼は愉快そうに笑いながら頭をかいた。
「あら、フラれちゃった……ってわけね? フフフ」
 私も冗談めかして笑う。
「そういうこと……でも、さすがに都会だね。この人たちどこから湧き出たの? 妹ともはぐれちゃったし、人波に押し返されて目指す方向になかなか進めやしないよ」
 彼は辺りを見回しながら感心したように言うと、ひとつため息をついた。
「妹さんをさがしてるのね?」
「いや、駅のホームで落ち合うことにしてるんで、それは問題ないんだ」
「そう。どこへ行くつもりなの?」
「ま、決めてはいないんだけどさ。たださまよってるだけ……このワクワク感を味わいたくて。僕の田舎では無理だもの」
 急に顔をこちらに向ける。彼の横顔に固定していた視線を咄嗟に逸らした。
「私、この先の神社まで行くの。案内しようか?」
 指を差しながら、思わず口を()いて放った大胆な申し出に自分自身驚いた。普段は気後れして自分からは滅多に異性とは口の聞けない性格なのだが、きっと祭りの雰囲気に飲まれたせいだろう。
「ぜひ」
 彼はこちらに微笑んで一八〇度方向転換して歩き出したので、私もあとに続いた。
 露店沿いを複雑な人の流れに苦慮しながらしばらく行って、人の波に乗り切るべく参道の中央へ彼を促すと、私たちは肩を並べて歩調を合わせる。
 彼の右側を歩きながら何気ない素振りで、時折その横顔をチラと覗く。短髪の日焼けした顔に滲んだ汗がはじけ散る。私の目線には、両の口角が持ち上がった形良い唇がしっかりと結ばれていた。奥歯を噛みしめる度に顎辺りの鋭角な骨格が、丸みを帯びた輪郭の中から見え隠れする。それは大人を予感させた。(まなこ)は西日を一粒ずつ跳ね返し、こちらに視線を向ける度、私を射る。あまりの(まぶ)しさに息が止まる。純白のポロシャツの袖からはち切れんばかりにはみ出た二の腕の筋肉が躍動して歩行のリズムを刻む。 
 進むに連れ、胸の奥底を柔らかな羽毛でくすぐられむず痒いような、それでいて何者かに鷲づかみに締めつけられる微かな痛みが、血潮を激しく波立たせる。それに呼応するように胸が高鳴るのはなぜだろう。体温が急激に上がり、顔が熱い。とろけそうなほど心地よい気だるい感覚が胸底から湧き、全身を襲った。今までに経験したことのない感情に私は戸惑った。
 ──異性と並んで歩くなんて……
 ──しかも、魅惑的な匂いを全身に(かも)し出す人と……
 ──わたし……この、わたしが、よ!
 感情の(たかぶ)りは、魂を甘美な夢幻の世界へと(いざな)い、たちまち(とりこ)にしてゆく。しかし夢物語は儚く残酷なものだ。必ず目覚めが訪れる。
 ──誰かに見られたらどうしよう!
 陶酔(とうすい)しきった胸を()てついた魔手(ましゅ)で引きちぎられ我に返った。突如現実の世界へ引き戻された瞬間、私は周りをキョロキョロと見回した。きっとクラスメイトの子たちも祭り見物に来ているに違いない。明日、登校して教室に入った途端、冷やかされるかもしれない。学校じゅうの噂になるかもしれない。一瞬、不安が脳裏に()ぎる。
 ──でも、そういうことって……
 確かに恥ずかしくもある。が、大した懸念じゃない。誰もが憧れることで、向こう側の連中だって、内心、(うらや)ましいに決まってる。私がオドオドする必要は全くない。胸を張って、大人の女を気取って何食わぬ顔で「どうってことないわ」なんて揶揄(やゆ)する連中を突っぱねてみせようか。
 ──折角のロマンスの予感をそんな懸念で(けが)すなんてもったいないことよ!
 ──今のこの刹那(せつな)を大いに楽しめばいいことじゃない!
 ──こんな大したことのない不安で、ひとときの逢瀬(おうせ)に自ら終止符を打つなんて……
 ──人生のほんの一瞬なのよ! 
 ──もう二度と訪れないかもしれないじゃないの!
 ──私って、ほんとに、ほんとにダメな子なんだわ……
 自分に失望すると同時に底知れぬ怒りが込み上げてきた。この臆病な性格が心底(うら)めしい。
 変わりたい。何とか生まれ変わって、たったひとり歩まなければ、未来は永遠に来ない気がする。
 ──勇気を出さなきゃ!
 心を鼓舞(こぶ)して、昨日までの自分との格闘を決意したものの、(おび)えで身は震える。食いしばった歯が小さく(きし)んだ。
「ねえ、何部?」
「エッ!」
 いきなりの問いかけに喉が素っ頓狂(とんきょう)な悲鳴を返した。慌てて取り(つくろ)うように微笑(ほほえ)んで冷静を装いつつ「バスケ部」と小さく返答してまともな少女へと己を修正する。
「ホント! ぼくもバスケ部」
「そうなの!」
 彼との共通項を見い出せた喜びが喉元から湧き上がる。
「やっぱりね。さっきの、人波をかいくぐるときの身のこなし見てたら、なんとなくね。ぼくの目って確かだったよ」
「あら、そんなことでわかるものかしら? わたしなんて、ぜんぜん気づかなかったもの」
 このとき、何か運命めいたものを感じずにはいられなかった。彼との接点は今後の幸福な展開を予期するものかもしれない。私の胸は一層華やいだ。
 ──それってやっぱりご都合主義なのかしら? 
 彼との短い旅路の末路が見えてきた。二人の足は参道を過ぎ、境内へと進んだ。
 境内の入り口付近にはテーブルが設けられてあり、短冊の束とペンが用意されている。社殿を取り囲むようにずらりと立てかけられた笹が、飾られた短冊ともども風に揺さ振られる光景は壮観だ。
 俄かに人波が押し寄せつつある。クライマックスの時刻が迫っているせいだ。
「わたし、毎年、短冊を飾るの、願いを書いて。あなたも……どう?」
 幾分遠慮がちに問いかけてみた。
「うん。神様の前を素通りはできないよね……でも、何を願うかなあ? 君は決めてるの?」
「いいえ……まだ……」
「何にしようかなあ……」
 彼は腕組みしてちょっとだけ考えたあと、「そうだ!」と小さくつぶやいてペンをとり、即座に滑らせた。
 一方、私は考えあぐねた。いつも願うのは、未だ見ぬ恋の成就。いくら何でも初対面の彼の前では流石に憚られる。当り障りのない文言を模索することにした。
 彼の仕種を瞳に焼きつけながらしばし悩み続けていると、もう彼はペンを置いた。
「何を願ったの?」
 敢えて尋ねるまでもなく既に短冊は私の目線にかざされていた。
『いつかまた 織姫様に会えますように  彦星より』
 私の顔は熱くなる。どう返答すべきか、行動すべきか見当もつかなくなり、ドギマギしてうつむき加減で手で鼻をこすったり、唇を噛んだりするばかりだった。
 最初、彼は平然としていたが、私のそんなただならぬ様相から悟ったのか、同様に照れ臭さを漂わせ始める。仕舞いには頭をかきながら唇を緩めた。
「いやあ、深い意味は……七夕に因んだ……だけ……」
 彼も少ししどろもどろに返してくる。
「──そうね、せっかくの七夕ですものね……」
 私も意を決して、ペンを握った。
『いつかまた 彦星様に会えますように  織姫より』
 二人は短冊を目線にかざしながら笑い合った。
 私は彼をある一角へ案内した。ここは社殿の横で、他所よりもひっそりとして、飾られた短冊も幾分少なめに見える。ゆえに純真な(?)切なる乙女心を聞き入れてもらえそうで、毎年ここの笹に願いを込めている。私のお気に入りの笹なのだ。
 早速、彼は短冊を笹の一番高い所に飾った。と、私が自分の背丈に合わせ、目線に結ぼうとしたところをそっと奪い取って、自分の短冊の横にしっかりと結わえてくれた。彼のそんな大人びた行動に、またもや顔が火照(ほて)り出したので、わざと明後日(あさって)のほうを向いて(しの)いだ。
 しばらくその場にとどまって、お互いの学校生活についてしゃべった。儀式を終えてしまった二人には最早こんな話題しか思いつかない。異性との時間を埋める効果的な対処法なんて知りはしないし、授業でも教わってない。
 ──もっと実社会で役立つ実践的なスキルを教えてよ!
 ──それが真の教育ってものじゃないの!
 ここで教育に関する頓珍漢(とんちんかん)な恨み節をぶちまけても詮無き事、経験がものを言うなんて百も承知。だけど、どこの世界に恋にまつわる経験豊富な一三歳がいるのだ。恋に恋するだけが精一杯のお年頃ではないか。自分で言うのも何だけど、私みたいに幼気(いたいけ)な女の子にそれを求めても無理な話。
 ──何ができるの?
 ──これで人生が決まるかもしれないというのに!
 ──誰か、お願い! 
 ──今すぐ恋の手ほどきしてちょうだい!
 でも、辺りには恋の指南役など見当たりそうにないので、こんな他愛もない話に終始するしかなかった。一秒たりとも時間を持て余すなんて絶対に避けねばならないのだ。
 彼との心の距離を詰めるべく必死に話題選びに専念していたら、彼が急にソワソワし始めた。「ちょっとごめん」と詫びて、傍にいた中年の男性に時間を聞く。妹との待ち合わせの時刻が二十分後に迫っていたのだ。どうやら祭りのクライマックスまで一緒に見届けるのは難しいようだ。残念極まりないが、私は、「行きましょう」と言って彼を促すと、仕方なく二人してその場を離れた。話の続きは駅へと移動の道すがらということになった。