脳裏にふと昨日の出来事が(よぎ)った。
「あの人は……?」
 確か、キャンパスで見かけたことがある。いや、最初に見たのは入学式会場へ向かうバスの中だ。それから二、三度、遠くから見かけただけだ。同じ学部ではないはずだ。私がキャンパスにいるのは夜だけだから、その時間に出くわすことはまずない。なぜ昨日に限って……。たぶんサークルか何かの都合だったのだろう。
 私が大学前のバス停でバスに乗り込んだとき、遠くのほうから手を振りながら彼は追いかけてきた。私は車窓からその様子を眺めていた。何か叫んでいたようだ。その声はだんだん近づいてきたが、内容までは聞き取れなかった。たぶん乗り遅れまいとして運転手を呼び止めていたに違いない。それにしても、彼の視線は私のほうにしか向いていなかったように思う。まあ、それも気のせいかもしれない。でも、そういうことにしといてもいいような気もするが。男性に追いかけられるなんて、悪い気はしないから。
 ──私、そんなにうぬぼれ屋じゃない。
 私はうつむいてクスッと笑った。
 彼も男性としてはなかなかかもしれないが、佐藤一郎には遠く及びはしなかった。また、彼の幻と重ねている。今となっては彼とてどれほどのものか。自分の都合のいいようにデフォルメされたに過ぎないのに。
 身のほどを知るべきかも。ペンギンは所詮飛べやしないし、気高(けだか)く華麗に舞う丹頂鶴(たんちょうづる)にはなれない。でも愛敬がある。それで満足しないと。それなのに相手には完璧を求めるなんて、愚かしい。滑稽極まりない。と、自分を叱りつけもする。
 皆なんてとっかえひっかえ、異性とうまくやっているのに、自分ときたら幻影に取り()かれて何の進展もないなんて。たまには恨みごとも言いたくなる。責任を彼の幻に転嫁(てんか)してもしょうがない。自分の性格なのだから。でもそれを認めてしまっては立つ瀬がないというもの。惨め過ぎる。女なの。だから少しぐらいは我がままでいてもいい気がする。そんな女を装ってみてもいつも中途半端なのが悲しい。私は自分を嘲笑した。
 そんなことをぐだぐだと考え、右手で髪をかき上げながら、ふと視線を滑らせた。目は一点に釘づけになり、息を呑んだ。例のキャンパスの彼が、こちらに近づいてくる。
 ──なぜ、こんな所に!
 目を合わせないよう咄嗟(とっさ)に傘で顔を隠した。
 彼は私の前で一旦立ち止まった。その足元だけが見える。車道のほうを向いていた。私は息をひそめて、早く去ってくれるよう祈った。ほどなくして願いは叶った。彼の足は、ゆっくりとその場から離れかけた。傘の陰から遠ざかるその後姿を確認すると、フウッと大きく息をついて胸を撫で下ろす。
「ああ、ビックリした!」
 少々声が大きかったようだ。若いカップルが怪訝(けげん)そうに私を見ながら通り過ぎてゆく。私はまた傘で顔を隠す。そして腕時計を覗いた。もうすぐ五時だ。五時まで待ったら、帰ろうと決めた。私は腕時計と睨めっこを決め込むと、時が満ちるのを待つ。
 ──あと五分……
 そして、一分前。腕時計の秒針を追いかけ、心の中でカウントダウンを開始する。
 ──三十秒……二十秒……十秒前……
 針は初恋の終焉(しゅうえん)を刻み続ける。大きく深呼吸を繰り返す。
 ──五、四……
「さあ、帰ろう」
 ──三、二、一……
「タイムオーバー」
 私は天を仰いだ。「さようなら、私の……」
 震える胸に十年分の想いが去来する。唾液を飲み込み、胸につかえたものを落とし込む。うつむいて息を整える。静かに目を閉じ、顔を上げゆっくりと目を開ける。
 雨はいつしかすっかりやんでいた。傘を畳んで、例の彼とは逆方向へ歩き出した。そのとき、スマホが鳴った。しばらくメロディを奏で続ける。ドヌーヴが私の脳内で役を演じ始めた。立ち止まり、ハンドバッグからスマホを取り出すと耳に当てる。
「もしもし、石川ですけど……」
 相手の反応はない。「もしもし? どちら様ですか?」
 間違えてかかってきたのだと思い、耳から少し離しかけたとき、ようやく反応が返ってきた。最初、何と言ったのか聞き取れなかった。辛うじて語尾だけを拾うことはできた。
「……だね」
 男性の声だ。内定の一報だろうかとの期待に、いささか慌て気味に小さく深呼吸して息を整え覚悟を決めた。よそゆきの言葉を用意する。
「あの、石川でございます」
「シェルブールの雨傘だね」
 今度ははっきりと聞き取った。
「な、何です?」
「ピッタリの曲だね。あっ、ごめんね、ビックリさせて。僕もお気に入りの曲だから……」
「そ、そうなの……?」
 素っ頓狂な声で答える。「どちら様……でしょう……?」
 相手は何も答えない。と、突然、切断音が鼓膜を突き刺した。だが、私はスマホを耳に当てたまま呆然とする。何が何だか、何が我が身に降りかかったのか、全く理解できない。
「シェルブールの雨傘だね」
 背後で声がした。私は振り返った。キャンパスの彼が立っている。彼は自分のスマホを掲げ、それを揺らしながら笑っていた。ストラップに目が留まった。丸いものが二つ見える。赤色だった。私は口を()いて固まった。
「久しぶり。元気だった?」
 彼はゆっくりと私のほうへ歩み寄った。
 私は金縛りに遭ったように手足が膠着(こうちゃく)した。やっとの思いで、声を絞り出してみる。
「ど、どうして……?」
 彼は愉快そうに声を上げて笑い出す。
「君の友達に聞いたんだ昨日、君の番号。君を追いかけて、バスに乗り遅れたあとに」
「私……入学式の日にあなたを見かけた。キャンパスでも二、三度……」
 私の思考は混乱を来す。「……あなた、ダレ?」
「僕もまさか君だとは気づかなかったよ。数日前までは。君の名前を偶然耳にしたんだ。その人に君のことを尋ねて、昨日、君を追いかけたんだけど、間に合わなかった」
「そ、そうなの? 私、全然気づかなかった。同じ大学だなんて……大学までは向こうだって……」
「ハイスクールまではいたけど、帰りたくてね。とうとう家族を向こうに残して、僕ひとり帰国したんだ」
「そうなの」
 自分の声が野鳥のさえずりにしか聞こえない。正しい発音かさえ怪しかった。私は瞬きも忘れて彼を凝視した。
「ねえ。顔に何かついてる?」
「本当に佐藤一郎君……なの?」
 彼は軽く頷いた。
「それより、スマホ……切れてるはずだよ」
 彼は微笑みながら自分のスマホを切る振りをした。
 スマホは、まだ私の左耳にしがみついていた。ハッとして耳から引き離し、自分の目線に掲げて肩を(すく)める。ストラップの鍵が揺れる。また、彼も私に(なら)って同じ仕種(しぐさ)を繰り返す。
 ようやく冷静さを取り戻したところで、彼の頭から爪先までを舐め回すように視線を這わせて、そのいでたちを確認した。不意に、フフフっと吹き出してしまった。彼は頭をかきながら首を傾げる。口元は相変わらず笑みをたたえたままで。
「だって、あのときと同じだから……」
「何の、こと?」
「わざとなの?」
 彼はまた頭をかきかき首を捻った。と、左手の甲に右肘を乗せ、人差し指と親指で顎をさすりながら眉をひそめた。それから口をすぼめ、何度か首を横に振って両手でお手上げのポーズを決めた。
 ──アメリカ仕込みなのね。
 私は、思わず手を口に当て、声を押し殺しながら笑った。
「ねえ、教えてくれない?」
 私は彼の傍まで寄ると、ショーウインドーを指差す。指先の延長線上に彼の視線は向けられた。
「本当に気がつかない?」
「うん、映ってるね」
 彼はショーウインドーと私を交互に見ると、また首を捻る。
「同じでしょ? あの日と。白のTシャツ、ブルージーンズ、白のスニーカー。とても爽やかよ。それに……」
 私は彼に鼻を近づけて、犬がするようにクンクンと鼻を鳴らして見せた。
「そんなに臭う?」
 彼は自分のTシャツの胸元を摘まんで鼻に近づける。
「そう、プンプンよ。洗剤とシャンプーの爽やかな……あのときと全く同じ匂い」
「そうだっけ? 覚えてないんだ。だけど君だって同じだよ」
「えっ! 何のこと?」
 私の正面に回り込んだ彼は、全身の輪郭(りんかく)を両の手でかたどったあと、不意に傘を奪って開いた。微笑みながらクルクルと回す。
「これさ。君のことはよく覚えてるよ。水色のワンピースに赤い雨傘。爽やかだよ、相変わらず。それに……」
 彼は傘を畳んで私がしたように犬の真似を始める。「いい匂い。全て同じだ、あのときと」
 彼の胸板が目の前に接近し過ぎて、私の顔は熱くなった。
「そ、そう、なの?」
「懐かしいね、それ」
「何が?」
「君の口癖」
「口癖?」
「そうなの」
 彼は私の口真似で大きく首を上下させ頷いて、おどけて見せる。と、私の顔は蒸され、今にも湯気が立ち上りそうになる。
「わ、私、バカみたいでしょ?」
 彼は少し屈むと、この顔を覗き込んだ。私の目線に合わせ、そのまましばらく見つめた。お互いの視線が一直線上に結ばれる。それから言い放った。
「そうなの?」
 彼の行為に息が止まった。胸が高鳴る。彼にそっぽを向くと、踵を返し、いきなり歩き出した。彼は小走りに私を追いかけ、横にピタリと並ぶと、また私の顔を覗き込む。私は自らの胸を押さえながら肩を竦め、舌を出した。そして、私たちは並んでしばらく歩いた。時折彼の横顔に視線を注ぎながら。たまに視線が合うと、彼は微笑んでくれる。
「ねえ、私、実を言うと……あの映画、まだまともに観たことないの。いつも途中で寝てしまうのね。ちょっと苦手なジャンルみたい」
「ミュージカル?」
「ええ。あなたはいつ頃観たの?」
「観たことないよ、一度も」
「えっ! でも、あのときの口ぶりなんか……。観たことないの、アメリカに住んでたのに?」
「うん。それに、あれフランス映画だよ」
「そうなの?」
「ドヌーヴはいいけど……」
「ああいう……」
 グラマラスな女性が好みなの、と思わず言いかけたが、寸でのところで飲み込んだ。自分の胸元を覗き、がっかりしながら苦笑する。
「なに?」
 私は、何でもないわ、と首を横に振った。
「どうして、一度も……?」
「ミュージカルだろう。しかも全編だよ。退屈じゃないのかなあ……?」
「ヒドイ! 私、てっきり……」
 予期せぬ彼の言葉に、私の足は制動をかけられた。「だましたのね!」
「だましたわけじゃ……曲は好きだよ、とっても」
 私は膨れっ面をして彼を睨んだ。ただし目には笑みがこぼれる。彼も立ち止まって肩を竦めた。
「それはないわよ!」
「僕たち、趣味が合うね」
 愉快そうな彼の声に、耳がこそばゆい。
「私、今の今まで観なかったこと気にしてたのに!」
 語気を強めて責め立てると、彼はまた私の顔を覗き込んできた。あまりにも近かったので私は少しのけ反った。
「そうなの?」
 彼はそう言うなり歩き出した。私はすぐさま体勢を立て直し、追いかける。
「そう、なの!」
 追いついて歩調を合わせながら一層語気を強めた。
「悪いのは……ぼく?」
「そう、なの!」
 二人は声高に笑い合った。胸の奥がくすぐったい。
 しばらく並んで歩いていると、突然、彼は歩みを緩めた。私も数歩いって立ち止まり、彼を振り返る。
「どうかした?」
「ねえ。背、ずいぶん高くなったね……」
 そういえば、あのときは、彼が頭ひとつ分ほど飛び出ていた。しかし、私の目線は今、彼の唇あたりを見ている。また、あの痛みがぶり返してきた。
「忘れてた!」
「何のこと?」
 私は顔をしかめながら屈むと、ハイヒールを足からもぎ取って右手に持ち、爪先で立った。彼を横目で見ながらゆっくりと地べたに(かかと)を下ろす。素足にひんやりとした感触が心地いい。やはり、彼は長身だった。これで全てがあの日と同じになった。
 辺りを見渡した。今きた方向に歯科医院を見つけ、小走りにそこを目指す。彼も私のあとを追ってきた。医院のドアをそっと開け、ハイヒールを玄関に(そろ)えてドアを閉めた。そして何食わぬ顔で胸を張り、堂々とした態度で歩き出す。その間、彼は目を丸くしながら私の行動を眺めていた。彼が追いついて横に並んだとき、私は気取ってウインクして微笑む。彼は私の足元を呆れ顔で見下ろしながら、楽しそうに声を上げて笑った。
「私にはスニーカーのほうが似合うみたい」
 微笑んだまま深々と頷いてくれた。
「ちょっと待って」
 彼はストラップを外し、両手で私の髪を後ろで束ねると、髪留めで括ってくれた。彼の手から伝わるなだらかな感触に心身(からだ)の奥底が震え出した。大きく深呼吸をして、辛うじて心の平静(へいせい)を保つと、うつむき加減に彼の表情を確かめながら微笑みかける。言葉など今は何の役にも立たない。
「これで完璧。全てが同じになった」
 胸底に落ちた声の(つぶて)は波紋を起こし、体の深部までをも揺さ振りながら締めつけ、上気させる。高揚した気持ちをおさめきれぬまま、私は肩を竦め彼に寄り添うと、その腕にしがみついた。だが、彼は私の行為を拒絶し、強引に腕を引き離した。孤独な風がひんやりと胸を渡り、凍えさせ、私は戸惑ってその場に立ち尽くしてしまった。と、彼は口元に笑みを浮かべながら私の手を握り締め、引き寄せた。掌に彼の温もりが、じかに伝わる。その手に操られる様に、この体は彼の意志に従った。彼が歩を進めると同時に足は自ずとそちらへとなびいていった。胸辺りまでもが熱くなる。
 目の前に大きな水溜りが立ちはだかり、二人のゆく手を遮った。すると、突如私の体は宙に浮き、水溜りを越えてゆく。この体は今、彼の腕にすっぽりとおさまっていた。彼は人目も(はばか)らず私を抱きかかえたのだ。
「あの店でスニーカーを買おうよ」
 靴屋の看板が目に入った。私はたくましい腕の中で小さく頷いた。擦れ違う人たちが皆、私たちを振り返りながら通り過ぎる。彼はまっすぐ前を向いて進む。
 ──これもアメリカ仕込みなのね……
 私は両手で顔を覆った。だが、どういうわけかそれほどの羞恥心(しゅうちしん)はなかった。
 彼はしばらく私を抱きかかえたまま歩いた。
「ねえ、下ろして」
「店の中まで構わないよ」
「いいの、ここで」
 私はずっとこのままでいたかった。全身で彼の体温を抱き締めていたかった。だが、じかに自らの足で地面を踏み締めなければと思った。彼は優しく私を下ろしてくれた。
「さあ、行きましょう」
 靴屋はもうすぐだ。私たちはまた肩を並べて歩いた。夕日が眩しい。私は目を細めた。そして彼の横顔を見つめた。夕日に浮かぶ彼の瞳はさざ波の反射のように揺れている。
 夕映えの色は最早悲しみの色ではない。
 空を見上げれば、ビルの谷間から夕映えに誘われて小さな虹が現れた。辺りを見渡すと、七色の色彩で街並が虹と呼応しながら私たちへのささやかな祝福をくれる。
 これから何かが始まるのだろうか。そうかもしれない。私は長い間待ち続けた。私たちは予感だけを胸に秘めながら一歩ずつ踏み出すのだった。
 こんな街も悪くはない、と私は思った。


【第一話】〈了〉