夏休みが近付いている。
逃げるなら、そのタイミングだ。
でも。
本当に逃げてしまっていいのか、という迷いも、ないわけではない。
……もう少し我慢すれば。
もう少しうまくやれば。
祖母も両親も藤見さんも、皆が納得できる幸せな家族になれるんじゃないか。
……もっとがんばれと励ます声は、心の中で響き続けている。
一方で、感情のままに藤見さんに怒ってしまったことも、反省している。
本音を話せる場所が少なすぎて、ため込んだ感情が、全部彼に向かってしまった。
そういう点では、祖母と離れて、少しでも嘘をつかなくて済む環境に行った方がいい。
その2つの意見の間で、私の心はフラフラしていた。
今のところ、祖母の機嫌のよさは続いている。
「うん、分かった、ありがとう、おばあちゃん大好き」と、週末の合宿の嘘のおかげだと思う。
もしかしたら。
このまま上手くやれるかもしれない。
祖母の気に入る孫を装い続けていれば、祖母は満足する。
今は大変だけど、本音と建前のギャップにも、そのうち慣れるかもしれない。
週末には藤見さんに「祖母と上手くやれるようになったよ。もう大丈夫。騒いでごめんね」と、笑って報告できるようになるかもしれない。
そんな淡い期待が、私の胸を占拠しつつあった。
そんな、木曜日の夕方。
私が帰宅すると、いつもなら居間でテレビを眺めている祖父がいない。
……どうしたのだろう。
そっと、祖父の寝室の方へ足を忍ばせて行く。
祖父の寝室は、障子で仕切られた縁側の一角だ。
そこから、祖父の唸り声が聞こえた。
「……おじいちゃん?」
「うう、うう」
「大丈夫?体調悪いの?」
「うー、んん」
埒があかない。
「……開けるよ?」
「ううう」
特に否定もされなかったので、3センチくらい、障子を開けて、様子を見る。
祖父は、布団をかぶって寝ていた。
布団からのぞく顔が赤い、というより、顔に赤い斑点が見える。
手には力がなく、うなされるように唸っている。
きっと病気だ。
病院に行くには、祖母の許可と命令がいる。
第一、この田舎では、車がなければ病院まで連れていくこともできない。
祖母の協力なしには受診は不可能。
私が祖母の姿を探すと、居間で本を読んでいた。
祖母の好きな、歴史物の読み古された雑誌だ。
「大好きなおばあちゃん、ただいま。
私は今日も元気にがんばってきたよ……
……」
「ああ、おかえり」
いつもの定型文のあいさつをすると、祖母は満面の笑みで迎える。
祖父のこと、気付いていないのだろうか。
「お腹空いたでしょう、夕飯、たくさんあるからね。
全部食べなさい」
「うん、分かった、ありがとう、おばあちゃん大好き……
……」
いつもの流れに乗せられる。
完食前に口をはさむと、きっと祖母は機嫌を悪くする。
食べたくないからってごまかすなとか、どうせあんたはおばあちゃんのことが嫌いなんだとか、そうやって泣きわめき始めたら、病院どころではなくなる。
こうなったら、なるべく早く食べ終わるしかない。
が、こんな日に限って、祖母は料理の砂糖と塩を間違えていた。
塩の味しかしない、というより、もはや胃を痛める劇物としか思えない。
もしかしたら、祖父の体調不良の原因は、これではないかと疑いたくなるレベルだ。
……祖母は、これを自分で食べて、おかしいとは思わなかったのだろうか?
私は早々にジョッキの牛乳を飲み干す。
さらに水を飲むために、ジョッキを持って流し台へ向かった。
ふと、シンクを見ると、2人分の食器が置いてある。
……片方にだけ、おかずが山盛りよそわれた跡があった。
きっと、と、私は思う。
一口食べて異変に気付いた祖母は、残りを全て祖父に押しつけたのだろう。
『おじいちゃん、このおかず、おいしいでしょう。私の分もあげる』
とでも言えば、祖父はいつもの
『ああ、分かった』
で平らげるしかない。
そもそも、祖父は生活能力が低いというか、祖母が着替えを用意して「着替えなさい」と言わなければ着替えないし、祖母が風呂を沸かして「入りなさい」と言わなければ、たとえ泥だらけでも風呂に入らないし、祖母が食事をよそって箸を用意し「食べなさい」と言わなければ、何日でもものを食べない人だ。
逆に言えば、命令されれば、なんでもする。
いつだったか、私の買ったおもちゃのパンや芳香剤を、祖母が間違えて祖父のおやつに出したことがあった。
祖父が半分ほど食べたところで、パッケージの文字に気付いた祖母があわてて取り上げたらしいが、おそらく取り上げられなければ、完食していただろう。
……きっと、私が祖父の立場でも、同じことをするから。
今となっては、祖父の能力の低さが、生来のものなのか、祖母のために全てを諦めた結果なのか、それすら判然としない。
塩分で血圧が上がるのをひしひしと感じる。
頭の血管が熱を持ち、傷付いて、悲鳴をあげているのが分かる。
もう少し。
もう少しで食べ終わる。
私がラストスパートをかけようとしたところで、祖母は雑誌を置いて立ち上がった。
読み終わったらしい。
「じゃあ、おばあちゃん先に寝るわね。
ちゃんとお風呂に入って、歯をみがいて寝なさい」
「うん、分かった、ありがとう、おばあちゃん大好き……
……あの……このご飯もすごくおいしくて……
その……おばあちゃんのおかげだね……」
違う。
言わなきゃいけないことは他にある。
なのに、祖母の目に射貫かれると、いつもの上っ面の言葉しか出てこない。
「そうでしょう?また作ってあげる。
おやすみなさい」
祖母は部屋を出てしまった。
どうしよう。
今から追いかける?
でも、食事を残して席を立つなんて、きっと祖母はかんしゃくを起こす。
下手をすると、『せっかく作ってあげたのに、私の料理のせいで病気になったって言うの?』なんて言われて、受診が絶望的になる。
どうしよう。
助けて。
助けて、藤見さん。
『ちょっと視野がせまいと思うよ』
『寂しそうに見えた星にも、ちゃんと周りに誰かがいたんだなって』
そうだ。
この世界は、家庭だけで世界が完結しているわけじゃない。
もっと外は広くて、何もないと思っていた場所にも、星はある。
私はスマホを手に取る。
すがるように、母の連絡先を選んだ。
コール音が何度も繰り返され、やがて、声が聞こえた。
『もしもし?』
「もしもし、私、深月。
今、電話、大丈夫?」
『いいけど、どうしたの?』
祖母に聞かれないよう、小声で話す。
「あのね、おじいちゃんがね、体調悪そうで。
学校から帰ったら、布団かぶって唸ってるの。
顔に赤い斑点があって。
苦しそうで。
どうしよう」
『そうなの。それは困ったね。
どうしようか。救急車を呼んだ方がよさそう?
おばあちゃんは何て言ってるの?』
「救急車……、分からない。そんなに重症なのかな。どうしよう。
おばあちゃん、もう寝室に行っちゃった。
起こした方がいいかな」
『うーん……ちょっと待って。
おじいちゃんと電話、代われる?』
私は忍び足で、祖父の寝室へ向かう。
「おじいちゃん、ごめん、お母さんと電話がつながってるの。
体調悪そうだから、心配で」
祖父の耳にスマホを押しつける。
祖父は、母の電話口の声に対して、なにやらモゴモゴ答え始めた。
「……ああ……久し振り。
ん……たいしたことはないよ。
ちいっと腹が痛くてね、熊の胆を飲んだんだ。
だから……うん、そう。
悪かったね……
うん。
深月、もういいよ」
祖父がまともに口をきくのを、ずいぶん久し振りに聞いた気がする。
前に聞いたのは、正月に伯父が帰ってきた時……だっただろうか。
あまり覚えていない。
伯父は県外で働き、盆暮れ正月も滅多に家へ寄り付かない。
幼い頃は、それが不思議だったけれど、今なら伯父の気持ちが分かる。
祖母に近寄りたくなかったのだろう。
帰ってくると、祖母は大量の料理を用意して食べさせ、息つく暇もなく喋り続け、自分と身内の自慢話で話題をおおい尽くそうとする。
祖父が口をはさむ余地は、ない。
きっと、祖父も。
祖母に自分の声を無視され続け、ほかに話し相手もなく、舌を腐らせて生きてきたのだろう。
私はスマホを自分の耳に戻す。
『もしもし、深月?』
「……うん。どう?」
『あのね、おじいちゃん、意識もしっかりしているし。
今は、救急車はいいと思う。
この時間じゃ、地元のお医者さんも閉まってるし、明日、調子がよくならなければ、受診したらどうかな』
「…………うん」
『深月も、心配だと思うけど。
明日、お父さんにも話して、様子を見に行くよ。
深月は、今日は休んだ方がいいよ』
「……本当に……大丈夫かな」
『うん、きっと大丈夫だよ。
何かあったら、また言ってね』
「……うん」
電話を切る。
「おじいちゃん、明日、お母さんかお父さんが、様子を見に来るかも。
調子悪かったら、病院に行こう」
「ん……いいよ、そんなにしなくても」
「……」
「ちいっとね、腹が痛いだけなんだ。
昼間のパンが、悪かったのかもしれないなあ」
夕飯はスルーなのだろうか。
どこまで本気で言っているのか、分からない。
「……おじいちゃん、私、あんまりおじいちゃんと話をしてなくてごめんね。
ちゃんと、一緒に、話をしていれば……
今回だって、もっと早く、気付けたのに」
一緒に暮らして、3年目になるのに、この体たらくだ。
私と祖父母の関係は、進展するどころか後退の一途を辿った。
それはきっと、誰も幸せにならなかった3年間だった。
祖父が、布団から顔を出す。
久し振りに、祖父の顔を見た。
「いいんだよ、深月」
祖父は、一切自己主張をしない。
祖父の在り方は、祖母に影響を受けた人の最終形態だ。
「……体調が悪くなったら、すぐ言ってね。
真夜中でもいいから」
私はそう言い残して、居間に戻った。
残りの食事を平らげ、食器を洗い、風呂に入り、風呂掃除をして、歯をみがく。
自分の寝室に向かう前に、祖父の寝室へ寄る。
障子の向こうから、寝息が聞こえた。
唸り声は聞こえない。
私は自分の寝室へ行く。
……これでいいのだろうか。
考えても、答えは出ない。
そのまま眠りについた。
翌朝。
私が居間に行くと、祖母はいるものの、祖父の姿はない。
「大好きなおばあちゃん、おはよう。
今日もおばあちゃんの、おいしいご飯を食べたいな……
……」
「おはよう、深月ちゃん。
用意してあるよ、いっぱい食べなさい」
いつもの定型文に乗せられる。
祖母はいつものように笑っている。
……本当に、気付いていないのだろうか?
食卓を見ると、いつもより量が多い。
遅刻しないで食べきれるだろうか。
祖母は満足げに笑いながら、どこかそそくさと、退室しようとする。
「じゃあ、おばあちゃん、畑に行ってくるわね。
水をあげないといけないから」
私を避けていると、直感的に思った。
私が口を開くのを、定型文以外のことを口にするのを恐れている。
それはいつものことだが、いつもよりも態度があからさまだ。
……本当は、祖父の体調不良に、気付いているんじゃないか?
なんとなく、そんな気がした。
昨日、無茶な夕飯を食べさせたことは、祖母も分かっているはずだ。
……「祖母のせいで体調を崩した」、その一言を、きっと、祖母は何より恐れている。
口を封じたところで、治るわけではないのに。
「……ねえ、大好きなおばあちゃん。
おじいちゃんは?」
私は笑顔で尋ねる。
祖母の笑顔が固まる。
「おじいちゃんねえ、まだ起きてこないの。
まったくお寝坊さんね。
困っちゃう」
薄ら笑いを浮かべて、祖母は答える。
私も薄ら笑いを浮かべた。
「もしかしたら、体調が悪いのかも。
様子を見た方がいいよ」
「ううん、たいしたことないのよ。
心配しなくて大丈夫。
おじいちゃんってば、昨日、床に落ちたパンを食べたのよ。
それでお腹を壊したんじゃないかしら。
嫌ぁねえ。
寝てれば治るわよ」
必死に取り繕おうとする。
自分の体面を。
祖父の体調よりも。
「笑いごとじゃないよ。
おじいちゃん、つらそうだったよ。
顔に赤い斑点が出るなんて、ただの食あたりじゃないよ」
つい。
正直な言葉が出る。
祖母の大嫌いな、否定の言葉が出る。
みるみるうちに、祖母の顔が醜く歪んだ。
くしゃくしゃな泣き顔。
「そんなに責めないで。
ひどい。
おばあちゃんは一生懸命やってるのよ。
おばあちゃんのせいにしないで。
おじいちゃんはつらくないのよ。
寝てるだけよ」
「誰も、おばあちゃんのせいだなんて言ってないよ。
お願いだから、病院に連れていってあげて。
おじいちゃんは運転できないから、誰かが連れていってあげないと。
それも早めに」
「やめて!
深月ちゃんは、すぐにそうやっておばあちゃんのせいにする!
いつもおばあちゃんを傷付ける!
おじいちゃんは、つらくないって、言ってるでしょ!
心配するなって言ったでしょ!
あなたは、いらないことを考えちゃダメ!」
だめだ。もうだめだ。
これは命に関わることだ。
祖母は祖父を踏み潰す。
誰かが矢を射かけない限り、止まらない。
「おじいちゃんがつらいかを決めるのは、おばあちゃんじゃない、おじいちゃんとお医者さんだよ!
私の考えることだって、私が決める!
私のことは嫌っていい、悪い子だと思うならそれでいい、好きにしていいから……
おじいちゃんのつらさを、勝手に決めないで、病院に連れていってあげて!」
祖母はわんわん泣き出した。
私は怒りに任せて、通学カバンを掴み、身支度を整えて、祖父の寝室へ行く。
祖父はまだ寝ている。
障子を細く開けて様子をうかがう。
顔の斑点は消えていない。
スマホの着信バイブが短く震える。
『お父さん、仕事を休んでそちらに行くそうです。
もう家を出ました』
母からのメッセージ。
玄関を出る。
もう、後は野となれ山となれだ。
私は自転車に飛び乗り、どきどきする鼓動をそのままに、学校へ向かった。
昼休みにスマホを確認すると、母から追加のメッセージが来ていた。
父はいまだにガラケーを使っているから、こうして母が代わりに報告してくる。
『お父さんが、おじいちゃんを病院に連れていきました。
検査の結果、数値に異常があって、しばらく入院することになったそうです。
命に別状はないそうです』
するとやはり、ただの食あたりではなかったのかもしれない。
祖父のことはなんとかなりそうで、私はとりあえず安心する。
祖母の様子は、また母に余計な心労をかけるだけなので、聞かないでおいた。
ただ、代わりにメッセージを送る。
『ありがとう』
『私がお母さん達の家に戻る話、まだ有効?』
昼休み終わりにもう一度見ると、返事が来ていた。
『いつでもいいよ』
私はため息をつく。
決意は固まりつつあった。
祖父の入院を理由に、部活を休んで早めに帰宅する。
家には祖母はおらず、父が祖父の寝室をごそごそと漁っていた。
「おかえり。
おばあちゃんは、おじいちゃんに付き添ってる。
お父さんは、おじいちゃんの入院に必要なものを持って、また病院に行くよ」
私はうなずいた。
深呼吸して、着替えの下着類を物色する父に声をかける。
「……あのね、お父さん」
「ん?」
「大変な時に、身勝手なことを言って悪いんだけど……。
私、やっぱり、お父さん達の家で暮らしたい」
すると父は手を止め、顔を上げた。
心なしか、安堵したようにも見える。
「そうか。
お父さんも、その方がいいと思う。
おばあちゃんも、おじいちゃんの入院の世話をしなきゃいけないし、学校も夏休みになる。
いい機会じゃないかな」
「……ありがとう」
「いつ、こっちへ来たい?」
「……できれば、今日にでも」
「じゃあ、取り急ぎ、今日明日必要なものを用意して、車に乗せて。
ほかのものは、おいおい取りに来ればいいから。
お父さん、この後、病院に行って、ちょっと時間がかかるかもしれない。
深月は、遠いけど、自転車で家に来てくれるかな」
「そうする。ごめんね」
いいよ、と言って、父は手提げ袋に衣類を詰め始める。
言い出してしまえば、驚くほどスムーズに話が進んだ。
私は自分の引っ越し準備のために、自室へ戻ろうとする。
と、父に声をかけられた。
「深月」
「?」
「おじいちゃんのこと、気付いてくれてありがとう。
病院の先生にも、こういうのは早めの受診が肝心だって言われたんだ。
我慢して手遅れになる人もいるんだって」
それは、病気の話かもしれないし、祖母との関係の話だったかもしれない。
「おばあちゃんと喧嘩してでも、おじいちゃんを助けようとしてくれた。
お母さんにも連絡してくれた。
それがなければ、きっと、誰も病気に気付かなかったと思う。
ありがとう」
私は首を横に振る。
……きっと、私だけじゃ、何もできなかった。
あの夜、彼と会ったから。
一緒に星空を見たひとときがあったから。
彼がかけてくれた言葉があったから。
だから、私は行動できた。
祖母に嫌われることを恐れず、話をすることができた。
「……じゃあ、30分後に出るから、深月もそれまでに荷物を積んで」
「……うん」
私は荷作りに取りかかった。
その夕方。
両親の家へ行き、引っ越すことを母や弟妹に報告した。
全員、「あっそう」とわりとあっさり了解した。
重かった肩の荷が、ようやく降りる。
私は母に告げた。
「夕飯の後、出かけたいところがあって。
夜遅くなるけど、気にしないで」
「どこ行くの?」
「天ヶ原の休憩所。天体観測」
「そんな趣味ができたのね。
夜道に気を付けなさいよ」
母は、あっさりと承諾した。
自転車を引いて、いつもの展望台に向かう。
坂を登りきって顔を上げると、前を歩く人影が見えた。
「……藤見さん!」
声をかけると、人影が振り返る。
「こんばんは!」
彼も明るく手を振ってくれた。
それがすごく、嬉しい。
私は自転車をガタガタいわせながら、彼のもとへ駆け寄る。
息を弾ませながら、声をかけた。
「今日は、同時に来られたね」
「うん!よかった。
待ってる間って、さびしいからね」
彼が笑顔で答える。
やっぱり、彼もさびしかったのか。
申し訳ないと同時に、ちょっぴり嬉しい。
「ごめんね。
これからは、この時間に来られると思う」
私が謝ると、彼は不思議そうに首をかしげる。
「祖母と……別々に暮らすことにしたの。
これからは、両親の家に住む。
だから、自由に出かけられるの」
彼はほっとしたように微笑んだ。
「そっか……逃げられたんだね。
よかった……」
「……藤見さんのおかげだよ。
藤見さんが、一緒に星を見てくれたから。
私の視野を広げてくれたから……
私は、逃げることができた」
彼は、にっこりと笑う。
太陽のような笑顔。
私の行く道を照らしてくれた光。
一緒に展望台へ歩く道すがら、彼が話し始める。
「……初めて会った時、君、すっかり怯えてたよね。
それが、だんだん明るくなってきたから、僕、嬉しかったんだ。
君の力になれたなら、よかった」
「うん。ありがとう」
私も笑顔を返す。
たぶん、他の人には見せたことのない表情をしていると思う。
2人で、展望台から星を眺める。
彼が口を開いた。
「……もうすぐ、夏休みだね」
「そうだね。私の学校、週明けに終業式したら夏休みだよ」
「僕のところも。
……でも、受験生だから、あまり嬉しい感じはしないな」
「私も」
じっと、星を眺める。
星座は形を崩さずに、地球の空を横切っていく。
それはつまり、この広大な宇宙で、動かずにじっとしているということだ。
人間は違う。
自分の意思で、重力にすらあらがって、動こうとする。
ふとわき上がった疑問を、口にしてみた。
「ねえ、進路って、決めてる?」
けっこう、踏み込んだ質問だったかもしれない。
でも、聞いておきたかった。
彼の目指すもの、進む先を。
就職するかもしれないし、進学先が県外かもしれない。
一年後も、一緒にいられる保証はないのだ。
彼は、うーん、と間延びした声を出してから、呟いた。
「豊岡大かな。
あそこは寮があるから」
寮を理由にするのがなんだか意外で、私は尋ねる。
「寮に入りたいの?」
「うん。
本当は、県外で一人暮らしが理想だけど、何かとお金がかかるからね」
しまった。
余計なことを聞いてしまった。
家計の事情を聞かれて、きっと彼は良い顔をしないだろう。
「ご、ごめん!
……その……私も、県外に行きたかったんだけど、金銭面で反対されてて。
進路、豊岡大にしようかなって思ってたんだ」
「本当!?
それなら僕、モチベーションめっちゃ上がるよ!」
明らかにテンションが上がる彼に、私はほっとしつつ嬉しくなる。
「私も……一緒の大学に行けたら、すごく嬉しい」
「本当に!?」
暗闇の中でも、彼が目を丸くしたのが分かる。
ついでに言うと、こぶしを握りしめて、小さくガッツポーズをしていた。
そんなに嬉しいのかな。
やがて、そのこぶしをゆるめると、彼は深呼吸をする。
「実は、僕……
寮に入りたい事情が、他にもあるんだ」
どきりとする。
裏表がない、後ろ暗いものなど何もなさそうな彼に、初めて影が見えた。
彼は、試すようにこちらを見てくる。
「でも、僕は君と楽しく過ごしたいから、君が聞きたくないと言うのなら、これは胸にとどめておこうと思う」
私は彼を見つめ返す。
答えは決まっていた。
「聞くよ。
それがどんな内容でも、また、明日、2人で星を見よう」
私が答えると、彼はうなずいて、「ありがとう」とささやいた。
「僕……、実は、家族丸ごと、地元に疎まれてるんだ。
僕の町、祭が無形文化財になっていて。
参加しない人は村八分にされる」
彼の言葉で、思い出す。
私の住む市は、合併前は4つほどの市町に分かれていた。
そのうちの1つは、祭を、いわゆる盆踊りや出店の立ち並ぶイベントとしてではなく、伝統的な「祭礼」として行っている。
巨大な山車を、毎年手作業で染め抜いた紙花等で飾りつけ、住民総出で引き回し、三日三晩、夜通し町を練り歩く。
町には交通規制が敷かれ、地元企業は暗黙の了解で社員に有給を取らせる。
子どもにも、笛や太鼓、踊りなどの役目が割り振られ、一年中、放課後を犠牲にし上級生にしごかれて特訓を受ける。
祭りの最終日は、浴びるように酒を飲んだ大人たちと、疲れはてた子どもたちで、グロッキー状態でフィナーレ。
まさに祭に命をかけているのだと、その地区からの転校生は言っていた。
数年前は、死者が出るのも当たり前だったらしい。
彼は続ける。
「僕のお父さんは、子供の頃から、祭に参加するたびに余興で裸にされたり、無理矢理お酒を飲まされたり、酔っぱらった人に殴られたりしてて。
祭の時期が近付くたびに、目に見えて落ち込んでいくんだ。
だから僕、言ったんだ。
『お父さん、もういいよ。そんなにつらいなら、お祭りなんて行かなくていいよ』って。
お父さんは、『そんなことしたら、お前だってここにいられなくなるぞ』って言ったけど、それでもいいよって僕は言ったんだ。
そうしたら……」
彼は唾を飲み込む。
「参加しなくなったら、挨拶は無視されるし、回覧板は飛ばされるし、避難訓練も地元のイベントも行けなくなった。
学校でも、集団登校で僕だけ置いてけぼりにされて。
仲良しだった友達からも無視されるようになった。
練習をサボって遊んでると思われたんだろうね。
でも……お父さんが休んで、僕だけ祭に行くこともできなかったんだ。
『お前の親はなぜ来ないんだ』
って、近所のおじさんに怒鳴られて、公会堂から追い出されちゃったから」
初めて会った時、夜通ししゃべり倒す勢いだった彼を思い出す。
私が「人と話すのが怖い」と打ち明けた時、「僕は話すのが好き」と言っていた。
明るく話し好きな彼は、きっと、もとは友達も多かっただろう。
近所の人とも仲良くやっていたかもしれない。
それが突然、離れていって、彼はどんなに悲しかっただろうか。
……私はバカだ。
優しく素直な彼は、恵まれた家庭で、何不自由なく生活しているのだと、勝手に思っていた。
確かに、家族には問題なかったかもしれないが、それでも、こんな環境はつらすぎる。
「そしたら、お父さんと、地区外から嫁いだお母さんの関係もギスギスし始めて。
家にいると、無性に疲れるようになった。
居場所が無かったんだ」
目の前が真っ暗になった気がした。
それは彼の絶望だ。
周りを照らす太陽のような彼に、居場所がないなんて、そんな。
真夜中の展望台。
暗がりにじっと座り込んでいた彼。
「……藤見さんも……、私と同じだったんだね。
居場所がなくて、ここに来たの?」
「……そう。
星を見に来たっていうのは、嘘。
だって、そんな話……しても困るだろうって、思ったから」
初めて会った時、私も彼に嘘をついた。
祖母にネコのエサを食べさせられ、居場所をなくして来たのに、散歩に来たと嘘をついた。
同じだ。
私と彼は、同じだったのだ。
「でも僕、君と星を見られて、嬉しかった。
星を見ている内に、気が楽になっていった。
君と話している内に、自分が人間に戻っていく気がした。
この時間が救いだった。
君に会えて、本当に良かった」
それでも、彼は、やっぱり、輝いている。
私と同じで居場所がなくても、変わらず明るく、優しく、正直に生き続けた。
ただ1つ、私を気遣ってついた嘘を除いて。
「私も……この時間に救われた。
藤見さんに会えて、本当に良かった」
真夜中の嘘がくれた、彼と私の、星の時間。
きっと、生涯、忘れることはない。
逃げるなら、そのタイミングだ。
でも。
本当に逃げてしまっていいのか、という迷いも、ないわけではない。
……もう少し我慢すれば。
もう少しうまくやれば。
祖母も両親も藤見さんも、皆が納得できる幸せな家族になれるんじゃないか。
……もっとがんばれと励ます声は、心の中で響き続けている。
一方で、感情のままに藤見さんに怒ってしまったことも、反省している。
本音を話せる場所が少なすぎて、ため込んだ感情が、全部彼に向かってしまった。
そういう点では、祖母と離れて、少しでも嘘をつかなくて済む環境に行った方がいい。
その2つの意見の間で、私の心はフラフラしていた。
今のところ、祖母の機嫌のよさは続いている。
「うん、分かった、ありがとう、おばあちゃん大好き」と、週末の合宿の嘘のおかげだと思う。
もしかしたら。
このまま上手くやれるかもしれない。
祖母の気に入る孫を装い続けていれば、祖母は満足する。
今は大変だけど、本音と建前のギャップにも、そのうち慣れるかもしれない。
週末には藤見さんに「祖母と上手くやれるようになったよ。もう大丈夫。騒いでごめんね」と、笑って報告できるようになるかもしれない。
そんな淡い期待が、私の胸を占拠しつつあった。
そんな、木曜日の夕方。
私が帰宅すると、いつもなら居間でテレビを眺めている祖父がいない。
……どうしたのだろう。
そっと、祖父の寝室の方へ足を忍ばせて行く。
祖父の寝室は、障子で仕切られた縁側の一角だ。
そこから、祖父の唸り声が聞こえた。
「……おじいちゃん?」
「うう、うう」
「大丈夫?体調悪いの?」
「うー、んん」
埒があかない。
「……開けるよ?」
「ううう」
特に否定もされなかったので、3センチくらい、障子を開けて、様子を見る。
祖父は、布団をかぶって寝ていた。
布団からのぞく顔が赤い、というより、顔に赤い斑点が見える。
手には力がなく、うなされるように唸っている。
きっと病気だ。
病院に行くには、祖母の許可と命令がいる。
第一、この田舎では、車がなければ病院まで連れていくこともできない。
祖母の協力なしには受診は不可能。
私が祖母の姿を探すと、居間で本を読んでいた。
祖母の好きな、歴史物の読み古された雑誌だ。
「大好きなおばあちゃん、ただいま。
私は今日も元気にがんばってきたよ……
……」
「ああ、おかえり」
いつもの定型文のあいさつをすると、祖母は満面の笑みで迎える。
祖父のこと、気付いていないのだろうか。
「お腹空いたでしょう、夕飯、たくさんあるからね。
全部食べなさい」
「うん、分かった、ありがとう、おばあちゃん大好き……
……」
いつもの流れに乗せられる。
完食前に口をはさむと、きっと祖母は機嫌を悪くする。
食べたくないからってごまかすなとか、どうせあんたはおばあちゃんのことが嫌いなんだとか、そうやって泣きわめき始めたら、病院どころではなくなる。
こうなったら、なるべく早く食べ終わるしかない。
が、こんな日に限って、祖母は料理の砂糖と塩を間違えていた。
塩の味しかしない、というより、もはや胃を痛める劇物としか思えない。
もしかしたら、祖父の体調不良の原因は、これではないかと疑いたくなるレベルだ。
……祖母は、これを自分で食べて、おかしいとは思わなかったのだろうか?
私は早々にジョッキの牛乳を飲み干す。
さらに水を飲むために、ジョッキを持って流し台へ向かった。
ふと、シンクを見ると、2人分の食器が置いてある。
……片方にだけ、おかずが山盛りよそわれた跡があった。
きっと、と、私は思う。
一口食べて異変に気付いた祖母は、残りを全て祖父に押しつけたのだろう。
『おじいちゃん、このおかず、おいしいでしょう。私の分もあげる』
とでも言えば、祖父はいつもの
『ああ、分かった』
で平らげるしかない。
そもそも、祖父は生活能力が低いというか、祖母が着替えを用意して「着替えなさい」と言わなければ着替えないし、祖母が風呂を沸かして「入りなさい」と言わなければ、たとえ泥だらけでも風呂に入らないし、祖母が食事をよそって箸を用意し「食べなさい」と言わなければ、何日でもものを食べない人だ。
逆に言えば、命令されれば、なんでもする。
いつだったか、私の買ったおもちゃのパンや芳香剤を、祖母が間違えて祖父のおやつに出したことがあった。
祖父が半分ほど食べたところで、パッケージの文字に気付いた祖母があわてて取り上げたらしいが、おそらく取り上げられなければ、完食していただろう。
……きっと、私が祖父の立場でも、同じことをするから。
今となっては、祖父の能力の低さが、生来のものなのか、祖母のために全てを諦めた結果なのか、それすら判然としない。
塩分で血圧が上がるのをひしひしと感じる。
頭の血管が熱を持ち、傷付いて、悲鳴をあげているのが分かる。
もう少し。
もう少しで食べ終わる。
私がラストスパートをかけようとしたところで、祖母は雑誌を置いて立ち上がった。
読み終わったらしい。
「じゃあ、おばあちゃん先に寝るわね。
ちゃんとお風呂に入って、歯をみがいて寝なさい」
「うん、分かった、ありがとう、おばあちゃん大好き……
……あの……このご飯もすごくおいしくて……
その……おばあちゃんのおかげだね……」
違う。
言わなきゃいけないことは他にある。
なのに、祖母の目に射貫かれると、いつもの上っ面の言葉しか出てこない。
「そうでしょう?また作ってあげる。
おやすみなさい」
祖母は部屋を出てしまった。
どうしよう。
今から追いかける?
でも、食事を残して席を立つなんて、きっと祖母はかんしゃくを起こす。
下手をすると、『せっかく作ってあげたのに、私の料理のせいで病気になったって言うの?』なんて言われて、受診が絶望的になる。
どうしよう。
助けて。
助けて、藤見さん。
『ちょっと視野がせまいと思うよ』
『寂しそうに見えた星にも、ちゃんと周りに誰かがいたんだなって』
そうだ。
この世界は、家庭だけで世界が完結しているわけじゃない。
もっと外は広くて、何もないと思っていた場所にも、星はある。
私はスマホを手に取る。
すがるように、母の連絡先を選んだ。
コール音が何度も繰り返され、やがて、声が聞こえた。
『もしもし?』
「もしもし、私、深月。
今、電話、大丈夫?」
『いいけど、どうしたの?』
祖母に聞かれないよう、小声で話す。
「あのね、おじいちゃんがね、体調悪そうで。
学校から帰ったら、布団かぶって唸ってるの。
顔に赤い斑点があって。
苦しそうで。
どうしよう」
『そうなの。それは困ったね。
どうしようか。救急車を呼んだ方がよさそう?
おばあちゃんは何て言ってるの?』
「救急車……、分からない。そんなに重症なのかな。どうしよう。
おばあちゃん、もう寝室に行っちゃった。
起こした方がいいかな」
『うーん……ちょっと待って。
おじいちゃんと電話、代われる?』
私は忍び足で、祖父の寝室へ向かう。
「おじいちゃん、ごめん、お母さんと電話がつながってるの。
体調悪そうだから、心配で」
祖父の耳にスマホを押しつける。
祖父は、母の電話口の声に対して、なにやらモゴモゴ答え始めた。
「……ああ……久し振り。
ん……たいしたことはないよ。
ちいっと腹が痛くてね、熊の胆を飲んだんだ。
だから……うん、そう。
悪かったね……
うん。
深月、もういいよ」
祖父がまともに口をきくのを、ずいぶん久し振りに聞いた気がする。
前に聞いたのは、正月に伯父が帰ってきた時……だっただろうか。
あまり覚えていない。
伯父は県外で働き、盆暮れ正月も滅多に家へ寄り付かない。
幼い頃は、それが不思議だったけれど、今なら伯父の気持ちが分かる。
祖母に近寄りたくなかったのだろう。
帰ってくると、祖母は大量の料理を用意して食べさせ、息つく暇もなく喋り続け、自分と身内の自慢話で話題をおおい尽くそうとする。
祖父が口をはさむ余地は、ない。
きっと、祖父も。
祖母に自分の声を無視され続け、ほかに話し相手もなく、舌を腐らせて生きてきたのだろう。
私はスマホを自分の耳に戻す。
『もしもし、深月?』
「……うん。どう?」
『あのね、おじいちゃん、意識もしっかりしているし。
今は、救急車はいいと思う。
この時間じゃ、地元のお医者さんも閉まってるし、明日、調子がよくならなければ、受診したらどうかな』
「…………うん」
『深月も、心配だと思うけど。
明日、お父さんにも話して、様子を見に行くよ。
深月は、今日は休んだ方がいいよ』
「……本当に……大丈夫かな」
『うん、きっと大丈夫だよ。
何かあったら、また言ってね』
「……うん」
電話を切る。
「おじいちゃん、明日、お母さんかお父さんが、様子を見に来るかも。
調子悪かったら、病院に行こう」
「ん……いいよ、そんなにしなくても」
「……」
「ちいっとね、腹が痛いだけなんだ。
昼間のパンが、悪かったのかもしれないなあ」
夕飯はスルーなのだろうか。
どこまで本気で言っているのか、分からない。
「……おじいちゃん、私、あんまりおじいちゃんと話をしてなくてごめんね。
ちゃんと、一緒に、話をしていれば……
今回だって、もっと早く、気付けたのに」
一緒に暮らして、3年目になるのに、この体たらくだ。
私と祖父母の関係は、進展するどころか後退の一途を辿った。
それはきっと、誰も幸せにならなかった3年間だった。
祖父が、布団から顔を出す。
久し振りに、祖父の顔を見た。
「いいんだよ、深月」
祖父は、一切自己主張をしない。
祖父の在り方は、祖母に影響を受けた人の最終形態だ。
「……体調が悪くなったら、すぐ言ってね。
真夜中でもいいから」
私はそう言い残して、居間に戻った。
残りの食事を平らげ、食器を洗い、風呂に入り、風呂掃除をして、歯をみがく。
自分の寝室に向かう前に、祖父の寝室へ寄る。
障子の向こうから、寝息が聞こえた。
唸り声は聞こえない。
私は自分の寝室へ行く。
……これでいいのだろうか。
考えても、答えは出ない。
そのまま眠りについた。
翌朝。
私が居間に行くと、祖母はいるものの、祖父の姿はない。
「大好きなおばあちゃん、おはよう。
今日もおばあちゃんの、おいしいご飯を食べたいな……
……」
「おはよう、深月ちゃん。
用意してあるよ、いっぱい食べなさい」
いつもの定型文に乗せられる。
祖母はいつものように笑っている。
……本当に、気付いていないのだろうか?
食卓を見ると、いつもより量が多い。
遅刻しないで食べきれるだろうか。
祖母は満足げに笑いながら、どこかそそくさと、退室しようとする。
「じゃあ、おばあちゃん、畑に行ってくるわね。
水をあげないといけないから」
私を避けていると、直感的に思った。
私が口を開くのを、定型文以外のことを口にするのを恐れている。
それはいつものことだが、いつもよりも態度があからさまだ。
……本当は、祖父の体調不良に、気付いているんじゃないか?
なんとなく、そんな気がした。
昨日、無茶な夕飯を食べさせたことは、祖母も分かっているはずだ。
……「祖母のせいで体調を崩した」、その一言を、きっと、祖母は何より恐れている。
口を封じたところで、治るわけではないのに。
「……ねえ、大好きなおばあちゃん。
おじいちゃんは?」
私は笑顔で尋ねる。
祖母の笑顔が固まる。
「おじいちゃんねえ、まだ起きてこないの。
まったくお寝坊さんね。
困っちゃう」
薄ら笑いを浮かべて、祖母は答える。
私も薄ら笑いを浮かべた。
「もしかしたら、体調が悪いのかも。
様子を見た方がいいよ」
「ううん、たいしたことないのよ。
心配しなくて大丈夫。
おじいちゃんってば、昨日、床に落ちたパンを食べたのよ。
それでお腹を壊したんじゃないかしら。
嫌ぁねえ。
寝てれば治るわよ」
必死に取り繕おうとする。
自分の体面を。
祖父の体調よりも。
「笑いごとじゃないよ。
おじいちゃん、つらそうだったよ。
顔に赤い斑点が出るなんて、ただの食あたりじゃないよ」
つい。
正直な言葉が出る。
祖母の大嫌いな、否定の言葉が出る。
みるみるうちに、祖母の顔が醜く歪んだ。
くしゃくしゃな泣き顔。
「そんなに責めないで。
ひどい。
おばあちゃんは一生懸命やってるのよ。
おばあちゃんのせいにしないで。
おじいちゃんはつらくないのよ。
寝てるだけよ」
「誰も、おばあちゃんのせいだなんて言ってないよ。
お願いだから、病院に連れていってあげて。
おじいちゃんは運転できないから、誰かが連れていってあげないと。
それも早めに」
「やめて!
深月ちゃんは、すぐにそうやっておばあちゃんのせいにする!
いつもおばあちゃんを傷付ける!
おじいちゃんは、つらくないって、言ってるでしょ!
心配するなって言ったでしょ!
あなたは、いらないことを考えちゃダメ!」
だめだ。もうだめだ。
これは命に関わることだ。
祖母は祖父を踏み潰す。
誰かが矢を射かけない限り、止まらない。
「おじいちゃんがつらいかを決めるのは、おばあちゃんじゃない、おじいちゃんとお医者さんだよ!
私の考えることだって、私が決める!
私のことは嫌っていい、悪い子だと思うならそれでいい、好きにしていいから……
おじいちゃんのつらさを、勝手に決めないで、病院に連れていってあげて!」
祖母はわんわん泣き出した。
私は怒りに任せて、通学カバンを掴み、身支度を整えて、祖父の寝室へ行く。
祖父はまだ寝ている。
障子を細く開けて様子をうかがう。
顔の斑点は消えていない。
スマホの着信バイブが短く震える。
『お父さん、仕事を休んでそちらに行くそうです。
もう家を出ました』
母からのメッセージ。
玄関を出る。
もう、後は野となれ山となれだ。
私は自転車に飛び乗り、どきどきする鼓動をそのままに、学校へ向かった。
昼休みにスマホを確認すると、母から追加のメッセージが来ていた。
父はいまだにガラケーを使っているから、こうして母が代わりに報告してくる。
『お父さんが、おじいちゃんを病院に連れていきました。
検査の結果、数値に異常があって、しばらく入院することになったそうです。
命に別状はないそうです』
するとやはり、ただの食あたりではなかったのかもしれない。
祖父のことはなんとかなりそうで、私はとりあえず安心する。
祖母の様子は、また母に余計な心労をかけるだけなので、聞かないでおいた。
ただ、代わりにメッセージを送る。
『ありがとう』
『私がお母さん達の家に戻る話、まだ有効?』
昼休み終わりにもう一度見ると、返事が来ていた。
『いつでもいいよ』
私はため息をつく。
決意は固まりつつあった。
祖父の入院を理由に、部活を休んで早めに帰宅する。
家には祖母はおらず、父が祖父の寝室をごそごそと漁っていた。
「おかえり。
おばあちゃんは、おじいちゃんに付き添ってる。
お父さんは、おじいちゃんの入院に必要なものを持って、また病院に行くよ」
私はうなずいた。
深呼吸して、着替えの下着類を物色する父に声をかける。
「……あのね、お父さん」
「ん?」
「大変な時に、身勝手なことを言って悪いんだけど……。
私、やっぱり、お父さん達の家で暮らしたい」
すると父は手を止め、顔を上げた。
心なしか、安堵したようにも見える。
「そうか。
お父さんも、その方がいいと思う。
おばあちゃんも、おじいちゃんの入院の世話をしなきゃいけないし、学校も夏休みになる。
いい機会じゃないかな」
「……ありがとう」
「いつ、こっちへ来たい?」
「……できれば、今日にでも」
「じゃあ、取り急ぎ、今日明日必要なものを用意して、車に乗せて。
ほかのものは、おいおい取りに来ればいいから。
お父さん、この後、病院に行って、ちょっと時間がかかるかもしれない。
深月は、遠いけど、自転車で家に来てくれるかな」
「そうする。ごめんね」
いいよ、と言って、父は手提げ袋に衣類を詰め始める。
言い出してしまえば、驚くほどスムーズに話が進んだ。
私は自分の引っ越し準備のために、自室へ戻ろうとする。
と、父に声をかけられた。
「深月」
「?」
「おじいちゃんのこと、気付いてくれてありがとう。
病院の先生にも、こういうのは早めの受診が肝心だって言われたんだ。
我慢して手遅れになる人もいるんだって」
それは、病気の話かもしれないし、祖母との関係の話だったかもしれない。
「おばあちゃんと喧嘩してでも、おじいちゃんを助けようとしてくれた。
お母さんにも連絡してくれた。
それがなければ、きっと、誰も病気に気付かなかったと思う。
ありがとう」
私は首を横に振る。
……きっと、私だけじゃ、何もできなかった。
あの夜、彼と会ったから。
一緒に星空を見たひとときがあったから。
彼がかけてくれた言葉があったから。
だから、私は行動できた。
祖母に嫌われることを恐れず、話をすることができた。
「……じゃあ、30分後に出るから、深月もそれまでに荷物を積んで」
「……うん」
私は荷作りに取りかかった。
その夕方。
両親の家へ行き、引っ越すことを母や弟妹に報告した。
全員、「あっそう」とわりとあっさり了解した。
重かった肩の荷が、ようやく降りる。
私は母に告げた。
「夕飯の後、出かけたいところがあって。
夜遅くなるけど、気にしないで」
「どこ行くの?」
「天ヶ原の休憩所。天体観測」
「そんな趣味ができたのね。
夜道に気を付けなさいよ」
母は、あっさりと承諾した。
自転車を引いて、いつもの展望台に向かう。
坂を登りきって顔を上げると、前を歩く人影が見えた。
「……藤見さん!」
声をかけると、人影が振り返る。
「こんばんは!」
彼も明るく手を振ってくれた。
それがすごく、嬉しい。
私は自転車をガタガタいわせながら、彼のもとへ駆け寄る。
息を弾ませながら、声をかけた。
「今日は、同時に来られたね」
「うん!よかった。
待ってる間って、さびしいからね」
彼が笑顔で答える。
やっぱり、彼もさびしかったのか。
申し訳ないと同時に、ちょっぴり嬉しい。
「ごめんね。
これからは、この時間に来られると思う」
私が謝ると、彼は不思議そうに首をかしげる。
「祖母と……別々に暮らすことにしたの。
これからは、両親の家に住む。
だから、自由に出かけられるの」
彼はほっとしたように微笑んだ。
「そっか……逃げられたんだね。
よかった……」
「……藤見さんのおかげだよ。
藤見さんが、一緒に星を見てくれたから。
私の視野を広げてくれたから……
私は、逃げることができた」
彼は、にっこりと笑う。
太陽のような笑顔。
私の行く道を照らしてくれた光。
一緒に展望台へ歩く道すがら、彼が話し始める。
「……初めて会った時、君、すっかり怯えてたよね。
それが、だんだん明るくなってきたから、僕、嬉しかったんだ。
君の力になれたなら、よかった」
「うん。ありがとう」
私も笑顔を返す。
たぶん、他の人には見せたことのない表情をしていると思う。
2人で、展望台から星を眺める。
彼が口を開いた。
「……もうすぐ、夏休みだね」
「そうだね。私の学校、週明けに終業式したら夏休みだよ」
「僕のところも。
……でも、受験生だから、あまり嬉しい感じはしないな」
「私も」
じっと、星を眺める。
星座は形を崩さずに、地球の空を横切っていく。
それはつまり、この広大な宇宙で、動かずにじっとしているということだ。
人間は違う。
自分の意思で、重力にすらあらがって、動こうとする。
ふとわき上がった疑問を、口にしてみた。
「ねえ、進路って、決めてる?」
けっこう、踏み込んだ質問だったかもしれない。
でも、聞いておきたかった。
彼の目指すもの、進む先を。
就職するかもしれないし、進学先が県外かもしれない。
一年後も、一緒にいられる保証はないのだ。
彼は、うーん、と間延びした声を出してから、呟いた。
「豊岡大かな。
あそこは寮があるから」
寮を理由にするのがなんだか意外で、私は尋ねる。
「寮に入りたいの?」
「うん。
本当は、県外で一人暮らしが理想だけど、何かとお金がかかるからね」
しまった。
余計なことを聞いてしまった。
家計の事情を聞かれて、きっと彼は良い顔をしないだろう。
「ご、ごめん!
……その……私も、県外に行きたかったんだけど、金銭面で反対されてて。
進路、豊岡大にしようかなって思ってたんだ」
「本当!?
それなら僕、モチベーションめっちゃ上がるよ!」
明らかにテンションが上がる彼に、私はほっとしつつ嬉しくなる。
「私も……一緒の大学に行けたら、すごく嬉しい」
「本当に!?」
暗闇の中でも、彼が目を丸くしたのが分かる。
ついでに言うと、こぶしを握りしめて、小さくガッツポーズをしていた。
そんなに嬉しいのかな。
やがて、そのこぶしをゆるめると、彼は深呼吸をする。
「実は、僕……
寮に入りたい事情が、他にもあるんだ」
どきりとする。
裏表がない、後ろ暗いものなど何もなさそうな彼に、初めて影が見えた。
彼は、試すようにこちらを見てくる。
「でも、僕は君と楽しく過ごしたいから、君が聞きたくないと言うのなら、これは胸にとどめておこうと思う」
私は彼を見つめ返す。
答えは決まっていた。
「聞くよ。
それがどんな内容でも、また、明日、2人で星を見よう」
私が答えると、彼はうなずいて、「ありがとう」とささやいた。
「僕……、実は、家族丸ごと、地元に疎まれてるんだ。
僕の町、祭が無形文化財になっていて。
参加しない人は村八分にされる」
彼の言葉で、思い出す。
私の住む市は、合併前は4つほどの市町に分かれていた。
そのうちの1つは、祭を、いわゆる盆踊りや出店の立ち並ぶイベントとしてではなく、伝統的な「祭礼」として行っている。
巨大な山車を、毎年手作業で染め抜いた紙花等で飾りつけ、住民総出で引き回し、三日三晩、夜通し町を練り歩く。
町には交通規制が敷かれ、地元企業は暗黙の了解で社員に有給を取らせる。
子どもにも、笛や太鼓、踊りなどの役目が割り振られ、一年中、放課後を犠牲にし上級生にしごかれて特訓を受ける。
祭りの最終日は、浴びるように酒を飲んだ大人たちと、疲れはてた子どもたちで、グロッキー状態でフィナーレ。
まさに祭に命をかけているのだと、その地区からの転校生は言っていた。
数年前は、死者が出るのも当たり前だったらしい。
彼は続ける。
「僕のお父さんは、子供の頃から、祭に参加するたびに余興で裸にされたり、無理矢理お酒を飲まされたり、酔っぱらった人に殴られたりしてて。
祭の時期が近付くたびに、目に見えて落ち込んでいくんだ。
だから僕、言ったんだ。
『お父さん、もういいよ。そんなにつらいなら、お祭りなんて行かなくていいよ』って。
お父さんは、『そんなことしたら、お前だってここにいられなくなるぞ』って言ったけど、それでもいいよって僕は言ったんだ。
そうしたら……」
彼は唾を飲み込む。
「参加しなくなったら、挨拶は無視されるし、回覧板は飛ばされるし、避難訓練も地元のイベントも行けなくなった。
学校でも、集団登校で僕だけ置いてけぼりにされて。
仲良しだった友達からも無視されるようになった。
練習をサボって遊んでると思われたんだろうね。
でも……お父さんが休んで、僕だけ祭に行くこともできなかったんだ。
『お前の親はなぜ来ないんだ』
って、近所のおじさんに怒鳴られて、公会堂から追い出されちゃったから」
初めて会った時、夜通ししゃべり倒す勢いだった彼を思い出す。
私が「人と話すのが怖い」と打ち明けた時、「僕は話すのが好き」と言っていた。
明るく話し好きな彼は、きっと、もとは友達も多かっただろう。
近所の人とも仲良くやっていたかもしれない。
それが突然、離れていって、彼はどんなに悲しかっただろうか。
……私はバカだ。
優しく素直な彼は、恵まれた家庭で、何不自由なく生活しているのだと、勝手に思っていた。
確かに、家族には問題なかったかもしれないが、それでも、こんな環境はつらすぎる。
「そしたら、お父さんと、地区外から嫁いだお母さんの関係もギスギスし始めて。
家にいると、無性に疲れるようになった。
居場所が無かったんだ」
目の前が真っ暗になった気がした。
それは彼の絶望だ。
周りを照らす太陽のような彼に、居場所がないなんて、そんな。
真夜中の展望台。
暗がりにじっと座り込んでいた彼。
「……藤見さんも……、私と同じだったんだね。
居場所がなくて、ここに来たの?」
「……そう。
星を見に来たっていうのは、嘘。
だって、そんな話……しても困るだろうって、思ったから」
初めて会った時、私も彼に嘘をついた。
祖母にネコのエサを食べさせられ、居場所をなくして来たのに、散歩に来たと嘘をついた。
同じだ。
私と彼は、同じだったのだ。
「でも僕、君と星を見られて、嬉しかった。
星を見ている内に、気が楽になっていった。
君と話している内に、自分が人間に戻っていく気がした。
この時間が救いだった。
君に会えて、本当に良かった」
それでも、彼は、やっぱり、輝いている。
私と同じで居場所がなくても、変わらず明るく、優しく、正直に生き続けた。
ただ1つ、私を気遣ってついた嘘を除いて。
「私も……この時間に救われた。
藤見さんに会えて、本当に良かった」
真夜中の嘘がくれた、彼と私の、星の時間。
きっと、生涯、忘れることはない。