来未と仲良くなったのは、中学二年生のときだった。
昔から、私は人と馴染むことが得意ではなくて、いつもひとりでいた。
なにをやるにもどんくさくて、決して怠けているわけではないのに、先生にはいつもサボるなと怒られた。
それに対して、もちろん言い返す度胸なんて私は持っていなくて、だから私は先生から疎まれていた。先生に疎まれると、クラスでも浮く。
次第にクラスメイトたちは私に話しかけてくることをやめた。
少しづつ、少しづつ、私は名前を失くしていった。
進級して、クラス替えをした四月。
そんな春の真ん中で、私は来未と出会った。
進級してクラスが変わっても、私の立ち位置は変わっていなかった。
名前のないクラスメイト。それが、私の名前だった。
出席番号の関係でたまたま隣の席になった来未が私に声をかけてきたのは、二年生になったその日のこと。
その瞬間、教室中の空気がピリッと張り詰めたのを覚えている。
声が大きくて、空気を読まない変わり者。
授業中ですら大きな声で話しかけてきて、わたしは最初は来未のことを迷惑に思っていた。
でもあるとき、影で私の悪口を言っていたクラスメイトに、来未が言ったのだ。
『喧嘩するのはいいけどさ、悪口ってかっこ悪いよ。不満があるなら、本人に直接言えばいいじゃない。でもさ、嫌なことをなんにもされてないのにもしそういうこと言ってるなら、それはただのいじめだよ』
べつに、気にしてなかった。
教科書を破られるわけでも、靴を隠されるわけでもなかったし、ただ、無視されるだけ。だから、じぶんがいじめられてるだなんて思ってなかった。
……いや、思いたくなかったのだ。だっていじめだと理解してしまったら、学校に通うことが怖くてたまらなくなってしまうから――。
その日、私は泣いてしまった。
ずっとなにも感じないように頑丈にしてきた心が来未の叫んだひとことでヒビが入り、ぱりんと割れてダムが決壊したように感情が溢れた。
私が泣いたことでちょっとした騒ぎになり、先生も駆けつけた。先生は私を見ると、あからさまにため息をついた。
そんな先生に、来未は言った。
『今の、なに?』
『なんでため息ついたの? 先生、絶対気付いてたよね。水波が無視されてるの、気付いてて放っておいたんでしょ。それって、先生もあの子たちと一緒になって水波をいじめたってことだよね。先生って、なんなの? 正しいことを教えることが先生なんじゃないの? 先生が生徒を追い詰めてどーすんの?』
その言葉に、さらに涙が溢れた。
来未は泣きじゃくる私を抱き締めて、笑いながら言った。
『まったくバカだなぁ。こんなこと、我慢するようなことじゃないのに。……でも、今までひとりでよく頑張ったね。えらいえらい』
それが、初めて聞いた来未の『バカだなぁ』だった。
それから私たちはふたりでよく一緒にいるようになって、あっという間に仲良くなった。
学校帰り、コンビニに寄ってアイスの買い食いをはじめてした。お昼をだれかと一緒に食べるのもはじめて。休みの日に待ち合わせをしてカフェに行って、ショッピングをしたのも来未がはじめて。
はじめての友達。はじめての親友。来未は間違いなく、私のヒーローだった。
来未と仲良くなってから、私の世界は変わった。
薄汚れた灰色の世界にいた私の瞳の中に、七色のクレヨンで描いたようなきれいな虹が生まれた。
来未との思い出や来未からもらった言葉なんかがころころとした宝石や砂のように混ざっていて、私の瞳はいつの間にか、万華鏡に変わっていたのだった。
来未と一緒に見る世界は、道端に落ちたガラクタすら輝いて見えた。
来未以外のクラスメイトと話すことも増えて、無視されるということはなくなった。先生からは特に謝罪などはなかったけれど、ただ私に対してあからさまに態度を変えるということをやめた。
ぜんぶ、来未のおかげ。
『まったくバカだなぁ』
あの口癖を最後に聞いたのは、いつだったっけ。
ずっと聞けると思っていた。高校生になっても、大人になっても。あの声を、この先もずっとずっと聞けると思っていた。
それなのに、あの、旅行の日。
沖縄で予約していたフェリーで、私は来未と喧嘩してしまった。そして、仲直りする前に、あの事故が起きた。
あれ。私、あのときなんで来未と喧嘩したんだっけ……。
思い出そうとしたとき、ずきんと頭が割れるように響いた。
小さく呻き声を上げ、頭を抱える。
『水波』
来未……。
『水波』
私を呼ぶ声が、どろんと水の中に落ちていく。来未の姿は波に呑まれて見えない。ただ、海面から苦しげに大きく広げた手だけが伸びていた。
やだ、待って。行かないで。行かないでよ、来未……っ!
「……なみ、水波っ!」
大きな声で名前を呼ばれて、ハッと目が覚めた。
すぐ目の前に、お母さんの顔がある。心配そうに私の顔を覗き込んでいた。
「あ……お母さん」
「水波、ごめんね。うなされてたから起こしたんだけど……最近よくうなされてるみたいだけど、ちゃんと眠れてるの?」
大きく息を吐きながら、額に張り付いた前髪をかきあげる。
「……うん、大丈夫」
お母さんから目を逸らし、小さく答える。よろよろと起き上がると、背中がぐっしょりと汗で濡れていた。気持ち悪い。
「でも水波……」
「大丈夫だから。着替えるから、出てって」
お母さんの言葉を遮るように言うと、お母さんは困ったように口を噤んで、部屋を出ていった。
お母さんが出ていった扉を見つめて、もう一度ため息をつく。
お母さんとお父さんの寝室は、私の部屋のとなりだ。そこまでうなされていた声が聞こえていたのだろうか。気をつけなくちゃ、と思いながら、もう一度息を吐いた。
時計を見ると、深夜の二時。
起きるには早すぎる時間だけれど、もう一度眠る気にはなれなかった。とはいえどうやって暇を潰そう。
汗のせいで肌寒さを感じたとき、ふと彼の顔が浮かんだ。
彼は今、どうしているだろう。
会いたい。
思ったら、もう止められない。ティーシャツとジーンズに着替えて、足音を立てないように階段を降りる。
一階に降りるとリビングに灯りがついていた。キッチンを覗くと、お母さんがいた。目が合い、しまったと思う。
「あ、水波。今ホットミルク作ってるから……って、その格好外着じゃない」
引き止められる前に、と、急いで玄関に向かう。
「ちょっとどこに行くの! こんな時間に……」
「……ちょっと、散歩」
「ダメよ、今何時だと思ってるの! 危ないでしょう!」
強く腕を掴まれ、私はその手を力任せに振り払った。
「放してよ!」
「水波!」
「夜だからなに!? 私はただ、勝手に人の部屋に入ってくるような人がいるこの家にいたくないの!」
お母さんがハッとした顔をする。
「ごめんなさい……でも、落ち着いて水波」
「落ち着いてって、なに」
「怖い夢を見たなら、明日先生にそのことを言おう。きっと良くなるお薬もらえるから。不安なら、お母さんも一緒についてくから」
「うるさい! 薬なんていらない! そういうことじゃないの!」
「水波……」
「結局、お母さんには私の気持ちなんて分からないんだよね。……お願いだから、放っておいて」
無表情で告げると、お母さんが泣きそうな顔をした。
「……水波」
あの日、事故で頭に傷を負った私は、病院で目を覚ました。
なんで、私は生きているのだろう。
私はひとりだった。
なんで、だれもいないのだろう。
『大変だったね。今はとにかく、ゆっくり休みなさい』
ねぇ、来未は? ほかのみんなは?
『とにかく、水波が無事でよかったわ』
ここはどこ?
『もう大丈夫だからね』
だれか、だれか教えてよ。
だれも答えてくれない。だれも、本当のことを私に言わない。
だから私は、来未の葬儀にすら行っていない。来未の最期を見ていないし、来未とちゃんとしたお別れをしていない。
「……お母さんの顔なんか、見たくない」
そう言い捨てた瞬間、お母さんの顔がガラスにヒビが入るようにピキッと強ばったのが分かった。
私はこれ以上お母さんの傷付いた顔を見るのが怖くて、家を飛び出した。
***
ふらふらと、夜の街を歩く。
空に輝く満天の星は、カーブミラーやビルの窓ガラスの枠の中に落ちていて、きらきらと私のゆく道を照らしてくれている。
どこからか、夜色の蝶がひらひらと飛んできた。まるで私に寄り添うように近くを飛び続ける。
「君もひとり?」
言葉を持たない蝶に話しかけながら、静謐な空気を裂くように歩く。
街灯がチカチカと頼りなく揺れている。
八月の夜風はなまあたたかく、私の肌にねっとりとまとわりつく。
しばらく歩いていると、突然暗闇が薄れたような気がした。顔を上げると、ゆらゆらと赤色の提灯が揺れている。
あの場所だ。
石段を登り、神社を抜けて、また石段を登る。
登りながら、ぼんやりと考える。
私はどうして、あそこに向かってるんだろう。
こんな真夜中に、いるわけないのに。
じんわりと汗をかいてきた。ティーシャツが肌に張り付き、息が切れる。それでも、心は一心に彼の名前を呼んでいた。
会いたい。綺瀬くんに、会いたい。
もう心が限界だった。
「綺瀬くん……!」
頂上が見え始める頃にはもう、走っていた。石段を駆け上がり、広場に出てベンチを見る。
いた!
そっとそばにいくと、綺瀬くんは小さく寝息を立てて眠っていた。その寝顔に、わけもなく泣きそうになる。
起こさないようにとなりに座って、息をする。
ねぇ、あなたは何者なの? こんな時間になにしてるの? 家は?
そっと手を握ると、その手はやはりひんやりとしていた。凍えそうなほど冷たい手のひらを、私は優しく両手で包む。
……と。
「……ん……あ、あれ?」
綺瀬くんが目を開ける。となりに私がいることに気付くと、ぎょっとした顔をする。
「えっ!? なに!? なんで水波がいるの!?」
「……あ、ごめんね、起こして。なんかちょっと、会いたくなっちゃって……」
沈んだ声を出した私を、綺瀬くんは静かに見つめて微笑んだ。
「……ん、そっか。俺もひとりで寂しかったから、来てくれて嬉しい」
そう言って綺瀬くんは私の手を握り返してくれた。たったそれだけのことがすごく嬉しい。
「手、冷たいね」
「……うん、ちょっと寒いんだ」
綺瀬くんは、会うたび寒いという。寒いというのは、彼の口癖なのかもしれない。
だって、今は真夏だ。夜とはいえ、体感的にはものすごく暑い。
なら、なにが寒いのだろう。心のことだろうか。分からない。分かりたい。でも、その一歩を踏み込むのが怖かった。
「……私もね、眠いんだ。でも眠れなくて」
「そっか。じゃあ一緒に寝よう」
綺瀬くんは当たり前のように私にもたれかかって目を閉じた。私も目を閉じる。
まだ数回しか会っていないというのに、この安心感はなんなのだろう。
触れ合った手から伝わるぬくもりがあたたかくて、優しくて、ぎゅっと目を閉じると涙が流れる。
……あたたかい。
声を殺してすすり泣く私に、綺瀬くんはなにも言わなかった。ただ静かに寝たふりをして、寄り添ってくれていた。
次に目が覚めたとき、綺瀬くんはいなくなっていた。でも、ベンチにはまだ綺瀬くんの香りが残っていて、ついさっきまでそこにいてくれてたんだな、と心があたたかくなった。
***
夏休みが明け、学校が始まった。
私は、家から徒歩十数分のところにある県立南ヶ丘高校、通称南高という高校に通っている。
最近、老朽化がひどくて校舎を建て替えるという話が出ているくらい古い歴史のある学校だ。
高校での私は、来未と出会う前の私だ。だれとも喋らず、ただ机に向かってノートとにらめっこして、街をふらふらして時間を潰してから帰る。
学校のだれも、私に話しかけてこない。空気のように扱う。けれど、中学のときのような、変に気を遣われる空気よりは今のほうが幾分マシだった。
私はもう、友達を作る気はない。どうせ卒業したら疎遠になるのだし、そもそも人と関わるのは面倒だ。
……それに、あんな思いをするのはもういやだから。
バッグから文庫本を取り出し、開いたときだった。
「榛名さん、おはよう!」
突然挨拶され、顔を上げると女の子が立っていた。長い黒髪の毛先は丁寧に切りそろえられていて、前髪もいわゆるパッツン前髪。
目鼻立ちがはっきりした女の子だ。
「……おはよう」
挨拶を返しながらも、内心戸惑う。だれだっけ。クラスメイトなのは分かるが、名前が分からない。彼女は私の前の席に座ると、くるりとこちらを向いて話しかけてきた。
「榛名さん、夏休みはどこか行った?」
「……ううん、特には」
「そっか」
「…………」
「…………」
しばらくお互い無言だった。女の子は気まずそうに瞬きをしながら視線を泳がせている。
まったく、用がないなら私なんかに話しかけてこなければいいのに、と思う。
「あっ、そうだ!」
ふと、思い出したようにカバンを漁り出した。
「あのね、榛名さん。これ、あげる」
と、女の子は、私に手のひらサイズのウサギのぬいぐるみを差し出した。
「え……?」
戸惑いがちに女の子を見る。
すると女の子はちょっと恥ずかしそうに頬を紅潮させながら、落ち着かない様子で私を見ている。私はぬいぐるみに視線を落とした。
渡されたぬいぐるみは、仮面舞踏会のようなゴージャスな仮面を付けていて、
「可愛い」
そう。可愛かった。
「微妙にキモいけど」
呟くと、彼女はパッと表情を明るくした。
「ほんと!? これね、ご当地ぬいぐるみなんだ。お盆に実家に帰ったときにたまたま見つけたんだけど、なんとなく榛名さんに似てて、可愛いなって思って」
「……え、私に似てるの?」
今私、キモかわいいって言ったんだけど。じっとぬいぐるみを見つめていると、女の子が慌て出す。
「あ、へ、へんな意味じゃないよ!? ただ、可愛いなって。ほら、おそろい」と、女の子は自分のカバンを見せてきた。そこには私にくれたものと同じ仮面をつけたネコバージョンのぬいぐるみキーホルダーがある。
「……ありがとう」
ぬいぐるみを見つめ、考える。彼女はどうして、私にこれをくれたのだろう。友達でもなんでもないのに。私なんて、あなたの名前も知らないのに。
「夏休み明けちゃってちょっとダルいけど、今月は文化祭だし楽しみだよね! これからまたよろしくね!」
「うん……」
無邪気な笑顔を向けてくる女の子に、私は目を細める。眩しく感じた。まるで太陽のようだ、と思う。
ちらりと覗いた教科書から、志田朝香という名前が見えた。
志田さんというのか。
ほんの少し、声が来未に似ている気がする。
「……よろしく」
志田さんがからりと笑う。
その笑顔が来未の笑顔とダブったのか、私の心は妙に胸がざわついていた。