『タンゴ、第二ヒート』

 場内アナウンスが流れた頃にようやく夏目が戻ってきた。

「どこ行ってたの、夏目さんっ」

 この時間までうろつかれるとさすがに焦る。
 しかし夏目のほうは無言を決め込み、駆け寄ってきたマリの手を掴むとフロアに直行した。
 エスコートなんていう生易しいものでなく、強引で乱暴な、引きずりだすという表現が似合う勢い。

 背後で槙島がぽつりと「あーあ、思いっきりタンゴ入っちゃってるよ」とぼやいたあと、さらに小さな声で「マリちゃんをぶっ壊さないといいけど」と不穏な単語をつけ足した。

 ぶっ壊す?
 普段だったら槙島の冗談だと鼻で笑えたが、この顔の夏目を前にしてそんなことできなかった。
 飢えきった手負い蛇が孵化のためにようやく亀裂の入り始めた卵を前にして頭がでてくるのを待ち構えているような。
 でるのに手こずるようなら卵ごと丸呑みしてしまいそうな、鈍く光る灰色の目。

 一瞬、夏目の手を取るのを躊躇った。
 しかし容赦なく曲が流れていく。
 聞き流していいのは最初の三小節まで。
 四小節目には腕を組み終えて一歩目を踏みださなければいけない。

(もう、どうにでもなれっ……)

 やけくそで夏目の手に飛びついた瞬間、こちらが動くのを待ち構えていたかのようにマリのことをかっさらい、フロアの中心まで一気に駆けた。
 想定していた一歩よりもかなり大きく、ドレスの重さを初めて知覚する。
 裾が杭で打ちつけられているように後方に重心を持っていかれるが、夏目がそれを引っぺがすようにマリを引き寄せて大きく前進。
 踊ったことのないスピードで、歩幅で、フロア中を振り回されていく。

 今まで練習してきた基本の足型(ベーシツク・ルーティン)がまったくの別物になってしまったように感じた。
 それはきっと審査員や観客も感じているのだろう。
 周りが披露する高難易度の振りつけを一切無視してマリたちだけを目で追っていた。
 夏目が基本(ベーシツク)を踏むだけで一気にそれが華やいで、周りの視線を釘づけにする。

 槙島も確かにうまかった。
 いつもマリの動きをカバーして、そのうえ一歩も二歩も先を見据えて誘導する。
 しかし今夏目がやっているのは誘導なんてものではない。
 支配だ。
 マリの体幹では到底できないような大きな一歩を無理矢理踏ませて、あり得ない角度で振り回して、それでもマリに平然とさせる。
 外見上は。

 気持ち悪かった。
 自分の身体が乗っ取られたみたいで。
 意思はあるのにその全てが無視されて、身体が勝手に動いていく。

 瞬間、夏目の目の色が変わった。
 灰白色の中に蒼い炎が揺らめいて。
 来る――!?
 自分でもわからない〝何か〟が身体の中心を突きあげた。

 夏目がタンゴ特有のネックアクションを決める。
 鋭く前後に振る動きは歌舞伎の見得を切るようで。
 なんだこの感じ、空気が変わる。
 持っていかれる――。

 視線の先にいた審査員が手に持っていたボードを落とした。
 審査員だけではない。
 全員が見ていた……夏目だけを。
 それはマリの義足をかばうとかそういうのではなくて、マリの存在自体が飲みこまれて誰の目にも止まらない感じ。
 好奇の目を向けられるのは嫌だったけれど、無視、されたかったわけではないのに。

 この瞬間に痛感した。
 一桁も二桁も違う経験値の差を。

 ダンスを辞めた?
 やる気がない?
 槙島がチャンピオン?
 どの口が言う。
 夏目に勝てる人間なんて、この世界のどこかに存在するのか。

 強引に回転させられた先で観客の中にいる槙島を見た。
 顔を抱えて『あちゃー』というような仕草をしている。
 しかしマリは見逃さなかった。
 指の隙間から覗く槙島の目は『あちゃー』などとは言っていない。
 綺麗な手では隠しきれないほど貪欲で強欲で狂暴な目をしていた。

 こんな顔初めて見た、と思ったと同時に疑問が浮かぶ。
 どうして槙島のことを王子だなんて思っていたのだろう、と。
 今まで見せてきた姿が本性だとどうして思っていたのだろう。
 そう勘ぐってしまうほど、今見ている姿のほうがしっくりと来た。

 ではいったい全体槙島は――そして彼からこんな表情を引きだす夏目は、何者なんだ?