優しい嘘つきの君へ

 この世は嘘であふれかえっている。
 しかし、すべての嘘が悪ではない。
 時に自分のため、または他者を守るために、人は優しい嘘をつくこともあるのだ。

 そんな教科書の冒頭の一節が、突然、脳内に流れこんできた午後の授業。
 俺こと星崎聖也(ほしざきせいや)十六歳は、急激な睡魔に襲われ、今にも瀕死寸前だった。
「じゃあ、ここの問題は星崎。って、おーい、聞こえてるかー?」
 誰かが俺を呼んでいる。
 この声は、うちの担任か。
 そういや今、現代国語の授業中で、説明文の読解やってたんだっけ。
「あっ、すみません」
「またか、星崎」
 あいかわらずな俺に、先生はため息をつき、呆れ返っている。
 そして次の瞬間、教室中でどっと笑いが湧き上がった。
「ぼうっとしてないで、授業はしっかりと聞くこと。いいな?」
「はい」
 注意をうながされた俺は、ひとまず空返事だけして、その後も、聞いているふりをして、授業をやり過ごした。
 
 俺はクラスで浮いている。いわゆる仲間はずれってやつだ。
「星崎くん」
 チャイムが鳴って、十分休み。
 こんな無愛想で、薄情者の俺に対しても、めげず話しかけてくるお人好しが、そういえば一人だけいた。
「なんだよ」
「大丈夫? なんかさっきも、ぼんやりしてるみたいだったから」
 彼女は月宮瑚白(つきみやこはく)。黒髪ショートカットに、人懐っこそうな瞳が印象的な美少女だ。
 このクラスのムードメーカー的存在でもある。
 誰に対しても常に分け隔てなく、気遣い上手。おまけに頭もいい。
 そしてなにより、その持ち前の明るさから、瑚白はいつも人気者だった。
「別に平気。ていうか、これが俺の平常だから」
「そ、そっかぁ」
 そっけない返事をして、俺は窓の方を向いてしまう。
 なんだかんだ入学したての一学期から、俺達はこんなぎくしゃくとした関係性をずっと引きずっている。
「瑚白ー、さっき先生が呼んでたよ」
 俺のような人間に、わざわざ関わろうとする彼女の気がしれない。
「わかったー。今、行く!」
 瑚白みたいなタイプは、俺と違って、おのずと人が寄ってくるだろうに。
「じゃあまたね、星崎くん」
 俺に向かって軽く手を振るなり、彼女は颯爽と去っていった。
 つくづくうっとうしい奴だと思った。

 放課後。
 帰りのホームルームが終わり、俺はそそくさと教室を出る。
 一緒に登下校をするような友達なんて、無論、今の俺にはいないから。

 階段の踊り場を通り過ぎようとした時だった。
「ねぇねぇ! 今年もみんなで、ハッピーツリー見に行こうよ!」
「いいねー、大賛成!」
「やっぱ、クリスマスっていったらあれっしょ!」
 見知らぬ女子生徒が三人組が、それはそれは仲睦まじそうに、会話に花を咲かせていた。
 クリスマス、か。もうそんな時期になるんだな。
  
 学校が終わった後、俺が行く場所はたいてい決まっていた。
「いらっしゃいませー」
 後ろのドアベルが鳴り、俺はやってきたお客さんを席へと誘導する。
 ただよう珈琲のほろ苦い香りが、鼻腔をくすぐった。
 そう、ここは喫茶店だ。少し前に、俺はここでバイトを始めた。
 駅近に位置したこの喫茶店は、ここらのお店の中ではそこそこの知名度がある。
 それに従業員の人間関係も良好で、みんな親切な人ばかりだ。
 なにしろ、店長さんに至っては、こんな若輩者の俺を快く雇ってくれた。
 それもあって、普段は締まりのない俺も、おのずとここでは精を出して頑張れている。

 この店の看板メニューである、ふわふわパンケーキを焼いている時のことだった。
「聖也くんってさ。まだ高校生なのに、バイトしてて偉いよね」
 俺に話しかけてきたのは月見美帆(つきみやみほ)先輩だった。
 ミルクティーブラウンの巻き髪ポニーテールに、優しそうな目元が印象的な女性だ。
 現役大学生らしい。学校じゃ、男連中からモテること間違いなしの美貌だ。
 そしてなにより、あの月宮瑚白の姉でもある。
 それを知ったのは、バイト初日のこと。月宮なんて名字、そうそう聞かないからまさかと思って尋ねたら、そのまさかだったというオチ。その時は流石の俺も驚いた。
 でもよく見れば、タイプは違うものの、整った容姿といい、誰からも好かれそうなオーラーが、なんとなく似ているような気がした。
「いえ、俺は全然、そんなことないですよ。部活とかも、特にやってないですし」
「そうかなー。でも、高校生っていえば、青春まっただ中だし、遊びたくなる時期だったりしない?」
 へりくだる俺に、先輩は頬杖をつく。
「正直、俺はあんまり興味がないですね、そういうの」
「ふむ、なるほど」
 俺の冷めた答えに、月宮先輩はしたり顔を浮かべた。
「クール系男子、ってやつだね」
 いまいち言葉の意味を理解しかねた俺は、パンケーキが焼き上がるのをひたすらに待った。
 
 今日も難なくバイトをこなし、店を出ると、外はもう真っ暗だった。
 最近、日が落ちるの早くなってきたな。

 帰り道の途中、俺は駅前広場を通りかかった。
 毎年、この時期になると、ここら一帯は夜にきらびやかなイルミネーションの光で覆われる。
 そしてなにより、クリスマスの日、多くの人々の注目を浴びるのが、毎年恒例のハッピーツリーだ。
 ハッピーツリーとは、黄色のパンジーの花で作られたクリスマスツリーだ。
 聞いた話いわく、黄色のパンジーには、幸せという花言葉の意味があるらしい。
 人々の幸福を願い、ハッピーツリーは誕生したのだとか。
 さらには、こんなうわさまである。
 大切な人と一緒にハッピーツリーを見ると、その人と一生、幸せでいられるという。
 俺も昔は、クリスマスになると、毎年、見てたっけ。
 今じゃあもう、くだらない空想話にしか、思えなくなってしまったけれど。
 
「ただいま」
「おかえり、聖也」
 リビングに入ると、キッチン越しにばあさんから返事が返ってくる。
「お疲れ、聖也。今日はだいぶ冷えこんだんじゃあないか?」
 続けざま、食卓のイスで新聞を読んでいたじいさんも顔を上げる。
「まぁね」
 俺は軽くうながし、じいさんの向かいに座った。
 この家は俺と、じいさんばあさんの三人暮らしだ。

「ねぇ、聖也」
 夕飯を食べていると、俺の進路希望調査書を見ながら、ばあさんが聞いてきた。
「本当に就職するんでいいんかい?」
「いいよ」
 あっけらからんとした俺の返答に、ばあさんは物言いたげに首をもたげる。
「お金のことは気にせんでいいんだぞ」
 続けて、じいさんが言う。
「別に。さっさと働きたいだけだから」
 実際、バイトを始めたのも、少しでも早く、将来のための金を稼ぎたかったからだし。
 黙々と箸を動かす俺を、じいさんとばあさんはどこか腑に落ちない様子で見ていた。
  
 次の日、珍しくバイトが休みだった俺は、放課後、まっすぐ家に向かって帰っていた。
 ピーポーピーポー。
 ウーウー。
「ん?」
 突如、耳に流れこんできたうなるようなサイレンの音に、俺は思わず、振り返る。
 と、すぐ近くの交差点で、車同士が衝突事故を起こしていた。
 車体の前方が、ぐちゃぐちゃにひしゃげている。
 そこら中に破片が飛び散り、ボンネットからは煙が上がっていた。
 思わず、目を覆ってしまうような光景だった。
「うっ……」
 気持ち悪い……。ひどい吐き気がする。
 どうにか心を落ち着かせるため、俺は一度、深呼吸しようと試みる。
 ――駄目だ、足が震える……。
 早く! 早く! ここから離れないとっ!!
 とうとうこらえきれなくなった俺は、即座にこの場を駆け出した。

 誰もいない公園。その角にあるベンチに腰を下ろし、俺はぽつんと一人、うなだれていた。
 いまだに頭に残っているさっき見た光景に、過去の記憶がちらつく。
 情けないな、俺……。どんなに嘆いたところで、もうなにも変わらないってのに。
 あの日のことを思い出そうとすると、今でも、脳が拒絶反応を起こす。
 あの日、あの出来事が、俺のすべてを変えてしまった。

 無念な思いと、自分への不甲斐なさに打ちひしがれていたその時だった。
 突然、優しくて温かいなにかが、俺の両手を包みこんだ。
 見ると、誰かが俺の手をぎゅっと握っていた。
 驚いて視線を移す。と、その先には、あろうことか瑚白がいた。
「あっ」
 二人の声が、ほぼ同時に重なる。
「ご、ごめんねっ!」
 目が合ったとたん、彼女はすっと手をのけた。
 なぜだろう。妙に胸がざわつく。
「なにすんだよ」
 毒突く俺に、瑚白は気まずそうに目をそらす。
 見ると彼女は、前開きにした茶色のダッフルコートに、白のマフラーという格好だった。
 不本意ながら、似合っていると思ってしまった自分がいる。

 沈黙の間を、むせび泣くような風が通り過ぎていく。
 俺の手には、まだかすかに彼女の温もりが残っていた。
 と、その時。
「あっ! こはくおねえちゃんだ!」
 突然、聞こえてきたはつらつとした声に、俺は反射的に振り向く。
 小学校低学年くらいの女の子が、手を振りながら、こっちに向かって走ってきていた。
「ゆあちゃん!」
「こはくおねえちゃーん!」
 ゆあちゃんと呼ばれたその女の子は、やってくるなり一目散に瑚白に飛びついた。
「はははは! ゆあちゃんはいつも元気いっぱいだね!」
「うん!」
 どうやら、瑚白はずいぶんとこの子になつかれているらしい。
 不意に興味ありげな幼い瞳が、俺をとらえる。
「この人、だーれ? こはくおねえちゃんのカレシ?」
 かれっ――待て、この子、今、なんて言った?
「あははは、違うよー」
「じゃあ、お友だち?」
「うーん。ちょっと違うけど、今はそういうことにしておこうかな」
 瑚白の出した答えに、ゆあちゃんは可愛らしげに首を傾げている。
 けれど、すぐに別のことに気が移ったらしい。
「あ、そうだ! へびジャンケンしようよ!」
「いいねー、やろうやろう!」
「おにいちゃんも、一緒にやろう!」
「えっ? お、俺も?」
「だめ?」
 いたいけな瞳を向けられ、俺は思わずしりごみしてしまう。
「ゆあちゃんもこう言ってることだし、ちょっとだけでもどう? 星崎くん」
 しょうがないな。
「わかった、いいよ」
「やったー!」

 数十分後。
「なっ! また、負けた!」
「さすが、ゆあちゃん! ジャンケン強いねー」
「エッヘン!」
「いや、もう一回! もう一回、勝負だ、ゆあちゃん!」
 俺はたかがへびジャンケンごときに、この上なく白熱していたのだった。

「楽しかったー! 二人とも、ありがとう!」
「私も楽しかったよ。またね、ゆあちゃん」
「うん! せいやおにいちゃんも、またこんど一緒に遊ぼ!」
「ああ、まぁ、そうだな」
「じゃあねー!」
 飛ぶように去っていく小さな後ろ姿を、俺達は見届けた。
「今日は付き合ってくれてありがとう、星崎くん」
「いいよ」
 その後、なんとなくの成り行きで、俺達は二人並んで帰路につく。瑚白の家も、こっち方面なのか。
「瑚白はさ、子ども好きなの?」
 なんとはなしに、俺は質問してみた。
「うん、好きだよ。昔はそんなでもなかったんだけど」
「そっか」
 なんか久々だな、こういうの。
「星崎くんも、すごいむきになってたよね。でも、楽しそうでよかった」
 そこでふと、俺は足を止めた。
「なつかしい気持ちになったんだ」
「なつかしい、気持ち?」
「うん――実は俺、昔、歳の離れた妹がいてさ。よく遊んでたんだ、今日みたいに」
 ずっとずっと、誰にも言わないようにしてきたはずだった。
 それなのに、なぜだろう。瑚白になら、話してもいいと思った。
「でも、俺が小五の時に亡くなった。母さんも、父さんもみんな」
 突拍子もない俺の発言に、瑚白ははっと息を飲む。
「事故だったんだ。酔っ払った運転手の車に、突然、突っ込まれて……幸か不幸か、俺だけが生き残った」
 あの事故以来、俺はなにもかもすべてがどうでもよくなった。
 そして気付けば、今のような性格になってしまっていたんだ。
 俺にとって、大好きな家族を失った傷はあまりにも大きすぎたから。
「それは辛かったね」
 一通り話し終えると、今度は瑚白が語りかけてくる。これっぽっちも、悲しみなんて知らなさそうな瞳が、今は少し潤んでいるように見えた。
「話してくれてありがとう。私なんかに、同情されてもって感じかもしれないけど」
「いや、俺の方こそ、急にこんな暗い話してごめん」
「ううん、大丈夫」
 それから再び歩き出した俺に、瑚白はそっと優しくこう言った。
「でも、私ね、星崎くんが生きててよかったって思うよ」
「そっか」
 なんだか少し、瑚白と話したおかげで、心が軽くなったような気がする。

 その夜。
 俺は今、自分の部屋の机で、進路希望調査と向き合っている。締め切り日が先なのと、ばあさんとじいさんに色々言われて、まだ提出していなかったのだ。
 進学希望の文字に新たに丸をつけ直し、調べた大学名を記入する。
 そして、学科の欄には教育学科と書いた。
 これでよし。
 
 翌朝。
 学校に行くと、なんだか教室の中が騒がしかった。
 なんだ、あちこちから妙な視線を感じる……。
 やがて、一人の勝気そうな女子が、俺のところにやってきた。
 高山(たかやま)だ。いつも、瑚白と一緒にいるところをよく見かける。
「ねぇ、星崎くんと瑚白って、付き合ってるの?」
「は?」
 予想だにしなかった質問に、俺は固まった。
 と、その時。
「みんなおはようー!」
 前のドアが開く。瑚白が、ちょうど教室に入ってきたところだった。
「あっ! ナイスタイミング!」
「えっ、なになに?」
「瑚白と星崎くんってさ、付き合ってんの?」
「はははは、違うよー」
 高山の放った突拍子のない問いにも、瑚白はひょうひょうとしていた。
「でもでも、昨日、星崎くんと瑚白が一緒に帰ってるところ見たって子が」
「あー、昨日ね。たまたま会ったから、ちょっと話してただけだよ」
「ほんとにー? 瑚白、なんか隠してない?」
「本当だよ」
 それでもなお、高山は食い下がった。
「とぼける必要なんてないじゃん。この際だから、言っちゃいなよ」
「だ、だからっ」
 瑚白の声に焦りの色が混じる。
「まーたく、なんか今日の瑚白は素直じゃないなー」
 高山が瑚白の肩に手を置こうとした、その次の瞬間。
「付き合ってないって、さっきから言ってるでしょっ!!」
 瑚白の大声が、教室中に響き渡った。
 普段、声を荒らげることなんてない瑚白の怒号に、教室はしんと静まり返る。
 やけに重苦しい数秒が過ぎ去って、彼女はようやくはっと我に返った。
「ちょっと、ごめんっ!」
 瑚白は言うと、踵を返して教室を飛び出していった。
 ほんの刹那、まるで恐怖に歪んだような彼女の瞳が、俺のことを見ていたような気がした。

 その後のことを話すと、朝のホームルームが始まる五分前には、瑚白も教室に戻ってきた。
 事の発端を作ってしまった高山は、さすがに自分の非を自覚したのだろう。
 瑚白が戻ってくるなり、すぐさま謝罪していた。
 対する瑚白は、すんなりと許したどころか、こっちこそごめんねと、逆に謝り返していたほどだ。
 なにはともあれ、これにて事態は収束した、ように思われたのだが――
 
 あろうことか、その日以来、瑚白は俺にだけ話しかけてこなくなった。
 ましてや、俺から声をかけようものなら、気まずそうに目をそらされてしまう。
 明らかに避けられているのだ。

「おはよう、瑚白」
「……」 
 やっぱり今日も、反応してくれないか。
 俺は一人、以前にもまして、ため息ばかりつくようになった。

「ただいま」
 バイトが終わって、家に帰ると、ばあさんがやってきた。
「聖也」
「どうしたの? ばあさん」
「これ、さっき月宮さんって子が来てね。あなたに返してほしいって」
 瑚白が、俺に?
 見ると、ばあさんの手には白のマフラーがあった。普段、瑚白が使っているはずの物だ。
 なのに、どうして。
 俺が、瑚白にマフラーを貸した? 
「そっか」
 不思議に思いつつ、俺はそれを受け取り、ひとまず自分の部屋まで持っていった。

 翌日。閉店時間間際の喫茶店で、俺は片付けをしていた。
「聖也くん」
「あ、はい」
 月宮先輩に話しかけられる。
「最近、なにか悩んでることでもあったりする?」
「えっ」
 先輩の鋭い指摘に、俺は思わず、たじろいでしまう。
「なんかずっと考え事してるみたいだったから、昨日も今日も」
「そう、でしたか」
 どうやら、先輩には筒抜けだったらしい。
 少し相談してみるか。瑚白のお姉さんでもあるわけだし。
「実は――」
 俺はこの前、クラスでちょっとした騒動があったこと、そして、それ以来、瑚白が俺だけを無視してくるようになったことを話した。

「そっか。そんなことがあったんだね」
「はい。なにか思い当たる節があったら、教えていただけませんか? 月宮先輩」
「うーん」
 先輩は腕組みしながら、思案に暮れている。
「もしかしたら、瑚白は怖いのかもしれない。自分のことを知られるのが」
「どういう意味ですか?」
 尋ねると、先輩はどこか物憂げな顔をした。
「あのね、聖也くん。実は私と瑚白は、本当の姉妹じゃないの」
「えっ?」
「ただのいとこなんだ」
 思わぬ話の展開に、俺はあぜんとした。
「瑚白がうんと小さい時に、あの子のお母さんは病気で亡くなってしまったの。それからお父さんも、五年前に事故を起こして……」
 その先に続く言葉は、容易に想像できた。
「だから、どこにも身寄りがなくなった瑚白を、うちで引き取ったの。親戚とか、学校の先生とか以外には、ずっと秘密にしてきたんだけどね」
 窓の向こうをじっと見つめた先輩の瞳が、深い悲しみをにじませている。
「性格も、昔は今みたいな明るい子じゃなかった。いつも怯えてるみたいで、すごく心配だったの」
 聞いていて、俺は胸に熱いなにかが詰まるようだった。
 知らなかった、そんなこと。いや、それこそずっと、彼女はあの笑顔の裏に隠し続けてきたのだ。想像を絶するほどの悲惨な人生を。

 プルルルー。
「あっ、ごめんね、お母さんからだ」
 その時、スマホの着信音が鳴って、先輩は電話に出る。
「えっ、まだ帰ってきてないの? あ、うん、わかった。一旦、切るね」
 先輩の表情は曇っていた。
「どうかしたんですか?」
「瑚白が、まだ帰ってないみたいで。電話も、繋がらないらしいの。いつもなら、この時間にはもう家に帰ってるはずなんだけど」
「そうなんですか」
 俺を避けるようになったことと、なにか関係あったりするんだろうか。
「ねぇ、聖也くん。一つ、お願いしてもいいかな?」
「なんですか?」
 すると、先輩は少し考えるそぶりをしてから、俺に向かって朗らかに笑った。
「瑚白のこと、探してきてほしいの。聖也くんに」
「俺に、ですか?」
「うん。どうしてかな。なんだか、君に任せたいって思ったの、瑚白のこと」」
 先輩のまっすぐな瞳が、俺を見つめている。実の姉妹じゃあないにしても、どこか瑚白の面影のようなものを感じた。
「わかりました」
 答えを出すのに、そう時間はかからなかった。
「ありがとう。後の片付けはこっちでやっておくね」
 
 それから俺は急いで着替えて、店を出た。
 クリスマスでにぎわう夜の街をひた走る。
 キリリと澄みきった冬の空気が冷たい。
 
 ごめん、瑚白。俺、バカだ。
 思えば、いつもひとりでいた俺に笑いかけてくれたのは君だけだった。 
 君だけが、いつも俺の味方でいてくれた。
 なのに、俺はそんな君の優しさにちっとも気付かなくて――
 
「瑚白っ!」
 瑚白は一人、誰もいない公園のブランコにぽつんと座っていた。
「聖――星崎くんっ!?」
 驚いて立ち上がった彼女のもとへ、俺はゆっくりと歩み寄る。
「星崎くんなんて、そんなよそよそしい呼び方は今さらやめてくれよ、瑚白」
「違う……今のはっ!」
「ごめんな、瑚白。俺、忘れてたんだ。今からちょうど六年前の今日、ここでお前と会ったこと」
 それは、たった一日だけの関係だった。
 でも、確かにあの日、まだ小四だった俺と瑚白は、二人でハッピーツリーを見たんだ。
 なのに。
 事故に遭って以来、俺はその日のことも、瑚白のことも、すべて記憶の奥底に封じこめてしまった。
 でも、昨日、あの白いマフラーを見て、ふと思い出したんだ。
 あれは六年前、俺が瑚白にあげた物だったから。
「なぁ、瑚白。お前、ひょっとして怒ってる? 俺が六年前のこと忘れてたから」
「別に……」
「じゃあ、どうして」
 すると、瑚白は突然、声を張り上げた。
「あなたが嫌いだから!!」
「えっ」
 その瞬間、まるで、頭を鈍器で殴られたみたいだった。ショックのあまり、喉元まで出かかっていたはずの言葉が消えていく。
「ずっとずっと! 出会った時から、あなたのことが嫌いだった!!」
 そんな……。
 勢いよくまくし立てた後、彼女は肩をいからせていた。
「待ってくれ、瑚白っ!」
 俺の横を素通りしかけていた彼女を、慌てて呼び止める。
 が、しかし。
「もう二度と、私にしゃべりかけないでっ!」
「っ……」
 瑚白から発せられたその一言は、俺の胸に深く刺さった。
 彼女の小さな背中が、見る見る内に遠ざかっていく。
 追いかけることすらできない自分が、ただただ虚しい。

 なにもできない無力感に、打ちのめされていたその時だった。
 道路の向こう側から、信号無視した車が猛スピードで走ってきたのだ。
「瑚白、危ないっ!」
「えっ……」
 こちらにまったく気付く気配のない車は、徐々に徐々に瑚白に迫ってきている。
 まずい、このままだとっ。
 気付けば、俺は公園を飛び出し、瑚白のもとへと一直線に駆け出していた。
 頼む! 間に合ってくれ!
 ――もうこれ以上、失いたくない!
「瑚白っ!!」
 俺は彼女を抱きかかえたまま、向こう側の歩道に倒れこむ。
 後少しで、二人とも轢かれていてもおかしくない、ギリギリのタイミングだった。
「大丈夫かっ!?」
「せい、や……」
 突然の出来事に、瑚白は漠然として俺を見つめている。
 と、不意に、彼女の小さな体が震えていることに気が付いた。
「そっか、怖かったよな」
 一瞬、ちゅうちょしたものの、俺はぎゅっと彼女を抱きしめる。
「ケガとかしてないか?」
「……あの、そのっ」
「ん?」
 しどろもどろする瑚白に、俺は耳を寄せる。
「ごめん、なさいっ……!」
 絞り出したような、弱々しい彼女の声だった。
「あ、謝らないでっ。俺が悪かったんだし」
 慌てふためく俺に、瑚白は力なく首を横に振る。
「違うの、そうじゃない……全部、嘘なの……」
「う、嘘?」。
「あのね……私、本当はっ」
 見ると、彼女の頬を一筋の涙が伝っていた。
「いいよ、ゆっくりで」
 むせび泣く瑚白の背中をさすりながら言うと、彼女はこくりと小さくうなずいた。
「ずっと好きだったの……! 聖也のことがっ」
「す、好きっ!?」
 まさかの展開に、つい声が上ずってしまう。
「本当は、出会った時からずっとずっと、あなたのことが好きだった!」
 とたん、妙な気恥ずかしさがこみあげてきて、目の前の彼女を直視できなくなる。
 そ、そうだったのか……。
 しかし。
「でも……」
 切なげに言いかけて、瑚白は目を伏せてしまう。
「私は聖也を好きになっちゃいけないから……」
「ど、どうして、そう思うんだ?」
「だって、だって! 聖也から家族を奪ったのは、私のっ——お父さんだからっ!」
「なっ……」
 とたん、頭がフリーズした。
 そんな、バカな……。
 信じられなかった。まさか、事故を起こした犯人が、瑚白の実の父親だったなんて。
 ただの偶然だと思っていた。先輩から話を聞いた時は。
「私、ずっと怖くて言えなくてっ……それであんな嘘ついて、聖也のこと傷付けてっ……!」
 だんだんと瑚白の声が小さくなっていく。しまいに彼女は俺の胸の中で泣いていた。
「瑚白は悪くないよ」
 そんな彼女に向かって、俺は微笑みかける。
「俺の家族が亡くなったのは、瑚白のせいじゃない」
 俺はそっと瑚白の頬に触れ、その涙を拭う。
「それにもういいんだ、そのことは」
「……よくないよ、なんにもよくないっ」
 嗚咽混じりにそうこぼす彼女に、俺は静かに首を横に振った。
 確かに、瑚白の言うとおり、思うことが全くないわけじゃない。
 だけど。
「俺は瑚白のおかげで、また前を向けたから。だから瑚白は、もうそのことに囚われなくていい。自分に正直に生きていいんだ」
 瑚白がいたから、俺は立ち止まっていた過去から抜け出せた。
 そして、素直になれた今、俺は優しい嘘つきの君へ感謝したい。
「ありがとう、瑚白」
 俺は言うと、もう二度と離すまいと、よりいっそう強く彼女を抱きしめた。
 
***
 お母さんと過ごした記憶はない。
 私が物心つく前に、病気でこの世を去ってしまったから。
 お父さんのことはただ怖かった。
 なにもしてなくても、酔っ払った勢いのままいつも怒鳴ってきたから。

 家も学校も嫌いだった。
 もともと引っこみ思案の私は、いつもびくびくしてばっかりで、友達なんて一人もできなかった。あの日、君と出会うまでは。

 六年前。
 日が落ちて暗くなってきても、家に帰りたくなくて、私は公園にいた。
 一人、ブランコに揺られていると、公園の前を幼稚園生くらいの小さな男の子と、そのお母さんらしき人が通りかかった。
「ねぇ、おかあさん、おなかすいたぁ」
「じゃあ、そろそろ帰りましょうか。今日はクリスマスだから、おとうさんがケーキ帰ってきてくれるって」
「やったー!」
 仲良さそうに手を繋ぐ二人を見ていて、私はなんだか胸がきゅっと締め付けられたように痛くなった。
 そういえば、今日、クリスマスだ。
 どうせ、家に帰ったところで、それらしいことなんてしてもらえないだろうけど。
「クリスマスなんか、いっそのことなくなっちゃえばいいのに……」
 そんなことを思っていた時だった。
「メリークリスマス!!」
「え?」
 突然、降りかかってきた陽気な声に顔をあげる。
 と、そこには茶色っぽい柔和な瞳と、センター分けが特徴的な男の子が、両手を広げて立っていた。
「って、いきなり知らんやつに言われても、そりゃ困るよなー」
 と、なにがそんなにおかしいのか、彼は楽しそうに笑っている。
「オレ、聖也! 気軽に呼び捨てでいいからな!」
「あっ、うん——えっと、瑚白」
 おぼつかない口調ながらに返すことはできたものの、ついと私は目をそらしてしまう。
 すると、彼は神妙そうな面持ちで首を傾げたのち、なにかを思い立ったようにぽんと手を打った。
「はい、これ! 瑚白にプレゼント!」
「マ、マフラー?」
 彼が渡してきたものは、白のマフラーだった。
「そう! 学校の授業で作ったんだ!」
「い、いらないよっ」
「えー」
 一度は断ったものの、あからさまにしょんぼりする彼を見ていたら、その好意を無下にするのも、かえって悪い気がした。
「い、いいの? 本当に?」
「うん! むしろ、瑚白にもらってほしい!」
「そ、そんなに言うなら……ありがとう、聖也」
 肝心なありがとうの部分が、つい小声になってしまう。
 けれど、彼はすごく嬉しそうだった。
「そうだ、瑚白! この後、一緒に駅の方まで行って、ハッピーツリー見ない? 他にもたくさん、イルミネーション飾ってあるだろうし」
「いいよ」
 どうしてこんなにあっさりと彼の誘いに乗ったのか、当時は自分でもわからなかった。
 でも――
「よし! そうと決まったら、早く行こう!」
 君に手を引かれるのは嫌じゃなかった。
 君といるだけで、なんだか心が優しい温もりで満たされるような気がした。

 今、思えば、私は君に恋をしていた。いわゆる初恋。
 そして、君と出会ったその日から、私の世界は変わった。
 君の優しさに憧れた。君みたいになりたいと思った。
 その一心で頑張ったら、自然と笑顔が得意になった。
 気付いたら、友達もたくさんできて、誰かと話すことが楽しいと思えるようになった。
 全部、全部、君のおかげだった。私にとって君は、大切な存在だった。
 それなのに。
 私は君に、最低最悪な嘘をついてしまった。
***
 
「入学式の日に、聖也を見つけた時はすごく嬉しかったんだ。まさか、こんなところで再会できるなんて夢にも思ってなかったから」
 イルミネーションのカラフルな明かりが、まるで星のようにキラキラと輝いている。
 俺達は二人、肩を並べて、鮮やかに彩られた夜の街を歩いていた。
「でも、びっくりしたよ。だって聖也、六年前と全然、性格違うんだもん。私のことも、全く覚えてなかったし」
「そ、それはごめん」
 平謝りする俺に、瑚白はくすりと笑う。
 しかし、すぐにまた彼女は悲しげに目を細めた。
「本当はすぐにでも、六年前のこと話したかったけど、できなかった」
「俺の事故のこと、知ったからか?」
 うんと静かに、瑚白はうなずいた。
「たまたまね、聖也が昔、事故に遭ったって話を聞いちゃったんだ。となりのクラスの子がうわさしてて。五年前って聞いて、色々、調べたら知っちゃった。事故を起こしたのが、私のお父さんだったってことも」
「そっか……」
 数歩先を歩いていた瑚白の足が、ぴたりと止まる。
「せめて少しでも、あの時みたいに笑ってほしくて、私はあなたに近付いた。なのに、急に怖くなっちゃったの。本当のこと、全部、聖也にバレちゃうんじゃないかって」
 じっと宙を見つめたまま、一呼吸置いて、彼女は続けた。
「だから、そうなる前に、いっそのこと聖也に嫌われちゃえばいいって、そう思ったの」
 そして、瑚白は今にもかすれそうな声で言った。
「ごめんね、聖也……私、嘘ばっかりついてた……」
 苦しげに胸を抑える彼女の小さな手が、小刻みに震えている。
「君の嘘は全部、悪い嘘じゃないよ、瑚白」
 俺はそっと彼女に近付き、一度は返されてしまったマフラーを巻いてあげた。
 まだ少しばかり濡れている無垢な瞳が、俺をとらえる。
「それは俺を守るためについてくれた、優しい嘘だ」
「聖也っ」
 その瞬間、彼女の表情にぱっと笑みが咲いた。

 俺達はハッピーツリーの前にいた。俺の提案で、せっかくだからまた一緒に見ようと誘ったのだ。
「なぁ、瑚白。パンジーってさ、ヨーロッパだと、愛を伝える花っていわれてるんだ」
 俺が言うと、となりにいた彼女は突然、しとやかに笑った。
「えっ、なんで笑うんだよ?」
「いや、ちょっと意外だっただけ。聖也も、そういうロマンチックなこと知ってるんだなあって」
「あ、あのなぁ」
 ちょっぴり俺はふてくされる。
 と、その時だった。
「――聖也! 見て! 雪だよっ!」
「え、マジで?」
 空を見ると、まるで、白い花びらのような雪が、しとしとと穏やかに降っていた。
「ホワイトクリスマスだね、聖也!」
「ああ、そうだな」
 まるで、子どもみたいにはしゃぐ彼女に、俺の胸がトクンと一つ跳ねる。
 そうだ、俺も伝えなきゃいけない。ずっと前に芽生えたこの想いを。
 そして、ついに俺は心を決めた。
「好きだ、瑚白」
「へ?」
「俺と付き合ってくれないか?」
「え、え、ええっ!?」
 すると、瑚白はすっとん狂な声を上げ、思わずといった様子で、一歩、二歩と後ずさる。
 構わず俺は続けた。
「俺も、俺のことをこんなに想ってくれる瑚白のことが、気付いたら好きになってた。だからっ!!」
 史上かつてないほど、心臓が暴れてまくっている。
 ひんやりと冷たい雪の結晶が、火照った顔を冷やしてくれた。
「聖也……」
「俺は瑚白の、素直な返事がほしい」
 まだ思い悩んでいる様子の彼女に、俺はそっと微笑む。
「――いいよっ!!」
 その時だった。
 この上ないほどのとびっきりの笑顔で、瑚白は俺に抱きついてきた。
「瑚白っ!」 
 俺は自然な流れで、瑚白を受け止め、その背中に手を回す。
 そしてそのまま、彼女の額にそっとキスをした。
「ちょっ、聖也っ!?」
 見ると、彼女の雪みたいに色白な頬が、今は赤い。
「瑚白、照れてる?」
「バ、バカっ! いきなりされたら、誰だって驚くでしょ!」
「でも、先に抱きついてきたのはそっちじゃん」
 なにも言い返せなくなったのか、瑚白はむっとして、そっぽを向いてしまう。
 ごめんと謝っても、彼女はまだ不服そうだった。
 ちょっといじわるしすぎちゃったか。俺は少し反省した。
「なぁ、瑚白」
「なに?」
「メリークリスマス」
 言うと、瑚白は穏やかに笑って返した。
「メリークリスマス、聖也」
 どこからか、楽しげなクリスマスソング聴こえてくる。
 華やかな明かりに浮かび上がったハッピーツリーを見上げながら、俺は強く決心した。
 これからは俺が、瑚白を幸せにする。
 もう二度と、大切な君が、自分のついた嘘に苦しむことがないように。