この世は嘘であふれかえっている。
しかし、すべての嘘が悪ではない。
時に自分のため、または他者を守るために、人は優しい嘘をつくこともあるのだ。
そんな教科書の冒頭の一節が、突然、脳内に流れこんできた午後の授業。
俺こと星崎聖也(ほしざきせいや)十六歳は、急激な睡魔に襲われ、今にも瀕死寸前だった。
「じゃあ、ここの問題は星崎。って、おーい、聞こえてるかー?」
誰かが俺を呼んでいる。
この声は、うちの担任か。
そういや今、現代国語の授業中で、説明文の読解やってたんだっけ。
「あっ、すみません」
「またか、星崎」
あいかわらずな俺に、先生はため息をつき、呆れ返っている。
そして次の瞬間、教室中でどっと笑いが湧き上がった。
「ぼうっとしてないで、授業はしっかりと聞くこと。いいな?」
「はい」
注意をうながされた俺は、ひとまず空返事だけして、その後も、聞いているふりをして、授業をやり過ごした。
俺はクラスで浮いている。いわゆる仲間はずれってやつだ。
「星崎くん」
チャイムが鳴って、十分休み。
こんな無愛想で、薄情者の俺に対しても、めげず話しかけてくるお人好しが、そういえば一人だけいた。
「なんだよ」
「大丈夫? なんかさっきも、ぼんやりしてるみたいだったから」
彼女は月宮瑚白(つきみやこはく)。黒髪ショートカットに、人懐っこそうな瞳が印象的な美少女だ。
このクラスのムードメーカー的存在でもある。
誰に対しても常に分け隔てなく、気遣い上手。おまけに頭もいい。
そしてなにより、その持ち前の明るさから、瑚白はいつも人気者だった。
「別に平気。ていうか、これが俺の平常だから」
「そ、そっかぁ」
そっけない返事をして、俺は窓の方を向いてしまう。
なんだかんだ入学したての一学期から、俺達はこんなぎくしゃくとした関係性をずっと引きずっている。
「瑚白ー、さっき先生が呼んでたよ」
俺のような人間に、わざわざ関わろうとする彼女の気がしれない。
「わかったー。今、行く!」
瑚白みたいなタイプは、俺と違って、おのずと人が寄ってくるだろうに。
「じゃあまたね、星崎くん」
俺に向かって軽く手を振るなり、彼女は颯爽と去っていった。
つくづくうっとうしい奴だと思った。
放課後。
帰りのホームルームが終わり、俺はそそくさと教室を出る。
一緒に登下校をするような友達なんて、無論、今の俺にはいないから。
階段の踊り場を通り過ぎようとした時だった。
「ねぇねぇ! 今年もみんなで、ハッピーツリー見に行こうよ!」
「いいねー、大賛成!」
「やっぱ、クリスマスっていったらあれっしょ!」
見知らぬ女子生徒が三人組が、それはそれは仲睦まじそうに、会話に花を咲かせていた。
クリスマス、か。もうそんな時期になるんだな。
学校が終わった後、俺が行く場所はたいてい決まっていた。
「いらっしゃいませー」
後ろのドアベルが鳴り、俺はやってきたお客さんを席へと誘導する。
ただよう珈琲のほろ苦い香りが、鼻腔をくすぐった。
そう、ここは喫茶店だ。少し前に、俺はここでバイトを始めた。
駅近に位置したこの喫茶店は、ここらのお店の中ではそこそこの知名度がある。
それに従業員の人間関係も良好で、みんな親切な人ばかりだ。
なにしろ、店長さんに至っては、こんな若輩者の俺を快く雇ってくれた。
それもあって、普段は締まりのない俺も、おのずとここでは精を出して頑張れている。
この店の看板メニューである、ふわふわパンケーキを焼いている時のことだった。
「聖也くんってさ。まだ高校生なのに、バイトしてて偉いよね」
俺に話しかけてきたのは月見美帆(つきみやみほ)先輩だった。
ミルクティーブラウンの巻き髪ポニーテールに、優しそうな目元が印象的な女性だ。
現役大学生らしい。学校じゃ、男連中からモテること間違いなしの美貌だ。
そしてなにより、あの月宮瑚白の姉でもある。
それを知ったのは、バイト初日のこと。月宮なんて名字、そうそう聞かないからまさかと思って尋ねたら、そのまさかだったというオチ。その時は流石の俺も驚いた。
でもよく見れば、タイプは違うものの、整った容姿といい、誰からも好かれそうなオーラーが、なんとなく似ているような気がした。
「いえ、俺は全然、そんなことないですよ。部活とかも、特にやってないですし」
「そうかなー。でも、高校生っていえば、青春まっただ中だし、遊びたくなる時期だったりしない?」
へりくだる俺に、先輩は頬杖をつく。
「正直、俺はあんまり興味がないですね、そういうの」
「ふむ、なるほど」
俺の冷めた答えに、月宮先輩はしたり顔を浮かべた。
「クール系男子、ってやつだね」
いまいち言葉の意味を理解しかねた俺は、パンケーキが焼き上がるのをひたすらに待った。
今日も難なくバイトをこなし、店を出ると、外はもう真っ暗だった。
最近、日が落ちるの早くなってきたな。
帰り道の途中、俺は駅前広場を通りかかった。
毎年、この時期になると、ここら一帯は夜にきらびやかなイルミネーションの光で覆われる。
そしてなにより、クリスマスの日、多くの人々の注目を浴びるのが、毎年恒例のハッピーツリーだ。
ハッピーツリーとは、黄色のパンジーの花で作られたクリスマスツリーだ。
聞いた話いわく、黄色のパンジーには、幸せという花言葉の意味があるらしい。
人々の幸福を願い、ハッピーツリーは誕生したのだとか。
さらには、こんなうわさまである。
大切な人と一緒にハッピーツリーを見ると、その人と一生、幸せでいられるという。
俺も昔は、クリスマスになると、毎年、見てたっけ。
今じゃあもう、くだらない空想話にしか、思えなくなってしまったけれど。
「ただいま」
「おかえり、聖也」
リビングに入ると、キッチン越しにばあさんから返事が返ってくる。
「お疲れ、聖也。今日はだいぶ冷えこんだんじゃあないか?」
続けざま、食卓のイスで新聞を読んでいたじいさんも顔を上げる。
「まぁね」
俺は軽くうながし、じいさんの向かいに座った。
この家は俺と、じいさんばあさんの三人暮らしだ。
「ねぇ、聖也」
夕飯を食べていると、俺の進路希望調査書を見ながら、ばあさんが聞いてきた。
「本当に就職するんでいいんかい?」
「いいよ」
あっけらからんとした俺の返答に、ばあさんは物言いたげに首をもたげる。
「お金のことは気にせんでいいんだぞ」
続けて、じいさんが言う。
「別に。さっさと働きたいだけだから」
実際、バイトを始めたのも、少しでも早く、将来のための金を稼ぎたかったからだし。
黙々と箸を動かす俺を、じいさんとばあさんはどこか腑に落ちない様子で見ていた。
次の日、珍しくバイトが休みだった俺は、放課後、まっすぐ家に向かって帰っていた。
ピーポーピーポー。
ウーウー。
「ん?」
突如、耳に流れこんできたうなるようなサイレンの音に、俺は思わず、振り返る。
と、すぐ近くの交差点で、車同士が衝突事故を起こしていた。
車体の前方が、ぐちゃぐちゃにひしゃげている。
そこら中に破片が飛び散り、ボンネットからは煙が上がっていた。
思わず、目を覆ってしまうような光景だった。
「うっ……」
気持ち悪い……。ひどい吐き気がする。
どうにか心を落ち着かせるため、俺は一度、深呼吸しようと試みる。
――駄目だ、足が震える……。
早く! 早く! ここから離れないとっ!!
とうとうこらえきれなくなった俺は、即座にこの場を駆け出した。
誰もいない公園。その角にあるベンチに腰を下ろし、俺はぽつんと一人、うなだれていた。
いまだに頭に残っているさっき見た光景に、過去の記憶がちらつく。
情けないな、俺……。どんなに嘆いたところで、もうなにも変わらないってのに。
あの日のことを思い出そうとすると、今でも、脳が拒絶反応を起こす。
あの日、あの出来事が、俺のすべてを変えてしまった。
無念な思いと、自分への不甲斐なさに打ちひしがれていたその時だった。
突然、優しくて温かいなにかが、俺の両手を包みこんだ。
見ると、誰かが俺の手をぎゅっと握っていた。
驚いて視線を移す。と、その先には、あろうことか瑚白がいた。
「あっ」
二人の声が、ほぼ同時に重なる。
「ご、ごめんねっ!」
目が合ったとたん、彼女はすっと手をのけた。
なぜだろう。妙に胸がざわつく。
「なにすんだよ」
毒突く俺に、瑚白は気まずそうに目をそらす。
見ると彼女は、前開きにした茶色のダッフルコートに、白のマフラーという格好だった。
不本意ながら、似合っていると思ってしまった自分がいる。
沈黙の間を、むせび泣くような風が通り過ぎていく。
俺の手には、まだかすかに彼女の温もりが残っていた。
と、その時。
「あっ! こはくおねえちゃんだ!」
突然、聞こえてきたはつらつとした声に、俺は反射的に振り向く。
小学校低学年くらいの女の子が、手を振りながら、こっちに向かって走ってきていた。
「ゆあちゃん!」
「こはくおねえちゃーん!」
ゆあちゃんと呼ばれたその女の子は、やってくるなり一目散に瑚白に飛びついた。
「はははは! ゆあちゃんはいつも元気いっぱいだね!」
「うん!」
どうやら、瑚白はずいぶんとこの子になつかれているらしい。
不意に興味ありげな幼い瞳が、俺をとらえる。
「この人、だーれ? こはくおねえちゃんのカレシ?」
かれっ――待て、この子、今、なんて言った?
「あははは、違うよー」
「じゃあ、お友だち?」
「うーん。ちょっと違うけど、今はそういうことにしておこうかな」
瑚白の出した答えに、ゆあちゃんは可愛らしげに首を傾げている。
けれど、すぐに別のことに気が移ったらしい。
「あ、そうだ! へびジャンケンしようよ!」
「いいねー、やろうやろう!」
「おにいちゃんも、一緒にやろう!」
「えっ? お、俺も?」
「だめ?」
いたいけな瞳を向けられ、俺は思わずしりごみしてしまう。
「ゆあちゃんもこう言ってることだし、ちょっとだけでもどう? 星崎くん」
しょうがないな。
「わかった、いいよ」
「やったー!」
数十分後。
「なっ! また、負けた!」
「さすが、ゆあちゃん! ジャンケン強いねー」
「エッヘン!」
「いや、もう一回! もう一回、勝負だ、ゆあちゃん!」
俺はたかがへびジャンケンごときに、この上なく白熱していたのだった。
「楽しかったー! 二人とも、ありがとう!」
「私も楽しかったよ。またね、ゆあちゃん」
「うん! せいやおにいちゃんも、またこんど一緒に遊ぼ!」
「ああ、まぁ、そうだな」
「じゃあねー!」
飛ぶように去っていく小さな後ろ姿を、俺達は見届けた。
「今日は付き合ってくれてありがとう、星崎くん」
「いいよ」
その後、なんとなくの成り行きで、俺達は二人並んで帰路につく。瑚白の家も、こっち方面なのか。
「瑚白はさ、子ども好きなの?」
なんとはなしに、俺は質問してみた。
「うん、好きだよ。昔はそんなでもなかったんだけど」
「そっか」
なんか久々だな、こういうの。
「星崎くんも、すごいむきになってたよね。でも、楽しそうでよかった」
そこでふと、俺は足を止めた。
「なつかしい気持ちになったんだ」
「なつかしい、気持ち?」
「うん――実は俺、昔、歳の離れた妹がいてさ。よく遊んでたんだ、今日みたいに」
ずっとずっと、誰にも言わないようにしてきたはずだった。
それなのに、なぜだろう。瑚白になら、話してもいいと思った。
「でも、俺が小五の時に亡くなった。母さんも、父さんもみんな」
突拍子もない俺の発言に、瑚白ははっと息を飲む。
「事故だったんだ。酔っ払った運転手の車に、突然、突っ込まれて……幸か不幸か、俺だけが生き残った」
あの事故以来、俺はなにもかもすべてがどうでもよくなった。
そして気付けば、今のような性格になってしまっていたんだ。
俺にとって、大好きな家族を失った傷はあまりにも大きすぎたから。
「それは辛かったね」
一通り話し終えると、今度は瑚白が語りかけてくる。これっぽっちも、悲しみなんて知らなさそうな瞳が、今は少し潤んでいるように見えた。
「話してくれてありがとう。私なんかに、同情されてもって感じかもしれないけど」
「いや、俺の方こそ、急にこんな暗い話してごめん」
「ううん、大丈夫」
それから再び歩き出した俺に、瑚白はそっと優しくこう言った。
「でも、私ね、星崎くんが生きててよかったって思うよ」
「そっか」
なんだか少し、瑚白と話したおかげで、心が軽くなったような気がする。
その夜。
俺は今、自分の部屋の机で、進路希望調査と向き合っている。締め切り日が先なのと、ばあさんとじいさんに色々言われて、まだ提出していなかったのだ。
進学希望の文字に新たに丸をつけ直し、調べた大学名を記入する。
そして、学科の欄には教育学科と書いた。
これでよし。
翌朝。
学校に行くと、なんだか教室の中が騒がしかった。
なんだ、あちこちから妙な視線を感じる……。
やがて、一人の勝気そうな女子が、俺のところにやってきた。
高山(たかやま)だ。いつも、瑚白と一緒にいるところをよく見かける。
「ねぇ、星崎くんと瑚白って、付き合ってるの?」
「は?」
予想だにしなかった質問に、俺は固まった。
と、その時。
「みんなおはようー!」
前のドアが開く。瑚白が、ちょうど教室に入ってきたところだった。
「あっ! ナイスタイミング!」
「えっ、なになに?」
「瑚白と星崎くんってさ、付き合ってんの?」
「はははは、違うよー」
高山の放った突拍子のない問いにも、瑚白はひょうひょうとしていた。
「でもでも、昨日、星崎くんと瑚白が一緒に帰ってるところ見たって子が」
「あー、昨日ね。たまたま会ったから、ちょっと話してただけだよ」
「ほんとにー? 瑚白、なんか隠してない?」
「本当だよ」
それでもなお、高山は食い下がった。
「とぼける必要なんてないじゃん。この際だから、言っちゃいなよ」
「だ、だからっ」
瑚白の声に焦りの色が混じる。
「まーたく、なんか今日の瑚白は素直じゃないなー」
高山が瑚白の肩に手を置こうとした、その次の瞬間。
「付き合ってないって、さっきから言ってるでしょっ!!」
瑚白の大声が、教室中に響き渡った。
普段、声を荒らげることなんてない瑚白の怒号に、教室はしんと静まり返る。
やけに重苦しい数秒が過ぎ去って、彼女はようやくはっと我に返った。
「ちょっと、ごめんっ!」
瑚白は言うと、踵を返して教室を飛び出していった。
ほんの刹那、まるで恐怖に歪んだような彼女の瞳が、俺のことを見ていたような気がした。
その後のことを話すと、朝のホームルームが始まる五分前には、瑚白も教室に戻ってきた。
事の発端を作ってしまった高山は、さすがに自分の非を自覚したのだろう。
瑚白が戻ってくるなり、すぐさま謝罪していた。
対する瑚白は、すんなりと許したどころか、こっちこそごめんねと、逆に謝り返していたほどだ。
なにはともあれ、これにて事態は収束した、ように思われたのだが――
あろうことか、その日以来、瑚白は俺にだけ話しかけてこなくなった。
ましてや、俺から声をかけようものなら、気まずそうに目をそらされてしまう。
明らかに避けられているのだ。
「おはよう、瑚白」
「……」
やっぱり今日も、反応してくれないか。
俺は一人、以前にもまして、ため息ばかりつくようになった。
「ただいま」
バイトが終わって、家に帰ると、ばあさんがやってきた。
「聖也」
「どうしたの? ばあさん」
「これ、さっき月宮さんって子が来てね。あなたに返してほしいって」
瑚白が、俺に?
見ると、ばあさんの手には白のマフラーがあった。普段、瑚白が使っているはずの物だ。
なのに、どうして。
俺が、瑚白にマフラーを貸した?
「そっか」
不思議に思いつつ、俺はそれを受け取り、ひとまず自分の部屋まで持っていった。
翌日。閉店時間間際の喫茶店で、俺は片付けをしていた。
「聖也くん」
「あ、はい」
月宮先輩に話しかけられる。
「最近、なにか悩んでることでもあったりする?」
「えっ」
先輩の鋭い指摘に、俺は思わず、たじろいでしまう。
「なんかずっと考え事してるみたいだったから、昨日も今日も」
「そう、でしたか」
どうやら、先輩には筒抜けだったらしい。
少し相談してみるか。瑚白のお姉さんでもあるわけだし。
「実は――」
俺はこの前、クラスでちょっとした騒動があったこと、そして、それ以来、瑚白が俺だけを無視してくるようになったことを話した。
「そっか。そんなことがあったんだね」
「はい。なにか思い当たる節があったら、教えていただけませんか? 月宮先輩」
「うーん」
先輩は腕組みしながら、思案に暮れている。
「もしかしたら、瑚白は怖いのかもしれない。自分のことを知られるのが」
「どういう意味ですか?」
尋ねると、先輩はどこか物憂げな顔をした。
「あのね、聖也くん。実は私と瑚白は、本当の姉妹じゃないの」
「えっ?」
「ただのいとこなんだ」
思わぬ話の展開に、俺はあぜんとした。
「瑚白がうんと小さい時に、あの子のお母さんは病気で亡くなってしまったの。それからお父さんも、五年前に事故を起こして……」
その先に続く言葉は、容易に想像できた。
「だから、どこにも身寄りがなくなった瑚白を、うちで引き取ったの。親戚とか、学校の先生とか以外には、ずっと秘密にしてきたんだけどね」
窓の向こうをじっと見つめた先輩の瞳が、深い悲しみをにじませている。
「性格も、昔は今みたいな明るい子じゃなかった。いつも怯えてるみたいで、すごく心配だったの」
聞いていて、俺は胸に熱いなにかが詰まるようだった。
知らなかった、そんなこと。いや、それこそずっと、彼女はあの笑顔の裏に隠し続けてきたのだ。想像を絶するほどの悲惨な人生を。
プルルルー。
「あっ、ごめんね、お母さんからだ」
その時、スマホの着信音が鳴って、先輩は電話に出る。
「えっ、まだ帰ってきてないの? あ、うん、わかった。一旦、切るね」
先輩の表情は曇っていた。
「どうかしたんですか?」
「瑚白が、まだ帰ってないみたいで。電話も、繋がらないらしいの。いつもなら、この時間にはもう家に帰ってるはずなんだけど」
「そうなんですか」
俺を避けるようになったことと、なにか関係あったりするんだろうか。
「ねぇ、聖也くん。一つ、お願いしてもいいかな?」
「なんですか?」
すると、先輩は少し考えるそぶりをしてから、俺に向かって朗らかに笑った。
「瑚白のこと、探してきてほしいの。聖也くんに」
「俺に、ですか?」
「うん。どうしてかな。なんだか、君に任せたいって思ったの、瑚白のこと」」
先輩のまっすぐな瞳が、俺を見つめている。実の姉妹じゃあないにしても、どこか瑚白の面影のようなものを感じた。
「わかりました」
答えを出すのに、そう時間はかからなかった。
「ありがとう。後の片付けはこっちでやっておくね」
それから俺は急いで着替えて、店を出た。
クリスマスでにぎわう夜の街をひた走る。
キリリと澄みきった冬の空気が冷たい。
ごめん、瑚白。俺、バカだ。
思えば、いつもひとりでいた俺に笑いかけてくれたのは君だけだった。
君だけが、いつも俺の味方でいてくれた。
なのに、俺はそんな君の優しさにちっとも気付かなくて――
「瑚白っ!」
瑚白は一人、誰もいない公園のブランコにぽつんと座っていた。
「聖――星崎くんっ!?」
驚いて立ち上がった彼女のもとへ、俺はゆっくりと歩み寄る。
「星崎くんなんて、そんなよそよそしい呼び方は今さらやめてくれよ、瑚白」
「違う……今のはっ!」
「ごめんな、瑚白。俺、忘れてたんだ。今からちょうど六年前の今日、ここでお前と会ったこと」
それは、たった一日だけの関係だった。
でも、確かにあの日、まだ小四だった俺と瑚白は、二人でハッピーツリーを見たんだ。
なのに。
事故に遭って以来、俺はその日のことも、瑚白のことも、すべて記憶の奥底に封じこめてしまった。
でも、昨日、あの白いマフラーを見て、ふと思い出したんだ。
あれは六年前、俺が瑚白にあげた物だったから。
「なぁ、瑚白。お前、ひょっとして怒ってる? 俺が六年前のこと忘れてたから」
「別に……」
「じゃあ、どうして」
すると、瑚白は突然、声を張り上げた。
「あなたが嫌いだから!!」
「えっ」
その瞬間、まるで、頭を鈍器で殴られたみたいだった。ショックのあまり、喉元まで出かかっていたはずの言葉が消えていく。
「ずっとずっと! 出会った時から、あなたのことが嫌いだった!!」
そんな……。
勢いよくまくし立てた後、彼女は肩をいからせていた。
「待ってくれ、瑚白っ!」
俺の横を素通りしかけていた彼女を、慌てて呼び止める。
が、しかし。
「もう二度と、私にしゃべりかけないでっ!」
「っ……」
瑚白から発せられたその一言は、俺の胸に深く刺さった。
彼女の小さな背中が、見る見る内に遠ざかっていく。
追いかけることすらできない自分が、ただただ虚しい。
なにもできない無力感に、打ちのめされていたその時だった。
道路の向こう側から、信号無視した車が猛スピードで走ってきたのだ。
「瑚白、危ないっ!」
「えっ……」
こちらにまったく気付く気配のない車は、徐々に徐々に瑚白に迫ってきている。
まずい、このままだとっ。
気付けば、俺は公園を飛び出し、瑚白のもとへと一直線に駆け出していた。
頼む! 間に合ってくれ!
――もうこれ以上、失いたくない!
「瑚白っ!!」
俺は彼女を抱きかかえたまま、向こう側の歩道に倒れこむ。
後少しで、二人とも轢かれていてもおかしくない、ギリギリのタイミングだった。
「大丈夫かっ!?」
「せい、や……」
突然の出来事に、瑚白は漠然として俺を見つめている。
と、不意に、彼女の小さな体が震えていることに気が付いた。
「そっか、怖かったよな」
一瞬、ちゅうちょしたものの、俺はぎゅっと彼女を抱きしめる。
「ケガとかしてないか?」
「……あの、そのっ」
「ん?」
しどろもどろする瑚白に、俺は耳を寄せる。
「ごめん、なさいっ……!」
絞り出したような、弱々しい彼女の声だった。
「あ、謝らないでっ。俺が悪かったんだし」
慌てふためく俺に、瑚白は力なく首を横に振る。
「違うの、そうじゃない……全部、嘘なの……」
「う、嘘?」。
「あのね……私、本当はっ」
見ると、彼女の頬を一筋の涙が伝っていた。
「いいよ、ゆっくりで」
むせび泣く瑚白の背中をさすりながら言うと、彼女はこくりと小さくうなずいた。
「ずっと好きだったの……! 聖也のことがっ」
「す、好きっ!?」
まさかの展開に、つい声が上ずってしまう。
「本当は、出会った時からずっとずっと、あなたのことが好きだった!」
とたん、妙な気恥ずかしさがこみあげてきて、目の前の彼女を直視できなくなる。
そ、そうだったのか……。
しかし。
「でも……」
切なげに言いかけて、瑚白は目を伏せてしまう。
「私は聖也を好きになっちゃいけないから……」
「ど、どうして、そう思うんだ?」
「だって、だって! 聖也から家族を奪ったのは、私のっ——お父さんだからっ!」
「なっ……」
とたん、頭がフリーズした。
そんな、バカな……。
信じられなかった。まさか、事故を起こした犯人が、瑚白の実の父親だったなんて。
ただの偶然だと思っていた。先輩から話を聞いた時は。
「私、ずっと怖くて言えなくてっ……それであんな嘘ついて、聖也のこと傷付けてっ……!」
だんだんと瑚白の声が小さくなっていく。しまいに彼女は俺の胸の中で泣いていた。
「瑚白は悪くないよ」
そんな彼女に向かって、俺は微笑みかける。
「俺の家族が亡くなったのは、瑚白のせいじゃない」
俺はそっと瑚白の頬に触れ、その涙を拭う。
「それにもういいんだ、そのことは」
「……よくないよ、なんにもよくないっ」
嗚咽混じりにそうこぼす彼女に、俺は静かに首を横に振った。
確かに、瑚白の言うとおり、思うことが全くないわけじゃない。
だけど。
「俺は瑚白のおかげで、また前を向けたから。だから瑚白は、もうそのことに囚われなくていい。自分に正直に生きていいんだ」
瑚白がいたから、俺は立ち止まっていた過去から抜け出せた。
そして、素直になれた今、俺は優しい嘘つきの君へ感謝したい。
「ありがとう、瑚白」
俺は言うと、もう二度と離すまいと、よりいっそう強く彼女を抱きしめた。
***
お母さんと過ごした記憶はない。
私が物心つく前に、病気でこの世を去ってしまったから。
お父さんのことはただ怖かった。
なにもしてなくても、酔っ払った勢いのままいつも怒鳴ってきたから。
家も学校も嫌いだった。
もともと引っこみ思案の私は、いつもびくびくしてばっかりで、友達なんて一人もできなかった。あの日、君と出会うまでは。
六年前。
日が落ちて暗くなってきても、家に帰りたくなくて、私は公園にいた。
一人、ブランコに揺られていると、公園の前を幼稚園生くらいの小さな男の子と、そのお母さんらしき人が通りかかった。
「ねぇ、おかあさん、おなかすいたぁ」
「じゃあ、そろそろ帰りましょうか。今日はクリスマスだから、おとうさんがケーキ帰ってきてくれるって」
「やったー!」
仲良さそうに手を繋ぐ二人を見ていて、私はなんだか胸がきゅっと締め付けられたように痛くなった。
そういえば、今日、クリスマスだ。
どうせ、家に帰ったところで、それらしいことなんてしてもらえないだろうけど。
「クリスマスなんか、いっそのことなくなっちゃえばいいのに……」
そんなことを思っていた時だった。
「メリークリスマス!!」
「え?」
突然、降りかかってきた陽気な声に顔をあげる。
と、そこには茶色っぽい柔和な瞳と、センター分けが特徴的な男の子が、両手を広げて立っていた。
「って、いきなり知らんやつに言われても、そりゃ困るよなー」
と、なにがそんなにおかしいのか、彼は楽しそうに笑っている。
「オレ、聖也! 気軽に呼び捨てでいいからな!」
「あっ、うん——えっと、瑚白」
おぼつかない口調ながらに返すことはできたものの、ついと私は目をそらしてしまう。
すると、彼は神妙そうな面持ちで首を傾げたのち、なにかを思い立ったようにぽんと手を打った。
「はい、これ! 瑚白にプレゼント!」
「マ、マフラー?」
彼が渡してきたものは、白のマフラーだった。
「そう! 学校の授業で作ったんだ!」
「い、いらないよっ」
「えー」
一度は断ったものの、あからさまにしょんぼりする彼を見ていたら、その好意を無下にするのも、かえって悪い気がした。
「い、いいの? 本当に?」
「うん! むしろ、瑚白にもらってほしい!」
「そ、そんなに言うなら……ありがとう、聖也」
肝心なありがとうの部分が、つい小声になってしまう。
けれど、彼はすごく嬉しそうだった。
「そうだ、瑚白! この後、一緒に駅の方まで行って、ハッピーツリー見ない? 他にもたくさん、イルミネーション飾ってあるだろうし」
「いいよ」
どうしてこんなにあっさりと彼の誘いに乗ったのか、当時は自分でもわからなかった。
でも――
「よし! そうと決まったら、早く行こう!」
君に手を引かれるのは嫌じゃなかった。
君といるだけで、なんだか心が優しい温もりで満たされるような気がした。
今、思えば、私は君に恋をしていた。いわゆる初恋。
そして、君と出会ったその日から、私の世界は変わった。
君の優しさに憧れた。君みたいになりたいと思った。
その一心で頑張ったら、自然と笑顔が得意になった。
気付いたら、友達もたくさんできて、誰かと話すことが楽しいと思えるようになった。
全部、全部、君のおかげだった。私にとって君は、大切な存在だった。
それなのに。
私は君に、最低最悪な嘘をついてしまった。
***
「入学式の日に、聖也を見つけた時はすごく嬉しかったんだ。まさか、こんなところで再会できるなんて夢にも思ってなかったから」
イルミネーションのカラフルな明かりが、まるで星のようにキラキラと輝いている。
俺達は二人、肩を並べて、鮮やかに彩られた夜の街を歩いていた。
「でも、びっくりしたよ。だって聖也、六年前と全然、性格違うんだもん。私のことも、全く覚えてなかったし」
「そ、それはごめん」
平謝りする俺に、瑚白はくすりと笑う。
しかし、すぐにまた彼女は悲しげに目を細めた。
「本当はすぐにでも、六年前のこと話したかったけど、できなかった」
「俺の事故のこと、知ったからか?」
うんと静かに、瑚白はうなずいた。
「たまたまね、聖也が昔、事故に遭ったって話を聞いちゃったんだ。となりのクラスの子がうわさしてて。五年前って聞いて、色々、調べたら知っちゃった。事故を起こしたのが、私のお父さんだったってことも」
「そっか……」
数歩先を歩いていた瑚白の足が、ぴたりと止まる。
「せめて少しでも、あの時みたいに笑ってほしくて、私はあなたに近付いた。なのに、急に怖くなっちゃったの。本当のこと、全部、聖也にバレちゃうんじゃないかって」
じっと宙を見つめたまま、一呼吸置いて、彼女は続けた。
「だから、そうなる前に、いっそのこと聖也に嫌われちゃえばいいって、そう思ったの」
そして、瑚白は今にもかすれそうな声で言った。
「ごめんね、聖也……私、嘘ばっかりついてた……」
苦しげに胸を抑える彼女の小さな手が、小刻みに震えている。
「君の嘘は全部、悪い嘘じゃないよ、瑚白」
俺はそっと彼女に近付き、一度は返されてしまったマフラーを巻いてあげた。
まだ少しばかり濡れている無垢な瞳が、俺をとらえる。
「それは俺を守るためについてくれた、優しい嘘だ」
「聖也っ」
その瞬間、彼女の表情にぱっと笑みが咲いた。
俺達はハッピーツリーの前にいた。俺の提案で、せっかくだからまた一緒に見ようと誘ったのだ。
「なぁ、瑚白。パンジーってさ、ヨーロッパだと、愛を伝える花っていわれてるんだ」
俺が言うと、となりにいた彼女は突然、しとやかに笑った。
「えっ、なんで笑うんだよ?」
「いや、ちょっと意外だっただけ。聖也も、そういうロマンチックなこと知ってるんだなあって」
「あ、あのなぁ」
ちょっぴり俺はふてくされる。
と、その時だった。
「――聖也! 見て! 雪だよっ!」
「え、マジで?」
空を見ると、まるで、白い花びらのような雪が、しとしとと穏やかに降っていた。
「ホワイトクリスマスだね、聖也!」
「ああ、そうだな」
まるで、子どもみたいにはしゃぐ彼女に、俺の胸がトクンと一つ跳ねる。
そうだ、俺も伝えなきゃいけない。ずっと前に芽生えたこの想いを。
そして、ついに俺は心を決めた。
「好きだ、瑚白」
「へ?」
「俺と付き合ってくれないか?」
「え、え、ええっ!?」
すると、瑚白はすっとん狂な声を上げ、思わずといった様子で、一歩、二歩と後ずさる。
構わず俺は続けた。
「俺も、俺のことをこんなに想ってくれる瑚白のことが、気付いたら好きになってた。だからっ!!」
史上かつてないほど、心臓が暴れてまくっている。
ひんやりと冷たい雪の結晶が、火照った顔を冷やしてくれた。
「聖也……」
「俺は瑚白の、素直な返事がほしい」
まだ思い悩んでいる様子の彼女に、俺はそっと微笑む。
「――いいよっ!!」
その時だった。
この上ないほどのとびっきりの笑顔で、瑚白は俺に抱きついてきた。
「瑚白っ!」
俺は自然な流れで、瑚白を受け止め、その背中に手を回す。
そしてそのまま、彼女の額にそっとキスをした。
「ちょっ、聖也っ!?」
見ると、彼女の雪みたいに色白な頬が、今は赤い。
「瑚白、照れてる?」
「バ、バカっ! いきなりされたら、誰だって驚くでしょ!」
「でも、先に抱きついてきたのはそっちじゃん」
なにも言い返せなくなったのか、瑚白はむっとして、そっぽを向いてしまう。
ごめんと謝っても、彼女はまだ不服そうだった。
ちょっといじわるしすぎちゃったか。俺は少し反省した。
「なぁ、瑚白」
「なに?」
「メリークリスマス」
言うと、瑚白は穏やかに笑って返した。
「メリークリスマス、聖也」
どこからか、楽しげなクリスマスソング聴こえてくる。
華やかな明かりに浮かび上がったハッピーツリーを見上げながら、俺は強く決心した。
これからは俺が、瑚白を幸せにする。
もう二度と、大切な君が、自分のついた嘘に苦しむことがないように。
しかし、すべての嘘が悪ではない。
時に自分のため、または他者を守るために、人は優しい嘘をつくこともあるのだ。
そんな教科書の冒頭の一節が、突然、脳内に流れこんできた午後の授業。
俺こと星崎聖也(ほしざきせいや)十六歳は、急激な睡魔に襲われ、今にも瀕死寸前だった。
「じゃあ、ここの問題は星崎。って、おーい、聞こえてるかー?」
誰かが俺を呼んでいる。
この声は、うちの担任か。
そういや今、現代国語の授業中で、説明文の読解やってたんだっけ。
「あっ、すみません」
「またか、星崎」
あいかわらずな俺に、先生はため息をつき、呆れ返っている。
そして次の瞬間、教室中でどっと笑いが湧き上がった。
「ぼうっとしてないで、授業はしっかりと聞くこと。いいな?」
「はい」
注意をうながされた俺は、ひとまず空返事だけして、その後も、聞いているふりをして、授業をやり過ごした。
俺はクラスで浮いている。いわゆる仲間はずれってやつだ。
「星崎くん」
チャイムが鳴って、十分休み。
こんな無愛想で、薄情者の俺に対しても、めげず話しかけてくるお人好しが、そういえば一人だけいた。
「なんだよ」
「大丈夫? なんかさっきも、ぼんやりしてるみたいだったから」
彼女は月宮瑚白(つきみやこはく)。黒髪ショートカットに、人懐っこそうな瞳が印象的な美少女だ。
このクラスのムードメーカー的存在でもある。
誰に対しても常に分け隔てなく、気遣い上手。おまけに頭もいい。
そしてなにより、その持ち前の明るさから、瑚白はいつも人気者だった。
「別に平気。ていうか、これが俺の平常だから」
「そ、そっかぁ」
そっけない返事をして、俺は窓の方を向いてしまう。
なんだかんだ入学したての一学期から、俺達はこんなぎくしゃくとした関係性をずっと引きずっている。
「瑚白ー、さっき先生が呼んでたよ」
俺のような人間に、わざわざ関わろうとする彼女の気がしれない。
「わかったー。今、行く!」
瑚白みたいなタイプは、俺と違って、おのずと人が寄ってくるだろうに。
「じゃあまたね、星崎くん」
俺に向かって軽く手を振るなり、彼女は颯爽と去っていった。
つくづくうっとうしい奴だと思った。
放課後。
帰りのホームルームが終わり、俺はそそくさと教室を出る。
一緒に登下校をするような友達なんて、無論、今の俺にはいないから。
階段の踊り場を通り過ぎようとした時だった。
「ねぇねぇ! 今年もみんなで、ハッピーツリー見に行こうよ!」
「いいねー、大賛成!」
「やっぱ、クリスマスっていったらあれっしょ!」
見知らぬ女子生徒が三人組が、それはそれは仲睦まじそうに、会話に花を咲かせていた。
クリスマス、か。もうそんな時期になるんだな。
学校が終わった後、俺が行く場所はたいてい決まっていた。
「いらっしゃいませー」
後ろのドアベルが鳴り、俺はやってきたお客さんを席へと誘導する。
ただよう珈琲のほろ苦い香りが、鼻腔をくすぐった。
そう、ここは喫茶店だ。少し前に、俺はここでバイトを始めた。
駅近に位置したこの喫茶店は、ここらのお店の中ではそこそこの知名度がある。
それに従業員の人間関係も良好で、みんな親切な人ばかりだ。
なにしろ、店長さんに至っては、こんな若輩者の俺を快く雇ってくれた。
それもあって、普段は締まりのない俺も、おのずとここでは精を出して頑張れている。
この店の看板メニューである、ふわふわパンケーキを焼いている時のことだった。
「聖也くんってさ。まだ高校生なのに、バイトしてて偉いよね」
俺に話しかけてきたのは月見美帆(つきみやみほ)先輩だった。
ミルクティーブラウンの巻き髪ポニーテールに、優しそうな目元が印象的な女性だ。
現役大学生らしい。学校じゃ、男連中からモテること間違いなしの美貌だ。
そしてなにより、あの月宮瑚白の姉でもある。
それを知ったのは、バイト初日のこと。月宮なんて名字、そうそう聞かないからまさかと思って尋ねたら、そのまさかだったというオチ。その時は流石の俺も驚いた。
でもよく見れば、タイプは違うものの、整った容姿といい、誰からも好かれそうなオーラーが、なんとなく似ているような気がした。
「いえ、俺は全然、そんなことないですよ。部活とかも、特にやってないですし」
「そうかなー。でも、高校生っていえば、青春まっただ中だし、遊びたくなる時期だったりしない?」
へりくだる俺に、先輩は頬杖をつく。
「正直、俺はあんまり興味がないですね、そういうの」
「ふむ、なるほど」
俺の冷めた答えに、月宮先輩はしたり顔を浮かべた。
「クール系男子、ってやつだね」
いまいち言葉の意味を理解しかねた俺は、パンケーキが焼き上がるのをひたすらに待った。
今日も難なくバイトをこなし、店を出ると、外はもう真っ暗だった。
最近、日が落ちるの早くなってきたな。
帰り道の途中、俺は駅前広場を通りかかった。
毎年、この時期になると、ここら一帯は夜にきらびやかなイルミネーションの光で覆われる。
そしてなにより、クリスマスの日、多くの人々の注目を浴びるのが、毎年恒例のハッピーツリーだ。
ハッピーツリーとは、黄色のパンジーの花で作られたクリスマスツリーだ。
聞いた話いわく、黄色のパンジーには、幸せという花言葉の意味があるらしい。
人々の幸福を願い、ハッピーツリーは誕生したのだとか。
さらには、こんなうわさまである。
大切な人と一緒にハッピーツリーを見ると、その人と一生、幸せでいられるという。
俺も昔は、クリスマスになると、毎年、見てたっけ。
今じゃあもう、くだらない空想話にしか、思えなくなってしまったけれど。
「ただいま」
「おかえり、聖也」
リビングに入ると、キッチン越しにばあさんから返事が返ってくる。
「お疲れ、聖也。今日はだいぶ冷えこんだんじゃあないか?」
続けざま、食卓のイスで新聞を読んでいたじいさんも顔を上げる。
「まぁね」
俺は軽くうながし、じいさんの向かいに座った。
この家は俺と、じいさんばあさんの三人暮らしだ。
「ねぇ、聖也」
夕飯を食べていると、俺の進路希望調査書を見ながら、ばあさんが聞いてきた。
「本当に就職するんでいいんかい?」
「いいよ」
あっけらからんとした俺の返答に、ばあさんは物言いたげに首をもたげる。
「お金のことは気にせんでいいんだぞ」
続けて、じいさんが言う。
「別に。さっさと働きたいだけだから」
実際、バイトを始めたのも、少しでも早く、将来のための金を稼ぎたかったからだし。
黙々と箸を動かす俺を、じいさんとばあさんはどこか腑に落ちない様子で見ていた。
次の日、珍しくバイトが休みだった俺は、放課後、まっすぐ家に向かって帰っていた。
ピーポーピーポー。
ウーウー。
「ん?」
突如、耳に流れこんできたうなるようなサイレンの音に、俺は思わず、振り返る。
と、すぐ近くの交差点で、車同士が衝突事故を起こしていた。
車体の前方が、ぐちゃぐちゃにひしゃげている。
そこら中に破片が飛び散り、ボンネットからは煙が上がっていた。
思わず、目を覆ってしまうような光景だった。
「うっ……」
気持ち悪い……。ひどい吐き気がする。
どうにか心を落ち着かせるため、俺は一度、深呼吸しようと試みる。
――駄目だ、足が震える……。
早く! 早く! ここから離れないとっ!!
とうとうこらえきれなくなった俺は、即座にこの場を駆け出した。
誰もいない公園。その角にあるベンチに腰を下ろし、俺はぽつんと一人、うなだれていた。
いまだに頭に残っているさっき見た光景に、過去の記憶がちらつく。
情けないな、俺……。どんなに嘆いたところで、もうなにも変わらないってのに。
あの日のことを思い出そうとすると、今でも、脳が拒絶反応を起こす。
あの日、あの出来事が、俺のすべてを変えてしまった。
無念な思いと、自分への不甲斐なさに打ちひしがれていたその時だった。
突然、優しくて温かいなにかが、俺の両手を包みこんだ。
見ると、誰かが俺の手をぎゅっと握っていた。
驚いて視線を移す。と、その先には、あろうことか瑚白がいた。
「あっ」
二人の声が、ほぼ同時に重なる。
「ご、ごめんねっ!」
目が合ったとたん、彼女はすっと手をのけた。
なぜだろう。妙に胸がざわつく。
「なにすんだよ」
毒突く俺に、瑚白は気まずそうに目をそらす。
見ると彼女は、前開きにした茶色のダッフルコートに、白のマフラーという格好だった。
不本意ながら、似合っていると思ってしまった自分がいる。
沈黙の間を、むせび泣くような風が通り過ぎていく。
俺の手には、まだかすかに彼女の温もりが残っていた。
と、その時。
「あっ! こはくおねえちゃんだ!」
突然、聞こえてきたはつらつとした声に、俺は反射的に振り向く。
小学校低学年くらいの女の子が、手を振りながら、こっちに向かって走ってきていた。
「ゆあちゃん!」
「こはくおねえちゃーん!」
ゆあちゃんと呼ばれたその女の子は、やってくるなり一目散に瑚白に飛びついた。
「はははは! ゆあちゃんはいつも元気いっぱいだね!」
「うん!」
どうやら、瑚白はずいぶんとこの子になつかれているらしい。
不意に興味ありげな幼い瞳が、俺をとらえる。
「この人、だーれ? こはくおねえちゃんのカレシ?」
かれっ――待て、この子、今、なんて言った?
「あははは、違うよー」
「じゃあ、お友だち?」
「うーん。ちょっと違うけど、今はそういうことにしておこうかな」
瑚白の出した答えに、ゆあちゃんは可愛らしげに首を傾げている。
けれど、すぐに別のことに気が移ったらしい。
「あ、そうだ! へびジャンケンしようよ!」
「いいねー、やろうやろう!」
「おにいちゃんも、一緒にやろう!」
「えっ? お、俺も?」
「だめ?」
いたいけな瞳を向けられ、俺は思わずしりごみしてしまう。
「ゆあちゃんもこう言ってることだし、ちょっとだけでもどう? 星崎くん」
しょうがないな。
「わかった、いいよ」
「やったー!」
数十分後。
「なっ! また、負けた!」
「さすが、ゆあちゃん! ジャンケン強いねー」
「エッヘン!」
「いや、もう一回! もう一回、勝負だ、ゆあちゃん!」
俺はたかがへびジャンケンごときに、この上なく白熱していたのだった。
「楽しかったー! 二人とも、ありがとう!」
「私も楽しかったよ。またね、ゆあちゃん」
「うん! せいやおにいちゃんも、またこんど一緒に遊ぼ!」
「ああ、まぁ、そうだな」
「じゃあねー!」
飛ぶように去っていく小さな後ろ姿を、俺達は見届けた。
「今日は付き合ってくれてありがとう、星崎くん」
「いいよ」
その後、なんとなくの成り行きで、俺達は二人並んで帰路につく。瑚白の家も、こっち方面なのか。
「瑚白はさ、子ども好きなの?」
なんとはなしに、俺は質問してみた。
「うん、好きだよ。昔はそんなでもなかったんだけど」
「そっか」
なんか久々だな、こういうの。
「星崎くんも、すごいむきになってたよね。でも、楽しそうでよかった」
そこでふと、俺は足を止めた。
「なつかしい気持ちになったんだ」
「なつかしい、気持ち?」
「うん――実は俺、昔、歳の離れた妹がいてさ。よく遊んでたんだ、今日みたいに」
ずっとずっと、誰にも言わないようにしてきたはずだった。
それなのに、なぜだろう。瑚白になら、話してもいいと思った。
「でも、俺が小五の時に亡くなった。母さんも、父さんもみんな」
突拍子もない俺の発言に、瑚白ははっと息を飲む。
「事故だったんだ。酔っ払った運転手の車に、突然、突っ込まれて……幸か不幸か、俺だけが生き残った」
あの事故以来、俺はなにもかもすべてがどうでもよくなった。
そして気付けば、今のような性格になってしまっていたんだ。
俺にとって、大好きな家族を失った傷はあまりにも大きすぎたから。
「それは辛かったね」
一通り話し終えると、今度は瑚白が語りかけてくる。これっぽっちも、悲しみなんて知らなさそうな瞳が、今は少し潤んでいるように見えた。
「話してくれてありがとう。私なんかに、同情されてもって感じかもしれないけど」
「いや、俺の方こそ、急にこんな暗い話してごめん」
「ううん、大丈夫」
それから再び歩き出した俺に、瑚白はそっと優しくこう言った。
「でも、私ね、星崎くんが生きててよかったって思うよ」
「そっか」
なんだか少し、瑚白と話したおかげで、心が軽くなったような気がする。
その夜。
俺は今、自分の部屋の机で、進路希望調査と向き合っている。締め切り日が先なのと、ばあさんとじいさんに色々言われて、まだ提出していなかったのだ。
進学希望の文字に新たに丸をつけ直し、調べた大学名を記入する。
そして、学科の欄には教育学科と書いた。
これでよし。
翌朝。
学校に行くと、なんだか教室の中が騒がしかった。
なんだ、あちこちから妙な視線を感じる……。
やがて、一人の勝気そうな女子が、俺のところにやってきた。
高山(たかやま)だ。いつも、瑚白と一緒にいるところをよく見かける。
「ねぇ、星崎くんと瑚白って、付き合ってるの?」
「は?」
予想だにしなかった質問に、俺は固まった。
と、その時。
「みんなおはようー!」
前のドアが開く。瑚白が、ちょうど教室に入ってきたところだった。
「あっ! ナイスタイミング!」
「えっ、なになに?」
「瑚白と星崎くんってさ、付き合ってんの?」
「はははは、違うよー」
高山の放った突拍子のない問いにも、瑚白はひょうひょうとしていた。
「でもでも、昨日、星崎くんと瑚白が一緒に帰ってるところ見たって子が」
「あー、昨日ね。たまたま会ったから、ちょっと話してただけだよ」
「ほんとにー? 瑚白、なんか隠してない?」
「本当だよ」
それでもなお、高山は食い下がった。
「とぼける必要なんてないじゃん。この際だから、言っちゃいなよ」
「だ、だからっ」
瑚白の声に焦りの色が混じる。
「まーたく、なんか今日の瑚白は素直じゃないなー」
高山が瑚白の肩に手を置こうとした、その次の瞬間。
「付き合ってないって、さっきから言ってるでしょっ!!」
瑚白の大声が、教室中に響き渡った。
普段、声を荒らげることなんてない瑚白の怒号に、教室はしんと静まり返る。
やけに重苦しい数秒が過ぎ去って、彼女はようやくはっと我に返った。
「ちょっと、ごめんっ!」
瑚白は言うと、踵を返して教室を飛び出していった。
ほんの刹那、まるで恐怖に歪んだような彼女の瞳が、俺のことを見ていたような気がした。
その後のことを話すと、朝のホームルームが始まる五分前には、瑚白も教室に戻ってきた。
事の発端を作ってしまった高山は、さすがに自分の非を自覚したのだろう。
瑚白が戻ってくるなり、すぐさま謝罪していた。
対する瑚白は、すんなりと許したどころか、こっちこそごめんねと、逆に謝り返していたほどだ。
なにはともあれ、これにて事態は収束した、ように思われたのだが――
あろうことか、その日以来、瑚白は俺にだけ話しかけてこなくなった。
ましてや、俺から声をかけようものなら、気まずそうに目をそらされてしまう。
明らかに避けられているのだ。
「おはよう、瑚白」
「……」
やっぱり今日も、反応してくれないか。
俺は一人、以前にもまして、ため息ばかりつくようになった。
「ただいま」
バイトが終わって、家に帰ると、ばあさんがやってきた。
「聖也」
「どうしたの? ばあさん」
「これ、さっき月宮さんって子が来てね。あなたに返してほしいって」
瑚白が、俺に?
見ると、ばあさんの手には白のマフラーがあった。普段、瑚白が使っているはずの物だ。
なのに、どうして。
俺が、瑚白にマフラーを貸した?
「そっか」
不思議に思いつつ、俺はそれを受け取り、ひとまず自分の部屋まで持っていった。
翌日。閉店時間間際の喫茶店で、俺は片付けをしていた。
「聖也くん」
「あ、はい」
月宮先輩に話しかけられる。
「最近、なにか悩んでることでもあったりする?」
「えっ」
先輩の鋭い指摘に、俺は思わず、たじろいでしまう。
「なんかずっと考え事してるみたいだったから、昨日も今日も」
「そう、でしたか」
どうやら、先輩には筒抜けだったらしい。
少し相談してみるか。瑚白のお姉さんでもあるわけだし。
「実は――」
俺はこの前、クラスでちょっとした騒動があったこと、そして、それ以来、瑚白が俺だけを無視してくるようになったことを話した。
「そっか。そんなことがあったんだね」
「はい。なにか思い当たる節があったら、教えていただけませんか? 月宮先輩」
「うーん」
先輩は腕組みしながら、思案に暮れている。
「もしかしたら、瑚白は怖いのかもしれない。自分のことを知られるのが」
「どういう意味ですか?」
尋ねると、先輩はどこか物憂げな顔をした。
「あのね、聖也くん。実は私と瑚白は、本当の姉妹じゃないの」
「えっ?」
「ただのいとこなんだ」
思わぬ話の展開に、俺はあぜんとした。
「瑚白がうんと小さい時に、あの子のお母さんは病気で亡くなってしまったの。それからお父さんも、五年前に事故を起こして……」
その先に続く言葉は、容易に想像できた。
「だから、どこにも身寄りがなくなった瑚白を、うちで引き取ったの。親戚とか、学校の先生とか以外には、ずっと秘密にしてきたんだけどね」
窓の向こうをじっと見つめた先輩の瞳が、深い悲しみをにじませている。
「性格も、昔は今みたいな明るい子じゃなかった。いつも怯えてるみたいで、すごく心配だったの」
聞いていて、俺は胸に熱いなにかが詰まるようだった。
知らなかった、そんなこと。いや、それこそずっと、彼女はあの笑顔の裏に隠し続けてきたのだ。想像を絶するほどの悲惨な人生を。
プルルルー。
「あっ、ごめんね、お母さんからだ」
その時、スマホの着信音が鳴って、先輩は電話に出る。
「えっ、まだ帰ってきてないの? あ、うん、わかった。一旦、切るね」
先輩の表情は曇っていた。
「どうかしたんですか?」
「瑚白が、まだ帰ってないみたいで。電話も、繋がらないらしいの。いつもなら、この時間にはもう家に帰ってるはずなんだけど」
「そうなんですか」
俺を避けるようになったことと、なにか関係あったりするんだろうか。
「ねぇ、聖也くん。一つ、お願いしてもいいかな?」
「なんですか?」
すると、先輩は少し考えるそぶりをしてから、俺に向かって朗らかに笑った。
「瑚白のこと、探してきてほしいの。聖也くんに」
「俺に、ですか?」
「うん。どうしてかな。なんだか、君に任せたいって思ったの、瑚白のこと」」
先輩のまっすぐな瞳が、俺を見つめている。実の姉妹じゃあないにしても、どこか瑚白の面影のようなものを感じた。
「わかりました」
答えを出すのに、そう時間はかからなかった。
「ありがとう。後の片付けはこっちでやっておくね」
それから俺は急いで着替えて、店を出た。
クリスマスでにぎわう夜の街をひた走る。
キリリと澄みきった冬の空気が冷たい。
ごめん、瑚白。俺、バカだ。
思えば、いつもひとりでいた俺に笑いかけてくれたのは君だけだった。
君だけが、いつも俺の味方でいてくれた。
なのに、俺はそんな君の優しさにちっとも気付かなくて――
「瑚白っ!」
瑚白は一人、誰もいない公園のブランコにぽつんと座っていた。
「聖――星崎くんっ!?」
驚いて立ち上がった彼女のもとへ、俺はゆっくりと歩み寄る。
「星崎くんなんて、そんなよそよそしい呼び方は今さらやめてくれよ、瑚白」
「違う……今のはっ!」
「ごめんな、瑚白。俺、忘れてたんだ。今からちょうど六年前の今日、ここでお前と会ったこと」
それは、たった一日だけの関係だった。
でも、確かにあの日、まだ小四だった俺と瑚白は、二人でハッピーツリーを見たんだ。
なのに。
事故に遭って以来、俺はその日のことも、瑚白のことも、すべて記憶の奥底に封じこめてしまった。
でも、昨日、あの白いマフラーを見て、ふと思い出したんだ。
あれは六年前、俺が瑚白にあげた物だったから。
「なぁ、瑚白。お前、ひょっとして怒ってる? 俺が六年前のこと忘れてたから」
「別に……」
「じゃあ、どうして」
すると、瑚白は突然、声を張り上げた。
「あなたが嫌いだから!!」
「えっ」
その瞬間、まるで、頭を鈍器で殴られたみたいだった。ショックのあまり、喉元まで出かかっていたはずの言葉が消えていく。
「ずっとずっと! 出会った時から、あなたのことが嫌いだった!!」
そんな……。
勢いよくまくし立てた後、彼女は肩をいからせていた。
「待ってくれ、瑚白っ!」
俺の横を素通りしかけていた彼女を、慌てて呼び止める。
が、しかし。
「もう二度と、私にしゃべりかけないでっ!」
「っ……」
瑚白から発せられたその一言は、俺の胸に深く刺さった。
彼女の小さな背中が、見る見る内に遠ざかっていく。
追いかけることすらできない自分が、ただただ虚しい。
なにもできない無力感に、打ちのめされていたその時だった。
道路の向こう側から、信号無視した車が猛スピードで走ってきたのだ。
「瑚白、危ないっ!」
「えっ……」
こちらにまったく気付く気配のない車は、徐々に徐々に瑚白に迫ってきている。
まずい、このままだとっ。
気付けば、俺は公園を飛び出し、瑚白のもとへと一直線に駆け出していた。
頼む! 間に合ってくれ!
――もうこれ以上、失いたくない!
「瑚白っ!!」
俺は彼女を抱きかかえたまま、向こう側の歩道に倒れこむ。
後少しで、二人とも轢かれていてもおかしくない、ギリギリのタイミングだった。
「大丈夫かっ!?」
「せい、や……」
突然の出来事に、瑚白は漠然として俺を見つめている。
と、不意に、彼女の小さな体が震えていることに気が付いた。
「そっか、怖かったよな」
一瞬、ちゅうちょしたものの、俺はぎゅっと彼女を抱きしめる。
「ケガとかしてないか?」
「……あの、そのっ」
「ん?」
しどろもどろする瑚白に、俺は耳を寄せる。
「ごめん、なさいっ……!」
絞り出したような、弱々しい彼女の声だった。
「あ、謝らないでっ。俺が悪かったんだし」
慌てふためく俺に、瑚白は力なく首を横に振る。
「違うの、そうじゃない……全部、嘘なの……」
「う、嘘?」。
「あのね……私、本当はっ」
見ると、彼女の頬を一筋の涙が伝っていた。
「いいよ、ゆっくりで」
むせび泣く瑚白の背中をさすりながら言うと、彼女はこくりと小さくうなずいた。
「ずっと好きだったの……! 聖也のことがっ」
「す、好きっ!?」
まさかの展開に、つい声が上ずってしまう。
「本当は、出会った時からずっとずっと、あなたのことが好きだった!」
とたん、妙な気恥ずかしさがこみあげてきて、目の前の彼女を直視できなくなる。
そ、そうだったのか……。
しかし。
「でも……」
切なげに言いかけて、瑚白は目を伏せてしまう。
「私は聖也を好きになっちゃいけないから……」
「ど、どうして、そう思うんだ?」
「だって、だって! 聖也から家族を奪ったのは、私のっ——お父さんだからっ!」
「なっ……」
とたん、頭がフリーズした。
そんな、バカな……。
信じられなかった。まさか、事故を起こした犯人が、瑚白の実の父親だったなんて。
ただの偶然だと思っていた。先輩から話を聞いた時は。
「私、ずっと怖くて言えなくてっ……それであんな嘘ついて、聖也のこと傷付けてっ……!」
だんだんと瑚白の声が小さくなっていく。しまいに彼女は俺の胸の中で泣いていた。
「瑚白は悪くないよ」
そんな彼女に向かって、俺は微笑みかける。
「俺の家族が亡くなったのは、瑚白のせいじゃない」
俺はそっと瑚白の頬に触れ、その涙を拭う。
「それにもういいんだ、そのことは」
「……よくないよ、なんにもよくないっ」
嗚咽混じりにそうこぼす彼女に、俺は静かに首を横に振った。
確かに、瑚白の言うとおり、思うことが全くないわけじゃない。
だけど。
「俺は瑚白のおかげで、また前を向けたから。だから瑚白は、もうそのことに囚われなくていい。自分に正直に生きていいんだ」
瑚白がいたから、俺は立ち止まっていた過去から抜け出せた。
そして、素直になれた今、俺は優しい嘘つきの君へ感謝したい。
「ありがとう、瑚白」
俺は言うと、もう二度と離すまいと、よりいっそう強く彼女を抱きしめた。
***
お母さんと過ごした記憶はない。
私が物心つく前に、病気でこの世を去ってしまったから。
お父さんのことはただ怖かった。
なにもしてなくても、酔っ払った勢いのままいつも怒鳴ってきたから。
家も学校も嫌いだった。
もともと引っこみ思案の私は、いつもびくびくしてばっかりで、友達なんて一人もできなかった。あの日、君と出会うまでは。
六年前。
日が落ちて暗くなってきても、家に帰りたくなくて、私は公園にいた。
一人、ブランコに揺られていると、公園の前を幼稚園生くらいの小さな男の子と、そのお母さんらしき人が通りかかった。
「ねぇ、おかあさん、おなかすいたぁ」
「じゃあ、そろそろ帰りましょうか。今日はクリスマスだから、おとうさんがケーキ帰ってきてくれるって」
「やったー!」
仲良さそうに手を繋ぐ二人を見ていて、私はなんだか胸がきゅっと締め付けられたように痛くなった。
そういえば、今日、クリスマスだ。
どうせ、家に帰ったところで、それらしいことなんてしてもらえないだろうけど。
「クリスマスなんか、いっそのことなくなっちゃえばいいのに……」
そんなことを思っていた時だった。
「メリークリスマス!!」
「え?」
突然、降りかかってきた陽気な声に顔をあげる。
と、そこには茶色っぽい柔和な瞳と、センター分けが特徴的な男の子が、両手を広げて立っていた。
「って、いきなり知らんやつに言われても、そりゃ困るよなー」
と、なにがそんなにおかしいのか、彼は楽しそうに笑っている。
「オレ、聖也! 気軽に呼び捨てでいいからな!」
「あっ、うん——えっと、瑚白」
おぼつかない口調ながらに返すことはできたものの、ついと私は目をそらしてしまう。
すると、彼は神妙そうな面持ちで首を傾げたのち、なにかを思い立ったようにぽんと手を打った。
「はい、これ! 瑚白にプレゼント!」
「マ、マフラー?」
彼が渡してきたものは、白のマフラーだった。
「そう! 学校の授業で作ったんだ!」
「い、いらないよっ」
「えー」
一度は断ったものの、あからさまにしょんぼりする彼を見ていたら、その好意を無下にするのも、かえって悪い気がした。
「い、いいの? 本当に?」
「うん! むしろ、瑚白にもらってほしい!」
「そ、そんなに言うなら……ありがとう、聖也」
肝心なありがとうの部分が、つい小声になってしまう。
けれど、彼はすごく嬉しそうだった。
「そうだ、瑚白! この後、一緒に駅の方まで行って、ハッピーツリー見ない? 他にもたくさん、イルミネーション飾ってあるだろうし」
「いいよ」
どうしてこんなにあっさりと彼の誘いに乗ったのか、当時は自分でもわからなかった。
でも――
「よし! そうと決まったら、早く行こう!」
君に手を引かれるのは嫌じゃなかった。
君といるだけで、なんだか心が優しい温もりで満たされるような気がした。
今、思えば、私は君に恋をしていた。いわゆる初恋。
そして、君と出会ったその日から、私の世界は変わった。
君の優しさに憧れた。君みたいになりたいと思った。
その一心で頑張ったら、自然と笑顔が得意になった。
気付いたら、友達もたくさんできて、誰かと話すことが楽しいと思えるようになった。
全部、全部、君のおかげだった。私にとって君は、大切な存在だった。
それなのに。
私は君に、最低最悪な嘘をついてしまった。
***
「入学式の日に、聖也を見つけた時はすごく嬉しかったんだ。まさか、こんなところで再会できるなんて夢にも思ってなかったから」
イルミネーションのカラフルな明かりが、まるで星のようにキラキラと輝いている。
俺達は二人、肩を並べて、鮮やかに彩られた夜の街を歩いていた。
「でも、びっくりしたよ。だって聖也、六年前と全然、性格違うんだもん。私のことも、全く覚えてなかったし」
「そ、それはごめん」
平謝りする俺に、瑚白はくすりと笑う。
しかし、すぐにまた彼女は悲しげに目を細めた。
「本当はすぐにでも、六年前のこと話したかったけど、できなかった」
「俺の事故のこと、知ったからか?」
うんと静かに、瑚白はうなずいた。
「たまたまね、聖也が昔、事故に遭ったって話を聞いちゃったんだ。となりのクラスの子がうわさしてて。五年前って聞いて、色々、調べたら知っちゃった。事故を起こしたのが、私のお父さんだったってことも」
「そっか……」
数歩先を歩いていた瑚白の足が、ぴたりと止まる。
「せめて少しでも、あの時みたいに笑ってほしくて、私はあなたに近付いた。なのに、急に怖くなっちゃったの。本当のこと、全部、聖也にバレちゃうんじゃないかって」
じっと宙を見つめたまま、一呼吸置いて、彼女は続けた。
「だから、そうなる前に、いっそのこと聖也に嫌われちゃえばいいって、そう思ったの」
そして、瑚白は今にもかすれそうな声で言った。
「ごめんね、聖也……私、嘘ばっかりついてた……」
苦しげに胸を抑える彼女の小さな手が、小刻みに震えている。
「君の嘘は全部、悪い嘘じゃないよ、瑚白」
俺はそっと彼女に近付き、一度は返されてしまったマフラーを巻いてあげた。
まだ少しばかり濡れている無垢な瞳が、俺をとらえる。
「それは俺を守るためについてくれた、優しい嘘だ」
「聖也っ」
その瞬間、彼女の表情にぱっと笑みが咲いた。
俺達はハッピーツリーの前にいた。俺の提案で、せっかくだからまた一緒に見ようと誘ったのだ。
「なぁ、瑚白。パンジーってさ、ヨーロッパだと、愛を伝える花っていわれてるんだ」
俺が言うと、となりにいた彼女は突然、しとやかに笑った。
「えっ、なんで笑うんだよ?」
「いや、ちょっと意外だっただけ。聖也も、そういうロマンチックなこと知ってるんだなあって」
「あ、あのなぁ」
ちょっぴり俺はふてくされる。
と、その時だった。
「――聖也! 見て! 雪だよっ!」
「え、マジで?」
空を見ると、まるで、白い花びらのような雪が、しとしとと穏やかに降っていた。
「ホワイトクリスマスだね、聖也!」
「ああ、そうだな」
まるで、子どもみたいにはしゃぐ彼女に、俺の胸がトクンと一つ跳ねる。
そうだ、俺も伝えなきゃいけない。ずっと前に芽生えたこの想いを。
そして、ついに俺は心を決めた。
「好きだ、瑚白」
「へ?」
「俺と付き合ってくれないか?」
「え、え、ええっ!?」
すると、瑚白はすっとん狂な声を上げ、思わずといった様子で、一歩、二歩と後ずさる。
構わず俺は続けた。
「俺も、俺のことをこんなに想ってくれる瑚白のことが、気付いたら好きになってた。だからっ!!」
史上かつてないほど、心臓が暴れてまくっている。
ひんやりと冷たい雪の結晶が、火照った顔を冷やしてくれた。
「聖也……」
「俺は瑚白の、素直な返事がほしい」
まだ思い悩んでいる様子の彼女に、俺はそっと微笑む。
「――いいよっ!!」
その時だった。
この上ないほどのとびっきりの笑顔で、瑚白は俺に抱きついてきた。
「瑚白っ!」
俺は自然な流れで、瑚白を受け止め、その背中に手を回す。
そしてそのまま、彼女の額にそっとキスをした。
「ちょっ、聖也っ!?」
見ると、彼女の雪みたいに色白な頬が、今は赤い。
「瑚白、照れてる?」
「バ、バカっ! いきなりされたら、誰だって驚くでしょ!」
「でも、先に抱きついてきたのはそっちじゃん」
なにも言い返せなくなったのか、瑚白はむっとして、そっぽを向いてしまう。
ごめんと謝っても、彼女はまだ不服そうだった。
ちょっといじわるしすぎちゃったか。俺は少し反省した。
「なぁ、瑚白」
「なに?」
「メリークリスマス」
言うと、瑚白は穏やかに笑って返した。
「メリークリスマス、聖也」
どこからか、楽しげなクリスマスソング聴こえてくる。
華やかな明かりに浮かび上がったハッピーツリーを見上げながら、俺は強く決心した。
これからは俺が、瑚白を幸せにする。
もう二度と、大切な君が、自分のついた嘘に苦しむことがないように。