生まれた時から僕の心臓はがらくただった。
心臓の負担を軽減する為に、好きなものを食べることも、思いっきり走り回ることも、何をするのも制限されて、いつも人の半分以下の力でしか生きられなかった。
ベッドの上で無意味に空を眺めるだけの毎日は生きている意味さえをも見失わさせた。
生きていても死んでいても変わらなかった僕を、君だけが見つけてくれた。
でも、君の隣に並んで、君と同じように生きていくには、僕の粗末な心臓では耐えられなかった。
いくら希望を見つけたところで、たった一つの願いさえも叶えられないなら、このまま死んだ方がマシだ。
そう、鈍色に光るナイフに身を任せたようとした。
『15歳になったら……』
そんな僕を救ってくれた人がいた。
覚えていますか?
空っぽだった僕の心に君が……君たちが命を吹き込んでくれたこと。
生きることは素敵なことだと教えてくれたこと。
君と出会えて、君に見つけてもらって僕は幸せだったこと。
例えまた君が忘れてしまっても、僕だけはずっと忘れないから。
生きていてくれて、ありがとう。
そして、生きていてごめんね。
春のうららかな陽射しに溶け込んだ桜の花が咲き誇るある日の朝。
学校の校門前で新入生に混じって真新しい制服に身を包んだ僕は、左胸に手を当てて高鳴る鼓動の音を聞いていた。
これから行われるであろう初めての高校生活に期待を抱いて胸を膨らませているのではない。
だって僕は3年生だ。既に9年間の義務教育を終えて、またさらに追加の3年目に突入する。
学校生活においては、教師を除いたら最もベテランだ。
じゃあどうして制服が真新しいのかというと、それは僕が転入生だからだ。
そう。高校3年生というめちゃくちゃナイーブな時期に親の仕事の都合で突然転校することになった僕だったが、それ自体は全然辛いことではなかった。
何故なら僕がこの学校に来たかったから。
いや、正しくはここに来るべき理由が出来たから。
「……やっと……やっとだ」
僕はまだ右手を左胸に当てたまま、味わうように空気を噛み締めた。
そんな僕の横を生徒達が怪訝そうな目で通り過ぎて行くが、今の僕にはそんなことも一切気にならない。
僕にはずっと会いたかった人がいた。
その人は、生きる意味すら見失っていた幼き日の僕に生きる原動力を与えてくれた大事な人だった。
でも、小学校の時にとある事情でその人と離れてしまってからは、一度も会うことがなくこの年を迎えてしまった。
しかし、ある日偶然にもその人がここの学校の生徒である事を知った。そのタイミングで親の転勤も決まった。
だから、僕は2つ返事で転校を受け入れ、この学校に転入することを決めた。
けれど、会いたかったその人は、残念ながら、僕のクラスにはいなかった。
本当は転校初日の昨日、真っ先にその子の行方を探しに行ったのだけれど、他クラスの子に聞いたらその子はもう帰ったあとだった。
「そういや、よく桜の木の所にいるかも」
昨日教えて貰った情報を元に、少し早めに学校に来た。
さっそく門を潜る。
校舎へと続く桜並木の一本道、数多の桜の花びらがフラワーシャワーとなって登校する生徒達の肩に降り注ぐ。
それは、まさに祝福のセレモニーのようだった。
その中に、綺麗に伸びた黒髪をふわりと風にたなびかせながら、食い入るように桜を見つめている生徒を見つけた。
どこか他人を惹き付けるような魅力を持ち合わせた真剣な横顔。間違いない彼女だ。
ーーーようやく会える。
待ちわびた瞬間に身体が歓喜で震えているのが自分でも分かる。大きく息を吸って吐き出す。
「桜花ちゃん!」
呼びかけると、その子が振り返った。遠目からでも分かる程、色白の肌にぱっちりとした瞳。うっすらと赤く色づいた唇。
『れおくん!』
何度も頭の中で繰り返した、可憐な花が開くようなあの笑顔。それがまたもう一度見られるんだ。
きっとこれから景色が変わると、そんな風に期待に胸を膨らませた僕はとんだ思い違いをしていたらしい。
「ーー誰?」
さくらんぼのような彼女の小さい唇からは、警戒するように短く低い音が発せられて。ぱっちりとした瞳も訝し気に細くなった。
「れ、れおだよ! ほら、小学校の時同じクラスだった朝比奈獅子!」
僕はまるで蛇に睨まれた蛙の如く、冷や汗の吹き出る背筋を伸ばし、害意はないことを必死で伝えた。
「……あさひなれお?」
「そう! 獅子です!」
「……れお」
反芻するように僕の名前を呟く彼女。
「久しぶり、桜花ちゃん。元気だっ……」
「やめて!」
再び鋭利な何かがこの場の空気ごと切り裂いた。
「……え?」
呆然としている僕に彼女が淡々と告げる。
「名前で呼ばないで。めちゃくちゃ不愉快」
「っ、」
邪魔。と彼女は手で払い除けて校舎に向かってすたすたと進んで行く。
その気迫に思わず尻もちをついた僕の周りで桜が舞った。
「……あ」
と小さく洩らした彼女がふと立ち止まり、振り返る。
「一つ忠告。レオだかトラだか知らないけど、私に関わんない方がいいよ。……死にたくなければ」
そう言い残し、今度こそ彼女は去っていった。
確かに、この瞬間から僕の景色は180度変わった。
けれど、想像していた未来とはまったく違うもので。
『早く元気になってね? 待っているから』
明るくて、優しくて笑顔が素敵だったあの女の子の面影はどこにもなかった。