「ローズさん!」
 翌朝、ローズが騎士団の前で馬車から降りると、アカリが駆け寄って来た。

「最近会えなくて寂しくて……お忙しそうでしたが、何かあったんですか?」

 神殿に向かうため純白の服に身を包んだアカリは、ローズには立派な聖女に見えた。
 そんな彼女だったが中身は相変わらずのようで、ローズを見上げるとアカリはしゅんと眉根を下げた。
 魔王討伐以降、『光の聖女』として振る舞うよう努力しているが、唯一ローズの前だけでは、彼女は『七瀬明』に戻るのだ。

「実は……」
 かくかくしかじか。ローズはアカリに今回のことを話した。
 現在のアカリは騎士たちからも信頼されており、一部聖女として仕事も頼まれている。
 事件解決までは騎士団が慌ただしくなる以上、アカリには真相を話しておいた方がいいとローズは判断した。

「ええっ!? リヒト様の指輪が盗まれて、ベアトリーチェさんの青い薔薇が盗まれた!?」
「――アカリ、静かに」

 ローズは思わずアカリの口を手で塞いだ。
 すると、アカリの頬が赤い林檎のように真っ赤に染まった。
 ローズは手を下ろした。

「す、すいません……」
 アカリは頭を下げて謝罪した。

「街が騒がしいと思っていたら、そう言うことだったんですね。でも確か、あの指輪は鍵になるんでしたよね? ……何も音沙汰がないとなると、それはそれで不気味ですね?」

 事実を知るアカリはローズに尋ねた。ローズは頷いた。アカリの目の付け所は間違っていない。

「そうなのです」
 ローズは静かに頷き――あることを思い出してアカリに尋ねた。

「そういえば……アカリは、ベアトリーチェ様の過去についてなにか知りませんか?」
「え? 私ですか?」
 アカリはきょとんとした。
 魔王討伐の際、ローズに『誓約の指輪』の情報を教えたのはアカリだ。
 今回ももしかしたら、何か海月の糸口になる情報を彼女は知っているかもしれない。ローズはそう考えたが、アカリはうーんと首を傾げた。

「うーん……私、全クリしたわけではないので……詳しく知らないんですよね。あ。でも、これだけは覚えています」
 『全クリとは何だろう』とは思いつつ、ローズは疑問をスルーした。

「それは何ですか?」
 ローズは尋ねる。
 ローズの問いに、アカリはまた意味が分からない言葉を口にした。

「『ベアトリーチェ・ロッドの初恋』」

「え?」
 ――初恋?
 ローズは驚きのあまり思わず声を漏らしてしまった。

「……ええと、そういうイベント? というか、話があって。私の記憶では、彼には病気でなくなった初恋の相手がいたはずです。確か、彼が伯爵家に入ったのもそれがきっかけだったという話だった気が……。ゲームの中で、唯一ヒロインが初恋の相手じゃないという設定で、初めは批判があったんですが……最終的にそれらの意見を全部覆して、私の知る限りでは、彼が一番ゲームの中では人気が高くて……」

 『ゲーム』を理解していないローズには、アカリの言うイベントの意味がよく分からなかった。
 ただアカリから話を聞いたローズは、やはりアカリの話す『ゲーム』の世界は、自分たちの世界と多少の違いはあれど、共通点は多いように思えた。だったらアカリの言う『ベアトリーチェの過去』が、この世界の彼の過去と一致している可能性はある。

 初恋の相手が病気で死んだ。
 ローズは、恋人に触れるように、青い薔薇に触れるベアトリーチェを思い出した。

『病で死んだ人間の墓の上に咲き、生前親しかった人間の魔力に触れていなければ枯れてしまう』

「まさか、あの花は……」
 亡くなった、彼の初恋の相手の――。
 
 ローズは眉をひそめた。もしこの予想が正しければ、青い薔薇に彼が執着する理由に納得がいく。
 初恋の相手の屍花。
 それが盗まれたというのなら、彼が取り乱すのも頷ける。

 ドガ! ガラララ……ガッシャン!!

 ローズがユーリに情報を伝えるために、彼の部屋に向かった時。室内から誰かが争う音が聞こえ、ローズはノックをせずに扉を開けた。

「なんの騒ぎです!?」
 ローズとアカリは、部屋の中を見て仰天した。
 ユーリの部屋が荒らされていたのだ。
 そして犯人らしきベアトリーチェは、ユーリを壁に追い詰めていた。

 ユーリは壁に背中を、床に手をついているような状態だ。
 小柄なベアトリーチェはユーリの腹部に片膝を押し当て、ユーリの右顔の横の壁に拳を突き立てていた。
 いつもは穏やかな緑の瞳は、今は強くユーリを睨みつけている。

「――これ以上、私のことを調べるのはやめてください。貴方だって、知られたくないことはあるでしょう? ……たとえば」
 ベアトリーチェはそう言うと、ユーリの髪紐をするりと解いた。

「……この髪紐を、最近ずっと貴方が身につけている理由とか」
「ビーチェ!」

 自分の大切なものに触れられて、ユーリは思わずベアトリーチェに手を上げてしまった。
 自分の行為に、ユーリ自身驚いていた。
 そんなユーリの幼さを、ベアトリーチェは嘲笑った。

「人の心に踏み入ることを許されるのは、自分も踏み入られる覚悟がある人間だけだ。――その覚悟がないのなら」

 ベアトリーチェの口の端は、切れて血が滲んでいた。
 指でそれを拭った彼は、指についた血を見て冷たく笑った。

「私のことは放っておいてください」
「その言葉、そっくりそのまま返してやる」

 自分を馬鹿にしたようなベアトリーチェの目に苛ついたユーリは、彼の胸ぐらを掴んで言った。

「いつもなんでもわかったような顔をして。自分は人の心には踏み入るのに、お前は踏み入られることを恐れている。覚悟が無いのはビーチェ、お前のほうじゃないか!」

 ユーリは、自分からベアトリーチェが瞳を逸らすことを許さなかった。
 体格上、この体勢ではベアトリーチェはユーリから逃れられない。

「貴方に」
 ベアトリーチェは唇を噛んだ。
 底冷えするような低い声。

「……貴方には、私の気持ちはわからない。私の時間は、ずっと止まったままだ!」
「きゃ……っ!」

 その時、ベアトリーチェの感情に引きずられるように、地面が大きく動いて建物がきしんだ。
 ユーリの部屋に置かれていたリヒトの発明品が、音を立てて棚から落ちる。

「アカリ!」

 ローズは思わずアカリを庇った。
 ユーリはベアトリーチェから手を離した。
 その隙に、ベアトリーチェは部屋を出て行った。

「ビーチェ! 待て!」 
 追いかけよう呼び止めたが、ローズに服の袖を引かれユーリは動きを止めた。

「……ユーリ? 一体、何があったのです?」
「……っ!」
 ユーリはローズから顔を背けた。
 ローズを置いて、ベアトリーチェを追いかけることはユーリには出来なかった。

「ユーリ、さん」

 アカリはハンカチをユーリに差し出した。
 ユーリは僅かに表情を曇らせた。

 ――完全に二人に足止めされた。今更、追いかけるのは無理だ。

「怪我、大丈夫ですか?」
「……すいません。ありがとうございます」

 ユーリはアカリに礼を言うと、ハンカチを受け取った。
 口元が切れ、殴られたのか少し青くなっている。
 ここまで怪我の具合がひどくては、ローズとアカリは立場上治癒が出来ない。
 ローズは氷魔法で氷を作ったものを布でくるむと、ユーリに手渡した。

「ありがとうございます。ローズ様」
「……いいえ。治療が出来ず、申し訳ありません」
「これだけで、十分です」

 氷魔法であれば魔力はそこまで消費しないが、光魔法は消費が桁違いなのだ。
 それを理解しているユーリは、心配そうに自分を見つめるローズに笑みを作った。
 ローズはいつものように温和な笑みを浮かべるユーリを見てほっと胸をなで下ろすと、別室で安静にするよう言いわたした。
 ユーリは一人寝台に横になると、先程のベアトリーチェのことを思い返した。

「あれのどこか温厚なのか」
 自分を睨み付ける強い瞳。
 溢れだす地属性に適性を持つ強い魔力は、感情の高ぶりに合わせて周囲の環境にまで影響を及ぼす。

「感情をひたがくしにしているだけじゃないか」

 窓の向こう側からは、他の騎士たちの声が聞こえる。
 いつもと同じ時間が流れているようにも感じるのに、隣に居る筈の相手がいない。
 今のユーリは、それが無性に落ち着かなかった。

『……貴方には、私の気持ちはわからない。私の時間は、ずっと止まったままだ!』

 ユーリはベアトリーチェの言葉を思い出した。
 地を揺らすほどの慟哭を、その身に抱えていつも笑っていたことを、自分は気付いていなかった。
 次期伯爵。騎士団の副団長で、研究者。
 その彼の肩書を、ユーリはどこか当然のことのように思っていて、苦労も何も理解してはいなかった。
 だっていつでも自分の前にいる彼は、導べとして真っ直ぐに前を向いていてくれたから。

「隠されていたら、わかるわけがないじゃないか」
 自分が一番近くに居ると思っていた相手は、自分とは違う相手の手を取った。
 その光景を思い出して、ユーリは唇を噛んだ。

「……ビーチェ」
 ためらいがちに囁かれたその声は、誰にも届かずに消えた。



「ローズ」

 ユーリの部屋に長居するわけにもいかず、部屋の整理を終えたローズがアカリを送って騎士団に戻ろうとしていると、名前を呼ばれて彼女は振り返った。

「リヒト様?」
「……騎士団で何かあったのか? さっき怪我人とすれ違ったんだが」

 リヒトはどうやら買い出しに来ていたらしかった。
 何を作るつもりなのかは謎だが、材木やら鉱石やら、謎の材料が入った袋を彼は抱えていた。

「……その、ユーリとベアトリーチェ様が喧嘩を……」
 怪我人というと、おそらくベアトリーチェのことだろう。ローズはそう判断してリヒトに答えた。

「なんで喧嘩なんか……また、もしかして俺のせいか?」
 リヒトは、恐る恐るといった表情でローズに尋ねた。

「間接的にはそうかもしれませんが、リヒト様が責任を感じる必要はないかと思います。今回のことは……多分、ユーリが」
「?」

 ユーリが彼の地雷を踏んだのだ。
 ギルバートの言葉はそういうことだ。
 兄の言葉の意味をもっとちゃんと考えるべきだったと、ローズは一人反省した。

「リヒト様。ベアトリーチェ様について、なにかご存知ではないですか?」
 ここで会ったのも何かの縁だ。
 せっかくなので、ローズはリヒトにも尋ねてみた。

「ベアトリーチェ・ロッドといえば、『光の巫女』の予言を受けた人間だろう?」
「え?」
 当然のように言われて、ローズは驚きの声を上げた。

「『国を変える人物』――未来を視る光の巫女がそう予言したから、彼は産まれたとき呼吸をしていなかったが、本来王族しか受けられないような光魔法による治療を行われて、蘇生したという話だったはずだ。以前王家の記録で読んだことがある」

 リヒトは実技の魔法はからきし駄目で、医療知識も殆どないが、読書家ではあるし、王家の情報はそれなりに把握している。
 婚約破棄は、彼の知識の偏りと、弱い者いじめを許せない正義感が空回りした結果のやらかしだ。
 子どもたちにからかわれていたように、『馬鹿王子』で『アホ王子』なのは確かだが、彼は彼なりに努力している。

 ――最も、その努力の方向性はやや人とずれていたりすることは多かったけれど。
 それを知っていたからこそ、ローズ様はリヒトに今も普通に接しているという面はある。

 流石に寛容なほうなローズでも、ただの馬鹿でクズでろくでなしの王子なら、自国の王子とはいえ面倒を見てやる義理はない。
 子どもにからかわれ、叩かれたり蹴られたりはしていても、彼は決して弱者に対して手を上げるようなことはしない。

 リヒトの行動は一貫している。
 彼は弱者だからこそ、弱者に寄り添う人間なのだ。

「それが、どうかしたのか?」

 ただ少しズレているせいで、リヒトはいつも自分の持つ情報や知識の価値を正しく評価できない。
 アカリとリヒトは似ている。

「ありがとうございます。リヒト様。今頂いた情報はすごく役に立ちそうです」
「お、おう……?」

 手を握ってローズが言えば、リヒトは少し顔を赤くして、ローズから視線をそらした。