その日、ユーリの帰宅は遅かった。
ベアトリーチェからの伝言を紙の鳥を飛ばして伝えたローズは、翌朝改めてユーリに口頭で伝えたが、ユーリは静かに頷くだけだった。
「……そうか」
「別行動とはなりますが、指輪の捜索は行うとのことでした」
ローズの言葉に、ユーリは渋い顔をした。
指輪の捜索とこちらには言ってはいるが、ベアトリーチェの先日の行動から考えて、彼は指輪より薔薇を優先して探している可能性は高い。
「申し訳ございません。兄様も、お考えがあってのことだとは思うのですが……」
ユーリがそんなことを考えていると、ローズも見知った顔の少年がそう謝罪した。
「貴方は……」
「……おはようございます。ローズ様。以前は大変失礼いたしました」
ベアトリーチェを『兄様』だと言ったのは、騎士団入団の際、ローズを縛りあげたあの少年だった。
「僕はジュテファー・ロッドと申します。兄様の……いえ、副団長、ベアトリーチェ・ロッドの弟です」
「貴方が……?」
「?」
ローズは少年を観察した。
礼儀正しく頭を下げる彼の雰囲気は確かにベアトリーチェに似ている気もするが、顔自体はそこまで似ていないような気がしたからだ。
「……やはり、弟がいらっしゃったんですね」
「はい。兄は心から尊敬する僕の兄様です」
ジュテファーはにこりと笑った。
「失礼ですか、ご年齢は?」
「今年、一三になりました」
「随分年が離れているのですね……?」
ローズは思わず訊ねていた。
外見年齢だけならベアトリーチェは彼とそう年が離れていないようには見えるが、ベアトリーチェの実年齢は二六歳だ。
二六歳と一三歳では随分離れている。
「ええと……それは、血が繋っていないので」
「え?」
「兄様は、父様に才能を見込まれて養子に入られた方なので……」
「……すいません。失礼なことを」
失言だ。申し訳なさそうに言うジュテファーに、ローズはすぐ謝罪した。
「いいえ。……それに、兄様は命の恩人でもあるんです。だから父様の後継には、兄様が相応しいと思っておりますし……」
――命の恩人? 後継?
ローズはジュテファーの言葉が少し引っかかったが、詳しく聞くことは出来なかった。
「申し訳ございません。実は副団長に呼ばれていて。これからそちらに向かっても構いませんか?」
「ああ。構わない。元々君はビーチェの補佐だしな」
「ありがとうございます。団長」
ジュテファーはそう言うと、頭を下げて二人の前を後にした。
「ユーリは知らなかったのですか?」
ジュテファーの姿が見えなくなる頃、ローズはユーリに尋ねた。
ローズがそんな質問をしたのは、ジュテファーの言葉にユーリが驚いたように見えたためだ。
ユーリがジュテファーを弟だということも、養子で伯爵家に入ったことを知らないなんて、有り得ないはずなのに。
「養子であることは知っていましたし、彼が弟であるのは知っていましたが、ビーチェ自身は爵位は弟にと言っていたので驚いて……」
貴族の結婚は、魔力が強い者の方が身分の劣る場合を除き、通常近しい家柄で、魔力が同程度の者と行われる。
それはそうする方が生まれた子どもが強い魔力を持つ場合が多いためであり、このような婚姻を繰り返すために、身分ある家系に魔力の弱い子どもは殆ど生まれない。
王族でありながら魔法を使えないリヒトの方が珍しいのだ。
だからこそ、実子であるジュテファーが魔法を使えるのに、ベアトリーチェが養子として迎え入れられたのがローズは少し疑問だった。
それに本来爵位を継ぐべき立場の人間が、ベアトリーチェに爵位をと言うのも変だ。
「ベアトリーチェ様が?」
「……」
ローズのベアトリーチェに対する呼び方を聞いて、自分との呼び方の違いに気付いてユーリは一瞬表情を曇らせた。だが、すぐにユーリはいつもの彼に戻りローズに話を合わせた。
「妙な話ですよね……?」
ベアトリーチェは爵位を継がず弟を支えようと思っていて、ジュテファーは養子の兄に爵位を譲り、兄を支えようと思っている。
二人の考えがすれ違っている理由がわからず、ローズは更に首を傾げた。
彼の家庭事情はなかなか複雑らしい。青い薔薇の屍花といい――何か理由があるのだろうか?
それは、今のローズには分からなかった。
◇
「やはり、手掛かりは無し、ですか……」
事件が起こり五日目。
ベアトリーチェが不在ということもあり、ローズは毎日ユーリと行動を共にしていた。
しかし甘い雰囲気など露ほどもなく、元々自分にも他人にも厳しいローズは、職務中はずっと仕事モードでユーリには接していた。
ユーリが肩を抱こうものなら、叩き落とされるに違いない。
勿論、公爵令嬢であるローズに、許しも得ず軽々しく触れるユーリでは無いのだが。
「しかしここまで他に被害がないとなると、今回のことは、ベアトリーチェ様を狙った犯行と考えるのが良いのかもしれませんね」
リヒトの発明品は結局どれも使えず、ローズたちは町の警邏をしつつ、手掛かりになりそうなことを探していた。
でも何も見つからない。
考えた結果、ローズは今回の事件の発端にある結論を出した。
「ビーチェを?」
「考えてもみてください。鍵を鍵と知りながら使わない。どう考えてもおかしいではありませんか」
「確かに……」
指輪が盗まれて使用されたのは、ユーリが王都からでるための扉を閉めさせた後だ。
今は既に開けられているが、検問は厳重に行われている。
魔法式を保存できる石は探知機に必ず引っかかるため、外に持ち出されることは有り得ない。
だとしたら指輪はまだこの王都にあり、警備が厳しくなってから使用され、かつ二度目の使用はされていないことになる。
どう考えてもおかしい。
だとしたら犯人の狙いは、ベアトリーチェ個人、あるいは青い薔薇ということになるが、青い薔薇の研究に最も熱を入れている彼の言葉から考えると、薬として使用出来ない青い薔薇を危険を冒してまで盗むのはおかしいようにローズには思えた。
もし犯人が本当に青い薔薇を欲し、そのために指輪を盗んだならば、当然ベアトリーチェの論文は全て読んでいる筈だからだ。
ベアトリーチェしか育てることの出来ない屍花《はな》。それを盗む意味はない。
「ユーリは、彼についてどれほど知っているのですか? 騎士団長として、副団長のことは知っていますよね?」
「いや……」
ローズの問いに、ユーリは曖昧な返事をした。
「ビーチェは、あまり自分のことを話さないので。俺のことはよく見てくれているんですが、ビーチェの言葉は比喩? が多くて。直接的なことはあまり言わないので」
「つまり、よくわからないと」
「…………はい」
「彼の過去について、調査したほうがいいのかもしれません。彼に恨みを持つ人間、悲しむことを望む人間……狙う理由はわかりませんが」
「ビーチェに恨みを持つ……」
ユーリにはリヒトくらいしか思いつかなかった。
『私は――貴方が嫌いです』
そうしてふと、自分の言葉に傷付いた顔をしたリヒトを思い出して、ユーリは顔を曇らせた。
泣きそうな表情。
あそこまで自分の言葉で、リヒトが傷付くとはユーリは思ってもみなかった。
そして自分の中に生まれた感情も、ユーリは整理できずにいた。
――貴方に、そんな表情《かお》をさせたいわけではなかったんだ。
「……っ!」
その時、ユーリは強い頭痛に襲われて頭を押さえた。
誰かの声が頭の中に響く。
『君ならば空を飛べる。君の剣は天にも届く。だから俺は――君に、『天剣』の名を与えよう』
――誰、だ……?
ユーリの記憶にはない言葉。それでもその声を聞くだけで、ユーリは懐かしさに胸が苦しくなった。
ユーリは記憶を辿ろうとしたけれど、靄がかかったように景色は霞んで、誰が言ったのか思い出せない。
「……ユーリ?」
記憶の片鱗を掴みかけた気がしたその時、ユーリはローズに名前を呼ばれて現実に引き戻された。
「ああ。い、いえ。なんでもありません」
慌てて頭を押さえていた手を下ろす。
「とりあえず、騎士団に保管されている資料をあたりましょうか?」
ユーリの言葉に、ローズは頷いた。
◇
「ありませんね……」
「そうですね」
団長・副団長と一部の人間だけが閲覧を許される騎士団の資料室に、本来保管されてあるべき彼の情報は、何故かベアトリーチェとジュテファーの分が欠如していた。
ベアトリーチェが隠したに違いない。
ユーリはそう思い眉をひそめた。
そしてユーリはこうも思った。
ジュテファーをベアトリーチェが呼んだのは、自分のことを知っている人間を手元に置く為だったのではないだろうかと。
けれど何故ベアトリーチェが、自分の経歴を隠すのかがユーリには理解出来なかった。
ユーリとローズは、ベアトリーチェのことについて歳を重ねた騎士たちに尋ねてみたが、先日のこともあってか、彼らはローズたちの質問には答えてくれなかった。
誰もが「あの方は大変な想いをされたから」とか、「苦労された」とか、そんな言葉ばかりを並べた。
そして騎士団での情報収集を諦めたユーリとローズは、王都でベアトリーチェの評判について聞くことにした。
「ベアトリーチェ様? あの方ほどの貴族はいないよ!」
「ベアトリーチェ様はどなたにもお優しい」
「あの方が爵位を継がれるのは当然だ」
「騎士としても研究の分野でも成果を挙げられている。強く賢い」
「体は小さいが、それは魔力のせいだと聞いている。その分、心の大きな方だ」
「思慮深く、相手を思いやれる方。あの方を怒らせるのは相当難しいのではないでしょうか?」
「娘を嫁にやるのなら、この国では一番あの方が安心と専らの評判ですよ。尤も未来の伯爵様に、俺たちのような人間は恐れ多くてとても言えませんが」
王都の住人たちは、身分の貴賎を問わず誰もがベアトリーチェのことを褒めたたえた。
「評判……」
「まさかここまで良かったなんて……」
ローズは些か驚いた。
変わり者のロッド伯爵とその後継。
まさか後継と呼ばれるベアトリーチェが、ここまで人々の心を得ていたなんて。
「平民出身だというのもあって、彼はいろんな立場の人間から信頼を得ているのでしょうね。しかし……」
だからこそ、今回の彼の行動は異常だ。ローズは余計にそう思えた。
ここ数日、騎士団の輪を乱す彼の身勝手な行動。
それは、人心を得ている人間の行いとはとても思えない。
「ビーチェの過去について、私はまた別の角度で調べてみようと思います。もう日が暮れますし、ローズ様はお屋敷にお戻りください」
「わかりました」
気付けばだいぶ陽が落ちていた。
ローズは紙の鳥をミリアに飛ばすと、馬車で屋敷へと帰った。
彼女の父である公爵が、娘が一人で行動することをあまりよく思ってはいないのだ。
騎士団入団は認めた公爵だったが、可能な限り娘の送迎はさせてほしいと、ユーリは公爵に言われていた。
「では、ユーリ。また明日」
「はい。また明日」
ユーリはローズに向かって笑顔を作った。
馭者を務めていたミリアが馬に鞭打ち、馬車が動き出す。ローズを笑顔で見送ったユーリは、引き続き次の調査へと向かった。
ローズが屋敷に帰ると、訓練を終えたらしいギルバートが、ローズの眉間にちょんと指を押し当てた。
ぐりぐりぐりぐり。普段人に触られない場所で押しまわされ、ローズは慌てた。
兄の行動が理解できない。
「あ、あの。お兄様?」
「眉間に皺が寄っているぞ。ローズ。難しい顔をして、どうかしたのか?」
漸く指を離したギルバートは、ふっとローズに笑いかけて尋ねた。
「お兄様」
「俺には言えないことか?」
「……その、騎士としての仕事のことなので……」
ローズは兄から目線を逸らした。
大好きな兄で公爵子息とは言えど、事が事だけに軽々しく家族に話すべきではないだろうとローズは思った。
「ああ。だったら俺には言えないな」
ギルバートはそう言うと、ローズの頭をポンポンと軽く撫でた。まるで、気にするなとでも言うように。
「お兄様は」
そんな彼に、ローズはずっと疑問だったことを尋ねた。
「私の考えの全てがわかるのではないのですか……?」
ギルバートは昔から、ローズに完全な答えは教えない。
けれど彼の言葉は、まるで遠い未来が見えているかのように思えて仕方がないことがあったのだ。だからこそ幼い頃のローズは、兄が神様のように思えて仕方がなかった。
自分の全部をわかってくれる。これから起こる全てを見通せる。
そんな、絶対的で正しい神様に。
「俺は相手の話が嘘か本当かどうかがわかるだけであって、俺は人の考えの全てがわかるわけじゃない。ただ、それがわかれば推測の材料としては十分だろう?」
妹の羨望の眼差しに気付いて、ギルバートは苦笑いした。
「それに特別な目なんてなくても、相手の感情を感じ過ぎてしまう人間は居る。鏡のように相手の心を映す。そう言う人間は、自分の領域を侵されることにも敏感だ。――だから、気を付けろよ?」
昔からローズは、兄の言葉の全ての意味は分からない。
「?」
「あんまり踏み込むと、壁を作られる可能性があるぞ」
「それはどういう……?」
「今の俺に言えるのはそれだけだ」
ギルバートはそう言うと、自室へと戻っていってしまった。
「ローズ様。ゆっくり休まれてくださいね」
「ありがとう。おやすみなさい、ミリア」
夜。
ミリアに就寝の挨拶をして、ローズは自分の部屋の扉を閉めた。
天蓋付きのベッドに体を横たえる。
公爵令嬢の自室ということもあって、ローズが華美なものをあまり好む性質ではないにしても、父やミリアたちが彼女を思い用意した部屋は、女性らしさと優雅さを兼ね備えた調度品で纏められている。
ローズは大きく息を吐いた。
箸より重い物は持ったことは無い。
これまで社交界ではそう取り繕ってきた自分だが、最近剣を毎日握っているせいで少し硬くなった皮膚を撫でる。
「こんな私を妻に欲しいという方などいるのでしょうか……?」
ローズは苦笑いした。
ドレスを着てダンスを踊るより、男に混じって剣を振るう方が、自分の性に合っている。
そう思ってしまう最近の自分は、これから一生誰とも結婚なんて出来ない気がした。
望まれても、相手に合わせて妻らしく振る舞える自信が、今のローズには無かった。
四枚の葉。
そんな時、ローズは事件が起こる前に、ベアトリーチェに渡された葉のことを思い出した。薔薇のケースを開く。
光魔法で生命を維持しているおかげで、今のところ枯れる葉が様子はない。
『私は貴方にこれを託しましょう。貴方が幸福を願うその相手に、どうかその葉を渡してあげてください』
ローズには、何故ベアトリーチェが自分にそう言ったのか、彼の気持ちがわからなかった。
大体自分と彼は、そこまで親しい間柄ではない。
ではなぜ、彼はこれを自分に渡したのか。
『ベアトリーチェ様はどなたにもお優しい』
彼は、誰にでもこうなのかもしれない。ローズにはそう思えた。
きっと彼が自分にかけてくれる優しさは、彼が他の人間に与えるものと変わらないのだと。
大地はその地面に宿す栄養を、水を、全てのものに分け与える。
人を愛し、支え、育てる。
それが、地属性の適性。
彼は属性を体現したような人間だが、成長が止まるほどの回復力を持つとなると、一般的な適性を遥かに超えるきっかけがあったと考えるほうがいいのかもしれない。
魔法は心から生まれる。
魔力の強い人間ほど、強い心の傷を抱えるという説もある程だ。実際ローズは、魔王討伐後、回復力が上がっている。
人の心に負荷がかかり、それを乗り越えるほど、その人間の魔法は強くなる。
だからこそ、先天的に魔力の強い人間以外に、後天的に魔力が上がる人間がいるのだ。
この世界では、魂は巡るものという考え方もあり、生まれつき強い魔力を持つ人間は、前世で心に深い傷を負った人間である可能性が指摘されている。
ただこの説は、前世の記憶を持つ人間が少なく、まだ証明は出来ていない。
「彼は……」
ベアトリーチェは、養子だ。
この世界では、普通平民に魔力の強いものは生まれない。
この世界で平民で強い魔力を持つ人間は、【神の祝福】を受けた人間であるとされる。
「どちらなのでしょうか……?」
先天的なのか,後天的なのか。
あるいは自分のように、そのどちらもなのか。
そしてもし、彼が生を得てから魔力が強くなったのなら――結果には必ず原因がある。
「養子……青い薔薇……」
ローズは一人呟く。
『この花は、屍花なのです』
そう言った彼の言葉が、今はやけにローズの頭の中に響いた。
月の世界の、青い薔薇の国。
彼の周りを取り囲む、誰かの分身。愛しげに花に触れる彼。
「そうか」
ローズはふと、薔薇園を思い出してあることを思いついた。
そうしてベアトリーチェから貰った四つの葉を持つ植物を、ローズは薔薇のケースから取り出した。
数年前に貰った、リヒトの発明品で、数少ない利用価値のある道具。
この容器に入れておけば、少ない魔力で状態を保存できる。
「――そうすれば……」
ローズはそう言うと、そっとその葉に触れた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
ローズと別れたユーリは、国立図書館を訪れていた。
ユーリにローズのような医療知識は無い。
「青い薔薇……」
図書館の資料は膨大だ。
ベアトリーチェの管理する研究施設の資料は四つの部屋に纏められているらしく、そのうち一室に案内されたユーリは驚いた。
壁一面を埋め尽くす夥しい量の資料が、そこには保管されていたからだ。
ベアトリーチェは騎士団の副団長も務めている。
その仕事の傍ら研究を続けていたのだとしたら、騎士団の管理を怠った自分に対して怒り、『手が回らない』と言ったのもユーリは頷ける気がした。
ユーリは目に入った本をぺらぺらと捲ったが、知らない名前の羅列ばかりで、全く頭に内容が入ってこない。
知らない魔法陣。知らない植物の名前。どの属性の魔法をかけ、その時間はどれほど継続すべきなのか。魔法をかけることによっての効能の変化等――……とても覚えられるものではない。
ユーリは眩暈がして本を閉じた。
溜息を吐きながら本を戻すと、ふと彼の目の前を柔らかい光が横切った。
「光……?」
ふわふわと、それは踊るように楽し気に、ユーリのまわりをくるくる周る。
そして光はユーリから離れて飛ぶと、とある本の前で止まって消えた。
「…………?」
ユーリは首を傾げつつ、その場所へと歩いた。
そこには一冊の本があった。
「『精霊病』……?」
背表紙にはそう書かれていた。
ユーリは本を手に取るとパラリとと捲る。
中にはまず、こう書いてあった。
「【魔法式を書き込める石のことを、古くは精霊晶と呼んでいたことに由来する。この病を罹患した人間の心臓は石となり、魔法式を保存することが可能である。発病率は限りなく低いが、世界中で発症例がある。不治の病とされていたが、クリスタロス王国ベアトリーチェ・ロッドが、特効薬の開発に成功。これにより、屍花『青い薔薇』を第一級指定薬に認定。】」
探していた本はこれだ。
ユーリは安堵した。知識のないユーリが、薬の調合方法など知ってもなににもならない。
欲しいのは、青い薔薇とベアトリーチェに、どんな関わりがあるかだけだ。
ここまでは、ローズも知っている情報だろうとユーリは思った。
しかし流石の彼女でも、誰が病に罹り亡くなったかまでは、把握していないだろう。
ユーリは本の頁を捲った。
そこには、この病にかかった人間の名前と年齢、出身地がずらりと記されていた。
未曽有のこの病は、国家による闇魔法の実験が疑われ、その罹患者数の分布が調査された。彼らの国籍・年齢・経歴・魔法適性に至るまで。情報量は膨大だ。
「罹患者は……」
魔法適性なし。発病時9歳。完治後、地属性の適性が発現。
「ジュテファー・ロッド」
ベアトリーチェの弟の名前だ。
命の恩人という彼の言葉は、『精霊病』に罹り死ぬはずだった命を、救われたという意味だろう。
ベアトリーチェが伯爵家に入ったのが、元々家を継ぐべき嫡男が魔法を使えなかったことが原因だったとしたら、ユーリは納得は行った。
ベアトリーチェは悩んだはずだ。
養子に入った頃はジュテファーには魔法が使えなかったなら、自分という存在が、新しく出来る弟を否定することに繋がると理解していたなら。
それでもベアトリーチェが伯爵家に入ったのは、きっかけがあったに違いない。
彼の人生を、価値観を変えるような出来事が。
「死亡したのは……」
ユーリは一〇年前の頁を捲った。流石のベアトリーチェでも、国の図書館の資料に手は出せない。
「水・光魔法に適性。享年一六歳」
記されているのは、過去の事実。
「――ティア・アルフローレン」
少女の死亡した年齢は、当時のベアトリーチェの年齢と一致する。
ベアトリーチェからの伝言を紙の鳥を飛ばして伝えたローズは、翌朝改めてユーリに口頭で伝えたが、ユーリは静かに頷くだけだった。
「……そうか」
「別行動とはなりますが、指輪の捜索は行うとのことでした」
ローズの言葉に、ユーリは渋い顔をした。
指輪の捜索とこちらには言ってはいるが、ベアトリーチェの先日の行動から考えて、彼は指輪より薔薇を優先して探している可能性は高い。
「申し訳ございません。兄様も、お考えがあってのことだとは思うのですが……」
ユーリがそんなことを考えていると、ローズも見知った顔の少年がそう謝罪した。
「貴方は……」
「……おはようございます。ローズ様。以前は大変失礼いたしました」
ベアトリーチェを『兄様』だと言ったのは、騎士団入団の際、ローズを縛りあげたあの少年だった。
「僕はジュテファー・ロッドと申します。兄様の……いえ、副団長、ベアトリーチェ・ロッドの弟です」
「貴方が……?」
「?」
ローズは少年を観察した。
礼儀正しく頭を下げる彼の雰囲気は確かにベアトリーチェに似ている気もするが、顔自体はそこまで似ていないような気がしたからだ。
「……やはり、弟がいらっしゃったんですね」
「はい。兄は心から尊敬する僕の兄様です」
ジュテファーはにこりと笑った。
「失礼ですか、ご年齢は?」
「今年、一三になりました」
「随分年が離れているのですね……?」
ローズは思わず訊ねていた。
外見年齢だけならベアトリーチェは彼とそう年が離れていないようには見えるが、ベアトリーチェの実年齢は二六歳だ。
二六歳と一三歳では随分離れている。
「ええと……それは、血が繋っていないので」
「え?」
「兄様は、父様に才能を見込まれて養子に入られた方なので……」
「……すいません。失礼なことを」
失言だ。申し訳なさそうに言うジュテファーに、ローズはすぐ謝罪した。
「いいえ。……それに、兄様は命の恩人でもあるんです。だから父様の後継には、兄様が相応しいと思っておりますし……」
――命の恩人? 後継?
ローズはジュテファーの言葉が少し引っかかったが、詳しく聞くことは出来なかった。
「申し訳ございません。実は副団長に呼ばれていて。これからそちらに向かっても構いませんか?」
「ああ。構わない。元々君はビーチェの補佐だしな」
「ありがとうございます。団長」
ジュテファーはそう言うと、頭を下げて二人の前を後にした。
「ユーリは知らなかったのですか?」
ジュテファーの姿が見えなくなる頃、ローズはユーリに尋ねた。
ローズがそんな質問をしたのは、ジュテファーの言葉にユーリが驚いたように見えたためだ。
ユーリがジュテファーを弟だということも、養子で伯爵家に入ったことを知らないなんて、有り得ないはずなのに。
「養子であることは知っていましたし、彼が弟であるのは知っていましたが、ビーチェ自身は爵位は弟にと言っていたので驚いて……」
貴族の結婚は、魔力が強い者の方が身分の劣る場合を除き、通常近しい家柄で、魔力が同程度の者と行われる。
それはそうする方が生まれた子どもが強い魔力を持つ場合が多いためであり、このような婚姻を繰り返すために、身分ある家系に魔力の弱い子どもは殆ど生まれない。
王族でありながら魔法を使えないリヒトの方が珍しいのだ。
だからこそ、実子であるジュテファーが魔法を使えるのに、ベアトリーチェが養子として迎え入れられたのがローズは少し疑問だった。
それに本来爵位を継ぐべき立場の人間が、ベアトリーチェに爵位をと言うのも変だ。
「ベアトリーチェ様が?」
「……」
ローズのベアトリーチェに対する呼び方を聞いて、自分との呼び方の違いに気付いてユーリは一瞬表情を曇らせた。だが、すぐにユーリはいつもの彼に戻りローズに話を合わせた。
「妙な話ですよね……?」
ベアトリーチェは爵位を継がず弟を支えようと思っていて、ジュテファーは養子の兄に爵位を譲り、兄を支えようと思っている。
二人の考えがすれ違っている理由がわからず、ローズは更に首を傾げた。
彼の家庭事情はなかなか複雑らしい。青い薔薇の屍花といい――何か理由があるのだろうか?
それは、今のローズには分からなかった。
◇
「やはり、手掛かりは無し、ですか……」
事件が起こり五日目。
ベアトリーチェが不在ということもあり、ローズは毎日ユーリと行動を共にしていた。
しかし甘い雰囲気など露ほどもなく、元々自分にも他人にも厳しいローズは、職務中はずっと仕事モードでユーリには接していた。
ユーリが肩を抱こうものなら、叩き落とされるに違いない。
勿論、公爵令嬢であるローズに、許しも得ず軽々しく触れるユーリでは無いのだが。
「しかしここまで他に被害がないとなると、今回のことは、ベアトリーチェ様を狙った犯行と考えるのが良いのかもしれませんね」
リヒトの発明品は結局どれも使えず、ローズたちは町の警邏をしつつ、手掛かりになりそうなことを探していた。
でも何も見つからない。
考えた結果、ローズは今回の事件の発端にある結論を出した。
「ビーチェを?」
「考えてもみてください。鍵を鍵と知りながら使わない。どう考えてもおかしいではありませんか」
「確かに……」
指輪が盗まれて使用されたのは、ユーリが王都からでるための扉を閉めさせた後だ。
今は既に開けられているが、検問は厳重に行われている。
魔法式を保存できる石は探知機に必ず引っかかるため、外に持ち出されることは有り得ない。
だとしたら指輪はまだこの王都にあり、警備が厳しくなってから使用され、かつ二度目の使用はされていないことになる。
どう考えてもおかしい。
だとしたら犯人の狙いは、ベアトリーチェ個人、あるいは青い薔薇ということになるが、青い薔薇の研究に最も熱を入れている彼の言葉から考えると、薬として使用出来ない青い薔薇を危険を冒してまで盗むのはおかしいようにローズには思えた。
もし犯人が本当に青い薔薇を欲し、そのために指輪を盗んだならば、当然ベアトリーチェの論文は全て読んでいる筈だからだ。
ベアトリーチェしか育てることの出来ない屍花《はな》。それを盗む意味はない。
「ユーリは、彼についてどれほど知っているのですか? 騎士団長として、副団長のことは知っていますよね?」
「いや……」
ローズの問いに、ユーリは曖昧な返事をした。
「ビーチェは、あまり自分のことを話さないので。俺のことはよく見てくれているんですが、ビーチェの言葉は比喩? が多くて。直接的なことはあまり言わないので」
「つまり、よくわからないと」
「…………はい」
「彼の過去について、調査したほうがいいのかもしれません。彼に恨みを持つ人間、悲しむことを望む人間……狙う理由はわかりませんが」
「ビーチェに恨みを持つ……」
ユーリにはリヒトくらいしか思いつかなかった。
『私は――貴方が嫌いです』
そうしてふと、自分の言葉に傷付いた顔をしたリヒトを思い出して、ユーリは顔を曇らせた。
泣きそうな表情。
あそこまで自分の言葉で、リヒトが傷付くとはユーリは思ってもみなかった。
そして自分の中に生まれた感情も、ユーリは整理できずにいた。
――貴方に、そんな表情《かお》をさせたいわけではなかったんだ。
「……っ!」
その時、ユーリは強い頭痛に襲われて頭を押さえた。
誰かの声が頭の中に響く。
『君ならば空を飛べる。君の剣は天にも届く。だから俺は――君に、『天剣』の名を与えよう』
――誰、だ……?
ユーリの記憶にはない言葉。それでもその声を聞くだけで、ユーリは懐かしさに胸が苦しくなった。
ユーリは記憶を辿ろうとしたけれど、靄がかかったように景色は霞んで、誰が言ったのか思い出せない。
「……ユーリ?」
記憶の片鱗を掴みかけた気がしたその時、ユーリはローズに名前を呼ばれて現実に引き戻された。
「ああ。い、いえ。なんでもありません」
慌てて頭を押さえていた手を下ろす。
「とりあえず、騎士団に保管されている資料をあたりましょうか?」
ユーリの言葉に、ローズは頷いた。
◇
「ありませんね……」
「そうですね」
団長・副団長と一部の人間だけが閲覧を許される騎士団の資料室に、本来保管されてあるべき彼の情報は、何故かベアトリーチェとジュテファーの分が欠如していた。
ベアトリーチェが隠したに違いない。
ユーリはそう思い眉をひそめた。
そしてユーリはこうも思った。
ジュテファーをベアトリーチェが呼んだのは、自分のことを知っている人間を手元に置く為だったのではないだろうかと。
けれど何故ベアトリーチェが、自分の経歴を隠すのかがユーリには理解出来なかった。
ユーリとローズは、ベアトリーチェのことについて歳を重ねた騎士たちに尋ねてみたが、先日のこともあってか、彼らはローズたちの質問には答えてくれなかった。
誰もが「あの方は大変な想いをされたから」とか、「苦労された」とか、そんな言葉ばかりを並べた。
そして騎士団での情報収集を諦めたユーリとローズは、王都でベアトリーチェの評判について聞くことにした。
「ベアトリーチェ様? あの方ほどの貴族はいないよ!」
「ベアトリーチェ様はどなたにもお優しい」
「あの方が爵位を継がれるのは当然だ」
「騎士としても研究の分野でも成果を挙げられている。強く賢い」
「体は小さいが、それは魔力のせいだと聞いている。その分、心の大きな方だ」
「思慮深く、相手を思いやれる方。あの方を怒らせるのは相当難しいのではないでしょうか?」
「娘を嫁にやるのなら、この国では一番あの方が安心と専らの評判ですよ。尤も未来の伯爵様に、俺たちのような人間は恐れ多くてとても言えませんが」
王都の住人たちは、身分の貴賎を問わず誰もがベアトリーチェのことを褒めたたえた。
「評判……」
「まさかここまで良かったなんて……」
ローズは些か驚いた。
変わり者のロッド伯爵とその後継。
まさか後継と呼ばれるベアトリーチェが、ここまで人々の心を得ていたなんて。
「平民出身だというのもあって、彼はいろんな立場の人間から信頼を得ているのでしょうね。しかし……」
だからこそ、今回の彼の行動は異常だ。ローズは余計にそう思えた。
ここ数日、騎士団の輪を乱す彼の身勝手な行動。
それは、人心を得ている人間の行いとはとても思えない。
「ビーチェの過去について、私はまた別の角度で調べてみようと思います。もう日が暮れますし、ローズ様はお屋敷にお戻りください」
「わかりました」
気付けばだいぶ陽が落ちていた。
ローズは紙の鳥をミリアに飛ばすと、馬車で屋敷へと帰った。
彼女の父である公爵が、娘が一人で行動することをあまりよく思ってはいないのだ。
騎士団入団は認めた公爵だったが、可能な限り娘の送迎はさせてほしいと、ユーリは公爵に言われていた。
「では、ユーリ。また明日」
「はい。また明日」
ユーリはローズに向かって笑顔を作った。
馭者を務めていたミリアが馬に鞭打ち、馬車が動き出す。ローズを笑顔で見送ったユーリは、引き続き次の調査へと向かった。
ローズが屋敷に帰ると、訓練を終えたらしいギルバートが、ローズの眉間にちょんと指を押し当てた。
ぐりぐりぐりぐり。普段人に触られない場所で押しまわされ、ローズは慌てた。
兄の行動が理解できない。
「あ、あの。お兄様?」
「眉間に皺が寄っているぞ。ローズ。難しい顔をして、どうかしたのか?」
漸く指を離したギルバートは、ふっとローズに笑いかけて尋ねた。
「お兄様」
「俺には言えないことか?」
「……その、騎士としての仕事のことなので……」
ローズは兄から目線を逸らした。
大好きな兄で公爵子息とは言えど、事が事だけに軽々しく家族に話すべきではないだろうとローズは思った。
「ああ。だったら俺には言えないな」
ギルバートはそう言うと、ローズの頭をポンポンと軽く撫でた。まるで、気にするなとでも言うように。
「お兄様は」
そんな彼に、ローズはずっと疑問だったことを尋ねた。
「私の考えの全てがわかるのではないのですか……?」
ギルバートは昔から、ローズに完全な答えは教えない。
けれど彼の言葉は、まるで遠い未来が見えているかのように思えて仕方がないことがあったのだ。だからこそ幼い頃のローズは、兄が神様のように思えて仕方がなかった。
自分の全部をわかってくれる。これから起こる全てを見通せる。
そんな、絶対的で正しい神様に。
「俺は相手の話が嘘か本当かどうかがわかるだけであって、俺は人の考えの全てがわかるわけじゃない。ただ、それがわかれば推測の材料としては十分だろう?」
妹の羨望の眼差しに気付いて、ギルバートは苦笑いした。
「それに特別な目なんてなくても、相手の感情を感じ過ぎてしまう人間は居る。鏡のように相手の心を映す。そう言う人間は、自分の領域を侵されることにも敏感だ。――だから、気を付けろよ?」
昔からローズは、兄の言葉の全ての意味は分からない。
「?」
「あんまり踏み込むと、壁を作られる可能性があるぞ」
「それはどういう……?」
「今の俺に言えるのはそれだけだ」
ギルバートはそう言うと、自室へと戻っていってしまった。
「ローズ様。ゆっくり休まれてくださいね」
「ありがとう。おやすみなさい、ミリア」
夜。
ミリアに就寝の挨拶をして、ローズは自分の部屋の扉を閉めた。
天蓋付きのベッドに体を横たえる。
公爵令嬢の自室ということもあって、ローズが華美なものをあまり好む性質ではないにしても、父やミリアたちが彼女を思い用意した部屋は、女性らしさと優雅さを兼ね備えた調度品で纏められている。
ローズは大きく息を吐いた。
箸より重い物は持ったことは無い。
これまで社交界ではそう取り繕ってきた自分だが、最近剣を毎日握っているせいで少し硬くなった皮膚を撫でる。
「こんな私を妻に欲しいという方などいるのでしょうか……?」
ローズは苦笑いした。
ドレスを着てダンスを踊るより、男に混じって剣を振るう方が、自分の性に合っている。
そう思ってしまう最近の自分は、これから一生誰とも結婚なんて出来ない気がした。
望まれても、相手に合わせて妻らしく振る舞える自信が、今のローズには無かった。
四枚の葉。
そんな時、ローズは事件が起こる前に、ベアトリーチェに渡された葉のことを思い出した。薔薇のケースを開く。
光魔法で生命を維持しているおかげで、今のところ枯れる葉が様子はない。
『私は貴方にこれを託しましょう。貴方が幸福を願うその相手に、どうかその葉を渡してあげてください』
ローズには、何故ベアトリーチェが自分にそう言ったのか、彼の気持ちがわからなかった。
大体自分と彼は、そこまで親しい間柄ではない。
ではなぜ、彼はこれを自分に渡したのか。
『ベアトリーチェ様はどなたにもお優しい』
彼は、誰にでもこうなのかもしれない。ローズにはそう思えた。
きっと彼が自分にかけてくれる優しさは、彼が他の人間に与えるものと変わらないのだと。
大地はその地面に宿す栄養を、水を、全てのものに分け与える。
人を愛し、支え、育てる。
それが、地属性の適性。
彼は属性を体現したような人間だが、成長が止まるほどの回復力を持つとなると、一般的な適性を遥かに超えるきっかけがあったと考えるほうがいいのかもしれない。
魔法は心から生まれる。
魔力の強い人間ほど、強い心の傷を抱えるという説もある程だ。実際ローズは、魔王討伐後、回復力が上がっている。
人の心に負荷がかかり、それを乗り越えるほど、その人間の魔法は強くなる。
だからこそ、先天的に魔力の強い人間以外に、後天的に魔力が上がる人間がいるのだ。
この世界では、魂は巡るものという考え方もあり、生まれつき強い魔力を持つ人間は、前世で心に深い傷を負った人間である可能性が指摘されている。
ただこの説は、前世の記憶を持つ人間が少なく、まだ証明は出来ていない。
「彼は……」
ベアトリーチェは、養子だ。
この世界では、普通平民に魔力の強いものは生まれない。
この世界で平民で強い魔力を持つ人間は、【神の祝福】を受けた人間であるとされる。
「どちらなのでしょうか……?」
先天的なのか,後天的なのか。
あるいは自分のように、そのどちらもなのか。
そしてもし、彼が生を得てから魔力が強くなったのなら――結果には必ず原因がある。
「養子……青い薔薇……」
ローズは一人呟く。
『この花は、屍花なのです』
そう言った彼の言葉が、今はやけにローズの頭の中に響いた。
月の世界の、青い薔薇の国。
彼の周りを取り囲む、誰かの分身。愛しげに花に触れる彼。
「そうか」
ローズはふと、薔薇園を思い出してあることを思いついた。
そうしてベアトリーチェから貰った四つの葉を持つ植物を、ローズは薔薇のケースから取り出した。
数年前に貰った、リヒトの発明品で、数少ない利用価値のある道具。
この容器に入れておけば、少ない魔力で状態を保存できる。
「――そうすれば……」
ローズはそう言うと、そっとその葉に触れた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
ローズと別れたユーリは、国立図書館を訪れていた。
ユーリにローズのような医療知識は無い。
「青い薔薇……」
図書館の資料は膨大だ。
ベアトリーチェの管理する研究施設の資料は四つの部屋に纏められているらしく、そのうち一室に案内されたユーリは驚いた。
壁一面を埋め尽くす夥しい量の資料が、そこには保管されていたからだ。
ベアトリーチェは騎士団の副団長も務めている。
その仕事の傍ら研究を続けていたのだとしたら、騎士団の管理を怠った自分に対して怒り、『手が回らない』と言ったのもユーリは頷ける気がした。
ユーリは目に入った本をぺらぺらと捲ったが、知らない名前の羅列ばかりで、全く頭に内容が入ってこない。
知らない魔法陣。知らない植物の名前。どの属性の魔法をかけ、その時間はどれほど継続すべきなのか。魔法をかけることによっての効能の変化等――……とても覚えられるものではない。
ユーリは眩暈がして本を閉じた。
溜息を吐きながら本を戻すと、ふと彼の目の前を柔らかい光が横切った。
「光……?」
ふわふわと、それは踊るように楽し気に、ユーリのまわりをくるくる周る。
そして光はユーリから離れて飛ぶと、とある本の前で止まって消えた。
「…………?」
ユーリは首を傾げつつ、その場所へと歩いた。
そこには一冊の本があった。
「『精霊病』……?」
背表紙にはそう書かれていた。
ユーリは本を手に取るとパラリとと捲る。
中にはまず、こう書いてあった。
「【魔法式を書き込める石のことを、古くは精霊晶と呼んでいたことに由来する。この病を罹患した人間の心臓は石となり、魔法式を保存することが可能である。発病率は限りなく低いが、世界中で発症例がある。不治の病とされていたが、クリスタロス王国ベアトリーチェ・ロッドが、特効薬の開発に成功。これにより、屍花『青い薔薇』を第一級指定薬に認定。】」
探していた本はこれだ。
ユーリは安堵した。知識のないユーリが、薬の調合方法など知ってもなににもならない。
欲しいのは、青い薔薇とベアトリーチェに、どんな関わりがあるかだけだ。
ここまでは、ローズも知っている情報だろうとユーリは思った。
しかし流石の彼女でも、誰が病に罹り亡くなったかまでは、把握していないだろう。
ユーリは本の頁を捲った。
そこには、この病にかかった人間の名前と年齢、出身地がずらりと記されていた。
未曽有のこの病は、国家による闇魔法の実験が疑われ、その罹患者数の分布が調査された。彼らの国籍・年齢・経歴・魔法適性に至るまで。情報量は膨大だ。
「罹患者は……」
魔法適性なし。発病時9歳。完治後、地属性の適性が発現。
「ジュテファー・ロッド」
ベアトリーチェの弟の名前だ。
命の恩人という彼の言葉は、『精霊病』に罹り死ぬはずだった命を、救われたという意味だろう。
ベアトリーチェが伯爵家に入ったのが、元々家を継ぐべき嫡男が魔法を使えなかったことが原因だったとしたら、ユーリは納得は行った。
ベアトリーチェは悩んだはずだ。
養子に入った頃はジュテファーには魔法が使えなかったなら、自分という存在が、新しく出来る弟を否定することに繋がると理解していたなら。
それでもベアトリーチェが伯爵家に入ったのは、きっかけがあったに違いない。
彼の人生を、価値観を変えるような出来事が。
「死亡したのは……」
ユーリは一〇年前の頁を捲った。流石のベアトリーチェでも、国の図書館の資料に手は出せない。
「水・光魔法に適性。享年一六歳」
記されているのは、過去の事実。
「――ティア・アルフローレン」
少女の死亡した年齢は、当時のベアトリーチェの年齢と一致する。