『婚約破棄された悪役令嬢は今日から騎士になるそうです。』約束の青い薔薇編

「決めねばならん。ローズの新しい婚約者を」 

 クリスタロス王国公爵、ファーガス・クロサイトは、机の上に娘の縁談の手紙を積み上げて、窓の向こうに昇る朝日を眺めていた。

 魔王討伐後、レオンが纏めさせたローズの英雄譚は、今や国民の――いや、世界が知るところとなっている。
 元々ローズを望む人間は多くいたが、これまではリヒトやレオンのことがあって強く言ってくる者はいなかった。
 しかし今、リヒトに婚約破棄されたローズには、国内外問わず毎日縁談が届いていた。
 中には他国の王子たちの名も多くあり、ファーガスは日々頭を悩ませていた。

 公爵令嬢であるローズが騎士になることを認めた公爵は、一人娘を溺愛していた。
 おそらく娘は国外へ出ることを望まない。
 では、やはり無難にレオン王子に嫁がせるべきか? ――いや、それでは駄目だ。レオン王子に嫁がせた場合、ローズはリヒト王子の姉という立場になってしまう。
 娘にはせめてこれからの人生、心穏やかに過ごしてほしい。
 ファーガスはそう考えていた。
 娘が騎士として生きたいと望むなら、それを認めたうえで女性としての幸せを与えてくれるような相手が望ましい。そのためには身分のある家系であることが必要だ。そしてローズに相応しいと周りの人間が思えるほどの、人望・能力も求められる。

「やはり、彼が適任か」

 ファーガスはそう言うと、ゆっくりと瞳を閉じた。
 この世界には娘を物のように扱い結婚させる親も多いが、祖父の代から恋愛結婚の家系であるクロサイト家現当主である彼は、心から娘の幸福を願っていた。

 今のところ娘に好きな相手はいないらしい。ならば彼女に相応しい男を選ぶのが、親の役目というものだろう。
 最近剣一筋の娘は、このまま行けばいかず後家になりかねない。彼はそれは避けたかった。
 ただもし娘を嫁がせるなら、娘を傷付けず、守り、慈しんでくれる――その器が無ければ安心出来ない。
 もうリヒト王子の時のような失敗は出来ない。

「彼ならば、ローズに相応しい――……」


 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「きびきび動いて下さい」

 ぱんぱんと手を叩く小柄な彼の、その態度はかなり大きい。
 反論を許さず指揮をとる、彼の持つ独特の威圧感に押されて、騎士たちは黙々と部屋の中の荷物を外へと運んでいた。
 鬼だ……鬼が居る!
 命令に従う騎士たちの心は、全員綺麗に一致していた。

 クリスタロス王国騎士団副団長。
 ベアトリーチェ・ロッドは、その見た目に反して今日も立派に騎士団を纏め上げていた。
 普段温厚な人間ほど怒らせると怖いのだ。
 先日騎士団長であるユーリを叱責した彼の姿を思い出して、騎士たちは震えた。

「どうしたんだ?」
 そこへ本来非番の筈のユーリがやって来る。
 今日はローズが午前中騎士団に居る予定だったため、ユーリがここに来たのはその為だろうと騎士たちは推測した。

 ユーリは基本、真面目で優しい。
 休日返上で仕事をしていることも多いから、今日もそのつもりだった可能性は高いが、最近の彼の行動はローズが中心なので、騎士たちは生温かい目をユーリに向けていた。
 自分たちの長は、現在青い春真っ最中らしい。

「ええと、実は……。アカリ様がローズ様のところに遊びに来られてたんですけど、その時に虫が出たんです」
 ユーリの問いには、ベアトリーチェの傍に控えていた少年が答えた。
 会議の際、ベアトリーチェの補佐をつとめていた少年だ。

「虫……」
「…………はい。虫です」
 彼は、手で虫の大きさを表現した。
 確かにその大きさなら、アカリが怖がるのも仕方ないとユーリは思った。

 アカリは魔王討伐後、よくローズに会いに来ている。
 以前のように二人の仲が悪ければ周りもとめただろうが、今は姉妹のように二人は仲が良い。
 ローズ(うつくしいあね)のために差し入れを持ってくるアカリ(けなげないもうと)を咎める者は誰もいない。

「まさかここまで管理がなっていないとは思いませんでした」
「ビーチェ……」
「ユーリ。貴方にも責任がありますよ。私が席を空ける日があるからこそ、貴方が目を光らせていてくれないと困ります。男所帯なのだから油断しないでください。流石に私も手が回りません」
「すまない……」

 ベアトリーチェに叱られユーリは謝罪した。
 騎士団の外となればユーリを立てるベアトリーチェだが、騎士団の中での二人の関係は、指導者と追随者、あるいは教師と生徒だ。

「ここはこれを使って掃除をすると良いですよ」
「……ろ、ローズ様!!」

 わざわざ休日出勤したのに怒られて項垂れていたユーリだったが、ローズの声が聞こえて彼は顔を上げた。

「おはようございます、ユーリ。……でも確か、貴方は今日非番だったのでは……?」

 ローズは首を傾げる。
 『ローズ様、そこに気付かないで!』騎士たちの心は再び一つになった。

「……い、いえ。わ、私は騎士団長なので、休日ですが何か騎士団の為に出来ることをと思いまして……」
 ユーリの言葉はカミカミだった。

「ユーリは真面目ですね。尊敬します」
 ローズは心からの賛辞を述べた。
 想い人に優しく微笑みながら褒められて、ユーリは思わず胸を抑えた。嬉し過ぎて胸が苦しい。

「お、おはようございます。すいません。私のせいで……」
「アカリ様のせいではありませんよ」

 騎士たちは、申し訳なさそうにするアカリに微笑んだ。
 あれから、男性に触れられたら泣いてしまうというアカリの体質を知った騎士たちは、アカリと物理的な距離はあるものの、心理的な距離は以前よりずっと近くなっていた。

「申し訳ありません、ユーリ。アカリが怯えていたので傍についていたのですが、落ち着いたようなので私も手伝おうかと」
「――ローズ様は、掃除(このようなこと)にも心得がある方なのですね」

 ローズがそう言って水魔法でバケツに水をためていると、後ろから甘さを含んだ声が聞こえて、ローズは振り返った。
 艶のあるアルトの声は、ベアトリーチェの特徴の一つだ。

「申し遅れました。私はベアトリーチェ・ロッド。ここの副団長を務めております」

 以前の印象とはまるで違う。
 大人びた優しげな声で挨拶をされて、ローズはどう反応すべきなのか困惑した。

「……」
「警戒なさらないでください。確かに以前の貴方は騎士には相応しくないと思い厳しく接してきましたが、今は考えを改めておりますので」
「え?」
「あの戦いで、なにか新しく見出されたのでしょう?」

 ローズは自分の心を見透かされたような気がしてドキリとした。
 つまり彼は、自分の未熟さと成長をきっちり見抜いて認めると言っているのだ。

「すいません。突然このようなことを言われても困りますよね?」
 ベアトリーチェは苦笑いする。

「こんな外見ではありますが、一応私は貴方より年上ですので、人のことはよく見ているつもりです。今後何かお困りのことがあれば、私を頼ってください。……ああ。そろそろ行かなくては。ユーリ。私はこれからあちらの仕事に行くので後は頼みます」
「え? 俺は今日は非番……」
「先程貴方が言っていたではありませんか。今日は騎士団の為に働いてくれるのでしょう?」
「…………わかった」

 ――合掌。
 騎士たちはユーリに同情の目を向けた。
 ユーリは、ローズに見栄を張ってしまったため断れない。
 休日返上で掃除決定だ。
 ベアトリーチェは意気消沈するユーリを放置して、ローズたちに一礼すると、さっさと門の方へといってしまった。

「……行ってしまわれましたね」
「ユーリ、騎士団以外の仕事とはなんなのですか?」
 ベアトリーチェの見送って、ローズはユーリに尋ねた。

「詳しくは知らないのですが、確か植物の管理……そう聞いています。ローズ様の試験の時もそれで居なかったんですよ」
「そうだったのですね」

 立場あるが人間が自分の試験のとき不在だったことは不可解だったが、そんな理由があったのか。
 ローズは一人納得した。
 ――でも騎士団と両立しなくてはならない仕事なんて、なんの仕事なのだろう……?
 それに彼の名前は、ローズはどこかで聞いたことがある気がした。
 ローズが疑問を口にする前に、アカリがユーリに尋ねた。

「そういえば、ずっと疑問だったんですけど、ベアトリーチェさんって何歳なんですか?」
「ああ。二六歳ですよ」
「一〇歳年上……」
 衝撃の事実にローズは思わず呟く。

「合法イケショタ」
 アカリはぼそりつぶやく。

「アカリ、何か言いました?」
「い、いいえ。何も!」
 ローズに尋ねられ、アカリは慌てて誤魔化した。

「随分とお若いんですね!」
 アカリは話を変えた。

「ああ。それはビーチェの魔力のせいですよ。魔王討伐の時にお二人はご覧になったかと思いますが、ビーチェの魔力は回復量が普通の人間より多いせいで、どうやら成長が止ま……いえ、遅いみたいで」
 ユーリは失言に口元を抑えた。

「……今のはビーチェには言わないでください」
「成長、止まってらっしゃるんですね……」
 アカリはしみじみ言った。

「じゃあ、あとは頼んでいいかな?」
 大方の掃除を終えたローズは、掃除のために纏っていた魔法をといた。
 ベアトリーチェから課せられた課題(そうじ)のために、一日が終わりそうなユーリは、ローズとは分かれて掃除をしていた。
 指揮をとれる人間が複数いる場合、分かれたほうが細かいことにも目が行くし、早く終わるとユーリ自身が判断したためだ。
 彼の真面目さは身を削る。

「はい。お任せください。ローズ様」
「ありがとう」
「すいません。私も失礼しますね」
 アカリはペコリと騎士たちに頭を下げた。
 アカリは本来騎士団の人間ではないが、ローズに会いに来ていたアカリは、結局ローズの班で掃除の手伝いをしていた。

「お手伝いありがとうございました。アカリ様」
「――はい。どういたしまして」

 騎士団の中で、以前アカリのことを誰もが『聖女様』と呼んでいたが、今は少しずつだが、彼女のことを『アカリ様』と呼ぶ人間も増えている。
 そう呼ばれるたびに少し照れる彼女を見て、ローズは微笑んでアカリの手をとった。

「それではアカリ、行きましょうか?」
「――はいっ!」
 アカリは元気よく返事をした。



「ローズさんは甘いものがお好きなんですね」
 アカリとローズは、仲良く城下を歩いて話をしていた。
 本人たちは無自覚だが、二人とも知名度が高すぎるせいで、二人が通る場所が「道」になっていく。

「はい。甘いものには目がなくて……。私はフィガルが一番好きです。あまり良くないとは思うのですが、つい食べてしまいますね。アカリはなにか好きな食べ物はありますか?」
「そうですね。この世界に来てだと一番おいしいと思ったのは……」

 この世界には異世界からの転生者や転移者が過去にも居り、彼らが使っていた言葉や名前が今でも残っている。
 ローズの作るマヨネーズを使ったサンドイッチも、元々彼らが伝えたものだ。
 因みにローズが作るサンドイッチは甘く、マヨネーズに砂糖を入れてある。
 甘いサンドイッチをアカリはこの世界に来て初めて食べたが、案外口に合う――というか、心から美味しいと彼女は思っていた。
 ……勿論、作るのがローズだからというのもあるけれど。

「ローズさんの手作りのサンドイッチが一番好きです!」
「……褒めても何も出ませんよ?」
 ローズは照れつつ微笑する。

「ローズさんのサンドイッチは世界一です!」
 そんなローズの表情の変化が嬉しくて、アカリはぐっと手を握った。
 年齢の割に子どもっぽいアカリの挙動に苦笑いした後、ローズは温かな目を彼女に向けた。子どもの成長を見守る母のように。

「アカリ、神殿での仕事はどうですか?」
「はい。少しずつですが……前よりはちゃんと出来ているかなって。この間は褒めてもいただけたんです。闇魔法に汚染された水をやっと浄化できるようになって……」

 魔王討伐の際、ローズを守るために『加護』を使ったアカリだが、実はまだ、完全に使いこなせるようになったわけではない。
 追い込まれ、ローズを守るために覚醒の片鱗を見せた彼女だが、三ヶ月程度の訓練で使いこなせるほど、そもそも魔法は簡単なものではないのだ。

「よかったですね」
「はい!」

 アカリは日々、神殿で働きつつ魔法を学んでいる。
 ローズはというと、魔王討伐後も騎士として生きることを選んだ。
 普通であれば公爵令嬢に戻って早く結婚相手を見繕うべきなのだろうが、本人はまるでその気がなかった。
「ローズさんは騎士団でどうなんですか?」

「毎日楽しく過ごしていますよ。魔法の精度も上がりましたし、前より回復量も増えたようでたくさん使えるようにもなって……。それにうまく言えないんですが、日々鍛錬を行っていると、もしかして私の魂はずっと騎士として生きてきたのではないかと思うほど、剣が体によく馴染む気がするんです」

 公爵令嬢としてそれはどうなんだろう……。
 アカリはそうも思ったが、ローズが楽しそうなので笑顔を作った。

「じゃあ、私はこれからお仕事なので」
「頑張ってください」
「はい! ありがとうございます!」

 神殿までアカリを送ったローズは、自分に手を振る彼女に手を振り返す。
 『光の聖女』に宿るとされる強大な力を完全に使いこなすために、努力を重ねるアカリの姿を見ていると、ローズは彼女との過去を、遠いことのように感じている自分に気が付いた。
 関係は緩やかに変わる。
 アカリが壁の向こう側に姿を消すのを見守り、ローズは神殿に背を向けた。

 聖剣は魔王討伐後無事ローズに返還され、ローズは今聖剣を帯剣しているが、返還された際『聖剣の守護者』という名もローズは国王から賜った。
 赤い瞳と同じ赤い石のはめ込まれた剣はキラリと輝き、彼女の高潔さを際立てる。
 高く結われた黒髪はサラリと揺れ、颯爽と歩く男装の騎士であるローズに、人々は目を奪われる。

 『ローズ・クロサイト』の名は、今は世界中に轟いていた。
 美しさとともに強さも兼ね備えた、心優しき男装の騎士――。
 今や騎士団における将来有望株は、ユーリ、ベアトリーチェに続いて、何故かローズの名が挙げられているほどだ。
 公爵令嬢としての男性人気はさることながら、男装騎士としてのローズの女性人気はとどまるところを知らない。

 『ローズ様であれば女性でも構いません! 結婚してください』と、毎日のように同性の友人を装った告白の手紙が届いているほどだ。
 ミリアは日々粛々とそれを処理している。

 ローズ本人はそのことを知らなかったので、
『安心してください。お嬢様に近付こうとする女狐は私が排除します』
『? ありがとう?』
 手を握ってミリアに言われても意味がわからず、ローズは首を傾げつつそう返していた。
 日々女狐に狙われているお嬢様は女性である。

「ミリアにはこれと……お父様にはこれ……お兄様はこれがお好きでしたよね」

 アカリと分かれたローズは、家へ持ち帰るためのケーキを選んでいた。
 十年間、兄のために戦ってきたローズにとって、今の生活は喜びばかりだ。
 ついつい顔がほころぶ。
 今は兄のためにお土産を買ってかえることが出来るのだ。嬉しくてたまらない。
 ローズがお土産を選んで店の外に出ると、人だかりが目に入った。
 見れば妙齢の少女たちが、きゃあきゃあと黄色い声を上げている。

「なんの騒ぎでしょう……?」
 ローズが疑問に思いながら近付くと――。

「やあ、ローズ」
 騒ぎの中心にはレオンがいた。
 レオンの周りには女性がたむろしていた。

「レオン様、これは一体……」
 ローズは思わず頬をひくつかせた。
 ――また、この方は……。

「ああ、今日は城下を視察に来たんだけど、女の子に話しかけられてしまってね」
「相変わらずおモテになりますね」
「なに? やきもち……?」
 レオンはそう言うと、ローズの髪を指に絡めて口付けた。

「君が僕の求婚に『はい』と言ってくれたら、僕は喜んで君だけを選ぶよ」

 きゃ――! 
 レオンの熱い求愛の言葉に、少女たちは声を上げた。ローズとレオンの二人は、見目と立場なら『お似合い』なのだ。

「やめてください」
 ローズは表情を変えずレオンの手を払った。
 彼が目覚めてから二週間。連日何度も行われると、流石に慣れる。
 またどうせこの人は自分のことをからかっているだけなのだ。ローズはそう思って顔を顰めた。

「私が選ばなくても、一国の王子が不特定多数の女性とこのような場で過ごすのはいかがなものかと思います」
「相変わらず、かたいなあ。ローズは」
「立場をわきまえているだけです」

 ローズは溜め息を吐く。
 レオンはそんなローズを見てくすくす笑った。
 この相手に対しての誠実さが、彼女が騎士で公爵令嬢でありながら、多くの女性に「理想の王子様」と慕われている理由である。
 ローズがレオンと話をしていると、道の向こう側から、聞き慣れた誰かの慌てた声が聞こえてきた。

「こら! やめろって!」
「馬鹿王子」
「アホ王子」
「『お前にはもうたくさんだー!!!』」

 リヒトが子どもたちに絡まれていた。
 レオンが作らせた『令嬢騎士物語』が発表され、ローズの人気はうなぎのぼりの一方、リヒトの人気は更にだだ下がりしている。 

「リヒトはああやって、子どもに囲まれている姿が本当似合うねえ。人間同じレベルの人間じゃないとつるめないと言うけど、リヒトには子どもがぴったりということかな?」
「レオン様。貴方が目覚められてからずっと思っていたのですが、リヒト様に対して態度がひどすぎませんか?」
「ローズはリヒトの肩を持つわけだ? 婚約破棄されたのに優しいね」
「別に……肩を持つわけではありませんが……」

 冷たい目を向けられて、ローズは視線を反らした。
 レオンの言葉は否定できないが、彼らが自分と兄との関係とは違いすぎて、どうしても気になってしまうのだ。

「痛っ!」
 リヒトをからかって遊んでいた子どもたちの一人が、押し合いになって転んだ。
 擦りむいたらしく、膝には赤く血が滲んでいた。

「……ったく。何やってるんだ。ほら、大丈夫か?」
 リヒトは、半泣きの子どもの手をとって立ち上がらせる。

「ああもう……泣くなよ……」
 しかしリヒトに子どもを泣き止ませる力はない。
 自分にちょっかいを出して怪我をした子どもを、リヒトは困った顔をして頭を撫でてなだめていた。

「どうかしたのでしょうか?」
「何事かな?」
「レオン様!」

 リヒトのもとにレオンとローズは近寄ると、子どもたちの目の色が変わった。
 レオンは子どもたちにとって、憧れの存在なのだ。
 レオンは目を覚ましてから精力的に城下におり、その際、雨で増水した川で溺れかけた子どもを助けるために、一瞬で川を凍らせ子どもを助けたという話は、今や王都に住むものならば、誰もが知る話である。

 レオンの属性は炎と氷。
 相反する二つの属性を持つ彼は、その力を合わせて水属性に近い魔法も使うため、実質彼は三つの属性を使い分けていた。
 レオン目当てに、一斉に子どもたちが走り出す。
 そのせいで、一人の少女が周りに押されて倒れかかった。

「おっと」
 そこを、レオンがさっと手を出して支えた。

「大丈夫かい?」
「……はい」

 その姿はまるで、物語の王子様そのもの。
 少女の瞳には、もうレオンしか見えていなかった。
 いたいけな少女の心を奪ったレオンを見て、ローズは顔を顰めた。
 ――この方は、またこうやって人を誑かして……。
 そして、ローズはとあることに気がついた。少女と同い年くらいの少年が、呆然と立っていたのだ。おそらく彼女を支えるために、伸ばした手をそのままに。
 初恋が散る瞬間。
 ローズの眉間の皺が更に深くなった。

 子どもたちに囲まれるレオンから離れ、ローズは泣いている子どものもとへ向かった。

「どうされたのです?」
「こいつが転んだみたいで……」

 リヒトは魔法があれからうまく使えない。
 指輪がある頃の彼であれば、水魔法と光魔法も使えたというのに、今の彼ではこの程度の怪我も治してやることができなかった。

「はい。これで大丈夫」
 リヒトの代わりに、ローズは光魔法で子どもの怪我を治してやった。

「……いいのか? あまり魔法は使わないほうが……」
 当たり前のように魔力を使ったローズに、リヒトは顔を曇らせた。
 強い魔力を持ち、全属性に適性を持つ。レオンの件もあり、ローズはこれまで他人のために魔力を使うことは制限されてきた。
 大事があった際常に最大の魔力が使えるように、回復力に合わせた魔法しか使えなかったのだ。
 人体に影響を与える光魔法は、他の魔法より魔力の消費が激しい。

「このくらいの消費ならすぐに回復できます。それに最近、前より回復力が上がったらしいので」

 自分の心配に対して、さらっととんでもないことを言った元婚約者に、リヒトは顔をひきつらせた。
 『測定不能』の魔力の上に『回復力の上昇』? とても同じ人間とは思えない。

「流石ローズ様!」
「お優しくて強いのですね!」
 そんなローズに、今度は人が集まる。

「あの……」
「魔王を倒したときのお話など聞かせていただきたいです!」
「えっと……」
 一斉に話しかけられ困惑するローズを、そっとレオンが後ろから抱きしめた。

「こらこらみんな、ローズを困らせたらいけないよ? 一斉に話しかけられたら、みんなだって困るだろう?」
「れ、レオン様……」
「君もまだまだ修行が足りないね。僕の王妃になるならこれくらいこなしてくれないと困ってしまうな。……まあ、そんな君の不器用さを、僕は可愛いと思うわけだけど?」

 づらづらと並べられる甘い言葉に、ローズは表情を強張らせた。
 日々あの手この手で口説かれ褒め殺されると、果たして彼の言葉のどこに本心があるのかわかったものではない。
 寧ろ全て偽りのようにすら思えてくる。

「レオン様もローズ様も、お二人共素晴らしい。お二人がいてくだされば、この国は安定ですね」

 しかし他人から見れば、二人の姿は紛れもなく未来の理想の王と王妃にも見えるらしかった。
 英雄譚で、ローズがレオンを十年間愛していたとも取れる記述があったためだろうとローズは思った。
 愛する人のために愛のない婚約を行い、そして命がけで彼を目覚めさせた――『令嬢騎士物語』。
 それはレオンと、ローズの愛の物語のようも読めるものだったのだ。
 実際のところはブラコンの妹が兄のために努力していただけで、レオンはおまけだったわけだが。

 世における正史とは、権力者によって作られたものであり、それが本当に全て正しいとは限らない。

「さて、そろそろ時間か」
「レオン様?」
 レオンローズを抱きしめていた手を離すと、銀時計で時間を確認して言った。

「ああ。ごめんね、ローズ。名残惜しいだろうけどまた今度」

 まるでローズが、彼にこのまま抱きしめられていたかったと思っているような言い草だった。
 ローズは微妙な気持ちになった。
 レオンのことは嫌いではないが好きでもない。ただの幼馴染というか、喧嘩相手で腐れ縁だ。

「リヒト、君も今日呼ばれているだろう?」
「はい……」
 ローズを無視して、レオンはリヒトに話を振る。リヒトは兄に名前を呼ばれて表情を暗くした。

「何かあるのですか?」
「今後の話を少しね。父上からお呼び出しがあったんだ」
 にこやかに笑うレオンと、下を向くリヒト。
 同じ髪色なのに、醸し出す雰囲気が間逆だ。

 レオンが戻ってからというもの、二人並ぶときのリヒトの表情はいつも暗い。
 ローズは別に、リヒトにこんな顔をさせるためにレオンを目覚めさせたかったわけではなかった。
 だからこそ、ここまで彼が落ち込むのを見ると、複雑な気分になる。
 ――どうしてこのお二人は、こんなに仲が悪いんだろう?
 昔のレオンはリヒトに優しかった気がするだけに、ローズは今の二人の関係がよくわからなかった。

「……そういえば、私も今日はお父様に話があると言われましたね……」

 その時ふと、ローズは今朝のことを思い出して呟いた。

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇

「ローズ。新しい婚約者を選んだ」

 ローズが家に帰ると、父であるファーガス・クロサイトは彼女を自室に招き言った。

「……相手の方の名前は?」

 ローズは騎士だが公爵令嬢だ。
 貴族の娘である彼女は、父の決定に対して反抗的な言葉は述べない。
 黙ってそれを受け入れる。

「それは、今は言えない」
 ファーガスは静かに言う。

「まだ返答を貰っていないのだ。彼が了承してくれたら、彼の方からお前に声を掛けるようお願いしてある。私は、彼であればお前を幸せにしてくれるとは思っているが、彼も立場がある方だからな……」

 ――立場がある? 誰だろう……?? 
 ローズは思案した。
 公爵である父が『立場がある』とまで言うほどの相手は、自分と同年代だとレオン以外考えられないが、レオンであれば二つ返事で了承する筈だと思ったから。

「私は父として、お前の幸福を願っている。騎士として生きることは構わない。しかし一人娘に、女性としての幸福も掴んで欲しいのだ」
「……」

 神妙な顔をして父は言う父に、ふうと小さくため息を付いて尋ねた。

「お父様。本音をおっしゃってくださいませ」
「早く孫の顔を見たい」
「それはお兄様に言われたほうが……」
「ギルバートの場合、相手が相手だろう」

 先程までの公爵と公爵令嬢としての顔から、今は父親と娘という顔へと変わっていた。
 扉の向こう側で、屋敷の廊下を走る音がする。

「ミリア! 君が俺の運命なんだ!」
「何が運命ですか!!! 毎日毎日、追いかけてこないでくださいと言っているでしょう!!!!」

 声の主は、ローズの兄であるギルバート・クロサイト。
 そして、ローズ付きのミリア・アルグノーベンだ。

「お兄様とミリアは……?」
「あれじゃあ当分先だろう」

 目を覚ましてからというものの、ギルバートは毎日ミリアを口説いている。
 扉を開けて廊下を見たローズは、二人の痴話喧嘩(物理)を見てふふと笑った。

「相変わらず仲がいいですね」
 多分、そう言えるのはローズだけだ。
 身体強化系魔法を使うミリアに殴られたら、普通の男であれば立ち上がることは出来ない。
 壁さえ破壊するミリアの拳は、人間相手には強すぎる。

「あの攻撃を受けたら普通重傷のはずなんだが、我が息子ながら恐るべき回復力だな」

 だが、その攻撃を受けても立ち上がれるのがギルバートだ。
 光魔法が使える彼は、自身の怪我を治すことが可能だ。
 アカリが以前話していた、ギルバートの『運命』の相手は、この世界ではミリアだったりする。

「お兄様は光と水ですから……回復もおはやいですし、ミリアの攻撃を受けて生きて追いかけられるのはお兄様くらいかもしれません」

 一般的に、水属性に適性をもつ人間は人よりは回復がはやいとされる。

「私もお兄様であればミリアを任せられます。それにお兄様とミリアが結婚ともなれば、ミリアは私のお姉様になるのでしょう? それはすごく素敵だと思いませんか? お父様」

 おそらくミリアは、ローズのその言葉を聞いたら頭を抱えるだろうなと公爵は推測した。
 お嬢様第一のミリアだ。
 はっきり言って、ギルバートはローズを味方につけて『私のお姉様になってほしいのです』と言わせたほうがはやいのではないかと彼は思った。

「なんだかこうしていると、昔を思い出して楽しくなりますね」

 しかし魔王討伐後、ギルバートが戻ったことにより、漸く明るく笑うようになった娘に、打算的なことを頼むことはファーガスには出来なかった。

「とりあえず、そういうわけだ。ローズ、今後の行いには気をつけなさい」
「はい。お父様」
 ローズは静かに首肯した。



 公爵家が慌ただしいながらも幸福な時間を過ごしていたその頃。

 レオンとリヒトは、父リカルドの前に膝をついていた。
 かつてリヒトとローズとの婚約を認め、二人の婚約破棄の際ローズを引き止めたかの王は、今は二人の息子の名前を呼んだ。

「レオン、リヒト。――顔を上げなさい」
「はい、父上」
「……はい。父上」

 父の声にすぐに応えるレオンに少し遅れて、リヒトは顔を上げた。
 しかしリヒトはレオンと違い、父の顔を真っ直ぐに見ることは出来なかった。
 リカルドは二人の息子に言った。

「レオン。十年の月日は長い。いくらお前が優秀な子であったといっても、その時をすぐに埋めることは出来ないだろう。この一年で、それを取り戻せるよう努力しなさい」

 まずは、兄であるレオンに向かって。

「リヒト。いくらお前がこの十年努力を重ねたといっても、お前がローズ嬢に行ったことは決して許されない。また指輪が壊れたことで、魔法が碌に使えないと聞いている。今の状態で民がお前を望むことはないだろう。王になりたいと思うなら、人並みの魔法は使えるようになりなさい」

 次は、弟であるリヒトに向かって。
 ただその言葉は、レオンのときよりずっと厳しい。

「お前たちがどちらが王に相応しいのか――私は、その決断を、人に託すことにした」 
 王は王子たちに静かに述べる。

「これから一年の後、お前たちのどちらが王に相応しいのか、五人の人間に選んでもらう。その票数の多い方を、次の王とする」

「――僕たちを選ぶのかどなたなのか、聞いてもよろしいですか?」
「それは教えられない」
 レオンの問いに、リカルドは首を振った。

「ただこれだけは言っておこう。お前たちを選ぶのは、この国の未来に関わる者たちだ。お前たち二人はこれから一年、王の資質を問われることとなる。一年間。後悔がないよう、努力しなさい」

「かしこまりました」
「……かしこまりました」
 最後の言葉は、王というより父の言葉だ。
 二人は父に頭を下げた。しかしやはりその行為でも、リヒトはレオンに遅れを取った。

「さあ、もう行きなさい。子どもたち」

 そんな二人に、リカルドは静かに言った。
 リカルドは、王だ。しかし父でもある。
 王であるリカルド自身は、レオンを選ぶほうが正しいと思っていた。
 ただ父である彼は、暗い表情をするリヒトに、すぐに答えを与えることは出来なかった。

「この試練は、やはり酷だろうか……?」

 次の王を決めるための一年。
 この一年は、レオンのための一年だ。
 一年あれば、レオンは国民の誰からも慕われる存在となることだろう。
 だからこれは、リヒトのための一年でもある。
 ――リヒトが王になるという、夢を諦めるための。

 父の心を知らない二人は、二人廊下を歩いていた。
 レオンは前を向いたままリヒトに話しかける。彼はこれから、また城下に行くのだとリヒトに言った。
 リヒトは、兄の後ろを少し下がって歩くことしか出来ない。
 城を出るときになってやっと、レオンはリヒトの方を振り返った。

「……さて、これで晴れて敵同士だね? リヒト」
「……」

 レオンの声には、余裕しか感じられない。

「魔法が使えなきゃどうしようもないけれど……。まあ、『王の資質』? 本当に君にそれがあるのか、楽しみにしているよ」
「…………」

 薄く笑う兄を前に、昔も今も、リヒトはどうすることも出来なかった。
「昨日、お父様に婚約者候補を決めたと言われたんだ」

 翌日、訓練を終えたローズは、アルフレッドたちと休憩をしていた。
 
 はちみつレモンは、疲れた体にとてもいい。それはアカリからの差し入れだったが、当のアカリは、座学のために騎士団の訓練場にはいなかった。
 『光の聖女』としてまだ力を使いこなせない彼女は、一刻も早くこの世界について学び聖女の力を使えるよう、日々様々な課題が課されている。

 ローズの話を聞いた騎士たちは、一様に顔を曇らせた。
 何故なら『新しい婚約者』が、ローズに求婚した騎士団長――ユーリ・セルジェスカでないと気付いたからだ。

「え……団長じゃないんだ……」
「団長だったら間違いなく態度に出るからな」

 騎士たちは、事実を知ったときのユーリの反応を思い浮かべた。
 ローズに新しい婚約者――波乱の予感しかない。

「ローズ様」
「ユーリ」

 そこへ、仕事を終えたユーリがやってくる。
 タイミングが良すぎるというか悪すぎる――やがて知ることであっても、せめてまだユーリに夢を見させてあげたい派の騎士たちは、ユーリに話しかけて話を変えるべきか悩んだ。
 しかし、騎士とはいえローズは公爵令嬢だ。突然話に割って入るような無礼は出来ない。

「団長〜〜!」

 そして他の騎士たちが思案しているうちに、アルフレッドがまた必殺技『KY(くうきよまない)』を発動させた。

「団長がローズ様の新しい婚約者なんですか?」
「……え?」
 アルフレッドの問いを聞いて、ユーリの顔から表情が消える。

『お前……また余計なことを――!!!』
 騎士たちの心の声が、再び重なった瞬間だった。



「ローズ様。申し訳ございませんが、頼みごとをしてもいいですか?」
「はい」

 このままローズを訓練場にとどめておくことは、ユーリの心の傷を増やすだけだ。
 ローズの新しい婚約者の話を聞いて、心ここにあらずのユーリの体を支えた騎士たちは、本来であればローズに頼まない買い出しを頼むことにした。
 ユーリが平常心を取り戻すための時間稼ぎだ。

「収納が使えないのはやはり不便ですね……」
「ローズ様」

 買い出しリストを元に城下で買い物を終え一人道を歩いていると、聞き覚えのある声に呼び止められて、ローズは振り返った。

「貴方は……」
「お荷物、お持ちします」

 ベアトリーチェはそう言うと、ローズの荷物に手を伸ばした。

「あの……」

 ローズは手に力を込めた。
 女性の中で身長が高いローズと、魔力のせいで身長が小さなベアトリーチェでは、ベアトリーチェのほうが身長が低いのだ。
 ローズは自分より小さな相手に荷物を持たせることに気が引けた。

「遠慮なさらないでください。私はこれでも、貴方より年上の男なのですよ?」
「でも……」

 ベアトリーチェの言葉に、ローズは困っってしまった。そんな彼女に、ベアトリーチェは大人っぽい笑みを浮かべた。

「では、言葉を変えましょう。どうか私のために、その荷物を渡してくださいませんか?」

 体は小さいが紳士だった。
 淑女に対する恭しさをしめされて、ローズは彼に荷物を手渡した。

「隣を歩いていて、女性に荷物を持たせるというのは、男として気が引けますので」
「……わかり、ました」

 最近は騎士として過ごしているせいか、異性の騎士《どうりょう》から女性扱いされたことにローズは少し戸惑いを覚えた。
 ベアトリーチェはローズが抱えていた荷物を受け取ると、見かけの割に軽々と運んだ。

「そういえば、何故ローズ様がこのようなことを? 本来貴方が任される仕事ではないでしょう?」
「実は私の新しい婚約者をお父様がご指名されたそうで、その話をしたら何故か買い出しを頼まれまして……」
「……なるほど」

 ローズの歩く速さに合わせて歩いていたベアトリーチェは、ローズの話を聞いて立ち止まった。

「?」
「では、もう少しだけ時間を潰しましょうか。せっかくですし、私のもう一つの職場を見学されていかれませんか?」
 ベアトリーチェはそう言うと、ローズににこりと微笑んだ。



 ベアトリーチェが自分のもう一つの職場だと案内した建物には、門に国の機関である証の花紋章が彫り込まれていた。

「ここは……」
「私はここの管理も任されているのです」

 彼はそう言うと、薔薇の彫り込まれた剣の青い石を門の魔封じに押し当てた。

 門が開く。
 大きな塀に囲まれたその場所は、植物で溢れていた。
 レンガで作られた建物の他に全面ガラス張りの植物園があり、ベアトリーチェはローズを植物園へと案内した。
 希少な植物がローズを取り囲む。
 そのどれもが、ローズがギルバート(あに)レオン(おさななじみ)を目覚めさせるために読んだ本の中でしか見たことのないものだった。

「ここには沢山の薬草が植えられているのですね。……もしかして、ユーリと少し服が違うのはこのためですか?」

 ローズは疑問に思っていたことを尋ねた。
 ベアトリーチェと、ユーリやローズたちの騎士団の服は少しデザインが異なる。
 ローズはその理由を、彼が騎士団以外(ここ)でも働いているからかと推察した。

「正確に言うとそういうわけでもないのですが……。騎士団では、医学・薬学に知識がある者とそうでないもので、服を分けてはいますね。確かに彼らの中には、私のようにここにも籍を置いている人間もいます。何かあったときにわかりやすいですから」
「なるほど……」

 ローズは頷いて、ゆっくりと周りを見回した。
 ガラス張りの植物園には光が差し込み、きらきらと輝いている。

「何か飲み物をご用意しますね。ハーブティーはお飲みになれますか?」
「はい」

 ローズが返事にベアトリーチェは頷いた。
 ベアトリーチェの歩みはいつも緩やかだ。
 この植物園といい、纏う雰囲気といい――ローズはベアトリーチェの周りの時間が、とても緩やかに流れているように感じられた。
 大地に染み込む水を吸い上げて植物が空に向かって緩やかに育つように、彼の纏う時間は温かく、ローズの心を和らげてくれる。
 それは兄たちのために子どもらしく生きてこれなかったローズにとって、優しい薬のようだった。
 彼がハーブティーを淹れている間、ローズはテーブルの上の走り書きを見て、あることに気がついた。

 その筆跡を、ローズは以前見たことがあった。
 ユーリとの薬草の採集のときと――あと、とある論文で。

「すいません。先程まで書き物をしていたものですから、散らかったままになっていましたね」

 トレイを手に戻ってきたベアトリーチェは、メモを見つめるローズに気付いて苦笑いした。
 ローズは彼に尋ねた。

「もしかして……伯爵家の方だったのですか?」
「――はい」

 ローズの問いに、ベアトリーチェは静かに頷いた。

「レイゼル・ロッドは私の父です」
「伯爵は存じておりますが……そうではなく。……私、以前貴方の論文を読んだことがあります」

 『ベアトリーチェ・ロッド』
 通りで聞き覚えのある名前だと思ったはずだ。
 三年ほど前に、死に至る病とされていた病の特効薬の開発に成功したという、変わり者の伯爵の後継者――それが彼だったのだ。
 女性名だったせいで、すぐには繋がらなかった。ローズはてっきり、『ベアトリーチェ(かれ)』を女性だと誤解していた。

「私の論文を? それはありがとうございます。……そういえば、あの日も仰っていましたね」

 茶器をテーブルの上に置いて、ローズの前でカップにハーブティーを注ぐ、ベアトリーチェの所作は洗練されていて美しい。

「健康被害も勿論ありますが、魔力の使い過ぎは命を削る可能性もあるようです。人は人の領分を侵してはならない。私は、そういうことだと理解しています。……ローズ様は、あれから体に異常はありませんか」

 どうぞと差し出されたハーブティーを、ローズは一口飲んでみた。
 爽やかな香りなのに口当たりはまろやかで優しい。
 ローズは顔を綻ばせた。
 すごく、落ち着く味だ。

「いいえ」
 ローズが首を振ると、椅子に座ったベアトリーチェが、ローズの目を見てこんなことを言った。

「――本当に。貴方はまるで、いつも不思議な力に守られているような方ですね」

「え?」
 彼の言葉の意味がわからず、ローズは首を傾げた。

「家族から守られ、指輪に守られ、敵だった少女に守られ。貴方を思う人々に支え守られ、ユーリが貴方を受け止め守らなければ、貴方は今ここには生きてはいない」

 ミリアやアカリ、そしてユーリ。様々な人に守られ支えられたいたからこそ、ローズは今も生きている。
 それは、忘れてはいけない事実だ。

「まるで見えない力が、ずっと貴方を守っているかのようだと、私は貴方を見ていると感じます。本来人と人の関係は、貴方のように上手くいくばかりではありませんから」

 ベアトリーチェはそう言うと、自分の淹れたハーブティーを手に笑った。

「でもまあ、貴方がご健康なのはよいことです。貴方に何かあれば、ユーリが悲しみますから」
 ベアトリーチェは苦笑いする。

「どうしてそこでユーリが出てくるのです?」
「え?」
 終始見た目の割に落ち着いた雰囲気だったが、彼はローズの言葉にピタリと動きを止めた。

「ローズ様は……ユーリに求婚されたのではないのですか?」
「ええ。ユーリは優しいから、落ち込んだ私を励まそうと……」
「…………ローズ様」

 ベアトリーチェはローズの返答を聞いて頭をおさえた。

「――ローズ様は、私が思っていたよりずっと、人の好意に疎い方のようですね……?」
「?????」
 ベアトリーチェの言葉の意味が分からず、ローズは首を傾げた。



 その後もハーブティーを飲みながら、ローズは彼から最近の研究について話を聞いた。

 植物や生物だけでなく、鉱石も薬になるという話や、伸縮自在の動物の糸が発見された話などは、ローズの興味を引いた。
 なんでもベアトリーチェの服は新素材で作られた特注品で、着る人間のサイズによって大きさが変わるという特殊な作りになっているらしかった。

 ベアトリーチェは時折、話の間にローズに質問を行った。
 全てを一度に教えることはなく、少し謎を残して、ローズに理由を考えさせる。
 ローズが答えを予測し、正解だった時はにこやかに笑って、『正解です』と言う彼は、どことなくローズにギルバート(あに)に似たものを感じさせた。

「以前の春の丘での採集のお礼に、ローズ様にこれを差し上げます」

 ベアトリーチェと話をしていると、いつのまにか時間が経過していた。「そろそろ帰らないと」と言うローズに、彼は一つの植物を手渡した。
 それはハート型の四つの葉っぱが繋がった植物だった。
 三つであれば見かけることはあるが、四つのものをみるのはローズは初めてだった。

「これは、『Happiness』と呼ばれている植物です」 
「はぴ、ねす……?」

 ローズは思わず言葉を繰り返していた。
 それは、アカリが言っていた『ゲーム』と同じ名前だった。

「違う世界の言葉で、『幸福』を意味する言葉だそうです」
「幸福……」
「これはもともと三つ葉なのですが、稀に四つ葉になるものがあるんです。とても珍しいものなので、四つ葉は幸運をもたらすと言われています」
「……幸運?」
 ――『幸福』ではなく? 
 ローズの問いに、ベアトリーチェは微笑んだ。

「ええ。この四つ葉自体が、幸運をもたらすと言われているのは本当です。なぜこれが幸福と呼ばれているかというと、この四つ葉の使い方に由来します」

 彼はそう言うと、ローズの手に置いた四つ葉を指さした。

「完璧な状態でこの葉を持っている人間には、幸運が訪れる。しかし相手の幸運を願い、うち一枚を相手に贈った場合、その人間が受けるはずだった幸運の一部を、相手に贈ることができると言われています」

 ベアトリーチェは空中で、葉をちぎるふりをした。

「相手に欠片を渡してしまったら、この植物はもう、幸運の象徴ではなくなってしまいます。力は失われ、ただの普通の葉に戻ってしまう」

 たった一枚の葉っぱの多さ。それだけが二つの違い。

「――思うに。誰かの幸運を願う、その思いを抱けることは幸福なことであり、その思いを受けた人間もまた幸福な人間、ということなのでしょう」

 ベアトリーチェは優しい声で言う。
 きっとこのことを知らない人間は、ちぎられた葉っぱの欠片を渡されても、相手に感謝なんかしない。

「人は誰しも、思いをかけられてもすぐにそのことに気づくのは難しい。与えられたものの重みを知るのはきっと、長く時間が経ってからなのです。そして与える側は、与えた後は特別な存在ではなくなり、この世界のどこにでも存在する、景色の一つとなってしまう」

「……?」
 ローズには、ベアトリーチェの言葉の全てが理解出来なかった。少し首を傾げたローズに、ベアトリーチェは優しく微笑んだ。

「私は貴方にこれを託しましょう。貴方が幸福を願うその相手に、どうかその葉を渡してあげてください」

 ただ彼がくれたものは、彼の優しさそのもののような気がして――ローズは少し、胸が温かかくなるのを感じた。
 そして手に載せられた葉を、ローズはそっと手で包んだ。
「……ありがとうございます」

 頼まれていた買い出しの荷物は、後からベアトリーチェがローズの代わりに運ぶことになった。
 ベアトリーチェに別れを告げて騎士団に戻ることにしたローズは、空を仰いで呟いた。

「――とは言っても。たった一つしかないものを誰かに渡すなんて、誰に渡すか悩んでしまいます……」


 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「はあ……。魔法か……」

 いつものように机の上に本を積み重ね、眼鏡をかけ本を読んでいたリヒトは、机の杖に置かれた赤い石の嵌められた指輪を見て溜め息を吐いた。

 自分が魔法を使うためには、指輪が解決の糸口になる可能性はあることに、リヒトは気が付いていた。
 今はローズと繋がっていないとはいえ、この赤い石は魔力を貯め置ける力があるらしい。今のところ、この石に貯めた魔力を意識的に消費することは難しいとしても、研究すれば可能になることもあるかもしれない。
 そうなればこの指輪は、リヒトに魔法を与えてくれることだろう。

 ただ、一つ問題があるとこにも彼は気付いていた。
 指輪は鍵になるらしい。
 そのために、リヒトが持っているこの指輪を、リヒトから剥奪すべきだと進言している人間がいた。

 『ベアトリーチェ・ロッド』
 リヒトは、彼の姿を思い出して顔を顰めた。

 彼の言い分は正論だ。リヒトもそう思う。けれど、それを受け入れられるかどうかは別の話だ。
 指輪を手放せば、リヒトが魔法を使える可能性は更に下がってしまう。
 魔法が弱いからといって、リヒトはこれまで無駄に時間を過ごしてきたわけではない。
 魔力がほとんどない人間でも魔法が使える研究を、リヒトはずっとこれまで行ってきた。

 彼の前には、彼がこれまでの時間が積み重なる。
 彼がこれまで記した研究書は、今や彼の身長を優に超す。
 人より劣ると言われても、それを認めて自分を諦めては何も出来ない。
 ただどんなに努力を重ねても、圧倒的な力を前にすると体が動かない。だから彼は、レオンを前にすると駄目なのだ。

「……兄上に負けたくない」

 リヒトの手に、僅かな光が灯る。
 魔力が弱い人間が魔法を使う方法。
 彼が人生一六年をかけて続けた研究の成果は、確かに少しずつだが現れていた。



「ローズ」
「リヒト様?」

 ローズが植物園から訓練場へと戻る帰り道、ローズはリヒトに声をかけられ振り返った。
 一日ぶりに見るリヒトの顔色は、レオンの隣にいた昨日よりはまだいいが、やはりどこか暗いようにローズには見えた。

「昨日、あの後なにかお話があったのですか?」
「ああ。……父上が、一年後俺と兄上、王に相応しい方を選ぶと」
「……そうですか」

 なるほどそれで暗かったのか。ローズは一人納得した。

「……お前の方は、昨日はなんの話だったんだよ?」
「私の新しい婚約者を、お父様がお選びになったそうです」

 淡々とローズは答える。
 リヒトはローズの答えを聞いてぴたりと呼吸を止めて、それからローズから少し視線を逸らした。

「……そうか」

 リヒトの方は、ローズとの婚約破棄以来浮かれた話はない。

「……良かった、な」

 リヒトは、何故か傷ついている自分に気が付いた。
 結婚適齢期である彼女を振ったのは自分自身で、彼女のこれからに口出しする権利はないのだと、改めて思い知らされる。
 ローズはリヒトの言葉には返事をせず、そして彼にこんなことを尋ねた。

「――リヒト様は、この世界にたった一つしかないものを誰か一人に渡せと言われたら、どうされますか?」
「なぞかけか?」

 唐突な問いにリヒト首を傾げた。

「俺だったら、一番好きなやつに渡すけど」
「『一番好き』……」

 ローズには、そう言われたときぱっと思いつく相手がいない。
 ローズの『好き』は横並びだ。
 ギルバートもファーガスもミリアも公爵家の他の家人も、アカリやユーリたちも同じくらいローズは好きだ。
 みんなが笑ってこれからも過ごせるように、自分はこれからも努力をして、騎士として成長したいとローズは考えている。
 そのうち誰か一人を選ぶなんてことは、ローズには出来ない。

「好きな相手が多いと困ります」

 ローズはポツリ呟く。

「……ローズ。お前、まさかあの噂は本当なのか?」

 リヒトはローズの言葉をきいて、声を震わせて言った。

「なんの噂です?」
「騎士になってから、お前の女性人気が異常に上がっていて、お前に『遊ばれたい』女性が急増してるって……」

 ――どんな噂だ。
 ローズは嘆息した。

「……騎士になってから、好意的に接してくださる同性は確かに前よりは増えましたが、そのようなことを言われたことはありませんし、そもそも私は人の心を踏みにじるような行為は嫌いです」

 ローズはあからさまに顔を顰めた。

「リヒト様は、私がそんなことをする人間だと思われていたのですか?」
「……」

 アカリのローズへの懐き具合を知っているだけに、リヒトは否定出来なかった。
 ローズの差し入れの為に毎朝早起きして、料理やお菓子をいそいそと用意するアカリ。
 あれではまるで恋する乙女だ。

「心外です。私はいつもこの国を、この国に住む人々を、思い過ごしているだけなのに」

 ローズの愛は海より広く深い。
 そのせいで、ローズは周囲に思われてもなかなか気づかない。
 ローズの他者への愛情の深さと真面目さに、鈍感が加わると厄介なことこの上なかった。
 天然ゆえの人たらしだ。

「リヒト様は私のことを、何も理解していらっしゃらないのですね」

 『お前も自分のことを何一つ理解していないと思うぞ』とはリヒトは言えなかった。一方的に婚約破棄した相手なだけに。
 そもそも勘違いだったとはいえ、公衆の面前で自分を侮辱したそんな相手と、普通に話を出来るのは普通じゃない。

 ただよく考えてみると、一応自分たちは十年間婚約していたが、レオンがローズにするように甘い言葉を口にしたり、手を握ったりキスをしたり、そんな恋人らしいことを二人は一度もしたことがなかったことにリヒトは気がついた。

 リヒトとローズは幼馴染だ。
 指輪で繫がってはいたものの、そういう行為が全くなかったせいもあってか、ローズもリヒトも普通に話をしてもなんの違和感もわかなかった。

 ――婚約、とは…………?

 そう考えると、リヒトはローズのパーティーでの言葉は真っ当に思えてきた。
 自分を好きというよりローズは国を愛していて、だから婚約を受けたわけで……。どこにも矛盾を感じられない。

「なぜそんな顔をなさるのです」
「俺は今どんな顔をしている?」
「理解は出来るけど理解出来ないというようなお顔をされています」

 しかし十年という時間は、確かにお互いを理解するための絆は深めてはいたらしかった。
 恋愛方面の繋がりはまるでなかったが。



「はあ……なんでイライラしているんだ。俺は……」
 その後、ローズと分かれたリヒトは、自分の感情が理解できず一人人気のない道を歩いていた。

「俺が好きなのはアカリなのに」

 ――まあ、そのアカリが好きなのはローズらしいが。
 レオンのこともアカリのこともローズのことも指輪のことも、今のリヒトにとって現実は辛いばかりだ。
 けれど彼が絶望してはいないのは、彼がこの十年積み上げてきたものに、僅かながら自信があるからだ。 
 勿論レオンのような、絶対的な自信ではないのだが。

「炎魔法の適性、俺には無いのは確かだな」

 リヒトは苦笑いした。
 この世界の魔法は、その人間の性格などによって使える魔法が限られている。
 王となる人間に最も求められるのは炎属性への適性であると古くから言われていて、その適性がないからこそリヒトは不適格と見なされ、レオンが相応しいと言われ続けた。
 思わず溜め息がこぼれる。
 どんなに時を重ねて努力を続けても、炎属性の適性者に必要とされる『絶対的な自信』だけは、リヒトはきっと自分は一生持ち得ない気がした。

「……っ!」

 その時、背後から突然後頭部を殴られ、リヒトはそのまま前へと倒れ込んだ。
 意識を保てない。
 狙われる理由はいくつも考えられたが、王都で王子(じぶん)を狙う輩がいるとはリヒトは考えていなかった。

 ――まさか。兄上からの刺客……? 

 兄はそんな浅はかな人間ではないとリヒトは思う。
 兄が自分を追い詰めるなら、『令嬢騎士物語』を書かせた時のように自分の手は汚さず、じわじわと自分を苦しめるに違いないのだ。

 ――駄目、だ。相手の顔……も、分からないのに……。

 数刻後、目を覚ましたリヒトは頭を抑えて立ち上がった。
 いくら人通りが少ない場所とはいえ、自国の王子が倒れているのに助けない国民はどうかと思う。
 それが、自分への今の評価だということはわかっているけれど――……。
 とりあえず、自分の周りで何か変わったことがないか確かめた彼は、ある一つの変化に気付いて顔を青ざめさせた。

「……指輪がない」

 リヒトの指に嵌っていたはずの指輪が、姿を消していたのだ。

「リヒト様の指輪が盗まれた」

 リヒトが指輪を紛失したことは、すぐに騎士団の知るところとなった。

「本当に、あの方には頭が痛くなりますね……」

 真面目な顔をしているユーリに対し、ベアトリーチェの表情は厳しい。
 ローズは『聖剣の守護者』であり救国の英雄ということで、今は騎士団の会議への参加を許されていた。
 リヒトが何者かに襲われ指輪を奪われたという話を聞いたローズは、一瞬動揺の色を見せたが、発言は控えることにした。
 今回の問題はリヒトだ。
 元婚約者である自分の意見は、相応しくないとローズは思った。

「だから、さっさと差し出しておけばよかったのです。もしものときの被害は理解していただろうに、自分のことだけを考えて渡さないからこうなる」

 ベアトリーチェはこの事態を予測して、リヒトに指輪を渡すよう求めていたのだ。
 だというのにその進言が聞き入られず、指輪が盗まれたと聞いたベアトリーチェの言葉は厳しかった。

「ビーチェ……」
「しかし、過去を悔やんでも仕方がない。今やるべきことは一刻も早く指輪を取り戻すことです」

 確かに自分は危険視していたし伝えてもいたが、今更それを話しても何の解決にもならない。
 今すべきことは、状況を打開するための策を考える行動することだけだ。
 ベアトリーチェは目を細めた。

「指輪が鍵となることを知っている人間は少数のはず。わざわざ王子に暴行を加えて指輪を奪う人間は馬鹿なのか賢いのか……前者であればまだよいですが、後者の場合厄介です」
「とりあえず報告が上がってからすぐに王都の門は閉じさせた」
「今のところそうするしかないでしょうね」

 ユーリの行動にベアトリーチェは頷いた。今のところその判断は正しい。
 ただ――……。

「しかし、時間が経っていることを考えると、捜索範囲は広げたほうが良いかもしれません」

 彼はそう言うと地図を広げた。王都を中心とした地図だ。

「いっそ王都で鍵が使われ、王都に指輪があるとわかればまだ考えようによっては救いかもしれない」
「どうして?」
「少なくとも、捜索範囲が絞られる。王都にあるならまだ楽です」

 ベアトリーチェは地図を指でなぞった。

「犯人の目的がわからない。一体、何のために……」

 鍵として利用するために、魔力を充填させるために他にも人間を襲うつもりだろうか? だったら用心の警備を――いや、今更それをして、全てを守り切れる可能性は低い。
 それに、次の事件が起こってもいいだけの時間は十分に経過している。
 リヒトが倒れて目を覚まし、報告を上げて騎士団が警備を開始するまでの時間何もしないような間抜けなら、そもそも指輪を鍵とは思うまい。ベアトリーチェはそう考えた。

「やはり犯人は、指輪の力を知らず盗んだということでしょうか? それとも、王都からすでに持ち出されたか……」

 ベアトリーチェの表情が険しくなる。
 どこにでも入れる魔法の鍵を、その存在も世界に明かしておらず、碌に管理もせずに「はい盗まれました」では、他国に申し開きが出来ない。

「『地剣』殿!!!」

 そんな時、突然会議室の扉が開かれ中に入って来た人物を見て、ベアトリーチェは目を見開いた。

「貴方がどうしてこちらへ……まさか」

 ローズはユーリの顔を見た。
 ユーリはベアトリーチェと親しげな男を見て驚いているようにローズには見えた。
 男は息を切らして言った。

「薔薇が……『青い薔薇』が盗まれました!」

「……え?」
 その瞬間、ベアトリーチェの顔から表情が消えた。

「青い薔薇……?」
 ローズは思わず言葉を繰り返していた。
 それは三年前――ベアトリーチェが発表した、ある病気の特効薬の材料の筈だ。
 ローズは盗まれたものが、青い薔薇(ただのはな)であったことに胸を撫で下ろした。
 だが。

「薔薇は……薔薇は無事なのですか!?」

 ベアトリーチェは声を荒げ、手を震わせて男に尋ねた。

 これはよくない――ローズは静かにそう思った。
 騎士団の精神的な柱であるベアトリーチェの激しい動揺は、騎士たち全員に不安となって伝染してしまう。
 けれどベアトリーチェが、たかが花ごときに揺らぐなど一体誰が予測出来ただろう?
 皆の顔に動揺が走る中、ユーリは一人、あの日のベアトリーチェを思い出していた。
 ローズは魔王を倒し、生きて戻ることが出来るのか。そう自分に尋ねたときの、ベアトリーチェの揺れる瞳を。

『――私は。ずっと、それを感じて生きてきました』

 その言葉に込められた彼の過去を、ユーリは知らない。

「早く。早く、あの花を見つけなければ! あの花は、私でなくては薬には出来ないのです。ただ摘み取られた花では毒になってしまう!」

 ただベアトリーチェにどんな過去があったって、ユーリには団長として場を纏める義務がある。
 半人前なせいでいつもは年上の部下(ベアトリーチェ)に頼ってばかりだが、今その部下《かれ》が心を乱しているならば、自分がしっかりしなくては騎士団が纏まらない。

「ベアトリーチェ・ロッド!」

 ユーリはベアトリーチェの名を叫び、彼の頬を叩いた。

「落ち着け。お前が焦ってどうする!」
「……ッ!」

 これでは、いつもと立場が逆だ。
 会議室の中の動揺はユーリの一声によって漸く打ち消され、騎士たちは平静さを取り戻した。

「なんでそんなに焦っているんだ。――その花の毒は、それほど強いものなのか?」
「……そういう、わけでは……ありませんが…………」

 ベアトリーチェの言葉は、珍しく歯切れが悪かった。
 そう。そのはずなのだ――。ローズは首を傾げる。
 ローズは彼の論文で、薔薇の毒性についての記述も読んでいた。
 正しく処理されなかった場合の青い薔薇の毒性は、寝込む可能性はあるが死に至るほどではない。
 そうであるなら、今は薔薇より指輪の捜索を考えるべきだろう。
 有能な筈の彼が、何故そう考えられないのかローズにはわからなかった。
 ベアトリーチェはユーリに叩かれた頬を手で触れてると、黙って下を向いてしまった。

「――すいません。頭を冷やします。今の私がここに居ても場を乱すだけですし、私は今日はあちらに戻ります。ユーリ、貴方は引き続き捜索をお願いします」

 いつもの彼の普段とは明らかに異なる行動に、会議室がしんと静まり返る。

「ビーチェ……」

 ユーリは会議室を一人後にしようとする彼に手を伸ばした。
 しかしユーリが伸ばした手は、ベアトリーチェの知り合いらしい男に遮られた。

「『天剣』殿。『地剣』殿は、私が」
「……すいません。アンクロット」

 男は、動揺のためか少しふらついているベアトリーチェの体を支えた。
 そんな男に、ベアトリーチェは礼を言う。

 その声は、ユーリの知るベアトリーチェの声とは違う。教えるような声ではなく、対等に話すベアトリーチェの声に気付いて、ユーリは手を引いた。

「団長殿」
「……ああ、わかっている。俺の指示に従ってくれ」

 ベアトリーチェが部屋を出てから、老騎士に呼ばれユーリは気を引き締めた。

「指輪が鍵だとは知られてはならない。これ以上被害が広がらないよう、早く指輪を見つけなければ」
 ユーリはそう言うと、騎士たちに指示を出した。
 とりあえず、王都にあるとわかったのは朗報だ。


「あんなビーチェを見たのは、初めてだ」

 指示を終え会議室に一人残った彼は、いつもベアトリーチェがしているように、カーテンに寄りかかって窓の外を眺めた。
 彼と同じ行動でもしてみれば何か閃くかと思ったが、結局何も思いつかずユーリは姿勢を正した。

「『青い薔薇』はそれほど、ビーチェにとって大切なものなのか……?」

 薬学に疎いユーリに、青い薔薇の価値は分からない。
 そしてユーリは何故か、その薔薇の価値を知っているのは、あの男だけなのかもしれないとも思った。
 自分の知らないベアトリーチェの過去。
 それを知っているからこそ、ベアトリーチェは自分ではなくあの男の手を取ったのだと。

「ビーチェ……」
 ベアトリーチェの幼い頃を、十歳年下のユーリは殆ど知らない。
 そのことを、今になってユーリは気が付いた。


 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 陽光が生者を照らす光なら、月光は死者を照らす光だ。
 月明かりの下、ガラス張りの薔薇園で、彼は愁いを帯びた表情で青い薔薇を見つめていた。

 調査の結果、盗まれた薔薇はおよそ一〇。
 彼には余計に、犯人が何の意図をもって植物園に侵入したのか理由がわからなかった。
 まるで子どもの悪戯だ。
 どこにでも入れる鍵を手に入れて、その鍵で少し盗みを働く。
 そんな幼稚さしか感じられないというのに、指輪を鍵と理解しているところが恐ろしい。
 この理解出来ない行動は、何らかの大仕事の前準備かとも思われたが、その場合何故植物園を狙ったかが彼には分からなかった。
 夜の吐息は白く染まる。

「……貴方に、誰かを傷つけさせるようなことはしない」

 新緑の瞳は月夜に光る。

「私は、ずっと貴方のことを愛している」

 ガラスの向こう側に浮かぶ月に、彼は手を伸ばした。
 彼は『地剣』。
 どんなに彼の魔力が強くとも、その魔法は、手は、決して空には届かない。
 彼の瞳を、涙が伝う。
 もう戻らない。もう会えない。貴方は月の向こう側に行ってしまった。
 この花は、貴方が私に残した希望だ。
 だからそんな花で、誰かを傷つけることなんて許さない。
 瞳を閉じれば、かつての誰かの声が聞こえる。
 光が降る。与えられた水の温かさに気付くまでに時間がかかりすぎた、かつての自分を思い出す。

『――君は、【神の祝福】を受けた子どもだ』
『……泣くなよ。俺はお前を、泣かせたいわけじゃないんだ』
『貴方は愛し愛される人だ。貴方が選ばれたのは、きっと貴方が、誰よりも優しいから』
『貴方はいつか、この国を変える人になる。だから、貴方を生かすと決めたのです』
『彼は、必ず役に立つ人間になるでしょう』
『森の精霊かと思ったの』

 小さな彼の体に与えられたいくつもの肩書は、彼の心にたくさんの傷を作る。
 そんな彼を支え、笑いかけていくれた少女は、今はもう彼の前にはいない。

『身長が低い貴方とは結婚できません』 

 今の彼を作る過去たちは、前に進めと彼に告げる。
 それでも今は痛む傷が、彼を少しだけ立ち止まらせる。

「――……ティア」

 まるで恋人にするように、彼は青い薔薇に口付けた。
 青い薔薇から透明な雫が落ちる。
 それはまるで涙のように。

 その薔薇は彼の痛みも静寂も、何もかもを受け入れ吸い込むような、深い青い色をしていた。
「本当にすまない」
「……リヒト様」

 リヒトが指輪を奪われ三日経ったが、あれ以来『鍵』が使われたと思われる事件は起きていなかった。
 ベアトリーチェあれから植物園に籠もり、ずっと騎士団を不在にしていた。

 そして三日目にして、ようやくやってきたリヒトを前に、ローズは腕組みをして溜め息を吐いた。
 今更謝罪に来られても困る。
 ベアトリーチェが不在ということもあり、リヒトの相手はユーリとローズがつとめていた。

「リヒト様。貴方に謝られても、ユーリが困るだけです。そして貴方に頭を下げられても、何も変わりません」 
「……お前は本当にえげつなく俺の心をえぐってくるな」
「本当のことを言っただけではありませんか」

 少し兄に似たところを感じるベアトリーチェが、あれほど取り乱す姿を見ていただけに、ローズの言葉はリヒトに対して刺々しかった。
 騎士団の訓練場にやってきたリヒトは、何故か大量の荷物を手に持っていた。

「これが役に立てばいいんだが」
「何です? これは」
「まず、これは魔力の残滓を可視化できる」

 リヒトが手にしていたのは、変わった形をした眼鏡だった。眼鏡のレンズ部分には、ぐるぐるとした渦巻き模様のような模様が施されている。
 普段こんなものをつけている人間がいたら間違いなく頭を疑う。ローズは眉間に皺を作った。

「……残滓?」
「ああ。使われた魔力のみだが」

 リヒトは至極真面目な顔をして言う。

「それを辿って何になるというのです?」

 魔力の形跡を辿る方法なら、こんなものがなくても方法はある。
 魔王討伐のときのように、ベアトリーチェのような自身の魔力が体外に溢れ出るような体質の人間であれば、魔力の流れを感じることができるからだ。

「……これはもともと、俺の魔力をコントロールするために研究していたことから作った物なんだ」
「それがどうかしたのですか?」

 意味がわからずローズは首を傾げた。

「……だからこれを使えば、魔力が低い人間でも、これまでよりも高い精度の調査が出来る」

 従来のやり方は、個人の能力に依存する。だがリヒトの道具を使えば、誰もが平等に行動出来る。

「私の調査よりも、ですか?」

 実はローズも、ベアトリーチェに似たことが少し行える。
 しかしその力では、兄たちが眠りについた原因はわからなかった。
 力の流れが小さすぎたからだ。

「お前の言う『細かい』は、俺からしたら大ざっぱなんだ。魔力が強いと必然的にそうなるんだろうが……。この道具は、普通は目には見えない魔力の痕跡をたどることができる。効果は半日という点はまだ課題点なんだが」
「…………半日? それだと、今は役に立たないのでは?」

 ローズの言葉に、リヒトはギクリとした。

「うぐっ」
「そういえばリヒト様は昔から人とは発想が違いましたね」
「お前、俺のことバカにしてるだろ?」

 他にもたくさんのとんでもグッズを持ってきてきたリヒトに対し、ローズは冷ややかな言葉を浴びせた。
 彼のことだ。どれも今は使えないものばかりに違いない。つい、ローズはそう思ってしまった。
 それにしても、どうしてこうもいちいち使いたくなくなる見た目なのか。センスが悪すぎる。

「というか、何故今更来られたのです?」

 ローズはさくっと再びリヒトの心を抉った。

「作ってたら時間がかかって」
「そこは普通、捜索の為に役に立つものを作るのではなく、謝りに来るのが先では? 順番がおかしい」

「……」
 ぐうの音も出ない正論だ。
 しかも作った道具は、今は使えない。
 かつてのリヒトであれば、ここで引き下がっていたところだろう。しかし今の彼は、ぎゅっと拳を握って、精一杯前に進もうと声を上げた。

「……俺のせいで迷惑がかかったなら、せめてなにか手伝いがしたい」
「……わかりました」

 リヒトの言葉に返事をしたのはユーリだった。

「ユーリ、よいのですか?」
「ええ」

 ユーリは頷く。彼はリヒトの作った発明品を手に、にこやかにローズに笑いかけた。
 しかしユーリがリヒトを見る目は厳しかった。

「ただし、私と一緒に行動していただきます」
「…………えっ?」



 針の筵このことだ。
 ユーリの隣を歩くせいで、リヒトは明らかに侮蔑の目を向けられていた。

 平民出身でありながら騎士団長で見目美しいユーリと、兄王子に劣り魔法を使えない、第二王子であるリヒト。
 姿勢が綺麗なユーリに対し、リヒトは下を向いて歩いていた。
 これではどちらが高貴な身分なのか分からない。

「……リヒト様は」
「うん?」
「ローズ様のことを、どう思われているのです」

 そんな相手に突然まさかの質問をされて、リヒトは混乱した。

「……は?」
「私には、貴方がわざわざ会いに来れるような状況を作られたようにも思えてしまいます」
「……俺がわざわざ、ローズに会うために指輪を紛失したと言いたいのか?」
「違うのですか?」

 ユーリの声は冷ややかだった。
 リヒトは顔をしかめた。 
 まさか幼馴染の信頼がここまで落ちていたとは――……当然といえば当然だけれど。

「……俺はこれでもこの国の王子だ。わざわざ周りを困らせるために指輪をなくすわけがないだろ」
「……」

 リヒトの返答にユーリは静かに目を伏せた。
 リヒトが周りを困らせるとき。それは彼が意図的にやっていることではなく、意図せず、勘違いなどで周りを混乱の渦に巻き込んでいるだけなのだ。
 ローズとの婚約破棄然り。ただ本人に悪気がないだけ、余計たちが悪いとも言える。

「しかし普通、自分が婚約破棄した相手にわざわざ会いに来ないのでは……?」

 ユーリの言葉は正論だった。
 リヒトは最近、何かと理由をつけては騎士団によく来ていた。
 ローズの元に来ているアカリに会うためらしいとは周囲に聞いていたものの、ユーリはそれが不満で仕方がなかった。

 ――貴方は自ら彼女を傷付けたのだから、はやく舞台から退場してください。

 新しく公爵が指名したという婚約者のことも気掛かりだったが、リヒトとローズの決闘(?)の時にローズを抱き上げ、魔王討伐の時はローズへの思いを新たにしたユーリからすれば、リヒトの存在は邪魔でしかなかった。
 
「ユーリは」

 リヒトは、普段温厚な筈のユーリがなぜここまで自分を責めるのか一つ理由を思いついて尋ねた。

「もしかして、ローズのことが好きなのか?」
「はい。私は、ローズ様をお慕いしております」

 それはリヒトがローズの婚約者だったときには、絶対ユーリが口にしなかった言葉だった。
 そしてそれが伝えられなかったからこそ、ユーリはローズと長い間、会って言葉を交わそうとはしなかった。

 ユーリの初恋は彼の身分のせいもあるが、リヒトがいたからこそ実らず、彼はローズに手を差し出すことができなかった。
 兄たちを失い笑顔を失ったローズに、一番最初に手を差しのべたのは幼いリヒトだ。
 指輪を贈られたローズは、リヒトと婚約した。
 ローズを励まそうとしていたユーリは、ローズの婚約後、騎士団に入団した。

 笑ってほしくて。幸せでいてほしくて。
 でも自分は相応しくないとどこかで理由をつけている間に、ユーリはいつも一歩他人に遅れる。

 今回のことだってそうだ。
 ローズの新しい婚約者。
 二代にわたり恋愛結婚の家系である公爵家であれば、ユーリがもっとはやくローズに思いを告げ、彼女に婚約を了承してもらえていれば、それは認められたかもしれない。

 ローズは恋愛面でかなりの鈍感だが、今のように告白すれば流石に気付く。
 ただ、騎士団の入団試験のときのような求婚では、ローズが状況とユーリの性格を考慮に入れてしまうせいで伝わらない。

 少しずつ、何かがずれて。ユーリの言葉はローズには届かない。
 そしてそれを踏み越えようとしても、不幸な偶然が彼のそれを阻んでしまう。

「……そうか」

 リヒトは、ユーリの言葉に静かに頷くだけだった。
 そんなリヒトに、ユーリはまた悔しくなった。
 騎士団に来るたびに、リヒトは当然のようにいつもローズの隣にいる。
 それを見るたびに、ユーリの胸は痛む。そして心のどこかで責めてしまう。
 それを許す、ローズのことも。

 自分と彼の、何が違うというのか。
 婚約破棄した彼と身分差がある自分なら、今はどちらも壁があるのは同じはずなのに。
 誰かの不幸を願うことは、ユーリにとって一番遠いはずの感情だ。
 けれど最近のリヒトにだけは、少しだけ不幸を願っている自分に気付いていた。

 その感情は、ユーリの魔法や剣に迷いを与える。
 だから。
 これ以上自分を嫌いにならないでいいように、自分の世界が曇らないように――人を拒絶することに、なんの罪があるというのだろう?
 ユーリはリヒトの目を見て言った。

「リヒト様。私は――貴方が嫌いです」



 一人残されたローズは、ガラクタの入った箱を前に一人手持ち無沙汰だった。

「さて、私はどうしましょう……?」

 昨日までは魔力を感じとれるローズが調査に参加していたが、指示を出す人間であるユーリは何も言わず、リヒトともに出かけてしまった。

「リヒト様のこれ、とりあえず何か役に立つかもそれませんし、お借りしておきましょうか」

 ユーリとリヒトが帰ってくるまで待つべきか? ローズは思案した。
 魔力の痕跡を辿るのは眼鏡では半日らしいが、ローズなら二日ほどはわかる。ただ、その精度はそこまで高くない。
 解呪の式程度の少ない魔力を使った痕跡は、リヒトの言うように人の力で辿るのは難しいのだ。

「え?」

 そんなとき、開け放たれた窓から一羽の鳥が室内に入ってきた。
 手紙を運ぶ『輝石鳥』。
 それは真っ白な体に、青い目の鳥だった。
 首には青い紐と共に鈴がくくりつけられていて、ローズに手紙を渡した際鳥が首を動かすと、その音が静かに鳴った。
 ――ちりん。

「……?」

 宛名はローズ宛てだった。
 ローズが手紙を受け取ると、鳥はすぐさままた窓から飛び立ってしまった。

「待って!」 

 ローズは手を伸ばしたが、鳥はもう遠くへといってしまっていた。

「一体誰から……?」

 ローズは差出人を確認した。
 そこに名前はない。

 ただ――丁寧な文字は見覚えがあり、何より。
 その手紙からは、ローズには以前彼から淹れてもらったハーブティーの香りが、微かに残っているような気がした。

「突然お呼びして申し訳ございません。ローズ様」

 ローズを呼び出したのはやはりベアトリーチェだった。
 ここ数日、騎士団に顔を見せていない彼は少しやつれているようにもローズには見えたが、ローズに向ける笑顔は相変わらず優しげで、それがどこかで彼に儚さを感じさせていた。

「今日お呼びしたのは、貴方にお見せしたいものがあったからです」

 ベアトリーチェはそう言うと、以前ローズを招いた植物園の前を通り過ぎ、奥の方へと進んだ。
 するとまた門が現れ、ベアトリーチェは再び剣を魔封じに押し当てた。

 薔薇のかたどられた門。
 門を進むと、小さなガラス張りの建物があった。
 そこは、小さな薔薇園だった。

「青い、薔薇……」

 それは、これまでこの世に存在しなかったはずの色。 
 だからこそ、ベアトリーチェがこの花をもちいて病を克服出来ると発表したとき、青い薔薇は「不可能」から「可能性」に花言葉を変えた。

「どうして私をこちらへ?」
「……貴方であれば、話をきちんと聞いてくださると思ったので」 

 ベアトリーチェは静かに答えた。
 薔薇園に入るには、また解錠が必要だった。
 これほど厳重なものならば、偶然門が開いていて侵入出来たというのは有り得ない。
 そんなことを考えるローズを、ベアトリーチェは園内に招き入れた。

 まるで青い薔薇の国に迷い込んでしまったような、そんな不思議な感覚を抱く。
 美しい。美しいはずなのだ――けれど。
 妙な違和感をローズは覚えた。

 ローズは本来、花の中でも薔薇は好きな方だ。
 赤い薔薇は生命の象徴とされており、ローズの名前のこともあって、公爵家にはたくさんの赤い薔薇が植えられている。
 でも、この花は――……。
 まるで氷のような冷たさを感じて、ローズは胸を手で押さえた。
 凄絶なまでに美しい。
 月明かりのもとであれば、それはより際立つに違いない。
 この花が宿すのは死の香りだ。

「ローズ様は、屍花《しか》というものをご存知ですか?」 

 表情《かお》を曇らせるローズに、ベアトリーチェは静かに尋ねた。

「この花は、屍花なのです」

 彼はそう言うと、小さく細い手で優しく青い薔薇の花に触れた。

「病で死んだ人間の墓の上に咲き、生前親しかった人間の魔力に触れていなければ枯れてしまう花。……私が、定期的にこちらに来ているのはそのためです」

 ベアトリーチェは目を瞑り、そっと花に口付けた。
 すると花はまるで涙を流すかのように雫を落とした。
 『青い薔薇の雫』
 それは彼が三年前発表した薬の材料だ。

「盗まれた花は少なかった。でも、私の動揺を花が感じ取ってしまったためでしょうね。ずっと、花に元気がなくて。私はこの花のそばから離れられずにいます」

 彼はそう言うと目を細めた。
 まるで薔薇を通して、誰かを見つめているように。

「ユーリにも言ったように。この花は本来、他の毒に比べたら毒性は強くないのかもしれない。でも私は……私はこの花で、誰かを傷付けたくはない」

 新緑の瞳が僅かに翳る。

「すいません。本来このような状況で、騎士団を空けるなど、あってはならない事だとは理解してはいます。でも私は……この花を、枯らすわけにはいかないのです」

 ベアトリーチェは瞳を閉じた。感情を隠すかのように。
 そして次に彼がローズの方を見た時には、ローズには「いつもの彼」がそこにいるような気がした。

「……明日からは私も、調査に参加します。花もだいぶ持ち直しましたし。ただ今の私は、周りより自分の感情を優先してしまう可能性が高い。調査は私一人で行いたいと思っています。……ユーリに、そう伝えていただけますか?」
「わかりました」
 ローズは首肯した。 

「ありがとうございます」
 ベアトリーチェはローズに微笑んだ。
 そして――ふと、彼女の手にしていたある物に気づいて、彼は首を傾げた。

「――随分変わったものをお持ちですね。それは一体?」

 思わず胸ポケットに入れたまま来てしまっていたことに気付いて、ローズは慌てて答えた。

「これは、リヒト様が作られた道具です」

 ローズは、リヒトの作ったぐるぐる模様のメガネを差し出した。

「半日限定ではありますが、魔力の低い人間も、魔力の残滓を見ることが出来るのだと仰っていました」
「これは……」

 ベアトリーチェは眼鏡を少しだけかけて目を見開いた。

「……これを、リヒト様が?」
「はい」
「……そう、ですか……」

 ベアトリーチェはそれだけ言うと、ローズにメガネを返した。

「――あの方も、本当は愚かなだけではないのかもしれない。でもそれだけでは、やはりレオン様には敵わない」
「……」

 その言葉は、きっと正しい。
 ベアトリーチェの言葉を、ローズは否定はしなかった。


◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「……ユーリに嫌いって言われた……」
「おやリヒト。何をしているんだい?」

 ユーリとの調査を終え、リヒトが城に帰って廊下をトボトボ歩いていると、背後から声を掛けられ、リヒトは振り返った。

「……兄上」
「君の失態のために連日心を悩ませているユーリからしたら、そう言いたくもなるんじゃないかな?」

 声を掛けてきたときの言葉の割に、レオンはリヒトの言葉をはっきりと聞いているようだった。

「う……っ」

 リヒトは胃がキリキリした。
 どうして自分の周りの人間は、こうも鋭い言葉を吐く人間が多いのか。
 ――まあ多分、全部自分のせいだろうけど。

「ユーリはローズが好きだから、俺のことが嫌いなのかも……」
「なるほどね」

 レオンの声は、冷たくもなければ温かくもなかった。
 まるでそれになんの感情も抱いていないような、そんな声だ。

「ユーリも君も、よくそんなものにかまけてられるな。僕からしたら、色恋なんていう感情は、とてもくだらないものに思えるのだけれど」

 レオンは静かな声で言う。 

「……兄上?」

 リヒトは、思わず兄の顔を見上げていた。
 ローズとリヒトの身長差はそこまでない。細身ではあるものの、ローズの体を包み込めるレオンとでは、レオンのほうが身長が高い。

「感情なんてものはね、人を惑わせるだけなんだ。だから、本当は要らないんだよ」
「……あの、兄上……?」

 その言葉は、何故か自分に向けられたものではない気がして、リヒトは少し困ってしまった。
 わからない。自分の兄は、完璧な筈なのに――その兄が何故、こんなに寂しげな目をしているんだろう?
 でもその理由を尋ねることは、リヒトには出来なかった。
 レオンはリヒトの言葉を遮った。

「リヒト」

 レオンはそう言うと、そっとリヒトの頬に触れた。
 それはかつて、リヒトが記憶が無いくらい幼い時は、優しかった気がした兄のように。

「また、夜遅くまで何かを作っていただろう? 目が赤い。君が何をしても無駄なんだから、さっさと早く寝るべきだと思うけど?」

 でもやはり言葉は冷たい。
 それだけ言うと、レオンはぱっとリヒトから手を離した。

「……」
「ああ。そうだ、これを」

 動けずにいる弟に、レオンはリボンの巻かれた箱を手渡した。

「女性からの贈り物の中に、入眠効果のある菓子があったから君にあげよう。僕は食べる気にはならないけれど。……ああ。毒性は特に無いから安心していい」
「……」

 ――女性からの贈り物を自分に回すな……!
 リヒトはそう思ったが、突き返すわけにもいかず受け取った。
 城を出れば女性に囲まれる兄ではあるが、兄が別に女好きでないことをリヒトは知っている。
 そして兄が、自分に対して直接的な攻撃を下すような人間ではないことも。

「――甘い」

 自室に帰ったリヒトは、レオンから受け取った菓子を一つ口に含んだ。
 ホワイトチョコレートで包まれた、乾燥させた苺の菓子。
 一つ口に含んで、彼は目を瞑った。
 連日の徹夜で疲れた体には、入眠効果があるというこの菓子はよく効くような気がした。

「なんだろう」

 瞳を閉じれば、リヒトの中にある風景が浮かんだ。
 それは自分が壊してしまった、笑い声が響く場所。 
 自分だけがそこにいるのに、そこにいないような気がしていた。それでも、ずっと嫌いになれなかった場所。

「……なんだか……懐かしい、味だ……」
 リヒトの声はチョコレートが口の中で解けるように、一人きりの室内に、小さくとけて消えていった。



「眠った、か」

 壁の向こう側ですうすうと弟が寝息を立てるのを確認して、彼は石の嵌った指輪に触れた。
 赤と青。
 火属性と氷属性。正反対の色をした石をそっとなぞって、彼は苦笑いする。
 自分に与えられた属性の意味を、考えてはならないと否定する。

「さて僕は――指輪を探しに行くとするかな」

 彼はそう言うと、自室に戻り窓を開けて、小さく誰かの名前を呼んだ。
 すると彼の声にこたえるように、夜の漆黒の中を翼を羽ばたかせ、巨大な鳥が現れた。

 黒い体に赤い瞳。
 それはローズと同じ色。強い魔力を持つ生き物の証。
 契約獣。あるいは従獣。
 この世界の生き物は、相手の魔力が自分に相応しいと思わない限り従わない。
 ローズやアカリに求婚してきた王子たちが、主従契約を結べたのも、彼らの魔力があってこそだ。
 だからこそ、十年も前からこの鳥と契約を結んでいたレオンの異質さは際立つのだ。

 この世界で最も高貴な生き物と言われている生き物は、二ついる。
 黒い翼に赤い瞳を持つ鳥『レイザール』。
 白い翼に青い瞳を持つドラゴン『フィンゴット』。
 しかし後者は、相応しいものが訪れない限り卵からは目覚めないと言われており、その卵はとある国にある魔法学院で保管され、千年以上眠ったままだ。

「ありがとう、レイザール」

 黒い鳥はその巨体に反し、優しい心を持つという。
 心配そうに自分を見つめる鳥に、彼――レオンは微笑みかけて礼を言った。
 窓枠に手をかけて足を踏み込み、レオンは窓の向こう側へと飛んだ。
 風魔法が使えない彼にこれが出来るのは、相手への信頼あってこそだ。レオンを受け止めた鳥は、大きく翼を動かして浮上した。

「さあ、行こう。――僕の国を、守らなくては」

 レオンの言葉にいらえるように、鳥はその嘴をあげた。

 その日、ユーリの帰宅は遅かった。
 ベアトリーチェからの伝言を紙の鳥を飛ばして伝えたローズは、翌朝改めてユーリに口頭で伝えたが、ユーリは静かに頷くだけだった。

「……そうか」
「別行動とはなりますが、指輪の捜索は行うとのことでした」

 ローズの言葉に、ユーリは渋い顔をした。
 指輪の捜索とこちらには言ってはいるが、ベアトリーチェの先日の行動から考えて、彼は指輪より薔薇を優先して探している可能性は高い。

「申し訳ございません。兄様も、お考えがあってのことだとは思うのですが……」

 ユーリがそんなことを考えていると、ローズも見知った顔の少年がそう謝罪した。

「貴方は……」
「……おはようございます。ローズ様。以前は大変失礼いたしました」

 ベアトリーチェを『兄様』だと言ったのは、騎士団入団の際、ローズを縛りあげたあの少年だった。

「僕はジュテファー・ロッドと申します。兄様の……いえ、副団長、ベアトリーチェ・ロッドの弟です」

「貴方が……?」
「?」
 ローズは少年を観察した。
 礼儀正しく頭を下げる彼の雰囲気は確かにベアトリーチェに似ている気もするが、顔自体はそこまで似ていないような気がしたからだ。

「……やはり、弟がいらっしゃったんですね」
「はい。兄は心から尊敬する僕の兄様です」

 ジュテファーはにこりと笑った。

「失礼ですか、ご年齢は?」
「今年、一三になりました」
「随分年が離れているのですね……?」

 ローズは思わず訊ねていた。
 外見年齢だけならベアトリーチェは彼とそう年が離れていないようには見えるが、ベアトリーチェの実年齢は二六歳だ。
 二六歳と一三歳では随分離れている。

「ええと……それは、血が繋っていないので」
「え?」
「兄様は、父様に才能を見込まれて養子に入られた方なので……」
「……すいません。失礼なことを」

 失言だ。申し訳なさそうに言うジュテファーに、ローズはすぐ謝罪した。

「いいえ。……それに、兄様は命の恩人でもあるんです。だから父様の後継には、兄様が相応しいと思っておりますし……」 

 ――命の恩人? 後継?
 ローズはジュテファーの言葉が少し引っかかったが、詳しく聞くことは出来なかった。

「申し訳ございません。実は副団長に呼ばれていて。これからそちらに向かっても構いませんか?」
「ああ。構わない。元々君はビーチェの補佐だしな」
「ありがとうございます。団長」
 ジュテファーはそう言うと、頭を下げて二人の前を後にした。


「ユーリは知らなかったのですか?」

 ジュテファーの姿が見えなくなる頃、ローズはユーリに尋ねた。
 ローズがそんな質問をしたのは、ジュテファーの言葉にユーリが驚いたように見えたためだ。
 ユーリがジュテファーを弟だということも、養子で伯爵家に入ったことを知らないなんて、有り得ないはずなのに。

「養子であることは知っていましたし、彼が弟であるのは知っていましたが、ビーチェ自身は爵位は弟にと言っていたので驚いて……」

 貴族の結婚は、魔力が強い者の方が身分の劣る場合を除き、通常近しい家柄で、魔力が同程度の者と行われる。
 それはそうする方が生まれた子どもが強い魔力を持つ場合が多いためであり、このような婚姻を繰り返すために、身分ある家系に魔力の弱い子どもは殆ど生まれない。

 王族でありながら魔法を使えないリヒトの方が珍しいのだ。
 だからこそ、実子であるジュテファーが魔法を使えるのに、ベアトリーチェが養子として迎え入れられたのがローズは少し疑問だった。
 それに本来爵位を継ぐべき立場の人間が、ベアトリーチェに爵位をと言うのも変だ。

「ベアトリーチェ様が?」
「……」

 ローズのベアトリーチェに対する呼び方を聞いて、自分との呼び方の違いに気付いてユーリは一瞬表情を曇らせた。だが、すぐにユーリはいつもの彼に戻りローズに話を合わせた。

「妙な話ですよね……?」

 ベアトリーチェは爵位を継がず弟を支えようと思っていて、ジュテファーは養子の兄に爵位を譲り、兄を支えようと思っている。
 二人の考えがすれ違っている理由がわからず、ローズは更に首を傾げた。
 彼の家庭事情はなかなか複雑らしい。青い薔薇の屍花といい――何か理由があるのだろうか?
 それは、今のローズには分からなかった。



「やはり、手掛かりは無し、ですか……」

 事件が起こり五日目。
 ベアトリーチェが不在ということもあり、ローズは毎日ユーリと行動を共にしていた。

 しかし甘い雰囲気など露ほどもなく、元々自分にも他人にも厳しいローズは、職務中はずっと仕事モードでユーリには接していた。
 ユーリが肩を抱こうものなら、叩き落とされるに違いない。
 勿論、公爵令嬢であるローズに、許しも得ず軽々しく触れるユーリでは無いのだが。

「しかしここまで他に被害がないとなると、今回のことは、ベアトリーチェ様を狙った犯行と考えるのが良いのかもしれませんね」

 リヒトの発明品は結局どれも使えず、ローズたちは町の警邏をしつつ、手掛かりになりそうなことを探していた。
 でも何も見つからない。
 考えた結果、ローズは今回の事件の発端にある結論を出した。

「ビーチェを?」
「考えてもみてください。鍵を鍵と知りながら使わない。どう考えてもおかしいではありませんか」
「確かに……」

 指輪が盗まれて使用されたのは、ユーリが王都からでるための扉を閉めさせた後だ。
 今は既に開けられているが、検問は厳重に行われている。
 魔法式を保存できる石は探知機に必ず引っかかるため、外に持ち出されることは有り得ない。
 だとしたら指輪はまだこの王都にあり、警備が厳しくなってから使用され、かつ二度目の使用はされていないことになる。

 どう考えてもおかしい。
 だとしたら犯人の狙いは、ベアトリーチェ個人、あるいは青い薔薇ということになるが、青い薔薇の研究に最も熱を入れている彼の言葉から考えると、薬として使用出来ない青い薔薇を危険を冒してまで盗むのはおかしいようにローズには思えた。
 もし犯人が本当に青い薔薇を欲し、そのために指輪を盗んだならば、当然ベアトリーチェの論文は全て読んでいる筈だからだ。
 ベアトリーチェしか育てることの出来ない屍花《はな》。それを盗む意味はない。

「ユーリは、彼についてどれほど知っているのですか? 騎士団長として、副団長のことは知っていますよね?」
「いや……」

 ローズの問いに、ユーリは曖昧な返事をした。

「ビーチェは、あまり自分のことを話さないので。俺のことはよく見てくれているんですが、ビーチェの言葉は比喩? が多くて。直接的なことはあまり言わないので」
「つまり、よくわからないと」
「…………はい」

「彼の過去について、調査したほうがいいのかもしれません。彼に恨みを持つ人間、悲しむことを望む人間……狙う理由はわかりませんが」
「ビーチェに恨みを持つ……」

 ユーリにはリヒトくらいしか思いつかなかった。

『私は――貴方が嫌いです』

 そうしてふと、自分の言葉に傷付いた顔をしたリヒトを思い出して、ユーリは顔を曇らせた。
 泣きそうな表情。
 あそこまで自分の言葉で、リヒトが傷付くとはユーリは思ってもみなかった。
 そして自分の中に生まれた感情も、ユーリは整理できずにいた。

 ――貴方に、そんな表情《かお》をさせたいわけではなかったんだ。

「……っ!」

 その時、ユーリは強い頭痛に襲われて頭を押さえた。
 誰かの声が頭の中に響く。

『君ならば空を飛べる。君の剣は天にも届く。だから俺は――君に、『天剣』の名を与えよう』

 ――誰、だ……? 
 ユーリの記憶にはない言葉。それでもその声を聞くだけで、ユーリは懐かしさに胸が苦しくなった。
 ユーリは記憶を辿ろうとしたけれど、靄がかかったように景色は霞んで、誰が言ったのか思い出せない。

「……ユーリ?」
 記憶の片鱗を掴みかけた気がしたその時、ユーリはローズに名前を呼ばれて現実に引き戻された。

「ああ。い、いえ。なんでもありません」
 慌てて頭を押さえていた手を下ろす。

「とりあえず、騎士団に保管されている資料をあたりましょうか?」
 ユーリの言葉に、ローズは頷いた。



「ありませんね……」
「そうですね」

 団長・副団長と一部の人間だけが閲覧を許される騎士団の資料室に、本来保管されてあるべき彼の情報は、何故かベアトリーチェとジュテファーの分が欠如していた。
 ベアトリーチェが隠したに違いない。
 ユーリはそう思い眉をひそめた。

 そしてユーリはこうも思った。
 ジュテファーをベアトリーチェが呼んだのは、自分のことを知っている人間を手元に置く為だったのではないだろうかと。
 けれど何故ベアトリーチェが、自分の経歴を隠すのかがユーリには理解出来なかった。
 ユーリとローズは、ベアトリーチェのことについて歳を重ねた騎士たちに尋ねてみたが、先日のこともあってか、彼らはローズたちの質問には答えてくれなかった。
 誰もが「あの方は大変な想いをされたから」とか、「苦労された」とか、そんな言葉ばかりを並べた。
 そして騎士団での情報収集を諦めたユーリとローズは、王都でベアトリーチェの評判について聞くことにした。

「ベアトリーチェ様? あの方ほどの貴族はいないよ!」
「ベアトリーチェ様はどなたにもお優しい」
「あの方が爵位を継がれるのは当然だ」
「騎士としても研究の分野でも成果を挙げられている。強く賢い」
「体は小さいが、それは魔力のせいだと聞いている。その分、心の大きな方だ」
「思慮深く、相手を思いやれる方。あの方を怒らせるのは相当難しいのではないでしょうか?」
「娘を嫁にやるのなら、この国では一番あの方が安心と専らの評判ですよ。尤も未来の伯爵様に、俺たちのような人間は恐れ多くてとても言えませんが」

 王都の住人たちは、身分の貴賎を問わず誰もがベアトリーチェのことを褒めたたえた。

「評判……」
「まさかここまで良かったなんて……」

 ローズは些か驚いた。
 変わり者のロッド伯爵とその後継。
 まさか後継と呼ばれるベアトリーチェが、ここまで人々の心を得ていたなんて。 

「平民出身だというのもあって、彼はいろんな立場の人間から信頼を得ているのでしょうね。しかし……」

 だからこそ、今回の彼の行動は異常だ。ローズは余計にそう思えた。
 ここ数日、騎士団の輪を乱す彼の身勝手な行動。
 それは、人心を得ている人間の行いとはとても思えない。

「ビーチェの過去について、私はまた別の角度で調べてみようと思います。もう日が暮れますし、ローズ様はお屋敷にお戻りください」
「わかりました」

 気付けばだいぶ陽が落ちていた。
 ローズは紙の鳥をミリアに飛ばすと、馬車で屋敷へと帰った。
 彼女の父である公爵が、娘が一人で行動することをあまりよく思ってはいないのだ。
 騎士団入団は認めた公爵だったが、可能な限り娘の送迎はさせてほしいと、ユーリは公爵に言われていた。

「では、ユーリ。また明日」
「はい。また明日」

 ユーリはローズに向かって笑顔を作った。
 馭者を務めていたミリアが馬に鞭打ち、馬車が動き出す。ローズを笑顔で見送ったユーリは、引き続き次の調査へと向かった。

 ローズが屋敷に帰ると、訓練を終えたらしいギルバートが、ローズの眉間にちょんと指を押し当てた。
 ぐりぐりぐりぐり。普段人に触られない場所で押しまわされ、ローズは慌てた。
 兄の行動が理解できない。

「あ、あの。お兄様?」
「眉間に皺が寄っているぞ。ローズ。難しい顔をして、どうかしたのか?」

 漸く指を離したギルバートは、ふっとローズに笑いかけて尋ねた。

「お兄様」
「俺には言えないことか?」
「……その、騎士としての仕事のことなので……」

 ローズは兄から目線を逸らした。
 大好きな兄で公爵子息とは言えど、事が事だけに軽々しく家族に話すべきではないだろうとローズは思った。

「ああ。だったら俺には言えないな」

 ギルバートはそう言うと、ローズの頭をポンポンと軽く撫でた。まるで、気にするなとでも言うように。

「お兄様は」

 そんな彼に、ローズはずっと疑問だったことを尋ねた。

「私の考えの全てがわかるのではないのですか……?」

 ギルバートは昔から、ローズに完全な答えは教えない。
 けれど彼の言葉は、まるで遠い未来が見えているかのように思えて仕方がないことがあったのだ。だからこそ幼い頃のローズは、兄が神様のように思えて仕方がなかった。
 自分の全部をわかってくれる。これから起こる全てを見通せる。
 そんな、絶対的で正しい神様に。

「俺は相手の話が嘘か本当かどうかがわかるだけであって、俺は人の考えの全てがわかるわけじゃない。ただ、それがわかれば推測の材料としては十分だろう?」

 妹の羨望の眼差しに気付いて、ギルバートは苦笑いした。

「それに特別な目なんてなくても、相手の感情を感じ過ぎてしまう人間は居る。鏡のように相手の心を映す。そう言う人間は、自分の領域を侵されることにも敏感だ。――だから、気を付けろよ?」

 昔からローズは、兄の言葉の全ての意味は分からない。

「?」
「あんまり踏み込むと、壁を作られる可能性があるぞ」
「それはどういう……?」
「今の俺に言えるのはそれだけだ」
 ギルバートはそう言うと、自室へと戻っていってしまった。


「ローズ様。ゆっくり休まれてくださいね」
「ありがとう。おやすみなさい、ミリア」

 夜。
 ミリアに就寝の挨拶をして、ローズは自分の部屋の扉を閉めた。
 天蓋付きのベッドに体を横たえる。
 公爵令嬢の自室ということもあって、ローズが華美なものをあまり好む性質ではないにしても、父やミリアたちが彼女を思い用意した部屋は、女性らしさと優雅さを兼ね備えた調度品で纏められている。

 ローズは大きく息を吐いた。
 箸より重い物は持ったことは無い。
 これまで社交界ではそう取り繕ってきた自分だが、最近剣を毎日握っているせいで少し硬くなった皮膚を撫でる。

「こんな私を妻に欲しいという方などいるのでしょうか……?」

 ローズは苦笑いした。
 ドレスを着てダンスを踊るより、男に混じって剣を振るう方が、自分の性に合っている。
 そう思ってしまう最近の自分は、これから一生誰とも結婚なんて出来ない気がした。
 望まれても、相手に合わせて妻らしく振る舞える自信が、今のローズには無かった。

 四枚の葉。
 そんな時、ローズは事件が起こる前に、ベアトリーチェに渡された葉のことを思い出した。薔薇のケースを開く。
 光魔法で生命を維持しているおかげで、今のところ枯れる葉が様子はない。

『私は貴方にこれを託しましょう。貴方が幸福を願うその相手に、どうかその葉を渡してあげてください』

 ローズには、何故ベアトリーチェが自分にそう言ったのか、彼の気持ちがわからなかった。
 大体自分と彼は、そこまで親しい間柄ではない。
 ではなぜ、彼はこれを自分に渡したのか。

『ベアトリーチェ様はどなたにもお優しい』

 彼は、誰にでもこうなのかもしれない。ローズにはそう思えた。
 きっと彼が自分にかけてくれる優しさは、彼が他の人間に与えるものと変わらないのだと。

 大地はその地面に宿す栄養を、水を、全てのものに分け与える。
 人を愛し、支え、育てる。
 それが、地属性の適性。
 彼は属性を体現したような人間だが、成長が止まるほどの回復力を持つとなると、一般的な適性を遥かに超えるきっかけがあったと考えるほうがいいのかもしれない。
 
 魔法は心から生まれる。
 魔力の強い人間ほど、強い心の傷を抱えるという説もある程だ。実際ローズは、魔王討伐後、回復力が上がっている。
 人の心に負荷がかかり、それを乗り越えるほど、その人間の魔法は強くなる。
 だからこそ、先天的に魔力の強い人間以外に、後天的に魔力が上がる人間がいるのだ。
 この世界では、魂は巡るものという考え方もあり、生まれつき強い魔力を持つ人間は、前世で心に深い傷を負った人間である可能性が指摘されている。
 ただこの説は、前世の記憶を持つ人間が少なく、まだ証明は出来ていない。

「彼は……」

 ベアトリーチェは、養子だ。
 この世界では、普通平民に魔力の強いものは生まれない。
 この世界で平民で強い魔力を持つ人間は、【神の祝福】を受けた人間であるとされる。

「どちらなのでしょうか……?」

 先天的なのか,後天的なのか。
 あるいは自分のように、そのどちらもなのか。
 そしてもし、彼が生を得てから魔力が強くなったのなら――結果には必ず原因がある。

「養子……青い薔薇……」

 ローズは一人呟く。

『この花は、屍花なのです』

 そう言った彼の言葉が、今はやけにローズの頭の中に響いた。
 月の世界の、青い薔薇の国。
 彼の周りを取り囲む、誰かの分身。愛しげに花に触れる彼。

「そうか」

 ローズはふと、薔薇園を思い出してあることを思いついた。
 そうしてベアトリーチェから貰った四つの葉を持つ植物を、ローズは薔薇のケースから取り出した。
 数年前に貰った、リヒトの発明品で、数少ない利用価値のある道具。
 この容器に入れておけば、少ない魔力で状態を保存できる。

「――そうすれば……」

 ローズはそう言うと、そっとその葉に触れた。


 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 ローズと別れたユーリは、国立図書館を訪れていた。
 ユーリにローズのような医療知識は無い。

「青い薔薇……」 

 図書館の資料は膨大だ。
 ベアトリーチェの管理する研究施設の資料は四つの部屋に纏められているらしく、そのうち一室に案内されたユーリは驚いた。
 壁一面を埋め尽くす夥しい量の資料が、そこには保管されていたからだ。

 ベアトリーチェは騎士団の副団長も務めている。
 その仕事の傍ら研究を続けていたのだとしたら、騎士団の管理を怠った自分に対して怒り、『手が回らない』と言ったのもユーリは頷ける気がした。

 ユーリは目に入った本をぺらぺらと捲ったが、知らない名前の羅列ばかりで、全く頭に内容が入ってこない。
 知らない魔法陣。知らない植物の名前。どの属性の魔法をかけ、その時間はどれほど継続すべきなのか。魔法をかけることによっての効能の変化等――……とても覚えられるものではない。
 ユーリは眩暈がして本を閉じた。
 溜息を吐きながら本を戻すと、ふと彼の目の前を柔らかい光が横切った。

「光……?」

 ふわふわと、それは踊るように楽し気に、ユーリのまわりをくるくる周る。
 そして光はユーリから離れて飛ぶと、とある本の前で止まって消えた。

「…………?」

 ユーリは首を傾げつつ、その場所へと歩いた。
 そこには一冊の本があった。

「『精霊病』……?」

 背表紙にはそう書かれていた。
 ユーリは本を手に取るとパラリとと捲る。
 中にはまず、こう書いてあった。

「【魔法式を書き込める石のことを、古くは精霊晶と呼んでいたことに由来する。この病を罹患した人間の心臓は石となり、魔法式を保存することが可能である。発病率は限りなく低いが、世界中で発症例がある。不治の病とされていたが、クリスタロス王国ベアトリーチェ・ロッドが、特効薬の開発に成功。これにより、屍花『青い薔薇』を第一級指定薬に認定。】」

 探していた本はこれだ。
 ユーリは安堵した。知識のないユーリが、薬の調合方法など知ってもなににもならない。
 欲しいのは、青い薔薇とベアトリーチェに、どんな関わりがあるかだけだ。
 ここまでは、ローズも知っている情報だろうとユーリは思った。
 しかし流石の彼女でも、誰が病に罹り亡くなったかまでは、把握していないだろう。
 ユーリは本の頁を捲った。

 そこには、この病にかかった人間の名前と年齢、出身地がずらりと記されていた。
 未曽有のこの病は、国家による闇魔法の実験が疑われ、その罹患者数の分布が調査された。彼らの国籍・年齢・経歴・魔法適性に至るまで。情報量は膨大だ。

「罹患者は……」
 魔法適性なし。発病時9歳。完治後、地属性の適性が発現。

「ジュテファー・ロッド」
 ベアトリーチェの弟の名前だ。

 命の恩人という彼の言葉は、『精霊病』に罹り死ぬはずだった命を、救われたという意味だろう。
 ベアトリーチェが伯爵家に入ったのが、元々家を継ぐべき嫡男が魔法を使えなかったことが原因だったとしたら、ユーリは納得は行った。
 ベアトリーチェは悩んだはずだ。
 養子に入った頃はジュテファーには魔法が使えなかったなら、自分という存在が、新しく出来る弟を否定することに繋がると理解していたなら。
 それでもベアトリーチェが伯爵家に入ったのは、きっかけがあったに違いない。
 彼の人生を、価値観を変えるような出来事が。

「死亡したのは……」

 ユーリは一〇年前の頁を捲った。流石のベアトリーチェでも、国の図書館の資料に手は出せない。
「水・光魔法に適性。享年一六歳」
 記されているのは、過去の事実。
 
「――ティア・アルフローレン」
 少女の死亡した年齢は、当時のベアトリーチェの年齢と一致する。
「ローズさん!」
 翌朝、ローズが騎士団の前で馬車から降りると、アカリが駆け寄って来た。

「最近会えなくて寂しくて……お忙しそうでしたが、何かあったんですか?」

 神殿に向かうため純白の服に身を包んだアカリは、ローズには立派な聖女に見えた。
 そんな彼女だったが中身は相変わらずのようで、ローズを見上げるとアカリはしゅんと眉根を下げた。
 魔王討伐以降、『光の聖女』として振る舞うよう努力しているが、唯一ローズの前だけでは、彼女は『七瀬明』に戻るのだ。

「実は……」
 かくかくしかじか。ローズはアカリに今回のことを話した。
 現在のアカリは騎士たちからも信頼されており、一部聖女として仕事も頼まれている。
 事件解決までは騎士団が慌ただしくなる以上、アカリには真相を話しておいた方がいいとローズは判断した。

「ええっ!? リヒト様の指輪が盗まれて、ベアトリーチェさんの青い薔薇が盗まれた!?」
「――アカリ、静かに」

 ローズは思わずアカリの口を手で塞いだ。
 すると、アカリの頬が赤い林檎のように真っ赤に染まった。
 ローズは手を下ろした。

「す、すいません……」
 アカリは頭を下げて謝罪した。

「街が騒がしいと思っていたら、そう言うことだったんですね。でも確か、あの指輪は鍵になるんでしたよね? ……何も音沙汰がないとなると、それはそれで不気味ですね?」

 事実を知るアカリはローズに尋ねた。ローズは頷いた。アカリの目の付け所は間違っていない。

「そうなのです」
 ローズは静かに頷き――あることを思い出してアカリに尋ねた。

「そういえば……アカリは、ベアトリーチェ様の過去についてなにか知りませんか?」
「え? 私ですか?」
 アカリはきょとんとした。
 魔王討伐の際、ローズに『誓約の指輪』の情報を教えたのはアカリだ。
 今回ももしかしたら、何か海月の糸口になる情報を彼女は知っているかもしれない。ローズはそう考えたが、アカリはうーんと首を傾げた。

「うーん……私、全クリしたわけではないので……詳しく知らないんですよね。あ。でも、これだけは覚えています」
 『全クリとは何だろう』とは思いつつ、ローズは疑問をスルーした。

「それは何ですか?」
 ローズは尋ねる。
 ローズの問いに、アカリはまた意味が分からない言葉を口にした。

「『ベアトリーチェ・ロッドの初恋』」

「え?」
 ――初恋?
 ローズは驚きのあまり思わず声を漏らしてしまった。

「……ええと、そういうイベント? というか、話があって。私の記憶では、彼には病気でなくなった初恋の相手がいたはずです。確か、彼が伯爵家に入ったのもそれがきっかけだったという話だった気が……。ゲームの中で、唯一ヒロインが初恋の相手じゃないという設定で、初めは批判があったんですが……最終的にそれらの意見を全部覆して、私の知る限りでは、彼が一番ゲームの中では人気が高くて……」

 『ゲーム』を理解していないローズには、アカリの言うイベントの意味がよく分からなかった。
 ただアカリから話を聞いたローズは、やはりアカリの話す『ゲーム』の世界は、自分たちの世界と多少の違いはあれど、共通点は多いように思えた。だったらアカリの言う『ベアトリーチェの過去』が、この世界の彼の過去と一致している可能性はある。

 初恋の相手が病気で死んだ。
 ローズは、恋人に触れるように、青い薔薇に触れるベアトリーチェを思い出した。

『病で死んだ人間の墓の上に咲き、生前親しかった人間の魔力に触れていなければ枯れてしまう』

「まさか、あの花は……」
 亡くなった、彼の初恋の相手の――。
 
 ローズは眉をひそめた。もしこの予想が正しければ、青い薔薇に彼が執着する理由に納得がいく。
 初恋の相手の屍花。
 それが盗まれたというのなら、彼が取り乱すのも頷ける。

 ドガ! ガラララ……ガッシャン!!

 ローズがユーリに情報を伝えるために、彼の部屋に向かった時。室内から誰かが争う音が聞こえ、ローズはノックをせずに扉を開けた。

「なんの騒ぎです!?」
 ローズとアカリは、部屋の中を見て仰天した。
 ユーリの部屋が荒らされていたのだ。
 そして犯人らしきベアトリーチェは、ユーリを壁に追い詰めていた。

 ユーリは壁に背中を、床に手をついているような状態だ。
 小柄なベアトリーチェはユーリの腹部に片膝を押し当て、ユーリの右顔の横の壁に拳を突き立てていた。
 いつもは穏やかな緑の瞳は、今は強くユーリを睨みつけている。

「――これ以上、私のことを調べるのはやめてください。貴方だって、知られたくないことはあるでしょう? ……たとえば」
 ベアトリーチェはそう言うと、ユーリの髪紐をするりと解いた。

「……この髪紐を、最近ずっと貴方が身につけている理由とか」
「ビーチェ!」

 自分の大切なものに触れられて、ユーリは思わずベアトリーチェに手を上げてしまった。
 自分の行為に、ユーリ自身驚いていた。
 そんなユーリの幼さを、ベアトリーチェは嘲笑った。

「人の心に踏み入ることを許されるのは、自分も踏み入られる覚悟がある人間だけだ。――その覚悟がないのなら」

 ベアトリーチェの口の端は、切れて血が滲んでいた。
 指でそれを拭った彼は、指についた血を見て冷たく笑った。

「私のことは放っておいてください」
「その言葉、そっくりそのまま返してやる」

 自分を馬鹿にしたようなベアトリーチェの目に苛ついたユーリは、彼の胸ぐらを掴んで言った。

「いつもなんでもわかったような顔をして。自分は人の心には踏み入るのに、お前は踏み入られることを恐れている。覚悟が無いのはビーチェ、お前のほうじゃないか!」

 ユーリは、自分からベアトリーチェが瞳を逸らすことを許さなかった。
 体格上、この体勢ではベアトリーチェはユーリから逃れられない。

「貴方に」
 ベアトリーチェは唇を噛んだ。
 底冷えするような低い声。

「……貴方には、私の気持ちはわからない。私の時間は、ずっと止まったままだ!」
「きゃ……っ!」

 その時、ベアトリーチェの感情に引きずられるように、地面が大きく動いて建物がきしんだ。
 ユーリの部屋に置かれていたリヒトの発明品が、音を立てて棚から落ちる。

「アカリ!」

 ローズは思わずアカリを庇った。
 ユーリはベアトリーチェから手を離した。
 その隙に、ベアトリーチェは部屋を出て行った。

「ビーチェ! 待て!」 
 追いかけよう呼び止めたが、ローズに服の袖を引かれユーリは動きを止めた。

「……ユーリ? 一体、何があったのです?」
「……っ!」
 ユーリはローズから顔を背けた。
 ローズを置いて、ベアトリーチェを追いかけることはユーリには出来なかった。

「ユーリ、さん」

 アカリはハンカチをユーリに差し出した。
 ユーリは僅かに表情を曇らせた。

 ――完全に二人に足止めされた。今更、追いかけるのは無理だ。

「怪我、大丈夫ですか?」
「……すいません。ありがとうございます」

 ユーリはアカリに礼を言うと、ハンカチを受け取った。
 口元が切れ、殴られたのか少し青くなっている。
 ここまで怪我の具合がひどくては、ローズとアカリは立場上治癒が出来ない。
 ローズは氷魔法で氷を作ったものを布でくるむと、ユーリに手渡した。

「ありがとうございます。ローズ様」
「……いいえ。治療が出来ず、申し訳ありません」
「これだけで、十分です」

 氷魔法であれば魔力はそこまで消費しないが、光魔法は消費が桁違いなのだ。
 それを理解しているユーリは、心配そうに自分を見つめるローズに笑みを作った。
 ローズはいつものように温和な笑みを浮かべるユーリを見てほっと胸をなで下ろすと、別室で安静にするよう言いわたした。
 ユーリは一人寝台に横になると、先程のベアトリーチェのことを思い返した。

「あれのどこか温厚なのか」
 自分を睨み付ける強い瞳。
 溢れだす地属性に適性を持つ強い魔力は、感情の高ぶりに合わせて周囲の環境にまで影響を及ぼす。

「感情をひたがくしにしているだけじゃないか」

 窓の向こう側からは、他の騎士たちの声が聞こえる。
 いつもと同じ時間が流れているようにも感じるのに、隣に居る筈の相手がいない。
 今のユーリは、それが無性に落ち着かなかった。

『……貴方には、私の気持ちはわからない。私の時間は、ずっと止まったままだ!』

 ユーリはベアトリーチェの言葉を思い出した。
 地を揺らすほどの慟哭を、その身に抱えていつも笑っていたことを、自分は気付いていなかった。
 次期伯爵。騎士団の副団長で、研究者。
 その彼の肩書を、ユーリはどこか当然のことのように思っていて、苦労も何も理解してはいなかった。
 だっていつでも自分の前にいる彼は、導べとして真っ直ぐに前を向いていてくれたから。

「隠されていたら、わかるわけがないじゃないか」
 自分が一番近くに居ると思っていた相手は、自分とは違う相手の手を取った。
 その光景を思い出して、ユーリは唇を噛んだ。

「……ビーチェ」
 ためらいがちに囁かれたその声は、誰にも届かずに消えた。



「ローズ」

 ユーリの部屋に長居するわけにもいかず、部屋の整理を終えたローズがアカリを送って騎士団に戻ろうとしていると、名前を呼ばれて彼女は振り返った。

「リヒト様?」
「……騎士団で何かあったのか? さっき怪我人とすれ違ったんだが」

 リヒトはどうやら買い出しに来ていたらしかった。
 何を作るつもりなのかは謎だが、材木やら鉱石やら、謎の材料が入った袋を彼は抱えていた。

「……その、ユーリとベアトリーチェ様が喧嘩を……」
 怪我人というと、おそらくベアトリーチェのことだろう。ローズはそう判断してリヒトに答えた。

「なんで喧嘩なんか……また、もしかして俺のせいか?」
 リヒトは、恐る恐るといった表情でローズに尋ねた。

「間接的にはそうかもしれませんが、リヒト様が責任を感じる必要はないかと思います。今回のことは……多分、ユーリが」
「?」

 ユーリが彼の地雷を踏んだのだ。
 ギルバートの言葉はそういうことだ。
 兄の言葉の意味をもっとちゃんと考えるべきだったと、ローズは一人反省した。

「リヒト様。ベアトリーチェ様について、なにかご存知ではないですか?」
 ここで会ったのも何かの縁だ。
 せっかくなので、ローズはリヒトにも尋ねてみた。

「ベアトリーチェ・ロッドといえば、『光の巫女』の予言を受けた人間だろう?」
「え?」
 当然のように言われて、ローズは驚きの声を上げた。

「『国を変える人物』――未来を視る光の巫女がそう予言したから、彼は産まれたとき呼吸をしていなかったが、本来王族しか受けられないような光魔法による治療を行われて、蘇生したという話だったはずだ。以前王家の記録で読んだことがある」

 リヒトは実技の魔法はからきし駄目で、医療知識も殆どないが、読書家ではあるし、王家の情報はそれなりに把握している。
 婚約破棄は、彼の知識の偏りと、弱い者いじめを許せない正義感が空回りした結果のやらかしだ。
 子どもたちにからかわれていたように、『馬鹿王子』で『アホ王子』なのは確かだが、彼は彼なりに努力している。

 ――最も、その努力の方向性はやや人とずれていたりすることは多かったけれど。
 それを知っていたからこそ、ローズ様はリヒトに今も普通に接しているという面はある。

 流石に寛容なほうなローズでも、ただの馬鹿でクズでろくでなしの王子なら、自国の王子とはいえ面倒を見てやる義理はない。
 子どもにからかわれ、叩かれたり蹴られたりはしていても、彼は決して弱者に対して手を上げるようなことはしない。

 リヒトの行動は一貫している。
 彼は弱者だからこそ、弱者に寄り添う人間なのだ。

「それが、どうかしたのか?」

 ただ少しズレているせいで、リヒトはいつも自分の持つ情報や知識の価値を正しく評価できない。
 アカリとリヒトは似ている。

「ありがとうございます。リヒト様。今頂いた情報はすごく役に立ちそうです」
「お、おう……?」

 手を握ってローズが言えば、リヒトは少し顔を赤くして、ローズから視線をそらした。