「昨日、お父様に婚約者候補を決めたと言われたんだ」

 翌日、訓練を終えたローズは、アルフレッドたちと休憩をしていた。
 
 はちみつレモンは、疲れた体にとてもいい。それはアカリからの差し入れだったが、当のアカリは、座学のために騎士団の訓練場にはいなかった。
 『光の聖女』としてまだ力を使いこなせない彼女は、一刻も早くこの世界について学び聖女の力を使えるよう、日々様々な課題が課されている。

 ローズの話を聞いた騎士たちは、一様に顔を曇らせた。
 何故なら『新しい婚約者』が、ローズに求婚した騎士団長――ユーリ・セルジェスカでないと気付いたからだ。

「え……団長じゃないんだ……」
「団長だったら間違いなく態度に出るからな」

 騎士たちは、事実を知ったときのユーリの反応を思い浮かべた。
 ローズに新しい婚約者――波乱の予感しかない。

「ローズ様」
「ユーリ」

 そこへ、仕事を終えたユーリがやってくる。
 タイミングが良すぎるというか悪すぎる――やがて知ることであっても、せめてまだユーリに夢を見させてあげたい派の騎士たちは、ユーリに話しかけて話を変えるべきか悩んだ。
 しかし、騎士とはいえローズは公爵令嬢だ。突然話に割って入るような無礼は出来ない。

「団長〜〜!」

 そして他の騎士たちが思案しているうちに、アルフレッドがまた必殺技『KY(くうきよまない)』を発動させた。

「団長がローズ様の新しい婚約者なんですか?」
「……え?」
 アルフレッドの問いを聞いて、ユーリの顔から表情が消える。

『お前……また余計なことを――!!!』
 騎士たちの心の声が、再び重なった瞬間だった。



「ローズ様。申し訳ございませんが、頼みごとをしてもいいですか?」
「はい」

 このままローズを訓練場にとどめておくことは、ユーリの心の傷を増やすだけだ。
 ローズの新しい婚約者の話を聞いて、心ここにあらずのユーリの体を支えた騎士たちは、本来であればローズに頼まない買い出しを頼むことにした。
 ユーリが平常心を取り戻すための時間稼ぎだ。

「収納が使えないのはやはり不便ですね……」
「ローズ様」

 買い出しリストを元に城下で買い物を終え一人道を歩いていると、聞き覚えのある声に呼び止められて、ローズは振り返った。

「貴方は……」
「お荷物、お持ちします」

 ベアトリーチェはそう言うと、ローズの荷物に手を伸ばした。

「あの……」

 ローズは手に力を込めた。
 女性の中で身長が高いローズと、魔力のせいで身長が小さなベアトリーチェでは、ベアトリーチェのほうが身長が低いのだ。
 ローズは自分より小さな相手に荷物を持たせることに気が引けた。

「遠慮なさらないでください。私はこれでも、貴方より年上の男なのですよ?」
「でも……」

 ベアトリーチェの言葉に、ローズは困っってしまった。そんな彼女に、ベアトリーチェは大人っぽい笑みを浮かべた。

「では、言葉を変えましょう。どうか私のために、その荷物を渡してくださいませんか?」

 体は小さいが紳士だった。
 淑女に対する恭しさをしめされて、ローズは彼に荷物を手渡した。

「隣を歩いていて、女性に荷物を持たせるというのは、男として気が引けますので」
「……わかり、ました」

 最近は騎士として過ごしているせいか、異性の騎士《どうりょう》から女性扱いされたことにローズは少し戸惑いを覚えた。
 ベアトリーチェはローズが抱えていた荷物を受け取ると、見かけの割に軽々と運んだ。

「そういえば、何故ローズ様がこのようなことを? 本来貴方が任される仕事ではないでしょう?」
「実は私の新しい婚約者をお父様がご指名されたそうで、その話をしたら何故か買い出しを頼まれまして……」
「……なるほど」

 ローズの歩く速さに合わせて歩いていたベアトリーチェは、ローズの話を聞いて立ち止まった。

「?」
「では、もう少しだけ時間を潰しましょうか。せっかくですし、私のもう一つの職場を見学されていかれませんか?」
 ベアトリーチェはそう言うと、ローズににこりと微笑んだ。



 ベアトリーチェが自分のもう一つの職場だと案内した建物には、門に国の機関である証の花紋章が彫り込まれていた。

「ここは……」
「私はここの管理も任されているのです」

 彼はそう言うと、薔薇の彫り込まれた剣の青い石を門の魔封じに押し当てた。

 門が開く。
 大きな塀に囲まれたその場所は、植物で溢れていた。
 レンガで作られた建物の他に全面ガラス張りの植物園があり、ベアトリーチェはローズを植物園へと案内した。
 希少な植物がローズを取り囲む。
 そのどれもが、ローズがギルバート(あに)レオン(おさななじみ)を目覚めさせるために読んだ本の中でしか見たことのないものだった。

「ここには沢山の薬草が植えられているのですね。……もしかして、ユーリと少し服が違うのはこのためですか?」

 ローズは疑問に思っていたことを尋ねた。
 ベアトリーチェと、ユーリやローズたちの騎士団の服は少しデザインが異なる。
 ローズはその理由を、彼が騎士団以外(ここ)でも働いているからかと推察した。

「正確に言うとそういうわけでもないのですが……。騎士団では、医学・薬学に知識がある者とそうでないもので、服を分けてはいますね。確かに彼らの中には、私のようにここにも籍を置いている人間もいます。何かあったときにわかりやすいですから」
「なるほど……」

 ローズは頷いて、ゆっくりと周りを見回した。
 ガラス張りの植物園には光が差し込み、きらきらと輝いている。

「何か飲み物をご用意しますね。ハーブティーはお飲みになれますか?」
「はい」

 ローズが返事にベアトリーチェは頷いた。
 ベアトリーチェの歩みはいつも緩やかだ。
 この植物園といい、纏う雰囲気といい――ローズはベアトリーチェの周りの時間が、とても緩やかに流れているように感じられた。
 大地に染み込む水を吸い上げて植物が空に向かって緩やかに育つように、彼の纏う時間は温かく、ローズの心を和らげてくれる。
 それは兄たちのために子どもらしく生きてこれなかったローズにとって、優しい薬のようだった。
 彼がハーブティーを淹れている間、ローズはテーブルの上の走り書きを見て、あることに気がついた。

 その筆跡を、ローズは以前見たことがあった。
 ユーリとの薬草の採集のときと――あと、とある論文で。

「すいません。先程まで書き物をしていたものですから、散らかったままになっていましたね」

 トレイを手に戻ってきたベアトリーチェは、メモを見つめるローズに気付いて苦笑いした。
 ローズは彼に尋ねた。

「もしかして……伯爵家の方だったのですか?」
「――はい」

 ローズの問いに、ベアトリーチェは静かに頷いた。

「レイゼル・ロッドは私の父です」
「伯爵は存じておりますが……そうではなく。……私、以前貴方の論文を読んだことがあります」

 『ベアトリーチェ・ロッド』
 通りで聞き覚えのある名前だと思ったはずだ。
 三年ほど前に、死に至る病とされていた病の特効薬の開発に成功したという、変わり者の伯爵の後継者――それが彼だったのだ。
 女性名だったせいで、すぐには繋がらなかった。ローズはてっきり、『ベアトリーチェ(かれ)』を女性だと誤解していた。

「私の論文を? それはありがとうございます。……そういえば、あの日も仰っていましたね」

 茶器をテーブルの上に置いて、ローズの前でカップにハーブティーを注ぐ、ベアトリーチェの所作は洗練されていて美しい。

「健康被害も勿論ありますが、魔力の使い過ぎは命を削る可能性もあるようです。人は人の領分を侵してはならない。私は、そういうことだと理解しています。……ローズ様は、あれから体に異常はありませんか」

 どうぞと差し出されたハーブティーを、ローズは一口飲んでみた。
 爽やかな香りなのに口当たりはまろやかで優しい。
 ローズは顔を綻ばせた。
 すごく、落ち着く味だ。

「いいえ」
 ローズが首を振ると、椅子に座ったベアトリーチェが、ローズの目を見てこんなことを言った。

「――本当に。貴方はまるで、いつも不思議な力に守られているような方ですね」

「え?」
 彼の言葉の意味がわからず、ローズは首を傾げた。

「家族から守られ、指輪に守られ、敵だった少女に守られ。貴方を思う人々に支え守られ、ユーリが貴方を受け止め守らなければ、貴方は今ここには生きてはいない」

 ミリアやアカリ、そしてユーリ。様々な人に守られ支えられたいたからこそ、ローズは今も生きている。
 それは、忘れてはいけない事実だ。

「まるで見えない力が、ずっと貴方を守っているかのようだと、私は貴方を見ていると感じます。本来人と人の関係は、貴方のように上手くいくばかりではありませんから」

 ベアトリーチェはそう言うと、自分の淹れたハーブティーを手に笑った。

「でもまあ、貴方がご健康なのはよいことです。貴方に何かあれば、ユーリが悲しみますから」
 ベアトリーチェは苦笑いする。

「どうしてそこでユーリが出てくるのです?」
「え?」
 終始見た目の割に落ち着いた雰囲気だったが、彼はローズの言葉にピタリと動きを止めた。

「ローズ様は……ユーリに求婚されたのではないのですか?」
「ええ。ユーリは優しいから、落ち込んだ私を励まそうと……」
「…………ローズ様」

 ベアトリーチェはローズの返答を聞いて頭をおさえた。

「――ローズ様は、私が思っていたよりずっと、人の好意に疎い方のようですね……?」
「?????」
 ベアトリーチェの言葉の意味が分からず、ローズは首を傾げた。



 その後もハーブティーを飲みながら、ローズは彼から最近の研究について話を聞いた。

 植物や生物だけでなく、鉱石も薬になるという話や、伸縮自在の動物の糸が発見された話などは、ローズの興味を引いた。
 なんでもベアトリーチェの服は新素材で作られた特注品で、着る人間のサイズによって大きさが変わるという特殊な作りになっているらしかった。

 ベアトリーチェは時折、話の間にローズに質問を行った。
 全てを一度に教えることはなく、少し謎を残して、ローズに理由を考えさせる。
 ローズが答えを予測し、正解だった時はにこやかに笑って、『正解です』と言う彼は、どことなくローズにギルバート(あに)に似たものを感じさせた。

「以前の春の丘での採集のお礼に、ローズ様にこれを差し上げます」

 ベアトリーチェと話をしていると、いつのまにか時間が経過していた。「そろそろ帰らないと」と言うローズに、彼は一つの植物を手渡した。
 それはハート型の四つの葉っぱが繋がった植物だった。
 三つであれば見かけることはあるが、四つのものをみるのはローズは初めてだった。

「これは、『Happiness』と呼ばれている植物です」 
「はぴ、ねす……?」

 ローズは思わず言葉を繰り返していた。
 それは、アカリが言っていた『ゲーム』と同じ名前だった。

「違う世界の言葉で、『幸福』を意味する言葉だそうです」
「幸福……」
「これはもともと三つ葉なのですが、稀に四つ葉になるものがあるんです。とても珍しいものなので、四つ葉は幸運をもたらすと言われています」
「……幸運?」
 ――『幸福』ではなく? 
 ローズの問いに、ベアトリーチェは微笑んだ。

「ええ。この四つ葉自体が、幸運をもたらすと言われているのは本当です。なぜこれが幸福と呼ばれているかというと、この四つ葉の使い方に由来します」

 彼はそう言うと、ローズの手に置いた四つ葉を指さした。

「完璧な状態でこの葉を持っている人間には、幸運が訪れる。しかし相手の幸運を願い、うち一枚を相手に贈った場合、その人間が受けるはずだった幸運の一部を、相手に贈ることができると言われています」

 ベアトリーチェは空中で、葉をちぎるふりをした。

「相手に欠片を渡してしまったら、この植物はもう、幸運の象徴ではなくなってしまいます。力は失われ、ただの普通の葉に戻ってしまう」

 たった一枚の葉っぱの多さ。それだけが二つの違い。

「――思うに。誰かの幸運を願う、その思いを抱けることは幸福なことであり、その思いを受けた人間もまた幸福な人間、ということなのでしょう」

 ベアトリーチェは優しい声で言う。
 きっとこのことを知らない人間は、ちぎられた葉っぱの欠片を渡されても、相手に感謝なんかしない。

「人は誰しも、思いをかけられてもすぐにそのことに気づくのは難しい。与えられたものの重みを知るのはきっと、長く時間が経ってからなのです。そして与える側は、与えた後は特別な存在ではなくなり、この世界のどこにでも存在する、景色の一つとなってしまう」

「……?」
 ローズには、ベアトリーチェの言葉の全てが理解出来なかった。少し首を傾げたローズに、ベアトリーチェは優しく微笑んだ。

「私は貴方にこれを託しましょう。貴方が幸福を願うその相手に、どうかその葉を渡してあげてください」

 ただ彼がくれたものは、彼の優しさそのもののような気がして――ローズは少し、胸が温かかくなるのを感じた。
 そして手に載せられた葉を、ローズはそっと手で包んだ。
「……ありがとうございます」

 頼まれていた買い出しの荷物は、後からベアトリーチェがローズの代わりに運ぶことになった。
 ベアトリーチェに別れを告げて騎士団に戻ることにしたローズは、空を仰いで呟いた。

「――とは言っても。たった一つしかないものを誰かに渡すなんて、誰に渡すか悩んでしまいます……」


 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「はあ……。魔法か……」

 いつものように机の上に本を積み重ね、眼鏡をかけ本を読んでいたリヒトは、机の杖に置かれた赤い石の嵌められた指輪を見て溜め息を吐いた。

 自分が魔法を使うためには、指輪が解決の糸口になる可能性はあることに、リヒトは気が付いていた。
 今はローズと繋がっていないとはいえ、この赤い石は魔力を貯め置ける力があるらしい。今のところ、この石に貯めた魔力を意識的に消費することは難しいとしても、研究すれば可能になることもあるかもしれない。
 そうなればこの指輪は、リヒトに魔法を与えてくれることだろう。

 ただ、一つ問題があるとこにも彼は気付いていた。
 指輪は鍵になるらしい。
 そのために、リヒトが持っているこの指輪を、リヒトから剥奪すべきだと進言している人間がいた。

 『ベアトリーチェ・ロッド』
 リヒトは、彼の姿を思い出して顔を顰めた。

 彼の言い分は正論だ。リヒトもそう思う。けれど、それを受け入れられるかどうかは別の話だ。
 指輪を手放せば、リヒトが魔法を使える可能性は更に下がってしまう。
 魔法が弱いからといって、リヒトはこれまで無駄に時間を過ごしてきたわけではない。
 魔力がほとんどない人間でも魔法が使える研究を、リヒトはずっとこれまで行ってきた。

 彼の前には、彼がこれまでの時間が積み重なる。
 彼がこれまで記した研究書は、今や彼の身長を優に超す。
 人より劣ると言われても、それを認めて自分を諦めては何も出来ない。
 ただどんなに努力を重ねても、圧倒的な力を前にすると体が動かない。だから彼は、レオンを前にすると駄目なのだ。

「……兄上に負けたくない」

 リヒトの手に、僅かな光が灯る。
 魔力が弱い人間が魔法を使う方法。
 彼が人生一六年をかけて続けた研究の成果は、確かに少しずつだが現れていた。



「ローズ」
「リヒト様?」

 ローズが植物園から訓練場へと戻る帰り道、ローズはリヒトに声をかけられ振り返った。
 一日ぶりに見るリヒトの顔色は、レオンの隣にいた昨日よりはまだいいが、やはりどこか暗いようにローズには見えた。

「昨日、あの後なにかお話があったのですか?」
「ああ。……父上が、一年後俺と兄上、王に相応しい方を選ぶと」
「……そうですか」

 なるほどそれで暗かったのか。ローズは一人納得した。

「……お前の方は、昨日はなんの話だったんだよ?」
「私の新しい婚約者を、お父様がお選びになったそうです」

 淡々とローズは答える。
 リヒトはローズの答えを聞いてぴたりと呼吸を止めて、それからローズから少し視線を逸らした。

「……そうか」

 リヒトの方は、ローズとの婚約破棄以来浮かれた話はない。

「……良かった、な」

 リヒトは、何故か傷ついている自分に気が付いた。
 結婚適齢期である彼女を振ったのは自分自身で、彼女のこれからに口出しする権利はないのだと、改めて思い知らされる。
 ローズはリヒトの言葉には返事をせず、そして彼にこんなことを尋ねた。

「――リヒト様は、この世界にたった一つしかないものを誰か一人に渡せと言われたら、どうされますか?」
「なぞかけか?」

 唐突な問いにリヒト首を傾げた。

「俺だったら、一番好きなやつに渡すけど」
「『一番好き』……」

 ローズには、そう言われたときぱっと思いつく相手がいない。
 ローズの『好き』は横並びだ。
 ギルバートもファーガスもミリアも公爵家の他の家人も、アカリやユーリたちも同じくらいローズは好きだ。
 みんなが笑ってこれからも過ごせるように、自分はこれからも努力をして、騎士として成長したいとローズは考えている。
 そのうち誰か一人を選ぶなんてことは、ローズには出来ない。

「好きな相手が多いと困ります」

 ローズはポツリ呟く。

「……ローズ。お前、まさかあの噂は本当なのか?」

 リヒトはローズの言葉をきいて、声を震わせて言った。

「なんの噂です?」
「騎士になってから、お前の女性人気が異常に上がっていて、お前に『遊ばれたい』女性が急増してるって……」

 ――どんな噂だ。
 ローズは嘆息した。

「……騎士になってから、好意的に接してくださる同性は確かに前よりは増えましたが、そのようなことを言われたことはありませんし、そもそも私は人の心を踏みにじるような行為は嫌いです」

 ローズはあからさまに顔を顰めた。

「リヒト様は、私がそんなことをする人間だと思われていたのですか?」
「……」

 アカリのローズへの懐き具合を知っているだけに、リヒトは否定出来なかった。
 ローズの差し入れの為に毎朝早起きして、料理やお菓子をいそいそと用意するアカリ。
 あれではまるで恋する乙女だ。

「心外です。私はいつもこの国を、この国に住む人々を、思い過ごしているだけなのに」

 ローズの愛は海より広く深い。
 そのせいで、ローズは周囲に思われてもなかなか気づかない。
 ローズの他者への愛情の深さと真面目さに、鈍感が加わると厄介なことこの上なかった。
 天然ゆえの人たらしだ。

「リヒト様は私のことを、何も理解していらっしゃらないのですね」

 『お前も自分のことを何一つ理解していないと思うぞ』とはリヒトは言えなかった。一方的に婚約破棄した相手なだけに。
 そもそも勘違いだったとはいえ、公衆の面前で自分を侮辱したそんな相手と、普通に話を出来るのは普通じゃない。

 ただよく考えてみると、一応自分たちは十年間婚約していたが、レオンがローズにするように甘い言葉を口にしたり、手を握ったりキスをしたり、そんな恋人らしいことを二人は一度もしたことがなかったことにリヒトは気がついた。

 リヒトとローズは幼馴染だ。
 指輪で繫がってはいたものの、そういう行為が全くなかったせいもあってか、ローズもリヒトも普通に話をしてもなんの違和感もわかなかった。

 ――婚約、とは…………?

 そう考えると、リヒトはローズのパーティーでの言葉は真っ当に思えてきた。
 自分を好きというよりローズは国を愛していて、だから婚約を受けたわけで……。どこにも矛盾を感じられない。

「なぜそんな顔をなさるのです」
「俺は今どんな顔をしている?」
「理解は出来るけど理解出来ないというようなお顔をされています」

 しかし十年という時間は、確かにお互いを理解するための絆は深めてはいたらしかった。
 恋愛方面の繋がりはまるでなかったが。



「はあ……なんでイライラしているんだ。俺は……」
 その後、ローズと分かれたリヒトは、自分の感情が理解できず一人人気のない道を歩いていた。

「俺が好きなのはアカリなのに」

 ――まあ、そのアカリが好きなのはローズらしいが。
 レオンのこともアカリのこともローズのことも指輪のことも、今のリヒトにとって現実は辛いばかりだ。
 けれど彼が絶望してはいないのは、彼がこの十年積み上げてきたものに、僅かながら自信があるからだ。 
 勿論レオンのような、絶対的な自信ではないのだが。

「炎魔法の適性、俺には無いのは確かだな」

 リヒトは苦笑いした。
 この世界の魔法は、その人間の性格などによって使える魔法が限られている。
 王となる人間に最も求められるのは炎属性への適性であると古くから言われていて、その適性がないからこそリヒトは不適格と見なされ、レオンが相応しいと言われ続けた。
 思わず溜め息がこぼれる。
 どんなに時を重ねて努力を続けても、炎属性の適性者に必要とされる『絶対的な自信』だけは、リヒトはきっと自分は一生持ち得ない気がした。

「……っ!」

 その時、背後から突然後頭部を殴られ、リヒトはそのまま前へと倒れ込んだ。
 意識を保てない。
 狙われる理由はいくつも考えられたが、王都で王子(じぶん)を狙う輩がいるとはリヒトは考えていなかった。

 ――まさか。兄上からの刺客……? 

 兄はそんな浅はかな人間ではないとリヒトは思う。
 兄が自分を追い詰めるなら、『令嬢騎士物語』を書かせた時のように自分の手は汚さず、じわじわと自分を苦しめるに違いないのだ。

 ――駄目、だ。相手の顔……も、分からないのに……。

 数刻後、目を覚ましたリヒトは頭を抑えて立ち上がった。
 いくら人通りが少ない場所とはいえ、自国の王子が倒れているのに助けない国民はどうかと思う。
 それが、自分への今の評価だということはわかっているけれど――……。
 とりあえず、自分の周りで何か変わったことがないか確かめた彼は、ある一つの変化に気付いて顔を青ざめさせた。

「……指輪がない」

 リヒトの指に嵌っていたはずの指輪が、姿を消していたのだ。