「花精……の、少女?」
案内され先の光景に、光は目を丸くした。
ガラス障子で隔てられた廊下の向こうの部屋。寝室であると一目で分かるそこには、大きなベッドに初老の女性が苦しげに横たわっている。その傍らに、十歳ほどの少女の姿をした花精がいた。
花精独特の白い肌は、しかしどこか人のように黄色がかっている。首筋や肩から肌を伝い広がる、衣のように見える花精の皮膜は、淡く可憐な山吹色。しかし不思議なことに、肩口までの髪色は藤の花の紫だった。通常、花精の肌以外、髪や皮膜などは同じ色で、ふたつの色を兼ね備える花精はいない――はずであった。
そのうえ、花精はタネとして生まれ、タネのうちで育つ。術者の力を得て人型になれるのは、そうしてタネのうちで育ちきった個体だ。だから、人の姿を得た時、花精はみな大人の姿を象る。少年、少女、と呼べる見た目のものもあるが、それでも十代後半には見える。だから、まだ十歳そこそこの姿の花精など、光は見たことも聞いたこともなかった。
そこにあるのは、有り得るはずのない存在。
けれど、光を驚かせたのは、それだけではなかった。
(……似てる……)
父の元の美しい花精。母に似ているという、藤色の花精に。
線の細い彼の横顔に、ありありと浮かぶ驚愕から、そこまで深い衝撃を読み取ったとは思えないが、僧都は声を潜めて、光にささやいた。
「光さまは、聞いたことがおありかな? 花精は人と恋をして、次のタネを残す。けれど――人と愛し合えると、人となる。そう、昔からまことしやかに噂されているのを」
「聞いたことはある、けれど……」
それはおとぎ話だ。実際に、愛し合った人と花精はいるかもしれない。今日に至るまで、あまたの術師と花精は、互いのために恋をしてきたのだから。
それは打算の恋で、責務の恋で、仕事の恋で――。いつか終わることを互いに見据えた、利害あるお遊戯であることの方が、多かったのかもしれない。
けれど、心を誤魔化して落ちたのだしても、恋は恋だ。そこから愛が芽吹いてしまうことが、一度としてなかった方がおかしいだろう。
それでも、人となった花精など、ついぞ現れたとは聞かない。
「ただの迷信では?」
「そうなのですが、あの花精の子は、人と花精の間に出来た子――いえ、タネなのではないかと、私めは思っているのです」
「え?」
「先代の僧都から、『皇家から預かった花精のタネがある』。そう聞いていただけだったんですがね。ある時、そのタネを置いていた部屋から、あの子が現れ出たのです。術者の力も借りずに。どうやらあの子は、昼の間だけは自らの力で人型になっていられるようでしてな。そんな花精の存在、聞いたこともない。それで、個人的にいろいろとあの子のことを――この北山に預けられていたタネのことを、ちゃんと確認し直してみたのです」
「本来なら――このような不可思議な事案は、なにを置いてもまず皇家に報告すべきでは?」
苦言の色が濃い惟の言葉に、僧都は苦笑する。
「言葉通りなのだがな。どうも……虫の知らせというか、してはいけない気がしてね。調べてみたらあの子が皇家から渡されたのは、先代が僧都になりたての頃。理由は特に告げられず、封じていてほしいと託されたそうだ。新米の僧都にそれ以上どう詮索できよう。先代は、言葉のままに、タネを封じた。それからずっと彼女はタネのまま、この社の小箱の中で過ごしていたわけだ。それが、封印が弱まったからか、時が満ちたからなのか、ああして人型をとって姿を現した」
「確かに、ただの花精とは思えない特徴ばかりだけれど……。それで僧都は、人との間にできた花精だと、考えたと?」
「ええ、そうです」戸惑い気味な光の言葉に頷き、そしてやや躊躇ってから、僧都はその先を継いだ。「そしてだから……この社に預けるという形で捨てられた。人と花精は、互いを恋で利用し合いますが、それ以上は交わってはいけない関係です。人と、人ならざるモノの、超えてはならない境界がある。その禁忌を皇家の方が破ったとなれば、大問題ですから。まあ、あくまで――私の推測ですが」
「……本家から、捨てられた……」
小さく、光は呟いた。繰り返すことで、なんの傷をなぞろうとしたのだろう――。
光の耳元で、どこか遠く、僧都の声が続けた。
「タネであった時間も含めれば、花精としてもずいぶんな長命なのですが、あれは見た目通り心も幼くて。人型を得た時から、私の妹を母のように、祖母のように慕いだしましてな。そして、その妹が折あしく、昨日くたし病となりましてな……。心配してそばを離れないどころか、治そうと懸命になっているのですよ」
「でも、治らない……ということでいいですか?」
当たり前のことを、惟が念を押す。恋の力を得た時しか、花精は花を咲かせられない。術者のない彼女が病を治せないのは当然のことだ。だが、あまりに存在が花精として規格外すぎる。もしやひとりでも治癒の花を咲かせられるのでは――と、確認したくもなろう。
「ええ、花を咲かせる術については、普通の花精と変わらないようです。先ほど雀を吹き飛ばしたような、花精独特の自然に関与する力は、術者がいなくても使えるようですがね。まあ、雀が飛んで行ってしまったことからもお分かりのように、制御はまるでできてないのですが」
三人が密かに見守る先では、小さな手が、必死に横たわる女性の頬に触れている。いくどもいくども、触れる角度を変え、触れ方を変え――咲かない花を、咲かせようと焦っている。ぼんやりと光に覆われている可憐な横顔は、涙が流れないながら、泣いているように歪んでいた。
「あの子では、いくら触れようと病は癒せません。恋を、知りませんから」
健気さを憐れんで、僧都は深い溜息をついた。
びゅっとまた、風が一陣巻き起こる。それはガラス障子どころか、邸の柱までも軋ませ、吹きぬけていった。
「助けようと必死になるあまり、ああしてむやみやたらに花精の力を揮うので、このように強風が吹き荒れるのです。弱っている者は、くたし病の進行が速い。妹はもともと身体が弱く、それに加齢も重なり、一夜のうちに起き上がりすらできないほどになりましてな……。だから、必死になる気持ちは私にも痛いほど分かるのです。が、いかんせん……やり方が解決に繋がらない。いまあの子に出来ることと言えば、憐れな雀を吹き飛ばすか、邸の瓦を落とすぐらいです」
「術者の派遣の手筈はもう済んでいるのですか?」
昨日発症して、今日あの有様とあっては、悠長にしてはいられない。下手をすれば瞬く間に、身体の腐り落ちる死が襲い来る。
だが、僧都は首を振った。
「あの子のことがあるので、下手な術者が来て、皇家へ伝わるのが憚られましてな……。ちょうどよく、今日、光さまがこちらに呪詛の解呪にいらっしゃることになっていたので、よければ光さまに、お頼みしようかと」
術者はどこに行くにも、タネの姿で花精を持ち歩く。たいてい複数。少なくても、一体は連れ歩くのが常だった。
僧都が期待したのも、無理はなかろう。だが、惟は渋く眉をしかめる。
「あいにく、今日の光さまは、花精を伴っておりません。呪詛で体調も万全ではありませんし、治癒はすぐに別の術者をたの、」
「惟、いい」
他の術者を薦める惟を、静謐な、けれど強い口調が遮った。
「連れてきた花精はいないけれど……あの子がいるじゃないか」
「はい? でも、え?」
思いもかけない言葉に目を白黒させた惟を放って、微笑む唇は僧都を振りかえる。
「少し、あの子のそばに行っても?」
「え……ええ、構いませんよ。どうぞ」
同じように動揺しながら、年の功か。僧都は体面をたもちきって微笑むと、冷静にガラス障子に手をかけた。