『婚約破棄された悪役令嬢は今日から騎士になるそうです。』魔王討伐編

 昔々のお話です。
 とある国に、一人の王様がおりました。
 王様は、一人でなんだってできました。
 王様は魔法使いだったのです。
 空を飛ぶことも、花を咲かせることも、水を出すことも。
 王様が願えば、世界は何でも叶えてくれました。

『王様万歳!』
『我らが王よ!』

 国中の誰もが、王様のことを愛していました。
 自分一人では手が足りない。王様は、彼らをもっと喜ばせたいと思い、ある日いいことを思いつきました。

『そうだ! 私をもっと増やせばいいんだ!』
 王様は早速、一人、また一人と、自分の人形を増やしていきました。
 そうして王様は自分の人形を国民に配り、国民は王様の人形と生活するようになりました。
 王様のお人形の、なんて便利なことか! 
 国民は大喜びです。
 王様のお人形は、なんだってしてくれました。
 お人形のおかげで、国民の生活は豊かになりました。

『王様万歳!』
『流石王様!』

 国民は、王様のことに感謝し、そして夜になると、王様のお人形の髪を梳かしてやったりました。
 しかしある日、人形たちはピタリと動きを止めました。
 人形を動かすために魔法を使いすぎたせいで、王様は若くして、ポックリ亡くなってしまったのです。
 ああ、なんて馬鹿な王様!
 王様にそっくりのお人形を抱いて、民は嘆き悲しみました。
 王様の墓の上には、美しい花が咲きました。
 なんて綺麗なのでしょう!
 薄桃色の花。人に過去を見せるという夢の花は、かつて世界から消え失せたはずの、幻の花でした。
 その花を見て、人々はにっこりと微笑みました。
 王様は死んでもなお、心優しい魔法使いだったのでした。

         著者不明『優しい王様』より

✿✿✿


「ローズ・クロサイト。俺は君との婚約を破棄する」

 きらびやかな王宮の大広間に、国中の王侯貴族が集う王子生誕の夜。
 パーティー主役の王子リヒトは、小柄な異世界の少女の肩を抱き、婚約者である公爵令嬢にそう言い放った。

 クリスタロス王国。
 宝石の産地でもあるこの国のシャンデリアは、全て国産のクリスタルで作られている。
 その光のもと、楽しげに談笑していたはずの者たちの視線は、一斉に三人へと注がれた。
 つまりはこの国の第二王子リヒト・クリスタロスと、その婚約者公爵令嬢ローズ・クロサイト――そして三ヶ月前、この世界に復活した魔王の討伐のため、異世界から召喚され聖女アカリ・ナナセに。

「お前にはもうたくさんだ。俺はアカリを選ぶ」
 金髪碧眼のリヒト王子。
 『光《リヒト》』に相応しい彼とは対照的に、シャンデリアの光の下、夜に咲く艶やかな赤い薔薇のような少女は、顔色一つ変えることなく黙って彼を見つめていた。

「お前は、王妃には相応しくない。弱き者を虐げるために力を使う。そのような人間が、国を守る国母となれるはずがない」

 異世界から召喚された、ローズと同じ年頃の少女。
 はちみつ色の髪と瞳。世界に一人しか存在しないという光の祝福を受けた『光の聖女』は、か弱い女の子らしく、きゅっと王子の服を掴んで震えていた。

「……リヒト様、私は」
 ひどい扱いを受けても、目の前で断罪されるローズを慈しむかのような潤んだ瞳――リヒトがそっとアカリの頬に触れると、少女の頬を涙が伝った。

「言わなくてもいい。アカリ、俺は君の気持ちを理解している。ずっと辛かっただろう? 安心しろ。異なる世界で日々懸命に生きる君を、俺は傷つけさせたりしない」

 まるで悪を裁く正義のヒーロー。
 リヒトはアカリを背に庇い、ぎっとローズを睨みつけた。
「……リヒト様」
 しかし、当の悪《ローズ》とは言うと。
「ローズ・クロサイト。なにか言い返したいことがあるならば言えばいい」
「……あの。私、彼女をいじめた覚えなどないのですが」
 意味がわからない、と首を傾げていた。

「よくそんなことが言えるな!」
 ローズの言葉に、リヒトは声を荒げた。

「服がみすぼらしいと蔑み、王宮に咲く花に触れようとすれば手を叩き、聖女としての力を使おうとしたアカリを妨害し、自らの地位を彼女に見せつけてもなおそんなことが言えるのか!?」 

「……私はただ正しいと思って行動したまでです」
 ローズは静かに、はあ、と小さくため息をついて、いつものようにはきはきとした口調で、自らの『罪《こうい》』を弁明した。
「聖女としてこの王宮で過ごされるならば身だしなみには気を使っていただく必要があるのは明らかです」
「……アカリは異世界から来たんだ。そう厳しく指導するのはどうなのか。だいたい、花の件だって……」
 淡々としたいつもの口調で理由を説明され、リヒトは小さな声で反論した。

「彼女が摘み取ろうとしていた花は、見た目こそ美しいですが素手で触れれば麻痺を齎す花でした」
「……何故そんなものが植えられているんだ」
 突然明らかにされた新事実に、リヒトは小さな声でポツリ呟く。

「毒も薄めれば薬になるといいます。あれは毒草であり薬草なのです。異世界からお越しになったばかりのアカリ様はご存知無かったようですので、お知らせたまでです」 

 王宮に咲く花のことを王子よりも知る公爵令嬢――。
 大広間に集められた非難の瞳は、ローズではなくリヒトに向けられていた。

「じゃあ、先日の式典でアカリの祈りを妨害したことはどう説明するつもりだ!?」

 式典というのは、この国の中心にある巨大なクリスタルに、光の守護を与えるというものだ。
 魔王が復活した現在、魔除けとして石に魔力を定期的に充填するという物だが、先日の式典ではアカリの魔法を引き継ぎ、ローズが式典を完遂させた。
 世界中の国には一つずつ、魔力を貯めることのできる石は存在しているが、クリスタロス王国の石の大きさはは別格である。

「分不相応な魔法を使えば健康に害が出るので私が代わりを務めたまでです。アカリ様は確かに『光の聖女』ではありますが、まだ力を完全に使いこなせているかというと違います。無理な力の行使は命を削りかねない。だから私が変わったのです。事実、あの日のあと彼女は体調を崩し、数日寝込んだはずです」

「それはお前のことがあっての心労で……」
「それほど心が弱い人間なら、この王宮にいるだけで疲弊して体を壊すだけです。貴方が妃にと望むほうが酷というもの。第一、魔力切れによる健康被害については、先日研究結果についてご覧になったのではなかったのですか?」

 つまり、ローズの行動は全てアカリのことを思ってのことで、処罰されるいわれはない。
 ローズの言葉はどれも理にかなっていたが、一同の視線に耐えきれなくなったリヒトは子どものように不満を喚き散らした。

「五月蝿い五月蝿い! お、お前の屁理屈にはもううんざりだ。とにかく俺は、お前との婚約は破棄してアカリと婚約させてもらう!」

 罪なき者を大勢の前で中傷し、婚約破棄を申し入れる。
 明らかに不当な行いだというのに、ローズは少し思案した後、静かに頭を垂れた。

「……かしこまりました。そこまで嫌われていては私が妻となるのも気が引けますので、申し出を受け入れましょう」
「最初から、そういえばいいんだ」
「リヒト様」
 勝利を宣言したような態度のリヒトに、ローズはツカツカと音を立てて近づくと、彼にだけしか聞こえない声で、そっと耳打ちした。

「な……なんだ?」
「私はずっと貴方ではなく、この国を愛しておりました。国を良くするためにも私は王妃となりたかった。幼い頃から共に過ごしておりましたので、多少なりとも貴方にも親愛の情は抱いておりました。共にこの国を慈しむことを楽しみに思っておりましたが、もう叶わないとなりますと、今は少しばかり残念に思われます」

「………………は?」
 ローズは自分に心底惚れているから、自分と仲の良いアカリがローズは気に食わないに違いない。
 そう考えていたリヒトは、囁かれた言葉に意味が分からずあんぐりと口を開けた。
 ローズは、硬直したまま動かないリヒトとアカリに微笑んだ。

「お二人のことを、私は心から祝福致します。お二人の深いご愛情が、この国をさらに豊かにすることを願っております。私は、今日からは次期王妃としてではなく、私なりにこの国の糧となれるよう努力致しましょう」

 その姿は誰よりも気高く、王妃に相応しい女性そのものだった。
 リヒトの父である国王リカルドは、王子に背を向けて城を後にしようとするローズを呼び止めた。

「待ってくれ! 儂は君以外を次期王妃には望まない! 君が居なければこの国は立ち行かなくなる!」
「大丈夫です。陛下。私はこれまでもこれからも、クリスタロス王国の為に生きてゆきます。国を救う為ならば、この命を差し出しても構わない。私はこの国を愛しております。私は、殿下に婚約破棄されたくらいで、祖国への忠誠を違えるつもりはございません」

「ローズ嬢……」

 『婚約破棄されたくらいで』
 一人大広間を後にする彼女の言葉は、広間に集められた王侯貴族たちの目には、痛々しくも映った。

「それでは、また後日。本日はこれにて失礼させていただきます」
 立つ鳥跡を濁さず。
 ローズは完璧なカーテシーを行うと、深紅のドレスを翻して静かに場を後にした。


 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇

「こんなのひどすぎます! お嬢様がこれまで、どれだけ王子のためにお心を砕いてきたか、まるで理解されていないではありませんか!」

 予定よりも随分早く、城から帰って来たローズの姿を見て、公爵家の家人は一様に腹を立てた。
 特に、幼い頃からずっと共に育った、執事長の娘でローズの幼馴染である侍女のミリア・アルグノーベンは、城に殴り込みに行きそうな勢いで怒りを顕わにしていた。

「でもきっと、私にも原因があったのでしょう。昔から、『他人に厳しく、自分にはもっと厳しく』と生きてきましたが、今考えてみると、私の言葉は確かに厳しすぎたのかもしれません」

「お嬢様……」
 ミリアは、肩を落とす主人を目にして心を痛めた。
 十年以上、近くで見守ってきた主人は、誰よりも気高く美しい人だった。この国の誰もが、彼女を王妃にと疑わない――そんな、公爵令嬢だったというのに。

 先祖返りとされる黒い髪、強い魔力の証である赤い瞳。家名の由来となったロードクロサイトに相応しい、『薔薇《ロード》色《クロス》の人生』を歩む筈だった彼女が、まさかこんな仕打ちに合うなんて、誰が予想したことだろう?

 酷すぎる。こんなの、あんまりよ――。
 ミリアはそう思い、唇を噛んだ。
 原因不明の病によって第一王子レオンが眠りにつき、そのおかげで第二王子リヒトは次期王位継承者としてローズとの婚約は結ばれたが、当初からリヒトには、王としての器はなかった。
 弱い魔力、人を統べる才能も魅力も、彼は兄には遠く及ばなかった。

 そんな彼が他国の王子と見劣りしないように取り繕えたのは、ひとえにローズの力があってこそだというのに。
 その心を理解せず婚約破棄。王子のこれからは、最早決まったも同然だ。

 次期王妃としてのローズの力がなければ、ハリボテはすぐに崩れるに違いない。
 その時が見ものだ、とミリアは思った。でも、心優しいお嬢様のことだ。王子が失墜するなんて未来、望まないのはわかっている。

 うん。それでこそ、私の敬愛するお嬢様――ミリアは脳内ローズの輝かしさに手を合わせた。
 完全無欠。家柄、美貌、性格、才能――あらゆるものにおいて完璧であるお嬢様に、キズなんてものはないのだ、とミリアは思った。
 けれども。
 いくら盲信しているといっても、あまりに奇抜な目の前のローズの格好は、流石に目を背けることが出来なかった。

「ところで、その格好は何なのですか?」
「せっかく婚約破棄されたので、これからは騎士として第二の人生を歩もうと思って」

 麗しき公爵令嬢。
 真っ赤なドレスと赤い薔薇の似合う、『花』そのものだった彼女は、今は祖父の古い軍服に身を包み、遺品である剣をはく。

「どうしたらそんな発想になるのですか!? 何故、公爵令嬢が騎士になろうなどお思いになるのですか〜〜ッ!?」

 ローズ・クロサイト、一六歳。
 公爵令嬢。元、第二王子の婚約者。
 モットーは他人に厳しく、自分にはもっと厳しく。
 しかし、厳しくしすぎたせいで婚約者に婚約破棄された彼女は、潔く身を引き、未来の国母としてではなく剣をとり、騎士として国を守り支えることを誓う。
 生まれたときから玉のようだと例えられ、『光り輝く赤き薔薇』とも評されていた彼女にも、どうやらキズはあったらしい。

「私は決めたのです。ああそうだ。今日から騎士になるのだから、言葉遣いももっと男らしくしなくては。見ていなさい、ミリア。私はいつか祖父様のように魔王を倒す、立派な騎士となってみせる」

 馬のしっぽのように高く髪を結い、彼女は、ふっと優雅に笑う。

「お、お嬢様……」
「ミリア、貴方は私のことを、応援してくれるね?」
 男装の令嬢は、そっと幼馴染の侍女の手をとって、軽く体を揺らした。
 王子様よりも王子様。
 絵本の王子様が現実にいたら、きっとこんな人なのだわとミリアは確信した。ローズの背景には、目には見えない大輪の花が咲く。

「か、かしこまりました。お嬢様のお心に従います」
「ありがとう。ミリアならそう言ってくれると思った。さすが私の理解者だ」

 ローズはそう言うと満面の笑みを浮かべ、ぎゅっとミリアを抱きよせた。突然の行為に、ミリアは目を白黒させた。ミリアの心臓は爆発寸前だった。
 ときめいては駄目、ミリア……! 相手はあのお嬢様なのよ!?
 ミリアはぶんぶん顔を振る。熱よ冷めろと思うけれども、顔が火照って仕方がない。

「どうしたの? 顔色が優れないけれど」
「い、いえ。な、なんでもないのです。おほほほほ」
ミリアはあからさまな嘘を吐いた。

「? ならばいいのだけれど……」
 紳士的なお嬢様は、神々しくさえある――……ああ、神とはもしや男と女の両方の性質を持つものではないかしら……? 
 ミリアは完全に、男装の主人に悩殺されていた。


 敬愛するお嬢様の玉にキズ(欠点):天然(+こうと決めたら一直線、男女問わずの無自覚人たらし)。byミリア・アルグノーベン


 王子の生誕を祝うパーティーの翌朝。
 軍服に身を包んだ彼女は、黒い艶やかな長い髪を結い上げ真っ白なローブの帽子を目深に被り、高く聳える門を見上げていた。

「ここに来るのは久しぶり」
 
 クリスタロス王国王国騎士団。
 その訓練場の門の装飾は、ローズが腰に穿く剣と同じ形をしていた。

 『聖剣の魔封じの門』と呼ばれるこの特殊な形は、クリスタロス王国によくある門の形の一つであるが、騎士団の門に模られた聖剣は、細かい文様まで精巧に作られている。
 まさに職人芸。ローズは感心して門に触れた。
 しかしその瞬間、バチッという音と共に火花が散り、彼女は即座に手を引っ込めた。

「やはり『解呪』は必要、か」

 低い声でそう呟く。
 『解呪の式』――それはいわば『鍵』であり、水晶の産出国でもあるクリスタロス王国では、偽造が可能な鍵ではなく、鍵となる魔法式を組み込んだ石が同じ役割を果たしている。

 つまり、門を開けるのに必要なのはただ一つ。
 門に嵌めこまれた水晶に呼応する式を持つ石を当てればいい。
 この式は本来、騎士団の団員であれば誰もが持つ物であるが、公爵令嬢であるローズが持つはずはない。

「これが使えるといいんだけれど……」

 ローズは剣を手に取ると、剣に嵌めこまれた赤い石を門の魔封じに押し当てた。
 すると剣に嵌めこまれた石が光り出し、門は光を帯びて開いた。
 ローズは胸を撫で下ろした。
「流石、お爺様が設計されただけあって、この剣には解呪の式が組み込まれていたようですね」

 ローズが騎士団に来たのには理由がある。
 それは彼女が、騎士になるためだ。
 しかし通常、公爵令嬢が『騎士』になどなれるはずはない。
 そもそもクリスタロスでは騎士団の団員に女性を募集しておらず、女性騎士団もある隣国とは異なり男性のみで構成されており、女性が騎士になる術はない。それは騎士になるための学校への入学許可が、男子に限られていることが原因だ。

 クリスタロス王国の王国騎士になるためには魔法という希有な能力が要求され、一定期間戦闘訓練を行い、王国の顔となる資質を持ち合わせているかを測る試験に合格した男のみが入団を許可される。
 故に才能と実力があり、強く見目麗しいものばかりがあつまる。
 しかし実は入団試験には、地方出身者のために『特例』が設けられている。

 それは、騎士団が作られた当初の入団試験で、『二つ名を持つ騎士を倒した者に入団の資格を与える』というものだ。
 注目すべき点は、この場合性別は問われないということだ。
 ローズが今日、朝早くからここに来たのはその為だった。
 けれど。

『騎士になりたいのでお爺様の聖剣を持ってちょっと騎士団に潜入してきます』

 なんて公爵令嬢が言おうものなら、今は婚約破棄《きのうのこと》もあって心の病気を疑われかねない。

「私は、この国を守りたい。ごめんなさい。お父様、ミリア、みんな――」
 おそらく蛻《もぬけ》の殻になったベッドを見て、今頃自分を捜索しているだろう公爵家の父や使用人たちに、ローズは心の中で手を合わせた。

「しかし……いくら『解呪の式』を使っているとはいえ、警備が甘いのは減点です」

 『解呪の式』は、この世界で最も安全とされているが、慢心は良くない。
 どんなに万全を尽くしても、突破されないとは限らない。
 心の中での謝罪を終えたローズはいつも通り冷静に呟くと、減点いち、と心の中の採点帳に書き留めた。



 騎士団の正装であるローブと軍服のおかげか、ローズは難なく騎士団への潜入に成功した。
 どうやら監視の目が行き届いていなかったのは入り口だけでなく中もだったようだ。

 常に国を思い憂うローズは、祖国を守る騎士の質に対し、自分がここに入った暁には改善(という名の教育)が必要だなと思い溜息を吐いた。
 確かに自分の存在がバレるのは困るが、すれ違っても呼び止められない開放的な空気はいただけない。

 ローズは目的の人物を探す為、近くの建物に入ることにした。
 そして建物の中に入ったローズは、思わず顔を顰めて口と鼻を手で覆った。

「……これはひどい」
 建物の中は訓練で使われたであろう服や布、防具などが散乱しており、立派な外装とはうってかわって、壁にはカビが生えていた。
 一歩中に踏み入れ進もうものなら、地面に広がる障害物に足をとられ、転んでしまいかねない。
 その場合、いつ洗ったかもわからない洗濯物に顔を埋めるのかと思うと、ローズはぞっとした。

「部屋の乱れは心の乱れ。心を磨いてこそ剣も輝く。このような場所で訓練するのは見過ごせませんね」

 ローズは左手の薬指に嵌めた指輪を三回叩いた。
「箒にちりとり、水の入ったバケツに雑巾、マスクに眼鏡よ、でてこい!」
 彼女がそう口にすると、石は赤く光り輝き、彼女の周囲に空いた穴から目的のものが出現した。

「掃除をしましょう」
 フードを被り、マスクに眼鏡(黒)を装着。
 不審者極まりない恰好になったローズは、服の袖を捲り上げ元気に手を叩いた。



「完璧!」
 一時間後、掃除を終えたローズが満足して額の汗を拭っていると、閉じていた筈の扉が開かれ少年がローズを見て声を上げた。

「……だっ誰ですか!?」
 茶色い瞳に柔らかそうな癖のある髪。
 軍服に身を包んだ少年は、ローズの恰好を見て信じられないという顔をした。

「誰か来てください! 怪しい人が居ます!」
 少年のアルト声は良く響いた。
 怪しい人? 一瞬首を傾げたローズだったが、今の自分の恰好を確認して漸くその異質さに気付く。
 確かにこれは、叫ばれても仕方がないかもしれない。

「団服は着ていますが、部外者に違いありません!」

 叫び声に、人が集まって来る。
 ローズは装備(マスクと黒眼鏡)をとくことも出来ず、ガラスの下で顔を顰めた。
「何者だお前は! どこから来た!?」

 叫んだ少年よりは年上そうに見えた騎士は、ローズに顔をずいと寄せて大きな声で尋ねてくる。
 ローズは思わず後退り、柄に無く嘘を吐いた。

「……私は、ここの騎士です。入団してから日が浅いので、皆さんご存知無いのかもしれません」
 我ながら苦しい嘘だとローズは思った。
 男はローズが掃除した部屋の中を見わたすと、探偵が名推理を披露するかのように、勢いよくローズを指差した。 

「いくら日が浅いとはいえ、この腐海を掃除しようなんて人間が騎士団の人間なはずないだろう!」
 沈黙ののち、ローズは深い溜息を吐いた。

「………………衛生面に気を配っていないとは。ここの教育は、本当にいろいろと考え直した方が良さそうですね」
 男は革製の黒縄を少年に放ると、鼻息荒く言い放った。

「ひっとらえろ! 団長のところに連れていけ!」
「は、はいっ!」
 少年は敬礼し、受け取った縄でローズを縛り始めた。
 少年の手つきは明らかに初心者だった。

「? 連れて行ってくれるのか?」
 一生懸命自分を縛る小柄な少年に、ローズは出来るだけ低い声で尋ねた。
「当たり前です……だ! 今更逃げようったって……そ、そうはいきませ……ないぞっ!」

 少年は先輩(仮)の言葉を真似て、必死に荒い言葉に言いかえる。
 ――好都合だ。
 ローズはほくそ笑み、緊張のあまりどもる少年に心の底から感謝した。

「これで探す手間が省けた」
 ローズの声は、少年には聞こえていないようだった。



 肩にかかる程の銀髪に金色の瞳。
 白を基調に、金色の飾りのついた騎士団の服を着こなす彼は、まるでどこぞの王族かのような気品に溢れている。
 『団長の部屋』に連行されたローズは、縄に巻かれ床に膝をついていた。

「顔を見せなさい」
 声はすみわたり、歌を奏でるよう。
 その声に促され、ローズは顔を上げ、少年はローズのフードを下ろし眼鏡とマスクを外した。
 すると。

「……ローズ、お嬢様……?」
 先程まで、高貴な人間のように振る舞っていた筈の男の声から、一切の気品が消えうせた。
 ローズは伏せていた目を開き、特徴的な赤い瞳で彼を見あげると、にこりと微笑んで彼の名を呼んだ。

「ユーリ。お久しぶりです」

 幼い少年は、事態を理解出来ずに二人の顔を交互に見た。
 変質者がこの美人さん? 侵入者が美人さんで、団長のお知り合い!? 顔に出やすい性質らしい彼の目は忙しなく動く。
 少年が目を白黒させていると、ユーリと呼ばれた青年が声を荒げて叫んだ。

「離しなさい! 相手は公爵令嬢ですよ!?」
「こ、公爵!?」
 少年は、声を裏返させた。
 それもそのはず。騎士団の侵入者を捕らえたら、相手が公爵令嬢だなんて――そんな奇妙な体験を自分がするとは、一体誰が思うだろうか。

「縄をとけ。――早く!!」
「は……はいっ!」
 返事した少年は手が震えて縄を解くことが出来ず、結局ローズの縄を解いたのは、団長であるユーリ自身だった。

「……申し訳ございません、ローズ様。部下が手荒な真似をいたしました」
 手に出来た縄の跡をローズがさすっていると、使い物にならない部下の代わりにお茶をいれたユーリが頭を下げた。

「ユーリ・セルジェスカ。お久しぶりです。貴方がおじい様の元で訓練していた時以来ですね」

 そんな彼に、ローズはふわりと笑う。
 クリスタロス王国騎士団。
 騎士団長ユーリ・セルジェスカは、その才を以て若干二十歳の若さで騎士団を任された、『天剣』と呼ばれる剣術使いだ。

 元々彼は地方出身で貴族などではなく、幼い頃『剣聖』と呼ばれたローズの祖父、グラン・クロサイトに才能を見出され、幼少期を過ごした。
 当時彼は、公爵家の部屋の一つを与えられており、ローズは彼らが祖父の指導を受ける様を見ながら育った。
 その頃のローズは、年が少し離れているということもあり訓練には参加させてもらえなかったものの、訓練終わりに籠にいっぱいに作ったサンドイッチを持っていくと、とても喜ばれたのを記憶している。
 因みに昨日婚約破棄をローズに言い渡したリヒトは、当時からローズの屋敷をよく訪れていた。

「グラン様だけでなく、公爵家の方々には、本当にお世話になりました。あの頃の時間は、私にとって何よりも大切な宝物です」

 ユーリは、昔を思うように目を閉じた。
 その様子を見て、ローズは胸が熱くなるのを感じた。

「ここでは祖父の功績を、未だに語り継いでくれているのですね」
 ローズは、ユーリの部屋を見渡した。
 部屋の壁には、ローズの祖父であるグランの功績を賛美する置物や書物などで溢れている。
 また部屋の特等席には祖父の肖像画が掲げられており、ローズは嬉しくなるとともに、彼には似合わない室内にくすりと笑った。

 彼を讃えているのはこの部屋だけではない。
 ローズが門を潜ってから、掃除をする間もずっと、彼女はこの場所に祖父の面影を見つけていた。
 『剣聖』――そう呼ばれていた祖父。
 八十年前魔王を倒し、騎士でありながら功績により、恋仲で身分違いだった公爵令嬢を妻にした伝説の騎士の姿を。

「グラン様は伝説のお方ですから。剣聖の名に相応しい方は、これからもあの方以外は現れないでしょう」
 しかしもう、その騎士はこの世に居ない。
 『剣聖』もまた人だった。
 年老いた彼が亡くなった年、魔王は再びこの世界に現れた。
 遠くを見やるようなユーリの瞳を、ローズは静かに見つめていた。

「ユーリ? ユーリ!」
 黄昏れていたユーリはローズに名前を呼ばれびくっと体を震わせると、ほんのりと顔を赤らめ笑みを作った。

「申し訳ございません、ローズ様。久しぶりにお会いして、つい昔を思い出してしまって。……あの頃は、みんなでくだらないことで騒いで、楽しかったな、なんて」

 過去を回顧して目を細める。
 感傷的なユーリに、ローズは顔を曇らせた。そんなローズの表情を見て、ユーリは話題を変えた。

「そっ、そういえば!ローズ様は何故ここに?」
「――私を、騎士団に入れていただきたいのです」
 軽い日常会話。
 そんなノリで会話をしたつもりだったのに、返ってきた言葉の重さにユーリの顔から笑顔が消える。

「……それは、王子に婚約破棄されたからですか」
「貴方は、もう知っていましたか」
「……警備のため、私もあの場に居りましたので」

 ユーリは唇を噛んだ。
 公爵令嬢と王子の婚約について、騎士団長である彼が王子を批判することなど出来ない。

「ええそうです。私は公爵家として、祖父の孫として、この国のために生きてきました。王妃となれぬ今、剣をとり騎士となり、祖父のように魔王を倒すことこそ、私に課せられた使命なのです」

 ローズは淡々と、けれども最後は真っ直ぐにユーリの瞳を見据えて言った。

「それは――貴方が、女性として生きることよりも、もっと大切なことなのですか?」
 彼の声は僅かに震えていた。

「私はこの国の為に生き、この国の為に死ぬ。願うのはただ、それだけです」

 ローズは、強くそう宣言した。
 ユーリは、師の孫娘であり、幼馴染である少女の瞳を見て、深く溜息を吐いた。
 この目をしている彼女が、自分の言葉で簡単に意見を変えるはずがない。

「……かしこまりました」
 ユーリの言葉に、ローズの瞳がきらりと輝く。
 瞳に込められたものは『期待』だ。
 だからユーリは、彼女の望みをこれから打ち砕かねばならないことを、心苦しく思った。

「しかし、他ならぬ貴方の頼みとはいえ、簡単に騎士団入りを認めることは出来ません」

 ユーリの言葉に、ローズは大きく頷いた。
 知っている。元々ローズはその為にここに来たのだから。
 けれど次の台詞は、流石のローズも予想外だった。

「騎士団に入団する条件は、騎士を倒す事。私は立場上、公爵家のご令嬢であり、王子の元婚約者である貴方の入団は認められない」
 ユーリはゆっくりと、低い声でこう述べた。

「貴方の入団試験は、私が執り行わせていただきます。……よろしいですね?」

 つまり騎士団長に勝たなければ、入団は認められない、ということだ。

「そ……そんなの、無理に決まって」
 栗色の瞳と髪の小柄の新人騎士は思わず声を漏らし、ユーリは静かに部下を睨み付けた。

 ――そう。これは、ローズの入団を断るための戦いでしかない。遠回しの断りの言葉だと、誰もがわかる……筈だったのに。

「わかりました。受けて立ちます」
 けれどローズは、いつもと変わらぬ声でそう返した。

「勝負は一度きり。よろしいですか?」
 ユーリは沈黙ののち、諦めて彼女の承諾を受け入れた。

「ええ、勿論」
 少女の目には、敗北の未来は映っていない。
 ただ真っ直ぐ自分の道を、未来を見据える。強い意思を宿した瞳は、ロードクロサイトのように美しく輝いている。
 ローズはゆっくり首肯した。
 二言は無い、とでもいうように。

「要は私が勝てばいい――それだけでしょう?」

 男装の麗人は『天剣』の名を持つ男に対し、不敵な笑みを浮かべていた。

 騎士団長が直々に入団希望者の試験を行う――異例過ぎるその話は、すぐに騎士団内で広まった。

 正午。
 騎士団の決闘場と呼ばれる場所に二人が現れた時、王国騎士の殆どがその場に集まっていた。
 完全に野次馬だ。
 騎士団長であるユーリは、部下の教育をもっと厳しくせねばと内心溜息を吐いた。

 入団条件は、ユーリに勝利する事。
 その勝敗が気になるのは当然かもしれないが、『剣聖』の孫である公爵令嬢相手に、部下がこれからどんな失言をするかと思うと、ユーリは軽く頭痛がした。

「誰だ。あのちっこいの!」
「ちびっこ頑張れ~~。団長、子ども相手に本気出すなよ~~」
「子どもには優しく! 児童虐待はんたーい!」

 ローズはこの国の女性の平均身長からすれば長身だが、騎士たちからすれば細い体もあって『ちびっこ』同然だ。

 フードを目深に被ったローズの顔は彼らには見えず、彼女の剣もまた、ローブの下に隠れている。
 『聖剣』を見れば、彼らも『挑戦者』が何者か判断できただろうが、悲しいかな――ローズの正体が明らかになっていない今、ユーリの心労は増えるばかりだった。
 ユーリは仕方なく、右耳に付けていたピアスの石に触れてローズへと手を向けた。
 すると風が起こり、ローズのフードをふわりと下ろした。

 ユーリの魔法によって明らかにされた挑戦者の顔は、騎士団の男たちが動揺するには十分だった。
 艶やかな漆黒の長い髪に赤い瞳。
 それはこの世界における強い魔力を持つ者の証であり、魔力の強いものほど王家に近い血を引いている。
 つまりその風貌は、彼女が王族に近い――高い身分の人間であることを物語っていたのだが、新米の無知な騎士や地方出身者は、常識を知らず目を輝かせていた。

「美少年……いや、美少女?」
「騎士団の入団試験に女の子?」
「これであの方が勝ったら、あの女の子、入団してくれるんでしょうか?」
「そういえば、さっき騎士団に潜入して掃除してた子どもがいたって話だったよな!?」
「……なんで掃除?」
「女の子だから、ここの汚さが耐えられなかったんじゃない?」
「あ~~なるほど」

 年若い騎士、合点がいった、という表情。
 老年の騎士たちは、あまりに無礼な後輩たちに蒼褪めて物も言えない。
 だが若い騎士の中にも、一応常識を持つ者は居たらしい。

 ただ常識は知っていても良識は無かった。
 決闘場で読書をしていた眼鏡をかけた小さな騎士は、信じられない、という表情でローズを見つめていた。

「いや待て。あの黒髪と。瞳の色はまさか……」
「お前、何か知っているのか?」
 眼鏡の騎士が口を開こうとした、その時。
 ローズを縄で縛り上げたあの新米騎士が、ぜえぜえと息を切らせて決闘場に駆け込んできた。

「みっ、みんな、落ち着いて聞いて下さい! あの方に対する誹謗中傷は危険です」
「なんでだよ?」
「あの方って……お前がそう言わなきゃいけないほどの相手なのか?」
「そうです。あの方は『剣聖』のお孫様――公爵令嬢、ローズ・クロサイト様ですっ!!!」
 まだ息の荒い彼が声を張り上げると、新米騎士たちは一斉に顔を見合わせ、お互いを指差した。



 漸く外野が静かになったのを確認し、ユーリはローズの方を向き直った。

「それじゃあ、試験を始めましょうか?」
 ユーリがそう言うと、ローブを脱いだローズは、祖父の形見である聖剣をユーリに差し出した。

「貴方が勝てば、この剣は貴方に差し上げます。一つお願いがあります。祖父の遺品とはいえ聖剣で戦うのは卑怯ですから、私がこれから使う剣は、貴方の剣と同程度のものを使いたく思います」
「……相変わらず、愚直なほど真っ直ぐで自分に厳しいお方ですね。この剣なら、私に勝てるかもしれないというのに」

 ローズの言葉に、ユーリは呆れた。
 彼女が知る自分の剣は、もう十年程も前のものだ。
 『剣聖』であるローズの祖父に、ユーリが公爵家で剣を習っていた時期は確かにある。
 だが、人は成長する生き物だ。
 かつてのローズがいつも自分たちの訓練を見ていたとしても、今のユーリをローズが倒せるかと言うと別の話だ。

 十年の時は長い。男女差だってある。体だって、ユーリの方がローズよりも大きい。
 幼い時ならいざ知らず、ユーリはローズに負けることが想像出来なかった。
 ユーリの今の剣は、『剣聖』の剣を自分なりにアレンジしたもの。
 妹弟子であるローズに負けるつもりは、ユーリは毛頭なかった。

「……特別な剣で勝てても、私の価値の証明にならない。私は自らの力を示し、道を切り開く」

 けれど彼女の言葉を聞いて、ユーリは心を改めた。
 勝てる勝てないとか、そういう問題ではないのだ。
 彼女が求めているのは――『自分の力で、未来を変えること』。

「面白い」
 ユーリはふっと薄く笑った。

「私と同じものを、彼女へ」
 ユーリはそう言うと、判定の為に立っていた騎士に、新しい剣を持ってくるように指示した。
 そして自分が持っていた剣を、彼女に渡す。

「この剣は?」
 剣を受け取ったローズは、重さを確かめるように剣を高く上げ振り下ろした。何度かそれを繰り返してから、今度は横に一閃する。

「騎士団で実際に使われているものです」
「なるほど」
 ローズは頷いた。
「聖剣には及びませんが、素晴らしい剣のようです」
「貴方にそう言ってもらえるなら、鍛冶師の努力も浮かばれましょう」

 談笑をしている間に、騎士が剣を抱えて決闘場へと戻って来た。
 ユーリは剣を受け取ると、真剣な顔をしてローズを見つめた。

「ローズ・クロサイト様。私が貴方を倒し、魔王を討伐した暁には」
「はい」
 ローズは、恐らく彼が言わんとすることは理解していた。
 何故ならそれは、『剣聖』と呼ばれた祖父が、公爵令嬢だった祖母を望んだ時に王と結んだ契約と、全く同じだったからだ。

「――私の妻になっていただきたい」

「……いいでしょう。貴方にそれが出来るのであれば」
 ローズはそう言うと、剣を構えた。
「その言葉、お忘れないよう!」

 言葉と同時。
 二つの影が、動いた。

 決闘場に、剣がぶつかり合う音が響き渡る。
 戦闘において、ローズは防戦一方で、ユーリに自分から技を向けることは無い。
 見守る観衆たちは、その様子を見て息を飲んだ。
 ユーリが『天剣』の名で呼ばれるようになったのは、彼の魔法にも由来している。

 彼の魔法属性は、風。
 戦闘中、彼は耳に付けたピアスで風属性の魔法を発動させ、自らのスピードを加速させて戦う。
 その剣は、鎌鼬のように目にも止まらぬ速さで気付かぬうちに相手の体に傷をつけ、死へと誘う戦闘に特化した剣の筈だ。

 だというのにそのユーリの攻撃を、公爵令嬢であるローズが全てを見切っているのだ。
 本来であればこれだけでも、才能を評価して騎士団に入団を許されるほど、ローズの能力は確かなものだった。
 しかもローズは疲弊する様子すら見せず、表情一つ変えることがなかった。
 ユーリは僅かながら危機感を覚えた。
 まだ力の全てを出していないとはいえ、ローズがここまで戦えるなんて彼は思ってもみなかった。

 たらり。ユーリの首筋に汗が伝う。
 それに気付き、ローズは少しだけ笑って彼に言った。

「――けれど私に求婚なんて、ユーリも奇特な嗜好の持ち主ですね」
 剣戟の間に混じる声。
 ユーリは攻撃を続けながら、彼女に訊ねた。

「どうして、そう思われるのです」
「私はリヒト様に振られた女ですよ? きっと男性は私のような女ではなく、彼女のような女性を愛するのでしょうね」

 ローズの目に、ほんの少しだけ悲しみの色が混じる。
 ユーリはそんな彼女を見て、胸が苦しくなった。
 ――自分なら。自分なら、彼女を悲しませたりしないのに、と。

「どうして、貴方が悲しまなければならない。貴方は、ずっと、正しかった。ずっと、気高く、美しく、この国の宝だった」

 『国の宝』。
 ローズは他国では、『水晶の国の金剛石』と呼ばれている。 
 それは彼女の容姿を讃えるものでなく、彼女の才能や人柄を称賛したものだ。

「……私は、そんな人間ではありません。婚約者一人の心すら、自分にとどめておくことが出来なかった。私にはきっと、人を思い遣る気持ちというものが、ずっと欠けていたのです」
「貴方は、昔から、何もわかってらっしゃらない。周りの人間が、貴方をどう評価しているかを」

 ローズの悲しげな声をきいて、ユーリは決心した。
 これからは自分が彼女を守る、と。
 幼い頃、身分違いの自分を温かく受け入れてくれた大切な人たちの宝を、世界で一番大切な少女を――初恋の相手を傷付けるあらゆるものから、自分が守り抜くのだと。

「私は貴方に知ってほしい。貴方が貴方でいいことを、間違っていないことを、証明する。……だから」

 ユーリはローズから距離を置き宣言すると、耳の魔法石に触れた。
 すると彼の剣から強い風が起こり、決闘場の砂を巻き上げた。
 観衆たちは顔を覆い砂を避けたが、ローズは微動だにせず真っ直ぐにユーリを見つめていた。

 ローズは元々魔法に強い適性を認められた人間だ。
 自分の体に砂から身を守る結界を張ることくらい、瞬きをするのと変わらない。
 ユーリだってそんなことは理解している。
 だからこの風は、ローズの行動を制限するものではなく、勝負を決める一撃の為に使う最終手段にしか過ぎない。

「貴方は、前線に立って戦うべき人じゃない」

 ユーリはそう言うと、強く地面を蹴った。
 勝負は一瞬で決まる。これまでも、これからも。
 『天剣』は無敗の剣。どんなに強い相手でも、この剣の前には膝をついた。
 ――彼の師である、『剣聖』を除いては。

「『あの方』だって、望まれない筈です!」
「……それは一体、誰のことを言っているのです?」

 ユーリはずっと思っていた。
 自分がこの魔法を以てして、『剣聖』以外に負けることは有り得ないと。
 だというのに。

「貴方が言うあの方が、私の祖父であるならば――喜んでくれるはず。何故なら、私は」

 剣を躱され、ユーリは大きく目を見開いた。 
 有り得ない。こんなこと。これでは、まるで――……。

「お爺様の剣の全てを受け継いだ、唯一の人間なのですから」

 ――『剣聖』だ。

「な……っ!」

 たった一度の攻撃。
 さっきまで防戦のみだったローズの剣が、ユーリの剣を弾き飛ばす。ユーリの剣は弧を描き、宙を舞い、地面に深く突き刺さった。
 何が起こったか理解出来ない。ユーリは地面に尻餅を付き、赤い瞳を輝かせる少女を見上げていた。

「この戦闘の勝利条件は、貴方を殺すことではありませんね?」

 彼女はそう言うと、静かにユーリの喉元に剣を向けた。
 これでは動くことなんて、まして剣をとることなんてできやしない。
 ユーリはごくりと生唾を飲んだ。
 技も、動きも、そして最後の、この剣も。彼女がいうように、『剣聖』の生き写し――いや、それ以上だった。

「――参りました」

 ユーリの言葉とともに、決闘場は男の野太い雄叫びで満たされた。
 戦闘が始まる前は、公爵令嬢と侮っていた年配の騎士も、あまりに凄絶な戦いぶりに、彼女が公爵令嬢であることも忘れて褒めたたえる。

「す、すごいです!! て、『天剣』を破るなんて!」
「公爵令嬢が騎士団長を倒す……!? 有り得ない。こんなこと!」
「『天剣』を上回る存在が、魔王が復活した今、この世界に現れようとは……!」

 中には涙ぐむ者も居る。
 戦いを終えた二人はどこか晴れやかな顔をして、お互いを見つめていた。

「……まさかグラン様が言っていた『天才』が貴方だったとは」
「『天才』とは?」
「自分の全てを託していいと思った相手に出会ったと、以前仰られていたんです。その子ならば、魔王を倒すことも出来るだろうと……」
「……お爺様がそんなことを……」

 ローズは騎士の一人に剣を返し、聖剣を受け取ってから、そっとその模様を撫でた。

「私はやはり、騎士となる運命だったのですね。今回の婚約破棄も、私に与えられた宿命《さだめ》だったのかもしれません」

 それはどうだろう、とユーリは思った。
 けれどローズの少し天然な所も、ユーリには好ましく思えて何故か笑みがこぼれた。

「貴方には――敵わないな」
「? 何のことです?」

 ローズは、何故ユーリが笑っているかわからずに首を傾げた。男装はしていても、国の宝とまで謳われた美貌は、霞むことなく輝き続ける。
 いや。今は寧ろ、男装だからこそ――赤く燃える強い意思を感じさせる瞳と夜のような黒の髪が、彼女をいっそう美しく見せていた。

「ユーリ。手を」
 ローズはそう言うと、尻餅をついたまま自分を見上げていたユーリに手を差し伸べた。
「ありがとうございます。ローズ様」
 ユーリはローズの手をとり立ち上がる。その様子は、まるでお伽噺に出て来そうな程優雅で、二人を見つめていた観衆の騎士団員たちは、(特に一部のものは)顔に似合わず頬を染めた。

 手を引かれるユーリもまた、高鳴る心臓を押さえきれず、彼女に伝わらないよう息を止めた。
 騎士団の団長として、目の前で思い人が振られた時、動くことも出来ず自分を制した。今回、自分の気持ちを抑えきれず求婚してしまったが――やはりローズ・クロサイトという人間は、人を惹きつける魅力に溢れている。
 救国の英雄である『剣聖』の血を引く美しき後継者に、ユーリは胸が胸が締め付けられるのを感じた。

「これから宜しくお願いするよ。ユーリ団長」

 だがユーリは、その思い人の言葉遣いが変わったことに気付き、震える声で彼女の名を呼んだ。

「……あの、ーズ様?」
 恐る恐る尋ねる。

「その言葉遣いは一体……?」
「晴れて私も騎士になったのだから、言葉も凛々しくすべきだと思って」
 ローズは、晴れやかな顔で言った。

「おやめください!」
 ユーリは両手両膝をつき叫んだ。

「私の聖女が……! 初恋が……!」
 今度は両手で顔を覆い、体をのけぞらせて空を仰ぐ。
 まるで悲劇の主人公のように。

「? どうした、ユーリ。何か悪い食べ物でも食べたのか?」
「ローズ様……貴方は本当に、昔から……どうしてそう鈍いのですか……」
「動作は機敏な方のつもりだけど……」

 そういうことを言っているんじゃない。
 ユーリは拳で机を叩きたい気持ちでいっぱいになった。
 ――伝わらないこの想い。
 ローズは、ユーリの気持ちは一ミリも理解していなかったが、身分ある立場の人間として、あることに気付いて「あ」と声を上げた。

「ああでも、騎士団にいる間、その長である貴方にこの言葉遣いは良くない影響があるかもしれませんね」
「???」

 ローズの思考回路がわからず、ユーリは両手を宙に浮かせて動きを止めた。

「貴方相手には、これまで通り丁寧な言葉で話すことに致します」
 にっこり満面の笑み。
 ユーリは彼女の言葉を理解するまでに時間を要したが、つまり自分には丁寧な言葉で話してくれると気付いて心から歓喜した。
 なっててよかった騎士団長……! 
 ユーリは手を合わせ、空におわす神を――いや、ローズを仰いだ。
 その行動は、どこかミリアと似ていた。

「ローズ様……!」
「? はい……なんでしょう?」

 昨日まで無敗だった元王国一の騎士、現騎士団長ユーリ・セルジェスカ。
 公爵令嬢に敗北の上、手のひらの上でもコロコロ。


 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 ローズの騎士団入りが決まったのは、それから数刻してからのことだった。

 もしや思い余って自殺したのではないかと娘を捜索していた公爵は、無事娘が帰ってきて大変喜び安堵したが、同時に彼女が持ち帰った『クリスタロス王国騎士団入団許可証』を見た時は、理解出来ず挙動不審になった。

 ローズの騎士叙勲式は、彼女の能力が魔王討伐に役立つと判断されたため、急遽国王リカルドによって行われた。
 そしてその日の夕方、騎士団の宴会へと招かれたローズは、再び公爵家にそっと置手紙をして参加した。

「ローズ様の入団を祝して、かんぱーい!」
「そういえば、試験では勝ったとはいえ、よく公爵様方が許して下さいましたね」
「ああ、それは……」
 ローズはにこりと微笑んだ。
「騎士として国を守るために生きたいといったら許してくれたんだ」

 『それ絶対、婚約破棄されたせいで傷心故のご乱心と思われていますよ!?』と誰もが思ったが、決して口には出さなかった。
 せっかくの主役の気持ちを盛り下げるのは良くない。

「ローズ様、こちらをどうぞ」

 今日は、ローズのための祝いの席。
 本当は、ローズは騎士が食べるような食事は初めてだったが、何事も挑戦することにためらいのない彼女は、蛙の丸焼きにも興味を示し、ユーリに止められた。
 注意されつつ一口食べたら、思っていたよりずっと美味しくて、ローズはこういう食事も悪くないと呑気に思った。
 その後も次々に料理が運ばれてくる。

 「一口でもいいから食べてみてください! きっとおいしいですよ!」
 騎士団に所属する彼らと、公爵令嬢である彼女が同じ食卓を囲むなど有り得ない。
 だというのに、自分たちに対して態度を変えず、寧ろ歩み寄ってくれる彼女に、騎士たちは心から親愛の念を抱いた。

「ありがとう。何だか恥ずかしいね」
「ローズ様!」
「僕、ローズ様のファンになりました!」
「強くてお綺麗で! 流石公爵系の家系――そして剣聖のお孫様ですっ!」

 中には、目を潤ませて彼女と握手する人間も居る。
 ローズはそれが少し寂しく思えた。
 だから、少しでも仲良くなりたくて。

「ああ、少し止まって」
「え? あ、あの……」
「上に糸くずがついていたから。はい。とれた」
 ローズが、ごみを頭に付けていた若い騎士に触れ微笑むと、
「ローズ様……騎士団の男は女性に免疫がないんです。あまりこのようなことは……」
 ユーリがコホンと咳をして、ローズの行動を注意した。

「ああ。ごめん、ユーリ。でも、これからともに戦う仲間なんです。私は彼らと仲良くなりたい」
「……ローズ様……」
「駄目でしょうか……?」
 ローズは身長差もあって、上目遣いでユーリを見上げた。

「ろ、ローズ様……!」
 ユーリの顔が、湯気が出そうな程真っ赤に染まる。

「団長殿は、惚れた弱みに付け込まれておりますなあ」
「五月蝿い」
 はっはっはと笑われ、ユーリは左手で顔を隠しつつ、静かに年配の騎士を睨み付けた。


「そういえば、ローズ様はもう二つ名は決まったのですか?」
 ユーリが顔の熱を冷ます為少し席を離れている間、若い騎士の一人がローズに訊ねた。

「二つ名?」
「はい。ご存じありませんでしたか? 通常、特例での騎士団入りの際は、必ず二つ名が与えられるんです。特例の場合の相手は、騎士団の中でも二つ名のある方が務めますので、その騎士に勝った、ということで……。確か団長の騎士団入りの際は、当時『地剣』と呼ばれていた方が務められたので、子どもながらにその相手を倒した、まさに天に与えられた天賦の剣、という意味も込めて、『天剣』の名が与えられたと聞いています」

「…………」
「ご存知無かったですか?」
「それは初めて聞いた」
 ローズは騎士団入団の際、団長であるユーリ以外には『(ローズの中での)騎士言葉《おとこことば》』で話すことにしたローズは、年若い騎士にそう返した。

「ローズ様はなぜ剣を?」
「祖父に教わったから」
「というと……『剣聖』様、でしょうか」
「そう。ユーリたちが祖父に剣を教わっていた時は、私はまだ幼かったから見ているだけだったけれど、彼が騎士団入りした頃から亡くなるまで、ずっと教えていただいたんだ」
「そう……だったんですね。では、『剣聖』のお孫様……『剣神』なんてどうでしょうか?」

「『剣神』??」
「はい。僕の住んでいた地域では、お祭りの時に男装した女性が、神への捧げものとして剣で舞うんです。だから、ローズ様にぴったりかな、と思いまして」
「……ありがとう」

 ローズは、少しだけ頬を染めた。
 『剣神』――なんだか、強くてかっこいい名前だ。ローズがそんなことを考えていると。
「『剣神』……ですか」
 顔のほてりが冷めたらしいユーリが戻ってきて話に混ざった。

「確かに、それはいいかもしれませんね」
「ユーリ」
「ローズ様の美しさを讃えるに相応しい名前です」
「ユーリ……」

 二人は見つめ合う。少しいい雰囲気だ。常識の無い若い騎士は、団長の為にあることをローズに聞くことにした。

「あ、あの!」
「はい?」
 ローズは、少しだけ首を傾けた。
「ローズ様は、お好きな方などいらっしゃるのですか?」

 それは、昨日婚約破棄されたばかりのローズには禁句だった。

「お前、今はその話は……」
 あまりに無神経な質問に、一同凍り付く。
「居ません」
「はい?」
「居りません」

 ローズは、はっきりとした口調で繰り返す。

 『こ、これは、これはどっちだ――?』騎士団の騎士たちは、どう反応していいか困った。
 『本当に?』と聞くのは有り得ないが、『そうなんですね』と言うのも微妙だし、かといって『うちの団長いかがですか? あ、既に振られましたね!』と、無礼講宜しく笑い話にしていいか判断が付かない。

 沈黙が続く。
 その時、救世主は現れた。

「お嬢様!」
 大声でそう言い放ち、髪を振り乱したメイドが、突如として店の中に入ってきたのだ。

「お怪我などなさっておりませんか!?」
 メイド服を着た、茶髪の女性は、膝をつきローズの手をきゅっと握ったかと思うと、「ご無事でよかった……」と感極まった声で言った後、ぎろっと騎士団長であるユーリを睨み付けた。

「ユーリ・セルジェスカ!」
 表情の変化に使った時間、およそ一秒。
 彼女はダンダンダンと大きな足音を立てながらユーリに近付くと、ぐいっと胸ぐらを掴んだ。

「団長!?」
 そこは、いくら負けたとはいえ自分たちの長だ。
 騎士たちは反射的に剣に手を伸ばしたが、二人が同じ瞳の色をしていることに気付き動きを止める。

「どうして貴方がお嬢様に剣を向けるなど馬鹿な真似をしているのですか!? お嬢様に万が一のことがあったら、どうするつもりだったのです!?」 
「……その時は、責任を」
 ユーリは子どもが後ろめたい時にするように、メイドから顔を背けて消え入るような声で言った。

「だまりなさい。寝言は魔王でも倒してから言ってください」
 寝言は寝て言え。
 小馬鹿にするように笑われ、実際今日同じことを言ったばかりのユーリは唇を噛んだ。
 髪色こそ違うが、よく似た思考、そしてユーリの言葉遣い。
 『彼女は一体誰なのだ?』と騎士たちが疑問に思っていると、好物である甘酒を飲み干したローズが静かに息を吐いた後に答えを口にした。

「ミリアとユーリは従兄妹なんだ」
「従妹……?」
「団長に従妹……?」
「女の子だよな? でも団長の方が綺麗だ……」

 騎士たちは口々にそれぞれの感想を口にする。その中に混じったユーリ賛美の言葉は変えようのない事実だったが、ミリアには地雷だった。

「貴方はいったい、部下にどんな教育をしているのですか? 目の前に居る女性に対しての言葉ではありませんよね?」
「危ない! ミ、ミリア落ち着け!?」

 代々公爵家の執事を務める家系の生まれで、戦えるメイドであるミリアはどこからともなく取り出した短剣でユーリの喉元を狙う。
 下手に動いたら命取りだ。
 彼女の実力を知るユーリは手を上げて降参した。

 公爵家のご令嬢の専属メイド。
 彼女は元々、彼女の生活をサポートするというよりは、ローズの身の安全を守るために存在している。
 だから、幼い時から守り続けた相手に剣を向けたユーリに、ミリアが剣を向けるのはある意味正しい行いだった。
 でも今回の場合――戦いを挑んだのはローズだ。責められはしても、殺されるいわれはない。

 ローズは立ち上がると、そっとミリアの手に自分の手を重ねた。
「駄目だよ。ミリア、ユーリを責めてはいけない。悪いのは、私なのだから」
 いつもより、低い声で囁く。
 ミリアの手から力が抜けて、短剣が滑り落ちる。頬を赤らめた二人は、同じ色の瞳でローズを見つめていた。

「お嬢様……」
「ローズ様……」
「反応が一緒ですね!」

 小型犬のような、今年入団したばかりの新米騎士、アルフレッド・ライゼンは、栗色のクリクリした大きな瞳を輝かせて、悪気なく呟いた。
 空気読めない系新人の口は、周りの先輩騎士によって即座に塞がれた。
 『これ以上、余計なことを言うな』――屈強な男たちに囲まれたアルフレッドは、こくこくと頷いた。

 しかし、空気を読めない人間と言うのは、一度注意されたくらいで変わるものではない。
 漸く解放されたアルフレッドは、可愛い顔をして本日何度目かの爆弾を落とした。

「ローズ様は、明日の魔王討伐には参加されるのですか?」
「ライゼン! それは秘密にしろと騎士団長が!」
「え? そうでしたっけ」

 アルフレッドは可愛らしく小首を傾げる。
 男の割に可愛い顔をしている彼だが、ロマンスに憧れる女性ならまだしも、男しかいない騎士団では通用しない。

「……魔王討伐?」
 ローズは、アルフレッドの失態を聞き逃さなかった。食事をする手を止めたローズに、ミリアが怪訝な顔をして注意する。

「お嬢様、それは流石に危険すぎま……」
 けれど男装時のローズの色香は、ミリアに言葉を飲みこませた。
 ローズはそっとミリアの唇に人差し指を押し当てた。
 そして、「お願い」とでもいうように少し悲しそうな顔をして首を傾げる。
 ミリアは、顔を真っ赤にして動けなくなかった。

 ローズは硬直したミリアから指を離すと、にっこりと微笑んだ。
「ユーリ。私にも、詳しく話を聞かせてくれますよね?」
 明らかに怒っている。空気をしっかり読む系騎士、ユーリはひしひしとローズからの圧力を感じていた。
 
「…………はい。ローズ様……」

 微笑むローズに逆らうことが出来ず、ユーリは明日の任務について語ることにした。
 ――『魔王』。


 その名は人々に恐怖と共に呼ばれ、生き物に死へと誘うとされる。
 形は一つ目、半透明の浮遊体。
 『魔王』はその身体を、まるでマントのように大きく広げることで世界を覆い、陽の光で満たされた地を漆黒に染め、身体から異形の群れを吐き出し生き物を襲う。

 魔王が生み出す異形たちは、体を壊しても心臓を突き刺しても再び動き出し、彼らの動きを止めるには、身体の何処かにある核を砕かねばならない。
 首なしの騎士に、人の生き血を啜る化け物――死者の軍隊は自らの意思を持たず、ただひたすら生あるものの命を奪い続ける。

 魔王の存在は古く、古い文献ではクリスタロス王国の建国の頃――つまりは千年以上前から存在している。
 前回魔王が現れ、剣聖に倒されたのが八〇年前。
 そして魔王は三カ月前、再びこの世界に現れた。
 その魔王を倒すため、異世界から招かれたのが『光の聖女』アカリ・ナナセだ。

 この世界には必ず一人、どの国にも一つの魔法属性に対し適性を持つ、強い魔力を持つ人間が生まれるが、『光の聖女』は魔力が多く光属性に適性を持つだけでなく、この世界に一人しか持ちえない特別な力を持つとされる。

 力の名は『加護』。
 清らかな祈りは神の心をも動かし、魔王と戦う者に光の加護を与えると言われている。
 もともとこの世界における光魔法は、回復や力の循環、防御といったものに用いられているが、他の属性と比べ決定的に異なるのは、闇属性に対し唯一侵蝕を防ぐ力を持つ点である。

 風や土、水や火など――戦うというだけであれば、光属性以外でも魔王と戦うことは可能だ。
 しかし魔王を倒すためには、その反対となる光属性の魔法で自らを守りながら戦わねば、接近戦の場合体が腐るという事例が過去に多々報告されている。
 魔王討伐――クリスタロス王国騎士団で、現在そう呼ばれている訓練は、日に日に少しずつ巨大化する魔王の現状を把握することと、まだ力を使いこなせないアカリに、『加護』を使いこなさせるための訓練でもある。


 陽の光に弱い魔王が、最も動きの鈍くなる正午。
 ローズも含めた騎士団の一行は、魔王討伐のため道を歩いていた。
 魔王に感づかれないよう、一定の距離までは馬や馬車で移動するが、それ以降は徒歩での行軍となる。
 討伐隊は『光の聖女』を守るために隊列が組まれ、ローズは彼女を後ろから守る形で配備されていた。

「こんにちは! ローズ様!」
 ローズと共に後方を守るのは、ローズにこの討伐のことをうっかり教えてしまったアルフレッド・ライゼンだった。
 彼は公爵令嬢であるローズに対して、一切の物おじはぜず、太陽の様な笑顔をローズに向けて挨拶した。

「こんにちは。ライゼン」
 ローズが返事をすると、彼はふふと笑う。
 ローズはアルフレッドの方に挨拶をした際、とある少年を見て少し驚いた。
 アルフレッドの隣には年若そうな長身の騎士が居り、何故か目を瞑ったまま歩いていたのだ。
 鼻筋の通った長い睫毛の美少年は、こくんこくんと頭を揺らしていた。
 立ちながら眠る――器用すぎる彼に、ローズは少し動揺した。

「こいつのことは気にしないでください。いつものことなので。……ああ、安心してください。戦闘が必要になれば勝手に起きるので」
 いろいろと野性味が凄い。本能にしたがっていきているんだろうかとローズは思ったが、口に出さず彼女は言葉を飲みこんだ。
「そう。……なら、安心だね」
「はい」

 気遣われることが多いローズが、珍しく他人に気を遣った瞬間。
 これでは話が繋がらない。ローズは黙って、前方へと顔を向けた。
 ローズの位置から斜め前、数列前にユーリの銀髪が見えた。昨日は髪を下ろしていた彼だが、今日は赤い紐で髪を結っていた。

 その隣には、『光の聖女』アカリ・ナナセがいた。
 アカリ、ユーリと並びその隣には、子どもの様な体格の団員がローズには見えた。
 彼の軍服は、他の団員とは少し違っていた。袖は通常の軍服よりやや大きく広がり、裾は膝の長さほどまで伸びている。
 ……誰だろう? ローズがそう思っていると。

「聖女様が気になりますか?」
「え?」
 アルフレッドがローズに訊ねた。

「ローズ様、ずっと前を向いているようだったから」
「……まあ。少し、気になって」
「そうですか。では、僕が知っている情報を、特別にローズ様に教えちゃいますね!」
 アルフレッドは、ぐっと胸の前で両手を握る。

「光属性の魔法においては、流石『光の聖女』というだけあって、特出した才能をお持ちみたいです。あとその力のお蔭か、動物に好かれる体質みたいですね。ただ、美形が好きなんじゃないかな? って思うことはよくあって……。今回の討伐でも、護衛の選出は自分で行われたみたいです。綺麗どころ可愛いどころばっちり集めましたって感じで壮観ですよ」

「……よく知っているんだね」
 ローズは苦笑いした。
 美形が好き……自分の周りに好みの顔ばかり意図的に集めるなんて話を聞くと、どう反応していいかわからない。
 因みに今ローズを囲んでいるのは、筋骨隆々な歴戦の戦士――いや、騎士ばかりである。

「盗み聞きならお任せください!」
 褒められたアルフレッドは元気よく言った。
 それはどうなのか。ローズはまた反応に困ってしまった。

「でもかといって、あまり男性に自分から話しかける人ではないみたいなんですよね。静かに一人で過ごすのが好きみたいです」
「リヒト様には、ベタベタ触っていらっしゃったようでしたが……」
 ぽつりローズは呟く。
 やはり二人は特別な関係、ということなんだろうか。そう考えると、ローズはちょっともやっとした。



 その頃ユーリはというと、アカリの隣を歩きながらも不満げな顔をしていた。

「自分もローズ様をお守りしたかった……!!!」
「ユーリ。ローズ様は貴方に守られなくても大丈夫です」

 今自分は不幸です。そんな声音で愚痴をこぼすユーリに対し、隣を歩いていた小柄な少年は冷静に述べる。

「……それはわかってる」

 そもそも負けたばかりだ。両手で顔を覆っていたユーリだったが、現実に引き戻されてついつい真顔になる。そんなユーリを見て、彼は呆れた声で名前を呼んだ。

「……ユーリ」
 『地剣』――ベアトリーチェ・ロッド。二六歳。
 クリスタロス王国騎士団副団長。
 年齢のわりにずいぶん小さく幼い顔だちだが、ユーリよりも年上だ。

 ユーリの『天剣』の名は、その頃から『地剣』と呼ばれていた彼を倒したことに由来する。
 森の木陰を思わせる茶色の髪と、新緑の瞳。
 誰にでも丁寧な言葉で話し、見た目の割に落ち着いた雰囲気。
 ユーリ入団時は戦った仲であるが、今の彼はユーリとともに騎士団の双璧を担う、ユーリの良き相棒だ。

「ローズ様に何かあったら、ミリアに殺される」
「ああ、確かその名前は貴方の従妹の……って。ユーリ、子どもみたいな言い訳しないでください。それにしてもその怖がりようは――過去に何かあったのですか?」

「昔、街で人気のケーキを内緒で買ってきてローズ様に差し入れようとしたんだが、転んでしまって顔に……その、ケーキをぶつけてしまったことがあって」
「…………」
 どじっこか。ベアトリーチェは内心ツッコミを入れた。

「ローズ様は、笑顔で俺を許して下さったが、後でミリアにぼこぼこにされた」
 ぼこぼこ。
 見目の良い青年にしてはこどものような表現に、ベアトリーチェは少し複雑な気持ちになった。
 ユーリの精神年齢は、おそらく実年齢よりやや低い。

「剣なら勝てるだろうが、素手では敵わない。俺は女子どもに剣を向けるのは嫌いだし、アルグノーベン家は元々、身体強化魔法の家系だから……」
「なるほど。それで昨日は、『ゴリラ戦闘系メイド』と」

 過去の記憶を思い出したのか、手をわなわなと震わせるユーリを見て、くすくすと彼は笑った。

「しっ!」
 そんなベアトリーチェに対し、ユーリは右手の人差し指をさっと自分の唇に当てて言った。
「ローズ様がいらしている。ミリアが近くに居ないとも限らない」
「……流石に騎士団の任務です。つけては来ないでしょう」

 ベアトリーチェは溜め息を吐いた。
 常識のある人間ならついては来ないし、大体ユーリの幼馴染が、ユーリが居るのについて来ているとしたら、それはユーリが幼馴染《ミリア》に信じられていないことと同義だ。

「――いや」
 その事実に気付いていないユーリは、顔を顰めて話を続けた。

「ミリアなら有り得ない話じゃない。今、こうやって俺がローズ様ではなく聖女様を守っているのも、後から何と言われるか……」
「ユーリ」

 ベアトリーチェは、騎士団長という立場にありながら、ミリアに怯える彼を見て大きな溜め息を吐いた。
「貴方、心配もほどほどにしないと、胃に穴が空きますよ」

 年上の部下に窘められ、ユーリは閉口した。



「団長と副団長は、何を話していらっしゃるのでしょう……?」

 ユーリと反対側のアカリの隣には、ローズを以前捕縛した、柔らかそうな茶髪に茶目の若い騎士が歩いていた。
 アカリそっちのけで談笑する二人を見て、幼い彼は自分はどうすべきなのかと困惑していた。

「あの」
「――はっ。はい!」

 話しかけられて、声を裏返す。
 アカリはそんな少年の動揺に気遣うわけでもなく、質問を続けた。

「……あの。後ろにいる長髪の方は、一体どなたですか?」
「あの方は――……」
 少年は後方を振り返った。
 数列後ろには、髪を高く結ったローズが歩いていた。

「公爵令嬢ローズ・クロサイト様です。昨日、騎士団に入団されました」

 少年はにこりと笑って答えた。
 少年は、アカリが自分に笑顔を向けてくれる期待していたわけではなかったが――自分の答えを聞いて走り出したアカリに、思わず叫んだ。

「……聖女様!?」
 二つ隣りを歩いていた部下の声に気付いたユーリは、自分の後ろを歩いていた騎士の右肩にとんと一度手を載せ反動を利用して跳躍すると、ローズの前に着地した。

「何をなさるおつもりですか!」
「……!」
 アカリがローズの元に辿り着く前に、ユーリはローズを庇うようアカリの前に立ち塞がり剣を構えた。

「ユーリ……?」
 アカリはユーリを見上げ、唇を引き結んだ。事態が読みこめないローズは目を瞬かせた。
 これでは、守るべき相手が逆だ。

「……庇う相手を間違えていますよ。私を守ってどうするのです?」
 すぐに彼の誤りを指摘する。
 ローズの言葉で自分の失態に気付いたユーリは、剣を収めて謝罪した。

「……も、申し訳ございません」
「――ユーリ」
 駆け足で駆け付けたベアトリーチェが、背後から冷ややかな声で彼の名を呼んだ。
 ユーリはおそるおそる彼の方を振り返った。

「貴方は、聖女様の護衛でしょう」
 先程の言動のせいもあってか、ベアトリーチェの声は明らかに怒っていた。

「はい……」
「みなの手本となるべき貴方が、何をやっているのですか?」
 両手を組み、冷めた目で自分を見つめる相棒に、ユーリは何の弁解も出来なかった。

「――騎士に、なられたのですね」
「はい」

 ユーリがベアトリーチェに捕まり、漸く向き合ったアカリとローズは、お互いのことを真っ直ぐに見つめていた。
 片や婚約破棄の原因、片や婚約破棄された公爵令嬢。
 そんな二人の対面を騎士たちは止めることも出来ず、緊張した面持ちで見守っていた。

「……それが、貴方が仰っていた、この国の為の行動ですか?」
「はい。私は、この国の為に戦います」

 アカリの問いに、ローズは淡々と答えた。
 高く結われたローズの黒髪は、彼女が少し顔を伏せたのに合わせて優雅に揺れる。

「これから宜しくお願い致します。アカリ様」
 ローズは友好の意を示すために、アカリに右手を差し出した。
 公爵令嬢としてではなく、彼女を守る騎士として――これから国を守るために共に努力したい。
 それはローズにとって意思表明だったが、アカリはローズが差し出した手を叩き、甲高い声で叫んだ。

「わ、私に触らないでください! 私は、この世界を守る『光の聖女』です。貴方に言われなくても、私がこの国を守ります!」

 怯えと、怒気。
 アカリの声は、いくつかの感情が入り混じる。

「……そう、ですか」
 ローズは、叩かれて少し赤くなった手を下げた。
「突然触れようとして、申し訳ございませんでした」
「…………」

 誰がどう見てもアカリに非がある。
 けれどローズは、深く頭を下げて謝罪した。
 アカリはきゅっと唇を引き結ぶと、くるりと方向転換して、何も言わず元いた場所へと戻っていく。
 ベアトリーチェはアカリが戻るのを見て、ユーリへの叱責を止め彼を連れてアカリを追った。
 アルフレッドはそれを、どこか冷めた目で見ていた。

「なんだか、いや~な感じ、ですね」
「…………」
「聖女様っていうより、悪女様って感じ」
「…………」
「ローズ様?」
 ローズは、アルフレッドの言葉に無反応だった。
 不思議に思ったアルフレッドは、差し出した手を見て固まるローズを、しゃがんで下から覗きこんだ。
「拒否されたの、そんなに悲しかったんですか?」


「ほら。ユーリ、行きますよ」
 ベアトリーチェに引きずられるようにして隊列に戻るユーリは、遠くなるローズの姿を見て悲しくなった。
 どうして自分の思い人に対し暴言を吐くような少女を、自分が守らなくてはいけないのだろうか。
 その思いはユーリの表情にも表れてしまっており、ベアトリーチェは戻る最中も、ユーリに苦言を呈さねばならなかった。

「ローズ様が気になるのは分かりますが、今のあの方は騎士の一人に過ぎません。自分の立場を自覚してください」
「……」
 ユーリだって、それは分かっている。けれどさっきのようなことがあると、余計にローズのことが気になって仕方がなかった。
 ローズが悲しい顔をしなくていいように守りたいのに、力の及ばない自分が不甲斐ない。

「大丈夫です。あちらには私の弟も居りますし、ローズ様が怪我をするようなことは有り得ません」
 そんなユーリだったが、溜息の後にベアトリーチェが口にした言葉を聞いて、安堵したように息を吐いた。

「――ああ」
 ユーリにとって、ベアトリーチェの信があるということは、一定の安心ラインはクリアする。

「ビーチェがそう言うなら、大丈夫だろう」
 ベアトリーチェは、やっといつもの『騎士団長』の顔に戻ったユーリに、ほっと息を吐いた。だからこそ彼にしては珍しく、ベアトーチェはアカリの呟きを聞き逃した。

「どうして? ……『悪役令嬢』が、騎士にだなんて」
 『光の聖女』はそう言うと、苦虫を噛んだような顔をして、ぎゅっと拳を握りしめた。

「……『悪役令嬢』?」
 アカリの隣を歩いていたユーリは、アカリの呟きに一人首を傾げた。



 ほどなくして、一行は魔王討伐訓練の観測地点に到着した。
 それはローズにとって、初めての『魔王』との出会いだった。

 ――なんて深い漆黒。大きさ。……どうして見ているだけで、心の奥底から冷えていくような感覚があるの……?

 ローズは彼方の空を見上げた。
 ローズにとって『魔王』は、これまで未知の存在だった。

 国を、世界をも脅かす強大な闇の力。
 その集合体である物体は、はるか上空を揺蕩い、まるで神のごとき大きさで、空を覆い尽くしていた。
 中心には赤い球体が浮かんでおり、黒い体に赤く浮かぶそれが、なんともアンバランスで気味が悪い。

「……あれが『魔王』ですか。気味が悪いですね」
 アルフレッドは眉を顰め、静かに感想を述べた。
 いつもおちゃらけているように見える彼だが、真面目な表情をすると凛々しく感じられるからローズは不思議だった。
 その瞬間、彼の隣を歩いていた少年が船こいでいた首の動きを止め、ゆっくりと瞼を上げた。
 魔王を見つめる彼の瞳は、夜に光を映したガラス玉のようにきらりと光る。

「――危ない。……来る!」

「え?」
 少年が、呟いたまさにその時。
 停止したはずの魔王の核がぎょろりと動き、ローズたちめがけて黒い手のようなものを伸ばした。

「なっ!!」
 魔王が遠く離れた人間に限定し、攻撃を放つ。
 それはこれまでの討伐作戦で、一度も起きなかった事態だった。騎士団の誰もが驚き、ざわめき、動揺して声を上げた。
 こんなことは有り得ない。
 ベアトリーチェは、慌てる部下たちに向かって冷静に命令した。

「動揺するな! 訓練通り、列を乱さず、下がれ!」 

 いつもは大人しく、静かに佇む副団長《ベアトリーチェ》の厳しい口調に、騎士たちは動きを止め、後方へ列を保ったまま下がり始める。
 しかし魔王の体が分裂した黒い球体は、ローズとアカリへと向けられた。
 ベアトリーチェは目を見開いた。自分の速さでは守れない。

「ユー」
 『地剣』は『天剣』の名を呼ぼうとした。
 天剣と呼ばれるユーリであれば、アカリを抱えて逃げることも可能だろうと。
 ――けれど。

「ローズ様!」
 ユーリはアカリではなく、ローズの名前を叫んだ。
 自分が指揮をとり、ユーリが『光の聖女』を守る。算段が崩れ、ベアトリーチェの瞳に動揺の色が走る。
 立ち竦むアカリは、動けずに孤立していた。
 進行中ずっと眠っていた少年は、無表情のままアルフレッドを片手で担ぎ上げると、そのまま後方へと下がった。

「――アカリ様!」
 ユーリが自分を庇ってこちらへやってくることなんて、ローズの頭の中には無かった。
 ローズは自身に向けられた魔王の攻撃を避け、一気に加速してアカリの前に立った。
 『天剣』よりも冷静な判断とスピード。
 ローズの行動は、アカリを守るためには正しかったが、同時にその行動は、ローズの命を危険に晒してしまう。

「嫌!」
 アカリは、自分の前に現れたローズの手に、強くしがみついた。
 ローズは体を強張らせた。
 これではアカリを連れて、魔王の攻撃を避けることは出来ない。かといって怯えるアカリが、『加護』を使えるはずがなかった。
 戦うしかない。
 ローズは唇を強く噛み、指輪に嵌められた石に触れ、自分とアカリを守るための魔法を発動させた。
 しかし『光の聖女』の『加護』ではないローズの光魔法は、一瞬は防げこそすれ亀裂が入ってしまう。

「……くっ!」
 ベアトリーチェは、左手に嵌めた腕輪に触れ、剣を握り直し地面に突き立てた。
「大地に祈り給う。土の壁よ、彼の者を守り給え!」

 溢れる彼の魔力は地を伝い、アカリとローズ、二人の前に土の壁を作る。
 しかしそれは、魔王の力を受け腐臭とともにどろりと溶け、ついに魔王の攻撃はローズとアカリへと届こうとしていた。
 ――……もう、駄目だ。
 誰もがそう思った、その時だった。

「え……?」
 ローズの指輪が強烈な光を放ち、二人の前に巨大な赤い魔法陣を浮かび上がらせた。
 魔法は、その属性によって色が決まっている。
 魔法を発動させるとき、魔力は色として可視化される。
 魔王の力を防ぐには、光魔法――つまり白い光が、陣を帯びねばならぬはずなのに。
 二人を守るその強力な魔法陣は、燃える様な赤い色を放ちながら、二人の前に浮かんでいた。
 それはローズも、ユーリも、ベアトリーチェも知らない魔法。

 いや――それは。
 『加護』のみが魔王に対抗できるという考えを、根本から覆す力そのものだった。
 赤い魔法陣は魔王の力を撥ねのけると、形態を変え更に陣を増やし、光の砲撃を魔王に放つ。

 どおおおん!

 激しい音がして、魔王が広げていた体の一部は消滅した。
 魔王は衝撃を受けクラゲのように体を動かしてから、少し縮んで停止した。
 同時に赤い魔法陣は消え、ベアトリーチェは我に返り声を上げた。

「作戦は中止。魔王が再び動き出す前に、撤退します!」

 アカリは、ローズにしがみ付いていた手を離し、へなへなと崩れ落ちた。
 魔王が攻撃してくる――それは彼女にとって、初めての出来事だった。
 ローズはというと、訝し気に目を細め、自身の指輪を見つめていた。

 ――身に覚えのない魔法。あれは一体何だったというの……?
 そんなことを彼女が考えていると、指輪に嵌っていた石に罅が入り、音を立てて割れた。
 石が壊れるなんて普通はありえない。
 急いで駆けつけて来たユーリは、その様を見て目を瞬かせた。

 ――石が魔力に耐えられなかったということだろうか?
 ローズは顔にこそ感情を出していなかったが、幼い頃からローズを知るユーリは、ローズの動揺に気付いていた。

「ローズ様……」
 彼女の名を呼ぶ。返答はない。

「高価なものだったんですか?」
「価値はどれほどかかわかりませんが……」
 ローズは静かな声で答えた。
 他の騎士たちが引き返しているというのに、まだ動こうとしないユーリ達のもとに、ベアトリーチェやアルフレッドが駆け寄ってくる。

「……これは以前、リヒト様にいただいたものです」
 一方的に婚約破棄された元婚約者から貰った指輪を未だに身に着けていて、恋敵を守るために破壊。

「ろ、ローズ、様……」
 場が凍った。
 今日もまた、騎士団の中はどこか落ち着かない。

 昨日、魔王討伐の際想定外の事件が起きたばかりだというのに、窓の外からは浮付いた子どものような笑い声が聞こえる。
 壁一面に本の並べられた部屋で、腕を組んでカーテンにもたれかかりながら窓の外を眺める少年は、新緑《ペリドット》の瞳を細めて、眉間に深い皺を作った。
 けれど扉を叩く音が聞こえると、彼は一度静かに目を伏せ、表情を戻してから返事をした。

「はい」
「ビーチェ、入るぞ」
「どうぞ」

 聞きなれた声。
 親しみを込めた自分の名の呼び方に、ベアトリーチェは日常が戻ってきたことを感じると同時、昨日の彼の失態を思い出してほんの少し顔を顰める。
 部屋に入ってきたユーリの手には報告書が握られており、そこには魔王の異常行動、ローズの魔法などについて、図入りで解説されていた。

「石が壊れるなんて聞いたことがない。ローズ様の魔力に、石が耐えられなかったということか?」
「それはありません」

 ユーリの問いにベアトリーチェは断言し、窓から離れ本棚へと向かった。
 彼は腕の長さほどある分厚く大きな本を手に取ると、ぱらりと開いた。

「本来、魔法を使うための石というのは、ただの式を保存する器《うつわ》でしかありません。そして魔力は、人の魂の中にあるという器を満たす、泉のように湧き出る力だと考えられています。魔法を使うということはすなわち、石に保存していた式にそって魔力を流し込むこと。勿論、式を書き込める量は石の強度によって差があり、そのために石を選ぶことはあるにしても、魔法を使用したせいで石が壊れるなんて聞いたことがありません」

 ベアトリーチェは淡々と話し、頁を捲った。

「考えられるのは、石に何らかの保護魔法が掛けられていて、その力が彼女を守るために発動した――ということでしょう。過去の文献を調査した結果、古い時代の魔法に、そのような魔法が存在していたことが確認できました。もっとも、その詳しい情報についての記述はありませんでしたが。……つまり、今回彼女を守ったのは」

 ベアトリーチェは、新緑の瞳で金色の瞳を見つめた。
「――リヒト王子、だと?」
 ユーリはその名を口にして、ぎゅっと拳に力を込めた。
 金の瞳に僅かに焦りと怒りが滲む。

「ええ」
 ベアトリーチェは、ユーリを一瞥して目を伏せ、本の中身をユーリに見せた。
 そこにはこの世界にかつて存在していたという、保護魔法についての記述があった。
 あらゆる攻撃から守る保護魔法――発動は、一度のみ。
 守るべき相手が命の危険に晒された時に発動すると書かれてはいるものの、それ以上の記述はない。
 あまりに異質だ。ベアトリーチェは、そう確信していた。

「皮肉なものですが、私はそう推測します。そうでなければ理屈に合わない。でも、妙ですね。この世界には式の保存が可能な石はあっても、魔力を温存させる石は国ごとにある石以外発見されていません。だからこそ魔力の強い者と弱い者とで、格差が生まれている」

 国ごとにある石は、見た目こそただの巨大な水晶だが、魔力を保存する力を持っている。
 そしてその石は、世界で最も固いとされる物質を使っても、傷一つつけることが出来ないことで知られている。

「それがどうした?」
 ユーリは首を傾げた。

「魔王の力をもはねのける強力な保護魔法が――ローズ様の魔力を以て発動されたのなら、多少の疲労感は示さなければ理屈に合わない」
「?」
 ベアトリーチェは、自分の話が理解できずにいるユーリに内心溜息を吐いた。

「……ユーリ。貴方もご存知でしょうが、人が一日に使える魔法は限られています。その理由は分かりますね?」
「魔力は、魔力を保存することの出来る器に個人差があり、回復量もまた個人差があるから……?」

 二人はまるで、教師と生徒のようだった。

「ええ、その通りです。だからこそ、回復量の多い私はある程度の魔法であれば人よりも連続して扱える。ですが私のような人間は稀です。本来強い魔法の一つでも使えば、人は体に違和感を覚えるものです。聖女様がそうであったように」

「……」
 ユーリはローズが異常だと言われ、眉を寄せて目線を下げた。

「今回の討伐、貴方がうつつを抜かしていて招いた惨事については、十分反省してもらわねばなりません。ですがその一方で私は、ローズ様の行いをただ称賛することも出来ません。ローズ様がいつでも同じ魔法を使えるなら、もちろん心から彼女に謝辞を述べ、同じ魔法を使い、共に戦ってくださることを願わなくもない。でも――そうではないから」

 不快感を顕わにするユーリに対し、ベアトリーチェ話を続ける。

「また、私の不在の間に行われた試験についてですが――彼女は貴方に勝ったとは言っても、所詮命のやり取りではなかった、とも言えると思っています。女性を、しかも公爵令嬢である彼女を戦場にかりだし命を危険に晒す行為は、やはり私は賛同出来ません」

「……」
「――納得がいかない、という顔をしていますね」
 ベアトリーチェはユーリに問う。その声は、冷たいが何処か優しい。

「ならば貴方に訊ねましょう? もし同じことが起き、今度は本当にローズ様が命を落としてしまったら、その時貴方はどうするのですか?」

 ユーリは唇を噛んだ。
 ローズが死ぬ? そんな最悪の事態、ユーリは考えたことも無かった。
 ――昨日までは。

「……貴方の、彼女への恋心は知っています。戦場へ行くときに、いつも身に着けるその髪紐を贈ってくれた相手を、むざむざ殺してもいいのですか?」

「そんなこと……!」
 恋心、そして髪紐。
 ローズに纏わることを二つも指摘され、ユーリの顔に朱が走る。
 ユーリが戦場に行くときに身につける髪紐は、かつてローズがユーリに贈ったものだ。

 ユーリが無事に帰ってきますように。
 怪我をせず、戻ってこれますように。
 幼い昔のローズはユーリに、魔除けとして赤い紐を贈った。

 もう十年の前のことだ。ユーリはその一本の紐と思い出を、十年間お守りに生きてきた。
 赤い紐。それはユーリを、この世に結び付ける楔のようなものでもある。
 絶対に自分は負けない。ユーリの不敗伝説はあっさりローズに破られてしまったが、それまでは十年間、ユーリはこの赤い髪紐と共に勝利を誓って生きてきた。

 その相手が。
 ――死ぬ、だなんて。ユーリにはとても想像が出来なかった。

「ユーリ」
 ベアトリーチェは、静かに彼の名前を呼んだ。
 ユーリは、今にも泣いてしまいそうな顔をしていた。友人の悲しむ顔を見て、ベアトリーチェも心が痛かった。
 大切な相手を傷付けることは、ベアトリーチェだって望まない。
 けれど自分が忠告せず、ユーリが立ち直れないような心の傷を作ることだけは、彼は絶対に避けたかった。

「貴方には力がある。貴方は騎士団長なのです。そして彼女は、一騎士に過ぎない。貴方が望めば、彼女の行動は制限出来るはず。貴方がもし本当に彼女を思うなら、私は彼女を魔王討伐には、参加させない方が賢明だと判断します」

 ベアトリーチェは、はっきりと宣言した。
 それから、険しい顔をして自分の目を見ようとしない友人に、声音を変えて付け足す。

「これは部下としてというより、私個人の意見となりますが――私は、大切な友人である貴方の悲しむ姿は、これ以上見たくない。どうか理解してください」
「……わかった」

 友人としての言葉。
 そう言われては、ユーリは反論出来なかった。しぶしぶながらも静かに首肯したユーリを見て、ベアトリーチェは胸を撫で下ろした。

「……ビーチェ」
「はい」
「頭を撫でるな」

 ベアトリーチェは下を向くユーリの頭を、手を伸ばして撫でていた。
 ユーリにはミリアという幼馴染はいるが一人っ子だ。
 しかも幼い頃に家を出ているため、こういう扱いは慣れていない。明らかに照れている年下の上司に、ベアトリーチェは目を細めて優しく笑う。

「……すいません。私はこんな外見ですが、貴方は年下なものですから。つい、撫でたくなってしまうんですよね」
 手を下ろした彼は、自分が出した本を元の位置に戻すと、ユーリの方を振り返った。

「ローズ様の件はこれでよいとして……。残る問題は石についてです。あの現象は不可解です。私の方でも、少し調べてみようと思います」
「ああ」
 ユーリは乱れた髪を整えて、彼の瞳を見て言った。
「頼んだ」

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 紙に書かれた魔法陣の上に指輪を起き、ローズは魔力を流し込む。
 すると指輪はかっと光を放ち、紙から浮き出た魔法陣を吸い込んでいく。

「わ~~! 綺麗ですね!」

 ローズとアルフレッド、そして昨日の少年を合わせた三人は、訓練場の一角に集まっていた。
 魔法式の書き込みとはこのことをいう。
 魔法陣と魔法式の呼び分けは、魔法陣は物体に書かれたもの、可視化されたもののことを言い、魔法式は石の中へと収納され、目に見えなくなったものを指す。

 ローズが以前使っていた指輪は物体の収納という機能もついていたが、今回の指輪にはその能力はなかった。中に収納していた物を取り出せないことはローズは悲しくもあったが、壊れてしまった今はどうしようも出来ない。

「お父様が用意してくださったんだ」
「流石公爵様ですね!」
 ローズの指には、壊れた指輪の代わりに、式を保存できる最大強度の石とされる金剛石の指輪が輝いていた。
 魔法式を保存できる石は、強度により保存できる情報量が異なる。

 解呪の式の保存だけであれば比較的安価な水晶でも可能だが、戦闘に扱えるような魔法式を保存できる石は非常に高価で、またたとえ硬度の低い石であろうとも、魔法式を保存できると認められた場合、庶民が三カ月働いてやっと小さいものを買えるというほどに価格が跳ね上がる。
 このこともあり、魔法を使える庶民の騎士団への入団を望む者は多い。

 何故なら騎士団では、剣の腕だけでなく、魔法を使えることが高く評価されており、国を守る騎士として立派に働けるよう、入団した際には式を保存できる石が備品として貸し出されるからだ。
 金剛石の指輪――しかも、随分と大きい。
 公爵令嬢に相応しいその指輪に、ローズはあらゆる属性の魔法式を書き込んでいく。

「でも、なんで指輪は壊れたんですかね……? 普通壊れませんよね? それにあの魔法……いくらなんでも強すぎたし……」

 アルフレッドは、うーんと考えこんだ。
 彼の疑問点については、ローズも同意見だった。
 石は普通壊れるものではない。それに『あの魔法』は、普通ではありえないものだった。
 魔王の力を跳ね除けることができるのは、光の聖女の『加護』のみであるはずなのだ。

「きっとローズ様の魔力に石が耐えられなかったんですよ!」
 考えた結果、アルフレッドはその結論に至ったらしい。

「そうだ! ローズ様、魔力をはかりましょう!」
 アルフレッドは元気よく言った。
「え? でもはかるにしたって測定器……」 

 ローズは苦笑いして断ろうとした。
 石が魔力のせいで壊れることはありえないから、はかる理由はない。
 けれど背後からした声に、ローズは逆らう事が出来なかった。

「測定機ならここにある」
 何故持っている。
 少年はさっと懐からローズに測定器を差し出した。
 生温かかった。



「こんなに光っているの、初めて見ました」
 ローズは測定器に触れ、魔力を流し込む。
「……全属性に適性だと、こんなふうに光るんですね!」
 すべての属性に適正を持つ――ローズの魔力を表すように、測定器は虹色に輝いていた。

「魔力を測るのは一年ぶりだけど……なんだか前より光が強い? 気がする」
 ただその光が、いつもより強い気がして、ローズは首を傾げた。

「十五歳の魔力測定ですか?」
「そう。確かあの時は、属性の適性については全てにあったけれど、魔力自体はそこまで高くないと結果が出て……」
「ローズ様のそこまでって普通の人からしたら高そうですけどね」

 ローズは自分に厳しいため、自己評価の基準も他人より厳しい。
 それは確かだが、ローズはやはり目の前の結果が不思議でならなかった。
 魔力は、通常一五歳でおおよそ決定するといわれている。
 魔力を貯蔵するための器が一五歳で固定され、回復量もあまり変わらないというのが定説だ。
 ローズは現在一六歳。
 魔力の測定は一五歳の時に行い、全属性に適正はあり魔力は強いが、最高レベルに及ばない――そう結果が出たはずなのに。

『測定不能』

「え?」
 本来数字を出すはずの測定器は、今はその結果を文字として表示していた。

「今までは、こんなことは……」
 ローズは試しにもう一度魔力を流し込んで、測定を試みる。
 けれど何度やっても、『測定不能』の文字。

「壊れたんですかね?」
 アルフレッドも首を傾げていた。
 当然だ。『測定不能』の魔力を持つ人間なんて、歴史の本にだって数えるほどしか登場しない。

「……何を騒いでいる?」
 頭を悩ませていると、静かな声が聞こえてローズは振り返った。

「――ユーリ」
「ローズ様」
 ユーリは、ベアトリーチェに言われたようにローズに戦場に出ることをやめるよう伝えるつもりだったが、ローズを前にすると言葉を紡ぐことができなかった。

「実は、測定器の調子がおかしくて……」
「……故障、でしょうか?」
 ユーリは測定器に手を伸ばした。
 ローズとユーリの手と手が触れる。

「……っ!」
「ユーリ、そのまま魔力をはかってください」
 ユーリは手を戻そうとしたが、ローズに自分の上に手が重ねられていては動けなかった。

「壊れてはいないようですね」
「……そ、そうですか」

 ぱっとローズはユーリから手を離した。ユーリの声は明らかに動揺していた。

「これまでは、こんなことは無かったんですが……どうして、突然こんな結果に?」
 ローズは眉を寄せた。

「……何かおかしなことでもあったのですか?」
 事態が理解出来ないユーリは尋ねる。

「ええ。ユーリも、見ていてください」
 ローズはそう言うと、再び魔力を流し込んだ。
 すると測定器は、再び『測定不能』の文字を表示した。

「これは……確かに、おかしいですね」
 ユーリは文字に触れた。
 自分の魔力は正常にはかることが出来たのに、何故彼女のものだけこのような結果が出るのか理解出来ない。

「体に違和感などは?」
「わかりません」
 ローズは首を振った。

「ただ今は、いつもより少しだけ――胸が、熱く感じます」
 確かによく見れば、ローズの顔はほんの少し赤く見えた。ユーリの顔に熱が集まる。
 ユーリはローズから視線を反らして、改めて尋ねた。

「最近変わったことは何かありましたか?」
「そうですね……」
 ローズは顎に手を当てて考え込む。
 特にこれといったことはなかったはずだ。――ただ。

「指輪が壊れたことくらいでしょうか?」

 指輪を破壊した、ということ以外。
 けれど指輪が壊れたことで、ローズの魔力が上がったというのは考えづらい。
 石が式を保存するものでしかないならば、魔力に影響が出ることはありえないからだ。
 魔力は通常一五歳で固定される。急激な変化はおかしい。ならばローズの魔力は、昔から多かったということだろうか? 

 ただこれまでの測定値が間違いだったと仮定した場合、新たな疑問が生まれてしまう。
 ローズが以前から測定不能というほどの魔力を誇っていたなら、これまでのローズの魔法の威力が弱すぎる。
 となると、ローズの魔力は本来測定不能であったにもかかわらず、昨日までは何らかの理由によって能力が制限されていたということになる。
 ――これは一体どういうことだ?   
 誰もが、その理由を口に出来ずにいた時。

「あっ、あの! ローズ様!」
 聞き覚えのある可愛らしい声が聞こえて、ローズは驚いて振り返った。
 どうして彼女がここにいるのか。

「……アカリ様?」

 アカリ・ナナセ――『光の聖女』が。
「昨日は、本当にありがとうございました。ローズ様が守ってくれなかったら、私は死んでいました」
 訓練場にやって来たアカリは、そう言うと深々と頭を下げた。

「頭を上げてください。昨日のことはこれまでなかった事態だったということですし、もともと私ではなくユーリがお守りするべきでしたから」
「……申し訳ございません。反省しております」
 さらりとローズに失態を指摘されたユーリは、少し落ち込みつつ頭を下げた。

「アカリ様。こちらこそ、申し訳ございませんでした。ユーリの幼馴染として私からも謝罪いたします」
 続いてローズも謝罪する。
 これではどちらが立場が上かわからない。
 ローズにとってユーリは、ミリアの従妹であり自分の幼馴染。そして公爵家の庇護下の人間という意識は、ローズの中に少なからず存在していた。

「いっいえ! か、顔を上げてください!」
 思いがけずローズに頭を下げられ、アカリは動揺した。

「――それに。そもそも、私が力を使いこなせないのが原因なので……。沢山騎士団の方にも迷惑をかけてしまって、訓練させてもらってるのに。……全然、上手くならなくて」

 しょんぼりと顔を曇らせるアカリは、昨日自分の手を振り払った少女とは、ローズはとても思えなかった。
 ローズはそんな彼女を見て、複雑な気分になった。
 ――『彼女』という人間がわからない。

「ローズ様は本当に強いんですね」
「そんなことはありませんよ」
 一生懸命笑顔を作って自分に話しかけるアカリに、ローズは笑顔を浮かべて謙遜した。
 けれどそんなローズもーーアカリの『お願い』には、流石に顔を強張らせた。

「あ、あの! もし、よければ。私に、魔法を教えてくださいませんか?」
「……え?」
 ローズは唾を飲み込んだ。

「――……私が貴方に、ですか?」
「は、はい! 出来れば、お願いしたいなって。私、聞いたんです。魔法の属性は、その人間の心に由来する。この国で光属性に適性があり、強い魔力をお持ちなのはローズ様のみと話を聞きました。だから……」

「……そう、ですね……」
 アカリが魔法の使い方を覚えれば、魔王を討伐できる確率は格段に上がる。
 しかし、それは――……。
 自分から婚約者を奪った相手に、助力することに等しい。
 ローズは目を伏せた。国の為には、どう行動することが最善なのかを考える。

「……わかりました。私でよければ」
 思考の結果、ローズは彼女に歩み寄ることにした。
 自分の心の痛みなんて、彼女が与えてくれる力の可能性の前には、些細なことに過ぎない。

「本当ですか! ありがとうございます!」
 表情を明るくするアカリを見て、ユーリはローズに耳打ちした。

「ローズ様、いいんですか? 相手はあの『光の聖女』なのですよ?」
「教える相手が私の他に居ないのであれば、私が教えるほかないでしょう」
 ――それはそうだが。
 しかしだからといって、自分が原因で婚約破棄された相手にわざわざ頼むなんて、何か罠があるとしかユーリは思えなかった。
 やはり光の聖女は、ローズを傷付ける人間らしい。
 無邪気なアカリの笑顔が、ユーリの勘に障った。

「ユーリ」
「……はい」
「怖い顔をしないでください。私は大丈夫ですから」
「はい……」
 ユーリは自分に微笑みかけるローズが無理をしているように見えたが、大丈夫といわれてはそれ以上何も言えず、ユーリは唇を引き結んだ。



 ローズによるアカリへの集中講義は、場所を移して行われた。
 青空教室よろしく地面に座る生徒のアカリと、立って講師を務めるローズ。
 二人の関係を考えれば、誰がどう見ても修羅場だったが、ローズの口調は穏やかだった。

「アカリ様にまずお伝えしたいことがあります。貴方に身に着けてほしい魔法についてですが――光魔法は、そもそも『祈り』です」
「祈り?」

 ローズはアカリの前に手を差し出すと、もう片方の手で石に触れ、静かに目を閉じた。
 すると彼女の手からきらきらとした粒子が現れ、やがて大きな光となった。
 アカリはローズに促され、光に手を伸ばした。

「温かい?」

 アカリは驚いた。
 自分の不完全な魔法では意識したことが無かったが、ローズによる完成された魔法は、人肌程度の熱を帯びていたのだ。

「……光魔法は、熱を持つ魔法なのです。光魔法は温かく、闇の魔法は冷たい」
「そうなんですね……。魔王の近くに行くと寒く感じるのは、もしかしてそれが原因ですか……?」

 アカリは昨日の出来事を思い出し、体を震わせた。
 ローズはそんなアカリを見て、やはりと思った。
 彼女が『加護』の力が使えず、魔法のコントロールが苦手なのは、彼女の心に問題があるらしい。

「そうとも言えますし、違うとも言えます。確かに普通の人間であっても、闇魔法に冷たさを感じます。ただ魔王を前に強く寒さを感じるのは、自分に影響を及ぼす存在に過剰に反応してしまう性質を持つ人間だけです。そしてこの繊細さこそが、光属性の人間の特徴でもあります」

「繊細、さ……?」
 アカリは首を傾げた。ローズは話を続けた。

「そもそも光属性は、他の魔法とは全く異なるところに適性が求められます。光魔法は、本質的な意味では直接的な攻撃を与えることはできず、ただ祈ることしか出来ない」
「……それじゃあ、何も出来ない、ということですか?」
「まあ、そうですね。目の前で仲間が必死に戦い死んだとしても、光属性は祈りを捧げることしか出来ません」
 淡々と話すローズに、アカリはぎゅっと拳を握りしめる。

「ただそれは、決して不幸なことではないのです」
 アカリの変化に気付き、ローズは口調を和らげた。

「光属性の適性を持つ人間には、その人間にだけにしか出来ないことがある。誰かの痛みを自分の痛みのように感じる心、その繊細さ。それが、光属性の適性者に求められるものなのです。故に相手を守りたいと思うこと。相手を思い、慈しむ。その心が、誰かを守る力になるなら、その時祈りは自分だけのものではなく、誰かに影響を与える力になる。それは、共に戦うことと等しい。そのことを理解することが、私は光魔法を使う人間にとって、なによりも大切なことだと思っています」

「相手を思う……」
 アカリは、ぽつり呟く。
 そして自分の手を彼女は見つめた。アカリの手には、僅かに光の粒子が纏っていた。けれどそれは纏まることなく、空中で霧散する。
 アカリは肩を落とした。そんなアカリに、ローズは尋ねた。

「アカリ様は、この国は――世界はお好きですか?」
「はい」
 アカリの返事は、ローズが思っていたよりずっとはやかった。

「――私は、この国が好きです」
「それは何故ですか?」
「……それは」
 アカリは光の失われた手を握りしめ、下を向いた。
 何か言いにくい理由でもあるんだろうか。ローズはそう思い、僅かに顔を曇らせる。
 その時二人の上空を飛ぶ鳥が地面に影を作って、顔を上げたアカリは目を細め、泣きそうな顔をして語り出した。

「私、ここにくるまでずっと――窓の向こう側に見える世界を、病室から眺めていました」

 アカリはそう言うと、上空を飛ぶ鳥に手を伸ばした。
 風属性を持たない彼女では、決して手の届かない空に向かって。

「私、昔から体が弱くて……母は私に沢山お話を聞かせてくれたんですが、その中に『青い鳥』という話があったんです」
 ローズは、アカリの話がよく分からなかった。
 架空の物語と彼女の過去に、一体何の繋がりがあるというのだろうか。

「『青い鳥』の――物語の主人公たちは、幸せの青い鳥を探して旅をします。苦労して青い鳥は捕まえたと思っても、結局失われてしまう。二人は青い鳥を捕まえることは出来ない。でも二人が旅を終えて目を覚ますと、家の中の鳥籠に青い鳥は居たという結末で話は幕を閉じるんです。『本当の幸せは近くにあったのだ』――それが、このお話のハッピーエンド。でも私は、その終わりが、苦しくてたまりませんでした」

 アカリは胸を押さえた。大きなはちみつ色の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。

「だって私はどこにもいけない。誰とも関われず、いつ死ぬかもわからない自分の人生に、一体なんの幸福があるっていうんだろうって。いつもどこかで、その気持ちが消えなくて。病室の外から聞こえる笑い声や、陽の光に、胸が苦しくなって仕方ありませんでした。私の青い鳥は、どこにもいない。私を想ってくれる家族が居ること。それがきっと、私の『近くの幸せ』。そのことを理解出来るのに、気持ちが消えなくて苦しかった。……私、ずっと、『普通の女の子』になりたかった。だから、本を読みました。違う世界に生きたいと、どこかでそう望んでしまっていた。でもそう思う自分に気付く度に、この想いは、私を想う家族への裏切りのように思えて、ずっと苦しくてたまらなかった」

 空を見上げるアカリの頬を、涙が伝う。

「ここに来て、前より体が強くなって。夢だった、普通の女の子のような生活が出来るようになりました。私が『光の聖女』だから。その力のおかげなんだそうです」

 アカリは手を下げると、服の袖で涙を拭った。

「元の世界に未練がないと言ったら嘘になります。家族は私を思ってくれていたでしょうし、そんな家族と会えないことは寂しいと思うのは確かです。でも今、こうやって過ごせることが、私は心から嬉しくて。そう思うと――この世界が、この国が、私はとても好きだなって思うんです。それに私、実は元の世界では火事で死んでしまって。もう私の戻る場所は、あの世界にはないから」

 アカリはローズに向かって、精一杯笑顔を作った。

「私、この世界が好きです。だから今の私は、せめてこの国のために、この世界の為に……『光の聖女』として、精一杯生きていきたい」

 まだ濡れた瞳。
 そこには確かに、希望や幸福を願う意思が宿っている。
 ローズはそんなアカリの瞳を見て、胸が痛むのを感じた。
 『この少女はきっと、自分の周りが言うような『悪女』ではないとローズには思えた。

「……貴方が光の聖女に選ばれたのは、貴方の過去があったからかもしれませんね」
「え?」

 リヒトのこともあって、自分は彼女のことを誤解していたのかもしれない――彼女の本質を見抜けなかったのは、ローズは自分の落ち度のようにも思えた。
 そしてそんな彼女に対して、これまでの自分は厳しすぎたかもしれないとも。

「魔法の属性は心の性質に、魔力の強さは心そのものに多く影響を受けるのです。痛みを感じ、それと戦いながら、必死に生きたいと思いながらも家族を思う心こそ、貴方が『光の聖女』として選ばれた理由なのかもしれません。他者に『加護』を与えるほどの祈りは、生きることに対して強い意思が無い限り不可能ですし……」

 『光の聖女』――そんな重要な存在が、何の理由もなく選ばれるはずが無かったのだ。
『この世界を守る『光の聖女』です。あっ貴方に言われなくても、私がこの国を守ります!』
 彼女の話の整合性は取れている。ローズはそう思った。
 確かに病弱な人間が、健康体として生きることが出来る世界を守りたいと思うのは、『光の聖女』として責任を果たしたいと思う理由足りうる。

 でもローズには、やはりアカリの考えがわからなかった。
 彼女もし、この世界に何の知識もなくある日突然異世界に招かれた少女で、かつこの世界を守りたいと思うならば、自分と敵対する理由が見当たらないからだ。
 けれど『なぜこれまで貴方は私を嫌っていたのですか』だなんて、ローズは直接聞くことは出来なかった。
 そこまでローズは強くない。

「その心を忘れなければ、きっと大丈夫です」
 ローズは本心を隠して、アカリに笑いかけた。
 ふわりと笑うローズに、アカリは目を見開く。
 公爵令嬢としての気品と知性。所作の美しさは、騎士というより絵本の中の王子に近い。

「……あ、あのっ!」
「はい?」
「あの……で、出来れば私のことは、アカリ、と呼んでくれませんか?」
 アカリは少し顔を赤くしてローズに言った。
「それは別に構いませんが……」
 ローズは少し動揺した。彼女の過去を知って考えを改めようとは思ったものの、距離がいきなり近すぎる。

「私、ずっと病院暮らしだったのであまり友達がいなくて……。よければ、名前の呼び方も変えたくて。私もローズ様のこと、ローズさんと呼んでもいいですか?」
「……構いませんが」
「あ、ありがとうございます!」
 ローズは完全にアカリの気迫に押されていた。

「私、ローズさんとお友達になりたいんです。これまでは、ちょっと怖かったんですけど、昨日守ってもらえて、今日相談にものってもらえて、もしかしたらローズさんは、私が思ってるよりずっと優しい人なんじゃないかって思って……」

 アカリの口調は早口だった。下を向くアカリの顔は真っ赤だった。
 怖かったと言われる理由は、やはり外見や言動のせいだろうかと、ローズは少し胸が痛んだ。
 本人を前に言うことではないともローズは思ったが、病院暮らしだったと言っていたし、そのせいで彼女は人と距離を図るのが苦手なのだろうかと思うと、強く責めることも出来ない。

 それにローズ自身、これまで心から友達と呼べる存在があまりいなかっただけに、アカリの語る友達という響きには惹かれるものがあった。
 けれど、心が痛むのは確かだった。

 朗らかに笑う彼女の瞳は少しタレ目がちで、人に優しい印象を与えることだろう。
 ――自分とは、違って。
 つい、そう思ってしまう。

 どんなにこれからのアカリが自分との距離を変えようと思っても、ローズがアカリのせいで婚約破棄された事実は消えない。
 ただ同時に、ローズは不思議と、今はアカリ自身を嫌いだとは思えなかった。
 自分とは全く違う少女。外見も、これまで生きた世界も違うけれど、もしこういう出会い方をしなかったら、彼女と自分は普通に友人になれたような気がした。

 ――あんなことさえなかったら……。
 そう思うと、やはり少し悲しくなる。
 出会い方が変わるだけで、関係性も変わってしまうなんて。神様の悪戯で、傷つけあうことは悲しい。
 ローズは唇を噛んだ。彼女と話をしてみたいとは思う。でも心を開く勇気が、今のローズにはなかった。
 そんな時、ふと彼女の髪に花の綿毛が付いているのに気づいて、ローズは彼女へ手を伸ばした。

「アカリ。髪に――」
「? はい?」

 アカリはきょとんとした表情でローズを見つめていた。
 驚いた表情は、野に咲く花のように可愛らしい。
 ローズが薔薇なら、アカリは野に咲く一輪の花の様な魅力がある。
 親しみやすく、優しく、柔らかい。そんなふうに思わせる。

 ――ああやっぱり、最初から出会いをやり直したい。
 そうすれば、もしかしたら自分と彼女は……。ローズは目を細めた。恋敵だといっても、自分にはない長所を持つと思う人間を、ローズは否定出来なかった。
 皮肉なことにその心こそが、ローズに光属性への適性がある証拠だった。
 けれどローズのこの行動は、思わぬ誤解を生んだらしかった。

「何をしている!」
 突然響き渡った怒鳴り声に、ローズは目を瞬かせた。
 何故彼がここに居るのか――ローズは動くことが出来なかった。
 ローズは微かに震える声で呼んだ。

「――……リヒト、様?」

 かつての自分の、婚約者の名を。

「……リヒト様?」

 アカリは驚いた様子でリヒトの名を呼んだ。
 ローズはそこに少し驚いた。
 ――まさか彼女は、リヒトに報告なしに来たのだろうか?
 『光の聖女』として行動が制限されていると思っていたローズは、リヒトに断りの一つくらいは入れているものと思っていた。
 そういえば護衛も居なかったが、まさか彼女は一人でここまで来たというんだろうか?
 今になって、ローズはアカリの不審な点に気付いて混乱した。

「アカリから離れろ!」
 リヒトは、アカリの髪に付いた綿毛をとろうとしただけのローズを怒鳴りつけながら歩く。
 ローズは動揺しながらも、必死に顔には出さないよう自制した。

「まさかまたアカリに手を出そうとしているなんて……。騎士になったと聞いたから――変わったと思っていたが勘違いだったようだな」

 リヒトはそう言うと、ローズを睨み付けた。

「お前と婚約破棄したっていうのに、父上はアカリとの婚約を認めてくださらない。ローズ。お前、裏で何か手を引いているんじゃないのか?」
「そんなことをするわけがないでしょう」
 身に覚えのない罪の疑惑を着せられて、ローズは流石に反論した。

「だが現に今だって、アカリの頬を叩こうとしていたんだろう?」
「していません」
 ローズは即答した。

「リヒト様。貴方が何を勘違いし、アカリと恋仲だろうがなかろうが、今の私にはどうでもよいことなのです。貴方方の婚約が認められないことに、私は何の関係もありませんし興味もありません」

 ――どうしてこの人は、いつもずれたことばかり言うんだろう。
 ローズは少し頭にきて、語調強めにリヒトに言った。

「な……!」
 ローズは、ぷいと顔を背けた。
「決闘だ!」
 すると何を思ったか、リヒトはローズに決闘を申し込んだ。

「……は?」
 離れた場所で二人を見守っていたユーリは、聞こえた言葉が理解出来ず声を漏らした。
 勝敗など戦う前にわかっているというのに、戦う理由がわからない。

「俺と決闘しろ! ローズ・クロサイト!」
「……リヒト様、一体何のために決闘が必要だというのですか?」

 ユーリは思わずリヒトに尋ねていた。
 幼馴染であるユーリは、幼い頃のリヒトの力量を知っている。そして、いつもリヒトを圧倒していたローズの能力も。
 負けるとわかっているのにわざわざ決闘を挑む? ユーリにはリヒトの考えが理解出来なかった。

「かしこまりました」
「ローズ様!?」
 しかしローズは一つ溜息を吐いて、リヒトの要求を受け入れた。
 ユーリは思わずローズの名を叫んでいた。ユーリの声が裏返る。

「ユーリ」
 ローズは、自分の前に出ようとするユーリを手で制した。
「手出しは無用です」
 ゆっくりと目を瞑り、そして静かに告げる。

「アカリと一緒に下がってください」
「……かしこまりました」

 騎士ではなく公爵令嬢。
 今のローズに逆らうことが出来ず、ユーリはローズに言われるがままアカリを誘導した。
 光の聖女であるアカリを、私闘に巻き込むわけにはいかない。
 本来であればこの場所で戦うこと自体騎士団にとって迷惑な話だったが、幼馴染とはいえ王子相手に「迷惑だから喧嘩はやめてください」とは、ユーリは言えなかった。

 ローズは二人が離れたのを確認してから、新調したばかりの指輪に触れた。
 ユーリ相手ならまだしも、リヒト相手に剣で戦うわけにはいかない。
 ――怪我をさせるわけにもいかないし、そうなると無難なのは水魔法でしょうか……?

「本気で来い!」
 そんなことを考えているとリヒトの叫び声が聞こえて、彼女は我に返った。
「わかりました」
「よし!」
 ローズは首肯した。
 その返事に満足したらしいリヒトは、赤い石の嵌った指輪に触れて、水魔法を発動させた。

 ――だが。
 ちょろ。ちょろろろろ……。
 リヒトの水魔法は、子どもがお風呂で遊ぶ水鉄砲レベルの勢いもなかった。
 水は前に進むことなく、そのまま下へと滴り落ちる。

「……リヒト様」
 同じく水魔法を使おうとしていたローズだったが、余りのお粗末さに思わず尋ねてしまう。

「ふざけていらっしゃるのですか?」
 これでは決闘も何も、お話にならない。

「なわけないだろ!」
 ローズの目には、リヒトは焦っているように見えた。

「い、今のは……失敗しただけだ」
 どもりながらリヒトは言う。
 確かにローズの知る今の彼の実力であれば、この威力はおかしい。
 ちょろ。ちょろろろろ……。
 しかし再び彼が発動した魔法は、同じように滴り落ちるだけだった。

「…………」
 本人も原因がわからないのか呆然としている。

「リヒト様」
 ローズは静かにリヒトに語り掛けた。
「本気を出した方がよろしいですか?」
「あっ、当たり前だ!」
 リヒトは反射的にそう返していた。

「本気で来い!」
 そして、なんの攻撃にもならない魔法しか使えない手を、ローズへと向けた。
 確かに『本気で来い』という相手に本気を出さないのは、失礼に当たるかもしれない。
 でも相手は――あのリヒトなのだ。
 ローズは静かに目を伏せて、左下へと視線を向けた。
 ローズの記憶の中で、幼い誰かが一人で泣いている。

『僕はどうして、兄上のように魔法が使えないんだろう。毎日、毎日、こんなに頑張ってるのに。どうして、僕は、僕には……』

 幼いローズは、ずっと木に隠れて彼の姿を見ていた。声を掛けていいかわからずに、一輪の花を背に隠して。
 結局差し出されずに枯れた花を――その最後を思い出して、かつて花を握りしめた手に、ぎゅっとローズは力を込めた。
 リヒト相手に本気の魔法をぶつけることは、ローズには出来なかった。たとえそれを、リヒトに侮辱だと罵られても。
 ローズは力を抜いて魔法を使うことにした。
 原因はわからないが、今彼は魔法を上手く使えないらしいし、頭を冷やすくらいの水で攻撃するだけならば大丈夫だろうとーーそう思って。

「え?」
 しかし、『測定不能』という値をはじき出したばかりのローズは、今の自分の力を制御出来ていなかった。
 バケツ一杯分の威力をイメージした魔法は、濁流となってリヒトを攻撃する魔法へと変わる。

 ――違う。私は、こんな魔法は望んでいない!

「ローズ様!」
 ユーリは、ローズの行動を理解して彼女の名を叫んだ。
 ローズは風魔法で一気に加速すると、リヒトに近付いた。
 本来であれば、発動された魔法に追いつくことは不可能だ。
 けれど今のローズには、力を抑えた魔法に追いつくことは可能だった。

「――リヒト、さま……」
 突然自分に向けられた魔法に、尻餅をついて倒れ込んでいたリヒトは、目を開けた時に目の前にあった光景に、呆然と目を見開いた。
 濡れた髪から頬を伝う。その滴は、リヒトへと降りかかる。
 リヒトには、まるで彼女が泣いているかのように見えた。

「……大丈夫、ですか?」
 ローズは自ら放った水魔法を受け、リヒトを庇った。

「……なん、で……」
 自分を庇ったがためにびしょ濡れになった彼女を見て、リヒトは思わずそう漏らしていた。
 声が震える。
「なん、で、こんな……」
 水滴はリヒトの頬に落ち、その滴もまた、涙のように彼の頬を流れる。

「……申し訳ございません。力の制御を誤ってしまったようです」
 ローズは、濁流を受けた背中の痛みを隠すために、何でもないふりをした。
 光魔法を使って治癒すればいいだけのことだが、衝撃の痛みは心に残る。

「貴方が。――……貴方が、ご無事でよかった」
 ほっと息を吐く。びしょ濡れのローズが、リヒトを気遣うような声で言う。

「……っ!」
 リヒトは息を飲んだ。ローズの表情に、ずきりと胸が痛む。
 けれどどこかで頭が冷えていく彼も居て、リヒトはあることに気付いて唇を噛んだ。
 冷静になって考えれば、『貴方は弱いから庇いました』と言われたようなものだ。それも、決闘を挑んだ相手自身に。

「お、俺の上からおりろ!」
「……はい」
 押し倒すような状態で庇われていたリヒトは、声を荒げて叫んだ。
 ローズは、リヒトにばれないよう光魔法で傷を癒しながら、ゆっくりと立ち上がった。

「礼は言わないからな! 元々、お前のせいなんだから……」
 治癒したばかりの体には違和感が残る。
 ローズが他に体に異常が無いか確認していると、リヒトは少し高めの声でローズを責めた。
「はい」

 どうやら『決闘(?)』は終わったようだ。
 事態を目撃していた若い騎士の一人が、ユーリにタオルを渡した。
 ユーリは彼に礼を言ってそれを受け取ると、タオルを手にローズへと駆け寄った。

「ローズ様……こんな危険なこと、もうなさらないでください」
「……すいません。ユーリ」

 見目美しいユーリは、ローズと並ぶと一枚の絵画のようだった。
 まるで恋人のように、ユーリは優しい手つきでローズの髪を拭いた。
 その光景を見て、リヒトは舌打ちして低い声で言った。

「……騎士団も落ちたものだな」
 その声音は、氷のように冷たかった。
「風紀が乱れているんじゃないか? こんなことで、国が守れると思ったら大間違いだ」

「リヒト様!」
 ユーリは、思わず彼の名を叫んでいた。
 どうしてこの方は、ローズ様を傷つけることばかり仰るのか――反論しようとしたものの、ローズに濡れた手で腕を掴まれ、ユーリは硬直した。

「いいのです。ユーリ、構わないで」
 ローズは静かに首を振った。
「ローズ様……」
 ユーリは、困ったように笑うローズを見て眉を下げた。
 そしてあることを思い付き、行動に移すことにした。
 ――もう貴方に、ローズ様を傷付けることは許さない。
 その決意も込めて。

「ローズ様、服を着替えましょう」
「……え? あ……あの、ユーリ?」

 ユーリはそう言うと、ローズを抱き上げた。
 ローズは驚いて、思わずユーリの顔を見た。
 金色の瞳は、ローズのために柔らかな笑みを作っていた。
 ローズの頬が、微かに朱色に染まる。
 子どものように抱き上げられて笑われると照れてしまう。
 リヒトは二人を見て顔を顰めると、ローズたちから背を向けた。

「聖女様」
 ユーリは静かな声でアカリを呼んだ。

「はっはい!」
「申し訳ございません。今日はもう、お引き取り願えますか?」
「……わかりました。今日はありがとうございました」
 アカリはローズたちに一礼すると、リヒトを追いかけていった。



 びしょ濡れになったローズは、結局公爵邸に帰宅することになった。
 騎士団に籍をおいている騎士とはいえ、ローズは公爵令嬢だ。今回の説明もあり、騎士団長であるユーリがローズを送ることになった。
 様子を見ていたベアトリーチェは、一人首を傾げていた。

「――やはり、妙ですね」
 本を手に思案する。そのさまは、とても彼に似合っていた。

「リヒト王子は、あそこまでは力が弱くなかった筈。ローズ様も、力の制御が出来なくなっているのは何故でしょう……?」
 僅かな間。彼は思考を巡らせる。

「熟考の価値がありそうです」
 ベアトリーチェはそう言うと、つかつかと部屋の中を歩いて、読んでいた本を戻した。
 そしてふと、あることに気付く。

「そういえば」
 彼の中でいくつものピースが結ばれていく。
 正解の、一枚の絵を完成させるために。

「聖女様とリヒト様は式をお持ちだとしても、ローズ様はなぜ騎士団の中に入ることができたのでしょうか……」
 解錠のための式は、普通の魔法とは異なり、配布した本人しか扱えないよう魔力検証が同時に行われる。

 魔力は、誰一人として同じ人間はいない。
 心臓に宿るという魂から送り出される、血液の中に交じる魔力。人の目には見えないそれが合致しければ、鍵は開かないはずなのに。

「彼女から申請はなかったですし……」
 自分が不在の間に行われた試験。
 誰かが彼女を中に招き入れたというのは考えられないし、第一記録が残る。
 許可なく部外者を招き入れるなんて、騎士団を除籍されてもおかしくない愚行を侵すものが居るとは、ベアトリーチェは思えなかった。

「記録について、一度調べる必要があるようですね」

 ベアトリーチェはそう言うと、カーテンを閉めて部屋を出た。

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 ローズが公爵家につくと、ミリアがすぐにローズを迎え入れてくれた。
 ユーリはローズを送る前、今回の出来事のを概要を、紙の鳥を使った手紙でミリアに伝えていたため、スムーズに事は運んだ。
 ミリアはローズの為に湯を沸かしていた。

「お嬢様、このままでは風邪を引いてしまいます。一度お湯につかってください」
「ありがとう、ミリア」
 ローズは礼を言って浴室へと向かった。
 結果、残されたユーリとミリアは二人っきりになった。

 一応美形で通っているユーリである。
 普通の淑女ならば、黄色い声の一つでも上げるのが普通の反応なのだが、ユーリの魅力は従妹のミリアには通じない。

「ユーリ・セルジェスカ」
 明らかに怒っている。
 そんな声で名を呼ばれ、ユーリは震えた。

「お嬢様と彼女を引き合わせましたね? どうしてちゃんと見ていなかったのです。お嬢様がまたあの方に傷つけられる可能性に、気付いていなかったとは言わせませんよ」

 自分と同じ金色の瞳がギラリと光る。ユーリは僅かに視線を逸らした。

「……好意的な顔をしていても、どこまでが本心か。王子の心を奪い婚約破棄させたくせに、自分は王子とは婚約出来ていないところは、失笑に値しますが」
「ミリアは本当、ローズ様のことになると容赦がないな」

 小馬鹿にしたように嘲笑う従妹に、ユーリは苦笑いした。

「当然です。お嬢様は私の大切な主人ですから」
 ミリアは静かに返す。
 ユーリは、言いたいことを言って少し落ち着いたらしい従妹の言葉に、感情を逆なでしないよう気を遣いながら同意した。

「まあ……俺も正直、よくわからない。彼女の言葉が本当かどうか。こんな時、あの方が居て下さったら……」
 手紙には、アカリがローズに話していた内容も大まかには書かれていた。ミリアはユーリが飛ばした手紙を見て顔を歪めた。

「貴方が言いたいことは分かります。けれど、叶わぬことを願ってもどうしようもないことでしょう?」
 ミリアの表情は暗い。
「……『真実を見通す目を持つ人間』なんて、そうそう生まれるものではありません」
「わかってる」

 ユーリはそう言うと、窓の外を眺めた。かつて共に過ごした幼馴染たちを思って。
 そして彼はふと、あることを思い出した。
 アカリが魔王討伐の前に、ローズと対峙した後呟いた言葉を。

「……そういえば以前、彼女が一つ気になることを言っていた」
「? 何です?」

 風に飛ばされ蒔いた種は、知らない場所で芽を出すものだ。
 それは微かに心に抱いた悪意も同じように。
 前に進もうと思っても、変わろうと思っても――過去は変えられないと、忘れた頃に人に告げる。

「ローズ様のことを、確か――『悪役令嬢』と」

「――何ですって?」
 ユーリの何気ない一言は、ミリアの何かに触れるものがあったらしい。

「み、ミリア……?」
 先程までの穏やかな彼女はどこへやら。ミリアは血が滲むほど唇を噛んで、怒りを顕わにしていた。

 どごお!
 ミリアは拳で壁に押し当てた。
 壁は、パラパラと粒子を落とす。

「やはりローズ様にあの女を近づけるべきじゃない。お嬢様をこれ以上傷つけさせない」
 先程まで輝いていた筈の瞳は、どこか陰りを帯びている。

「『光の聖女』がなんだというのです? あんな役立たず、さっさと見捨てて別の人間を探すべきではないのですか? 力が使えないくせに周りに頼ってばかりで。泣けば何もかもが上手くいくとでも思っているんでしょう。そんな幼稚な人間が、世界を救えるわけがない」

「……」
「どうせ元の世界でも、そうやって誰かに頼って生きてきたのでしょう? 自分では何もせずに、与えられるものだけを享受する。自分の為に誰かが動くことが当たり前で、ローズ様の命を危険に晒したにもかかわらず、よくのこのこと顔を出して魔法を教わろうなどと。自分は特別だとでも思っているのでしょうか。馬鹿馬鹿しい。あんな小娘の一人や二人、殺す事なんて片手でもできる」

「……ミリア」
 ユーリは、従妹の名前を呼んで彼女の言葉を静止させた。
 殺すなんて言葉を、自分と同じ瞳を持つ人間から聞くなんて、彼には受け入れられなかった。

「――『光の聖女』が死ねば、新しい『光の聖女』が選ばれる。彼女じゃなくてもいいと、貴方が告げないのは何故ですか」

 しかし止めたことで、ミリアは責める標的を今度はユーリに変えた。突然話を振られて、ユーリは反応に困った。
 とてもすぐに答えられる質問ではない。

「自分は特別だと立場に甘んじるから、成長も無いのではないのですか」
「…………それでは、脅しになるだろう……」

 ユーリは甘い。それは彼の優しい性格のせいで、短所であり長所でもある。ミリアは従妹でユーリを理解はしている。でも、優しいばかりでは何も変えられないのも事実なのだ。

「ではこれからも、お嬢様が傷つけられてもいいと言うのですか!?」
 ミリアは声を荒げた。

「替えの効く人間とお嬢様なら、どちらを選ぶべきは明白でしょう? もしこれからも――彼女がお嬢様を傷付けるようなら。魔王と戦う力を使うことが出来ないなら……!」
 ミリアは拳を握りしめた。冷ややかな声で言う。

「――私が、この手で彼女を排除します」
 ユーリはごくりと唾を飲んだ。
 ミリアは本気だ。ユーリには、それがわかってしまう。
「私は、お嬢様を傷付けるものを許さない。たとえそれが、誰に咎められることであっても」

『貴方の手は、人を守ることが出来る手なのね』

 ミリアは自分の手を見つめた。
 かつて自分のそう言って笑いかけてくれた幼い主のことを、ミリアは思い出していた。
 薔薇の棘は幼い時は柔らかいと、ミリアは昔誰からか聞いたことがある。そして薔薇はまだ幼い時に棘を抜かれては、ずっと傷跡として残り続けると。
 ローズ。
 ミリアの主人である少女の名前は、薔薇だ。幼い時はどこか無防備だったが、今は気高く花へと成長した。
 しかしそれでも、傷つきやすい子ども時代からローズを守り続けるミリアにとって、ローズの印象はこどものころと変わっていない。
 ローズの心に傷を残すような人間を、ミリアは許せない。

 ローズは幼い頃、瓦礫に埋もれて死にかけたことがある。 
 それを助けたのは、まだ『お嬢様』に出会ったばかりのミリアだった。あどけない顔をしたローズは、傷だらけになったミリアの手を包んで言った。

『私を、助けてくれてありがとう』

 温かな光がミリアの体を覆う。
 ローズは、自分を守るために傷付いたミリアを光魔法で治した。
 身体強化系の魔法は、男であれば喜ばれるが、女である場合世間の目は厳しい。
 ミリアは由緒あるアルグノーベン家の生まれだが、生まれた時に男だったら良かったのにと、ずっと周りから言われて育った。
 ミリアにとってローズは、自分が初めて守った命で、居場所を与えてくれた恩人だった。

「お嬢様は、昔からお優しい。だからこそ、それに付け入る人間を、私は許しません。貴方が彼女を罰さないなら、私がこの手で罰を下す」

 そもそもミリアにとっては、アカリがローズよりも光魔法の潜在能力が優れているということ自体許せないことだった。
 ――お嬢様より彼女の方が、優しい人間だとでも? ……そんなことは有り得ない。
 ミリアは赤い林檎を一つ手に取って、強く握りしめた。
 林檎は粉砕され、ぽとぼとという音を立てて欠片は床に落ちていく。

「私は、お嬢様をお守りするために居るのですから」

 ミリアは地面に落ちた林檎の欠片を冷たく見下ろしてから、静かに口端を吊り上げた。