マミの目には、大粒の涙が浮かんでいた。自分の鈍さが、この事態を招いたことによる後悔が、溢れかえりそうだった。
 幸が死んでしまったらどうしよう。そんな恐怖と不安に満ちた瞳が、私を見る。

 「やっぱり樹里亜だったんだね」

 答え合わせを終えた私は、深くなった眉間の皺を、指で広げた。そして、長く重い息を吐く。
 樹里亜ならマミの家に上がって、睡眠薬を盛ることも難なく出来る。
 それに気付いて尚、犯人は彼女ではないと思いたかったが——。
 大和さんの言っていたことを、思い出したのだ。

 『5月半ばくらいから、家を売ることに同意するよう頼んでいた』と。
 大和さんに相談したのは、夏休み中ということだ。一人になった病室で、犯人が誰か考えている時、それに気付くべきだった。
 6月1日以前から、幸に殺意を抱いていたと考えられる人物は、私の知っている範囲では、樹里亜だけだった。

 「何でなの? 何で樹里亜先輩は、そんな怖いことをしようと思ったの? わたしが今まで見てた先輩は、嘘だったのかな……?」

 布団に覆われているマミの身体は見えなかったけれど、きっと痙攣したように、震えているのだろう。
 長い間慕っていた人の、恐ろしい一面を見ただけでなく、自分自身が殺されそうになったのだ。
 一生消えないレベルのトラウマかもしれない。

 マミは、言葉を出すのも苦労するように、抑揚の定まらない調子で、訴える。

 「今だにあの場面が――先輩に殴られた瞬間が、フラッシュバックして……しんどくてっ……!」

 私はたまらず、彼女に駆け寄って震える身体を抱き締めたい、と思った。
 しかし、あることに思い当たり、すんでのところで思い留まる。
 そして、泣きじゃくる彼女に、静かに問うた。

 「あんたは樹里亜に、中学の時、幸にしたことを告白したんだよね?」

 鼻を啜りながら、マミは首だけをなんとか動かす。

 「すごく怒られて、『二度と人を陥れる真似はやめて』って言われたんじゃないの?」

 なのに、幸を取り巻いている問題を利用して――。また幸を都合よく使おうとした。
 私と八代だって、ストーカーが捕まえられるのではないか、と期待していた。マミの情報を頼りにしていた。
 樹里亜ほどではないが、マミだって私利私欲のために、他人を利用したじゃないか。
 立ち上がろうと浮かせた腰を、再び椅子におろす。

 私の叱責に、本人はきょとん、とした目を向けた。涙も一時的に引っ込んだようだった。

 「そんなこと言われてないよ? 確かに先輩は怒ったけど、軽い感じで、『暴走するのもほどほどにね』ってデコピンしてきただけだった」
 「え?」
 今度は私がきょとんとする番だった。
 「それ先輩が言ってたの?」
 「そうだけど……」
 「じゃあ、それはたぶん――悠に怪しまれないように先輩が考えた、好感度を上げるための嘘なんじゃないかな」
 「ふっ、あははっ……」
 「悠? 大丈夫?」

 乾いた笑いが出る。不可解な私の挙動に、マミが心配そうな声を上げる。

 「そっか。全部嘘、でたらめ、作り話だったんだね。私の見てきた樹里亜の態度は、すべからく」

 となると、幸が自分に依存しないで、自身の力で幸せを見つけられるように突き放した、というのも、お涙頂戴の作り話だったんだな。
 たいした女優であり、創作家だ。憤りの前に、感心がきてしまう。

 「うん。そうだね。先輩はずっとわたしたちを、騙してた。すごくショックだよ。わたしさ、もう立ち直れないかもしんない……」

 裏切られた、という悲壮感をたっぷり含ませた瞳から、雫が流れ落ち、真っ白な枕にポタリ、と染みを作る。

 「樹里亜先輩は、最低だよ……」
 力なく呟くマミ。
 私は、スッと立ち上がり、ベッドの上の泣き顔を、見下ろす。
 「同じでしょ」
 「え?」

 言葉の意味を図りかねているように、戸惑った声が返ってくる。

 「中学の時に、幸にしたことは、そういうことなんだよ。信じてた人にこっぴどく裏切られた気分が、よくわかったでしょう」
 「けどわたしは、殺そうとまで考えない!  全然違う、はず……」

 反論しようとしたマミだったが、だんだん情けない声音になっていく。

 「そりゃあ、やろうとしたことのえげつなさは、樹里亜の方がずっと上なんだろうけど――でも本質は同じでしょう。自分の欲のために、慕っていた人を裏切って、利用して、トラウマを植え付けたんだから」
 それも一生モノの。

 「だから樹里亜を最低だって言うなら、今までのあんたも最低なんだよ。自分がやったことが、返ってきたんだ」

 淡々と告げる私とは対照的に、マミは稲妻に打たれたような形相をしている。

 「わたし――わ、たし。そんな……」

 ワナワナと唇を震わせ、目を見開く彼女は、過去に犯した罪と、ようやく向き合おうとしているところだった。
 そうして、見られることを恐れるかのように――はたまた消え去りたい衝動に駆られたかのように、私とは反対方向に首を大きく動かした。

 「ごめん。今日は一人にさせて」
 「――わかった」

 椅子を畳んで、部屋の隅に戻す。
 病室を出る寸前、最後に彼女を振り返った。
 顔を背け続けるマミに、これはちゃんと伝えておかなければ、と話し掛ける。

 「回復したらさ、警察にも話してね。あと親御さんに元気な姿を見せてあげて。すごく心配してるはずだから」
 「うん」

 聞こえるか聞こえないかの声量で発せられた返答を確認して、病室の扉を完全に閉めた。
 穏やかな廊下の空気が、肌に伝わってくる。

 ……こちらの話をするどころじゃなくなってしまったな。

 理人君のことや、今のところ予想される樹里亜の動機について、説明するつもりだったのに。
 まあいい。全て解決した後に、知ることになっても問題ないだろう。
 とりあえず八代に、さっき聞いたことを、話しに行かなければ。

 どきどきと脈打つ胸に、そっと手を置く。
 軽く深呼吸した後、外へ向かって歩き出した。