やっぱりそのことだよね……。それが気になるのはわかるんだけど、順を追って話させてくれる?
……ありがとう。ええっと、まずはね――。
山田のことからかな。実はあれ、でたらめだったの。
そんな男子は、最初からいなかったんだ。そもそも存在しないんだから、ファミレスで待ってても、来るわけがなかったの。
山田の元友達、っていう子は、わたしの中学の時の友達で、頼み込んで演技をしてもらってたの。
わたしがそんなことした理由は、襟人さんと離れたくなかったから。
悠が、幸の家にお菓子を届けに来た時あったじゃん? あの日、悠が帰った後に樹里亜先輩にこっそり言われたの。
「悠ちゃんは、中学の時マミがあんなことした、本当の理由を知ってるよ。そして、それを幸や襟人に伝えるつもりでいる」
そんなことされたら、襟人さんともう会えなくなる。
そんなの嫌だ! ってなって、「どうすれば良いんですか」って先輩に縋りついたら、
「幸に最近付きまとっている人がいるの。その人物に心当たりがあるふりをすれば、悠ちゃんも真実を話すのを一旦保留にしてくれるんじゃないかな」
先輩の提案を聞いてわたしは、ケンちゃんのことを悠に話すことにした。
先輩は、「ボロが出そうになったら、私が助け船を出すよ」って、ケンちゃんについて誇張たっぷりに話してる間、そばについててくれた。
それでひとまず難は逃れたんだけど……ケンちゃんもシロだってわかっちゃった時に、今度こそどうしよう、って頭を抱えてたの。
ケンちゃんに辿り着くまでに、襟人さんをオトす気満々だったのに、全然手応えがなかった。暖簾に腕押し、って感じで……。今までの男子とはまったく違ってたから、すごく面食らった。
それでもワンチャンあるかも、なんて期待して、告白してみたの。
ケンちゃんと会った日の別れ際、家まで送ってくれた襟人さんにお礼を言った後、「ちょっとお話いいですか」って呼び止めたのね。
「わたし襟人さんのことが好きです。助けてもらった時から……。わたしと付き合ってください! お願いします!」
真っ直ぐに襟人さんを見つめると、彼は困ったような、申し訳なさそうな顔をした。
「俺、ずっと好きなやつがいるんだ。だからごめん」
そう言って軽く頭を下げてきた。
ずっと、って言葉が引っかかって、「幸ですか?」と反射的に訊いたら、「幸はただの幼馴染み」って微かに笑いながら、反論された。
「小学生の頃一回会っただけの奴に、ずっと惚れてるんだ」
自嘲するみたいに呟いた襟人さんの表情は、今まで見てきた中で、一番ドキッとした。
「一途ですね。ずっと思い続けてるなんて」
ちょっと馬鹿にするような口調になっちゃったかもしれない。
けど襟人さんは気付かなかったのか、幸せそうに続けた。
「実は最近、再会できたんだ。だからこのところ柄にもなく浮かれてて――そいつのことで頭がいっぱいなんだよ。だから折野とは付き合えない」
この時に、身を引くべきだったんだろうけど、わたしはどうしても諦めきれなかった。
わかりました、ってその日は別れておきながら、次の日に樹里亜先輩に相談したの。
そうしたらこう言われた。
「架空の怪しい男子をでっち上げて、また調査する時間を作れば? もうマミが襟人と一緒にいるには、それしかないでしょ」
けどさすがに悠に怪しまれる、と思って、屋上に呼び出したの。
本当のことを全部は言わないで、隠してたことを少しだけ白状した。
「誠心誠意謝ったあとなら、作り話の山田君のことも、信じてくれるよ。悠ちゃん、優しくて、チョロそうだから」
大丈夫かな、と不安になってたわたしを、樹里亜先輩は自信ありげに微笑んで、背中を押してくれた。
「調査の進行具合とか、詳しく教えてよ」
ケンちゃんのことを悠にも話した日から、そう言われてて、それから先輩には逐一教えてた。
山田は、本当は存在しない人物だから、いつかバレるんじゃ……というわたしの意見に先輩は、安心して、と頭を撫でてくれた。
「私が何とかするから。絶対に上手くいかせてあげる。マミは何も心配しないで、私の言うことを信じて?」
ファミレスでわたしが、中学の時のこと話したの覚えてる? 樹里亜先輩が部活内のいざこざをあっという間に解決してくれたこと。
あの一件があったから、今回も先輩についていけば、成功する! って頭を撫でられた時、確信したんだ。
それから友達に頼んで、話を合わせてもらうことになった。
「山田と日曜日に待ち合わせ、って流れにして」
そう先輩に指示された通りに、現れるわけない山田との待ち合わせが、日曜日に決まった。
一体どうするんですか、と聞いても、先輩は答えてくれなくてさ。
「私からメッセージが来るまで、悠ちゃん、襟人としっかりお喋りしててね」としか言われなくても、何か策があるはずだ、って信じて疑わなかった。わたしは樹里亜先輩を誰よりも信用していたから。
そんなわけで、ファミレスで先輩からの連絡を待ち続けてたんだけど、13時くらいになって、さすがにそわそわしてきて。
トイレで電話かけてみたの。でも繋がんなくて。
ガッカリして席に戻ろうとしたら、悠が「かえる!」なんて叫んで飛び出してって。襟人さんもそれを追いかけるし。
何があった? って一人で頭を捻ってたら、幸がめっちゃピンチになってた、って聞いて。すごく驚いたよ。
それでさ、悠がファミレスで、幸が先輩とピクニックに行ってる、と話してたことを思い出して、ふっと怖い考えが浮かんだの。
樹里亜先輩は、幸とストーカーが鉢合わせするようにしたかったんじゃないか、って……。
悠と襟人さんを、わたしに監視させたかったのでは――? 待ち合わせの日を指定されたのも、自分の計画実行のためだったんじゃ……。
『悠ちゃん、襟人としっかりお喋りしててね』
そう言ってたことを思い出して、ますます怪しく感じて……。
それで先輩に留守電を残したの。『できる限り近いうちに、直接会って訊きたいことがあります』って。
ちょっと経ったら、折り返しが来た。
「明日の朝なら、大丈夫だよ。どう?」
少し早めに起きれば、登校に間に合うし、了承した。それに学校くらい休んでも別に構わないし。
そんなわけで、月曜日の朝に樹里亜先輩を家に迎えたの。
部屋に案内して、お茶を出して――。本題を切り出す前に、心を整えようと思って、先輩をおいてトイレに立ったの。
それが良くなかった。
ドキドキしながら部屋に戻ると、先輩は湯呑みを持って一息ついてるところだった。ちょうど一口飲み終わった、といった姿に見えた。
そしてわたしに向かって、はしゃいだように言ったの。
「マミ、このお茶すっごく美味しいんだけど。何か特別な茶葉使ってるの?」
別にその辺で売ってるようなフツーのヤツだよ。でも先輩は、絶賛してくるの。
「ホントに良い味だよ。ひょっとしてマミ、めちゃくちゃ才能あるんじゃない?」
お茶入れの才能なんて欲しくないけどね。まあ、そこまで言われたら飲んでみたくなるじゃん?
だから勧められるまま、口に入れたの。
それから一分もしないうちに、瞼が重くなって、視界がぐらぐらしてきた。
そんで目が覚めた時に、樹里亜先輩は家にいないじゃん。
睡眠薬盛られたんだ、って気付いた。先輩は、飲んでるふうに見せてただけだった。
制服がなくなってたのと、交わした覚えのない幸とのメッセージのやり取りで、学校に行ったんだ、とわかった。
先輩の想定では、わたしはもっと眠ってるはずだったんだろうね。わたしの意識がないうちに、学校まで行って帰ってくるつもりだったんだと思う。
何でそんなに早く目覚めたのか、って?
それはわたしが、睡眠薬を日常的に飲んでたから、耐性がついてたんだ。
樹里亜先輩にも話してなかったけど、半年くらい前からわたしは、不眠にちょっと悩まされてたの。
かかりつけの病院で出されてる、結構強めの薬を飲んでた。だから市販の睡眠薬だと、効果が薄かったんだと思う。
そうとは知らずに、先輩は計画を実行した――。
わたしのふりをして、幸を4階に呼び出して、そこから突き落とすという信じられない計画を。
あり得ない、って思いたかった。でもここまで証拠がある以上、もう誤魔化せない。
恐れていた通りに、幸が落下した瞬間、わたしは確信した。
ストーカー騒動は、先輩が仕組んだことだったんだ、って。
何でそんなことしたの!? というか人を殺そうとしたなんて――しかも実の妹を。
悠と幸が救急車で運ばれたあと、わたしはそうぐるぐる考えながら、半ば無意識で帰宅してった。
部屋に入ると、制服は戻されてた。ベッドに置いてあった携帯の中身を確認すると、幸に送られてたメッセージが、送信取り消しになってた。
それを見て、鍵をかけないで飛び出したことに気付いた。
先輩がさっきまでここにいたんだ。
先輩に会わなくちゃ。どうしても訊きたい。
そう強く思った。
何でこんなことしたのか。何で幸を殺そうとしたのか。
その理由を樹里亜先輩の口から聞いて、そして――自首を促そう。
どうして幸を殺したかったのかわからないけど、樹里亜先輩とちゃんと話さなきゃ、と思った。
わたしを助けてくれた優しい樹里亜先輩が、何に追い詰められていたのか。
どんなことを言われても受け入れる覚悟で、会いに行こう、と決意した。
それですぐに、先輩の家に行ったの。でもいなくて――大和さんの家にも行ったけど、二人とも出掛けてた。
ちょっと考えて、病院にいるんだ、と気付いた。
家族として、病院の人に呼ばれるのは当然だった。大和さんは、付き添いなんだろう。
今日は帰ってこないかもしれない。
そう思って、明日の朝早くに改めて訪ねることにした。
夜が開けて再び先輩の家に行くと、今度は家にいた。非常識な時間に来たわたしを、先輩は迷惑そうな様子もなく上げてくれた。
リビングに通されて、挨拶もそこそこに本題に入った。
「先輩は――樹里亜先輩はっ! 幸を殺そうとしたんですよね!?」
ブルブル震えながら、叫ぶように言ったわたしに、先輩は目を丸くした。
「何言ってるの、マミ。冗談でも言っていいことと、悪いことがあるよ」
本気で怒った様子で、睨まれた。この期に及んで、まだシラを切ろうとする先輩に、わたしは必死に訴えた。
「じゃあ、わたしが眠ってた間、制服を持ってって、何をしてたんですか? 携帯に見に覚えのないやり取りがあったのも、ちゃんと見ました! 先輩が幸を4階におびき寄せたってことはわかってるんです!」
肩をいからせて問い詰めた。それでもまだ、先輩はしらばっくれようとしたの。馬鹿なわたしなら、まだ騙せると思ったのかもね。
「マミが招待しといて勝手に眠っちゃったから、軽い仕返しとして隠したの。あと私はずっとマミの家にいたんだよ? 目が覚めて私がいなかったら、どんな反応するんだろう、って思って、ちょっと意地悪するつもりで、クローゼットの中で息をひそめてたの」
あっけらかんと話す先輩に、焦る様子はみじんもなかった。
わたしは、口をパクパクさせながら、それでも食いかかった。
「メッセージは――幸に送ったあのメッセージは、何なんです!?」
「それもちょっとしたイタズラだよ。いつまでも来ないマミを待ち続ける姿を想像したら、面白いなって」
あくまでもイタズラ、ということにしようとする先輩。わたしは、しばらく何も言えずにポカンとしてた。
そんなわたしを見て、先輩は急に目を伏せて、泣き出しそうな声で言った。
「でも私のイタズラがなければ、幸が4階に行くこともなかったかもしれない。そうしたら《《事故》》で落下することも――」
そこで声を詰まらせて、うなだれた。
それからしばらくの間、先輩の嗚咽だけが静かな家の中に響いていた。
わたしはそれを聞いて、ゾッとするだけだった。
だって知ってたんだもん。
「それは嘘です。目覚めてすぐにわたしは、クローゼットの中を見ましたから」
どこかに隠れていて、わたしを驚かそうとしているんじゃないか。その可能性は、起きてすぐ思い付いた。
でも家の中を隅々まで探しても、見つからなかった。クローゼットは一番最初に確認していた。
「樹里亜先輩……。みんなに本当のことを話しましょう。怖いなら、私もついていきますから……」
真実を伝えましょう、と促した途端、先輩の雰囲気が急に変わった。
「あ~あ。これはダメっぽいなぁ……」
深いため息と共に吐き出された台詞は、悪寒がするほど低いトーンだった。
「メッセージをさっさと取り消ししとくんだった。何で大人しく眠っといてくれなかったのかなぁ……」
樹里亜先輩は、しくじった、というふうに額に手を当てた。
そしてソファーから立ち上がって、わたしと正面から向かい合う形になったの。
先輩から目を離せなくて、でくの坊みたいにその場を動けずにいたら、お腹に強い衝撃が走った。
一拍遅れて、殴られたことに気付いた。後ろに倒れ込んで、攻撃してきた張本人を睨んだら――。
声にならない叫びが出た。
先輩は、椅子を振り上げていた。高いところにある物を取るための、さほど立派じゃない椅子だけど、それでも全力で殴られれば、かなりの痛みに襲われる。
逃げようとした時には、もう遅かった。
ガツン、って音がすぐそばで聴こえたかと思うと、耳鳴りが止まらなくなった。
キーン……と頭の中でどんどんうるさくなっていって、瞼が押さえつけられてるみたいに、開くのが困難になって――。
次に覚醒した時は、見たことない部屋の中にいた。
身体も縛られてて――絶望したよ。誰にも見つけられないまま、ここで苦しみながら死ぬしかないんだ、って。
なんとか出れないか、と思って、不自由な身体で窓やドアに体当たりしようと試みたけど、そもそも立ち上がれないんだから、無理だった。ただ体力を消耗しただけ。
そうこうしてるうちに、どんどん時間が経って――もうダメだ、って思ったところで、希望が見えたの。
物置部屋に閉じ込められたのは、不幸中の幸いだった。非常時のために用意してあったと思われるミネラルウォーターが、目立たない場所に置かれてることに気付いた。
口を使って、ペットボトルのキャップを外して、それを少しずつ飲んでいくことにした。
水があれば、人は結構生きられる、ってどこかで聞いたから、とりあえず死を先延ばしできたことに、ホッとした。
それからは、ずっと同じことを願い続けた。
誰か早く見つけに来て。今すぐにでもインターホンを鳴らして。そしたら全ての力を使って、助けを求めるから。
そう思い続けて、ずいぶん経った頃――。
水がとうとう無くなってしまった。生命線が消えたの。
錆び付いたんじゃないか、ってくらいに、喉はカスカスになって、これじゃ大声なんて出せない、と焦った。
いよいよ気力が尽きそうになった時、待ち望んでたインターホンの音がした。
来訪者に向かって、届け届け――! と必死に念じながら、わたしは少ない力を振り絞って、窓に体当たりを繰り返した。
それからは、悠も知ってる通りだよ。
気付いてもらえたことに安心して、意識を手放して――目が覚めたらここにいて、助かったんだ、って思った。
嬉しくてボロボロ泣いたよ。
本当にありがとう。悠と襟人さんが来てくれなかったら、たぶんダメだったと思う。
それと今まで散々騙してて、ごめんなさい。
……幸にも謝れると良いんだけどな。
幸のこと、聞いたよ。まだ意識を取り戻してないんだって?
……ごめん。わたしのせいだ。わたしが樹里亜先輩のことを、もっと早く怪しむべきだったんだ。
そうすれば、こんなことにならずにすんだよね。
マミの目には、大粒の涙が浮かんでいた。自分の鈍さが、この事態を招いたことによる後悔が、溢れかえりそうだった。
幸が死んでしまったらどうしよう。そんな恐怖と不安に満ちた瞳が、私を見る。
「やっぱり樹里亜だったんだね」
答え合わせを終えた私は、深くなった眉間の皺を、指で広げた。そして、長く重い息を吐く。
樹里亜ならマミの家に上がって、睡眠薬を盛ることも難なく出来る。
それに気付いて尚、犯人は彼女ではないと思いたかったが——。
大和さんの言っていたことを、思い出したのだ。
『5月半ばくらいから、家を売ることに同意するよう頼んでいた』と。
大和さんに相談したのは、夏休み中ということだ。一人になった病室で、犯人が誰か考えている時、それに気付くべきだった。
6月1日以前から、幸に殺意を抱いていたと考えられる人物は、私の知っている範囲では、樹里亜だけだった。
「何でなの? 何で樹里亜先輩は、そんな怖いことをしようと思ったの? わたしが今まで見てた先輩は、嘘だったのかな……?」
布団に覆われているマミの身体は見えなかったけれど、きっと痙攣したように、震えているのだろう。
長い間慕っていた人の、恐ろしい一面を見ただけでなく、自分自身が殺されそうになったのだ。
一生消えないレベルのトラウマかもしれない。
マミは、言葉を出すのも苦労するように、抑揚の定まらない調子で、訴える。
「今だにあの場面が――先輩に殴られた瞬間が、フラッシュバックして……しんどくてっ……!」
私はたまらず、彼女に駆け寄って震える身体を抱き締めたい、と思った。
しかし、あることに思い当たり、すんでのところで思い留まる。
そして、泣きじゃくる彼女に、静かに問うた。
「あんたは樹里亜に、中学の時、幸にしたことを告白したんだよね?」
鼻を啜りながら、マミは首だけをなんとか動かす。
「すごく怒られて、『二度と人を陥れる真似はやめて』って言われたんじゃないの?」
なのに、幸を取り巻いている問題を利用して――。また幸を都合よく使おうとした。
私と八代だって、ストーカーが捕まえられるのではないか、と期待していた。マミの情報を頼りにしていた。
樹里亜ほどではないが、マミだって私利私欲のために、他人を利用したじゃないか。
立ち上がろうと浮かせた腰を、再び椅子におろす。
私の叱責に、本人はきょとん、とした目を向けた。涙も一時的に引っ込んだようだった。
「そんなこと言われてないよ? 確かに先輩は怒ったけど、軽い感じで、『暴走するのもほどほどにね』ってデコピンしてきただけだった」
「え?」
今度は私がきょとんとする番だった。
「それ先輩が言ってたの?」
「そうだけど……」
「じゃあ、それはたぶん――悠に怪しまれないように先輩が考えた、好感度を上げるための嘘なんじゃないかな」
「ふっ、あははっ……」
「悠? 大丈夫?」
乾いた笑いが出る。不可解な私の挙動に、マミが心配そうな声を上げる。
「そっか。全部嘘、でたらめ、作り話だったんだね。私の見てきた樹里亜の態度は、すべからく」
となると、幸が自分に依存しないで、自身の力で幸せを見つけられるように突き放した、というのも、お涙頂戴の作り話だったんだな。
たいした女優であり、創作家だ。憤りの前に、感心がきてしまう。
「うん。そうだね。先輩はずっとわたしたちを、騙してた。すごくショックだよ。わたしさ、もう立ち直れないかもしんない……」
裏切られた、という悲壮感をたっぷり含ませた瞳から、雫が流れ落ち、真っ白な枕にポタリ、と染みを作る。
「樹里亜先輩は、最低だよ……」
力なく呟くマミ。
私は、スッと立ち上がり、ベッドの上の泣き顔を、見下ろす。
「同じでしょ」
「え?」
言葉の意味を図りかねているように、戸惑った声が返ってくる。
「中学の時に、幸にしたことは、そういうことなんだよ。信じてた人にこっぴどく裏切られた気分が、よくわかったでしょう」
「けどわたしは、殺そうとまで考えない! 全然違う、はず……」
反論しようとしたマミだったが、だんだん情けない声音になっていく。
「そりゃあ、やろうとしたことのえげつなさは、樹里亜の方がずっと上なんだろうけど――でも本質は同じでしょう。自分の欲のために、慕っていた人を裏切って、利用して、トラウマを植え付けたんだから」
それも一生モノの。
「だから樹里亜を最低だって言うなら、今までのあんたも最低なんだよ。自分がやったことが、返ってきたんだ」
淡々と告げる私とは対照的に、マミは稲妻に打たれたような形相をしている。
「わたし――わ、たし。そんな……」
ワナワナと唇を震わせ、目を見開く彼女は、過去に犯した罪と、ようやく向き合おうとしているところだった。
そうして、見られることを恐れるかのように――はたまた消え去りたい衝動に駆られたかのように、私とは反対方向に首を大きく動かした。
「ごめん。今日は一人にさせて」
「――わかった」
椅子を畳んで、部屋の隅に戻す。
病室を出る寸前、最後に彼女を振り返った。
顔を背け続けるマミに、これはちゃんと伝えておかなければ、と話し掛ける。
「回復したらさ、警察にも話してね。あと親御さんに元気な姿を見せてあげて。すごく心配してるはずだから」
「うん」
聞こえるか聞こえないかの声量で発せられた返答を確認して、病室の扉を完全に閉めた。
穏やかな廊下の空気が、肌に伝わってくる。
……こちらの話をするどころじゃなくなってしまったな。
理人君のことや、今のところ予想される樹里亜の動機について、説明するつもりだったのに。
まあいい。全て解決した後に、知ることになっても問題ないだろう。
とりあえず八代に、さっき聞いたことを、話しに行かなければ。
どきどきと脈打つ胸に、そっと手を置く。
軽く深呼吸した後、外へ向かって歩き出した。
室内から出ると、暑くも寒くもない絶妙な温度のそよ風を、顔に感じる。
二人は、広めのベンチに並んで座っていた。
「待たせちゃったね」
「まあ、長くなることは想像してたからな。それでどうだったんだ」
気になって仕方ないという顔に向かって、残念そうに深く頷く。
予想通りだよ、と。
最悪だね、と。
八代は、片手で頭を抱える。その状態で首を振り、「糞……」と洩らす。
「理人君。私たちこれから、大事な話があるから、ちょっとあそこにいてくれない?」
怪訝そうに兄を見ている理人君に、お願い、と頼む。
あそこ、と指し示した先は、30メートルほど離れた場所にある、大木の傍のベンチだ。
理人君は、不可解そうにしながらも、無言で向かっていった。
彼がしっかり座るのを目視した後で、よし、と八代の隣に腰を下ろす。
そして、マミから聞いたことを伝えていく。
話が進んでいくにつれて、八代の顔は苦しげに歪み、樹里亜がマミを殴ったところで、息を飲んだのがわかった。
「――それで、幸にも謝れるといいな、って言ってた」
これで終わり、というように、肩を落とす。
離れたところにいる理人君は、深刻そうな雰囲気の私たちを、奇妙な目で見ている。
目が合うと、ふいっと反らされてしまった。
八代はうつむいていた顔を上げて、彼をじっと見つめる。
「あいつにも、話さないとな」
出来ればずっと先送りにしておきたかった重大な仕事に、いよいよ手をつけようとするかのように、八代は言った。
あなたが心から好いていた『幸』は、彼氏との夢を叶えるために、あなたを利用したかっただけなんだよ。
そのことをできるだけ傷つかないように、理人君に伝えるには、どうすれば良いのだろう。
「私から言おうか?」
「いや、俺から話すよ。ありがとな、気を遣ってくれて」
そう言って、よいしょ、と立ち上がる。
「待たせたな、理人」
おーいと手を振るその姿を見て、私は祈らずにはいられなかった。
八代がこれ以上家族を失いませんように。
二人がまた兄弟に戻れますように。
その時、私の祈りに呼応するみたいに、強風が吹き荒れた。
髪型が崩れないように頭を押さえながら、空を見上げると、いつの間にか晴天に陰りが出ていた。
いくつかの雲が、太陽をちらちら覆い隠す。
そういえば、午後から曇りだと、天気予報が言っていたな。
「寒……」
自然とそんな言葉が、口からポロっと出る。
吹く風が、冬が近いことを知らせていた。
「中に入るか。幸のところに行こう。その方が話しやすそうだしな」
八代の提案により、快適な温度に保たれている病院の中へ、戻ることとなった。
幸は相変わらず、眠り続けている。
健やかな寝顔は、生死を彷徨っていることなんて、微塵も感じさせない。
パイプ椅子を広げて、ベッド上の幸を取り囲むように、三人で座る。
理人君をちらりと見遣ると、彼は苦しそうな顔をしていた。幸を直視するのが辛いみたいで、壁をじっと睨んでいる。
「理人。これからする話は、お前にとって残酷だろうが、落ち着いて聞いてくれ」
そう切り出した八代に、理人君は不思議そうな視線を向けた。
八代は目線を下げて、幸を見る。そして口火を切った。
「こいつは、確かに幸って名前だけど、お前の求めてた人間じゃないんだ。今までお前とやり取りしてたのは、幸の姉だ」
「え……?」
理人君の口から、戸惑いの声が出た。それとほぼ同じタイミングで、バッと幸に顔を向ける。
「この人は――妹?」
「ああ。今眠ってるこいつの姉が――樹里亜っていうんだけどな。樹里亜が『幸』って名前を使ってSNSをしていた、ということだ」
理人君が、ワナワナと震える。
口元に手を当てて、小さく声を絞り出す。
「じゃあ……じゃあ、この子と僕はまったく関係なかった、ってことで……」
「そうだな。6月1日や、丘で遭遇した時の幸の反応は、至極当然だった。理人はずっと、赤の他人を追いかけ回してたんだよ」
入試試験に必ず出るだろう大切な問題を、繰り返し生徒に言い聞かせるように、八代はゆっくりと告げる。
「そんな……嘘、だ。そんなの、何で。何で……」
脳がショートしたみたいに、同じことを呟き続ける彼だったが、話が終わってないことに気づいたらしく、八代を見返した。
続きを促す気配を受けて、八代が口を開く。
「樹里亜は、理人の強い気持ちを利用して、妹の幸を殺させようとした。お前と幸を会わせたら、互いがどんな反応をするのか、正確に予測していたんだ」
理人君が幸に迫り、幸がそれを拒絶する。
そんな展開になると、樹里亜にはわかっていた。
「なら、彼女が僕にかけてくれた言葉の数々や、励ましてくれたことは……全部妹を殺すためだったの? 僕は都合よく動く道具として見られてたってこと!?」
「――残念だが、そういうことだろうな」
縋るような視線が痛い、という風に、八代は力なく俯いた。
一言も喋っていない私にさえ、苦痛が伴った。絶対零度の空気が、狭い部屋の中全体に行き渡り、地獄の雰囲気を作り出す。
ただ一人、意識が隔たったところにある幸だけが、穏やかな形相を保っていた。
理人君は、顔面蒼白といった様子で、何も見えていないような瞳をしていた。
大丈夫だろうか、と心配になって、呼び掛けるために息を吸い込んだとき、
「彼女が……妹を殺そうとした理由は? 僕を騙すような真似をした理由は、一体何だったの……?」
打ちのめされた彼が、それでも震える声で、八代に問いかけた。
「樹里亜には、夢があった。恋人と共に、東京の持ち家で暮らす、というものだ」
「夢……?」
「そのためには、金が必要だった。樹里亜は、妹の幸と暮らしていた実家を売って、その金で夢を叶えよう、と考えたんだが、幸が同意してくれなかった」
八代が努めて冷静に話す言葉に、私も真剣に耳を傾ける。
そして改めて、怒りの感情が襲ってきた。
落ち着くために、規則正しい呼吸を繰り返す幸を、見つめる。
「家を売ることに賛同してくれない幸を、邪魔だと思ったんだろう。だからお前が幸を殺してくれることを願って、家に呼んだり、ナイフを持って丘に来るように、なんて指示を出したんだ」
八代はそこまで淡々と告げ終わった。しかし強く握りしめた拳が、小刻みに震えていることに、確かな心の動乱が感じ取れた。
「彼氏との暮らしのために、ってこと? じゃあ、あんなに僕に優しくしてくれたのは……好きだよ、って言ってくれたのは……」
ちゃんと聞き取れたのは、そこまでだった。理人君は、口をもごもごさせて、何事か呟いている。
その姿に心苦しくなり、どこか遠い場所にでも飛ばされたい、と思った。これ以上理人君のことを見ていたくない、と。
でもこの部屋の中では、私が一番お気楽なのだ。私なんかよりも、ずっと耐えている優しい人が、ここにいるのだ。
だから逃げ出すわけにはいかない。
真剣な眼差しで弟を見守る彼を、しかと瞳に焼き付ける。
「ちょっと……」
理人君が、油断すれば聞き逃してしまいそうな声で、ポツリと訴える。
「ちょっと……トイレに行ってくる」
そう言い残し、生ける屍のような足取りで、病室を出ていった。
取り残された私と八代は、数分の間、少しも身動きせず、ぼうっと閉まった扉を眺め続けていた。
「大丈夫かな……」
大丈夫なわけない、と重々承知していたけれど、それでも呟かずにはいられなかった。
「今ごろ頭冷やしてんだろうな。戻ってくるまで長くなるかもだけど、大丈夫か?」
私の実にならない独り言に、八代は反応してくれた。
「うん。理人君が少し落ち着くまで、待つよ」
「そうか」
「これからどうするの? 警察に樹里亜のことを話しに行く?」
「いや、まずは樹里亜と話してみようと思う。本人の口から、ちゃんと聞きたい。動機から実行に移すまでの、心境とかもしっかりと」
「ついてっても良い? 私も樹里亜の本心を知りたい」
「ああ」
どうせ樹里亜は、逃げられない。
マミが助かったので、もう白状するしかないところに来てしまった。それならば彼女の本心を、この目で見届けたい。
「樹里亜は、マミが救出されたこと、知ってるのかな」
「折野が連絡してなければ、知らないんじゃねぇか。病院側も、折野の家族にしか電話してないそうだし」
病院側は、合鍵を持っていた八代のことを、家の人だと思ったらしい。
その誤解を敢えて訂正しないことで、樹里亜に連絡がいくことを防いだ。
だから樹里亜は、計画は上手くいっている、と思っているはずだ。真実を知る邪魔者は、今ごろくたばっていると。
「昨日の夜、色々掃除するために、幸の家に行ってたんだ。そうしたら、物置部屋からこんな物を見つけた」
八代は、ポケットから折り畳んだ紙を出した。
手を伸ばして受けとる。それはルーズリーフの切れ端だった。
そこに書いてある文字を追っていくうちに、身震いが止まらなくなった。
『樹里亜先輩、ごめんなさい。幸が落下したのは、わたしのせいなんです。幸の近くにあったあのポーチ……あれは昔わたしがプレゼントしたものなんです。わたしからの貰い物だからこそ、幸は風に飛ばされそうになるそれを、懸命に追いかけたんじゃないかと思います。幸がこんなことになったのは、わたしにも責任があるんです。わたしは罪の意識に耐えられません。償いとして最も苦しい自殺方法を取ります。先輩のご実家で死ぬ失礼を、許してください。ここなら防音もしっかりしていて、近所隣の人もいないので、どれほど苦しみ抜こうと誰にも気付かれない、と浅知恵を働かせた結果です。どうか堪忍してください』
マミらしい丸っこい文字で、綴られている。しかし、マミが書いたものでないことはわかっていた。
「これ――樹里亜が……」
「だろうな」
手のひらの中の紙を、もう一度見る。この文章を書いている時の樹里亜は、どんな顔をしていたのだろうか。
樹里亜が、血の通っていない化け物のように思えて、心臓が早鐘を打ち始めた。
胸に手を当てたとき、廊下から聞こえてきた悲鳴が、静寂を切り裂いた。
「イヤーッ!!」
「やめなさい!」
そんな言葉と共に、壁越しでも十分伝わってくるほどのどよめきが、起こっていた。
何事か、と二人で病室を出ると、廊下はすでに何人もの群衆で、渋滞していた。
「何の騒ぎですか!?」
近くにいる女性に、八代が訊ねる。
彼女は興奮気味に答えてくれた。
「様子のおかしい男の子が、男性を殺そうとしてるのよ! ナイフを首に突きつけて、脅してるの! 近づかない方が良いわ!」
「男の子?」
嫌な予感がして、女性の肩を掴んで、食い気味に訊く。
「その男の子は、いくつぐらいですか? 小柄ですか? トイレから出てきましたか?」
彼女は私の剣幕に、しどろもどろになりながらも、一つ一つ回答してくれる。
「ええっと、高校生くらいで、そうね確か小柄な方だったと思う。トイレから出てきたかは、わからないわ。私も誰かの悲鳴を聞いて、ここにきたから――あっ、ちょっと!」
危ないわよ! という制止を意に介さずに、人波を掻き分けていく。
別の人かもしれない。ここは大きな病院だし、小柄な十代後半の少年など、たくさんいるかもしれない。
そんな期待を抱きながら、突き進む。
しかし、残念ながら私の期待は、外れた。
人垣を割っている途中で、目に飛び込んできたのは、理人君の背中だった。
女性の言った通り、がっちり捕まえている男性を、刃物で脅し付けている。
ドラマで人質を押さえる犯人のように、身体を密着させて、腕を男性の首もとに巻き付けていた。
キラリ、と光るナイフの先端が、かすかに目に入る。
全身が総毛立つ。
「理人君!」
私の叫び声で、彼の肩がビクッと跳ねる。
そして、拘束している男性ごと、ゆっくりと振り返った。
「大和さん!?」
私の隣にきていた八代が、驚愕の声を上げた。
——いいや、違う。動きを封じられている男性は、大和さんではない。
距離があるせいで分かりづらいが、確かに大和さんに少し似ている。しかし、知らない人だった。
見知らぬ彼は、恐怖と苦しみで歪んだ顔をしていた。ナイフの切っ先から目を離せないらしく、食い入るように見つめては、呼吸を荒く、おかしくしている。
「わ、私のせいだ……私が通りかからなければ、こんなことには……」
低い位置から、かすれた声がした。
目線を下げると、初老の男性が可哀想なほどに震えながら、理人君を見ていた。
その人の足元には、小型のバスケットと、そこから落ちたと見られる、果物たちがごろごろと転がっていた。
今理人君が、他人に突きつけているのは、おじいさんから奪った果物ナイフだ、とわかった。
「理人! やめろ!」
八代が、腹の底から出ているような大声で、訴える。
「もうこうするしかないんだよ、兄さん。こいつが……」
理人君は、焦点の定まらない瞳で、果物ナイフを、腕の中の人物に押し当てる。
皮膚が少し切れて、一滴の血液がポタリ、と床に落ちた。
それを見た周りの人たちが、口々に叫び声を上げる。
「少しでも動いたら、こいつを殺す!」
人々に牽制するように、理人君が宣言する。
そして八代の方へ視線を戻し、語り出した。
「トイレで落ち込んで、幸の名前を繰り返し呟いていたら、こいつに声をかけられたんだ。『幸さんの友達ですか?』って」
驚いたよ、と薄ら笑いを浮かべる。
「誰? って訊いたら、幸さんのお姉さんと交際している――って言い出してさぁ。思わず胸ぐらを掴んだよ」
「ち、違う! 俺は大和の――」
「喋るな!」
「ひっ!」
理人君は、何か言いかけた男性を、一喝する。
怒鳴られた彼は、口をつぐんで、弁明を諦めた。
たぶん彼は、大和さんが私を見舞いに来たときに、付いてきてくれたという従兄弟だ。わざわざ、知り合いの知り合いでしかない幸の様子を、見に来てくれたのだ。
トイレで、『幸さんのお姉さんと交際している者の、従兄弟です』と言おうとしたのに、理人君は最後まで聞かずに、突っ走ってしまったんだ。なんという不運か。
『その人は、違う。何も関係ない人だよ』と伝えるために、口を開いたけれど、理人君の声によって、遮られる。
「それで思ったんだ。こいつがいるから、悪いんだ、って。こいつさえいなければ、僕はこんな糞みたい気分にならなくてよかった」
「理人……」
呆然とする八代を一瞥して、理人君はフンッと鼻を鳴らした。
「こいつと付き合ってたから、幸――ああいや、樹里亜だったね。樹里亜はあんなことしたんだよね。僕が最初に彼女と出会っていれば、妹殺しなんてさせなかった。そして二人で幸せになれていたはずなんだ。こいつを殺せば、きっと何もかも上手くいくはずなんだ」
マシンガンのような勢いで、唾を飛ばしながら、そんなことを口走る彼は、もう何も見えていないみたいだった。
本気なんだ、と恐怖した。本当に腕の中の人物の、命を奪うつもりだ。
「理人君! 駄目! そんなことしても、何にもならない! 誰も幸せになんてなれない! それにその人は――」
樹里亜の彼氏じゃないよ! と続けようとすると、理人君がこちらを見て、叫んだ。
「うるさい! 君に何がわかるんだ! 僕には彼女しかいなかったんだ!」
血走った目で、こちらを睨み付けてくる。
「君に僕の気持ちなんて、わかるわけない! 親友もいて、兄さんと良い関係を築いていて――孤独を感じたことのない人間が、邪魔をするな!」
孤独を感じたことのない人間――。
放たれたその言葉が、ぐさりと刺さって、上手く声が出なくなる。
「こいつを殺せば、彼女は僕を見てくれるはずなんだ! そうしたら僕は――」
そこで言葉を区切り、少しの間をおいて、一際大きな声で叫ぶ。
「独りじゃなくなる! 彼女は唯一僕を受け入れてくれる人なんだ! 彼女に離れられたら、僕はこの世でひとりぼっちなんだ!」
喚き散らす理人君の目から、涙が一滴溢れ出す。
それは止まらなくなり、いくつもの水滴が、彼の頬を伝う。
「違う!」
八代が空気を切り裂くように、異議を唱えた。
その気迫に、肩で息をしていた理人君が、フリーズする。
ざわめいていた周囲も、水を打ったように静まり返った。
「聞け、理人」
八代が、有無を言わせぬ雰囲気を纏って、理人君を納得させようと、言い聞かせる。
「お前は一生孤独にならない! お前を受け入れる人間となんて、これからごまんと出会える!」
「なっ……」
八代の発言に、カチンときたように、理人君は前のめりになりながら、言い返す。
「都合良いことばっか言わないでよ! じゃあ実際に、ここの人たちに訊いてみようよ!」
そう言って、集まっている人たちを、ぐるりと見渡す。
「この中に、僕と親しくしたい、って人はいますかー!?」
その問いかけに対する反応は、当然沈黙だった。
さまよう視線とかち合わないように、俯く者、誰かの背中に隠れる者など、賛同者はまったく現れない。
私はといえば、投げられた言葉がしつこく胸に刺さっていて、声を出すことも、挙手することもできなかった。
理人君は、満足げに――それでいて落胆したように、真っ赤な目で八代を睨んだ。
「ほらね、こんなもんじゃん。綺麗事や理想論で、僕が感動するのを期待したの? 残念だったね。やっぱり僕と一緒にいてくれる人なんて、いないんだよ。きっとこれからも現れない」
壊れた機械のように、べらべらと喋る姿を見て、もうやめてくれ、と思った。
これ以上は、辛くて直視できない、と瞼を閉じようとした瞬間、
「ここにいる!」
ハッとして、隣の八代を見る。
顔は苦しげに歪み、目は赤く充血していて、今にも血涙が出てきそうだった。
しかし、それを伝えることが自身の天命だ、とでも言うように、震える唇から言葉を紡いだ。
「少なくとも一人いる! お前を受け入れる奴がここに! 俺はお前を見捨てたりなんかしない!」
手のひらを心臓に叩きつけ、八代は必死に伝える。
「な、なんで……? だって僕は、兄さんに相談もせずに、黙ってあの家を出たんだよ? あの居心地最悪の場所に、兄さんを置き去りにしたんだよ?」
あの兄弟も死んでれば良かったのに、なんて言っていた親戚たち。
その人たちから離れたくて、理人君は姿を消した。誰にも何も言わずに。生き残ったたった一人の家族にも、行き先を告げることなく。
理人君は、泣いていた。全身の怪我の痕から傷が開いたみたいに、痛そうな表情をして、ボロボロ涙を溢れさせていた。
「わかってるんだよ! 兄さんが僕を恨んでるんだ、ってことは! 再会した時から、ずっと怒ってる雰囲気だったから!」
そう叫ぶ理人君は、迷子の子どものようだった。
心細さや不安が、極限にまで達したみたいな顔で、八代に向かって一歩身を乗り出す。
「俺が怒ってた理由は、お前に頼ってもらえなかった自分への不甲斐なさからくるものだ。理人がこんなに思い詰めるまで、何も出来なかった。そんな自分が憎かった」
八代は悔しげに、唇を噛み締める。
「理人を恨んだ日なんて、なかった。本当だ。俺は、お前にずっと会いたかった。それ以外に思うことは、なかった」
そして、震える理人君に向かって、一歩前へと進み出た。
「お前は、弟だから。これからもそうだ。お前が嫌がろうと、一生兄貴でいてやる」
「あ、うわ、あぁっ……!」
理人君の口から嗚咽が漏れだし、ブルブルと震えた手から、ナイフがするりと落ちた。
人質が脱兎のごとく逃げ出し、行きがけにナイフを、遥か遠くへ蹴っ飛ばす。
ナイフは、私の目の届かないほど後方に飛ばされた。きっと近くにいる人が、拾ってくれるだろう。
ドサッと音がした。理人君が崩れ落ちたのだ。全身の力が抜けたように、床にしりもちをついた彼は、それでも顔を上げて、八代から目を離さずにいた。
八代が光の速さで、理人君のそばに駆け寄る。
近づかれた理人君は、不安と期待がない交ぜになった目付きになる。怯えたように息が詰まる音が、聞こえてきた。
そんな様子の彼に、八代は安心させるように、笑いかけた。私の一番好きな表情。
そして、固まった理人君を、力強く抱き締めた。
体温を余さず送るように、背中に腕を回し、優しく包み込む。
周囲の人々も、そして私も、黙り込んで事の成り行きを見守っていた。
この場にいる全員が、時が止まったように、二人から視線を外せずにいた。
八代が、腕の中の大切な家族の耳元で、強く断言する。
「理人。俺はお前がどんな風になっても、お前のために何かできることはないか、考える。たとえ人の道を外れたとしても、だ。どんなことがあっても、俺は理人の味方だ」
その言葉は、無事に彼の心に届いたらしい。
理人君は、おぼつかない手付きで、でもしっかりと、八代の背中に腕を回した。
そして、八代の肩に顔をうずめて、うめき声を上げる。
くぐもっているが、泣き叫んでいるのだとわかった。
その声は、つい先ほどまでの叫びとは、まったく異なる響きを伴っていた。
意識が正常に動き出した周囲の人々が、再びざわつき出す。
「警察に連絡――」「もうしてます!」という会話がして、もうすぐ警察官が理人君を連行するだろう、と思った。
私は、何かが引っ掛かるような気がして、ぼんやりとその場に立ち尽くしていた。
何だろう。閃きが落ちてきそうな予感がする。ずっと抱えていた重大な謎が、判明するような。そんな予感が――。