殺してくれてありがとう

 ***

 何もかもが嫌になって、親戚の家を飛び出した後、僕は年齢を偽って仕事をしてたんだ。
 親戚の家よりかはましだったけど、けして楽ではない新生活に、僕の心は荒んでいた。
 悩みを話せる人もいないから、ネットの世界に日々の苦しみを吐き出す、ということを一年以上続けていた。

 そんな中、『幸』という名前のアカウントが、僕を見つけてくれたんだ。
 今までどれだけ苦しんでても、誰からも反応はなかったのに、幸だけが『元気出して!』と言ってくれた。
 僕は彼女に、自分のことを話した。過去のことも現在のことも、洗いざらい全部。

 『私は理人君のこと好きだよ』『いつも頑張ってて偉い。尊敬するよ』『そんな辛いことがあったなんて……理人君はとっても強いね』
 幸は、いつもこんなふうに、優しく励ましてくれた。

 特に嬉しかった言葉は、一言一句覚えてる。ああ、そうだ。誕生日は一段と嬉しかったな。
 『誕生日おめでとう! 生まれてきてくれてありがとう。理人君に会えて本当に嬉しい。これからも何でも話してね』
 今年は誰からも祝われないかもしれない、と思っていたから、それを見て号泣してしまった。

 彼女のために生きよう。彼女の願いなら何でも叶えよう。
 前々から息づいていた決意が、一気に膨らんでいった。

 幸にそのことを伝えると、控えめな返信がきた。
 『理人君が生きているだけで嬉しいの。ただこうやって話すだけで十分すぎるくらい幸せだよ』
 けどそれじゃ、僕の気が収まらない。彼女が何も望まないことが、かえって僕の尽くしたい気持ちに火をつけた。だから——。
 『何か頼みたいことがあったら言って。何でも聞くから』
 そう念押ししておいた。

 そして僕は、幸に会いたい、と思うようになった。
 その思いは、日ごとに強くなっていき、僕は何度も『会いたい』と持ちかけたけれど、幸はなかなかうんと言ってくれなかった。そうなってくると、ますます会いたい気持ちは募っていく。
 幸は散々焦らしたあと、『6月1日に私の家に来て』と会うことを承諾してくれた。

 送ってくれた地図を頼りに、なんとか幸の家にたどり着いた。あの時はもう、ドキドキしすぎて、ちょっと気を抜けば、身体が針を刺した風船のように、勢いよく破裂しそうだった。
 幸の家が、僕の地元にあったことも、運命的なものを感じた。もしかして町ですれ違ったりしてたのかも、なんて思って、道中が楽しくて仕方がなかった。

 そして、インターホンを鳴らして、出てきた女性に、「幸?」と尋ねたんだ。
 「そうだけど……」という返事を聞いて、喜びが全身に沸き立った。
 幸の見た目も声も、なんだか懐かしい感じがしたんだ。どこかで会ったような気がした。やはり運命だ、と直感した。
 僕は我慢できなくなって、幸に抱きついた。

 あの後のことは申し訳なかったな……。幸の事情もわからず、拒絶してきた彼女に食いぎみになってしまった。
 そんな時に兄さんが来て――驚いたよ。幸と兄さんが知り合いだったなんて。
 ある日突然兄さんの前から消えた僕は、顔を合わせるわけにはいかない、と判断して、ひとまず急いで立ち去った。

 そのあと幸に連絡して、どうしてあんな態度を取ったのかわかった。
 幸は男に触られるのが嫌なんだ。抱き締められようものなら、パニック状態になって、体調までも悪くなってしまうことを、謝罪と共に伝えられた。
 ついでに兄さんのことも聞いたんだ。

 『男の人に取り押さえられそうになって、逃げ出したんだけど……』
 そう送ると幸から、『ああ、そういえば言ってなかったよね』と返ってきた。
 『うちに家事をやりに来てもらってる人なの』
 それを聞いて、こんな偶然があるなんて、と思ったよ。世間って狭いね。

 何にせよ、幸の態度の理由がわかった僕は、すっかり落ち着いて、強引に迫ってしまったことを謝った。彼女がなかなか僕と会おうとしなかったことも、納得できた。
 そして二人で話し合った結果、しばらく会うのはやめよう、ということになった。
 けど僕は、完全には我慢できなかった。もっと幸を見ていたい。近くで確認したい。そんな欲求が生まれてきた。

 だからいけないことだとわかっていても、こっそり庭に侵入したり、帰り道にあとをつけたりしていた。
 本当はすぐにやめるべきだったんだけど、僕が庭で幸の友人に見つかった時に、『幸にバレたらどうしよう』みたいなドキドキ感が生まれちゃったんだ。
 気づかれたくないのに、認識してほしい――。矛盾しているとわかっているけど、妙な快感を覚えちゃったんだ。

 それでも、顔がわからないようにはしていたけれど……以前そこの君にフードを取られてしまったね。
 幸に、『怖がらせるつもりはなかったんだ。追いかけ回しちゃってごめん』と謝ると、
 『近々、面と向かって話したいと思うから、ちょっとだけ我慢してくれる? お願い』
 と返ってきた。
 その返信を見て、あっという間に心は晴れた。

 もうすぐ会える――。目を見て話せる! そう思うと、視界が一気に輝き出した。
 それに幸からの初めての“お願い”――。僕は会いに行きたい気持ちを必死に押さえつけて、大人しく幸からの続報を待つことにした。
 もどかしく日々を過ごしていると、彼女の言う通り、そう日を置かずに連絡がきた。

 『今度の日曜日にここに来てくれる?』
 その言葉と共に、地図が送られてきた。
 検索して調べてみると、そこそこの高さの丘があった。そこの頂上で待ち合わせ、とのことで、もちろん五秒もしないうちに了解の返信をした。
 すぐに返信してきた僕に、幸は変な頼み事をした。

 『ナイフを持ってきてくれない? ポケットに入るサイズでいいから、ちゃんと切れるやつ』
 妙なお願いに疑問を感じたけれど、もしかして料理でもするのかな、と思った。
 そんな場所で? とも思ったけど、少し本格的なピクニックなのかも、と考えた。

 それにしたって、自分で持ってくればいいのでは? と謎だったけど、荷物がいっぱいなのでは、と思い至り、彼女の言う通りにナイフを持っていくことにした。
 それにお願いを断って、万が一にも嫌われたら――なんて思うと、聞かないわけにはいかなかった。
 玄関の前で、幸から拒絶された時は、本当に胸が苦しくて、自分を見失いそうになったから。
 もうあんな気持ち、味わいたくない。次ああなってしまったら、どうなるかわからない。

 そんなわけで先週の日曜日に、僕はナイフをポケットに入れて、丘の頂上で幸を待っていたんだ。
 僕はその時カバンを持っていなかったから、ポケットの中に隠していたんだ。さすがに手に持って歩くわけにはいかないからね。
 そわそわしていると、幸が頂上を目指して登ってくるのが見えた。

 「幸!」
 僕がこっちだよ、と手を振って叫ぶと、幸はビクッと身体を震わせて、次の瞬間、不可解な反応を示したんだ。
 「きゃーっ!!」
 幸は絶叫すると、怪物から死に物狂いで逃げるように、ここまで登ってきた道を、猛烈な勢いで下っていった。

 「幸!? 待ってよ! 何で逃げるんだ!?」
 僕があとを追いかけると、幸が走りながら後ろ――僕を振り返った。
 幸の大きく綺麗な瞳は、涙が浮かんでいて、恐怖の色がありありと現れていた。
 どうしてそんな顔をするんだ? わけがわからなくなっていると、幸に信じられない言葉をぶつけられた。

 「いやーっ! 来ないで!!」
 幸が僕を否定した。
 それを理解した瞬間、世界から色がなくなった。
 自然とポケットのナイフに手をかけていた。
 それからのことはもうあまり覚えていない。
 ただ幸が僕を拒み続けていた、という残酷な事実だけが、胸に突き刺さっていた。

 気づいた時には、兄さんたちがいて、僕は押さえつけられていた。
 そこで我に返って、とにかく逃げなければ、という意識が働いた。
 兄さんはあの時、初めて僕の顔を見て、すごく驚いていたね。信じられないものを見るようだった。
 できれば知られたくなかったけど、そのお陰で力が緩んだから、逃げられた。

 でも結局こうなっちゃったから、意味なかったな。ううん、もう何もかもどうでもいい気がする。
 幸が目を覚まさないんだから。それにたとえ意識を取り戻しても、彼女はもう僕に優しくしてくれないだろう。
 僕が愛したあの子は、死んでしまったんだ。

 ***

 最後の言葉を口にすると、理人君は、それまで滑らかに語っていたのが嘘のように、ガックリと力なく項垂れた。
 さっきまでとは一転、コンセントを抜かれたテレビのように、ブツッと一気に勢いをなくしている。

 理人君は話している間、異様に目がギラギラ輝いていたり、無気力そうになったりと、忙しなかった。
 情緒不安定。
 今の理人君を一言で表すならば、その言葉がピッタリだろう。

 私は、話を聞いていて、何度もおかしい、と感じた。
 幸はSNSをやっていないんだから、理人君と知り合いになることは、不可能なはず。
 ひょっとして理人君は、嘘を言っているのか? 嘘、というより、虚言癖なのかもしれない。自分の頭の中では本当のことで、記憶もある、というパターン。
 彼はどう見ても、健全な精神状態には見えないし、その可能性はあり得る。
 私がそう考えていると、八代が口を開いた。

 「幸はネットでの付き合いはしない、と何度か言っていたが――考えを変えたのか?」

 尋ねる、というよりも、独り言のようなニュアンスだったが、私は、「いや」とそれに応える。

 「幸はSNSをまったくやってない、ってほんのちょっと前に言ってたばかりだよ」
 「そんなわけないだろ!」

 声を荒らげたのは、理人君だ。弾かれたように立ち上がった勢いで、椅子がひっくり返った。
 その物音にビクリとする。

 「やりとりだってちゃんと残ってるんだ! 君はなんだか疑り深そうな感じだけど、ここにしっかり! ほら!」

 ズイッ! と携帯を突きつけられる。そこには確かに、『幸』というアカウントとのやりとりが、表示されていた。
 理人君が語ってくれた言葉だって、しっかりあった。虚偽ではない。

 「う、うん。わかったよ。疑ってごめんなさい」
 私が頭を下げるのを確認すると、理人君は再び活力が抜けたようで、冷たい床にへたり込んだ。
 そんな彼を、八代が揺さぶる。

 「おい、しっかりしろ。――ごめん、若葉。理人を一旦、俺の家に連れて帰る」
 「わかった。これからどうするかとか、ゆっくり話し合ってね。――出来ないかもしれないけど」

 警察に、理人君のことを話すべきだろう。 
 しかし今の彼の状態で、そういう提案をするのは、非常に良くない気がした。
 それにようやく探していた弟を捕まえたのだ。積もる話もあると思う。警察に行くのは、そのあとでも良いだろう。

 八代に優しく背を押されながら、理人君は帰っていった。
 嵐が過ぎ去った後みたいに、しん、とした病室に一人取り残される。

 私の頭の中は、大混乱を極めていた。
 なんとか冷静にならなければ。そして考えをまとめなければいけない。

 『幸』というアカウントは確かにあって、理人君に連絡を送り続けていた。
 そして幸の自宅の場所を教え、実際に理人君は家に来た。
 思い付いた可能性は二つある。

 一つ目は、幸が嘘をついていた場合。本当はSNSをやっていたし、ストーカー(理人君)のこともわかっていた。
 二つ目は、誰かが幸の名前を借りて、SNSをしていた場合。

 前者は考えづらい。だってもしそうなら、何のために幸はそんなことをしたのか。
 表向きは怯えた振りをして、裏では理人君に、待ち合わせの内容の連絡をするのは、意味不明である。
 それに、いざその場に来た時、幸は全力で逃げた。
 前者の可能性を考えれば考えるほど、幸の行動は不可解だ。狙いがわからない。幸が二重人格者でもない限り、納得できない。
 となると、やはり後者の線が濃厚だろう。

 『幸』というアカウント名で、理人君を招いた人物。一体何者なのか——。
 ふと既視感を覚える。
 なんだか前にもこんなふうに、思い付いたパターンの中から、どれだろう、と悩んだことがあったような――。

 そうだ。思い出した。
 事故の当日、マミから幸へ『踊り場で体操服を渡しに来て』とメッセージがあったらしいにも関わらず、マミが学校に来ていない、と知った時のことだ。

 あのときも、幸が嘘をついているパターンと、マミのイタズラのパターン、マミの振りをした誰かが、メッセージを打ったパターンを考えていた。
 あれは一体何だったんだろう。マミに訊いてみたいけれど、しばらく携帯は見れない、ということだから、退院したあとに直接会って訊くしかない。

 そういえばマミは、何故か私服で学校に来ていたな。
 その時、彼女の発言が、ふっと思い出された。

 『起きたら制服がなくなってて――』

 制服がなくなってる? 何で? 下着泥棒ならぬ制服泥棒?
 目を閉じて、あの日のマミを鮮明に思い起こそうとする。
 ボサボサの髪。何も飾られていない顔。目覚めてすぐに、家を飛び出したような風貌だった。
 マミがあの格好のまま、外に出るとは思えない。切羽詰まっていたことは、本当と考えられる。
 だからマミのイタズラ、という可能性は除外していいだろう。

 「じゃあ幸が嘘ついてたって線は……?」
 いや、本当は連絡が来てなかったとしたら、マミにメッセージのことを尋ねた時、「何それ?」という反応が返ってきたはずだ。
 『踊り場に行かないと!』とマミが言っていたから、メッセージのやりとりは行われていたと思って良いだろう。
 じゃあ――。

 そんなまさか、と思いながらも、考えたことを組み立てていく。
 マミは眠っている間に、携帯を操作されて、学校に行けないように制服を隠された。
 誰がそんなことをしたのかはわからないが、とにかくその“誰か”が、マミを騙って幸をおびき寄せようとしたんだ。
 ということは――。

 「事故じゃなかった……!?」

 幸の転落は、事故じゃなくて、幸を踊り場におびき寄せた人物によって起こされた事件ってこと!?

 「じゃあ最初の世界線でも……?」

 落下した幸の近くに、ポーチが落ちていた、と言われたことを思い出す。
 タイムリープする前に起きた転落事故にも、ポーチは落ちていた。
 それの存在によって、事故と判断されたんだと思う。
 思わず身を乗り出したことで、転落してしまったんだと。
 担任からポーチが落ちてた、と伝えられた時は、幸の転落死は運命で、タイムリープしたとしても変えられない事象なのか、と絶望していたが、違ったのかもしれない。
 幸は事故で死んだんじゃなくて、誰かに殺された。その“誰か”は事故に見えるように、ポーチも落とした――。

 恐ろしい考えに、手がブルブル震える。
 幸に殺意を抱いていた人物――その存在に、まったく気づかなかった。最初の世界でも、タイムリープしてからの、警戒しながら過ごしていた日々でも。
 間違いない。その人物がネット上で『幸』を騙り、理人君をそそのかして、幸を殺させようと仕組んだ。
 理人君が失敗したと知ったその人物は、『自分で手にかけるしかない』と事故に見せかけて殺そうとしたんだ。

 そうなると、最初の世界線でも、理人君に殺害させようとした可能性が高い。
 しかし彼は、再び幸の前に現れることはなかった。隠れて見ていたのかもしれないが……。そういえば、付きまとう理人君に気づいたのは、二回とも私からだった。私が注意してなければ、幸はいつまでも気付かなかったかもしれない。
 ならば、最初の世界線の幸の認識では、一回家にちょっとおかしな人が来た、くらいのもので、それから理人君と会うことはなかったんだろう。
 たびたび話しかけられていたら、さすがに周りに相談するはずだ。

 理人君は、一回幸に見つかりそうになってから、『妙な快感を覚えた』と言っていた。
 私が見つけなければ、幸をストーカーすることはやめて、あそこまで感情を高ぶらせることはなかったのかもしれない。
 八代の弟が、軽い気持ちで人を殺そうとする人間だと、私は思いたくなかった。
 限界まで揺さぶられて、最高に――最悪にハイになった末の、殺意と行動。何かが少しでも違ってさえいれば、理人君はあんな凶行には及ばなかった、と信じたかった。

 いずれにしても、理人君を利用できないことがわかった犯人は、新たな作戦を練る。
 それが事故に見せかけて、学校の4階から突き落とす、というものだった。
 その犯人は一体誰なんだろう。
 幸の死を望む人物――そんな人がはたして、身の回りにいただろうか。
 過去の記憶を掘り返してみる。

 最初の世界線では、マミを使って幸をおびき寄せることはできないはず。つまり犯人は自分で幸を4階に呼び出さなくてはならない。
 最初の転落事件が起きる直前、幸は『用事を済ませてから理科室に行く』と言っていた。あれは犯人に呼ばれていたのだ。
 あの日も4階が空だった。1年の1、2組の時間割を把握している者でないと、事は起こせない。
 同じ学校の人間なら、もちろん知れるし、幸を呼びつけるのも、簡単だろう。
 最初の世界線で、誰か怪しい人物はいただろうか。違和感はなかったか――。

 幸を裏で悪く言う女子たちは、何人かいたものの、殺したいほど憎い、と思ってそうな人物は、思い浮かばなかった。
 ちょっとムカつく、ちょっと鼻につく。そんな軽い苛立ちしか向けられてなかったはずだ。
 マミの家に入れるくらいなのだから、2組の人だろうか。マミの友達の誰か……?
 そこまで考えてから、あっ、と気づいた。

 犯人は、先週の日曜日に、幸があの丘に来ることを把握している人物に絞られることに。
 理人君にナイフを持ってくるよう指示した『幸』は、人気のない丘の頂上で、二人を会わせようとした。
 幸がどんな反応をするのかも、それによって理人君がどう動くのかも、その人物は予想していた。
 私たちが駆けつけて来なければ、きっとそいつの思惑通りにいっていた。恐ろしいことだ。

 日曜日のピクニックのことを知っていたのは、私と樹里亜と大和さん。
 私のわかっている限りでは、だけれど。

 犯人が、幸を尾行していて、帰り道の会話も聞かれていた、ということなら、候補はまったく絞れなくなってしまう。
 しかしマミは、ファミレスで私がピクニックの話をした時に、初めて知った、という態度を取っていたんだから、友達に直接話していないことは、確かだ。
 じゃあ、マミの友達をとりあえず除外するとしたら、犯人の候補は――。
 今日会った大和さんの顔が、ぽわんと浮かんできた。

 「いやいや!」
 ブンブンと頭を強く振る。浮かんできた考えを追い出すように。
 樹里亜は、目を覚まさない幸を見て、大きく取り乱したという。いくら何でも、大切な恋人を悲しませるような真似までして、夢を叶えようとはしないだろう。

 でも……あの日結局、待ち合わせ場所に来なかった。
 幸を殺すことが目的なら、当然来ない。理人君と二人きりにさせたいから。
 大和さんが犯人だった場合、辻褄が合う。
 幸の家の場所を、理人君に教えることができる。ピクニックの提案をして、樹里亜を自分のそばに置いておけば、邪魔される心配はない。
 自宅を出る直前になったら、『親の具合が悪くなった』と嘘をつき、幸のところには向かわなくて良いようにする。
 親には、『体調がすぐれないふりをしてくれ』とあらかじめ頼んでおけば、樹里亜にも怪しまれなくて済む。

 信じたくないのに、どんどん思考が深みに落ちていく。と、危うくなっていく自分に気付いて、はぁ……とため息を吐く。
 やめだ、やめ。今の私は、冷静になれていない。もう少し精神的に落ち着いた状態でものを考えないと、穿った思考に陥るだけだ。

 今日は、目覚めてから色々ありすぎた。一旦寝よう。大事なことは、睡眠を取ってから、ゆっくり考えるべきだ。
 布団を被り、目を閉じる。

 明日、八代に連絡してみよう。一人で考えすぎるのは、良くない。私はただでさえ、短絡的な人間なんだから。

 決意を固めて、身体の力を抜くと、すうっと眠りの世界へ誘われた。
 翌日になり、八代に『話したいことがあるの』とメッセージしようとしたら、部屋のドアをノックする音がした。

 「襟人だ。入っていいか?」

 ちょうど良かった。
 理人君のことで、てんやわんやになるだろうから、メッセージで妥協しようとしたけれど、本当は直接会って伝えたかったので、こうして来てくれたことは、願ったり叶ったりだ。
 入ってきたのは、八代だけではなかった。

 「一人にしない方が良さそうだったから、連れてきた」
 「……こんにちは」

 理人君は、小さな声と共に、頭をわずかに下げた。
 どう接すれば良いのかわからない、といった風だった。
 私は、気まずそうな理人君を、安心させるように口角を上げる。

 「こんにちは。もう聞いてるかもしれないけど、私は若葉悠。八代とは仲良くしてもらってるの。あっ、ごめん。どっちも八代だったね」

 おかしそうに笑ってみたが、「はぁ……」と、ため息だか返答だかわからない反応がきただけだった。

 「検査はいつ頃なんだ?」
 八代が尋ねてくる。
 「11時。もうすぐだね」
 時計を見つめながら言う。現在の時刻は10時20分だ。あともう少ししたら、医師がこの部屋にくる。

 「たぶん大丈夫だと思うんだけど……頭が痛いとか、記憶が困惑してるとかもないし。検査が終わったら、すぐに退院できるんじゃないかな」
 「一人で帰るのか?」
 「うん。両親も『一人で帰ってきなさい』って言ってるし」
 「そうか……。なら、家まで送らせてもらえないか?」
 「うん。私も誰かと帰る方が嬉しいし。じゃあ検査が終わるまで、少し待ってて」
 「おう」

 会話が途切れたところで、理人君を見遣る。
 彼は、挨拶を終えてすぐ、すべきことは終えた、とばかりに、私たちから離れた病室の隅で、目を合わせないようにと、壁を見続けていた。
 理人君にも話すべきだろうか。
 昨夜たどり着いた結論を。

 「八代」
 ちょいちょい、と手招きして、耳を貸すように指示する。

 「理人君に、幸がネット上で励ましてくれた子じゃない、ってこと話したの?」

 八代も、幸はSNSをやっていない、という認識なので、理人君の話を聞いて、思わず口を挟みそうになっていた。私と同じタイミングで、同じ表情をしていた。

 「言ってない。昨日俺の家に連れ帰ったら、泥のように眠っちまってな。朝まで一度も目を覚めなかった」

 言いづらかったというのもあるのだろう。八代は、ばつが悪そうにしていた。

 「そっか……。じゃあひとまず、出ていってもらった方が良いかな」
 「何か重要なことがわかったのか?」
 「うん。本当に大事な話」
 私が神妙に頷くと、彼からも緊張が伝わってきた。

 「悪い、理人。ちょっと席を外してくれ。終わったら呼ぶから、病院の敷地からは出るんじゃねーぞ」

 理人君は、返事はせずに、大人しく病室を出ていった。
 何年か離れていた兄との距離感を、掴めていないのか、はたまた親しくする気がないのか。彼は八代と一緒にいることを、嫌がっているようだった。
 八代が、思わずといった様子で、深いため息をつく。

 「なかなか難しそうな感じだね、彼」
 「そうだな。そりゃあ、あいつからしたら、気まずいことこの上ないだろうけど――俺はもう少し理人と会話したいよ」
 「ずっと会いたかったんだもんね」
 「まあ、言うことは聞いてくれる。『見舞いに行くから、ついてこい』って言ったら、こうして来てくれたしな。でもそれは――自暴自棄な状態だからなのかもな」

 もう何もかもどうでもいい気がする――。
 昨日、とてつもない脱力感と共に、理人君はそう口にした。
 私は、犯人に対して、改めて怒りが湧いてきた。
 人の弱さにつけこんで、目的を達成するための道具にするなんて、なんて酷い奴なんだ。
 人の皮を被った鬼、そう表すのがぴったりだ。

 「それで大事な話ってのは?」
 「実は――」


 まず、マミから幸へ送られていたというメッセージの内容と、あの日のマミの不思議な発言について説明した。
 マミの知人の誰かが、幸を殺そうとしたんじゃないか。そしてその人が、理人君を騙した人物なのでは? という私の予想に、八代は息を飲んだ。

 「そいつが幸を突き落とした、って若葉は思ってるんだな?」
 こくりと頷く。
 数回の瞬きを挟んで、私は重い口を開いた。
 「その人のことなんだけど――私は大和さん、なんじゃないか、って思ってるの」
 「は?」

 想像していた通りの、面食らったような反応が返ってくる。

 「だって……マミの家に入れそうで、幸が先週の日曜日に、丘にいることを知ってる人ってなると、大和さんと樹里亜しかいないじゃない」
 「でも動機は――家のことか」

 八代が、反論しようとして、口をつぐむ。
 それから顎に大きな手を当てて、思案する姿勢に入った。

 「大和さんのお母さんがさ、具合悪くなった、ってことで、丘に来なかったでしょ? それ本当だったのかな、と思っちゃって」
 八代は、悩むように小さく唸る。
 それに被せるみたいに、言葉を続けた。

 「事件の日、樹里亜には買い物とか言って、実家を出た後、マミの家に行って、彼女を眠らせてからメッセージを打つ。万が一を考えて、目覚めたマミが学校に行かないように制服を隠す。そして自分は学校に忍び込んで、幸を突き落とす。うちの学校はセキュリティ甘いから、けっこう簡単に侵入できると思う」

 そこまで一気に語って、呼吸をおろそかにしていたことを自覚する。
 滑り出す言葉を止められなくなっていた。口に出すことで、恐怖は増していくのに、言わなければ言わないで、気がおかしくなりそうだった。

 「6月1日――」
 「え?」
 「6月1日に、幸が宅配を受け取りたいから、って言って、学校を休もうとしただろ」
 「う、うん」

 あの日の朝。幸は樹里亜に、家にいるように頼まれていた。
 自分では受け取れないから、と幸に手を合わせてきたという。

 「確か――樹里亜が彼氏に『今から忘れ物届けに来てほしい』って言われたから、幸に家にいて宅配便を受け取って、と頼んだ、みたいな話だったよな?」
 「あっ!」

 そうだった。あの日樹里亜は、大和さんに呼び出されていたのだ。
 彼は、理人君と幸を二人きりにするために、樹里亜を自宅から引き剥がそうとしたのだろうか——。

 「彼氏だったら、俺の存在を知らなかった可能性が高い。樹里亜さえ家から遠ざければ、と思ったんだろうな」
 そう口にしてすぐに、慌てて顔の前で手を振る。

 「予想でしかないぞ。あくまで大和さんが犯人だったら、って仮定した場合だ」
 「あ、ああ。うん……」
 「そもそも、折野に聞かねぇと。月曜日にあいつんちに来たのは、誰だったのか」
 「そうだね。マミに会えば――わかるよね」

 幸が転落した日に、マミのところで何があったのか。
 彼女に会いに行けば、全て明るみになるはずだ。
 検査は無事に終わり、すぐに退院できる運びとなった。
 病室で、着替えやら何やらをまとめる。といってもそれほど量は多くなかったので、すぐに終わった。

 両親は、やはりというべきか、最低限の着替えを持ってきただけで、すぐに病院を去っていったらしい。看護士に聞いたことだ。着替えを持ってきてくれただけ、感謝するべきなのかもしれない。
 看護士さんは、「しっかりと見るのが辛かったのよ」と励ましてくれたけれど、私の心は、不思議なほどに穏やかだった。

 へぇ、そうなんだ。としか思わなかった。
 胸に手を当ててみても、そこが痛む気配は別段ない。
 その理由はきっと――。

 「お待たせ」
 部屋の前で待ってくれていた八代と理人君に、声をかける。

 「じゃあ行くか。貸せ」
 八代が、私の持つ軽いバッグを見て、指先をクイっと動かす。

 「これくらい持てるから」
 「しばらく寝たきりだったんだ。荷物持って自宅までの距離を歩くのは、想像してるよりもきついと思うぞ」
 「じゃあお言葉に甘えて――。ていうかそういう八代は寝たの? 昨日見たときは、隈すごかったんだけど」

 彼の方こそ心配だ。ちゃんと眠れたのだろうか。探るように、八代の顔をまじまじと見る。

 「よし、隈はないね」
 満足げに頷くと、これまで全然口を開かなかった理人君が、尋ねてくる。
 「二人は恋人同士なの?」

 微かな好奇心を瞳に宿して、首を傾げる理人君に、私の羞恥心が掻き立てられる。

 「ち、違いますっ! ただの友達、だから……」
 「ただの友達のために、三日間付きっきりになるもんなの?」
 「なる! なりますっ! 心の友なの、私と八代は!」

 理人君が、食いぎみに反論する私から視線を外した。
 そして八代の方を見上げ、「へぇ……」と呟く。
 私は、どうにも恥ずかしくて、自身の足下へと目線を逃がす。
 八代は今、どんな顔をしているんだろう。気になりながらも、それを確かめる勇気は出なかった。

 「距離も何だか近いし、てっきりそういう関係かと思った」
 理人君は、つまらなそうに溢した。
 私は八代から気付かれないように、そっと二歩分くらい離れる。
 受付のお姉さんに軽く会釈して、病院を出ていった。


 「お待たせ」
 「おう」
 互いに帰宅後少しして、私たちはコンビニの前で待ち合わせた。

 「理人君、大丈夫そう?」
 「帰ってくるなり、眠ってんだ。『ちょっと出てくる』って置き手紙して、鍵かけて出てきた」
 「そう。——じゃあ行こうか」

 口にすると、どきどきしてきた。これからとる行動で、幸を殺そうとした犯人がわかる。
 そう思うと、踏み出す一歩がやけに重く感じた。
 『折野』という表札をつけた一軒家のインターホンを、おずおずと押す。

 ピンポーンと音が鳴り、即座に「はーい」と女性の声が返ってきた。
 ドアの隙間から顔を覗かせたのは、マミの面影を感じさせる中年の女性だった。

 「すみません。私たち折野マミさんの友達です。マミさんに会いたいのですが……今、彼女はどんな様子でしょうか」

 落ち込んでいて、人と会うような気分ではないかもしれない。そんな思いを込めて、尋ねたのだが、マミの母親が返してきた言葉は、意外なものだった。

 「ごめんね、マミは何日か前から、友達の家に行っているのよ。お泊まり会なんですって。だから今、家にいないわ」
 「え?」

 戸惑う私に気付かず、娘の友達と知って安心したマミの母親は、家の中から出て、後ろ手にドアを閉めた。

 「いつだったかしら。暗くなっても学校から帰ってこなくて心配していたら、『しばらく友達の家に泊まる』ってメールが来てね。それにしても随分長いお泊まり会ね。今日まで一度も帰って来てないんだもの」

 ポカンとした私たちを置いてけぼりにして、さらに続ける。

 「学校に持っていく物や着替えも、『問題ないから』って。この前ちょっと口喧嘩しちゃったから、家出かしら。誰の家にいるの、って聞いても、返信来ないのよ。まあ、あの子のことだから、ほとぼりが冷めたら帰ってくると思うけど」

 口を挟む間もないほどの早口を披露した後、マミの母親は息を吐き出した。
 一息に話して疲れた、といった様子だけど、きっと帰ってこない娘を、心配する気持ちも混ざっているのだろう。

 「それは――何曜日のことですか」
 「ええっと……確か月曜――そう! 今週の月曜日だった。間違いないわ」

 自信ありげに笑顔を向けられ、「ありがとうございます」と頭を下げたが、心の中は違和感でいっぱいになっていた。

 「あの子が誰のお家に行ったのか、知らない? ええっと、ごめんなさい。誰さんかしら」
 「若葉です。こっちの男子は、八代です」

 私に指し示され、八代が小さく会釈する。

 「マミが誰の家に行ったのかは、わからないです。すみません」
 「こちらこそわざわざ足を運んでくれたのに、何だかごめんなさいね」

 マミの母は、申し訳なさそうに右頬に手を当てた。

 「これからもマミと仲良くしてね」

 その言葉に見送られて、私たちはマミの家をあとにした。
 「家にいなかったとは……」

 何とも肩透かしだ。期待と不安で膨らんでいた心が、落胆に染まっていく。

 「友達のところ、って……意外だな。てっきり塞ぎ込んで、ずっと家にいるのかと思ってた。でもわかんないか。楽しいことをして、気持ちをまぎらわせたいのかもしれないし」
 「それもそうだね」

 八代の言葉に頷く。
 辛いことがあった時の対応の仕方は、千差万別なのだから。
 住宅街の中を、すたすたと歩いていく。

 「それにしても、無駄足になっちゃったね。友達の家か――。正直マミの交友関係に詳しくないんだよね。八代はどう? マミからそういう話されたことある? もし心当たりがあるんなら言って。――八代?」

 反応がないのを不審に思って振り返ると、すぐ後ろにいると思っていた八代は、20メートルくらい離れた場所に立っていた。

 「どうしたの? ぼんやりして」

 引き返して様子を伺うと、彼は眉間に皺を寄せて、黙考していた。
 大事なことを思い出そうとしているような真剣な姿に、私も黙って彼の顔を見る。

 「犯人は、折野を眠らせたんだよな?」

 八代は、私の存在に気づいたみたいで、確認を取るように訊いてくる。

 「うん。その間に携帯を操作して、制服を隠した――。私の考えではね」
 「だったら、折野の携帯で送ったメッセージの、送信取り消しをするんじゃないか? 折野が起きた時に、内容を見られないように」
 「あっ!」

 そうだ。そうしないとマミに犯行がバレてしまう。

 送信取り消しをしたことは、表示されるけれど、私たち学生の間で、せっかく送ったメッセージを削除するのは、ありがちだった。

 グループなどでは、殊更に見受けられる。
 当たり障りのない普通のメッセージが、少し経ったら取り消されていて、『えっ、何が駄目だったの?』と首を傾げたことが、何度もあった。

 それに最悪、寝ぼけていた、ということにして、マミを納得させられる。メッセージを残したままよりずっと良いはずだった。

 「犯人が、マミが目覚めるっていう万が一を考えてたんなら、携帯だって隠すなり持っていくなりするんじゃないか?」
 「それは……」

 マミの携帯の存在。
 言われてみれば、すぐにわかることだった。どうして考えている時や、話している最中に気付けなかったのだろう。

 「じゃあ犯人は、マミが目覚めた時の保険として、制服を隠したんじゃなくて――着ていった……?」

 制服は目的を遂行するのに、必要不可欠な道具だった。だからマミの家からなくなっていた。
 私の思考を読んだように、八代が言葉を続ける。

 「万が一は考えてなかった。折野が途中で目を覚ますなんて、犯人にとって予想外のことだったんじゃないか?」

 だとすれば、犯人は……。
 私は半ば独り言のように言う。

 「幸を突き落とすことに成功したら、マミの家に制服を返しに来て、メッセージもその時消すつもりだった――」

 ということは、犯人は大和さんじゃない。マミの制服を着ていくのだから、年の近い女性に絞られる。

 「じゃあまさか――」

 口を鯉のように、パクパクと動かす。間抜けな様だが、そんなふうにならざるを得ないほどの衝撃が、全身を撃ち抜いた。

 八代も、小さく唸りながら顔を覆ったり、聞き取れない声で、何か言っていたりと、酷く困惑している様子だった。
 幸の家のインターホンを押す。

 雑草が伸び始めている庭が、落ち着かない。手入れのされていない大きな屋敷に、薄ら寒い恐怖を覚える。

 しばしの混乱の後に私たちは、幸の家へ行くべき、という結論に至った。
 そこに行けば、目当ての人物に会えるかもしれないから。

 道中両者共に、一言も言葉を発さなかった。
 重苦しい空気が、ここに来るまでの間に、ずっと流れていた。

 インターホンを押した瞬間、その空気は一層圧を増した。
 静謐の中に割り込んできた、和やかなメロディーに、反応するような気配は、中から感じられなかった。

 もう一度押してみる。
 ピンポーン……。
 一分ほど待ってみても、扉の向こうからは、何のリアクションも得られなかった。

 ガックリと肩を落とした時、妙な音が聞こえてきた。

 動物が窓に向かって体当たりしているみたいな音が、訴えるようにガンガンと響いている。
 ぎょっとして、音がする方へ駆けていく。

 家の裏側に近い場所――カーテンに閉ざされて部屋の中は見えないが、内側から窓ガラスを叩く振動が伝わってきた。

 ここは確か、物置にしていると幸が以前言っていたはずだ。ならば、この音を発しているのは一体――。

 「八代! 合鍵持ってるんだよね?」
 「ああ。家の中に入るぞ!」

 玄関へ戻り、八代が鍵を開けるのを、もどかしい思いで眺める。

 あそこにいるであろう人物は、助けを求めている気がする。壁越しの音だけのコミュニケーションでも、相手の切実な思いが伝わってきた。
 解錠を確認したとたん、お邪魔します、も言わないで、物置部屋へと突っ走る。

 廊下を抜けて、部屋の引戸を開けると、異臭が鼻を襲った。
 思い切り顔をしかめた後、部屋の中の異様な状況に目を見張る。

 ヒーターや扇風機が置かれている部屋。その中央に、少女がうつ伏せで倒れていた。

 上半身全体は、縄で拘束されている。手首は後ろ手に、指一本も動かせないまでにきつく縛られていて、足首も同様だった。

 さながら蓑虫のごとき状態の彼女は、全ての力を出し尽くしたように、ぐったりとしている。

 「だ、大丈夫ですか!? どうしてこんな――」

 部屋の中へ足を踏み入れると、靴下の布地を通して、冷たい液体が足の皮膚に伝播していく。
 真下を見遣ると、床に水溜まりがあった。よく見ると水溜まりは、部屋全体に広く浅く行き渡っている。

 ぎょっと目を見開く。顔中の毛穴をこじ開けるように、水溜まりに注意を向けさせられ、遅れて理解できた。
 尿だ。それも何日間に渡って、室内に蓄積された大量の。異臭の正体は、これだったのだ。

 「ひっ!」
 物も言えずに怯えていると、背後から慌ただしい足音が近づいてきた。

 「若葉! さっきの物音は何だった、んだ――」
 私の肩越しに、部屋の中の惨状を見た八代は、言葉を詰まらせる。

 「おい、しっかりしろ! おい!」
 八代は、床に伏した少女の肩を掴んで、起き上がらせる。

 少女の顔が明らかになった。
 その瞬間、日常離れした恐怖に震えていた私の身体が、ぴたりと停止した。
 あまりの衝撃によって、自身が現実にいる感覚が、一気に薄くなり、そのまま消えてしまいそうになる。

 「マミ……」
 数日ぶりのマミは、衰弱し切っていた。

 顔色は紙のように真っ白で、健康そうに上気していた赤い頬は、見る影もない。半開きの口の端に、べったりとした髪の毛が、一本引っ付いている。

 八代が、意識のないマミの鼻へ耳を近づけ、ホッとした表情を浮かべる。息はあるみたいだ。
 良かった、と思ったところで、すべきことにようやく気がつく。

 ポケットから携帯を取り出し、イチ、イチ、キュウを押す。
 八代は、固く結ばれた縄を外そうと、四苦八苦していた。
 結局また、病院に戻ってしまった。

 すぐに来てくれた救急車によって、マミは運ばれた。
 私と八代も同乗して、救急隊員に何があったのか訊かれたが、何もわからないのだと、首を振ることしかできなかった。

 そうして、現在医師に診てもらっているマミを、誰もいなくなった待合室の長ソファーで待っているところなのだが――。

 私は、どうにも大人しく座っていることができず、数分ごとに立ち上がり、静まり返った室内をうろうろと歩き回っていた。

 八代は、そんな私の動向を気に留めることなく、険しい顔でじっと虚空を見つめている。

 永遠かと思うほどの30分間の後、やっとのことで医師が私たちのもとへ来た。

 「折野さんですが、命に別状はありません。もっともあと一日でも発見が遅れていたら、危なかったですが……」

 医師の言葉を受けて吐いた深い安堵のため息が、八代とシンクロする。

 「今日幸の家に行って、本当に良かったな」
 八代が、安心感の裏に恐怖を含ませて、ポツリと呟いた。

 「今、折野さんは眠っています。今日のところはお帰り願えますか」
 医師に繰り返しお礼を言って、すっかり暗くなった街を、どこか呆然としながら歩いた。

 「なぁ」
 八代が沈黙を破る。
 「明日行くだろ? 病院」
 もちろん、と頷く。

 「沢山訊きたいことがあるもん。――正直、予想はついてるけどね。何であそこにあんな格好でいたのかとか」

 小刻みに暴れる拳を、グッと力を入れて、抑え込む。

 「でもちゃんと本人の口から訊かなきゃ。予想は予想でしかないから」
 「じゃあ朝イチに病院で」
 「うん。送ってくれてありがとう」

 自宅の門の前で、八代に手を振り、ふと思い出した。

 「そういえば、理人君は大丈夫なの? 思ったよりずっと遅くなっちゃったけど……」
 「ああ。家には連絡しといたよ。『出掛けないから大丈夫』って言ってた」
 「そっか。なら良いんだけど」
 「じゃあ、また明日な」
 「うん。おやすみなさい」

 ドアを閉めると、真っ暗な我が家が出迎えてきた。
 何かに急かされるように、リビングの電気を慌ててつける。家の中が明るくなりホッとすると、二人掛けのソファーにどっかりと身体を預けた。

 「ふー……」
 疲れた――。
 ここ最近、頭がパンクしそうだ。もともと冷静な性格でもないのに、心を掻き乱す事件が起こりすぎだ。

 目を閉じると、マミの無惨な姿が瞼の裏に映し出された。悪寒が背筋を這い、弾かれたように立ち上がる。

 油断すると浮かんできそうになる恐ろしい光景を追い出すために、見たくもないテレビをつける。
 バラエティ番組で司会者が飛ばす冗談が、こことは違う隔たれた世界の出来事のようだった。

 2、3分間頑張ったものの、駄目だった。テレビの中で交わされるやり取りが、異国語みたいに、耳に入ってこない。
 落胆しながら、リモコンの電源ボタンを押した。楽しそうな声が、ブツッと切られる。

 足下に視線を向け、そうだ、洗濯をしなければ、と思い当たる。
 今の私は、裸足だった。そんなことにも注意が向かなかったのか、と自覚して、頭を抱えた。
 靴下を濡らした私は、幸の家のポリ袋を借りて、ここまで持ち運んできていた。

 臭う靴下を手洗いしながら、ぼんやりと考える。

 床に伏したマミを見て、一瞬死んでいるのかと思った。ちょっと前まで窓に体当たりしていたのだから、そんなわけはない、とわかるけれど。

 あの時のマミからは、死の気配をありありと感じた。覇気を失った彼女の姿は、私を恐怖のどん底に落とすのには充分すぎた。

 現代で八代に刺された時。夏祭りの夜に、正気を失った男に首を絞められた時。
 あの時と同じ感覚だ。

 私は、死が目と鼻の先にまで近づいてくると、みっともなく号泣したくなるのだ。
 自律神経が乱れていくのを感じる。

 「怖い……」
 自身の部屋に駆け込み、ベッドに身を投じる。

 首だけを窓に向けると、半開きのカーテンから、真っ黒な景色が見えた。
 薄暗い部屋で、押し入れがわずかに開いてるのを見てしまったように、反射的に目を背ける。

 見えない何かに存在ごと抹消されそうな錯覚に襲われ、身を守るように布団に被さった。
 電気はつけたままが良い。今は暗闇が耐えられない、とシーツを握りしめた。

 八代はどんな気持ちで眠るのだろう。

 そんなことをふっと思い、彼が少しでも同じ心情でいてくれたら、救われるような気がした。
 早く朝になれ、と願い続けていたら、いつの間にか眠っていたらしい。
 半開きのままのカーテンの隙間から、朝日が部屋中に降り注いでいた。
 枕元の時計を見遣る。6時を少し過ぎたところだった。

 「起きるか……」
 一晩眠れば、暗い気分も結構軽くなるみたいで、昨夜私を襲ったわけのわからない感傷は、もう消えていた。

 今日は、マミに会いに行く日。
 犯人を確かめに行く日。
 洗面台の前で、覚悟を固めるように、そう呟いた。



 病室の入り口近くのベンチに、八代は座っていた。
 手を振りながら近づくと、八代の隣にもう一人座っていることに気づく。
 理人君だ。相変わらず元気がなさそうに、地面を見つめている。

 「おはよう、理人君も来たんだ」
 「おう。『病院行くけどどうする?』って訊いたら、行きたがったから」

 幸の様子を見たいのだろうか。そう思っていると、八代が察したように耳打ちしてきた。

 「大丈夫だ。一人で幸のところへは行かせないから」
 それを聞き、安心する。

 今の屍のような理人君なら何もしなさそうだが、一度幸を殺そうとした人物である以上、どうしたって不安は拭えなかったから。

 「じゃ、行こうか。マミのところへ」



 「マミ? 悠だけど……。今入っても良い?」

 病室の扉をコンコンと叩く。そもそも起きてるのかな、と思って耳をすましてみると、「いいよ」とか細い声がした。
 扉を開けると、マミはベッドに仰向けで寝そべっていた。

 「ごめん。身体起こすのキツくて。襟人さんと――誰?」

 八代の後ろにいる理人君を、マミは訝しそうに見遣る。

 「俺の弟だ。朝からゾロゾロと悪い」
 「へぇ……弟さんですか」

 弟、という言葉に、興味を示したようで、理人君をじいっと見るが、好奇の目を向けられた彼は、居心地悪そうにそっぽを向いてしまった。
 マミは、関心を失ったみたいで、私に視線を移す。

 「お見舞いに来てくれたの? ありがとう」
 血色が良さそうな彼女を見て、胸を撫で下ろす。

 「体調は、どう?」
 「昨日、点滴打ってもらってから、だいぶ楽になった。まだあちこち痛いけどね」

 長時間苦しい体勢でいたのだから、当然だろう。気の毒そうに眉をよせると、マミが言った。

 「わたし話さなきゃいけないことがあるの。悠と襟人さんに。ううん、他にも色々な人に説明しなきゃなんだけど……」
 「ああ。俺たちも折野に確認したいことがある」

 八代が、真剣な表情でマミを見下ろす。その隣で私も、固唾を飲む。

 「えっと、弟さんはどうします? 暗い話になるんで、聞くのはおすすめしませんけど……」

 そう言って理人君を、困ったように見る。あまり他人に聞かれたくないみたいだ。
 けれど理人君を病院で一人にするわけにはいかない。どうする? と八代にアイコンタクトすると、

 「若葉が聞いて、後で俺に話してくれ。朝と同じ場所で待ってるから」
 と返ってきたので、わかった、と頷く。

 「こっちの話もちゃんとしとくから」
 「頼んだ」

 理人君を連れて廊下へ出ていく八代を、マミは不思議そうに見送った。

 「何なの? あの弟さん。ちょっと様子がおかしかったし……」
 「それも追々説明するよ。とりあえず――」

 部屋の隅にもたれ掛かっていたパイプ椅子を、ベッドの脇に設置する。
 腰を落ち着けたのを合図に、以前と比べて活力が減った、彼女の顔を覗き込む。

 「幸の家で縛られていた経緯について、話してくれる?」