***
9月3日
今日から日記をつけようと思う。
……のだがとりあえず最初に、過去のことを一通り振り返ることにする。
俺は最初、妻の早苗と二人で暮らしていた。
しかし年々早苗への不満が募っていって、こんなことなら百合を選ぶんだったな、と悔やんでいた。
早苗との間に子供が出来なかったことも後悔している理由だった。俺はすっかり騙された気分になって、毎日早苗に怒っていた。
そんなある日。俺は帰宅途中に、田中に刺された。
田中とは幼馴染みで、ずっと仲良くやっていた。
あいつが昔早苗を好きで、俺と早苗が結婚した直後、ちょっとギクシャクしたけど、それも時間が経つにつれて解決したと思っていたのに。
俺が「やっぱ百合と結婚すれば良かった。二股してた頃に戻って選び直したいよ」とかこぼしたのが良くなかったのか。
田中は俺を刺した後、「やった! 移してやった! これで早苗は俺のところに!」とかヤバい目で高笑いしていた。
死にたくない! と思った時、独身時代のことが頭に浮かんだ。人は死の淵に立った瞬間、一番満たされていた時期を思い出すらしい。
早苗と百合。どちらと結婚するか迷っていたあの頃――。
あの頃に戻って、人生をやり直したい。百合を選べばきっと幸せになれる。
結婚相手を、選び直したい――。
そう強く渇望した時、身体がふっと軽くなった。
気が付いたら、俺は独身時代に住んでたアパートで、百合と抱き合っていた。
少しして、自分がタイムリープしたことを理解した。
とんでもないラッキーが起こった。
俺は飛び上がって喜んだ。
これで幸せな家庭を築ける。さっさと早苗を切って、百合と結婚しよう。
その日の内に俺は早苗に別れ話を告げて、百合にプロポーズした。
予想通りオーケーをもらえて、それからはトントン拍子で結婚準備が進んでいった。
そろそろ終業時間なので、続きは明日にしよう。
9月4日
かくして百合と結婚して、充実した日々を送っていたある日、田中から便りが来た。
早苗と結婚したという報せだった。
それを聞いて、タイムリープ直前、田中が俺を刺した時の発言を思い出した。
あいつは俺を刺して、『移してやった』と言ってた。
田中が持ってたタイムリープ能力を俺が授かったということらしい。
ここでタイムリープ能力について、俺が立てた予想を並べていく。
1 能力は人に移すことができる
2 瀕死の状態にすることで、その人物に能力を譲渡できる
3 能力の保有者の願望に反応し、その願いを成就できる時期に、リープできる
4 能力を使える回数は、限られている
といった感じだ。
田中の発言と行動から立てた予想だ。
わざわざ俺を殺さなくても、自分で願った過去に戻れば良いのに、あいつは俺に移した。
田中はもうタイムリープできないから、俺のぼやきを聞いて、俺に過去を変えてもらおうとしたんだろう。
タイムリープは何回使えるんだろうか。一人一回きりなのか?
疑問に思った俺は、試してみることにした。
9月5日
結果。何度あの頃に戻りたいと念じても、一回も遡れなかった。
思いの強さが足りてないのかもしれない。死を迫られてもいないし。
まあ、こんな素晴らしい能力、一人一回きりなのが妥当なのかもな。
今の生活に満足しているから、別にいいか。もうやり直す必要なんてない。
そう結論付けて、それきり俺は、タイムリープ能力についての解析をやめた。
それから数年後に襟人が生まれて、家庭内はてんやわんやになった。すぐに理人も生まれたから、俺と百合は忙しく幸せな日々に、没頭していった。
俺は、思い描いていた幸福を手にした。
だからこの不思議な出来事も忘れようとしていたのだが、事情が変わったのだ。
10月11日
過去の話が一段落ついたことで少し満足して、しばらく書くのを休んでしまった。
どうして今さらタイムリープのことについて記そうと思ったのか。
俺がこれからすることへの決意を、より強固にするためだ。説明調な文体も、自分の心に言い聞かせるように、と考えてのことだ。
日記を書き始めたのは先月。こんなに時間が経ってもまだ、俺は日和っている。
息子を殺すなんてこと、ためらって当然だ。
10月12日
理人を殺す。
もちろんタイムリープ能力を移すためだ。
何度願っても、過去には戻れなかった。どうやら一人一回きりらしい、と気付いて、それならば田中が俺を襲ったように、俺も理人を死に追い込めばいいのだ、と考えた。
理人は二ヶ月前から学校に行ってない。友達と喧嘩したとか、いや、いじめっ子に目をつけられた、だったか? まあどうでもいい。とにかく人間関係のトラブルだ。
そんな感じで学校に行かなくなったそうだ。くだらない。我が息子とは思えんほど恥ずかしい奴だ。
理人は学校でトラブルが起こる前に戻りたいはずだ。やり直して全部なかったことにすれば、また問題なく通い出す。
理人はよく聞く引きこもりではなく、普通に外出するし、食卓で笑顔を見せることもあった。勉強もしている。
だから落ち込んでるとかじゃなくて、普通に学校に行くのが気まずいだけなんだろう。そうに違いない。
だからちゃんと学校に行けと助言してやってるのに、百合も襟人も賛同してくれない。
理人も、俺に嫌な顔をするようになった。
ふざけるな。正しいのは俺なのに。あいつら全員、一回懲らしめないと気が済まない。
そうだ。どうせ元に戻るんだから、あいつらをズタズタにして憂さ晴らししよう。
理人の不登校がなくなれば、俺は父親としての威厳を保てる。
いつ実行するのが良いだろうか。
10月22日
襟人も俺がタイムリープしなければ、生まれなかったんだよなぁ。
あと7日経てば、襟人の誕生日、というわけで、そんなことをしみじみと考えた。
もっとも祝ってやるつもりなんてないが。
今日襟人に文句を言われた。理人の話を聞いてくれ、だの理人としっかり向き合え、なんてことをぬかしてきた。
何を言ってるんだか。俺が悪いってのか。そんなわけないだろう。理人が全面的に悪い。
百合も俺を悪者にしてくる。ふざけんな!
悩むのはもうやめだ。明日にでも計画を実行に移す。
ちょうど明日は、みんな家にいる予定だしな。
よし。まずは百合から殺そう。それから襟人、最後に理人を殺してタイムリープ能力を移す。
この日記のおかげで、決意することができた。やはり書くことは目標を実現する力になるんだな。
明日が来るのが今から楽しみだ。あいつらをズタズタにできるし、これで人生をやり直せる。
***
全て読み終わった私は、愕然としていた。
こんなの初めてだ。顔面をフルスイングされたみたいな衝撃だった。
八代の父がタイムリーパーだったことも驚愕だが、私の胸を占める感情はそれだけじゃない。
「胸糞悪い……!」
フィクションだと信じたかった。これを書いた奴は、人間のクズだ。
自分が幸せになることしか考えず、家族や他人のことなど何とも思ってない。
たとえ弟君に能力を移すことに成功したとしても、この調子じゃあ、いつか父親としての威厳を失っていただろう。
なんて利己的なんだ。彼のこの行動がどれほど八代や弟君の人生を狂わせたことか。
それに母の百合さんはもう帰って来ないのだ。これがどれだけ悲しいことか。
殺された人だけじゃなく、残された者はやりきれない気持ちを抱え続ける。
よりにもよって父が母の命を奪って、その父もこの世からいなくなるなんて、子どもたちはどんな思いを抱くんだろう。
先ほど別れた八代の顔が脳裏に浮かんだ。
八代は夏祭りの日に、この日記のことを話そうとしていた。
日記の内容について訊いた時の、迷うような表情を思い出す。
私に打ち明けたかったのか? ひとりで抱えるには重すぎる父の秘密について、私と共有したかったのか?
私が昨日、ずっと抱えてた家族へのわだかまりをぶちまけたみたいに。
八代もあの日家族のことを話した拍子に、止められなくなっていたのかもしれない。
『お前だから話したいことがある』
八代はあの日、そう言って何か切りだそうとしてた。
私だったら信じてもらえるかもと期待して、タイムリープについて話そうとしたのか。
私にはそう思えてならなかった。
それなら私も、彼に今まで隠してたことを打ち明けよう。
そうして全て話したら、彼にも協力を仰ぐのだ。
素敵な思いつきに、胸が躍る。
ああ、私が阻止したいことについて八代に話せたら、どんなに心強いだろう。これからは一人で悩まなくて良いんだ。
早速八代に電話をかけようとして、ハッと我に帰る。
明日は大切な予定があるじゃないか。
山田と会う日だ。
打ち明けるのは、幸のストーカー被害が解決してからにしよう。まずその問題を片付けるべきだ、と思った。
「とりあえず明日。山田に会わなきゃ」
よしっ! と口に出して、その勢いでスッと立ち上がり歩き始める。
なんだか全てうまくいきそうな予感が湧いてきて、久しぶりに晴れ晴れとした気分だった。
「山田は午前中部活らしいので、ちょっと遅くなるかもです」
ランチ時のファミレスでマミはそう言って、ドリンクバーから取ってきたココアをストローでかき混ぜた。
氷がぶつかり合う音を聞いて、山田、早く来てくれないかなぁ、と窓から見える雲を眺める。
居心地がよくない面子だ。この間マミへの認識をちょっとは改めたものの、正直あまり仲良くできそうにない。
彼女をどうにも好きになれないのは、恋敵だからという理由もあった。
「昨日の台風すごかったですよね~。大丈夫でした?」
マミが、八代に向かって問う。頬に手を当てて小首を傾げる仕草は、同性から見ても可愛かった。
「うん。何ともなかったよ」
「良かったです~。あ、悠はあの後大丈夫だった? ごめんね、ハブったみたいになっちゃって」
マミの言葉で、昨日の記憶が次々と蘇ってきた。
雨の中八代に出会い、背負われたことから始まり、彼の家に上がったことや、お風呂に入ったこと。服を貸してもらったこと。
そして抱き締められたこと。
私は、動揺が顔に出ないようにヒヤヒヤしながら、答える。
「うん、大丈夫。平気だった。あれは別に気にしなくていいよ」
隣に座る八代の存在を意識させられ、テーブルの上で組んでいた手にギュッと力がこもる。
マミは私をまじまじと見た後、八代に視線を移した。
そして一瞬だけ訝しげな表情を見せた。が、すぐに愛嬌たっぷりの笑顔になる。
「なら良かった! 幸も気にしてたんだよね。悠ちゃんは無事に帰れたかなーって」
そう言いながら、マミは携帯を取り出して、少し操作した。通知でも来ていたのだろう。
「あ、今何分?」
携帯を仕舞おうとするマミに尋ねる。もう12時を過ぎてけっこう経つ気がするのだが、まだ来ないのか。
「12時半だよ。部活って片付けとかもあるし、時間かかんのかもね」
さすがに一時間以内には来ると思うが、こうしてじっと待っているというのは、落ち着かない。
逸る気持ちを抑えようと、ぬるくなったコーヒーを飲み干した。
「襟人さんは部活とかやってましたか?」
マミが興味津々に顔を覗き込む。
「いや、どこにも入ってなかった」
「そうですか~。ちなみにわたしはテニスやってました! 高校に入ってやめちゃいましたけど……。あ、樹里亜先輩もテニス部だったんです。その時から良くしてくれてて」
「樹里亜さんとはどんな感じだったの?」
マミが樹里亜に特別懐くのには、何か理由があるのか気になって、尋ねてみる。
すると、よく訊いてくれた、と言わんばかりに、マミが得意げな顔になった。
「樹里亜先輩はね、わたしを助けてくれたんだ」
マミは、大事な思い出を懐かしむように語り出した。
「わたしが入ってた女子テニス部にはさ、部員同士のいざこざとか意地悪が頻繁にあったんだ。まあ女子しかいない部活では、ありがちな話だよね。
わたしが部内で浮いてた時期もあった。最初のうちは我慢できてたんだけど、時間が経っても治まらなかったから、ホントは嫌だったけど退部しようと思ったの。でも……退部届出そうとした時、樹里亜先輩に声かけられて」
『大丈夫? 私に出来ることがあったら言って。力になるから』
そう言ってきた樹里亜に、マミは全て話した。
樹里亜は部内でそんなことがあったとは気付かずに、話を聞いて大層驚き、憤慨したという。
「樹里亜先輩ってそういう鈍いところがあるんだよね。まさかまったく察知してない部員がいたなんてびっくりだよ」
樹里亜は相当に鈍感らしい。その鈍感さが八代には幸への無関心に見えたのだろう。
「でも部内の状況を理解した後の先輩の行動はすごかった」
当時のことを思い浮かべたのか、マミは恍惚としたため息を吐いた。
「嫌がらせとか積極的にやってた三年生たちに渇を入れていって――言って聞かせたところで逆効果だ、って思ったんだけどね」
「上級生たちに直接抗議したんだ。度胸あるね、樹里亜さん」
「うん、すごいでしょ。ただの一部員でしかないわたしのために本気で怒ってくれて……じーんと来ちゃった」
「樹里亜の行動で、先輩たちは態度を改めたのか?」
今まで黙って話を聞いていた八代が、疑問をぶつけてくる。
「はい。こんなに簡単に反省してくれるんだったら、もっと早くちゃんと向き合えば良かったのかな、って思ったんですけど、考えてみれば、樹里亜先輩だったから、部員たちも素直に聞き入れてくれたような気がします」
「樹里亜は人望があったのか?」
「はい。先輩は、寄ってくる人に対して優しくて、力になってくれるんです。人の悩みを聞くのが得意だって、いつだったか本人も言ってました」
樹里亜はこれから良い姉になっていくだろう、と私は確信に近い思いを抱く。
これは持論だが、後輩に慕われる人に悪い人はいない、と思う。
八代も同じ気持ちらしく、「樹里亜にそんな一面があったとはな」と感心している。
「今まであいつのこと誤解してたの悪かったな……」
後悔を滲ませた声音だった。
八代は樹里亜を冷たい人間だと思ってたからな。
私もちょっと前までは、そうだった。
「きっと不器用だっただけなんだよ。今日だって幸とピクニックなんだって。お姉から誘ってくれた、って言ってた」
「へぇ、そうなんだ。楽しそうだね!」
マミが、微笑ましそうに目を細めた。
「そうなのか。こんな騒動も悪いことばかりじゃなかったのかもな」
八代も感慨深そうに頷く。
「怪我の巧妙ってやつだね。ストーカーのおかげでって言っちゃうと変だけど、樹里亜さんがちゃんと幸を大切に思ってたことがわかったから」
私も安心した。幸が私のような家族を持たなくて。
あれは本当に苦しいものだから。親友が私とは違うとわかって、嬉しかった。
「ていうか樹里亜先輩と襟人さんは、仲が良いんですか? 呼び捨てで親しげな感じしますけど」
どことなく不安げにしながら、八代の方へ身を乗り出すマミ。
「まあ、幼馴染みだったけど……今じゃ樹里亜とは全然交流ないよ」
「樹里亜先輩とは、ってことは、幸とは今でも仲良しなんですか?」
「幸とはそうだな。若葉と俺が知り合ってからは、三人でいることが増えた気がする」
「へぇ」
マミが私へと視線を流す。
「うん。夏休みは特によく会ってたよ。夏祭りも三人でいったし」
自慢と牽制の意を込めて、にこやかに説明する。マミの眉間に皺が寄る。悔しそうな様子だった。
しかしすぐに天真爛漫な表情に切り替わって、甘えるような声を出した。
「じゃあ来年はわたしと行ってくださいよ! 襟人さん」
「今から来年の話か。鬼に笑われるぞ」
本心から出た言葉か、誤魔化したくて出したのかはわからなかったけれど、私は彼が頷かずにはぐらかしたことにホッとした。
「それよりも。山田遅くない? 部活ってこんなにかかるもんなの?」
時計はもうすぐ13時を示そうとしていた。午前中まで、という話にしては時間が経ちすぎではないか?
自身の携帯の画面を見ていたマミが、
「居残りさせられてたりして~」
とおどけて、携帯をカバンにしまう。
「早いとこ来てほしいな……」
「まあまあ。お喋りでもして気長に待とうよ。わたしちょっとお花摘みに行ってきま~す」
カバンを持って立ち去った彼女にひらひらと手を振る。
「人ってちょっと見ただけじゃわからないもんだな」
八代が独り言か私に向けたのか定かじゃない調子で呟く。
「そうだね。――本当に」
八代の第一印象が最悪だったことを思い出して、小さな笑みがこぼれた。
先入観や一部分だけで人を判断するのは、危険ということだ。
人生ありえないことも起こるんだから。
「ねぇ八代」
彼がこちらを向いて、目線でどうしたのか尋ねる。
「ストーカーの件が解決したら、八代に伝えたいことがあるの」
「深刻な話っぽいな」
「うん。すごく大事なこと。私が今まで八代に隠してたこと全部話そうと思う」
「そんなにたくさんあったのかよ。俺に言えなかったことが」
「うん。かくしごとばっかだった。でもこれからは八代に話して、一緒にどうするのか考えたい。そのために私はここにいるから」
「よくわからねーけど……若葉の力になれるんなら喜んで全部聞く」
彼がしかと目線を合わせてくる。心の中を見透かされるような気がして、顔に熱が集まった。
「まあとりあえず今は山田を待つことだよね! 私もトイレ行ってくるよ」
逃げるように席を立つ。
頬の熱を冷ましてこなければ。
しかし立ち上がった瞬間、ポケットに入れていた携帯の着信音が鳴った。
「ん? 幸から?」
一体何の用だろう、と思って、通話ボタンを押す。
「幸? どうし――」
「助けて!」
「えっ、ちょっ」
短く切羽詰まった叫びが、キーン……と響いたすぐ後、向こうで何かがぶつかったような大きな音がした。
「幸? ちょっとどうしたの!?」
呼びかけてみても、一向に気配を感じない。
携帯を手放したのだ、と気付く。たった一言のSOSを、私に託して――。
「おい、こっちにまで聞こえてきたぞ。『助けて』って、何かあったのか」
八代も緊迫した様子で、立ち上がる。
「今すぐ丘に行こう!」
返事も待たずに、駆け出す。
店を出ようとした時、トイレの出入口でマミと会った。
「え? 悠どうしたの?」
「帰る!」
「えっ……」
戸惑うマミを置いてけぼりにして、外へ出た。
数秒遅れて追い付いてきた八代が、走りながら尋ねてくる。
「丘って花火の名所のあそこか?」
私が首をわずかに縦に動かすと、それ以上何も言わずに、走り続けた。
胸騒ぎがする。
またあの少年が現れたんだ。
『助けて!』
あの叫び――。きっと過去最大のピンチなんだ。
間に合って。間に合え間に合え――。
ぐんぐんと馬のように足を動かした。
丘の入り口付近に着いた時には、すでに息も絶え絶えの状態だったが、気にせずに頂上を目指して駆けていく。
喉の中で何かがばくばくと暴れている。吸っても吸っても呼吸がちっとも楽にならない。
時折咳き込みながら、一目散に上へ向かう。
身体が悲鳴をあげているにも関わらず、スピードはまったく落ちなかった。
それどころか増しているようだ。すぐ後ろにいたはずの八代の足音が、ほんのり遠ざかってきた。
しかし即座に会話ができる距離だ。それにわずかな安心感を覚える。
今の私は、最高にハイになっていた。逸る心に身体が着いてきていた。肉体と精神がひとつになっている極度の集中状態。
「幸ー! どこにいるのー!?」
頂上が近づいてきて、人影がないか辺りを見回すが、どこにも人の気配はない。
「おい! あれ幸のじゃないか?」
八代が叫んだ先には、バッグが落ちていた。
駆けよって見てみると、確かにそれは幸の物だった。
幸のお気に入りのトートバッグで、学校にもよく持ってきていた物だ。
「これ――幸のだ! 何でバッグだけこんなところに――」
言葉の途中で、最悪な可能性に思い当たる。
誰かに連れ去られた?
いや、そんなわけない。落としたのに気付かずに行っちゃっただけだ。そうに決まってる。
そんなことありえない、とわかっているのに、そう言い聞かせずにはいられなかった。
その時「助けてー!」という悲鳴がこだました。
現実逃避していた私は、正気に戻る。
「幸の声だ! どこからだ!?」
八代が首を動き回す。
私が「幸ー!」と叫ぼうと息を吸い込んだ時、100メートルほど離れた前方に、走り回る彼女を見つけた。
「幸!」
全速力で彼女へと駆けていく。向こうも私たちに気付いて、地獄で仏を見たかのような形相を見せる。
互いに向かって走り出す中、幸を追いかける存在が木の陰から飛び出してきた。
その人物が目に映った途端、寒気が肌を駆け巡る。
あいつは帰り道で、幸をつけてきていた小柄な男だ。あの時と同じパーカーを目深に被っている。
男は幸へと手を伸ばすようにして走っていた。幸を捕まえるつもりなんだ。
変な汗がどっと噴き出す。早く早く――壊れてもいい、間に合え私の足!
男と幸の距離が縮まっていた。男の手よりも私の足の方が早くたどり着けるよう、神様に祈る。
「うわっ!」
幸が後ろへひっくり返った。祈りは無駄になったらしく、幸を引きずり倒した奴は、彼女の身体を押さえつけていた。
「幸を離して!」
ちゃんと発音できていたのか怪しいほどに、私の身体は正常からかけ離れた境地にいた。
私が絞り出した抗議を意にも留めていない風の男は、ポケットから何かを取り出そうと――。
したのだが、それは叶わなかった。
助走をつけて蹴りかかった八代によって、奴は2メートルくらいまで吹っ飛んでいった。
「若葉! 幸を頼む!」
吹っ飛んでいった男から目を離さぬまま、私に告げる。
「うん。幸! 何かされてない? 大丈夫!?」
「大丈夫。何もされてないよ。二人が助けに来てくれたおかげで無事にすんだ」
その言葉に心底安心した。
良かった――本当に良かった。
心が落ち着きを取り戻して、八代の方はどうしたのだろう、と気になる。
八代は吹っ飛ばした男と取っ組み合っていた。
男は意識を手放さなかったようだ。土で汚れた姿で、八代に殴りかかろうと拳を振りかざす。
八代はそれを巧みに避け、相手を拘束するために馬乗りになろうとする。
喰らった蹴りが効いているのか、男の動きはぎこちなかった。
結果、少しの抵抗の後に、八代に押さえつけられた。
「若葉! 警察にかけてくれ!」
「あ、うん! わかっ――」
た、と言う声が、地の底から響くようなうなり声にかけ消される。
警察、という言葉に反応した男が、逃げ出そうともがいていた。
八代が激しく暴れるそいつを、一層強い力で押さえる。
地面から数センチ浮かび上がっていた男の頭がガツン、と軽い音を立てて、再び地についた。
その衝撃によって、今まで頑なに崩れなかったフードが外れ、男の顔があらわになる。
現れた顔は予想通りだった。間違いない。以前帰り道で付きまとっていた少年だ。
「ああっ!」
私と幸の声が揃う。火事場の馬鹿力というやつなのか、少年が拘束を抜け出すことに成功してしまったのだ。
「待てっ!」
走り去ろうとした少年の腕を八代が掴んだ。
しかし少年がポケットから出した物に仰天する。
ナイフだ。少年は手にしたそれを、八代へ向けて大きく振りかぶった。
駄目!
八代はのけぞってナイフをかわした――ように見えたけれど、本当のところ私たちの位置からは、よくわからなかった。
ドスン、としりもちをついた隙に、少年はナイフを持ったまま脱兎のごとく逃げていった。一瞬のうちに消えていく。
「八代!」
「エリちゃん!」
血相を変えて駆け寄り、至近距離で八代の顔を覗き込む。
八代は呆然としていた。心ここにあらずという言葉がぴったりな様子で、虚ろな瞳は、真正面の私さえ映していないようだった。
「八代! 大丈夫? なんだか様子がおかしいけど……」
「どこか怪我してるの? ねぇエリちゃんってば」
幸が遠慮がちに揺さぶる。それでようやく八代は現実へと帰ってきた。
「あ、ああ。避けれたよ、なんとか。危なかった」
八代は呼吸することを思い出したように、ふーっと長い息を吐き出した。
その拍子に、前髪が数本八代の膝にパラ、と落ちた。
ぎょっとして、食い入るように八代の額を見る。
「ちょっとだけかすったみたいだな」
あまりに軽い口調で、彼が言う。何でもないことのように前髪を撫で付ける八代が、拍子抜けだった。
「それより幸は何ともないのか?」
「うん。二人が来てくれたおかげで、追いかけられただけで済んだ。というか二人とも、一緒にいたんだね」
パチパチと瞬きをしたあと、私に向き直って説明する。
「悠ちゃんなら、私がいる場所もわかってるし、悠ちゃんの家から場所も近いから、来てくれるんじゃないかと思って――。警察にどこにいるか説明する余裕なんて、なかったから」
幸は身体を震わせていた。恐怖がまだ尾を引いている。それどころか増していっているのかもしれない。
私はたまらない気持ちになって、彼女の全身を包み込むように、抱き締めた。
「大丈夫、大丈夫。もう大丈夫だから」
幸の脳に浸透させるように、しきりに繰り返す『大丈夫』は、まるで自身に言い聞かせるようでもあった。
幸の震えが治まっていき、代わりに私の首筋に熱い水滴が落ちていく。
私もこっそり一粒だけ溢した。
間に合ったんだ――。
実感できた瞬間、ここまで走り抜いてきた疲労が一気に襲ってきた。
「本当にありがとう。二人には感謝してもし足りないよ」
しばらくして落ち着いた幸は、私と八代に深々と頭を下げた。
「エリちゃんは前髪が犠牲になっちゃったし……本当に他は何ともないんだよね?」
「おう」
八代はどこか落ち着かない様子で答える。
「えっと、どこに置いたかな……」
幸がキョロキョロと視線を彷徨わせる。そして落ちてあったバッグを見つけて「あった!」と言い、それを持って戻ってきた。
「はい、手鏡。まあ、見た目はそんなに変わってないから、そんなに気落ちしなくてもいいよ」
「ああ、ありがとう」
静かな空間にプルル、と着信音が乱入してきた。
私の携帯だ。マミからだった。
「はい、もしもし」
「ちょっと悠! 二人で急に飛び出したりして、一体何なの? 何があったの?」
置いていかれたマミは、不満げに尋ねる。ごもっともな態度だ。
「ごめん。幸が、例の男に追いかけられてたみたいで。『助けて!』って電話きたから、慌てて向かったんだ」
「えっ! マジで!? 大丈夫だったの!?」
「大丈夫、無事だから。これから警察に話しに行こうと思う」
「そっか……。あっ、これだけ言っとく。山田は部活時間が延びたから来れない、って」
「わかった。ごめんね、困惑させて」
「気にしないで。じゃあまたね」
通話を終えて、幸に顔を向ける。
「幸、自分の携帯どこにやったか覚えてる?」
「あ、見つけたよ」
幸が手に持った携帯を振る。土で薄汚れてはいるけれど、草むらに投げたのか、そこまでのダメージはないように見える。
「生きてる、ほら」
幸が明るい画面を見せる。問題なく動くみたいだ。
その後、三人で警察署に行って、あったことを話した。
「明日さ、学校行くよ」
ベッドに座った幸に告げられ、「ええっ!?」と大声を出してしまった。
家族は家にいないため、そこまで声量を気にせずとも良いのだが……。
「さすがに明日は休んだ方が良いよ」
幸は多少元気を取り戻したが、まだ沈んだ空気を身に纏っていた。
いつも通り学校に行くのは、おすすめできない。
「だけど一人でいる方がずっと怖いもん」
怯えた様子の幸を見て、確かにそうかもしれない、と思った。
樹里亜が帰ってくるまでは、幸はとりあえず私の家に避難させることにした。
樹里亜は現在、大和さんの実家にいるらしく、いつ帰れるかわからない状態だった。
『お義母さんの具合が急に悪くなったの。今から彼の実家についていくから、そっちには行けない。ごめんね、ドタキャンしちゃって』
幸が見せてくれたメッセージ画面には、そう記されていた。彼女というより、もはや妻だ。ナチュラルに義母扱いしている。
そのメッセージは、私たちが警察署に向かう途中で届いた。
『気にしないで。大和さんのお母さん、早く良くなるといいね。帰れる目処が立ったら連絡ください』
幸の返信に既読はつかなかった。バタバタしていて、携帯をチェックするどころじゃないことが、察せられた。
そんな状況なので、『今日のことはお姉には、ひとまず話さない方が良い』と幸の提案で、樹里亜には後々伝えることにした。
「早く帰って来てくれるといいね」
「うん。いつまでも悠ちゃんに面倒かけるわけにはいかないし……」
私としては、家に幸がいる状況は結構嬉しいものだが、自宅に帰れない状態が続くのは、幸にとってストレスだろう。
「警察も早くあいつを逮捕してくれると良いんだけど」
はぁ、とため息が出てしまう。部屋の片隅で、ぼんやりと外を眺めている八代を見遣る。
「エリちゃんもいてくれると嬉しい」と幸が言ったことにより、八代も私の家に来ていた。
私としても八代がいてくれた方が心強いので、是非とも泊まってほしい、と懇願した。
八代はさっきから随分と静かだ。まあちょっとタイミングがずれていたら、失明していたかもしれないし、寡黙になるのも仕方ないだろう。
後は単純に疲れたのかもしれない。あそこまで全力で走り続けたら、疲労感も半端ないはずだ。
私だって、まだ寝るような時間じゃないのに、瞼が重くなってきた。
「ふぁ……」
「疲れたよね。もう寝ようか?」
大口を開けてあくびした私を、幸は気遣わしげに見る。
「うん。今日はもう……疲れた。ホントに」
「ごめんね、大変な目に遭わせちゃって」
「何言ってんの。幸が引け目感じる必要は、まったく無いんだから」
少し怒ったように言う。被害者の幸が、申し訳なさそうにする道理はない。
「布団は三人分あるから安心して。三人寝るにはスペースが足りないから、一人リビングで寝てくれる?」
「えっ? 普通にエリちゃんがリビングじゃ……」
「あ」
普通に考えたらそうなるのが必然だ。八代と同じ部屋で朝を迎えた時のことを、まだ感覚的に引きずっていたと気付き、急激に恥ずかしくなる。
チラリと八代を見たが、彼は相変わらず、ここではないどこかに意識を飛ばしていた。
「八代、大丈夫? 戻ってきて」
心配になってきて、顔の前でひらひらと手を振って、存在をアピールする。
「あ、わりい。何の話だ?」
「リビングで寝てもらっても良いかって話」
「ああ。もちろん構わない」
「布団はもう押し入れから出してあるから。好きな時に敷いて」
「ありがとう」
八代は立ち上がり、部屋を出ていこうとする。
私は、忘れぬように慌てて呼び止めた。
「八代。おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
「消すよ」
「うん」
カチッと照明のスイッチを押す。部屋が暗がりに包まれ何も見えなくなる。
仰向けになり、目を閉じたところで、「ねぇ」と囁き声が聞こえてきた。
「二人、前までと雰囲気違わない? 何かあったの?」
「そう、かな」
とぼけてみるが、幸は納得していないようだ。
「二人が、というより、悠ちゃんが変わった感じするなぁ。悟り開いたみたいな、一皮剥けたみたいな」
「何それ」
乾いた笑いが出た。その通りなので、かえって何も言えなくなった。
「私、ずっと応援してるからね」
静かな夜の部屋の中に、ポツリとこぼされた言葉を聞いて、身体中があたたかくなった。
カーテンから射し込む光で目が覚める。
「もう朝か。ふぁ……」
豪快なあくびが出た後で、今朝は一人じゃないのだ、と気付く。
「まだ眠いよね」
制服を着た幸がニコニコと私を見下ろす。
「おはよう。もう着替えたんだ。早いね」
制服など必要なものは、昨日ちゃんと幸の家へ取りに行った。
「悠ちゃんが遅いんだよ。そろそろ起きないと危ないよ」
「ホントだ、もう7時じゃん」
制服に袖を通し、リビングへ向かった。
「はよ、二人とも」
「おはよう。ちゃんと眠れた?」
「ああ。布団サンキューな」
「エリちゃんおはよー」
「朝ごはん食パンしかないけど良い?」
「ありがとう悠ちゃん。ゴチになりまーす」
「悪いな、朝飯まで」
トーストを三人でもそもそと食べていると、八代が、
「これから学校行くんだろ? 俺も近くまでついてく」
と言ってくれた。
「うん、じゃあお願いしたいな。さすがに怖くなってきちゃったし」
昨日のことで、私は結構ナイーブになっていた。むろん幸も。
八代の申し出を聞いて、幸の顔が明るくなる。
「ありがとう、エリちゃん。お願いします」
「樹里亜さんに送ったメッセージに既読はついたの?」
登校中に投げたその問いに、幸は頷いたものの、顔色は曇っていた。
「既読はついたけど、返信はきてない。大和さんのお母さん、そんなに悪いのかな」
「心配だね……」
「マミちゃんも今日は遅刻、って言うし」
朝食を食べ終わった時に、マミからメッセージで『今日頭痛いから休んでから行く』と届いた。
先生から聞いたことだけど、マミはサボり魔らしい。遊び人で出席日数もギリギリだと。
だからそんなに心配することないのだ。今日は本当に頭が痛いのかもしれないが。
「――この辺りかな」
我が校の生徒たちが、ちらほら現れてきた。八代は「じゃ、この辺で。また」と片手を上げる。
「ありがとう、またね」
名残惜しく彼の背中を見つめていると、隣から生温かい視線を感じた。
HR前の騒がしい教室で、幸が感慨深けに言う。
「私が思うに、あとちょっとなんじゃないかな」
「何が?」
便宜上尋ねてみたが、幸の考えていることの予想はついていた。
「恋バナだよ。脈自体は前からありありだったんだけど、悠ちゃんが素直にならないとこあったから」
幸は鋭いようだ。さすが親友。
今になってわかる。私は相当めんどくさい人間だったと。
「八代は私のことさ、その……」
好きなのかな。口に出すことが恥ずかしくなり、中途半端なところで黙ってしまう。
しかし幸は意図を汲んでくれた。
「うん。エリちゃんの方は、もうバッチリ! 遠慮せずにいった方がいいよ」
トン、と握り拳を私の胸に押し当てる。
「悠長にしてると、他の人に目をつけられちゃうよ!」
「わかってるよ。良い男だからね」
初恋が八代で良かった。八代を好きになれて良かった。
誇らしく思って、胸を張る。しっかりと前を見据えて、断言する。
「昨日の男が捕まったら、言おうと思うんだ。私の気持ち」
「そうだね。二人共大好きだから、幸せになってほしいな」
幸の屈託ない笑顔に、心付けられた。
「幸、どうしたの? 次は選択科目だけど――え? そうだよね?」
3時間目の授業に入る前の十分休憩の最中。何故か体操着の入った袋をロッカーから出してきた幸に、自身の記憶を疑う。
黒板横に貼ってある時間割表を見て、やはり間違ってない、と安心する。
選択科目では、音楽と美術と情報で四クラスの生徒が三つに分かれる。幸は美術で私が音楽だ。一緒にしたかったが、人数の偏りの問題で別々になった。
「ああ、体操着は貸すの。マミちゃんから、『4時間目体育なんだけど忘れちゃったから貸して』ってメッセージきて」
「ちゃんと登校したんだね」
「うん。体育に出れるまで元気になって良かった」
幸は会話しながらも、てきぱきと美術の教科書の準備をする。
「美術室に行く途中に渡そうと思って。階段の踊り場で、水野先生にバレないようにこっそり渡しに来て、だって」
「ああ、2組の担任の水野先生そういうのうるさいからね」
「もう待ってるかもしれないから、そろそろ行くね」
「うん。行ってらー」
今日の音楽の授業は、この教室でDVDを見る予定なので、私は移動なしだ。
手持ち無沙汰になって、特に用はないけど携帯を弄ろうと思ってたら、隣の席の女子に話しかけられた。
「水野先生厳しいよねー。あの先生苦手だから私、情報にしなかったんだ」
会話が耳に入っていたらしく、共感を求めるように笑いかける。水野先生は情報が担当科目だ。
「だねー。貸し借りくらい別に良くない? って思うよ」
「体育教師じゃなくて良かった~。胸のところの名前でバレちゃうもんね」
「ね、良かった良かった」
「あ、さっき話してたマミって折野さんのこと?」
「うん」
私が頷くのを見て、女子は狐につままれた顔になった。
「私午前中に職員室行ったんだけどさ、水野先生が『わかりました。今日も休みですね、折野さん』って言ってたの聞いたんだけど……やっぱ来ることにしたのかな」
「え? そうなの?」
「うん。はっきり聞いたよ。もしかしたら水野先生の勢いに押されて、サボりをやめたのかもしれないね。今日“も“をめっちゃ強調してて、嫌みったらしかったし」
その時の様子を面白おかしく物真似する女子にウケておいたが、内心困惑していた。
「あっ、けど休みの連絡って本当は本人じゃダメなんだよね。大体の先生は、気にしてないけど」
「じゃあ純粋に真面目に行こうってなったのかな」
「え〜? 折野さんかなりのサボり魔なのに、急に? ないでしょ~」
大袈裟にのけぞる女子。
「まあ親にけしかけられたのかも。あんま休みすぎると進級危ういから」
「そうだね……うん、きっとそう」
自分を納得させるように、何度か頭を縦に振る。
授業開始を告げるチャイムが鳴り、音楽を受け持つ教師が入室してくる。
会話は打ち切られ、教室にいる大半の生徒が黙って正面に向き直る。
先生がDVDの準備をしていると、教室の前の扉が開いた。
そこから顔を出したのは、水野先生だった。
「授業中に失礼します。中村先生、それうちの教材じゃないですか?」
再生しようとしていた中村先生は、「え? おっとホントだ」とまじまじとパッケージを見た。
「パッと見似てるもんで、つい間違えちゃいました。いやーすいません」
そう言って照れ臭そうにDVDを手渡す。
「では失礼しました」
軽く会釈して去ろうとする水野先生を、ほとんど無意識で呼び止めた。
「あの! すみません、ちょっと訊きたいことがあるんですけど……」
唐突に立ち上がった私に、教室にいるみんなが驚く。
「若葉さん、何でしょう」
「2組の折野マミは、登校してきましたか?」
「折野さんですか? いいえ、今日はお休みですが」
ドクン、と心臓が嫌な音を立てた。
「質問はそれだけですか? では中村先生、授業の邪魔をしてすいませんでした。続けてください」
「あ、はい」
扉が閉まり、足音がカツカツと遠ざかっていく。
「あ、音楽のDVD取って来ないとな」
中村先生がハッとして、「ちょっと待っててくれ」と職員室に向かう。
「座らないの?」
傍から聞こえてきた声によって、意識が現実へと戻される。
いつまでも立っている私を、隣の席の女子が、不思議そうに見上げている。
その子に早口に告げる。
「トイレ行ってくる。先生に言っておいて」
返事も聞かないまま、早歩きで教室を出ていく。
誰もいない廊下に足をつけた途端、焦りを爆発させるように走り出した。
1年生の教室は、三階と四階に分かれている。1・2組が四階で、3・4組が三階だ。
踊り場を確認するつもりだった。
マミが学校に来てないのなら、あのメッセージはどういうことか。いくつかの可能性が高速で頭の中に浮かぶ。
マミのイタズラというパターン。
幸が『マミからメッセージがきた』と嘘をついているパターン。
マミの振りをした誰かが、メッセージを打ったパターン。
前者のイタズラを期待して、ぐんぐんと歩を進める。
視聴覚室や家庭科室などの特別教室を通りすぎて行き、階段が近づいてきた。
一段飛ばしに駆けていき、踊り場に到着したが――。
そこには誰もいなかった。
緊迫していた心が、ゆるゆると落ち着いていく。
「はぁー……無駄に疲れた。ちょっと休んでから戻ろ」
壁にもたれ掛かり、身体の力をどっと抜いていく。何とはなしにすぐ横にある窓から、外の景色を覗く。
「ん? あれって……」
一人の人間に目が吸い寄せられる。校門を出て真正面にある、学校と市民プールを繋ぐ横断歩道。そこで信号待ちをしている人物をよくよく見てみると――。
「マミ? どうして……」
困惑が口から洩れる。
しかも彼女は私服だった。部屋着みたいな格好で、青になるのが待ちきれない、と語るようにその場で足踏みをしていた。
あそこの信号はなかなか変わらない上に、車の通りも多いので、やきもきするのはわかる。
けれどマミの様子は、そういうレベルの焦りじゃない気がした。切羽つまっている様子が、遠目からでも判断できた。
マミのことがどうにも気になり、駆け上がってきた階段を、今度は急いで下りる。
私が校門にたどり着いた時、丁度ひっきりなしに来ていた車の群れが止んだ。
青になるのを待たずに、マミがダッシュで渡る。やはり相当に急いでいる。
彼女は私の姿を認めると、幻を見たかのような顔をした。
「悠? 授業中じゃないの? 何でこんなとこに」
「それはこっちの台詞。何で私服なの?」
近くで見てみると、マミの髪がボサボサなことに気づく。いつもバッチリしているメイクも、していない。
女子高生らしく身なりに命をかけているマミなのに、今日はなんだか寝起きみたいな風体だった。
「起きたら制服がなくなってて――って今はそんな事より!」
マミが気を取り直すようにブンブンと頭を振る。
「踊り場に行かないと!」
「えっ、ちょっ……」
私の横を走り抜けようとするマミの肩を、慌てて掴む。
「ちょっと待って。私さっき踊り場行ったところだったんだけど。あんたが送ったメッセージ何だったの?」
そう言うと、穴が空きそうなほど私を見てくる。
「踊り場に幸はいたの?」
「いや、誰もいなかったけど」
「えっ、ホントに?」
自分から訊いておいて、疑り深そうに食い下がる。
「何なの、一体」
何もかもがわからない状況に、私はだんだん苛立ってきた。
「後でちゃんと説明するから! 今はとにかく幸を探さなきゃっ」
「えっ、ちょっ」
マミは昇降口には向かわずに、中庭の方へと走り出していった。
そのあとを急いで追う。
「何で昇降口に行かないの!?」
「非常階段からの方が近いからだよ!」
確かに中庭にある非常階段からの方が、マミの目指している場所に早くたどり着ける。
ひとまず黙って彼女についていく。そうすれば謎が解けるだろう、と信じて。
「わっ!」
鼻先に感じた強い衝撃に、思い切り顔をしかめる。前を走っていたマミが、急に立ち止まったのだ。
「ちょっと、危ないでしょ」
不満を訴えるため、マミの顔を覗き込むと、彼女は「いやーっ! 何あれ!」と上を見て絶叫した。
何事かと視線の先を追うと——。
「幸!?」
四階の開け放たれた窓から、幸がぶら下がっていた。
窓枠を掴んで何とか踏ん張っている様子だが、安定を失った足がフラフラと宙に揺れている。一体どれくらいの間、ああしていたのだろう。
しかし、助けを求める声も出せないほど、きつい状態なのだ、とは理解できた。
少し刺激を与えればあっさりと落下していきそうな幸に、血の気が一気に引いた。
「誰か来てーっ!」
力の限り叫ぶ。渾身の大声は、窓ガラスをビリビリ震わせ、教室にいる生徒や先生たちにも届いただろう。
「何か――何かクッションになりそうな物は……」
次に私は、落下の衝撃を和らげられそうな物を必死になって探すが、中庭にそんな物はどこにもなかった。
その間にも、幸は携帯のバイブレーションのように小刻みに震えていた。
まずい、限界が近づいている。このままでは、幸の身体が地面に叩きつけられてしまう。
「幸ー! もうちょっとだけ耐えて! お願い!」
そう叫んだマミが、非常階段を猛スピードで駆け上がっていく。
頑張れ、頑張れ、頑張れ――。幸とマミどちらを応援しているのかわからなくなりながら、ただただ何度も祈りを反復する。
「若葉さん? そんなところで何をしているの!?」
「先生!」
パタパタとこちらに向かってくる先生を制する。
「4階から人が落ちそうなんです! 受け止める準備をしておいてください!」
「な、何ですって!? わかったわ、すぐに他の先生たちにも声をかける! 引き上げにも何人か行かせておくわ!」
四階には今誰もいない。あそこには1年生の教室しかなく、その1年生は選択授業で出払ってしまっている。
マミが間に合ってくれれば――!
「なっ……開かない! どうして!?」
マミの悲鳴がここからでも響いてきた。そして絶望的な気分になる。
非常階段へ通じる扉は、夜間以外は常に解錠されているはず。だというのに、何という不運か、閉まっているのだ。
何だ何だ、とベランダの窓から生徒たちが、ちらほらと顔を出し始める。その生徒たちに、
「布とかあったら投げてきて! 人が落ちそうなの!」
と目一杯訴える。
「ええっ!?」「大変だ、早く!」「ブランケットくらいしかないよ!」と慌てふためく気配が周囲を包む。
2、3階からポイポイとブランケットや座布団がいくつか投げられる。それを幸の真下になるように広げていく。
しかし、まだ全然足りなかった。焦燥感が高まり、頭上近くの幸の様子を見ようと、顔を上げる。
その瞬間、時が止まったようだった。
視界に飛び込んできたのは、予想していた青空ではなかった。
つむじだ。幸の頭のてっぺんがスローモーションで迫ってきていた。
艶のある長髪が私の顔をくすぐる。そこまでの距離になって尚、衝突するまでの未来がずっと先のことに思えた。
のっぴきならない状況にも関わらず、私の頭の中には、この時代にきた時のことが、悠長に映し出されていた。
挙動不審な私を心配していた幸。あの時死んでしまったはずの幸に会えて、本当に嬉しかった。奇跡は起こるんだと思った。
次々と流れていく。この時代で新しく育んだ思い出たち。
賑やかな勉強会。私にとっては二度目の夏祭り。勇気を振り絞って過去の傷を見せてくれたこと。照れ臭そうに夢を語ってくれたこと。
『私ずっと応援してるからね』と言ってくれたこと。
色々な場面が駆け巡っていく。ああ、この感覚には覚えがある。
走馬灯だ。死の間際に見るというアレ。
ゴッという鈍い音が、頭の中で響く。
それが意識を手放す最後に聴こえた音だった。