「お邪魔します……」
そう言って、おずおずと足を踏み入れる。
ここが八代の住んでいるところ――。
「ちょっと待ってろ。タオル取ってくる」
八代は、玄関から左手にあるドアを開ける。洗面所なのだろう。タオルを取り出す気配と湯を沸かす音がする。
「はい。まずは軽く拭いとけ。その後風呂使えよ」
「本当に申し訳ない……図々しくお風呂までいただいて……」
「いいから。ちゃんと浸かれよ? 身体を冷やすな」
「うん……」
靴の中までびちゃびちゃだ。靴下を脱いで絞ると、かなりの水分が出てきた。
ゴシゴシと頭を拭く。
「これ着替え。こんなのしかないけど、まだ使ってないやつだから」
八代が厚手のパーカーとズボンを見せてくる。新しい服の匂いがした。最近手にしたばかりの物なのだろう。
「大きいだろうけど我慢してくれ。脱衣所に置いとくからな」
「何から何まで、本当にありがとう。――ではお借りします」
ドキドキと鳴る胸に手を置いて、脱衣所へ入室する。
洗面所の鏡に映る自分を見て、顔にカッと熱が集まった。これから八代の家のお風呂に入ることを意識させられる。
八代もここで服を脱いでいるんだ、という考えがふいに頭に浮かんできて、慌てて首をブンブンと振る。
制服を脱ぐ行為が普段よりうんと恥ずかしかった。裸になった自分をなるべく見ないように視線を彷徨わせながら、熱い湯を張った浴槽に全身を沈める。
「あったかい……」
全身の毛穴から、安らぎがじわじわと染みてくる。身体が温まると同時に、精神も順調に回復していった。
先ほど通ってきた歓楽街へ思考を巡らす。
“そっち系”のお店がところ狭しと並んでいて、台風のせいで人っ子一人いないというのに、身を隠したくなった。一度、昼間のキャバクラの前を通ったことがあるが、その辺りよりもずっといかがわしい看板で埋め尽くされていた。
子供に存在すら知られてはいけない場所だ。
さすがに今は、誰も歩いてなかったが、確かに普段は絶対に誰かを連れてきたくないだろう。
アパートにはどんな人が住んでいるのか。八代はどんな気持ちで毎日ここで寝起きしているのか。実際に危険な目に遭ったこととかあるんだろうか――。
お祭りの夜に聞いた壮絶な境遇を思い出す。
父に殺されかけてどんな気分になったんだろう。親戚に疎まれ、唯一残った家族である弟が姿を消して、こんな場所で独り暮らすなんて――。
彼がまだ未成年なことを思うと、私の胸は引き裂かれるようだった。
「……よし」
湯船の中で、私は一つ決意を固めた。
「お風呂ありがとう。すっかりあったまったよ」
「それは良かった。服大丈夫か?」
袖の余ったパーカーと何回も折ったズボンを見下ろす。しかし、肩は見えないし、ズボンだって紐をきつめに縛れば、ずり落ちないので、問題ない。
「大丈夫。ありがとね、ホントに。すごい助かる」
私は、部屋を見渡してみる。
きれいに片付けられた和室だ。というかほとんど物がない。
入り口から見て左側にシングルベッドが置かれており、そこから少し離れたところに小さな本棚があった。右側に押し入れがあるのみだった。
スペース自体はそんなにないはずなのに、私の部屋よりもずっと広く感じた。
真正面の窓からベランダに出れるようになっている。八代の部屋は二階にあるため、夜になればギラギラと明るく騒がしい街の様子が見えるのだろう。
もっともこんな天候では、さすがに営業しないんじゃないか、とも思うが。
「きれいな部屋だね。ちゃんと整理整頓されてる。私の部屋とは大違い」
「普通だろ」
八代が一つしかない座布団を差し出してくれる。断ったところで押しきられるのが見えているので、礼を言って座らせてもらった。
彼と向き合う形になる。黙ってるのも気まずいので、
「雨、すごいね」
と窓の外へ顔を向ける。
「だな。雷はどっか行ったけど」
「雷、苦手?」
「いや、そんなに。落ちるのはごめんだが。――若葉は苦手そうに見えたけど」
背負われていた時に、雷鳴が強く響く度、ビクッと震えていたのが、伝わっていたらしい。
少しばつが悪くなり、指を組んだりほどいたりしながら、説明する。
「う、うん。恥ずかしながらこの年になっても、かなり怖いんだ。昔、目の前で落ちたことがあって」
「なるほど。そういうことがあったなら怖いに決まってるな。そんな中一人で帰ることになったら地獄だよな」
「そうなんだよ! 幸と帰れる予定だったんだけど、大和さ――樹里亜の彼氏さんが車で迎えに来ててさ、座席が足りなかったから断っちゃった」
同調されて嬉しくなり、声が弾む。
「樹里亜も乗ってたんだ。マミと幸を乗せてくつもりだったみたいで」
「最近、姉妹仲良いみたいだな」
八代がしみじみと言う。その発言によって、風呂場で固めた決意を思い出した。
背筋を面接時のようにピンと伸ばし、おずおずと切り出す。
「あの……さ。前に弟のこと話してくれたじゃん?」
「ああ。それがどうかしたか?」
予期せぬ話題に、八代は切れ長の目を見張った。
「弟に会いたいって言ってたよね?」
「ああ。――若葉が嬉しいこと言ってくれたから、よく覚えてる。あいつも俺に会いたいはずだ、って」
「うん。八代って絶対良い兄だったでしょ。私が弟ならまた会いたいって思うな。まあ一度離れた手前、また顔合わせるのは勇気いるかもだけど……」
私にも八代みたいな兄弟がいてくれれば、両親が見てくれなくても、悲しくならなかったのに、と思う。
「せめて元気なことが分かれば、安心できんだけどな。頼りに来ないってことは逞しくやってんのかな」
不安と期待を含ませて、八代が呟いた。
「弟を探したりしたの?」
「現在でも捜索中だよ。あんまパッとしないけど。遠くの地方にでも行ってんのかもな。全然手がかりないし」
そう言って憂鬱にため息を吐く。諦めたくないが、諦めかけてるといった様子だ。
「ねぇ、八代」
「ん?」
「私も手伝うよ。弟さんを探すの。私にできることって少ないかもしれないけど、協力させて」
私がそう言うと、八代は不思議そうな顔をして尋ねた。
「何で若葉がそこまでしてくれんだ」
「何でって――」
理由は沢山ある。
八代の役に立ちたいから。色々助けてもらった恩を返したいから。
八代の孤独を和らげたいから。
「色々あるけど、やっぱり一番は――八代に幸せになってほしい、からかな」
この場所に連れてこられてから、よりいっそう強く願うようになった。
彼が家族に会いたいのなら、会わせてあげたい。せっかく大切に思える家族がいるのに、一生会えないなんて、そんなのは悲しすぎる。
「私がそうしたいだけなの。八代のことが大事だから、何もできないのが苦しい」
「はっ……!?」
八代の顔が朱に染まり、表情が固まる。
自分がどれだけ思わせ振りなことを言ったのか、私も遅れて気付く。
「あっ、違っ……数少ない大事な友達だし、ってこと! 変な言い方してごめんなさい!」
ワタワタと無駄に身振り手振りをして、やけくそ気味に勢いよく謝る。
「あ、うん……」
控えめな声で返される。うつむいた顔が、気のせいか少し残念そうに見えた。
「と、とにかく! 幸の件が片付いたら、二人で改めて調べようよ!」
「いいのか?」
「言ったでしょ。私がやりたいからやるんだって。八代には色々助けてもらったし、このままじゃ私の気が済まないの。今もこうして多大な迷惑をかけてるわけだし」
「俺は迷惑なんて思ってないが……若葉がそう言うなら手伝ってもらおうかな。若葉がいてくれれば、大丈夫な気がしてくるんだから、不思議だ」
そう言って、彼はフッと柔らかく笑う。八代の見せる表情の中で、私が一番好きな顔だ。
頬が紅潮する。視線の置き所がわからなくなり、八代の後ろにあるベッドに行き着いた。
あっ、と思い至る。そうだ、さすがに夜には帰らなくてはいけない。
時計を見ると、17時近くになっていた。もうそんなに経ったのか、と驚く。
「八代。さすがにもう帰るよ。ごめんね、私のわがままに付き合わせちゃって。制服も結構乾いただろうし、着替えてくるよ」
立ち上がり、台所で扇風機の風を当てていた制服を、取りに行こうとした。しかし、八代が慌てたように言う。
「待てよ。外かなり荒れてんだろうが。今帰るのは危険だ」
雨や風は、治まるどころかどんどん激しくなっていた。窓にゴーゴーと叩きつける音がするほどだ。
天気予報では夜がピークとのことだから、これから天候は荒れる一方だろう。
「でもさすがに泊まるのは……ちょっと……」
寝る時どうするのだろう、という心配が念頭にあった。一人暮らしで友人も招けないだろうこの家に、余分な布団なんて、十中八九ないだろう。
もう一晩中起きてようか。明日は土曜日で、学校は休みなんだし。
「俺は押し入れで寝るから、若葉がベッド使え」
「え? 布団あるの?」
「夏用の敷き布団がある。後は毛布があるからそれをかければいい」
「えっ、でも押し入れって八代には狭いんじゃない?」
八代は背が高い。足を折り曲げないと、収まらないと思うのだけど……。
「だって俺に隣にいられたら、嫌だろ」
彼は決まり悪そうに、頭を掻く。
誤解が生じている、と気付いて、慌てて首を振る。
「違うの。別に嫌とか怖いっていうわけじゃなくて――そこまで迷惑かけられないなって。寝る時にまで私が家にいたら、落ち着いて休めないだろうし――」
私にしたって、緊張して眠れそうにない。八代のベッドなら、尚更。
「俺は若葉がいてくれた方がいいけど」
「えっ?」
「正直嬉しいんだよ。誰かとこうして家で話すこととか、すげー久しぶりだし」
八代が、どこか哀愁のこもった口調で、照れ笑いする。
「だから帰らないでほしい。あ、でも親は心配してるだろうから、連絡しとけよ。携帯無事だったんだろ」
そう言われて、近くに置いてあった携帯を起動させる。
少しだけ期待したが、やはり通知はゼロだった。氷を当てられたように、心が冷めていく。
「いいの。心配なんてされないから」
投げやりに携帯を手の届かない場所に置き、吐き捨てる。
八代は、私の行動に虚を突かれたように、目を丸くする。
「は? そりゃ普段なら何も言われないだろうが、今日は違うだろ。今頃気を揉んでると思うぞ」
そう言って、遠ざけた携帯を私の前に差し出してくる。
私はゆっくりと首を振って、否定の意を伝える。
「そういうのもう期待してないの。何年も前からずっと――何とも思われてない」
真っ暗な画面を見つめて、出来るだけ淡々とした口調で告げた。
「だから大丈夫。何だったら一週間くらい帰らなくても気づかれないんじゃないかな」
おどけた調子で言ったけれど、八代から笑いは返ってこなかった。
室内には重たい沈黙が漂い、私はギャグが盛大に滑った時のような気まずさを感じた。
先に静寂を破ったのは八代だった。
「それでも一言くらいは連絡しとけ。さすがに気づかれるだろ」
「――なら良かったのに」
私の中で何かが暴れ出しそうになる。懸命に抑えようとするが、意志に反して、唇は勝手に動き出す。
「小学生の夏休みの時に家出したことがあるの。三日間」
思い出さないように。早く完璧に忘れ去れるようにと頑張っていた記憶が、鮮明に蘇ってくる。
「さすがにまだ小さい子供がいなくなれば、あの人たちも必死になって探してくれるんじゃないかと思った。でも――」
三日目の夜に雨が降りだし、とうとう我慢できなくなって帰った時の衝撃は、やはり到底忘れられるものではなかった。私の努力は無駄だったんだな、と皮肉に笑う。
「探さないどころか私が消えたことさえ、知らなかった」
叱られるかもしれない、と期待と恐怖を抱いて玄関のドアへと手を伸ばした時――。
「偶然にも母が家を出ようとしたタイミングでね、玄関前で鉢合わせしたんだ」
八代は身動きひとつせずに、聞いていた。私は、もはや八代に伝えようと思って話してなかった。ただ言葉が、蛇口をひねったように、淀みなく流れていく。
「母は恋人と一緒だった。二人で出掛けに行こうとしてたみたい」
八代が息を飲む音が聞こえる。初めて反応らしいものが返ってきた。
それに頓着することなく続けた。
「母は私を見て一言『くさっ』と言って、片手で鼻を押さえた。そして、もう片方の手でシッシッと私を追い払った」
三日間お風呂に入ってなかった私は、悪臭を放っていた。
現実を理解できずにいた私は、とりあえず母に言われた通り進路を妨げないよう、すぐ横の庭へ退いた。
「恋人の車に乗って去っていく母を見ながら、あ、全部無駄だったんだってやっと受け入れられた」
それからの私は、不思議なくらいに冷静だった。
落ち着いた足取りで浴室に行って、身体を洗い、着替えを済ませ、ベッドに入って何事もなかったように眠ろうとした。久しぶりのちゃんとした寝床に、身体は喜んだ。
「眠りにつく直前に、父が帰ってきたの。知らない女の人を連れてね」
部屋のドアの隙間から、様子をこっそり見たけれど、父は女の人にとろけるような笑みを向けていた。この前連れてきた人とは違う女性だな、と思った。
父の表情に少しの憂いもないことを確認して、もう寝よう、と足音をたてないようにして自室へ戻っていった。
「完全に諦められたってあの時は思えたけど、まだどこかで期待なんてしてる自分がいるの。地元を離れたら――」
家族のことなんて考えなかったのに、と続けそうになって、「地元を離れたら、くだらない期待も捨てられるかな」と取り繕う。
うっかり現代のことについて、口を滑らすところだった。
「そんなこともあって、私は恋愛が無理になったの。両親みたいになるのが、たまらなく怖い。誰かを好きになるとか、考えられなくなって……それでずっと……」
喉が詰まり、言葉が出てこなくなる。
喋ることを諦めて、ずっと放ってしまっていた八代の様子を窺う。
八代は、胸にナイフでも刺さっているみたいに、辛そうな顔をしていた。
そんな彼が、ふいにハンカチを差し出してきた。意味がわからずに固まっていると、視界が滲み出してきた。
「えっ? あっ……嘘」
私は泣いていた。一つこぼれ落ちると、次々と出てきて肌を伝っていく。
差し出されたハンカチを受け取り、まぶたを叱るように強く押さえつける。
「ごめん、こんなはずじゃなかったんだけど……何でだろう、私。今日ちょっとおかしいみたい。ごめん、ハンカチ……ごめん」
「もう謝んな」
怒ったような声音と共に、身体が引き寄せられる。
突然の抱擁に、私は目を白黒させた。
「えっ、えっ……?」
「――嫌だったら離す」
声がすぐそばですることに、たまらなく顔が熱くなる。
鼓動も香りも体温も、この上なく近距離で感じる。混乱した頭の中は、より一層乱雑になっていった。あんなに止められなかった涙も、あっけなく引っ込んでしまった。
「嫌じゃない。嫌じゃないから――このままでいて」
絶対に離れたくない、と主張するように、彼の背中に手を回し、強く抱き締め返した。
私を傷付けないか心配しているような、控えめな力しか加えることのない彼に、もっと強くして、と訴えるように広い背中を撫でる。
願いが通じたのか、私の背中に回る手に力がこもった。
このまま一つになれたら幸せだな――なんて考えがふと浮かんできて、今日の私は本当にどうかしている、と恥ずかしくなった。
いつまでもああしていたい気分だったが、しばらく経って、冷静さが戻ってくる。
そうなると、照れくささにとても耐えられなくなり、名残惜しさと解放感を同時に感じながら、身体を離す。
そして、疑問に思っていたことを訊く。
「あの……どうして抱き締めたりしたの?」
私の質問に、八代がどこか言いにくそうにしながら、答える。
「家族のことを話してる時の若葉が、人の愛情を求めているように見えたんだよ。俺じゃあ所詮他人だから、親の代わりにはなれないだろうけど。だが話に聞いた若葉の両親よりも、若葉を大切に想ってるって自信はある」
愛情を求めている――。その言葉に、視界が急に開けていくのを感じた。今まで見えなかった本音が、八代によって目の前に映し出される。
やっと気付けた。
私はずっと愛に飢えていた。けれどそれを失うことがあまりに怖くて、最初から何も求めない道を選んだのだ。
信じる勇気を持てずに、そんなの存在しない、存在したとしても、私には必要ないと言い聞かせていた。
始めなければ、結果なんてわかるわけないのに。
臆病者。弱虫。私を表すのにぴったりの言葉が、脳裏に浮かぶ。
臆病で弱虫だった自分に気付かせてくれた彼は、呆然としている私の頭を撫でて、心配いらない、とでも言うように私が大好きな笑みを見せた。
「安心しろよ。若葉なら、温かい家庭を作れる。両親のようには、絶対にならねぇよ。友人の俺が保証する」
その言葉は、怖じ気づく私の背中をそっと押してくれるものだった。
言葉が優しく心に染みだしていくのと同時に、モヤモヤした違和感を覚える。何かが違うような、ダメなような感じがする。
答えを探すように、彼をまじまじと見つめる。
目と目がばっちりと合って、その瞬間八代の眼差しがより一層温かいものになる。
その眼差しがとても眩しかった。実際に視界が光り出した錯覚さえ覚えた。
この人のことがすごく好きだ。
想いが胸の内でふっと湧き出した。
彼と目が合って、モヤモヤの理由がわかった。私は八代に背中を押してもらいたいんじゃない。
勇気を出して進んだ先にいるのが、彼であってほしいんだ。
誰かを真剣に愛することから逃げない決意をしたなら、私は彼と向き合いたい。
だって私は、この人――八代襟人に恋しているから。
ようやく白旗を上げたら、身体から力が抜けた。その拍子に腹の音が場違いに響く。
「そういえばそろそろ飯時だな。夕飯にするか」
「お恥ずかしいことで……」
今更遅いけれど、精一杯お腹に力を込めて縮こまる。
八代は台所へと歩いていき、冷蔵庫を開いて小さくうめき声を上げた。
「チャーハンなら出来そうだな。チャーハン好きか?」
「大好きです。ありがとう」
それから、折り畳み式のミニテーブルで、二人でチャーハンを食べた。
チャーハンはパラパラでお店のものみたいだった。
自身で食事を用意することに慣れて久しいが、私とは腕前が違うと思った。八代が上手なのか私が未熟なのかはわからない。たぶん両方だろう。
テーブルは小さく、随分と狭苦しい食卓だったが、それがかえって幸福に感じた。
21時になり、明日に備えてもう寝よう、となった。
明日の早朝、八代が送ってくれるそうだ。人っ子ひとりいない状態だが念のため、とのことだ。
私も一人であの通りを歩くのは怖かったため、八代がついててくれるのはありがたかった。
寝場所の問題については、ベッドは家主が使うべき、と私の強い主張により、八代がベッド、私が床に布団を敷いて眠ることになった。
「今日は本当にありがとう。おやすみなさい」
「ちょっとは楽になれたか?」
「うん。もう大丈夫。色々な事としっかり折り合いつけられたから。おかげさまでね」
「良かった。若葉を見かけた時、何か雰囲気ヤバそうだったから、つい連れて来ちまったけど、正解だったみたいだな」
「ねぇ八代」
「ん?」
「私を見つけてくれてありがとう。今日八代と出会えて本当に良かった」
そして最も伝えたい大切なことを唇に乗せる。
「私、救われたんだ。やっと」
今私を満たしていたのは、これまでの人生でかつてないほどの幸福感と希望だった。
「おやすみなさい。――また明日」
明日の朝、目覚めて一番最初におはようと言える楽しみに心踊らせながら、布団に横たわる。
「ああ。おやすみ」
八代は安堵したように呟くと、電気を消した。
「ん……」
もぞ、と布団の中で身動きする。少しずつ頭が覚醒していき、今何時だ、と寝る前に近くに置いてあった携帯を手繰り寄せる。
4時か。まだ眠れるけど……今からもう一度眠る気にもなれない。
喉がカラカラに渇いていることに気付き、水を飲むべく台所に向かった。
八代の家に紙コップがあって良かった。水音を立てないように蛇口をゆっくりひねる。
台所の小窓のガラス越しに外を見ると、空が白み出していた。じきに太陽が濡れそぼった街を照らすだろう。
無事に喉を潤し、ベッドにいる家主を窺う。
規則的な寝息を立てている。起きる様子はなさそうだ。
眠るつもりはなかったが、再び布団に横たわった。
時間が経つのをのんびり待つか……。
そう思って右向きに寝転ぶと、闇に慣れた目が何かを捉えた。
目を凝らすと、それが四角く薄い物であるらしいとわかった。
ベッドの下にあり、手を伸ばせば届きそうだ。
八代がベッドの下に物を置く人間には見えなかったので、少しばかり好奇心が湧いた。もしかしたら失せ物かもしれない、と思い当たり、私はそれを引っ張り出した。
触ってみるとどうやら手帳らしかった。スベスベした革の感触が指に馴染む。
少し迷って、ベランダに出ることにした。外は既に結構明るいので、問題ないだろう。
そう。私は手帳の中身を盗み見しようと思った。むろん葛藤はあったが、それよりも好奇心が勝っていた。
八代の様子を気にしながら、そうっと窓を開けベランダに出る。起きる気配はなく、ホッとした。
手帳には、そこだけ開きやすくなっている部分があった。何度もそのページだけ確認したようだ。
気になって、冒頭を無視して開きやすくなっている箇所を開く。
中身は日記のようだった。日付と共に文章が綴られている。
上から順に読んでいって、これは八代の父が書いたものだとわかった。会社や息子・妻だと思わしき人の名前が、随所に散りばめてある。
羅列されている文字の中から見つけたある文章に、私の目は釘付けになった。
俺がタイムリープしなければ、襟人は生まれなかったんだよなぁ。
タイムリープ。八代の父親がタイムリーパー? しみじみしたその文体を、食い入るように眺めた。
「若葉? ベランダにいんのか?」
後ろからした声に、ハッとする。カラカラと窓を開ける音がして、とっさに手帳を服の中に隠した。
「目が覚めちゃって」
手帳が落ちないように、両手を腹の前で組み合わせて、服の上から押さえつける。
さりげなく出来ているだろうか。違和感がないように出来ているだろうか。内心バクバクしながら、笑みを浮かべる。
「そうか。おはよう」
「おはよう」
挨拶を交わすと、すぐに八代は家の中に入っていった。
私もそろそろ出る準備をしなければならない。
早朝の歓楽街は予想通り閑散としていた。
「いつもだったら人が落ちてたりすんだけど。昨日の台風のせいで誰も遊びに来てないようだな」
「歌舞伎町みたいだね」
歌舞伎町に行ったことはないが。聞くところによると、酔っぱらいが朝には道端で寝ているらしい。
いくら進んでいっても誰にも会わず、世界に二人しかいないような気分にさせられる。
爽やかな澄んだ空気にも関わらず、私の心中はそれどころではなかった。
「歌舞伎町はどんだけ汚れてんのかって思うよ」
「うん」
「俺のアパートの前にもしょっちゅうゴミが散らかっててさ。もう慣れたけど」
「うん」
「最近朝、寒くなってきたよな」
「うん」
「何か上の空じゃね? 体調でも悪いのか?」
いけない。会話に身を入れなさすぎた。不自然に思われてしまったようだ。
「あー……朝弱くて」
「そういうことか」
「八代はどう? 強い?」
「普通だよ。朝は好きでも嫌いでもない」
「そうなんだ。あっ、八代」
歓楽街を抜けて、小学校の通学路に入ったところで、そろそろいいかな、と立ち止まる。
「ちょっと寄りたいところあるから、ここまででいい」
「じゃ、また明日な」
「あっ、そっか。明日が約束の日曜日か」
「忘れんなよ」
「忘れないって。スケジュール帳に書いてあるし。ちょっとボーッとしてただけ」
今はあなたの父の日記の内容について、頭がいっぱいなんだよ。
こうして話している間にも、バレないか気が気じゃない。今は大丈夫でも、八代が帰宅したらすぐに紛失に気付かれるんじゃないか心配だ。
肩にかけたスクールバッグを気にする。早く読みたい――。
家に帰る時間さえもどかしくて、今すぐに中身を開きたかった。
「じゃあ明日ね。色々とありがとう。今度絶対にお礼するよ」
角を曲がって八代が見えなくなった途端、私は走り出した。
公園のベンチに腰を下ろしふぅ、と息を吐き出した。
全速力で走るのなんて、あんまりないからぐったりきてしまう。
公園内には誰もいなかった。やっとみんな起き出した頃だろう。土曜日だからもっと遅いかもしれない。
ここなら誰にも邪魔されない。
バッグの中から、手帳を取り出す。
よし。気を引き締めて1ページ目を開いた。
***
9月3日
今日から日記をつけようと思う。
……のだがとりあえず最初に、過去のことを一通り振り返ることにする。
俺は最初、妻の早苗と二人で暮らしていた。
しかし年々早苗への不満が募っていって、こんなことなら百合を選ぶんだったな、と悔やんでいた。
早苗との間に子供が出来なかったことも後悔している理由だった。俺はすっかり騙された気分になって、毎日早苗に怒っていた。
そんなある日。俺は帰宅途中に、田中に刺された。
田中とは幼馴染みで、ずっと仲良くやっていた。
あいつが昔早苗を好きで、俺と早苗が結婚した直後、ちょっとギクシャクしたけど、それも時間が経つにつれて解決したと思っていたのに。
俺が「やっぱ百合と結婚すれば良かった。二股してた頃に戻って選び直したいよ」とかこぼしたのが良くなかったのか。
田中は俺を刺した後、「やった! 移してやった! これで早苗は俺のところに!」とかヤバい目で高笑いしていた。
死にたくない! と思った時、独身時代のことが頭に浮かんだ。人は死の淵に立った瞬間、一番満たされていた時期を思い出すらしい。
早苗と百合。どちらと結婚するか迷っていたあの頃――。
あの頃に戻って、人生をやり直したい。百合を選べばきっと幸せになれる。
結婚相手を、選び直したい――。
そう強く渇望した時、身体がふっと軽くなった。
気が付いたら、俺は独身時代に住んでたアパートで、百合と抱き合っていた。
少しして、自分がタイムリープしたことを理解した。
とんでもないラッキーが起こった。
俺は飛び上がって喜んだ。
これで幸せな家庭を築ける。さっさと早苗を切って、百合と結婚しよう。
その日の内に俺は早苗に別れ話を告げて、百合にプロポーズした。
予想通りオーケーをもらえて、それからはトントン拍子で結婚準備が進んでいった。
そろそろ終業時間なので、続きは明日にしよう。
9月4日
かくして百合と結婚して、充実した日々を送っていたある日、田中から便りが来た。
早苗と結婚したという報せだった。
それを聞いて、タイムリープ直前、田中が俺を刺した時の発言を思い出した。
あいつは俺を刺して、『移してやった』と言ってた。
田中が持ってたタイムリープ能力を俺が授かったということらしい。
ここでタイムリープ能力について、俺が立てた予想を並べていく。
1 能力は人に移すことができる
2 瀕死の状態にすることで、その人物に能力を譲渡できる
3 能力の保有者の願望に反応し、その願いを成就できる時期に、リープできる
4 能力を使える回数は、限られている
といった感じだ。
田中の発言と行動から立てた予想だ。
わざわざ俺を殺さなくても、自分で願った過去に戻れば良いのに、あいつは俺に移した。
田中はもうタイムリープできないから、俺のぼやきを聞いて、俺に過去を変えてもらおうとしたんだろう。
タイムリープは何回使えるんだろうか。一人一回きりなのか?
疑問に思った俺は、試してみることにした。
9月5日
結果。何度あの頃に戻りたいと念じても、一回も遡れなかった。
思いの強さが足りてないのかもしれない。死を迫られてもいないし。
まあ、こんな素晴らしい能力、一人一回きりなのが妥当なのかもな。
今の生活に満足しているから、別にいいか。もうやり直す必要なんてない。
そう結論付けて、それきり俺は、タイムリープ能力についての解析をやめた。
それから数年後に襟人が生まれて、家庭内はてんやわんやになった。すぐに理人も生まれたから、俺と百合は忙しく幸せな日々に、没頭していった。
俺は、思い描いていた幸福を手にした。
だからこの不思議な出来事も忘れようとしていたのだが、事情が変わったのだ。
10月11日
過去の話が一段落ついたことで少し満足して、しばらく書くのを休んでしまった。
どうして今さらタイムリープのことについて記そうと思ったのか。
俺がこれからすることへの決意を、より強固にするためだ。説明調な文体も、自分の心に言い聞かせるように、と考えてのことだ。
日記を書き始めたのは先月。こんなに時間が経ってもまだ、俺は日和っている。
息子を殺すなんてこと、ためらって当然だ。
10月12日
理人を殺す。
もちろんタイムリープ能力を移すためだ。
何度願っても、過去には戻れなかった。どうやら一人一回きりらしい、と気付いて、それならば田中が俺を襲ったように、俺も理人を死に追い込めばいいのだ、と考えた。
理人は二ヶ月前から学校に行ってない。友達と喧嘩したとか、いや、いじめっ子に目をつけられた、だったか? まあどうでもいい。とにかく人間関係のトラブルだ。
そんな感じで学校に行かなくなったそうだ。くだらない。我が息子とは思えんほど恥ずかしい奴だ。
理人は学校でトラブルが起こる前に戻りたいはずだ。やり直して全部なかったことにすれば、また問題なく通い出す。
理人はよく聞く引きこもりではなく、普通に外出するし、食卓で笑顔を見せることもあった。勉強もしている。
だから落ち込んでるとかじゃなくて、普通に学校に行くのが気まずいだけなんだろう。そうに違いない。
だからちゃんと学校に行けと助言してやってるのに、百合も襟人も賛同してくれない。
理人も、俺に嫌な顔をするようになった。
ふざけるな。正しいのは俺なのに。あいつら全員、一回懲らしめないと気が済まない。
そうだ。どうせ元に戻るんだから、あいつらをズタズタにして憂さ晴らししよう。
理人の不登校がなくなれば、俺は父親としての威厳を保てる。
いつ実行するのが良いだろうか。
10月22日
襟人も俺がタイムリープしなければ、生まれなかったんだよなぁ。
あと7日経てば、襟人の誕生日、というわけで、そんなことをしみじみと考えた。
もっとも祝ってやるつもりなんてないが。
今日襟人に文句を言われた。理人の話を聞いてくれ、だの理人としっかり向き合え、なんてことをぬかしてきた。
何を言ってるんだか。俺が悪いってのか。そんなわけないだろう。理人が全面的に悪い。
百合も俺を悪者にしてくる。ふざけんな!
悩むのはもうやめだ。明日にでも計画を実行に移す。
ちょうど明日は、みんな家にいる予定だしな。
よし。まずは百合から殺そう。それから襟人、最後に理人を殺してタイムリープ能力を移す。
この日記のおかげで、決意することができた。やはり書くことは目標を実現する力になるんだな。
明日が来るのが今から楽しみだ。あいつらをズタズタにできるし、これで人生をやり直せる。
***
全て読み終わった私は、愕然としていた。
こんなの初めてだ。顔面をフルスイングされたみたいな衝撃だった。
八代の父がタイムリーパーだったことも驚愕だが、私の胸を占める感情はそれだけじゃない。
「胸糞悪い……!」
フィクションだと信じたかった。これを書いた奴は、人間のクズだ。
自分が幸せになることしか考えず、家族や他人のことなど何とも思ってない。
たとえ弟君に能力を移すことに成功したとしても、この調子じゃあ、いつか父親としての威厳を失っていただろう。
なんて利己的なんだ。彼のこの行動がどれほど八代や弟君の人生を狂わせたことか。
それに母の百合さんはもう帰って来ないのだ。これがどれだけ悲しいことか。
殺された人だけじゃなく、残された者はやりきれない気持ちを抱え続ける。
よりにもよって父が母の命を奪って、その父もこの世からいなくなるなんて、子どもたちはどんな思いを抱くんだろう。
先ほど別れた八代の顔が脳裏に浮かんだ。
八代は夏祭りの日に、この日記のことを話そうとしていた。
日記の内容について訊いた時の、迷うような表情を思い出す。
私に打ち明けたかったのか? ひとりで抱えるには重すぎる父の秘密について、私と共有したかったのか?
私が昨日、ずっと抱えてた家族へのわだかまりをぶちまけたみたいに。
八代もあの日家族のことを話した拍子に、止められなくなっていたのかもしれない。
『お前だから話したいことがある』
八代はあの日、そう言って何か切りだそうとしてた。
私だったら信じてもらえるかもと期待して、タイムリープについて話そうとしたのか。
私にはそう思えてならなかった。
それなら私も、彼に今まで隠してたことを打ち明けよう。
そうして全て話したら、彼にも協力を仰ぐのだ。
素敵な思いつきに、胸が躍る。
ああ、私が阻止したいことについて八代に話せたら、どんなに心強いだろう。これからは一人で悩まなくて良いんだ。
早速八代に電話をかけようとして、ハッと我に帰る。
明日は大切な予定があるじゃないか。
山田と会う日だ。
打ち明けるのは、幸のストーカー被害が解決してからにしよう。まずその問題を片付けるべきだ、と思った。
「とりあえず明日。山田に会わなきゃ」
よしっ! と口に出して、その勢いでスッと立ち上がり歩き始める。
なんだか全てうまくいきそうな予感が湧いてきて、久しぶりに晴れ晴れとした気分だった。
「山田は午前中部活らしいので、ちょっと遅くなるかもです」
ランチ時のファミレスでマミはそう言って、ドリンクバーから取ってきたココアをストローでかき混ぜた。
氷がぶつかり合う音を聞いて、山田、早く来てくれないかなぁ、と窓から見える雲を眺める。
居心地がよくない面子だ。この間マミへの認識をちょっとは改めたものの、正直あまり仲良くできそうにない。
彼女をどうにも好きになれないのは、恋敵だからという理由もあった。
「昨日の台風すごかったですよね~。大丈夫でした?」
マミが、八代に向かって問う。頬に手を当てて小首を傾げる仕草は、同性から見ても可愛かった。
「うん。何ともなかったよ」
「良かったです~。あ、悠はあの後大丈夫だった? ごめんね、ハブったみたいになっちゃって」
マミの言葉で、昨日の記憶が次々と蘇ってきた。
雨の中八代に出会い、背負われたことから始まり、彼の家に上がったことや、お風呂に入ったこと。服を貸してもらったこと。
そして抱き締められたこと。
私は、動揺が顔に出ないようにヒヤヒヤしながら、答える。
「うん、大丈夫。平気だった。あれは別に気にしなくていいよ」
隣に座る八代の存在を意識させられ、テーブルの上で組んでいた手にギュッと力がこもる。
マミは私をまじまじと見た後、八代に視線を移した。
そして一瞬だけ訝しげな表情を見せた。が、すぐに愛嬌たっぷりの笑顔になる。
「なら良かった! 幸も気にしてたんだよね。悠ちゃんは無事に帰れたかなーって」
そう言いながら、マミは携帯を取り出して、少し操作した。通知でも来ていたのだろう。
「あ、今何分?」
携帯を仕舞おうとするマミに尋ねる。もう12時を過ぎてけっこう経つ気がするのだが、まだ来ないのか。
「12時半だよ。部活って片付けとかもあるし、時間かかんのかもね」
さすがに一時間以内には来ると思うが、こうしてじっと待っているというのは、落ち着かない。
逸る気持ちを抑えようと、ぬるくなったコーヒーを飲み干した。
「襟人さんは部活とかやってましたか?」
マミが興味津々に顔を覗き込む。
「いや、どこにも入ってなかった」
「そうですか~。ちなみにわたしはテニスやってました! 高校に入ってやめちゃいましたけど……。あ、樹里亜先輩もテニス部だったんです。その時から良くしてくれてて」
「樹里亜さんとはどんな感じだったの?」
マミが樹里亜に特別懐くのには、何か理由があるのか気になって、尋ねてみる。
すると、よく訊いてくれた、と言わんばかりに、マミが得意げな顔になった。
「樹里亜先輩はね、わたしを助けてくれたんだ」
マミは、大事な思い出を懐かしむように語り出した。
「わたしが入ってた女子テニス部にはさ、部員同士のいざこざとか意地悪が頻繁にあったんだ。まあ女子しかいない部活では、ありがちな話だよね。
わたしが部内で浮いてた時期もあった。最初のうちは我慢できてたんだけど、時間が経っても治まらなかったから、ホントは嫌だったけど退部しようと思ったの。でも……退部届出そうとした時、樹里亜先輩に声かけられて」
『大丈夫? 私に出来ることがあったら言って。力になるから』
そう言ってきた樹里亜に、マミは全て話した。
樹里亜は部内でそんなことがあったとは気付かずに、話を聞いて大層驚き、憤慨したという。
「樹里亜先輩ってそういう鈍いところがあるんだよね。まさかまったく察知してない部員がいたなんてびっくりだよ」
樹里亜は相当に鈍感らしい。その鈍感さが八代には幸への無関心に見えたのだろう。
「でも部内の状況を理解した後の先輩の行動はすごかった」
当時のことを思い浮かべたのか、マミは恍惚としたため息を吐いた。
「嫌がらせとか積極的にやってた三年生たちに渇を入れていって――言って聞かせたところで逆効果だ、って思ったんだけどね」
「上級生たちに直接抗議したんだ。度胸あるね、樹里亜さん」
「うん、すごいでしょ。ただの一部員でしかないわたしのために本気で怒ってくれて……じーんと来ちゃった」
「樹里亜の行動で、先輩たちは態度を改めたのか?」
今まで黙って話を聞いていた八代が、疑問をぶつけてくる。
「はい。こんなに簡単に反省してくれるんだったら、もっと早くちゃんと向き合えば良かったのかな、って思ったんですけど、考えてみれば、樹里亜先輩だったから、部員たちも素直に聞き入れてくれたような気がします」
「樹里亜は人望があったのか?」
「はい。先輩は、寄ってくる人に対して優しくて、力になってくれるんです。人の悩みを聞くのが得意だって、いつだったか本人も言ってました」
樹里亜はこれから良い姉になっていくだろう、と私は確信に近い思いを抱く。
これは持論だが、後輩に慕われる人に悪い人はいない、と思う。
八代も同じ気持ちらしく、「樹里亜にそんな一面があったとはな」と感心している。
「今まであいつのこと誤解してたの悪かったな……」
後悔を滲ませた声音だった。
八代は樹里亜を冷たい人間だと思ってたからな。
私もちょっと前までは、そうだった。
「きっと不器用だっただけなんだよ。今日だって幸とピクニックなんだって。お姉から誘ってくれた、って言ってた」
「へぇ、そうなんだ。楽しそうだね!」
マミが、微笑ましそうに目を細めた。
「そうなのか。こんな騒動も悪いことばかりじゃなかったのかもな」
八代も感慨深そうに頷く。
「怪我の巧妙ってやつだね。ストーカーのおかげでって言っちゃうと変だけど、樹里亜さんがちゃんと幸を大切に思ってたことがわかったから」
私も安心した。幸が私のような家族を持たなくて。
あれは本当に苦しいものだから。親友が私とは違うとわかって、嬉しかった。
「ていうか樹里亜先輩と襟人さんは、仲が良いんですか? 呼び捨てで親しげな感じしますけど」
どことなく不安げにしながら、八代の方へ身を乗り出すマミ。
「まあ、幼馴染みだったけど……今じゃ樹里亜とは全然交流ないよ」
「樹里亜先輩とは、ってことは、幸とは今でも仲良しなんですか?」
「幸とはそうだな。若葉と俺が知り合ってからは、三人でいることが増えた気がする」
「へぇ」
マミが私へと視線を流す。
「うん。夏休みは特によく会ってたよ。夏祭りも三人でいったし」
自慢と牽制の意を込めて、にこやかに説明する。マミの眉間に皺が寄る。悔しそうな様子だった。
しかしすぐに天真爛漫な表情に切り替わって、甘えるような声を出した。
「じゃあ来年はわたしと行ってくださいよ! 襟人さん」
「今から来年の話か。鬼に笑われるぞ」
本心から出た言葉か、誤魔化したくて出したのかはわからなかったけれど、私は彼が頷かずにはぐらかしたことにホッとした。
「それよりも。山田遅くない? 部活ってこんなにかかるもんなの?」
時計はもうすぐ13時を示そうとしていた。午前中まで、という話にしては時間が経ちすぎではないか?
自身の携帯の画面を見ていたマミが、
「居残りさせられてたりして~」
とおどけて、携帯をカバンにしまう。
「早いとこ来てほしいな……」
「まあまあ。お喋りでもして気長に待とうよ。わたしちょっとお花摘みに行ってきま~す」
カバンを持って立ち去った彼女にひらひらと手を振る。