殺してくれてありがとう

 校門を出て、幾分か歩いた頃だった。
 何者かが砂利を踏んだような足音が、背後からしてきた。
 後ろをそっと振り返る。
 そこには、誰もいなかった。
 ただの空耳だった?

 「悠ちゃんどうしたの? 急に後ろを見て」
 「いや――何でもない」

 気のせいのような感じもする。この前のことで、神経過敏になってるだけかもしれない。
 しかし――。

 「幸。たまには違う道通って帰ってみようよ」
 「えっ? ちょっ、悠ちゃん?」

 幸の手を掴み、街灯の多い道へと歩を進める。
 ずんずんと歩いていく私に若干戸惑いつつも、幸は大人しく手を引かれている。
 私は急ぎつつも、早足になりすぎないように注意する。誰かがつけてきているかもしれないのなら、その人物を下手に刺激しないために。

 素知らぬ顔をして歩きながら、背後へと気を配る。空を見上げるふりをして、さりげなく後ろを見て、悲鳴が飛び出そうになった。
 早歩きでこちらに向かってくる人影があった。距離は着々と縮まってきていて、驚きと恐怖のあまり、私の心臓は止まりそうだった。

 「幸、走るよ。全力で」
 「わっ! ちょっ……」

 手を繋いだまま急に駆け出したので、幸は一瞬よろけそうになったが、すぐに全力疾走の体制になり、そのタイミングで手を離して、並走する。
 走りながら、幸も後ろへ目をやる。「ひっ」とひきつった声を出して、さらにスピードを上げた。

 荒い息遣いで走る私たちの背後――少し離れた場所から、バタバタとした一人の足音が聞こえた。
 向こうも走って追いかけて来てる――身体中の毛穴がぞわりと粟立った。
 早く早く――明るくて大勢の人がいるところまで急がなくちゃ。それまで絶対に追い付かれてはいけない。

 「あそこ曲がるよ!」
 「うんっ!」
 もう少しだ。目と鼻の先の角を曲がれば、大通りに出れる。
 「きゃっ!」
 「幸!?」
 私の一歩後ろを走っていた幸の身体が、急に後ろ向きにひっくり返った。

 振り返ると、一人の人間が、地面にうずくまった幸を見下ろしていた。
 その人物は、パーカーのフードを深く被っているため、口元しか見えなかったが、その口角が興奮しているかのように上がっているのを見た途端、私の中から冷静さが消えた。

 「幸から離れて!」
 不安も危機感も吹き飛び、幸を転がしたそいつへ突進していく。
 「悠ちゃん!」

 幸の制止する声を無視して、そいつを地面に引きずり倒す。
 その衝撃でフードがずれ、隠されていた顔が露になった。
 そいつは、私たちと同い年くらいに見える少年だった。
 整った鼻筋と綺麗な肌が印象的な少年は、痛そうに顔を歪ませ、憤怒に満ちた瞳で私を下から睨み付ける。
 その視線に怯み、ほんの少しだけ拘束する力が緩んでしまった。
 彼は、チャンスを逃さなかった。
 少年は私を振り切ったかと思えば、目にも止まらぬ素早さで撤退していった。

 「あっ! 待て!」
 「もういいよ、悠ちゃん!」
 遠ざかる彼へと伸ばした私の手を、幸が掴む。
 「相手は男の子だし、勝てないよ。危ない」
 宥めるようなその声音で、少し落ち着きを取り戻す。

 「それもそうだね……あ、じゃあせめて――」
 ついた汚れを落としながら、立ち上がる。
 「交番に行ってこのこと話そう。確かこの近くだったはず」
 交番で幸が警官に説明している最中、私の携帯の通知音が鳴った。
 八代からのメッセージだ。

 『田所はシロだった』
 簡潔にそれだけが書かれている。
 内容にこれ以上ないほど納得した。私はさっき犯人に会ったのだから、田所のはずがない。
 今は返信できる状況ではないため、再び鞄の中へと押し込んだ。

 「あなたは彼の顔を見たそうですね? 特徴を教えていただけませんか?」
 もう一人の女性警察官がメモとペンを握って、私に尋ねてくる。
 「はい。高校生くらいの風貌で、鼻は高くて目は――凄んでいたのでよくわかりませんでしたが、確か二重でした」

 警官に説明しながら、フードが取れた少年の頭が坊主だったことを思い出した。
 以前幸の家の庭に入り込んだ男も坊主頭だった。こんなに短い感覚で、再び現れたということになる。

 幸は転倒した際に擦りむき、手のひらの皮が少し剥がれた。実際に危害を加えられたのだ。
 悪寒が這い回る。改めて危険が迫っていることを実感して、焦燥感と恐怖で胸が苦しくなる。
 なんとかしなきゃ。幸にもしものことがあったら――。
 頭から大量の血を流した幸の姿が、フラッシュバックする。またあんな結末になってしまったら――。
 一気に身体中の血の気が引く。ガタガタ震える私を、警官が優しく抱き締めてくれた。

 「大丈夫ですよ、ここは安全だから。怖かったでしょう」
 その温もりと優しい言葉がスイッチになる。ひっきりなしに溢れ出てくる滴が顎をつたって、床や警官の服に染み出す。
 迷惑だとわかっていながら、私は嗚咽と涙をせき止められなかった。


 事情聴取が終わり、お暇しようとした時警官が、「自宅まで送ります」と言ってくれた。なので、生まれて初めてパトカーに乗る運びになった。
 幸を送り届けた後、私の家へと向かっている道中、今日は疲れたな、と思い、どっしりとシートに沈む。
 待ち時間が長い信号にぶつかり、何とはなしに窓の外を見ていると、とんでもない光景が目に飛び込んできた。

 ほんの数メートルの歩道に、八代とマミがいた。それだけなら、別に何ということはないのだけれど――。
 問題は、二人が腕を組んで歩いていることだ。
 マミが何か話し掛け、八代がそれに小さく笑いながら応じる。次の瞬間、マミが甘えるように、八代の半身へ重心を傾けた。

 「……!?」
 八代は驚くことに、拒む素振りを見せずに、穏やかに歩き続けた。その足が向かうのはマミの家がある方角だ。
 私は、その光景をどこか遠い世界の出来事のようにぼんやりと眺めていたが、車が走り出したと同時に、ハッと意識が戻る。パトカーが走行するのと比例して、二人が小さくなっていった。
 しかし私の脳裏には、さっき見たものが、いつまでもこびりついていた。
 帰宅してしばらく経ってから、八代に電話をかけ、フードの少年について一部始終話した。

 「そりゃ無茶したもんだな。怪我とかもないんだな?」
 「私は服が汚れただけ。でも幸の手を傷つけちゃった……軽傷だから幸いだったものの」

 血の滲んだ手のひらを思い出して、自然と硬い声音になる。

 「――若葉。幸に何かあったからって自分を責めるなよ」
 「え?」
 「前から薄々感じてたけど、若葉は幸に関することになると、心配の粋を越えてるっていうか――やけに怯えてるように見えんだよ。今だって“傷つけちゃった”って、まるで自分に責任があるみたいな口振りじゃねぇか」
 「それは……」

 幸の死体を、一度この目で見てしまったから。
 何も映していない深い闇のような瞳に、ダランと投げ出された手足――。
 時が経ち大人になれば、悪夢のようなあの記憶も薄まっていくのかと思っていた。けれど私は、大人になんてなれなかった。魂の抜けた親友の姿は、今でも瞼の裏にくっきりと残り続けている。

 「なあ、若葉」
 電話口から躊躇うような気配が漂ってきた。
 「何か隠してるんだろ」

 喉がヒュッと鳴った気がした。急速に騒がしくなる心臓に手を当て、無言でいたら駄目だ、と言葉を捻り出す努力をする。
 そうして頑張って出した言葉は、いやに頼りなく響いた。

 「隠してることなんて……ないから。八代の気のせい、だよ」
 「――そうか。まあ言いたくないならしょうがないが、あまり思い詰めるなよ」

 八代は、納得している様子じゃなかったけれど、追及はしないでくれた。その優しさに感謝する。
 言ったところで困らせるだけだし、そもそも信じてもらえず、頭がおかしいのではと思われるかもしれない。八代にそんな風に思われるのは、嫌だ。
 沈黙が訪れたことを確かめて、「あのさ」とどこか緊張しながら切り出す。

 「私も訊きたいことあるんだけど」
 「なんだ?」
 「家に帰る途中で、八代たちを見たの。マミと腕組んでたよね?」

 マミを嫌がってたはずなのにどうして? と言外に含ませる。

 「見られちまったか……」
 八代は失態がバレたような感じで、深くため息を吐いた。その態度に、心がざわつく。
 「え? まさかマミのこと――」

 好きになったの? と言いかけて躊躇う。もし「うん」と言われたらどうする。そう考えたら、恐ろしくなって、とても尋ねる気になれなかった。
 しかし八代は、私の疑念を察したらしく、「違う違う」とどこか焦ったように否定した。

 「あれは、別に全然そういうわけじゃなくて。――田所がシロだったって言ったろ」
 「うん。あっ、そういえば何で潔白ってわかったの?」
 「ストーカー疑惑の男とは、体格が違いすぎたんだ。田所は、典型的なラグビー部って感じの、がっしりした大柄な見た目だった。何でも高校に入って、めちゃくちゃ身長が伸びたらしい」
 「じゃあ小柄な不審者とは、違うね」
 「ああ。だから田所とは穏便に別れたんだけど、元恋人の折野に対して未練が湧いてきたのか、俺が折野を送っているところをつけてきたそうだ」
 「“そうだ”ってことは、八代が実際にあとをつけてくる田所を見たわけじゃないの?」
 「ああ。『ケンちゃんがついて来てる。ちょっと彼氏の振りしてください。そしたら諦めると思うんで』って折野が言うから、くっついて歩いてたんだ。まあ解散する前に田所は、折野にもう一度付き合わないか訊いてたから、ああ、そうなのかって納得した」

 嘘だ。
 私はそう直感した。マミのことだから、田所のことをダシにしたんだ。
 そうだ。違いない。きっと嘘に決まってる。
 恥ずかしいわけでもないのに顔が熱くなって、下唇をギュッと噛んだ。

 「八代は最初からマミを送るつもりだった? 田所のことを話されなくても」

 つるりと出てきた疑問は、自分で問うておきながら投げた意味がわからなかった。
 こんなこと訊いてどうなる。というか何でこんなことを知りたいのか。

 八代も面妖に思ったらしく、
 「ああ、そのつもりだったが。もう夜に近い感じだったし」
 当然といった物言いに、ああ、そうか。と悟った。

 八代は誰に対しても優しい。たとえ嫌いな相手であろうとも、その優しさは発揮される。
 私は、自分だけが特別ではないか、と心の奥底で期待していたんだ。その期待が間違っていないか知りたかった。

 「ふふふっ……はははっ!」
 こみ上げてくるおかしさを、止められなくて、膝をバンバンと叩く。
 「ど、どうした? 何か変なこと言ったか?」
 戸惑っている気配が伝わってくる。当然の反応だった。脈絡もなく笑いだした私は、さぞ不気味だっただろう。

 「あー何でもないの。ちょっとテレビで面白い瞬間が映されたから、ついね……」
 「そんなにツボに入るほどだったのか。びっくりしたぞ」
 「ごめんごめん」
 「けど明るくなったなら良かった。さっきまで危うい雰囲気だったから」
 「うん。沈んでたんだけど……八代と電話してたら元気湧いてきた」
 「……そりゃ良かった」
 「じゃ、おやすみなさい」
 「おう、ゆっくり休めよ」
 通話を切った私は、しばし放心していたが――。

 「あー……もう何で…………」
 両手で顔を覆い、ベッドに倒れ込む。壁側を向いて膝を折り曲げ、自分がなるべく小さくなれるよう努める。

 「わかりたくなかった……」
 ずっと必死に気付かないようにしていた。
 けれどもう認めざるを得ない。

 「最悪……」
 恋を自覚した場合、大抵の人は浮かれるはずだ。心も体も希望に満ち溢れ、悩みなんて吹き飛ぶんだろう。
 しかし私の中に湧く感情は、絶望に近かった。途方に暮れる、という言葉は、この時の私のためにあるとさえ思った。
 「え~!? そんなことがあったの? 大丈夫だった!? 二人とも」
 翌朝、マミに昨日の出来事を話すと、大きい目をさらに見開いて、驚愕の声を上げた。

 「大した怪我はなかったから、大丈夫だよ」
 幸が言う。
 「そっかそっか。でも怖いねホント……」
 身震いするマミ。私はそれを横目で伺う。

 田所はシロだと判明したわけだし、もうマミと八代は関わらなくていい。
 私はマミに嫉妬していた。昨日やっと認めることができた事実。
 それに振り回されることも、もうない。私の心も、多少は平穏を取り戻すだろう。
 私が、肩の荷を下ろしたように、ホッとため息をついた時――。

 「ね、悠」
 マミが昔馴染みのような気安さで、私の肩に腕を回してくる。のしっと体重をかけて、距離を縮められる。
 そして幸には聞こえないように、囁いてきた。

 「あのさ、話したいことあるんだけど。後でちょっと……ね?」
 嫌な予感をひしひしと感じながら、私は目線のみで、「わかった」と返答した。


 昼休み。屋上でマミと向かい合う。
 ちなみに幸には、先生からの呼び出しだと言ってある。
 マミが真面目な顔をして、切り出した。

 「単刀直入に言うね。――悠は幸の中学時代の事件について知ってるよね。わたしが当時やったことの“本当”の理由も含めて」

 マミの口から、まったく予想してなかった言葉が飛び出したので、私は思わず、「えっ!?」と間抜けな声を出してしまった。
 マミは、たとえ問い詰められたとしても、図太く知らん顔をし続けるんだろうな、と思っていた身としては、あまりに肩透かしな話題だった。
 一体何を考えているんだろう。そう怪しみながらも、コクリと頷く。

 「うん。全部知ってる。最低だと思ったよ。――何でそれを、わざわざ私に言う気になったの?」
 「これからはわたしのこと信じてもらいたいから。嘘つきだって思われるわけにはいかなくなったの」
 私が怪訝な視線を向けると、
 「中学の時のことについて、わたしが幸に話したことの全部が嘘ってわけじゃないの」
 「というと?」
 「幸のことが好きだったヤバそうな、いや実際ヤバかった奴は、完全な作り話ってわけじゃなくて、存在してたんだ」

 幸への想いをノートに書き綴っていた男子――。あれはマミのでまかせかと思っていたが、実在していたのか。マミの発言を信じるならば、だけど。

 「わたしが嘘ついてたことをちゃんと認めて謝罪しなきゃ、悠たちに協力してもらえないって思ったの。今までたくさん隠し事しててごめん」

 マミが――常に身だしなみに気を遣っている彼女が、汚れた床に髪の毛がつきそうなほどに、深々と頭を下げた。

 「ケンちゃんがシロだってわかったからには、もうあの男子しか心当たりがないの。だからっ……!」

 マミはそこで言葉を区切り、私の目を覗き込んできた。私はその表情に、どきりとした。
 マミの両目は、膜が張ったように潤んでいて、そこから確固たる意志と、すがるような必死さが滲み出ていた。目の前にいる女の子は、本当にあのマミだろうか、と思ってしまうほど真摯なその態度に、私は狼狽せざるを得なかった。

 「襟人さんと悠にまた調査を手伝ってほしい。お願いしますっ!」
 マミは語気を強めて、再びガバリと頭を深く下げる。
 「わざわざマミが参加することないんじゃないの? 情報だけ提供してくれれば、私と八代で調べるってことでも――」
 「わたしはその男子とも、付き合ったことがあるの。わたしと別れた後、幸にちょっと慰められてて――たぶんそれで幸を偏愛するようになったんだと思う」
 「付き合ったっていっても、少しの間だけだけど……」とマミは、私に過度な期待をさせないように、付け加えた。
 「信じてもらえないかもしれないけど……わたし償いたいの、中学の時のこと。だから幸を悩ます不審な男を、早く、捕まえたくて――」
 だんだんと涙声になっていくマミ。

 「わたしがそいつに話せば、平和的に解決できるかもしれない。それに元はと言えばわたしが原因かもしれないのに、二人に任せるなんて出来ない」
 強く言い切った彼女を見て、以前樹里亜に言われたことを思い出す。

 『マミは恋愛が絡まなければ気のいい子だよ』
 あれは、真実なのかもしれない。
 普段は善良な人間が、恋愛が関わった途端残酷な行動に出てしまうというのも、ありえないことではないのかもしれない。
 それに――。
 私だって、恋敵のマミの前では、相当に意地の悪い人間になっていなかったか。マウントを取りたがったり、悔しがる彼女を見て悦に浸ったり――。そうやって自分の行いを省みてみると、樹里亜の言葉がますます説得力を増してくるのを、感じた。
 少なくとも目の前のマミの態度が、嘘八百とはどうしても思えなかった。

 「――わかった。とりあえず八代にも掛け合っておく」
 「ホント!? ありがとう! 最高に良い奴だね、悠!」

 マミが飛び上がるような勢いで――いや実際にジャンプして、全身で感激を表現する。

 「わたし最初は悠のことよく思ってなかったけどさ、今は仲良くできそうな気がしてるんだ。――なんて虫がよすぎるよね。散々失礼な態度取っておいて、今さら謝られても、許してもらえないよね……」

 数秒前の浮かれた様子から一転、しおれた花のようになったマミを前にして私は、「いや、そのことに関しては、もう気にしてないよ」と言うほかなかった。
 私の言葉を聞いた瞬間、彼女の顔がパッと明るくなる。八代や樹里亜の前でしか見せたことのなかった表情だった。

 「本当に……? わたし悠に酷いことしたのに――それなのに許してくれるの?」
 酷いこと、というのは多分、プラネタリウムの時の、明確な攻撃を指しているのだろう、と思った。

 「うん、許すよ」
 まだわだかまりが完全に消えたわけじゃないけど、懇願してくるマミに素直に頷いておく。
 「やったー! これからもよろしくね!」
 有頂天になっているマミを見て、嘘とは思えないな、と再度感じた。
 夜になって、八代に電話で相談する。
 「……ってことなんだけど、八代はどう思う?」
 「乗るに決まってる。可能性があるなら潰していくべきだ」
 「やっぱりそう言うと思ったよ」
 「若葉は無理に協力しなくてもいいんだぞ。犯人と会ったら、嫌な思いすんだろうし」
 「ううん。私も幸のためになりたい」
 「そうか。じゃあよろしくな」
 「うん。あの、さ」
 「どうした?」
 「マミのことなんだけど……」


 私は昼間のマミの言動と様子を話した。
 「償いたい、か」
 「マミは悔い改めたんじゃないかって。だから今後は警戒を解いて、素直にマミの言うことを信じられるような気がする」
 八代にもわかってもらいたいと思い、そう告げる。

 「そうだな。若葉が信用できるって言うなら、俺は信じられる。俺よりも折野と関わってるしな」
 「じゃあ――」
 「折野のことを信じてみる。疑ったままじゃあ、協力関係にもヒビが入りそうだし」
 「ありがとう、八代。マミにオーケーって伝えておくね」
 「ああ、頼む」

 このまま電話を切るのがもったいなくなって、私たちは他愛ないお喋りをしばらく続けた。

 「うわ、もうこんな時間じゃん。そろそろ寝なきゃ。八代も暇じゃないのに、遅くまで付き合わせてごめんね」

 時計は23時を過ぎていた。私よりも多忙だろうに、申し訳ない。

 「いいんだ。俺が若葉と話したかったんだから。また電話しよう」
 どことなく甘い声音で、八代が言う。
 「……うん。おやすみ」
 通話を切って、ベランダに出る。冷たい空気にあたりたかった。

 「顔、合わせづらいなぁ……」
 最後の八代の言葉に嬉しさが喉までこみ上げたことで、自分の気持ちを思い出した。
 これからこんな風に浮かれる自分を客観視しては、戒める日々が続くのか。

 ようやく気付いたこの気持ちは、封印しようと決めた。封印は難しくとも、絶対に表に出したりはしない。
 両親のことや、これまで何度となく別れてきた熱々カップルを思い返す。
 踏み出したところで、いずれああなる。相手を嫌いになったり、どうでもよくなる。

 八代を嫌いになるくらいなら、一生叶わないまま想い続けられた方が、幸せだ。破滅へと導くための感情など持ちたくなかった。
 数日後。またもやマミの自宅で、私たち三人は会議を開いていた。

 「その男子は何て言うんだ?」
 「山田(やまだ)ケンです」
 「山田の進路はどうなったの?」

 すぐにたどり着けると良いな、と思いながら尋ねる。
 しかし私の期待と裏腹に、マミは残念そうに首を振った。

 「山田が今どうしてるのかわからないの。志望校とかも聞いてない」
 「ならどうしようもないんじゃ――」
 「いや。山田の女友達に聞いてみる」
 「連絡先を知ってるのか?」
 「いいえ。けどその子がどこの高校に行ったのかは知ってます」
 「じゃあまた校門の前で待つことになるのか」
 「そうなりますね。すいません、また付き合ってくれますか」
 「俺がいると向こうに変に思われないか? 折野だけの方が良いんじゃないか」
 「いいえ。山田はわたしが嫌になったから別れたんだって周りに言いふらしていたので――わたしだけで行くと、山田の場所を素直に教えてくれない可能性があります」
 「なるほど。じゃあ一緒に行くしかないな」
 「はい。よろしくお願いします!」

 また二人で行動するのか――。私の胸が疼き出す。
 マミが良い奴になっていき、再びアタックされたら、八代はマミを好きになるんだろうか。
 いや、そうなったとしても私には関係ないことだ。八代とは、生涯友達として関わると決めたんだから。
 墨汁を垂らしたように濁っていく気持ちを、慌てて振り払って、二人に笑いかける。

 「じゃあ私はまたお留守番だね。よろしく頼んだよ」
 「ああ」
 「任せといて!」

 並んで頷き合う二人を見て、ざらつく心を落ち着かせようと、庭に綺麗に咲いたコスモスにこっそり視線を移した。


 「また早退したんだね、マミちゃん」
 幸は、今月2回目の早退をしたマミが心配らしい。
 「そんなこともあるよ。季節の変わり目だし」

 また同じ言い訳を呟く。マミもこれ以上授業を休むことにならないといいな。小中学校と違って、休みすぎると卒業できないし。

 「そうだ悠ちゃん! 私ね、良いことがあったんだ」
 今にもスキップしそうなウキウキ加減で、幸が告げる。
 これは樹里亜絡みだろうか、と直感する。
 私の勘は当たっていたらしく、幸は夢心地みたいなうっとりとした表情で、浮かれ気味に呟いた。

 「次の日曜日に、お姉とピクニックに行くことになったんだ! あっ、お姉の彼氏も一緒なんだけど。改めてちゃんと紹介したい、ってことで、交流も兼ねてみたいな感じ」
 「へぇ、よかったじゃん! やったね幸」
 「うん。ピクニックなんて子どもの時以来。あ、今も未成年だから子どもだけどね」
 幸がへへっと舌を出して笑う。
 「あの丘の頂上近くで待ち合わせなんだ」

 幸があの、と指で示した先は、地元民には花火の名所として知られている、そこそこの高さの丘がある方角だった。

 「待ち合わせ? わざわざ?」
 「彼氏さんの家から行くみたい。ご馳走持ってくるからねって言ってた」
 「ふぅん。あそこなら花火大会以外じゃあまり人来ないし、まったりできそうだね。楽しんできなよ」

 ついこの前怖い目にあったので、塞ぎ込んでいないか心配だったが、楽しそうに話す姿を見て安心した。

 「うん! 楽しみだなぁ~」
 幸せそうな幸の横顔を見て、私も自然と穏やかな笑みがこぼれた。
 「山田と会えることになった」
 幸を送り届けた後、八代から電話がきた。
 外はまだ日が落ちきっておらず、夕焼けが家々をオレンジ色に染めている。それに安心感を覚え、八代の言葉に耳を傾ける。

 「山田の友達だっていう女子が、約束を取り付けてくれてな。今度の日曜日ファミレスで、とのことだ」
 「やったね。その子から何で山田に会いたいの、とか質問されたりしなかった?」

 山田の場所を素直に教えてくれないかもしれない――と言っていたマミを思い出して、そんなことを訊いてみる。

 「大丈夫だったよ。折野がその女子と秒で意気投合してな。そのおかげで不審がられることもなかったんだ」
 「マミとはすぐに別れたの?」
 「ああ。『今日は樹里亜先輩とガールズトークの約束があるので!』って言ってたよ。本当仲が良いな、あいつらは」
 「今回は、ということは、前回は二人でどっか寄ったりしたの?」
 「折野が、『お腹減ったんでどっか食べに行きましょうよ』って言ったから、ファミレスに飯食いに行った」
 「そうなんだ……そう、だったんだね……」

 言葉が詰まりそうになる。その理由を私はもう自覚している。だから余計に嫌な気分になった。
 ああ、もう。恋愛感情なんてくだらないもの、早く捨て去って楽になりたい。
 私の動揺は気付かれなかったらしく、「あ、そうだ」と八代が続ける。

 「日曜日若葉も来るよな?」
 「当たり前じゃん。山田って人が犯人かどうかこの目で確かめなくちゃ」
 この騒動をちゃんと最後まで見届けたいし。

 それから私たちはまた、何の益にもならない、くだらないお喋りを続けた。
 その一時のみ私は、気まずさなどを意識することなく、純粋に楽しめた。
 夜の帳がおりていくのをぼんやりと見つめながら、こんな時間が壊れないといいなぁ、と思った。
 「今にも降りだしそうだねぇ」
 教室の窓の外のどす黒い空を見上げて、幸が憂いを帯びた息を吐く。

 「そんなに荒れないと良いなぁ」
 私もテンション低めに呟く。雷は鳴るんだろうか。鳴るとしても遠くでいてほしい。

 「まあ、いつも大したことないし今回の台風だって大丈夫でしょ!」
 幸が沈んだ空気を吹き飛ばすように、楽観的に言い放つ。

 教室はざわついていた。先生たちは今、職員室で、生徒たちを下校させるべきかどうか話し合っているため、喧騒をたしなめる者はいない。
 クラス中の皆が、「マジ帰りたーい」「頼む下校になれ!」と授業がなくなることを望んでいる。

 私は意味もなくメッセージアプリを起動して、昨日届いた八代からのメッセージを見る。
 茶柱が立っていたというくだらない内容だ。
 しかしそれを読んだ時、かなり和んだことを思い出す。猫の動画よりも癒されたかもしれない。

 そこから過去のメッセージへと遡っていって、古い順から眺めていく。
 日にちが経つにつれ、だんだんとただの雑談が混ざったりもして、それを見てると心が落ち着いた。
 幸がこちらをチラリと見て、どこか嬉しそうに微笑む。
 「どうしたの?」と訊く前に、ガラリと扉を開く音がして、先生が教室に入ってきた。

 「はい、静かにね~。これからホームルームやりま~す」
 「ってことは帰れるんすね?!」
 一人の男子がテンション高めに尋ねる。
 「そうです。さ、みんなそれぞれの席に着いて~」
 そこかしこに散らばっていたクラスメイトたちが、おとなしく自分の席に戻っていく。みんな早く帰りたいのだ。

 「家の人に迎えに来てもらってもいいです。歩いて帰りたくない人は、今のうちに家族に連絡しといてください」
 その言葉にほとんどの生徒が携帯でメールを打つ。

 私の場合、連絡しても返ってこないか、「一人で帰りなさい」と言われるとわかっているので、みんなが連絡し終わるのを手持ち無沙汰に待つ。
 前の席に座る幸を見る。片肘をついて黒板をぼんやりと見つめていて、携帯をいじる様子はない。
 幸と一緒に帰るか。

 みんなが誰かと帰ってる中、一人で嵐の中を帰宅するのは結構心が削られるので、同士を見つけて、私はすごく安らいだ気分になった。


 ホームルームが終わり、教室からぞろぞろと生徒が出ていく。

 「幸、帰ろ」
 幸のところへ行って声をかけると、少し驚いた顔で私を見返した。
 「いいけど……悠ちゃんも歩いて帰るの?」
 「あ、うん。親仕事だし、悪いかなって」
 無難な言い訳をする。幸は、「じゃあ二人で帰ろっか!」と花が咲いたような笑顔を見せる。
 幸も一人で下校するのは少し嫌だったらしい。


 「あ、いた。幸~!」
 昇降口を出たところで、マミが手を振りながら駆け寄ってきた。
 「待ってたんだよ!」
 「待ってた? 私を?」
 「うん! わたし樹里亜先輩の彼氏――川崎さんか。川崎さんの車で家まで送ってもらう予定なんだけどさ、幸も送ってもらわない? 樹里亜先輩も乗ってるよ」
 「お姉も――もう来てるの?」
 「うん! わたしが幸もいいですかって訊いて、オーケーが出たから、こうして待ってたんだ」

 昇降口のすぐそばにある駐車場を見渡すと、助手席に樹里亜が乗ってる車を発見した。運転席の大和さんに朗らかな笑みを向けている。
 「あ、でも私悠ちゃんと……」
 幸が言い淀み、気遣わしげに私を見る。
 そこでマミがようやく私の存在に気付き、「あっ」と困ったように言った。

 「四人しか乗れないんだけど……」
 マミが大和さんの車へと視線を向け、眉を寄せる。
 「あっ、ならじゃんけんで決めようよ」
 幸が片手を持ち上げる。
 私は、「いや」と首を振る。
 「幸が乗りなよ。私は大丈夫だから」
 「でも……」
 まだ迷っている幸に、被せ気味に言葉を浴びせる。

 「ちょっと待ってなきゃだけど、私の親も言えば迎えに来てくれるから。もうすぐ退勤時間なんだ」
 真っ赤な嘘だ。迎えなんて頼んでも絶対に来ない。
 これまで台風のせいで早めに下校させられることは小、中学校の頃にもあった。私はそういう時、いつも友達を見送ってから一人で帰っていた。
 母や父と一緒に帰宅した記憶は、幼稚園時代のものしかない。

 「悠もこう言ってくれてるんだし、早く行こ! 幸」
 マミはその場で足踏みをして、幸を急かす。
 「う、うん。じゃあ悠ちゃんまたね」
 「悠も気をつけて帰りなね~」
 「うん。またね二人とも」

 二人を乗せた車が私の眼前を通り過ぎた時に、樹里亜は私の存在に気付くだろうか、と思ったが、彼女はこちらを微塵も見ていなかった。
 ただ一点。運転している大和さんのことを熱のこもった瞳で見つめていた。
 それだけでもう深く愛していることが伝わってきて、二人を見てるこっちが恥ずかしくなってくるほどだった。

 「眩しいなぁ……」
 羨ましかった。あんな風にひたむきに恋することに集中できることが。
 冬に桜が咲いているのを見たような気になり、瞼を閉じて俯いた。
 車が去って行って少し経ってから、校内を出た。
 冷たい強風を全身に受けながら、いつもよりずっと力を込めながら、歩を進めていく。

 空がゴロゴロと唸り声をあげる。
 ああ、雷が近づいてきた。私の気分は急激に最低まで下がり、身体がこわばる。
 そろそろ雨も降りだすだろう。そう思いながらも、到底走る気にはなれなかった。

 のろのろと亀のように歩いていたら、ポツン、と足下に水滴が落ちてきた。
 瞬く間に、コンクリートの地面を湿らす水滴は増えていき、ポツポツからザーザーへと変わっていった。
 持っていた傘を広げる。しかし――。
 「あっ……!」
 とびきり強い風にあおられた傘が、見事に裏返り、骨がバキッと折れる不快な音が響いた。

 完全に使い物にならなくなったことを確認する。つい最近買って、初めて使うつもりだったのに。気に入ったデザインだったのに。
 惨めさが増して、一層足が重くなる。
 雨が激しくなってきても、走ろうとは思わなかった。急がなきゃとか、身体が冷えてしまうなどの焦りも不安も湧かなかった。どうでもよかった。
 そして完全に歩みを止めた。信号が青になったのに、渡らずにじっと佇んでいる私を、道行く人が一瞬だけ不可解そうに見て、バタバタと走り去る。

 信号は再び赤になり、停止していた車たちが発進していく。
 傍らの電柱に頭を凭れさせ、次々に流れていく車をぼんやりと眺める。皮肉にもみんな誰かを乗せていた。荒れていく天気への不安で、車内の人間の心は一つになっていると確信する。
 夫婦や親子が乗ってる光景ばかりが通過していき、孤独なのはお前だけだ、と言われているように感じた。

 頬をつたう水滴の中に、生温いものが混ざりだす。
 大人になってからずっと一人で平気だったのに。この時代に戻ってから、ずいぶん脆くなったものだ。
 いや、平気だったんじゃない。
 麻痺させてただけだったんだ。
 少しつつかれたら開いてしまう傷口を、ずっと放置していただけ。
 孤独の痛みは私の生涯に付きまとい続けていて、ただ目を背けることが上手になっただけだった。
 それなのに私は、成長して大丈夫になったと思い上がっていたんだ。

 情けなさに唇を噛んだ時、視界が白く光った。
 その直後に、落雷が空気を大きく震わす。
 どこかに落ちたんだ。しかもかなり近いだろう。理解した途端、膝が滑稽なくらいに震え出す。
 7歳の時、ゴロゴロ鳴る雷と激しい雨風に泣きながら帰った。当時の私は、頑張れば両親に振り向いてもらえる、とどこかで信じていた。
 雷が鳴る度に、あの日のことを思い出し、最悪な気分になる。

 体育館で班別に固まって保護者を待っていた、そわそわと落ち着かない児童たち――。
 次第にそれぞれの保護者が迎えに来て、体育館の中は笑顔に満ちていく。私の班の子たちも一人、二人と姿を消していった。
 人が減って静かになっていくのを感じて、私のところには、誰も迎えに来てくれないかもしれない――と不安が募ったが、いや、そんなわけはない。私は家族にとって、まさかそこまでのどうでも良い存在ではないはずだ、と言い聞かせた。
 結果私はどうでも良い存在だった。校内に残った生徒は私だけになって、何分待とうが望んだ人は来なかった。

 「先生の車で送ってあげます」
 見かねた教師がそう申し出たけれど、頷いたら自分が惨めな存在だと認めるみたいで、
 「校門を出たところで待ってるんです!」
 と叫び、制止の声を振り切って、全速力で駆け出した。

 雨風は小さな身体を虐げるかのように、激しく降っていた。
 前もろくに見えないまま、私は走り続けた。喉が心臓になったみたいだった。
 悪天候に悶えながらも、家の近くの公園にまでたどり着いた時、鼓膜を突き破るくらいの轟音が大地を震わした。
 公園内の大木――よく木登りで遊んでいた、当時の私にとっては、馴染み深いその場所に、雷が落ちたのだ。
 燃える木から目を離せないまま、私は腰が抜ける、というのをその時初めて経験した。

 あの日から嫌いだ。雷も大雨も家族も一人で帰るのも。