その日の夜。私はさっそく八代へメッセージを送ってみる。
『直接会って話したいことがあって……。悪いんだけど出来るだけ近いうちに時間作れる?』
忙しい八代には申し訳ないが、私は大事な話は面と向かって伝えたいタイプだった。
文面で感情を表すのが、どうにも難しいし、相手の気持ちを汲み取るのも、下手くそだからだ。
八代と会いたいって気持ちもあるかもだけど。
ほとんど毎日顔を合わせる幸と違って、会おうとしなければ会えない友達だから。
既読はすぐにはつかなかった。労働中かもしれない。
八代はどんな仕事をしているんだろう。幸の家に来るだけでは、生活費に届かないだろうし。
今度訊いてみよう。
そう思った時、静かな部屋に通知音が響いた。
そわそわしながら画面を見ると、どうでもいいアプリのお知らせだった。
浮き足立っていた心が、高速で萎れていくのを感じる。
早く返信が来るといいな。
意味もなく足をプラプラさせて、うつ伏せに寝転んだ。
そうしているうちに、いつの間にかうとうとしてきて、目覚めた時には朝になっていた。
遅刻する!? と焦って時計を見たら、幸い登校時間までには十分な余裕があった。
良かった――。
あ、そうだ。確か返信を待ってたんだっけ。
携帯を確認してみると、八代からの返信が21時頃に届いていた。
『わかった。明日の夕方なら空いてるけど、どうだ?』
よし。
小さくガッツポーズをして、文字を打つ。
『ありがとう。じゃあ放課後に。よろしくね』
さて。起床したのだから、まず顔を洗わなくては。
いつもより時間あるんだから、髪型を変えるのも良いかも。
普段は楽に後ろでひとまとめにしているけど、久しぶりに巻いてみようかな。
早起きのおかげだろうか。私の機嫌は何だか妙に好調だった。
「今日の足取りは何だか弾むようだね。悠ちゃん」
「え? そうかな」
登校中に幸に言及されるほど、私はご機嫌らしい。
「何か良いことあった?」
「良いこと、かぁ。ぐっすり眠れたからそのおかげかも。早起きできたしね」
「あーだから今日おしゃれしてきてるんだ。凄いなぁ。私がやると、どうもグシャグシャになっちゃうんだよね」
「幸、不器用だもんね」
「でも前に一緒にチャレンジした時、悠ちゃんも大惨事になってたじゃん。いつの間にマスターしてたなんて……」
「あっ、確かそういうこともあったね」
髪の巻き方は、営業の仕事に就いた時に、見栄えを良くするために覚えた。
高校生の頃は、幸と同様に下手くそだったのだ。
「え~忘れてたの? 悠ちゃんめっちゃ爆笑してたのに」
「そ、そうかも。あはは駄目だな~」
タイムリープの弊害だ。
ヤケクソ気味に笑い飛ばして、雑に誤魔化す。
「まあ、猛特訓したんだよ」
「気合い入ってるね! あ、ひょっとして恋してるからかな?」
「恋?」
「そうだよ。女子が急にお洒落し出したら、理由はそれしかないじゃん! 好きな人に可愛いって言われたい乙女心だよ!」
「いや、私恋なんてしてな……」
言いかけて、幸がまだ勘違いしていることに気付いた。
彼女の中では、私が八代のことを好き、となっているのだ。
「天の邪鬼だよね、悠ちゃんも。私にはバッチリわかっちゃうんだよ、女の勘ってやつでね!」
自信満々にビシッ! と人差し指を向けてくる幸。
その姿は、完全に探偵が犯人を言い当てた時の決めポーズだった。
「あーはいはい。ふざけてないでさっさと学校行こ」
「そんな冷たくあしらわないでよ~」
呆れた声で応対した私に、ぎゃいぎゃいと抗議する幸。
その声を背に受けながら、思案する。
先ほどの幸の発言が、私の中で引っ掛かっていた。
確かに今日は八代に会う。もしや私は、それが理由で髪を巻いたのか?
ただの気まぐれじゃなくて?
『好きな人に可愛いって言われたい乙女心だよ!』
好きな人――いや。
愚かしい考えを消すように、巻いた髪の毛先を、指先で弄くる。
これはただの気まぐれだ。特に意味なんてない。
仮に私が、八代に可愛いと思われたいのだとしても、別に彼を異性として意識してるわけじゃない。恋愛対象外の友達にだって、可愛く見られたいと思うのは、年頃の女子なら普通だ。事実、幸に褒められたのも、すごく嬉しかったし。
断じて八代を意識して、髪型を変えたわけではない。
幸のからかいのせいで、放課後が近付いてくると、変にそわそわした気持ちになってきてしまった。
落ち着かなければ。今日は真面目な話をするために、会うんだから。
心の中で言い聞かせながら、待ち合わせ場所へと歩を進める。
指定した公園が近付いてくる。八代がベンチに座って待っているのが見えた。
視線に気づいたのだろう。目を細めてこちらを見てきたかと思えば、数秒かけて私だとわかり、手を振ってきた。
私も振り返し、小走りでそちらへ向かう。
「お待たせ」
「学校お疲れさん」
二人掛けのベンチの片方に腰掛ける。隣の八代から、「ほら」と何か渡される。
ペットボトル飲料だった。ミネラルウォーターだ。
「さっき買ったら当たったんだ。良かったらやるよ」
「ありがとう。いただきます」
走ったことで乾いた喉に、グビッとよく冷えた液体を流し込む。
「はーおいしい」
だいぶマシになってきたが、まだ少し汗ばむ季節だ。上気した頬に冷たいペットボトルを押し当てる。
「髪型変えたんだな」
八代が巻いた髪に反応してくる。朝の会話のせいなのか、どうにも落ち着かなくて、八代とうまく目を合わせられない。
「あ、うん。まぁ今日だけかもしんないけどね。たまたま早起きして興が乗ったから」
「そうか。似合ってると思う。華やかで可愛い印象で」
「えっ? あ、ありがとう……」
まさか本当に可愛いと言われるとは思わなかったので、たじろいでしまう。
ムズムズするような、くすぐったいような気分になって、人差し指に髪を巻き付ける動作を無駄に繰り返す。
「照れてんのか? ちょっと前から思ってたけど、若葉ってだいぶ照れ屋だよな」
「うっ」
痛いところを衝かれたみたいな、ギクリとした声が出る。
確かに八代を前にすると、照れるというか、顔が熱くなることが頻繁にあるな……。
「そんなことより! 早く本題に入ろう!」
パンパンッと手を叩き、空気を強制的に切り替える。
「幸のことなんだけど――」
そう切り出すと、八代は表情を引き締めて、真剣に話を聞く体制に入った。
「そうか……幸がそんなに取り乱してたのか」
「うん。すごく思い悩んでた」
昨日あった出来事を話し終えて、私たちは俯いたり、長いため息を吐き出したりなどしていた。
色々な感情がごちゃ混ぜになって、爆発しそうになるのを、頑張って抑えているのだ。
その感情は怒りだったり、やるせなさだったりする。
私と八代は、そのまましばらく黙り込んでいた。
事実を咀嚼し終わっただろう頃合いで、私の方から口を開く。
「それでさ、マミと関わるのを辞めるべきだと思ったの」
「ああ、違いない。適当な理由をつけて、もう会えないって伝えないとな」
「うん」
「――幸への裏切りになるからな。何言われてもちゃんと無理だって伝えねぇと」
八代がわかってくれて良かった。その決意は固そうで、力のこもった眼差しで前方をキッと見据えている。
「どんな理由にするの?」
「うーん。向こうもなかなか断りにくい頼みしてきたからなぁ……どんな理由なら納得してくれっかなぁ」
「彼女ができたからっていうのはどう?」
「おお、いいなそれ」
「これなら強く言えないだろうし」
そもそもマミのトラウマ云々の熱弁は、きっとウソっぱちだ。
マミはただ八代を好きってだけなんだから、彼女がいると思えば、諦めて次の想い人を見つけるはず。
「じゃそれでいくわ。ありがとな若葉」
「どういたしまして。メールで伝えるの?」
「そのつもりだ」
「頑張って。後で結果教えてね」
「わかった」
しかし八代がマミに連絡することは、叶わなかった。
「携帯壊れちゃって今修理に出してるから、少しの間、連絡とれないって襟人さんに伝えといてくんない」
学校にて、横柄な態度で頼まれた――というより命令された。
しかも幸がそばにいた時だったから、本当に最悪だ。
「三人で仲良くしてるの?」
幸が怯えた子犬のような目をして、おずおずと訊いてきた。
「お祭りの日のことでちょっとお礼されただけだよ。仲良くはない」
慌てて精一杯安心させるように、言い聞かせたけど、少し嘘をついてしまった。マミとは、一緒にプラネタリウムに行ったのに。
「そっか」
私の言葉に幸は、強張っていた表情筋を緩めた。
嘘をついたとしても、私も八代ももうマミとは会わないのだから、平気だろう。
マミにしばらく連絡ができないことを、さっそく八代にメッセージで伝えた。
「いや多すぎるって……」
大量のお菓子をげんなりした目で見る。どう考えても、うちだけでは食べ切れない量の焼き菓子を贈ってきたのは、従兄弟だった。
一日にけっこうな量の間食をする従兄弟とは違うのに、私の誕生日が近いからと大量の焼き菓子を贈ってきたのだ。
焼き菓子というのは、賞味期限が短いため、そういつまでも残しておくわけにはいかない。
そうだ、幸にお裾分けしよう。
舞い降りてきた妙案に、自然と唇の端が吊り上がった。
半分ほどの量を適当な袋に入れて、外に出ると、夕日が街を美しく彩っていた。袋を渡してすぐに帰れば、暗くなる前に家に着けるだろう。
ちょっと駆け足で、幸の家を目指した。
ピンポーン……………。
「出掛けてるのかな?」
インターホンを押してしばらく待ってみても、中からは何の反応もなかった。
「居るかどうか訊いてから来れば良かったな……」
しょうがない、帰るか。
そう思って踵を返した途端、足音が聞こえてきた。
なんだ居たんだ。
「寝てたのー? 幸。へへっ良いもの持ってきたんだよ!」
近付いてくる足音へもったいつけるように、語りかける。
「残念。幸じゃないよ」
しかし扉を開けて出てきたのは、知らない女性だった。
「幸の友達でしょ? 上がっていって」
「あっはい。お邪魔します……」
上がるつもりなどなかったのに、彼女に手招きされるまま、玄関で靴を脱ぐ。
そこでハッと気付く。この人は――。
「樹里亜……さんですよね? 幸のお姉さんの」
「そうだよ」
珍しく帰ってきていたらしい。
歩みを止めて、「あのっ」と前にいる彼女を呼び止める。
「これ渡しに来ただけなんです。だからもう帰ります。幸によろしく言っておいてください」
袋を差し出して、頭を下げる。
樹里亜が幸に渡すことで、二人の間には自然に会話が生まれるだろう。
私にも分けて、とか。美味しそうじゃん、とか。
樹里亜に渡されたら、幸はきっと喜ぶ。そう思ったのだが、樹里亜はニコリと笑って、こう言った。
「いや、お茶を出すから幸と一緒に食べよ」
「じゃあお言葉に甘えて……ご馳走になります」
「こっちが恵んでもらったんだけどね」
「あはは。そうでした」
頭を掻きながら、考える。一緒に菓子を食べる、という状況の方がたくさん話せて、幸にとって良いかもしれないと。
私が会話をアシストしてもいいし。
「幸、今部屋にいるんだ。呼んでくるから待ってて」
通されたリビングでそう告げられる。
樹里亜と幸は、どんな雰囲気で会話するんだろう――。
待っているつかの間に、そんな好奇心が頭をよぎる。
やがてリビングへ向かうふたつの足音がしてきた。
いや、なんか多いような気が?
「あれ、若葉さん? 遊びに来たの?」
「え?!」
私は度肝を抜かれた。だってそこにいたのはマミだった。しかも幸の腕に馴れ馴れしく絡み付いての登場だ。
「何で……」
「ああ。若葉さんは知らないの? わたしと幸は同じ中学出身でね。そっからズッ友なんだ」
「はぁ!?」
言葉も出ない。どの口がそんなことを言うのだ。どの面下げて会いに来てるんだ。
顔全体に困惑を浮かべて幸を見ると、瞬きを何回も繰り返して合図をしていた。幸が目だけで何か伝えたい時によくやる仕草だ。
今は黙っていて、ということか。その望み通りに一旦口をつぐんでおく。
「お姉とマミちゃんは先に食べてて。ちょっと悠ちゃんと話しておきたいことがあるから」
「早く来ないと先輩とわたしで全部食べちゃうからね~」
マミの腕から逃れ、幸は自室へと私を導く。
どうしてなの、幸。何でマミに纏わり付かれて心なしか嬉しそうだったの。ズッ友って何?
何を考えているのか全くわからない背中を、不安げに見つめながら、階段を上がっていった。
幸が部屋の扉をきちんと閉めたことを確認した後、私は我慢していた質問を吐き出す。
「何でマミがいるの? いやいるのは良いとしても、友達みたいにしてるのどうして?」
マミがここにいる理由は、樹里亜が連れてきたからかもしれないが、幸が嫌がったり怯えてる素振りを一切見せていなかったのは、不可解だ。
月曜日の放課後に、消えないトラウマ――今でも癒えていない心の傷として、マミとのことを話していたのに。
「実は中学の時のことは誤解だったの」
「……え?」
幸の言葉で、謎は解消されるどころか、より深まっていく。
「誤解?」
「うん。実は――」
困惑する私を前に、幸は語り出す――。
マミが幸を犯人に仕立て上げたのには、深い理由があった。
それは幸を守るため。
中学時代、クラス内で幸に恋心を抱く男子生徒がいた。
しかしその恋心は狂信的な域に到達していて、彼は幸に対する異常な偏愛をノートにビッシリと書き連ねていた。
ノートには、彼女は女神様だとか僕の運命の人だとか、背筋を毛虫が這っていくかのような、気持ち悪い妄言が書かれていたそうだ。
けれども男子生徒は、幸とさほど関わりがなかった。どうやら自分が理想とする女子像を、幸に押し付けている感じであった。
そのノートを、マミは偶然見てしまったらしい。
このままじゃ幸が傷つけられるかもしれない――。
ノートを見て危険な予感を覚えたマミは、どうすればこの男子生徒が幸に執着しなくなるか考えた。
そして思い付く。
幸がこいつの理想から外れた女の子だったら、安全ではないか、と。
だからクラスのみんなに、幸に対する最低なイメージを植え付けたのだ。
全部幸のため。幸を危険人物から守るために起こしたことだった。
「……っていうことなんだ」
全て話し終えた幸は、短くため息をつく。
「マミが――そう言ってたの?」
「うん。その後始まった私へのいじめも、実はマミちゃんが、裏で可能な限り防いでたんだって。『全部防ぎ切れなくて、ごめん……』ってさっき泣きながら謝ってくれたんだ」
幸が嬉しそうに言う。
いやいや。その男子生徒一人から嫌われるためだけに、ここまで派手に事を起こすことないじゃないか。
本当に幸を思っているなら、そんなに辛い方法を選択するわけない。
口からでまかせにしても、マミの言い分はめちゃくちゃで無理があるものだった。
しかし幸は、信じているようだった。信じていたい、のかもしれない。喜色満面といった様子で、私に説明していた。
それを見て、胸がズキリと痛む。
喜んでいる幸に、事実を突きつけるのは辛いけど、八代が偶然にも喫茶店で聞いたあの話をするしかない。
「幸、落ち着いて聞いてほしい。マミはちょっと前に――」
「ねぇ遅くない?」
私の言葉は、伝えなければならない大事なところでちょうど遮られた。
「あ、お姉……」
「マミが待ちくたびれてるよ。そんなに長い話なの?」
部屋に乱入してきたのは、樹里亜だった。ほんの少し咎めるような眼差しで、幸を見ている。
「今終わったとこなんだ。お待たせ」
「あっ、ちょっと――」
幸が部屋を出ていってしまう。私的にはこれからだったのに。
しょうがない。二人だけでゆっくり話せる時にするか。
諦めて私も続いて部屋を出ようとした――が、樹里亜が入り口を塞いでいる。
「あの退いてくださ――」
「言わない方がいい」
樹里亜が意味深に溢す。扉の前で両腕を組んで、真顔で私をジッと見ている。
一瞬発言の意図がわからずに固まる。ワンテンポ遅れて、会話を聞かれてたことに気付いた。
「樹里亜――さんは知ってるんですか。マミがあんなことした本当の理由を」
「逆に何であなたが知ってるのか気になるよ。どうして?」
「言いたくないです」
樹里亜が生み出す冷たく鋭い空気によって、剥き出しにした両腕に鳥肌が立つのをはっきりと感じた。
「本当のことを言っても、幸のためにはならないよ」
樹里亜の言葉に、思わず目を剥く。
「このまま騙してた方が良いって言うの?」
「そうだよ。見たでしょ? あの笑顔を。こんなに嬉しいことはない、と言いたげな輝きに満ちた顔を」
「見た……けど」
確かに幸は、あんなに幸せそうにしていた。私だって、本当のことを伝えなければいけない、と考えると、気が重くなった。
「けどこのままマミと関わらせるのはもっと駄目」
「せっかくトラウマが治りそうなのに、またほじくりかえして突きつけるの?」
「脅してるつもり?」
「ただ私は、正しい行いが人を幸せにするわけじゃないって言いたいだけ」
見れば樹里亜は、玄関先での穏やかな雰囲気とは打って変わった、ほとんど敵意に近い眼差しでこちらを睨んでいた。
「余計なことは言うべきじゃないの」
「でもマミは――嫌な奴で……」
「確かにマミは、純粋すぎるから暴走し出したら止まらないところあるけど――恋愛が絡まなければ気のいい子だよ。ていうかマミに限らず、大体の人がそうじゃない? マミのような状況になって、一体どれだけの人が、友達に今まで通りに接することができると思う?」
「それは……」
何も言えなくなる。確かに彼氏の心を持っていかれそうになって、それでもニコニコしていられる人なんて、いないのかもしれない。
「幸だってマミが良い奴、って思ってたから、あの事件が起きるまで友達でいたんじゃない。今こうしているのは、幸の意思なんだよ」
口を挟む暇もないまま、続けられる。
「あとマミのこと、そんなに悪く言うのはやめてくれない? 私の大切な後輩だからさ。そりゃあの子が過去にしたことは、私も嫌いだけど」
その言葉を聞いた私は、意外に思った。
樹里亜も、中学の時のマミの行いは、嫌悪しているようだ。
その上で今、大切な後輩として受け入れている――。
「わかったよ。今日のところは黙ってる」
畳み掛けられた私は、根負けして身を引く。
けどこれだけは訊いておかなければ。
「あなたは幸をどう思ってるの?」
怯みそうになるのを抑えて、樹里亜を凄むようにしかと見つめる。
樹里亜は負けない、と言うように、キッと目付きを鋭くした。
「たったひとりの大事な妹だよ。だからあの子の幸せを壊す真似はやめて」
その瞳に映る色は、真剣そのものだった。
樹里亜は想像していた人物とは違った。
幸の家を後にして、すっかり暗くなった帰り道をとぼとぼ歩く。
八代に聞いた話からして、幸のことなんてどうでもいいと思っているんだろう、と予想していたのに。
樹里亜なりに幸を憂いていたのだ。私が真実を告げようとした時、彼女は割って入ってきた。あれは幸が傷つかないように、と思って取った行動だった。
樹里亜との問答の後、一階に戻り四人で菓子を食べた。
幸とマミは並んで座り、それは楽しそうに打ち解けていた。過去のことなどなかったかのように。
それを見て、非常に不愉快な気分になった。直視するのが辛くて、不自然に視線を反らし続けた。そんな私に全然気付くことなく、幸はたくさん笑っていた。
そのこともショックで、味なんてわかるはずもなかった。ただ機械的に口に入ってくる食べ物を咀嚼している内に、時間は過ぎていった。
思い出すと、目頭が熱くなり、視界が歪んでいく。情けない。
胸がつまる理由はそれだけじゃない。樹里亜の持論が正しいのではないかと思ってしまったのだ。
本当のことを言ったところでどうなる?
上げて落とすことになる。それはあまりに残酷なことだ。
私が幸の立場だったら、とても耐えきれない。気持ちは沈み込み、他人への不信感が強烈なものになっていくだろう。
私がやろうとしていることは、親友を不幸にする行為なのでは――。
「……っ!」
心臓が痛い。身体がスウッと薄くなって、世界から人知れず消えていくような心細さが、襲いかかってくる。
その時だった。
「おい、危ないぞ!」
後ろからグイッと腕を引かれた。硬い胸板の感触を背中に感じる。
びっくりしていると、目の前を車が走り過ぎていった。下を向いて歩いているうちに、赤信号に気付かず渡ろうとしていたみたいだ。背筋を冷たい汗が伝う。
あのまま進み続けていたら、轢かれていたかもしれない。
慌てて振り返り、助けてくれた恩人に礼を言おうとする。
「あ、ありがとうございます! あれ?」
「ん? 若葉?」
そこにいたのは八代だった。彼も今私に気付いたらしい。
「どうしたんだよ、ボーっとして。というか何かあったか? 険しい顔してるけど」
気遣わしげに私を見下ろす八代。
そんな彼の顔を見て、無性に寄りかかりたくなった。
ポスッと八代の上半身に、頭を押し付ける。
「おい、マジでどうし――」
「ちょっとだけ」
戸惑いの声を上げる八代を遮り、弱々しく言葉を紡ぐ。
「ちょっとでいいから――このままでいさせて」
ややあって八代から小さく返ってくる。
「ああ。よくわかんないけど大丈夫だぞ、若葉」
「大変失礼しました……」
「落ち着いたか?」
「はい。おかげさまで」
情けない姿を見せた後、私は八代と共に近くの公園のベンチに座り込んでいた。
「ごめん。変なとこ見せちゃって」
「気にすんなよ。何があったんだ? あ、言いたくなかったなら構わない」
「いや、誰かに吐き出さないとどうにかなりそうだったから――聞いてくれる?」
「ああ。話して楽になるなら、いくらでも聞く」
「ありがとう。さっそく暗いこと言っちゃうんだけど――」
こんなこと口にしていいものか悩みながらも、恐々吐き出していく。
「私の存在とか――ここにいる意味って何だろうって思って……」
駄目だ、重すぎる。こんなの聞かされたら八代だって困ってしまう。
頭を垂れて、膝の上で握り締めた拳を睨み付け、言ってしまったことを激しく後悔する。
二人の間に、しばらく沈黙が漂う。
「ひとつ思い出話していいか」
「えっ……?」
八代が脈絡なくそんなことを言い出し、思わずうつむいていた顔を上げる。
八代は、遠い昔の尊い記憶を懐かしむような、安らかで優しい顔をしていた。
「俺がまだ10歳にもなんないような、ガキの頃の話だ」
「う、うん」
「幸が女子たちに暴力を振るわれてるところを見たんだ。なんとか幸を逃がしたんだけど、そいつらが俺に怒ってきて」
聞いたことある。以前幸が語ってくれた話だ。
「俺は、大勢に囲まれて、困り果てた。ずらかろうにも動けねぇし」
頭の中にその光景が、フッと浮かび上がる。まるでそこにいたかのように、鮮明に。
「その時、『コラーッ!』ってデカイ声がしたかと思えば、ランドセルを背負ったちっこい女子が勢い良く割り込んできた」
ああ、そうだ。
「その女子は、腕を通せんぼみたいにバッと広げたんだよね?」
「思い出したか」
「うん、聞いてるうちに思い出したよ。何年も前にこの場所で会った少年――八代だったんだね」
今の今まですっかり忘れていた。私たちは、ずっと前に一度会っていたのだ。
「にしてもあん時は驚いたぞ。突き飛ばそうとしてきた奴の腕に、カブリと噛みついたんだから」
「うっ……だって普通に取っ組み合ったら負けるし。ああするのが一番怖がってくれそうだって思ったんだよ」
「確かにそうだが。当時は目を白黒させたもんだよ」
幼い私の目論見通り、八代を取り囲んでいた女子たちは、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
「少しの間、ポカンとしてたけど、我に返ってその女子に頭下げたんだ」
「うん。お礼したいから名前を教えてくれって言われて、お互いに教え合ったんだった」
「お礼つっても、何も思いつけないでいたら――」
「『もしまた会えたら友達になって』」
何年か前に、私が言った言葉を復唱する。
「そう言ってさっさと立ち去ったんだよな。台風みたいな奴だなって思ったよ」
「あはは……実はあの時、クラスの子と待ち合わせの約束してたことに気付いて、慌てて駆け出したの」
確かに八代からしてみれば、おかしな子だっただろう。恥ずかしさが込み上げてきて、もじもじと身動きする。
「もしかして――幸の家で会った時から、私のこと気付いてたの?」
「顔を見た時に、何か会ったことあるような――って感じたけど、わかったのは、名前を聞いた時だ」
「そうだったんだ……」
というか八代はよく覚えていたな。幼い頃の些細な出来事なのに。
ずっと八代に覚えられていた――そのことが私の気分を謎に上昇させた。
「ずいぶん昔の事だし、今さら話されても、は? って感じになるよなーって思って黙ってたんだけど」
「じゃあどうして今話したの?」
さっきの私の失言との関連性が、まるで感じられない。
「また若葉に会えて、こうして話すようになってさ、あの頃とまったく変わんないなって思ったんだ」
「えっ? ちょっとショックなんだけど」
「違う違う。良い意味で、だよ」
「良い意味?」
「他人のために一切迷わずに動けるところ。若葉はその行動力で人を救える。俺はそう思う」
そう言って、膝の上で固く握りしめられていた私の手を包み込む。
八代の手は大きく、筋張っていて――温かかった。
「だから若葉が考え抜いてやってることなら、絶対無駄じゃない。自分じゃ信じられないなら、俺を信じてくれ」
力強い眼差しでそんな殺し文句を言ってくる。心臓の鼓動が早まっていくのを感じる。
「それに俺は、若葉といるだけで暗い気持ちが消し飛ぶ。若葉に出会えたことは一生の宝物だ」
もう勘弁してほしい。自分が今どういう顔をしているのか。想像しただけで恥ずか死にそうだった。
そんな私とは裏腹に、八代は余裕そうだ。言い淀んだりとか全然しなくて、威風堂々といった様子。よくもまあ、それほど涼しい顔をしていられるものだ。
私にはとても無理……ん? でも――。
私の手を包み込んでいる彼の手が、明らかに熱くなっている。
「――八代も照れてる?」
「そうに決まってんだろ」
八代は私から手を離し、自身の口元を覆い隠した。彼も余裕綽々というわけではないらしい。
暗くて顔色がわからないのがもどかしい。
「見たかったなぁ……」
ポツリと心の声が漏れ出てしまう。言った後で、そう思った自分に驚く。
「何か言ったか?」
「何でもない。ねぇ八代」
「何だよ」
「ちょっと頼りたいんだけど――いいかな」
私は幸の家であったことを、かいつまんで話した。
「それは……辛いな」
八代も頭を抱えて、長い息を吐き出す。
「もう――どうしたらいいのかわかんなくなってきちゃって」
「樹里亜の考えもわかるが――でもなぁ」
「数年間疎遠になってたとはいえ、家族で姉なわけだし、外野の私より幸とマミを理解してるだろうな、って考えたら、樹里亜の言うとおり黙ってた方が良い気がしてきて」
「正しい行いが人を幸せにするわけじゃない、か」
八代が樹里亜のセリフを口にする。
「俺は、幸のためにも伝えた方が良いと思う。マミのこと全部」
「それで傷つくことになっても?」
「悔しいけど、傷つけることは避けられないだろうな。幸はすげぇ落ち込むと思う。だけど――」
私はごくりと生唾を飲み込む。
「そうなったら若葉がいてくれれば、絶対に大丈夫だ。もちろん俺も出来る限りのことをするけど、一番幸を元気づけられるのは若葉、お前だ」
「そこまで自信を持って言ってくれるの?」
そこまで信頼されるほど、私は頼もしい存在なんだろうか。
幸にとっては、たかが数ヶ月の付き合いの友達なのに。
しかし八代は、敢然と首を縦に振る。
「ああ。若葉にしか出来ないことだ。俺はお前の全部を信じてるから、何かあったら言ってくれ。力を貸す」
「今日は、本当にありがとう。遅くまで付き合わせてごめん……今度お礼とお詫びさせて」
ここまで面倒をかけたからには、何かしないと気がすまない。
「じゃどっか遊びにでも行こうぜ」
「……! うんっ」
自分が予想していたよりも、弾んだ声が出て驚く。
まるで幼い少女のように、舞い上がってしまった。遊びに行こうという誘いで、こんなに喜ぶなんて、精神まで若返ってきているのかもしれない、なんてことを考える。
家までは八代が送ってくれた。そこまでしてもらうのが居たたまれなくなり、「大丈夫だよ」と断ったら、
「女子が一人で暗いところほっつき歩いてたら、危ないだろ。俺が勝手にそうしたいだけだから」
と返ってきて、丁寧に家の前まで送ってくれた。
八代からそう言われた時も、門の前でちゃんと家に入るのを見届けてくれた時も、私はずっとフワフワと夢の中にいるみたいだった。
女の子扱いされたことが嬉しいんだ。
そう気付いて、そんなことで大袈裟に喜ぶ自身の単純さに、こそばゆい気持ちになる。
最近、ほんの些細な言葉などでこんなふうに浮かれてしまうことが増えた。
特に八代から掛けられる言葉が多い気がする。
嬉しいのは良いことのはずなのに、この傾向は良くないような――。
どうしてか、そう思った。
八代と公園で話をしてから、数日が経った。
一緒に下校している幸の横顔を、ちらりと盗み見る。
なかなか切り出す勇気が出なかったけれど、今日こそ幸と話そう。
「この後幸の家行ってもいい?」
「いいよ。来て来て~」
「あ、お姉さんいるの?」
「今日はいないよー。お姉に会いたいの?」
「いや、ちょっと気になっただけ」
樹里亜がいないなら、話を遮られることも、聞き耳立てられることもない。安心して打ち明けられる。
大通りを外れて、幸宅へと近づいてきた。これからの展開について考えて、緊張が高まってくる。
どういう風に話を運んでいったら良いのかな――。私の頭の中は、そのことでいっぱいだった。
だから、ずっとついてきている気配に気付けなかった。
怪しい視線を察知出来ないまま、私は家の中へと入っていった。
「あ、そうだ。聞いてよ、悠ちゃん!」
リビングで、幸が弾んだ声で言う。
「昨日お姉が、一日中家にいてくれたんだ! そんなことすごい久しぶりだったから、嬉しかったなぁ」
「へぇ。良かったね」
「うん! けっこう話せたりして――あとね、何年ぶりかのゲームをしたんだ。そこのやつで」
幸がテレビの横のふたつのゲーム機を指差す。私が遊びに来た際は、よくそれで幸と対戦ゲームを楽しんでいた。
樹里亜もようやく、妹と距離を縮めようという気になったらしい。
「そっか。楽しかった?」
「うん。すっごく!」
幸は深く頷き、花が咲くような笑顔を見せる。
私の胸がズキリと痛む。その明るい顔をこれから曇らせることを、意識したからだ。
けど逃げずに伝えなきゃ。
胸を張って親友って言えるような関係でいたいから。
「あのさ、幸」
「うん? なに?」
意を決して、大きく息を吸う。
しかし、そこから先の言葉を紡ぐことは、出来なかった。
ここまで来て、怖じ気づいたわけではない。
庭を見渡せる大きな窓の向こう――その光景に驚いて、大きく吸った息を吐き出すことも出来ないまま、私は凍りついてしまった。
庭には、男が立っていた。そいつはサングラスとマスクを付けていて、顔色はわからなかったけれど、身体の向きと雰囲気からして、家の中をじっと見ていることだけは確かだった。
何、あれ……。ひょっとして八代? いや、体格が全然違う。何より八代があんなに怪しい格好をして、幸の家を覗く真似をするとは、とても思えない。
それによく見れば、男はさっぱりとした坊主頭に、どちらかと言えば貧弱そうな、小柄な体躯をしていた。明らかに八代ではない。
そんなことを考えていたら、急に窓の向こうの男が肩をビクッとさせた。そして、慌てて門を目指して走り出していった。
気付かれたことに気付かれたんだ。
「待てっ!」
逃がしては駄目だ。玄関で靴を履く暇も惜しく感じて、窓から飛び出し、裸足で追いかける。
けれど、私が門柱の前の道路に出た時、すでに男の姿は見えなくなっていた。逃げ足の早いやつだ。全力で追ったというのに。
舌打ちして、道路を睨む。
悔しがっていると、パタパタと幸が寄ってきた。その手には、私の靴が握られていた。
「ありがとう。幸」
「どうしたの? 急に裸足で飛び出していって……めちゃくちゃびっくりしたんだけど!?」
「後で説明するから――とりあえず今は、早く家に入った方がいい。しっかり鍵を閉めて、ね」
受け取った靴を履き、幸の手を引く。
幸は何か言いたそうな様子だったけれど、私の真剣な表情から、ただならぬ事態だと察したらしく、「う、うん」と答えて、バタバタと家の中へと駆け込んだ。
「男の人!?」
「うん。家の中を見てた」
玄関だけでなく、家中の窓も施錠した後で、私はさっき目にしたことを話した。
「背は低めで、野球部みたいな坊主頭だった。サングラスにマスクだったから、顔はわからない。一応訊くけど八代以外に家に来る男っているの?」
「いないよ。万が一来るとしても、お姉の彼氏くらいかな……。けど平日の今頃は仕事のはずだから、違うだろうなぁ……」
ならばあの男は、やはり不審者だったのか。
「6月にも知らない男子が来たよね? あの時と同じ人かもしれない。幸、あの日の男子のこと思い出せる?」
「う、うん。顔はよく見えなかったけど、体格は小柄な方だったよ。確か」
「そうか……。じゃあ、やっぱり……」
私がさっき見たのは、6月に幸の家にやって来たストーカー(仮)なのだろうか。ほとぼりが冷めたと判断して、また会いに来た……?
何にせよ。
「警察を呼ぼう。これは危ないよ」
あの後、来てくれた警察官に事情を話した。6月にあった出来事も含めて。
「では、パトロールを強化します」
そう言って、警察官は帰っていった。
静かになった幸の家で、私は不安に駆られる。
これで良いのだろうか。警察に相談だけして、ただ待っているだけで、本当に解決するのか。パトロールが強化されたからといって、安心なんて感じられやしない。
そりゃあ警察の人だって、それくらいしか出来ないのはわかってる。情報が全然ないのだから、動きようがないだろう。そこを責めるつもりはない。ないのだが――。
どうしようもなく歯がゆかった。このことについて、何も掴めていない、わかっていない自分が。
何でもいい。どれほど不明瞭な情報でもいいから、幸を付け狙うあの危険人物のことを、知りたい。
私は帰り支度をしながら、そんな風に願っていた。
「本当に大丈夫なの? うちに来なくて」
「大丈夫だよ。お姉が帰ってくるって言うし! 『心配だから』だって」
ほら、と携帯の画面を嬉しそうに見せてくる。樹里亜からのメールで、『今から帰る。心配だから』とあった。
「こんなに長い返信もらったの久しぶりだよ」
幸は、携帯を胸の前で握りしめて、目を瞑り噛み締めるように言う。
そんな彼女を見てると、無理に連れていくのも、水を差すみたいで悪い気がした。
「じゃあそろそろ帰るから……何かあったら遠慮なく警察に助けを求めてね」
「あっ、待って悠ちゃん。歩いて帰るのは危ないから、タクシー呼ぶよ。お金は払うから気にしないで」
「えっ! いいよ、悪いって」
「悠ちゃんにも怖い思いさせちゃったし、これくらいさせて」
そう言って幸は、半ば強引にタクシーを呼んだ。
タクシーに揺られながら、暗くなった街を眺める。
もうすっかり秋になって、日が落ちるのが早くなってきた。確かに人気のない帰り道を一人で歩くのは、あんなことがあった後では少し怖いな、と納得する。
それにしても、あの男は何者なのだろう。
何が目的? 幸をどうしたいの?
どうすればあの男の正体を掴める?
いくら考えてみても、良いアイディアはひとつも浮かばなかった。
『それはまずいんじゃないか?』
八代に、今日幸の家であったことをメッセージで伝えると、緊迫した文面が返ってきた。
『だよね。けど情報が何にもないし、手も足も出なくない? それがムズムズして、すごく嫌な感じ』
手掛かりがゼロでは、手の打ちようがない。
こんなふうに一歩も動けずにいる間に、もしも幸に何かあったら――。
そう思うだけで、不安と恐怖で寿命が削れるようだ。
『身の回りを注意深く観察するのと、幸を絶対に一人にさせないようにするくらいか。俺も出来るだけ気に掛けるよう努めるけど、悔しいが仕事もあるし、そこまで一緒には居られないんだよな……ごめん』
『八代は仕方ないよ。生活がかかってるんだから。そういうことなら私に任せて』
『頼もしいな。だが若葉も気をつけろよ。ヤバい事態になったら、無理に深追いすんな。自分のこともちゃんと大切にしろよ』
『わかった。十分に気をつけるよ。心配してくれてありがとう』
今はとにかく、幸の周りに気を配らねば。
逸る気持ちを抑えるように、ゆっくりと深呼吸した。
「お姉が悠ちゃんと話したいって言ってるんだ」
翌日の学校にて、幸から告げられた言葉に、目を丸くする。
「何で?」
「それはわかんないけど……昨日家に帰ってきた時に、悠ちゃんと内緒で話したいことがあるって言ってたの」
「内緒話……」
重要そうな響きに、ひどく興味を惹かれる。樹里亜は、何か大切なことを私に伝えたいのでは――。
思い当たるのは、幸に関することだ。であれば、断る道理はない。
「わかった。OKって伝えておいて」
そして訪れた約束の日。
日曜日の昼下がりに、駅前で樹里亜と落ち合う。
そのまま彼女に導かれるまま、住宅街を歩いていた。
もしや大和さんの住まいに向かってるのか? 半同棲しているという話だし、そこで内緒話をするのかもしれない。
人に聞かれたくないことを話すのだとしたら、外だと安心できないだろうし。
「ねぇ悠ちゃん。――幸が私についてあなたに話したことってある?」
半歩前を歩く樹里亜が、そんなことを訊いてくる。
気のせいかもしれないが、少しだけ声色が硬いように思った。
「ある。家にほとんど帰ってこない、って話してて、あなたについて話すときは、いつも寂しそうだった」
「そうか。やっぱりそうだったよね……」
私が少し咎めるように言うと、樹里亜は後悔するかのようにうつむいて、しんみりと呟いた。
その落ち込んでいるらしい様子が不思議で、私は自然と疑問が口をついて出ていた。
「何であなたは、幸にずっと素っ気なかったの? 家族なんだから、少しくらい気に掛けてくれても良かったじゃない」
そこで樹里亜は、滑らかに進めていた足を、ピタリと止めた。
「依存させたくなかったから。私は幸に、外の世界に目を向けてほしかった」
振り返った樹里亜を見て驚く。
彼女は、切なげに瞳を潤ませていて、今にも雫が目の端からこぼれ落ちそうだった。
「あの子は元々内気な性格だったけど、両親が海外に行ってから、それに拍車がかかってね。そばに残った唯一の家族の私に、より一層懐くようになった。それは嬉しいことだったけど……」
彼女の喉がゴクン、と動く。まるで震えそうになる声の調子を、必死に整えるように。そうして数秒の間をおいて、ゆっくりと口を開いた。
「ある時幸が言ったの。『私にはお姉がいないと駄目なの。だからずっと一緒にいようね』って。そう言われてから、私がいつまでもそばに居続けると、あの子は自分の道を見つけられないかもしれない、って不安でしょうがなかった。私もあのままじゃ幸に頼りきっちゃいそうだったから、外の交流に力を入れ始めた。このままじゃ、お互いにとって良くない。狭い世界の中で依存し合うなんて絶対に駄目だ、って」
樹里亜が語る真意に、私は目から鱗が落ちた気分だった。
冷酷にまで思える塩対応は、幸を疎ましく思ってのことじゃなかったのか。
呆然とする私を見て、樹里亜は目元を潤ませたまま、笑いかけた。
「だから今は安心してるの。また幸に向き合える気がしてる。悠ちゃんみたいな友達思いな子が、幸のそばにいてくれてるから。あの子にも私以外に大切な存在ができたんだって」
そこで樹里亜の顔に、陰が射す。すまなそうに眉を下げたかと思えば、軽くお辞儀をしてきた。
「この前は私、キツイこと言ったけど、悠ちゃんなりに幸を思ってのことっていうのは、ちゃんと理解してるんだ。幸を大切にしてくれて、本当にありがとう」
「いえ、そんな……親友なんですから、当然です」
私の返答を聞いて、樹里亜は目尻を軽く拭う。
「中学の時のことは、最近になってからわかったの。『幸と距離を置かなければ、当時の内に気づけてたのに』って思って……聞いてからずっと後悔してた」
「マミが告白してきたんですか? 中学の時のこと」
「うん。幸の高校に転校してきた頃に、打ち明けられたの。嫌われることを承知の上での懺悔だった。私はもちろんものすごく怒ったけど、『もう二度と人を陥れる真似はやめて』って約束させた」
私は、あのマミが馬鹿正直に謝るなんて、信じられない思いだった。
それが顔に出ていたのだろう。樹里亜は、深く頭を下げ、懇願するように言った。
「マミを好きになってくれ、とは言わない。でもマミに力を貸してほしいの」
「力を貸すって、どういうことですか?」
「それについて、これから話そうと思う」
樹里亜が顔を上げる。その視線の先には、『折野』と書かれた表札があった。
そびえ立つ一軒家を見上げる。
「ここ……マミの家?」
「そう。マミも交えて話したい」
「私は……マミとどう話せばいいか、わからないです」
「大丈夫、私もいるから。悠ちゃんにとって大事な話だと思うから、お願い」
樹里亜は宥めるように言って、インターホンを押した。
「はーい」とマミがドアを開けて、出迎える。
マミは、珍しく顔をどんよりと曇らせていた。
話というのは、なかなか重い内容のようだ。私も声を硬くして、「お邪魔します」と門をくぐった。