マミとまた会う機会は、思っていたより早く訪れた。
ファミレスで会ったのと同じ週の土曜日。八代はマミから、「出掛けませんか」と誘われたそうだ。私もそれに着いていくことになった。
一番早く待ち合わせ場所に来た私は、現在マミに睨み付けられていた。
「何でいるの」
静かな苛立ちを感じさせて、マミは目付きをより一層鋭くさせる。
一瞬怯むが、負けじと背筋を伸ばして、事も無げに言い放つ。
「八代が私も一緒だとありがたいって頼んだの」
「……聞いてない」
それもそのはず。私が来ることは、事前にマミに伝えない方が良い、とあらかじめ八代に伝えておいたからだ。
マミは男性恐怖症以前に、八代に恋している。そのため、なんとか理由をつけて、私を引き離して、二人きりになろうとするだろうから、出鼻をくじきたかった。
見るからに落胆した彼女を見て、少し意地の悪い感情が湧いてくる。
「お待たせ」
最後に八代が到着し、私たちに軽く頭を下げる。
「いえ、さっき来たところですっ」
「私もそんな待ってないよ」
「そうか、なら良かった」
マミは、先程までのピリピリした空気を払拭させるように、百点満点のスマイルを見せる。
「じゃあ行きましょう!」
マミが八代の手を掴んで歩き出す。それを出来るだけ見ないようにしながら、そういえば何処に行くのか聞いてなかったな、と思う。
聞いてみようか、と思ったけれど、何となく話しかけにくい気がして、黙って着いていった。
着いた場所は、プラネタリウムだった。一体何年ぶりだろう。
意外と空いていて、三人とも同じ列に並んで座れた。
私を真ん中にし、右隣に八代、左隣にマミが座る。
マミと八代が隣にならないように、マミがトイレに行っている隙に、座席のチケットを買っておいた。
マミに、「混みそうだったから、買っておいたよ」とチケットを手渡したら、マミは一瞬、瀕死の蝉を見るような目を向けた後、「ありがとー」と言って受け取った。
会場に入ってから、マミは静かになった。隣にいる私とは、特に話したいこともないようだった。
時間がきて、いよいよ講演が始まった。暗くなり、周りの人の顔もろくに見えなくなる。
両目に美しい世界が飛び込んでくる。時間がゆったりと流れていくような、心地良い感覚に包まれる。
素晴らしい光景に夢中になっていると、左側からその時間を邪魔する痛みが与えられた。
ギョッとして左を見たら、マミが私の足を、少し先の尖った靴で踏んでいた。
明らかに故意だとわかる、ぐりぐりと力を加える踏みつけ方。
急いで足をどかし、自身の座る席の内側に隠す。全力をかけられていたわけではないので、すんなり抜け出せることが出来た。
マミの顔はよく見えなかったが、きっと悪意に満ちた表情だったに違いない。
やはり、私を邪魔者だと思っているな。彼女は八代と二人だけで過ごしたかったんだ。
このいかにも良いムードに持っていけそうな星空の下で。
さっきの攻撃は、それをお陀仏にした私への制裁だろう。
私は暗闇の中で、せめてもの抵抗として、マミを軽く睨んだ。
「綺麗でしたね~!」
講演が終わって外に出ると、マミがすかさず八代の隣に来て言う。
「ああ」
八代は素っ気ない返しをする。この温度差を感じていないのか、感じた上のことなのかはわからないが、マミは相変わらず明るく振る舞う。
「あそこでひと休みしましょう!」
そう言って彼女が指差したのは、小洒落た感じのカフェだった。
プラネタリウムの後に、オシャレなところでお茶か。
いいデートコースだと思う。第三者の私が挟まって台無しだが。
マミはまた八代を引っ張るようにして、連れていく。
私はまた気まずさを覚える。とてつもなくここにいたくない。
弱気になりそうだったが、慌てて心を奮い立たせる。
ちゃんとしなければ。八代とマミが仲良くなるのを防ぐために着いてきたのだから。
私の行動が、現代での最悪の結末を防ぐことになる。だから、こんなところでくじけるわけにはいかないのだ。
「襟人さんは彼女とかいないんですか?」
カフェで一息ついていたら、マミが直球な質問を投げて来た。
「いない」
「良かったです~。もしいたら彼女さんに悪いですもんね。こういうこと頼むの」
というか恋人がいたら、いくら断りにくい理由をつけられても、マミの頼みを承諾しないだろう。
「じゃあどんな人がタイプなんですか?」
またもやそういう系統の疑問をぶつけるマミ。
「タイプか……あんま考えたことなかったな」
八代が腕を組んで軽く唸る。
「私も気になるな」
ずいぶん久しぶりに口を挟む。知らず知らずのうちにマミのペースに乗せられ、置物になりかけていた。
気をつけないと。
「若葉まで。そうだな……できるだけ正直で、優しいやつが好きだな」
「性格を重視するんですねー」
「正直か……」
私は正直な人間とは言えないだろうな。だって色々隠し事を抱えたまま、八代や幸と接しているから。
自嘲していると、「若葉はどうなんだ?」と訊かれる。
「え?」
「若葉のタイプも教えてくれよ」
「私のタイプ……」
恋愛を忌避しているので、そんなことは考えたこともなかった。
一生誰とも付き合わないつもりなんだから、考えたところで無駄だろう。
しかし敢えて理想を言わせてもらうとしたら――。
「一途でずっと想い続けてくれる人」
「……だいぶハードルが高いね」
珍しくマミが、私の発言に感想を言う。「そんな人いるわけないじゃん」と呆れているのかもしれない。
そういう人がいないことは、私もよくわかっているので、きっと恋愛など出来ないんだろう。
それでいい、それが正しい。
「わたしは、ピンチの時に助けてくれるような、勇敢で頼もしい人がいいです。襟人さんみたいに!」
最後の部分を強調したマミは、実に可憐に頬を赤らめて笑う。
「俺はそんな大したやつじゃないよ」
「いいえ! 格好良くて素敵ですよ、襟人さんは」
マミは、テーブルの上の八代の手を、自身の両手で包み込むように持つ。
「今日会ってみて、改めて思いました。襟人さんならわたしのトラウマも、きっと払拭できるって」
ギュッと手を握りながら、マミは真剣な顔で訴えかける。
「だから……これからもよろしくお願いできますか?」
迷子の子犬のような眼差しは、八代から肯定以外の言葉を封じた。
それは私も同じことだった。
プラネタリウムを出た時は、絶対にマミの攻撃を告げ口してやる。そしてもうマミと会う必要はない、と二人だけになった帰り道で八代に説き伏せる気満々でいたのに。
もちろんマミは、元々の性格からして最悪なのだろう。しかし、トラウマという切羽詰まった事情が彼女を狂暴にしているのかもしれない……。
その可能性について考えたら、私の怒りも萎れていってしまった。
マミと別れた後、私と八代はまた二人で帰っていた。
「付き合わせて悪いな」
「ううん。私が気になって着いてきてるだけだから」
「そうか」
「八代緊張してたの?」
横目で彼を伺う。マミと別れてから、八代の雰囲気が和らいだ気がしていた。
「緊張っていうか――居心地悪く感じた」
八代がポツリと言う。
「プラネタリウムもさ、せっかく綺麗だったのに、落ち着けなかった」
「マミがいたから?」
「そうだろうな」
「マミのこと……どう思ってるの?」
最近気になっていたことを尋ねる。
八代はマミからの好意をどう感じているんだろう。
もしかして、結構嬉しいんじゃ――。
「嫌な感じだよ。過去のこともあるし。良い感情は持てないな」
「……そう」
良かった。絆されてたらどうしようかと思った。
「けどマミの方は、絶対八代のことが好きだよね」
「ああ、まぁ。若葉もそう思ってたんだな。俺の自惚れじゃなかったんだ」
「そうだよ。モテてるんだよ」
「喜ばしいことのはずなんだがな……」
せっかく春が来たと思ったら、嫌いな人からの好意だったなんて、複雑な心境だろう。
「それにしても、プラネタリウムとか超久しぶりだったなー」
「前にも来たことあるのか?」
「小学生の時に、校外学習だか遠足だかでね。八代は今日が初めて?」
「初めてだ」
「そっかー。普段意識なんてしないけど行ってみると、何かまた来たいなぁって気持ちになるんだよね」
「また行かないか? 今度は二人で」
「うん。行きたい」
私も今日は、マミのおかげで落ち着けなかったし。
改めてあの景色を眺めたいと思った。今度は邪魔なんてされずに。
「ねぇ……マミにどんなメール送るつもりなの?」
帰り際に、「また連絡しますね。襟人さんからも何か送ってくれると嬉しいです」と可憐にはにかんでいたマミを思い出す。
「うーん何送ればいいんだろうな。若葉ならどうする?」
「私は……限りなく素っ気なくて、脈なんてゼロな感じにする。マミのことは嫌いだもの」
地面をじっと睨んで、八代の少し前を歩く。
「突き放すことも優しさだよ。余計な希望を持たせないために、温かい対応はしない方が良いと思う。……八代にその気が無いんなら、ね」
「ああ」
もうすぐ別れ道がくる頃だ。前を歩いていた私は、歩調を緩めて再び八代の隣に並ぶ。
「新学期入ったけど、学校楽しいか?」
「ふふっ、お父さんみたいな質問だね」
世間的には、父親はこういう質問をしてくるらしい。クラスの女子たちが、「あれマジうざいよね~」と盛り上がっているのを、何度か見たことがある。
「ははっ、確かにそれっぽかったかもな」
「学校か……うん楽しいよ。幸もいるし」
そういえば、夏休み中は八代とだいぶ会っていたな。
その時間の中で、だんだん八代に慣れていったんだ。
最初はガチガチだったんだもんなぁ……。
「……ふふっ」
「何だよ、急に」
「何でもなーい」
少し気分が良くなって、下手くそな鼻歌を奏でる。
もうちょっとこうしていたい。
そう思った矢先に、別れ道に差し掛かった。
「今日はありがとう。またな」
八代が片手を軽く上げて、身を翻す。私も、「またね」と手を振る。
また、はいつになるんだろうか。学校が始まったから、夏休みのように頻繁には会えなくなる。
次会うのは、マミと出かける時になるのかな。
遠ざかっていく広い背中をしばらく見つめ続け――。
「待って」
気付けば、八代の後ろ姿を追いかけていた。
彼の服の裾を掴んで、心のままに出てきた言葉を告げる。
「もうちょっと一緒にいたい……かも」
「え?」
私の顔は、きっと真っ赤になっているに違いない。
何も考えずに言ってしまったが、何だこの発言は。まるで恋人が別れ際にこぼす言葉みたいではないか。
八代は、面食らったような表情で、私が掴んでいる部分を見ている。
ハッとして、慌てて手を放す。
「ご、ごめん。その、久しぶりに会えたから、もっと話してたいなって」
「あ、ああ」
友達ともっと話したいって思うことは、普通だよね? 幸とだってまだバイバイしたくないって時あるし。
「確かに結構久しぶりだったな。じゃまだ駄弁るとするか」
「うん。ありがとう」
「どこか入るか?」
「うん。あのファミレスが近くて良いんじゃないかな」
「あそこか」
八代が小さく笑う。
私たちが話し込む時は、いつもあそこを使っている気がする。
私も同調するように、笑い返した。
それからファミレスで、特に中身のない会話を楽しむ。
八代は普段あまり口数の多い人ではないので、こういう時間は退屈じゃないか、と訊いたら、
「全然退屈じゃねーよ。若葉との時間は楽しくて好きだから、引き留めてもらえた時は嬉しかった」
と言ってくれた。
体の内側が、陽光が差したようにポカポカと暖かくなる。最近彼といると、よくこういう感覚になる。
良い友達を持ったな、と思う。
八代は、私の人生で二人目の親友だ。
そう思えるほどに、今の私は八代に親しみを感じていた。
その日は、夕暮れ時まで話し続けた。
月曜日の放課後になった。
「放課後うちに来れる? ちょっと話があるの」と幸に誘われたので、お邪魔させてもらうことになった。
「それでどうしたの? 話って」
リビングの柔らかいソファーに座り、少し身構えながら尋ねる。
「うん。あの、私が中学のとき、酷かったって前にちょっと話したと思うんだけど……覚えてるかな」
「覚えてるよ」
マミのことなど話すんだろうか。幸の口からどんな言葉が語られるのか、ドキドキしながら待つ。
「エリちゃんには、話したことあるんだけど――」
それから幸はゆっくり語り出した。
クラスの盗難騒ぎ。友達のために行動したこと。何故か犯人にされてしまったこと。
そして腹心だと思ってた友達に、糾弾されたショックについて。
「本当に信じられなかった」
幸は、大きな両目から雫をこぼす。
「マミちゃん――友達の名前なんだけど、その子がまったく身に覚えのないことを、まくし立てているんだもん。私……マミちゃんのこと一番の親友だと思ってたんだ」
そのときのことを思い浮かべたのだろう。身体が震え、涙が止まることを知らぬ勢いで流れている。
八代から既に聞いていた話だ。しかし幸本人から、こんな風に悲痛を伝えられるのは、ダイレクトに来る。
この出来事について聞くのは二度目だというのに、私も泣き出してしまいそうだった。
「最初は言い返そうとしたんだと思う。でも気付けば頭ん中真っ白で――何も考えられなくて……とりあえず、周りのみんなが、私が謝るのを望んでるってことはわかったの」
「幸……」
「だから、謝って……今だにあの場面がフラッシュバックして、しんどくてっ……!」
「わかった! わかったから、それ以上はもう……!」
幸に駆け寄って、震える身体を抱き締めた。
私のぬくもりなんかが、どれほどの支えになるのかわからないけれど、とにかく幸が楽になってくれ、と祈るように両手を回す。
「こんなこと悠ちゃんに話しても、困らせるだけになるから、言わないって決めてたんだけど……この前マミちゃんがクラスに来たでしょ?」
「うん」
「マミちゃんと仲良いのかなって思って。中学での私のこと聞いたのかもって。最初は小さな気がかりだったけど、どんどん大きな不安になってきて」
「何も聞いてないし、言われたとしても絶対信じないから、安心して。あいつとは仲良くもないから」
宥めるように、幸の背中を叩く。八代が私にしてくれたみたいに、大丈夫だと伝えるような優しい手つきで。
「私は幸を信じるから。誰かの言葉で簡単に離れていったりしない」
「ありがとう。私また同じ目に……遭ったらどうしようって……」
「大丈夫。マミの時みたいな裏切りはもうないよ」
「良かった。本当にっ、良かった……!」
マミの裏切りに、心底打ちのめされたのだろう。どうか間違いやただの悪夢であってほしい、と願い続けたに違いない。
幸と一緒になって涙を流しながら、マミに対する嫌悪はより強まった。
八代に伝えるべきだ。
マミに何を言われたとしても、もう関わらないべきだと。
幸に隠れてマミと会うことは、今泣いている幸への裏切りになる。
「大丈夫だからね」
幸の背中をさすりながら、マミとはもう会わない、と決意した。
その日の夜。私はさっそく八代へメッセージを送ってみる。
『直接会って話したいことがあって……。悪いんだけど出来るだけ近いうちに時間作れる?』
忙しい八代には申し訳ないが、私は大事な話は面と向かって伝えたいタイプだった。
文面で感情を表すのが、どうにも難しいし、相手の気持ちを汲み取るのも、下手くそだからだ。
八代と会いたいって気持ちもあるかもだけど。
ほとんど毎日顔を合わせる幸と違って、会おうとしなければ会えない友達だから。
既読はすぐにはつかなかった。労働中かもしれない。
八代はどんな仕事をしているんだろう。幸の家に来るだけでは、生活費に届かないだろうし。
今度訊いてみよう。
そう思った時、静かな部屋に通知音が響いた。
そわそわしながら画面を見ると、どうでもいいアプリのお知らせだった。
浮き足立っていた心が、高速で萎れていくのを感じる。
早く返信が来るといいな。
意味もなく足をプラプラさせて、うつ伏せに寝転んだ。
そうしているうちに、いつの間にかうとうとしてきて、目覚めた時には朝になっていた。
遅刻する!? と焦って時計を見たら、幸い登校時間までには十分な余裕があった。
良かった――。
あ、そうだ。確か返信を待ってたんだっけ。
携帯を確認してみると、八代からの返信が21時頃に届いていた。
『わかった。明日の夕方なら空いてるけど、どうだ?』
よし。
小さくガッツポーズをして、文字を打つ。
『ありがとう。じゃあ放課後に。よろしくね』
さて。起床したのだから、まず顔を洗わなくては。
いつもより時間あるんだから、髪型を変えるのも良いかも。
普段は楽に後ろでひとまとめにしているけど、久しぶりに巻いてみようかな。
早起きのおかげだろうか。私の機嫌は何だか妙に好調だった。
「今日の足取りは何だか弾むようだね。悠ちゃん」
「え? そうかな」
登校中に幸に言及されるほど、私はご機嫌らしい。
「何か良いことあった?」
「良いこと、かぁ。ぐっすり眠れたからそのおかげかも。早起きできたしね」
「あーだから今日おしゃれしてきてるんだ。凄いなぁ。私がやると、どうもグシャグシャになっちゃうんだよね」
「幸、不器用だもんね」
「でも前に一緒にチャレンジした時、悠ちゃんも大惨事になってたじゃん。いつの間にマスターしてたなんて……」
「あっ、確かそういうこともあったね」
髪の巻き方は、営業の仕事に就いた時に、見栄えを良くするために覚えた。
高校生の頃は、幸と同様に下手くそだったのだ。
「え~忘れてたの? 悠ちゃんめっちゃ爆笑してたのに」
「そ、そうかも。あはは駄目だな~」
タイムリープの弊害だ。
ヤケクソ気味に笑い飛ばして、雑に誤魔化す。
「まあ、猛特訓したんだよ」
「気合い入ってるね! あ、ひょっとして恋してるからかな?」
「恋?」
「そうだよ。女子が急にお洒落し出したら、理由はそれしかないじゃん! 好きな人に可愛いって言われたい乙女心だよ!」
「いや、私恋なんてしてな……」
言いかけて、幸がまだ勘違いしていることに気付いた。
彼女の中では、私が八代のことを好き、となっているのだ。
「天の邪鬼だよね、悠ちゃんも。私にはバッチリわかっちゃうんだよ、女の勘ってやつでね!」
自信満々にビシッ! と人差し指を向けてくる幸。
その姿は、完全に探偵が犯人を言い当てた時の決めポーズだった。
「あーはいはい。ふざけてないでさっさと学校行こ」
「そんな冷たくあしらわないでよ~」
呆れた声で応対した私に、ぎゃいぎゃいと抗議する幸。
その声を背に受けながら、思案する。
先ほどの幸の発言が、私の中で引っ掛かっていた。
確かに今日は八代に会う。もしや私は、それが理由で髪を巻いたのか?
ただの気まぐれじゃなくて?
『好きな人に可愛いって言われたい乙女心だよ!』
好きな人――いや。
愚かしい考えを消すように、巻いた髪の毛先を、指先で弄くる。
これはただの気まぐれだ。特に意味なんてない。
仮に私が、八代に可愛いと思われたいのだとしても、別に彼を異性として意識してるわけじゃない。恋愛対象外の友達にだって、可愛く見られたいと思うのは、年頃の女子なら普通だ。事実、幸に褒められたのも、すごく嬉しかったし。
断じて八代を意識して、髪型を変えたわけではない。
幸のからかいのせいで、放課後が近付いてくると、変にそわそわした気持ちになってきてしまった。
落ち着かなければ。今日は真面目な話をするために、会うんだから。
心の中で言い聞かせながら、待ち合わせ場所へと歩を進める。
指定した公園が近付いてくる。八代がベンチに座って待っているのが見えた。
視線に気づいたのだろう。目を細めてこちらを見てきたかと思えば、数秒かけて私だとわかり、手を振ってきた。
私も振り返し、小走りでそちらへ向かう。
「お待たせ」
「学校お疲れさん」
二人掛けのベンチの片方に腰掛ける。隣の八代から、「ほら」と何か渡される。
ペットボトル飲料だった。ミネラルウォーターだ。
「さっき買ったら当たったんだ。良かったらやるよ」
「ありがとう。いただきます」
走ったことで乾いた喉に、グビッとよく冷えた液体を流し込む。
「はーおいしい」
だいぶマシになってきたが、まだ少し汗ばむ季節だ。上気した頬に冷たいペットボトルを押し当てる。
「髪型変えたんだな」
八代が巻いた髪に反応してくる。朝の会話のせいなのか、どうにも落ち着かなくて、八代とうまく目を合わせられない。
「あ、うん。まぁ今日だけかもしんないけどね。たまたま早起きして興が乗ったから」
「そうか。似合ってると思う。華やかで可愛い印象で」
「えっ? あ、ありがとう……」
まさか本当に可愛いと言われるとは思わなかったので、たじろいでしまう。
ムズムズするような、くすぐったいような気分になって、人差し指に髪を巻き付ける動作を無駄に繰り返す。
「照れてんのか? ちょっと前から思ってたけど、若葉ってだいぶ照れ屋だよな」
「うっ」
痛いところを衝かれたみたいな、ギクリとした声が出る。
確かに八代を前にすると、照れるというか、顔が熱くなることが頻繁にあるな……。
「そんなことより! 早く本題に入ろう!」
パンパンッと手を叩き、空気を強制的に切り替える。
「幸のことなんだけど――」
そう切り出すと、八代は表情を引き締めて、真剣に話を聞く体制に入った。
「そうか……幸がそんなに取り乱してたのか」
「うん。すごく思い悩んでた」
昨日あった出来事を話し終えて、私たちは俯いたり、長いため息を吐き出したりなどしていた。
色々な感情がごちゃ混ぜになって、爆発しそうになるのを、頑張って抑えているのだ。
その感情は怒りだったり、やるせなさだったりする。
私と八代は、そのまましばらく黙り込んでいた。
事実を咀嚼し終わっただろう頃合いで、私の方から口を開く。
「それでさ、マミと関わるのを辞めるべきだと思ったの」
「ああ、違いない。適当な理由をつけて、もう会えないって伝えないとな」
「うん」
「――幸への裏切りになるからな。何言われてもちゃんと無理だって伝えねぇと」
八代がわかってくれて良かった。その決意は固そうで、力のこもった眼差しで前方をキッと見据えている。
「どんな理由にするの?」
「うーん。向こうもなかなか断りにくい頼みしてきたからなぁ……どんな理由なら納得してくれっかなぁ」
「彼女ができたからっていうのはどう?」
「おお、いいなそれ」
「これなら強く言えないだろうし」
そもそもマミのトラウマ云々の熱弁は、きっとウソっぱちだ。
マミはただ八代を好きってだけなんだから、彼女がいると思えば、諦めて次の想い人を見つけるはず。
「じゃそれでいくわ。ありがとな若葉」
「どういたしまして。メールで伝えるの?」
「そのつもりだ」
「頑張って。後で結果教えてね」
「わかった」
しかし八代がマミに連絡することは、叶わなかった。
「携帯壊れちゃって今修理に出してるから、少しの間、連絡とれないって襟人さんに伝えといてくんない」
学校にて、横柄な態度で頼まれた――というより命令された。
しかも幸がそばにいた時だったから、本当に最悪だ。
「三人で仲良くしてるの?」
幸が怯えた子犬のような目をして、おずおずと訊いてきた。
「お祭りの日のことでちょっとお礼されただけだよ。仲良くはない」
慌てて精一杯安心させるように、言い聞かせたけど、少し嘘をついてしまった。マミとは、一緒にプラネタリウムに行ったのに。
「そっか」
私の言葉に幸は、強張っていた表情筋を緩めた。
嘘をついたとしても、私も八代ももうマミとは会わないのだから、平気だろう。
マミにしばらく連絡ができないことを、さっそく八代にメッセージで伝えた。
「いや多すぎるって……」
大量のお菓子をげんなりした目で見る。どう考えても、うちだけでは食べ切れない量の焼き菓子を贈ってきたのは、従兄弟だった。
一日にけっこうな量の間食をする従兄弟とは違うのに、私の誕生日が近いからと大量の焼き菓子を贈ってきたのだ。
焼き菓子というのは、賞味期限が短いため、そういつまでも残しておくわけにはいかない。
そうだ、幸にお裾分けしよう。
舞い降りてきた妙案に、自然と唇の端が吊り上がった。
半分ほどの量を適当な袋に入れて、外に出ると、夕日が街を美しく彩っていた。袋を渡してすぐに帰れば、暗くなる前に家に着けるだろう。
ちょっと駆け足で、幸の家を目指した。
ピンポーン……………。
「出掛けてるのかな?」
インターホンを押してしばらく待ってみても、中からは何の反応もなかった。
「居るかどうか訊いてから来れば良かったな……」
しょうがない、帰るか。
そう思って踵を返した途端、足音が聞こえてきた。
なんだ居たんだ。
「寝てたのー? 幸。へへっ良いもの持ってきたんだよ!」
近付いてくる足音へもったいつけるように、語りかける。
「残念。幸じゃないよ」
しかし扉を開けて出てきたのは、知らない女性だった。
「幸の友達でしょ? 上がっていって」
「あっはい。お邪魔します……」
上がるつもりなどなかったのに、彼女に手招きされるまま、玄関で靴を脱ぐ。
そこでハッと気付く。この人は――。
「樹里亜……さんですよね? 幸のお姉さんの」
「そうだよ」
珍しく帰ってきていたらしい。
歩みを止めて、「あのっ」と前にいる彼女を呼び止める。
「これ渡しに来ただけなんです。だからもう帰ります。幸によろしく言っておいてください」
袋を差し出して、頭を下げる。
樹里亜が幸に渡すことで、二人の間には自然に会話が生まれるだろう。
私にも分けて、とか。美味しそうじゃん、とか。
樹里亜に渡されたら、幸はきっと喜ぶ。そう思ったのだが、樹里亜はニコリと笑って、こう言った。
「いや、お茶を出すから幸と一緒に食べよ」
「じゃあお言葉に甘えて……ご馳走になります」
「こっちが恵んでもらったんだけどね」
「あはは。そうでした」
頭を掻きながら、考える。一緒に菓子を食べる、という状況の方がたくさん話せて、幸にとって良いかもしれないと。
私が会話をアシストしてもいいし。
「幸、今部屋にいるんだ。呼んでくるから待ってて」
通されたリビングでそう告げられる。
樹里亜と幸は、どんな雰囲気で会話するんだろう――。
待っているつかの間に、そんな好奇心が頭をよぎる。
やがてリビングへ向かうふたつの足音がしてきた。
いや、なんか多いような気が?
「あれ、若葉さん? 遊びに来たの?」
「え?!」
私は度肝を抜かれた。だってそこにいたのはマミだった。しかも幸の腕に馴れ馴れしく絡み付いての登場だ。
「何で……」
「ああ。若葉さんは知らないの? わたしと幸は同じ中学出身でね。そっからズッ友なんだ」
「はぁ!?」
言葉も出ない。どの口がそんなことを言うのだ。どの面下げて会いに来てるんだ。
顔全体に困惑を浮かべて幸を見ると、瞬きを何回も繰り返して合図をしていた。幸が目だけで何か伝えたい時によくやる仕草だ。
今は黙っていて、ということか。その望み通りに一旦口をつぐんでおく。
「お姉とマミちゃんは先に食べてて。ちょっと悠ちゃんと話しておきたいことがあるから」
「早く来ないと先輩とわたしで全部食べちゃうからね~」
マミの腕から逃れ、幸は自室へと私を導く。
どうしてなの、幸。何でマミに纏わり付かれて心なしか嬉しそうだったの。ズッ友って何?
何を考えているのか全くわからない背中を、不安げに見つめながら、階段を上がっていった。
幸が部屋の扉をきちんと閉めたことを確認した後、私は我慢していた質問を吐き出す。
「何でマミがいるの? いやいるのは良いとしても、友達みたいにしてるのどうして?」
マミがここにいる理由は、樹里亜が連れてきたからかもしれないが、幸が嫌がったり怯えてる素振りを一切見せていなかったのは、不可解だ。
月曜日の放課後に、消えないトラウマ――今でも癒えていない心の傷として、マミとのことを話していたのに。
「実は中学の時のことは誤解だったの」
「……え?」
幸の言葉で、謎は解消されるどころか、より深まっていく。
「誤解?」
「うん。実は――」
困惑する私を前に、幸は語り出す――。
マミが幸を犯人に仕立て上げたのには、深い理由があった。
それは幸を守るため。
中学時代、クラス内で幸に恋心を抱く男子生徒がいた。
しかしその恋心は狂信的な域に到達していて、彼は幸に対する異常な偏愛をノートにビッシリと書き連ねていた。
ノートには、彼女は女神様だとか僕の運命の人だとか、背筋を毛虫が這っていくかのような、気持ち悪い妄言が書かれていたそうだ。
けれども男子生徒は、幸とさほど関わりがなかった。どうやら自分が理想とする女子像を、幸に押し付けている感じであった。
そのノートを、マミは偶然見てしまったらしい。
このままじゃ幸が傷つけられるかもしれない――。
ノートを見て危険な予感を覚えたマミは、どうすればこの男子生徒が幸に執着しなくなるか考えた。
そして思い付く。
幸がこいつの理想から外れた女の子だったら、安全ではないか、と。
だからクラスのみんなに、幸に対する最低なイメージを植え付けたのだ。
全部幸のため。幸を危険人物から守るために起こしたことだった。
「……っていうことなんだ」
全て話し終えた幸は、短くため息をつく。
「マミが――そう言ってたの?」
「うん。その後始まった私へのいじめも、実はマミちゃんが、裏で可能な限り防いでたんだって。『全部防ぎ切れなくて、ごめん……』ってさっき泣きながら謝ってくれたんだ」
幸が嬉しそうに言う。
いやいや。その男子生徒一人から嫌われるためだけに、ここまで派手に事を起こすことないじゃないか。
本当に幸を思っているなら、そんなに辛い方法を選択するわけない。
口からでまかせにしても、マミの言い分はめちゃくちゃで無理があるものだった。
しかし幸は、信じているようだった。信じていたい、のかもしれない。喜色満面といった様子で、私に説明していた。
それを見て、胸がズキリと痛む。
喜んでいる幸に、事実を突きつけるのは辛いけど、八代が偶然にも喫茶店で聞いたあの話をするしかない。
「幸、落ち着いて聞いてほしい。マミはちょっと前に――」
「ねぇ遅くない?」
私の言葉は、伝えなければならない大事なところでちょうど遮られた。
「あ、お姉……」
「マミが待ちくたびれてるよ。そんなに長い話なの?」
部屋に乱入してきたのは、樹里亜だった。ほんの少し咎めるような眼差しで、幸を見ている。
「今終わったとこなんだ。お待たせ」
「あっ、ちょっと――」
幸が部屋を出ていってしまう。私的にはこれからだったのに。
しょうがない。二人だけでゆっくり話せる時にするか。
諦めて私も続いて部屋を出ようとした――が、樹里亜が入り口を塞いでいる。
「あの退いてくださ――」
「言わない方がいい」
樹里亜が意味深に溢す。扉の前で両腕を組んで、真顔で私をジッと見ている。
一瞬発言の意図がわからずに固まる。ワンテンポ遅れて、会話を聞かれてたことに気付いた。
「樹里亜――さんは知ってるんですか。マミがあんなことした本当の理由を」
「逆に何であなたが知ってるのか気になるよ。どうして?」
「言いたくないです」
樹里亜が生み出す冷たく鋭い空気によって、剥き出しにした両腕に鳥肌が立つのをはっきりと感じた。
「本当のことを言っても、幸のためにはならないよ」
樹里亜の言葉に、思わず目を剥く。
「このまま騙してた方が良いって言うの?」
「そうだよ。見たでしょ? あの笑顔を。こんなに嬉しいことはない、と言いたげな輝きに満ちた顔を」
「見た……けど」
確かに幸は、あんなに幸せそうにしていた。私だって、本当のことを伝えなければいけない、と考えると、気が重くなった。
「けどこのままマミと関わらせるのはもっと駄目」
「せっかくトラウマが治りそうなのに、またほじくりかえして突きつけるの?」
「脅してるつもり?」
「ただ私は、正しい行いが人を幸せにするわけじゃないって言いたいだけ」
見れば樹里亜は、玄関先での穏やかな雰囲気とは打って変わった、ほとんど敵意に近い眼差しでこちらを睨んでいた。
「余計なことは言うべきじゃないの」
「でもマミは――嫌な奴で……」
「確かにマミは、純粋すぎるから暴走し出したら止まらないところあるけど――恋愛が絡まなければ気のいい子だよ。ていうかマミに限らず、大体の人がそうじゃない? マミのような状況になって、一体どれだけの人が、友達に今まで通りに接することができると思う?」
「それは……」
何も言えなくなる。確かに彼氏の心を持っていかれそうになって、それでもニコニコしていられる人なんて、いないのかもしれない。
「幸だってマミが良い奴、って思ってたから、あの事件が起きるまで友達でいたんじゃない。今こうしているのは、幸の意思なんだよ」
口を挟む暇もないまま、続けられる。
「あとマミのこと、そんなに悪く言うのはやめてくれない? 私の大切な後輩だからさ。そりゃあの子が過去にしたことは、私も嫌いだけど」
その言葉を聞いた私は、意外に思った。
樹里亜も、中学の時のマミの行いは、嫌悪しているようだ。
その上で今、大切な後輩として受け入れている――。
「わかったよ。今日のところは黙ってる」
畳み掛けられた私は、根負けして身を引く。
けどこれだけは訊いておかなければ。
「あなたは幸をどう思ってるの?」
怯みそうになるのを抑えて、樹里亜を凄むようにしかと見つめる。
樹里亜は負けない、と言うように、キッと目付きを鋭くした。
「たったひとりの大事な妹だよ。だからあの子の幸せを壊す真似はやめて」
その瞳に映る色は、真剣そのものだった。
樹里亜は想像していた人物とは違った。
幸の家を後にして、すっかり暗くなった帰り道をとぼとぼ歩く。
八代に聞いた話からして、幸のことなんてどうでもいいと思っているんだろう、と予想していたのに。
樹里亜なりに幸を憂いていたのだ。私が真実を告げようとした時、彼女は割って入ってきた。あれは幸が傷つかないように、と思って取った行動だった。
樹里亜との問答の後、一階に戻り四人で菓子を食べた。
幸とマミは並んで座り、それは楽しそうに打ち解けていた。過去のことなどなかったかのように。
それを見て、非常に不愉快な気分になった。直視するのが辛くて、不自然に視線を反らし続けた。そんな私に全然気付くことなく、幸はたくさん笑っていた。
そのこともショックで、味なんてわかるはずもなかった。ただ機械的に口に入ってくる食べ物を咀嚼している内に、時間は過ぎていった。
思い出すと、目頭が熱くなり、視界が歪んでいく。情けない。
胸がつまる理由はそれだけじゃない。樹里亜の持論が正しいのではないかと思ってしまったのだ。
本当のことを言ったところでどうなる?
上げて落とすことになる。それはあまりに残酷なことだ。
私が幸の立場だったら、とても耐えきれない。気持ちは沈み込み、他人への不信感が強烈なものになっていくだろう。
私がやろうとしていることは、親友を不幸にする行為なのでは――。
「……っ!」
心臓が痛い。身体がスウッと薄くなって、世界から人知れず消えていくような心細さが、襲いかかってくる。
その時だった。
「おい、危ないぞ!」
後ろからグイッと腕を引かれた。硬い胸板の感触を背中に感じる。
びっくりしていると、目の前を車が走り過ぎていった。下を向いて歩いているうちに、赤信号に気付かず渡ろうとしていたみたいだ。背筋を冷たい汗が伝う。
あのまま進み続けていたら、轢かれていたかもしれない。
慌てて振り返り、助けてくれた恩人に礼を言おうとする。
「あ、ありがとうございます! あれ?」
「ん? 若葉?」
そこにいたのは八代だった。彼も今私に気付いたらしい。
「どうしたんだよ、ボーっとして。というか何かあったか? 険しい顔してるけど」
気遣わしげに私を見下ろす八代。
そんな彼の顔を見て、無性に寄りかかりたくなった。
ポスッと八代の上半身に、頭を押し付ける。
「おい、マジでどうし――」
「ちょっとだけ」
戸惑いの声を上げる八代を遮り、弱々しく言葉を紡ぐ。
「ちょっとでいいから――このままでいさせて」
ややあって八代から小さく返ってくる。
「ああ。よくわかんないけど大丈夫だぞ、若葉」