殺してくれてありがとう

 川崎大和。
 幸のお姉さんの彼氏。これは偶然なのか。
 八代に殺された人と、同姓同名だ。
 自室のベッドで横になって考える。
 いや、偶然じゃなくて運命だ。

 川崎大和さんとこの時代でどうにか知り合いになって、八代と今後の人生で関わらせないようにすることがミッションに違いない。
 殺害方法からして、八代は深い憎しみを大和さんに持っていたと予想できる。だから妻も殺して、大和さんの全てを奪ってやりたかったんだ。

 八代はもう大和さんと面識があるのだろうか。彼氏を家に連れて来たお姉さんが紹介した可能性がある。
 本人にメッセージで尋ねよう。
 携帯を引き寄せてアプリを開く。文字を入力しようとしたときに、八代の方からメッセージがきた。

 『今日家に来た後輩っぽい奴いただろ』
 『いたね。それがどうかしたの?』
 『そいつが、折野だったんだ』
 「えっ」

 中学で幸を盗難事件の犯人に仕立て上げた、折野マミ。
 彼女が、幸の家に来ていた? どの面下げて?

 『幸の姉貴と卒業後も仲良かったみたいだな』
 『幸がいるのに家に上がって顔を見せるなんてどんな神経してんの!』
 『まったく悪びれてないんだろ。幸を舐めてんのかもな』
 『何も言えないだろ~どうせって? 後ろめたさとか皆無みたいだね、腹立つ!』
 怒りのあまり枕をボスボスと叩く。ホコリが舞うが、そんなことはどうでも良かった。
 『本当にクソだよ』

 文面から送信主の苦々しい顔が浮かんでくるようだった。

 『もう来ないことを祈るね』
 『だな。学校では何もしてこないんだよな?』
 『うん。まったく近づいてこない。隠れて嫌がらせとかしてる様子もない』
 『それが続いてくれるといいんだが……』
 『大丈夫。なんかあったら私が追い払うから』
 『頼もしいな。ありがたい』

 マミが性悪だと幸のお姉さんにも知らせたい。お姉さんがマミと絶縁すれば、家には確実に来ないだろうし。

 『ねぇ。八代は幸のお姉さんと同じ中学の同級生なんだよね?』
 『そうだな。同じクラスだったこともある。幸ほど話したことはないけど』
 『幸と幼馴染みなら必然的にお姉さんとも仲良いかもって思ってたけど。同い年だし』
 『小さい頃は3人で遊んだけど、最近は家にもあまり帰ってきてないほど、他の交流が忙しいみたいだしなあ』

 そうなのか。彼氏と同棲うんぬんとか聞こえたから、恋愛に夢中なんだろうな。

 『お姉さんってマミと仲良いんだね。中学の先輩後輩って卒業したらもう関わらないもんだと思ってたよ』
 『折野はよく懐いてたよ。中学のときに、学年が違うのにこっちの教室に来てたりした』
 『先輩にわざわざ会いに? それは珍しいかも』
 『ああ。樹里亜センパ~イってよく呼び掛けてたよ』

 え?
 『樹里亜って幸のお姉さんの名前?』
 『そうだけど』
 樹里亜。川崎大和さんの妻と同じ名前。字も一致している。 

 幸のお姉さんは、大和さんといずれ結婚して家庭を作る。
 薄井樹里亜が、川崎樹里亜になる。
 樹里亜さんと八代に面識があったのなら……現代の八代の憎しみの対象は、大和さんじゃなくて樹里亜さんだったのかもしれない?
 これは八代に実際に会って確かめたい。

 『今度一緒にご飯でも行こうよ』
 『いいぞ』
 速攻でオーケーがくる。
 よし!

 対面して聞きださないと。メッセージだとはぐらかされる可能性大だ。
 樹里亜さんが憎いか。
 もしそうなら、何故なのか。何か決定的な出来事があったのか。
 何も起こってないなら、これから防げば良い。

 すでに出来事が起きたなら――八代を薄井家から引き離すしかない。
 どうやるかは全然思いつかないが。とにかく八代に訊ねてから判断しよう。
 川崎大和さんか樹里亜さんのどちらか――あるいは両方に殺意を抱いたことはあるか。
 「樹里亜さんの彼氏に会ったことってある?」

 翌日。夏休みに入る前に八代と来たファミレスで、ランチをとっていた。
 まず最初に大和さんと面識があるのかを確かめなければ。

 「ない。幸ですら昨日初めて会ったんだと」
 顔を見たこともないようだ。ならば――。
 「樹里亜さんのこと、どう思う?」
 「どうって……」

 八代が返答に詰まる。目をつぶり顎に手を当てて、考え込んでいる。

 「まあ思うところはある」
 「っていうと?」
 「幸に対して冷たいんだよな、家にずっと一人でいさせるし。幸が言うには毎日のように外泊してるみたいだ」
 「樹里亜さんは、幸のことが嫌いなの?」
 「いや、嫌いとすら思ってないんじゃないか。どうでもよさそうな感じだ」

 でも気軽に会える家族は妹一人なのに。両親は海外にいるのだから、なかなか会えることはないだろう。

 「けど幸は樹里亜のことが好きなんだ。あの広い家に一人でいるのは寂しいってのもあるんだろうが」
 私にならって樹里亜呼びにしている。
 「中学の頃から二人暮らししてきたんなら思い入れもあるだろうしね。甘えられる唯一の存在だったかもだし」
 「遠方にいる親を心配させたくないしな」
 だからさ、と八代が続ける。
 「もうちょい幸を気にしてやってほしいっつーか……たまに話しかけたかと思えば頼みごとがほとんどなんだよ」
 都合のいいときだけ声をかけるってことか。それは幸が気の毒だ。
 「そんなことを幸は嬉しそうに話してくるんだ。『久しぶりに会話できたの』って。あいつは断れない性格だし、樹里亜に頼られたことが嬉しいのか、頼みごとも全部聞くんだ」
 「八代はもう樹里亜とは全然話さないの?」

 敬称が自然と外れる。話を聞いて彼女に怒り、と言うほどではないが、嫌な感情を抱いたからだ。

 「ああ。仲良かったのなんか、歳が一桁のときくらいまでで、小学校を卒業したらまったく口聞かなくなっちまった。別に気まずいとかではないんだけどな」

 幼馴染みなんてそんなもんか。私は幼稚園時代に、ずっと友達だよ、と約束した女の子がいたことをふいに思い出した。
 今となっては名前も覚えていない。

 「思うところはそのくらいだ。俺個人としてはそんなに関わりないしな」
 「憎しみとかはないんだね?」
 「は? 急に何だよ。そんなのないに決まってんだろ」
 八代は怪訝な顔をしながらも、きっぱりと言った。

 「俺、そんなに怖そうに話してたか?」
 「いや、気にしないで」
 八代の態度から憎悪は感じられなかった。樹里亜や大和さんへの殺意はゼロのようだった。

 「思ったんだけど中学の出来事もさ、樹里亜は知らないのかな」
 無関心だという話なら、幸の異変にも高確率で気づかない感じがする。
 「俺も気付かなかったから、学校ではそれほど話題になってなかったと思うが……一緒に住んでればおかしいって感じることはあったかもな」
 「持ち物を隠されたりとかあったしね」
 「けどたとえ知ってたとしても、樹里亜は何も言わないような気もするんだよな」
 「まあ、さっき聞いた感じだと、無関心って印象だからなぁ……」
 「中学時代の二人については、俺もよく知らないが、今はホントにそんな感じだよ」
 「じゃあマミがやったことを知ったとしても、無駄になっちゃいそう」
 樹里亜に伝えたところで、何も変わらない気がする。

 「マミのことを伝えれば、もう関わらないんじゃないかと期待したんだけど」
 「またマミが家に来る可能性あるからな。樹里亜と仲良い限りは」
 「今まで誰かを家に連れてきたりしなかったなら、大丈夫かなとは思うんだけどね」
 「幸は『お姉が友達を連れてきたことはない』って言ってた。昨日も忘れ物取りにきただけだし、もう来ないんじゃないか」
 「そう願うよ」

 それにしても。
 樹里亜は幸にとって良くない気がする。彼女は幸を愛していないようだし。
 幸は姉のことが好きで、もっと親しくなりたいと願っているのに。一方通行の愛情だ。

 彼女が頑なに私たちが来ていることを隠そうとしたのも、今なら納得できる。友達を家に上がらせたという、樹里亜の意にそぐ行為を隠したかった――少しでも嫌われたくなくて、必死だったのだ。
 幸は、哀しみを抱えて生きてきたのだろう。中学生のときは、家でも学校でもひとりぼっちが長く続いたのだ。

 以前の私は全然わからなかった。幸の孤独感を。やるせなさで顔に熱が集まる。
 私は何もわからずにバカみたいに笑っていた。親友だと思っていたくせに、隠された哀しみに微塵も気付けなかった。
 八代の方が理解者になれるのも当然だ。対抗心を燃やしていた自分が恥ずかしい――。

 「ありがとな、若葉」
 「え?」

 私が自身の無能さに唇を噛んでいたら、八代が唐突にお礼を言ってきた。

 「幸のそばにいてくれて」
 「有り難がられることなんて何も出来てない。ただ一緒にいるだけなら誰にでも出来るじゃない」
 「無理だ」
 強めの口調で否定される。

 「友情なんて脆いものだ。これと言った出来事がなくても簡単に人は離れていくし、それが普通だ。ましてや――」
 真摯な眼差しが向けられる。

 「そんなに他人のために怒ったりする奴は、希少だよ」
 「でも……私はこれが当たり前だと思う。災難が友達の身に降りかかってたら、心をかき乱されるのは普通じゃないの?」
 「そんなことねーよ。友達ってのは、なかなかそこまで思ってくれない」
 八代は、尊敬するような眼差しで、私を見てくる。

 「だから若葉みたいなやつがいてくれてすげー嬉しい。幸もきっとそう思ってるぞ」
 「そう……なのかな。私ちゃんと何かしてあげられてたのかな」
 「もちろん」
 八代は大きく頷く。

 せっかく過去に来たのに、何にも出来ていないって思ってたけど……そうか。
 私がタイムリープしたのは無駄じゃなかったんだ。

 「私、八代と会えて良かった」
 「は? 何だよ急に」
 「ありがとうってこと」
 心の中の暗雲がスッと晴れていった気分だった。
 「そんなん俺もだっつの」
 八代が、ポツリとこぼした。


 ベッドにごろんと仰向けになる。
 樹里亜のことなんて全然わからない。マミみたいな人を友達にする思考も、家族を嫌ってるならともかく無関心だということも。
 けれど理解できなくてもいい。マミと縁を切らせたかったけど、樹里亜が承知の上で交流を続けているなら、私に出来ることはこれまでと同じだ。

 幸のそばにいること。そして――。
 八代のことも気をつけて見なければいけない。彼が、人を殺す未来を抹消するために。
 八代にそんなことをしてほしくない。
 私は、強く思った。
 「もうすぐ着くよっと」

 幸に送信する。すぐさま可愛いキャラクターがはしゃいでいるスタンプが返ってくる。
 夏祭り当日。私は浴衣の着付けに手間取って、予定より家を出るのが遅くなってしまった。
 浴衣を着るつもりはなかったのだけど、幸に、「私も着るから着てきてよ~」と言われて、仕方なく押し入れから引っ張り出してきた。
 待ち合わせ場所に辿り着くと、浴衣姿の幸と黒いシャツを着た八代が待っていた。小走りで二人に駆け寄る。

 「ごめん。お待たせ」
 「そんな待ってねぇよ」
 「私もさっき来たとこ。わぁ~悠ちゃん浴衣めっちゃ良いね! 着てきてくれてありがとう」
 幸は私を見ると、手を合わせて喜んだ。

 「まあ三人組で一人だけ浴衣ってのもちょっと気まずいかと思って。幸もすごく似合ってる」
 私は、朝顔の柄の白を基調としたものを。幸は、黒い生地に金魚が泳いでいる柄のものを着ていた。
 「エリちゃんどう思う? 可愛いでしょ今日の悠ちゃん」

 八代の口から、私に対する好意的な言葉が出ることを望んでいるらしい。そういえば、誤解を解いていなかったな、とにやけ顔の幸を見て思った。
 しかし私も本当に少しではあるが、八代の感想が気になった。

 「似合ってるよ、すごく。やっぱいつもと雰囲気違うな」
 胸がじんわりと温かくなる。
 「ん。ありがと」
 なんだか妙にフワフワした心持ちになって、出店が出ている方を落ち着きなく見遣った。
 「何か買お!」
 私は、出店を指差して言う。
 夏のせいで熱くなってきた頬を冷まそうと、かき氷を求めて歩き出す。

 それから、シロップで染まった舌を幸が見せてきたり、八代が射的で一等を獲ったりして騒がしく時間が過ぎていった。

 「あれ? 幸がいない」
 先ほどまでしきりに話しかけてきていた幸の姿が、見えなくなっていた。
 「まじか。ん?」
 八代の携帯が鳴った。幸からのメッセージのようだ。
 「部活の先輩に会ったからちょっと挨拶してるんだと。少ししたら合流するって」
 「え? 部活なんて――」
 入ってないはずだけど、と思って気付く。

 気を回したんだな、幸。
 幸は、どうしてもキューピッドになりたいらしい。そもそも私が八代を好きというのは誤解なのだが。

 好きと言えば好きだけど、愛だの恋だのみたいなアレではない。人として好きってヤツだ。もしくは友人として。異性としてはそりゃあ八代は魅力的なのかもだけど、別に全然付き合いたいとかそんなんじゃない。思ってない、絶対。

 「若葉? どうした?」
 私が何か言いかけて止めたので、怪訝そうに見てくる。慌てて、
 「何でもない。そっかー部活の関係は大事だよねーうんうん」
 と頷く。
 「じゃあしばらく二人になるな」
 「そうだね。さすがに花火の時間には帰ってくると思う。あんなに楽しみにしてたし」

 花火までにはあと二時間以上もあるので、八代と並んで適当にぶらついていった。

 「あ、から揚げ。買ってきていい?」
 「ああ、ついてくよ」
 好物のから揚げの出店を見つける。ちょうどお客さんがおらず、グッドタイミングだった。
 「五個入りひとつ」
 「はーい五百円ね」
 小銭をおじさんに渡す。おじさんは私たちを見て、
 「いや~デートか! いいねぇ若くて!」
 「デッ……!?」
 「照れなくても良いよ、お嬢さん。この店に来たカップルは君たちが初めてなんだよ! 歩いてる人たちを見てると、いないことは無いんだけどねぇ」
 おじさんは、ガッハッハッと豪快に笑う。口を挟む暇もない。

 「特別にオマケしとくわ! 彼氏と一緒に食べな!」
 本来の数より倍近くのから揚げをカップに入れて渡してくる。爪楊枝が二つ刺さっていた。
 ずずいっと差し出されたそれを慌てて受けとる。
 「あ、ありがとうございます」
 「仲良くね~!」
 嵐のような人だったな、と思ってると、
 「嵐みたいな勢いだったな……」
 八代も同じことを思ったらしい。苦笑している。

 「訂正する暇もなかったね……」
 「去年も間違えられたわ」
 「え? 去年?」
 「ああ。あの人じゃなかったけど。幸と来てて、同じようにカップルと間違えられた」
 「へぇ……」

 その場面を想像してみる。
 幸がはにかみながら、「幼馴染みです」と伝える姿が目に浮かぶ。八代も笑いながら否定するのだろう。
 変な空気にはならないと確信できた。あの二人には、そんな関係に転じるような雰囲気を一切感じないのだ。

 「良かった」
 「何か言ったか?」
 口に出ていたらしい。「何でもない」と返す。そして無意識のうちに出てきた言葉に、自分が言ったことなのに疑問に思う。

 何が『良かった』のだろう?
 幸と八代が恋愛関係に発展しなさそうだと考えて、なぜか安心したのだ、私は。一体どうして――。

 「殺すぞ!」
 耳に飛び込んできた物騒な発言に、ハッとする。
 声がした方を見ると、小学生くらいの男子数名がじゃれあっていた。子どもが戯れにこぼした脅し文句だったようだ。
 殺す、という言葉で思い出す。八代が将来殺人犯になる可能性があることを。

 恋人が未来の殺人犯じゃなくて良かったね、という気持ちだったんだな、きっと。私が安心した理由は。
 もちろん八代が川崎一家を殺害しないように、全力で工作する気ではいるけれど。
 けど万が一防げなかったら――。

 「おい、若葉?」
 八代の声で現実に戻る。さっきから何度か声をかけていたみたいだ。怪訝そうに見ている。
 「あ、ごめん。ちょっとボーッとしてた。何?」
 「から揚げ。適当なとこで食おうぜ」
 「そうだね。人混みすごくなってきたからね」

 花火の時間が近づいてお祭りに来る人が増えてきたようで、歩きながら食べるには向かなくなってきた。
 暗いことばかり考えているのも良くないよね、お祭り中なんだし、楽しむことだけに集中しなくちゃ。
 軽く首を振って、八代を見失わないように歩く。
 「少し静かになったね」
 「だな。落ち着いて食えそうだ」
 出店がある通りから少々外れた、コインパーキングの近くで立ち食いする。

 「八代。そういえばさ」
 「ん?」
 「前言ってた通り、幸めっちゃ食べたね」
 「だろ? 初っぱなから焼きそば、たこ焼き、大判焼き……腹膨れそうなモンばっか食ってたよな」
 「それ。そのあとも粉ものどんどん胃に入れてくんだもん。ビビった。男子高校生の八代より食べてたんじゃない?」
 「いやー負けたな。俺より食ってた」
 八代が愉快そうに笑う。
 私も楽しい気分になってきた。
 いろいろと問題はあるかもしれないが、今だけは――。
 この居心地の良い時間を堪能していたい。

 「今年はいつもよりはしゃいでた気がするな、幸」
 「そうなの?」
 「ああ、つーか高校入ってから明るくなったと思うぞ。たぶん若葉のおかげだな」
 「ふふ……だと良いな」
 ふと気になって八代に尋ねる。
 「八代は家でどんな感じなの? 家族と仲良い?」
 「俺、一人暮らしなんだ」
 「え~! 高校生で一人暮らし? 漫画みたいだね!」
 目をキラキラさせながら言うと、「幸だってほぼ一人暮らしみたいなもんだろ」と苦笑いされる。

 「あ、そうだね。幸みたいに、親が遠くに働きに出てる感じなの?」
 「いや、どっちも死んでる」
 「えっ……」
 私の上がっていた口角が硬直する。
 「えっと……ごめん」
 「気にすんなよ。もうとっくに過去のことで、今さら落ち込むとかしねーから」
 八代が、カラッと笑う。

 「俺がまだ小学生の時にさ――リビングで親父がおふくろのことを刺してんのを見たんだ」

 あまりに衝撃的な出来事を、八代は滑らかに語り出す。事実を淡々と報告するような喋り方で、そこに感情は感じられなかった。
 あるいは、そういう口調を意識しているのかもしれない。

 「物音を立てて見つかってな。切りかかろうとする親父をギリギリで避けながら、一緒にいた理人――弟に急いで、『外に出ろ』と叫んだ」
 八代には弟がいるのか。
 「親父は、理人を追おうとした。そうはさせるか、と俺は親父を押さえつけたんだが、腹を刺されて逃げられちまった」
 「えっ! ヤバいじゃん」
 「だが、不審に思った近所の人が通報してくれて、すぐに警察が来たから、事なきを得たんだ。理人にはかすり傷ひとつも、つかなかった」
 「良かった……。大事には至らなかったんだ。いや、お母さんは無事じゃないんだから大惨事だね、ごめん」
 「親父は警察に押さえられる前に、自分の胸に包丁をぶっ刺した。後で調べたら即死だった」
 「捕まるくらいならいっそ――ってことかな。悪夢みたいな出来事だね」

 こんなに最悪な両親の喪い方は、そうそうないだろう。私は、自然と表情が険しくなる。

 「悪い、聞きたくなかったよな。祭りのせいでテンションおかしくなってるみたいだ。こんな話、人にするべきじゃないのに」
 「違うの。ただ衝撃が大きくて……どんな反応すれば良いのかわかんなくて」

 言葉を詰まらせた私に、申し訳なさそうにする八代。私は慌てて弁解した。
 八代は割りきっているのに私がこんな態度を取っていては、気を遣わせてしまう。

 「それからどうしたの?」
 出来るだけ軽い調子で尋ねる。
 「弟と一緒に親戚の家に預けられた。ありがたいことだって分かってても居心地は最悪だったよ。明らかに煙たがってるふうだったからな」
 急に子供二人の面倒を見ることになるのは、辛いと思う。しかしあからさまに嫌そうにするのは残酷だろう。

 「あいつも嫌だと思ってたんだろうな。だから出ていって――」
 八代は言葉の途中で、言うことを躊躇うように口を閉ざした。

 「えっ、出ていって……?」
 「ああ。中学の時に親戚の家を出ていった。何も相談とかはなかった」
 「警察には言ったの?」
 「親戚には、『警察には相談したけど、見つからないみたい』って言われた。けど実際は誰にも言ってないことはわかってた。あいつが出ていったら、生き生きしてたくらいだから」
 「生き生き、って……」
 「しょっちゅう俺たちに文句言ってたからさ。『あの兄弟も一緒に死んでれば良かったのに』なんて陰でこぼしてたんだ。まあ俺は気づいちまったけど」
 「何それ。そんな人間酷すぎでしょ!」
 信じられない人がいたものだ。八代はそんな親戚と長年暮らしていたのか。

 「世話になった手前、あんま悪く言えないけどな」
 「いいや、これは怒るべき!」
 「そんな家だったから俺も中学卒業したら、すぐに働いて一人で暮らしていけるようになりたいって思ったんだ」
 「だから通信制……」
 「ああ。あそこは治安悪いけど家賃がやっすいから助かる」
 八代を尾行した日のことを思い返す。確か歓楽街の近くに住んでいるのだったな。

 「そうだったんだ……」
 言いながら自分でも、月並みで当たり障りのない返答だな、と少し落ち込む。もう少し気の利いた言葉は出ないのか。

 「そんな暗くなんなよ。そりゃ当時はそれなりにしんどかったけど、今は楽しく過ごせてんだから」
 そうだ。ここで私が沈み込んでしまったら、“気にしなくてはいけないこと”になる。
 それは八代の望むことじゃない。

 「今は楽しいんだね、良かった!」
 私は、出来るだけ明るい声で言う。
 「ああ。ただ――」
 八代は、わずかに星が輝く夜空を見上げる。

 「親父のことは今でもすげー憎んでるな」
 「だろうね……迷惑なお父さんだよ」
 「その親父の遺品がさ、今年俺に送られてきたんだよ。親父が働いてた会社からだった。ディスクの引き出しにしまってあったみたいで」
 「そんな長い間気付かれないことある?」
 「ズボラな会社だったんだろうなぁ」
 「遺品って何だったの?」
 「日記だった」
 それを聞いて、少し不思議に思う。

 「日記を会社に置いてるって、ちょっと変わってない? 仕事のことを書いてたの?」
 「いや、仕事のことは少しも書いてなかった」
 「あ、家族に読まれるかもしれないって思ったら、嫌だったのかも?」
 私も日記を身内に読まれるのは、少し恥ずかしい気がする。

 「嫌、か……確かに家族には知られたくないだろうな」
 「どんな感じのことが書かれてたの?」
 私がそう質問した時、八代がどことなく渋るような、難しい顔になった。

 「あ、言いたくないなら大丈夫だから――」
 「いや。……普通にその日起こった出来事とか――愚痴が書いてあった」
 「まぁ日記ってそういうもんか」
 私は書いたことがないけれど。現代にいた時に、SNSで適当に呟いていただけだ。

 「弟は八代に似てるの?」
 「『兄弟、って言われてみれば、似てるような……』みたいな反応だったな、周りは。まあ雰囲気は一ミリも似てないが。理人はキラキラしてて、素直で純粋な奴だったから」
 八代と少し似ているピュア少年――。どんな感じか少し気になる。

 「あっ、そうだ。幸たちとも一緒になって遊んだりしたんじゃない? 幼馴染みなら」
 「ほんのちょっとだけだが、あったよ。公園で数回遊んだきりで、一緒に家に行ったりとかはなかった。女子と遊ぶのが恥ずかしかったんだと思う。会話もあんまりしてなかった覚えがある」
 「そういう時期が来るのが早かったんだろうね~。兄弟仲は良かったの?」
 「悪くはなかったと思ってる。あいつにはどうだったかわからないが、俺にとっては大事な家族だ」
 今でもな、と笑う八代からは、哀愁が漂っていた。

 「いつか弟に会えたらいいなって思う」
 「そのうち訪ねて来るかもよ」
 「だったら嬉しいんだけどな」
 「八代は、絶対いい兄だっただろうから、弟さんもまた会いたいって思ってるはずだよ」

 今は音信不通でも――弟さんもきっと八代のことが好きだったと思う。
 八代は、とっても優しい人だから。
 八代が顔を綻ばせる。

 「ありがとう、若葉。やっぱりお前はいいヤツだ。こんなふうに一緒にいれて本当に幸運だよ」
 「ちょっ……そーいう恥ずかしいこと急に言わないでよ」
 「お前だって飯食いに行った時、同じくらいこっ恥ずかしいこと言っただろうが」

 八代と会えて良かった――。
 感謝の気持ちを込めて、私が放った言葉だ。
 言われる側は、なるほどとてもこそばゆい。モジモジと指先を意味もなく動かしてしまう。

 「照れるだろ? 俺もけっこう落ち着かなかったんだからな」
 仕返しとばかりに意地悪く笑っている。
 「凶悪な顔になったじゃん」
 ちょっと悔しかったので、少し悪態をつく。

 「元からこんな感じだっつーの。どうせ俺はおっかない顔つきしてるよ。初めて幸に会ったとき、泣かれたしな」
 「最初は怖かったって前に話してたな、そういえば」
 「だろうな」
 「けど中身はすごく優しいってことも話してたよ。私も同感」
 「そういえば、友達にも言われたことあるな。見た目で損してるって」
 損してる、か。

 「私はそうは思わないけど」
 「は?」
 「だって格好いいじゃん、強そうで」
 首を傾けて、八代の顔を覗き込む。

 「不細工じゃないし、タイプだって思う女子も結構いそうなんだけどなぁ」
 よく見えるように、ほんの少し顔を近づける。
 「ほら、鼻筋も整ってるし。目も鋭いけど私は好きだよ。好みの問題じゃないかな。てか肌キレイじゃない? うらやま……」
 「おい若葉」
 「え?」
 「そんなに近づかれっとさ、その」
 「あっ! ご、ごめん。思わず」

 夢中になって距離感を忘れていた。慌ててちょっと離れすぎなくらいに距離を取る。
 その大袈裟な動作によって、気まずい空気が訪れてきてしまった。

 「ごめん。人の顔じろじろ見て評価みたいなことしちゃって。何様? って感じだよね。嫌だったよね」
 失礼極まりないことをしてしまった。パーソナルスペースだって、もっとわきまえるべきだったし……。

 「別に嫌ではねぇけど。――若葉なら」
 「……え」
 再び八代に近づいて、今度は適切な距離から彼を見る。
 その瞬間、ドクンと心臓が高鳴る。
 八代の耳が赤く染まっていた。唇を引き結んで悩ましげに眉を寄せている。
 そして私に向き直り、目を合わせてくる。

 「若葉に格好いいって思ってもらえたなら、嬉しいよ」
 熱を持った眼差しから逃れたい。けれどそれと同時に彼のその表情を見逃してはならない――見ていたいという思いが込み上げる。
 彼の視線にさらされていると、自分でも気付いていない本心までも見透かされそうな気がする。
 気付かぬうちに、私の口が勝手に声を絞り出した。

 「それ、どういう……」
 風にさらわれてしまいそうなほど、か細く情けない声量。
 それが聞こえてたのかはわからないが、八代が言う。

 「若葉。お前だから話したいことがある」
 決して私から目をそらさないまま、彼が言葉を紡ぐ。
 「俺――」
 ごくりと唾を飲み込んで、続く言葉を、期待と不安を抱きながら待つ。
 しかし続きを聞くことはできなかった。
 八代の後方に見覚えのある姿が確認でき、思わず出した声で、話を遮ってしまったからだ。

 「えっ、あれって……!」
 「どうしたんだ?」

 八代は、私の視線の先を追い、怪訝そうに目を細める。

 「あれは――もしかして折野か? 暗いのによく分かったな」
 「両目2.0だから」

 私たちから50メートルほど離れた路地に、マミがいたのだ。

 「隣は――恋人か?」
 マミは、成人済みと思われる背の高い男性を一人連れていた。
 会話しているらしく、男性が笑ってそれにマミが頷いている。
 その様子をしばし見つめる。

 やがて男性がマミの手首を掴み、祭り会場とは反対の方向を指差したかと思えば、そちらに向かって歩き始める。
 あっちには確か、誰も入らないような雑草だらけの公園しかないはずなんだけど。
 何故だかわからないけど、ついていくべき、と私の直感が告げる。

 「ごめん。ちょっとこれ持って待ってて」
 「……?」
 から揚げが入っていたプラスチックの容器を八代に渡し、私はあの二人を見失わないようにと小走りで追いかけた。

  
 雑草が高く生い茂っている、遊具も何もない公園の入り口付近で、マミと男性は対面していた。
 少し離れた電柱の陰から、そっと見張る。二人は、何やら言い合っているようだった。

 「頼む! 少しは考えてくれないか! 君の言うことなら、何だって聞く! だから――」
 「そんなこと言われても、困ります。無理なものは無理なんです」

 懇願する男性をマミが突っぱねる。もしかして修羅場?

 「試しに付き合ってみたら、気が変わるかもしれないからさ。お願いだよ、マミちゃん」
 先ほどの真剣な声色とは違って、男性が媚びるような猫なで声を出す。その甘ったれた調子に、言われた本人でもないのに、鳥肌が立った。
 マミは、交際を迫られているらしかった。しかしマミは、しつこく言い寄ってくる彼に対して、いよいよ不愉快を露にしていった。

 「二度と連絡してこないでください。あなたとはもう関わりたくありません」
 「待っ、待ってくれ!」
 相当諦めが悪いようだ。去ろうとする彼女に、なお追いすがっている。
 マミはもう我慢できない、といった様子で叫んだ。

 「しつこいっ! あんたなんてだいっきらい! 話しかけないでよっ!」
 「嫌い……?」

 彼は強いショックを受けたみたいだ。呆然として、ブツブツと何か言っている。
 マミは最後に彼を睨み付けると、身を翻した。
 まずい、こちらに来てしまう。
 私は急いで頭を隠し、気付かれませんように、と祈る。

 しかし、予想していた足音は、聞こえてこなかった。
 恐る恐る顔を出すと、男性が去ろうとするマミの手首を掴んでいた。
 往生際の悪い人だ。

 マミもムッとして、不満げに言う。
 「ちょっと離し――」
 マミの抗議は、鈍い音に遮られた。
 「えっ……」
 思わず小さなうめき声が出る。
 マミがあの男性に頭を殴られて、地面に伏したのだ。

 気絶している。恐ろしい状況に、サッと血の気が引くのを感じた。
 男性は意識を失ったマミを抱え、公園の中へと引きずり込もうとして――。

 「駄目っっ!」
 私が叫んだのは、反射的だった。
 しまった、と思った時には、男性がバッと私を見る。互いの目が合った。
 彼はマミを地べたに捨て置き、尋常ならぬ殺気を纏わせて私に近づいてくる。

 「ひっ……!」
 あの人は理性を失ってる。逃げなくちゃ駄目だ――。
 私は、懸命に足を動かそうとする。しかし反応が遅かったためだろう。間に合わなかった。
 「うわっ!」
 右肩を乱暴に掴まれたかと思えば、後ろに勢いよく倒れた。ドスンと尻餅をつく。
 倒れ込んだ私の上に、男性が馬乗りになり、容赦なく体重を掛ける。息ができない、苦しい。

 「カハッ……! 誰か――助けっ……!?」
 男性が私の首に手を掛ける。殺す気なのか!?
 嫌だ! せっかくタイムリープして助かったのに! また殺されるなんて――。
 幸とまた会えたのに。今度こそやり直せるかもしれないのに。私がここで死んでしまえば、大和さんも樹里亜も助からないのに。
 それに、八代。

 彼のことをもっと知らなければいけないのに。もっと知りたいのに。私にはしなければならないことがたくさんある。それなのに!
 そのために天がくれたチャンスなのに、こんなところで台無しにされるなんて絶対嫌だ!

 必死に手足をじたばたさせる。持てる力の全てを使って、無我夢中で暴れる。
 しかし私を見下ろすそいつは、まったく意に介さない様子で、首に掛ける力を緩めなかった。
 抵抗も虚しく、体から気力が失われていく。視界がチカチカしてきて、眼前の男が二重に見える。意識の限界が近づいてくるのをどうしようもなく感じる。
 嫌だ! 死にたくない! 心の中で絶叫した時、急に締め付けがなくなった。
 馬乗りになっていた男が、何者かに吹っ飛ばされたのだ。耐えがたい苦しみから解放される。

 「げほっ、ごほっ! ハァッ……! ハー、はー……」
 水を得た魚のごとく、空気中の酸素を全力で求める。
 呼吸がままならない私を見て、助けに来てくれた人物が慌てたように叫ぶ。

 「大丈夫か!? しっかりしろ!」
 地面に転がったままの私を抱き起こし、顔を覗き込んできた人物を見て、ギョッとする。
 「や、しろ……何で」
 「喋らなくていい。若葉の様子が何だかおかしかったから、気になってあとから追ってきたんだ」
 八代がチラリと吹っ飛ばした方向を見て、言う。
 「安心しろ、あいつは気絶させたから。もう大丈夫だ」
 言い聞かせるような口調から、助かったという実感が沸いてくる。
 安堵したとたん、ドッと力がぬけた。
 八代が来てくれなかったら死んでいたかもしれない。

 「怖かった……」
 震える身体を両手で抱きしめながら、ぽつりとこぼす。
 その刹那、八代が私の身体を、優しく包み込むように、抱きしめた。あまりの衝撃に震えが止まった。
 驚く私をよそに、八代が言う。
 「よく耐えた。もう大丈夫だからな」

 トン、トンと背中を軽く叩く。それはとてもあたたかく感じられて、私は涙腺が馬鹿になるのを防げない。
 しゃくりあげながら涙をポロポロ流す。八代は慰めるように労うように、私の頭を撫でた。

 夜に人気のない道路。あの日と同じだ。
 八代と初めて会った日。八代に殺された日。
 八代から耐えがたい恐怖と苦痛を与えられた。後悔しながら意識を失っていった。
 けれど今は、その八代に命を救ってもらっている。

 彼の背中に手を回す。顎を彼の肩にのせて、体重を預ける。
 私は、これまでの人生で感じたことがないほどの安らぎを感じていた。
 一度は殺されかけた相手にこんな気持ちを抱くなんて、到底ありえないだろう。夢みたいなことだ。
 けれどしっかり現実なのだった。この心地よい体温も感情も。
 数分ほどおいおい泣いた後、私は警察に通報して、マミに大きな怪我がないか確認した。
 幸い外傷はないようだった。ものの数秒で警察が来てくれて、男性を拘束し、マミを保護してくれた。
 マミはちゃんと目を覚ましたが、何がなんだかわからない状態で、困惑していた。
 私も首を絞められたので、その日は病院に行って検査した。
 八代は説明のために警察署に行った。私とマミも後日行かなければいけない。
 その事を幸にメッセージしたら、大層心配された。
 花火見れなかったなぁ――。
 ぼんやりと考える。幸には申し訳ないことをしたな。
 今度埋め合わせをしよう。


 マミの話ではあの男性とは、友達だったそうだ。
 何ヵ月か前に知り合って、そこから一緒に遊びに行ったりする関係だった。
 マミはただそれだけの関係だと思っていたけれど、男性の方はそうではなく、恋人一歩手前、という認識でいたらしい。
 祭りの日マミは、友達とはぐれて困っているところを、彼に見つかったんだそうだ。
 『信用して着いていったら、無理やり迫られて。すごく怖かった……』
 マミは涙ながらにそう語ったという。
 以上が警察官から聞いた話。
 警察官は、『世間知らずの女の子だったのね……』と切なげな表情を見せた。
 男性は自身の罪を認め、殺人未遂と暴行の罪で逮捕された。
 私は賠償金をもらった。マミももらっただろう。
 私の残りの夏休みは、このゴタゴタに手を焼いているうちに、終わってしまった。


 今日から2学期だ。
 いつものように幸と登校しながら、他愛ない会話を弾ませる。

 「そういえばエリちゃんとはどうなの?」
 興味しんしんに訊いてくる幸に、
 「……特になんとも」
 と素っ気ない返事をする。
 八代とは祭りの日以来会っていない。メッセージのやりとりを少ししただけだ。
 忙しかったというのもあるけれど――。
 一番の理由は理解していた。

 お祭りの日の夜、私に聞いてもらいたいことがある、と八代は言っていた。
 私は、それを聞くのが怖い。
 あの時の八代が醸し出していた雰囲気は、私にとって心地よい関係を壊す不吉なものに感じられた。
 嫌な予感がしたのだ。最後まで聞きたくない、と思った。
 悶々と悩んでいると、幸が沈んだ空気を吹き飛ばすように明るい声を出す。

 「ま、今日から新学期だよ! 元気に頑張ろー!」
 「そうだね。気を取り直して行こう」

 そういえばマミは、八代のことを覚えていなかったらしい。
 警察署で少し話をする機会があったのだが、初めて会うような態度だったようだ。
 八代も、わざわざ言わなくて良いか、と思ったらしい。
 まぁ、ちょっとしかいなかった学校の先輩なんて覚えてるわけないよね。
 私は、そう独りごちた。


 「若葉さん、2組の人が呼んでるよ」
 昼休み。クラスメイトに言われて入り口を見ると、マミが顔を出し、こちらを見て手招きしていた。
 私は、幸に「行ってくる」と告げて、マミへと駆け寄る。
 去り際にチラリと幸に視線を向けると、マミを見つめて表情を固くしていた。


 私は、マミに屋上に連れて行かれた。残暑がきついからか、外で昼食をとる生徒は一人もいない。
 「ごめんねー。食べてるとこだったのに」
 マミがまったく悪いと思ってなさそうに言う。
 「別に。それで用件って?」
 声が冷たくなりすぎないよう意識する。
 「あ、そうそう。ちょっと頼みごとがあるんだけどー」
 マミが笑いながら、クルッと振り返る。

 「お祭りの日さー助けてくれた人いたじゃん?」
 八代のことか。私は「うん」と返す。
 「若葉さんの彼氏なの?」
 「違う」
 「じゃただの友達なんだ?」
 「そうだよ」
 もしかして、マミは。
 「お礼がしたいから紹介してくれないかな?」
 私が予想していたセリフを吐くマミ。
 自然と顔をしかめていたのかもしれない。彼女が胸の前で手を振り言う。

 「ああ、変な意味じゃなくてさ、恩人だし改めて挨拶したいじゃん?」
 マミはすでに警察署で、八代に助けてもらったお礼を言ったらしい。
 「やっぱさ、菓子折りとか必要かなーって」
 確かにあのままじゃマミも殺されていたかもしれないし、礼を尽くしたい気持ちはわかる。であれば、断るのも無粋なので、大人しく頷いた。

 「わかった。訊いてみるよ」
 「ありがと! ねぇその人って名前なんていうの?」
 「八代襟人」
 「襟人さんかー。知的な名前だね!」
 マミは、夢見るような表情で、笑っていた。
 その姿を見て、なんだか胸のあたりがむかむかするような、嫌な感じがした。
 「えっ? 何で若葉さんもいるの?」
 マミがすっとんきょうな声を出す。

 屋上での頼まれ事から、数日後。私は八代を連れて、マミと会った。八代が私を連れて、の方が正しいかもしれない。
 私と八代にとってはお馴染みになったファミレスで、「襟人さんにお礼をしたい」というマミと待ち合わせした。
 マミは、私が来ると思わなかったのだろう、面食らった顔をしている。
 私は、善意しかないような、満面の笑みで返答する。

 「折野さんも初対面の人といきなり二人はキツイかな~と思って」
 「へぇ……。そうだったんだね! 気を使わせて悪いね。そんなに心配してくれなくて全然大丈夫だったのに!」

 “全然”の部分を強調するようにして、マミは快活に言った。
 ニコニコしていながら、“邪魔”という意思をやんわりと伝えている。
 数日前に、屋上でした会話の内容を八代にメッセージで伝えたら、突っぱねるのもなんだかなぁ、と返ってきたので、提案したのだ。
 私も行くよ、と。
 八代とマミを二人にしたくなかった。
 だってマミはおそらく――。

 「この前は本当にありがとうございました! 襟人さん。わたし折野マミって言います!」
 マミが、八代にペコリと頭を下げる。
 「大したことじゃないよ。若葉が異変を感じて、折野さんを追いかけて行ったおかげで気付けたんだ」
 「そっか……若葉さん、ありがとうね!」
 「どういたしまして」

 私たちは店の中に入り、四人掛けの席に座った。
 八代の隣に座り、向かいのマミを注意深く見つめる。
 彼女は機嫌が良さそうだ。可愛らしい笑顔で、瞳に八代を映している。
 屋上の時と同じキラキラした瞳だった。いや、それ以上の輝きかもしれない。

 「これ、つまらない物ですがどうぞ!」
 「ああ、どうも」
 マミが、老舗洋菓子店の袋を八代に渡す。
 「甘い物好きですか?」
 「まぁ、人並みには」
 「良かったです。わたしも好きなんですよ~」
 笑みを深くするマミ。
 それに対して、必要最低限の愛想笑いを浮かべる八代。
 マミは少し身を乗り出して、尋ねてくる。

 「襟人さんはいくつなんですか?」
 「17」
 「ひとつしか違わないんだぁ~。もっと上かと思ってました! 襟人さん大人っぽくて素敵ですから」
 「はは……どうも」

 明らかにアタックしている。マミはやっぱり八代のことが好きらしい。
 友人の私としては、マミみたいな女とは付き合ってほしくない。

 「何頼むか決めようよ」
 そう言って私は、ふたつあるメニューの片方をマミに渡す。
 私は、もう一方のメニューを八代の前に広げて、八代の方へと身体を寄せた。
 ひとつのメニューを二人で見せ合う。
 メニューから顔を上げて、マミを見てみると、さっきまでの笑顔はどこへ行ったのやら、彼女は冷たい表情で私を軽く睨んでいた。
 私は、すぐにメニューへと視線を戻す。何だか、胸がすく思いがした。

 注文を終えたら、またマミが質問を投げてきた。
 「襟人さんと若葉さんは、どれくらいの付き合いなんですか?」
 ごくわずかであるが、空気がピリッとするのがわかった。
 軽い口調でありながら、探るような気配をしかと感じた。
 「6月……だったよな、確か」
 「うん。ちょうど1日に会ったんだよね」
 八代と顔を見合わせて、頷き合う。
 「じゃあ、まだたったの3ヶ月なんですね! 二人が“お友達“になって」
 「うん。けど八代とはすごく仲が良くて、お互いに言いにくいことだって話せるの。ねっ」
 隣に座る八代に、笑いかける。
 「そうだな。若葉にはいつも世話になってる。ありがとうな」

 八代はフ、と優しい笑みを見せた。
 私はこの顔が好きだ。わずかに目を細めて口角を緩く上げる柔らかい表情をもっと引き出したいと思ってしまう。

 「ふぅーん……。良いですね! そういうお友達って」
 一瞬、不満げに眉を動かしたかのように思えたが、すぐに天真爛漫な笑顔を見せるマミ。
 そんな彼女は端から見ると、素直で可愛らしい良い子に思えるだろう。
 好意的に思う男子も、多いはずだ。
 

 「今日はありがとうございました」
 「いや、こちらこそ」
 店から出て、そろそろお開きの時間になったところ――。
 「あの……連絡先交換してください!」
 マミが八代に向かって、頭を下げた。

 予想はしていた。マミの態度からして、こういうことを言ってくるのは、自然だった。
 しかし八代は何かしら理由をつけて、断るだろう。マミが何をしたのか、どういう女なのか知っているのだから。

 案の定八代は、すまなそうに切り出す。
 「悪いんだけど――」
 「わ、わたし!」
 マミが重要なことを打ち明けるかのように、声を張り上げる。
 八代はその気迫に押されたのか、口を閉ざしてしまった。

 「あんなことがあってから、男性が怖くて……前までは平気だったことが、無理になっちゃいました」
 マミは、言葉を詰まらせながら、強く訴えかける。
 「今日、襟人さんに会ってわかったんです。この人なら大丈夫だって……信頼できる人だって」
 八代のことを、希望のこもった眼差しで見上げるマミ。

 「わたしこのままじゃ嫌なんです。変わりたい――前までの自分に戻りたい。だからお願いします!」
 再び頭を下げる。今度は先程より勢い良く。
 「わたしが男性に慣れるためのお手伝いをしてください!」
 私は、目をぱちくりさせる。マミの所業をわかっている私だが――。
 この言葉は真実かもしれない、と思った。

 彼女は本当に困っていて、八代に希望を見出だしているんじゃないか。だからあれほど瞳を輝かせていたのではないか。
 マミは、これから先、男性と恋愛できないかもしれない、と怯えている時に、助けてくれた八代の存在を知らされ、恋に落ちた。その思いに、思いを与えてくれた彼に、すがり付きたくなったのでは――。
 そう考えると彼女への哀れみが生まれた。
 マミは確かに性根が悪いけど、だからといって困っている人を放っておくのは……。

 「もちろん大したことは頼みません。ただ友達みたいな感じで――」
 「わかった。俺にできることなら手伝う」
 八代が、距離を取るための丁寧モードを解いた。
 彼も、私と似たことを考えたのかもしれない。神妙な顔で頷く。

 「ホントですか? ありがとうございます!」
 八代の拳を、マミの両手が包み込む。マミの全身から、喜びが溢れ出していた。
 ――嫌だな。
 私の中に、そんな気持ちが湧く。

 けれど具体的に何がどう嫌なのかつかめない。ひどく直感的で説明のつかない負の感情。
 この感情について、掘り下げるつもりはまったくなかった。不快なことについて考えたくはないからだ。
 だから私は、ただ二人を見ないことに集中した。
 解散になったとたん、八代に尋ねる。
 「良かったの?」
 「あんなこと言われたら断れないだろ」
 「それはそうだね……」
 「真っ赤な嘘だって可能性もあるが――本当だった場合、ほっとけねぇし」
 まあ、八代はそういう性分だよなぁ。
 「若葉ならこうするとも思ったし」
 「え? 私?」
 「ああ。若葉の他人のために迷いなくすぐ動けるところ、尊敬してるし見習いたいって思ってる」
 「そんなすごいことしたっけ? いつだったか全然思い出せないんだけど」

 私は、そんなに献身的な人間ではないと思う。悪人じゃない自負はあるが、八代は美化しすぎじゃないか。

 「祭りの日だって止めに入ったから、危険な目にあったんだし」
 「止めたっていうか……思わず声が出ちゃっただけだし」
 「そもそも折野を心配したから、後を追ったんだろ?」
 「それはそうだけど」
 「他にもさ、幸のこともすごく親身になってくれてるし。誰にでもできることじゃねーよ」
 「そう……かな」
 「まあ、危なっかしくもあるけどな。後先考えずに飛び出していきそうな感じで」
 「うっ、確かに脳直っていうか、冷静になれない性格ではあるなぁ……」
 「若葉のそういうひたむきなところは好きだけど、折野の件みたいに一人で突っ走るのはやめてくれ。肝が冷えるから」
 「う、うん。心配してくれてありがとう」

 なんだか聞き捨てならないことを言われたような……“も“ってどういうことなの。
 いや、それより。ちゃんと八代に言わなきゃいけないことがある。

 「あの、八代!」
 「ん?」
 「あの日助けに来てくれてありがとう。来てくれなかったら、私はきっと死んでたと思う」
 あと、ともうひとつ大切なことを伝える。

 「あの時、抱きしめてもらえて、すごく安心した。もう大丈夫なんだって思えて。八代だって私を助けるために、あの男性に立ち向かってくれたでしょ? 八代こそすごいよ」

 私の感謝の気持ちは、こんな月並みの言葉では表せないけれど、なんとか届いてくれ、と念じる。

 「本当にありがとう。八代は命の恩人だよ」
 現代のあなたには、殺されかけたけれど。本当に不思議な巡り合わせだ、と改めて思う。
 あの八代襟人に、こんな温かい気持ちを抱くなんて。今でもちょっと信じられない。

 八代は照れくさそうに、頭を掻きながら言う。
 「どーいたしまして。ま、これからもよろしくな」
 帰宅後。ベッドに仰向けに寝転がり、天井をじっと見つめる。

 『若葉のそういうひたむきなところも好きだけど――』
 「あー、もう!」
 何だって私は、頭の中でずっと同じ場面を、同じ台詞を再放送しているんだろう。

 いや、理由はわかっている。
 彼に好意を伝えられたことが、すごく嬉しかったんだ。
 これまでの人生で、あそこまではっきりと好きなんて、言われたことがなかったから。

 一度でも恋人がいたなら、違ったのかもしれないが、私は生涯誰とも交際しないと心に決めている。
 恋愛なんてろくなものではない。

 私がこのような考えを持つようになった理由は、主に両親の影響だ。
 両親の仲は、私が幼稚園に上がる頃には、冷めきっていた。家族揃って出掛けた記憶も、4歳以降のものはない。
 父なんてとっかえひっかえしてる愛人を、悪びれなく家に連れてきている。それは私が幼い頃から就職して家を出ていくまでの間、ずっと続いていた。
 だから私の実家は、知らない女の匂いが漂っている。
 家族の誰もそれを指摘することはなかった。母は外で彼氏を作って、ほとんど家を開けていたし、私も尋ねてはいけないことだと感じ取っていた。

 6歳になる頃には、両親との会話を試みるのをやめた。
 小学生になると、事務的に私の部屋の机にお金が入った茶封筒が置かれていた。茶封筒には、
 『三日分』
 とボールペンで殴り書きされており、それから私が料理を覚えるまでは、気付かない内に置かれていたお金で、コンビニやスーパーの食品を自分で買いに行っていた。

 私が何をしてもどう頑張っても、もうあの人たちは愛してくれないことが、わかってしまった。
 そんな環境で育った私は、好意に免疫がないのだろう。八代の発言が、尾を引いてるのは、そのせいだ。
 ただそれだけ。きっと他の人に言われても同じふうに心を動かされて、頭から離れなくなってしまうはずだ。
 変なことに悩んでいないで、もっと実のあることを考えなくては。

 この3ヶ月の間に起こった出来事を思い出しながら、問題を整理していく。
 幸の家に来た不審者。マミが幸におかしなことをしないか。樹里亜と大和さんが八代と接触しないか。幸の転落事故。
 悩みの種が、こんなにもある。気を緩めてる場合じゃない。
 不審者のことは動きがない限り、どうにも出来ないけど、マミのことと樹里亜、大和さんと八代の接触を防ぐことは出来る。
 転落事故も今の時期は、まだ気にしなくてもいい。
 八代との接触を防ぐ――か。

 マミと八代の仲が深まれば、樹里亜と大和さんに会う確率も上がってきやしないだろうか。
 幸の家に、急に来たときのマミを思い出してみて、そう思い至る。
 あの様子だと、もう何度も一緒に過ごしているみたいだったし。
 じゃあ八代とマミが親しくなりすぎるのは、あまり良くない。
 八代とマミを、よく見ておかないと。

 携帯を取り出して、八代にメッセージを送る。
 『今度からマミと会うとき、私も着いてっていい?』
 『いいけど何でだ?』
 『マミの男性が怖いって話が本当なら、私もいた方がハードル低いかな、と思って。八代もマミと二人は嫌なんじゃない?』
 『なるほど。確かに俺も若葉がいてくれるなら、ありがたい』

 マミは――どんなメールを八代に送るのだろう。
 八代はそれに、どんな返信をするのだろう。
 胸がチリチリと焦がされていくような、妙な不快感が訪れる。
 まただ。今日ファミレスで感じたものが、再び気分を落としていく。
 この不快感の正体はわからないけれど、とにかく早く良くなってほしいものだ。