それからどうやって帰ったのか、よく覚えていない。

 ふらふらとした足取りで、浮遊霊のように家路についた記憶はあるが、診察室を出たあと、八代とどんな会話をしたのかは、思い出せなかった。あるいは、お互い何も交わさずに、それぞれの自宅を自然と目指していたのかもしれない。

 気づいた時には、自室のカーペットの上で、うずくまっていた。

 硬い床の感触も、部屋の埃っぽさも、今はまったく気にならなかった。
 正座したまま、上半身だけを前に倒す。

 幸が死ぬ。80パーセントの確率で。

 運を天に任せるしかない――医師は、そう言っていた。
 天の神様。どうして私だけを、目覚めさせたんですか。どうか幸にも、幸運を与えてください。

 土下座のような姿勢も相まって、今の私の状態は、ひれ伏して乞いているかのようだった。

 幸が転落した日、最後に見たものを思い出す。
 彼女のつむじが、眼前に迫ってきて――その瞬間、私の脳裏を走馬灯が駆け巡った。

 その感じには、覚えがあった。だからこそ、「あ、死んだな」と、どこかで悟ったように思っていた。
 しかし、私は助かった。“運が良かった”ということだ。

 なんで――なんで私だけが助かってしまったんだろう。
 どうして私だけ、無事なんだろう。幸は今も生死の境を彷徨っているのに。

 「あ……!」

 鬱々とした気持ちの中、恐ろしい可能性に気づく。
 あの時――。
 確か、頭同士がぶつかったのではなかったか。ゴッという大きな音を、意識を失う直前に聞いた気がする。

 あれが原因で、脳にダメージがいってしまったのではないか。頭を打ち付けなければ、幸は今ごろ元気に笑っていたのではないか――。

 全身の血が冷たくなる。
 私のせい?
 私が落ちてくる幸を、ちゃんと受け止められなかったから。それどころか、急所を傷つけることになったから。
 私のせいで、こんなことに――。

 ふいに近くで、獣の唸りに似た声がした。
 何だろう。
 その醜い叫びが、私から出ていることに気づいたのは、数秒経ってからだった。

 理解したとたん、涙がボタボタとこぼれ落ちる。
 握りしめた拳で、床を殴る。当たり散らすように、何度も何度も。

 そのうちに、喉がかすれて大声は出せなくなった。しかし、ひっきりなしにやってくる嗚咽は、止められない。
 涙が、カーペットをグショグショに濡らしていく。汚ならしいと思うのに、目元を拭うことすら、今の私には困難だった。

 目の前が、チカチカと点滅し出す。
 息が苦しい。酸素が足りない。
 助けて。誰か私を、助けてほしい。

 そんな切実な思いが届いたのか、携帯が鳴り出した。
 手近にあったそれを、すがるように手にする。
 誰からの着信かも確かめないまま、通話ボタンを押す。

 「悪い。さっき別れたばっかだけど、今から会えないか?」

 八代の声が、耳元で聞こえる。
 さっきまでとは違う涙が、じわりと浮かんだ。

 「八代……」
 「なんだ? いや、なんか声おかしくないか? 大丈夫か、若葉?」

 心配そうな声で、訊ねてくる。私はそれに頼るように、言葉を絞り出した。

 「助けて……」
 「は? おい、マジで大丈夫か!?」

 焦ったように、八代の声量が大きくなる。

 「今、部屋にいるんだよな?」
 「うん……」
 「じゃあ、窓の外見てくれ」

 しびれた足を引きずりながら、窓に歩み寄る。
 カーテンを全開にする。
 地上を見遣り、目を剥いた。
 そこには、携帯電話を耳元に当てた八代がいた。
 彼は悲痛な顔をして、こちらを見上げていた。

 「そっちに行っていいか?」

 耳元で、彼の声がする。
 下にいる彼と目を合わせた状態で、コクリと頷く。
 それから玄関を開ける音がして、部屋の前で足音が止まった。
 遠慮がちなノックが聞こえてくる。

 「大丈夫」

 私がそれだけ呟くと、ドアから八代が顔を出した。

 「若葉……」

 苦しげに私を呼ぶ声に、何か反応を返そうと試みたけれど、唇がまったく動かず、ただ黙って見つめることしかできない。
 八代が、立ち尽くした状態の私に、近づいてくる。
 そして、私の肩に手を置いて、目を合わせてきた。

 「大丈夫、大丈夫だから」

 八代はそう言って、私を腕の中に閉じ込めた。
 与えられた温もりで、一気に力が抜ける。膝が笑い始め、彼の方へと重心が傾いていく。
 八代は、私の体重を支えるようにして、ゆっくりと座る。

 優しい手つきで、背中を撫でられていると、魔法にかかったように気持ちが安らいでいった。
 彼の膝の上に乗り上げて、首元に顔をうずめる。子どもみたいだ、と思ったけれど、それが一番落ち着く体勢だった。
 恥ずかしい、と感じる余裕はなかった。