殺害事件はもう起こらない。
私は、繋いでいた手をそっとほどいた。
胸を撫で下ろす。達成感と安堵で、どっと力が抜けた。
「良かった……」
自然とそんな言葉が洩れる。
しかし、手放しで喜んでもいられないことも、わかっていた。
幸の死を防ぐ。
タイムリープした時から掲げていた、私の絶対的目標。このままでは、成し遂げられなくなってしまう。
ぞわりと鳥肌が立つ。
幸が死ぬ未来を変えられない。もう二度と幸と会えない。
考えるだけで、恐怖で身がすくむ。
八代は、私の雰囲気が一変したことを察したらしく、「幸のことか」と訊ねる。
「……どうしよう。幸が永遠に目覚めなかったら。また死んじゃったら……」
声が震えるのを、抑えきれない。口に出したことで、想像してしまったのだ。幸の遺体を見下ろす自分を。
嫌だ。あんな思いをするのは、もうごめんだ。
「とにかく幸を信じよう。俺たちにはそれしかできないんだから」
「うん……」
そう返事しながらも、心は晴れなかった。
「ごめん、八代。自分から告白しておいてなんだけど……ちょっと今はそういうこと考えるの難しいから、付き合ったりとかは、まだ先にさせてくれないかな」
「ああ」
「あ、でも私のことがやっぱり好きじゃないって言うなら、今断ってくれて、全然いいから――」
「断らねぇよ」
八代が遮るように断言する。
その反応に驚き、訊ねる。
「幻滅しなかったの?」
「幻滅? 何でだよ」
八代は、心底不思議そうに聞き返す。
「だって……私が一家心中を考えてたの聞いて、失望しなかったのかな、って。罪深い人間だと思わなかった?」
八代が親父さんに殺意を持ったのは、親父さんが、家族を苦しめ、殺したからだ。
最初から最後まで、自分が傷ついたことしか考えてなかった私とは、大違いだ。
だから八代の話を聞いた時、『そんなに自罰的にならなくていいのに』という思いで一杯だった。
彼が自身を悪人だと思うなら、私のことはどう思うだろう。こんな自分本意な私を。
きっと、ろくでもない人間だと感じるだろう。恋する気持ちも、消え失せているのではないか。
そんな恐れを感じていたのだけれど――。
「だって若葉は、まだ小さな子どもだったろ。子どもにとっては、親に愛されることが一番大事なことなのに、見向きもしてくれなかったら、追い込まれて最悪な発想が出るのは、自然なことだ。子どもってただでさえ、視野が狭いもんだしな」
本当にまったく気にしていないように、八代は言う。
「むしろ、幼少期からそんなクソみたいな環境で過ごしてきたのに、よく性根が歪まなかったな、と感心してるくらいだ。失望なんかしねぇよ。俺は若葉のことが、大好きなままだ。安心してくれ」
そう言って、何かに気づいたように、ほんの少しだけ、楽しそうな表情を見せる。
「さっきの俺と同じだな。過去の話をして、嫌われたんじゃないかと思ってたら、意に反して、好きだ、って言葉が返ってきて」
確かにそうだ、と感じ、彼と思いがシンクロしたことが、とても嬉しくなった。
これが両思い。なんて暖かく、得難い奇跡なのだろう。こんな幸福がこの世にあるなんて。
現代の八代に、感謝しなければならない。
あの日、彼が私を刺さなければ、一生この幸せを理解できないまま、灰色の日々を送っていたかもしれないのだから。
彼と引き合わせてくれた様々な偶然に、私は心の内で深く感謝した。
街は活動を始め、誰かの話し声がちらほら聞こえてきた。
いつの間にか、時間が経っていたようだ。
私たちの背後にあるもうひとつの入り口から、朝の運動に来たと思える若い女性が、入ってきた。
この公園にも、そろそろ人が訪れてくる頃合いみたいだ。
私は、八代に訊ねる。
「この後は、何か予定あるの?」
「特にない。若葉は、学校に行くんなら、十分間に合う時間だと思うぞ」
「ううん。行く気にもなれないし、今日は元々休むつもりだったから、いいよ」
「そうか」
お互いに、何となく解散したくなかった。かといって、このままベンチに座り続けているわけにもいかないので、提案する。
「今から、幸のところ行かない? 一緒に」
「そうするか。何か変化や進展はなかったのかも、ついでに訊きに行こうぜ」
進展――。あると良いのだけど。そもそも忙しい中で、幸の容態について聞ける時間を、取ってもらえるかどうか。
あんまり期待は出来なかったけれど、幸の顔は見たかったので、病院に向かって歩き出した。
病室で、予想していなかった人物と出会った。
いや、彼らがここに来るのは、よく考えなくても、わかることだった。
娘が重体ならば、両親が駆けつけるのは、当然だろう。海外にいることなんて、お構いなしに、飛んでくるはずだ。
「あれ、襟人君? 隣の方は――幸のお友達でしょうか。来てくださって、ありがとうございます。娘も喜ぶと思います」
幸の両親は、パイプ椅子から立ち上がって、お辞儀をする。こちらも慌てて頭を下げた。
ドアを開けたら、見知らぬ人がいて、きょとんとしてしまったが、気を取り直して名乗る。
「幸さんと同級生の、若葉悠という者です。初めまして」
「お久しぶりです」
八代もそう言って、頭を下げる。幼馴染みというからには、幸の両親とも顔見知りだったらしい。
「二人ともお見舞いに来てくれたのね。ありがとう」
幸に似た綺麗な女性が、微笑む。彼女の目元には、涙の痕が残っていて、もしかして邪魔してしまったのでは、と申し訳なく思った。
「襟人君は、ずいぶん昔に会ったきりだね。あんまり変わってなかったから、すぐにわかったよ。あ、もちろん良い意味でだよ」
「ありがとうございます」
病室内に、和やかな雰囲気が流れる。
しかし、それは一瞬のことだった。
笑みを引っ込めた幸の両親が、何かを確かめるように、顔を見合わせたかと思えば、床に正座したのだ。
そして、床に手をつけて頭を下げた。
「若葉悠さん。この度は本当に申し訳ありませんでした!」
「えっ……あの、どうされたんですか? と、とりあえず頭を上げてください。お願いします」
突然土下座されたことに戸惑い、ワタワタと胸の前で手を振ると、思い切り眉を下げた二つの顔が、私を見上げた。
「あなたが、落ちてきた幸と衝突して、意識不明になった方ですよね? 本当に……本当に申し訳ありません!」
そう言ってまた、床に額を擦り付ける。
「い、いえ! 今はすこぶる元気なので! 幸い外傷もなかったですし、頭を上げてください。お願いです」
必死に懇願する。これじゃ私の方が何か仕出かしたみたいだ。
「――ありがとうございます。その優しさに、心から感謝いたします」
ようやっと立ち上がってくれた。ホッとして胸を撫で下ろす。
「お二人は、いつ帰国したんですか?」
八代が訊ねる。私も気になっていたことだった。
正直、八代はとっくに幸の両親に会っているものと思っていた。転落事件の日から、八代は大体病院にいたみたいだし、私に言わなかっただけで、顔を合わせていたのだろう、と。
「確か4、5日くらい前だったかな? 本当はもっと早く来たかったんだけど、どうしても僕たちがいなければ成り立たない仕事があってね……」
幸の父が、恥ずかしそうに頭を掻く。仕事を優先した自分が、後ろめたいのだろう。
「僕たちが、ってことは、ご夫婦で一緒に仕事をされているんですか?」
「はい。公私共にパートナーなんです」
八代の時とは違い、かしこまった口調で、幸の父が答える。
「仕事を片付けて、いざ帰国したら――っ……!」
幸の母が、声を詰まらせた。身を縮ませて、顔を両手で覆う彼女の肩を、幸の父がそっと包み込む。
「どうしましょう……! 幸まで死んでしまったらっ……!」
指の間から洩らすその言葉を聞いて、胸に痛みが走る。
そうだ。彼らは、樹里亜を――大切な長女を亡くした直後なのだ。
「これは天罰なのかしら……子供達を放って、仕事ばかりしてきた私たちへの――」
「違う。樹里亜があんなことになったのは、事故のせいだよ。それ以上でもそれ以下でもない」
涙声になっていく妻を、優しく強い口調でなだめる夫。
私と八代は、そっと病室を出ていった。
「ご両親も可哀想だよね……こんな不幸な出来事が立て続けに起きて――辛くて見てられなかった」
私たちは、外のベンチに移動していた。
人が少ない場所を求めていたら、ここに辿り着いていたのだ。
「ああ、本当に……気の毒なことだよ」
他人事みたいな台詞だけれど、私と八代ももちろん気が気でなかった。
このまま永遠に目覚めなかったら――むしろ容態が悪化して、救済の道が閉ざされたら。
幸が、死んでしまったら。
「大丈夫。大丈夫。大丈夫……」
半ば自分に言い聞かせるように、繰り返す。しかし、口にしたその励ましに、言霊が宿っているとは、思えなかった。
それからしばらく経ってから、再び院内に戻る。
しかし、行き先は病室ではなく、窓口だ。
『薄井幸さんの容態について、詳しく教えてほしい』と伝えたら、少し待っていてほしい、とのことだった。
やはり医師というのは多忙なようで、大人しく待つことにする。
大きめの病院だ。それなりに混んでいるし、呼ばれるのは何時になるのやら――。
けれどもこのまま帰る気にもなれないし、何も収穫が得られなかったとしても、幸のために出来る限りの行動をしたかった。
辛抱強く椅子に座って待つ私の目の前を、同い年くらいの女子が通る。それがきっかけとなり、そういえば――と思い、隣の八代に話しかける。
「マミは退院したのかな」
「ああ。無事に回復したそうだ。俺のとこにメッセージが来た。若葉のところには、来なかったのか?」
「うん。来てない」
ベッドで泣いていた彼女を思い出す。
あれからどうなったのだろう。マミの心境に変化はあったのだろうか。
「マミは回復の報せ以外に、何か言ってた?」
八代は、そう訊かれることを待っていたように、滑らかに語りだした。
「『今まで色々騙していて、本当にすみませんでした。もう連絡はしてこないので、返信はしなくて大丈夫です』だってさ。多分連絡先も消されてるな」
マミは、これ以上八代を追うのを辞めたようだ。
「そっか……反省したってことかな」
「多分な。自分のこれまでの行いが、どれほど罪深いものか、わかってくれたら良いんだが」
「そうだね……けど大丈夫なんじゃないかな。マミはきっと、変わったはずだよ」
彼女に話を聞きにいった日の去り際について思い返すと、多少なりとも改心したのではないかと感じる。
そうであれば、けっこうなことだ。
良い報せのおかげで、少し気分が晴れてきた時、看護師が歩み寄ってきた。
「お待たせしました。準備が整いましたので、診察室にどうぞ」
「こんなにすぐ呼ばれるなんて、思ってませんでした」
驚きのあまり、つい口に出してしまう。
医師は、椅子ごとこちらを向いて、言う。
「八代さんが、ほとんど付きっきりになっていたことは、院内で有名でしたので。緊急性のない患者さんは、後回しにさせていただいたんです」
「そこまでしてくださったとは……本当にありがとうございます」
二人で頭を下げる。
「あと、若葉さんの経過も知りたかったんです。どうですか? お変わりないでしょうか」
「はい、大丈夫です。入院中は、お世話になりました」
「いえいえ。これが仕事ですから」
そう言って、安心させるような笑みを見せた。
「それで……幸はどうなんですか? あれから進展とかありましたか?」
八代が質問すると、医師の顔に陰が差した。
不吉な予感がして、身構える。
「薄井幸さん、なんですが……実はあんまりよろしくなくて――」
「詳しく教えてください」
身を乗り出して、医師の顔を食い入るように見つめる。
医師は、まだ歯切れ悪そうに、喋り出す。
「その……明け方ごろ、本当に少しの間だったんですが……心臓が停止しましてね……迅速に対処したので、今は問題ないのですけれど……」
「心臓が……どうして? もう大丈夫なんですよね!?」
思わず立ち上がってしまった私に、医師がなだめるように、着席を促すハンドサインをする。私はほぼ反射的に、再び腰を下ろす。
「落ち着いて聞いてください。――薄井さんは、このままでは、脳死する可能性が高いです」
頭を思いっきり殴られたような衝撃が、降りかかる。
目の前が真っ暗になり、全身に力が入らない。自分が診察室にいるという実感が、急速に薄れていく。
「……い、おい、若葉!」
揺さぶられて、ハッとする。
前のめりに倒れそうな私を、八代が支えてくれていた。
「あ……ごめん。ちょっと飛んでた」
「若葉さん、大丈夫ですか? もし辛いようなら、席を外しても――」
「いいえ。全部聞きます。中断させてしまって、すみません」
心配する医師に、きっぱり伝える。
正直続きを聞くのが、怖くてたまらないけれど――ここで聞かなければ、絶対に後悔する。
それに、八代を一人にするわけにはいかない。私が事実から目を背けていては、駄目だ。
八代にだけ、辛い現実と直面させるのは、駄目だ。
隣にある手を掴む。彼の手も震えていた。そのことに少し勇気付けられる。
「ごめん。ちょっと掴ませてて」
「ああ……」
力なく返事する八代の顔色は、青白かった。私もきっと似たようなものだろう。
不安そうにする医師に、「続けてください」と告げる。
「では、話を進めさせていただきます。お二人は、脳死と植物状態の違いはわかりますか?」
「はい。植物状態なら、意識を取り戻す可能性がありますが、脳死は完全な“死”――絶対に助からない状態のことですよね?」
「はい、そうです」
沈痛な面持ちで、医師が頷く。
脳死になったら、全て終わりだ。今まで信じていた可能性が断たれる。
恐怖が、足先から這い上がってくる。
「脳死する可能性が高い、って――具体的に何パーセントくらいの確率なんでしょうか」
恐る恐る訊ねると、繋いでいた八代の手に力が入った。
彼も私と同じくらい、緊張しているのだろう。
彼の手を、強く握り返す。恐怖を分け合うように。
医師が重い口を開き、返答を吐き出す。
「80パーセント前後になります」
「は――」
開いた口から、か細い声が洩れる。喉が固まったみたいになって、上手く発声できない。
「80パーセントって――めちゃくちゃ高いじゃねぇか!」
八代の叫び声が、三人しかいない静かな診察室に響く。
目の前の医師のことを、完全に忘れてしまっている。
さすがの八代も、冷静さを欠いたみたいだ。それもそうだ。
可能性が高い、と言われても、どこかでそこまででもないのではないか、という期待があったのだ。
医療の世界ならば、50パーセント未満でも、高確率と呼ぶのでは――なんてことを、どこかで思っていたのだ。
「もちろん、脳死にならない可能性だって、十分ありますよ」
だから落ち着いてください、と言うように、医師が付け足す。
「こちらも、全身全霊で対応しています。しかし――すでに手は尽くしました。そうなると、運を天に任せるしかない、ということに……」
無念そうに顔を歪ませる医師を見て、本当なのだ、と実感がわいてくる。
幸とは、もう会えないかもしれないんだ。
私はまた、親友を失うのか――。
それからどうやって帰ったのか、よく覚えていない。
ふらふらとした足取りで、浮遊霊のように家路についた記憶はあるが、診察室を出たあと、八代とどんな会話をしたのかは、思い出せなかった。あるいは、お互い何も交わさずに、それぞれの自宅を自然と目指していたのかもしれない。
気づいた時には、自室のカーペットの上で、うずくまっていた。
硬い床の感触も、部屋の埃っぽさも、今はまったく気にならなかった。
正座したまま、上半身だけを前に倒す。
幸が死ぬ。80パーセントの確率で。
運を天に任せるしかない――医師は、そう言っていた。
天の神様。どうして私だけを、目覚めさせたんですか。どうか幸にも、幸運を与えてください。
土下座のような姿勢も相まって、今の私の状態は、ひれ伏して乞いているかのようだった。
幸が転落した日、最後に見たものを思い出す。
彼女のつむじが、眼前に迫ってきて――その瞬間、私の脳裏を走馬灯が駆け巡った。
その感じには、覚えがあった。だからこそ、「あ、死んだな」と、どこかで悟ったように思っていた。
しかし、私は助かった。“運が良かった”ということだ。
なんで――なんで私だけが助かってしまったんだろう。
どうして私だけ、無事なんだろう。幸は今も生死の境を彷徨っているのに。
「あ……!」
鬱々とした気持ちの中、恐ろしい可能性に気づく。
あの時――。
確か、頭同士がぶつかったのではなかったか。ゴッという大きな音を、意識を失う直前に聞いた気がする。
あれが原因で、脳にダメージがいってしまったのではないか。頭を打ち付けなければ、幸は今ごろ元気に笑っていたのではないか――。
全身の血が冷たくなる。
私のせい?
私が落ちてくる幸を、ちゃんと受け止められなかったから。それどころか、急所を傷つけることになったから。
私のせいで、こんなことに――。
ふいに近くで、獣の唸りに似た声がした。
何だろう。
その醜い叫びが、私から出ていることに気づいたのは、数秒経ってからだった。
理解したとたん、涙がボタボタとこぼれ落ちる。
握りしめた拳で、床を殴る。当たり散らすように、何度も何度も。
そのうちに、喉がかすれて大声は出せなくなった。しかし、ひっきりなしにやってくる嗚咽は、止められない。
涙が、カーペットをグショグショに濡らしていく。汚ならしいと思うのに、目元を拭うことすら、今の私には困難だった。
目の前が、チカチカと点滅し出す。
息が苦しい。酸素が足りない。
助けて。誰か私を、助けてほしい。
そんな切実な思いが届いたのか、携帯が鳴り出した。
手近にあったそれを、すがるように手にする。
誰からの着信かも確かめないまま、通話ボタンを押す。
「悪い。さっき別れたばっかだけど、今から会えないか?」
八代の声が、耳元で聞こえる。
さっきまでとは違う涙が、じわりと浮かんだ。
「八代……」
「なんだ? いや、なんか声おかしくないか? 大丈夫か、若葉?」
心配そうな声で、訊ねてくる。私はそれに頼るように、言葉を絞り出した。
「助けて……」
「は? おい、マジで大丈夫か!?」
焦ったように、八代の声量が大きくなる。
「今、部屋にいるんだよな?」
「うん……」
「じゃあ、窓の外見てくれ」
しびれた足を引きずりながら、窓に歩み寄る。
カーテンを全開にする。
地上を見遣り、目を剥いた。
そこには、携帯電話を耳元に当てた八代がいた。
彼は悲痛な顔をして、こちらを見上げていた。
「そっちに行っていいか?」
耳元で、彼の声がする。
下にいる彼と目を合わせた状態で、コクリと頷く。
それから玄関を開ける音がして、部屋の前で足音が止まった。
遠慮がちなノックが聞こえてくる。
「大丈夫」
私がそれだけ呟くと、ドアから八代が顔を出した。
「若葉……」
苦しげに私を呼ぶ声に、何か反応を返そうと試みたけれど、唇がまったく動かず、ただ黙って見つめることしかできない。
八代が、立ち尽くした状態の私に、近づいてくる。
そして、私の肩に手を置いて、目を合わせてきた。
「大丈夫、大丈夫だから」
八代はそう言って、私を腕の中に閉じ込めた。
与えられた温もりで、一気に力が抜ける。膝が笑い始め、彼の方へと重心が傾いていく。
八代は、私の体重を支えるようにして、ゆっくりと座る。
優しい手つきで、背中を撫でられていると、魔法にかかったように気持ちが安らいでいった。
彼の膝の上に乗り上げて、首元に顔をうずめる。子どもみたいだ、と思ったけれど、それが一番落ち着く体勢だった。
恥ずかしい、と感じる余裕はなかった。
「ありがとう……大丈夫になってきた」
「それは、良かった」
しばらく泣き続けた後、落ち着いてきた私は、八代から身体を離した。
遅れてやってきた羞恥心が、頬を赤く染める。もじもじと指を弄びながら、詫びる。
「ごめんね。見苦しいものをお見せして……」
「気にすんな。俺の方こそ、勝手に抱きしめたりして、悪かった」
正座した状態で頭を下げてくる彼に、慌てて首を振る。
「八代が申し訳なく思う必要は、全然ないよ。八代になら、ああいうことされても、まったく嫌じゃないし。それどころか――」
余計なことまで口走りそうになり、言葉を飲み込む。
「とにかく。別に気にしなくていいから。嫌だったら、ちゃんと拒否するし」
視線を微妙に反らして、伝える。八代は、安心したように「おう」と頷いた。
「ていうか――どうして会いに来たの? まさか近くにいるなんて思わなかったから、すごいびっくりしたんだけど」
「それは――」
彼がどこか気まずそうにしながら話す。
「家に帰る途中で、ちょっと……若葉にそばにいてほしくなってきて――医師から聞いた話は、ショックが大きすぎたからな……一人で悩むのは、しんどすぎる気がしたんだ」
確かに、二人で一緒に悲しんだ方が、苦痛は和らぐのではないかと思う。八代が来てくれたおかげで、私はだいぶ楽になった。
「一人じゃ耐えられそうになくてな……どんどん鬱々としていく渦中で、若葉に会いたい、と思ったんだ」
そう言って、恥ずかしそうに頬を掻く。
自身のことを、女々しい奴だ、と思っているのかもしれない。
しかし、彼がそんなふうに弱っている姿を私に見せてくれるのは、とても嬉しいことだった。
心を開いてくれている、という実感が湧いてきて、胸の内が温かいもので満たされる。
「私も。――私も、八代を求めてた。ついさっきまで、すごく苦しかったけど、八代の声を聞いた瞬間、安心感に包まれて……会いに来てくれて、ありがとう。本当に、本当にありがとう」
どれだけ言葉を尽くしても、足りないような気がする。目頭が熱くなるのが、わかった。
繰り返される感謝の言葉を受けた八代は、私の一番好きな表情を見せた。
「そうか。若葉も同じ気持ちだったんだな。――好きな奴と同じ感情を共有できるのって、こんなに幸せなことなんだな」
噛み締めるように、八代はそう言った。
「ねえ、八代。……今日泊まっていってくれないかな?」
「え?」
「瀕死のマミに遭遇した日――病院から帰ってきたら、いつも通りの家が、すごく怖く感じたの。しんとした空間に一人ぼっちでいると、何かが襲ってきそうな感じがして……震えながら夜を過ごした。今日もそんなふうになりそうな気がして……一人になりたくない」
話しながら、鳥肌が立ってきた。あんな夜は、もう体験したくない。
「それは……」
八代が、言葉を詰まらせる。それから、「いやぁ……」と小さく唸った。
煮え切らない彼を、少々不思議に思う。
なんとなく、八代なら二つ返事で了承してくれるのではないか、と思っていたから。
私が八代の部屋に泊まったこともあるのだし。まあ、あの時はしょうがなかったのだけれど……。
それに、幸もいたとはいえ、八代は私の家にも一度泊まったことがある、と考えたら、この要望にも、難色を示さないのでは――と考えていた。
「親なら今日は帰って来ないから、心配いらないよ」
両親の帰宅を危惧しているのかも、と思って、安心させるように告げたのだけれど――八代はさらに、困った顔をする。
「親が帰って来ない方が、問題っつーか……というか若葉は、平気なのかよ」
「平気? 何が?」
「そりゃあ、その……男と一晩中二人きりでも、大丈夫なのか、ってことだよ。そっちの方が、一人でいるよりも、よっぽど怖いんじゃないか?」
「もちろん他の人だったら、ありえないけど……私は八代を信用してるから、全然気にしない」
曇りなき眼で、一刀両断する。
「ていうか二人きりで一晩過ごしたことなんて、前にもあったじゃない。今回だって、問題なんて起こらないんじゃ――」
「俺んちに泊まった時とは、もう何もかも違うだろ」
私の抗議に被せるようにして、八代が言う。
「あの時の俺と若葉は、ただの友達でしかなかった。まあ、片想いはしてたんだが。でも今は――互いに異性としての好意を確認した状態だろ」
ようやく八代の言いたいことが、わかった。
「そんな状態の私たちが、一晩中一緒にいるのは、危険だってこと?」
「そうだよ。正直……若葉がウチに泊まることになった日だって、内心ヤバかったんだからな」
咎めるような口調で言われる。
「『帰りたくない』なんて言われて、しがみつかれてさ、動揺がバレないように必死だったよ。――好きな奴にそんなことされたら、誰だって冷静さを失うに決まってる」
私の目には、あの日の八代は、終始余裕そうに映っていたけれど、実際のところはそうでもなかったらしい。
「それでも、片想いだったから、なんとか理性を保ててたんだ。――それに、ただでさえ色々なことがあって、互いに冷静じゃないだろ?」
確かに今日は、ショッキングな出来事が起こりすぎた。
私からの秘密の開示に、自身の暗い過去の告白。恋の成就に、幼馴染みの命が危ないという事実の発覚。
まだ午前中だと言うのに、八代にとって、今日はてんやわんやだった。もちろん私にとっても。
「お互いにこんな状態なら、確かに泊まりは良くないかもね……」
「だろ? 夜になる頃には、気持ちが落ち着いてくるかもしれないし、ちょっと待ってみようぜ」
夜が来るまでの時間なら、たっぷりある。私は、頷いた。
「そうだね。もう少ししたら、気が変わるかもだし。穏やかな心境になることを、祈るよ」
「ああ、そうだな」
「そういえば、八代は大丈夫なの? 八代だってしんどかったから、私に会いに来たんでしょ?」
ようやく彼を心配する余裕が出てきた。
「すっかり元気――ってわけにはいかないけど、こうやって若葉と話してるうちに、だんだん持ち直してきた」
「そっか。――良かった」
その後、しばらくさぼっていた掃除をした。客人である八代にも手伝わせることになって、少し恥ずかしい。
「ごめんね、手伝ってもらっちゃって……」
「俺だけ何もしないで座っているのも、落ち着かないし、いいんだよ」
快く働いてくれた彼に、せめてもの報酬として、戸棚の奥にしまっておいた、とっておきのコーヒーをいれる。
テーブルを挟んで、向かい合う。
二人で熱いコーヒーをちびちびと飲みながら、一息つく。
「ふふっ」
「どうした?」
唐突に笑い声を洩らした私を、八代は不思議そうに見遣る。
「なんだか――良いなぁ、って思って。こうやって向かい合って、同じ仕草をするの。家にいる時、向かい側に人が座ってることなんてないから……ちょっと楽しくなっちゃった」
基本的に、家の中は私一人しかいない。家族が帰ってくることがあっても、向かい合ってお茶など、絶対にしない。
「八代と暮らせば、きっと幸せだろうなぁ」
深く考えずに呟いたのだけれど、真剣な声音が返ってくる。
「じゃあ……一緒に暮らさないか」
「え?」
「今は無理だけど――いつかは二人で暮らそうぜ」
「いいの?」
「俺は、若葉のそばにいたいから。若葉が生活の一部になればどんなに良いだろう、ってずっと思ってた」
目頭がじんと熱くなってくる。
彼が私との未来を考えていてくれたなんて。脆くなった涙腺が、破壊されそうになる。
込み上げてくるものをせき止める。
「私も同じ気持ち。私のこれからの人生には、八代がいてほしい。苦しい時は、そばにいてほしいし、逆に八代がきつい時は、私が支えたい。一緒に歩いていきたい」
沸き上がる感情のままに話す。八代は目を見張って、私の言葉を聞いていた。
勢いに任せて、すごく恥ずかしいことを口走ってしまった。しかし、まごうことなき本心なので、今さら誤魔化したりはしない。
「あ、そうだ。確かお菓子があったんだ。用意してくるね」
閃いた、というように手を叩いて、足早に台所へと向かった。
適当に戸棚を探っているフリをする。
お菓子なんて、本当はどこにもない。席を外すための言い訳でしかなかった。
頬の熱が引くまで、少し時間を要した。八代の元へ戻った時にも、「ごめん。やっぱなかった」と言う声が、どこかぎこちないものになった。
そんなこんなで、あっという間に夕方になってしまった。
日が傾いていくのを見て、焦燥感が湧いてくる。
「ねぇ、八代。やっぱり泊まってくれないかな」
悩んだ末に、躊躇いがちに切り出す。
「駄目そうか」
「うん。寝ちゃえば大丈夫かな、とも思ったんだけど……絶対に夜中に目が覚めちゃうし」
中途半端な時間に目が冴えてしまったら、最悪だ。深夜が一番精神的に危ないのに。
「でも無理にとは言わないから……」
申し訳なさからそう付け足すと、八代が問うてくる。
「けど、俺が泊まらない、って言ったら、どうする気なんだ?」
言葉に詰まる。どうするも何も――。
「その場合は、しょうがないよ。なんとか気を紛らせられるように、頑張ってみる」
前向きな口調でそう言って、ぎこちなく笑う。
テレビで明るい番組でも見るしかない――いや、その方法はすでに失敗していたのだった。
不安そうにしているのが、伝わったのだと思う。八代は、私をじっと見つめた後、しょうがない、という風に言った。
「泊まることにする」
「え? ホント?」
「そんな顔してる奴を置いて、帰れるわけないだろ」
私はそんなに酷い形相をしているのだろうか。顔に手をやって、表情筋をほぐす。
「若葉が辛い時に、何もできないってのも、癪だしな」
「ありがとう。八代がいてくれたら、きっと怖くない……と思う」
それから八代は、泊まりに必要な準備をするために、一度家に帰った。
私は、やけにそわそわと落ち着かなかった。
八代の言葉を思い出す。
私が八代の家に泊まった時とは、何もかも違う――。
私たちは、まだ恋人同士ではない。
しかし、今はそれどころではない、という理由から、交際を保留にしているだけで、私と八代は、すでに両思いの男女だ。
彼が懸念していたように、間違いが起こるかもしれない。
頭をブンブンと振って、邪な思いを打ち消す。
駄目だ、しっかりしないと。
彼となら、一夜の過ちもやぶさかではない――なんて。
けっして考えてはいけない。