そのことを察した親父がさらに苛ついて、理人に苛立ちをぶつけて――それを俺とお袋が咎めて、って感じの日々が過ぎていった。
 ある日——日記にも書いてあったと思うが——俺は再び親父を説得しようとした。

 理人とちゃんと向き合ってほしい。そう伝えたら、「うるさい! 正しいのは俺だ!」と一蹴された。
 その次の日。起床してリビングに向かうと、悪夢のような光景が、目に飛び込んできた。

 前にも話した通り、親父がお袋を刺してたんだ。俺が見た時には、お袋はもう死んでいた。
 だというのに、親父は何度も何度も執念深く、屍を切りつけていた。ザクッザクッと一定のリズムを刻む自分の父が、妖怪のように見えた。

 金縛りにあったみたいに動けずにいると、すぐ近くでカタッと物音がした。
 ハッとして隣を見ると、いつの間にかそばに来ていた理人が、震えながらリビングの惨状を見ていた。

 親父にも物音が聞こえちまったみたいで、夢中でしていた動きを止めて、ギョロッとした目で俺たちを見たんだ。
 親父は、「理人!」と叫ぶと、包丁を持ったまま、理人に突進しようとした。

 我に返った俺は、親父を取り押さえようと、身を乗り出した。
 親父は、包丁を奪おうとする俺に、わめき散らした。

 「邪魔するな! 理人に移した後、ちゃんとお前も殺してやるから!」

 当時は、親父の台詞が意味不明だったけど、理人の元へ行かせてはならないことだけは、わかっていたから、隙を見て気絶させようとしたんだが――。
 ふと、鋭い痛みが走った。

 痛む箇所に視線を落とすと、シャツの胸のあたりが、赤く染まっていた。そっから身体がすっと冷たくなっていって、目眩に襲われた。
 駄目だ、と思った瞬間、親父に突き飛ばされた。

 痛みに悶えてる場合じゃねぇ。動け!

 そう思いながらも、床に倒れ伏した状態から、動けなかった。刺された場所から、血と生命力が流れ落ちていって、力が入らない。
 親父が理人の心臓を刺したのを、情けない姿勢で、俺は見ていた。何も守れなかった絶望に、打ちひしがれながら。

 「ははっ、あははっ! やった! やったぞ! これで……」

 悪魔のような高笑いが、部屋に響いていた。それを聞きながら、朦朧とする意識の中で、こう思った。
 神様でも何でもいい。この糞男を殺せる状況を作ってくれ。
 強く願った時、ふっと身体が軽くなった。

 俺の心は、家族を殺した親父への憎悪で、埋め尽くされていた。そのことを、ずっと後悔し続けている。

 あの時、親父のことなんて考えなければ良かった。俺が殺意に心を支配されてなければ――。
 たった一回きりの奇跡を、正しく使えていただろうに。

 そう。俺が能力を使ったのは、その時だったんだ。

 床に這いつくばって、イカれた笑い声を聞いていたはずの俺は、いつの間にかリビングの入り口に立っていた。
 お袋が刺されているのを目撃した瞬間に、戻っていたんだ。

 当時は、もちろん何も知らなかったから、当然面食らった。
 この光景は、つい先ほど見たはずだ。どうしてまた、繰り返されている?

 呆然としていると、すぐ近くで物音がした。
 理人だ。震えながらリビングの惨状を見ている。
 これもさっきと同じ――。
 鳥肌が立った。俺は今、過去を繰り返しているのか? 馬鹿げた発想が思い浮かんだ。

 「理人!」
 親父の叫び声で、ハッとした。

 そうだ。このままいけば、理人は死ぬ。今度こそ防がなければ。
 ひょっとしたらここは、死の間際に見ている夢の中なのかもしれない。そうも思った。
 だけど――。
 もしも夢や幻だとしても、二度も辛い思いはしたくない。

 再び親父を押さえ込もうとした。親父は、“一回目”と同じ動きをしたから、何とか包丁をかわし続けて、馬乗りになれた。
 それから背後にいる理人に、「逃げろ!」と叫んだ。直後に、玄関のドアを開ける音がして、『ああ、良かった。外に出れたのか』とホッとした。
 気が緩んだのが良くなかった。

 下にいた親父が、「待て! 理人!」と叫んで、さっきまでとは非にならない馬鹿力で、もがいた。
 俺は素早く反応できなくて、近くに転がっていた包丁を持ち直した親父に、腹を刺された。
 その痛みで、この瞬間が夢ではないことがわかった。
 胸を刺された時と比べたら、痛みは弱かった。それでも、逃げる隙を作るくらいの衝撃は、十分にあった。

 「退け!」
 俺を押し退けて、親父が玄関へと走っていった。

 親父は理人を殺すことに、拘っている。このままじゃ、また同じ結末になる。理人が死ぬことを、防げない――。
 せっかくの奇跡を、棒に振ってたまるか。
 腹に走る激痛を無視して、外へ出て左右を見渡した。

 そしたら、少し離れたところに、近所の人たちが集まっているのが見えて。どよめきがこっちまで聞こえてきて、あそこに二人がいるんだ、と直感した。
 おぼつかない足取りで、人だかりのある方へ向かうと、俺に気づいた人たちが、悲鳴を上げて道を空けた。

 腹から血を垂らしてんだもんな。モーセみたいに人垣が割れていった。そうして見えた景色に、俺は唖然とした。
 親父が血まみれの状態で、道路に仰向けに倒れていたんだ。

 「八代さん……よね? どういうことなの? これは……」

 集団の中の一人が、戸惑ったように訊ねてきた。
 その声で我に帰り、大事なことを思い出した。

 「理人は……男子を見ませんでしたか!? 俺と同じくらいの――」

 理人の姿が見えないことに、不安が募った。
 あいつは無事に逃げられたのか。生きているだろうか。
 探さないと。
 恐怖のあまり痛みも忘れて、走りだそうとした時――。

 「兄さん……」
 理人の声が、近くでした。
 聞こえてきた方へ顔を向けると、人だかりの中に理人を見つけた。

 「理人! 大丈夫か!? どこも刺されてないか!?」
 肩を掴んで、叫ぶように問うと、「うん、大丈夫……」と囁いて、微かに首を上下させた。
 「けど……けど父さんが……」

 理人は震える指先で、倒れている親父を指し示した。
 駆け寄って顔を見たら、目は覚悟したように固く閉じられていて、半開きの口からは、血が流れていた。ただそれだけで、息を吸う音も、吐き出す音も聞こえてこなかった。

 明らかに死んでいた。
 背筋を嫌な汗がつたった。
 視線を落とすと、親父の胸に包丁が突き刺さっていた。そこから、目玉焼きの黄身を潰したみたいに、大量の血液が溢れだしていた。
 思いついたことは、ひとつだった。

 「理人が……やったのか……?」

 訊ねる声が震えたのが、わかった。
 恐る恐る視線を戻すと、理人は激しく首を横に振った。

 「違う……違う、僕じゃ……」
 言葉が出ない理人の代わりに、その場にいた一人の男性が、「自分で刺したんだ」と説明してくれた。

 「八代さんが、男の子を追いかけてるのが窓からぼんやり見えて、何事かと思って外に出てみれば、手に物騒なものを持っているじゃないか。これは一大事だ、と思って、近所の者たちを呼び出した」

 そういえば、何人か衣服が乱れている者がいて、暴れる親父を取り押さえようと悪戦苦闘していたことが、わかった。

 「息子さんを、離れた場所に保護しつつ、多人数で八代さんを拘束しようとしたんだ。数の力で何とか上手くいきそうになった時――」

 その瞬間を思い出したように、男性の声が震えた。

 「八代さんが『糞!』と叫んで、握っていた包丁を、自分の心臓に突き立てたんだ」

 皆、悲鳴を上げて、親父から離れていった。

 「八代さんは、自死する寸前まで、息子さんのところに行こうとしていた。凄い執念だった。――何があったのか知らんが、よっぽど恨んでいたんだろうな」

 知らなくてもいいことまで、丁寧に教えてくれたその人に、礼を言ったところで、パトカーと救急車が来た。誰かが呼んでくれたらしい。
 救急隊員に、家に母がいると告げて、俺は力尽きた。

 無我夢中で、身体のことをすっかり忘れていた。アスファルトに倒れた瞬間、抗えないほどの強い眠気が襲ってきた。
 次に目覚めた時には、病院のベッドの上だった。

 それから、病室に来た刑事に色々聞かれた。
 事件当日のこととか、それ以前の親父さんは、どんな様子だったか、など。

 「お父様は、次男の理人さんを殺害することに拘っていたようですが、その理由に心当たりなどはありますか?」

 理人の不登校がきっかけで、親父が荒れていたことを話したら、二人組の刑事は、納得したように頷いた。
 お父様は、一家心中を望んでいた――という警察が出した結論に、俺も全面同意だった。

 犯人である親父は、死亡。自殺した理由については、捕まって牢の中で人生を終えるくらいなら、いっそ――と考えたんだろう。

 親父のことを思うと、心がぐちゃぐちゃになったが、そう怒ったり悲しんだりもしていられないほど、それから慌ただしくなっていった。