殺してくれてありがとう

 「でも段々、八代がどんな人間なのか、わかっていったの。幼馴染みを思いやったり、知り合って間もない私に、親身になってくれたり――関われば関わるほど、この人は善良なんだ、って思い知らされていった」

 そうして様々な出来事の中で、恐怖心は薄れていって――。

 「だから八代のことを、もっと知りたいと思ったの。こんなに良い人が、何であの事件を起こしたんだろう、って。何が原因で、悪に堕ちてしまったんだろう、って」

 そして――。

 「あなたがそうなる前に、救いたい、って思ったの」

 八代は、真剣な眼差しで私を見ている。
 視線がかち合ったのを確かめて、話を続ける。

 「それから、本当に色々あって――気づけば八代に会えるのが、楽しみになってた。一緒にいる時間が、幸せだって思えて、電話やメッセージでのやり取りに、いちいち胸が弾んで……」

 止めどなく、言葉が溢れていく。

 「怖がってたことなんて、今となっては、嘘みたいなの。私にとって八代はもう……欠けてはならない存在なんだよ」

 だから。

 「気を遣って、距離を取ろうとしないで。八代にそんなことされたら、心に穴が空いたみたいになる」
 「は――」

 八代の顔に、熱が集まる。視線が右往左往するのを、不満気に睨む。

 「ちゃんとこっち向いてってば」
 「そんなこと言われたってよ……」

 口ごもり、赤くなった顔を隠そうとする。
 彼のその反応は、私を満足感で満たした。
 心が高揚するのを感じながら、再びベンチに座り、首を傾ける。

 「私の気持ち、わかってくれた? なら、離れようとか思わないでね。これからもよろしくね」

 にっこりと微笑むと、「おう……」とまだ照れた声が、返ってきた。

 「若葉さ……」
 「うん?」
 「よくそんな恥ずかしいことを、涼しい顔で言えるよな……やっぱお前すごいわ」

 そう言って頭を掻く八代に、いつぞやのあなたも大概だったよ、と言いたくなったけれど、ぐっとこらえた。

 「だって誤解を解かなきゃ、八代との縁が切れそうだったし。そう思うと、必死になっちゃって」
 「別に、俺との繋がりがなくなるくらい、大丈夫だろ……若葉なら、たくさん友人作れるだろうし」
 「大丈夫じゃない」

 きっぱり言い張る私を、彼がなおも不思議そうに見遣る。
 その表情を見て私は、もう言ってしまおう、と決心する。

 「だって私、八代のことが好きだから」
 「は――」
 「恋愛的な意味だからね」

 ポカンとした顔に、追い討ちをかける。

 「いつからだよ……」
 「自覚したのは、下校中に理人君が絡んできた日の夜に、八代と電話してた時だけど……それよりも前から、私は恋心を抱いてたと思う。ただ素直になれなかっただけで」

 あの日私は、マミと腕を組んで歩いている八代を見て、心がざわついた。それが引き金となり、自分の気持ちに気づいたのだ。

 「マジか……」
 「そんなに意外に思うようなこと?」

 信じられない、という風な態度を、疑問に感じる。
 今思い返すと私は、好意が伝わってしまうような行動を、わりと取っていたのではないかと思う。だから彼がここまで衝撃を受けているのは、意外だった。

 「そりゃあ俺だって、結構いい感じの雰囲気出てるんじゃないか? なんて思ってたけど――若葉が家庭の話をしてくれた時、自惚れだってわかった」
 「自惚れ?」
 「ああ。若葉が恋愛に対して、強烈な苦手意識を持ってることがわかって、今まで脈ありだと思ってたのは、勘違いだって思い知らされたよ。ここまで恋愛を怖がってる奴が、ありえないだろ、と」

 八代は、恥じ入るように、そう吐き捨てた。

 「それからこう考えた。若葉の隣にはもっと、しっかりした――生涯において、何の曇りもない人間が、いるべきだって。若葉なら、いつかそんな奴と一緒に幸せになれる、とも思った」

 八代は、心づけるように、笑ってみせた。

 「若葉はきっと、素晴らしい人間と巡り会える。過去のことなんて、気にならなくなるくらいに。だから俺は、相応しくないと思って――」

 中途半端なところで言葉が切れる。
 彼は、失言した、というように口を押さえた。
 しかし私は、聞き逃してやらなかった。

 「自分じゃ相応しくない、ってどういう意味? 八代も……私と同じ気持ちってことなの?」

 両想いへの期待に、胸が膨らむ。どきどきしながら訊ねると、「いや……」と浮かない声が返ってきた。

 「さっき言ったろ。若葉は、もっとしっかりした奴と一緒になるべきだって。その方がずっと幸せなはずだし――」
 「私の幸せとかは、関係ない。八代は、私のことどう思ってる? 本当にただの友達としか思ってないの?」
 「……好きだよ」

 少しの間を挟んで、八代はそう言った。

 「でも俺は、同年代の中でも、特殊な生き方をしてる。過去だって色々良くないことがあったし……。お世辞にも、ちゃんとした人間とは呼べねぇんだ。そんな俺が、複雑な事情を抱えた若葉と、どうこうなんて、無理だと思う」

 弱気な発言をする八代。
 私は、八代の言葉を頭の中で反芻していた。
 なんだか違和感があるような……。

 八代の『自分じゃ相応しくない』という考えは、私への思いやりから来ている。それはわかっている。優しい彼らしい。
 しかし私には、それを理由に難しい問題から逃げているようにも、感じられた。

 頭をひねって、考える。少しの時間を有して、ピンときた。
 そして、たどり着いた結論に、泣きそうになる。

 そりゃあ、そうだよね。
 八代は、私が傷つかないように、と自分に非があるような言い方をしてくれたけれど、つまり――。

 「私が面倒くさい奴だってのは、わかるよ。でも、もっと普通の断り方でいいんだよ? 私に気を遣って、自分を貶さなくても……」
 「違う!」

 突如放たれた大声に、ビクッとなる。
 力の入った肩を、八代の手が掴む。強制的に、彼と向き合わされた。

 「体よく告白を断ろうと思ってるわけじゃない。俺だって若葉のことが、好きだ。心の底から。こんなに人を好きになれるなんて、自分でも信じられない。それくらいどうしようもなく、好きだ!」

 彼の眼差しは、どこまでも真っ直ぐで、真剣な思いが伝わってきた。
 八代の言葉が本心だとわかり、顔に熱が集まり、心拍数が上がる。

 「私の過去の話を聞いて、『こんな面倒くさい女、手に負えない』って思ったんじゃ……」
 「そんなこと、思うわけあるか!」

 全部言い終わらないうちに、全力で否定される。肩に置かれた手に、力がこもったのがわかり、歓喜に包まれる。

 「本気だから……若葉には、幸せしか味わってほしくないから、俺みたいな奴と恋愛して、嫌な思い出を作ってほしくないんだよ。大事な初恋を、他の相応しい人間のために、取っておいてほしい、と思ったんだ」

 先ほどよりも落ち着いた口調で、八代はそう言った。
 そしてこれ以上、接触することを避けるように、そっと手を引き、私から距離を取ろうとした。

 私は、感情に突き動かされるままに、彼に力強く抱きついていた。
 逃げられないように。腕の中に閉じ込めるように。

 「他の人なんて、考えられない。考えたくもない。私は、八代がいい。八代と恋人になりたい。絶対に上手くいく、なんて無責任なことは、言えない。言えないけど……」

 彼の耳元で、心の奥から溢れる思いを、紡いでいく。

 「たとえ傷つくことになっても、怖くない。私が一番怖いのは、大好きな人と向き合えないまま、後悔を抱えて生きていくこと。八代への気持ちを無視すれば、一生悔いが残る」
 「若葉……」
 「過去を引きずって生きるのは、もう嫌なの!」
 「……!」

 最後の言葉に、八代の身体が跳ねた。

 「あっ……ぅ……!」
 全て出しきった喉が、震えていく。
 抑えなきゃ。八代を困らせてしまう。
 そう思うのに、身体は言うことを聞いてくれない。

 「……悪い」
 「良い、のっ。私が、勝手に、泣いてるだけ、だからっ。八代は、何も悪く……」
 「そうじゃなくて。――若葉のため、みたいに言いながら、結局は俺が怖じ気づいてただけだったんだ。若葉の真っ直ぐな言葉で、それに気づかされたよ」

 八代は、震える私の背中に、そっと腕を回した。そして、落ち着かせるように、一定のリズムで優しく叩く。
 心地よいその感触に、だんだん力が抜けていった。
 しだいに嗚咽が落ち着いてきて、涙を拭い、ゆっくり身体を離す。

 「ごめん、取り乱して……困らせちゃったよね」
 「気にしなくていい。俺が煮え切らないこと言ってたのが、悪いんだから」

 決まり悪そうな姿に、さっき彼が言っていたことが気になる。
 その気持ちを汲んでくれたのか、「聞いてくれるか?」と改まった風に訊ねてきた。

 「うん」
 「タイムリープのことも併せて話すよ。俺がいつ能力を使ったのかとか、その時の状況も含めて」

 八代はすでにタイムリープ能力を使用していたらしい。何となく察してはいた。
 彼のこれまでの人生で、過去に戻りたい、と思うことは、幾度となくあったのではないか、と。

 八代は、ベンチの隅に追いやられた手帳を、自身の膝の上に持ってきた。
 表紙を撫で、遠い目になる。

 そして、長い話の開始を告げるように、息を吸い込んだ。
 ***

 俺の家は、普通に仲の良い家庭だったと思う。
 それが崩れ始めたのは、理人が不登校になってからだ。

 学校に行けなくなったのは、クラス全員によるいじめが原因だった。
 体育祭のクラスリレーで、理人がバトンを落として、そのせいで優勝を逃したことがきっかけで、迫害されるようになった。

 止めるべきのはずの担任も、いじめに加担していた。『自分が受け持ったクラスは、いつも体育祭で優勝している』ってことが自慢だったみたいでな。理人の失敗を憎んでいたんだ。

 そんなわけで、理人の学校での居場所はなくなった。

 『もうあそこには行きたくない。みんなが……人が怖いんだ。しばらく休みたい』

 理人がそう言うのは、当然だと思った。
 人生には、休む時間が必要だ。お袋も、理人の希望通りしばらく休ませよう、と言った。
 だけど、親父は違ったんだ。

 親父は、猛烈に怒った。ふざけるな、と理人を怒鳴り付けた。

 『そんなくだらん理由で、不登校だと? 男なら、なよなよするな! そんな情けない奴に育てた覚えはない!』

 親父は、確かに厳しいところがあった。だけど、弱っている息子を、こんな風になじる人ではないと思ってたから驚いた。

 それから親父は、理人に考え直すように言っていたが、俺もお袋も、理人が休むことに賛同していたから、家族会議で親父の要望は通らなかった。

 親父だけだ。理人の苦しみに寄り添うどころか、理解すらしようとしなかったのは。
 学校を休んでから、理人は日に日に元気を取り戻していった。
 でも怒鳴られた日から、親父にびくびくしながら暮らすようになった。

 親父も自分が避けられてるってわかって、気を損ねたんだろうな。何かある度に理人にあたるようになっていって、家の中全体に嫌な空気が漂うようになった。

 お袋は何度も、『理人は何も悪くないの。あの子にもっと優しくして』と説得していたが、毎回突っぱねられていた。

 そのうち俺たちが話しかけただけで、親父は不機嫌そうに声を荒らげるようになった。
 ある日、このままじゃいけない、と思って、俺は親父の部屋を訪ねたんだ。
 二人だけなら、話もちゃんと進むかもしれない、と期待して、まず親父の意見を仰いだ。

 「あいつの反抗期も困り者だな。襟人もそう思うだろ?」

 言葉を失ったよ。親父は、理人が自分を煙たがってる様子を、ただの反抗期とか思春期のせいだと、思い込んでいたんだ。
 何も言わない俺を見て、肯定と捉えたんだろうな。親父は調子良さそうに続けた。

 「大体何だ。人間関係のトラブルで、不登校などと。そんなもん社会に出たら、山ほどあるというのに……今からあの調子じゃ、この先生きていけないぞ、あいつ」

 ため息まじりに肩をすくめる親父は、俺がどんな顔をしているのかなんて、見えていなかった。
 理人に降りかかった問題は、『人間関係のトラブル』なんて言葉で済ませられるものじゃない。

 クラス全員が一丸となって、理人を迫害していたんだ。それこそ体育祭のような団結力で。
 こんなことが、社会に出たら山ほどある?
 俺は信じられない気持ちになって、訊ねた。

 「親父の身の回りでは、あんな酷い出来事が、ありふれてるっていうのか?」

 投げられた質問に、親父は何かを思い出そうとするように、腕を組んで頭をひねった。
 それから少し経って、いまいちピンと来てないような、自信のなさそうな調子で、逆に俺に訊いてきたんだ。

 「理人が学校に行かなくなった原因って、確か友達と喧嘩したとか――そんな感じだったろ? たかが子どもの喧嘩で、そんなにヤバいことがあったのか?」

 絶句した。親父は散々なことを言っておきながら、理人が学校を休むようになった原因も、把握してなかったんだ。
 ちゃんと説明していたはずなのに。家族全員の前で、クラスメイトからの仕打ちの数々を、涙ながらに話す理人の痛ましい姿は、今でも覚えている。

 だからあの時、親父が怒鳴ったことも、しばらくして冷静になったら、考え直してくれると思ってた。理人に暴言を吐いたことをちゃんと謝って、すぐに元の家族に戻れるはずだって。

 「違ぇよ! 理人は凄惨ないじめに遭ったんだ! そう話してただろ!」

 理人の問題を重要視してくれない、と思っていたが、これほどまでとは。呆れと怒りがこもった俺の声は、ほとんど叫びみたいになった。

 「何だよ、大きな声出して」

 親父が、俺の雰囲気が変わったことに気付いて、身を強張らせた。
 そして、さらに信じられないことを口走ったんだ。

 「いじめ? それがどうした。それこそ世の中で、いくらでも起こってるじゃないか。それくらい自力で解決できないでどうする。大体、何もなかったらいじめられないはずだろう。あいつがいじめられても、仕方ないことをしたんじゃないか?」

 悪気なんて感じさせない口調だった。
 本気で言ってんだ、とわかって、すぐに部屋を出ていった。ドアを閉める時に、「あっ、おい! なんだよ……まったく」という声が、ため息まじりに聞こえてきた。

 あのまま話を続けていたら、頭に血が昇って、わけわからなくなりそうだった。だから自分の部屋に戻って、気持ちを落ち着かせなければ、と思ったんだ。

 自室でじっとしていると、親父の言葉が蘇ってきて、沸々と怒りが沸いてきた。

 理人に歩み寄ろうとするどころか、あいつが悪い、みたいに言うなんて。

 その一件以来、俺の親父に対する評価は、最低レベルになった。
 そのことを察した親父がさらに苛ついて、理人に苛立ちをぶつけて――それを俺とお袋が咎めて、って感じの日々が過ぎていった。
 ある日——日記にも書いてあったと思うが——俺は再び親父を説得しようとした。

 理人とちゃんと向き合ってほしい。そう伝えたら、「うるさい! 正しいのは俺だ!」と一蹴された。
 その次の日。起床してリビングに向かうと、悪夢のような光景が、目に飛び込んできた。

 前にも話した通り、親父がお袋を刺してたんだ。俺が見た時には、お袋はもう死んでいた。
 だというのに、親父は何度も何度も執念深く、屍を切りつけていた。ザクッザクッと一定のリズムを刻む自分の父が、妖怪のように見えた。

 金縛りにあったみたいに動けずにいると、すぐ近くでカタッと物音がした。
 ハッとして隣を見ると、いつの間にかそばに来ていた理人が、震えながらリビングの惨状を見ていた。

 親父にも物音が聞こえちまったみたいで、夢中でしていた動きを止めて、ギョロッとした目で俺たちを見たんだ。
 親父は、「理人!」と叫ぶと、包丁を持ったまま、理人に突進しようとした。

 我に返った俺は、親父を取り押さえようと、身を乗り出した。
 親父は、包丁を奪おうとする俺に、わめき散らした。

 「邪魔するな! 理人に移した後、ちゃんとお前も殺してやるから!」

 当時は、親父の台詞が意味不明だったけど、理人の元へ行かせてはならないことだけは、わかっていたから、隙を見て気絶させようとしたんだが――。
 ふと、鋭い痛みが走った。

 痛む箇所に視線を落とすと、シャツの胸のあたりが、赤く染まっていた。そっから身体がすっと冷たくなっていって、目眩に襲われた。
 駄目だ、と思った瞬間、親父に突き飛ばされた。

 痛みに悶えてる場合じゃねぇ。動け!

 そう思いながらも、床に倒れ伏した状態から、動けなかった。刺された場所から、血と生命力が流れ落ちていって、力が入らない。
 親父が理人の心臓を刺したのを、情けない姿勢で、俺は見ていた。何も守れなかった絶望に、打ちひしがれながら。

 「ははっ、あははっ! やった! やったぞ! これで……」

 悪魔のような高笑いが、部屋に響いていた。それを聞きながら、朦朧とする意識の中で、こう思った。
 神様でも何でもいい。この糞男を殺せる状況を作ってくれ。
 強く願った時、ふっと身体が軽くなった。

 俺の心は、家族を殺した親父への憎悪で、埋め尽くされていた。そのことを、ずっと後悔し続けている。

 あの時、親父のことなんて考えなければ良かった。俺が殺意に心を支配されてなければ――。
 たった一回きりの奇跡を、正しく使えていただろうに。

 そう。俺が能力を使ったのは、その時だったんだ。

 床に這いつくばって、イカれた笑い声を聞いていたはずの俺は、いつの間にかリビングの入り口に立っていた。
 お袋が刺されているのを目撃した瞬間に、戻っていたんだ。

 当時は、もちろん何も知らなかったから、当然面食らった。
 この光景は、つい先ほど見たはずだ。どうしてまた、繰り返されている?

 呆然としていると、すぐ近くで物音がした。
 理人だ。震えながらリビングの惨状を見ている。
 これもさっきと同じ――。
 鳥肌が立った。俺は今、過去を繰り返しているのか? 馬鹿げた発想が思い浮かんだ。

 「理人!」
 親父の叫び声で、ハッとした。

 そうだ。このままいけば、理人は死ぬ。今度こそ防がなければ。
 ひょっとしたらここは、死の間際に見ている夢の中なのかもしれない。そうも思った。
 だけど――。
 もしも夢や幻だとしても、二度も辛い思いはしたくない。

 再び親父を押さえ込もうとした。親父は、“一回目”と同じ動きをしたから、何とか包丁をかわし続けて、馬乗りになれた。
 それから背後にいる理人に、「逃げろ!」と叫んだ。直後に、玄関のドアを開ける音がして、『ああ、良かった。外に出れたのか』とホッとした。
 気が緩んだのが良くなかった。

 下にいた親父が、「待て! 理人!」と叫んで、さっきまでとは非にならない馬鹿力で、もがいた。
 俺は素早く反応できなくて、近くに転がっていた包丁を持ち直した親父に、腹を刺された。
 その痛みで、この瞬間が夢ではないことがわかった。
 胸を刺された時と比べたら、痛みは弱かった。それでも、逃げる隙を作るくらいの衝撃は、十分にあった。

 「退け!」
 俺を押し退けて、親父が玄関へと走っていった。

 親父は理人を殺すことに、拘っている。このままじゃ、また同じ結末になる。理人が死ぬことを、防げない――。
 せっかくの奇跡を、棒に振ってたまるか。
 腹に走る激痛を無視して、外へ出て左右を見渡した。

 そしたら、少し離れたところに、近所の人たちが集まっているのが見えて。どよめきがこっちまで聞こえてきて、あそこに二人がいるんだ、と直感した。
 おぼつかない足取りで、人だかりのある方へ向かうと、俺に気づいた人たちが、悲鳴を上げて道を空けた。

 腹から血を垂らしてんだもんな。モーセみたいに人垣が割れていった。そうして見えた景色に、俺は唖然とした。
 親父が血まみれの状態で、道路に仰向けに倒れていたんだ。

 「八代さん……よね? どういうことなの? これは……」

 集団の中の一人が、戸惑ったように訊ねてきた。
 その声で我に帰り、大事なことを思い出した。

 「理人は……男子を見ませんでしたか!? 俺と同じくらいの――」

 理人の姿が見えないことに、不安が募った。
 あいつは無事に逃げられたのか。生きているだろうか。
 探さないと。
 恐怖のあまり痛みも忘れて、走りだそうとした時――。

 「兄さん……」
 理人の声が、近くでした。
 聞こえてきた方へ顔を向けると、人だかりの中に理人を見つけた。

 「理人! 大丈夫か!? どこも刺されてないか!?」
 肩を掴んで、叫ぶように問うと、「うん、大丈夫……」と囁いて、微かに首を上下させた。
 「けど……けど父さんが……」

 理人は震える指先で、倒れている親父を指し示した。
 駆け寄って顔を見たら、目は覚悟したように固く閉じられていて、半開きの口からは、血が流れていた。ただそれだけで、息を吸う音も、吐き出す音も聞こえてこなかった。

 明らかに死んでいた。
 背筋を嫌な汗がつたった。
 視線を落とすと、親父の胸に包丁が突き刺さっていた。そこから、目玉焼きの黄身を潰したみたいに、大量の血液が溢れだしていた。
 思いついたことは、ひとつだった。

 「理人が……やったのか……?」

 訊ねる声が震えたのが、わかった。
 恐る恐る視線を戻すと、理人は激しく首を横に振った。

 「違う……違う、僕じゃ……」
 言葉が出ない理人の代わりに、その場にいた一人の男性が、「自分で刺したんだ」と説明してくれた。

 「八代さんが、男の子を追いかけてるのが窓からぼんやり見えて、何事かと思って外に出てみれば、手に物騒なものを持っているじゃないか。これは一大事だ、と思って、近所の者たちを呼び出した」

 そういえば、何人か衣服が乱れている者がいて、暴れる親父を取り押さえようと悪戦苦闘していたことが、わかった。

 「息子さんを、離れた場所に保護しつつ、多人数で八代さんを拘束しようとしたんだ。数の力で何とか上手くいきそうになった時――」

 その瞬間を思い出したように、男性の声が震えた。

 「八代さんが『糞!』と叫んで、握っていた包丁を、自分の心臓に突き立てたんだ」

 皆、悲鳴を上げて、親父から離れていった。

 「八代さんは、自死する寸前まで、息子さんのところに行こうとしていた。凄い執念だった。――何があったのか知らんが、よっぽど恨んでいたんだろうな」

 知らなくてもいいことまで、丁寧に教えてくれたその人に、礼を言ったところで、パトカーと救急車が来た。誰かが呼んでくれたらしい。
 救急隊員に、家に母がいると告げて、俺は力尽きた。

 無我夢中で、身体のことをすっかり忘れていた。アスファルトに倒れた瞬間、抗えないほどの強い眠気が襲ってきた。
 次に目覚めた時には、病院のベッドの上だった。

 それから、病室に来た刑事に色々聞かれた。
 事件当日のこととか、それ以前の親父さんは、どんな様子だったか、など。

 「お父様は、次男の理人さんを殺害することに拘っていたようですが、その理由に心当たりなどはありますか?」

 理人の不登校がきっかけで、親父が荒れていたことを話したら、二人組の刑事は、納得したように頷いた。
 お父様は、一家心中を望んでいた――という警察が出した結論に、俺も全面同意だった。

 犯人である親父は、死亡。自殺した理由については、捕まって牢の中で人生を終えるくらいなら、いっそ――と考えたんだろう。

 親父のことを思うと、心がぐちゃぐちゃになったが、そう怒ったり悲しんだりもしていられないほど、それから慌ただしくなっていった。
 両親を亡くした俺と理人は、親戚の家に住まわせてもらうことになった。

 新しい環境に馴染もうとする日々の中で、感傷に浸っている余裕はなかったんだ。

 しかも俺らを引き取ってくれた親戚は、以前にも話した通り、俺らを快く思ってくれなかった。

 最初は両親を亡くした俺らに、気を遣ってくれてたけど、次第に突然転がり込んできた異分子を排除したがっているような雰囲気を、感じるようになった。

 繊細な理人は、毎日しんどそうだった。ただでさえ、苦悩していた時期だったのに、そこにさらに不幸が振りかかって、以前とは別人のようになってしまった。
 口数がめっきり減って、常に沈んだ空気を纏うようになった。

 俺も自分のことで手一杯なとこはあったけど、悩みがないか尋ねたり、気晴らしに遊びに誘ったり――理人のためにできるだけのことをしていたつもりだ。――いや、理人のため、なんかじゃないな。

 全部自分のためだった。俺は、針のむしろのような家の中で、たった一人の家族にすがっていたんだ。
 理人を支えるつもりでいながら、俺の方があいつに寄りかかっていた。今振り返ってみると、そのことがよくわかるよ。

 親戚の態度が、ハッキリと煙たがるようなものに変わってから、ますます理人が心の拠り所になった。

 「あの兄弟も、一緒に死んでれば良かったのに」

 ため息と共に吐き出された言葉を、たまたま聞いちまった時、それほど落ち込まないでいられたのも、理人がいてくれたおかげだった。
 残された二人で、これから助け合って生きていこう。
 そう決意した矢先――理人が姿を消した。

 部屋から荷物がなくなっていたから、自分の意思でいなくなったことは、一目瞭然だった。

 「心配ね。警察に話しにいかないとね」

 そう言いながらも、親戚は嬉しそうだった。口元に手を当てる仕草も、喜びでつり上がる口角を隠すようにしか思えなかった。

 その後、「ちゃんと話しておいたから。捜してくれるって」と報告されたけど、本当に警察に相談したのかは、怪しいところだった。
 まあ、行方不明者届けを出したところで、捜索に力を入れてもらえるとは、思えなかったが。

 きっと理人のことは、どこにでもいる家出少年として処理されるはずだ。事故や事件性のないものに、そこまで真剣に動いてはくれないだろう。
 俺は周りに期待するのは諦めて、自分で探すことにした。
 といっても、大したことはできなかったが。

 昔、理人が住んでみたいと言っていた村まで、貯めていた小遣いを使って、電車で行ったりもしたが――現地の人にいくら聞き込みしても、それらしい人物は見かけてない、の一点張りだった。

 他にも、各地にある家出少年の溜まり場みたいなところを、しらみつぶしに巡って、その中に理人がいないか調べたけど、どこも空振りに終わった。

 そうやって過ごしているうちに、どんどん時間が経っていって――自分の進路を考えなければいけない時期が来ていた。

 何としても親戚の元を離れたい、という気持ちがあったから、働きながら勉強できる通信制にした。
 進路を決定したタイミングで、幸から「ウチで家事代行として働かない?」と誘われた。

 幸の両親が、海外住まいということは知っていた。学生の身で家のことに気を遣うのは厳しいから、家事代行サービスを利用している、ということも。

 「相場よりも高い給料を払えるし、エリちゃんなら、気心も知れてるから、私としても助かるんだけど……どう? いい話じゃない?」

 幸の提案は、渡りに船だったけど、俺のために相場より高い金を払わせるのは忍びないから、一度は断ろうとしたんだが――。

 「親からは、お金のことで遠慮はしないで、って言われてるし……それに私の家、普段誰もいないから、味気なくて……エリちゃんが来てくれるようになったら、きっと楽しくなると思うの」

 そう言うと幸は、寂しそうな顔をした。
 幸とは、中学に入ってから、交流が減っていた。だから樹里亜との仲も、クラスでの扱いも知らなかった。

 「仕事が終わった後、たまにでいいから残ってくれると嬉しいんだ。誰もいない家に帰るのって、結構侘しくて――そういうのも含めての高時給、ってことで……どうかな?」

 俺を助けようと思ったのも本当なんだろうけど、何よりも幸自身が望んでるようだった。
 幸は、両親は年に数回帰ってくるのみで、樹里亜とも最近は会うタイミングが合わないんだ、と言った。
 あのだだっ広い家で、一人きりなんだ、と。

 幸の両親は、なかなか帰ってこれないことを申し訳なく思って、せめて金銭面では子供に苦労をかけたくない、と思ってるんじゃないか、と幸との会話から感じた。

 「もし迷惑だったら、もちろん無理にとは言わないけど……」

 迷惑なんて、思うわけない。俺はありがたく幸の家で働かせてもらうことになった。
 それから中学卒業してすぐに、今住んでるアパートでの生活を始めた。
 中学の時よりもずっと忙しくなって、理人を捜す時間も減っていった。
 それに、俺はもう疲れてきていた。

 いつまでも理人の尻尾すら掴めない捜索を続けるうちに、だんだん希望が枯れてきていた。
 どれだけ必死こいて捜しても、全部無駄に終わるんじゃないか。大体あいつは、自分の意思で姿を消したんだ。
 ということは、こうして捜されること自体、理人にとっては、迷惑なんじゃないのか?

 その考えに思い当たった時、ぞわりとした。
 理人は、俺に何も言わずに出ていった。
 大切な家族と思っていたのは俺だけで、あいつはずっと俺のことを、親戚と同じように疎ましく感じていたんじゃないか?
 今ごろ、新しい場所で笑顔で過ごしているのかもしれない。兄の存在なんて、もう自分にとって、過去のことだと割りきっているのかもしれない。

 そんなことをぐるぐる考えていたら、親父が勤めてた会社から、連絡がきた。
 そう、日記のことだ。ほどなくして送られてきたそれを読んだ。

 読み進めていくうちに、日記を持つ手が、驚きと怒りで震えていった。
 それから、親父の意思に反して、能力は俺に渡っているという事実が発覚した。

 日記を読んで、心中事件の時の違和感に合点がいった。過去を繰り返しているのか? と思ったのは、その通りだった。

 『この糞男を殺せる状況を作ってくれ』

 瀕死の状態で、俺はそう願った。
 すでに移っていた能力が、死の間際のその願望に反応したんだろうな。
 そして、俺が刺される前に——親父に立ち向かえる状況にまで、戻してくれた。
 そのことに気付いて、絶望と後悔に苛まれた。

 過去に戻れるならば、事件の日よりも前に、戻りたかった。そうなるように、願うべきだったんだ。
 そうすれば、お袋も助かって、みんなで親父から離れられて――理人だって元気になっていたはずなのに。
 あの時の俺には、親父を殺したい、という思いしかなかった。もしも立ち上がる力があったなら、絶対に手にかけていた。

 だからな、若葉が思っているよりも、俺は悪人なんだよ。若葉が未来での事件について話してた時も、どこか納得していた。殺人犯になってる自分を、思い浮かべることができたんだ。俺は人殺しになる可能性を、秘めている、と。

 それに日記を読み終わった時、俺も親父のように、誰かに移せばいいんじゃ――なんて考えがよぎったんだ。
 もちろん、能力を譲渡するには、他人を傷つける必要がある。そんな非道なことを、真っ先に思いついたんだ。親父のことをどうこう言えないな、と思った。

 思いとどまった理由も、良心が働いたからじゃない。
 戻った結果、理人も死ぬかもしれない。俺がタイムリープする前のように。
 全員死んで、終わりかもしれない。
 今よりも最悪の未来になることを恐れて、譲渡はしないことに決めた。

 この選択だって、理人のためだけじゃない。俺自身が死ぬのが怖かった、というのが、結局一番の理由なんだ。
 もう一度事件が起きれば、今度こそ親父に殺されるかもしれない――。
 そう思うと、過去に戻ることなど、考えられなかった。

 俺は、若葉が思うよりもずっと、自分勝手な奴なんだ。
 いつだって善人でありたい、と思っていたし、実際に自身を善側の人間だと認識していたけれど、日記を読んだ日から、自分の本性がよくわかった。
 俺は、家族を助けられなかった。俺が殺意にのまれる人間だったせいで――どうしようもない人間だったせいで、大事なチャンスを棒に振った。

 理人が何も相談せずにいなくなったのも、当然だったのかもしれない、と思った。あいつは、俺の本当の性格を見抜いていたから、心を許せなかったのだろうか、と。
 そんな思いがのしかかって、理人の捜索に以前よりも身が入らなくなった。

 あいつは俺に会いたくないんだ。考えれば考えるほどそう思えてきて、毎日鬱屈した気分で、過ごすようになっていった。
 このままずっと、過去を引きずって生きていくんだろうな、と思った。
 でもそれが、当然の報いなんだろう、とも。

 このまま暗い気持ちを抱え続けることが、贖罪になるなら、無理に明るくなろうとしなくてもいい。
 むしろ、何も気に病まずに暮らすなんて、許されることではない。
 一生後悔しながら、生きていこう。
 そう決意した時に――若葉に出会った。

 ガキの頃に一度だけ会ってから、何となく忘れられなかった奴だったってわかった時、久しぶりに心が踊る感覚がした。
 それから若葉と会っていくうちに、その感覚は強くなった。表情にハリが出るのが、自分でもわかるほどだった。

 再会した若葉は、良い意味で変わってないように見えた。昔公園で助けてもらった時と同じ、強い正義感と深い思いやり――そして高い行動力で幸を支えていて、そんな若葉を俺はすぐに信頼するようになった。
 だから、祭りのおかしなテンションに乗せられて、つい過去のことを一部だけ話した。

 今まで一人で苦しんでいたことを、打ち明けたくなっちまったんだ。若葉なら、俺の悩みを自分のことのように、真剣に受け止めてくれて、怒ったり悲しんだりしてくれる、と確信に近い思いがあったからだと思う。

 結局、後悔を一人で抱え続ける強さが、おれにはなかった、ってことなんだろうな。
 さすがにタイムリープのことは、言わないつもりだったけど、『弟さんもまた会いたいって思ってるはずだよ』って若葉に言われた時、気持ちが変わった。

 何もかもぶちまけてしまいたい衝動にかられた。こいつになら、どんな秘密も打ち明けられる、とさえ思った。
 今考えると、あの時は冷静じゃなかった。気持ちが高ぶり過ぎていたんだと思う。
 若葉があまりにも、優しかったから。
 それに若葉は、俺がずっと欲しかった言葉をくれたんだ。

 『八代は絶対良い兄だっただろうから、弟さんもまた会いたいって思ってるはずだよ』

 俺は、理人に兄として認められていたかった。家族と思っていてほしかった。
 俺がいて良かったと、あいつが思ってくれてたら、この上なく幸せなんだ。
 だからその言葉で、少し救われた気がした。若葉に話そうとした俺の判断は、間違ってなかったんだ、と思った。

 再会してから――いや、小学生の頃初めて会った時から、若葉に抱いていた唯一無二の感情が、肥大化していくのがわかった。
 俺は、初恋を自覚した。

 公園での出会いが何となく忘れられなかったのも、特別な感情があったからなんだ、とやっと気付いた。
 若葉にも俺のことを好きになってもらいたい。そして、心から信頼し合える間柄になりたい。
 そのためには、ありのままの自分を見せなければならない。若葉に自分の全部を受け入れてもらいたい。

 俺はあの日、若葉に告白しようとした。その後で、タイムリープのことや抱えてきた後悔を、全て話すつもりでいた。
 でも、いざ口に出そうとした瞬間、若葉が折野を見つけて、折野を追おうとして。それを俺も後から追いかけたら、ヤベー状況に出会って――祭りどころじゃなくなったよな。

 それから、バタバタしていって、若葉と再び会う機会が訪れたのは、9月になってからだった。
 会えなかった期間で、俺は気持ちが落ち着いていった。
 若葉への思いが冷めたわけじゃない。
 時間が経ってから、あの時の俺を思い出して、反省したんだ。

 感情の高ぶりに任せて、とんでもないことを言おうとするところだった、と。

 出会ってまだそれほどの間もない奴に、告白されたと思ったら、重い話を立て続けにされるなんて、すごく反応に困るはずだ。
 冷静になった頭で、そのことに思い至り、それは駄目だ、となった。

 まずは若葉に好いてもらうことが大事だ。ありのままを受け入れてもらいたい、と願うのはそれからだ。
 夏の終わりにそう決めた。

 その後、両思いを目標にして、動き出す――までもなく、若葉と会ったり、メッセージでやり取りする機会は、自然と増えていった。

 折野と交流することになった時、正直気が進まなかったけど、若葉が間に入る形になってくれたから、そんなに憂鬱にならないで済んだ。
 若葉に会うことが楽しみだった。帰り道を一緒に歩く時間も、何にも替えがたい喜びだった。
 それから少しして、折野との交流は断つことにしよう、と二人で話し合ったんだけど――。

 その矢先に、理人が幸の庭に侵入しているのが発見されて、消滅したと思っていたストーカー問題が、再び持ち上がった。
 ストーカーの正体について、調査することになった時、俺はひとつ決心した。
 この件が片付いたら、若葉に好意を伝えよう。

 若葉も俺のことを憎からず思っている気がしていた。告白すれば、オーケーがもらえるのではないか、という予感があった。
 そういう期待もあって、本当はすぐにでも告白したい気分だったけど、色々大変な今では、タイミングが悪いから、積極的なアプローチなんかも控えよう、と思っていた。
 ストーカー問題が解決した暁には、必ず思いを告げる。

 そう思っていたんだが――若葉の育ってきた環境を知って、考えが変わったんだ。
 若葉が目に涙を溜めながら言った言葉で、俺の淡い期待は、完全に勘違いだったんだとわかった。

 恋愛が無理になった。誰かを好きになるのが怖くなった。

 それを聞いて、俺は告白することを諦めて、思いを封印することにした。
 でもせめて。大切な友人として、辛い時に抱きしめるくらいは、許してほしい。

 あくまでも友人として、と自分に言い聞かせながら、目の前の心細そうな若葉を抱きしめた。
 若葉は拒まないでいてくれた。それにどれほど救われたかしれない。これからも良い関係でいられるだろう、と安心した。

 若葉ならいつか、相応しい人間を引き寄せられる。
 だって若葉は、凄く魅力的だから。俺なんかには、もったいないくらいに。
 最初から、好きになるべきじゃなかったんだ。俺はそう結論づけて、若葉がもし誰かと付き合うことになったら、全力で応援しよう、と思った。

 誤解のないように言っておくと、俺は若葉が好きだ。
 お前が誰と一緒になろうと、この思いは変わらないと思う。
 だからこそ、ちゃんと幸せになってほしいんだ。

 家族を――大切な人を守れなかった俺は、好きな奴を幸せにできる自信がない。若葉には他にいくらでも相応しい奴がいるはずだ。
 ***

 八代は、最後の言葉を吐き出した後、語り疲れたように嘆息した。

 私の中には、様々な感情が渦巻いていたが、彼の話を全て聞いた上で、はっきりと確信したことがあった。
 八代は、やっぱり良い奴で、そんな彼を私は大好きだということだ。
 それを伝えるために、口を開く。

 「ねぇ八代。全部聞き終わって、改めて思ったんだけど、八代は善良な人間だよ。胸が痛くなるくらいに。やっぱり私は、八代のことが大好きだよ」
 「は?」

 八代がすっとんきょうな声をあげる。私の言葉を、理解できない、というようなその態度に、小さく笑みがこぼれた。

 「話聞いてただろ? 何でそう思えるんだよ。タイムリープの件で、俺の本性は浮き彫りになった。善良なのは、所詮見せかけだけだったんだよ。本当の俺は、……っ!?」

 その先を口にすることは許さない、と言うように、八代の唇を人差し指で押さえつける。

 「ちょっと黙ってて。黙って——私の言うことを聞いてて」

 八代は、少し不満そうにしながらも、頷いた。それを確認してから、指を離す。

 「八代が、親父さんを殺したい、と思ったのは、当然だよ。実際に親父さんを殺していたとしても、事情を知れば、誰も八代を責めることなんて、できないと思う」

 あの状況で、殺意に支配されない人間が、一体どれほどいるだろう。話を聞いているだけの私でも、はらわたが煮えくり返りそうだったのに。

 「私なんて、小学生の頃はずっと、『両親を殺して私も死のうか』とか本気で考えてたんだよ。八代の方こそ私のことを過大評価してるけど、私、全然褒められた人間性してないからね」

 八代を励まそうとしたら、軽い口調になってしまった。結構勇気を出して明かした秘密が、やけにあっさりと響く。
 物騒なカミングアウトに、八代は目を見張った。
 嫌悪されただろうか、と怖くなり、目を見ることが出来なくなった。逃げるように空を見上げて、言葉を紡ぐ。

 「まだ諦めがついてない頃だったんだ。愛してくれないのが悲しくて、これから先も私のことを見てくれないなら、いっそ――と思ったんだけど、結局怖くて出来なかった。その『怖かった』って感情も、親を殺すのが怖かったとかじゃないんだ。自分が死ぬ恐怖と、もし未遂で終わったら、恐ろしい折檻をされるに違いない、っていう不安で、実行出来なかったの。だから――」

 決して口外してはならない、と決めていたことを開示してまで、八代に伝えたかった思いを告げる。

 「私も、八代と同じなんだよ」
 隣で、息を飲んだ気配がした。
 目線は上空に向けたまま、続ける。

 「ううん。八代の方が、“出来た人間”だと思う。私は、両親に殺意を抱いていたことも、自分のことしか考えてなかったことも、罪深く感じることもなく、過ごしていたんだから」

 私は、自分が傷つけられたことしか考えていなかった。殺人を企てている己に対して、罪悪感など持っていなかった。
 娘を愛してくれない両親が、全て悪いのだ。だから恨みを募らせた娘に殺されたとしても、しょうがないんだ。そんなふうにさえ思っていた。
 八代のように、自身の攻撃性を恥じることなんてなかった。

 「死ぬのが怖い――それは当然の感情だし、危ない賭けに出れないことも、当たり前だよ。卑下するようなことじゃない」

 だからそんなに気に病まないで。自分を追い詰めないで。

 「それに、お袋さんが亡くなったのも、理人君が別人みたいになったのも、親父さんが全面的に悪いのに、自分が不甲斐ないのが良くなかったんじゃないか、なんてことまで考えて――立派だよ、八代は」

 自身が恥ずかしくなるくらいだ。だから――。

 「八代にとっては、欠点を晒したつもりなのかもしれないけど――私は話を聞いて、ますます八代のことが、好きになったよ」

 そして私の中で、彼の隣にいたい、という気持ちが、より確かになっていった。
 彼が今までずっと、後悔を背負って生きていたことを思うと、たまらない気持ちになった。
 その苦しさを、私は痛いほど知っている。

 自分に非がないことはわかっていても、あの時何か出来たのではないか、何か変えられたんじゃないか。
 そんな考えにとりつかれて、心に淀みを抱える。そして、自己嫌悪に苛まれる日々が始まる。
 だからこそ、他人が言わないといけないのだ。

 私は、八代に向き直った。怖じ気づきながらも、しかと目を合わせる。

 「八代は、何も悪くないよ」

 呪縛から解き放つのは、大切な人からの言葉だ。私が彼に救われたように、今度は私が彼を暗闇から連れ出したい。

 「だから――もう思い詰めなくて、いいの」

 八代の手を取る。
 彼の手は、冷たく強ばっていた。
 私の体温を分けるように、両手で包み込み、彼の指を軽くなぞる。

 八代は、躊躇うような表情をしていた。視線を右往左往させて、私の言葉にどこか信憑性を持てない様子だった。
 やっぱり、これまでの彼の考えを変えるのは、並大抵のことではないみたいだ。
 それでも良い。一回で救えないのなら、何度でも諭すまでだ。
 彼から決して目をそらさずに、言葉を投げかける。

 「助けられなかったことばかり、気にしてるみたいだけど、八代はタイムリープで、理人君の命を救ったじゃん」

 ピク、と八代の手が震える。

 「あの時の八代がいたから、今があるんだよ。八代がもっと昔に戻ってたとして、今よりも良い未来になってる保証なんて、どこにもない。八代は今、不幸なの? 何もかもなくして、やり直したいって思ってる?」

 八代は、ハッとした表情をして、「いいや……」と否定する。

 「俺は、幸せだよ。もちろん気にかかってることはある。幸だってまだ目が覚めてないし……でも、今の状況全てをなかったことにしたいなんて、思わない。――絶対に」

 最後の言葉と共に、深く頷く。

 「事件の前に戻ってたら、見送りの時に見た理人は、存在しなかった。そんなの嫌だ」

 そう言って、目を閉じる。まぶたの裏に、見送りの時の理人君を、浮かべているようだ。
 理人君は、まだ痛む傷を抱えながらも、罪を償おうとしている。
 彼がしたことは、許されないことだ。しかし、自身の過ちに向き合おうとしている今だからこそ、見えるものもあるんじゃないか。

 理人君は、きっと胸の痛みを乗り越えられる。私は、確信に近い思いを抱いていた。
 今回のことがあったから、八代と理人君は強く結束できたんだと、私は思っていた。

 「でも、理人と再会して、また笑顔が見れたのも、若葉のおかげなんだよな。若葉が過去を変えようと動いてくれなかったら、きっとどうにもならなかった」

 八代が頭を下げる。

 「本当にありがとう。今幸せだって思えるのは、若葉がいてくれたからだ。若葉の行動が、俺たち兄弟を良い方向に導いてくれた」

 その言葉で、私のミッションはひとつ片付いたのだ、と実感できた。
 殺害事件はもう起こらない。
 私は、繋いでいた手をそっとほどいた。
 胸を撫で下ろす。達成感と安堵で、どっと力が抜けた。

 「良かった……」

 自然とそんな言葉が洩れる。
 しかし、手放しで喜んでもいられないことも、わかっていた。

 幸の死を防ぐ。

 タイムリープした時から掲げていた、私の絶対的目標。このままでは、成し遂げられなくなってしまう。

 ぞわりと鳥肌が立つ。
 幸が死ぬ未来を変えられない。もう二度と幸と会えない。
 考えるだけで、恐怖で身がすくむ。

 八代は、私の雰囲気が一変したことを察したらしく、「幸のことか」と訊ねる。

 「……どうしよう。幸が永遠に目覚めなかったら。また死んじゃったら……」

 声が震えるのを、抑えきれない。口に出したことで、想像してしまったのだ。幸の遺体を見下ろす自分を。
 嫌だ。あんな思いをするのは、もうごめんだ。

 「とにかく幸を信じよう。俺たちにはそれしかできないんだから」
 「うん……」

 そう返事しながらも、心は晴れなかった。

 「ごめん、八代。自分から告白しておいてなんだけど……ちょっと今はそういうこと考えるの難しいから、付き合ったりとかは、まだ先にさせてくれないかな」
 「ああ」
 「あ、でも私のことがやっぱり好きじゃないって言うなら、今断ってくれて、全然いいから――」
 「断らねぇよ」

 八代が遮るように断言する。
 その反応に驚き、訊ねる。

 「幻滅しなかったの?」
 「幻滅? 何でだよ」

 八代は、心底不思議そうに聞き返す。

 「だって……私が一家心中を考えてたの聞いて、失望しなかったのかな、って。罪深い人間だと思わなかった?」

 八代が親父さんに殺意を持ったのは、親父さんが、家族を苦しめ、殺したからだ。
 最初から最後まで、自分が傷ついたことしか考えてなかった私とは、大違いだ。

 だから八代の話を聞いた時、『そんなに自罰的にならなくていいのに』という思いで一杯だった。
 彼が自身を悪人だと思うなら、私のことはどう思うだろう。こんな自分本意な私を。
 きっと、ろくでもない人間だと感じるだろう。恋する気持ちも、消え失せているのではないか。
 そんな恐れを感じていたのだけれど――。

 「だって若葉は、まだ小さな子どもだったろ。子どもにとっては、親に愛されることが一番大事なことなのに、見向きもしてくれなかったら、追い込まれて最悪な発想が出るのは、自然なことだ。子どもってただでさえ、視野が狭いもんだしな」

 本当にまったく気にしていないように、八代は言う。

 「むしろ、幼少期からそんなクソみたいな環境で過ごしてきたのに、よく性根が歪まなかったな、と感心してるくらいだ。失望なんかしねぇよ。俺は若葉のことが、大好きなままだ。安心してくれ」

 そう言って、何かに気づいたように、ほんの少しだけ、楽しそうな表情を見せる。

 「さっきの俺と同じだな。過去の話をして、嫌われたんじゃないかと思ってたら、意に反して、好きだ、って言葉が返ってきて」

 確かにそうだ、と感じ、彼と思いがシンクロしたことが、とても嬉しくなった。
 これが両思い。なんて暖かく、得難い奇跡なのだろう。こんな幸福がこの世にあるなんて。

 現代の八代に、感謝しなければならない。
 あの日、彼が私を刺さなければ、一生この幸せを理解できないまま、灰色の日々を送っていたかもしれないのだから。

 彼と引き合わせてくれた様々な偶然に、私は心の内で深く感謝した。