殺してくれてありがとう

 結局、よく眠れないまま朝を迎えた。重りをつけられているかの如し、身体のだるさだ。
 しかし、頭は冴えている。洗面所に行って、冷たい水で顔を洗えば、気持ちも引き締まった気がした。

 「いってきます」
 気合いを入れるように、普段は言わない言葉を言って、家を出た。
 早朝の凛とした空気の中を、歩いていく。



 「お待たせ」

 待ち合わせの10分前だというのに、八代はもう来ていた。公園の入り口で、ぼんやりと空を見上げている八代に、声をかける。

 「久しぶり……ってほどでもないか。ほんの数日しか、経ってないんだもんね」

 そうだ。それくらいしか、経っていないのだ。病院で最後に会った日が、もう遠い昔のことのように思える。

 「おはよう、若葉。じゃあ、行こうぜ」

 挨拶を短めに済ませて、園内へと入っていく。本題に早く入りたいのだろう。私も同じ気持ちだった。



 「それで理人君は、あれからどうしたの?」

 ベンチに尻をつけたのを合図に、私は疑問をぶつける。

 「警察に、幸を襲ったことと、病院でのことを話した。――大和さんじゃなかったんだな。理人が殺そうとした人」

 八代が、恐怖を滲ませて言う。
 理人君は、無関係の他人の命を奪ってしまっていたかもしれないのだ。
 大和さんなら良い、ということではない。

 ただ、理人君が感じる罪悪感は、大和さんを殺したのと違って、凄まじいものになる。
 罪の意識に耐えられなくなり、理人君が命を絶つ――。
 そのような展開は、想像に難くなかった。

 「病院での件では、1年くらい少年院に入ることになった。一昨日、見送りに行ったよ。今までなんも報告してなくてごめんな」

 八代が、申し訳なさそうに頭を下げてくる。私は、いいの、と胸元で手を振る。

 「他人を気にする余裕もないくらい、一杯一杯だったんでしょ? 当たり前だよ。こんなことになったら……。だから、気に病まないで」

 八代は、ありがとう、と言うと、どこか遠くを見るような目つきになった。

 「警察署にいるとき、これからあいつはどうなるんだろう、と気が気じゃなかったよ。沢山の人たちを、怖がらせたし、迷惑もかけたんだ。一体どんな罰が下されるのか、また長年会えなくなるのか、って」
 「――うん」
 「だから、1年って言われて、少し安心した。もちろん理人は、悪いことしたんだから、罪は償わなきゃいけねぇけど、それでも軽く済んでほしい、って願ってたんだ。人として、良くないことかもしれないが……」
 「ううん。そんなことない」

 後ろめたく思う必要はない、と首を振る。

 「八代は、良い人間だし、最高の兄だよ。胸を張っていい」
 「ありがとな。ここのところ、めちゃくちゃ落ち込んでたんだけど、若葉と話してたら、回復してきた気がする。本当にいつも世話になってるな」
 「そんな……私こそいつも……」

 ずっと暗かった八代の表情に光が射して、ホッとする。

 「病院での件では、ってことは――幸を殺そうとしたことについては、なんて言われたの?」
 「ああ、それはな――」

 八代が言葉を切って、ため息を吐く。

 「被害者の幸からも、話を聞く必要があるんだが……今の状態じゃ無理だな。まずは幸が目覚めないと、話が進められない、って」

 幸が理人君を擁護するなら、殺人未遂については、示談に終わるかもしれない。
 逆に、彼女が厳罰を望めば、懲役が決定する。
 何にせよ、被害者である幸の意見が重要だ。
 しかし、幸は未だに意識が戻らない。戻る目処も立っていない。膠着状態、というわけだ。

 「困ったね……」
 色々な意味が込められた一言が、ため息混じりに私の口から出る。

 幸とまた一緒に学校へ行きたい。来年の夏祭りにも行きたいし、卒業旅行にだって。
 まだまだやりたいこと、たくさんあるのに。

 涙が滲みそうになって、気を取り直そうと、慌てて質問する。

 「理人君は、見送りの時何か言ってた?」
 「ああ。『今まで、心配も迷惑もかけてきて、ごめん。これからだって、たくさん苦労かけると思うけど、僕に出来ること、僕がすべきことを、考えていくよ』って」

 まだ少し苦しそうだが、晴れやかな顔だった、と嬉しげに言う。

 「あとな、去り際にこうも言ってくれた。『ここを出たら、兄さんに目一杯の恩返しをするから、待ってて。絶対!』って。それを聞いて、なんか……たまらねー感じになって……」

 胸を握りしめた拳で押さえながら、「あいつ、笑ってたんだ」と声を絞り出す。

 「理人のあんな顔、何年も見てなかった。その笑顔を見た瞬間、『もう大丈夫だ』ってふっと思って……」

 話を聞いただけなのに、私にはその時の光景が、映画のようにくっきり浮かんできた。

 理人君は、清々しい顔をして、八代に宣言する。
 ここを出たら、必ず会いに行くから待っていてほしい、という意志と願いを込めた、言葉――。
 それを受けた八代は、もちろん頷く。そして、きっと泣いただろう。
 今だって、泣きそうになっている。
 震える彼の拳を見て、愛しさが込み上げてくる。

 「よかったね」
 自分でも驚くほど、優しい声が出た。
 「ああ。本当に……よかった」
 心が熱くなる。彼らが正しい形になったことが、こんなに嬉しい。

 「若葉も、ありがとうな。色々あったのに、理人のこと許してくれて――あいつも、感謝してたよ。『若葉さんにも、迷惑かけたから、謝っておいて』って言ってた。もちろん直接謝りにも、行くつもりみたいだが」
 「そうなんだね。私も、会いたいな。1年か……あっという間だけど、次理人君に会った時は、ずいぶん変わってると思うな」

 その時が今から楽しみだ。
 「そういえば、八代。樹里亜のこと……聞いてる?」

 恐る恐る尋ねると、八代が沈痛な面持ちで頷いた。

 「飲酒運転のトラックに跳ねられて、即死だろ? 病院で会った大和さんに聞いた」

 大和さんの名前が出て、体温が下がる。

 「大和さんの様子はどうだった? 何か違和感はなかった?」
 「違和感……?」

 八代が、怪訝そうに反芻する。

 「悲しそうな様子だったよ。――当然だよな。あんなに惚気てた恋人が、死んじまったんだから。大和さんが、『悲しすぎて、涙も出てきません。現実じゃないみたいです。悪い夢だったら良いのに……』って言ってるの聞いて、こっちまで苦しかったよ」

 本当にそうだろうか。
 悲しくなさすぎて、涙が出てこなかったんじゃないか。
 あまりの悲痛に打ちのめされて、泣けなかったというのは、泣きあとが微塵もないことの、周囲への言い訳じゃないのか。
 今ごろ大和さんは、公園で抱き合っていた女性と、樹里亜の死なんてなかったように、笑い合っているんじゃないか――。

 「どうした? なんか様子が変だけど……」

 黙ってしまった私を、八代が心配そうに見る。

 「実は私、あの場にいたんだよね。樹里亜が跳ねられる瞬間を、目の前で見た」
 「はっ!? マジかよ……それは、災難だったな。――つーかもしかして、あの日樹里亜に会いに行ったのか?」
 「うん。道に迷って困ってたら、大和さんの家の前だったみたいで。樹里亜がいる、っていうからつい――会わなきゃ! って思っちゃって」

 八代に黙って、急遽一人で会おうとしたことへの申し訳なさで、ばつが悪くなる。

 「ごめんね、独断専行しちゃって」
 「いや、俺が若葉の立場でも、多分同じことしてた。自然な流れだ」

 そう言って八代は、気遣うような目になった。

 「だからさ、気にすんなよ」

 それを聞いて、わかった。八代は、私が気に病んでいることを察したのだと。
 私があの日、会いに行かなければ、樹里亜は死ななかった――。
 家に引きこもってる間、ずっとそう思い続けていた。

 予定通りに、八代と二人で会いに行っていれば、良かった。もしくは、別の日にすべきだったのだ。
 そうすれば、大和さんの浮気現場を、樹里亜は見ないで済んだ。
 樹里亜は、迫ってくるトラックに気付けたし、横断歩道の途中で呆気にとられることも、なかったのに。

 いいや。私が最も悔やんでいるのは、事故の瞬間のことだ。
 私は、トラックと樹里亜が激突する直前、手を伸ばせば、彼女に届く距離にいた。
 私の反応があと一秒でも早ければ、樹里亜は助かっていたのかもしれないのだ。

 樹里亜が死んだのは、私のせいだ。
 一度思うと、その考えが頭から離れなくなり、昨日までベッドの上で縮こまって、震えていた。

 今でも胸の奥で、罪悪感がジクジクと痛み続けている。
 けれど、八代に『自然な流れ』と言ってもらえて――すっと気持ちが軽くなった。
 彼は、樹里亜の死を、私が責任に感じる必要はない、と励ましてくれたんだ。その心遣いに胸が温かくなる。

 「うん。ありがとう、八代」

 感謝が伝わるようにと、精一杯の笑顔を見せる。
 八代は、安心したように笑い返した。

 「それで、理人君とマミのことを話したの。もう逃げられないよ、ってことを伝えたら、全部白状してくれた。何でそんなことしたのかも聞いた」

 予想通りだったよ、と付け足す。

 「幸が同意しなければ、家を売れないから、殺したんだ。自分の夢のためなら、幸が死ぬのなんてどうでも良い、って感じだった。実際に悪し様に言ってたの。あんまり酷いことばっか言うから、私――」

 熱が入りすぎたことに気付いて、口を閉じる。
 樹里亜の暴言の、全てを記憶しているわけじゃないけど、そのどれもに腹が立ったことは、覚えていた。
 冷静にならなければ、と深呼吸をする私を見て、八代は察してくれたらしく、続きを促すことはせずに、私が話し出すのを待ってくれた。

 「理人君とマミのことは、どう思ってたの、とも訊いた。どっちの回答も最悪だったよ」

 口の中が、苦くなる。出来るだけ毒が抜けた言い方になるように、と必死に頭を巡らせるが、上手くいきそうもなかった。

 「理人君のことは……道具だって言ってた。それだけだって。ネットで利用できそうな人を探してて――白羽の矢が立ったのが、たまたま理人君だった」

 まったくオブラートに包めなかった。自分の機転の利かなさに、嫌悪感が湧く。

 「そうか。ありがとな、若葉。理人のことも、ちゃんと訊いてくれて」

 予期せぬお礼の言葉に、たじろぐ。それと同時に、安堵を覚える。八代の表情が、さほど重いものではなかったから。

 「折野については、何て言ってたんだ? 俺の目には、二人は年齢がひとつ違いの親友のように見えてたんだが……」

 やはり、そう映っていただろう。私は、残念そうに首を振った。

 「マミのことも、都合の良い人間、って思ってたんだって。マミがさ、樹里亜を慕うようになったきっかけを、前に話してたこと覚えてる?」
 「山田を待ってた時だよな。覚えてるよ。部活内のいざこざを樹里亜が颯爽と解決して、折野を助けたって話だろ」
 「そう。実はその一件は、マミを懐柔するために、樹里亜が仕組んだことだったんだ」
 「は? 何でそこまでして……」
 「樹里亜は、マミのこと、純粋そうで、一度懐に入れたら、何でも信じちゃいそう、って言ってた。ああいうのに、常に肯定してもらえたら、気分良いだろうな、って。だから、部員たちに協力してもらって、芝居を打ったんだ」

 八代は「マジかよ……」と絶句する。

 「太鼓持ちとして、気に入ってたってことかよ。あんまりだろ……」

 マミは、今何を考えているのだろうか。
 もう退院したのか。樹里亜の訃報を聞いたのか。もし聞いたのなら、どう思ったのだろう。

 渋い顔をする八代を、見遣る。
 大和さんのことを、話すべきか迷っている。こんなに嫌なことは、別に伝えなくても良いような気がしてきた。
 打ち明けたところで、誰も得しないのではないか。

 私だけが、大和さんが隠してた不誠実さを、知ってる。それは、どうにも釈然としない感じだった。
 しかし、このもやもやした気持ちは、じきになくなるだろう。
 私が黙ってれば、誰も嫌な気持ちにならない。ならば――。

 「……い。おい、若葉」
 肩を揺さぶられて、ハッとする。

 「大丈夫か? 顔色が良くないけど、気分が悪いのか?」
 そう言って、顔を覗き込んでくる。
 何かを悟られるような気がして、急いで答える。

 「ううん。平気だよ。久しぶりに早起きしたから、頭がボーッとしてるのかも」

 作り笑いを浮かべても、八代は疑うような目付きをやめなかった。

 「若葉。なんか隠してることあるだろ」

 口角がひきつるのが、はっきりわかってしまう。自身の不器用さが憎かった。
 ここから誤魔化す気にもなれず、大人しく「うん」と頷く。

 「ごめん……でも、そんなに大事な話でもないの。事のあらましには、関係ないことで……」
 「だけど若葉は、そのことが引っ掛かってるんだろ? 一人で抱えこむなよ」
 「でも、良い気分になる話じゃないよ? 樹里亜が起こした事件とは、関係のないことだし……」
 「いいから。俺は、若葉が一人でそんな顔をしてるのが、耐えられないだけだ。話して楽になれそうなら、遠慮なんて一ミリもしなくていい。全部ぶちまけちまえよ」

 八代は、隠される方が辛い、というように眉尻を下げる。
 ここまで言われて、話さないなんて選択肢は、私の中にはなかった。

 「実は――」
 私は、大和さんが浮気していたことを、話した。その現場を、樹里亜と目の当たりにしたことも。

 「大和さんね、樹里亜にプロポーズしてたんだって。樹里亜が幸せそうに、話してた。大和さんのことを話してる時だけ、樹里亜はどこにでもいる乙女だった。それを見て思ったの。大和さんを愛してたから、彼との幸せを邪魔する人間は、許せなかったんだって」

 樹里亜が、あそこまで残忍になれたのは、大和さんへの恋心が、大きいのだと。
 そんなになるまで、愛していた人だったのに――。『私たちなら大丈夫』と断言するほどに、彼に一途に思われている、と信じて疑わなかったのに。
 最愛の人に、目の前で裏切られた。

 「大和さん、樹里亜にしたプロポーズの言葉を、浮気相手にも言ってたの。――あっちが本命だったのかもしれないけど」

 運命の人だと思う。
 大和さんは、樹里亜に会う前から、ずっとこの言葉を使ってきたのではないか、と思う。

 「樹里亜は、どんな気持ちで死んでいったんだろう、って考えると、心がぐちゃぐちゃになっていって……私、樹里亜の死体も見たの。それが脳裏にこびりついて。——夢にまで出てくるの」

 酷い状態だった。必死に意識の外へ追いやろうとしたが、油断すると直ぐに浮かびそうになって、気が休まらなかった。
 鳥肌が立った腕を撫でていると、頭のてっぺんに軽い衝撃が下りてきた。

 驚いて八代を見る。
 彼は、悔しそうな表情を浮かべていた。実力不足を嘆くような――不甲斐なさを感じているような顔。
 つむじを通して、手の温度が伝わってくる。熱かった。

 「よく今日まで、一人で耐えてたな。お前は、すごい奴だよ」

 そう言った後、まだ何か伝えようと、口を閉じたり開いたりを繰り返していた。しかし、次に出てきた言葉は、「すまない」とそれだけだった。

 「なんつーか……上手いこと言えない。役に立てないな、俺。威勢よく促したわりには、マジで聞くことしかできてない。壁に向かって話してるのと、同じだなこれじゃ」

 自嘲気味にそう言って、手を退ける。

 「そんなことない!」
 膝の上に戻そうとしていた八代の手を、両手で掴む。

 「そんな風に、一緒に悩んでくれるだけで、いいの。一人で抱え込むな、って言ってくれたこと、すごく嬉しかった。ありがとう。八代に話して良かったよ」

 熱が入ってくるのと同時に、握る手に力がこもる。
 ハッとして、慌てて解放する。

 「ごめん、急に。熱くなっちゃって……」

 繋いだ手の感触が、まだ残っていた。自身の大胆な行動に、恥ずかしくなる。

 「いや、その……ためになったんなら、良かった」

 彼も少し気まずそうにしていた。横目で盗み見ると、僅かに赤くなっているような気がして、期待に胸が高鳴った。
 無言が居たたまれなくなり、明るい声を意識して、話しかけた。

 「八代は、ちゃんと寝れたり食べたり出来てる? 倒れないよう気をつけなよ?」

 軽い調子で訊いているが、実のところかなり心配していることだった。
 最近、八代にのし掛かっているストレスは、尋常でない。身体にも、ダメージがいっているはずだ。

 「健康を損なわない程度には、気をつけてる。いつまでも気落ちしてられないしな」

 八代は私とは違って、自分の力で暮らしている。
 生活のために、悠長に落ち込んでいるばかりでは、いられないのだ。
 そう思うと、ますます心配になってきた。

 彼は、誰に寄りかかればいいのだろう。
 人は、他人に頼らなければ、生きていけない。強く立っているように見える八代も、人間だ。

 仲良くなって、八代への嫌な印象が消えた後、私は彼を頼りにするようになった。
 心を揺るがすようなことがあった時、すぐに八代が浮かぶようになった。

 私は彼を、精神の支柱にしていた。
 でも――それじゃ駄目だ。
 それだけじゃ、駄目だ。
 私は、八代に救われた。
 ならば、八代が困難な時には、私が彼を救いたい。
 八代が抱えている暗いもの全て、私に見せてもらいたい。

 ぐっと膝の上の拳に、力を込める。覚悟を決めて、切り出す。

 「八代。前に私が、幸のストーカーの件が解決したら、話したいことがある、って言ってたの、覚えてる?」
 「ああ。すごく神妙そうにしてたから、印象に残ってたけど」
 「それについて、話そうと思うんだ」

 そう言って、鞄の中に手を突っ込んだ。
 目的の物をつかみ、八代の眼前にかざす。

 「勝手に持ち出して、ごめん。どうしても気になる単語が見えて、居ても立ってもいられなかったんだ」

 八代の目が、大きく見開かれる。
 八代が抱えている暗いもの――。
 それは、この日記に起因するという予感があった。

 夏祭りの夜に少し見せてくれた、彼の過去と心に、今こそ向き合いたい、と私は強く思った。
 日記を持ち出したこと。それを今日まで黙っていたこと。そして、勝手に読んだことを謝った後、私はポツポツと話していった。

 自分が8年後から来たこと。
 未来で起こった殺害事件の詳細。
 そして私が、指名手配されていた八代と出会い頭に、刺されたこと――。

 「死んだ! って思ったら、過去に戻ってて。それが今年の6月1日だったんだ。驚いたよ。気付いたら目の前に幸がいて、ここが死後の世界か……って一瞬思った」
 「そう思ったってことは、8年後の世界では、幸は……」
 「うん。在学中に、学校の4階から転落して、事故死って判断された」
 「それって……」

 八代が言葉を失う。

 「樹里亜の計画が、成功したんだね。私はその時、幸のお姉さんの名前も、二人が衝突していたことも、知らなかった。だから、不幸な事故で幸が亡くなった、って思ってた」

 あの転落死の背景を、この時代に来るまで何も知らなかった。

 八代。樹里亜。マミ。
 幸の人生に関わっていた人たち。
 全員、タイムリープしてから、存在を知った者だ。

 改めて、あの頃の私は、幸と強固な信頼関係を結べていなかったんだな、と自嘲する。

 「幸の死は、私のトラウマになった。ずっと心に後悔として残り続けて、『過去に戻れれば良いのに。そうすれば、事故を何としても防ぐのに』って考えてた」

 当時の色褪せた日々を思い出して、気が重くなる。

 「考えるだけに留まらなくて、私はSNSに、学校の4階から落ちて死んだ親友を、嘆く内容を投稿してた。八代はそれを見て、私が幸の友達だってわかったんだろうね。一桁しかいなかったフォロワーの中に『846』って人がいたの。その人が八代だったんだ、って今ならわかる」

 846は、幸のことについての投稿にだけ、いつもいいねをしていた。

 そのことを伝えると、「十中八九、俺だな」と八代が頷く。

 「ここからは、あくまでも私の予想になるんだけど――」

 そう断って、私は考えていた持論を話す。

 理人君が、殺害事件の犯人で、八代が罪を被ったのではないか、と。
 理人君から、殺害の動機について聞いた八代は、目の前の彼の自殺を止められなかった。
 こんな現実を変えたい、と思った八代は、過去に戻れる能力を私に移そうとした。
 そして、私の職場を突き止め、夜道で刺した。タイムリープした私が、未来を変えてくれることを信じて。

 「日記に書いてあった親父さんの思惑と、夏祭りの日に聞いた話で、八代にタイムリープ能力が移ってるんじゃ——って思って。八代はどこかのタイミングで、能力を使ってしまったから、幸の親友だった私に、望みを託したんじゃないか、って」

 後悔を抱えた若葉悠が、過去に戻り、幸ともっと親密になれば、理人の存在にも樹里亜の思惑にも気づくのではないか――。
 8年後の八代は、そう考えたのではないか、と伝える。
 実際に私たちは、理人君にもたどり着けたし、樹里亜の悪意も明るみにできた。

 「……ってことなんだけど――まあ今となっては、真実は闇の中だよね。でも理人君が犯人だったなら、イタズラ電話の件も、納得できるの。八代と理人君は、声が似てるから」

 兄弟だからかな、と軽く笑う。八代から、反応はなかった。
 八代は、私の予想を聞いている間、ずっと無言だった。

 私は喋っている最中、チラチラと隣を気にしていたが、本当に聞いているのかも怪しく思えるほど、八代は表情を変えなかった。
 情報を受け止めるのに、手一杯なのかもしれない、と思って、中断はしなかったのだけど――。

 「何でだ?」
 「え?」

 質問の意図がわからず、八代を見返す。
 八代は、もう無表情ではなかった。何だか釈然としない様子で、私を見つめている。

 「確かに若葉の推測も、あり得るんじゃないかって思う。樹里亜を失った理人が、あのままの精神状態で生きてたら、殺人だってしちまうんじゃないかって。実際に大和さんだと勘違いした人を、殺そうとしたしな」

 あの時の理人君の状態と、八代の『どんなことがあっても、俺は理人の味方だ!』という発言が決め手になって、理人君が殺人事件の真犯人ではないか、と私は思った。
 八代が、理人君を庇ったのではないか、と。
 しかし――。

 「それでも普通、俺が犯人だ、ってなるだろ。俺がどうしようもない奴になってた、って方が、考えられるだろ」

 八代は、私の意見に賛同しかねるようだ。

 「若葉と初めて会った時、ちょっと様子がおかしいな、と思ってた。何かビクビクしてて、目もしっかり合わなくてさ。その後もしばらく、態度が固い感じで。あれは、俺が怖かったからなんだな」

 懐かしい気持ちになる。幸の幼馴染みの『エリちゃん』が、八代襟人だとわかり、総毛立ったものだ。
 八代の人となりがわかるまでは、冷や汗をかきながら話していた。

 「若葉は、未来の俺に殺されかけたんだろ。どうしてそんなに、俺のことを信じた仮説を立てられるんだよ」

 そう言って、顔を背ける。前に組んでいた脚を、私の反対方向に倒すのを見て、誤解されていることに気づく。
 立ち上がり、八代の正面に回り込む。
 そして、彼の肩を掴んだ。

 「おい、どうし――」
 「八代。私の目を見て」

 掴まれた時、驚いたように私を見た八代が、一瞬で目を反らしたのを、許さない、と言う風に、距離を詰める。

 「――いいのかよ」
 彼が視線を合わせないまま、訊ねる。

 「八代に私を見てほしいの。そして、私も八代を見ていたい」

 迷いのない私の口調に、八代が目を見開く。

 「確かに最初は、八代のことが怖かった。会話するのにも、心臓がバクバクいってた」

 嘘偽りない思いを、伝えていく。
 「でも段々、八代がどんな人間なのか、わかっていったの。幼馴染みを思いやったり、知り合って間もない私に、親身になってくれたり――関われば関わるほど、この人は善良なんだ、って思い知らされていった」

 そうして様々な出来事の中で、恐怖心は薄れていって――。

 「だから八代のことを、もっと知りたいと思ったの。こんなに良い人が、何であの事件を起こしたんだろう、って。何が原因で、悪に堕ちてしまったんだろう、って」

 そして――。

 「あなたがそうなる前に、救いたい、って思ったの」

 八代は、真剣な眼差しで私を見ている。
 視線がかち合ったのを確かめて、話を続ける。

 「それから、本当に色々あって――気づけば八代に会えるのが、楽しみになってた。一緒にいる時間が、幸せだって思えて、電話やメッセージでのやり取りに、いちいち胸が弾んで……」

 止めどなく、言葉が溢れていく。

 「怖がってたことなんて、今となっては、嘘みたいなの。私にとって八代はもう……欠けてはならない存在なんだよ」

 だから。

 「気を遣って、距離を取ろうとしないで。八代にそんなことされたら、心に穴が空いたみたいになる」
 「は――」

 八代の顔に、熱が集まる。視線が右往左往するのを、不満気に睨む。

 「ちゃんとこっち向いてってば」
 「そんなこと言われたってよ……」

 口ごもり、赤くなった顔を隠そうとする。
 彼のその反応は、私を満足感で満たした。
 心が高揚するのを感じながら、再びベンチに座り、首を傾ける。

 「私の気持ち、わかってくれた? なら、離れようとか思わないでね。これからもよろしくね」

 にっこりと微笑むと、「おう……」とまだ照れた声が、返ってきた。

 「若葉さ……」
 「うん?」
 「よくそんな恥ずかしいことを、涼しい顔で言えるよな……やっぱお前すごいわ」

 そう言って頭を掻く八代に、いつぞやのあなたも大概だったよ、と言いたくなったけれど、ぐっとこらえた。

 「だって誤解を解かなきゃ、八代との縁が切れそうだったし。そう思うと、必死になっちゃって」
 「別に、俺との繋がりがなくなるくらい、大丈夫だろ……若葉なら、たくさん友人作れるだろうし」
 「大丈夫じゃない」

 きっぱり言い張る私を、彼がなおも不思議そうに見遣る。
 その表情を見て私は、もう言ってしまおう、と決心する。

 「だって私、八代のことが好きだから」
 「は――」
 「恋愛的な意味だからね」

 ポカンとした顔に、追い討ちをかける。

 「いつからだよ……」
 「自覚したのは、下校中に理人君が絡んできた日の夜に、八代と電話してた時だけど……それよりも前から、私は恋心を抱いてたと思う。ただ素直になれなかっただけで」

 あの日私は、マミと腕を組んで歩いている八代を見て、心がざわついた。それが引き金となり、自分の気持ちに気づいたのだ。

 「マジか……」
 「そんなに意外に思うようなこと?」

 信じられない、という風な態度を、疑問に感じる。
 今思い返すと私は、好意が伝わってしまうような行動を、わりと取っていたのではないかと思う。だから彼がここまで衝撃を受けているのは、意外だった。

 「そりゃあ俺だって、結構いい感じの雰囲気出てるんじゃないか? なんて思ってたけど――若葉が家庭の話をしてくれた時、自惚れだってわかった」
 「自惚れ?」
 「ああ。若葉が恋愛に対して、強烈な苦手意識を持ってることがわかって、今まで脈ありだと思ってたのは、勘違いだって思い知らされたよ。ここまで恋愛を怖がってる奴が、ありえないだろ、と」

 八代は、恥じ入るように、そう吐き捨てた。

 「それからこう考えた。若葉の隣にはもっと、しっかりした――生涯において、何の曇りもない人間が、いるべきだって。若葉なら、いつかそんな奴と一緒に幸せになれる、とも思った」

 八代は、心づけるように、笑ってみせた。

 「若葉はきっと、素晴らしい人間と巡り会える。過去のことなんて、気にならなくなるくらいに。だから俺は、相応しくないと思って――」

 中途半端なところで言葉が切れる。
 彼は、失言した、というように口を押さえた。
 しかし私は、聞き逃してやらなかった。

 「自分じゃ相応しくない、ってどういう意味? 八代も……私と同じ気持ちってことなの?」

 両想いへの期待に、胸が膨らむ。どきどきしながら訊ねると、「いや……」と浮かない声が返ってきた。

 「さっき言ったろ。若葉は、もっとしっかりした奴と一緒になるべきだって。その方がずっと幸せなはずだし――」
 「私の幸せとかは、関係ない。八代は、私のことどう思ってる? 本当にただの友達としか思ってないの?」
 「……好きだよ」

 少しの間を挟んで、八代はそう言った。

 「でも俺は、同年代の中でも、特殊な生き方をしてる。過去だって色々良くないことがあったし……。お世辞にも、ちゃんとした人間とは呼べねぇんだ。そんな俺が、複雑な事情を抱えた若葉と、どうこうなんて、無理だと思う」

 弱気な発言をする八代。
 私は、八代の言葉を頭の中で反芻していた。
 なんだか違和感があるような……。

 八代の『自分じゃ相応しくない』という考えは、私への思いやりから来ている。それはわかっている。優しい彼らしい。
 しかし私には、それを理由に難しい問題から逃げているようにも、感じられた。

 頭をひねって、考える。少しの時間を有して、ピンときた。
 そして、たどり着いた結論に、泣きそうになる。

 そりゃあ、そうだよね。
 八代は、私が傷つかないように、と自分に非があるような言い方をしてくれたけれど、つまり――。

 「私が面倒くさい奴だってのは、わかるよ。でも、もっと普通の断り方でいいんだよ? 私に気を遣って、自分を貶さなくても……」
 「違う!」

 突如放たれた大声に、ビクッとなる。
 力の入った肩を、八代の手が掴む。強制的に、彼と向き合わされた。

 「体よく告白を断ろうと思ってるわけじゃない。俺だって若葉のことが、好きだ。心の底から。こんなに人を好きになれるなんて、自分でも信じられない。それくらいどうしようもなく、好きだ!」

 彼の眼差しは、どこまでも真っ直ぐで、真剣な思いが伝わってきた。
 八代の言葉が本心だとわかり、顔に熱が集まり、心拍数が上がる。

 「私の過去の話を聞いて、『こんな面倒くさい女、手に負えない』って思ったんじゃ……」
 「そんなこと、思うわけあるか!」

 全部言い終わらないうちに、全力で否定される。肩に置かれた手に、力がこもったのがわかり、歓喜に包まれる。

 「本気だから……若葉には、幸せしか味わってほしくないから、俺みたいな奴と恋愛して、嫌な思い出を作ってほしくないんだよ。大事な初恋を、他の相応しい人間のために、取っておいてほしい、と思ったんだ」

 先ほどよりも落ち着いた口調で、八代はそう言った。
 そしてこれ以上、接触することを避けるように、そっと手を引き、私から距離を取ろうとした。

 私は、感情に突き動かされるままに、彼に力強く抱きついていた。
 逃げられないように。腕の中に閉じ込めるように。

 「他の人なんて、考えられない。考えたくもない。私は、八代がいい。八代と恋人になりたい。絶対に上手くいく、なんて無責任なことは、言えない。言えないけど……」

 彼の耳元で、心の奥から溢れる思いを、紡いでいく。

 「たとえ傷つくことになっても、怖くない。私が一番怖いのは、大好きな人と向き合えないまま、後悔を抱えて生きていくこと。八代への気持ちを無視すれば、一生悔いが残る」
 「若葉……」
 「過去を引きずって生きるのは、もう嫌なの!」
 「……!」

 最後の言葉に、八代の身体が跳ねた。

 「あっ……ぅ……!」
 全て出しきった喉が、震えていく。
 抑えなきゃ。八代を困らせてしまう。
 そう思うのに、身体は言うことを聞いてくれない。

 「……悪い」
 「良い、のっ。私が、勝手に、泣いてるだけ、だからっ。八代は、何も悪く……」
 「そうじゃなくて。――若葉のため、みたいに言いながら、結局は俺が怖じ気づいてただけだったんだ。若葉の真っ直ぐな言葉で、それに気づかされたよ」

 八代は、震える私の背中に、そっと腕を回した。そして、落ち着かせるように、一定のリズムで優しく叩く。
 心地よいその感触に、だんだん力が抜けていった。
 しだいに嗚咽が落ち着いてきて、涙を拭い、ゆっくり身体を離す。

 「ごめん、取り乱して……困らせちゃったよね」
 「気にしなくていい。俺が煮え切らないこと言ってたのが、悪いんだから」

 決まり悪そうな姿に、さっき彼が言っていたことが気になる。
 その気持ちを汲んでくれたのか、「聞いてくれるか?」と改まった風に訊ねてきた。

 「うん」
 「タイムリープのことも併せて話すよ。俺がいつ能力を使ったのかとか、その時の状況も含めて」

 八代はすでにタイムリープ能力を使用していたらしい。何となく察してはいた。
 彼のこれまでの人生で、過去に戻りたい、と思うことは、幾度となくあったのではないか、と。

 八代は、ベンチの隅に追いやられた手帳を、自身の膝の上に持ってきた。
 表紙を撫で、遠い目になる。

 そして、長い話の開始を告げるように、息を吸い込んだ。
 ***

 俺の家は、普通に仲の良い家庭だったと思う。
 それが崩れ始めたのは、理人が不登校になってからだ。

 学校に行けなくなったのは、クラス全員によるいじめが原因だった。
 体育祭のクラスリレーで、理人がバトンを落として、そのせいで優勝を逃したことがきっかけで、迫害されるようになった。

 止めるべきのはずの担任も、いじめに加担していた。『自分が受け持ったクラスは、いつも体育祭で優勝している』ってことが自慢だったみたいでな。理人の失敗を憎んでいたんだ。

 そんなわけで、理人の学校での居場所はなくなった。

 『もうあそこには行きたくない。みんなが……人が怖いんだ。しばらく休みたい』

 理人がそう言うのは、当然だと思った。
 人生には、休む時間が必要だ。お袋も、理人の希望通りしばらく休ませよう、と言った。
 だけど、親父は違ったんだ。

 親父は、猛烈に怒った。ふざけるな、と理人を怒鳴り付けた。

 『そんなくだらん理由で、不登校だと? 男なら、なよなよするな! そんな情けない奴に育てた覚えはない!』

 親父は、確かに厳しいところがあった。だけど、弱っている息子を、こんな風になじる人ではないと思ってたから驚いた。

 それから親父は、理人に考え直すように言っていたが、俺もお袋も、理人が休むことに賛同していたから、家族会議で親父の要望は通らなかった。

 親父だけだ。理人の苦しみに寄り添うどころか、理解すらしようとしなかったのは。
 学校を休んでから、理人は日に日に元気を取り戻していった。
 でも怒鳴られた日から、親父にびくびくしながら暮らすようになった。

 親父も自分が避けられてるってわかって、気を損ねたんだろうな。何かある度に理人にあたるようになっていって、家の中全体に嫌な空気が漂うようになった。

 お袋は何度も、『理人は何も悪くないの。あの子にもっと優しくして』と説得していたが、毎回突っぱねられていた。

 そのうち俺たちが話しかけただけで、親父は不機嫌そうに声を荒らげるようになった。
 ある日、このままじゃいけない、と思って、俺は親父の部屋を訪ねたんだ。
 二人だけなら、話もちゃんと進むかもしれない、と期待して、まず親父の意見を仰いだ。

 「あいつの反抗期も困り者だな。襟人もそう思うだろ?」

 言葉を失ったよ。親父は、理人が自分を煙たがってる様子を、ただの反抗期とか思春期のせいだと、思い込んでいたんだ。
 何も言わない俺を見て、肯定と捉えたんだろうな。親父は調子良さそうに続けた。

 「大体何だ。人間関係のトラブルで、不登校などと。そんなもん社会に出たら、山ほどあるというのに……今からあの調子じゃ、この先生きていけないぞ、あいつ」

 ため息まじりに肩をすくめる親父は、俺がどんな顔をしているのかなんて、見えていなかった。
 理人に降りかかった問題は、『人間関係のトラブル』なんて言葉で済ませられるものじゃない。

 クラス全員が一丸となって、理人を迫害していたんだ。それこそ体育祭のような団結力で。
 こんなことが、社会に出たら山ほどある?
 俺は信じられない気持ちになって、訊ねた。

 「親父の身の回りでは、あんな酷い出来事が、ありふれてるっていうのか?」

 投げられた質問に、親父は何かを思い出そうとするように、腕を組んで頭をひねった。
 それから少し経って、いまいちピンと来てないような、自信のなさそうな調子で、逆に俺に訊いてきたんだ。

 「理人が学校に行かなくなった原因って、確か友達と喧嘩したとか――そんな感じだったろ? たかが子どもの喧嘩で、そんなにヤバいことがあったのか?」

 絶句した。親父は散々なことを言っておきながら、理人が学校を休むようになった原因も、把握してなかったんだ。
 ちゃんと説明していたはずなのに。家族全員の前で、クラスメイトからの仕打ちの数々を、涙ながらに話す理人の痛ましい姿は、今でも覚えている。

 だからあの時、親父が怒鳴ったことも、しばらくして冷静になったら、考え直してくれると思ってた。理人に暴言を吐いたことをちゃんと謝って、すぐに元の家族に戻れるはずだって。

 「違ぇよ! 理人は凄惨ないじめに遭ったんだ! そう話してただろ!」

 理人の問題を重要視してくれない、と思っていたが、これほどまでとは。呆れと怒りがこもった俺の声は、ほとんど叫びみたいになった。

 「何だよ、大きな声出して」

 親父が、俺の雰囲気が変わったことに気付いて、身を強張らせた。
 そして、さらに信じられないことを口走ったんだ。

 「いじめ? それがどうした。それこそ世の中で、いくらでも起こってるじゃないか。それくらい自力で解決できないでどうする。大体、何もなかったらいじめられないはずだろう。あいつがいじめられても、仕方ないことをしたんじゃないか?」

 悪気なんて感じさせない口調だった。
 本気で言ってんだ、とわかって、すぐに部屋を出ていった。ドアを閉める時に、「あっ、おい! なんだよ……まったく」という声が、ため息まじりに聞こえてきた。

 あのまま話を続けていたら、頭に血が昇って、わけわからなくなりそうだった。だから自分の部屋に戻って、気持ちを落ち着かせなければ、と思ったんだ。

 自室でじっとしていると、親父の言葉が蘇ってきて、沸々と怒りが沸いてきた。

 理人に歩み寄ろうとするどころか、あいつが悪い、みたいに言うなんて。

 その一件以来、俺の親父に対する評価は、最低レベルになった。
 そのことを察した親父がさらに苛ついて、理人に苛立ちをぶつけて――それを俺とお袋が咎めて、って感じの日々が過ぎていった。
 ある日——日記にも書いてあったと思うが——俺は再び親父を説得しようとした。

 理人とちゃんと向き合ってほしい。そう伝えたら、「うるさい! 正しいのは俺だ!」と一蹴された。
 その次の日。起床してリビングに向かうと、悪夢のような光景が、目に飛び込んできた。

 前にも話した通り、親父がお袋を刺してたんだ。俺が見た時には、お袋はもう死んでいた。
 だというのに、親父は何度も何度も執念深く、屍を切りつけていた。ザクッザクッと一定のリズムを刻む自分の父が、妖怪のように見えた。

 金縛りにあったみたいに動けずにいると、すぐ近くでカタッと物音がした。
 ハッとして隣を見ると、いつの間にかそばに来ていた理人が、震えながらリビングの惨状を見ていた。

 親父にも物音が聞こえちまったみたいで、夢中でしていた動きを止めて、ギョロッとした目で俺たちを見たんだ。
 親父は、「理人!」と叫ぶと、包丁を持ったまま、理人に突進しようとした。

 我に返った俺は、親父を取り押さえようと、身を乗り出した。
 親父は、包丁を奪おうとする俺に、わめき散らした。

 「邪魔するな! 理人に移した後、ちゃんとお前も殺してやるから!」

 当時は、親父の台詞が意味不明だったけど、理人の元へ行かせてはならないことだけは、わかっていたから、隙を見て気絶させようとしたんだが――。
 ふと、鋭い痛みが走った。

 痛む箇所に視線を落とすと、シャツの胸のあたりが、赤く染まっていた。そっから身体がすっと冷たくなっていって、目眩に襲われた。
 駄目だ、と思った瞬間、親父に突き飛ばされた。

 痛みに悶えてる場合じゃねぇ。動け!

 そう思いながらも、床に倒れ伏した状態から、動けなかった。刺された場所から、血と生命力が流れ落ちていって、力が入らない。
 親父が理人の心臓を刺したのを、情けない姿勢で、俺は見ていた。何も守れなかった絶望に、打ちひしがれながら。

 「ははっ、あははっ! やった! やったぞ! これで……」

 悪魔のような高笑いが、部屋に響いていた。それを聞きながら、朦朧とする意識の中で、こう思った。
 神様でも何でもいい。この糞男を殺せる状況を作ってくれ。
 強く願った時、ふっと身体が軽くなった。

 俺の心は、家族を殺した親父への憎悪で、埋め尽くされていた。そのことを、ずっと後悔し続けている。

 あの時、親父のことなんて考えなければ良かった。俺が殺意に心を支配されてなければ――。
 たった一回きりの奇跡を、正しく使えていただろうに。

 そう。俺が能力を使ったのは、その時だったんだ。

 床に這いつくばって、イカれた笑い声を聞いていたはずの俺は、いつの間にかリビングの入り口に立っていた。
 お袋が刺されているのを目撃した瞬間に、戻っていたんだ。

 当時は、もちろん何も知らなかったから、当然面食らった。
 この光景は、つい先ほど見たはずだ。どうしてまた、繰り返されている?

 呆然としていると、すぐ近くで物音がした。
 理人だ。震えながらリビングの惨状を見ている。
 これもさっきと同じ――。
 鳥肌が立った。俺は今、過去を繰り返しているのか? 馬鹿げた発想が思い浮かんだ。

 「理人!」
 親父の叫び声で、ハッとした。

 そうだ。このままいけば、理人は死ぬ。今度こそ防がなければ。
 ひょっとしたらここは、死の間際に見ている夢の中なのかもしれない。そうも思った。
 だけど――。
 もしも夢や幻だとしても、二度も辛い思いはしたくない。

 再び親父を押さえ込もうとした。親父は、“一回目”と同じ動きをしたから、何とか包丁をかわし続けて、馬乗りになれた。
 それから背後にいる理人に、「逃げろ!」と叫んだ。直後に、玄関のドアを開ける音がして、『ああ、良かった。外に出れたのか』とホッとした。
 気が緩んだのが良くなかった。

 下にいた親父が、「待て! 理人!」と叫んで、さっきまでとは非にならない馬鹿力で、もがいた。
 俺は素早く反応できなくて、近くに転がっていた包丁を持ち直した親父に、腹を刺された。
 その痛みで、この瞬間が夢ではないことがわかった。
 胸を刺された時と比べたら、痛みは弱かった。それでも、逃げる隙を作るくらいの衝撃は、十分にあった。

 「退け!」
 俺を押し退けて、親父が玄関へと走っていった。

 親父は理人を殺すことに、拘っている。このままじゃ、また同じ結末になる。理人が死ぬことを、防げない――。
 せっかくの奇跡を、棒に振ってたまるか。
 腹に走る激痛を無視して、外へ出て左右を見渡した。

 そしたら、少し離れたところに、近所の人たちが集まっているのが見えて。どよめきがこっちまで聞こえてきて、あそこに二人がいるんだ、と直感した。
 おぼつかない足取りで、人だかりのある方へ向かうと、俺に気づいた人たちが、悲鳴を上げて道を空けた。

 腹から血を垂らしてんだもんな。モーセみたいに人垣が割れていった。そうして見えた景色に、俺は唖然とした。
 親父が血まみれの状態で、道路に仰向けに倒れていたんだ。

 「八代さん……よね? どういうことなの? これは……」

 集団の中の一人が、戸惑ったように訊ねてきた。
 その声で我に帰り、大事なことを思い出した。

 「理人は……男子を見ませんでしたか!? 俺と同じくらいの――」

 理人の姿が見えないことに、不安が募った。
 あいつは無事に逃げられたのか。生きているだろうか。
 探さないと。
 恐怖のあまり痛みも忘れて、走りだそうとした時――。

 「兄さん……」
 理人の声が、近くでした。
 聞こえてきた方へ顔を向けると、人だかりの中に理人を見つけた。

 「理人! 大丈夫か!? どこも刺されてないか!?」
 肩を掴んで、叫ぶように問うと、「うん、大丈夫……」と囁いて、微かに首を上下させた。
 「けど……けど父さんが……」

 理人は震える指先で、倒れている親父を指し示した。
 駆け寄って顔を見たら、目は覚悟したように固く閉じられていて、半開きの口からは、血が流れていた。ただそれだけで、息を吸う音も、吐き出す音も聞こえてこなかった。

 明らかに死んでいた。
 背筋を嫌な汗がつたった。
 視線を落とすと、親父の胸に包丁が突き刺さっていた。そこから、目玉焼きの黄身を潰したみたいに、大量の血液が溢れだしていた。
 思いついたことは、ひとつだった。

 「理人が……やったのか……?」

 訊ねる声が震えたのが、わかった。
 恐る恐る視線を戻すと、理人は激しく首を横に振った。

 「違う……違う、僕じゃ……」
 言葉が出ない理人の代わりに、その場にいた一人の男性が、「自分で刺したんだ」と説明してくれた。

 「八代さんが、男の子を追いかけてるのが窓からぼんやり見えて、何事かと思って外に出てみれば、手に物騒なものを持っているじゃないか。これは一大事だ、と思って、近所の者たちを呼び出した」

 そういえば、何人か衣服が乱れている者がいて、暴れる親父を取り押さえようと悪戦苦闘していたことが、わかった。

 「息子さんを、離れた場所に保護しつつ、多人数で八代さんを拘束しようとしたんだ。数の力で何とか上手くいきそうになった時――」

 その瞬間を思い出したように、男性の声が震えた。

 「八代さんが『糞!』と叫んで、握っていた包丁を、自分の心臓に突き立てたんだ」

 皆、悲鳴を上げて、親父から離れていった。

 「八代さんは、自死する寸前まで、息子さんのところに行こうとしていた。凄い執念だった。――何があったのか知らんが、よっぽど恨んでいたんだろうな」

 知らなくてもいいことまで、丁寧に教えてくれたその人に、礼を言ったところで、パトカーと救急車が来た。誰かが呼んでくれたらしい。
 救急隊員に、家に母がいると告げて、俺は力尽きた。

 無我夢中で、身体のことをすっかり忘れていた。アスファルトに倒れた瞬間、抗えないほどの強い眠気が襲ってきた。
 次に目覚めた時には、病院のベッドの上だった。

 それから、病室に来た刑事に色々聞かれた。
 事件当日のこととか、それ以前の親父さんは、どんな様子だったか、など。

 「お父様は、次男の理人さんを殺害することに拘っていたようですが、その理由に心当たりなどはありますか?」

 理人の不登校がきっかけで、親父が荒れていたことを話したら、二人組の刑事は、納得したように頷いた。
 お父様は、一家心中を望んでいた――という警察が出した結論に、俺も全面同意だった。

 犯人である親父は、死亡。自殺した理由については、捕まって牢の中で人生を終えるくらいなら、いっそ――と考えたんだろう。

 親父のことを思うと、心がぐちゃぐちゃになったが、そう怒ったり悲しんだりもしていられないほど、それから慌ただしくなっていった。
 両親を亡くした俺と理人は、親戚の家に住まわせてもらうことになった。

 新しい環境に馴染もうとする日々の中で、感傷に浸っている余裕はなかったんだ。

 しかも俺らを引き取ってくれた親戚は、以前にも話した通り、俺らを快く思ってくれなかった。

 最初は両親を亡くした俺らに、気を遣ってくれてたけど、次第に突然転がり込んできた異分子を排除したがっているような雰囲気を、感じるようになった。

 繊細な理人は、毎日しんどそうだった。ただでさえ、苦悩していた時期だったのに、そこにさらに不幸が振りかかって、以前とは別人のようになってしまった。
 口数がめっきり減って、常に沈んだ空気を纏うようになった。

 俺も自分のことで手一杯なとこはあったけど、悩みがないか尋ねたり、気晴らしに遊びに誘ったり――理人のためにできるだけのことをしていたつもりだ。――いや、理人のため、なんかじゃないな。

 全部自分のためだった。俺は、針のむしろのような家の中で、たった一人の家族にすがっていたんだ。
 理人を支えるつもりでいながら、俺の方があいつに寄りかかっていた。今振り返ってみると、そのことがよくわかるよ。

 親戚の態度が、ハッキリと煙たがるようなものに変わってから、ますます理人が心の拠り所になった。

 「あの兄弟も、一緒に死んでれば良かったのに」

 ため息と共に吐き出された言葉を、たまたま聞いちまった時、それほど落ち込まないでいられたのも、理人がいてくれたおかげだった。
 残された二人で、これから助け合って生きていこう。
 そう決意した矢先――理人が姿を消した。

 部屋から荷物がなくなっていたから、自分の意思でいなくなったことは、一目瞭然だった。

 「心配ね。警察に話しにいかないとね」

 そう言いながらも、親戚は嬉しそうだった。口元に手を当てる仕草も、喜びでつり上がる口角を隠すようにしか思えなかった。

 その後、「ちゃんと話しておいたから。捜してくれるって」と報告されたけど、本当に警察に相談したのかは、怪しいところだった。
 まあ、行方不明者届けを出したところで、捜索に力を入れてもらえるとは、思えなかったが。

 きっと理人のことは、どこにでもいる家出少年として処理されるはずだ。事故や事件性のないものに、そこまで真剣に動いてはくれないだろう。
 俺は周りに期待するのは諦めて、自分で探すことにした。
 といっても、大したことはできなかったが。

 昔、理人が住んでみたいと言っていた村まで、貯めていた小遣いを使って、電車で行ったりもしたが――現地の人にいくら聞き込みしても、それらしい人物は見かけてない、の一点張りだった。

 他にも、各地にある家出少年の溜まり場みたいなところを、しらみつぶしに巡って、その中に理人がいないか調べたけど、どこも空振りに終わった。

 そうやって過ごしているうちに、どんどん時間が経っていって――自分の進路を考えなければいけない時期が来ていた。

 何としても親戚の元を離れたい、という気持ちがあったから、働きながら勉強できる通信制にした。
 進路を決定したタイミングで、幸から「ウチで家事代行として働かない?」と誘われた。

 幸の両親が、海外住まいということは知っていた。学生の身で家のことに気を遣うのは厳しいから、家事代行サービスを利用している、ということも。

 「相場よりも高い給料を払えるし、エリちゃんなら、気心も知れてるから、私としても助かるんだけど……どう? いい話じゃない?」

 幸の提案は、渡りに船だったけど、俺のために相場より高い金を払わせるのは忍びないから、一度は断ろうとしたんだが――。

 「親からは、お金のことで遠慮はしないで、って言われてるし……それに私の家、普段誰もいないから、味気なくて……エリちゃんが来てくれるようになったら、きっと楽しくなると思うの」

 そう言うと幸は、寂しそうな顔をした。
 幸とは、中学に入ってから、交流が減っていた。だから樹里亜との仲も、クラスでの扱いも知らなかった。

 「仕事が終わった後、たまにでいいから残ってくれると嬉しいんだ。誰もいない家に帰るのって、結構侘しくて――そういうのも含めての高時給、ってことで……どうかな?」

 俺を助けようと思ったのも本当なんだろうけど、何よりも幸自身が望んでるようだった。
 幸は、両親は年に数回帰ってくるのみで、樹里亜とも最近は会うタイミングが合わないんだ、と言った。
 あのだだっ広い家で、一人きりなんだ、と。

 幸の両親は、なかなか帰ってこれないことを申し訳なく思って、せめて金銭面では子供に苦労をかけたくない、と思ってるんじゃないか、と幸との会話から感じた。

 「もし迷惑だったら、もちろん無理にとは言わないけど……」

 迷惑なんて、思うわけない。俺はありがたく幸の家で働かせてもらうことになった。
 それから中学卒業してすぐに、今住んでるアパートでの生活を始めた。
 中学の時よりもずっと忙しくなって、理人を捜す時間も減っていった。
 それに、俺はもう疲れてきていた。

 いつまでも理人の尻尾すら掴めない捜索を続けるうちに、だんだん希望が枯れてきていた。
 どれだけ必死こいて捜しても、全部無駄に終わるんじゃないか。大体あいつは、自分の意思で姿を消したんだ。
 ということは、こうして捜されること自体、理人にとっては、迷惑なんじゃないのか?

 その考えに思い当たった時、ぞわりとした。
 理人は、俺に何も言わずに出ていった。
 大切な家族と思っていたのは俺だけで、あいつはずっと俺のことを、親戚と同じように疎ましく感じていたんじゃないか?
 今ごろ、新しい場所で笑顔で過ごしているのかもしれない。兄の存在なんて、もう自分にとって、過去のことだと割りきっているのかもしれない。

 そんなことをぐるぐる考えていたら、親父が勤めてた会社から、連絡がきた。
 そう、日記のことだ。ほどなくして送られてきたそれを読んだ。

 読み進めていくうちに、日記を持つ手が、驚きと怒りで震えていった。