殺してくれてありがとう

 あれから警察が来て、理人君をパトカーに乗せていった。八代も同乗した。

 私は当てずっぽうに、街を彷徨い歩いていた。

 病院は、今日のところは面会禁止にするようで、さっさと帰らされてしまったのだ。

 何となく、じっとしていられない気分だった。足を動かしていると、頭もよく回るような気がした。

 八代の父が書いた、日記の内容を思い出す。
 そこには、タイムリープ能力に関する考察が、記されていた。

 一つ目。人に移すことができる。
 二つ目。移したい人物を瀕死の状態にすることで、譲渡ができる。
 三つ目。能力の保有者の願望に反応し、その願いが成就できる時期に、リープできる。
 四つ目。一人が使える能力の回数は、限られている。

 確か、こんな風だったはずだ。

 回数の問題は、八代の父が試したところ、戻れなかったようなので、一人一回きり、ということになる。

 友人から能力を渡された八代の父は、過去に戻って結婚相手を選び直した。
 そして八代と理人君が生まれて、しばらくは不満のない生活を送っていたが――。

 理人君が不登校になって、厳格な父親気取りでいた彼は、不登校になった理由も把握しないまま、馬鹿の一つ覚えのように、学校へ行け、と叱りつけていた。
 その結果、家族全員から疎ましく思われた彼は、こんなはずじゃなかったのに、と鬱々とした感情を抱く。
 そして過去をやり直したい、と思うようになり、理人君に能力を譲渡して、タイムリープしてもらおう、と閃く。

 祭りの日の夜、八代から打ち明けられた話を、思い起こす。

 八代の父である男は、どうせ過去に戻って、やり直してくれるんだから、と憂さ晴らしに妻を殺した。包丁で息の根が止まるまで、しつこく刺した。
 そしていよいよ、理人君に手をかけようとした時、八代に阻まれる。

 少し邪魔されたものの、八代の腹を刺して、理人君を追いかけたのだけれど――。
 時すでに遅し、だった。近所の人が呼んだ警察が、男を捕まえようとする。
 逮捕されるくらいなら、いっそ――と男は自身の心臓に、包丁を突き立てた。

 理人君には、辿り着かなかった。だからタイムリープ能力は、理人君に渡されていないのだ。
 だとすれば、瀕死の状態に追い込まれたのは、八代だけになる。

 つまり——八代はタイムリープ能力を持っていた、ということだ。

 八代は、一回きりのタイムリープを、使ったのだろう。どんな場面で使ったのかは、本人に訊かなければ、わからないけれど。

 つい数ヶ月前まで私がいた世界線の八代について、思いを馳せる。

 父の会社の引き出しから出てきたという日記を読んだ八代は、タイムリープのことと、自分がその能力を持っていることを知った。
 それからの人生で、過去に戻りたい、と切実に思う場面があって、使ってしまった。
 そして、誰にも移すことのないまま、月日は流れ――2022年の11月1日。大和さんと約束していた通り川崎家に向かうと、殺された川崎夫妻と、理人君を目にする。

 理人君から話を聞いたところ、8年前に樹里亜が、ネット上で幸と名乗っていたことを知り、弟が幼馴染みの姉に騙されていたのだと知る。
 そして、6月1日に、幸の家へ突撃してきたのは、理人だったのだ、ということにも気付く。

 あの時、逃げられなければ……こんなことには、ならなかったかもしれないのに。

 そんな風に後悔することは、予想できた。私が八代の立場だったら、きっとその思いばかり、頭を廻るだろうから。

 一方、話し終えた理人君は、自分の首を一息に切る。圧倒的な絶望感からの自殺だ。川崎家のリビングが、三人の死体で埋まる。
 時を遡って、なかったことにしたい。そう強く願っても、理人君も死んでしまったから、彼にタイムリープ能力を移して、やり直してもらうことはできない。

 だから、私の存在を頼った。

 大人になった私は、SNSでずっと愚痴を書いていた。
 幸を喪った悲しみを、つらつらと書くことが、私の日常だったのだ。
 八代は、それを見たのだろう。

 現代の私は、学校の4階から転落して、命を落とした親友の話を、ネット上で呟いていた。

 そういえば……と思い当たる。
 数少ないフォロワーの中には、846というユーザーがいた。

 846にフォローされたのは、初めて幸に関するツイートを上げた日だったから、その時のことは今でも覚えている。
 こんな誰も共感できないような愚痴を読んで、フォローしようと思うなんて、変わってるな、とうっすら感じたものだ。
 あのユーザーは、八代だ。自身の名字を数字で表すなんて、変にもじりすぎないところが、何だか彼らしいな、と思った。

 自分の投稿文を思い返してみる。
 そうだ。確か、出身県を呟いたことがあった。
 ちなみに私のユーザー名は、『悠』だ。
 ここまでくれば、八代はわかったのかもしれない。

 幸から若葉悠、という友達の話を、どこかで聞いていた可能性は、十分すぎるほどある。八代は、しょっちゅう幸の家へ行き、たくさん会話をしていたのだから。

 『過去に戻って、幸の死を防ぎたい』
 『もっと幸といろいろなことを、話したかったのに。あの頃に帰りたい』

 そんな内容のツイートは、何度もしてきた。
 そして、『幸と本格的に仲良くなった時期――5月終わり頃だったかな? そんくらいに戻りたい』とも、何回か未練がましく書いていた。
 八代は、若葉悠ならば、8年前の6月1日以前に戻って、何かを変えてくれるかもしれない、と思ったのだろう。

 たとえば、幸とよく一緒にいるようになった私が、隠れて幸を見つめる理人君の存在に気付き、捕まえて問い詰めることに成功すれば、理人君の勘違いは、早い段階で解ける。
 実際に、庭に潜んでいた理人君を、私が発見したことで、状況は変わったのだし。

 理人君は、幸に見つかりそうになった時、こっそり様子を窺うことに、スリリングな快感を覚え、やめなければ、と思っていた尾行や盗み見を続行することにした。
 幸にとって――もちろん私にとっても、恐怖でしかなかったけれども、そのおかげで理人君に辿り着けたので、結果的にはよかったのかもしれない。

 いや、幸が危うく殺されそうだったのだけれど。改めて、間に合って本当に良かった、と胸を撫でる。

 思い返してみれば、八代は丘で取り押さえた時点で、ストーカーが理人君だとわかっていたのだと思う。
 少年のフードが取れて、顔があらわになり、さぞ驚いただろう。困惑によって、拘束する力が緩んだのだ。
 その後の八代の様子が、少しおかしかったのも、納得できた。
 もう少しでナイフが直撃していたのだから、気もそぞろにもなるだろう、とあの時は思っていたけれど。

 そうして息つく間もなく、幸と私が意識不明、という事態になる。
 八代にかかる心労は、尋常じゃなかったはずだ。
 色濃い隈を浮かべた彼の姿が蘇り、ふいに涙が滲みそうになる。

 いけない、と頬をピシャリと叩く。
 今は、感傷的になるべき時間ではない。

 気を取り直して、現代での八代について、考えを戻す。
 八代は私の帰宅時に、能力の譲渡のため、通り魔になったわけだけど、一体どうやって私の居場所を突き止めたのだろうか。
 絶えず動かしていた足を止めて、頭を捻る。

 「ううーん……」
 顎に手を当てて唸るが、さすがに行動圏内を特定される呟きを、ネットに上げたことはない。ならばどうやって知ったのか――。

 「あっ!」
 思いの外大きな声が出てしまい、決まり悪そうに周りを見渡す。

 病院を出てから、全然周囲に気を配ってこなかったので、自分がいつのまにか、車通りの極めて少ない住宅街に来ていたことに、今ようやく気がついた。
 他者の目を気にしたが、人の姿は見あたらない。見られてたとして、特に不都合はないけれど。

 驚きの声を上げたのはもちろん、八代が私を見つけられた理由に、思い当たったからだ。

 私が勤めていた場所は、私が中学の頃から憧れていた会社だった。
 将来は、絶対にそこで働くんだ! と何人かの友達に決意表明していた。
 幸にも、だ。

 幸から、又聞きした宣言を覚えていた八代は、そこで働く社員について、調べたのではないか。
 どうやって調べ上げたのかは、定かではないけれど。

 「それで私がいる、ってわかって――帰り道をつけてたのかな……? 全然気付けなかったよ……」

 誰もいないのをいいことに、ブツブツ呟く。口に出した方が、考えをまとめられる気がした。

 「8年後の八代は、私に望みを託した、ってこと……?」

 絶対にそうだ、という確信を感じた。

 今さら、わからないことではあった。どうしたって、あの世界線にはもう戻れないので、私のこの予想も、確かめるすべはない。8年後の八代は、通りすがりのOLを衝動的に刺すまでに、堕ちていたのかもしれない。私が彼に殺されたことに、何の意図もなかったのかもしれない。

 でも、と思う。開いていた指を、手のひらの中に仕舞う。そこに力が加わり、爪が軽く皮膚に食い込む。
 どうせ確認できないのならば、信じていたい。

 私を殺した現代の彼も、変わらなかった。

 私の好きな八代襟人のままだったと、そう信じていたかった。
 どれくらいの間、立ち尽くしていたのだろう。

 私は、身近にあった電柱に寄りかかり、途方にくれてしまった。冷静になってくると同時に、どうやって帰ればいいのか、という問題が見えてきたのだ。

 どこを辿ってここまで来たのかも、覚えていない。それだけ考え事に夢中になっていたことに、軽く驚く。

 適当に歩いていれば、見たことのある道に出るか。楽観的に考えながら、住宅街を練り歩いていると——。

 「あれ、若葉さん――だよね?」

 後ろから声をかけられ、振り向くと、大和さんがほんの少し自信なさげに、首を傾げていた。
 意外な人物の登場に、私は目を丸くする。

 「大和さん? どうしてここにいるんですか?」
 「ああ、ここ僕の家なんだ」

 大和さんが、丁寧に指を揃えて示したのは、小さな一軒家だった。

 「知人に安く紹介してもらった、借家なんだ。外出しようとしたら、見覚えのある人がいたものだから」

 朗らかに微笑む大和さんに、軽く頭を下げる。

 「こんにちは。先日は、お見舞いに来てくださり、ありがとうございました」
 「ああ、無事に退院できたみたいで、良かったよ。もしかして、君もこの辺に住んでるの?」
 「いいえ。道に――」

 迷っただけです、と言いかけて、口をつぐむ。そして、代わりに尋ねた。

 「今家に、樹里亜さんいるんですか?」
 できるだけ軽い口調を意識した。大和さんは、「樹里亜? うん、いるよ」と言う。

 「あの……話したいことがあるので、自宅に上がらせてもらっても、良いでしょうか」
 「構わないよ。樹里亜にも訊いてみるから、ちょっと待ってて」
 大和さんは、自宅に入っていった。

 樹里亜は、急に訪ねてきた私を、どう感じるだろう。
 意気消沈している様を聞いて、心配して来てくれたんだ、とありがたく思うのか。
 それとも、何か勘づかれたのかも、と警戒するのか。

 後者なら、対面は断られる。私は、どうか怪しまれていませんように、と祈り続けた。
 気を揉んでいる時間は、短かった。大和さんがすぐに玄関から、顔を出す。

 「歓迎だって。『きっと心配で、来てくれたんだよ』って言ったら、喜んでくれたよ」
 前者だったみたいだ。良かった。
 「ありがとうございます。では、お邪魔します」

 扉を開けてくれた大和さんに、お礼を言って、上がらせてもらう。

 玄関口は、整然としていて、靴箱の上には、名前はわからないが、植物が植木鉢に生けられていて、もうじき花が咲きそうになっていた。丁寧な暮らしをしていることが、見て取れた。

 大和さんが、玄関を上がってすぐ近くの、左側の扉を開ける。私は、緊張した面持ちで、彼に続いて、部屋の中に足を踏み入れる。
 テレビの前の、二人掛けのソファーに座っていた樹里亜が、パッと振り向く。

 「わざわざ来てくれて、ありがとう。悠ちゃん。心配させちゃって、ごめんね」

 元気がなさそうに微笑む彼女は、妹が大変なことになって、心から悲しんでいるように見えた。
 顔がひきつらないよう気をつけながら、「いいえ、突然来たりしてすみません」と詫びる。

 「そういえば、大和さんは外出しようとしていたんでしょう? 大丈夫ですか?」

 これから樹里亜に話すのに、大和さんはいない方が良い。そう思って、彼を見上げる。

 「それほど大事な予定じゃないから、いいよ。お客さんをもてなすことの方が大事だ」

 にこやかに答える大和さんに、しょうがないか、と諦めの念を抱いたが、意外にも樹里亜が食い下がった。

 「いや、ここのところ病院行くとき以外、ずっと家にいたでしょ? ちょっと外の空気吸ってきなよ。悠ちゃんへのもてなしなら、私が美味しいお茶を入れるよ」
 「いいのかい? 無理しなくても――」
 「大丈夫だよ。大和こそ、最近私につきっきりで無理してるんじゃない? 悠ちゃんが来たから、ちょっと元気出てきたし、ね?」

 その言葉に、大和さんも納得してくれたようだった。

 「わかったよ。じゃあまたね、若葉さん」

 脱ぎかけた上着を羽織り直し、大和さんが玄関に出ていく。慣れた調子の「いってきます」を聞いて、いつも欠かさず挨拶しているのだな、と思った。

 「行ってらっしゃい」
 樹里亜が、玄関の方へ顔を向けて、見送りの挨拶をした。

 「今お茶を用意するから、座って待ってて」
 「いえ、結構です」

 台所に向かおうとするのを引き留めると、樹里亜は怪訝そうに眉を寄せた。

 「話したいことがあるんです。そして、訊きたいこともあります」
 「どうしたの? 深刻な顔して。何かお悩みなのかな? 私に答えられることなら、なんでも訊いてよ」

 頼れるお姉さん、といった風に、彼女は胸を叩き、再びソファーに腰を下ろした。

 「どうぞ。ごめんね、ここしか座るとこなくて」

 この家、あんまり広くないからね、と照れたように言って、自身の横を叩く。ここに座れ、という指示だ。
 あまり距離が近くなりすぎないよう、ゆっくりとソファーに尻を沈ませる。

 「それで、話したいことってのは?」
 顔を覗き込んでくる彼女に、負けじと目をしかと合わせる。

 「幸のストーカーと会ったんです」
 樹里亜の口角が、わずかに動いた——かのように思えた。

 「その人は、理人君と言います。彼は、『幸』というアカウント名の人物と、SNSでずっと連絡をとっていた、と言っていました。理人君は、辛い時期に自分を鼓舞してくれた『幸』に執心していて、その思いの強さは、常軌を逸していました」
 「へぇ、怖いね」

 他人事のように相づちを打つ樹里亜に、カッとなる。

 「でも、幸はSNSをやっていないんです。つまり、誰かが幸を名乗っていた、ということです」

 それはあなたですよね? と言外に含ませる。樹里亜は相変わらず何食わぬ顔をしている。

 「幸を騙っていた人物は、6月1日に、理人君を幸の家に呼び出して、幸と接触させたり、人気のない丘で、二人を鉢合わせたりしました。何でそんなことをしたのか、わかりますよね?」

 今度は私が、彼女の顔を覗き込む。
 樹里亜は、初めて同様したように、私から視線をそらした。

 しかしそれは、数秒にも満たない時間で、すぐに狡猾な彼女は、質問の意図がよくわからない、といった様子で、困ったような眼差しを向けてきた。

 「ごめんね、まったくわからない。察しが悪くて、申し訳ないけど……」
 「幸を騙っていた人物は――長いので、『偽幸』と呼びます。偽幸は、理人君が幸を殺すことを、期待したんです。幸を殺すことが、彼女の目的でした。理人君は、そのための道具です」

 樹里亜は、感情の読み取れない表情で、黙っている。

 「偽幸の企みは、失敗に終わりました。でも彼女は、幸を葬ることを諦めたわけではありません。理人君が利用できない、と思った彼女は、事故に見せかけて、自分の手で殺すことにしたんです」
 「幸が学校の4階から落ちたのは、誰かのせいだった、ってこと?」

 どこか不機嫌そうな固い声色に、鳥肌が立つ。
 ここまできても、取り乱した様子がない樹里亜が、何か人の手には負えない怪物のように見えた。
 私は怪物の顔は見ずに、ただ口だけを忙しなく動かす。

 「マミから聞きました。幸が落ちた日、あなたが訪ねてきたことも、ずっとマミを自分の都合の良いように、誘導してきたことも、全部。マミを餓死させようとしたことだって、こっちはもうわかってる。どんなに頑張ったって、ここからは取り繕えない!」

 最後はほとんど叫ぶように言って、勢いよく立ち上がった。
 樹里亜を見下ろし、問いただす。

 「偽幸は、あんただよね? 樹里亜!」
 とてつもなく重い沈黙が、部屋の中を満たす。

 樹里亜は俯き加減になっていて、どんな顔をしているのかは、見えなかった。

 私の荒い息づかいと、壁にかけられた時計の秒針の音だけが、長らく響いていた。

 「……これが“話したかったこと”。私的には、ここからが本番」

 死んだように動かない樹里亜に、問いかける。

 「どうして幸を殺そうとしたの? 幸のことを、少しでも大切に思ったことはなかった?」

 動機については、予想はついている。けれど、本人の口から聞きたかった。

 それに……。本当は、幸に――妹に生きてほしい、と思う気持ちが、樹里亜にもあったのではないか。
 そんなわずかな希望を、どうしても捨てきれなかった。

 真実を、聞きたい。私の中にはその思いが燻り、一分一秒もの時間さえ煩わしかった。
 だから、大和さんと偶然あった時、これはチャンスだ、と思い、家に上げてもらったのだ。

 樹里亜は、顔面蒼白になっていた。血色を失った唇が、小刻みに震えているのを見て、自分が追い詰められたことをようやく受け入れたのだ、と見てとれた。

 彼女が、頭を伏せた。肩が先ほどの唇と同じように動いている。
 そこからだんだんと、震えが大きくなっていき——私が心配し始めた頃、バッと顔を上げた。

 「ッ……! あはっ……はっ、あははっ!」

 狂ったように身体全体で笑う樹里亜を、私は呆然と見ていることしかできない。

 「はははっ! ひー……あー、疲れた」

 腹を抱えていたところから唐突に真顔に戻る。その一瞬の変化は、凄まじく不気味だった。一瞬、彼女は本当に化け物か何かなのでは、などと過ってしまった。

 「そっか……マミが生きてるんだったら、もうどうにもできないね」

 諦めたように、ため息を吐く。

 「何で幸を殺そうとしたのか、だっけ? いいよ。教えてあげる」

 愉快そうに、両手を広げる。

 「私さ、若いうちから東京で暮らす、って夢があるんだけどね、大和と結婚する以上、それはなかなか難しいことなんだ。何でかわかる?」

 口角をつり上げて、首を傾げる。小馬鹿にしたような態度に、これがこの人の本当の姿なのか、と思った。

 「わかるよ。お見舞いに来てくれた大和さんから、聞いた。あんたが実家を売りたい、って思ってたことも」
 「へぇ。わからないだろうな、と思って訊いたんだけど、大和が話してたんだ」

 虚を突かれたように、目を丸くさせた。

 「まあ、それならわかるでしょ? 幸が家を売ることに同意してくれなかったから、邪魔だな、ってなったんだよね。幸の了承がなきゃ駄目だ、って話だからさー」

 悪びれた風もなく、手のひらをひらひらさせる。
 予想していた通りの答えだった。殺そうとしたのだから、そこに優しい理由はありえないものの、やはり落胆があった。

 「くっだらないことに拘り続けててさぁ。何が、『思い出のつまった大切な家だから』よ。いつまでも過去の楽しい記憶を、引きずってるなんて、ホント陰気っていうか。美しい思い出が欲しいなら、どっか遠くにでも行って、いくらでも作ればいいじゃない。あんな場所にベッタリとか、心底気持ち悪い奴ね」

 頭に血が昇る。恐怖心のかわりに、煮えたぎるような怒りが湧いてくるのを感じた。その勢いのまま、樹里亜に怒鳴りつける。

 「幸が、家を手放したくないのは、あんたのせいでもあるのに! 何でそんな悲しいことばっかり言うの!?」
 「は? 私のせい?」
 「そうよ! 中学生の、まだ子どもの頃に、両親が遠くに行って――。そんな状況なら、残された家族同士で、助け合うものじゃないの? なのに、あんたは幸に冷たくし続けて。以前私に話したことも、嘘だったんでしょ? 本当は幸のことなんて、一ミリも考えてなかったんでしょ!?」
 「ちょっとうるさいんだけど。声のボリューム考えてよ。近所迷惑」

 痛そうに耳を塞いで、低い声で抗議してくる。それが私の神経を、余計に逆撫でする。

 「あー、うん。もちろんでたらめだよ。私は軟弱な幸と違ってさ、内にこもるタイプじゃないんだよね。友達とか彼氏とか――そういう外での楽しい付き合いに、夢中だったんだよ。妹とかどうでもよかった。ただ家にいる人、って認識」

 悪びれずにペラペラ喋る彼女を、睨み付ける。

 「幸は、あんたのこと好きだったのに……。罪悪感とかはないの?」
 「ないよ」

 樹里亜は、きっぱりと即答した。

 「意見の不一致で、死ななきゃならなくなったのは、ちょっと可哀想だなぁ、とは思ったけど。しょうがないじゃん、目障りなんだから。ゴールを阻む障害物は、取り除かないとね」

 頭の中で、何かが切れる音がした。
 パン、と皮膚が強くぶつかる音が、部屋の中に響く。

 その音で我に帰る。手のひらにジンジンとした痛みがあった。
 樹里亜は、左頬を押さえていた。少し溜飲が下がる。

 「いったた……。ちょっと饒舌になりすぎたね」

 先ほどまでより、落ち着いた声色で、赤く腫れた頬を熱そうにこすった。

 「もう手遅れだ、ってわかったら、なんか可笑しくなっちゃってさ……。殴られたことで、少し頭が冷えたかも」

 そう言って、長いため息を吐き出す。

 「理人君に近づいたのは、目的のためだけだったの? 彼について、思ってたことを聞かせて」

 またカッとなって、手を出さないように、一歩分距離を取って訊く。

 「あいつは、ただの道具だよ。それ以上でも、それ以下でもない。使えなかったら、捨てるだけ。ネットで、誑かし込めそうなのを漁ってたら、見つけたんだ」

 樹里亜にとって理人君は、ほんの一言で済ませられる存在だった。
 幸のときみたいに、苛立ちを語るわけでもない。まったく関心がない様子だった。
 樹里亜は、その話題には興味がない、という風に、退屈そうに爪をいじり出す。

 「あとは――そうだね。私がマミの筆跡を真似て書いたものは、もう見たかな?」
 「それなら、ここにある」

 ポケットから、折り畳んだ紙を取り出して掲げると、「そう、それ」と頷く。

 「マミがあの日、どうしてか目覚めちゃったみたいで、私の計画に勘づいて――でも他言はせずに、まず私に確かめよう、と思ってくれたから、まだ立て直せる、って思った」

 自白の機会を与えられたのに、樹里亜はそれを拒んだ。それどころか、さらに罪を重ねようとした。

 「それで偽の遺書を書いたんだ。マミが息絶えた頃を見計らって、家に行くつもりだった。縛られてるところを発見されたら、自殺として認められないからね」

 恐ろしいことを、淡々と話す樹里亜。そして、
 「まあ、発見されちゃったけど」
 と、残念そうに肩をすくめた。

 「マミのこと、どう思ってたの?」
 そのことも気になっていた。

 樹里亜にとって、マミはどういう存在だったのだろう。
 理人君と同じ、道具としてしか見てなかったのか。多少なりとも後輩として認めていたのか。

 「マミのことは、初めて会った時から、いいなって思ってたよ。すごく利用しやすそうな子だって」
 「利用?」
 「良くも悪くも純粋そうでさ。一度懐に入れば、どんなことでも信じちゃいそうな感じ。ああいうのに、常に肯定してもらえれば、気分良いだろうなぁ、って思った」

 見下したように話す樹里亜を見て、ファミレスでの、嬉しそうなマミの顔がちらついて、胸がチリッと痛む。

 「……マミが前に話してたんです。あなたと仲良くなったきっかけについて。中学の時に、部活内のいさかいを格好よく収めてくれたんだ、って。ハブられてた自分に、すごく親身になってくれたんだ、って」

 自慢げに言ってた、と付け加える。

 「ああ、それね」
 樹里亜が、くつくつと笑う。

 「実は私が、部員たちにマミを無視するように言ったの。そんで落ち込んでるところを慰めて、解決のために動いたように思わせたら、絶対に感謝するでしょ?」

 手品の種明かしをするみたいに、どこか得意げに話す彼女を見て、私は樹里亜という人間の一端を、完全に理解する。

 この人は、他人を操って良いようにすることに、躊躇いが一切ない。
 理人君が画面越しの人物だったから、非情になれたとか、幸が邪魔だったから、気は進まないけど、殺そうとした、とかではないのだ。
 樹里亜にとって、他人を血の通った人間として扱うことはなかった。

 「幸に思ってたことは、大体さっき言ったことが全部だよ。ただ血が繋がってるだけの間柄。まあ、どちらかと言えば、嫌いだったかな。こっちと話したそうに、そわそわしてるのとか、わりとうざかった。興味もなかったから、そこまで強い嫌悪感も沸かなかったけど」

 樹里亜が喋る気に食わない話にも、平手打ちした時ほどの強い怒りは、もう感じなかった。

 「自分のことしか、好きじゃないんだね、あんたは」
 「そんなことないよ」

 口を衝いて出た言葉を、樹里亜がすかさず否定した。

 「私が人殺しをしよう、って迷わずに決断できたのは、その裏に愛があったからなんだよ」

 樹里亜の瞳が、急にキラキラと輝き出す。
 それまでの、滑稽な事柄をせせら笑う感じではなく、テレビの中のヒーローに夢中になる子どものような、ピュアな眼差しに変わっていた。

 「大和を愛してるから、ここまでやったの。彼との幸せな生活のために、使えるものは全部使って、リスクも背負った」

 彼女は、そう言って、愛しそうにソファーをゆっくりと撫でた。

 「これに二人で座ってる時にね、大和にプロポーズされたんだ。なんて言葉だったと思う?」

 そんなのどうでもいい。真っ先にそう思ったけれど、声にはならなかった。
 唖然としている私を置き去りにして、樹里亜は続ける。私の返答など、最初から求めていないようだった。

 「『君は、僕の運命の人だと思う。僕と結婚したいと思ってくれるだろうか』って。そんなの決まってるじゃん」

 「むしろ、私でいいの? って感じだった」と付け加える。

 樹里亜は、嬉しそうに身をくねらせながら、どんどん喋る。

 「私は、こう言ったの。『私も、運命だと思う。大和と結婚したい。大和となら、理想の家庭を築けるって信じてる』ってね」

 熱が入った語りを、うんざりした目で眺める。
 ちょっと前までの怯えていた自分が馬鹿らしくなった。

 何てことはない。薄井樹里亜は、恋に狂った愚かな女でしかなかったのだ。よくよく考えてみれば彼女の計画も、狡猾に見えて爪の甘いところがいくつもあった。
 張りつめていた神経に、少し余裕が生まれてくる。

 「大和さんが、あんたのやったことを知ったら、きっと百年の恋も冷めるね」

 現実に引き戻そうとする私に、「ううん。私たちなら大丈夫」と自信たっぷりに首を振る。

 「大和は、私がどんな人間だったとしても、かまわない、って言ってくれたんだもの。私が、しばらく刑務所に入ることになっても、いつまでも待ち続けてくれる」

 そう言って、胸に手を置く。

 「悠ちゃんたちに、全部バレちゃったのは、痛手だけど、どうなっても私には、大和がいてくれる。彼がずっと一途に思ってくれるなら、耐えられる」

 ねぇ、と樹里亜は、私を見る。

 「大和は今日、友達と会う約束をしてる。昨日、彼の後ろを通った時に、スマホのカレンダーが見えたの。ここから三分くらい歩いたところにある三角公園で、14時に待ち合わせ、って書いてあった。ねぇ、お願い」

 しおらしく、頭を下げてくる。

 「警察に自首しに行く前に、彼に会わせて」

 私が黙っていると、樹里亜はますます深く頭を下げた。つい数分前の様子からは、想像つかない状況に、私はたじろく。
 それだけ大和さんのことを、想っているのだとわかった。

 「わかった。どうせもう逃げられないしね。でも念のため私もついていくからね」
 「ありがとう」

 許可が出ると、樹里亜は「じゃあ急いで行くよ」ときびきびと玄関へ向かう。

 時刻は、13時58分を示していた。
 早くしないと、大和さんが友達と、公園の外へ出てしまう。あるいは、もう出ているかもしれない。

 慌てて、樹里亜の後を追った。
 「すぐつくから」
 少し前を走る樹里亜が、乱れた息で言う。

 樹里亜の背中からは、早く彼の元へ行きたい、という念が、ビシビシと伝わってきていた。

 『私たちなら大丈夫』
 彼女の言葉がよぎる。

 樹里亜は、罪を償ったあとで、大和さんと幸せに過ごせるだろう。
 理人君にも、八代がいてくれる。もう悲しいことは起こらない。
 2022年に起きる殺人事件を未然に防ぐ、というミッションは、無事に完遂した。
 後は、幸が目を覚ましてくれれば――。

 「あそこだよ」
 樹里亜が指差した先には、こぢんまりとした公園があった。

 遠目に見えた二足のスニーカーで、二人の人間が、ベンチに座っていることがわかった。
 木で隠れて、二人の顔は見えないが、あれが大和さんたちだろう。

 「あっ、ちょっと!」
 樹里亜が急激にスピードを上げた。大和さんがいるとわかって、気が急いたんだ。

 樹里亜は、公園の入り口へと通じる横断歩道を、渡ろうとして――その途中で、ピタリと足を止めた。
 追い付いた私が、歩道から呼びかける。

 「そんなとこで立ち止まると、危ないって。一体どう、した、の……」

 抗議の声が、途切れ途切れになる。

 私の視線は、公園内の光景に釘付けになっていた。それは樹里亜も同じだろう。
 先ほどまでとは違い、座っている二人の全身が、見えるようになっていた。

 そこにいるのは、確かに大和さんだった。
 しかし、彼と一緒にいる相手は、友達ではないようだ。

 大和さんは、同い年くらいに見える女性と、キスしていた。
 彼は、女性の後頭部に手を回して、逃げられないようにしていた。キスをしている間、手慰みに彼女の長い髪をすいている。
 ややあって、重なりあっていた二人が、離れる。こちらには、微塵も気づいていないみたいだった。

 「私でいいの?」
 キスされていた女性が、遠慮がちに尋ねる声が、聞こえてきた。
 「君がいいんだ!」
 大和さんが、叫ぶ。
 「君は、僕の運命の人だと思う! 僕と付き合ってください!」

 何の後ろめたさもなしに、腹の底から出したような声で、断言した。何も知らない人間が今の彼を見たら、その真摯な態度をきっと称賛するだろう。
 しかし私は、抱き合う二人を見て、世界から音がなくなったような感覚になった。

 「大和……」
 樹里亜の声で、普段の感覚に戻る。
 彼女へと視線を戻し——息が止まった。
 横断歩道の途中で立ちすくむ彼女の右側から、大型トラックが迫っていた。
 あ、と反応した時には、もう遅かった。

 スピードを緩めることなく、トラックが樹里亜を跳ねた。
 聞いたことのない衝撃音がして、そのあとすぐに、重くて柔らかいものが高いところから落ちたような音が、少し離れた場所からした。
 音がした方へ首を動かすと、数十メートル行った先、赤い人間が道路上に倒れているのが見えた。

 「樹里亜!」
 彼女へ駆け寄る。顔を覗き込んで、後悔した。

 鼻がぐんにゃりと曲がっていて、目は眼球がこぼれ落ちそうなほどに、見開かれている。顎が外れているらしく、ぽっかりと開いた口の中には、闇が広がっていた。
 この世のものとは思えなかった。

 「うっ……」
 胃液が込み上げてきそうになり、口を押さえて、膝から崩れ落ちる。

 樹里亜の身体は、全身血まみれで、四肢があらぬ方向へ曲がっていた。魂がない、と明らかなことも合わさって、お化け屋敷に置かれている、マネキンのようだと感じた。
 それから慌ただしくなったが、私は夢の中にいるみたいに、現実味が薄く、ふわふわした感覚でいた。
 救急車の中で、即死だと告げられた時も、返答できたか定かじゃない。

 救急車には、大和さんも乗っていた。事故の音に驚き駆けつけたら、無惨な姿になった恋人を見つけ、悲鳴を上げて膝から崩れ落ちた。
 彼は、ずっと取り乱していた。別の人とキスした口で、樹里亜を呼び続け、別の人を抱き締めていた手で、樹里亜の手を握っていた。

 大和さんは、ひとしきり樹里亜を悼んだ後、何食わぬ顔で日常へ戻っていくのだろうか。
 公園で愛を叫んでいた、あの女性と共に。

 数人の救急隊員でひしめき合う車内の中で、私だけが彼の態度を、疑わしく思っていた。



 その後、私は数日の間、家に引きこもっていた。
 学校に行く気なんて、到底湧かなかった。あの平和で賑やかな場所にいたら、情緒がおかしくなる。

 時間が経つにつれて、だんだんと元の感覚を取り戻していくと、八代に会わなければ、と思った。

 八代からの連絡は、あの日以来、一度もきていなかった。
 その後どうなったのか。報せがない、ということは、よほど忙しくなったのか。
 樹里亜の訃報は、八代のところに届いたのだろうか。

 ベッドから抜け出し、メッセージを打つ。
 あの後どうなったの、と送信する直前に、送ろうとしていた相手から、メッセージがきた。

 『今まで連絡できなくて、すまない。色々ありすぎて、忘れちまってた。本当に悪い』

 すぐに続きが送られてくる。

 『明日、学校が終わった後に会えないか? 直接会って話した方が良いと思うんだ』

 そういえば明日は平日か。カレンダーを見て気付いた。

 『学校は休むよ。八代が空いてる、っていうなら、できる限り早めがいい』

 学校など、行っている場合ではない。
 聞きたいことも、話したいこともたくさんある。
 明日の午前6時に公園で、ということになった。

 外の空気を吸おうと、部屋の窓を開ける。いつの間にかすっかり暗くなっていたみたいだ。
 机の上の置き時計を見ると、もう23時だった。時間の感覚さえ、よくわからなくなっていたんだな、と驚く。

 机には、八代の父の日記も置いてある。それを手に取り、鞄の中にいれた。
 明日、八代に返そう。そして、思わず持っていってしまった理由についても話そう。

 私が、タイムリーパーということも、どうやって過去に来たのかも、私がいた8年後の世界のことも。
 全て、打ち明けるべき時だ。

 そして、八代にも尋ねたいことがある。
 タイムリープ能力を、すでに使ったかどうかについて。

 8年後の八代は、自分では過去に戻れなかったから、私を刺した――。そう思っている。
 ならば、八代の人生のどこかで、能力を使った時があったわけだ。この時代の時点で、使用済みの可能性もある。

 あとは、あの後理人君がどうなったのか。それももちろん気になっていた。

 「寝よ……」
 窓を閉め、再びベッドに戻る。

 眠れるかどうかは、わからなかったけれど、明日は早いのだから、そろそろ睡眠に入らなければ。
 ざわざわとした気持ちで、瞼を閉じた。
 結局、よく眠れないまま朝を迎えた。重りをつけられているかの如し、身体のだるさだ。
 しかし、頭は冴えている。洗面所に行って、冷たい水で顔を洗えば、気持ちも引き締まった気がした。

 「いってきます」
 気合いを入れるように、普段は言わない言葉を言って、家を出た。
 早朝の凛とした空気の中を、歩いていく。



 「お待たせ」

 待ち合わせの10分前だというのに、八代はもう来ていた。公園の入り口で、ぼんやりと空を見上げている八代に、声をかける。

 「久しぶり……ってほどでもないか。ほんの数日しか、経ってないんだもんね」

 そうだ。それくらいしか、経っていないのだ。病院で最後に会った日が、もう遠い昔のことのように思える。

 「おはよう、若葉。じゃあ、行こうぜ」

 挨拶を短めに済ませて、園内へと入っていく。本題に早く入りたいのだろう。私も同じ気持ちだった。



 「それで理人君は、あれからどうしたの?」

 ベンチに尻をつけたのを合図に、私は疑問をぶつける。

 「警察に、幸を襲ったことと、病院でのことを話した。――大和さんじゃなかったんだな。理人が殺そうとした人」

 八代が、恐怖を滲ませて言う。
 理人君は、無関係の他人の命を奪ってしまっていたかもしれないのだ。
 大和さんなら良い、ということではない。

 ただ、理人君が感じる罪悪感は、大和さんを殺したのと違って、凄まじいものになる。
 罪の意識に耐えられなくなり、理人君が命を絶つ――。
 そのような展開は、想像に難くなかった。

 「病院での件では、1年くらい少年院に入ることになった。一昨日、見送りに行ったよ。今までなんも報告してなくてごめんな」

 八代が、申し訳なさそうに頭を下げてくる。私は、いいの、と胸元で手を振る。

 「他人を気にする余裕もないくらい、一杯一杯だったんでしょ? 当たり前だよ。こんなことになったら……。だから、気に病まないで」

 八代は、ありがとう、と言うと、どこか遠くを見るような目つきになった。

 「警察署にいるとき、これからあいつはどうなるんだろう、と気が気じゃなかったよ。沢山の人たちを、怖がらせたし、迷惑もかけたんだ。一体どんな罰が下されるのか、また長年会えなくなるのか、って」
 「――うん」
 「だから、1年って言われて、少し安心した。もちろん理人は、悪いことしたんだから、罪は償わなきゃいけねぇけど、それでも軽く済んでほしい、って願ってたんだ。人として、良くないことかもしれないが……」
 「ううん。そんなことない」

 後ろめたく思う必要はない、と首を振る。

 「八代は、良い人間だし、最高の兄だよ。胸を張っていい」
 「ありがとな。ここのところ、めちゃくちゃ落ち込んでたんだけど、若葉と話してたら、回復してきた気がする。本当にいつも世話になってるな」
 「そんな……私こそいつも……」

 ずっと暗かった八代の表情に光が射して、ホッとする。

 「病院での件では、ってことは――幸を殺そうとしたことについては、なんて言われたの?」
 「ああ、それはな――」

 八代が言葉を切って、ため息を吐く。

 「被害者の幸からも、話を聞く必要があるんだが……今の状態じゃ無理だな。まずは幸が目覚めないと、話が進められない、って」

 幸が理人君を擁護するなら、殺人未遂については、示談に終わるかもしれない。
 逆に、彼女が厳罰を望めば、懲役が決定する。
 何にせよ、被害者である幸の意見が重要だ。
 しかし、幸は未だに意識が戻らない。戻る目処も立っていない。膠着状態、というわけだ。

 「困ったね……」
 色々な意味が込められた一言が、ため息混じりに私の口から出る。

 幸とまた一緒に学校へ行きたい。来年の夏祭りにも行きたいし、卒業旅行にだって。
 まだまだやりたいこと、たくさんあるのに。

 涙が滲みそうになって、気を取り直そうと、慌てて質問する。

 「理人君は、見送りの時何か言ってた?」
 「ああ。『今まで、心配も迷惑もかけてきて、ごめん。これからだって、たくさん苦労かけると思うけど、僕に出来ること、僕がすべきことを、考えていくよ』って」

 まだ少し苦しそうだが、晴れやかな顔だった、と嬉しげに言う。

 「あとな、去り際にこうも言ってくれた。『ここを出たら、兄さんに目一杯の恩返しをするから、待ってて。絶対!』って。それを聞いて、なんか……たまらねー感じになって……」

 胸を握りしめた拳で押さえながら、「あいつ、笑ってたんだ」と声を絞り出す。

 「理人のあんな顔、何年も見てなかった。その笑顔を見た瞬間、『もう大丈夫だ』ってふっと思って……」

 話を聞いただけなのに、私にはその時の光景が、映画のようにくっきり浮かんできた。

 理人君は、清々しい顔をして、八代に宣言する。
 ここを出たら、必ず会いに行くから待っていてほしい、という意志と願いを込めた、言葉――。
 それを受けた八代は、もちろん頷く。そして、きっと泣いただろう。
 今だって、泣きそうになっている。
 震える彼の拳を見て、愛しさが込み上げてくる。

 「よかったね」
 自分でも驚くほど、優しい声が出た。
 「ああ。本当に……よかった」
 心が熱くなる。彼らが正しい形になったことが、こんなに嬉しい。

 「若葉も、ありがとうな。色々あったのに、理人のこと許してくれて――あいつも、感謝してたよ。『若葉さんにも、迷惑かけたから、謝っておいて』って言ってた。もちろん直接謝りにも、行くつもりみたいだが」
 「そうなんだね。私も、会いたいな。1年か……あっという間だけど、次理人君に会った時は、ずいぶん変わってると思うな」

 その時が今から楽しみだ。
 「そういえば、八代。樹里亜のこと……聞いてる?」

 恐る恐る尋ねると、八代が沈痛な面持ちで頷いた。

 「飲酒運転のトラックに跳ねられて、即死だろ? 病院で会った大和さんに聞いた」

 大和さんの名前が出て、体温が下がる。

 「大和さんの様子はどうだった? 何か違和感はなかった?」
 「違和感……?」

 八代が、怪訝そうに反芻する。

 「悲しそうな様子だったよ。――当然だよな。あんなに惚気てた恋人が、死んじまったんだから。大和さんが、『悲しすぎて、涙も出てきません。現実じゃないみたいです。悪い夢だったら良いのに……』って言ってるの聞いて、こっちまで苦しかったよ」

 本当にそうだろうか。
 悲しくなさすぎて、涙が出てこなかったんじゃないか。
 あまりの悲痛に打ちのめされて、泣けなかったというのは、泣きあとが微塵もないことの、周囲への言い訳じゃないのか。
 今ごろ大和さんは、公園で抱き合っていた女性と、樹里亜の死なんてなかったように、笑い合っているんじゃないか――。

 「どうした? なんか様子が変だけど……」

 黙ってしまった私を、八代が心配そうに見る。

 「実は私、あの場にいたんだよね。樹里亜が跳ねられる瞬間を、目の前で見た」
 「はっ!? マジかよ……それは、災難だったな。――つーかもしかして、あの日樹里亜に会いに行ったのか?」
 「うん。道に迷って困ってたら、大和さんの家の前だったみたいで。樹里亜がいる、っていうからつい――会わなきゃ! って思っちゃって」

 八代に黙って、急遽一人で会おうとしたことへの申し訳なさで、ばつが悪くなる。

 「ごめんね、独断専行しちゃって」
 「いや、俺が若葉の立場でも、多分同じことしてた。自然な流れだ」

 そう言って八代は、気遣うような目になった。

 「だからさ、気にすんなよ」

 それを聞いて、わかった。八代は、私が気に病んでいることを察したのだと。
 私があの日、会いに行かなければ、樹里亜は死ななかった――。
 家に引きこもってる間、ずっとそう思い続けていた。

 予定通りに、八代と二人で会いに行っていれば、良かった。もしくは、別の日にすべきだったのだ。
 そうすれば、大和さんの浮気現場を、樹里亜は見ないで済んだ。
 樹里亜は、迫ってくるトラックに気付けたし、横断歩道の途中で呆気にとられることも、なかったのに。

 いいや。私が最も悔やんでいるのは、事故の瞬間のことだ。
 私は、トラックと樹里亜が激突する直前、手を伸ばせば、彼女に届く距離にいた。
 私の反応があと一秒でも早ければ、樹里亜は助かっていたのかもしれないのだ。

 樹里亜が死んだのは、私のせいだ。
 一度思うと、その考えが頭から離れなくなり、昨日までベッドの上で縮こまって、震えていた。

 今でも胸の奥で、罪悪感がジクジクと痛み続けている。
 けれど、八代に『自然な流れ』と言ってもらえて――すっと気持ちが軽くなった。
 彼は、樹里亜の死を、私が責任に感じる必要はない、と励ましてくれたんだ。その心遣いに胸が温かくなる。

 「うん。ありがとう、八代」

 感謝が伝わるようにと、精一杯の笑顔を見せる。
 八代は、安心したように笑い返した。

 「それで、理人君とマミのことを話したの。もう逃げられないよ、ってことを伝えたら、全部白状してくれた。何でそんなことしたのかも聞いた」

 予想通りだったよ、と付け足す。

 「幸が同意しなければ、家を売れないから、殺したんだ。自分の夢のためなら、幸が死ぬのなんてどうでも良い、って感じだった。実際に悪し様に言ってたの。あんまり酷いことばっか言うから、私――」

 熱が入りすぎたことに気付いて、口を閉じる。
 樹里亜の暴言の、全てを記憶しているわけじゃないけど、そのどれもに腹が立ったことは、覚えていた。
 冷静にならなければ、と深呼吸をする私を見て、八代は察してくれたらしく、続きを促すことはせずに、私が話し出すのを待ってくれた。

 「理人君とマミのことは、どう思ってたの、とも訊いた。どっちの回答も最悪だったよ」

 口の中が、苦くなる。出来るだけ毒が抜けた言い方になるように、と必死に頭を巡らせるが、上手くいきそうもなかった。

 「理人君のことは……道具だって言ってた。それだけだって。ネットで利用できそうな人を探してて――白羽の矢が立ったのが、たまたま理人君だった」

 まったくオブラートに包めなかった。自分の機転の利かなさに、嫌悪感が湧く。

 「そうか。ありがとな、若葉。理人のことも、ちゃんと訊いてくれて」

 予期せぬお礼の言葉に、たじろぐ。それと同時に、安堵を覚える。八代の表情が、さほど重いものではなかったから。

 「折野については、何て言ってたんだ? 俺の目には、二人は年齢がひとつ違いの親友のように見えてたんだが……」

 やはり、そう映っていただろう。私は、残念そうに首を振った。

 「マミのことも、都合の良い人間、って思ってたんだって。マミがさ、樹里亜を慕うようになったきっかけを、前に話してたこと覚えてる?」
 「山田を待ってた時だよな。覚えてるよ。部活内のいざこざを樹里亜が颯爽と解決して、折野を助けたって話だろ」
 「そう。実はその一件は、マミを懐柔するために、樹里亜が仕組んだことだったんだ」
 「は? 何でそこまでして……」
 「樹里亜は、マミのこと、純粋そうで、一度懐に入れたら、何でも信じちゃいそう、って言ってた。ああいうのに、常に肯定してもらえたら、気分良いだろうな、って。だから、部員たちに協力してもらって、芝居を打ったんだ」

 八代は「マジかよ……」と絶句する。

 「太鼓持ちとして、気に入ってたってことかよ。あんまりだろ……」

 マミは、今何を考えているのだろうか。
 もう退院したのか。樹里亜の訃報を聞いたのか。もし聞いたのなら、どう思ったのだろう。

 渋い顔をする八代を、見遣る。
 大和さんのことを、話すべきか迷っている。こんなに嫌なことは、別に伝えなくても良いような気がしてきた。
 打ち明けたところで、誰も得しないのではないか。

 私だけが、大和さんが隠してた不誠実さを、知ってる。それは、どうにも釈然としない感じだった。
 しかし、このもやもやした気持ちは、じきになくなるだろう。
 私が黙ってれば、誰も嫌な気持ちにならない。ならば――。

 「……い。おい、若葉」
 肩を揺さぶられて、ハッとする。

 「大丈夫か? 顔色が良くないけど、気分が悪いのか?」
 そう言って、顔を覗き込んでくる。
 何かを悟られるような気がして、急いで答える。

 「ううん。平気だよ。久しぶりに早起きしたから、頭がボーッとしてるのかも」

 作り笑いを浮かべても、八代は疑うような目付きをやめなかった。

 「若葉。なんか隠してることあるだろ」

 口角がひきつるのが、はっきりわかってしまう。自身の不器用さが憎かった。
 ここから誤魔化す気にもなれず、大人しく「うん」と頷く。

 「ごめん……でも、そんなに大事な話でもないの。事のあらましには、関係ないことで……」
 「だけど若葉は、そのことが引っ掛かってるんだろ? 一人で抱えこむなよ」
 「でも、良い気分になる話じゃないよ? 樹里亜が起こした事件とは、関係のないことだし……」
 「いいから。俺は、若葉が一人でそんな顔をしてるのが、耐えられないだけだ。話して楽になれそうなら、遠慮なんて一ミリもしなくていい。全部ぶちまけちまえよ」

 八代は、隠される方が辛い、というように眉尻を下げる。
 ここまで言われて、話さないなんて選択肢は、私の中にはなかった。

 「実は――」