辺り一面、エメラルド色の輝きで埋め尽くされたその光景は、まるで別世界のようだった。どんなに華やかなライトで飾った都会の街の夜よりも、綺麗だと思った。
大人って、つまんない。私がそう思い始めたのは、小四に上がった頃くらいからだ。
日々、忙しそうに、家にいる時でさえ、電話対応に追われている両親を見ていて、私は気づいてしまった。大人になっても、子どもの私が憧れるようなことは、できやしないのだと。それ以来、私はすっかり、大人になんてなりたくないと、無茶な願望を抱くようになった。
そんな年頃。家を開けることが多い両親は、毎年、夏休みになると、私を田舎に住むおばあちゃんの家に預けた。その年も、私は、夏休みの大半を、おばあちゃんの家で過ごすことになった。山の麓に面していて、都会の喧騒と、しばらくの間、離れることができて、私は、ずっとこっちに住んでいたっていいくらい、おばあちゃんの家が好きだった。
蝉の合唱団が、がなり立てる夏の盛り。その日、私はおばあちゃんに頼まれて、近所の八百屋へおつかいに出ていた。
八百屋のおじさんは、明るくて、気前のいい人だった。子どもの私が行くと、いつもおまけでアイスをくれた。
夕飯のカレーの材料になる野菜を、おじさんが袋につめている時、私はふとこんなことを聞いた。
「ねぇおじさん、山の中に宝物があるって話、本当なの?」
「ああ、その話か」
するとおじさんは、ほんの一瞬、手を止めて、宙を見つめた。
というのも、この山にはある一つの伝説があった。それは、山のどこかで、夏の夜にだけ見つけることができる、緑に輝く宝物があるという話だ。その頃の私は、そういう系統の話にものすごく興味をそそられた。
「本当だよ。ただ、山の奥の方は、熊が出るとあぶねぇからな。おじょうちゃん一人で、行っちゃあいけねぇよ」
「ふーん、そうなんだ」
そうこう話している内に、詰め終わった野菜の袋をおじさんが渡してくる。
「ほらよ、一丁上がり。今、アイスとってくるから、ちょっと待ってろ」
「わーい! いつもありがとう、おじさん!」
片手に買い物したビニール袋を持って、もらったアイスを食べながら、私は上機嫌でおばあちゃんの家へもどった。
その夜、おばあちゃんが作ってくれたカレーを食べた。両親が仕事で忙しいと、インスタント食品やら、コンビニ弁当やらの食事になりがちだった私にとって、まともな手料理が食べられるのなんて、この時ぐらいだ。
めまぐるしい都会の生活なんかより、のんびり暮らせる田舎の方がずっといいと思った。ただ一つ、難点を上げるなら、田舎の夜は早い。ここからもう少し、山を下りた場所にある数少ないコンビニすら、夜の十一時には閉まってしまう。
おばあちゃんが早くに寝てしまうと、私は決まって、毎晩、暇を持て余した。うんと小さい頃は、絵本を読んだり、折り紙をしていれば、いつの間にか、寝入ってしまっていた。けれど、流石に小学四年生ともなると、いい加減、そういう遊びは卒業してしまう年齢だ。
「うーん、何しようかな。どうせまだ、布団に入っても寝れないし」
なんとはなしに、窓の向こうに林立する木々を見やる。ふと、日中、八百屋のおじいさんとの会話を思い出した。
「そうだ、あの伝説。緑に輝く宝物、か」
その時、幼い私の好奇心に火がついた。
「見てみたいなぁ」
うーん、探しにいってみようかな。
気づけば、私の体は勝手に動いていた。まるで、不思議な魔法にかかってしまったみたいに。
極力、音を立てないように、縁側沿いの窓から、こっそりと外に出る。
田舎の夜は涼しくて、都会のような、うっとうしい暑さを、さらさら感じない。辺り一面、静まり返っていて、せいぜい聞こえてくるのは、しんみりとした虫たちの歌声くらいだった。
持ってきた懐中電灯を頼りに、山の深い方へと歩いていく。進むに連れて、徐々に周囲を取りまいていた草木が、よりうっそうと生い茂って、さっきまでいた場所よりも、薄暗く感じた。
「どこにあるんだろう」
しばらく歩いてようやく、幼い私は、自分の浅はかさに気づいた。いくらなんでも、情報がなさすぎる。伝説のこと、もっとよく調べて出直すべきだった。
「今日はもう帰ろうかな」
そう思った私は、くるりと踵を返して、もと来た道を引き返そうとした。
「あれ? どこから来たんだっけ?」
四方を見回してみるものの、どこも同じような大木が葉を広げて、立ちふさがっているだけ。
「もしかして私、迷っちゃった?」
その時、手に持っていた懐中電灯の明かりが切れた。
「こんな時に電池切れっ!?」
藁にもすがる思いで、何度も、ボタンを連打する。が、しかし、懐中電灯はぴくりとも反応しなかった。
「そ、そんな……」
頭の中がパニックになりかける。なんとか一旦、冷静になろうと思って、その場にしゃがみこむ。と同時に、ものすごい後悔がどっと押し寄せてきた。少し前までの愚かな自分自身が、憎いとすら思った。
「助けて……怖いよ、おばあちゃん……」
恐怖に押しつぶされそうになっていたその時。
シャンシャン。
どこからか、音が聞こえた。
「ひっ……何の、音? 誰かいるの……?」
突如として、鳴り出した正体不明なその音は、どんどんこちらへと近づいてくる。
この場から逃げ出そうにも、足が硬直して、一歩たりとも動かない。
使い物にならなくなった懐中電灯をぎゅっと握りしめたまま突っ立っていると、やがて、暗闇の中から、音の正体が現れたーー正確に言えば、音を鳴らしていた正体だったのだけれど。
「え……」
茂みの中から出てきたのは、私と同じ歳くらいの、一人の男の子だった。
向こうも、私と同様、驚いたように、こちらをじっと見つめてくる。
暗がりでもわかる、キリッとした切れ長で、涼しげな瞳。ちょっぴり大人っぽい雰囲気を漂わせる彼は、正直、一目で見て、かっこいいと思った。
ちらりと視線の先をずらすと、彼の腰には、銀色の鈴がつけられていた。
「あっ」
思わず、声が漏れた。ひょっとして、さっきまでの音って、この鈴?
一度、大きくまばたきをした後、男の子が口を開いた。
「ねぇ、もしかして君、この山の宝を探しにきたんじゃない?」
「へ? ああ、う、うん。それはそうなんだけど」
開口一番に、そう聞かれて私はちょっと戸惑った。心の中が、まるで筒抜けになっているみたいだった。
「ごめんごめん。初対面なのに、いきなりこんなこと言われても困るよな」
私の困惑ぶりを読み取ってか、彼は軽く謝ってから、自身の名を名乗った。
「オレは光(ひかる)。君はなんていうの?」
「帆夏(ほのか)」
答えると、彼、光くんは思案顔をした。
少しして、彼は思い立ったように尋ねてきた。
「帆夏ってさ、ひょっとしてよその街から来てたりする?」
「うん、普段は都会に住んでるよ。この近くにおばあちゃん家があって、夏休みになると、しばらく泊まってるんだ」
「やっぱりそうか」
なぜだか、わかりきった様子の光くんに、今度は私が聞いた。
「なんでわかったの?」
「見たことない子だなって思ったんだ」
すると、彼は事細かに説明してくれた。
「実はこの辺りじゃ、学校って一つしかなくてさ。オレも通ってるんだけど、全校生徒全員集めても、三十人くらいしかいないから、顔覚えられちゃうんだよね」
「そんなに少ないんだ」
三十人と言えば、私の学校のちょうど一クラス分くらいの人数だ。
「そーそ。こんな、木ばっか生えてるような田舎じゃ、仕方ないことなんだけどさ」
そう言って、彼は笑う。その拍子に、腰の鈴が鳴った。
「どうして、鈴なんかつけてるの?」
「ああ、これか。熊よけだよ」
「クマよけ?」
「そう。熊って、鈴の音を聞くと、人間がいると思って、自分から逃げてくんだ」
「へぇー、そうなんだね。全然知らなかったよ。ほら、クマって、都会じゃ動物園ぐらいでしか見ないから」
気づけば、まるでクラスメイト同様、光くんと楽しく談笑していた。つい数分前までの、恐怖といい、あの心細さはどこかへ過ぎ去ってしまったようだった。
「あっ、そうだ。帰り道、教えてくれないかな? 私、伝説が本当なのか知りたくて来たんだけど、迷ちゃって」
お願いすると、光くんはすぐにいいよとうなずいてくれた。
「でも、せっかくだから、ちょっと遠回りしていかない? 帆夏にこの山のこと紹介したいんだ」
私は喜んで彼の提案に乗ることにした。
山の中を歩きながら、私達はお互いのことをこれでもかというほど話した。
ふと私の住む都会の話になると、光くんはものすごく羨ましがった。そんなにいい場所でもないよと、私がかぶりを振ってもなお、彼は都会に憧れているようだった。私からしたら、こっちの田舎の方がよっぽど快適なんだけどな。
やがて、先を歩いていた光くんの足がぴたりと止まる。すると、彼は、持っていた懐中電灯の明かりを消した。
「えっ。なんで消したの?」
率直に聞くと、彼は明るい調子で、こっちを振り向いた。
「必要ないからだよ」
まるで、これからショーでも始まるみたいな、そんなうきうきとした声だった。
「見てごらん」
彼が指し示した方へ、目を向ける。と、次の瞬間。エメラルド色をした、脆い灯りが一つ、木々の隙間にちらついた。
「ついてきて」
ぼうっと立ち尽くしていた私は、はっとする。
急いで、後を追うと、その先には、幻想的な風景が視界いっぱいに広がっていた。
「すごいっ」
それ以外の言葉は、その時の私の頭にはなかった。
小さな川の水辺に、いくつもの、エメラルド色の光が反射している。そう、それは蛍の灯りだった。
「あっ」
そして、私はあることに気がつく。
「夏の夜にだけ見つけることができる、緑に輝く宝物って……」
となりで、光くんが、そっと笑ったのがわかった。
「もうわかったでしょ? これが伝説の正体だよ」
彼のその一言で、全ての謎が紐解かれた。
人工的に造られた、都会の街明かりとはわけが違う。自然の恵みがもたらした、その光彩は、一瞬にして私の心を奪ってしまった。いくら眺めていても飽きない気がした。
私は自分が誰だったのかも忘れて、しばらくの間、その場に、ぽかんと立ち尽くしていたように思える。
やがて、川沿いの茂みに腰を下ろした光くんの姿が目に入って、ようやく我に返る。
「緑に輝く宝っていうのは蛍のことさ」
彼にならって、そばに座ると、光くんは伝説について語りだした。
「きっと誰かが話を面白おかしくしたんだろうね。伝説なんて、いくらなんでも大げさ過ぎるって思わない?」
「それは確かに。でも」
私はもう一度、辺り一帯をぐるりと見渡した。まるで、エメラルドのごとく閃閃と輝く蛍たちを。
「こんなに綺麗だったら、伝説にしてもいいんじゃない?」
私の発言に、光くんは切れ長の瞳を大きく見開くなり、屈託のない笑みを浮かべた。
「それもそうだな!」
それからまたしばらくの間、私達は、蛍の灯りに囲まれながら他愛のない会話を交わした。うっとりとしてしまうほど、幸せな時間だった。
夜がふけてきて、そろそろ帰ろうと、光くんは言った。
「あのさ、光くん!」
立ち上がりかけていた彼の背中を、思わず、大声で止めてしまった。
「ん? どうしたの?」
きょとんとした瞳が、こちらをのぞきこんでくる。なぜだか心臓が、静かに、それでいてはっきりと胸の中で脈打っていた。
「あ、明日も、明後日も、そのまた次の日も、ここで蛍見ながら一緒に話さない? 夜、一人だと暇なんだ。それにもっと光くんと、色んなこと話したい」
最後の方になってくると、だんだん声が小さくなっていった。
「それ、オレも言おうと思ってたんだ! 今日、すっげぇ楽しかったから」
「じゃあ!」
「明日も、明後日も、その次の日も、帆夏がこっちにいる間、二人で蛍を見ようぜ!」
にこやかに笑った光くんの顔は、蛍の灯りで照らされて、なんだかすごく印象的だった。
それからというもの、おばあちゃんの家にいる期間、私は毎晩、光くんと蛍を眺めた。これまでの人生で一番、幸せな夏休みだったと思う。
そして、とうとうやってきた別れの日。私は光くんと約束を交わした。また来年の夏休みに会おうよ、と。
一年後の夏休み。おばあちゃん家に着くなり、真っ先に光くんのことが頭に浮かんだ。本当は今すぐにでも会いたい。けれど、彼がどこに住んでいるのかまでは知らなかった。はやる気持ちを必死に抑えて、夜が来るのを待った。
しかし、その夜、光くんは現れなかった。一年前、一緒に蛍を見たあの場所にも。私が知る限り、山の中のどこを探しても、彼の姿はなかった。
約束、忘れちゃったのかな。不意に頭をよぎった不安が、時間の経過とともに膨らんでいく。年甲斐もなく、私は泣きそうになってしまった。
光くんと再会できないまま、おばあちゃん家で過ごす日々が続いた。そんなある時、私は衝撃の事実を知った。
その日、私はおばあちゃんにおつかいを頼まれて、八百屋に行った。もしかしたら、なにか知っているかもしれないと思って、光くんのことをおじさんに聞いてみた。
そして、おじさんから返ってきたのは、光くんが引っ越したという話だった。
驚きで、手に持っていた袋を落としそうになったのを今でも覚えている。おじさんの言葉が、すぐには呑みこめなかった。だってそれは、もう光くんとは会えないことを示唆していたから。信じたくなかった。
それからさらに五年の月日が流れた。高校一年になったにも関わらず、それでもまだなお、私は光くんと過ごした日々を、忘れることができずにいた。決して、もう二度と、あの涼しげな瞳を見ることはできないというのに。
自分がまた一つ大人に近づいてしまっている実感が、成長に伴って、じりじりとこみあげてくる。そのたびに、光くんと会いたくなった。
きっと、私にとって、これまで失ったものの中で、彼という存在ほど大きなものはない。 しょせん、ほんの一時の幸せだったのかもしれないとも思う。
実を言うと、中学に上がって以来、私はおばあちゃんの家に行っていなかった。その理由は至って単純で、部活とか、色々忙しかったから。
そして、高一になった今日、四年ぶりに、この場所に戻ってきた。久しぶりに見た田舎の景色は、私に安心感を与えてくれる。しかし、同時に、もうここに光くんはいないのだという、虚しさが胸の中に暗い影を落とす。
昔と何ら変わりないように思えた。道なりにそびえる木々も、穏やかに流れていく生活音も。ただ一つ、光くんがいなくなってしまったことを除いて。
しばらくぶりに八百屋のおじさんのところに行ってみた。
そしたら、
「こりゃたまげた。すっかり大人びっちまったなぁ、おじょうちゃん」
と、目を丸くして言われた。あいかわらず元気そうで、ほっとした。
高校の話なんかをすると、おじさんは独りでに盛り上がっていた。
いつかの日と同じように、カレーの材料を買う。こんな歳になっても、おじさんはおまけのアイスをくれた。
「大人びた、か……」
帰り道。なんとはなしに出たつぶやきが、蝉の鳴き声に紛れて消える。
そっか。私も、いつかは大人になるんだよね。
誰だってそうだ。健常に生きている限り、それは避けては通れない道。
それでも、時おり考えてしまう。私には大人になれる日なんて、一生来ないのではないかと。
その夜、部屋に一人になった私は、やろうと思っていた夏休みの課題も手付かずに、ぼんやりと布団の上に鎮座していた。
何もする気が起きない。けれど、寝るにはまだ早すぎる。
考えあぐねた結果、私は机の中を漁っていた。
「あった」
懐中電灯。ふと苦い思い出が、頭をよぎる。あれがなければ、光くんとも会えていなかったのかもしれないけれど。
「電池、新しいのに変えとこう」
別にあの場所へ行ったからといって、光くんがいるわけじゃない。ましてや、大人になる現実から逃げられるわけでもない。
ただ、せめて思い出の中だけでいいから、あの時のゆったりとした気持ちに浸りたくなっただけ。
奥へ、奥へと山の中を進む。もう一人でも迷わない。だって何度も、何度も、彼と一緒に歩いた道だから。
もうすぐ着く。
ここまで来る道すがら、なんだかちょっとだけ、山の中が、以前よりこぢんまりしたように思えた。多分、それはきっと私が成長したせい。
自分が大人になりつつある事実に、感傷的になっていたその時だった。
シャンシャン。
どこかから聞き覚えのある音がした。
「この音って――まさかっ!?」
途端、ホコリを被っていた記憶が、激しく渦巻いた。
シャンシャン。
とっさに耳を澄ます。近づいてきてる。こっちに。徐々に徐々に迫りくる気配に、胸が高鳴る。
そして、とうとう、木々の間から彼は現れた。五年間ずっと、私が待ち焦がれていたその姿。
以前と比べると、かなりすらりと伸びた背丈。もう見上げなければ、視線を合わせることはできなくなっていた。
涼しげな色をたたえた、切れ長の瞳。クールな印象が、いっそう増した気がした。
「光くん!」
「帆夏!」
ほぼ同時とも言えるタイミングで、私達はお互いの名前を叫んでいた。その残響が、枝葉の隙間から夜空へとこだまする。
「やっと会えた!」
気付けば、我を忘れて、私は彼の胸の中へ思いっきり飛び込んでいた。
「お、おいっ。喜び過ぎだって。そりゃまぁ、嬉しい気持ちはオレも同じだけどさ」
頭上から困惑気味な光くんの声がして、はっとする。一体、なにをやっているんだ、私は……。
「ご、ごめん」
顔が赤くなっているのが、自分でもわかる。でも、光くんにバレたくなくて、なんとか誤魔化しながら、腕を離した。
「平気。そんなに気にすんな」
見上げるとそこには、私がずっと求めていた優しい笑みがあった。決して、再会することは叶わないと思っていただけに、うかつにも涙がこぼれてしまいそうになる。
「いくらなんでも五年は長いよっ」
色んな感情が、一斉にこみ上げてきてごちゃまぜになる。つい本音を吐き出してしまった。
「ごめんな、帆夏。勝手に約束破って。本当に悪かった」
と、今度は彼が謝る番だった。
「実はオレ、帆夏が帰った後、急に引っ越すことになって。この山を離れなくちゃならなくなったんだ」
わかっていながら、光くんの話を、私はうなずきながら聞いていた。
「それで今日、久々にここに戻ってきたんだ。真っ先に、あの場所が浮かんだよ。もしかしたら帆夏と会えるかもしれないって思って。まぁでも、流石に忘れてるかもなって、ついさっきまでは諦めてたんだけど」
「忘れるわけないじゃん」
自然と語気が強まった。五年間溜まっていたもどかしさが、今になってようやく、一気にあふれ出した感じがした。
「たったの一回だって、忘れたことないんだからね。光くんのこと」
この五年間、思い返してみれば、私はずっと、あの場所にいたような気がする。たとえ、体が都会の街を歩いていたとしても、私の心のようなものはきっと蛍の灯る川辺の茂みにいた。そこでずっと、光くんが現れるのを待っていたんだ。
「ねぇ、光くん。今夜も」
言いかけた私に、彼は笑みを深めた。わかってるよとでも言うように。
温かな灯りがあふれ出す方へ、私達は歩み寄っていった。そして、たどり着く。世界で一番美しい思う場所へ——となりにいる彼と、五年ぶりの再会を果たした末に。
「大人になっても、この景色が綺麗だって思えるかな?」
「どういう意味だ?」
不意に、私が投げかけた疑問に彼は、きょとんと首を傾げた。
「なんか、私ね。だんだん大きくなっていく内に、色んなもの、失っちゃった感じがするんだ。なんていうんだろう。心が空っぽになっちゃったみたい」
得体の知れない何かが、胸の中で引っかかって、時々、激しい不安に襲われることがある。なんとなくそれが、大人になることへの恐れだと、薄々は勘づいてもいるけれど。
彼はどうなんだろう。私みたいに大人になるのが、そんなに怖くないんだろうか。
「光くんは大人になりたくないって思うことある?」
気付けば、率直に質問していた。冷静に見れば、私はさっきから彼に、変な発言ばかりしている気がする。
「うーん。オレは別に思わないかな」
「そっか」
あっさりした彼の返事に、拍子抜けしてしまう。正直、そこは肯定して欲しかった自分がいる。
「帆夏の言うことも、全くわからないことはないよ」
すると、彼は突然、話を変えて、こんなことを言い出した。
「蛍ってさ、千年以上前から存在してたって言われてるんだ」
「歴史が長いんだね」
光くんはうなずく。と、彼は周囲を取り囲む蛍の灯り一帯をじっと見据えていた。
「オレが小さい頃、じいちゃんが言ってたんだ。この灯りはずっとずっと昔から、人々の心を照らしてくれてる。そして、オレ達の生きる時代を越えたその先でも、途絶えることなく、蛍は輝き続けてるんだって」
朗らかに語る彼の横顔。それに緑の淡い光が相まって、なんだか感銘を受けた。
「だからさ。オレと帆夏が蛍見ながら、一緒に過ごした思い出は大人になっても、変わらないものなんだと思う」
自分でも、なに言ってんだかよくわかんねぇやと、彼は後付けした。けれど私は、光くんの言葉に強く胸を打たれた。
「って、なんでクスクス笑ってるんだ!? オレそんなにおかしいこと言ったかっ!?」
どうやら私は、不覚にも、表情筋がゆるんでしまっているらしい。そう彼の焦った声で、気づかされる。
「そういう考え方もあるんだって、思っただけだよ」
「本当に、それだけ、なのか?」
訝しげにこちらを覗きこむ彼。どんな顔しても、やっぱりイケメンだなと思う。
「ありがとう。光くんのおかげで、なんか気持ちが楽になったよ」
「それならいいけど」
口ではそう言ったものの、彼はまだ、どこか腑に落ちない様子だった。
あの頃のような、穏やかな時間が流れていく。無数の蛍の灯りに見守られながら。
この幸せは、きっと永遠には続かない。でも、もうそれでも構わないと思った。この一瞬一瞬を、胸に刻みこもう。そうすれば、彼と過ごした日々を、思い出の中に、ずっととっておけるのだから。
それで、大人になった時、ふと寂しくなったら、いつでも取り出せるようにしよう。
大人って、つまんない。私がそう思い始めたのは、小四に上がった頃くらいからだ。
日々、忙しそうに、家にいる時でさえ、電話対応に追われている両親を見ていて、私は気づいてしまった。大人になっても、子どもの私が憧れるようなことは、できやしないのだと。それ以来、私はすっかり、大人になんてなりたくないと、無茶な願望を抱くようになった。
そんな年頃。家を開けることが多い両親は、毎年、夏休みになると、私を田舎に住むおばあちゃんの家に預けた。その年も、私は、夏休みの大半を、おばあちゃんの家で過ごすことになった。山の麓に面していて、都会の喧騒と、しばらくの間、離れることができて、私は、ずっとこっちに住んでいたっていいくらい、おばあちゃんの家が好きだった。
蝉の合唱団が、がなり立てる夏の盛り。その日、私はおばあちゃんに頼まれて、近所の八百屋へおつかいに出ていた。
八百屋のおじさんは、明るくて、気前のいい人だった。子どもの私が行くと、いつもおまけでアイスをくれた。
夕飯のカレーの材料になる野菜を、おじさんが袋につめている時、私はふとこんなことを聞いた。
「ねぇおじさん、山の中に宝物があるって話、本当なの?」
「ああ、その話か」
するとおじさんは、ほんの一瞬、手を止めて、宙を見つめた。
というのも、この山にはある一つの伝説があった。それは、山のどこかで、夏の夜にだけ見つけることができる、緑に輝く宝物があるという話だ。その頃の私は、そういう系統の話にものすごく興味をそそられた。
「本当だよ。ただ、山の奥の方は、熊が出るとあぶねぇからな。おじょうちゃん一人で、行っちゃあいけねぇよ」
「ふーん、そうなんだ」
そうこう話している内に、詰め終わった野菜の袋をおじさんが渡してくる。
「ほらよ、一丁上がり。今、アイスとってくるから、ちょっと待ってろ」
「わーい! いつもありがとう、おじさん!」
片手に買い物したビニール袋を持って、もらったアイスを食べながら、私は上機嫌でおばあちゃんの家へもどった。
その夜、おばあちゃんが作ってくれたカレーを食べた。両親が仕事で忙しいと、インスタント食品やら、コンビニ弁当やらの食事になりがちだった私にとって、まともな手料理が食べられるのなんて、この時ぐらいだ。
めまぐるしい都会の生活なんかより、のんびり暮らせる田舎の方がずっといいと思った。ただ一つ、難点を上げるなら、田舎の夜は早い。ここからもう少し、山を下りた場所にある数少ないコンビニすら、夜の十一時には閉まってしまう。
おばあちゃんが早くに寝てしまうと、私は決まって、毎晩、暇を持て余した。うんと小さい頃は、絵本を読んだり、折り紙をしていれば、いつの間にか、寝入ってしまっていた。けれど、流石に小学四年生ともなると、いい加減、そういう遊びは卒業してしまう年齢だ。
「うーん、何しようかな。どうせまだ、布団に入っても寝れないし」
なんとはなしに、窓の向こうに林立する木々を見やる。ふと、日中、八百屋のおじいさんとの会話を思い出した。
「そうだ、あの伝説。緑に輝く宝物、か」
その時、幼い私の好奇心に火がついた。
「見てみたいなぁ」
うーん、探しにいってみようかな。
気づけば、私の体は勝手に動いていた。まるで、不思議な魔法にかかってしまったみたいに。
極力、音を立てないように、縁側沿いの窓から、こっそりと外に出る。
田舎の夜は涼しくて、都会のような、うっとうしい暑さを、さらさら感じない。辺り一面、静まり返っていて、せいぜい聞こえてくるのは、しんみりとした虫たちの歌声くらいだった。
持ってきた懐中電灯を頼りに、山の深い方へと歩いていく。進むに連れて、徐々に周囲を取りまいていた草木が、よりうっそうと生い茂って、さっきまでいた場所よりも、薄暗く感じた。
「どこにあるんだろう」
しばらく歩いてようやく、幼い私は、自分の浅はかさに気づいた。いくらなんでも、情報がなさすぎる。伝説のこと、もっとよく調べて出直すべきだった。
「今日はもう帰ろうかな」
そう思った私は、くるりと踵を返して、もと来た道を引き返そうとした。
「あれ? どこから来たんだっけ?」
四方を見回してみるものの、どこも同じような大木が葉を広げて、立ちふさがっているだけ。
「もしかして私、迷っちゃった?」
その時、手に持っていた懐中電灯の明かりが切れた。
「こんな時に電池切れっ!?」
藁にもすがる思いで、何度も、ボタンを連打する。が、しかし、懐中電灯はぴくりとも反応しなかった。
「そ、そんな……」
頭の中がパニックになりかける。なんとか一旦、冷静になろうと思って、その場にしゃがみこむ。と同時に、ものすごい後悔がどっと押し寄せてきた。少し前までの愚かな自分自身が、憎いとすら思った。
「助けて……怖いよ、おばあちゃん……」
恐怖に押しつぶされそうになっていたその時。
シャンシャン。
どこからか、音が聞こえた。
「ひっ……何の、音? 誰かいるの……?」
突如として、鳴り出した正体不明なその音は、どんどんこちらへと近づいてくる。
この場から逃げ出そうにも、足が硬直して、一歩たりとも動かない。
使い物にならなくなった懐中電灯をぎゅっと握りしめたまま突っ立っていると、やがて、暗闇の中から、音の正体が現れたーー正確に言えば、音を鳴らしていた正体だったのだけれど。
「え……」
茂みの中から出てきたのは、私と同じ歳くらいの、一人の男の子だった。
向こうも、私と同様、驚いたように、こちらをじっと見つめてくる。
暗がりでもわかる、キリッとした切れ長で、涼しげな瞳。ちょっぴり大人っぽい雰囲気を漂わせる彼は、正直、一目で見て、かっこいいと思った。
ちらりと視線の先をずらすと、彼の腰には、銀色の鈴がつけられていた。
「あっ」
思わず、声が漏れた。ひょっとして、さっきまでの音って、この鈴?
一度、大きくまばたきをした後、男の子が口を開いた。
「ねぇ、もしかして君、この山の宝を探しにきたんじゃない?」
「へ? ああ、う、うん。それはそうなんだけど」
開口一番に、そう聞かれて私はちょっと戸惑った。心の中が、まるで筒抜けになっているみたいだった。
「ごめんごめん。初対面なのに、いきなりこんなこと言われても困るよな」
私の困惑ぶりを読み取ってか、彼は軽く謝ってから、自身の名を名乗った。
「オレは光(ひかる)。君はなんていうの?」
「帆夏(ほのか)」
答えると、彼、光くんは思案顔をした。
少しして、彼は思い立ったように尋ねてきた。
「帆夏ってさ、ひょっとしてよその街から来てたりする?」
「うん、普段は都会に住んでるよ。この近くにおばあちゃん家があって、夏休みになると、しばらく泊まってるんだ」
「やっぱりそうか」
なぜだか、わかりきった様子の光くんに、今度は私が聞いた。
「なんでわかったの?」
「見たことない子だなって思ったんだ」
すると、彼は事細かに説明してくれた。
「実はこの辺りじゃ、学校って一つしかなくてさ。オレも通ってるんだけど、全校生徒全員集めても、三十人くらいしかいないから、顔覚えられちゃうんだよね」
「そんなに少ないんだ」
三十人と言えば、私の学校のちょうど一クラス分くらいの人数だ。
「そーそ。こんな、木ばっか生えてるような田舎じゃ、仕方ないことなんだけどさ」
そう言って、彼は笑う。その拍子に、腰の鈴が鳴った。
「どうして、鈴なんかつけてるの?」
「ああ、これか。熊よけだよ」
「クマよけ?」
「そう。熊って、鈴の音を聞くと、人間がいると思って、自分から逃げてくんだ」
「へぇー、そうなんだね。全然知らなかったよ。ほら、クマって、都会じゃ動物園ぐらいでしか見ないから」
気づけば、まるでクラスメイト同様、光くんと楽しく談笑していた。つい数分前までの、恐怖といい、あの心細さはどこかへ過ぎ去ってしまったようだった。
「あっ、そうだ。帰り道、教えてくれないかな? 私、伝説が本当なのか知りたくて来たんだけど、迷ちゃって」
お願いすると、光くんはすぐにいいよとうなずいてくれた。
「でも、せっかくだから、ちょっと遠回りしていかない? 帆夏にこの山のこと紹介したいんだ」
私は喜んで彼の提案に乗ることにした。
山の中を歩きながら、私達はお互いのことをこれでもかというほど話した。
ふと私の住む都会の話になると、光くんはものすごく羨ましがった。そんなにいい場所でもないよと、私がかぶりを振ってもなお、彼は都会に憧れているようだった。私からしたら、こっちの田舎の方がよっぽど快適なんだけどな。
やがて、先を歩いていた光くんの足がぴたりと止まる。すると、彼は、持っていた懐中電灯の明かりを消した。
「えっ。なんで消したの?」
率直に聞くと、彼は明るい調子で、こっちを振り向いた。
「必要ないからだよ」
まるで、これからショーでも始まるみたいな、そんなうきうきとした声だった。
「見てごらん」
彼が指し示した方へ、目を向ける。と、次の瞬間。エメラルド色をした、脆い灯りが一つ、木々の隙間にちらついた。
「ついてきて」
ぼうっと立ち尽くしていた私は、はっとする。
急いで、後を追うと、その先には、幻想的な風景が視界いっぱいに広がっていた。
「すごいっ」
それ以外の言葉は、その時の私の頭にはなかった。
小さな川の水辺に、いくつもの、エメラルド色の光が反射している。そう、それは蛍の灯りだった。
「あっ」
そして、私はあることに気がつく。
「夏の夜にだけ見つけることができる、緑に輝く宝物って……」
となりで、光くんが、そっと笑ったのがわかった。
「もうわかったでしょ? これが伝説の正体だよ」
彼のその一言で、全ての謎が紐解かれた。
人工的に造られた、都会の街明かりとはわけが違う。自然の恵みがもたらした、その光彩は、一瞬にして私の心を奪ってしまった。いくら眺めていても飽きない気がした。
私は自分が誰だったのかも忘れて、しばらくの間、その場に、ぽかんと立ち尽くしていたように思える。
やがて、川沿いの茂みに腰を下ろした光くんの姿が目に入って、ようやく我に返る。
「緑に輝く宝っていうのは蛍のことさ」
彼にならって、そばに座ると、光くんは伝説について語りだした。
「きっと誰かが話を面白おかしくしたんだろうね。伝説なんて、いくらなんでも大げさ過ぎるって思わない?」
「それは確かに。でも」
私はもう一度、辺り一帯をぐるりと見渡した。まるで、エメラルドのごとく閃閃と輝く蛍たちを。
「こんなに綺麗だったら、伝説にしてもいいんじゃない?」
私の発言に、光くんは切れ長の瞳を大きく見開くなり、屈託のない笑みを浮かべた。
「それもそうだな!」
それからまたしばらくの間、私達は、蛍の灯りに囲まれながら他愛のない会話を交わした。うっとりとしてしまうほど、幸せな時間だった。
夜がふけてきて、そろそろ帰ろうと、光くんは言った。
「あのさ、光くん!」
立ち上がりかけていた彼の背中を、思わず、大声で止めてしまった。
「ん? どうしたの?」
きょとんとした瞳が、こちらをのぞきこんでくる。なぜだか心臓が、静かに、それでいてはっきりと胸の中で脈打っていた。
「あ、明日も、明後日も、そのまた次の日も、ここで蛍見ながら一緒に話さない? 夜、一人だと暇なんだ。それにもっと光くんと、色んなこと話したい」
最後の方になってくると、だんだん声が小さくなっていった。
「それ、オレも言おうと思ってたんだ! 今日、すっげぇ楽しかったから」
「じゃあ!」
「明日も、明後日も、その次の日も、帆夏がこっちにいる間、二人で蛍を見ようぜ!」
にこやかに笑った光くんの顔は、蛍の灯りで照らされて、なんだかすごく印象的だった。
それからというもの、おばあちゃんの家にいる期間、私は毎晩、光くんと蛍を眺めた。これまでの人生で一番、幸せな夏休みだったと思う。
そして、とうとうやってきた別れの日。私は光くんと約束を交わした。また来年の夏休みに会おうよ、と。
一年後の夏休み。おばあちゃん家に着くなり、真っ先に光くんのことが頭に浮かんだ。本当は今すぐにでも会いたい。けれど、彼がどこに住んでいるのかまでは知らなかった。はやる気持ちを必死に抑えて、夜が来るのを待った。
しかし、その夜、光くんは現れなかった。一年前、一緒に蛍を見たあの場所にも。私が知る限り、山の中のどこを探しても、彼の姿はなかった。
約束、忘れちゃったのかな。不意に頭をよぎった不安が、時間の経過とともに膨らんでいく。年甲斐もなく、私は泣きそうになってしまった。
光くんと再会できないまま、おばあちゃん家で過ごす日々が続いた。そんなある時、私は衝撃の事実を知った。
その日、私はおばあちゃんにおつかいを頼まれて、八百屋に行った。もしかしたら、なにか知っているかもしれないと思って、光くんのことをおじさんに聞いてみた。
そして、おじさんから返ってきたのは、光くんが引っ越したという話だった。
驚きで、手に持っていた袋を落としそうになったのを今でも覚えている。おじさんの言葉が、すぐには呑みこめなかった。だってそれは、もう光くんとは会えないことを示唆していたから。信じたくなかった。
それからさらに五年の月日が流れた。高校一年になったにも関わらず、それでもまだなお、私は光くんと過ごした日々を、忘れることができずにいた。決して、もう二度と、あの涼しげな瞳を見ることはできないというのに。
自分がまた一つ大人に近づいてしまっている実感が、成長に伴って、じりじりとこみあげてくる。そのたびに、光くんと会いたくなった。
きっと、私にとって、これまで失ったものの中で、彼という存在ほど大きなものはない。 しょせん、ほんの一時の幸せだったのかもしれないとも思う。
実を言うと、中学に上がって以来、私はおばあちゃんの家に行っていなかった。その理由は至って単純で、部活とか、色々忙しかったから。
そして、高一になった今日、四年ぶりに、この場所に戻ってきた。久しぶりに見た田舎の景色は、私に安心感を与えてくれる。しかし、同時に、もうここに光くんはいないのだという、虚しさが胸の中に暗い影を落とす。
昔と何ら変わりないように思えた。道なりにそびえる木々も、穏やかに流れていく生活音も。ただ一つ、光くんがいなくなってしまったことを除いて。
しばらくぶりに八百屋のおじさんのところに行ってみた。
そしたら、
「こりゃたまげた。すっかり大人びっちまったなぁ、おじょうちゃん」
と、目を丸くして言われた。あいかわらず元気そうで、ほっとした。
高校の話なんかをすると、おじさんは独りでに盛り上がっていた。
いつかの日と同じように、カレーの材料を買う。こんな歳になっても、おじさんはおまけのアイスをくれた。
「大人びた、か……」
帰り道。なんとはなしに出たつぶやきが、蝉の鳴き声に紛れて消える。
そっか。私も、いつかは大人になるんだよね。
誰だってそうだ。健常に生きている限り、それは避けては通れない道。
それでも、時おり考えてしまう。私には大人になれる日なんて、一生来ないのではないかと。
その夜、部屋に一人になった私は、やろうと思っていた夏休みの課題も手付かずに、ぼんやりと布団の上に鎮座していた。
何もする気が起きない。けれど、寝るにはまだ早すぎる。
考えあぐねた結果、私は机の中を漁っていた。
「あった」
懐中電灯。ふと苦い思い出が、頭をよぎる。あれがなければ、光くんとも会えていなかったのかもしれないけれど。
「電池、新しいのに変えとこう」
別にあの場所へ行ったからといって、光くんがいるわけじゃない。ましてや、大人になる現実から逃げられるわけでもない。
ただ、せめて思い出の中だけでいいから、あの時のゆったりとした気持ちに浸りたくなっただけ。
奥へ、奥へと山の中を進む。もう一人でも迷わない。だって何度も、何度も、彼と一緒に歩いた道だから。
もうすぐ着く。
ここまで来る道すがら、なんだかちょっとだけ、山の中が、以前よりこぢんまりしたように思えた。多分、それはきっと私が成長したせい。
自分が大人になりつつある事実に、感傷的になっていたその時だった。
シャンシャン。
どこかから聞き覚えのある音がした。
「この音って――まさかっ!?」
途端、ホコリを被っていた記憶が、激しく渦巻いた。
シャンシャン。
とっさに耳を澄ます。近づいてきてる。こっちに。徐々に徐々に迫りくる気配に、胸が高鳴る。
そして、とうとう、木々の間から彼は現れた。五年間ずっと、私が待ち焦がれていたその姿。
以前と比べると、かなりすらりと伸びた背丈。もう見上げなければ、視線を合わせることはできなくなっていた。
涼しげな色をたたえた、切れ長の瞳。クールな印象が、いっそう増した気がした。
「光くん!」
「帆夏!」
ほぼ同時とも言えるタイミングで、私達はお互いの名前を叫んでいた。その残響が、枝葉の隙間から夜空へとこだまする。
「やっと会えた!」
気付けば、我を忘れて、私は彼の胸の中へ思いっきり飛び込んでいた。
「お、おいっ。喜び過ぎだって。そりゃまぁ、嬉しい気持ちはオレも同じだけどさ」
頭上から困惑気味な光くんの声がして、はっとする。一体、なにをやっているんだ、私は……。
「ご、ごめん」
顔が赤くなっているのが、自分でもわかる。でも、光くんにバレたくなくて、なんとか誤魔化しながら、腕を離した。
「平気。そんなに気にすんな」
見上げるとそこには、私がずっと求めていた優しい笑みがあった。決して、再会することは叶わないと思っていただけに、うかつにも涙がこぼれてしまいそうになる。
「いくらなんでも五年は長いよっ」
色んな感情が、一斉にこみ上げてきてごちゃまぜになる。つい本音を吐き出してしまった。
「ごめんな、帆夏。勝手に約束破って。本当に悪かった」
と、今度は彼が謝る番だった。
「実はオレ、帆夏が帰った後、急に引っ越すことになって。この山を離れなくちゃならなくなったんだ」
わかっていながら、光くんの話を、私はうなずきながら聞いていた。
「それで今日、久々にここに戻ってきたんだ。真っ先に、あの場所が浮かんだよ。もしかしたら帆夏と会えるかもしれないって思って。まぁでも、流石に忘れてるかもなって、ついさっきまでは諦めてたんだけど」
「忘れるわけないじゃん」
自然と語気が強まった。五年間溜まっていたもどかしさが、今になってようやく、一気にあふれ出した感じがした。
「たったの一回だって、忘れたことないんだからね。光くんのこと」
この五年間、思い返してみれば、私はずっと、あの場所にいたような気がする。たとえ、体が都会の街を歩いていたとしても、私の心のようなものはきっと蛍の灯る川辺の茂みにいた。そこでずっと、光くんが現れるのを待っていたんだ。
「ねぇ、光くん。今夜も」
言いかけた私に、彼は笑みを深めた。わかってるよとでも言うように。
温かな灯りがあふれ出す方へ、私達は歩み寄っていった。そして、たどり着く。世界で一番美しい思う場所へ——となりにいる彼と、五年ぶりの再会を果たした末に。
「大人になっても、この景色が綺麗だって思えるかな?」
「どういう意味だ?」
不意に、私が投げかけた疑問に彼は、きょとんと首を傾げた。
「なんか、私ね。だんだん大きくなっていく内に、色んなもの、失っちゃった感じがするんだ。なんていうんだろう。心が空っぽになっちゃったみたい」
得体の知れない何かが、胸の中で引っかかって、時々、激しい不安に襲われることがある。なんとなくそれが、大人になることへの恐れだと、薄々は勘づいてもいるけれど。
彼はどうなんだろう。私みたいに大人になるのが、そんなに怖くないんだろうか。
「光くんは大人になりたくないって思うことある?」
気付けば、率直に質問していた。冷静に見れば、私はさっきから彼に、変な発言ばかりしている気がする。
「うーん。オレは別に思わないかな」
「そっか」
あっさりした彼の返事に、拍子抜けしてしまう。正直、そこは肯定して欲しかった自分がいる。
「帆夏の言うことも、全くわからないことはないよ」
すると、彼は突然、話を変えて、こんなことを言い出した。
「蛍ってさ、千年以上前から存在してたって言われてるんだ」
「歴史が長いんだね」
光くんはうなずく。と、彼は周囲を取り囲む蛍の灯り一帯をじっと見据えていた。
「オレが小さい頃、じいちゃんが言ってたんだ。この灯りはずっとずっと昔から、人々の心を照らしてくれてる。そして、オレ達の生きる時代を越えたその先でも、途絶えることなく、蛍は輝き続けてるんだって」
朗らかに語る彼の横顔。それに緑の淡い光が相まって、なんだか感銘を受けた。
「だからさ。オレと帆夏が蛍見ながら、一緒に過ごした思い出は大人になっても、変わらないものなんだと思う」
自分でも、なに言ってんだかよくわかんねぇやと、彼は後付けした。けれど私は、光くんの言葉に強く胸を打たれた。
「って、なんでクスクス笑ってるんだ!? オレそんなにおかしいこと言ったかっ!?」
どうやら私は、不覚にも、表情筋がゆるんでしまっているらしい。そう彼の焦った声で、気づかされる。
「そういう考え方もあるんだって、思っただけだよ」
「本当に、それだけ、なのか?」
訝しげにこちらを覗きこむ彼。どんな顔しても、やっぱりイケメンだなと思う。
「ありがとう。光くんのおかげで、なんか気持ちが楽になったよ」
「それならいいけど」
口ではそう言ったものの、彼はまだ、どこか腑に落ちない様子だった。
あの頃のような、穏やかな時間が流れていく。無数の蛍の灯りに見守られながら。
この幸せは、きっと永遠には続かない。でも、もうそれでも構わないと思った。この一瞬一瞬を、胸に刻みこもう。そうすれば、彼と過ごした日々を、思い出の中に、ずっととっておけるのだから。
それで、大人になった時、ふと寂しくなったら、いつでも取り出せるようにしよう。