私は生まれたばかりの赤ちゃんを抱きながら笑っていた。
その子の顔はとても可愛かったが私は泣いていた。何故かと言うと赤ん坊の目は白目が黒ずんで血走っており瞼の辺りには黒いあざが出来ている。鼻の穴は潰れており、唇の端が紫色になっているので見るだけで吐きそうになる。肌の色は真っ黒でとても不健康そうに見える。私はそんな我が子を見ながら涙を流し続ける。生まれて初めて抱いた命はあまりにも重たくて、少しでも気を抜けば落っことしてしまいそうだと思った。けれど絶対に落としてはならない。なぜなら私は、母であり姉であり父でもあるからだ。私は笑顔でいなくてはならないのだ。しかし泣き笑いを浮かべるのは至難の業だった。
すると腕の中の赤ん坊が泣かなくなる。不思議に思ってそっと呼んでみると、にへらと微笑まれた。まるで私が泣くのを止めたのだと言っているみたいだ。私は呆れた顔をした。だが内心では安心すると同時にホッとしていた。私はやっと笑うことができた。すると、私を呼ぶ大きな声に気づく。
「おーい!お母さんが呼んでいるぞぉ!」
振り向くと父親が遠くの方で手を大きく振っている。
「お父さん!こっちよぉ~!!」
私は叫んだが今度は父親の姿が見えない。
おかしいなぁと思いながらも大声で呼んだり「こっちぃい!!!!」と言ったところ、今度は「うるせぇんだよ!!」と言われてしまった。理不尽だと思いながら渋々諦めたところで父親が現れる。父親は手に持ったスマホを掲げて見せると満面の笑みで言うのだ。
「見ろよこれ!凄いだろ!?ほら、ここ見て!俺とお前の名前が表示されてるだろ!?あ、でも『ちゃんと名前呼べ』って言われちまった。あははは」
私はそんな父親の手の中にあるスマートフォンの画面に目を向ける。『誕生日、出産祝い・両親揃っての初メッセージ記念日』と書かれているところを見ると誰かからのプレゼントのようだ。私が興味深そうに見入っているのに気づいてか、父は自慢げに説明を始める。
「実は今日、俺達の子供が産まれたって聞いて慌てて会社早退してきたんだ。そうしたら部長がこれをくれてさ。さっきまでは『仕事中にそんな暇ない!』とか文句言ってたんだけど『娘を抱っこしながら読めば?』なんて言われたもんで『よし分かった』ってことで今に至るという訳だよ」
はははと照れ臭そうな笑いが聞こえた。
そんな父の話を聞いていた私は、不意に不安を覚える。『今の話だと私達の子供の名前が呼ばれなかったのはなんでだろう』と。私と夫は二人きりで暮らしている訳ではないのだ。夫婦二人で決めた大事な名前を呼ばないということはないだろうし、それに、私と夫の名前を間違えるというのもちょっと変だと思う。私はもう一度よく見てみた。
『誕生日、出産祝い・両親揃っての初メッセージ記念日(妻:〇〇、夫:□□子供の名前は別途記載されています)』という文面の下に、二人の名前に被せるようにして私達の娘であろう名前が書かれていた。私はそこに書かれた文字を読んで、驚いた。それは、私達が付けた娘の名前の由来と同じものだったからだ。私は驚いて父親を見る。父親は得意気に言うのだ。
「どうやらこのスマートフォンには人工知能が搭載されているらしいぜ。その証拠に、親である自分達が名づけた子供の誕生日や出産祝いの文章が表示されるんだ」
それを聞いた私は「はは」と笑ってしまった。
「またそんなこと言い出して、さすがに無理があるわ。お父さんの会社にはそんな最新技術があるのかもしれないけど、いくらなんでもそこまでは」
だが、そこでふと違和感を抱く。先ほどから父と私の会話が全く噛み合っていないような気がするのだ。
「ねぇお父さん、その画面見せてくれる?」と尋ねるが返事がない。見ると、彼は自分の胸をぎゅっと掴んでいた。そして苦し気な声を上げる。
「苦しい……死ぬ……死にたくない……助けてくれ……お願い……だ……」
慌てて駆け寄ろうとする私の手を、彼の手が握り締める。「駄目……だ……」
その手を伝うように、ぽたり、またひとつ。
「俺は……まだ……死んだ……くない……死んでたまるか……こんなところで……死にたく……な……」言葉は途中で消え入る。「父さん……!?父さん!?何があったんだ!!返事をしてくれ!!」と叫んでも反応が無い。「どうして!?」と叫んでみてもそれは同じことだった。ただ父が握った私の手だけが、氷のように冷たくなるばかりだった。
それからしばらくしてから私は気がつく。
私の腕の中で赤ん坊が笑っていた。そして小さな手で私の頬に触れてくる。
私は思わず、はははと笑って、こう思ったのである。
『良かった。あの子は無事だったんだ』
『あなたは英雄になりたかった』
暗闇から聞こえてきた声はひどく落ち着いていて、それでいて哀しげであった。
私は答えようとしたが声が出ない。
「違う」と言いたいのに出てこなかった。
やがて、ゆっくりとした足音が聞こえるようになる。
『あなたは英雄に成り損ねた』
足音は少しずつ近づいてくるが何も見えなかった。
私の体は何かに包まれるような感覚に陥る。どうやら何者かに抱きしめられているらしいが、私は恐くて抵抗することができない。私は声も出せず震えていた。すると「もういいんだ」という優しい声がした。そして再び頬に冷たい何かが触れる。それが指の感触であることに私は気づいた。「ごめんなさい、ごめん……」私は呟いていた。
そこで目が覚めた。
目の前にあるのは天井ではなくて壁だった。
カーテンの向こう側は暗いままなので真夜中だということが知れる。私は額に嫌なかび臭い匂いを感じながら体を起こす。そして両手を見てみる。何も無い、いつも通りの手だった。私はしばらくぼんやりとしてから立ち上がりベッドの脇に立つ。そのまま膝を抱え、座る。目を閉じた後、「はぁ……」と溜息をつくと顔を上げた。
その瞬間、私は大きく目を見開いた。そこには人がいたからだ。
全身を覆う白いローブに身を包んだその男はフードを被ったまま私の顔を覗き込んでいるかのようにじっとしている。そして私と目が合うと「大丈夫ですか?」と尋ねてくる。男の声はとても優しかったが同時にどこか薄気味悪さを感じさせる。男は続けた。
「夢を見たようですね。しかも悪い内容の。あなたにとってあまり良くない記憶だったのでしょう。汗が酷かったので少し拭き取らせていただきました」と言って男は一歩下がる。その時になってようやく、男は手にタオルを持っていることに気づいた。
私は慌てて頭を下げて礼を述べる。男は微笑むと言った。
「構いませんよ」男は続けて言う。「あなたは英雄になりたいんでしょう?ならこれからもっと過酷な場面に立ち会わなければならない時が来るでしょう。そういう時は、なるべく冷静に物事を見てください。きっと、あなたの力になってくれる筈です」
そう言った直後、男が纏っていた白いマントの中から黒っぽい毛玉のようなものが転がり出てくるのが見えたので私は驚きで悲鳴を上げそうになるが、すぐにそれが大きな黒猫だとわかる。だが男の方は慌てることもなく「あー、起こしてしまいましたか」と呟き、猫を抱き上げると「では私はこれで」と告げて去って行った。
残された私は呆然と立ち尽くしていたが、しばらくして我に返ると慌てて身支度を整えて家を出た。
そして、深夜の街を走る。
向かう先は、あの公園である。
「おはようございます」と僕が挨拶をしても誰も応えない。
当たり前だ。ここは僕の家のリビングなのだから。
僕は窓の外の景色を見ながら「はぁ」とため息をついた。
何が楽しくて朝っぱらから憂鬱になるのかわからない。
「お兄ちゃん、また寝坊?」と台所の方から妹が歩いて来るのが見えた。彼女は中学一年生になったばかりなのだが背がぐんと伸び、今では同じ目線だ。しかし顔はまだ幼く、可愛いというよりは『綺麗』の方が合っているかもしれない。その少女は手にしていたマグカップを机の上に置くと言った。
「朝食の準備、出来ているから食べちゃって。お母さんは先に会社に行ったよ」
「ああうん」とだけ返事をして椅子に腰かける。テーブルの上に並べられたトーストを手に取って口に運びつつ妹の方を見ていると、彼女が首を傾げていることに気がついた。どうやら様子がおかしいと思われているらしい。そこで仕方なく「最近どうなんだ」と聞いてみた。
しかし帰ってきた答えはあまり芳しくないもので、なんでも『いじめ』というものが流行っているのだとかなんとか。学校に行ってから友達に聞いた話らしく、僕には心当たりが無い。ただでさえ退屈だというのに余計なことを吹き込まれてしまったようだと思い、ますます気が重くなった。
僕は食べるペースを落としながらぼそっと言う。
「そんなもの気にしなければ良いんじゃないかな。ほとぼりさえ冷めればみんな忘れると思うし、何より、そんなのにかまけていて大切なことを見失って欲しくないなあ……」
妹は何を言い出すのかという顔をして僕を見ていた。「例えば?」と言われて困ってしまう。なんだろうと思いつつも「勉強とか部活かなあ……」などと言ってみる。ところが、彼女はそれを鼻で笑った。
「そんなんじゃ甘いんだよ」と呟く彼女の目からは『この甘ちゃんが』という侮蔑の意志がひしひしと伝わってくる。その視線に堪えられず、また「う~ん」と誤魔化すしかなかった。
「ははは」という乾いた笑いと共に立ち上がると「ごちそうさま」と言って部屋に戻っていく。その後ろ姿を見送りながら、どうしてあんなふうに育ってしまったんだろうと残念に思う気持ちもあるが、一方で『仕方ないか』という諦めの感情もあった。それは多分、あいつが悪い訳ではないからだ。
あいつは悪くないし正しいし強いのだけれど、それでも、僕ら家族にとっては敵以外の何物でもないのだ。僕は残りのパンを口に放り込みミルクを流し込むと鞄を背負って立ち上がったのであった。
それから数分後には、僕らの家は完全にもぬけの殻となったのである。
『君と別れたあの日から、私は一人になり、やがては独りになってしまった』
「違う!」
叫びと同時に私は飛び起きる。心臓が激しく脈打ち、背中にはぐっしょりと嫌な汗をかいていた。荒い呼吸を繰り返す私の元に「どうされました!?」と刑事さんが飛んできたがそれに反応することもできず私はしばらく肩を震わせて俯いていただけだった。しばらくしてようやく顔を上げて辺りを見ると先ほどの悪夢の中とは違って今は夜であることがわかった。そして私は気づく。自分はベッドの中にいるらしいということに……。
一体どういうことだと思っている私に向かって誰かが語りかけてくるのだがうまく聞き取れない。耳鳴りだろうかと手を耳に添えて目を閉じ、しばらくじっとしていたが駄目だ。どうしても何を言っているのかが聞こえないのである。やがて我慢できなくなり私は叫ぶようにして問いかけた。するとその人物は「大丈夫」と答えてきた。その声は落ち着いていて優しく、どこか哀しげでもあった。私は「違う、違うんです」と言いたかったのだが何故か声が出せなかった。そこで「私は、まだ、死ねません。こんなことで死んでたまるか……」という声とともに私の意識は再び途切れてしまうのだった。そしてまた目覚めると先ほどとは違う状況下にいる自分に驚く。そこは薄暗くひんやりとした場所で、床は埃まみれで壁のあちこちは蜘蛛の巣に覆われていた。天井は高く、私の身長よりも高い位置に小さな電灯がぶら下がっていて、さらに上の方に天窓が見えた。そこを抜けると月の光が入ってくるようで、それでかろうじて視界が確保されているようだ。壁際には何か機械のようなものが並んでいて、足元を照らす光もそこにあった。よく見ると何かコードのような物が壁に沿って這っていて私の立っている場所には太いパイプが何本も走っているようだった。天井を仰ぎ見れば、配管が網の目のように張り巡らされていることが確認できた。
私が今居るのは恐らく地下室なのだろうと察した。しかもこれはかなり深い所である。私はゆっくりと壁沿いを歩き始めたのである。
しばらくして、私は大きく目を見開いた。そこには死体があった。うつ伏せになっていてはっきりとは見えないがどう見ても人間の死体であり、そして血溜まりの中でピクリとも動かないようだった。私は悲鳴をあげようとしたが声は出ない。だが私は必死でそれから逃れようとした……が逃げ道は無くなっていたのである。
いつの間に現れたのか、背後に人が立っていたのである。その男はフードを被っており顔が見えなかった。しかしその体格は明らかに男のものであることはわかった。フードの下の唇の端が吊り上がり口が開く。
そしてその男は私の方へと手を伸ばしてきたのである。
目を覚ますと見覚えのない光景が目の前に広がるという夢を見た。
真っ白な空間の中で少女が倒れており傍らに老人が佇んでいる。彼は悲痛そうな面持ちのまま「大丈夫か、しっかりするんだ」と話しかけている。少女が苦しそうにしながらも「おじいさん……」と言うので慌てて駆け寄ろうとすると突然足元の地面が消えた。そのまま私は奈落の底に落ちていきそこで目が覚めたのだった。額にはびっしりと冷や汗をかき息は上がっていたがまだ午前五時前であることはわかる。
少女は枕元に置いてあったタオルを手に取り額の汗を拭きとる。そして「ふぅ」と溜息をつくとそのまま再びベッドの上に倒れた。しかし今度は夢を見ることはなかったようである。そのまま二度寝しようとしたが眠気が全く無かった為体を起こして窓際にあるベッドに腰かける。カーテンの向こう側は薄暗いが夜明けはまだのようだ。少女は大きく深呼吸を繰り返して気を取り直すと机に向かい教科書を開いた。今日もまた高校二年生の二学期中間テストがあるのだ。
勉強は好きではなかったが成績を上げることだけが両親からの期待だったので彼女は必死で机に向かう毎日を送っていたが、ここのところはずっとサボっていたせいですっかり自信を失っていたのである。
(勉強は得意じゃないんだけど、でも今回は絶対にいい点を取るんだ)そう心の中で呟く。(だってお兄ちゃんが帰ってきてくれる日なんだから頑張らないと!絶対だよ?)
彼女は自分の頬を両手で軽く叩いてから机の前に座るとシャーペンを片手に参考書の問題に挑み始める。
それからどのくらいの時間が経った頃だろうか。
玄関のドアを開ける音がしたので少女の母親は顔を上げた。「もう、お父さんったら……」と言いながらも娘のことが心配だったので様子を窺いに行くことにしたのだった。
階段を下りると夫は居間のソファに座っていた。テレビを眺めながら朝刊を読んでいるようだったが、娘の姿を見かけると新聞を置いて近づいてくる。「ただいま」
そう言った後で「おかえりなさい」と返事が来ると安心して「うん」と答えたのである。
「起きてきて平気なのか?」
夫が尋ねると少女はやや申し訳なさそうな表情をしながら「はい」と言った。「ちょっと変な夢を見ちゃって、あまり眠れなくて……」
「そうか、大変だな」と言って夫の手が少女の頭の上にポンと置かれた。「さあ顔を洗っておいで。朝食は用意しておくから、食べながら学校に行く準備をするといい」
夫の提案を聞いて、少女の顔がパァッっと明るくなる。
「はい、ありがとうございます」
「気にするな」と笑ってから夫は居間から出ると台所へ向かった。妻に「朝食は俺が作っておくから」と言ってコーヒーメーカーに豆を入れる。妻はその様子を見つつ、少女の様子はどうか尋ねた。それに対しては問題なく朝食を食べているとの返事があり一安心である。「それに、朝早くに起きたおかげで勉強をしているようだ」
それを聞くと彼女は微笑んで「良かった」と言って自分も台所へと向かったのである。
朝食を終えて身支度を整えるとちょうど七時半になる少し前という時間になった。
「じゃあ行ってきまーす!」元気に言う少女の声に両親は笑顔で手を振った。父親は車のキーを持ってから見送りに出ようとして少し考えるような仕草をしてから思い出したように「そうだ」と呟いた。
「気をつけて行きなよ、寄り道しないでよく頑張ったって褒めてもらえるようにな」「はぁい」と返ってきたので父親も笑い返した。「では行ってくる!」
「行ってらっしゃい!」「ああ、あと帰りは迎えに来るつもりだから一緒に夕飯を食べられるよ。何食べたいか考えておいてね?」
そう言われて少女は一瞬きょとんとするが「やった!」と言って喜び、それを見ている両親がニコニコしている。その様子を見ていた母親が苦笑しつつ「あんまり羽目を外すんじゃないわよ」と釘を刺した。少女はそれを受けてわざとらしい膨れっ面を作ったがすぐに笑ってしまった。そして「気をつける」と言って手をひらひらさせながら家を出ていったのである。
少女を見送った後は家族全員でのんびりと過ごすことができた。普段よりも余裕をもって行動することができたということもあるがそれ以上に少女がいつも以上に上機嫌だったからだ。
やがて午後四時頃になり「学校まで送ろう」という父親の提案によって三人は車に乗り込むことになった。運転は父親が担当し、後部座席には母親と少年の姿が見える。助手席に座ろうとしたのだがそこは父親が譲らなかったのである。
「ねえお父さん、なんで私がここに居ると思う?私ね……この車にね……」そこで言葉を区切るとその目は隣で黙っている兄の方を向いた。「この席に昔、男の子が座ってたことがあるって知ってた……?」
父親はバックミラーでチラリと後ろを見て、小さく肩をすくめてから何も言わずに正面を向いて車を発進させたのだった。
「私達を閉じ込めた人物は、どうして鍵をかけなかったんだと思いますか」
私は刑事さんに向かって問い掛けてみた。「私達が逃げ出さないと思っているんですかね、それとも私達に解かせることが目的だとか……」
そう言い終えてから、私自身も馬鹿げたことを口にしたものだと思った。答えを期待して聞いたわけではないが「ふむ、それも可能性の一つかもしれないね」と意外にも真剣な面持ちの返答があって思わず目を丸くした。
その後で私が質問すると、刑事さんはゆっくりと話し出す。「我々がこうして無事に解放された理由は一つしかない」それは私の考えていたものと一緒であった。「犯人は我々を殺すことができなかった、ということでしょうね」
「私も今まさに同じことを考えていました」
「ほう」刑事さんが興味ありげにこちらを見たので私は「もし本当にそういうことならですが……」と切り出してみることにする。
「実は今回のこの事件……殺人ではないのかもしれません」そう言うと驚いたのか、それとも私のことを疑っているのか、じっと見つめてくる。「どういうことですかな」
私が一連の出来事について思いつくままに語ると、その度に彼は何度も相槌を打ってくれたのだった。
「確かに君の言っていることはもっともな話だ」私は驚いて聞き返す「……納得できるんですか?」
「もちろんですよ」と言ってから私の方へと体を近づけてくる。
「第一発見者の証言がありますからな、彼が嘘をついているのでなければ、あの現場に残されていたのは死体だけではなかった、ということになります。君の言葉を借りれば、あれが『生きた人間』だったとすれば辻妻が合うんですよ」そう言って私の顔をのぞきこんでくる。
しかしそんな都合のいいことがありうるのだろうか、私は考え込んだ。「つまりですね」彼は続ける。「君は『あの場に現れた少女が、あの日、亡くなったはずの人間の子供であるならば話は別なのではないか?』と言いたいのでしょう」
私は「はい」と答える。
「その仮説の根拠は何なのですか?」そう聞かれたので、少女の髪が黒くないことを挙げてみせたが、彼の中ではそれが引っかかるようで難しい表情で何かを考えているようだった。「髪色については、どう説明されるのですかな」
それに関してはいくつか理由を思いついたものの自信が持てるほどのものでもなく説明をするのは憚られた。「まだわからないことも多いんです、それに……」と私はそこで一度口をつぐんだ。これは口にすべきかどうか迷ったのだ、自分が犯人であると思われる可能性があるのではないかと不安を感じたからである。それでも刑事さんの真っ直ぐに私を射抜いている視線を感じてしまうと観念する他は無かったのだが……。「まだ誰にも言っていないんですけど、私……霊感みたいなものがあるらしくって……」
そう言った瞬間、「ふふっ」という声とともに刑事さんの体が僅かに揺れていた。
そして次の瞬間には「あははははっ」と笑い出したので、さすがに私も驚き慌ててしまう。「な、なぜ笑うのでしょうか」
彼はひとしきり笑い終えると目尻に浮かんでいた涙を拭うと息を整えて、すまないと謝りながらも笑いの発作に耐えきれないといった感じである。
それから呼吸がある程度落ち着いたところで口を開いたのだけれど、「いや、すまないすまない」と再び軽く笑ってから続けた。「別に君をバカにしているわけではありません。ただあまりにも突拍子もない話でしたのでつい、ねぇ」と言ってまた思い出してくすくすと笑っていた。
私もつられて吹き出しそうになるのを抑えて「そうなると思っていましたよ」と強気な態度で返した。しかしすぐに冷静さを取り戻すと「でも真面目な話、私の発言を信じてくださるとはとても思えませんでしたから、言うべきか悩んでしまったんです」と言う。それに対して
「まあその点は大丈夫だと信じてほしい」と言って、それからさらに付け加えた。「それに今の話を聞いた限りにおいては、君は事件とは関係ないと思われます」
「ありがとうございます」
私が頭を下げるのとほぼ同時に車のブレーキランプが光って車が止まった。どうやら到着らしい。「では我々はこれで失礼します」と言ってから刑事さんは車外に出る。続いて私も出ようとした時、背中越しに「最後にもう一つ聞いてもいいかな」と声を掛けられる。
振り返ると、彼の顔つきは先程までの穏やかなものとは違っていた。
「はい」と返事をしたものの、一体何を聞かれるのだろうかと緊張してしまう。
「君はこの事件に関して、どこまで知っているのかね?」
「ほとんど何も知りません」そう答えると「では教えてくれないか、どうしてあそこに居たのかということについて」と返ってきた。
私は首を横に振ると「わかりません」と正直に言った。
「そうか、わかった」そう言った後で彼は続けてこう言った。「では、くれぐれも慎重に行動するようにね」
私は「はい」と答えて車を降りると丁寧にお辞儀をした。
「ご苦労様でした」と刑事さんの声を聞いて顔を上げると、そこには既に誰も居なかった。
駐車場を出てから歩道に出ると、空はすっかり暗くなっていた。
「さっきの刑事さんは、きっと幽霊が見えたんだ」
私は呟くと、ふっと笑ってから家路につくことにした。
「まずは確認から始めましょう」
そう言ってから、この部屋の持ち主は、机の引き出しからノートを取り出した。「私の名前は、黒江幸四郎、年齢は六十五歳、性別は男、職業はシステムエンジニアだ。趣味は読書と散歩、好きなものは甘い物全般。嫌いなものは辛い物と酒。住所はここのマンションの一室。家族構成としては妻と娘がいる。妻は昨年に病気で亡くなった。享年三十七歳だった」
そこまで言うとページをめくった。「この部屋の主が殺されたのが二月十三日の土曜日のことだ。被害者は私と同じ会社に勤めている人物で、名前は小暮昌樹という。死因は頸部圧迫による窒息死。凶器は被害者の爪の間から採取された皮膚片と一致。指紋は検出されなかったため、おそらく手袋をしていたものと思われる。死亡推定時刻は前日の金曜日の夜から日曜日の昼までだ。発見現場は私の自宅から車で約十分の距離があるアパートの二階にある一室で、ベランダに面した窓の鍵は内側から施錠されていた。室内は荒らされており、金目の物は根こそぎ盗まれていて現金類はほとんど無かった。しかしクレジットカードなどの貴重品類は手つかずで残されており、財布の中には数枚の万札が入っていた。これが事件の全貌になる」
ここまで一気に喋った後に「ふぅ」という溜息をつくと、喉が渇いているのかコップに残っていたお茶を飲み干した。
「じゃあそろそろ本題に入ろうと思うんだけど……」「はい」
「ちょっと待ってくれないかい?せっかくこうして集まってもらったのだから自己紹介くらいさせてくれないかなぁ」そう言ってから「ああそうだ!」と手を叩くと、椅子から立ち上がって皆の顔を見回してから「僕の名前は黒江健也、年齢はまだ二十代半ばだよ」と言った。
そして座るように促すと「次は誰から行く?」と問いかけた。すると「俺から行こう」と長身で細身の男が立ち上がった。「俺は佐藤信吾、三十歳だ」
それだけ言うと着席する。「よろしくね」と微笑みながら言うと「次は?」と周りを見回す。
「じゃあ俺から」と言ってから、少し太めの体格の男が立ち上がる。「僕は中村浩平、年齢は二十五歳です」
そう言ってから座る。
「次、お願いします」と言ってから眼鏡をかけた小柄な女性が立ち上がり「私は高橋真由美、年齢は二十一です」とだけ言って席に着く。
「えーと、それで?」と健也さんが催促すると、全員が私に注目した。「私ですか……?」と聞き返すと「他に誰が居るんだい?」と、さも当然のように言われてしまった。
私は諦めて立ち上がると「私の名前は、古屋美知香です。年齢は十六で高校二年生です」とだけ言って着席した。
「ふむ、高校生なんだね」と健也さんが言う。
「はい」と私は答えてから「あの、さっきのお話の続きなんですけど……」と切り出すと、すかさず「事件のことかな」と返される。
私は「はい」と答えると「その前に僕の方からも一つ聞きたいことがあるんだ」と遮られてしまい、私は黙って聞くことにした。
「君達はどうやってこの事件を知ったんだい」
私は言葉に詰まった。「それは……」と言い淀んでいるうちに、他の人達が次々と話し出す。
「ネット掲示板に書き込まれたんだよ」と最初に発言したのは、私から見て左端に座っている、少し長めの前髪を真ん中分けにした髪型の男性だった。
「そうそう、俺もその書き込みを見た」と今度は右隣りに座る坊主頭の男性が言う。
「私も見ました」と女性も同意する。
「へぇ、どんな内容だったの?」と健也さんが尋ねると、三人はお互いに顔を見合わせていた。
「あれは確か、二月の初め頃だったと思います」と、一番年上に見える男性が話し始める。
「その日、私は会社の上司から残業を押し付けられていました。仕事自体は簡単なものだったのですが、期限が今日までで、しかもかなり量が多かったので終わらなかったのです。でも、いつものことなので特に気にしていなかったんですよね」「そうなの?」と健也さんが聞き返したので、男性は苦笑いを浮かべてうなずいた。「でもやっぱりおかしいと思い始めたのは、私が帰ろうとした時でした。定時を過ぎたのでタイムカードを押そうとしたら『まだ終わっていないだろ』と言われて、仕事を追加されたんです。その時はさすがに抗議をしました。でも取り合ってもらえなくて、結局私は日付が変わる頃まで会社に拘束されてしまいました。ようやく解放された時にはもう十時過ぎになっていました。疲れていたので帰り道でコンビニ弁当を買って帰ったのですけど、家に着いた途端、玄関のドアに何かが挟まっているのを見つけたんです。それが例の書き込みでした」
「何時ごろの話なんだい?」と健也さんが質問する。
「その日の昼過ぎですね」
「なるほど、ちなみにそれを書いた人物はなんて言っていたの?」
「えっと……『あんまり遅い時間に帰ると危ないよ』って書いてありました」
「他には?」
「後は、よくわからないコメントが書かれていました」
「なんだい?」
「『早く逃げないと大変なことになるぞ』とか、そんな感じで」
「ふうん」と相槌を打つと「ありがとう」と言ってから「他には誰か居たりするのかい?」と尋ねた。
「いえ、私だけです」と答えると「そうか」と言ってから、また話し始めた。
「その後、私はすぐに寝たんですが、夜中に目が覚めたんです。なぜかはわかりませんが、妙な胸騒ぎがして、いても立っても居られなくなったんです。それでベッドから起き上がると部屋から出て階段を下りてリビングに行きました。電気をつけるとテーブルの上に置き手紙があったんです。内容は『今日は帰れません。先に休んでください』とだけ書いてあって、そのすぐ下に私の携帯電話がありました。どうやら家を出る時に忘れていったみたいです。私はすぐにメールを返しておきました。それからまた自分の部屋に戻って、もう一度眠ろうと布団に入った時、部屋の隅に置いてある鏡に映る自分が目に入りました。私はその時初めて気づいたんです。私の後ろに女の人が立っていることに」
「女だって?」驚いたように声を上げたのは、坊主頭の男性だ。
「はい」
「いつからそこに居たんだい?」健也さんの問いに私は「最初から居たわけではありません」と答えた。「今にも消え入りそうなぐらい弱々しい声で、『あなたはそこに居ますか?』と聞かれたような気がしたので振り返ったんです」
「返事はしなかったのかい?」
「はい」
「どうして?」
「なんとなく嫌な予感がしたからです」
「そうか」
「はい」「それで君は振り返った後、どうしたんだい?」
「何もしませんでした」
「どうして?普通なら返事をするだろ」
「嫌な予感がしたから」
「そうか」
「はい」
「他には何も無かったんだね?」
「はい」
「わかった。話を続けて」
「私はその女性のことが気になったので、じっと見つめていました。そうしているうちにだんだん薄らいでいき、最後には見えなくなりました」
「ふぅん」と言うと、腕を組んで考え込んでしまった。
「今の話が本当だとしたら、ちょっと不思議な話ですね」
俺は思わず口を開いた「何でそう思うんですか?」
「えっ?」
女性教師の方を見た。
少し驚いた顔をしていたが、「先生にもわからないですか……まあ、そうだとは思いますけど」
そう言ってため息をつくと、「この話を聞いて何か引っかかりませんか?」と言われたが、全く分からなかった。
俺の反応を見てか、「じゃあ例えば……」と切り出した。
「私が幽霊になってあなたのところに夜中に現れると言ったら信じられますか?」と聞いてきたのだった。
そんな馬鹿げた話があるもんかと思いつつも、信じてしまいそうな説得力があり、俺はただ「はぁ」という曖昧な返事しかできなかった。
「すみません、こんな話を信じてくださいというのは無理があるかもしれませんね。
じゃあもう少し現実的な話で考えてみましょう。
実は私には最近恋人ができまして、彼氏はとても優しくしてくれるいい人です。
ですから私は幸せです」そこまで話すと満足
「でも先週、彼の実家でお義父さんとお義母さんに会いました」
突然出てきた家族の話だったので戸惑っていると、それを察してくれたのか、女性は微笑みながら続けた。
「私と彼はとても仲良くしています」
そして「だから、きっと私達のことは大丈夫ですよね?」と言って、また笑顔を作るのだった。
しばらく無言で見合っていたが、やがて俺は小さく溜息をつくと「それで」と呟くように言った。
すると女性が「え?」と聞き返してきたので、聞こえているのだろうと思ったが無視した。
するとまた彼女が俺の顔を見てくるのを感じたので「続きを」と言った。
すると彼女は「続き?」と首を傾げながら言い返した。
俺はそれにも反応せず黙って見返す。
すると少ししてから、ようやく俺の言葉の意味を理解したらしく「ええと、どこまで話したかしら」と言ってから少し間を置いてから、話の続きを始めた。
「私はお義父さん達に結婚を前提に付き合っている相手として挨拶に行ったんです」
そう言ってからまた沈黙が流れたのだが、「それで?」と急かすようにして聞き返したのは、今までずっと黙っていた坊主頭の男性だった。
「それだけです」と女性が答えると「それだけなのか?」と言ってから少し考える素振りを見せると、俺に向かって話しかけてきた。
「古屋さん、こういうことってよくあるのかな?」
「俺に聞かないでください」と言ってから、女性に向き直る。
「そもそもこれは誰の話なんですか?」
そう尋ねられたので、今度は女性ではなく健也さんが「彼女の話さ」と答えた。
「彼女?」と眉根を寄せて聞き返すと「さっきから話しているじゃないか」と言われてしまった。
「はぁ?」
「さて、ここで一つ問題があるんだけど」と健也さんが言うと、他の人達が黙ってうなずいた。
「美知香さんは事件のことを知らなかったのかな?それともこの手紙に書かれていることを知っていたのかな?」と問いかけると「知らないはずはないでしょう」とさっきの女性の方が即座に反論する。
「美知香さんに確認を取ってみればわかります」
「それもそうなんだが、問題はその前にあるんだよね。
もし本当に知らないとしたら、どうやってこのことを知ったんだろう。
君達は何か心当たりは無いのかい?」
皆一様に首を横に振ると「無いみたいだね」と言いながらもまだ考えている様子だったが、しばらくして「そういえば……」と話し始めた。
「そう言えばあの事件の犯人も、掲示板を使って被害者を探していたって話していたような……」
そこで言葉を切って黙ってしまったが他の人達は無言のままなので、おそらく続きを促すつもりで口をつぐんだのだと思われた。
健也さんはうなずくと、女性に尋ねた。
「ちなみに、君はこの事件の詳しい内容は知っているのかい?」
しかし、それに関しては「いえ、知りません」と言ってから、「私は事件についてあまり詳しく知らされていないのです」と説明した。
「ただ、今回の事件が起きた時に警察から事情説明を受けています。
もちろん、私の家族と杉村さんと、後は会社の方だけですけど」
健也さんが質問する「ちなみに君のご両親は、この件に関してどういう立場にいるんだい?」
「父は弁護士でこの事件を担当していました」
健也さんがうなずいて「なるほど」と納得したように言う。
その横では「でも、弁護士なら事件の情報を得る手段は幾らでもあるんじゃないのかな?」という意見が出ていた。
確かにそうだと同意したが、それについては俺も気にかけていたことだから黙ったまま聞き耳を立てた。
だが次の瞬間、健也さんの質問で話題が逸れてしまう。
「ところで美知香さんに会わせてくれないだろうか?」とのことだった。
どうしたものかと思い悩んでいると、「会うだけでも駄目でしょうか」と女性が聞いてくる。
健也さんがまた質問する「それはどうして?」
それに対して「どうしても会いたいんです」と言うと「理由は?」
「彼女に、私が無事であることを伝えたいんです!」
女性は語気を強めてから、また俯いてしまった。
健也さんがまた質問する「でも今は連絡がつかないんでしょ?」
女性が答えようとしたが「やっぱり会わない方が良いと思うよ」
「どうしてです?」
坊主頭の男性が口を開く。
「もしも二人が知り合いだとわかれば警戒されるかもしれないし、そうでなくても、こんな状況なんだから下手なことしない方がお互いのためだ」その意見に対して健也さんは「まあまあ、そんな事言わずに。
本人に聞けばわかることですし」と言った。
その言葉を受けて俺はつい口を挟んでしまう。
「その前に俺からも聞かせて欲しいことがあるんです」
すると健也さんがこちらを向いたので「どうぞ」と促された。
「俺は、美知佳に会った方がいいと思います」
坊主頭の男性が小さく溜息をつく。
「古屋さん、あなたもですか?」
「いやいや」俺は手を前に出して制した。
「俺はあんたらと違ってちゃんと考えて発言しているつもりだよ」
それから女性の方に顔を向けなおして続けた。
「あんたが言っていることはもっともだ。
俺は美知香がどうなったのか気になっているから会いたいとは思う。
だけど正直言って今のあいつに会うのはかなり難しい。
だからまずは彼女と一番仲の良かったあんたに会いに来たんだよ」
そう説明すると、女性は顔を伏せたまましばらく考えていたが、小さくうなずいてくれた。
それからゆっくりと顔を上げると、健也さんの方をじっと見据えた。
健也さんが微笑むと「わかった」と言って立ち上がる。
俺もそれに合わせて席から腰を上げようとすると、女性から待ったが掛かった。
「すみませんが、先に美知佳の写真を見せてもらってもいいでしょうか」と言われたので「ああ」と返事をしたのだが、健也さんと目を合わせると、彼が代わりに返事をするのだった。
「いいですよ。
ただし携帯電話に入っている写真だけです」
そうして彼女は携帯電話を取り出すと、画面を開いてから操作を始める。
するとしばらく経ってから「これが娘です」と言った。
「そう、これで合っています」そして俺の方を見ると、申し訳なさそうな表情を浮かべるのだった。
「古屋さんにも見せてくれますか?」
俺は少し迷った末に自分の携帯電話を取り出して、カメラ機能を起動させると液晶モニターに向かってかざした。
すると画面に、少し緊張した面持ちでピースサインをしている女性が現れた。その隣には、今よりも若いと思われる女性も映っている。少し背が低いところを見るに小学校中学年ぐらいか、髪型の感じから女の子だろう。二枚目とは言えない平凡な俺の横で、少し気恥ずかしそうにしている。それが今の美知香の姿で間違いない。彼女は少し不機嫌そうな顔をしているが、それでも愛想笑いだと分かる。きっと照れ隠しに違いない。
俺は懐かしさに胸を震わせた。たった数ヶ月前の話なのに、ひどく昔のことのように感じられる。俺は思わず目を細めた。そうしなければこみ上げてくるものが零れ落ちてしまいそうだったからだ。
女性は俺の様子に気が付かなかったらしく、「すみません」と言うと俺から写真を受け取ってしまった。健也さんはそれを見守ると、今度は立ち上がって部屋を出て行こうとする。
そして扉を開けると「じゃあ行こう」と皆に呼びかけて出て行くのだった。
「行くってどこにですか?」
健也さんが振り向く。彼は悪戯っぽく笑うと「そりゃあ決まってるじゃないか」と言った。
「彼女のところに」
○ 彼女が待っているのは病院の一室だった。
受付で病室の番号を聞いてからエレベータで階下に降り、リノリウムの床を踏みながら廊下の奥まで歩くと突き当りの角部屋に辿り着いた。プレートを確認する。
個室だった。部屋の入口は開け放たれていて、中には丸椅子がいくつか置いてあるだけだが、窓からの日差しで明るい。奥の窓際にベッドが置かれている。そこに横たわっている女性が、杉村美知香らしい。彼女は布団の中で体を丸めるようにしながら静かに眠っているようだ。
健也さんに続いて室内に入り、彼女の傍らに立つ。
「よく来てくださいました」と女性が言って頭を下げた。「ありがとうございます」
しかし俺は彼女から視線を外すとすぐに俯きながら首を横に振った。礼を言われる筋合いはないのだと思った。美知香が誘拐されたのは他でもない、俺が原因なのだから。
すると女性がまた口を開いた。「私はこれから警察の事情聴取を受けることになっていました。なので杉村さんにはもう二度と会えないと思っていたんです。今日こうして貴方と会うことができて本当に嬉しいんです」そう言うと、彼女は改めて俺の目を見てから言った。「お久しぶりです、杉村さん」
4月7日月曜日午前9時45分(以下省略)
私は彼女を見た途端に言葉を失った。
それは無理もないことだった。なぜなら私の知っている彼女とはあまりにもかけ離れていたから。痩せたのも、老けたのも、髪が短くなっていたことも別に驚くに値しない。問題はその服装である。
彼女は淡いベージュのカーディガンを着ていた。それ自体は何も変ではないのだが、問題なのは着方だ。その袖口を両手でつかんでいるのは、まだ理解できるとしても。そこから更に肘の内側あたりで左右の手をクロスさせているのは何なのだろうか?それは一体どんな意味があるというのだろう?しかも、右手と左手でそれぞれ反対方向を指しているではないか?これは何かの儀式なのか?それともこの女性はどこか壊れているのか?いやそもそも何故このような奇怪な格好をしているのか?私を騙すためのお芝居だとしたら実に素晴らしい完成度だが、残念なことにそのような気配は全く感じられない。この女は本気でこんなことをやってやがるのだ。そう理解した瞬間に私は強烈な吐き気を覚えて、慌てて洗面所へと向かったが、胃の中のものを空っぽにして戻ってみてもその気持ち悪さは無くなってはくれなかった。
そんな有様だから、当然のように私は美知香の顔をよく見ることができなかった。彼女が俺に話しかけてきても、生返事を返すだけになっていた。それに気づいた彼女が心配そうな顔をする。
そこでようやく我を取り戻した俺は、「いや」と短く言って首を横に振ることで平静を取り戻し、「なんでもないんだ」と言ってみせた。それを受けた彼女が安心したような笑顔になる。どうやら俺がショック状態にあると思い込んでいたらしい。それでこんな奇妙な格好をしていたのだ。まったく馬鹿げた発想ではあるが、もしそうであるならば俺に対する嫌がらせとして満点に近いと言えよう。それとも、まさか俺が喜ぶと思ってやったのではないだろうな。
そんな事を考えてしまうのも、目の前にいる美知佳らしき女の恰好が悪い。俺を不快にさせるという点においてはこれ以上無い程に完璧で理想的なスタイルを披露してくれていた。俺が知る彼女とはまるで別物だった。何がそこまで彼女を変貌させたのだろう。あるいは美知佳の身にいったいどのような変化が起きたのだろうか。俺にわかるわけがなかった。俺の記憶の中に存在する美知佳とはかけ離れた存在がそこに横たわっていた。
彼女は俺に対していくつか質問をした。しかしそれも全て耳を通り抜けていった。だからほとんど覚えていないが、唯一、覚えていることがひとつあった。質問がひと段落ついたところで美知佳がこう聞いてきたのである。
「あたし、どうしてここに連れてこられたんですか?」と聞いてきた。
俺は反射的に顔をしかめたが、それでも質問の意味を理解しようと努力した。どうしてここに来たのか。美知佳の疑問に込められている意図を考えるために、俺はまずこれまでの経緯を思い返してみた。
最初に思い浮かぶのは先ほどの健也さんの説明だったが、俺が口にしたのは次のような台詞だった。
「美知香さんと一番仲の良い古屋さんが、直接、本人から聞きたいって」
「そうですか」
彼女は小さくうなずいてから、再び口を開く。「あの、お父さんはどうしてますか?」
「健也さん?」健也さんは、部屋の入り口付近に立っていた。俺たちの様子を眺めながら「あ、うん、今は席を外しているけどね」と返事をするのだが俺は気にならなかった。
むしろそちらの方へ意識を向ける余裕は無かった。
その次に思いついたことは「健也さんと一緒じゃないのかい?」だった。
彼女はもう一度うなずいて、やはり小さく答えたのである。
「ひとりで来いって言われてるんで」
そして最後に俺の方を見ると彼女は付け加えた。「ごめんなさい」
謝罪されて、俺は思わず目を見開いた。どういう意味だ。そう問いただそうと口を開きかけたが、すぐに考えを改める。どうせまともな返事は帰って来まい。そう判断して俺は溜息をつくことにした。すると彼女は不思議そうな顔をするのだった。俺は黙っていることに決めた。何も言わず目を伏せて顔をそむける。すると彼女は何を勘違いしたのか、「えっと」と少し慌てるような口調で言うと健也さんに助けを求めるのだった。健也さんが歩み寄ってきて、俺に代わって彼女に言う。
「ああそうだ。美知香さんは、今朝がたまで寝てらしたので」
彼女は小首を傾げながら健也さんに「そうでしたっけ」と言った。健也さんが俺の方に目を向けて合図を送る。俺は無言で首を縦に振った。
「じゃあちょうどよかったですね」健也さんは笑って、彼女の側に膝をつくと手を取って励ましの言葉をかけた。
「これから色々大変だと思うけれど、きっとうまくいきますよ」
「そうですか?」と聞くと「ええ」と答えが返ってきた。