病室に入ると、目を赤く腫らした沙彩のお母さんが小さく頭を下げて、僕に沙彩の前の席を譲って退室していった。沙彩の希望は二人だけで話を、ということなのかもしれない。
 沙彩は暗い病室の中、ベッドで半身を起こしている。見ただけでは昼まで見ていた沙彩と違いはなく、明日の朝にはその手を引いて一緒に登校していそうな気がした。

「えっと、元気?」

 どう声をかけていいのかわからなくて、そう口にしてすぐに後悔する。
 元気だったら、ここにいるはずはない。誰もあんな痛みを堪えるような表情はしていないはずなのに。

「うん、元気だよ」

 沙彩は、ちょっと困ったように笑った。

「元気なのに、不思議だね。もうすぐわたしは、起きられなくなるみたい」

 震える沙彩の声が胸に突き刺さる。覚悟していたはずなのに、そんなもの、容易く突き破られてしまった。

「もうすぐって……」

「一週間、持たないかもって」

 沙彩の宣告に息が詰まる。

「そんな……! そんな、だって。今朝だっていつも通り学校に……!」

 沙彩は穏やかな表情で首を横に振る。なんでそんな落ち着いていられるんだろう。こうして話をしていられる時間すら、もうほとんど残されていないはずなのに。

「ごめんね。本当は少しずつ分かってたの。段々起きていられる時間が短くなって、起きている時も夢を見ているような感じになってて」

「そんな……。それなのに、僕は」

 何も気にせず、いつも通りに。いつかこの日が来てしまうことをわかっていながら、もう少し先のことなのだろうと目を逸らして。ただいつものように沙彩の登校を急かしてた。気づいていたら、もっと沙彩の為にできることがあったはずなのに。

「違うよ、ユート」

 沙彩の右手が僕の頬に触れる。その瞳は哀しげに揺れていた。

「いつも通りの日々を少しでも長く過ごしたくて。だからね、ユート。今までありがとう」

 その言葉が引っかかる。

「そんな最期みたいなこと言うなよ。大丈夫だよ、ちょっと長い夢を見るくらいだから」

 冬眠症が発症してもそれが
 沙彩は左手も僕の頬に添えて、ぎゅっと僕の顔を引き寄せる。こつんと額がぶつかって、沙彩の息遣いが聞こえてくる。

「ううん。わたしが朝になっても起きられなくなったら、それが、わたしの最期」

 沙彩の言葉に息を呑む。
 冬眠症の治療法は見つかっていない。初期の頃に発症した患者は、未だに眠り続けているらしい。病気がどのように進行していくかはわかっていなくて、その人たちがこれからどうなるかはわからない。わかっているのは、まだ目覚めた患者はいなくて、その見込みもわからないこと。
 だから、冬眠症患者には“ある選択肢”が認められるようになった。それは、意識が覚醒しなくなった時に、眠り続けるかどうかの意志を、あらかじめ提示することができるというものだ。

「ダメだ。ダメだよ、沙彩。それは、ダメだ」

 僕の頬を挟む沙彩の手に力がこもる。その瞳から涙が零れ落ちた。
 沙彩の涙を見るのは、彼女が冬眠症を発症したとき以来だった。それからずっと、沙彩は全力で前を向いて生きていた。
 そんなの、惹かれないはずなかった。何とかしたくて、冬眠症の研究ができる大学へ進もうと思った。

「ねえ知ってる? 冬眠症にかかった人は、ほとんど歳をとってないんだって」

 冬眠症を発症すると生命維持に最低限の代謝となることから、老化も緩やかになる可能性は指摘されていた。それが、冬眠症と通称される由来でもある。

「もし目を覚ましても、お母さんもお父さんも、ユートだって。みんな、いなくなってるかもしれないんだよ? そんな世界に目覚めるくらいなら、わたしはもう、夢から覚めたくないよ……」

「……それでも!」

 震えた声を詰まらせる沙彩をギュッと抱き寄せる。こんな細い身体で、ずっと重い未来を抱えていたんだ。僕が担っていたのはそのほんの一部に過ぎなくて。支えてきた、なんていうことすら思い上がりかもしれないけれど。

「それでも、僕は沙彩に生きていてほしいんだ。僕だって、沙彩のいない世界は考えられない」

 毎朝沙彩を起こしに行って、ゆっくり歩く沙彩を急かして。今朝までの日常が、どれだけ大事なものだったか。ずっとわかってるつもりだった。だけど、その時を目の前にしてその大きさを改めて思い知らされる。

「だから、これは僕のワガママだけど。沙彩には生きていてほしい」

 沙彩を抱きしめる腕に力を込める。その魂が、この世界から離れていかない様に。

「――なら」

「えっ?」

 すぐ傍に居るのに、沙彩の声は最後の部分しか聞き取れなかった。
 小さく息を吸い込んだ沙彩がゆっくりと繰り返す。

「ユートが、起こしてくれるなら」

 そっと沙彩の体を離して、顔を見る。
 それは涙でグチャグチャで、それでも、今朝僕の手を取った時と同じようにニコニコと笑っていて。月明りにが涙を手照らしきらりと光る。

「ユートが起こしてくれるなら、ちょっとくらい寝坊してみるのも、悪くないのかな?」

 イタズラっぽく目元を動かして笑う沙彩の言葉に息が詰まる。
 ぎゅっと目をつぶって、沙彩の笑顔に答えるように精一杯の笑顔を浮かべる。

「当たり前だよ」

 一生懸命、笑ってみせる。沙彩が笑っていられるように。
 手を伸ばし、沙彩の髪をゆっくり撫でる。沙彩を見送るためのおやすみに変わる決意の言葉。

「沙彩に『おはよう』を言うのは、僕の役割だから」



沙彩は間もなく冬眠症に特化した専門の病院に入院することとなり、僕より先にこの街を離れた。
僕は志望通りの大学に合格して、次の春、街を離れた。二人して生まれ育った街を離れて、今はとても遠くにいる。

あの夜、僕は3年ぶりに彼女に『おやすみ』を言った。
二度と目を覚まさないのが怖くて、ずっと言えなかった言葉。
それは、沙彩を見送る言葉で、僕にとっての決意の言葉。

『おはよう』は、まだ言えていない。

***