明日、君に「おはよう」と言うために

「ほら、沙彩。早く行かないと遅刻しちゃうって」

「ユート、待ってー。歩くの早いー」

 河川敷に沿った道を歩きながら振り返ると、すぐ後ろを歩いていたはずの沙彩(さあや)が10歩くらい後ろにいた。
 沙彩が追い付くのを息をついて待つ。今朝だけでこのやりとりを10回は繰り返してる。
 つまり、高校に入学してからのこの2年半で、僕らはこのやりとりを3000回くらい交わしてきたことになる。

「そんなに急がなくても大丈夫だよ、ユート」

 追いついた沙彩がニッコリと朗らかに笑う。単純だけど、それだけで焦りがすっと霧散してしまう。ずるいや、と胸の中でつぶやく。

「これまでも毎日間に合ってきたんだし」

「いや、それは僕が間に合うように沙彩を引っ張ってきたからで……」

「それにさ、高校生活もあと半年だし、受験だなんだってやってたらその半分も残ってないかも。だから、少しくらいゆっくり行こーよ」

 今度は沙彩が僕を置いて、スキップでもするようなリズムで両手を後ろに回して歩いていく。沙彩の言葉は僕の痛いところをついていて、反応が遅れてしまった。慌てて後を追い、隣に並ぶ。

「ゆっくり行きたいなら、沙彩があと5分早く起きるだけでもいいはずだけど」

「んー、それは難しいかも」

「なんでさ」

「わたしの一日は、ユートの『おはよう』からはじまるから」

 また僕は言葉に詰まる。なんでそんな風に楽しそうに言うんだよ。沙彩とは小学校以来同じ学校に通ってるけど、幼馴染のように隣に住んでるわけではない。僕は毎日高校とは反対方向に15分くらい歩いて、沙彩を連れてそこから来た道を戻って高校に通っている。

「あ、そうだ!」

 沙彩がいいことを思いついたというように両手をパチンと叩く。

「ユートがうちの近くに引っ越してくれば、『おはよう』が早くなるのでは」

「百歩譲ってさ、普通、沙彩が近くに引っ越すって発想にならない?」

「通学時間が短くなるから、なし」

 12年近く一緒にいるけど、沙彩の考えていることは未だによくわからない。通学時間が短くなればもっと寝られるなりなんなり、万々歳だと思うのだけど。
 何考えているのか探りたくて沙彩の顔を見ていると、その理由に気づいたらしい沙彩が腰に手を当てて頬を膨らませる。

「なんで東京の大学とか行っちゃうかなー」

「なんでって……」

「わたし、東京まではいけないよ。だから、今だけは、少しでもゆっくり……」

 沙彩の表情はコロコロと変わっていき、今度は寂しそうな微笑みが浮かんでいた。
 その言葉もその顔も、僕の痛いところをついている。大学受験は僕にとって挑戦で、独立で、そして、大切なものを置いていく選択だった。沙彩に対する罪悪感がグルグルと渦巻いて、それでも立ち止まるわけにはいかなくて。

「ごめん、わかってるの。ユートがこの街に残っても、東京の大学に行っても、どっちでもわたしがユートのこと縛ってるって。だからね、それならせめて――」

「縛ってるとか、言うなよ」

 珍しく早口気味に捲し立てる沙彩の言葉を遮る。その言葉は、見過ごせなかった。泣きそうな顔でそんな言葉、言ってほしくなんてない。

「こうやって一緒に登校してるのも、東京の大学を目指すのも、僕が好きでやってるんだ。だから、そんなこと言うな」

「うん……」

 沙彩は納得いかないような表情のままうつむいてしまう。
 まったく、朝から何やってるんだろう。こんなことをしたくて、一緒に登校してるわけではないのに。

「沙彩、僕がいなくても起きて学校行ける?」

 空気を変えたくて、少し無理して明るい口調で聞いてみる。

「多分、無理。せめてモーニングコールを」

 顔を上げた沙彩の眉根は下がっていた。調子を合わせてくれているのか、本気で困っているのかは判断に悩む。とにもかくにも、毎朝沙彩に電話するくらい何でもない。

「まあ、それくらいなら」

 頷きながらふと気づく。

「あれ、それなら今もモーニングコールでいいんじゃないの?」

「……! 今のなし。機械越しの声だと起きられない」

 今度は本気だとわかった。沙彩の必死な顔に思わず笑ってしまう。
 まあ、そんなこと言われなくてもモーニングコールに切り替えるなんてこと、今の僕にはできるわけなかった。

「なんだよ、それ。そもそも僕が大学落ちたら、全部笑い話なんだけど」

「その時はお祝いしてあげるね」

「いや、励まして」

 沙彩がニッと笑って、僕は苦笑を返す。
 それでも、こんなやりとりを気安く交わせるのもあと半年も残っていないのかなんて考えてしまって、胸の中が秋風に吹き込んできたように冷え込んだ。
 今日はどうにも調子が悪い。とっとと登校した方が気分も変わるかもしれない。

 あ、登校。

「やばっ、のんびりしすぎた! 沙彩、急ごう!」

「えー」

「えー、じゃなくて!」

 これまで沙彩を連れて一度も遅刻しなかったのが数少ない自慢だったのに。仕方なく、沙彩に向かって手を差し出す。
 おお、とちょっと目を見開きながら、沙彩は迷いなく僕の手を取った。その手を引いて早足に学校を目指す。
 背後は振り返らない。ニコニコと笑う沙彩を見たら、僕はこの場所に立ち止まってしまいそうだったから。

「『思いつつ寝ればや人の見えつらむ夢と知りせばさめざらましを』は古今和歌集に収められた小野小町の歌ですが、上句は係り結びとなっています」

 古語の授業をどこか遠くに聞きながら、窓の外を見る。秋が近づく10月の空は青く澄んでいた。まるで意識を吸い込んでしまいそうな程、透明で遠くまで伸びている。
 意識を吸い込む、といえば。前の席では沙彩がぽやぽやと舟を漕いでいる。もっとも、それはいつも通りの光景だったし、授業だって受験対策に重きが置かれていたから、沙彩の様子をことさら誰も気にしていない。6限で今日最後の授業ともなればなおさらだった。

「下句は反実仮想を用いて、『夢だとわかっていれば、そのまま目覚めなかったのに』と恋しさを表現しています」

 舟を漕いでいた沙彩の背がパッと伸びた。どうやら夢から覚めたらしい。いったいどんな夢を見ていたんだろう――と考えて、授業の内容とダブってしまい、小さく頭を振って板書を移すことに集中する。
 それでも、無心で書き写していると沙彩のことが思い浮かんでくる。彼女は、昼も夜もよく眠る。それは仕方ないことで、むしろ、それでも学校に通っているのは沙彩の努力の賜物だった。

「ユート……」

 ノートから顔を上げると、沙彩が振り返って僕を見ていた。
 授業中は、集中して授業を聞いているか、寝落ちしているかだから、そんなことは珍しかった。

「どうしたの?」

 沙彩の様子に違和感を覚えた。沙彩の顔はまるで、悪い夢でも見ていたような。
どうして、そんな助けを求めるような目で。

「わたし……」

 ぐらりと世界が傾いた。
 いや、世界はそのままで、一人沙彩だけが傾いていく。
 世界はスローモーションのように緩やかに進み、次の瞬間、沙彩は床に倒れ込んでいた。

「沙彩!?」

 一拍遅れて、世界が騒然となる。
 倒れ込む沙彩はなぜだかいつものように寝ているだけに見えて。僕は慌ただしくなる世界から取り残された。



 今まで来たこともないような大きな病院の廊下で一人待つ。既に辺りは暗くなっていて、僕以外の人はいない。
 授業中に倒れた沙彩は病院に運ばれてから暫くして目を覚ましたらしい。けれど、状態は芳しくないようだった。先ほど、沈痛な面持ちの沙彩の両親が医師に伴われて沙彩のいる病室へと入っていった。それはつまり、今回は一時的に症状が悪化しただけというわけではないのだろう。
――代謝不全性長期入眠症
 通称『冬眠症』と呼ばれる症状は、10年前くらいに初めて発見された珍しい病だった。原因も進行も詳しいことはまだわかっていない。わかっているのは、発症すると徐々に睡眠時間が伸びていき、やがて意識が覚醒しなくなること。そこまで進行すると、代謝が極端に低下し、生命維持に必要な最低限の状態になることだった。
 沙彩が冬眠症を発症したのは中学二年生の時。それ以来、日中でも突然意識を失うことがあった。本来なら外に出るのも危ない状態で、それでも沙彩は徒歩圏内で付き添いがいることを条件に高校に通っていた。
 それが、沙彩の望みだった。意識を失う、といってもそれは文字通り寝落ちのようだったのだけど、今日は様子が違った。もしかしたら。最悪の想像がずっと脳内に居座っている。

「ユート君」

 顔を上げると、沙彩のお父さんが痛々しい表情のままに僕の前に立っていた。

「沙彩が二人で話したいと。会ってやってくれないか?」

 言葉が重い。
 返事の言葉が思い浮かばなくて、ただ黙って頷いて立ち上がる。会って沙彩と話したいという想いと、それが最後の宣告になるような恐怖が互い違いに姿を現す。病室へ向かう初めの一歩がどこまでも重かった。

「娘を学校に通わせてくれて感謝している。それでも、ワガママを言わせてほしい」

 病室に向かう途中で、背後から聞こえてきた声に振り返る。
 沙彩のお父さんは助けを求めるような目で僕を見ていた。その表情に見覚えがあって、授業中の光景を思い出した。あの瞬間、僕はただ倒れる沙彩を見ていることしかできなかった。

「娘に、希望を与えてほしい」

 病室に入ると、目を赤く腫らした沙彩のお母さんが小さく頭を下げて、僕に沙彩の前の席を譲って退室していった。沙彩の希望は二人だけで話を、ということなのかもしれない。
 沙彩は暗い病室の中、ベッドで半身を起こしている。見ただけでは昼まで見ていた沙彩と違いはなく、明日の朝にはその手を引いて一緒に登校していそうな気がした。

「えっと、元気?」

 どう声をかけていいのかわからなくて、そう口にしてすぐに後悔する。
 元気だったら、ここにいるはずはない。誰もあんな痛みを堪えるような表情はしていないはずなのに。

「うん、元気だよ」

 沙彩は、ちょっと困ったように笑った。

「元気なのに、不思議だね。もうすぐわたしは、起きられなくなるみたい」

 震える沙彩の声が胸に突き刺さる。覚悟していたはずなのに、そんなもの、容易く突き破られてしまった。

「もうすぐって……」

「一週間、持たないかもって」

 沙彩の宣告に息が詰まる。

「そんな……! そんな、だって。今朝だっていつも通り学校に……!」

 沙彩は穏やかな表情で首を横に振る。なんでそんな落ち着いていられるんだろう。こうして話をしていられる時間すら、もうほとんど残されていないはずなのに。

「ごめんね。本当は少しずつ分かってたの。段々起きていられる時間が短くなって、起きている時も夢を見ているような感じになってて」

「そんな……。それなのに、僕は」

 何も気にせず、いつも通りに。いつかこの日が来てしまうことをわかっていながら、もう少し先のことなのだろうと目を逸らして。ただいつものように沙彩の登校を急かしてた。気づいていたら、もっと沙彩の為にできることがあったはずなのに。

「違うよ、ユート」

 沙彩の右手が僕の頬に触れる。その瞳は哀しげに揺れていた。

「いつも通りの日々を少しでも長く過ごしたくて。だからね、ユート。今までありがとう」

 その言葉が引っかかる。

「そんな最期みたいなこと言うなよ。大丈夫だよ、ちょっと長い夢を見るくらいだから」

 冬眠症が発症してもそれが
 沙彩は左手も僕の頬に添えて、ぎゅっと僕の顔を引き寄せる。こつんと額がぶつかって、沙彩の息遣いが聞こえてくる。

「ううん。わたしが朝になっても起きられなくなったら、それが、わたしの最期」

 沙彩の言葉に息を呑む。
 冬眠症の治療法は見つかっていない。初期の頃に発症した患者は、未だに眠り続けているらしい。病気がどのように進行していくかはわかっていなくて、その人たちがこれからどうなるかはわからない。わかっているのは、まだ目覚めた患者はいなくて、その見込みもわからないこと。
 だから、冬眠症患者には“ある選択肢”が認められるようになった。それは、意識が覚醒しなくなった時に、眠り続けるかどうかの意志を、あらかじめ提示することができるというものだ。

「ダメだ。ダメだよ、沙彩。それは、ダメだ」

 僕の頬を挟む沙彩の手に力がこもる。その瞳から涙が零れ落ちた。
 沙彩の涙を見るのは、彼女が冬眠症を発症したとき以来だった。それからずっと、沙彩は全力で前を向いて生きていた。
 そんなの、惹かれないはずなかった。何とかしたくて、冬眠症の研究ができる大学へ進もうと思った。

「ねえ知ってる? 冬眠症にかかった人は、ほとんど歳をとってないんだって」

 冬眠症を発症すると生命維持に最低限の代謝となることから、老化も緩やかになる可能性は指摘されていた。それが、冬眠症と通称される由来でもある。

「もし目を覚ましても、お母さんもお父さんも、ユートだって。みんな、いなくなってるかもしれないんだよ? そんな世界に目覚めるくらいなら、わたしはもう、夢から覚めたくないよ……」

「……それでも!」

 震えた声を詰まらせる沙彩をギュッと抱き寄せる。こんな細い身体で、ずっと重い未来を抱えていたんだ。僕が担っていたのはそのほんの一部に過ぎなくて。支えてきた、なんていうことすら思い上がりかもしれないけれど。

「それでも、僕は沙彩に生きていてほしいんだ。僕だって、沙彩のいない世界は考えられない」

 毎朝沙彩を起こしに行って、ゆっくり歩く沙彩を急かして。今朝までの日常が、どれだけ大事なものだったか。ずっとわかってるつもりだった。だけど、その時を目の前にしてその大きさを改めて思い知らされる。

「だから、これは僕のワガママだけど。沙彩には生きていてほしい」

 沙彩を抱きしめる腕に力を込める。その魂が、この世界から離れていかない様に。

「――なら」

「えっ?」

 すぐ傍に居るのに、沙彩の声は最後の部分しか聞き取れなかった。
 小さく息を吸い込んだ沙彩がゆっくりと繰り返す。

「ユートが、起こしてくれるなら」

 そっと沙彩の体を離して、顔を見る。
 それは涙でグチャグチャで、それでも、今朝僕の手を取った時と同じようにニコニコと笑っていて。月明りにが涙を手照らしきらりと光る。

「ユートが起こしてくれるなら、ちょっとくらい寝坊してみるのも、悪くないのかな?」

 イタズラっぽく目元を動かして笑う沙彩の言葉に息が詰まる。
 ぎゅっと目をつぶって、沙彩の笑顔に答えるように精一杯の笑顔を浮かべる。

「当たり前だよ」

 一生懸命、笑ってみせる。沙彩が笑っていられるように。
 手を伸ばし、沙彩の髪をゆっくり撫でる。沙彩を見送るためのおやすみに変わる決意の言葉。

「沙彩に『おはよう』を言うのは、僕の役割だから」



沙彩は間もなく冬眠症に特化した専門の病院に入院することとなり、僕より先にこの街を離れた。
僕は志望通りの大学に合格して、次の春、街を離れた。二人して生まれ育った街を離れて、今はとても遠くにいる。

あの夜、僕は3年ぶりに彼女に『おやすみ』を言った。
二度と目を覚まさないのが怖くて、ずっと言えなかった言葉。
それは、沙彩を見送る言葉で、僕にとっての決意の言葉。

『おはよう』は、まだ言えていない。

***
 約束の部屋の前に立つと小さく指先が震えてることに気づいた。
 社会人になっても人はこんなに緊張するのだと思い知らされながら深呼吸する。
 医療系の専門誌のライターとして働くようになって、3年程。まだまだ新人だと思うけど、今日の取材相手はそんな新人の私には荷が重い相手だった。

 数年前に難病――冬眠症――への特効薬の開発に成功し、世界的に脚光を集めた創薬化学者。
 相手がそんな大物というだけで緊張するし、それ以外にもいくつか理由があった。
 ずっと同じ病気の特効薬の開発を続けた変わり者という噂もあったし、その功績の大きさに比してほとんど表に姿を見せない素性が謎の相手ということもある。何より、冬眠症の特効薬開発について取材を受けるのは、これが初めてらしい。
 そんな大役を新人の私が担っていいのか、考えるだけで押しつぶされそうだった。
 それでも、御礼を伝えたい。その想いだけで震える足を動かしてこの場所までたどり着いた。
 もう一度息を吸って部屋のドアをノックする。既に相手は部屋で待っているとのことだった。どうぞ、という声に導かれてドアを開けと、穏やかに笑う初老の男性が立っていた。

「おはようございます。本日取材をさせていただく小野です」

 頭を下げても反応がない。怪訝に思って顔を上げると、男性は感慨深そうにこちらを見ていた。最初からテンポが狂ってしまったけど、穏やかなその視線は不思議と私を落ち着かせてくれた。

「ああ、すみません。おはようございます。結城です」

 今度は型どおりに名刺を交換し、結城啓人と書かれた名刺を見つめてみる。研究所のロゴが印刷されたくらいのシンプルなもので、世界的な化学者のものとは思えなかった。

「この度は弊社の取材をお受けいただきありがとうございます」

「いえいえ、こんな辺鄙なところまで、大変だったでしょう?」

 結城さんが所属する研究所は、都心からでは移動だけで半日以上必要な場所にあった。それでも、本心から首を横に振る。

「いえ、実は生まれ育ったのが郊外の方だったので、こういう景色の方が落ち着くんです」

 都心は時代の流れが早い。追いつくだけでいっぱいいっぱいで、時代から取り残されたような場所の方が私の性に合っていた。

「それならよかった。せっかく来ていただいたわけですし、何でも聞いてください」

 変わり者だという噂は何だったのか、結城さんはとても取材しやすい相手だった。私が質問に詰まったり結城さんの答えを理解しきれずにいると丁寧にフォローしてくれて、記事を書きやすいように解説をしてくれた。
 一回り以上は年上のはずなのに、なんだか昔から知っていたような感じがする。それくらい接しやすかった。
 話せば話すほど熱が入って、気がつけば予定の時間を大幅に超過してしまっていた。もっと話していたかったけど、最後の話題に移る。

「冬眠症の患者にとって、結城さんはまさにヒーローだと思います」

「そんなこと、ないですよ」

 ずっと笑顔で話してきた結城さんの顔に初めて苦い色が滲む。小さく目を閉じた結城さんはふっと息を吐きながら首を横に振った。

「私が開発した薬は冬眠症の患者を目覚めさせることには成功しました。けれど、彼らは記憶を失った。小野さん、貴方もそうでしたよね」

「……ご存じ、だったんですね」

 結城さんが開発した薬は、世界で唯一冬眠症の患者を目覚めさせることができる。けれど、冬眠状態が長期にわたった患者は目覚めると眠る前の記憶を失っていた。
 冬眠期間によってその度合いが変わることから、薬の副作用ではなく冬眠症自体の影響だと言われているけど、その症状こそが結城さんが表に出ない原因と噂されていた。
 そして、私もまた記憶を失った冬眠症患者の一人だった。目覚める前のことも、目覚めた直後のこともあまりよく覚えていない。

「世界で初めて目を覚ましたのが貴方ですからね。貴方が目覚めたとき、私も傍にいたんですよ」

 笑ってみせた結城さんの顔は、何故だか泣いているように見えた。

「そう、だったんですか……。すみません、当時のことは、あまり覚えていなくて」

「20年ぶりに目を覚ましたんです、仕方ありませんよ。でも、だから」

 結城さんは穏やかな顔に重ねて微笑みを浮かべた。私よりだいぶ年上のはずなのに、その表情に不意打ちのようにドギマギしてしまう。

「今日はこうやって貴方とお話できてよかった。私にはそんな資格ないと思っていたから」

 微笑みながらもどこか苦しそうに吐き出された言葉に私は懸命に首を横に振る。優しそうなこの人にそんな悲しいことを考えてほしくはなかった。

「私も、結城さんに御礼が言いたくて、この仕事に就いたんです。私を目覚めさせてくれて、本当にありがとうございました」

 冬眠症から回復してからしばらくして、私を夢から覚ましてくれた結城さんのことを知った。けれど、その頃は記憶障害のことが問題となり、結城さんの所在は伏せられ、御礼を伝えることはできなかった。
 だから私はそこから20年ぶりの学校に通い――一応、高卒の身分は残っていた――この仕事に就いた。そうすれば、いつか結城さんに会えると信じて。

「あの。最後に、オフレコで教えていただけませんか?」

「はい、どうぞ」

 結城さんに御礼を伝えることができて、あと一つだけ聞きたいことがあった。それは仕事とは関係なく、結城さんに救ってもらった一人としての興味。

「結城さんがこれまで取材を受けなかったのは、記憶障害のことが理由ですか?」

 私の問いに結城さんは迷いなく首を振る。

「いいえ。私は、世間が言うように崇高な理念があったわけじゃないんです」

 予想と異なる答えだった。結城さんがスッと目を細める。

「ただ、おやすみと伝えた女の子に『おはよう』と言いたかっただけで。そんな私がヒーローのように扱われるのが嫌だったんです」

 遠い目をして笑う結城さんに、ぎゅっと胸を締め付けられ、思わず左手を見てしまった。そこには指輪も何もない。それは何の証明にもならないけど、結城さんが目覚めさせたかったという女の子はどうなったのだろう。結城さんは冬眠症の研究を大学から始めている。その頃に既に発症していたとしたら、目覚めたとしても私と同じように記憶を失っているのだろうか。
 20年かけて結城さんは約束の相手を起こすことができた。けれど、その相手はそんな約束の記憶も全部失っていた。
 そんな喜びと絶望の狭間で結城さんは世界から距離を置いたのだとしたら、それは哀しすぎる。

「結城さんは、今、幸せですか?」

 思わず、そんな失礼なことを聞いていた。
 けれど、結城さんは気にする様子もなく穏やかに笑う。

「ええ、幸せです。今日、夢が1つ叶いましたから」

 その答えの意味は、わからなかった。
 あるいは、冬眠症から回復した患者と話したかったということだろうか。
 壁にかけられた時計から電信音が響く。約束の時間は過ぎに過ぎていた。結城さんが椅子に手をつきながら立ち上がる。

「さて、所内は迷いやすいので、外までお送りしますよ」

 ポンと手を差し出された。当然のようにその手を取ってから、凄い人相手に何をしてるんだろうと気づいた。だけど、慌てて手を引っ込めようとしたときには、結城さんはギュッと手を引いて歩き出してしまう。

――その瞬間、見たこともない風景が脳裏に浮かんだ。

 それは、学生姿の結城さんに手を引かれて河川敷の道を歩く私の姿。
 制服を纏った結城さんが困ったように私に手を伸ばし、高校生の私は笑顔でその手をとっていた。
 これまで決して思い出すことの無かった昔の記憶。その光景に胸がドキドキと高鳴っていく。
 結城啓人。ユウキアキト。パチリ、と鍵がはまる音がした。

「……ユート?」

 自然と零れ落ちた言葉に、結城さんが驚いたように振り返る。
 穏やかだった顔を一筋の涙が伝って、でも、笑っていた。優しく、けれどぎゅっと手が握りしめられる。

「ああ。やっぱり、沙彩はねぼすけだなあ」

 結城さんの――ユートの声は震えている。私の手を握るのと反対側の手がぽんと私の頭の上に乗せられた。次々と記憶が呼び戻されていく。病室でぐちゃぐちゃに泣きながら、それでも笑うユートの姿。

「ユートが起こしに来てくれるって、信じてたから」

「遅くなってごめん」

 ユートの言葉に首を振る。眠りに落ちていくとき、不思議なくらい穏やかな気持ちだった。いつかユートが起こしてくれるとわかっていたから。

「ううん。おはよう、ユート」

「うん。おはよう、沙彩」

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