「『思いつつ寝ればや人の見えつらむ夢と知りせばさめざらましを』は古今和歌集に収められた小野小町の歌ですが、上句は係り結びとなっています」
古語の授業をどこか遠くに聞きながら、窓の外を見る。秋が近づく10月の空は青く澄んでいた。まるで意識を吸い込んでしまいそうな程、透明で遠くまで伸びている。
意識を吸い込む、といえば。前の席では沙彩がぽやぽやと舟を漕いでいる。もっとも、それはいつも通りの光景だったし、授業だって受験対策に重きが置かれていたから、沙彩の様子をことさら誰も気にしていない。6限で今日最後の授業ともなればなおさらだった。
「下句は反実仮想を用いて、『夢だとわかっていれば、そのまま目覚めなかったのに』と恋しさを表現しています」
舟を漕いでいた沙彩の背がパッと伸びた。どうやら夢から覚めたらしい。いったいどんな夢を見ていたんだろう――と考えて、授業の内容とダブってしまい、小さく頭を振って板書を移すことに集中する。
それでも、無心で書き写していると沙彩のことが思い浮かんでくる。彼女は、昼も夜もよく眠る。それは仕方ないことで、むしろ、それでも学校に通っているのは沙彩の努力の賜物だった。
「ユート……」
ノートから顔を上げると、沙彩が振り返って僕を見ていた。
授業中は、集中して授業を聞いているか、寝落ちしているかだから、そんなことは珍しかった。
「どうしたの?」
沙彩の様子に違和感を覚えた。沙彩の顔はまるで、悪い夢でも見ていたような。
どうして、そんな助けを求めるような目で。
「わたし……」
ぐらりと世界が傾いた。
いや、世界はそのままで、一人沙彩だけが傾いていく。
世界はスローモーションのように緩やかに進み、次の瞬間、沙彩は床に倒れ込んでいた。
「沙彩!?」
一拍遅れて、世界が騒然となる。
倒れ込む沙彩はなぜだかいつものように寝ているだけに見えて。僕は慌ただしくなる世界から取り残された。
*
今まで来たこともないような大きな病院の廊下で一人待つ。既に辺りは暗くなっていて、僕以外の人はいない。
授業中に倒れた沙彩は病院に運ばれてから暫くして目を覚ましたらしい。けれど、状態は芳しくないようだった。先ほど、沈痛な面持ちの沙彩の両親が医師に伴われて沙彩のいる病室へと入っていった。それはつまり、今回は一時的に症状が悪化しただけというわけではないのだろう。
――代謝不全性長期入眠症
通称『冬眠症』と呼ばれる症状は、10年前くらいに初めて発見された珍しい病だった。原因も進行も詳しいことはまだわかっていない。わかっているのは、発症すると徐々に睡眠時間が伸びていき、やがて意識が覚醒しなくなること。そこまで進行すると、代謝が極端に低下し、生命維持に必要な最低限の状態になることだった。
沙彩が冬眠症を発症したのは中学二年生の時。それ以来、日中でも突然意識を失うことがあった。本来なら外に出るのも危ない状態で、それでも沙彩は徒歩圏内で付き添いがいることを条件に高校に通っていた。
それが、沙彩の望みだった。意識を失う、といってもそれは文字通り寝落ちのようだったのだけど、今日は様子が違った。もしかしたら。最悪の想像がずっと脳内に居座っている。
「ユート君」
顔を上げると、沙彩のお父さんが痛々しい表情のままに僕の前に立っていた。
「沙彩が二人で話したいと。会ってやってくれないか?」
言葉が重い。
返事の言葉が思い浮かばなくて、ただ黙って頷いて立ち上がる。会って沙彩と話したいという想いと、それが最後の宣告になるような恐怖が互い違いに姿を現す。病室へ向かう初めの一歩がどこまでも重かった。
「娘を学校に通わせてくれて感謝している。それでも、ワガママを言わせてほしい」
病室に向かう途中で、背後から聞こえてきた声に振り返る。
沙彩のお父さんは助けを求めるような目で僕を見ていた。その表情に見覚えがあって、授業中の光景を思い出した。あの瞬間、僕はただ倒れる沙彩を見ていることしかできなかった。
「娘に、希望を与えてほしい」
*
古語の授業をどこか遠くに聞きながら、窓の外を見る。秋が近づく10月の空は青く澄んでいた。まるで意識を吸い込んでしまいそうな程、透明で遠くまで伸びている。
意識を吸い込む、といえば。前の席では沙彩がぽやぽやと舟を漕いでいる。もっとも、それはいつも通りの光景だったし、授業だって受験対策に重きが置かれていたから、沙彩の様子をことさら誰も気にしていない。6限で今日最後の授業ともなればなおさらだった。
「下句は反実仮想を用いて、『夢だとわかっていれば、そのまま目覚めなかったのに』と恋しさを表現しています」
舟を漕いでいた沙彩の背がパッと伸びた。どうやら夢から覚めたらしい。いったいどんな夢を見ていたんだろう――と考えて、授業の内容とダブってしまい、小さく頭を振って板書を移すことに集中する。
それでも、無心で書き写していると沙彩のことが思い浮かんでくる。彼女は、昼も夜もよく眠る。それは仕方ないことで、むしろ、それでも学校に通っているのは沙彩の努力の賜物だった。
「ユート……」
ノートから顔を上げると、沙彩が振り返って僕を見ていた。
授業中は、集中して授業を聞いているか、寝落ちしているかだから、そんなことは珍しかった。
「どうしたの?」
沙彩の様子に違和感を覚えた。沙彩の顔はまるで、悪い夢でも見ていたような。
どうして、そんな助けを求めるような目で。
「わたし……」
ぐらりと世界が傾いた。
いや、世界はそのままで、一人沙彩だけが傾いていく。
世界はスローモーションのように緩やかに進み、次の瞬間、沙彩は床に倒れ込んでいた。
「沙彩!?」
一拍遅れて、世界が騒然となる。
倒れ込む沙彩はなぜだかいつものように寝ているだけに見えて。僕は慌ただしくなる世界から取り残された。
*
今まで来たこともないような大きな病院の廊下で一人待つ。既に辺りは暗くなっていて、僕以外の人はいない。
授業中に倒れた沙彩は病院に運ばれてから暫くして目を覚ましたらしい。けれど、状態は芳しくないようだった。先ほど、沈痛な面持ちの沙彩の両親が医師に伴われて沙彩のいる病室へと入っていった。それはつまり、今回は一時的に症状が悪化しただけというわけではないのだろう。
――代謝不全性長期入眠症
通称『冬眠症』と呼ばれる症状は、10年前くらいに初めて発見された珍しい病だった。原因も進行も詳しいことはまだわかっていない。わかっているのは、発症すると徐々に睡眠時間が伸びていき、やがて意識が覚醒しなくなること。そこまで進行すると、代謝が極端に低下し、生命維持に必要な最低限の状態になることだった。
沙彩が冬眠症を発症したのは中学二年生の時。それ以来、日中でも突然意識を失うことがあった。本来なら外に出るのも危ない状態で、それでも沙彩は徒歩圏内で付き添いがいることを条件に高校に通っていた。
それが、沙彩の望みだった。意識を失う、といってもそれは文字通り寝落ちのようだったのだけど、今日は様子が違った。もしかしたら。最悪の想像がずっと脳内に居座っている。
「ユート君」
顔を上げると、沙彩のお父さんが痛々しい表情のままに僕の前に立っていた。
「沙彩が二人で話したいと。会ってやってくれないか?」
言葉が重い。
返事の言葉が思い浮かばなくて、ただ黙って頷いて立ち上がる。会って沙彩と話したいという想いと、それが最後の宣告になるような恐怖が互い違いに姿を現す。病室へ向かう初めの一歩がどこまでも重かった。
「娘を学校に通わせてくれて感謝している。それでも、ワガママを言わせてほしい」
病室に向かう途中で、背後から聞こえてきた声に振り返る。
沙彩のお父さんは助けを求めるような目で僕を見ていた。その表情に見覚えがあって、授業中の光景を思い出した。あの瞬間、僕はただ倒れる沙彩を見ていることしかできなかった。
「娘に、希望を与えてほしい」
*