あれから沖浦くんはサボることなく真面目に学校に来るようになった。
 ゴールデンウィークが明けて、課題が増えるかと思っていたけれど、プリントをペアで交換して採点するなどといった簡単なものばかり。そのため、ペアといってもまだ一緒に行動することは少ない。

「隣のクラス、早速ペアで揉め事だってさ〜」
 昼休みにポテトチップスを食べながら、有海は先ほど聞いたという揉め事について話し始める。

「片方が不登校になっちゃったらしくって、ペアの課題ができなくって、提出免除になった子がいるんだって。それでズルいとか言われてるみたい」
「ズルいって、仕方なくない?」
「そうなんだけどさぁ。その子が、ラッキーとか言っちゃったみたいで」
「あー、それは反感買うわ」

 私は有海と咲羅沙の話に耳を傾けながら、パックに入ったピーチティーにストローをさす。
 ペアリング制度は、ここ数年でできたものだから、まだ問題点も多いと聞く。
 片方が不登校になったり、病欠や退学した場合、余る人が出てしまう。学年でそういったケースが多発する場合は、再度ペアリングをし直す学校もあるらしい。

「てか、ペアの相手がいなくなるの結構焦らない? 去年話題になってたじゃん」
「もしかして、ネットニュースになったいじめのやつ?」
 私の問いかけに咲羅沙が頷く。確か片方が学校を辞めた影響で、ペアが組めなくなってしまったため、ペアリング対象外になったそうだ。

「ペアの相手が学校辞めた後、残された子がペア課題免除されてたからクラスで浮いちゃって、最終的にいじめにまで発展したってやつ」
「そんなことで?って感じだけど、隣のクラスの雰囲気見てると、ありえない話じゃないなーって感じだよね〜」

 強制的に誰かとペアを組まされることには息苦しさがあるけれど、誰ともペアにならずに浮いてしまうのも学校で過ごしづらい。


「ペア制度が始まってからサボりが減ったとか言われてるけどさ、実際どうなんだろうね〜。沖浦は最近サボってなさそうだけど」
「課題さえ出せば罰則が科されないって誤解してたみたいで……だから、もう大丈夫」
 咲羅沙が、呆れたように顔をしかめる。

「八枝、とばっちり受けたんだから、怒っていいと思うよ」
「でも謝ってもらったし、一度だけだから……」
 最初は不満もあったけれど、それでも今は特に沖浦くんに対して怒っていない。

「優しすぎ」
 その言葉が棘みたいに心に刺さる。
 咲羅沙が悪い意味で言っているわけじゃないのはわかっている。だけど、本当に優しさから大丈夫と言っているわけじゃなかった。

 なるべく平穏に過ごしたい。沖浦くんと揉めたくもないし、謝ってくれて、その後サボっていないからそれでいい。
 言葉を呑み込んで、ピーチティーにさしたストローを口元に持っていく。


「八枝は災難だよねー。沖浦みたいな人とペアになっちゃって」
「こないだは、かっこよくて羨ましいって言ってたじゃん。それ一枚ちょうだい」
 咲羅沙がツッコミを入れながら、割り箸を有海のポテトチップスの袋に伸ばし、一枚つまんだ。

「そうだけどさー。連帯責任とか、嫌すぎ」
 連帯責任。その言葉が重くのしかかる。
 サボりだけじゃない。体調不良で課題ができなかった場合も、連帯責任として追加課題があるらしい。

「ペアが咲羅沙でよかった〜」
「私もペアが有海でよかった。男子だったら、絶対やりにくかったし」
「ふたりはペアでいいなぁ」
 明るい声で返したけれど、本当に言いたいことは胸につっかえていた。

 ペアリング制度なんてなければいいのに。どうしてこんなものが、私たちが学生のときにできてしまったんだろう。
 きっとペアリング制度がなければ、沖浦くんと話すこともなかっただろうし、連帯責任を気にする必要もなかった。もしも私が体調不良で課題ができなかったら、沖浦くんにも迷惑がかかってしまう。
 風邪を引かないように気をつけないと。けれど、そう思うほどプレッシャーがのしかかる。

「ね、見て見て! くちばし!」
 有海がポテトチップスを二枚口にくわえて指さす。

「写真撮って!」
 スマホを取り出した咲羅沙が、笑いながら有海を撮影する。その光景を、私は隣でお弁当を食べながら眺めていた。

「有海、これ載せていい?」
「いいよー!」
 そんなふたりの会話を聞きながら、卵焼きを食べていると、机に置いていたスマホに通知が届いた。画面に書いてある文字に硬直する。


【タグづけされました】

 ……タグづけ?
 タップしてみると、咲羅沙がSNSに載せた有海のくちばしの画像だった。そして、そこには私も写り込んでいた。有海を眺めながら微笑んでいるように見えて、血の気が引いていく。

 この顔を、いろんな人に見られるのは嫌だ。
 だけど、写り込んでいるから消してとは言いにくかった。胃がキリキリと痛み、暑くもないのに汗をかく。撮るときに写らないようにずれればよかった。

 誰も端に写っている私のことなんて気に留めない。だけど見られるのが怖い。自分の細められた目や微かに上がった口角が、気味の悪いものに見えて仕方がなかった。


「私、トイレ行ってくるわー」
 咲羅沙が立ち上がると、すぐに有海は「待って!」と引き留める。

「飲み物買いに行きたいから、一緒に行こ! 八枝は?」
 ペアリング制度の話や写真のことに気を取られて、お弁当のおかずが半分以上残ったままだった。私は首を横に振って、お箸を持った手を口元に添えながら微笑む。

「まだ食べ終わってないから、私はここで待ってるね」
「おっけー。じゃあ、行ってくるね〜」
 有海たちを見送った後、無理矢理にミニハンバーグや人参の甘煮などを口の中に詰め込んでいく。残さず食べないと、お母さんに食欲なかったのかと心配をかけてしまう。

 だけど胃もたれを起こしているかのように、不快感があって食欲が湧かない。
 咀嚼したおかずをピーチティーで流し込んで、なんとか食べ切った。

 お弁当箱を片付けた後、机の上に置いていたスマホを手に取る。
 普段使っているSNSのピンク色のアイコンを開くと、先ほどの画像がトップに表示されていた。

 いいね通知が、次々に届く。
 知らない名前や、同じ教室にいる生徒の名前。咲羅沙のフォロワーからのリアクションだ。先ほど載せたばかりなのに、その数はすでに八十を超えていた。

「……っ」
 先ほど胃に入れたものが逆流しそうだった。自分を落ち着かせるように、シャツの胸元を握りしめる。
 お願い。見ないで。
 そう願っても、また通知が増えていく。

『気にしすぎじゃね』
 沖浦くんの言う通りかもしれない。
 だけど、心にモヤモヤとしたものが広がって、この画像がネット上に残り続けるのだと思うと、アカウントごと消してしまいたい衝動に駆られた。

 そして、その夜。
 私はSNSのアカウントを削除した。けれど、友達との思い出も詰まっていたため、消したくない気持ちもあった。
 でも、自分が写った画像のことや、誰かのリアクションが気になってしまう。
 私がアカウントを消したところで、画像が消えるわけじゃない。それでも通知が届くたびに、あの笑みを思い出すことが耐えられなかった。
 綺麗な顔で笑えるようになりたい。願えば願うほど、脳裏に焼きついた自分の笑顔に嫌気がさした。

「八枝〜!」
 部屋のドアをノックされて、急いでベッドから起き上がる。ドアを開けると、紫色の花を持ったお母さんが立っていた。

「お花、部屋に飾る?」
「うん。綺麗だね」
 小ぶりな花がたくさん咲いていて、鮮やかな紫色をしている。一輪受け取ると、甘い香りがした。

「ライラック、かわいいでしょ? リビングと八枝たちの部屋にどうかなと思って買ってきたの」
 お花が大好きなお母さんが嬉しそうに微笑む。親子なのに、私の笑顔とは違う。優しさが滲み出ていて、私もこんなふうに笑えたらいいのにとライラックの茎をぎゅっと握りしめる。

「……ありがとう。飾るね」
 ライラックを机に置いて、花瓶を持って洗面所まで向かう。中に水を入れながら、視線を上げると鏡には自分の顔が映っていた。

「あ、私の分も水入れて!」
 洗面所にやってきたお姉ちゃんが花瓶を洗面台に置いた。

「うん」
 鏡に映る私とお姉ちゃんの顔を見比べて、すぐに視線を落とす。
 幼い頃から、よく似ている姉妹だと言われていた。確かに顔立ちは似ていると思う。だけど表情や性格が私たちは異なる。
 明るくて活発で、表情がコロコロと変化するお姉ちゃんは、社交的で交友関係も広い。しょっちゅう誰かから電話がかかってきていて、相談に乗っているのを見かける。

 一方、私は感情を言葉にするのが苦手で、友達はいても深い付き合いをする人は少ない。それに相槌を打ったり愛想笑いでごまかしてしまう癖がある。だからか、誰かの相談に乗ることもあまりなく、私自身も誰かに相談をすることはほとんどない。
 姉妹なのに私たちは、こんなにも違う。


「はい」
 水を入れた花瓶を渡すと、お姉ちゃんはニッと歯を見せて笑った。

「ありがとー!」
 ……いいな。屈託なく笑えて。そんな嫉妬が混じった感情が心に滲む。
 きっとお姉ちゃんは、笑った顔を指さされて変だと言われたことはない。ううん、もしも言われたことがあったとしても、お姉ちゃんは気にしない。

『勝手に言わせておけばいいじゃん。反応するから面白がるんだよ』
 中学の頃、男子にからかわれたときに私もそう思えていたら、今も気にせず笑えていたんだろうか。

 翌日、学校に行くと咲羅沙と有海の雰囲気がいつもと違っていた。なんとなくぎこちなくて、時折目配せをしている。
 自分がなにかをしてしまったのかもと焦りながらも、私は気にしていないフリをして話題を振る。

「昨日の数学の課題、ちょっと難しかったよね」
「あー……ね。私、最後の問題自信ないんだよね。適当に書いて埋めたけど」
 咲羅沙がリップを塗る手を止めて、控えめに微笑む。やっぱりいつもと少し反応が違う。

「え、私全部解けなかったんだけど! だから真っ白!」
 有海の発言に、私と咲羅沙は目を丸くする。そして咲羅沙がおかしそうに噴き出した。

「ちょ、マジで? 追加課題とかになったら嫌なんだけど! 有海、今すぐプリント出して!」
「えー! もうプリントやりたくないんだけど〜」
「一問も解いてないくせになに言ってんの!」
 ふたりのやり取りを見て、私は目元を隠すように前髪をいじりながら笑う。
 さっきは違和感を抱いたけれど、今はいつも通りのふたりだ。私が気にしすぎていたのかも。
 すると、ふたりの動きが止まる。

「よかったー!」
 ほっと息を吐いた有海に、私は首を傾げた。隣にいる咲羅沙も表情が先ほどよりも和らいでいる。どうしたのだろうか。

「昨日八枝、アカウント消したじゃん?」
 有海の指摘に、びくりとする。

「だから、なにかあったのかなーとか思って」
 アカウント削除した私の行動が、ここまでふたりを気にさせていたなんて。申し訳ない気持ちもあったけれど、本当のことは話しづらかった。
 事情を話したら、それくらいのことで?と困惑させるかもしれない。

「ごめんね、深い意味はなくて! ただ最近あんまり見ていなかったから、消しちゃおうかなって」
 軽い感じで笑いながら話して、俯きながら前髪に触れる。
 やっぱり消すのは失敗だったかも。SNSを見てなかったら、みんなの話題に乗り遅れることもある。もう一度作った方がいいだろうか。

「でもみんなの投稿見れなくなっちゃうし、作り直そうかな」
「そっか〜。まあ、頻繁に消して作り直す子も結構いるもんね」
 咲羅沙が苦笑する。それがいい反応には思えなくて、内心焦った。
 衝動的に消して、またすぐアカウントを復活させたら面倒くさいやつだと思われそうで怖い。

 意志が弱くて、相手の反応で不安になる自分に呆れてしまう。
 後悔するくらいなら、もう少し考えるべきだった。あのとき、通知だけ切った方がよかったかもしれない。

「てかさ、ペア事件のニュース見た?」
 私と有海は顔を見合わせて、首を横に振る。

「ううん、知らない」
 咲羅沙がスマホを机の上に置いて、私たちに見せてきた。

「え、なにこれ。……ペアになった男子に逆らえなくて窃盗を繰り返す?」
 有海と一緒に記事を読んでいく。片方の影響を受けて非行に走った事件かと思えば、飛び込んできた言葉に目を見開く。
 女の子はペアの男の子に窃盗を強要されていて、耐えきれなくなりSNSに遺書を残して自殺をしようとしたらしい。未遂だったものの、ペアリング制度廃止の声も保護者たちからあがっているそうだ。

「しかもこれ、結構近くない?」
「本当だ。隣駅の学校だよね」
 ここの学校の生徒とは、一緒の電車に乗ることが多い。記事を読んでいるときは自分たちとは遠い世界の事件のように感じたけれど、知っている学校だとわかり、血の気が引いていく。私たちの学校でだって、こうした事件が起きてもおかしくないんだ。

「まあでも、沖浦はそういう不良タイプじゃないけど、八枝も気をつけてね」
「え? あ……うん」
 沖浦くんがなにかを強要してくるような人には思えない。彼のことを詳しく知っているわけではないけれど、それだけはわかる。
 沖浦くんは悪い人じゃないよ。だから、大丈夫。そう言うべきだったのに、曖昧なことしか私は答えられなかった。
 予鈴が鳴って自分の席に戻ると、座る直前に沖浦くんに呼び止められる。


「紺野、プリント交換」
「あ、うん!」
 机の中から課題のプリントを取り出して沖浦くんに渡す。すると沖浦くんが、私の解答をまじまじと見た。

「すげ、全部埋まってる」
「……最後の方は難しいから、たぶん合ってないと思う」
 空白で出しにくくて、とりあえず埋めただけ。受け取ったプリントに視線を落とすと、沖浦くんは最後の問題が空白のままだった。


「俺なんて思いつきもしなかったけど」
 沖浦くんのプリントは、わからないことはわからないと空白で主張しているように見える。相性がいいと診断されても、やっぱり私たちは全く違っていた。

 不意に沖浦くんが身を屈めて、私の顔を覗き込んでくる。
 あまりにも驚いて、私は身体がのけ反りそうになった。

「っど、どうしたの?」
「前から思ってたけど、前髪長くね? 目にかかってんじゃん」
「――っ、見えるから平気!」
 前髪は、目元を少しでも隠すために長めに伸ばしている。見えづらさもあるけれど、この長さに慣れてしまって短くすると落ち着かない。

「あっそ」
 沖浦くんの返答が素っ気なく聞こえて、肩を震わせる。
 露骨に嫌がりすぎたかもしれない。

 そのまま沖浦くんが、遠ざかっていくのを感じた。
 悪気があったわけじゃないのはわかっている。もっと上手く対応ができたらよかった。ちょっとしたことで動揺してしまうこんな自分が嫌だ。


「このモデルの子って、自分のことめちゃくちゃ好き〜って感じ出てるから苦手なんだよね」
「わかる! 自己愛強い感じが投稿に滲んでるよね」

 近くにいた子たちの会話が聞こえてきて、前髪を撫でるように触れる。
 私は、そのモデルの人が羨ましく思える。

 自分を好きになるって、難しい。
 だって好きになれるほど、自分のいい部分が見当たらない。
 自信が持てて、笑顔もかわいかったら、私は自分を好きになれたのだろうか。

 憂鬱な気持ちのまま授業開始の挨拶をぼんやりと聞いていると、「紺野」と数学の先生に名前を呼ばれた。

「教科書は?」
「あ……すみません、すぐ出します」
 机の中に入れている教科書やノートを引っ張り出す。けれど、数学の教科書が見当たらない。鞄を開けてみても、どこにもなかった。

 ……もしかしたら、数学の課題をやるために教科書を持って帰ったので、家に置いてきてしまったかもしれない。

「忘れたのか?」
 先生の厳しい眼差しと、周囲の生徒からの視線が一気に集まって、息を呑む。

「……っ、ぁ」
 忘れましたと言わないと。だけど苛立っている先生の前で、萎縮してしまい上手く声が出ない。

 ここで忘れたと言ったら、減点されるのだろうか。こんなことでペアの沖浦くんにまで迷惑がかかってしまうかもしれない。
 胃のあたりをぐっと手で押さえて、震える息を吐いた瞬間。空気を裂くように、椅子が床に擦れる音がした。

「悪い、紺野。俺が借りたままだった」
 立ち上がった沖浦くんが、私のもとまでやってくると数学の教科書を机の上に置いた。

「なんで紺野の教科書を沖浦が持ってるんだ」
「昨日課題のことで紺野に教えてもらってたんすよ。それで俺が間違えて持って帰ってました」
 違う。そんな覚えなんてない。それなのにどうして……?


「で、俺は自分の教科書家に置いてきちゃいました」
 あははと笑う沖浦くんに、周囲の人たちが苦笑する。先生は呆れたようにため息をついた。

「次忘れたら、沖浦のペアは追加でプリントを渡すからな」
「はーい。すんません」
 沖浦くんは謝罪して席に着く。そして隣の人に教科書を見せてもらっていた。

 ……庇ってくれたんだ。だけど私の代わりに忘れたことにしても、沖浦くんはなにも得をしない。先日のサボりの件もあるので、むしろ先生たちに悪い印象がついてしまう。

 それなのにみんなの前で、自分が忘れたと嘘をついてくれたのはなぜだろう。
 右側を向くと、頬杖をつきながら黒板を眺めている沖浦くんの横顔が見える。いくら考えても、沖浦くんの考えはわからない。

 数学の授業が終わる直前。ノートの最後のページを破って、私はメモを残した。


【迷惑かけて、ごめんなさい。庇ってくれてありがとう】
 二限目が終わり、教科書を沖浦くんに返しに行こうと思っていると、スマホを持って廊下に出ていく姿が見えた。後を追うと、廊下の端の方で立ち止まり、電話をしている。

 後で返そう。そう思って私は引き返した。


 その後もなかなかタイミングが掴めず、昼休みになってしまった。
 声をかけようと立ち上がると、沖浦くんは鞄を持って私のもとまでやってきた。

「紺野……悪い」
「え?」
「昼休みが終わっても俺が戻ってこなかったら、先生に俺が独断でしたことだって言って」
 それだけ言うと、沖浦くんは急いで教室から出ていく。
 今のどういう意味?
 詳しく事情を聞きたいのに、沖浦くんの姿はもう見えない。


「八枝? お昼食べないの?」
「ごめん、先に食べてて!」
 咲羅沙と有海に断りを入れてから、私は沖浦くんを追いかける。
 嫌な予感がした。

 昼休みが終わっても戻ってこなかったらって、もしかして学校の外に行くつもり? そうだとしたら、昇降口に向かっているはず。
 小走りで階段を下りていくと、昇降口にあるすのこが揺れる音がした。


「……沖浦くん」
 私の声に、沖浦くんが顔を上げる。ちょうど靴を履き替えようとしていたところだった。

「さっきのどういう意味? どこ行くの?」
 サボる気なら止めないと、また罰則になってしまう。
 沖浦くんは気まずそうな表情を見せて、俯いた。

「すぐ戻るから」
「……すぐって……でも」
 学校の外に出る気なのは間違いない。そもそも昼休みとはいえ、学校を出たら先生に叱られるはず。

「……なにがあったの?」
 沖浦くんには焦りが見えて、ただのサボりではなさそうだった。なにか事情があるのかもしれない。

「妹が熱出してて」
「え……」
「今家に誰もいないから、どうしても様子を見に行きたくて……悪い。また連帯責任で、紺野まで罰則になるかもしれねぇのに」
 切羽詰まっている様子の沖浦くんからは、本気で妹のことを心配しているのがうかがえる。サボりだとしたら、引き留めないといけないって思っていた。
 だけど、私は握りしめていた自分の手を解く。


「っ、大丈夫!」
 ちょっとだけ声が震えた。本当は少し迷いがある。

 罰則を避けたいし、まずは先生に話した方がいいんじゃないかとか、別の選択肢が浮かぶ。
 それでも沖浦くんは今すぐに、妹のもとに駆けつけたいのだと思う。

「気にしなくていいから」
 それでも数学の教科書を忘れたとき、私を庇ってくれた沖浦くんの優しさに恩返しがしたい。


「……本当ごめん。なにか言われたら、なんも知らないフリして」
 私は首を横に振る。

「罰則よりも、妹さんのことの方が大事だよ。早く行ってあげて」
「ありがとう」
 弱々しく沖浦くんが微笑んだ。そして薄暗い昇降口から、青空が広がる外に向かって走っていく。
 後ろ姿を眺めながら、私はその場にへたり込む。

 ……行ってって、言っちゃった。

 先生に、怒られるかな。昼休みが終わるまでに本当に帰ってくるのかもわからない。
 でもあんなに必死な表情の沖浦くんを、引き留めることなんてできなかった。
 木々を揺らすほどの風が吹き、昇降口の中まで葉が入ってくる。前髪が風で持ち上がり、ふわりと緑が香る。私の好きな植物の匂い。

 先生に怒られたとしても、沖浦くんが妹さんのもとへ駆けつけることができたなら、それでいいや。すぐそばに落ちている葉を拾い上げる。
 自分の大事なものを守るために走っていける、沖浦くんはかっこいいな。私だったら、きっとルールを気にしてためらってしまう。

 教室へ戻ると、お弁当箱を持って咲羅沙と有海のもとへ向かう。ふたりは机をくっつけてお昼ご飯を食べていた。


「大丈夫? お腹でも痛い?」
 トイレにでも行っていたと思っているみたいだ。私は「大丈夫」と言葉を濁しながら、近くの空いている椅子を借りる。
 有海たちには言えなかった。四月のサボりのこともあって、ふたりは沖浦くんに対していい印象を持っていない。

「あれ、呼び出し絶対彼女だろ」
「だよな、絶対そう」
 教室の廊下側の席から、男子たちの声が響いてきた。

「え、沖浦って彼女いるの?」
「年下の彼女がいるとか聞いたことあるけど」
 呼び出しとは、おそらく沖浦くんが妹の熱が心配で一時帰宅したことについてだ。誤解が広まっていて、沖浦くん本人の口から事情を聞いた身としては胸の奥がざわつく。


「八枝また連帯責任じゃん。かわいそう」
 会話を聞いていた咲羅沙が眉間に皺を寄せる。

「てか、彼女に会いに行くためにサボるとかありえなくない? ペア制度のことがあるのに」
「あ、違うの……! 妹さんが熱出したって、沖浦くん本人がさっき言ってたんだ。それで心配で帰るみたいで」
「えー、けどさ、それ本当かわからなくない?」

 有海の指摘になにも返せなかった。
 沖浦くんが嘘をついている可能性。それを私は考えていなかった。

「八枝は優しいから、妹って言えば信じると思ってごまかしてる可能性もあるじゃん?」
 簡単に信じちゃダメだよと、咲羅沙が困ったような表情を浮かべる。


「沖浦と仲いい男子たちまで言ってるんだから、妹の熱って話は嘘の可能性高いよ」
 普段の私なら、周りの話に流されて鵜呑みにしていたと思う。
 だけど、あのときの沖浦くんの表情は切羽詰まっていて、嘘をついているようには見えなかったのだ。

 ……それに、彼女だとしても心配で様子を見に行くのはいけないことなのかな。

 有海が注意をするように、人差し指を立てる。

「素直に信じちゃう人が損するんだからね!」
 私は曖昧に苦笑しながら、前髪に触れた。

 沖浦くんの走っていく後ろ姿が頭をよぎる。
 どうか、お願い。戻ってきますように。

 お弁当を食べて、咲羅沙たちと喋っていると、あっというまに時間は過ぎた。昼休みはあと十分くらいで終わってしまう。
 沖浦くんが戻ってくる気配はない。熱を出した妹さんの面倒を見ていたら、昼休みの時間に帰ってくるのは難しい気もする。

 多少遅れたとしても、五限目に間に合えば、先生にバレずに済む。最悪授業が始まったとしても、戻ってきてくれたら罰則は軽いものになるかもしれない。

 だけど私の願いは虚しく、沖浦くんは戻ってこなかった。
 六限目が終わっても、彼の席は空いたまま。

 ……なにかあったのだろうか。それとも妹の熱というのは嘘でサボり?
 複雑な気持ちが心の中に入り乱れる。だけど、私が数学の教科書を忘れたとき、自分が叱られるのを覚悟で庇ってくれたような人だ。適当に理由をつけてサボったとは思えない。

 それとも私がそういう人だと思い込んでいるだけ?
 帰りのホームルームでは、四月に描いた自画像が返却された。そして一緒にペアの人が書いた評価表も渡される。
 机の上に裏返しに置いた自画像を、できるならこのまま破って捨ててしまいたい。

 こんな絵、いらない。沖浦くんが書いた私への評価表も見るのが怖い。
 それに本人に渡されるなんて知らなかった。私、沖浦くんの評価表になんて書いたっけ? もっと気をつけて書くべきだったかも。

 憂鬱な気分で視線を落とすと、画用紙の裏面に私が描いた桜を見つけた。そしてその隣に、黒のボールペンで花丸が描いてある。


 ……沖浦くんだ。
 私が描いた小さな桜の絵を見つけてくれて、上手いと褒めてくれた。それだけじゃなく、花丸まで描いてくれたんだ。嬉しくて頬が緩む。

 はっと我に返り、慌てて前髪をいじる。
 気が緩んでしまっていた。変な笑顔を周りの人に見られないようにしないと。
 自画像を描いた画用紙を、丸めて鞄の中にしまい込む。評価表は読まずに折り畳もうとすると、沖浦くんは筆圧が強いのか裏面にしていても浮き出て見えてしまう。

 綺麗と書いてある気がして、手を止める。彼がなんて書いたのか読むのは怖いけれど、紙をゆっくりと表面にした。

【線が綺麗。髪が本物みたいで、艶や影のつけ方とか勉強になった。慎重さが絵から伝わってくる。だけど表情が暗い。本物の紺野の方がいい。あともっと紺野の絵が見てみたい】

 言葉にならない感情が心の奥底から湧き上がってくるような感覚がして、紙の上にペンケースを置いて文字を隠す。
 これって褒めてくれてる……? 自画像の私よりも、本物の方がいいって、読み間違い? それに私の絵がもっと見たいって……。

 ペンケースをちょっとだけずらして、もう一度沖浦くんの文章を読んでみる。

 身体中に血が巡りだしたみたいに、体温が上がっていく。
 自画像を評価されるのは恥ずかしい。本当は見られたくない。だけど……沖浦くんがくれる言葉はどれも温かさを感じた。
 ごつごつとしている文字を、指先でなぞる。

 ……力強くて、だけど丁寧で伸びやかで、達筆な字。

 鞄の中に入れた自画像は、家に帰ったら見ずに捨てようと思っていた。
 だけど沖浦くんの言葉が、じんわりと心に灯って気持ちに変化が生まれる。
 この紙と一緒にとっておこう。いつか大嫌いな自分の顔を描いた絵を、懐かしんで見返すことができる日が来たらいいな。そんな感情が芽生えた。

 帰りのホームルームが終わると、担任の三岳先生に声をかけられた。

「紺野さん、少し残ってもらっていい?」
「……はい」
 そんな私を見た有海が小声で「災難だね」と言って、同情するように肩を軽く叩く。

「私たちは先に帰ってるね」
「うん、また明日ね」
 咲羅沙と有海が教室から出ていき、ひとりで席に座っていると、教室にいたクラスメイトたちがちらちらと私を見る。
 居心地の悪い視線を感じながら、先生の話を待つ。

「残ってないで、早く帰りなさい」
 私以外の生徒たちを全員教室から出すと、三岳先生は隣の席に座った。

「紺野さんも大変ね」
 私はペアとして連帯責任だと叱られるかと思っていたけれど、憐(あわ)れんでいるようだった。

「沖浦くんのこと、特別罰則にしておくわ。本当はペアで連帯責任だけど、さすがに彼ばかりが問題を起こしているから」
「え……あの、特別罰則ってなんですか」
「沖浦くんだけに罰を与えるということよ」
 まだ全てのルールを把握していなくて、特別罰則については初めて知った。なにもかもが連帯責任になるというわけではないんだ。

「入学して一ヶ月半で二回もサボりなんて。紺野さんまで巻き込むのに呆れるわ。それにさっき報告を受けたけど、今日は数学の教科書を忘れたんでしょう?」
 心の中にしまい込んでいた罪悪感が、どろどろと滲み出てくる。

 沖浦くんは、確かに最初は突然サボったけれど、教科書の件は私が起こしたことだ。だけど、それを口にするのは怖かった。
 あのとき庇ってもらったのを誰にも言えず、私は黙ったまま。沖浦くんだけを悪者にしている。

 サボった沖浦くんに問題があったのかもしれない。でもそれ以上に、私は……卑怯だ。


「これから先が思いやられるわね。今後サボる気なんて起きないように、なるべく厳しい罰則を考えているから」
「っ、沖浦くんは妹さんの熱が心配で!」
「妹の熱? 彼がそう言ってたの?」
「はい。だから……理由のない早退じゃないです」
 三岳先生は額に手を当てて、ため息を漏らす。

「本当かわからないでしょう。彼女に会いに行ったって噂も聞いたけど? それに本当だとしたら、まずは先生に言うべきだと思うわ」
 私は微かに震える手を握りしめる。

「先生の言うことはわかります……。私も、まずは先生に伝えた方がいいんじゃないかって思いました。でも……その時間が惜しいくらい沖浦くんは慌てていて……」
 どうしてこんなに歯痒いんだろう。
 私は沖浦くんのことを、よく知りもしないのに、彼が嘘をついているとクラスメイトや三岳先生が決めつけて話しているのをもどかしく感じる。

『ありがとう』
 弱々しく微笑んだ沖浦くんが、頭から離れない。
 真実はわからないけれど、彼だけを悪者のままにしたくない。

「それに……教科書のことも違うんです」
「え?」
「……ほ、本当は私が教科書を忘れたんです」
「どういうこと?」
「私が家に置いてきちゃって、そのことに気づいた沖浦くんが庇ってくれたんです。だから……沖浦くんだけが問題じゃありません。黙っていてごめんなさい」
 私が打ち明けた内容に、三岳先生は困惑しているようだった。そしてなにかを言おうとしたとき、教室に誰かが入ってきた。

「え……」
 後ろのドアの前に、沖浦くんが立っている。
 まさか放課後になって教室に戻ってくるとは思わなかった。三岳先生も呆(ぼう)然(ぜん)と彼を見つめている。


「紺野、ごめん」
 私の席の前までやってくると、沖浦くんは深々と頭を下げた。

「妹さんは……大丈夫?」
 私の問いかけに顔を上げた沖浦くんは、小さく頷く。

「三十九度あって、慌てて近所の病院で診てもらった。今は父さんが帰ってきて、そばについていてくれてる」
 よく見ると沖浦くんの額や首筋には汗が滲んでいて、呼吸も少し荒い。きっと急いでここまで来たんだ。やっぱり、沖浦くんが嘘をついているようには思えない。

「……事情はわかったけど、罰則が適用されるのは変更できないわ」
「わかってます。無断で家に帰ってすみません。俺の責任なので、さっき言っていた特別罰則でお願いします」
 私と三岳先生の会話を、沖浦くんは聞いていたんだ。三岳先生は横目で私を見た後、頷く。

 このままでは沖浦くんだけが罰を受けることになる。
 今回の件は、沖浦くんが先生に無断で学校を出て、授業をサボったことが問題だ。沖浦くん自身がひとりで罰を受けると言っているのだから、なにも言わずやり過ごせばいいのかもしれない。
 だけど……本当にそれでいいのだろうか。

 手に汗がじわりと滲み、握りしめる。


「先生……あの」
 昇降口で早く行ってあげてと言ったのは、私だ。
 あのとき、私にだってできることはあった。見送るだけじゃなくて、伝えることができたのに考えつかなかったんだ。

「沖浦くんが妹さんの様子を見に帰ったのを知っていたのに、先生に報告しなかったのは私です」
「紺野」
 私を沖浦くんが止めようとしたけれど、言葉を続ける。

「だから……私も一緒に罰を受けます」
 先生は私と沖浦くんを交互に見てから、仕方なさそうに眉を下げた。

「それなら今日は黒板をふたりで綺麗にしてくれる?」
「え……それだけでいいんですか?」
 この間の罰則とは違い、今日は掃除当番の人たちが教室を綺麗にして、黒板も掃除されている。だから、ほとんどすることがない。

「今日は先生に早退をすることを報告しなかった罰則。私から他の先生にも事情は話しておくから、家のことで困ったことがあったらすぐに相談すること。いい?」
「……はい。ありがとうございます」
 沖浦くんが頭を下げると、先生は申し訳なさそうに微笑む。

「事情を聞こうとしなくて、私も悪かったわ」
 三岳先生はルールに厳しくて怖い人だと思っていた。だけどそれだけじゃない気がする。沖浦くんの事情を本人の口から聞いて心配しているように見える。それに私のことも気にかけてくれていた。

 先生が教室を出ていくと、私たちは黒板の掃除に取りかかる。けれど、ほとんど綺麗なので、念のためクリーナーをかけるだけで、あまり時間はかからなさそうだ。


「紺野は先に帰って」
 私は黒板消しを持とうとした手を止める。そして机の中から数学の教科書を取り出して、彼に差し出した。

「沖浦くん、これ」
「……ああ」
「庇ってくれて、ありがとう。あのとき動揺して言葉が出てこなくって、沖浦くんに助けられたの。だから……私も一緒に掃除させて」
 沖浦くんは教科書を受け取ると、「ありがとう」と掠れた声で言った。声に元気がない。彼にとってきっと今日は大変な一日だったのだろう。

 日に焼けた肌が、いつもよりも血色が悪いように見える。
 空気が少しでも柔らかくなるようなことを言いたいのに、気の利いた言葉がなにも浮かばない。
 私は黒板消しを手に取って、早く終わらせるために黒板を磨くように掃除をする。

 こんなとき有海だったら、明るく場を和ませるのかな。咲羅沙だったら、真っ直ぐな言葉で励ましてくれるかも。
 私は……私にはなにができる? 沖浦くんに『体調は大丈夫?』って聞いたら、具合悪く見えるのかって思われちゃう?

 そうだ。授業のノート大丈夫かな。でも私は字が綺麗なわけじゃないから、貸しにくい。仲のいい人たちに借りるかもしれないし、変にでしゃばらない方がいい?

 頭の中に思い浮かんだ言葉は、喉のあたりに突っかかって声にならない。
 特に会話もなく、私たちの間に無言の時間が過ぎていく。
 緊張のせいなのか、ぐうっとお腹が鳴ってしまい動きを止める。


「……っ!」
 最悪だ。この静かな空間なら絶対沖浦くんに聞こえている。
 ちらりと隣を見ると、沖浦くんと目が合った。気まずくて、とっさに視線を逸らす。

「ミントのやつならあるけど」
「っ、大丈夫! お腹空いてるわけじゃないの! た、たぶん!」
「ははっ、たぶんってなんだよ」
 沖浦くんが、声を上げて笑う。

 ……私の言葉に、笑った?
 意外で目をぱちくりとさせる。沖浦くんは緩んだ表情のまま私を見ていた。

「紺野って話してみると面白いよな」
「え、そんなこと言われたことない……」
 大人しいとか、落ち着いてるねとは言われたことがあるけれど、面白いなんて言葉とは無縁で生きてきた。
 ただなんとなく流れる水のように、そのときに仲よくなる人たちに合わせる役割で、特徴的な個性というものは私になかった。

「リアクションとか面白い。こないだミント食べたときとか」
「あれは、初めて食べたからびっくりして……できれば忘れてほしいな。あと今のお腹の音も、記憶から抹(まっ)消(しょう)してほしい」
「抹消って!」
 また沖浦くんが声を上げて笑う。なにが彼のツボになっているのかわからないけれど、気づけば自然と沖浦くんに対して、思ったことを口に出せていた。

 つい先ほどまで、心の中に浮かんだ言葉の数%くらいしか伝えられていなかったのに、今ではするすると出てくる。喉に絡みついた鎖が、緩んでいくようだった。


「じゃあ今度別の味持ってくる。グレープミント味」
「え、それもスースーするよね?」
「慣れたらいける」
「ええ……そういうものなのかなぁ」
 楽しそうな沖浦くんを見ていると、口元がにやけそうになった。慌てて唇を噛んで、表情を管理する。
 この時間が楽しいのに、笑えない。……笑顔なんて見られたくない。だけどつまらなさそうにしているとも思われたくなかった。

 こういうとき、どんな表情をしたらいいんだろう。私が綺麗に笑える人だったらよかったのに。


 黒板の掃除が終わり、水道の水で手を洗う。冷たい水に手をくぐらせて、ハンドソープに手を伸ばそうとしたときだった。


「なんで俺のこと信じたんだ」
「え?」
「先生とかクラスのやつらは、俺の話を信じてなかっただろ?」

 ――本当かわからないでしょう。彼女に会いに行ったって噂も聞いたけど?
 三岳先生が言っていたことを思い出す。確かに沖浦くんの言う通り、彼と普段一緒にいる人たちは、彼女だと決めつけて話していた。


「先月も妹が体調崩して早退したとき、誰も信じなかったし」
 沖浦くんの表情は少し寂しげで、だけど諦めているようだった。その表情に胸が痛む。


「……沖浦くんと仲いい人たちは、どうして彼女だって勘違いしてたの?」
「妹から来たメッセージを見られて、それで彼女だって誤解されたんだ。違うって言っても、信じてなかった」
「妹でも、彼女だとしても、体調を崩して心配して駆けつけることのなにがいけないんだろう……」
 心に溜まった周囲への不満をぽつりとこぼす。


「連帯責任の件もあるから、突発的な行動を避けた方がいいのはわかるけど……。でも沖浦くんは事前に私に伝えてくれたし、ルールに縛られずに走って駆けつけることができるのってすごいなって思う」
 沖浦くんが目を見開いて動きを止める。
 つい言葉に出してしまった。こんなことを言うのは余計なお世話だったかもしれない。

「ごめん、忘れて!」
「忘れない」
 ニッと歯を見せて沖浦くんが笑う。

 水で手が冷えたはずなのに、急に体温が熱くなるのを感じた。
 恥ずかしい。変なことを言うんじゃなかった。だけど、でも……沖浦くんが私の言葉を真っ直ぐに受け取ってくれているのが嬉しい。


「なんで信じたのかって話の答えなんだけど……沖浦くんが嘘を言っているように見えなかったから」
 照れくささをごまかすように、ハンドソープで手を洗いながら話題を変える。

「それに熱を出したのが、妹さんじゃなくて彼女だったとしても……私はどのみちあのとき行ってきてって言ったと思うんだ」
「ありがとう。……それと迷惑かけてごめん」
 気にしないで、と私は首を横に振った。

 ルールはできるだけ守るべきなのはわかっている。だけど、ルールのせいで選択肢が狭まって大事なときに身動きが取れないなら、その枠を飛び越えていってもいいと思う。

 私にはその勇気が出るのかはわからない。けれど、もしもそのときが来るとしたら、あのときの沖浦くんのように……。
 考え事をしていたせいで水道の蛇口を捻りすぎてしまい、水が勢いよく出てくる。水飛沫が日差しに透けて、キラキラとした光の粒が舞っているように見えた。

 ……綺麗。
 ぼんやりと見惚れていると、沖浦くんの焦ったような声が響いた。

「紺野、水すげぇかかってる!」
「え? あ、本当だ!」
 いつのまにか手についた泡は流れ落ちていて、私の髪やシャツは濡れてしまっている。沖浦くんが水を止めてくれて、私は呆然と濡れている自分を見つめた。

「髪」
「え?」
 沖浦くんの手が伸びてきて、私の前髪が横にずらされる。

「やっぱ前髪、横に分けたらいいのに」
 ぽたりと前髪から雫が垂れた。

「その方が、見えやすいじゃん」
 視界が開けて、普段見ていた学校という世界が違うものに感じる。
 どうしてだろう。何度も見たはずなのに。

 水道のすぐ上にある窓から見える青空と、ワックスが剥(は)げた廊下の床。そして沖浦くんの日に焼けた肌に澄(す)んだ黒い瞳。

 そっか、私は笑顔を隠すために俯きがちになって、視界に入っていても本当の意味で見ていなかったんだ。


「ちょっと待ってて」
 沖浦くんが教室へ入っていく。
 廊下に取り残された私は、びしょ濡れの手をぎゅっと握りしめる。
 なんだかこの感じ、懐かしい。

 小学生の頃に友達と遊んでいたとき、公園の水道の蛇口を指で塞ぐと、水飛沫が上がった。そんな水遊びをして、びしょ濡れになってよくお母さんに怒られていたっけ。


「ふっ」
 思わず笑いがこぼれて、そしてそのまま濡れた手で顔を覆った。
 高校生になって、こんなに濡れるなんて。私なにやってるんだろう。

「紺野、これ」
 廊下に戻ってきた沖浦くんに気づき、私は慌てて笑みを消す。どうやらハンカチを取りに行ってくれていたようだった。

「使っていいの?」
「うん」
 沖浦くんが貸してくれたハンカチは、ピンクの花柄でタグの部分に〝りか〟と油性ペンで書いてあった。この字は、たぶん沖浦くんだ。

「かわいいハンカチだね」
「……妹の間違えて持ってきた。いいから拭けって」
 恥ずかしがっているみたいで、沖浦くんは外方を向いてしまう。

「うん。ありがとう」
 濡れている頬や髪をハンカチで拭いていく。シャツは結構濡れてしまっていて、このまま帰るのは難しい。だけど、体育着は昨日持って帰ってしまった。

「体育着、持って帰ってるよな」
「あ、うん。そうなんだよね。少し乾くまで待つしかないかな」
「けど、着たままだと風邪引くんじゃねぇの」
 帰るときにブレザーを着れば、濡れているのはわかりにくいだろうけれど、濡れたシャツはべったりと肌にくっついている。

「俺のシャツ着て帰る?」
「え……え?」
 突然目の前で、シャツのボタンを外しだした沖浦くんに目を剥く。
 シャツのボタンが全て外されると、沖浦くんは黒いTシャツ姿になった。そしてそのまま脱いだシャツを手渡される。

「俺が着てたし嫌だったら、着なくていいから」
「い、嫌とかじゃなくて……沖浦くんそのまま帰るの?」
 五月とはいえ、半袖で大丈夫だろうか。

「別に平気」
「……じゃあ、借りるね」
 私は教室のドアを閉めて、中でシャツを脱ぐ。水分を吸ったシャツは少し重くなっていた。そして、沖浦くんから借りたシャツに腕を通す。肩幅も袖も私よりも大きくて、服に着られたようにだぼっとしていた。

 袖は三回ほど折って、シャツの裾はスカートの中に入れる。上からブレザーを着たら、なんとかいける気がする。とはいえ、やっぱり襟が大きい。

 それでも濡れたシャツで帰るよりは、ずっとありがたい。
 自分のシャツは濡れていない部分を外側にして折り畳んで、鞄の中に入れる。


「沖浦くん、シャツありがとう」
 廊下で待ってくれていた沖浦くんに声をかけた。私の姿を見て、眉を下げながら微かに笑う。

「やっぱデカいな」
 大きすぎるシャツは袖口を折っても、ブレザーからはみ出ている。不格好かもしれないけれど、それでも沖浦くんの思いやりが嬉しくてくすぐったかった。

 教室に置いていた鞄を持って、私たちは昇降口へ向かう。この間の下校よりも、今日は心が軽い。
 会話はまだ少ないけれど、無言がそこまで苦しくなかった。それは沖浦くんのことを、知ることができたからかもしれない。


「そうだ」
 昇降口で靴を履き替えようとしていると、沖浦くんが声を上げた。

「言っておきたいことがあったんだ」
「え? ……なに?」
「変じゃねぇよ」
 突然のことに、なにについてなのかがわからず固まる。そんな私に、沖浦くんは柔らかな表情のまま言葉を続けた。

「紺野の笑顔」
 どくりと心臓が跳ねる。いつ私の笑顔を見られたんだろう。もしかして水道のところで? 気が緩んでいたせいだ。

 ――コンの笑った顔、変じゃね?
 あんな表情を沖浦くんに見られていたなんて最悪だ。


「紺野」
 自己嫌悪に陥っていた私の思考を引っ張り上げるように、沖浦くんが名前を呼ぶ。

「過去に傷つけることを言ったやつがいたのかもしれねぇけど、紺野の笑顔は変じゃない」
 その言葉をすんなりとは受け取れない。だって、私の笑った顔はみんなみたいに綺麗じゃない。自分でもそう思うほどだ。

「てか、笑いたいって思ったときは笑ってほしい」
「なん、で……そんなこと……」
 私に同情して言ってくれているの?

「俺が紺野の笑った顔、見たいって思ったから」
 手に持っていた靴が落ちて、床に転がる。

 きっと私のことを気遣って言ってくれているのかもしれない。
 しゃがんで靴を拾いながら、私は明るい声で返す。

「ありがとう! そう言ってもらえて……」
 沖浦くんが同じようにしゃがんで、私の顔を覗き込む。

「無責任な誰かの言葉のせいで、自分の心を苦しめる必要なんてないって俺は思う」
 目を逸らしたくなるほど、沖浦くんの言葉は真っ直ぐだ。
 ごまかしは利かない。私は靴を並べて置いてから、膝を抱えて座る。

「……自信が、ない」
 情けないほど弱々しい声が出た。

「何度鏡で見ても、自分の笑った顔は変だって思っちゃう。でも本当は……」
 笑顔を見られることを気にして隠す自分も嫌だ。
 そう言いかけて、我に返る。

 こんなことを打ち明けられても、沖浦くんを困らせるだけだ。顔を上げて隣を見ると、視線が交わった。


「紺野は顔を隠す癖、直したい?」
「……直せたら、いいなとは思うけど」
 だけど簡単なことじゃない。私に染みついた癖を、心に負った傷を綺麗になくすことができる想像がつかなかった。


「じゃあ、俺の前で少しずつ直す練習したら」
 両手を握りしめながら、私は目をぱちくりとさせる。

「いきなりじゃなくて、少しずつでいいから」
 沖浦くんは、私の笑顔を変じゃないと言ってくれた。同情かと思ったけれど、沖浦くんは本気で私に寄り添おうとしているように感じられる。


 なにも答えられないでいると、沖浦くんが立ち上がった。そして私に手を差し伸べてくる。


「日が暮れる前に帰ろう」
「……うん」
 沖浦くんの手に、指先をのせた。そのまま手を掴まれて、引っ張り上げられる。

 沈んだ心が、ふわりと浮いたような気がした。
 癖を直す練習、できるだろうか。
 沖浦くんの背中に向かって、ほんの少し口角を上げてみる。
 けれど落ち着かなくて、すぐに手で隠すように前髪に触れた。



 結局、沖浦くんには癖を直す練習をするのかしないのか、答えられなかった、
 夜、洗面台の前で歯磨きをしながら、鏡に映る自分の顔をじっと見つめる。

 練習したら、手で隠さないことに慣れるかな。私も普通に笑えるかな。ううん、でも、笑顔が変わるわけじゃない。
 やっぱり癖を直すなんて、無理かも。
 それに直そうと考えるほど、顔が強張って笑い方を忘れそうになる。


「ねえ、八枝」
 お母さんが、洗濯機から白いなにかを手に持って話しかけてきた。


「このシャツ、お父さんのじゃないし、なにか知ってる? それにこのハンカチも」
 しまった。沖浦くんのシャツとハンカチのこと、お母さんに話すのを忘れていた。

「あ……えっと、それ借りたの!」
「借りた? どうして?」
 不審そうに眉を寄せたお母さんに、私は放課後のことを早口で説明する。

「水道の水を勢いよく出して、私のシャツが濡れちゃって! だけど体育着持ってなかったから、クラスの子が貸してくれたの」
 事情を話し終えても、お母さんの表情は曇ったままだ。

「八枝、なにか悩んでることとかない?」
「え、なに急に……」
「違うならいいんだけど」
 もしかしたらシャツが男の子のものだから、勘違いされたのかもしれない。


「本当に、ただ困っていたら貸してくれただけだよ」
 なにかあったんじゃないかと疑いたくなるお母さんの気持ちはわかる。高校生にもなって、水道の水で濡れてクラスの男子のシャツを借りることなんて、なかなかない。


「八枝とペアの子って、男の子よね?」
「え、うん。そうだよ」
「やっぱり同性との方がよかったんじゃない?」
 時々保護者が、異性でペアになるのを反対することがあるそうだ。
 なにか問題があるわけではないのに、学校に連絡されて注目を浴びてしまうのは避けたい。それに沖浦くんとのペアを変えたいとは、今は思っていない。


「どうして急にそんな話するの?」
「ペアになった相手の影響で窃盗を繰り返して、自殺未遂をした子の話がニュースで取り上げられてたから……」
 今日、咲羅沙が言っていた記事のことだ。近くの高校の話だから、お母さんも不安になったのかもしれない。

「素行の悪い子とペアを組まされるなんてかわいそうよね。八枝の相手は大丈夫? なにかあったらちゃんと言うのよ」
「……大丈夫だよ。特になにも問題ないよ」
「そう? それならいいんだけど」
 お母さんが私を心配してくれているのは伝わってくる。でもまだなにか探るような目で見られている気がして、心の中がモヤモヤした。


 気分が晴れないまま、ベッドに横になる。今日は私の中で怒涛の一日だった。
 起こったことを思い返していると、鞄に入れたままだった自画像の存在を思い出す。

 ベッドから起き上がって、部屋の電気をつけると鞄のチャックを開ける。
 丸まった自画像と折り畳んだ評価表。その二枚を取り出して、机の上に置いた。

 ちょうど私の桜の絵と、沖浦くんが描いた花丸が見える。


【もっと紺野の絵が見てみたい】
 評価表には、そう書いてあった。ただのお世辞かもしれないけれど、それでも私は沖浦くんの言葉が嬉しかった。
 椅子に座って、メモ帳を取り出す。


【シャツとハンカチ、貸してくれてありがとう】
 メッセージを書いてから、私は花瓶に飾っているライラックの絵を描いてみる。
 月曜の朝になったら、この勇気は跡形もなく消えてしまうかもしれない。だけど、このまま勇気が消えなかったら、返すときに添えてみようかな。


 翌日の土曜日、乾いた沖浦くんのシャツとハンカチにアイロンをかけた。慣れないから、スマホでやり方を検索しながらだったけれど、皺を伸ばすことはできた気がする。畳んで袋に入れてから、昨夜書いたメモを手に取る。
 こんなのもらっても、困るかな。

 昨夜芽生えた勇気がしぼみかけていた。メモを握りつぶそうとして、手を止める。

『なんでくしゃくしゃにすんの』
 私が自画像を見せたくなくて、衝動的にくしゃくしゃにしてしまったとき、沖浦くんはそんなふうに言っていた。
 お礼のメッセージを添えるのは、変なことじゃないはず。私が重たく考えすぎているだけかもしれない。そう言い聞かせて、メモを袋の中に入れた。

 月曜日の朝、鞄を抱えるようにして玄関へ向かう。鞄の中には、沖浦くんから借りたシャツやハンカチを入れた袋が入っている。満員電車で潰れないように気をつけなくちゃ。
 玄関の壁にある鏡に視線が向く。そこには前髪が目にかかっている私の姿。

『前髪、横に分けたらいいのに』
 沖浦くんの言う通り、分けてみようかな。

 そっと前髪に触れて、右側に分ける。
 それだけで視界が普段よりも広がった気がする。だけど、普段と変えるのはちょっと落ち着かない。
 大丈夫かな。変って思われないかな。

 ……でも今日だけ、やってみたい。似合わないって言われたら、後で直せばいいよね。
 緊張しながらも、今日は前髪を分けて登校することにした。

 ちょっと髪型を変えただけなのに、そわそわしてしまう。


 一年の教室がある廊下を歩きながら、私は何度も前髪に触れた。
 誰も私のことなんて見ていない。わかっているけれど、周囲の視線が気になる。
 だけど、普段よりも明るい世界に見えるのは、少し気分がよかった。

 教室に入ると、私の前の席に座っている有海が振り返る。そして私のことを見て、目をわずかに見開いた。

「おは……えー! 八枝、今日なんか雰囲気違うね!」
「そうかな」
 平静を装いながらも、心臓の鼓動は速くなり動揺していた。おかしいって思われていたらどうしよう。
 こちらにやってきた咲羅沙が、私の前髪に手を伸ばす。

「前髪、いつもと違うね。分けた方がかわいい」
「あ、本当だ! 前髪が違う! こっちの方が似合うよ!」
 有海と咲羅沙の発言に硬直してしまう。褒めてもらえるなんて、予想もしていなかった。

「ありがとう」
 微かに笑みを浮かべる。けれど、やっぱりその表情を見られるのは怖くて、すぐに私は前髪を気にするフリをして、手で目を隠した。

 中学生の頃とは違って、騒ぐ人もいない。あの頃は、ちょっとしたことでからかわれた。
 私が髪を結んだだけで、わざとヘアゴムを取ったり、そのヘアゴムを指にかけて鉄砲みたいに飛ばしてくることもあった。
 クラスの女子は、好きだからからかってるんでしょと笑っていたけれど、からかう男子本人は『コンの反応が笑えるから』と言っていた。

 どんな理由だったとしても、受け入れられるものじゃない。なにかされるたびに怯えて、心が凍っていくような感覚に陥っていた。

 髪型やカーディガンの色、新しい文房具や、鞄につけるキーホルダー。些(さ)細(さい)なことを指摘されて、どんどん萎縮していった。
 だけど、今はもうその環境じゃない。過去に囚われていただけで、誰も私をからかってこない。そう思うと、心が軽くなっていく。


 廊下を歩いていると、前方からやってくる沖浦くんと目が合った。すると、沖浦くんは自分の額を指さす。

「似合う」
 それだけ言って、通り過ぎていく。前髪のことを気づいてもらえて、似合うと言ってもらえたことが嬉しい。緩む頬を手でそっと隠した。

 沖浦くんのおかげだよ。そう伝えたい。

 借りたシャツとハンカチを返したいけれど、いつ渡そう。教室ではみんなの目がある。見られたら変な誤解をされるかもしれない。さっき引き留めたらよかったかな。
 タイミングを見計らっていると、時間はどんどん過ぎていった。



 早く渡したいと思っていたのに、放課後になってしまった。クラスメイトたちが教室からどんどん出ていく。
 立ち上がって、沖浦くんの席がある廊下側を見やる。友達と喋っていて、すぐに出ていく気配はなさそうだった。不意に目が合って、「沖浦くん」と言いかけて口を閉じる。

 まだ人も多いし、目立ってしまうかも。

「八枝〜、掃除早く終わらせちゃおー」
 有海が気だるげに言いながら、椅子を机の上にのせた。

「あ、うん。そうだね!」
 すっかり忘れていた。今週は私の列が教室の掃除当番だ。掃除が始まると、沖浦くんたちは喋りながら教室から出ていく。
 箒でゴミをはきながら、ため息が漏れそうになる。

 ……渡せなかった。
 机の中に入れておこうかな。でもそれで紛失してしまったら? やっぱり借りたものだから、直接返したい。

「私先行くね! じゃ、またね〜」
「部活頑張ってね、有海」
 掃除が終わると、有海は部活があるので急いで教室から出ていった。
 私は鞄を机の上に置いて、中に入れたままの袋に視線を落とす。

 連絡先、聞いておけばよかった。そしたら沖浦くんの都合のいい時間に渡せる。だけどただペアなだけなのに、連絡先を聞いてもいいのだろうか。


「掃除終わった?」
 振り返ると、教室の後ろのドアの前に沖浦くんがいる。

「え……どうして」
 てっきり帰ったと思っていた。

「さっき、俺になにか言おうとしてたのかと思って。……違った?」
 違わないと首を横に振る。些細な動作も見落とさずに、気づいてくれたんだ。

「借りたものを返したくて! この間はありがとう」
 鞄の中から袋を取り出して、沖浦くんへ渡す。袋の中身をちらりと見た沖浦くんは、納得したように頷いた。
 袋の中から正方形の紙を取り出すと、沖浦くんはそれをまじまじと見つめる。

「これ、なんの花?」
 お礼のメッセージに添えた、花の絵のことを言っているのだろう。目の前で見られるのは、緊張する。

「ライラックって花で……部屋にちょうどあったから」
「へえ。初めて聞く花。てか、部屋に花飾ってんの?」
「うん、お母さんが生花店で働いてるんだ。それで時々家に飾るために買ってきてくれるの。紫色のライラックでね、甘くていい匂いがするんだ」
 沖浦くんと視線が合って、目を逸らしてから慌てて唇を結ぶ。聞かれてもいないことまで、話しすぎてしまったかも。

「花、好きなの?」
「え?」
「楽しそうに話してたから」
 自分の表情を確認するように頬をなぞる。

 私、楽しそうだった? 無意識に笑ったりしていないかな。
 不安になるけれど、でも沖浦くんになら見られても、馬鹿にされたりしない。そう考えて、自分の心境の変化を改めて実感する。

 男の子は苦手で、特に沖浦くんは中学の頃にからかってきた男子に似ているから余計に苦手意識があった。
 でもあの男子と、沖浦くんは全く違う。
 沖浦くんは私を笑ったりしない。私の好きなものを口にしても、否定的なことを言ったりしない。だから私は、素直に頷くことができる。


「……うん、好き」
 私の目の前にずっと消えずにいた中学の頃の残像が、ほんの少しだけど薄まっていく。

「また今度、描いたら見せて」
「沖浦くん、花の絵好きなの?」
「紺野の絵が好き。だから、今度また見せて」

 沖浦くんの瞳は、真っ直ぐに私を映している。
 教室の中に埋もれてしまうほど目立たない生徒、それが私だった。いてもいなくても、親しい友人たち以外に気づかれることはほとんどない。

 だけど、沖浦くんといるとその他大勢ではなくて、紺野八枝として見てもらえていると感じる。


「あの……」
 ためらいながらも、私は勇気を出して口にする。


「連絡先、教えてください」
 心臓の鼓動が全力疾走でもしたように激しくなっていく。
 断られたらショックが大きいけれど、それでも今しか聞くタイミングがない気がした。

「えっと、その、絵を描いたらメッセージで送ろうかなって思って! それに課題のこととかで連絡が必要になるかもしれないから」
 言い訳のように言葉を並べていく。すると、沖浦くんはブレザーのポケットからスマホを取り出した。

「そういえば、交換してなかったな」
 困った様子もなく、私と連絡先を交換することに抵抗がなさそうに見えてほっとする。

 すぐにスマホのメッセージアプリに【沖浦一樹】という名前が追加された。
 自分から誰かに連絡先を教えてと言うのは初めてだったので、まだドキドキしている。だけど、勇気を出して聞いてみてよかった。


「紺野、もう帰る?」
「うん」
 ふたりで教室を出ると、私は立ち止まって沖浦くんの後ろ姿を見つめる。

 ほんの少しだけ口角を上げた。
 震える手をお腹のあたりで、ぎゅっと握りしめる。

 たったそれだけのことで、心臓が張り裂けるんじゃないかと思うほど大きく跳ねた。
 みんなは普通に笑っているのに、それが私には難しい。癖をなくすのは、簡単なことじゃない。


「どうした?」
 沖浦くんが、立ち止まって振り返る。


「忘れ物?」
「ううん、なんでもない」
 私は小走りで沖浦くんのもとへ向かう。
 見られていないとはいえ、隠さずにいられたことは大きな一歩だった。