「ペアの相手が決定しました」
 ついにこの日が来てしまった。

 高校に入学して二週間。テストや面談が終わり、いよいよペアが発表されるらしい。
 高校生になるとペアリング制度という、クラス内で二人一組のペアを作る決まりがある。これから一年間、日直や課題など全てペアの相手と協力し合うそうだ。

「名前を呼ばれたら、紙を取りに来てください」
 担任の三岳先生が一人ひとり名前を呼び、紙を配っていく。
 どうか接しやすい相手でありますように。
 できれば一度は話したことがある人か、仲のいい人がいい。机の下で祈るように指を組んで呼ばれるのを待つ。

「紺野八枝さん」
 勢いよく立ち上がると、椅子の脚が床を引き摺る不快な音を立てた。

 周囲の人がちらりと私を見やる。
 やってしまった。もう少し静かに立てばよかった。こんなことで注目を浴びるのも嫌だし、こんなことを気にしてしまう自分も嫌でたまらない。

 恥ずかしくて、俯きがちに早歩きで教卓の前まで行く。
 先生から紙を受け取り、書いてある文字が見えないように伏せながら席に戻った。
 裏返しにした紙を握りしめながら、短く息を吐く。
 心臓の鼓動が速くなり、緊張が身体に走る。

 私は、誰とペアになったんだろう。
 ペアの相手は、相性で決まるらしい。
 ……だからきっと、大丈夫。私と相性がいい相手なんだから、性格も合うはず。

 自分に言い聞かせるように、気持ちを落ち着かせてから、ゆっくりと紙を表にする。


【ペアリング番号二 沖浦一樹 紺野八枝】

 息を呑んだ。
 沖浦って……嘘。まさかそんなはず……。

 動揺しながら、紙に書いてある文字を何度も確認する。けれど間違いなく沖浦一樹と書いてあった。
 廊下側の前から二番目の席に視線を向ける。

 周囲の人たちと楽しげに談笑している赤茶の髪の男子――沖浦くん。肌は日に焼けていて、羨ましいくらいにくっきりとした二重は目尻が上がっている。
 物怖じしないタイプのようで、入学して間もないうちから他クラスの人たちとも親しくなって、あっというまに交友関係を広げていた。

 私はクラスの人でさえ数名しか会話をしたことがない。
 それに沖浦くんは授業で当てられても『わからない』とはっきり言える人で、私はわからないと答える勇気すら出ないタイプだ。
 沖浦くんは自己紹介のときに、中学では水泳部だったと言っていた。だからきっと運動神経もいいはず。
 私は運動が苦手なので、彼に関して考えつく限りのことを頭の中であげてみても、似ているところが見つからない。

「沖浦ー! 誰とペアになった?」
 男子の大きな声が聞こえてきて、びくりと身体を震わせた。沖浦くんの周りに人が集まってきている。

「お前、声デカすぎ」
「だって気になんじゃん! 男子? 女子?」
「女子」
 彼が一言答えるだけで、周囲の関心が集まるのを感じる。

「マジ? 誰!」
 沖浦くんが私の名前を口にしたら、一気に無数の視線が向けられるはず。背中を丸めながら俯いた。

「いいじゃん、誰だって」
 沖浦くんの返答は予想外で目を丸くする。けれど、すぐに不満げな声が聞こえてきた。

「だって気になるし。沖浦くん、誰とペアなの? 教えてよ」
 明らかに沖浦くんに関心がある女の子なのは、関わりがない私でも会話を聞いただけで察する。やっぱり彼はクラスの女の子たちに人気があるみたいだ。

「俺が誰とペアでも関係なくね?」
 冷たく突き放すような声音に背筋が凍る。ちらりと彼を横目で見ると、笑みを浮かべていた。周りにどう思われるかとか、あまり考えないタイプのようだ。
 嫌な記憶が頭をよぎって、生唾を飲む。

「席に戻りなさい!」
 先生から注意が飛んできた。けれど、男子たちは平然としていた。輪の中にいる沖浦くんを見ながら、じわりと汗が滲んだ手を握りしめる。

 どう考えても彼と私は違う。それなのにどうして私と沖浦くんがペアなのだろう。
 それともペアは、性格や得意なことが似ているから選ばれるというわけではない?
 悶々と考えていると、沖浦くんと目が合ってしまった。見ていたと思われるのが気まずくて、とっさに視線を逸らす。

 ……あからさますぎたかもしれない。
 握りしめすぎて皺くちゃになった紙にため息を漏らす。
 一年間、沖浦くんとペアとしてやっていかなければいけないんだ。

 クラスで人気のある沖浦くんとペアということは、もしも私が足を引っ張るようなことをしたら、彼の周りの人たちにも広まる可能性もある。冷ややかな目を向けられる想像をして、胃がキリキリと痛む。

「やーえ! 誰とペアになった?」
 考え事をしているうちに、朝のホームルームが終わっていたみたいだ。

 目の前の席に座っている有海が、振り返って私の机に頬杖をつく。有海はストレートの黒髪をポニーテールにしていて、前髪は綺麗に眉上で切り揃えられている。
 いつも以上にテンションが高いので、嬉しい人とペアになったのかもしれない。

「有海、声大きすぎー」
 呆れたように笑いながら有海の隣に立ったのは、華やかな外見の咲羅沙。緩く巻かれた栗色の髪と、目尻まで少し長めに引かれたアイラインが印象的で大人っぽい。

「だってすごくない!? あのね、八枝! 私と咲羅沙がペアになったの!」
「え! そうなの!?」
 驚きのあまり大きな声が出てしまう。
 仲がいい友達同士で、ペアになるなんて羨ましい。

「でも私たちの相性がいいのって意外かも」
 咲羅沙の発言に、有海は不満げに「ひどくない!?」と反応する。

「だってさ、私と有海って別に似てないじゃん? 性格とか好みも全然違うし」
 言われてみれば、似ているわけではない。
 有海は運動好きで、じっとしていることが苦手。咲羅沙は基本的になんでもそつなくこなす人で、特に本を読むことが好き。運動はできるけれど、あまり好きではないと言っていた。
 でもなんだかんだふたりは仲がよくて、ペアになったことに違和感はない。

「んー、たしかにそうだけどさ〜」
「それに三十人くらいいるのに、有海と相性が一番いいってのは、驚いたなぁ」
「でも、ほら見て! だってここに九十五%って書いてあるでしょ! すごいよね!」
 有海が見せてくれたのは、先ほど配られた用紙。

【ペアリング番号五 岡村咲羅沙 近藤有海】

 そしてその下の段に、相性九十五%と記載されていた。

 それなら私たちのは……? 先ほどは、すっかり見落としていた。
 自分の手元にある紙を見てみると、そこに書いてあった相性は九十八%。
 目を疑うような数字だった。

 私と沖浦くんが、九十八%? 有海たちよりも相性がいいなんて信じられない。

「そういえば、八枝は誰とペアだったの?」
 ふたりの好奇心に溢れた眼差しが向けられて、私は周りの目を気にしながら小声で答えた。

「私は……沖浦くん」
 有海も咲羅沙も、目をまんまるくした。再確認するように、咲羅沙が「沖浦?」と聞いてきて、私は頷(うなず)く。
 そうだよね。予想外だよね、と自分でも納得する。
 私自身もなにかの間違いなのではないかと、何度も読み直したほどだ。

「沖浦とペアってラッキーじゃん! だってかっこいいし! ペアってことは話す機会増えるし、相性もいいってことでしょ!」
 有海が身を乗り出して、目を輝かせる。

「あー、ペア同士で付き合うって人も結構いるんだっけ」
「ペア制度はマッチングアプリなんて言われてるらしいよね〜!」
 咲羅沙と有海の話を聞きながら私は、ぐっと本音を呑み込んだ。
 できることならペアの相手を変えてほしい。沖浦くんがかっこよくても、私と相性がいいと診断されても、上手くやっていけるのか不安だった。

 まだ一度も話したことがないし、沖浦くんもペアの相手が私でガッカリしているかも。
 だけどふたりにそんなことを言ったら、場の空気が悪くなってしまいそうだ。

「数ヶ月後には、八枝と沖浦が付き合ってるかもよー!」
 有海に笑いかけられて、私は無理矢理に口角を上げた。そして、目元を手で覆うようにして前髪をいじりながら、軽い口調で否定する。

「そんなことあるわけないよ〜」
 お願い。チャイム、早く鳴って。
 心の中で願っていると、予鈴が鳴る。
 生徒たちが席に着き始めて、私たちの会話も自然と途切れた。

 安堵して、肩の力が抜けていく。
 ――ちゃんと笑えてたかな。変って思われなかったかな。
 そんなことが気になって、有海と咲羅沙をちらりと見る。特になにも指摘されなかったから、大丈夫なはず。
 頬杖をつくようにしながら、手のひらで頬に触れる。
 私は、自分の笑った顔が嫌いだ。
 そして、こんな笑顔を人に見られることが苦痛だった。何度鏡で見ても醜い顔に思えて、周りの子たちのように綺麗に笑えない。

 笑顔を嫌いになったきっかけは、中学一年の冬。
 このときの私は、席が近くなった人たちと親しくなって、放課後の教室でよく談笑するようになっていた。あるとき、不意にひとりの男子が指摘してきた。

『紺野って、笑うと狐みたいだよな。目がこんな感じじゃん?』
 最初はどう受け取るべきなのかわからなかった。
 一緒に聞いていた友達が『ひどすぎ』と男子を叱り、男子が薄く笑ったのを見て、よくない意味ではないのだと悟り、胸がざわざわとした。

 それからその男子が私のことを〝コン〟と呼ぶようになった。私の苗字の紺野と、狐の鳴き声の両方の意味があるという。
 目が合うと、彼は自分の目を指先で細めてくる。それをされるたびに、真っ黒な嫌悪感が心に広がって、同時に羞恥で逃げ出したくなった。

 馬鹿にして真似しながら、私の反応を見て楽しんでいる。
 狐に似ていると言われた笑顔を、家にいるときに確認してみるけれど、自分ではいまいちわからない。確かに笑うと目が細くなるけれど、それは誰だって同じはず。

 それなのにどうして、私にだけ言ってくるんだろうと、学校へ行くのが嫌になるほど本気で悩んだ。

『ちょっと、いじりすぎ〜!』
 時々女の子たちが男子を注意するけれど、彼女たちも楽しんでいるのが伝わってきた。誰も本気で私が傷ついているとは思っていない。
 このままだと、ずっとそのあだ名で呼ばれてしまう。
 そう考えるだけで嫌気がさして、あるとき私は勇気を出して声を上げた。

『コンって呼ばないで』
 すると、場が静まり返る。まるで時が止まったみたいだった。
 その瞬間、自分が〝間違えた〟のだと痛感した。
 ここは嫌がるんじゃなくて〝受け流す〟べきだったんだ。

 夏休み前にクラスの女子で、彼と口喧嘩をしてグループから外された子がいた。
 理由は、髪型のことをからかってきたから。
 私がこのメンバーと話すようになったのは三学期に席替えをしてからなので、そこまで詳しいことは知らないけれど、ひとりの子が『髪型をちょっとからかわれただけで、あんなに怒るのありえない』と話していたのを、少し前に聞いたばかりだった。
 だけど自分の身に降りかかると、からかわれて怒った子の気持ちが理解できる気がする。きっとあの子は、笑われて傷ついたんだ。

 でも、誰も本気で貶す気なんてない。からかう人にとって、これはただのお遊びで、彼らからしてみたら傷ついている私が大袈裟なのだ。

『いいじゃん、コンってかわいくない?』
 ひとりの子が、にっこりと微笑む。
 彼女はクラスの中心で、たまたま私は席が近くて仲よくなった。だけどもしも不満を抱かれるようなことをしたら、グループから抜けたあの子のように私も陰口を叩かれるに違いない。

 私は無理矢理口角を上げた。そして、前髪を触りながら片方の目を隠す。

『言われてみたらそうかも! 紺野だし、コンでちょうどいいかな〜』
 傷ついていないフリをして、明るい声で返した。
 そう答えることで、場の空気が少し和らいでいく。

 火傷を負ったみたいに、胸がヒリヒリと痛んで、頬の内側をきつく噛(か)む。
 ダメ、笑わないと。
 なんでもないように目を細めて、口角を上げて、涙を呑んだ。
 私、本当馬鹿だな。なんで笑ってごまかすことしかできないんだろう。そう思う反面、これが正解だと言い聞かせている自分もいる。
 穏便に済ませないと。そうじゃないと、空気の読めない人だと裏で言われてしまう。そしたら噂なんて一気に広まるはず。クラスの中心的な子たちに嫌われたら、今まで仲がよかった別のグループの子たちからも、距離を置かれるかもしれない。それくらい彼らには影響力がある。
 教室の隅っこでひとりになった自分を想像して、ぞっとする。誰にも声をかけられなくなったら、学校に来る勇気がなくなりそうだった。
 そうして、私は自分の言葉でも心を刺してきたのだ。
 狐が嫌いなわけじゃない。だけど、笑うと目が細くなった顔をいじられるのが嫌でたまらない。

『コンの笑った顔、変じゃね?』
 からかわれることに耐える日々を過ごしていると、そんな指摘をされた。私の笑った顔が狐のようだと言った男子だった。

『口も曲がってるし、ほらこんな感じ』
 私の真似をしているのか、右側の口角だけ上げて、目を細めている。そんな彼を見た周りの人たちが、声を上げて笑う。
 狐に似ていると言われ、コンと呼ばれるようになって、私は笑うのがぎこちなくなったみたいだった。
 目の前で鏡のように、私の真似をする男子を見ながら、耐えるように頬の内側を噛む。じくじくと、心に負った火傷が広がっていく。

 私、こんな顔をして笑っているんだ。
 記憶から消し去りたいほど醜い表情だった。

 それから笑うのが怖くなり、手で目や口を隠さないと笑えなくなった。
 だけど、漠然とした不安が襲いかかる。
 この先も顔を隠しながら、私は笑い続けるのだろうか。
 悩んだ末、お姉ちゃんに笑うのが怖くなったことを相談した。

『そんなの気にする必要なくない? 勝手に言わせておけばいいじゃん。反応するから面白がるんだよ』
 気にしない方がいい。お姉ちゃんの言う通りだと思う。でも、頭ではそう思っても簡単には割り切れなかった。
 たったそれだけで笑えなくなるなんて、他人にとってはくだらないことなのかもしれない。それでも一度心に負った傷がなかなか消えてくれなくて、時が経っても私を苦しめ続けている。

「ペアの最初の課題が、自画像とか最悪なんだけどー。これなんの役に立つの?」
 廊下を歩きながら、有海が嫌そうにため息をついた。
 翌日からペアリング制度が本格的に始まり、美術室で私たちのクラスは自画像を描くことになった。描き終わったら、ペアの人に渡して評価表を書いてもらうのだ。

「客観的に自分のことを見ているかだってさ。さっき先生が言ってたでしょ」
「咲羅沙は絵、得意そ〜」
「まあまあ得意かな。有海は苦手そうだよね」
「すんっごい苦手!」
 ふたりの会話を斜め後ろの位置で聞いていると、咲羅沙が振り向いた。

「八枝は?」
 どう返すべきか迷う。絵を描くのは好きだけど、自信を持って得意だと言えない。中学のときも美術の評価は平均だったし、それに自画像を上手く描ける気がしなかった。

「普通、かな?」
 苦笑しながら、右手で前髪を触った。
 違和感なく笑えているか時々怖くなる。変な笑い方だって、有海や咲羅沙に思われたくない。どうして私はこんな顔なんだろう。

「えー、普通とか言って八枝も上手そう〜。絶対私が一番下手じゃん!」
 有海の言葉に咲羅沙が笑う。あんなふうにかわいく笑いたい。そしたら周りの目を気にせずに笑えるのに。
 二階にある美術室の中に入ると、黒板には座席が書かれていた。その上に数字が書いてある。

「これペア番号っぽいね」
「うちら、真ん中の一番前じゃん! 先生と近くて最悪!」
「うわ、本当だ。喋りづらそう」
 私は二番なので、廊下側の二列目だった。咲羅沙たちとそこまで離れてはいないけれど、ペアごとに座るというのが私にとっては、気が重い。


「じゃあ、八枝。また後でね」
「うん」
 微笑みを浮かべて、すぐに前髪に触れる。
 ふたりはペアでいいな。そんなことを考えながら、私は指定された席に座った。
 机の上には、鏡と画用紙、鉛筆、評価表が置かれている。
 沖浦くんは仲のいい人たちと喋っていて、こちらに来そうもない。そのことにほっとしながらも、私は鏡をセットして、鉛筆を手に取る。

 気が進まない。自分の顔なんて見ながら絵を描きたくない。
 だけどこれが評価に繋がるから、適当にやるわけにもいかなかった。

「静かに。自分の席に着きなさい」
 美術の先生が入ってくると、談笑していた人たちが席に着く。私のすぐ横の椅子が動く音がして、ちらりと見やると、沖浦くんが座って頬杖をついた。
 私とペアになったこと、沖浦くんは不満を抱いていそうで、声をかける勇気が出ない。

「それでは机に置いてある鏡と、画用紙を使って自画像を描き進めてください。表現の仕方は自由です。完成したらペアの相手と交換して、評価表を書いて提出するように」
 自由と言われるのが、私は少し苦痛だった。だって自由と言っても、結局は大人が決めたルールの上にいないといけない。自分の顔を鏡に映る通りに描きたくないからと、変えてしまえばそれは減点になるはず。

 けれどなにもしないわけにはいかず、私は真っ白な画用紙に鉛筆を走らせていく。

 まずは輪郭。そして髪を一本一本描いた。だけどそこから先が描けない。
 顔のパーツを鏡で観察するのが嫌で、髪をひたすら描き込む。
 鏡に映る自分の方が、人はよく見えるというけれど、私にとっては写真も鏡も大差なかった。
 目頭の形とか、奥二重のライン、口の大きさ。見ているだけで気分が沈む。

「紺野、どこまで進んだ?」
 隣から声をかけられて、びくりと肩を震わせる。沖浦くんに話しかけられるとは、思ってもいなかった。
 だけど勝手な苦手意識のせいで、目を合わせることができない。失言をしたり、印象が悪くなったりしたら、どうしよう。これから一年、平穏に過ごすためにも、当たり障りなく答えないといけない。

「え、あ……」
 喉が潰れたように、声が上手く出なかった。
 クラスメイトとはいえ、話したこともなく、目立つ沖浦くんのことを一方的に私が知っているようなものだ。馴れ馴れしくしすぎない方がいい。だけど、反応が薄いとつまらないやつだと思われるかもしれない。
 彼とどんなふうに話したらいいのかわからず、焦りが芽生えていく。
 早くなにか答えないと。

「ざっくり描いてみたけど、バランスよく描くのむずくね?」
「……うん、そうだね」
 俯きがちに左手で前髪に触れる。そして右手をずらして、自画像の真っ白な顔を隠した。

「え、すげぇ描けてんじゃん」
 視線を落とし、私の画用紙を見た沖浦くんが驚いたように指さす。

「見せて」
 沖浦くんが、私の画用紙に手を伸ばそうとした。その瞬間、中学のときの嫌な笑い声が脳裏をよぎり、手でくしゃりと画用紙を握る。

 もしも沖浦くんに渡したら、他の人にも見せられるかもしれない。それに変な絵だって笑われるかも。
 中学のとき、私の笑顔をからかってきた男子もそうだった。私の書いた作文を取り上げて、周りに回して、声を上げて笑っていた。
 こんなこと考えるべきじゃない。あの人と沖浦くんは別人で、勝手に私が妄想して重ねているだけ。……でも見られたくない。


「なんでくしゃくしゃにすんの」
 なにも答えられなかった。深い理由があるというより、感情に身を任せるように、私は手で画用紙を握っていた。

「そんなに見られたくないわけ?」
 どこか戸惑ったような、けれど呆れたようにも受け取れる沖浦くんの声。

「ご、ごめん……まだ、完成してないから!」
 やっとの思いで答えたけれど、「ふーん」とそっけなく返されてしまった。不快にさせただろうか。
 ……気にせず渡すべきだったかな。
 だけど、こんな絵を見られて、なにか言われるのが怖かった。なんで顔を描いてないのかと聞かれたら、上手く答えられる自信がない。

 沖浦くんは、どことなく中学の頃に私をからかっていた男子に目が似ている。
 たったそれだけのことだけど、私にとってはそれが過去の嫌な出来事を思い出させて、苦手意識が生まれてしまう。
 こんな態度をとってしまってごめんなさい。
 心の中で謝りながら、鉛筆を握りしめる。

「沖浦〜、高田の自画像マジウケる!」
 沖浦くんは男子たちに呼ばれて席を立った。彼が離れていったことに胸を撫で下ろす。
 これからペアとして一緒にやっていくのに、こんな調子で大丈夫だろうか。
 それに実際関わってみると、やっぱり私たちは合わないなと痛感する。どのあたりが九十八%も合っているんだろう。

「なんだよそれ、漫画じゃん!」
「目、デカすぎだろ!」
 窓側の席に集まっている男子たちが笑いだす。それを見た先生が、苛立ったように立ち上がり、注意をしに行った。

「席に着いてちゃんと描きなさい!」
「だって先生、これ見て」
 気難しそうな先生が、沖浦くんに絵を見せられると、表情を緩めて噴き出す。

「もう! 真面目に描かないとダメでしょう!」
 注意をしながらも先生は笑っていた。
 顔を隠すことなく、自然体で笑っている彼らが羨ましい。

 どうしたらあんなふうに笑えるんだろう。
 目の前にある鏡を見ながら、口角を上げてみる。だけど笑顔の練習をしてみても、ぎこちなくて、変な顔だなって思う。
 垂れ下がって細くなる目とか、鼻の形や、歯並び。全部が不格好に見える。それが苦痛で、私は鏡を裏返した。

 皺のついた紙を手のひらで伸ばす。そこに描かれた自分の輪郭は歪になっていて耐えきれず目を逸らす。
 結局、授業が終わるまでに、私は自分の顔を描けなかった。


 その日の夜、仕上げられなかった自画像の制作に取りかかることにした。
 一度自分で皺くちゃにしてしまった画用紙を手で伸ばしてみるけれど、少し跡がついてしまっている。もしもあとで先生になにか言われたら、持って帰るときに鞄の中で潰れてしまったと言おう。

 机の上に手鏡を置き、じっと顔を観察する。無表情で顔色も悪い。こんな顔、描きたくない。だけど描かなければ、ペアの沖浦くんにまで迷惑がかかる。
 無表情よりも微笑んでいる方がいいかもしれないと思い、ニッと口角を上げて笑顔を作ってみた。
 ……気味の悪い笑顔。やっぱり無表情の方がマシだ。
 ため息をつき、鉛筆を動かしていく。

 どうしてみんなみたく笑えないんだろう。有海は笑うと八重歯が見えて無邪気でかわいくて、咲羅沙は普段は大人っぽいのに笑うと幼くなって親しみやすさを感じる。
 私もあんなふうに笑いたい。

『変な顔』
「……っ」
 まただ。思い出したくないのに、頭によぎってしまう。
 鉛筆を手放して、両手で顔を覆う。
 変な顔なのは、私が一番知ってるよ。だけどきっと、言った本人は自分の言葉がどれほど私の心を抉っていたのか、気づきもしなかったはず。

 ――カラン、と音が聞こえて我に返った。
 鉛筆が転がったようで、机の上の小さな花瓶にぶつかったみたいだ。
 生花店で働いているお母さんが、よく花を買ってきてくれる。それを一輪挿し用の花瓶に生けて飾り、ノートに模写するのが私の趣味になっていた。

 今月は桜の切り枝。少し開花が遅めで、ちょうど今薄紅色の花が開いて満開だ。
 自画像じゃなくて、花ならすぐに描けるのに。

 画用紙をひっくり返して、下の方に桜の花を描く。
 消そうかと思ったけれど、裏側に小さく描いただけだからバレなさそう。
 絵と本物を見比べて、口角が上がる。上手く描けた。
 けれど、自分が笑ったことに気づき、とっさに前髪を触りながら目元を隠す。
 誰にも見られていないのに、こんなに気にしてしまうなんて馬鹿みたいだ。

 翌朝、教室では描いた自画像を見せ合って盛り上がっていた。

「お前、これ美化しすぎだろ!」
「顎尖りすぎじゃない!?」
 誰が似てるとか、パーツがおかしいとか、笑いながら話している。自分の絵を見せたくない私にとって、オープンに見せ合っていることに驚きを隠せない。

「八枝、見て! 咲羅沙の絵!」
 有海が私の机に画用紙を置いた。そこには微笑んでいる咲羅沙が描かれている。

「咲羅沙にそっくり!」
 顔の輪郭やパーツが丁寧に描かれている。それに全体的にバランスがいい。絵が得意だと咲羅沙が言っていた通りだった。

「こっちが有海の」
「あ、ちょっと! 見せないでよー!」
 咲羅沙の絵の上に置かれたのは、有海の自画像。本物の有海よりも顔のパーツが大きくて、鉛筆の線も濃い。

「弟たちに昨日の夜見られて、散々笑われたんだよねー! 私ほんっと絵苦手!」
「……だけど有海の絵、力強さと明るい雰囲気があるね」
 ぽつりと呟くように言うと、会話が止まってしまった。

「ご、ごめん!」
 変なことを言ってしまったかもしれない。慌てて謝ると、有海の手が私の頬に伸びてきて、ぐにっと潰された。

「八枝〜!」
「え?」
 目の前の有海はニコニコとしていて、たぶん気に障ったわけではないだろう。

「私の評価するの八枝だったらいいのにー! 咲羅沙なんてダメ出しめちゃくちゃ書いてた!」
「ペアは私なんだから仕方ないでしょ」
 咲羅沙はむっとした表情で、有海を睨む。まずい、咲羅沙の機嫌を損ねちゃったかもしれない。
 なにか言わなくちゃ。そう考えているうちに、会話がどんどん進んでいく。

「ね、咲羅沙これ持って!」
「えー!」
「いいから! 写真撮るね!」
 自画像を持った咲羅沙を有海がスマホで撮影する。先ほどまで不機嫌そうだった咲羅沙の表情が緩んでいて安堵した。
 いつも私は頭の中でぐるぐると考えて、数歩遅れてしまう。ふたりが楽しげに会話をする横で、言葉を探しても適切なものが見つかる前に話題が変わっていく。

「次、有海ね!」
 今度は咲羅沙がスマホを構えると、有海が「八枝も写ろ!」と笑いかけてくる。

「え、うん!」
 自画像の紙を持ってピースする有海の後ろで、私は隠れるように身を屈めた。

「ちょ、八枝隠れちゃうって! もっと右!」
 咲羅沙に指摘されて、身体を右に傾ける。そして左手でピースを頬に重ねるように作って、人差し指で目が隠れるようにする。これなら顔の一部が隠れるはず。
 写真に写るのは苦手だ。大抵笑顔で写らないといけないし、記録として残ってしまう。だけどもしも私がそれをふたりに伝えたら、空気を悪くしてしまう。

「八枝、いつもこのピースだよね!」
 スマホに写った画像を見た有海が、真似るように片方の目をピースで隠した。
 触れられたくなかったけれど、有海には特に意図はないはず。適当にごまかして乗り切るしかない。

「そうかも! 癖かな?」
 わざと軽い口調で言うと、「なにそれー!」と有海が笑う。

「八枝の顔、写んないじゃーん! ほら!」
 有海が私のポーズの真似をしながら、自撮りをする。

「やだ、真似しないでよー!」
 笑いながら、前髪をいじる。いじられたら明るく返す。中学の頃から、そうすることで輪の中から弾かれずにいられた。
 本当は真似なんてされたくない。笑われたくないし、笑いたくない。
 だけど、誰かの言葉が心に残るような棘だとしても、痛くないフリをする。自分のコンプレックスを知られてしまうことが怖いし、みんなと上手くやりたい。
 だけど、平気なフリをして明るく返すたびに、私の本音が心の奥に蓄積されていく。冷たくて暗い空間の中でもがいて、必死になんとか呼吸ができているような感覚だった。

「そういえば、八枝は自画像、描けた?」
 咲羅沙の発言に、どきりとした。

「私は……」
 一応、昨夜完成はさせた。だけど見せられるような完成度とは言い難い。自分の顔を見ているのが苦痛で、出来上がった自画像は陰鬱とした表情をしている自分だった。
 答えに迷っていると、「紺野」と背後から名前を呼ばれた。
 振り返ると、画用紙を持った沖浦くんがいた。

「評価表書かねぇといけないから」
「あ……うん」
 自画像を交換しようという意味だ。渡すことに抵抗があるけれど、評価に繋がるため拒否はできない。
 丸めて輪ゴムでとめていた皺くちゃな画用紙を、沖浦くんに渡す。彼は自分の画用紙をひっくり返すことなく、私に見せるように手渡してきた。
 こういうところから自分との違いを感じる。私たちはどういう基準で、相性がいいという結果になったのだろう。

「え、沖浦、ボールペンで描いたの?」
 私が受け取った画用紙を覗き込んだ有海が、驚いた声を上げる。
 それを聞いて、私もすぐに手元に視線を落とす。
 有海の言う通り、鉛筆ではなく、ボールペンで描かれていた。

「別に鉛筆で描けって決まりなかっただろ」
「えー、そうだけどさ! 失敗したら描き直せないじゃん!」
「俺は描き直しとかしねぇし」
「なにそれ、かっこよ! 私も色とか塗ればよかった。もっと自由に描きたかったんだけど!」

 何度も描き直して、紙が薄く汚れた私の自画像とは全く違う。沖浦くんの自画像の線からは迷いを感じさせない。彼の性格が表れているように見える。
 それに私はボールペンで描くなんて、思いつきもしなかった。
 与えられた鉛筆で描かなければいけないと、決めつけていたのだ。沖浦くんみたいな発想をする人、このクラスにはなかなかいない気がする。

「私と有海の性格って似てないけどさ、沖浦と八枝も結構違うよね。どっちかっていうと、有海と沖浦の性格の方が近くない?」
 咲羅沙に『そうだね』と返そうとしたときだった。

「自分と似てるからって相性がいいわけじゃねぇだろ」
 沖浦くんがはっきりと言い放つ。
 一瞬目を丸くした咲羅沙は、すぐに口角を上げた。

「まあ、そうかも。なんだかんだいっても私と有海も仲いいし」
「え、なんだかんだってなに! 普通に仲いいじゃん!」

 笑い合っている有海と咲羅沙に合わせるように私も笑みを貼り付けながら、前髪に手を持っていく。すると不意に沖浦くんと視線が交わった。
 彼の目は笑っていなくて、射貫くような真っ直ぐな眼差し。私が合わせて笑っていることを見抜かれている気がして、逃げるように目を逸らした。

 今日の朝のホームルームは、静かだった。評価表をこの時間に書いて、提出した順に休憩していいそうだ。だからか、みんな真剣に書いていた。
 机の上に沖浦くんの自画像と、評価表を並べて考える。
 評価表といっても、技術面などに点数をつけるわけではない。黒い枠の中に、見て感じたことなどを書くことになっている。
 ただし、適当な感想を書くと減点されるらしい。

 沖浦くんが描いた自画像は、正直あまり似ていない。全体のバランスが取れていないように見える。だけど、見入ってしまうような魅力があった。

 あ……そうだ。目だ。瞳に映った光が描き込まれていて、まつ毛の動きもよく観察して描いているように思えた。
 吸い込まれるような綺麗な目。ここは沖浦くんとよく似ている。


【目が綺麗で、光の描き込みが丁寧です。まつ毛も繊細でリアルに見えます。この自画像は目から描かれたのかなと思いました。全体のバランスというより、パーツ一つひとつに力を入れていて、意志の強さを感じさせる自画像です】

 沖浦くんの自画像への評価を書き終えて、私は教卓にいる先生に提出した。
 教室を見渡すと、半分以上の生徒は終わっているようだった。
 沖浦くんの姿を探してみたけれど、どこにもいなかった。早くに終わって教室から出ていったのだろうか。

 なんて書いたんだろう。私の上手いとも下手とも言えない自画像に、沖浦くんがどんな評価をしたのかが気になる。だけど知るのは怖い。知れば今以上に接しにくくなるかもしれない。
 投げ出すように思考することをやめて、私は窓側の後ろの方で喋っている咲羅沙と有海のもとへ向かう。


「ねえ、八枝! とばっちりすぎない?」
 私に気づくと、有海が苛立ったような声を上げる。

「どうしたの?」
「沖浦、サボりだって!」
「え? でもさっきいたよね?」
 今朝自画像の紙を交換したばかりだ。それなのにサボりとはどういう意味だろう。

「評価表提出した後、鞄抱えて出ていったみたい!」
「用事ができたとか言って、無断で早退したっぽいよ」
 有海の話に咲羅沙が詳しく補足してくれる。ペアリング制度では、どちらかがサボると連帯責任になってしまう。

「八枝なんも悪いことしてないのに、罰則じゃん」
 罰則という言葉に、ひやりとする。

 いったいどんなものなのか、入学したばかりの私たちはまだ聞かされていない。
 沖浦くんは、どうして朝のホームルームが終わったばかりなのに帰ったんだろう。だけど私は沖浦くんの連絡先も知らないので、聞くことも呼び戻すこともできない。
 それにもうすぐ一限目が始まるので、連絡を入れたとしても、間に合わないはず。罰則回避は不可能だ。

「最悪なやつとペアになっちゃったね」
 同情するように咲羅沙が私の肩を軽く叩く。

「でも、サボるならどうして朝のホームルームだけ出たんだろう」
 なにかあったのだろうか。それで課題だけ提出するために登校したとか?
 そんな私の言葉を聞いた咲羅沙が「実はさ」と言いづらそうに口を開く。

「沖浦の彼女が体調不良らしくて、それで看病するために早退したって男子たちが話してたんだよね」
「え……」
「それで早退ってないよね。八枝とばっちりだし」
 彼女が心配だったのかもしれないけれど、それなら一言くらいほしかった。不満を抱きながらも、私は沖浦くんに面と向かって言う勇気もない。

「そうだ! 聞いた?」
 私と有海を手招きして、咲羅沙が声のトーンを落とす。

「草壁さんと石上って付き合い始めたんだって」
 草壁さんは目鼻立ちがはっきりとした美人で、クラス委員。そして石上くんは爽やかな雰囲気の男の子。お似合いのふたりだなぁと思っていると、有海が眉間に皺を寄せた。

「石上って彼女いるって言ってなかったっけ」
「それがさ〜、なんか色々あったっぽいよ。草壁さんが奪ったとか」
「うわぁ、マジかー」

 クラスの噂話に疎い私は、初めて聞く内容ばかりだった。返す言葉が思い浮かばなくて、話題に上手く乗れない。
 それよりも罰則のことばかり考えてしまって、気が重かった。



 翌日、私と沖浦くんに科された罰則は、教室内の掃除をすることだった。
 思ったよりも軽いもので安堵したものの、放課後に沖浦くんとふたりきりなのは少し気まずい。

「俺は窓側やる。廊下側、頼んでいい?」
「うん」
 掃除がしやすいように椅子を机にのせてから、教室の後ろ側に移動させていく。
 沖浦くんとの共通の話題が思い浮かばず、沈黙が流れる。
 早く終わらせて帰ろう。じゃないと息が詰まりそうだ。

「ごめん」
 聞こえてきた声に、私は手を止める。振り返ると、沖浦くんが真剣な表情で私を見つめていた。

「俺のせいで紺野まで巻き込んだ」
「大丈夫だよ」
 気にしてないからと、へらりと笑う。そしてすぐに顔を隠すように前髪に触れる。

「課題さえ提出すれば大丈夫だと勘違いしてて。俺がサボったら紺野にまで迷惑かけるってわかってなかった」
「……そうだったんだ」
「こんなの言い訳だってわかってるけど、ごめん」
 沖浦くんが嘘をついているようには思えなくて、私はすぐに頷く。

「本当に大丈夫だよ」
 罰則について誤解していたのだとわかり、ほっとする。連帯責任について沖浦くんがどうでもいいと思っていたわけではなさそうなので、きっと今後サボることはないはず。


「早く終わらせちゃおう」
 あまり沖浦くんが気に病まないように、私はなるべく明るい口調で話す。前髪をいじりながら、口角を上げた。先ほどよりも気が楽だ。

 掃除はすぐに終わるかと思ったけれど、案外時間がかかった。教室には西日が差し込んでいて、オレンジ色に染まっている。


「なんか違う場所みたいだな」
 ぽつりと沖浦くんが呟く。
 燃えるように色づいた教室。開いた窓から熱をはらんだ風が吹き抜けると、日に焼けたカーテンが揺れた。
 ふわりとミントの香りがする。


「食う?」
 目の前に差し出されたのは、タブレットの小さな箱。口直しとかに食べるお菓子だ。私は今まで一度も食べたことがなかった。清涼感がありそうなイメージだけど、どんな味なんだろう。

「ありがとう」
 好奇心からそれを一粒もらって、口の中に放り込む。

「けほっ!」
 清涼感どころじゃない。喉と鼻の奥を突き抜けていくような冷たい刺激に、思わず咳(せ)き込んだ。

「え、大丈夫? こういうの苦手だった?」
「は……っ、初めて食べて、びっくりして……口の中、スースーする」
 目に涙が浮かんできた。これは想像以上の刺激物だ。もっとほんのりとミントの味がするくらいだと思っていた。

「悪い、先にちゃんと言っとくべきだったな。でもそんな驚くとは思わなかった。……ははっ」
 視線を上げると、沖浦くんは無邪気に声を上げながら笑った。その笑顔に私は釘づけになる。
 ……今の沖浦くんは接しやすいかも。

 友達と笑いながら話しているのは何度か見たことがあったけれど、そのときの表情とは少し印象が違う。あどけなくて、親しみやすさを感じる。
 普段は人の笑顔を見ると、羨ましいなって思っていた。だけど沖浦くんの笑顔を見ていると、羨ましいというよりも、もっと別の温かな感情が込み上げてくる。

 目が離せなくて、心の距離がほんのちょっとだけ近づいたような気がした。


「紺野さん、沖浦くん、掃除終わった?」
 銀縁の眼鏡をかけた四十代くらいの女性が廊下から顔を覗かせる。担任の三岳先生だ。罰則の教室掃除をきちんとやっているか、様子を見に来たようだった。

「終わりました」
 床や黒板、ゴミ箱など一通り三岳先生がチェックをする。

「はい、じゃあご苦労様。もう帰って大丈夫よ。これから気をつけてね」
 チェックもクリアして、私は胸を撫で下ろす。罰則を無事に終えられた。
 先生が去っていき、再び私と沖浦くんのふたりきりになる。
 なんとなく一緒に教室を出にくくて、机の上で鞄の中を整理するフリをした。沖浦くんが教室を出てから、少し時間を置いて帰ろう。その方がいいはず。


「帰んないの?」
 沖浦くんに声をかけられて振り向くと、ドアの前に立ってこちらを見ていた。

「あ……うん、帰る」
 慌てて鞄のファスナーを閉めてから肩にかけて、教室の出入り口へと足を進める。
 もしかして私の帰りの準備ができるまで、待っていてくれた?

「今日、ありがとな」
「……うん」
 会話は続かず、そこで途切れた。
 私たちは無言のまま、並んで廊下を歩く。このままだと駅まで一緒に帰る流れかもしれない。沖浦くんは、大して親しくもない私と帰るのは気まずくないのだろうか。


 靴を履き替えて学校を出ると、予想通り駅まで一緒に向かう流れだった。
 必死に話題を探してみるけれど、緊張でなにも浮かばない。共通の話題なんてクラスのことくらいだ。だけど別に沖浦くんに話すような内容がない。

 先ほどよりも日が傾き、外は薄暗い。温度が下がり、夜の気配がする。
 すっかり暗くなっちゃったね、なんて言ったら、罰則の件もあるので嫌みに聞こえるだろうか。
 この時間帯っていいよね、って言っても、沖浦くんはそうは思わないかもしれない。

 あと他に話題は――。


「紺野」
「っ、はい!」
 名前を呼ばれただけで、どきりと心臓が跳ねる。


「あの花、桜?」
「どの花?」
 きょろきょろと辺りを見回す。けれど、周囲には花が見当たらない。


「自画像の紙の裏に、花の絵が描いてあっただろ」
「え……」
 まさか気づかれるとは思っていなかった。あんな落書き消せばよかった。どうしてあのまま残しておいたんだろう。

「花のことあんまりわかんねぇけど、たぶん桜かなって思って」
「あ、うん。桜だよ」
 動揺しながらも答えると、隣を歩く沖浦くんがこちらを見る。そして微(かす)かに笑った。


「すげー上手かった」
 純粋に褒めてもらえていることが伝わってきて、くすぐったい。あまり褒められることのない私にとって、何気ない沖浦くんの言葉が嬉しくて仕方なかった。
 にやけそうになって、慌てて手で前髪をいじって目元を隠す。

「それ癖?」
「え?」
「なんでよく顔隠してんの」
 沖浦くんからの指摘に、顔が引きつりそうになった。できれば触れられたくなかった。無言の時間が続かないように焦りながら、私は軽い口調で返す。

「私の笑った顔って変だから」
 言葉の選択を間違えたかも。そうかな?って癖に気づかないフリをするのが最善だった気がする。どうか笑って流してほしい。祈るように手を握りしめる。

「意味わかんね」
 まだ少し口の中に、ヒリヒリするようなミントの味が残っていた。ごくりと生唾を飲み込むと喉が痛む。


「笑った顔が変とか、本気で思ってんの?」
 思ってるよ。自分の顔が嫌いで、他人に見られたくない。だけどそれを彼に言ったところで、どうにもならない。

「私、笑うと目とかこんなふうに細くなるんだよね」
 わざとらしく目を細めて、指をさす。けれど沖浦くんの表情は険しいままだ。

「……気にしすぎじゃね」
 気にしない生き方が、私にはわからないんだよ。
 喉元まで出かかった言葉を呑み込む。

「あと歯並びもそんなよくないし! そもそも自分の顔をそんなに好きじゃなくって。中学の頃もそれでからかわれたりして、笑うの苦手なんだよね!」
 距離が近づいたように思えていたけれど、持っているものが違う私たちはわかり合えない。私にとっては深く傷に残っていることで、気にしすぎという一言では片付けられないのだ。

 けれど深刻な悩みとして話したら、気まずくなるだけ。それに自分の心も再び傷つくだけだから、私は軽いノリで話すことしかできなかった。


「悪い」
「え?」
「話したくないこと話させただろ」
 中学の頃にからかわれたと言ったからだろうか。気にしてしまったみたいだ。
 その優しさが逆に惨めに感じて、私は無理して明るい声を出す。


「大丈夫! 気にしないで!」
 くだらない悩みって思ったかな。それくらいのことで顔を隠して笑うなんて変だって、引かれたかもしれない。
 それから無言の気まずい時間が流れる。
 失敗した。中学のときのことなんて、話すべきじゃなかった。頬の内側をぐっと噛みながら、逃げ出したい気持ちをこらえた。

 相性がかなりいいと診断されたはずなのに、私たちは合わない部分ばかり。だけどそれは、まだお互いをよく知らないからなのだろうか。


「紺野、見て」
 ぐいっと腕を掴まれる。振り返ると立ち止まった沖浦くんが、空を指さしていた。

「青い」
 たった一言。だけどそれだけで意味が伝わった。
 日中の青さとは違う。日が落ちる時間帯だけに見える、深い青色。建物も道も、辺り一面、青に染められている。

「……ブルーモーメント」
 声に出してしまい、すぐに口を閉ざす。

「なにそれ」
 沖浦くんに聞こえていたみたいだ。

「昼から夜に移り変わる一瞬に、世界が青い光に染まることを、そう呼ぶんだって」
 以前ネットの記事で何気なく読んで記憶に残っていた。天気のいい日にだけ見えるという日没直後の青の世界。

「へー」
 沖浦くんにとってこんな話は退屈だったかもしれない。ただ綺麗だねって返した方がよかった。

「そういう話聞くと、今まで何気なく見ていた風景が特別なものに思えるな」
 興味を持ってくれている気がして、目を丸くする。
 カシャッとスマホのシャッターを切る音がした。

「あ、ダメだ。上手く写らねぇ」
 沖浦くんは青の世界を写真に残そうとしたらしい。だけど見せられた画面は暗くて、見えづらい。

「きっとこの景色はレンズ越しに残すよりも、肉眼で見た方が綺麗だと思う」
 あ……言うべきじゃなかったかも。せっかく写真を撮ろうとしている沖浦くんの気を削いでしまったかも。微妙な空気になったら嫌だな。


「じゃあ、目に焼きつけとくしかないな」
 そう言って沖浦くんが歯を見せて笑った。


 深い青に染められた世界の中で、彼だけが太陽みたいに眩しく見える。
 私たちは立ち止まったまま、少しの間無言で青の世界を目に焼きつけるように浸っていた。
 沖浦くんと私は違うところばかりで、性格が合うようには思えない。けれど、彼には人を惹きつける不思議な引力がある気がした。