「なあ、あと一週間だけ、待ってくれないか」

 そんな締め切りを引き延ばそうとする作家のような台詞と共に、彼は突然やって来た。
 身に纏う古びたローブは夜闇のように深く、フードから覗く柔らかそうな髪は烏の濡れ羽根色。瞳は硝子細工のように暗く澄んで、闇に紛れてしまいそうなその青年の容姿は、喧騒の中でどこか作り物めいている。
 そんな彼を、忙しなく人の行き交う夕方の駅のホームで佇んだまま、私は思わず凝視する。私の目の前に現れたのは、漆黒の死神だった。

「あんまり見るな。それで、どうなんだ。待ってくれるのか?」
「……何で、一週間なの?」
「あんたの死亡予定日、一週間後なんだよ。今死なれたら、色々手続きが面倒くさい」
「何それ」

 自殺を止めに来たにしては、何とも自分本意な青年の言い分に、思わず脱力してしまう。
 そうこうしてる内に、飛び込み予定だった電車は時刻きっちりに駅のホームに到着してしまった。乗らずに立ち止まる私を迷惑そうに避けて、人々はその狭い箱にぎゅうぎゅうになって詰め込まれていき、やがて走り去る。
 出鼻を挫かれた私は適当なベンチに腰かけて、黒衣の青年を見上げた。

「一週間待つメリットは?」
「……は?」
「文字通り人の『決死の覚悟』を邪魔しておいて、何もないなんて言わないよね?」

 予想外の言葉だったのだろう、青年はどこまでも暗いのに綺麗な目を見開いて、すぐに苦虫を噛み潰したような顔をする。整った顔が台無しだ。
 今までの私なら、きっと何も言えないまま受け入れただろう。けれど、鞄に簡素な遺書を忍ばせて、とっくに死を覚悟した私には、もう何も怖いものなんてなかった。

「……一つ願いを叶える、とか?」
「ふうん? まあいいか。願いなんかないけど、どうせ捨てる命だもん。最後くらい、誰かの役に立ってみせようじゃない」

 そんな私の慈悲の心に、死神は心底安心したように頷いた。
 こうして『死にたかった私』と『死なせまいとする死神』の、奇妙な一週間は始まった。


*****


「私、雨。五月雨って書いて『さみだれ』じゃなくて『さつきあめ』っていうの」
「知ってる」
「あなたの名前は?」
「……夜」
「へえ、いい名前。宜しくね、夜」

 真っ黒な装いの彼には、とても似合いの名前だと思った。ちなみに五月雨とは、梅雨のことだ。そんな名前にぴったりのどんよりとした季節の中、死に損なった私は死神を連れて、もう二度と帰らないと思っていたぼろアパートに戻る。
 どうやら彼の姿は私にしか見えないようで、外で彼と話していると、私は一人虚空に向かって語りかけるどう見ても不審者の類いだった。流石に死ぬ前に警察のお世話になるつもりはない。

「どうぞ」
「……お邪魔します」

 思いの外丁寧な死神は、土砂降りの中歩いて来たにも関わらず水濡れ一つしていない綺麗な靴を脱いで、綺麗に並べてから家財一式整理してしまった何もない部屋に上がる。
 がらんどうの部屋の隅、戸惑いながら居心地悪そうに佇む彼の様子がまるで拾ってきた犬猫みたいで、何だかおかしくて、思わず笑ってしまった。
 そしてすぐに、はっとする。笑みが溢れるなんて、一体いつぶりだろうか。自分でも驚いて、思わず口許を手で覆った。

「どうした?」
「何でもない」
「……一週間後、あんたの魂を俺が狩る。それまで、勝手に死なないよう見張らせて貰うからな」
「もうしないよ。一週間したら、どうせ勝手に死ぬんでしょ?」
「運命に抗って自殺未遂する奴の言うことなんか信じるか」
「え、運命に抗うとか何か格好いい……」
「……あんた、死神の存在をあっさり信じたり、死ぬと言われても動じなかったり、それだけ肝が据わってるのに何で……」

 何で、死のうとしたのか。夜の問いたいことはすぐにわかった。けれど彼はその先の言葉を飲み込んだ。うっかり語らせてまた死ぬ気になったら困ると思ったのか、下手に踏み込むまいと決めたのか、そのまま何とも言えない沈黙は外の雨音に紛れて、やがて自然に消えてしまった。私は仕切り直して、明るく問い掛ける。

「さて、一週間生きるなら、ご飯とか買わないとね。あなたは何か食べられるの?」
「え、ああ……一応」
「よし! じゃあ何か作るね、先ずは材料と調理器具の買い出しに……あ、冷蔵庫も要る?」
「待て、そこまでしなくていい! せっかく片付けたんだろう、どうせ一週間しか使わないんだ、買わなくて良い」
「それもそうか。じゃあ外食三昧? 最期の晩餐には駅前の喫茶店のパフェって決めてたけど、昨日食べちゃったんだよね……」
「……パフェは晩餐なのか?」

 人生卒業計画の前に突然訪れた、一週間のモラトリアム。身辺整理は済ませてしまったし、未練も後悔もすぐには思い付かない。けれど生きている限りお腹は空くし着るものも必要で、寝るなら寝具も欲しいところだ。
 飛び込みして鉄道会社に迷惑を掛けるから、せめて賠償金にでもなればと手をつけていなかった細やかな貯金。
 鞄の中に遺書と共に詰めた、簡素な茶封筒に突っ込んだ纏まった現金を取り出して、それを使って私は彼と最後の一週間を過ごすことにした。


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