一

 稽古場からの帰り道だった。
 浅草橋を渡っているとき、神田川を覗き込んでいる赤い華やかな着物を着た娘が気になって足を止めた。

 ちょっと身を乗り出し過ぎなんじゃないか?

 声をかけるべきか迷っていると、向こうからお花がやって来た。
「あれ、夕ちゃん」
「あ、お花さん。こんにちは」
 そう言って頭を下げたとき、娘の身体が欄干を乗り越えた。
 娘が水面に落ちる前に、夕輝も荷物を放り出すと欄干から飛び降りた。
「夕ちゃん!」
 お花が叫んで欄干から身を乗り出した。

 夕輝は泳いで近付くと、娘を後ろから抱きかかえ、顎を上げさせながら立ち泳ぎで辺りを見回した。
 娘はもがいていて、気を抜くと水に引き込まれそうになる。
 ただでさえ、着物が纏わり付いて泳ぎづらいのだ。前から近付いていたら道連れにされて溺れていただろう。

 水はかなり冷たかった。どんどん体温を奪われていく。
 あまり長く泳いでいるのは無理だ。

 川を行き交っていた船が何艘か近づいてきた。
 夕輝はそのうちの一番近い一艘に娘の身体を差し出した。
 船頭が娘を引き上げる。
 続いて夕輝の身体も引っ張り上げられた。
 船頭は二人を引き上げると川岸の小さな桟橋に送ってくれた。
 桟橋ではお花が夕輝の荷物を持って待っていた。
 その後ろに沢山の野次馬がいた。
 上を見ると、欄干からも大勢が覗き込んでいた。

「船頭さん、有難うございました」
 夕輝が頭を下げると、船頭は頷いて船を出した。
「夕ちゃん、大丈夫かい」
「はい。心配かけてすみません」
「あんたは大丈夫かい?」
 お花が娘に声をかけた。
「死なせてください!」
 そう言って娘が川に身を乗り出そうとする。
「ちょ、ちょっと!」
 夕輝とお花が慌てて娘の身体を押さえる。
「とにかく、着物を乾かさなきゃね。二人ともずぶ濡れだよ。夕ちゃんも髪を何とかしないと」
 夕輝ははっとして頭に手をやった。
「あ! 付け鬢!」
 その言葉に、娘は夕輝に髷がないのに気付いたようだ。夕輝の頭をじっと見ている。
「お花さん、すみません!」
 夕輝は慌てて頭を下げた。

「何とかしてお金を稼いで買って返しますので……」
「何言ってんだい。人助けして無くしたんだよ。甚兵衛さんだって怒りゃしないよ」
「でも……」
「いいからいいから。あたしに任せときな」
「すみません。有難うございます」
 夕輝はますます恐縮して再び頭を下げた。
「とにかく、着替えないと……」
「あなた、無宿者なの?」
「え?」
 娘の言葉に振り返った。
「いや、違うよ……多分」
「何言ってんだい! 多分じゃないだろ! あんたのうちは峰湯じゃないか! ちゃんとそう言わなきゃお峰さんや平助さんが悲しむよ!」
「すみません」
 夕輝は三度頭を下げた。

 お花は夕輝の腕を掴んで娘の方を向くと、
「この人は無宿者なんかじゃないよ! うちの人を助けてくれたし、あんたのことも助けた、立派な人だよ!」
 と、まくし立てた。
「すみません」
 娘は震えながら頭を下げた。

 震えているのは寒いからだろう。唇が青くなっている。
 夕輝も寒くて震えていた。
 まだこの季節は水が冷たい。
 二人が震えてるのに気付いたお花は、
「とにかく早く着物を乾かさなきゃね」
 と言った。
「ここからなら峰湯が近いから……」
 言いかけた夕輝の言葉を、
「峰湯って、馬喰町の親分さんがやってるところですか?」
 娘が遮った。
「そうだけど」
「お上に知られるわけにはいきません。このまま死なせてください!」
「待った待った!」
 夕輝は困り切ってお花と目を見合わせた。
「何か困ってるなら話を聞くから、まずは落ち着いて」
「じゃあ、ちょっと歩くけど、うちの長屋に来るといいよ」
「すみません」
 夕輝は頭を下げた。
 娘は俯いていた。

 長屋に着くと、すでに知らせが来ていたらしく、女達が乾いた着物を持って待ち構えていた。野次馬をしていた誰かが知らせてくれたのだろう。
 夕輝と娘は別々の部屋に連れて行かれ、着替えさせられた。
 付け鬢もちゃんと用意されていた。
「夕輝は大丈夫か!」
 夕輝が付け鬢を付けたとき、外で大きな声がした。

 平助さんだ!

 あの子はお上に知られたくないと言っていた。
 今、平助に会わせるのはまずい。
 夕輝は慌てて飛び出した。

 外に出ると平助と伍助がいた。
「平助さん、伍助さん」
 夕輝は小声で呼びかけた。
「おう、大丈夫だったか」
「はい」
「川に飛び込んだんだって? 泳げたのかい」
「はい」
「すげぇなぁ。剣術は出来るわ、泳げるわ」
 伍助が感心したように言った。
「普通は泳げないものなんですか?」
川並(かわなみ)とかなら水練(すいれん)もするけど、普通はな。水辺で育ったんなら別だろうけどな」

 川並ってなんだろう。

 訊いてみると、深川の木場(きば)にいる筏師(いかだし)のことらしい。
「てこたぁ生国(しょうこく)は海がある国かね」

 海……。

 確かに東京は東京湾に面してはいる。
 東京都に面している東京湾の浅瀬で泳げるかは疑問だが。
「川かもしれねぇじゃねぇか」

 川もあるな。
 現代の隅田川や神田川で泳げるのか知らないけど。

「見事だったんだよ! 娘さんが飛び込んだと思ったらすぐにこの子も飛び込んでさ、近くにいた船の船頭より先に助けちゃって」
 お花が身振り手振りで興奮したように喋った。
「ほう。で、その娘ってなどこだい」
「あ、平助さん、その娘さんなんですけど、お上には知られたくないって言うんで、とりあえず事情を聞くまでは顔を見せない方がいいんじゃないかと」
「話ならお加代さんが聞いてるよ。こっちこっち」
 お花はお加代の部屋の前に連れて行った。

 娘が着替えていることもあってお加代の部屋の腰高障子は閉められていた。
 その障子の前に長屋の連中が集まっていた。
 八つを過ぎているせいか、女性だけではなく働き盛りの男性も混ざっていた。
 棒手振(ぼてふ)りなどは昼過ぎには仕事が終わる場合もあるのだそうだ。ちなみに棒手振りというのは、天秤棒につるした磐台(ばんだい)という木桶(きおけ)に、売り物を入れて売って歩く職業だそうだ。
 売り物は色々あるらしい。魚や野菜などの生物(なまもの)を扱っている棒手振りは帰りが早いとのことだった。

 子供達も大人の真似をして聞き耳を立てているが、お互い突き合ったりしてくすくす笑っている。
 女性達の中には井戸端で夕輝や娘の着物を乾かしている者もいた。
 大人の女性に混ざって可愛い少女が手伝いをしていた。可憐な、と言う言葉がぴったりの少女だった。
 夕輝の視線に気付いたのか、少女は顔を上げた。目が合うと少女は恥ずかしそうな表情を浮かべてすぐに俯いてしまった。
 夕輝も急いで目を逸らした。
 さすがに高校生が小学生くらいの女の子に見とれるのはヤバすぎる。
 お花は野次馬をかき分けて障子の前に屈んだ。平助と伍助がその隣にしゃがみ込む。
 自分も一緒に盗み聞きするべきかどうか迷っていると障子が開いた。

「わっ!」
 しゃがんでいた平助と伍助が後ろに転がった。
「あ、夕ちゃんだっけ? ちょっと入っとくれ」
 お加代と思われる女性に呼ばれ、彼女の後について部屋に入った。お花も当然のような顔をしてついてきた。
 後ろの野次馬達が娘を一目見ようと中を覗き込んだ。
 お加代は夕輝とお花が入ると障子を閉めた。

       二

「悪いね、お茶がなくて」
 お加代が娘に言った。
 相手が長屋の連中だったらそんなことをいちいち断ったりしないが、娘の着ていた着物等でいいところのお嬢さんらしいと判断したのだろう。
 お加代は夕輝、娘、お花、そして自分の前に、白湯の入った欠けた湯飲みを置いた。
「あんた、名前は?」
 お花が訊ねた。
「里です」
「あたしは花、こっちはお加代さんであんたを助けてくれたのが天満夕輝さん」
 娘は頭を下げた。
「で、どうしてあんなことしたんだい?」
 娘は答えなかった。
「黙ってちゃ分からないだろ」
「悪いようにはしないからさ、言うだけ言ってみなよ」
 お加代とお花が優しい声で慰めるように言った。

 長い沈黙の後、「実は」と、ようやく話し始めた。
「昨年、お裁縫を習いに行った帰りに柄の悪い人達に絡まれて……」

 お里はお供の女中お米と二人で歩いていた。
 お里とお米がならず者達に、あわや木の陰に連れ込まれそうになった、というときに、その男が現れて助けてくれた。

「ありがちな話だな」
 夕輝が思わず呟くと、お里はわっと泣き出した。
 お加代とお花が慌てて娘を慰めた。
「あ、ごめん。その……」
 言いかけた夕輝を、お花が黙っていろ、と目顔で言った。
 夕輝は口をつぐんだ。
 お花とお加代が優しく話しかけてようやく泣き止んだお里が再び話し始めた。

 その男は役者だと言っても通るようないい男で吉次と名乗った。お里は礼をしたいからと言って強引に吉次と会う約束を取り付けた。
 お米には止められたがお里は聞かなかった。お米は、お里と吉次が合うのを家の者には黙っていた。
 こんな目に遭ったと知られたら主人に叱られるかもしれないと思ったのだ。まして、吉次と二人で会うのを許したことを知られたら暇を出されてしまうかもしれない。だから言えなかったのだ。
 吉次は最初、自分は堅気(かたぎ)の人間ではないから関わらない方がいい、と言ったがそれでも次に会う約束をするとちゃんとやってきた。
 あるとき、吉次は自分の身の上を、「両親に早くに死なれて、幼い頃から奉公に出ていたけれど、あまりにもきつい仕事でとうとう十五の時に店を飛び出し、その後はいろんな事をした」と言った。
 だから自分のようなものには関わらない方がいい、と言う吉次に対して、お里はそれでもかまわない、と答えた。
 すると、
起請文(きしょうもん)を貰えたら、それを支えに堅気の仕事を頑張れるかもしれねぇ」
 と言った。
 吉次にのぼせ上がっていたお里は一も二もなく承諾し、起請文を書いた。

「それが手だったんです」
 お里は袖で目頭を押さえた。
 一月前、お里に縁談が持ち上がった。
 起請文を書いたと言っても、そこらの庶民と違ってお里はそこそこ大きな見世(みせ)の娘である。もとより吉次と一緒になろうなんて気はなかった。
 吉次も分かってるものだと思い込んでいたが、縁談のことを聞きつけると起請文を手にやってきて金を要求した。
 十両という金を要求されたが、それで手を切れるなら、と親に内緒で着物や簪等をお米にこっそり売りに行ってもらい、何とか工面して渡した。
 ところが、それからしばらくするとまた十両要求してきた。もう親に知られずに売れるようなものは残ってない。
 困っていると、お米が親や親戚から借り回ってお金を作ってくれた。お米としても主人に黙っていたことを知られると困るのだ。
 だが、吉次は更に要求してきて、これ以上は無理だと言うと、縁談相手にその起請文を見せると言って脅してきたのだ。
 親に話して五百両用意しろ、そうすればこの起請文は返してやる、と言ってきたがそんなことを親に言えるわけがない。
 思い余って思わず川に飛び込んでしまったというのだ。

 お里の話を聞くとお花とお加代は黙り込んだ。
 五百両が現代で幾らになるのかは分からなかったが、それでも相当な額だと言うことは想像が付いた。
 貧乏長屋のお花やお加代にとって五百両なんて別世界の話だ。当然、長屋中の金を集めても五百両どころか一両になるかさえ怪しい。
「それはやっぱり親分さんに話した方が……」
「駄目です!」
 お里は激しく首を振った。
「親に知られてしまいます! それだけは困るんです!」
「そうは言っても、五百両なんて用意できないだろ」
「ねぇ」
 お加代が夕輝に同意を求めてきた。
 それまで黙って聞いていた夕輝がおもむろに口を開いた。
「起請文ってなんですか?」

 起請文とは、熊野神社の牛王宝印(ごおうほういん)という、(からす)の絵が刷られた紙に「誰某様に惚れています」と書き、刷られている烏の目を塗りつぶしたものだそうである。

「それってそんなに大事なものなんですか?」
「大事って言うか……普通は遊女との遊びでやりとりするものだからねぇ」
「親に知られると困るんですか?」
裏店(うらだな)に住んでるような連中ならともかく、お里ちゃんはいいとこのお嬢さんだろ。それが堅気でもない男に起請文を贈ったとなると、ねぇ」
「縁談も破談になるかもしれないね」
 お花はそう言ってお加代と顔を見合わせると頷きあった。
「じゃあ、その起請文って言うのを取り返せばいいんですか?」
「そうなるね」
「でも、吉次さんは腕っ節も強いし、仲間もいるし……」
 お里は俯いて言った。
「それは大丈夫だと思うけど……」
 平助や伍助の助けがあれば問題はないはずだ。
 夕輝は疑問に思っていたことを口にしてみた。
「その吉次ってヤツが堅気になっても一緒になれないものなの?」
「吉次さんはもう二十歳過ぎてるんですよ。今更丁稚から始めても……」
 お里はバカにしたように言った。
「まぁ、無理じゃないかもしれないけど、普通は九つか十くらいから丁稚として奉公して、二十歳なら手代になってるよね」
「そこから更に番頭、暖簾分けだからね。まぁ、お里ちゃんの場合は見世を継ぐから暖簾分けは関係ないけど」
「大体、堅気になってやり直したって許してくれませんよ」
「ご両親が?」
「ご両親もだけど、親戚縁者に、同じ業種の組合の承認もないと」
 お花が説明するように言った。
「そんなところの承認までいるんですか?」
「なんか問題起きたときは親戚縁者だけじゃなくて、組合の仲間も連帯責任を取らされるわけだからね。当然跡継ぎは周りの承認を得ないと」
「跡継ぎって、お兄さんか弟さんはいないの?」
「兄がいますけど、それが何か関係あるんですか?」
 お里は不思議そうな顔をしたが、お花は夕輝の言わんとしてることが分かったようだ。

「お武家さんは男の子が継ぐけど、ある程度以上の大店(おおだな)は女の子が有能な人をお婿に貰って継ぐ場合が多いんだよ」
「へぇ」
 話を聞いている夕輝を、お里は怪訝そうに見た。
「あ、この人んちお武家さんだから、商家(しょうか)のことは知らないんだよ」
 お里の表情に気付いたお花が言い訳するように言った。
「それに吉次さんって字も書けないような人ですよ」
「ホントに?」
「自分は字が書けないからって言って、吉次さんは起請文をくれなかったんですから」

 それだけでは本当に字が書けないのかは分からない。証拠になるものを残さないために()えて書かなかった可能性はある。
 しかし、夕輝はどうもお里に同情する気になれなかった。
 確かに金を強請(ゆす)るのは悪い。
 その点では弁解の余地はない。
 だが、一時的にしろ惚れたはずの吉次を見下したように言うお里もどうかと思った。

 吉次はホントに最初から強請る気だったのだろうか。

 夕輝はつい吉次の方に肩入れしたくなってしまう。
 そのとき、外から、
「お加代さん、着物、乾いたよ」
 と言う声がかかった。
「はいよ! じゃあ、夕ちゃんもお里ちゃんも着替えな。夕ちゃん、その後お里ちゃんを送ってってあげとくれ」
「あの、このこと父には……」
「大丈夫、黙ってるからさ。それと、起請文のことはこっちで何とかするから、もうバカな真似するんじゃないよ」
「よろしくお願いします」

 お里を家の近くまで送ると――家の者に見られると困ると言われたので家までは送らなかった――、来た道を引き返した。

       三

 お花の長屋に戻る途中、人気のない通りを歩いていた。
 江戸は百万都市と聞いたが、庶民が狭いところに密集して住んでるせいか、結構広い空き地――火除け地という火事の延焼を食い止める為の土地――があったり、広大な大名屋敷があってどこまで行っても両側が塀と言うところがあったりする。
 人通りの多い大通りもあるが、昼間でも人気のない道が結構あった。

「やめて下さい!」
 声の方を振り返ると、女の子が三人の男に囲まれていた。
 男の一人が女の子の腕を掴んでいる。
 さっき訊いたお里のような状況だ。

 江戸時代ってこう言うことが多かったのか?

 後で平助に聞いてみると、
「『えど』は女が少ねぇからなぁ」
 と言って話してくれた。

 明暦の大火で大半が燃えてしまった『えど』の街を再建するために日本中から職人達が集められた。
 当然男ばかりだ。女性は男相手の商売女がほとんどで、それ以外では職人や商売女相手に商売をする商人が連れてきた女房子供くらいだった。
 そのため、男女比は二対一くらいの割合で圧倒的に男の方が多い。
 御公儀公認(公許(こうきょ)という)の遊郭である吉原や非公認の遊郭もあるにはあるが値段の差はあるにしてもどちらも金がかかる。
 そのため、こう言うことが起こりやすくなるらしい。
 夕輝は男達に歩み寄った。

「よせよ。嫌がってるだろ」
 男達が振り返った。
「なんだ手前ぇ」
「怪我したくなかったらすっ込んでろ!」
 男達が凄んで言った。
「それは出来ない」
「野郎!」
 男の一人が懐に呑んでいた匕首(あいくち)を抜いた。

 夕輝が眉をひそめると、匕首をかざして突っ込んできた。
 匕首をよけると男の手首を掴んで捻りあげた。
 別の男も匕首を構えてこちらに向かってきた。
 その男に向けて手首を捻りあげていた男を突き飛ばした。
 男達が一塊になって転がった。
「手前ぇ!」
 三人目が匕首を腰だめにして突っ込んできた。
 体を開いてよけると、男に足をかけた。
 男がすっころんで匕首が飛んでいった。
 もがいていた男の一人がようやく立ち上がると、再び落とした匕首を拾って向かってきた。
 もう一人の男も立ち上がると、同じように匕首を構えて突っ込んできた。
 そのまま真っ直ぐ来たら夕輝ではなく、先に向かってきた男が刺されてしまう。

「あ、バカ!」
 夕輝は先に突っ込んできた男の肩を掴んで前に引き倒して匕首をよけさせると、次の男の腕を蹴り上げた。
 匕首が宙を飛んでいく。
「さっさと消えろ」
「覚えてろよ!」
 お約束の捨て台詞を吐くと、男達は逃げていった。
 夕輝が庇った男は転んだ時に足を捻ったらしく、足首を押さえて呻いていた。
「おい」
 夕輝が声をかけると男が顔を上げた。
 男は辺りを見回した。仲間を捜しているらしい。
「他の二人は逃げたぞ。お前も早く消えろ」
 男は顔をしかめて立ち上がった。
「お前を見捨てて逃げるような薄情な奴らとつるんでると今にもっとひどい目に遭うぞ」

 夕輝はそう言うと、男に背を向けて、
「大丈夫だった?」
 と、女の子の方を振り返った。

 すっと通った鼻筋に知的な光をたたえた瞳、きりっとした口元。柔らかみを帯びた頬の線が子供らしさを残している。知性的な印象の、きれいな子だった。夕輝に近い年のようだから、女性と言うよりは少女だ。

 でも、この時代でこの年ならもう大人なんだよな。
 元服……は男だよな。
 女の子は何て言うんだろう。

 後でお峰に訊くと、女性も元服というそうだ。

「有難うございました」
 女の子が頭を下げた。
「良ければ送ろうか? あいつらがまた戻ってくるかもしれないし」
 きれいな子だから、また襲われる危険もあると思ったのだ。
 自分のことも警戒して断るかな、と思ったが、
「よろしくお願いします」
 女の子は頭を下げた。

「ここです」
 女の子の家につくと、夕輝は内心ほっとした。
 話すことがなくて、黙って歩くのが結構つらかったのだ。
 夕輝はそれほどおしゃべりな方ではないが、それでも知らない女の子と黙って歩くのはしんどかった。
「今、父を呼んできますので……」
「いいよ、気にしないで。それじゃぁね」
「あ、あの……」
 女の子は声をかけてきたが、夕輝は逃げるようにしてその場を離れた。吉次みたいに金目的だと思われるのが嫌だったのだ。帰る途中で女の子の名前も聞いてなかったことを思い出した。

 まぁ、もう会うこともないだろう。

 お花の長屋に戻ると、
「お加代さんの部屋でみんな待ってるよ」
 と、同じ長屋の女の人が教えてくれた。

 ノックは西洋の習慣だよなぁ……。

 お加代の部屋の前でどうしようか迷っていると、
「お花さん、夕ちゃんが戻ってきたよ」
 と、女の人が声をかけてくれた。
「夕ちゃん、入っとくれ」
 お花の声に、夕輝は障子を開いた。
「失礼します」
 お加代の部屋に入ると、お加代とお花、平助と伍助、正吾がいた。
「お帰り」
 お花が言った。
 夕輝が、多分下座だろうと思われる、一番戸口に近い場所へ座ると、
「今、親分さん達と話してたんだよ。お里ちゃんのことどうするか」
 お花が言った。

「要は起請文が問題なんだろ」
「起請文さえ取り返せば吉次をお縄にしても問題ねぇよな」
「まぁ、そうなりますね」
「それにしても、そこそこいい見世の娘にしちゃ軽はずみな子だな。起請文なんて堅気の娘が書くもんじゃねぇだろうに」
 確かにその通りだ。
「伍助、吉次って名前に聞き覚えあるか?」
「ねぇなぁ。ただ、源次ってケチな野郎がそういうことしてるらしいって聞いたぜ」
「源次か、俺も聞いたことあるぜ。そう言や年格好やなんかは似てるな」
「ちょっと洗ってみるか」
「そうだな」
「俺は何をすれば……」
 夕輝が訊ねた。
「こういうのは俺達の仕事だ。任せときな」
「片ぁ付けるときに手ぇ借りるから、そのとき頼まぁ」
 そう言うと、
「行ってくるぜ」
 と言って平助と伍助、正吾は出て行った。早速探索に行くらしい。

 翌日も、平助達は朝早くから探索へ出かけた。夕輝は平助達が吉次を見つけ出してくるまで大人しく待つことにして、いつも通り剣術の稽古場に向かった。
 夕輝は午前中に稽古場へ行き、帰ると湯屋を手伝っていた。

 ある日、夕輝は自分が尾けられているのに気付いた。
 この前、女の子を助けたときの男の一人だった。物陰から物陰へ移動しながら尾いてくる。
 あれで気付かない者はいないだろう。

 人通りがあるんだから普通に歩いてればいいのに。

 きっと仕返しをしようと付け狙ってるのだろう。仕返しをする気ならこの前より人数は多いに違いない。大勢を相手にして勝てるとは思えない。
 今度は負けるかもしれないが、庇わなければならない相手がいないなら、負けても殺されなければいいと思うことにした。
 下手にやり返すと、また仕返しに来て、と言う負の連鎖になりそうだと思ったのだ。しかし、無策のまま多勢を相手にするのも芸がない。
 とりあえず、どう対応するか決めるまでは人通りのないところは歩かないようにしよう。

       四

 お峰に頼まれてお花に届け物をしに行く途中、この前お花の長屋で見かけた少女が歩いていた。
 手には野菜を入れた籠を抱えている。

「やあ」
 夕輝が声をかけると少女が振り返った。
「天満さん」
「俺の名前、知ってるの?」
「この前、長屋で……」
 少女が頬を染めて言った。
「俺もそのときに君のこと見かけて覚えてたんだ。荷物、持つよ」
 夕輝は少女の荷物を持った。
「いえ、いいんです」
 少女が慌てて取り返そうとした。
「これからお花さんの長屋に行かなきゃならないんだけど、道、覚えてなくてさ。荷物持つから案内してよ」
「はい」
 少女は恥ずかしそうに俯いた。
 この前ならず者から助けた女の子とはまた違った可愛さだった。
 ただ、まだ十二歳くらいだから夕輝の守備範囲外だが。

「あ、君の名前なんて言うの?」
「唯です」
「お唯ちゃんか、俺のことは夕輝でいいよ。これからもお花さんの長屋に行くことあると思うからよろしくね」
「はい。短い間ですけどよろしくお願いします」
「短い間って?」
「今度……奉公に行くんです。年季が明けるまでは帰ってこられないから……」
 悲しそうな顔だった。
 このときは、親から離れて一人で知らないところへ働きに行く不安からだろうと思っていた。
「そっか。その年で働きに行くなんて偉いね」

 江戸時代はこの年でもう働くんだな。

 それに引き替え自分は峰湯の居候だ。
 なんだか肩身が狭い。

 俺ももっと峰湯の仕事の手伝いしなきゃな。

「ちょうど良かった。今、夕ちゃんを呼びに行こうと思ってたんだよ」
 長屋へ続く木戸を通ったとき、お花がやってきた。

 夕輝はお唯に荷物を返すと、手を振ってからお花についてお加代の部屋へ向かった。
 お唯が恥ずかしそうな顔で小さく手を振り返した。
 お加代の部屋にはお里もいた。
「どうしたんですか?」
 夕輝が訊くと、
「どうしたもこうしたもありませんよ。吉次さんのことはどうなってるんですか」
 お里がきつい声で訊ねてきた。
「今調べてるところだけど……何かあったの?」
「とても柄の悪い人がお店に来たんです。吉次さんの使いって言って、お金は用意出来たかって訊いてきたんです」
「それで?」
「とりあえず、お金を用意しているところだからと言って帰ってもらいました。でも、用意出来るまでは何度でも来るって」
「分かった。もう少し待って」

 その夜、お加代の部屋で、夕輝、平助、伍助、正吾、お花とお加代が顔を揃えた。
「一応、兵蔵に橋本屋――お里の店――を見張らせてたんだけどな。あいつ、気付かれやがったな」
「それで警戒して使いをよこしたんだな」
「どうやら俺達の顔は知られてるようだな」
「他に使えるヤツは……」
「俺がやりましょうか? 俺は素人だけど顔は知られてないと思うし」
「お前ぇみたいにひょろ長いのは目立つからなぁ」
 平助は、腕組みをして考え込んだ。
「でも、他にいないんだろ。この際頼んじゃどうだい」
「仕方ねぇな。よし! 夕輝、頼んだぜ」
 渋い顔をしてた割には決断が早いんだな。

 翌朝、夕輝は平助にどんな格好なら怪しいのかを教わり、橋本屋の斜向かいにある小さなお稲荷さんの所から見張り始めた。
 橋本屋は米問屋だった。
 夕輝一人で一日中見張るのは無理なので、嘉吉という伍助の下っ引きと一緒だった。
 下っ引きというのは御用聞きの手下だそうだ。

 お稲荷さんの小さな祠の周りに生えている木の陰から店を覗いていた。しかし、思ったより骨が折れる仕事だった。
 何となく、すぐにやってくるんじゃないかと甘いことを考えていたのだが、いつまでたっても来ないし、嘉吉との他愛ない会話もすぐにネタが尽きてしまった。
 沈黙の中で見張るのは結構つらかった。

 平助さん達はいつもこんなことしてるのか。

 結局、その日は誰も来ないまま、暮れ六つの鐘が鳴り、橋本屋は店じまいした。
 夕輝と嘉吉は帰途についた。
 途中で嘉吉と別れ、人気のなくなった通りを歩いているとき、後ろから尾けてくる人影に気付いた。
 夕輝は立ち止まると、戸締まりされた近くの店の表戸にもたれかかった。

 一度やられてやれば向こうも気が済むだろう。

 痛い思いをしたいわけではないが、いつまでも金魚の(フン)みたいにくっついて回られても困る。
 急所さえ守れば何とかなるだろう。
 そのとき、人影とは反対の方から誰かがやってきた。
 この前助けた女の子だった。手に風呂敷包みを持っている。どこかからの帰りなのだろう。
 女の子は夕輝に気付いたらしく、会釈をして近付いてきた。

「この前は有難うございました。あのときはお礼も出来ずに失礼しました」
「気にしないで。それより早く帰った方がいいよ」
「こんなところで何をなさっているんですか?」
「この前の連中の一人が俺を尾けてるんだ。多分、仕返しをするつもりなんだと思う。だからここで迎え撃とうかと」
 女の子は息を飲んだ。
「君は巻き込まれる前に逃げた方がいいよ」
 ここで決着をつけようと思ったのは庇わなければならない相手がいなかったからだ。この子がいたらやられるわけにはいかなくなる。

 そこへ、夕輝の後を尾けていた男が走り寄ってきた。
「兄貴! 逃げてくれ!」
「兄貴? お前に兄貴って呼ばれる覚えはないぞ」
「とにかく、囲まれる前に……」
 男がそう言ったとき、
「太一! 手前ぇ、やっぱり裏切りやがったな!」
 数人の男達がばらばらと駆け寄ってきて夕輝達を取り囲んだ。
「るせぇ! 人を置いて逃げたくせに、何言ってやがる!」
 夕輝は女の子を庇うように立って振り返った。
「俺の後ろにいて。君には手を出させないから。何とか突破口を作るから逃げられるようなら逃げて」
「あの、良ければこれを」
 女の子が扇子と思しきものを差し出した。女性用の扇子にしてはかなり大きくてちょっと骨太というか無骨な印象を受ける。
「…………」
 意味が分からなかった。
 扇子を一体どうすればいいのか。

 もしかして、水戸黄門の印籠みたいにこれをかざすとみんなが平伏すとか?

「これは鉄扇(てっせん)です。骨が鉄で出来ています」
 女の子の説明にようやく納得がいった。
「じゃあ、遠慮なく」
 受け取ると、確かに重かった。
 周りを取り囲んだ男の中に日本刀らしき物を持っている者がいた。

 後で平助に訊くと、
「そりゃ、長脇差(ながわきざし)だな」
「町人は刀を持っちゃいけないんですよね? 侍だったんでしょうか」
「町人でも破落戸(ごろつき)の中には長脇差を使うヤツがいるんだよ」
 と教えてくれた。
 まぁ、これは後の話。

 それはともかく、ならず者が峰打ちをしてくれるとは思えないし、さすがに大人しく殺される気はない。
「兄貴! 加勢させていただきやす」
 その兄貴というのはやめろ、と言いたかったが、その前に男の一人が匕首を腰だめにして突っ込んできた。
 体を開いてよけると、男の手首に思い切り鉄扇を叩き付けた。
「ぎゃっ!」
 鈍い音がして匕首が地面に落ちた。
 力を入れすぎたか。
 どうやら男の手首の骨を折ってしまったようだ。
 しかし、その男に構ってる暇はなかった。
 次の男が長脇差を振り上げて斬りかかってきた。
 振り下ろされた刀を鉄扇で弾くと、そのまま鳩尾に叩き込んだ。今度は少し手加減をして。
 男が呻いて転がる。
 地面に落ちた長脇差を足で蹴って後ろに滑らせた。
 三人目の男が突っ込んでこようとしたとき、夕輝を兄貴と呼んだ男とならず者の一人が組み合ったまま転がってきた。
 その二人に躓いた男がすっ転んだ。
 夕輝は転んだ男の手を踏みつけて匕首を手放させると、それを誰もいないところに向かって蹴った。

 他に向かってくる者はいないかと辺りを見回すと、夕輝を兄貴と呼んだ男はまだもつれあったまま互いに殴っていた。
 そして驚いたことに、女の子はならず者が落とした長脇差を持って二人を打ち倒していた。
 血が出てないところを見ると峰打ちだったようだが、あまり手加減しなかったらしく、ならず者達は蹲って呻いていた。

「おい、そこまでにしておけ」
 夕輝はそう言って、転げ回っている男達を引き離した。
 殴り合っていた二人はひどい顔をしていた。
 襲ってきたならず者の方は周囲を見回して、みんな地面に転がっているのを見ると逃げていった。
「とりあえず、俺達もここを離れよう」
 夕輝がそう言って歩き出すと、女の子と太一と呼ばれた男がついてきた。
「兄貴、お怪我はありやせんか?」
「その兄貴って言うのやめろ。俺がいつお前の兄になった」
「この前ぇ助けていただいてからずっと見てやしたんですが、兄貴にならついていってもいいと思いやして」
「勝手に決めるな」
 夕輝はそう言ってから女の子の方に顔を向けた。
「あの、俺、こいつの仲間じゃないから」
 吉次と同じように、女の子に取り入るためのやらせだったと思われたくなかった。
「分かっています」
「これ、有難う」
 女の子に扇子を差し出した。
「良ければお持ち下さい」
「え、でも……」
「助けていただいたお礼です」
「そんなに大したことしてないよ」
「これからも必要でしょう。どうぞお持ち下さい」

 確かに、刃物を持ってくる相手と戦うには素手は向かない。
 鉄扇なら斬る心配も、突き刺す心配もせずに戦える。

「そう。助かるよ。有難う」
 夕輝は女の子に頭を下げると、帯に扇子を差した。
「それにしても、強かったんだね。ひょっとしてこの前は余計なお世話だった?」
「いえ、そんなことはありません。助かりました」
「それならいいけど。とりあえず、君を送っていくよ」
「兄貴、お供しやす」
 男がすかさず言った。
「だから兄貴って言うな。俺はチンピラじゃないし、そもそも年だって同じくらいだろ。お前いくつだよ」
「十五でやす」
「……それ数え年だよな」
「違う数え方あるんでやすかい?」
 夕輝は数え年と満年齢の違いを話した。
「それで、満年齢ってヤツだと兄貴はおいくつで?」
「十五。君は?」
 女の子の方に顔を向けて訊ねた。
「あ、まだ名乗ってなかったね。俺は天満夕輝」
未月(みづき)(もみじ)と申します」
「敬語はよそうよ。君も俺と同い年くらいだろ」
「十五です。数えで」
 夕輝と男とのやりとりを訊いていた椛が言った。
お椛(おもみじ)ちゃんとは言わないよね? おもみちゃん? もみちゃん?」
「椛で結構です」
「それじゃ、椛ちゃん、よろしく。俺のことは夕輝でいいから」
「兄貴! あっしは太一でやす!」
「だから、兄貴って言うな!」

       五

 翌朝、橋本屋に行こうとして玄関を出ると、太一が待っていた。
「太助、何の用だ?」
「太一でやす。あっしも手伝いをさせていただこうと思いやして」
「あのなぁ……」
「なんだ、昨日言ってたのはこいつか?」
 夕輝の後から出てきた平助が言った。

 夕輝は昨日の帰り道のことを平助に話していたので、顔を見てすぐに分かったようだ。
 太一の顔は殴り合いの跡がまだ残っていた。

「橋本屋を探ってるんでやすよね。あっしはこう見えても顔は広い方ですぜ」
 夕輝を尾け回してただけあって、何をしていたか知っているようだった。
「じゃあ、手伝ってもらおうぜ」
 平助が言った。
「でも、平助さん」
 夕輝はまだ太一を信用できなかった。
「いいじゃねぇか。こいつなら誰もお上の御用だとは思わねぇだろうし」
「分かりました」
 平助にそう言われたら従うしかない。夕輝は嘉吉、太一と共にお里の店を見張りに向かった。

 その後、数日間は何事もなかった。
 太一が四六時中喋っているので初日程は退屈しなかった。

 ある日、いつものように見張っていると、腰に刀を差した男が店に入っていった。
 ()ぎの当たった着物によれよれの袴。髪の伸びかけた月代、曲がった髷。米問屋に来る客には見えなかった。うらぶれた様子で懐に手を入れていた。

 その男が出てくると、嘉吉は跡をつけていった。
 夕輝と太一がそのまま見張っていると、お里が出てきた。
 お里が出て行ってしばらくすると、お花がやってきた。夕輝達がどこにいるかお峰に訊いてきたらしい。
「夕ちゃん、ちょっといいかい?」

 お花と太一――も()いてきた――と共に長屋へ行き、お加代の部屋へ入った。
 そこに、お加代とお里がいた。
 夕輝とお花が座るとお里は早速話し始めた。
「また柄の悪い人が来ましたよ」

 それは見ていたから知っている。

「それで、どうしたんだい?」
「お店に長居されちゃ困りますから、明後日お金を持っていきますって言ってしまいました」
 お里は不機嫌な様子で言った。
「お金、用意出来てないんだよね? どうするつもりなの?」
 夕輝が訊ねた。
「だからここへ来たんじゃないですか。何とかしてくれるって言いましたよね」
 お里が詰め寄った。
 確かに言ったが、長屋の人達に五百両もの金を用意出来ると思ってるんだろうか。
 仮に用意出来たとして、お里のために払わなければならない義理はないではないか。

 全くの赤の他人なのに、なんで助けてもらって当然って顔してるんだ。
 とんでもない子を助けちゃったな。

 こういう子だと知っていたとしても、ああいう場面に行きあわせたらまた助けてしまうだろうが。
「とりあえず、お里ちゃんにその場所に行ってもらって、そこで吉次から起請文を取り返すしかないようだね」
「なんで私が行かなきゃなんないんですか! 助けてくれるって言ったじゃないですか!」
 お里がいきり立って甲高い声を出した。
「あのね、これは君の問題だって分かってる?」
 夕輝がたまりかねて言った。
 お里はふてくされた顔でそっぽを向いた。
「仕方ないねぇ。それじゃあ、着物を貸してくれるかい? 誰かに代わりになってもらうからさ」
 そこまでしなきゃならないのかと思ったが、お花達は助ける気でいるようだった。
 後でお米に届けさせる、と言ってお里は帰っていった。
「代わりをたてる、なんて言っちゃったけど、誰に頼もうかねぇ」

 ふくよかなお花やお加代は体格的に無理だ。お里とは全く違うから遠くからでも一発で分かってしまう。
 お花とお加代が考え込んでいると、障子が開いてお唯が入ってきた。
 障子を開けた時、外に野次馬が聞き耳を立てているのが見えた。お唯も聞いていたようだ。

「あの、私がやります」
「お唯ちゃんが?」
「気持ちは有難いけど、顔に傷でもつけられたら大変だろ」
「でも、皆さんにはお世話になってますし、少しでお手伝いしたいんです」
 お唯が真剣な表情で言った。

 あのお里に、お唯ちゃんの可愛げや殊勝さの半分でもあれば、喜んで助けるんだけどな。

「まぁ、他にやれそうな子もいないしねぇ」
 お花が思案顔で言った。
「どうしてもやるのかい?」
「はい」
 お唯が頷いた。
「それじゃあ、頼もうか」
 お花とお加代は頷きあった。
「お唯ちゃんのことは俺が必ず守るから」
「あっしも手伝いやす」

「お前、五百両って聞いても顔色一つ変えないんだな」
 峰湯に帰る途中、後ろをついてくる太一に言った。
「平次について行ってた賭場(とば)では毎晩何百両も動いてやしたから」
「もう賭場なんか行くなよ」
「へい」

 二日後、夕輝が長屋へ行くと、丁度お唯がお里の着物に着替え終わったところだった。
「お唯ちゃん、よく似合ってるよ」
 お花が褒めた。
 確かに赤地に白い花が散っている着物はお唯によく似合っていた。
 お唯が恥ずかしそうに俯く。頬が赤く染まっていた。

 可愛いなぁ。

「これで(かんざし)があればねぇ」
 長屋の誰も簪を持っていなかったので、お唯の髪には何も刺さっていなかった。
 お唯の準備が出来たのを見届けてから夕輝は先に寺に向かった。

 太一、嘉吉、正吾と共に寺に先回りして物陰に隠れた。
 平助と伍助はお唯の跡を尾けて、他に尾けつけてるヤツがいないか目を光らせていた。
 お唯は頭に頭巾を被っていた。
 地震の避難訓練の時に使う防災頭巾を薄くしたようなものだ。御高僧頭巾(おこそずきん)と言うらしい。

 お里の着物を着ていても、頭にいつもつけている簪をしていなければ怪しまれるとお花が言ったのだ。
 幸い今日は風が強いから頭巾を被っていても怪しまれないだろう、とお花が言っていた。

 江戸の道は舗装されていないので、乾燥して風が強い日は砂埃が舞い上がる。だから、髪が汚れないように女性は頭巾を被ったりするらしい。
 着物を持ってきたお米は、汚したりしないようにとしつこいくらい言って帰っていった。

 着物一枚くらい、五百両に比べれば安いものだろうに。

 遠いところで鐘が三回鳴った後、この寺の鐘が九回鳴った。
 九つになったのだ。

 最初の三回は鳴らすタイミングを合わせるためだそうだ。それでも鐘はズレて鳴った。全ての寺が同時に鳴るわけではないのだ。時を告げる鐘がそんないい加減でいいのかと思うが、『えど』の人達は気にも止めていなかった。

 確か九つって十二時のことだったよな。

 お唯は風呂敷包みを大事そうに抱えていた。
 そのすぐ後ろにお花がやはり御高僧頭巾を被って包みを持って立っていた。
 五百両を女一人で持つのは無理なので、お里の使用人の振りをしたお花も包みを持っているのだ。
 大金に見せる為に石が詰め込まれていた。だから、かなり重そうだった。しかし、重いからと言って足下に置いたら怪しまれてしまう。

 吉次はなかなか現れなかった。
 九つ、と約束した場合、八つになるまでに来ればいいらしい。
 一刻(いっこく)と言えば約二時間だ。大雑把過ぎるような気がしたが、この時代、理不尽なことはいくらでもある。

 例えば時間だ。
 明け六つから五つ四つと来て次が九つだ。そこからまた一つずつ減っていって暮れ六つになる。
 明け方から夕暮れまでを六等分するなら何故一つから六つまでにしないのか。
 これのおかげで時間を覚えるのに随分かかった。

 どれくらい待っただろうか。
「来やした!」
 太一が小声で言った。
 見ると、着物を尻っぱしょりした男が、懐手(ふところで)をして近付いてくるところだった。
 あんまりいい男だと思えないのは、お里がのぼせ上がっていて実際より良く見えたのか、江戸時代のいい男の基準が現代とは違うのか、どちらかだろう。
 吉次は一人ではなかった。
 後ろから三、四人の男がついてくる。
 吉次がいつものお里と違う様子に違和感を覚えて立ち止まったところで、夕輝は隠れていた木陰から出た。

「なんだ手前ぇ! お前ぇも里じゃねぇな!」
 その言葉を合図に、平助達が一斉に出てきて吉次達を取り囲んだ。
「お花さん、お唯ちゃん、もういいですよ。怪我しないように離れてて下さい」
 夕輝はお唯の前に出て言った。
「くそ!」
 吉次の仲間達が匕首で平助達に突っ込んでいった。
 平助達が十手を出して男達と戦い始めた。
 吉次は一番弱そうな太一に向かって走り出した。
 夕輝は素早く吉次の前に立ちふさがった。
「野郎!」
 吉次は懐に呑んでいた匕首を出した。それを腰だめにして突っ込んでくる。
 体を開いてよけると吉次は匕首を横に振り払った。
 それを後ろに跳んでよけた。
 吉次はそのまま夕輝の横を通り過ぎた。
 そこへ太一が脇から飛びついた。

「放せ!」
 太一と吉次が揉み合ってるところに、平助がやってきて素早く縄をかけた。
 夕輝は、後ろ手に縛られた吉次の懐を探った。
 紙のような手応えがあった。
 それを引っ張り出す。
「あ! 返せ!」
 吉次がもがいたが、平助に押さえられていて動けなかった。
 夕輝は畳まれていた紙を広げた。
 紙には黒い鳥が沢山書かれていた。
 そこに字が書いてある。

 …………読めない。

 紙を平助に渡した。
「これですよね?」
 平助は紙に目を落とすと、
「間違ぇねぇな。お里って娘に返してやんな」
 と言って夕輝に渡した。
 夕輝はそれを懐に入れると、吉次に向き直った。
「お前、ホントに最初から金目当てだったのか?」
「たりめぇだろ」
 吉次が夕輝を睨み付けて答えた。

 夕輝はお花とお唯を長屋まで送っていってから、借りた着物と起請文を持ってお里の店に向かった。
 表から行っては迷惑だろうと考え、裏に回った。

 ちょうど裏口のそばにある台所にお米がいたので渡して帰ろうとすると、
「お嬢さまが上がっていただくようにと申してましたので」
 と言って夕輝を中へ案内した。

 中は峰湯とも、お花の長屋とも違っていた。
 通されたのは、どうやら客をあげる部屋らしい。

 まぁ、女の子の部屋に男を案内するわけにはいかないしな。

 お米がお茶を運んできてしばらくするとお里がやってきた。
「これで間違いないかな」
 夕輝が起請文を見せると、お里はひったくるようにして受け取り、中身を改めるとそれを細かく破った。
「有難うございました。お礼は何がいいですか?」
「いいよ、俺は大したことしてないし」
「後で法外な要求をされても困りますから今しておきたいんです」
 お里を助けたのは自分ではない。
 平助や伍助、正吾やお花、お加代、お唯達だ。それと太一。
 自分だけ貰うわけにもいかないし、かといって全員に礼をしろというのも無理だろう。
 少し考えてから、
「……それじゃあ、簪を一つ買ってくれるかな」
 と言った。
「簪……ですか」
「君の身代わりになってくれた子にあげたいんだ」
「ああ」
 お唯を知らないお里は、訳知り顔で頷いた。
 夕輝が恋人にでも渡すと思ったらしい。
 面倒なので説明はしなかった。
「分かりました。後で峰湯に届けさせます」

「これ、私に?」
 お唯は目を見開いて、夕輝から手渡された赤い玉のついた簪を見つめていた。
「代わりをしてくれたお礼だってくれた物だよ」
「ホントに貰っていいんですか?」
「お唯ちゃん、遠慮なく貰っておきなよ」
 お花が言った。
「でも、私だけ貰うなんて……」
「いいからいいから」
「ほら、夕ちゃん、お唯ちゃんにさしてあげなよ」
「え、でも、俺、簪の挿し方なんて知らないから……」
「しょうがないねぇ」
 お花は笑いながらお唯の髪に簪を挿した。
「お唯ちゃん、よく似合ってるよ」
「夕輝さん、有難うございます」
 お唯が頭を下げた。
「いや、俺からじゃないから」
 夕輝は慌てて手を振った。
「それじゃあ、俺、峰湯を手伝わなきゃいけないから」
 夕輝は逃げるようにその場を離れた。
 後ろからお花達の弾けるような笑い声が聞こえた。