うちのクラスの学級委員長、王弟殿下なんですよ~王弟カズンの冒険前夜

 お茶会は学期末テストの結果発表後、各教室の担任教師から明日以降の夏休みの宿題などを受け取り、夏休み期間中の諸注意を確認した後からの開催だ。
 ちょうど昼食の時間前、一時間半ほどの開催となる。

 その後は解散して、生徒たちは一学期最後の昼食を食堂で取るなり、仲の良い生徒や派閥の者同士で街に会食に出たりと様々である。

 場所は、全校生徒が入れる学園内の大講堂で、各学年、各教室ごとに長机をお茶会仕様に設えて行われる。



 今回のお茶会には特別ゲストとして先王ヴァシレウスが臨席する。
 学園長のエルフィンの挨拶や紹介の後で、ヴァシレウスが式辞として話し始めて少し経った頃。

 3年C組の生徒たちが座る席の辺りが騒がしくなった。

 後から大講堂に入ってきた生徒たちがいた。ジオライドとその取り巻きたちだ。
 ジオライドは既に着席していた三年C組の席のイザベラの元へ向かう。

 だがイザベラが相手をせず無視し続けると、我慢できなくなったようで顔を真っ赤に怒らせて彼女を怒鳴りつけた。

 周囲の生徒たちが手を上げようとするジオライドを必死で押し留めている。その中には、イザベラの護衛を任されていた伯爵令嬢たち、それにカズンの友人のライルもいた。

「話があるなら後でにしろ! 今は不味いって、おいジオライド!」

 ライルが可能な限り声を潜めてジオライドを席に着くよう促すが、腕を振り払われてしまっている。

「やはり、貴様のような卑しい生まれの女とは婚約破棄だ! いいか、もはや貴様が何を言おうと覆さないからな!」

 大講堂内に一際大きくジオライドの声が響いた。

 しん、と空気が瞬時に凍る。



「彼、すごいね。こんな大勢の前でわざわざ婚約破棄するなんて」

 転校してきたばかりで、学級委員長のカズンの隣の席だったイマージが、興味深そうに感心している。

「この国の貴族って、あんな感じなの?」
「……他国人の君に誤解しないで欲しいのだが、あれは我が国でも例外中の例外だ」

 小さな声で他愛ない会話をしつつも、カズンは冷静に3年C組を見ていた。

「先王陛下のお言葉の最中に騒ぐなんて、不敬の極みですけど。あ、ほらヴァシレウス様があっち見てますね」
「本当だ……くそ、仕方がない」

 ヨシュアが言う通り、ばっちりヴァシレウスの視線が問題の生徒たちに向いている。

 隣の3年B組にいるユーグレンと目が合った。軽く顎で『お前がやれ』と促されて、はあ、と大きな溜め息をつきながら、カズンは黒縁眼鏡のブリッジを中指で押し上げながら立ち上がった。

 大きく息を吸い、

「おい! そこ、3年C組の生徒! 先王陛下のお言葉を阻害するとは何事か! これ以上騒ぐようなら退場せよ!」

 広い大講堂で、カズンの凛とした声は全体によく通った。
 生徒や教師たちの視線が一気に、3年A組のカズンと、3年C組付近で立っているジオライドに向く。

 ジオライドは勢いよく振り返って声の主を見たが、立ち上がっていた生徒が黒髪黒目の持ち主と知り、渋々ではあったが着席した。

 現在、学園で黒目黒髪の生徒はユーグレン王子と王弟カズン、二人しかいない。
 眼鏡をかけている方は王弟だとすぐわかっただろう。分が悪いと判断したようだ。



「………………」

 しばし、何とも具合の悪い空気が大講堂内に流れる。
 少しの間を取った後、再びヴァシレウスが話を再開した。
 既に挨拶は済ませてあったため、話の主題は今年の王家の活動についてだ。

「今年、我がアケロニア王家からは大きな発表を予定している。……うむ、情報の早い者は既に見当が付いているだろう。そう、今年は女傑イザベラ・トークス子爵夫人の没後五十年にあたる節目の年である」

 トークス子爵夫人、と聞いて、着席したばかりのジオライドが顔を上げた。

「おや。彼、気づきますかね」
「気づいてどうなる」

 ヨシュアが耳元に囁いてきたが、カズンにもこの後の展開は止められない。

「彼女の業績は、この国の国民ならば誰もが知る偉大なものだろう。女傑イザベラの活躍によって、我が国に蔓延っていた違法な奴隷売買と、過度に他者を虐げる身分差別は撤廃された。私は彼女の勇気に感銘を受け、やや時間はかかったが在位中に平民の参政権を認め、官僚への門戸を開いた。この学園も以前は貴族しか入学できなかったが、今は半数以上が平民層の生徒となっている」

 拍手が鳴る。平民への参政権付与はヴァシレウスの業績の中でも、一際大きなものの一つだ。

 ジオライドはもちろん、女傑イザベラが、自分の婚約者トークス子爵令嬢イザベラの曾祖母であることを知っている。彼の方を見ると、何とも面白くないと言わんばかりに、整っているはずの顔を歪めていた。



「今年、王家は女傑イザベラの名誉を回復する決定を下した」

 そこで、ヴァシレウスは一度、言葉を切った。
 どういうことなのかと、静かにヴァシレウスの発言を見守る教師や生徒たち。

「女傑イザベラの伝記にもあるように、彼女は貧民層出身とされている。それが苦労の末に成り上がり、最終的に当時のトークス子爵に見初められ子爵夫人となったと。……だが、それは事実に少し足りないものがある」

 生徒も教師も、息を呑んでヴァシレウスの次の言葉を待つ。
 女傑イザベラの生涯が書かれた伝記本は、庶民なら子供の頃から絵本の読み聞かせで親から教えられるし、貴族家の子息子女は教養の一環として学習資料の一部に必ず入っている。
 本来なら、トークス子爵令嬢イザベラと婚約したジオライドも、大雑把にでも目を通しているはずなのだが。

「女傑イザベラは、我、先代国王ヴァシレウスの父である先々代国王と、馬屋番の娘との間に生まれた庶子である。……そう、私の異母姉にあたる」

 以降、淡々と女傑イザベラの真の経歴が語られる。
 馬屋番の娘は、先々王の幼馴染みだったという。
 彼女の父親は当時の騎士爵を持っていた人物で、現役時代は王立騎士団の一隊長の地位にあった人物と判明している。馬の扱いに長けていたため、引退後は自ら望んで馬屋番となっていた。
 更に詳しく出自を確認すると、子爵家の四男で貴族家出身だった。

 馬屋番の娘自身、先々王の馬の手入れを担当しており、その縁で子供の頃から先々王と親しく、やがて年頃になって懇ろになった。

 馬屋番の娘が先々王の子を身籠ったとき、既に父親は亡くなっており、身近に頼れる者もいなかった彼女は出奔し、王都から離れたトークス子爵領の救護院で娘を産んだ。それが後に女傑イザベラとして知られる女性である。

 実母はその後、イザベラの物心付く頃までは存命だったが病死し、イザベラは教会に預けられて少女時代まで育つ。
 その教会もやがて困窮によって閉鎖され、その後数年間、イザベラは商店などで住み込みの下働きをしながら暮らしていたらしい。

「女傑イザベラが最初に知られるようになったのは、スラムなど貧民窟の救済だった。このエピソードが原因で、彼女が貧民層出身という誤解が生まれたものと思われる。彼女の救済策をもとにして、現在では国内各地で衛生向上の恩恵を受けているというのにな」

 生徒たちの幾人もが大きく頷いている。
 女傑イザベラが残した活動記録とそれを元に編纂された伝記には、弱者救済のヒントが溢れている。
 今でも慈善活動を行う貴族婦人の中には愛読書として座右の書にしている者が多いと言われる所以である。



「私は、先々王だった父の晩年に本人から直接、女傑イザベラに関する調査資料とともに本件を託された。当時は私もまだ血気盛んな若造だったので、親の醜聞の後始末に憤ったものだったが……『初恋の女との間の子だ、頼む』と頭を下げられてしまっては、否とも言えぬ」

 イザベラは先々王が正妃と婚姻を結ぶ前の娘である。
 というより、先々王が馬屋番の娘と結ばれたのは互いに十代半ばほどのときで、互いにまだ子供といって許される年齢の頃だったらしい。
 そういう事情もあって、ヴァシレウスは父王の一番最後に産まれた王子だったこともあり、父がまだ成人前に産まれたイザベラとは大きく年が離れている。

 それから数度面会し、イザベラが亡くなるまでの間に交わした手紙は数知れず。
 本人の意向により、イザベラが王家の血を引くことは、ヴァシレウスと女傑イザベラの婚家トークス子爵家以外には秘したままとされた。

「だが、高齢の私の天寿も間もなくであろうし、女傑イザベラ没後50年のこの節目を逃せば真実を知らしめる機会はそうそう無くなる。王家はトークス子爵家と話し合いを重ねた結果、真実を公表することとした」

 彼女の名誉の回復と、それに伴い嫁ぎ先であり彼女を通して王家の血を受け継ぐトークス子爵家を伯爵位に陞爵することとなった。
 この件は後日、国内の新聞各社を通して公式に発表すると言って、ヴァシレウスは話に一区切りつけた。

「さて、現在、この学園には女傑イザベラの直系子孫にあたるご令嬢が学ばれている。同じ名前のイザベラ・トークス子爵令嬢だ。……何やらこの茶会の前に気の毒な出来事に遭ったようだが……」

 ヴァシレウスの視線が、先ほど騒ぎを起こしていた3年C組へ向く。
 カズンたち事情を知る者は皆、ジオライドに注目していた。当の本人は血の気を失って全身を硬直させている。

「ラーフ公爵令息ジオライド」
「は、ハイィッ」

 ヴァシレウスに名指しされたジオライドは、声を上擦らせて返事と同時に勢いよく立ち上がった。

「わあ、ヴァシレウス様直々の断罪かな? 贅沢ですねえ、カズン様」
「うーん……お父様のことだから、直接詰ることはしないと思うが……どうだろう?」



「君には、王家の血を継ぐ、女傑イザベラの子孫との婚約という幸運が与えられていた。だが先ほど見ていたが、トークス子爵令嬢イザベラとは婚約を破棄したいそうだな。残念だが、王家は承認しよう。私も、異母姉の曾孫には幸せになって欲しいからね」
「あ、ああ、あ……せ、先王陛下、私は、その……ッ」

 ジオライドが必死で言い訳を考えていると、ヴァシレウスの隣に、ラーフ公爵が青ざめた顔色をして現れた。
 大講堂でジオライドが何か問題を起こした場合に備えて控えさせていたのだが、まさか本当に登場させることになるとは、とカズンたちは驚いた。

「ち、父上!?」

 ラーフ公爵が息子に問う。

「ジオライド、我が息子よ。お前がイザベラ嬢を嫌っていることは知っていた。だが彼女は先王陛下の申されるように王族の血を引いている。我が公爵家はどうしても王族と縁戚になりたかった。だからお前たちの不仲を見て見ぬ振りをしていた」
「ち、父上……ですが、ならば何故、イザベラが王族の血筋だと教えてくれなかったのですか! 知っていたなら、俺だって!」
「婚約当初から教えていたはずだ。イザベラ嬢には高貴な血が流れている、その血を公爵家に取り入れるための婚姻だ、と」

 しかし、イザベラの祖先の女傑イザベラが貧民層出身者だというインパクトばかり覚えていたジオライドは、父親からの説明を右から左に聞き流していたようだ。

 またジオライドを溺愛する母親が、常にイザベラを『賎民の子孫』と侮蔑して事あるごとに嫌悪する態度を見せていたこともある。

「どうしても性格が合わず、夫婦となることに困難を覚えるというのなら、お前は独断で婚約破棄などせず、まずは父親である私に相談するべきだった。違うか?」
「そ、それは……」
「ましてや、このように大勢の前でイザベラ嬢に恥をかかせる必要はなかったはずだ」
「………………」

 ぐうの音も出ないほどの正論だった。

「彼、お父上は案外まともなんだね。息子の教育は間違っちゃったみたいだけど」
「……それ以上言ってやるな、イマージ」
「はは、皆同じこと思ってるんじゃない?」

 クラスメイトたちも頷いている。



 とそこへイザベラの父、トークス子爵も登場した。
 先ほど紹介された女傑イザベラのトークス子爵家当主だと簡単に自己紹介してから、子爵はジオライドの方向へ向き直った。

「ジオライド君。イザベラとの婚約破棄は承諾しよう。だが、一言だけ言わせてほしい。……イザベラを好きになれなかったことは仕方ない。政略結婚だしね。でも、だからといってどうして我が娘を侮辱していいことになるんだい?」
「そ、それは……」

 公爵家出身のジオライドからしたら、子爵令嬢のイザベラは遙かに格下の取るに足らない存在だった。

 だが、トークス子爵家が陞爵して伯爵家となると、その差は大きく狭まる。
 公爵令息といえど、伯爵令嬢を侮辱し虐げていたとなれば、貴族社会の見る目は非常に厳しいものになってくる。

「娘の純潔を奪い、婚約は破棄しても違法な隷属の魔導具で縛り、取り巻きたちと弄ぶ玩具として飼い殺しにする予定だったそうだね。なぜ、そのようなおぞましいことが許されると思ったんだい? 私に教えてくれないか」

 すべて筒抜けになっている。
 もはやジオライドは弁明もできなかった。

 会場の生徒や教師たちの視線が突き刺さる。繊細な令嬢たちの中にはあまりのことに気を失いかけている者もいる。

 そして傲慢な貴族主義のジオライドは理解していなかったが、ジオライドがイザベラにしようとしていたことは、たとえ平民相手であっても重罪となり、厳罰に処される卑劣で俗悪な行為だった。

(……隷属の魔導具、か。またロットハーナ絡みでないといいのだが)

 カズンの小さな呟きを、隣の席にいたイマージの耳は拾った。
 だが特にそれ以上の反応はせずに、壇上にまた視線を戻した。



「ヴァシレウス大王陛下の異母姉、女傑イザベラの流れを組む我がトークス子爵家は、君とラーフ公爵家とは縁がなかった。婚約破棄は君の有責で処理させてもらう。慰謝料と、娘と我が家への名誉毀損、性的暴行未遂罪への賠償請求は後日」

 終わったな、と会場内で誰かが呟いた。
 ジオライドが? それともラーフ公爵や公爵家が?



「貴族主義も悪くはないが、追求し過ぎると自滅する。だから頭の良い者たちの中に純血主義を掲げる者はいない」
「は?」

 ヴァシレウスの言葉に、意味がわからないとジオライドが間抜けな声をあげた。
 そんなジオライドを憐れむように見つめて、ヴァシレウスは先を続けた。

「王族も貴族もな、家を繋ぐために様々な外部の血を入れて生き残ってきているわけだ。その中に貴族の血しかないなどと、有り得るわけがない」
「し、しかし先王陛下! 我がラーフ公爵家の系図には、私に至るまで本家の直系血族には由緒正しき者しか書かれておりません!」

 必死に言い募るジオライドに、溜め息をつくヴァシレウス。
 そして職員席に座っていた学園長のエルフィンを見た。
 エルフィンは頷いて席を立ち、ヴァシレウスの傍らに立った。

「完璧な“人物鑑定”スキルの持ち主が見れば、その者の血に連なる系譜が判明する。そこまで言うなら、学園長であるライノール伯爵の人物鑑定を受けるが良い」
「お、お待ち下さい先王陛下! それだけはご容赦を!」

 ラーフ公爵が非難の声を挙げるも、愚かな息子ジオライドは胸を張った。

「良いでしょう、受けて立ちます。私には貴き血しか流れていないことが判明するでしょうから!」



 悲しげな表情で、エルフィン学園長は人物鑑定スキルを発動させた。
 彼の人物鑑定スキルのランクは“特級”のスペシャルランクだ。少なくとも父母それぞれ十代は遡って人物と出自の経歴を明らかにできる。
 種族として魔力量の多いエルフ族の血を引く彼らしい、極めて高度な人物鑑定スキルだった。

「父方の男系からいきましょうか。……父親は先代ラーフ公爵と娼婦との庶子を養子縁組した者」
「は?」

 会場の視線が一斉にラーフ公爵に向かう。もちろんジオライドも。
 居た堪れないようで、公爵は唇を噛み締めて屈辱に耐えた。

(えっと……あれ、のっけから終わってる……よね? カズン君)
(いや、まあ……うむ、僕もまさかいきなり終了とは思わなかった)

 思わずずり落ちた眼鏡を、慌てて押し上げる。
 物腰穏やかなイマージも呆気に取られている。

「祖父はラーフ公爵と他国の伯爵令嬢との子。伯爵令嬢の母は奴隷の楽士」
「な、ななな……ッ」
「曾祖父はラーフ公爵と、当時のマイノ子爵夫人との不義の子。四代前は……」

 ひとまず五代前まで見た時点で、次に母方の女系を鑑定する。

「母はフォーセット侯爵と分家伯爵家次女との子」

 筋目正しき貴族令嬢だ。
 だが安堵できたのはそこまでで、祖父母の代まで遡ると、不倫による不義の子、使用人との子、また兄妹間や父娘間の近親相姦の子まで判明し、会場は騒然となった。

「ば、馬鹿な……この私の身体に、娼婦や奴隷、貴族ですらない使用人や近親相姦で産まれた者の血まで入っているというのか……?」

 床に両手両足をついて項垂れるジオライド。
 反面、学園生の半分近くを占める貴族階級の者たちの視線は冷ややかだった。
 何を当然のことを、という目だ。

「この国の王侯貴族は、子孫に魔力を継がせたいから、婚姻関係にはとても気を遣うわ。でもね、そういつもいつも上手くいくわけじゃないでしょ? 王族や貴族以外の血が混ざることなんて、普通にあることよ。ただ外聞が悪いからあまり表立って言わないだけで」

 それに、貴族間だけで婚姻を繰り返すと、近親婚による弊害も出てくる。
 だから適度に当主や夫人が不貞を犯して外部の血を取り入れるのも、貴族社会ではある程度までなら黙認されているところがある。



 ゲストの先王ヴァシレウスだけでなく、全校生徒と全教員たちも事態を見守っていた。
 これだけの衆目の前で醜態をさらしたジオライドは、もはや貴族社会では生きて行けまい。

「い、イザベラ!」

 最後の手とばかりに元婚約者の名を叫んだ。
 だが、呼ばれたイザベラは落ち着いた表情で、静かに告げる。

「もう、何もかも遅いのです。何一つ取り返しがつくものはありません。さようなら、ラーフ公爵令息様」

 ジオライドの名前すら口にしなかった。

 ユーグレン王子が学園の衛兵に、ジオライドを拘束させ大講堂から連れ出すよう指示を出した。

 本人は何の疑問も抱いていなかったようだが、先王ヴァシレウスの式辞を許可なく遮断したことは、王族への重大な不敬となる。

 私的な場では気さくで多少の無礼なら笑って流すヴァシレウスだが、ここには公人として参加しているのだ。貴族の一員として侵してはならない一線を超えてしまっている。

 イザベラに対する問題行動については、また別件で取調べられることになるだろう。



 トークス子爵令嬢イザベラを虐げるラーフ公爵令息ジオライドの悪虐は、こうして幕を閉じた。

 カズンが、父の先王ヴァシレウスも巻き込んでイザベラとジオライドの問題に関わる傍ら。

 その母セシリアは、息子や夫たちを見守りながらも協力は間接的なものに留めて、いつも通り女大公としての社交に精を出していた。

 結果として、昼間の茶会などで「うちの息子から聞いたのだけどね……」とさりげなさを装って、貴族社会へ幼稚なラーフ公爵令息ジオライドの問題行動を広めるのに一役買った。



 後日、夏休みに入ったばかりの頃、護衛のヨシュアと一緒にブルー商会を覗きに行ってみると。

 すぐ建物の上階から、後輩で友人のブルー男爵令息グレンが降りて来た。
 ピンクブロンドの髪の美少女顔美少年グレンは、水色の瞳を輝かせてこんな報告をしてくれた。

「カズン先輩のお母様の紹介で、うちの商会で取り扱ってる口内清浄剤、爆売れです。毎度どうも!」

 息子カズンから、ヨシュアやユーグレンとそれぞれ使っている口内清浄剤をプレゼントし合ったと聞いたセシリアは、しきりに「可愛らしいわ、ロマンチックだわ、今どきの子たちはそういう遊びをするのね!」と繰り返し話題に持ち出しては喜んでいた。
 そのセシリアが、息子たち三人でのやり取りを、どうやら茶会や夜会といった社交の場で暴露してしまったらしい。

「ウフフ。カズン様たち、今日のお口の中は何味だったんです? ミント? 薔薇? アニスー?」

 商会の受付にいた、グレンとよく似た妹カレンにもニヤニヤと笑われて、何とも恥ずかしい思いをしたカズンとヨシュアである。

 何でそういう揶揄い方をするかな!
 ちょっと身内と遊んでいただけなのに。



 当然、帰宅するなりカズンは母親に抗議した。

「お母様? 何をやって下さったので?」
「やだあ、あたくしの可愛いショコラちゃんったら怖い顔!」


『あたくしの可愛い息子がね、こぉんな可愛らしい遊びをしてたのよお』


 と言って、それはもう事細かに息子から聞いたエピソードを披露してくれたらしい。
 当然ながら貴族社会は狭い世界なので、この話題はあっという間に知れ渡ったことだろう。
 カズンたちが三人、とても仲が良くなったという事実とともに。

 ちなみに、国内で生産されている口内清浄剤なら、どこの商会の販売店にも卸されていて店頭で購入できる。
 セシリアは社交の場で、カズンの友人であるブルー男爵家の兄妹がいるブルー商会の話も併せて話していた。
 それを聞いた貴族夫人たちや令嬢たちがこぞって翌日以降、ブルー商会に問い合わせをした結果、爆売れに繋がったということだった。

 カズンが使っているスペアミント、ユーグレン王子愛用のアニス、そしてリースト伯爵ヨシュアの薔薇。
 すべて完売して、次回以降の大量注文の予約まで殺到したそうである。
 一つ一つは廉価なものだが、まとまった数が出るとなかなかの売上になる。

「んっふふふふ、あたくしの可愛いショコラちゃんお気に入りのミントが一番売れたんですって?」
「ええ、単品ではスペアミントが。でもオレたち三人が使ってるもののセットのほうが売れたみたいですね」

 と補足するヨシュア。
 むしろ話を聞いたブルー商会が積極的にセット販売を推奨したらしい。

 カズンの父母はステータスの魔力値が高いので口内清浄剤は使わず、口内の清潔は自分で清浄魔術を使うことで保っていた。
 それでも、カズンたちの話を聞いて興味が出たようで、一通り試してみたくなったということのようだ。



 そんな母親からの暴露が判明した翌日の朝。

 カズンが食後のまだ涼しい時間帯のうちにテラスに出て学園からの宿題に取り掛かっていたところ、セシリアに呼ばれてお使いを頼まれた。

「あのね、グレン君のおうちの商会に口内清浄剤のセットを注文してあるの。受け取りに行ってくれるかしら?」

 ここで、うちは大貴族なのだから商会からこちらへ来させれば良い、などと無粋なことは、カズンはもちろん言わなかった。

「喜んで、お母様。他に何か御入用のものはありますか?」
「今晩はブルー男爵家の生チーズ入りのサラダが食べたいわねえ」
「了解です、では冷却魔導瓶を持参して行って来ますね」

 セシリアの傍らに控えていた執事から、手提げ袋に入った冷却魔導瓶を受け取る。
 それとは別に、布の巾着に入った貨幣も渡される。中身を確認すると、大金貨2枚(約40万円)と小金貨3枚(約3万円)が入っている。

「お釣りはお小遣いでいいわよ。ヨシュアとのデートに使うといいわ」
「デートって。もう、お母様ったら」

 お使い名目で、小遣いを渡すほうがメインなのだろう。
 ヨシュアに連絡を入れると、護衛として当然付いていくと返答が返って来たので、午前中のうちにブルー商会まで向かうことにした。



 ヨシュアと合流したカズンが同じ馬車でブルー男爵家の商会を訪ねると、今日いたのは受付のカレンだけで、グレンは朝からライルと出かけているらしい。

 代わりに、そこに意外な人物の姿があった。
 トークス子爵令嬢イザベラ。
 まもなく伯爵令嬢となる彼女が、商会の受付を手伝っているブルー男爵令嬢カレンと親しげに談笑している。

「イザベラ先輩とはお友達なんです。ロマンス小説の愛好家仲間ですね」
「ねー」

 ちなみに、カレンとは違って特に腐ってはいないらしい。理解はあるらしいが。

「ブルー商会へ、防犯系の魔導具を探しに来たのが縁で親しくなったんです。ほら、例の彼の件もありましたから、身を守るために」

 と言うイザベラは、学園で見ていたような野暮ったさはなく、三つ編みも解かれて豊かに波打つ暗い茶髪はよく練られたビターチョコレートの如く艶やかだった。
 外出着の赤いワンピースがよく似合っている。

 そして、眉を整え丁寧な化粧を施した顔は、なかなか気の強そうな美人だった。
 学園でのときのような地味で大人しい印象が消え、強気な性格がよく表れている。
 ただし、ややぽっちゃり体型なのは変わらなかったが。

「イザベラ先輩、元婚約者が大嫌いだから、彼と会う学園では絶対お洒落しないって決めてたんですって。もう婚約解消されたからこれからはやりたい放題!」
「本当よね、ストレスでやけ食いして太っちゃったし、この夏に頑張って痩せるわ!」

 年頃の女子同士、盛り上がっている。

 対して、カズンとヨシュアはイザベラの変貌ぶりに驚いていた。
 というよりその顔立ちに。

「ぐ、グレイシア様そっくりじゃないか」
「ええ、これは夏休み明け、学園で大騒ぎになりそうですね」

 グレイシアは、ユーグレン王子の母親で次期国王となる王太女にあたる王族女性だ。カズンにとっては年上の姪にあたる。

 これでイザベラの髪色が暗い茶色でなく黒色だったら、実の娘と言われても通るくらいよく似ていた。

 ラーフ公爵令息ジオライドによる、トークス子爵令嬢イザベラへの侮辱行為、暴力行為、性的暴行未遂への処罰は、至極あっさりしたものだった。
 詳細を聞いた関係者一同は皆、拍子抜けしてしまったほどだ。

 まず、ジオライド本人は三ヶ月の学園の停学処分。その間は領地の本邸での謹慎となる。この期間中、登校や学園の敷地内への立ち入りは禁じられる。
 復学後は現在の3年C組から、成績劣等者のためのフォロークラスであるE組に移動することとされた。
 停学明けも本人が学園に通うかはまだわからない。だが、これまでのイザベラへの低俗な絡みを考慮して、一からマナー講師が徹底的に紳士教育をし直すと張り切っているそうだ。

 元々、ラーフ公爵家は領内での投資が功を奏して、納税額が三年連続で国内一位を記録し、良好な領地運営を表彰される予定だった。

 同じ今年、女傑イザベラが先王ヴァシレウスの異母姉であったとの発表と併せて、その子孫である“王族の新たな親戚”となるトークス子爵家の令嬢イザベラと、令息ジオライドとの婚姻を王家側から打診していた。

 今回、ジオライドがそれをぶち壊したことで、王家の面子は丸潰れとなってしまった。
 王命による婚約を、一子息が許可なく勝手に破棄したことへの処罰をどうするか。

 そこへ王太女グレイシアの鶴の一声が。


『今どき、政略結婚も流行らぬということだ。相手が嫌いで婚約破棄したいというなら、望み通りにしてやろう。ただし……』


 今回のイザベラとジオライドの婚約を提案したのは、王太女だった。
 彼女は潰された己の面子について、このような手段で意趣返しした。

 ジオライドが、婚約者だったイザベラに何をしたか。
 その発言や行動に至るまですべてを、最初から最後まで克明に記録した調査結果として、国内の主要新聞社各社に掲載させたのだ。
 もちろん、学園の一学期末のお茶会で、本人が起こした騒ぎも含めてだ。
 この社会的制裁が妥当か否かは、人によって判断が分かれるだろう。

 更に、ラーフ公爵家に対しては、今回の件では息子ジオライドの廃嫡や家からの除籍を認めなかった。
 父親のラーフ公爵には、息子の再教育を念入りに行えと、厳重注意がなされるに止まった。



「……まあ、まだ学園生で未成年だからな。親の教育が悪かったという落とし所に持っていったのは、上手いやり方だ」

 直接的な被害としては、イザベラが顔や腕を叩かれたり、暴言を吐かれているが、やはり成人前で学園内の出来事というのが本人を守ることになったようだ。
 これに関しては学園長のエルフィンも積極的に処罰の軽減をと働きかけている。

「……ジオライドのステータス幸運値は7だったそうですね。上手く周りが動いてくれたということでしょう」

 幸運値1のヨシュアが、彼らしくなく、憎らしげに呟いた。



 ブルー商会のサロンに移動し、紅茶を入れてもらってイザベラ、カレンと情報交換をすることにした。

「で、ジオライドはまだラーフ公爵令息のままで、次期公爵になるのも変わらないままというわけだ」
「あんまりスカッとしない終わり方でしたねえ。イザベラ先輩、相当酷い目に遭ってたんでしょ?」

 カズンたちの視線がイザベラに向く。
 イザベラは苦笑して、紅茶のカップをソーサーに置いた。

「私への暴力については、慰謝料をたんまりせしめたので、それで終わりです。学園でのことでしたから、周囲の目撃も多かったですし、手を上げられるたび詳細を記録していたので」

 “たんまり”の部分に殊更、力を込めてのコメントだった。

「本人からは結局、一切謝罪されませんでしたけどね。ですがラーフ公爵様からは何度も謝罪の言葉と頭を下げていただきました。ですから慰謝料の支払い契約書の締結をもって、我が家はラーフ公爵家とジオライドとの示談に応じました」

 それだけではない。
 ジオライドへの処罰の軽減を、イザベラとその父トークス子爵は関係各所に嘆願していた。
 トークス子爵家からは、ジオライドとラーフ公爵家を裁判で司法に訴えることもしなかったのだ。

「なるほど、ジオライドを完全に破滅させることより、大きな貸しを作ることを選んだんですね」

 この展開は多少予測していたと、ヨシュアが頷く。
 勧善懲悪的な処罰は、関係者たちに爽快感をもたらすかもしれないが、効果は一時的だ。
 ましてやラーフ家はアケロニアに数少ない公爵家、大貴族のひとつだった。そう容易く潰せるものではない。



「災害で半ば壊滅状態だった我が領地をラーフ公爵様が支援して下さったことで、本当に助かったのです。その御恩を考えれば、ラーフ公爵令息の暴挙は耐えねばならないものでした」

 というより、むしろイザベラが懸念していたのは、自分の身の貞操よりもジオライドが彼女の実家のトークス子爵領へ来ることだったという。

「彼が間違っても、我がトークス子爵家や領地へ訪問しないようにするのが、私の役目でした。だから、私は彼とだけは仲良くなるわけにはいかなかった」

 アケロニア王族の血を引くイザベラは、固有スキルの人物鑑定スキルを持っていた。
 ランクは中級。特級ほどではないが、中級になるとステータスとして、本人の情報だけでなく、父母の名前や出自まで読み取れる。

「先日のお茶会で、学園長が彼のステータスを鑑定したとき。系譜を読み取るのに彼本人を抜かして、父君のラーフ公爵から読み上げていったこと、気づいてました?」

 と言われてカズンたちは当時のことを思い返してみる。
 エルフィン学園長の低い美声を思い出す。


『父方の男系からいきましょうか。……父親は先代ラーフ公爵と娼婦との庶子を養子縁組した者』


「確かに、ジオライド自身の出自は言ってませんでしたね」
「彼、実はラーフ公爵の実子ではないんです。母親の不義の子なんですよ。学園長、咄嗟の判断であの場で事実を言わないよう避けたみたい。さすがだわ」
「は?」

 また新たな情報が出てきた。



「ジオライドの母親はフォーセット侯爵令嬢ですね。彼女が不倫してできた子供です。幸い、本人は母親似なので。だけど、問題はそこじゃないんです」

 ここからが問題なのだが、と前置きしてイザベラが言う。

「ラーフ公爵令息の母親の実家、フォーセット侯爵家というのが実は、隠れて過去に国内で違法な奴隷売買を行なっていた家でして。調べたら、不倫相手も同じなんです」
「………………」
「その息子が私と婚約していることを、うちの領民たちに知られるわけにはいかなかった」

 最も多くの人間が攫われ、奴隷として国外に売られていったのが、トークス子爵領なのだという。
 過去、トークス子爵領で生まれ育った女傑イザベラが蜂起したのも必然だった。

「その事実が判明したのが、婚約後だったもので。でもトークス子爵家としては、かつて自領の民を苦しめた家の血を引く者と婚姻関係を結ぶわけにはいかない」
「けれど災害被害からなかなか抜け出せなかったトークス子爵領にとって、ジオライドとの婚約で得られた支援金は逃せなかった。そういうわけか」
「その通り。……とてつもないジレンマでした」



 そしてイザベラはジオライドとの婚約時、その母親ゾエからこれみよがしに面と向かってこう言われたのだ。


『まあ。奴隷解放で有名な女傑イザベラの末裔の娘が、我が息子のお嫁さん(どれい)となって下さるなんて。誠に面白いこと』


 ジオライドの母親は、息子の婚約者を面と向かって奴隷呼ばわりした。
 イザベラの曾祖母女傑イザベラが、奴隷解放で有名な人物であることと、貧民層出身者として知られていることを重ねて、悪意たっぷりのユーモアで『婚約者=奴隷』と言い換えてきたのだ。

「あの発言を聞いたときから、この婚約は必ず破棄させるつもりでした。トークス子爵家の総意です」

 王家の打診で結ばれた婚約だったから、王族の血を引くとはいえ子爵家側から婚約破棄を申し出ることは容易ではなかった。

「ジオライドが愚か者で助かったんです。平気で人前で私を侮辱して暴力を振るい続けた。証拠も山のように積み上がり続けていて、これを提出すれば王家も婚約破棄を認めざるを得なくなる。……まさか、私に肉体関係を強要するところまで来るとは思いませんでしたけど」

 カズンたちがイザベラの苦境を知った頃には、既に彼女の心も限界に近かった。

「カズン様に助けていただいて、本当に助かりました。王族の方の助力があったからこそ、今の私があります。本当にありがとうございました」

 そう言って、イザベラは深く頭を下げた。



「ジオライドがラーフ公爵の実子ではないこと、公爵は知っていたのでしょうか?」

 貴族家の当主として当然の疑問を、ヨシュアが質問した。

「知らなかったみたいですね。そこは上手く母親の公爵夫人が隠蔽していたようで」
「人物鑑定スキルは、珍しいスキルの一つだからな。特に、出自まで見ることが可能な中級以上となると数も少ない」

 ちなみにカズンとユーグレン王子の人物鑑定スキルのランクは、現在初級である。
 ただしどちらも父母が中級以上のランク保持者なので、二人ともいずれは更にランクが上がるものと思われる。

 さて、では現在のラーフ公爵はジオライドが実子でないことを知ったのか、どうか。

「あのお茶会の後で、私と父、ジオライドと公爵とで、王宮で先王陛下、国王陛下、王太女殿下を交えて話し合いをしました。その場で、お茶会のときジオライドが学園長から受けた人物鑑定の話になって……」

 アケロニア王族はほとんど全員が人物鑑定スキルを持つ。
 カズンやユーグレンはまだ初級だが、ヴァシレウスは上級だし、国王テオドロスと王太女グレイシアは中級持ちである。

「当然、王族の皆様は人物鑑定スキルでジオライドを見たことでしょう」
「はい。その場でジオライドが不義の子であることが露呈して、ラーフ公爵様も夫人の不貞を知りました。国王陛下と王太女殿下も保証済みです。でもまあ、彼は公爵の実子で嫡子であると届け出がなされているので、そこは特に問題ではなかったです」

 問題があったとすれば。

「ジオライドのあの謎の自尊心は折れたでしょうね……」
「ええ、もうバッキバキに叩き折られました。根本からポッキリ。本人はまだ公爵令息のつもりでしょうが、実態は父親の血を一滴も継がない不義の子ですから。その事実からは逃れられません」

 念願だった王族との縁戚の可能性も絶たれ、可愛がっていた息子も自分の種でなかったと知り、ラーフ公爵は失意に沈んだという。
 愚かな息子ではあったが、公爵にとっては可愛い一人息子だったそうだから、尚更だろう。



「えーと、不義の子のまま、ジオライドって人は公爵令息のままでいられるものなんですか?」

 素朴な疑問をカレンが言い出した。

「現段階ではラーフ公爵の嫡男だって、きちんと国の戸籍に登録されてるからね。それに今回の問題で、ラーフ公爵は王家から、嫡男ジオライドの再教育を命じられている」
「そう簡単には、自分の子でないからと言って廃嫡や、除籍もできないと言うことだ」

 ヨシュアの説明に、カズンが補足する。

「何それ! じゃあ浮気されて自分の子でもないジオライドって奴を嫡男にさせられたラーフ公爵様、踏んだり蹴ったりじゃない!」
「いや、まあ……ど正論だな」
「ど正論ですね」
「ど正論……よね」

 やはり外野からはそう見えるわけだ。
 妻が正式な夫以外の男性の種を孕んで出産し、結婚先の家の後継にする行為を托卵という。
 自然界で同じような行動を行う鳥や動物の専門用語をそのまま拝借したものだが、貴族社会でも一般の庶民の間でもまま見られる行為だった。

「ただ、あくまでも“今は”だ。ラーフ公爵はいずれ機を見て夫人を離縁するか、第二夫人を娶るなり、外部に妾を作るなりして新たに子供を作るだろうな」
「それは、ジオライドを跡継ぎから外すため、ですよね?」
「そう。別に自分の子以外を跡継ぎにするのは、貴族社会では珍しいことではない。だが、公爵家に、その血が一滴も入っていない嫡男となれば話は別だ」

 恐らくラーフ公爵は、いずれ夫人の不貞を問題に挙げて、離縁と同時にジオライドが不義の子であることの証拠を揃えた上で、彼を廃嫡することになると思われる。
 王族の人物鑑定スキルでも確認された以上、ラーフ公爵がジオライドを息子として愛していたとしても、どこかの時点で決断せざるを得ないだろう。

「仮に廃嫡されて、離縁された母親の実家に引き取られたとしても、母親は侯爵令嬢だから以降は侯爵家の令息となる。家のランクは落ちるが高位貴族に変わりはない」
「やっぱりスッキリしないなあ。スカッと断罪できないものなんですか?」

 カレンの憤慨は、今回関わった者たちに共通する思いだったが。

「ジオライドを完全に潰して断罪できていたら、イザベラ嬢は無事ではいられなかったことになる。今回の件はこれが限界だ」
「あ。そ、そっか……ですよね……」

 その意味を悟り、カレンもそれ以上は言わなかった。
 イザベラはジオライドから、執拗な性的関係の強要を受けていたのだ。
 もしもジオライドが重い処罰を受けることになっていたら、それはイザベラの純潔が穢されたことと同義だ。



「そういえば、イザベラ嬢はロットハーナの話を聞いたか?」

 今回、ジオライドがイザベラを自分のものにしようと使いかけた隷属の魔導具もロットハーナ由来のものでないか調査中だ。
 かつて奴隷売買に関わっていたジオライドの母親の実家にあったものらしく、彼女が調達して、息子に渡していたものだったらしい。
 曰く、『あの賎民の娘が反抗するようなら使いなさい』と。

 ジオライドの母親の実家であるフォーセット侯爵家には、この隷属魔導具の件で別の調査が入るようだ。

「聞きました。私も王族の血を引く者と言うことで、しばらくはこのまま護衛が付くそうです」

 国内に入っているはずのロットハーナ一族の末裔の行方は、いまだ掴めていない。
 まだしばらく、警戒体制が必要な状況は続きそうだった。

 そろそろブルー商会を辞そうとしたところで、商会の職員がカズンの母からの注文品を持ってきた。
 ひとつは、現在国内で流通している口内清浄剤のタブレットのうち、人気のフレーバーを集めたもので、薄型の四角い宝石箱に詰め替えられたもの。

「なるほど、お母様はこの入れ物を注文していたのだな」

 道理で代金として渡された中に、大金貨という大金が入っていたわけだ。
 中身のタブレットより、外側の宝石箱のほうがお高い。
 セシリアと夫ヴァシレウス用に二つ、更に仲の良い貴族夫人への土産用に十数箱が用意された。



「で、ジャジャーン! こっちは自信作ですよ、超特急で缶からデザインしてみました!」

 出てきた細長い缶のタブレットケースに、カズンもヨシュアも目を瞠った。
 日常使いしている口内洗浄剤の缶ケースを単純に3倍した大きさのそれの、パッケージイラストが問題だった。

「カズン様のお母様から見本にお借りしていた絵姿を参考に、新たな描き下ろしで製作しました! ユーグレン王子×王弟カズン×リースト伯爵、これで更に爆売れ間違いなし!」

 三人が好んで使っている口内洗浄剤タブレットを、縦に並べて三連結した製品を新たに作ったということらしい。

 中央のスペアミント部分のイラストにはカズンの王族としての黒い軍服の正装姿。
 左にはユーグレンの同じく正装姿でアニス。
 右には薔薇のタブレットでヨシュアの、これまた白地にネイビーの差し色のリースト伯爵としての正装姿がイラストで描かれている。

 中身のタブレットを取り出すときは、通常と同じように上へ蓋をスライドすれば良いようになっていた。

「御三方の交際を記念してのスペッシャルエディションってやつですよ! あ、ちゃあんとお母様からの正式発注ですから、不敬とかそういうの勘弁してくださいね?」
「セシリア様、やってくれましたねえ」

 と言いながら、自分用にとりあえず今日持ち帰りたいからと、十箱注文するヨシュア。
 ちなみにカズンの母セシリアはこれを百箱注文していたらしい。いったいどこで誰に配ろうというのか、考えるだけで恐ろしい。

(お母様! お母様! いったい何やってくれてるのですか、息子弄りも大概にしていただきたい……!)

 価格は特別パッケージということで、元の価格より倍以上跳ね上がっている。
 帰りの馬車に載せきれない分は、後ほどアルトレイ女大公家まで配達しに来てくれるらしい。



「口内洗浄剤の有名人パッケージ、流行りそうですよねえ。で、こっちがイザベラ先輩へ」

 カズンの母が注文したものとは別の箱から、カレンはひとつ缶のタブレットケースを取り出してテーブルの上、イザベラに向けて差し出した。
 カズンたちもケースを覗き込む。

「これ……“女傑イザベラ”ですか?」

 タブレットケースは一般的な長方形・薄型のものではなく、楕円形でやや厚みがあるタイプのものだった。
 表面のパッケージには、黒髪黒目の豊かに波打つ髪を棚引かせた、赤い騎士服を身に纏う十代後半の女性の絵姿が描かれている。

「そう。伝記の挿絵や一般的に出回ってる絵姿だと、髪色が茶色なんですよね。でも本当は黒髪を染めてただけだってカズン様のお母様から伺いました。なので修正したバージョンの絵姿です」

 今年、女傑イザベラ没後五十周年で、彼女が先王ヴァシレウスの異母姉であった事実を公表する。
 その際の記念品として、ヴァシレウスの伴侶セシリアが発注したということだった。

「女傑イザベラは……そうですね、セシリア様にとっては義姉になりますものね」

 パッケージの中の女傑イザベラは真正面を向いて、力強く凛とした瞳を輝かせている。
 眉がこの場にいるイザベラよりやや太いことを除けば、彼女とほとんど同じ顔だった。

「これ……いただいちゃってもいいの? カレンちゃん」
「もちろんです。セシリア様からお代は前もって頂戴してますから、じゃんじゃん持って帰っちゃってください。あと千個ほど」
「せん……っ!?」

 突拍子もない数だが、そちらはまた別口で王都のトークス子爵家のタウンハウスへ別配送してくれるという。



「ちなみにですねえ、ガスター菓子店の本店限定で、女傑イザベラ没後五十周年記念の特別セレクションボックスが販売されるそうですよ。女傑イザベラのお母様と先々王の馬小屋でのエピソードにちなんでお馬さんのぬいぐるみ付き!」

 ガスター菓子店はチョコレート菓子で有名な、王都の老舗名店だ。
 毎年、国のイベントに応じてセレクションボックスを販売することで知られている。今年は女傑イザベラにちなんだものになるようだ。

「ボックスの表面に、女傑イザベラの一生を描いた絵画がプリントされるそうです。プレミア付きそう〜」

 ブルー男爵家も予約開始と同時に予約を入れる予定だそうだ。

 浮かれるカレンに笑いながら、イザベラは貰った口内洗浄剤の楕円の缶の蓋を開けた。
 白く丸い粒をその場の全員にシェアし、自分も一粒口に放り込む。
 ふわりと鼻腔にショコラの甘い香りが抜けていく。

「チョコレート風味だわ。珍しいフレーバーね」
「そちらもカズン様のお母様の指定なんです。何でも女傑イザベラの母君と先々王陛下にちなんだものだそうですよ」
「?」

 どうやらイザベラの知らない話だったらしい。
 だが、父ヴァシレウスから話を聞いていたカズンにはすぐピンときた。

「ガスター菓子店は、女傑イザベラの母君と先々王の二人が少年少女だった頃、お忍びで買い物に行った店だったらしいぞ。それにちなんだフレーバーだと思う」
「へえ、デート先にガスター菓子店! あそこお高いのに、さすがセレブってやつですかねえ」

 カレンは感心していたが、まだ即位する前の王子時代の、先々王が少年だった頃の話だ。

「ああ。今と同じで、当時もガスター菓子店は高級店だった。そして当時の王族は自分で金など持ち歩かない」

 王族が小遣いを渡されるようになったのは、ユーグレンの母の王太女の世代からだと聞いている。
 それまでは侍従が常に付き添い、何をどの店で買うか厳密に定められていて、王族に個人的な買い物の自由はなかった。

「というと?」
「店に行ったはいいが、先々王は金を持っていなかった。ショコラの代金はまだ少女だった頃の母君が出したんだ。父親が騎士とはいえとっくに引退した馬屋番の娘の小遣いなどたかが知れている。その少ない小遣いの中から」

 ガスター菓子店で一番安い正規の商品は、銅貨8枚(約800円)で買える、一粒入りの小箱だ。

「だが母君は、銅貨8枚も持っていなかった。それを知った当時の店主でもあった菓子職人が『なら、いくら持っているんだい?』と訊ねて、銅貨3枚と答えた。ならばと店主が出して来たのが、欠けのあるショコラ片2枚だったという」

 本来なら綺麗に正方形に成形するショコラだったが、製作途中で欠けてしまった訳あり商品なら銅貨3枚で良いと言ったらしい。

「二人はその場で、欠けたショコラ片を一枚ずつ美味しそうに食したそうだ。そのときの店主が後に王家へショコラの自信作を献上した際、即位していた先々王から直接、当時のことで礼を賜ったのだそうだ」
「ショコラ片2枚って……」
「ガスター菓子店で一番安いやつ!」

 今の物価なら、銅貨3枚(約300円)なら子供の小遣いでも十分買える。
 高級店のガスター菓子店は敷居の高い店だが、ちょっとだけ背伸びをしたい若い子たちや、上流の味を気軽に堪能したい人々が買っていくのが一番安い『ショコラ片2枚』なのだった。
 日によってはショコラ詰め合わせセットより、このショコラ片のほうが売れる日もあるという。



「あの店にそんなエピソードがあったなんて、初めて知ったわ」

 カレンも友人たちとの街歩きで、小遣い片手にガスター菓子店の一番安いお得なショコラ片2枚を買ったクチだ。

 王族で王弟のカズンも、まだ学生のうちの使える金額は毎月の小遣いの範囲内だ。
 学園の放課後、ガスター菓子店を覗いて箱入りの手頃なセットを買うときもあったが、必ずショコラ片2枚も一緒に買っていた。

「女傑イザベラの真実の公表とともに、ショコラ片2枚も爆売れしそうですよねえ〜」

 そんな話を聞いてしまうと、尚更だ。
 今日この後、商会の受付の手伝いが終わった後で買いに行こうかなとカレンが呟いている。

 ちなみにこの後、ブルー商会を出た後、カズンたちはそのガスター菓子店のレストランへランチに寄る予定だ。
 長らく王都には本店だけの営業だったが、今年に入ってついにファン待望の支店ができた。そちらでは本店よりややリーズナブルに飲食が楽しめる。

 ブルー商会の職員に注文品の精算をしてもらうと、巾着の中には小金貨が5枚以上残っている。ヨシュアとランチを食べて、更に土産にショコラを買うには十分だろう。

「あら、カズン様たちデートですか?」

 わかってるわ、あたしにはわかってますよと言わんばかりにニヤニヤとカレンに揶揄われる。
 隣のイザベラも面白そうな顔をしていた。年頃らしくその手の話には目がないようだ。

「ユーグレン殿下抜きでデートですか? お二人とも」
「一応、ここに来る前に王宮に連絡は入れたが、どうかな。殿下も夏休みに入って忙しいみたいだから」

 数日前から連絡を入れていればユーグレンも都合がついただろうが、何せカズンが母からお使いを頼まれたのが今朝のこと。
 ヨシュアに連絡を入れたのと同時に王宮にも使いを出していたが、カズンたちがブルー商会にいる間に連絡が返ってこないということは無理なのだろう。

 こういうとき、前世の世界で当たり前のようにあった電話やスマホ、メッセージアプリがないのは不便だなと思う。
 一応、通信用の魔導具はあるのだが、緊急時専用で一般には普及していなかった。

「カレン嬢、電話的な魔導具を開発したりはしないのか? あればどれほど便利になることか」
「あー、それはもちろん魔導具師として考えましたけどね。以前試作品を作ってみたんですけど、何ていうんでしょ、変な電磁波みたいなのが出て魔物を誘き寄せちゃうんですよ。通信用魔導具が開発されているのに一般化できない理由は多分そこかなと」

 まだしばらく、連絡の主な手段は手紙や人を介した言伝に頼ることになりそうだった。

(イザベラ嬢を救い、彼女を虐げていたジオライドとの婚約も無事に解消された。これで日々心を占めていたトラブルも解決! 憂いはなくなった!)

 彼女の置かれたあまりの苦境を目の当たりにして胸は痛むわ、つられて魔力まで不安定になるわで散々だったカズンだ。

(しかしもう終わった。夏休みだ! 学生生活最後の夏休み!)

 解放感で心身も爽快だった。
 後は若者らしく弾けるだけである。

 だが、そんな爽快感も夏休みに入って数日たつとだいぶ落ち着いてきて、以前の状態に戻った。
 と思ったら。



「カズン。愛しい我が息子よ。だから言ったではないか、チョコレートの食べ過ぎは良くないぞと」
「違います、お父様! 確かに僕は毎日ショコラを食してましたが、執事がうるさくて一日3粒までしか口に入れておりません!」

 自室の寝台の上にうつ伏せになって、医師の処置を受けながら、父ヴァシレウスからお小言を頂戴してしまった。

 だが解せぬ。以前ユーグレンからせしめたガスター菓子店の中箱ショコラも、先日ヨシュアと買ってきた限定セットもすべて、笑顔の執事に奪われて自室に持ち込むことはかなわなかったではないか。
 一口サイズのショコラ3粒で身体に害が出るなどあり得ない。
 たとえそれが毎日のことだとしても。

「でもニキビが背中にできるって珍しいわねえ。あたくしも少女時代にできたことあるけど、ほっぺたとかだったわ」
「うう……」

 夏休みに入って、宿題をこなしつつのんびり過ごしていたある日。
 背中に鋭い痛みが走り、何事かと服を脱いで侍従に確認してもらうと、大小いくつかの吹き出物ができていた。
 痛みが出たのは、そのうちの一つが服に擦れて潰れてしまったものらしい。

「お年頃の方のニキビは、セシリア様の仰る通り顔に出ることが多いのです。ですが、背中となると……。強いストレスを感じる出来事があると、大人でも背中に出やすいとが言われています。」

 あ、とカズンも両親も当然思い当たることがある。
 イザベラと元婚約者ジオライドの件では関係者すべてにかなりの強い精神的負荷がかかった。

「ほらやっぱり、ショコラのせいじゃなかった!」

 あやうくショコラ禁止令が出るところだった。
 それはカズンにとって、死ねと言われるに等しい宣告だ。泣いてしまう。

「首元やお腰の辺りに少し汗疹も出ていますね。今年は暑いですから、可能なら避暑地でゆっくり過ごされるとよろしいでしょう」

 患部を清潔に保つことの指示と、解毒排毒のハーブティーを処方して、医師は帰っていった。

「確かに今年は暑い。避暑地行きは良い案だ」
「ですが旦那様、今の時期、王都を離れても良いものでしょうか?」

 秋から冬にかけては王都では社交パーティーも増えるから、その準備に追われる。
 自分たちに関していえば、まだロットハーナの件が片付いていない。

「ヴァシレウス様、それでしたら郊外の温泉地なら半日で行けますし、標高も高い場所ですから涼しく過ごせます。手配致しましょうか」
「あら、いいわね! 温泉ならお肌にも良いし、ニキビや汗疹にも効くのではなくて?」

 執事の提案に乗ることにした。

「なら、ヨシュアにも連絡入れないと」

 簡単な事情を手紙に書いて使用人を使いに出すと、夏休み期間中、一度は叔父に任せっぱなしのリースト伯爵領に戻らねばならないとの返事だった。
 だがすぐに王都への帰り道に合流するとのこと。

 家族旅行は往復時間を含めて一週間ほどの予定となった。



 一家の護衛などを手配し、さっそく翌日から避暑地へ向かうことにした。

 夏は暑さで体力が落ちやすい時期だから、社交好きの母セシリアもほとんど予定が入っていない。
 父親ヴァシレウスは念の為、王宮に向けて息子の国王テオドロスに避暑地へ行く許可を得るため確認したようだ。
 年齢を考えれば、温泉のある避暑地での休養はむしろ勧められたそうな。

 そういえば、と行きの馬車の中で父にこんなことを訊かれた。

「カズン。ユーグレンに避暑地へ行くことを連絡したのか?」
「え? してないですよ? 必要があればテオドロスお兄ちゃまが伝えるでしょうし」
「お前たち、派閥問題の解決のために三人でいることにしたんじゃなかったのか?」
「うーん……ユーグレン殿下は僕じゃなくてヨシュアが好きな人ですからね。現地でヨシュアと合流した後も帰るまで短い時間しか一緒にいないでしょうし。あえて連絡する必要はないかと」

 なお、この淡々としたカズンの対応が大間違いだったことは、後に判明する。

 カズンが家族で向かう避暑地は、王都から馬車で休憩数回を挟んで約半日ほどの場所にある、郊外の山麓だ。

 標高が高い地域のため冬はぐっと気温が下がるが、夏は逆に気温が上がりにくく、涼しく過ごしやすい。
 山頂付近に残る雪が雪解け水となって麓の湖となり、一部の地域には温泉が湧き出している。

 アケロニア王国の王都も山や森に囲まれた都市で自然は多いが、やはり人口の少ない山間部は空気が澄んでいる。

 今回、カズンが初めて来た避暑地の別荘は王家のものではなく、ヴァシレウスの私物で建物は平屋の木造建てだった。
 驚いたことに瓦の屋根で、どこか日本の和風建築の趣がある。

 中に入ると木の爽やかで良い香りがした。嗅ぐだけで健康に良さそうな場所だ。

 部屋数は使用人のものを含めて十部屋ほど。敷地は広かったが、大貴族の持ち物にしては建物のサイズが小さめだ。

 その代わり、屋内に大きな浴場が設置されている。
 ヴァシレウスが大病を患ったとき、湯治用に作られた施設ということだった。

 まだ彼がセシリアと出会う前の話だ。数ヶ月単位で滞在していたらしく、建物を見て懐かしそうな目になっている。



 別荘を訪れて、落ち着きかけていたカズンの解放感や爽快感は、逆にいや増した。

 大好きな両親と朝から晩まで一緒ということもあるし、何より温泉が素晴らしい。別荘に湧き出ている温泉は重曹泉で、一度で全身がしっとりすべすべになった。

 朝起きて一番に飲む水が美味い。身体の隅々まで染み渡り、細胞のひとつひとつが喜んでいるかの如くだった。

 そして食事がこの上なく美味い。集落の村長の家から派遣されてくる料理人の腕が良いのもあるし、雪解け水で育った野菜や動物など食材の新鮮さは格別だった。

 特に温泉の源泉近くの熱湯で作る、半熟の温泉卵の濃厚さには愛を囁きたくなったほどだ。

(楽しい。すごく楽しい!)

 毎日、午前中は父と山登りしてそこから見える光景を眺めながら、様々な教えを受けた。

 昼にはまた別荘に戻り、母も一緒に昼食を楽しむ。

 それから午睡を楽しんだり、あるいはまた温泉に浸かったり。

 午後は家の護衛騎士たちに混ざって剣や体術の鍛錬をする。父のヴァシレウスからも色々コツを教わってと、とにかく充実していた。



 そうこうしているうちに、避暑地への滞在もあっという間に残り二日となった。
 最終日の明日には、領地から戻る途中のヨシュアも合流する予定である。

 今日も朝から充実した一日だった。
 明後日には王都へ戻るから、別荘を出て集落の村長らに挨拶したり、土産を物色したりしていた。
 もちろん夏だから外は暑いのだが、標高の高い地域なので朝晩は涼しく快適だった。
 王都の屋敷にいたときとは段違いに空気も良いから、身体も動かしやすい。

 夕食を終え、軽く休んでから父と温泉へ入って、また居間で家族の団欒を過ごして。

 日付が変わる前に眠気が襲ってきて、カズンは両親に就寝の挨拶をしてから自室へ入った。
 異世界風の和風建築の部屋で、床は木の板やタイルでなく畳に似た仕様だ。寝具はそこに厚手の敷き布団を二枚重ねと、夏用の薄手の掛け布団で休む。

 布団の間に潜り込むなり、瞼がとろん、と落ちていく。
 別荘に来てから毎日活発に動いているから、眠りに就くまでは秒の速さだった。

 明日は何をしよう、ヨシュアも来るからまた何かこの地の名産品を使って調理実験でも……などと考える間もなく夢の世界へ。



 夜中にカズンはふと目を覚ました。

(ん……?)

 魔石の常夜灯で薄暗いはずの室内が、妙に明るい。
 まだ夜明けにはだいぶ早い時刻のようだ。

「なっ、何だこれ!?」

 明かりの光源は自分だった。
 自分の身体、胸の辺りに、胴体をくぐる帯状のフラフープのように光の輪が浮かんでいる。
 室内が明るいのは、この光の輪から放たれる光のせいだ。

「お、お父様、お母様!」

 両親の寝室に慌てて駆け込んだ。
 既に休んでいた二人は、深夜にやってきた息子に揃って跳ね起きた。

「何ごとだ!?」
「お父様、こ、こんなものが僕に……!」
「それはまさか」

 両親の部屋も薄暗かったが、カズン自身がランプのように明るく室内を照らしていた。

(リンク)ですわね。話には聞いてましたけど、見るのはあたくしも初めて」

 魔力使いの“新世代”に特有の、魔力の光化現象だ。

「リンク、ですか」

 初めて聞く名称だった。

「セシリア、カズンのステータスを鑑定してみてくれるか」
「やってますわ、旦那様。でも……見えません。能力値がすべてエラーになってましてよ」

 ほら、と言ってセシリアはカズンのステータスを目の前に可視化させた。


--

カズン・アルトレイ
   :アケロニア王家王族、王弟、アルトレイ女大公令息、学生

称号 :-

スキル:
人物鑑定(初級)、調理(初級+)、身体強化(初級)、防具作成(初級、盾剣バックラー)

体力   -
魔力   -
知力   -
人間性  -
人間関係 -
幸運   -

--


 カズンは幼い頃受けた呪詛の影響で、ステータスのうち魔力値が2まで低下している。
 その魔力値だけでなく、他の一般的な能力値全てがエラーとなって表示されていなかった。
 以前通り表示されているのは、氏名と出自や身分、スキルだけだった。

 母親のセシリアは人物鑑定スキルの特級ランク持ちだ。その彼女ならもっと詳細な情報を読み取れるはずなのだが。

「えっ。ま、まさか全能力値まで無くなったとか!?」
「いいえ、多分そういうことではないわ」

 恐らく発現した光の輪が、カズンのステータスに対して何らかの影響を及ぼしているのだ。

「これは私たちの手には負えない。王都に戻ったら専門家に連絡を入れるから、彼らが来るまで判断は保留だ」

 このまま部屋に戻ろうとしたが、両親に引き止められて二人の間で眠ることに。

「うふふ、一緒に眠るのは久し振りね」
「学園の高等部に入ってからは、とんとご無沙汰だったな」

 優しく両側から髪や肩などを撫でられているうちに、すぐにうとうととして瞼が重くなってくる。

(リンクとやらの話し、もっと詳しく聞きたいんだけど……眠い……)

 両親の暖かな体温に包まれて、幸せな気持ちのまま夢の中へ旅立っていくカズンだった。


 そして翌朝。
 カズンはなぜか、布団から起き上がれなかった。

「まああ、あたくしの可愛いショコラちゃんったら。旅行ではしゃぎすぎてお熱出すなんて!」
「うう……それもあるかもですが、昨晩あの光の輪が出てから魔力が不安定で……」

 以前のように突き刺すような片頭痛ではなかったが、頭蓋骨の中身を揺らされているようなグラグラする頭痛が朝から止まらなかった。

 午後になるとだいぶ良くなっていたが、さすがに身体を激しく動かす訓練や、外出は認められなかった。
 実際、自室の布団の中で横たわりながら、適当に持ってきていた本を眺めているのが精々だった。



「カズン様、調子を崩されたそうですが大丈夫ですか」

 領地に戻っていたヨシュアが到着し、すぐカズンの元までやって来てくれた。

「うん……まだちょっと頭が痛い」
「ポーションもあまり効かなかったと伺いました」

 何本か飲まされたが、多少気分が良くなる程度で、本来の効果はなかったといっていい。

(あの光の輪のこと、はっきり判明するまではヨシュアにも内緒にしてろって、お父様たちは言ってたけど)

 ヨシュアは国内でも屈指の、魔力使いに習熟したリースト伯爵家の当主だ。
 案外彼に相談したら詳しいことを知っていそうなものだが、まだ内緒ねと両親が言うなら従っておくべきなのだろう。



 それからまた夕方まで部屋で休んでいた。
 ヨシュアが起こしに来た頃には、寝汗をかいて寝巻きを着替えたくなった。
 長湯しなければ大丈夫だろうとのことで、温泉で汗を流すことに。

「ああ、吹き出物と汗疹ってこれですか。まだちょっと残ってますね」

 一緒に入浴して背中を流してくれながら、ヨシュアの指先が患部をそっとなぞる。

「ヨシュアは……何もなさそうだな」

 振り返って見たヨシュアの白い裸体に、赤い発疹などの類いは見当たらない。

「我が家は魔石が沢山ありますから。家にいるときは氷の魔石で部屋を冷やしていたので、体調はすこぶる快調でした」
「いいなあ。僕の家にも欲しい」
「カズン様の場合、魔石にチャージする魔力量がネックですよねえ」

 クーラーのような冷房用の魔導具もあるが、動力源はやはり魔石に込める魔力だ。
 この言い方だと、カズンの魔力値では足りないのだろう。
 魔導具は利用する本人の魔力を使うのが基本である。



「おや、入っていたのか」

 身体や髪を洗った後で温泉に浸かっていると、ヴァシレウスが浴場に入ってきた。
 先ほどまで庭で護衛たち相手に組み手をしてかいた汗を流しに来たようだ。
 軽く全身の汗や汚れを流してから、カズンたちが浸かっていた湯に入ってくる。

 石造りの温泉はざっと十人以上入れるほど大きかったが、それでも2メートル近い巨躯のヴァシレウスがざばっと入ってくると一気にカサが増した。

 ふう、と適温の湯で身体が解れていく心地よさに溜め息をついている。
 首筋から肩、胸元へと湯が流れていく肌は血色も良く、とても九十代後半とは思えないほど良い色つやだった。
 男盛りはとっくに過ぎている年代のはずだが、見たところ全身の筋肉などにも衰えはない。

「そういえばお前たち、ユーグレンも入れて三人で仲良くやってるそうだな」

 不意打ちのように訊かれて、二人揃って顔を見合わせた。
「うん。何かぼくの派閥があったみたいなんですけど、別に無くなっても困りませんよね?」

 貴族間にあった王弟カズン派閥のことだ。

「ふうむ。お前がユーグレンを押し退けて国王になりたいなら、後援派閥は便利だぞ?」
「! 要らない! 王様とか僕には無理です、ユーグレンのほうが絶対に向いてます!」
「……そうか」

 お湯に浸かりながら、ヴァシレウスが少しだけ残念そうな顔になったのに目敏くヨシュアが気づいた。

 さらにそんなヨシュアに気づいたヴァシレウスが、こっそりヨシュアにウインクを投げて寄越した。『言うなよ?』ということのようだ。

「まあ、若いうちにいろいろ経験しておくのは良いことだ」

 それで背中を流し合いっこしたりしながら、三人で温泉を堪能していたわけだ。



 その後、軽い夕食を取った後でまた頭痛がぶり返してきたカズンは部屋に逆戻りだ。

「うう、目が回るうう……」
「困ったわねえ。明日にはもう帰るっていうのに」

 鑑定スキルで簡単にステータスを確認しても、表示されているのは暑気中りと軽度の皮膚疾患だけなので、医者を呼び寄せるほどではなかった。
 セシリアだけでなくヴァシレウスも少し難しい顔になって腕を組んでいる。

「カズン、もう少しだけこの地で養生していなさい。ヨシュア、世話を頼めるか?」
「問題ありません。喜んでお世話させていただきます」

 何やら勝手に周囲が決めていってしまっている。

「お父様たち、僕を置いて行かないでください……」

 この一週間ずっと一緒にいた両親と離れるのが寂しい。
 昨晩は久し振りに一緒に寝たこともあり、父と母が恋しかった。

「あらあら、あたくしの可愛いショコラちゃんが甘えん坊さんになってるわあ。でもいい機会だから、ちゃあんとお肌しっかり治しなさいな。すべすべお肌に戻るまで帰ってきちゃダメよ?」

 カズンの訴えもむなしく、残留決定となった。



「ここに残るなら、叔父もご一緒すれば良かったですね」
「ん? ルシウスも一緒だったのか?」
「ええ、何でも王都でやることがあるそうで、オレと別の馬車で途中まで。陛下やヴァシレウス様たちへの挨拶は王都でするそうです」
「あやつ、口煩いが居れば便利だからなあ」

 ヨシュアの叔父は、これまでは前リースト伯爵の急死で混乱していた領地の統制を行なってくれていた人物だ。

 そんな混乱も数ヶ月経ってひと段落ついて、一度王都で情報収集や社交などに動きたいと言って今回領地を出てきたのだ。

 該当するスキルがステータスに表示されないにも関わらず、大抵のことをこなしてしまう人物で、面倒見が良いから、ここに来ていたら喜んでヨシュアごとカズンの世話を焼いてくれたことだろう。

「ルシウス君、相変わらずなのかしらねえ」
「うう……とりあえず顔を合わせたら、第一声は『夏休みの宿題やったか!?』でしょうね……そうか……今王都に戻らなくて良かったかもしれない……」

 会えば会ったで嬉しい人物なのだが、如何せん話が長い。一度捕まると本人の気が済むまで解放されることはない。

 彼にまつわる逸話は数多く、説教魔神のエピソードとしては、本人から『帰さないぞ』『今夜は寝かせない』などと言われてお色気展開を期待した者が、文字通り一晩中ご教示賜って一睡もできなかった、などというものがある。

 被害者は多数。それでも多数の信奉者がいるあたり、リースト伯爵家の男子だなあという感想を貴族社会では持たれている。

「今ごろ王都に着いて知り合いを誘って飲みに出てるでしょうね。ふふ、オレたちが戻った頃にカズン様たちにも挨拶に来ると思いますよ」


「……あたまいたい。もうなにもかんがえられない」

 カズンは考えるのを放棄して頭から布団に潜り込んだ。

 ちなみに避暑地に来てから遊びと温泉が楽しすぎて、まだほとんど夏休みの宿題に手をつけていないカズンなのだった。