ユーグレンは毎朝、朝食を済ませひと休みしてから、王宮内の自室から執務室へと向かう。
王太女の母親やその伴侶の父がユーグレン用に仕分けした、王族の裁可を必要とする書類を処理するのが仕事になっている。
「今日も暑いな……」
室内に入れば氷の魔石を使った冷房用の魔導具があるので涼しいのだが、さすがに建物の回廊までは冷やしていない。
護衛兼側近のウェイザー公爵令息ローレンツを伴って、執務室へ向かう回廊を歩いていると、曲がり角の先から自分の名前が聞こえてくる。
そこでユーグレンはぴたりと足を止めた。
聞き耳を立てるまでもなく、数人の文官たちがそこで立ち話をしているようだった。
「ユーグレン殿下、本当にリースト伯爵を傘下に入れるらしいな」
「へえ、あのリースト伯爵家の澄ましたお綺麗な顔が殿下に侍るのか。側近にするのか、違う意図があるのか勘繰ってしまうよな」
「おい、不敬だぞ」
「何言ってるんだ。ユーグレン殿下がヨシュア殿に懸想してたのは有名な話じゃないか」
「ちょっと行って注意してきますね」
ローレンツが出て行こうとするのを、ユーグレンは首を振ってやめろと引き止めた。
「……私がヨシュアを望んだことで、彼まで侮辱を受けてしまうとは」
「殿下」
「私が、そんな、彼を……」
その先はさすがに青臭すぎて言葉には出せなかったが、付き合いの長いローレンツには、ユーグレンの葛藤が何となくわかったようだ。
心配そうな顔でユーグレンの様子を窺っている。
また変な方向に拗らせなければよいのだが。
三人で親しく付き合うようになってからというもの。
ユーグレンはヨシュアとふつうに軽口を叩けるぐらいまで親しくなれた。
彼もまた、ユーグレンと学園でのことや政治や領地経営、カズンの話などをするのは案外楽しそうで。
(これなら本当に、彼を私の側に置けるかもしれない)
とユーグレンは期待に胸を高鳴らせていた。
特に夏休みに入って、カズンたちを追って避暑地の別荘まで行って現地滞在している間はそれはもう朝から晩まで共にいられたわけで。
ところが。
そんなヨシュアだったが、ユーグレンがカズンと集中して話し込んだり、スキンシップで肩や背中、腕などに触れたりすると途端に機嫌が悪くなる。
ましてや、カズンからユーグレンの頬に親愛のキスなどしようものなら、それこそ親の仇を見るような鋭い目つきで睨みつけてくる。
あの、ユーグレンを蕩かせる、銀の花咲く湖面の水色の瞳で。
「参ったなあ。私はいったい、どうすればいいのだ」
と悩んでいたところに、今朝耳にした、あの噂話だ。
ユーグレンは王族で王子という公人のため、人から好き勝手なことを言われるのは有名税のようなもので慣れている。
だが、自分たちの関係やその行方が人々の注目の的だと認識させられて、さすがのユーグレンも戸惑っていた。
自分はいい。だがヨシュアやカズンはどうだろうか。
執務に没頭しているようでいて、一日ずーっと同じことでユーグレンは堂々巡りなことを考えていた。
すると夕方の少し前ごろになってカズンから、明日よりヴァシレウスも連れてリースト伯爵領に行くがお前はどうする? との手紙が届いた。
「………………」
先月の七月、ほとんどを自分もカズンたちと別荘地で過ごして遊んでしまったユーグレンだ。
さすがにもうこの夏休み中、遊びに行く許可は下りないだろうなと、半ば諦め気分で母親の王太女グレイシアの執務室まで行くと。
「うむ、良いぞ。いつもというわけにはいかぬが、まあこの夏休みの間ぐらいは好きにするといい」
「もしかすると、環を発現させたカズン様は本当に国を出て行ってしまわれるかもしれませんしね。今のうちにたくさん思い出を作っておくといいでしょう」
両親それぞれから激励の言葉まで頂戴して、許可が取れてしまった。
執務室に戻り、カズン宛の返事を書いて、待っていた彼の家の家人に渡して帰してやる。
その後、速攻で残っていた執務を片付けて、自分の部屋に戻り旅行の準備を侍女たちに頼んだ。
「何日ぐらいなら滞在できるだろう。二日、いや三日かな?」
「必要があれば連絡が入るでしょうから。ゆっくり楽しんでいらしてくださいね」
リースト伯爵領へ行くなら、ヨシュアや彼の叔父ルシウスといった手練れが常に側にいるため、ユーグレンにも多人数の護衛は必要ない。
明日は集合場所のリースト伯爵家までユーグレンを送り届けた後、ローレンツも短い休暇を取ることになる。
翌朝、カズンたちが王都のリースト伯爵家のタウンハウスへ行くと、そこには薄緑色の長い髪と瞳の魔術師フリーダヤがいる。
「フリーダヤ様、帰られたのではなかったのですか?」
「ヴァシレウス。私もそう思ってたんだけど、ルシウスに引き止められちゃって。……皆さんお揃いで、遠足でも行くの?」
リースト伯爵家では、当主のヨシュアとその叔父で後見人のルシウスが一同を出迎えた。
やって来たのはカズンと父ヴァシレウス。
王宮からユーグレン王子。
ホーライル侯爵令息ライルと、ブルー男爵令息グレンは同じ馬車で来た。朝、ライルがグレンの家に寄ってから来たらしい。
「えっ。フリーダヤって、あの環創成の魔術師フリーダヤ様ですか!?」
「超有名人じゃん」
ライルとグレンが驚いている。まあこうなるだろうなと、カズンたちには予想できた反応だ。
「はい、魔術師フリーダヤですよ。おやおや、君たちも環を出せそうな素質持ちじゃない? やっぱりカズンの周りに集まってたねえ」
それでなぜ、フリーダヤがここにいるかといえば、リースト伯爵領への空間移動の術を使わせるためである。
本人も環使いだと判明したルシウスでも可能らしかったが、彼の場合は他人にあまり自分が環使いであることを知られたくないようだったので、わざわざ師匠フリーダヤを引き留めて使うことにしたらしい。
そうして全員集合したところで、フリーダヤの空間移動魔法でリースト伯爵領まで瞬間移動した。
さあ、今が旬だという紅鮭を獲りに行くぞ! とカズンが気合いを入れたところで、ルシウスが無粋な待ったをかけた。
「学生諸君は夏休みの宿題は終わったのか?」
「あ」
王子のユーグレンは早々に終わらせていて問題ない。
カズンとヨシュアは別荘にいた先月のうちに八割方終わらせて、後は残りと内容確認。
「あー忘れてましたねえ」
「別にやらなくても罰則とかねえし、俺はそのまま放置で」
夏休みに入ってからずっと冒険者活動に明け暮れていたライルとグレンのペアは、手を付けてもいなかった。
しかし、そのような不精を許す保護者はここにはいない。特に、ここには口うるさいことで有名なルシウスがいる。
「フリーダヤ、二人を家に連れて行って宿題のテキストを持ってきてくれませんか」
「えっ、そこまで私を使う!?」
「学生は勉強が本分です。そのくらい、いいじゃないですか」
師匠であるはずのフリーダヤを顎で使って、ルシウスはライルとグレンを連れて彼らの実家まで戻り、宿題を持って来させるよう促すのだった。
残ったカズンとヨシュアは「まず宿題を片付けるのが先だ!」と有無を言わさずルシウスに詰め寄られ、頷くしかなかった。
即座に、リースト伯爵家本邸のサロンルームに学習用の長机と椅子が運び込まれ、保護者たちの監督のもと宿題が終わるまで逃げられなくなった。
「ルシウス様が厳しすぎる……」
今日はもう宿題を終わらせないと他に何もできないだろう。
カズンが嘆息した。どことなく黒縁眼鏡のレンズの輝きも鈍い。ちゃんといつも硝子は拭いているのに。なぜだ。
するとヨシュアが、悪戯っ子みたいな顔をして内緒話をしてくれた。
「ふふ。内緒ですよ? あんなこと言ってる叔父様も、昔は夏休みの宿題をサボっていたそうです」
「「マジで!?」」
「マジです。父と祖父の両方から聞きました。宿題の存在を思い出すのがいつも、夏休みの最終日だったとかで。ユーグレン殿下のお母上はご存じじゃないかな」
ユーグレンの母、グレイシア王太女はヨシュアの父、前リースト伯爵カイルの学園での先輩なのだ。
学生時代はよく後輩のカイルを同級生たちと訪ねて遊んでいたそうな。
そのとき、夏休みの宿題に追い込まれて泣きを見ている少年時代のルシウスによく巻き込まれていたとか。
そして鮭は漁獲しても、寄生虫対策で一度冷凍しなければ食べられない。
今日は領民の皆さんが川に紅鮭を獲りに行ってくれているとのことで、本番は明日からだ。
カズンとヨシュアが宿題の残りを片付けて、ユーグレンが時々助言をし、ヴァシレウスとルシウスは歓談して午前中をリースト伯爵家の本邸で過ごした。
昼前にライルとグレンを連れたフリーダヤが戻ってきたのだが。
「何か出たわ。俺、すごくねえ?」
ライルの腰回りに光るリングが浮かんでいる。
ぼき、とヨシュアが握っていた鉛筆を折る音がした。
カズンが隣の幼馴染みを見ると、ヨシュアの顔が青ざめている。
「そんな……まさか、こんな短期間でライル様までなんて……」
青ざめたヨシュアの顔色は、あっという間に紙のように真っ白になっていく。
「いやーすごいよね、ちょっとここに来るまでの間にアドバイスしたら勘を掴んじゃったみたいでさ!」
「何をどうやったら出たんだ? ライルは」
「剣を使うときの、集中する感覚そのまま研ぎ澄ませていったら出たんだよ」
「なるほどー」
ライルが赤茶の髪を掻いて照れている。
その傍らにはグレンもいたが、彼の場合はまだ環を発現するところまではいかなかったようだ。
カズンたちが彼を見ると「とんでもない!」と必死で顔をぷるぷる横に振っていた。
フリーダヤたち三人が帰ってきた頃には昼食の時間も近くなっていたため、食堂へ行って食事を済ませることにした。
今回はカズンが鮭と魚卵を食べたがっ
ていたので、あえてリースト伯爵領の特産品としての鮭は明日以降の本番として、ふつうに鮭以外のメニューだった。
食後、またサロンに戻ってきてお茶を飲みながら他愛のない話をしていた。
「僕たちは、リースト伯爵領にもダンジョンがあると聞いてたので。確かAランクでしたっけ?」
ピンクブロンドの髪に水色の瞳の美少女のような美少年、グレンが自分たちの来訪の目的を語った。
「そうそう。このあと一度、冒険者ギルドに行って、この環が使えるようになったって報告してこようかと思っててよ」
「確か、何か特殊なマークが冒険者証に付くんですよね?」
グレンが自分の冒険者証を取り出す。
「そうだね、表面に環のシンボルである光のリングのイラスト付きの冒険者証に変わる。魔力使いの場合は、環が使えると間違いのない信用証明になるからね」
魔力使いの新世代が使う、環なる円環状の光の術式は、人間の持つ過剰な執着を削ぎ落とさなければ発動しない仕様になっている。
悪意や悪念を持つ人間にはそもそも発動できないし、発動できた後でも、人として心ない言動や意識状態が続くと使えなくなる。
この事実が知れ渡っていることで、『環が使える魔力使い』はそれだけで“良い人間”であることの保証となる。
簡単にいえば、冒険者同士でパーティーを組んだとき、リーダーが環使いだったら報酬を独り占めして逃走するような心配だけはなくなる。
もちろん、人であるからには、リーダーとして自分の活躍に応じた報酬の取り分を要求するだろうが、ある程度は理性的に主張するから、人間社会においては、やはり信頼されやすい部類に入る。
「ライル君は人物鑑定でステータスを見たらビックリしたよ、魔力値1なんだもの。環が万人に開かれた可能性だという、生き証人みたいなものだね」
そう。アケロニア王国にいる魔力使いたちは、ほとんどが環を使わない旧世代だ。
旧世代の魔力使いにとって、魔法や魔術は自分の持つ血筋や、生まれた後の訓練によって得られた魔力量に依存する。
人物鑑定スキルで見ることができる、自分のステータスの“魔力値”の数値次第だった。魔力値は十段階評価。数値が高ければ魔力量が多く、魔力使いとして強い。低ければ弱い。
だが、この魔術師フリーダヤが開発した環という術式が使える者は、血筋は関係なく魔法や魔術が使えるという触れ込みだった。
今回、魔力値1のライルが環を発現させたことは、その動かぬ証拠となったわけだ。
フリーダヤは紅茶が冷めていくのにも構わず、興奮して喋り続けている。
そんな彼を見て、ヨシュアは昼食前から沈んだ様子を見せていたが、思いきったように声をかけた。
「フリーダヤ様。ライル様の場合は、どのような新たな称号の可能性が出たのですか?」
室内の一同の視線がヨシュアに向く。
「彼はね、“剣聖”の称号が見えてるね。今は剣士。研鑽を積んでいけば剣豪になって、そのうち本当に剣聖の称号が安定するんだと思う」
おお、と全員が感嘆の声をあげる。
ヨシュアはまだ沈んだまま、何事かを考え込んでいる。
「………………」
話が続かない。
ユーグレンが場をもたせようと口を開きかけたところ、カズンが殊更明るい声を出した。
「ああ、早く明日にならないだろうか。僕はここにはイクラを食べに来たんだ」
「そういえば、手紙にもそう書いてあったな? あのさ、うちのホーライル侯爵領の漁港から獲れるタラの魚卵てさあ……あれ、もしかして“タラコ”か?」
「ホーライル侯爵領では魚卵はどうしてるんだ?」
「うちのとこも、腐りやすいから基本廃棄なんだが。……煮魚や焼き魚にして美味いやつは、そのまま食ってるな。ほら、子持ちカレイやシシャモみたいなのの卵はプチプチしてなかなかいけるし」
「ライルー! タラコって、タラコってあれだろ、前世の日本で食べていたよな? おにぎりに焼いて入れてたりしたあれだよな!?」
「おう。あのタラコ。……食いたくなってきたな。どうよ、カズン」
「食べたい。食べたいです。食用加工の研究をぜひお願いしたい!」
カズンに懇願されたライル率いるホーライル侯爵領は、それから魚卵加工にも力を入れることになる。
だが実用化されるのはまだまだ未来の話である。
ライルが環を発現したことを機に。
既に環を発現したカズンを始めとして、一同はフリーダヤの監督のもと環を出す練習をしてみることにした。
結果として、安定して環を出し続けることができたのはライルだけ。
他は、ルシウスは環使いであることを隠しているから除外として、カズンもなかなか出すことができなかった。
環は、発動させるときだけ自分の物事への執着を離れて無我の意識状態を作る必要がある。
考え方や理論を学んでも、ヨシュア、ユーグレン、ヴァシレウス、グレンはコツを掴めなかった。
「とりあえずはカズンの環を安定させることが先かな」
一通りレクチャーした後で、フリーダヤは出かけてくると言ってリースト伯爵家の本邸から外出していってしまった。
「んん、環どころか魔力も安定しないし」
必死にカズンが精神統一しようとしているが、環は一時的に現れたり消えたりの繰り返しだ。
「お前は魔力値2だからなあ」
父親のヴァシレウスが苦笑している。
ヴァシレウスの場合は自分がなぜ環を使えないのか理由がわかっているので、子供たちに付き合っているだけだった。
彼の場合は、己がアケロニア王国の王であったこと、王族であることの責務を離れるつもりが最初からない。
「でもステータスって変動しますよね? 環っていうのは魔力使いの術式なのに、魔力値の数値に関係ないって面白いですよね」
楽々と環を発動させているライルの環を興味深げに眺めながら、グレンが言った。
環は帯状の光の円環で、身体の胴体をフラフープをくぐるように周囲に浮かぶ。
グレンは指先でライルの環を突っついている。
指先はすり抜けたり、また魔力の圧力を物理的な感触として感じたりと、なかなか面白い。
対してカズンのほうは、幾度も深呼吸を繰り返して意識を集中させると最初は自分の胸元にうっすらと環が現れる。
だがすぐに、空気に溶けるようにして消えてしまう。
「胸元に出る環って、物事の調整役でしたっけ?」
「お、称号欄に“魔術師”と“バランサー”が出てるじゃないか、カズン!」
ヨシュアとユーグレンは、こちらもカズンの現れたり消えたりの環に手で触れたり、王族のユーグレンの人物鑑定スキルでカズンを鑑定したりで盛り上がっていた。
そうして環の練習をしているうちに午後のお茶の時間になる。
リースト伯爵家の侍女たちがそのままサロンにティーセットの準備を整えて、礼をして退室していく。
テーブルの上にはクッキーやマドレーヌなどの焼き菓子、地元菓子店のチョコレート。
そして、魔法樹脂の使い手であるリースト伯爵家の一族が治めるこの地方には、魔法樹脂を模した透明度の高いキャンディが人気の名物となっている。
色とりどりで、特に現在は瞳の中に銀の花咲くヨシュアが当主なこともあり、その花弁の模様の入ったキャンディが人気だそうだ。
味は砂糖のみを中心に、リースト伯爵領で採れる果物の味や、花の香りを付けたものなど多様である。最近はチョコレートを入れたものもなかなか人気がある。
「わあ、綺麗ですねえ。後で買えるお店教えてください、うちの妹にお土産にしたいです」
「カレン嬢に? それなら持たせてあげるから後で欲しい量を教えてくれるかい。彼女には魔導具開発で世話になってるからね」
グレンの腹違いの妹、ブルー男爵令嬢カレンはまだ十代半ばながら腕の良い魔導具師だ。
ヨシュアは自分の作りたい魔導具が実現できないか、カレンと文通しながら相談しているらしい。魔法樹脂の機能改良に取り掛かっているのだとは、カズンやユーグレンも聞いていた。
「なかなか環が安定しないんだ。フリーダヤはどっか行ってしまったし。この後どうすればいいんだろう?」
マドレーヌをぱくぱく口に運びながらカズンが溜め息をついている。
「それなのですが。ひょっとして、カズン様のそれは食べ過ぎが原因では?」
ぴた、とカズンの手が止まった。
ルシウスが意外な指摘をしてきた。
魔力は体力や気力など、およそ人間の持つありとあらゆるエネルギーの総称だが、胃腸の消化力にも関わる。
基本ステータスの体力値や知力値なども、魔力が密接に関わっていた。
「まだ若いから腹一杯食べても健康に問題はないのでしょうが……一度に食べる量を節制したほうが良いかもしれません」
「そんな!」
この世の絶望を体験したような顔になるカズン。
だが、食の節制は魔力を増やす修行として大変有効なことが、魔力使いの世界では知られている。
「言われてみれば、お前はいつも腹一杯食べているよな?」
と父親のヴァシレウスが思い出したようにコメントする。
アケロニア王国は食料事情の良い国で、新鮮な食材が手に入るから料理方法もシンプルで、意外なことに他国では一般的な揚げ物の類の少ない国だった。
そのため、上は王侯貴族から下は庶民まで、他国にいるような飽食や暴飲暴食で肥え太った者は少ない。
カズンも見たところ、特に太ってはいない中肉中背の男子なわけだが。
「一度に食べなければ良いわけです。きちんと身体が消化してからまた食べれば良い」
「そ、それって、つまり……?」
「腹八分目というでしょう? それで試して魔力が回復すればよし。しなければ、六分目、四分目と減らしていきましょう」
「あああああ……」
悲痛に喘いで項垂れるカズン、そんなカズンを宥めるヨシュア。
ユーグレンは苦笑しながらも別の提案をした。
「一度、水だけで三日間ぐらい断食してみたらどうだ? カズン」
「それはいやだあああ……」
何だか大変ですねえと呟いて、グレンはピスタチオ入りのクッキーを頬張っているし、隣でライルは飴玉を口の中で転がしている。
そんなわけで、その日のカズンの間食は途中で終わりになった。
「カズン、ユーグレン。お前たちに渡しておくものがある」
リースト伯爵領に滞在の初日、夜。
入浴を済ませた後でヴァシレウスの泊まる部屋に呼ばれたカズンとユーグレンは、彼から金のメダルを貰った。メダルのサイズは大金貨と同じぐらいだろうか。表にはアケロニア王族の紋章、裏には何もない。
ユーグレンには、一枚そのままのメダルを。
カズンは一枚のメダルを半分に割ったものを。
残り半分はヴァシレウスの大きな手の中にある。
「ヴァシレウス様、これは?」
「我々の先祖、初代国王から伝わるメダルでな。黄金に変えられた彼の息子の一部でできている」
「「!?」」
カズンたち現在のアケロニア王族は、人間を黄金に変えて私腹を肥やした邪悪な錬金術師、前王家ロットハーナ一族を倒した男の末裔である。
初代国王となった祖先は、妻と娘、息子の三人をロットハーナ一族の被害者として失っている。
被害、即ちロットハーナの邪法によって黄金に変えられてしまったのだ。
妻と娘は行方がわからないままだ。
息子だけはまだ鋳溶かされていなかったことで、初代国王となった父親の持つ人物鑑定スキルによって黄金の中に残っていた本人の魂との対話から、捕らえられ黄金に変えられた経緯が判明していた。
後にロットハーナ一族を討った男は、自分の人物鑑定スキルを通じて黄金となった息子と再び意思の疎通をはかった。
息子は自分を素材にして新たな国王となった父のための王冠と王杖にするよう望んだという。
今の国王はヴァシレウスの息子でカズンの異母兄のテオドロスだが、彼が王家の公式行事や儀式で被る王冠と持つ王杖は、初代国王の時代から代々受け継がれているものである。
「私は父から三枚受け取って、一枚は長男のテオドロスに渡しておる。そのうち、あやつの分は娘の王太女グレイシアに渡るだろう。もう一枚は我が伴侶セシリアにと考えていたのだが、彼女は辞退して、ユーグレン。お前に渡すよう希望したのだ」
「そうですか……セシリア様が」
カズンの母セシリアは、ヴァシレウスから見ると曾孫に当たる。彼女は直系尊属のヴァシレウスの血を引き、また結ばれた。
アケロニア王族の濃い血を持つが、一族の始祖ともいうべき初代国王から受け継がれてきたメダルは受け取らなかったという。
自分より受け取るのに相応しい人がいるからと。
「それで残る一枚は、カズンへ。半分なのは、……私が死んだ後、私が持つ残り半分をお前が相続するよう遺書を書いてある」
「お、お父様! 縁起でもないこと言わないでください!」
「……そうは言っても、私ももう年だ。あと数年で百の大台に乗る。いつ何があってもおかしくないのだ」
言って、そっとその大きな手のひらで、生前のうちに形見分けした半分のメダルを持つカズンの手を包み込んだ。
「まあ、安心するといい。お前も今年、学園を卒業すれば成人。卒業式の夜に一緒に酒を飲むのが私は楽しみなのだ」
「お酒ぐらい、もう飲めますよ!」
「そうか?」
ヴァシレウスは自分の若い頃によく似た息子の、黒い瞳を優しげな表情で覗き込んだ。
今は不安そうに揺れて自分を見つめてくるその表情に、何ともいえない愛おしさを感じた。
(身体はそこそこ大きくなったが、まだまだ子供だ。もうしばらく手元に置いて大事に守ってやりたいものだが)
けれど息子カズンは、新世代の魔力使いの環を発現させてしまった。
環は名前の通り、世界や世界の理と接続するための術式だ。
これに目覚めた術者は各々のリソースに応じた使命を帯びるようになる。
(そしてこの時期、我が国には前王家ロットハーナ一族が現れた。奴らに立ち向かうのはお前なのだろう。カズン)
「メダルを半分に割ってしまったから、端が欠けやすいだろう? ヨシュアかルシウスに、魔法樹脂で包んで補強してもらおうと思って、私もリースト伯爵領まで来たのだよ」
「なら、私も紐か鎖を通せるようペンダントにしてもらうことにしましょう。カズンはどうする?」
「……お父様と同じ形にする」
「じゃあ、三人一緒にペンダントにしてもらうか」
まだ夜の早い時間なので、ヨシュアもルシウスも自室で寛いでいるはずだ。
リースト伯爵家本邸の執事に尋ねると、二人とも執務室にいるということで向かうことにした。
三人で頼みに行くと、ヨシュアが基本の魔法樹脂にメダルを封入し、ルシウスが破損防止など幾つか機能を付与して、紐を通す穴付きペンダントトップに仕上げてくれた。
「お父様とお揃いだあ」
「カズン、私ともお揃いだぞ?」
「……三人でお揃いだな、ははは!」
同じメダルを持っている三人を、ヨシュアが羨ましそうに見つめている。
そんな甥っ子をルシウスは心配そうに見ていたのだが、あえて何も口にすることはなかった。
※お酒は20歳になってから!(ここは異世界です)
翌日の夕食は、ついにカズン念願の鮭の魚卵イクラ実食だった。
リースト伯爵家側でブッフェ形式にしてくれたので、魚卵が好きな者は思う存分、苦手な者はまた別のものを各自でチョイスできるようにしたといったところだ。
なお、鮭といっても種類がある。今回は紅鮭という、特に身の色や味の濃い鮭の季節だった。
「ついに……遂にきた鮭イクラ丼……!」
紅鮭の身は、シェフに表面だけ軽い焦げ目がつくよう炙って薄く削ぎ切りにしてもらい、炊き立てのご飯の上へ並べていく。
そこへ、醤油とだし汁を合わせたものに漬けておいた鮭の魚卵をレードルで思う存分にかけた。
なお、魚卵は普段ならフルーツポンチを入れる硝子の器にたっぷりと満たされて、ブッフェテーブルにでん、と置かれていた。鮮やかな赤色が何とも目に鮮やかである。
最後に、先月滞在していた避暑地の集落からヨシュアが取り寄せておいた山葵のすりおろしを、真ん中にちょこんと小さな円錐形で盛り付けて完成である。
「イクラ丼じゃん! しかも炙り鮭イクラ丼! うっわ、すげえ豪華なの来た!」
「だろう? そうだろう、ライル! 僕はこれが食べたかった! 食べたかったんだー!!」
ウワーハハハ! とテンション高めで笑い合っているカズンとライルを眺めつつ、他の者たちは少し及び腰だった。
「う、ううむ……カズン様が大丈夫と言うのだから問題ないのだろうが……」
「少し躊躇いますよね、叔父様。だってこの魚卵って……」
リースト伯爵領の者たちは皆、鮭が大好きだ。
だがそれは、あくまでも身のことであって、腐りやすいからと昔から廃棄し続けてきた魚卵のことではなかった。
昔は氷の魔石で冷やす技術もほとんどなかったからで、今は冷凍や冷蔵保存できる時代とはいえ。
「うっま! まさかこの世界でイクラ丼とか!」
「うん、間違いなく鮭イクラ丼。間違いないと思ってたけど本当に間違いなかった!」
二人だけで盛り上がっているカズンとライル。
食した経験がないせいで、ヨシュアやユーグレン、ルシウス、グレンも丼を前にして固まっている。
「おお。本当だ、これはなかなか」
ヴァシレウスが思い切ってスプーンで一口食し、カズンと同じ黒い瞳を輝かせている。
「これはワインの白……いや、ライスワインだな。辛口のやつが合いそうだ」
「ヴァシレウス様がそう仰るなら」
逃れられそうにない。
一同、覚悟を決めて鮭イクラ丼を口に運んだ。
鮭の魚卵単体を未加工のまま、そのまま食すわけではないのが、良かった。
あらかじめ醤油で漬けておいたことで、独特の風味のある醤油で食べる鮭。そんな感じだった。
(本当だ。カズン様の言う通り間違いなかった!)
「カズン様、カズン様。これ、鮭の魚卵、美味しいです」
「だろう? こんなに美味いもの捨ててたなんてもったいなかったよな?」
このようにして、ヨシュアの“カズン信奉度”は上がっていく。
そして相手への執着の度合いも。
「ヴァシレウス様、ライスワインです。……いや、これは驚きました。まさかの美味」
キンキンに冷えた酒瓶を抱え、グラスをヴァシレウスに差し出しながらルシウスが苦笑している。
むしろ魚卵イクラのほんのり苦味のある味が、醤油漬けにすると珍味に変わる。
そこへ日本酒もといライスワインを合わせると、酒飲みには堪らない。
「ルシウス、お前の物品鑑定でも問題ないのだろう?」
「ええ、特に人体に害はないようです。『好きな人は好きな味』などと補足に表示されてますけどね」
しかし残念ながら、ユーグレンとグレンはどうしても感触が苦手で受け付けなかった。
鮭の身は問題なく食せたので、身の炙り焼きだけの丼を作り直してもらう。
鮭だけなら、他にレモンステーキなどもあるので、そちらを楽しむことにする。
「む? 随分減りが早いな。ヴァシレウス様、まだお飲みに」
なりますか、と言おうとしたルシウスがライスワインの瓶の先を見て固まった。
「おさけ。はじめてのんだけどおいしいです。ルシウスさま」
えへへと、顔を緩ませ紅潮させたカズンがいた。
「カズン様!? あなたに酒はまだ早い!」
「もうのんじゃいましたもーん」
お目付役はどこへ行った、とルシウスが室内を見回すと、カズンの背中に隠れるようにもたれかかって、こちらもグラスでライスワインを口にしていた。
あまり顔色に変化はないが、銀の花咲く湖面の水色の瞳は、とろん、と蕩けている。
「あ、申し訳ありません。私も一杯いただいてしまいました」
こちらは特に崩れていないユーグレンが、申し訳なさそうな顔をしている。
春生まれの彼はとっくにこの国の成人年齢の18歳で、王族として会食の機会も多いため酒には慣れている。
ちなみにヨシュアは初夏生まれで、彼も既に18歳。けれど普段の魔力使いの修行の妨げになるからと、ほとんど飲んでいなかったはずだ。
そして、カズンは冬生まれでまだ17歳。酒はこの国では18歳から! まだ早い!
カズンとヨシュアは、ふふふ、あはは、と意味もなく笑い合っている。
その様子は子供の頃からよく見る光景で、今もなかなか可愛らしかったが、どう見てもただの酔っ払いである。
呆れながらもルシウスは部屋の壁際に控えていた執事に、酔い覚まし用のポーションを持ってくるよう命じた。
この子供たちの飲酒が、まさかの悲劇の始まりとなるのである。
ユーグレンはもう覚悟を決めていた。
「……はは。ままごとのような関係もこれで終わりか」
「いやだ、いやです! オレは絶対あなたを諦めませんからね、カズン様!」
嘆息するユーグレンに、必死に縋るヨシュア。
「おまえたちこそ、いい加減にしろ! 結局、僕を間に挟んでダシにして、自分たちに都合のいいことやってただけじゃないか」
酒が入って怖いものなしのカズンは無敵だった。
いつもなら場の雰囲気を読んで控えるようなところなのに、まったく遠慮がない。
そして先ほどまで胸元で光っていた環はとっくに消えていた。
「あー言われちゃってますねえ」
「言われてるし……」
こちらは、スモークサーモンのピザを焼いてもらって、ルッコラやスライスした玉ねぎのサラダと一緒に食しているグレンとライルのペアだ。
ピザのお供は酒ではなく、白ワインをごく薄く炭酸水で薄めたソーダだったが。
「せ、せめて、ふたりきりで話す時間が欲しいです。それまでオレはあなたと離れません、絶対離れないですからね!」
「……わかった。お互い納得のいくまで話し合おう。約束する」
何だかシリアスなやりとりをしているカズンとヨシュアだったが、ふたりとも呂律が回っていない。
本人たちは真剣なつもりかもしれなかったが、酔っぱらいどもである。
なにがどこまで本気なのか、わからない。
「あーイクラ美味い。鮭イクラ、ほんとに最高だわ」
しかし余興というならもうちょっとマシなものが見たかったなと、追加の鮭イクラ丼をモリモリ食しながらのライルである。
夏休み前に、カズン、ヨシュア、ユーグレンの三人で将来を決めたと聞いたときも驚いたが、まあまあ上手くやっているとばかり思っていた。
ところが蓋を開けてみれば、とんだ茶番だった。
「痴話喧嘩っつうか、修羅場っつうか」
「まったく、お前たちときたら」
「あれ?」
「ヴ、ヴァシレウス様!?」
まだ続くかと思われた諍いはヴァシレウスが止めた。
呆れたヴァシレウスがカズンを小脇に、ユーグレンを反対側の肩に担ぐ。
あれっ自分まで!? とユーグレンが慌てるも、暴れると肩から落とされそうで大人しくしていた。
無言でルシウスも追随し、甥のヨシュアを横抱きに抱き上げた。
「うむ。まあ、三人で明日までよく話し合うがよい」
そのままひとつの部屋に放り込まれた。ヨシュアの部屋だ。
「話し合えって言われてもなあ……」
ユーグレンが困ったように眉を下げている。
部屋に放り込まれたまま、床の上で頭を掻いた。
ヨシュアはめそめそと泣いているし、カズンは不貞腐れている。
自分もだが、ふたりとも酒が入っていて、とてもじゃないが正気ではない。
そしてどう見ても、カズンとヨシュアは飲み過ぎだった。普段からほとんど酒を飲んでいなかったはずだから、加減がわからず飲んでしまったものらしい。
「むー。まだイクラ、たべたかった」
「カズンさまのばか! イクラとオレ、どっちがだいじなんですか!」
「んん……イクラはイクラ。おまえはおまえ」
「カズンさま、すき」
「ふあっ?」
ヨシュアの語彙が崩壊している。
何やらカズンとふたり、床の絨毯の上で真剣な顔になっているかと思いきや、ヨシュアがカズンに勢いよく抱きついて押し倒していた。
そのままカズンは昏倒して夢の中だ。
「カズンさま。おきて。おきてください」
ヨシュアがカズンを揺さぶっているが、カズンはすぴょーすぴょーと普段たてないようないびきをかき始めて、まるで起きる気配がない。
「おきないならわるいことしちゃうから。カズンさまがないちゃうようないたずらだってしちゃいますから!」
必死にヨシュアが言い募っていたが、カズンが目を覚ます様子は、やはりなかった。
「ヨシュア。君はやりかたを間違えたんだ」
そんなふたりを眺めながら、できるだけユーグレンは冷静な感じに聞こえるような声で言った。
「………………」
カズンを押し倒していたヨシュアが身を起こし、ゆっくりとユーグレンを振り返った。
その銀の花咲く湖面の水色の瞳には、カズンに見せていたような感情の揺れはどこにもなかった。
(カズンの目のないところでは、君はそんな目で私を見るのだな)
ズキッとユーグレンの胸は痛んだが、ヨシュアの新たな側面を知ることができたことには、仄暗い喜びがあった。
「こんな三人の関係なんかに持ち込まないで、恥も外聞も投げ捨てて、カズンが好きだからお前なんかお呼びではない、と私を手酷く振るべきだったんだ」
言いながら、後からなら何とでも言えるよなと、自分でも偉そうなこと言ってるなと内心苦笑のユーグレンだ。
もし本当にヨシュアがそんなことをしていたら、今頃はカズンとユーグレンの間には決定的な亀裂ができていたことだろう。
ユーグレンは学園の高等部に入学して、来襲してきた竜をヨシュアが華麗に倒したときからずっとヨシュアを崇拝していた。
そのヨシュア信仰を、仕方ないなって顔をしながら何年も何年も、一番聞いてくれていたのがカズンだ。
けれど、当のヨシュア本人がこだわっていたのは、そのカズンだったのだ。
この事実を知ったとき、ユーグレンが怒りを覚えたのはカズンに対してだった。
カズン自身はヨシュアの真意なんて、これっぽっちも知らなかったというのに。
「………………」
「でもさ、怖かったんだろう? カズンが他人の思惑に全然興味がないから、自分が拒絶されるのが怖かった。だから私を巻き込んで自分の保身を図ったんだ」
そしてユーグレン自身、カズンがいればこの麗しのリースト伯爵の側にいることが可能になると知って、派閥問題の解消を利用して三人で親しくしようと狡猾な提案をしてきたヨシュアに乗った。
ヨシュアとユーグレンは揃って、カズンを自分の執着のために巻き込んで利用した共犯者なのだ。
「……だから何だっていうんです。不敬だとオレを罰しますか。ユーグレン王子殿下」
「ふ」
しっかり正式な称号付きで名前を呼ばれて、思わずユーグレンの口から笑いがこぼれた。
「君の幸せが私の幸せだ。私はこの関係から身を引く。でも、今後も友人として付き合ってくれるかい?」
言えた。言ってしまった。
ヨシュアのアースアイが驚いたようにユーグレンを見た。
「君と話す前に、カズンを寝かせてこようか。ベッドはどこ?」
「あ、はい、こちらに……」
絨毯の上で眠ってしまったカズンを、ユーグレンは抱き上げた。
カズンの身体はぐんにゃりとした猫みたいで、抱き上げてもまるで抵抗がない。泥酔したまま深い眠りの中のようだ。
ヨシュアに誘導されるまま奥の寝室に連れていき、寝台に横たえた。
「カズンさま。……カズンさま。おねんねですか。オレも」
一緒に、という声が聞こえるか聞こえないかのところで、ヨシュアもカズンが眠る寝台の上に突っ伏していた。
そして、すーすー寝息をたて始めた。
「この酔っ払いどもめ」
行き場のない想いを理性で抑えつけ、ふたりの頭をそれぞれ、優しくぽんぽんと叩いて身を起こす。
少しヨシュアと話をしたかったのだが、カズンと一緒に寝てしまった。わざわざ起こすのも気の毒だ。
食堂に戻ろうかと思ったが、どうにもふたりと離れ難い。
結局、ユーグレンは一晩、ベッドサイドの椅子に座って夜を明かした。
翌日、カズンは二日酔いで朝からフラフラだった。
だが、父ヴァシレウスが先に王都に戻るとのことで、何とかシャワーだけ浴びて頭をシャッキリさせた。昨晩は知らないうちに眠ってしまったようで入浴もしていなかったのだ。
軽い朝食を取った後、魔術師フリーダヤの空間転移術で消えていった父を見送ってから、まず、微妙な空気を察知してライルとグレンが逃げた。
「あ、今日は俺たちダンジョン行くんで、飯は要らないです。夜には戻ってくるんでヨロシク!」
そうライルが言って、さっさとグレンを連れていってしまった。
残ったカズン、ヨシュア、ユーグレン、そしてルシウスはサロンルームに移動した。
ソファに座るなり、ヨシュアが恐る恐るというようにカズンに声をかけてきた。
「あの。カズン様、昨晩のことなのですが」
「………………」
「カズン様?」
寝ている。朝食のときも、見送りのときも頭を押さえていたから、二日酔いでダウンしたようだ。
「カズン様。どうせならそのまま……」
ヨシュアがカズンの胸元に手を伸ばした。
指先からヨシュアの魔力が溢れてきて、端から透明な樹脂化していく。
だがヨシュアの魔力と魔法樹脂は、カズンの身体に触れる前に霧散していった。
「な……っ?」
ユーグレンは自分が今見ているものが信じられなかった。
ヨシュアはカズンを魔法樹脂に封じ込めようとしたのだ。
だが魔法樹脂にはセーフティー機能が術式にあらかじめ組み込まれていて、本人の正しい同意なしに生きた人間を封入することはできない。
「ヨシュア」
振り向くと、叔父のルシウスが首を横に振っていた。
それは、魔法樹脂の使い手が決して、してはならないことだった。
「叔父様のうそつき」
「!?」
「何が、『三人でいるとバランスが取れている』なのですか。全然ダメじゃないですか。叔父様なんて大っ嫌いだ!」
「よ、ヨシュア、待て……待ちなさい!」
思いっきり捨て台詞を吐いて、ヨシュアはサロンから足音も荒く出ていってしまった。
「……弱ったな」
ヨシュアを引き止めようと立ち上がりかけた身体を、またソファに預けた。
そして深い深い溜め息を吐いた。
「ルシウス様。昨日のカズンのことなのですが。あれは酒が入ったこともあるのでしょうが、……環が出てましたよね。あれは何かカズンの発言と関係があるのでしょうか?」
躊躇いながらもユーグレンはルシウスに尋ねた。
ルシウスはもうひとつ溜め息を吐いて、姿勢を正しユーグレンのほうを向いた。
「もちろん。ヨシュアがかけていた術を、カズン様の環が解除した。そんなところですね」
「術? ヨシュアが? まさか、王族におかしな術をかけていたということですか!?」
「いや……そんなに大層なものじゃない。子供のおまじない程度の、多愛ないものですよ。子供の頃からヨシュアはカズン様と『ずっと一緒にいたい』と思って、夜寝る前に簡単な儀式をしているのです」
「儀式とは?」
「自分がカズン様の一番でいたい、それを唱えるだけなのですよ。ただ、ヨシュアはとても魔力の強い子なので」
結果的に、カズンには友人が少なく、ライルやグレンと親しくなるまでは実質的にヨシュアしか側にいなかった。
ヴァシレウス大王の末子で現国王テオドロスの弟という王族の一員でありながら、だ。
「ほんの四、五歳くらいの頃からです。子供のおまじない程度の効果しかないから、ご両親のヴァシレウス様やセシリア様も笑って目こぼしされていた。そのままでも、大人になったときヨシュアがカズン様の側近になるのは間違いなかったので」
「……そんなことが」
「あの子は幼い頃からカズン様が大好きでしたが、それがここまで発展するとは、私も含めて周囲の大人たちは誰も思っていなかった。意識が変わり始めたのは、学園に入ってからでしょうか」
それもカズンの母セシリアから、カズンにたくさんの側近候補や婚約の打診が来ていると知らされてからだという。
「恐らく、カズン様がすんなりあなたたち三人での関係に巻き込まれてくれたのは、ヨシュアのおまじないの効果だったかと」
「………………」
ユーグレンは何も言えなかった。
本来なら王族への無許可の術の行使をたしなめるべきなのだろうが、自分だって三人でいた短い期間中、それなりに良い思いをしたからだ。
「私も気づいたのは、随分後になってからのことだったので。もっと早くわかっていれば、ちゃんと欲しい相手が手に入るよう助言したのですが」
「ルシウス様」
咎めるようなユーグレンの視線と口調に、ルシウスが肩を竦める。
「……私は、欲しいものが手に入らなかった男なので。可愛い甥っ子には、幸せになってもらいたかったのですよ」
元々、王家とリースト伯爵家には因縁があって、王家の者はリースト伯爵家の者に惹かれやすい。今回のユーグレンのように。
数代前には、両想いになった王族と、リースト伯爵家の娘もいる。
ただ、大抵はヨシュアの祖父とヴァシレウスのような主従関係に収まっている。
「ユーグレン殿下は、王家とリースト伯爵家の話はどこまで聞いておられますか」
「……それぞれ、勇者と魔王の始祖がいると」
ユーグレンたちアケロニア王族の始祖は、かつて魔王を倒した勇者であり、そして前王家の邪悪な錬金術師ロットハーナ一族を倒したことも含めて勇者の性質を代々受け継いできている。
その勇者の性質のひとつが、人々の本質を見抜くための人物鑑定スキルだ。
この世界では鑑定スキルはとても特殊なスキルで、限られたものにしか発現しない。人から習っても、発現する者としない者が分かれている。
腐敗する王政国家が多いにも関わらず、アケロニア王家は名君や賢君が多数輩出されることで有名だった。
そういうところに、勇者の血筋が現れていると王族は習う。
対するリースト伯爵家の始祖は魔王だ。
世界征服を企むような悪役ではなかったのだが、何しろ強すぎた。
始祖は人類の古代種ハイヒューマンで、古の時代に少し暴れただけで平気で山河の形を変えてしまう。そういう一族だった。
あまりに暴挙が過ぎたので、当時“勇者”の称号持ちだった男に、“魔王”の称号持ちの始祖が懲らしめられる出来事が起きた。
戦いの後、彼らは親友になり、千年以上前に仲良く一族ごと今のアケロニア王国がある地域に移住してきたと伝わっている。
以降、付かず離れずの関係が続いている。
約800年ほど前に、当時アルトレイの家名を名乗っていた勇者の子孫が前王家ロットハーナ一族を倒し、新たな王族となってからも。
その因縁のせいなのか、縁ができるとお互い惹かれやすい。特にユーグレンのように王族側が。
ヨシュアのケースはどちらかといえばレアケースだ。
「私が、三人でいるとバランスが良いと見たことは、今も変わりがない。……ただの友人に戻ったとしても三人の縁が切れることはない」
それだけは保証する、とルシウスが、ヨシュアとよく似た麗しの顔でユーグレンを見つめてきた。
ただし、と更に先を続けた。
「カズン様には環が発現したし、我が甥ヨシュアにも魔術師フリーダヤが何やら助言したようだ。殿下、あなたがこれからもあのふたりと関わるなら、……覚悟しておいたほうがいい」
環使いとなるなら、どこかで王族の責務から離れる可能性がある。
現王家は王族の数がとても少ない。
次世代の王となることが確定しているユーグレンが選ぶには、あまりにもリスクの高い道だった。
「君さあ。そういうヘコんだときこそ、環出してリセットすべきなんじゃないの?」
「あなたみたいな人でなしにはわからないんだ。この胸の痛みこそが、人の生きる証ではないか!」
今や己の最愛といっても過言ではない甥っ子に「うそつき」「大っ嫌い」などと言われて、リースト子爵ルシウスは深刻なダメージを受けていた。
そこを師匠の魔術師フリーダヤに見つかって、こうしてからかわれているわけである。
そんなわけで、リースト伯爵家の本邸内、四日目の雰囲気はとても微妙だった。
何となく一同、談話室のサロンにいるのだが、会話は少ない。
ヨシュアはずっと機嫌が悪いし、ユーグレンは塞ぎ込んでいる。
その叔父ルシウスも落ち込んでいて、彼らしい覇気が失せて麗しの美貌も翳っている。
フリーダヤにからかわれても言い返す言葉は力ない。
カズンはといえば、昨日の二日酔いで動けない状態から復活して、朝食後は厨房に突撃して魚卵イクラの更なる可能性を探求しに行ってしまった。
「ちょっと提案なんだが、いつまでもここにいないで、王都帰ったほうがいいんじゃねえの?」
ライルの提案に誰も反対しなかった。
もう当初の目的だった鮭の魚卵もそこそこ堪能したことだし、夏のリースト伯爵領は避暑地なわけでもない。
まだ夏休みの8月上旬だったが、王都にいたほうが何をするにも便利だろう。
そもそもが、何日間滞在するなどはっきり決めていたわけでもなかった。
今、ちょうどカズンがリースト伯爵家本邸の料理人たちに混ざって昼食の準備をしているので、子供たちは全員、昼食後に王都に戻ることにした。
昼食はリースト伯爵家ご自慢の『サーモンパイの赤ワインソース添え』だった。
大変美味なご馳走パイなのだが、一同は味わいを楽しむところではない。
特に会話が弾むでもなく、昼食は淡々と終わった。
なお、残りの魚卵はヨシュアが魔法樹脂に封入して、欲しい者には土産としてくれることになった。
持ち帰り組はカズンとライルのみであったが。
ルシウスはリースト伯爵領に残って当主代理を務めるため、しばらくは仕事を片付けているとのこと。
カズン、ヨシュア、ユーグレンの三人はまだ不穏な空気を漂わせたまま。
ライルとグレンは、腫れ物には触らぬで余計な口を挟まず、差し障りのない会話だけしていた。
魔術師フリーダヤの空間移動術で、学生組は夕方前には王都のリースト伯爵家のタウンハウスまで戻ってくる。
フリーダヤは、環が出せるようになったばかりのライルのことをもう少し見たいからと言って、ライル、グレンと同乗してホーライル侯爵家へ向かうという。
伯爵家の家人に確認したところ、一日前に戻ってきていたカズンの父ヴァシレウスは、今日は友人である学園の学園長エルフィンを訪ねる予定だとアルトレイ女大公家から連絡を受けているのことだった。
リースト伯爵領から持ち帰った鮭と魚卵イクラの醤油漬け、山葵などを持って飲みに行っているらしい。
そちらはルシウスが魔法樹脂に封入してあるので、鮮度を保ったまま土産にしていたものだ。
「それなら僕はお父様を迎えに行こう。ユーグレン、おまえは王宮からの迎えをここで待つか?」
「いや、学園に行くなら私も行く。エルフィン先生に新学期のことで確認したいことがあったんだ」
王族ふたりが行くなら、まだカズンの護衛に任じられたままのヨシュアも当然、ついて行くことになる。
「うーむ。王都、何だか寒くないか?」
まだ8月なのに、馬車の中にいても少し肌寒い。
「分厚い雲で曇ってますねえ。今夜は雨が降りそうです」
馬車の窓から空を仰いでヨシュアが天候を読む。
気圧の変化で気温が下がっているらしい。
馬車の中での会話といえば、それきり、誰も喋らなくなった。
「………………」
(き、気まずい)
馬車の中に漂う空気の気まずさにユーグレンは居た堪れなかった。
馬車の中での座席は、ヨシュアがひとり、カズンとユーグレンがふたり並んで座っていた。いつもならヨシュアはカズンと並んでいることが多いのだが、今回はヨシュアから独りで座った。
結局、リースト伯爵家の本邸にいた間は、三人で話し合いなどは何もしなかったのだ。
(このまま先延ばしにするのはきつい。ヴァシレウス様と合流したら、カズンの家で今度こそ話し合いを……!)
そして、できたらその場にはヴァシレウスに同席してもらって、カズンとヨシュアが喧嘩しないよう見守っていてもらいたかった。