あやかし白狐~恭稲探偵事務所、真実の事件ファイル~ Ⅳ

 一週間後――。

 深夜二時。
 恭稲探偵事務所。


「ふぅ」
 自身のチェアに着席し深く息を吐き出す慶は、新たなる依頼者と向き合うために精神を落ち着かせる。


 慶の目の前には、起動済みのノートパソコンが開けられている。右横には白姫から借りている白の卓上型スマホスタンドには、自身のスマホがセットされている。

 ノートは個人情報流失事件により、ロックナンバーを設定して開閉めするB5サイズの手帳に変化していた。


「簡単な依頼やったらええんやけどなぁ」

 本音をポツリと呟く慶はノートをロック解除させて開く。中がリング型になっていて使いやすそうだ。右横についているペンホルダーに収納している赤色と黒色のインクが使えるボールペンを取り出し、ノートの上にそっと置いた。

 白姫は智白の部屋でなにやら話し込んでいるようで、部屋には必然的に慶一人だ。


「よっし!」
 顔の前で両拳を作って気合いを入れた慶は、例のごとくリモートアプリ、『skyblue』を開ける。

 慶は手慣れた手つきでIDとパスワードを入力する。


【ログインが完了いたしました】
 数秒ほど歯車マークがクルクルと回転したあと、画面がマイページに切り替わる。ユーザー名 Kei18559452 ユーザーアイコンは変わらないままだった。


 次に慶は受け取った書類に記載されているIDへ通話リクエストをかける。その書類には、依頼者の名前の情報すらなく、ただBlueskyのユーザーIDしか記載されていなかった。

 三回程のコールが響いた後に、プツッと言う低い機械音が響く。

 モニター画面が一瞬真っ暗になった後、依頼者が映し出される。


「ッ⁉」
 Keiは飛び出そうになる言葉をかろうじて飲み込んだ。

 驚くのも無理はない。モニター画面に映る依頼者は、守里愛莉だったのだから。

『こ、こんばんは』
 度胸が据わっている愛莉ではあるが、今は目に見えて緊張していた。


「よ、ようこそ、恭稲探偵事務所へ。私の名は、Keiと申します。恭稲探偵事務所の依頼者は、貴方様で間違いはございませんか?」
 まだ動揺を隠しきれない慶は少しどもりながらも、冷静さを持つように心がけて話す。


『はい。私の名前は、守里愛莉と申します。お世話になります』
「はい。よろしくお願いいたします」
 Keiは初めて見る方言を消した大人の愛莉の姿が可笑しくて、内心で笑顔を隠す。


「早速で申し訳ございませんが、本日のご依頼はどういったものでしょうか?」

『えっと、凄く可笑しな依頼で、可能なのかも分からないんですが……』

「可能か可能ではないかは、こちらが判断いたします。守里愛莉様のご依頼内容を笑ったりも、不躾にひと蹴りすることもありません。ご依頼内容は外部の者に知らせることもありません。どうぞご安心して、ご依頼内容をお話しいただけますか?」
 Keiは愛莉を深く安心させるように、ゆったりと穏やかな口調で話し、柔らかな笑みを浮かべた。


「……」
「? 守里愛莉様?」
 一言も話さずボーっとする愛莉を不思議に思うKeiは小首を傾げる。


『ぁ、すみません。Keiさんの声や微笑みが私の大切な人に似ていたので』
「そう、でしたか」
 Keiはそっと微笑む。


『えっと、本当に変な依頼になるんですが──』
 愛莉は一呼吸を置いて、話し出す。
『三年前に天国へ旅立った碧海聖花という女性を捜し出して、私に会わせて欲しいんです』


「ぇ?」
『や、やっぱり可笑しいですよね』
 愛莉は自嘲気味な笑みを見せる。


「可笑しいとは思いません。ただ、何故三年前に天国へ旅立った方を今になって捜そうと?」

『今となっては、本当に天国へ旅立ったかも分からないんです』
「!」
 愛莉の言葉にKeiの心臓が跳ねる。


『二週間ほど前から、碧海聖花が生きている説が浮上し始めて、私は騙されていると思いながらも通勤途中や休日に聖花の姿を探していました。だけど、何処にもいなくて──。

 ですが、伏見稲荷大社で碧海聖花を見かけたって人がいるんです。それに、これは私の夢の中の映像なのか現実かさえも分からないんですけど、聖花と会った気がするんです。

 色々な不思議なモノ達が戦うなかで、貴方とよく似た女性がいました。瞳を含める見た目は全然違いましたが、私の直感がその人が碧海聖花に思いました。

 一週間前から碧海聖花とその女性を探していますが、未だに出会えていません。途方にくれていた私に助け舟を出してくれるように、恭稲探偵事務所の動画と出会いました。

 どうか私が納得出来るまで、探してくれませんか? 人非ざるものの手を借りても見つからなかったのなら、私も現実を受けとめます』


「……分かりました」
『ほんまですか?』
 愛莉は嬉しさのあまり、方言がでてしまう。


「はい。ですが守里愛莉様、人あらざるモノの手を借りるならば、いくつかの条件があります」

『動画にも書かれていましたね。条件と言うのは、一体どういうものなんですか?』


「一つ目。ここへ通じる道――鍵を口外してはなりません」
 Keiは例のごとく、人差し指、中指と、指を立ててゆきながら、条件を述べてゆく。ただ一つ違うのは、今回の依頼契約や依頼条件及び製作についても、全てKeiに任せられていること。


 愛莉は不安気な表情で、Keiが全て言い終えるまでのあいだ、静かに耳を傾け続けた。


「二つ目。今回の依頼で経験した事柄や知恵は全て、自分の身へ留めておくこと。

 三つ目。こちらが依頼者に必要だと判断した言動は素直に従ってもらいます。こちらは主に、依頼者の生死に関わる場合に適用されやすいものとなります。

 四つ目。こちらが提示した鍵で依頼者が真実を知ったとて、基本的に私はそれに対し、一切の関与はいたしません。真実を手にした依頼者が闇に落ちるも光へ導かれるも、依頼者自身の問題です。それが、真実を知る者の覚悟と責任。だと私は思っています。

 知りえることになる真実には、生半可な覚悟で受け止められるものじゃないものもあります。
 私は依頼者の人生まで背負うことは出来ませんし、依頼者の人生は依頼者のものです。私が大きく関与することはできません。

 この四つの条件が飲める場合のみ、契約を交わしてもらいます。といっても、はい。と答えた時点で、そちらに拒否権はなくなります」
 Keiは契約条件について、過去白から言われた言葉達を借りながら伝えた。


「どうなさいますか?」
『分かりました』
「では一度リモートを終え、守里愛莉様のDMに依頼書ファイルデーターを添付いたします。そちらにサインをご記入後、私の方へと再添付して送りつけ下さい」

『はい。分かりました。よろしくお願いいたします』
 愛莉はモニターに映るKeiに向って頭を下げる。


「こちらこそ。では、失礼いたします」
 そう言って会釈を返すKeiは、一度リモートを終了させた。


「ふぅー」
 慶は盛大に息を吐く。その表情は嬉しさと驚きと困惑が綯い交ぜとなっていた。


【智白さん、今、依頼者と一度目のリモートを終えました】
【依頼者は守里愛莉でした。あの愛莉です】
【依頼内容は〈三年前に天国へ旅立った碧海聖花という女性を捜し出して、私に会わせて欲しい〉というものでした】
 慶はkutouで智白と二人だけのトークルームを使い、メッセージを送る。


【依頼者の依頼を受ける受けないも、どう解決するのかも貴方の意思次第です】

【また、今回は契約書もご自分で制作して頂きます】

【一から十までご自身で考え、ご自身で判断し、ご自身で行動なさい。貴方はもう自由の一歩手前まで来ています】

 三つに分けて届けられたメッセージを確認した慶は、「ですよね~……」と言って、ガクリと肩を落とした。


 未だ白姫は智白の部屋から戻ってこない。智白がわざと引き止めているのかも知れない。

 このような時間に一人あのような場所で、愛莉一人を長時間いさすことも出来ないため、いつ戻るか分からない白姫を待っていることは出来ない。となれば、本当に慶一人で考えて判断した答えを実行に移さなければならぬということだ。


 愛莉に会って真実を伝えたい気持ちはあるが、まだまだ不安が拭えない。

 白妖弧と黒妖弧が手を取り合ったとはいえ、自分と自分の大切な人達に危害が加わらないという保証は、まだ何処にもない。


♪コンコンコン。
「はい」
 慶は部屋のノック音に返事をする。


「開けてもよろしいですか?」
「どうぞ」
 智白の声に返答をする。


「白様がお呼びです」
「ぇ?」
「早急に来なさい。大切な話です」
 智白はそう伝えるだけ伝えると、部屋の扉を閉じた。


 慶は待たせている愛莉が気になるが、白の大切な話と言うからには生命に関わることがあるやもしれぬと、後ろ髪を引かれる思いで応接室へ足を向けることにした。

 だが愛莉を放置することを不安に思った慶は、kutouで白姫と二人だけのトークルームを開き、【白姫お願い。可能なら愛莉を見守って。今、伏見稲荷大社の千本鳥居の所におる】というメッセージを送信した。

 既読マークは流星のごとくつき、【了解】とだけ返事が届く。


【ありがとう】
 とだけ送った慶は鏡で身なりを整え、応接室へ足を向けた。


「こちらへ」
 慶が部屋を出てすぐ、いつものレザーチェアに悠然と腰を下ろしていた白が言う。

 普段ならばこの時間の応接室は、モニター画面と月明かりしか照らされていないが、今は煌々と人工的な灯りがついていた。


「は、はい」
 どもりながら返事をする慶はぎこちない動きで白の元へ歩み寄り、机を挟んで向かい合う。白はレザーチェアーに座ってはいるが、その美しさと独独のオーラは未だになれず、圧迫感からの緊張感が拭いきれない。


「そのオドオドとした態度は、いつまでも変わらぬな」
「ぇ?」
「いい加減、無意識なジャッジを止めたらどうだ?」
「どういうことですか?」
 言葉の意味が理解出来ない慶は小首を傾げる。


「無意識に相手が自分より上だ下だとジャッジすることだ。相手が上だと感じればオドオドし、へりくだり、相手が同類または下だと感じればヘラヘラと振舞う。特に縦社会の強い日本で住む者達には、そういう傾向が強い。そもそもそのジャッジは、本当に正確なのか?

 同じ立場のものだとしても、自分を過大評価しているものと、過小評価しているもので、ジャッジは変わってくるだろう。心持次第のジャッジで、自分で自分を落とすなど馬鹿げているとは思わぬか? 

 相手も同じ感情を持つ生き物。
 人間、あやかし、この世界に生きぬモノ、感情を持つものたちならば、恐れることはないのではないのか?

 社会には、差別発言にあーだこーだと騒ぎ立てているものがいるが、そういうものに限って、あの人は生きる世界が違うだの、あの人は不思議な子だとジャッジをする。

 世界線からの差別を破壊することが、自己への確立と平和の一歩だとは思わぬか? 何故ならば、この世はワンネスだからな」


「ワンネス?」
 聞いたこともない単語に、慶は頭上にクエスチョンマークを浮かべる。


「本来、この世の全ては一つである。という概念だ。私達は何も考えずに生きていれば、〈自分と他者〉など、物事を区切って捉えてしまうことが往々にしてある。
 だがワンネスという考えの元では、万物は本来一つの存在としてつながっており、物事の間に境界はないとされている。つまり、私と藍凪慶も同じ存在だと言える。智白や白姫もまた然り」


「そ、そんなッ! ありえませんッ。全く違うやないですか」
 珍しく白の言葉に強く反論する。当たり前だ、見目も妖力や属性、持っている知恵や叡智や思考など、なに一つとして全く同じモノではない。


「何故、今目に見えるモノだけで判断する?」
「ぇ?」

「私達は肉や臓器を取り除けばただの骨。骨の姿形は個によって違うが、それを燃やせば皆が同じ色の灰となる。もっと細かくいえば、私たち生きとし生けるものは全て、素粒子が固まってなるものだ。そして、魂がある」


「……」
「またお得意のおとぼけ顔か? 本当に成長せぬな」
 難しい話しになってきたぞ……と内心で眉根を寄せていた慶を感じ取った白は、そう言って微苦笑を浮かべる。


「そ、そないな顔していません」
「そうか? だが私の話している意味をよくよく理解していないようだが?」

「それは……」
 慶は言葉に詰まる。全く持ってその通りだからである。


「だろうな。間接的に話すならば、〈ワンネスという考え方の元では、本来自分と他人の間に境界線はなく、自分も他人も同じくらい尊重出来る存在である〉ということだ」

「どうしてそんなことが言えるんですか?」
 同意しかねる白の言葉に、慶はまた問いかける。


「私達は、魂が中心にある素粒子の塊だからな。そこに各々が持って産まれて来た人生の設計図である魂の青写真を地図のように、人生に置いての色々な経験を積んでいく。
 その過程において、色々な感情や学びを重ね、各々の個性が確立されてゆき、各々の世界が作られてゆく。


 己の普通は他者の普通ではなく、己が手放したいと思っているモノは、他者が欲しているモノかもしれない。


 己が当たり前だと思っている世界は、誰かから見れば奇跡の世界になり得る。
 それでも私達は一人一人違うブループリントを持ち、一人一人が違う世界を持ち、一人一人が違う個性を持って生きている。

 であるならば、本来ならば、自分と他人を比べる必要はない。ということになる。
 自分と他人を比べ、いい方向へと作用するならばそれも良いのだろう。
 だが多くのものは、比べることによって暗い方向へ左右させることが多い。〈他者と自分を比べて卑下することは無意味であり、自分と相手への冒涜になり得る〉ということだ。


 他者と自分を比較すればするほど、本来自分が持つ個性が押し込められ、生きづらくなるだけだ。自分で自分の世界を狭め、自分で自分の首を絞めているようなものだ」


「他者と自分を比べないことが、本当の自分で自由に生きられるということですか?」


「そういうことになるな。それと、人生の遅咲き早咲きなどと騒ぐものたちがいるが、それも今を無駄にする。ワンネスには時間軸がない。

 そもそも、時間と言うのは人間が産み出した数字にしか過ぎないのだ。時差と言うのがいい例だ。


 ワンネスという宇宙的考えに及べば、時間に追われて身も心もすり減らすことはない。各々には自分だけの人生時計を持っているのだからな。


 相手が上だ下だ、勝者だ敗者と不毛な執着は自身を幸せから遠ざけることになる。一歩間違えれば、本来であれば輝ける魂も、不毛な争いや執着を持つことによって、違うフィールドで戦い続けた結果、苦しい日々を過ごすことになる。


 我々は同じ源から誕生した魂であり、各々が持つ人生終了時刻が来れば、また同じところへ帰結する。それは、人も、あやかしも、動物──生きとし生けるもの、魂をもつもの全てだ。そうであるならば、抱える生きづらさも和らぐのではないか?」


「──そうかも、しれません」
「さて、長くなったな」
 白は机の上に、一枚の書類を置いた。


「何ですか?」
「黒桂から届けられた誓約書だ」

「誓約書?」
「目を通してみろ」
「はい」
 慶は頷き、失礼しますと、一言断りを入れてから契約書を手に取り、目を通す。
【私達黒妖弧は、二十××年 四月 四日より、藍凪慶及び、藍凪慶に関連するものたち全てから手を引き、今後一切危害を及ぼさぬことを、ここに誓います。

もし、これらを罰すモノが現れた場合、現当主である黒羽がそのモノに処罰を加えます】
 という内容の下に、黒桂から追記のメッセージが記入されていた。


【今まで辛い日々を過ごさせてしまってごめんね。
 今後は、父親として出来うる限り君の近くで、君をサポートしてゆきたいと思っている。
 君がもっと自由に輝き、一秒でも多く笑顔で過ごせることを、心から願っているよ。
                                                       黒桂】


 契約書の内容と、黒桂のメッセージを読んだ慶の瞳が潤む。



「藍凪慶。これで藍凪慶を含む者達が黒妖弧から命を狙われることもなくなる。友と会おうが、碧海響子、碧海雅博に会おうが自由だということだ」

「ということは……」
「嗚呼」
 と相槌を打った白は書類を二枚、机の上に置いた。それは、過去に藍凪慶が恭稲白と交わした契約書だった。


【恭稲探偵事務所が受け付けました碧海聖花との依頼は、藍凪慶に引き継がれます。
 改めて、依頼内容に対するこちらの働きかけは、以下のものとする。


 依頼者である碧海聖花改め、藍凪慶の命を狙う主犯が見つかり、安全に生活出来るまでのあいだ、藍凪慶と藍凪慶が大切に思う者達を守ろう。
 それと並行して藍凪慶の本当の両親についての調査を行う。
 その期間は、主犯が見つかり、根本を削除するまでの間とする。
 また、この依頼に関する費用は不要とする。


 ※提示した働きかけに問題がなければ、こちらが提示する以下の条件(契約)に進んでもらう。それらに対する覚悟があるのなら、依頼者の欄にフルネームを署名し、画像を再添付送信してもらおう。


 一、ここへ通じる道――鍵を口外してはならない。

 二、依頼期間に経験した事柄や知恵は全て、自分の身に留めておくこと。

 三、こちらが提示した鍵で依頼者が真実を知ったとて、恭稲探偵事務所はそれに対し一切の関与はしない。

 四、藍凪慶は契約終了までのあいだ、恭稲白の駒となる。

 五、これらの条件を罰した場合、恭稲探偵事務所なりの対処をさせてもらう。そこに対し、依頼者の命の保証はない。
 求める鍵の受け取りを放棄したとみなし、鍵を与えるも与えないも恭稲探偵事務所側の権利とみなす。


 恭稲事務所が提示した以上の働きかけ。また、全ての条件に対しまして、私、藍凪慶は改めて承諾いたします。
                      
 依頼者         】


【一、ここへ通じる道――鍵を口外してはならない。

 二、依頼期間に経験した事柄や知恵は全て、自分の身に留めておくこと。

 三、こちらが依頼者に必要だと判断した言動を素直に従ってもらう。

 四、こちらが提示した鍵で依頼者が真実を知ったとて、恭稲探偵事務所はそれに対し一切の関与はしない。

 五、これらの条件を罰した場合、恭稲探偵事務所なりの対処をさせてもらう。そこに対し、依頼者の命の保証はない。
 求める鍵の受け取りを放棄したとみなし、鍵を与えるも与えないも恭稲探偵事務所側の権利とみなす。


 恭稲事務所が提示した以上の働きかけ。また、全ての条件に対しまして、私、碧海聖花改め、藍凪慶は了承いたしますことをここに示します。

 依頼者名 

 また、私は今後生きていくことや、恭稲探偵事務所で働くことにおきまして、以下の契約を守ります。


 一 私は今これより、碧海聖花としての命を終え、今後は[藍凪慶]として生きてゆきます。

 二 それに伴い、私は金輪際、碧海聖花の名を名乗りません。

 三 恭稲探偵事務所で依頼者と関わる時においては、藍凪慶の名を隠し通します。そして、[Kei]という名で活動いたします。

 四 己はもちろんのこと、他者が碧海聖花の名を口にした場合、連隊責任として、藍凪慶とその者は腕立て五十回+スクワット五十回いたします。

 五 恭稲探偵事務所の業務中、髪色と瞳の色を変更いたします。

 以上のことを守らなかった場合、恭稲探偵事務所から出ていくことを誓います。
 
                                     契約書名           】



「藍凪慶が現在担当している依頼が終了次第、私との契約からも解放される。最後の依頼、自分の思うがまま行えばいい。藍凪慶が自分で考えたことで必要ならば、こちらがサポートする。以上。話は終わりだ」


「ありがとうございます」
 瞳に涙をめーいっぱい溜めた慶は、体育会系のように頭を下げると、ドタバタと自室へと戻って行った。

 白はそんな慶の背中を見て、柔らかな笑みを口端に浮かべるのだった。




 勢いよくチェアに腰を下ろす慶はパソコンのworld Textnoteを開き、契約書を作成する。


【守里愛莉様のご依頼は、恭稲探偵事務所が受け付けました。
 ご依頼内容に対するこちらの働きかけは、以下のものとします。


一 依頼者である守里愛莉様が捜索する“碧海聖花”の居場所を、恭稲探偵事務所のKeiが突き止めます。それは、生死の確認も含みます。

二 碧海聖花が見つかり次第、守里愛莉様にお会いさせます。

 その期間は、本日より三日以内といたします。
 また、依頼者が真実の鍵を手にした時点で、調査及び依頼は終了し、その後のことについて、こちらは一切の関与はいたしません。

 また、こちらのご依頼に関する費用は不要といたします。

※提示した働きかけに問題がなければ、こちらが提示する以下の条件(契約)に進んで下さい。
 それに対する覚悟が整えば、依頼者の欄にフルネームを署名し、画像を再添付送信して下さい。


 一、ここへ通じる道――鍵を口外してはなりません。

 二、依頼期間に経験した事柄や知恵は全て、自分の身に留めておくこと。

 三、こちらが依頼者に必要だと判断した言動を素直に従ってもらいます。

 四、こちらが提示した鍵で依頼者が真実を知ったとしても、恭稲探偵事務所はそれに対し一切の関与いたしません。

 五、碧海聖花が現在どんな姿で、どんな名を名乗っていたとしても、守里愛莉様の直感を信じて下さい。

 六、碧海聖花が名を変更していた場合、変更後の名で呼んで下さい。もし、碧海聖花の名を口にした場合、腕立て五十回+スクワット五十回をして下さい。

 七、これらの条件を罰した場合、恭稲探偵事務所なりの対処をさせてもらう。そこに対し、依頼者の命の保証はありません。
 求める鍵の受け取りを放棄したとみなし、鍵を与えるも与えないも恭稲探偵事務所側の権利とみなします。


 恭稲事務所が提示した以上の働きかけ。また、全ての条件に対しまして、私、守里愛莉は承諾いたします。
 
                                    依頼者                 】



「出来た!」
 契約書を完成させた慶はテキストファイルを保存し、自身のスマホに送信した。贈られたデーターを開き、スクリーンショットを撮影後、そのフォトデータを依頼者である守里愛莉とのDMに送信した。

 愛莉からサインが書かれた契約書が送られてくる前に、通話リクエストコールが鳴り響く。


「はい」
 Keiはすぐさま通話コールに応える。

『ぁ、Keiさん。今送られてきた契約書を確認したのですが、なんか色々と契約が増えているのですが……。第七の条件についても、ん? と思うこともありますが、それはまぁ私が変なことを起こさなければいいだけの話なのでスルーしますけど。
 ただ、第六の条件、碧海聖花が名を変更していた場合、変更後の名で呼んで下さい。もし、碧海聖花の名を口にした場合、腕立て五十回+スクワット五十回をして下さい。というのは、どういう意味ですか?』


「ペナルティーです」

『何故、そちらがペナルティーをつくられるんですか? まるで、すでに碧海聖花が名を変えているようです。すでに居場所を知っているようです。依頼解決期限が三日以内と言うのも、早すぎます』


「人智を超えたことなどいくらでも起こりますから。三日もあれば充分です。ペナルティーについては、もし本当に碧海聖花様が名を変えて隠れて生活していた場合、過去の名を口にされたら困ってしまうかもしれません。その為、ペナルティーを先に提示していた方が気をはることが出来ますよね?」


『……まぁ、そうですね』
「いかがなさいますか?」
『分かりました。サインを送るため、一度リモートを終えさせてもらってもいいですか?』
「はい」
『では、一度失礼します』
 愛莉の手によって、ブッと言う短い低機会音が響き、リモート通話が終了される。


「ふぅ〜。契約書の説明、ちょっと無理があったかな?」
 慶は緊張した心をほぐすように長いため息を吐き、苦笑いを溢す。


 ほどなくして、愛莉からDMが送られてきた。 

 サイン済みの契約書ファイルデーターが送られてきただけで、補足メッセージはなにも送られてこなかった。


【サイン済みの契約書ファイルです】
 慶はそれをスマホに保存させ、智白とのトークルームに添付送信した。


【了解しました】
 とだけ返答が返ってくるが、智白から依頼書についてあれこれ口を出すことはなかった。本当に全て慶の意志で動けということらしい。

 慶は放任主義化したことに少し寂しさを感じながら、今一度依頼者の愛莉と向き合うため、再びリモート通話リクエストをかける。

 通話リクエストは瞬時に応えられ、愛莉とのリモート通話が再開された。


「契約書のサインを確認いたしました。これで、契約が成立いたしました。守里愛莉様のご依頼は、恭稲探偵事務所のKeiが責任を持ち、真実へと導かせて頂きますので、今後もご協力をお願いいたします」


『はい。どうぞ、よろしくお願いいたします』
 Keiの会釈に会釈で返す愛莉の表情はどこか晴れない。


「多くの不安や心配事が気を重くさせているかもしれませんが、どうぞご安心下さい。きっと必ず、再び温かな光が照らされます」

『──はい』
 Keiの言葉に愛莉はどこか力なく微笑む。


「では、何かわかり次第、また改めてリモートをお繋ぎいたします」

「はい。分かりました。どうぞよろしくお願いいたします」

『こちらこそ。では、失礼いたします』
 こうしてリモート通話を終えた慶は机の背にゆったりと背中を預け、脱力するように息を吐き出す。盛大に息を吐いた後の慶の表情は明るいものだった。

 二日後──。

 真夜中の零時。

 守里愛莉はKeiからの送られてきたDMにより、谺ケ池の前にあるフェンス柱に右腰を軽く預け、待ち人を一人で待っていた。

 池の前方を囲むように生えている木々から枝垂れる草木達が、春の夜風で踊っている。


♪コツコツコツ。
 ヒール音を響かせ、一人の女性が現れる。黒色のシンプルなスリムパンツスーツに身を包む女性は、黒色のサングラスをかけており、その瞳は見えない。

 靴の音で振り向いた愛莉は不審な女性の姿にビクリと肩を震わせて一歩後ずさり、強い警戒心を抱く。


「落ち着いて下さい。私は貴方の敵ではありませんし、貴方に危害を加える者ではありません」

「……」
 愛莉は耳なじみのある声音に、目と耳を研ぎ澄まさせる。

「私は恭稲探偵事務所のKeiです。ただ、それはある種、仮の姿であったかもしれません」
「仮の姿?」
 慶の言葉に愛莉の猜疑心が強くなる。


「Keiと言う名は、表向き。本当の名は<藍凪慶>と申します」
「藍凪慶?」
「はい。ただ、その名前は最近ある方に与えられたものです」
「名を与えられた? 芸名?」
 愛莉はますます怪しく意味の分からぬ人だと、怪訝な顔をして慶を見る。


「私は過去の名を捨てる必要性がありましたから」
「過去の名は、なんというのですか?」
 慶はその質問を待っていましたとばかりに、口元に笑みを浮かべ、サングラスをそっと外す。

 サングラスに隠された瞳にカラーコンタクトはされておらず、大きなアーモンド型の目元。濃いオレンジ色に赤黒い血液を混ぜたような色合いを持つ、慶本来の瞳があった。


「⁉」
 愛莉は慶の瞳を見て目を見開き、息を吞む。

「愛莉」
 慶は優しい声音で大切な心友の名を呼んだ。その声は震え、瞳には涙が滲んでいる。


「スぺサルタイトガーネット色の瞳──まさか、ぇ? ほんまに? ぁ! 夢、これはうちの夢なんか?」
 現実を受けとめたい気持ちと、素直に受け止められない気持ちが混同する愛莉は、自分で自分の頬を摘まんで確認する。


「いひゃい」
「ふっふ。何してんの?」
 慶は口元に拳を当てて笑う。


「ほんまに、聖花なん? 生きてんの? うちと同じ世界でおるんやな? うち、まだ生きてるもん」
「うん。私も愛莉も生きてる。名前は、藍凪慶に変わってもうたけど」
 慶の言葉に愛莉の瞳から涙が溢れだす。


「聖花~」
 愛莉は両手を広げ、慶に飛びつくように抱き締める。

「だから、もう聖花やないって。契約違反やで。後でペナルティーな」

「なんなんそれ? 性格キツなったんちゃう? っていうか、今まで何してたん? あの死体はなんやったん? 手紙は聖花が書いたもんやんな? ぁ、そのリング、響子さんが棺桶にいれてたやつやん! なんで持ってるん? なんで探偵やってるん? 恭稲さんって誰なん?」


「ちょ、ちょっと落ち着いてーや。そんな矢継ぎ早に質問されても答えられへんわ」
 慶は愛莉の両肩を優しくポンポンと叩きながら、愛莉を落ち着けた。


「ぁ、せやな。じゃぁー何から質問したらええ?」
「取り敢えず、順を追って説明するな」
 慶は少し落ち着きを取り戻した愛莉に、ゆったりとした口調でこれまでの経緯を話した。

 自身が命を狙われていたこと、恭稲探偵事務所に出会い助けをこうたこと、恭稲白と契約を結び幾度も幾度も助けてもらったこと、自身が半黒妖弧であったことなど、自身に関することは全て隠さずに話した。


 愛莉は真摯に慶の話に、耳を傾け続け続けるのだった。


「というわけで、私は人間やなかってん。それでも、また私と仲良ぅしてくれる? もちろん、無理にとは言わへ──ッ⁉︎」
 慶は最後まで言い終える前にお腹を抑え、苦痛に顔を歪める。愛梨が遠慮なく慶の腹部にストレートパンチをお見舞いしたからである。


「ぁ、愛梨さん?」
 いきなりの攻撃に意味が分からない慶は、説明を求めるように愛梨の名を呼ぶ。


「皆を悲しませた罰や。響子さんも雅博さんもうちも、どんだけ泣いたと思ってるんよ。なんで独りで抱えるんよ。聖花が皆んなを守りたいように、うちらも聖花のことを守りたいと思ってるし、大切に思ってる。水臭いことしなや! なんで一緒に闘おうとしてくれへんかったんよ⁈」


「ご、ごめんなさい。けど、あの時はあーするしかなかってん……」


「聖花がおらんくなって、何度帰ってきて欲しいと思ったか覚えてへん。あやかしやか、人間か半黒妖狐かなんや知らへん!
 名前が変わろうが人種が変わろうが、聖花は聖花やろ⁈ うちらは成長して性格が成熟して変化することがあるけど、丸ごと変化することはあらへんのよ。たとえ記憶を失ったとしても、その人本来が持つ優しさとか暖かさとか、本質は変わらへん。
 今後も探偵するつもりならそれでもええ。碧海家に戻るんが気まずいんなら、うちと一緒に暮らしてもいい。なんでもええから、早くうちらの元へ戻ってきてや」


「……あいりぃ」
 慶はずびっと鼻水をすすり、涙を流す。


「ほらな。子供のようにずぴずぴ泣くのも変わってへん」
 愛莉はどこか茶化すようにそう言って、リュックからポケットティッシュと、エチケット袋を取り出して慶に手渡す。


「ありがとうぅ」
 慶はお礼を言いながらティッシュを受け取り、豪快に鼻水を噛む。


「あぁー。あの頃と全然変わらへんやん。なんか、デジャブを感じるわ」

「そのデジャブ、私も感じてた。愛莉はいっつも、どんな私も受け止めてくれる。ほんまにマリア様のようや」

「……変な褒め方してもなんもないで」
 愛莉は照れ隠しが混じるじとーという視線を慶に向ける。


「いらんよ。ってか、なんかもらおうと思ってへんし。愛莉がまた隣で笑ってくれたらそれでええ。それがええ。また一緒に笑い合いたい」


「また一緒に、失った時間をゆっくりと取り戻して行こう。ほんま、生きててくれてありがとう」
 愛莉は穏やかな口調でそう言って、優しく慶を抱き締める。


 慶は愛莉の温もりに甘えるように、愛莉を抱き締め返すのだった──。






「慶、よかったわね」
 あの後愛莉と別れた慶は、恭稲探偵事務所に戻ってきていた。


「うん」
 二人の部屋で笑顔を向けてくれる白姫に、慶は満面の笑みを見せる。


「これから、どうするの?」

「どうしたらええやろ?」

「それは、私が決められないわ。慶の人生は慶のものだし、慶が作り上げていくものよ。今まで沢山我慢してきて生きてきたのだから、もう自分に我慢させないで。本当に心から望む自分で、心から望む世界を生きて欲しい。サポートが必要なら、私達がいくらでもするから」


「……白姫。ありがとう」
 すでに真っ赤に充血していた慶の瞳から、また涙が溢れだす。


「ほんっとに泣き虫さんね」
 白姫は微苦笑を浮かべながら、慶にティッシュを手渡した。


「ありがと~う」
 ティッシュを受け取った慶は、白姫にあやされながら、また思いっきり感情を開放して泣き腫らす。


「一つ、サポートしてもらってもええ?」
「もちろん!」
「じゃぁ──」



 その後。

 慶は白姫のサポートも借りて、碧海家に訪れ、自身のことを全て話した。あやかしだとか、半黒妖弧だとか言っても信じてもらえないだろうと、術を使える白姫にサポートしてもらった。


 初めは信じてくれなかった碧海夫妻であったが、慶の瞳の色と例のリングの存在によって、藍凪慶が碧海聖花であると信じてくれた。


 妖弧のことについては、白凪が色々な術を見せることで、信じてもらうことに成功した。白姫が、過去碧海家に泊った西条春香の姿に変身できたことが、信頼感を強くさせたのだろう。


 慶が戻ってきたことや慶の話を聞いたことで、碧海夫妻は泣いたり驚いたり怒ったりと感情の波が激しく荒れ狂っていたが、最後は慶を抱き締め、「お帰り、聖花。戻って来てくれてありがとう。生きていてくれてありがとう。これからは、藍凪慶としてよろしく」と、慶の全てを受け入れてくれた。その無償の愛に、慶はまた涙を流し、白姫はもらい泣きするのだった。

 翌日。


「無事、最後の依頼も完了したようだな」
「はい」
 いつものレザーチェアに悠然と腰を下ろしていた白とオフィスデスクを挟み、慶が立っている。


 時刻は午後十時。
 モニター画面の反射をせぬようにブラインドカーテンが閉じられているため、人工的な灯りがついていた。


「恭稲探偵事務所は、明日で永遠の閉業をする」
「ぇ?」
 慶は思いもしていなかった言葉に、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をする。


「藍凪慶が担当した依頼は完了し、私と藍凪慶の契約は終了した。私の目的も果たされた今、ここを営む意味も目的もないからな」

「もう依頼主と依頼者と言う関係性が終了するということですか?」

「嗚呼。そう言うことだ。チョーカー以外のアイテムを返却してもらおう」

「……はい」
 慶は少し名残惜しそうに全てのアイテムを一つ一つ自身から外し、丁寧に白の机に置いて返却した。


「随分と名残惜しそうだな」
「ある種の卒業をしたようです」

「私達が新たな舞台に立つとき、過去の舞台から降りなければならない。二つの舞台を同時に立つことは出来ないからな」


「恭稲さん達は、人間界と妖弧の境界線のような世界から旅立たれるのですか?」

「……そうだな。各々が各々で選び取った舞台に戻るだろう」

「初めて、自身のことへの質問に答えて下さいましたね」
 慶はどこかほっとしたように、穏やかな笑みを溢す。


「もう其方は依頼者ではないからな」

「そうですか」
 慶は口元に笑みを浮かべるも、呼び名が〈藍凪慶〉から〈其方〉へ変化したことに寂しさを覚えた。依頼契約が終わると、また新たな関係性が出来て親しくなれると思っていたが、どうやらそうでもないようだ。


「依頼者ではない私は、何処まで質問してもいいのでしょう?」

「したいようにすればいい。答えるか答えないかは私次第だがな」
 白はレザーチェアーに深々と背を預け、足を組み直す。優美で悠然とした姿に飲み込まれそうになる慶であるが、山ほどある聞きたいことを一つ一つ口に出してゆく。

「じゃぁ──、私と血縁のある母を知っていますか?」
「嗚呼」
 白はなんの躊躇もなく、小さく頷いて見せる。そこに偽りさは感じられない。


「! く、恭稲さんは、『碧海聖花と血の繋がりを持つ両親はすでに碧海聖花と同じ世界には存在しない』と仰いました。ですが、血縁のある父は生きていました。ということは母もどこかで生きているのではないのですか?」
 白の返答に対し驚く慶は一瞬言葉を失うが、次の疑問を投げる。


「私は〈同じ世界には存在しない〉と言っただけで、生死については発言していない。あの頃の其方は人間界という世界に存在し、黒桂は人間界と黒妖弧界の境界線の世界に存在していたからな」


「私の勘違いだったと?」
「まぁ、そうなるな」
 してやられた! という慶の表情を楽しむように、白は口元に弧を描く。


「じゃぁ、母は何処にいるんですか?」
「私の知る限りでは、天界だ」
「母は亡くなっていると?」
「私の知る限りではな」
 白はそう言って意味深な笑みを浮かべる。


「どういう意味ですか? 何か知っているんですか?」
「母親の件については、黒桂に問うた方がより精密な答えが知れるだろう」
「……分かりました。もう一つ、私が産まれる前から私の母と何らかの関係性を持っていましたか?」
「──嗚呼」
「!」
 慶は目を見開き、驚きの色を見せる。


「詳しく、お聞きすることは出来ますか?」
「聞いてどうする?」
「……知りたいんです。母のことを」
 貴方のことを。という言葉は胸の内に飲み込んだ慶は、白を真摯に見つめる。


「そうか……」
 白は一つ頷き、長い長い昔話を始めた。




「すっげ~! 真っ白な狐」
「これは高く売れんで!」
 小雪が降り続ける午後二二時。


 真っ白な狐は後ろの左足から血を流していた。

 狐を前後で挟むように、二人の男性が下卑た笑みを浮かべながら立っていた。五十代前半程の男性は猟銃を持っている。


「磨《ま》白《しろ》!」
 脇下まで伸ばされたブラックコーヒーより薄くて艶やかな色合いに染め上げられた髪に、顔周りから左へ流れるレイヤーと大きくあてたデジタルパーマをかけた品のある女性が、半ば悲鳴のような声で叫び、白狐の元に駆け寄ってくる。


「貴方達、何をやっているのよッ!」
 少ししまったシャープな顔と猫目がどこか鋭さを感じさせる女性は、臆することもなく男性二人を睨む。


「俺等が先にこいつに目をつけてたんや」
 二十代の男性がそう言いながら、白狐を指差す。


「邪魔すんなよ、ねーちゃん」
 五十代後半ほどの男性は鼻先を赤くさせながら、声を少し荒げる。


「貴方達、自分が何を言って、何をしようとしているか分かっているの? この子は野生の子じゃないの。磨白は私のペットなのよ。飼い主のいる動物を誘拐及び、暴力。ましてや殺害を冒した場合、どうなるかくらいわからない?」


「何を持ってして、コイツがねーちゃんのペットだって言えんねんッ。なんか証拠でもあんのか?」

「コレで、満足かしら?」
 五十代後半程の男性に、凛とした女性はある証明書を突きつけるように見せる。


 男性はまじまじとその証明書を見る。

 女性が突き出したのは、狐の健康診断書だった。


「野生でも多々いる狐をペットにしているから、よく疑われるのよ。毎回腹正しいから常に証明できそうなものを持っているの。コレでも文句あるなら、この子がお世話になっている病院に行く? こんな時間だから、もう明日しか空いてないけれど」


「チッ」
 五十代後半程の男性は舌打ちを打ち、「帰るぞ!」と言ってその場を去る。
 一緒にいた二十代の青年は慌ててその男性について行った。残された女性は、男性達が見えなくなるまで凛と立ち続けた。


「ふぅ。やっと行ったわね」
 男性達が見えなくなったことを確認してから、女性は安堵の溜息をつき、胸を撫で下ろす。


「君、大丈夫? うちで手当てしても大丈夫かしら?」
 女性は白狐の正面で両膝を下り、優しい口調で問いかける。

 白狐は同意をするように、女性の足元に歩み寄る。


「じゃぁ、行きましょうか。お互い風邪をひいてしまったら大変。君も早く手当てしないと」
 そう言って微笑む女性は白狐を抱き上げ、自身の車に乗り込み、この場を後にした。





「ただいまぁ。誰もいないけど」
 女性は苦笑いを浮かべ、事務所の中へと入る。

 女性が帰宅したのは、錆びれたバーの地下室だった。


「こんな所でごめんなさいね。身を隠さなければならないのよ」
 女性はそう言って白狐を横長オフィス机に乗せる。机の上にはディスクトップパソコンとキーボードとマウス。いくつかの書類が縦積みされていた。


 事務所の中にある家具は、恭稲探偵事務所と変わらないが、より英国らしさのある者達で統一されていた。照明はダウンライトで、不安な雰囲気と不思議な温かみを感じさせた。


「今、救急箱を持ってくるから、大人しくしていてね」
 そう微笑む女性はシェルフの一番下にある引き戸から大きな救急箱を取り出し、すぐに戻る。


「今から手当するけど、君を傷めつけているわけじゃないから。私を噛まないでちょうだいね」
 女性はスリムなゴム手袋をして、慣れた手つきで白狐の手当てをする。その間、白弧が声を上げることはなかった。


「出来た。君、随分と強くて大人しい子ね」
 後片付けをする女性は、救急箱を元の場所に戻し、背もたれ付きのチェアーに腰を下ろす。


「君は野生の子? 随分と綺麗な毛をしているのね。神様みたい。もしかして、本当に神様だったりして」
 そう話す女性は何かを思い出したように、また新たに口を開く。


「申し遅れたわね。私の名前は水瀬柊子──と言っても、偽名だけど。三十七歳で訳アリ闇探偵よ。君は……あやかし?」
 柊子の言葉に白狐は一瞬目を見開く。それもそのはずだ。この白狐は本当にあやかしであり、天狐になるまえの恭稲白なのだから。


「な~んてね。早々、人間界に妖弧ばかりいるわけがないわよね。名前がなかったら少し不便ね。取り敢えず、磨白と呼ばせてもらうわね」

「くぅ」
 幼い磨白は相槌代わりに、小さく声を上げる。天狐になる前の妖弧では、人間の姿に変化することも、人の言葉で話すことも出来ないのだ。


「磨白で良いってこと?」
 柊子の問いに答えるかのように、幼い白はコクリと頷く。


「ふふふ。本当に頭のいい子。これからよろしくね、磨白」
 柊子は優しく微笑み、麻白と名付けられた白の体を撫でる。麻白は噛み付くことも避けることもなく、柊子の好きなようにさせた。

「ねぇ、麻白。お腹空かない? 流石に君の餌になる様な昆虫や小動物はないけど……」
 と話しながら、柊子はもう一つの部屋に入って行った。


「お待たせ」
 ほどなくして戻ってきた柊子は、手に持っていたグラタン皿を磨白の前に置いた。グラタン皿には人肌に温められたミルクが、皿の七部まで注がれていた。人間界のミルクなど飲んだことのない磨白であったが、柊子の善意を受け取り数口舐めた。磨白の口には濃いものではあったが、どこか温かくて優しいものが心を癒した。


「ずっと独りだったから、嬉しいわ。なんだったら、ずっといてくれていいのよ? せめて、傷が治るまでの間はいてね」

 総長との意見の食い違いによって飛び出してきた幼い白に行く当てはない。


 何処かで隠れ住もうとも、野蛮な人間に見つかれば先程と類比したことが起きるか、それ以上も考えられる。それに、優れた聴力を持つ白に人間界の外気音は余りにも騒々しかった。
 かと言って、里に帰った所で総長に丸め込まれて終わる。総長を論破するアイディアもなければ、妖力もない。
 かくして、白は策を練るあいだ、柊子の世話になることにしたのだった。


**


 磨白として柊子半月程暮らしたある日の夜、柊子が疲弊して帰宅してきた。


「ただいまぁ」
 いつもならすぐにオフィスチェアーに座り、何らかの作業を始める柊子だったが、この日は倒れるように三人掛けのアンティークソファに倒れ込む。


「⁉︎」
 柊子から香る匂いを確認するため、磨白は柊子に歩み寄った。


「あら珍しい。慰めてくれるの?」
 うつ伏せに寝転んだままダラリと下げた左腕を磨白の頭に伸ばし、犬や猫を撫でるように、磨白の頭を撫でる。
 磨白は、柊子の好き勝手にさせてやった。そこに神経をやるより、柊子から香る黒妖狐の香りが気になっていたのだ。


「ダメね……。あの子のために、強くならないと」
「クゥー」
 磨白は鳴き声を一つ上げる。


「君にならいいか。少し、聞いてくれるかしら?」
 磨白はコクリと頷く。


「私が初めて本気で恋をした人ね、あやかしだったのよ。黒妖狐というあやかし。本当の姿を見た事はないけれど、美しい人の姿をしていたわ。名前は仁さん。

 私は仁さんの子を身籠って、自宅出産をした。仁さんと仁さんの知り合いの助産師さんだけでね。

 私の両親はすでになくなっていたから。あの頃はまだ祖母は生きていたけど、妖弧との子供を産みますだなんて、口が裂けても言えなかった。驚愕したまま旅立ってしまいそうだもの。

 一般的とは言えないけど、これから家族三人で仲良く過ごせるのだと思っていた。だけど、現実は甘くなかったわ。

 仁さんは私が出産した半年後に、誰かに殺害されてしまった。私は仁さんと約束していた通り、大切な我が子を孤児院に預け、指定されていた場所のココで闇探偵をしているの。見て……」

 柊子はスーツの内ポケットから取り出した手帳を開き、一枚の写真を取り出して磨白に見せる。

 今より若々しい柊子が生後二ヶ月ほどの赤ん坊を大切に抱き上げ、ファインダーに満面の笑みを見せている写真だった。


「!」
 磨白は刹那目を見開く。
 少し褐色した肌と、スぺサルタイトガーネット色をした瞳を持つ可愛らしい笑顔を浮かべた赤ん坊だったからだ。柊子の話が真実であることを、赤ん坊が告げていた。


「傍でこの子を守れはしないけれど、遠くからサポートしていくつもりよ。私が傍にいることでこの子に危険が及んでしまうようだから。あやかしの世界も世知辛いのね」
 柊子は涙が滲む声音でそう話す。磨白は柊子を慰めるように、だらりと伸ばされた左腕にぽんぽんと手を当てた。


「ありがとう、磨白。貴方がいてくれてよかったわ」
 柊子は磨白と握手するように、磨白の前足を握る。


「ねぇ、磨白。もしもこの子に出会ったのなら、この子と、仲良く、してあげてね。守って……あげてね」
 柊子はポツリポツリと吐露しながら、浅い眠りについた。

 磨白は柊子の足元にあった薄い毛布を引っ張り、柊子にかけた。


 三日後。


「磨白、どうしたのよ? 今までそんなにぐずるようなことなかったじゃない」
 磨白は仕事に行こうとする柊子の足元を前足で叩いたり、鳴き声を上げたりして、柊子が外に出ていくことを引き止めていた。


「今日はどうしても出て行かないと行けないのよ。依頼者と約束をしているの。ごめんなさいね。すぐに戻って来るから大人しく待っていてちょうだい。美味しいミルクを買ってくるから」
 と困り眉で微笑む柊子は、半ば強引に事務所を後にした。後を追いかけようにも、重い扉を開く力は今の磨白にはなかった。


 数分後、事務所の重い鉄の扉が開かれる。


「!」
 扉の前で何か策はないかと思案していた磨白はハッとしたように、勢いよく顔を上げる。
 そこには、ふわふわと柔らかなパーマをかけている甘栗色の髪を少し雨に濡らしたシャープなフェイスラインを持つ長身の男性が立っていた。


「やっと、見つけましたよ」
 目尻などに皺があるものの、美しい顔を持つ男性はヘーゼル色の瞳に磨白を映す。


≪智白≫
「こんな所で何をやっているんですか? さっきココから出て行った女性と過ごしていらしたんですか?」


《あれは、柊子という者だ。すぐに追いかけてくれ》
 白は胸の内で話す。それは、妖狐通しなら会話が成立する音のない言葉だった。


「はい?」
 話が見えない智白は珍しく素っ頓狂な声を溢す。


《あの者の娘は半黒妖狐だ。ここ最近、黒妖狐と赤妖狐の匂いがあの者からする。今から依頼者に会いに行くと言っていた。あの者が危険だ。詳しくは後から話す》

「分かりました。間に合うか分かりませんが……」
 智白は右腕を磨白に伸ばす。


《恩にきる》
 磨白から恭稲白に戻る白は、智白の掌から腕を駆け上がって智白の頭に乗る。


「では、行きますよ」
《嗚呼》
 智白は白の指示のまま、柊子を追いかけた。だが時はすでに遅く、見つけた時には、腹部から血を流した柊子は、うつ伏せに倒れていた。


「……どうしますか? とても残念ですが、今から癒しの力を持つモノを連れてきても手遅れです」
 智白の頭上から飛び降りた白は、右前足を柊子の手の甲に重ねる。それに気がついた柊子は、「……ま、し、ろ?」と呟く。


「ど、う、して?」
「私の大切な子を、守って下さりありがとうございました。心より感謝いたします」
 智白は柊子を安心させるように、穏やかな口調でそう伝えた。


「あぁ、かいぬし、み、つかった、のね。良かった……。コレで、独りぼっち、じゃない。よ、かった……」
 柊子はマリア様のように穏やかな笑みを浮かべ、両瞼を閉じる。


 白は追悼の意を捧げるように、しばし両瞼を閉じた。小雨が振り出し、皆が雨に濡れる。白の瞳から流れる一筋の水滴は、雨なのか涙なのかは、本人にしか分からなかった。



「こっちです! お巡りさん、早く! こっちから女性の悲鳴が」
「智白」
「はい」
 変に誤解されては面倒なことになると、二人はその場から離れ、白の意向で白妖狐の里へ戻るのだった。

 後に、天狐となった白は自身の目的を果たすため、慶を捜索するため、恭稲探偵事務所を開くのだった──。


 祈るように組んだ両手を、悠然と組んでいた足の太股の上に乗せ、長い昔話を終えた白は小さくも微かな息を一つ吐き出してまた口を開く。


「間接的にまとめると、其方の母は私の命の恩人であり、私が救うことが出来なかった唯一の人間だった、ということだ」


「……私に手を差し伸べたのは、やはり償いですか?」
 何とも言えない表情で静かに話を聞いていた慶は、下唇をキュッと噛み締め、視線を幾度かさ迷わせた後、どこか躊躇するようにそう問うた。


「私が、償いで動くと思うのか?」
「……それは、分かりません。被害者意識のようなもので動かれるようなことは、ないとは思いますけど」
 慶は眉をハの字にして俯く。


「この世は未だに、地位や名誉や権力などに振り回されすぎている。なぜ人もあやかしも、ないものばかりに目を向け、不毛な争いを続け続けるのか、幼い頃も今も分かりかねている。
 無いものねだりばかりして、自分が今持っているものや奇跡に目を向けずして、新たなことを得てしても、また、新たなものを手にしたくなる。
 その度に争い、自分に負荷をかけ続けた結果、最後には破滅する。
 だが世界を動かすには、トップの座に君臨せねばならない。それ故に人もあやかしも不毛な争いばかり続けられている。そういった不毛な争いなど、私の座で終わらせたいと常々考えていた。その為には、其方の存在が必要だった」


「! 償いではなく、自身の目的のために私を利用したということですか……?」
 慶は一瞬目を見開き、傷心したように、微かに振るえる声音で問うた。


「悪く言えば、そうなるな」
「そんな……」
 沈痛な表情を浮かべる慶は、右拳を胸に当て視線を床に落とす。
 償いと言われたとしても腹正しくも悲しいが、利用されたという事実はまた違う痛みを伴う。


「其方も命が守られ、求めた真実の鍵は得られ、世界は広がった。ある種、Win-Winであったはずだ」

「……そう、なのかも知れませんが」
 何処か腑に落ちないように不貞腐れる慶に、白は首を竦める。


 白は何も言わず、右手の親指と人差し指をパチンと鳴らした。
 グワン! とした金属音にも似た重低音が辺りに響く。


「⁈」
 慶が肩越しに振り向くと、白壁には例のブラックホールが出来ていた。

「あそこを潜れば、人間界へ降り立つことが出来る。そこで其方を待っている者がいる」

「誰ですか?」
「会えば分かる」
 白は慶に答えを与えることはなかった。


「分かりました」
「嗚呼」
 事務所に刹那の沈黙が流れ、慶が再び口を開く。


「……もう、私が恭稲探偵事務所に訪れることはないんですね」
「嗚呼。此処は閉業するからな」


「……」
「さぁ、もう行け。此処の外で首を長くして待っているモノがいる」
 白は視線をブラックホールに向け、慶に前へ進むことを促した。


「……はい」
 慶は名残惜しそうに頷く。内心では、依頼者で無くなった自分は白の側にいる理由がない。

 依頼契約で繋がれていた白との縁は、契約が終われば切れてしまうということを実感し、寂しく思う。


「恭稲さん」
「なんだ?」

「色々とありがとうございました。恭稲さんのおかげで私は色々なことを学び、色々な経験と体験をしました。その中で私は色々と成長できたと思います。考え方も大きく変わったかと思います。これからは、恭稲さんに教えてもらったことを胸に抱え、自分の人生を歩いていきたいと思います。大木のような強い幹で、柳のようにしなやかな動きで、月のように凛として」


「誰かの言葉を参考にするのも良いが、それに囚われすぎるのは良くない。依存になってしまうからな。自分が思うがままに生きていけ。其方の人生だ」


「はい! ……では、失礼いたします」
 慶はこのままうじうじ虫になっていつまでも居座ってはいけないと、白に背を向けて歩き出す。



「慶」
 白に背を向け恭稲探偵事務所を後にしようとする慶を白が引き止める。

 初めて〈慶〉と呼ばれた慶の胸はどきりと跳ねる。


「な、なんですか?」
 身体全体で振り返る慶の耳は軽く桃色に色づいていた。


「どんなことがその身に起きようとも、自分らしく生きてゆけ。自分の中にある心の中心を大切にすることを忘れなければ、本来の其方で生きてゆける。

 私を含め、人もあやかしも感情を持つ生き物だ。意志がある唯一無二の存在達だ。だからこそ闇を作り出すことも、光を作り出すこともできる。


 私たちは感情と言う意思がある、唯一無二の存在。それは生まれながらにしてだ。

 本来であれば私達は初声を上げた瞬間から、望月のように満ち足りた存在なのだが、環境や他者から受けるもので、自分軸が崩れていく。そこからはもう、自身が持つ望月はかけて行くだけだ。


 大人になって気が付けば、自分が何者かさえも分からなくなる。それはまるで朔のように、そこにあるはずのものが見えなくなる。だが、そこからだ。

 そこから初めて、私達がもう一度再生してゆくのは。大人になったからこそ、己のなりたい己に、己で己を再教育してゆけるのは。


 自分軸で生きられるようになった時、人は再び望月のように生きられるようになる。

 そうなったら他者と自分を肯定し、他者と自分を比べなくなる。自分が心から満ち足りていることで、何かを奪う気もならないだろうからな。

 まずは自分で自分を満たし、望月に戻ることから、穏やかな世界は始まるのかも知れぬな」
 白はそう話し、優しい笑みを口端に浮かべた。


「……私の望月はどうなっていますか?」

「それは私が決めるものではない。答えはいつも自身が握っている。本当の自分の声に耳を傾け続けろ。但し。問うてコンマ数字で返ってきた最初の返答が本質であり、後から追いかけてくる言葉はエゴの声でしかない。エゴの声は生存本能からくるものだが、自分を輝かせるには重荷になる。よくよく気をつけることだ」


「はい」
 慶は真摯な表情で力強く頷く。その表情は何処か満足気だった。

 例え利用されていたのだとしても、白が今まで与えてくれた言葉には、いつも月のような凛とした優しさがあるものだった。

 慶が一人で生きていけるように、強く自分らしく生きていけるように、常に導いてくれていた。

 ただ利用するものだけであったなら、そこまで手をかけないはずだ。そう思うことで、慶の心がほんのりと温かいものとなった。


「ありがとうございました」
 慶は深々頭を下げてお礼を伝え、ブラックホールに足を踏み入れ、恭稲探偵事務所を去るのだった──。
「!」
 例の二体の狐の像が作るブラックホールから飛び出した慶は、驚きで目を見開く。

 五歩ほど離れた場所で、ちょこんと両膝を折って待ち伏せしていた男性がいたからだ。


「やぁ、慶」
 男性は嬉しそうな笑みを浮かべ、右掌をひょいっと見せて挨拶をする。


「黒柳仁さん⁉︎」

「まさかのフルネーム呼びッ! ……お父さんって呼んでもらえるにはまだまだだね」
 そう苦笑い浮かべる男性、黒柳仁はスッと立ち上がる。


「ぇっと……すみません。血縁のあるお父さんが生きていたことや、仁さんがお父さんだということに実感が湧かなく……」

「標準語の敬語だしね〜。失われた月日の壁は大きいね」
 黒柳は微苦笑を浮かべ、返答に困った慶は眉をハの字にさせた。


「ごめん。ちょっと困らせ過ぎたね。気にしないで」
「……はい。ぁ! これから私は、黒柳さんのことをなんとお呼びしたらいいですか? 黒桂さん? 仁さん?」


「好きに呼んでくれて構わないよ。人間界では、黒柳仁と名乗って生活しているし、周りも仁と呼んでくる。呼びやすいように呼んでくれて構わないけど、せめてフルネームは止めて欲しいかな」


「分かりました。では、仁さんと呼ばせていただきますね」
 黒柳さん。と呼んだほうがしっくりきたのだが、慶はあえて一歩前に踏み出すことを選んだ。苗字で呼んだら、余計に距離を縮めてゆくことが困難に思えたからだ。


「うん。じゃぁ、行こうか」
「どこへですか?」

「もっと実感が湧かない世界で、もっと実感が湧かないであろう人へ会いに」

「?」
 慶は訳も分からず、黒桂こと、仁の後ろをついて行くのだった。


 *



「ここは……」
 仁の後ろについて歩いていた慶であったが、ピタリと足を止める。それもそうだろう。仁が連れてきたのは廃墟の病院だったのだから。


「あぁー。見た目はアレだけど、中は綺麗だから大丈夫だよ。怖いものは何も出てこないから安心して」

「安心してと言われましても……」
 慶はいつもの癖で左手首を右手で包むように持つ。だがそこにはもう、例の白狐ストラップはない。白と連絡が取れる貼るピアスも、自身の盾にも武器にもなるネックレスもない。その丸腰状態が余計に慶の不安にさせる。


「僕は君に危害を加えないよ。大丈夫。まだ信頼関係を築けるほどの時間を過ごしていないけれど、どうか信じて欲しい……」
 仁は慶と視線を合わせるために腰をかがめ、真摯に訴える。


「……」
 慶は何も言わず、コクリと小さく頷く。黒妖弧の里で自身を助けてくれたのは事実だ。それに、仁が嘘を付いているようには思えなかった。


「ありがとう」
 仁は優しく微笑み、正面を向く。


「汝、癒しの地への扉を開かれたし」
 仁が左掌を前に突き出しながら、そう呪文を唱えると、時空が歪んだように景色が歪み、門が開かれる。アーチ状の門の先には、綺麗な庭園のある病院が見えていた。


「行こう。あの人が首を長くして待っている」
「……はい」
 あの人。というのが誰だかは分からなかったが、慶は素直に仁の後をついていった──。



 仁の言葉通り、結界の中は大きな庭園や噴水が美しい七階建ての中小病院があった。患者や医療従事者の姿は何処にもなく、誰もいないような静けさがあった。


♪コンコンコン。
 三階にある病棟の八〇五号室に慶を連れて来た仁は、優しく扉をノックする。


「はい」
 凛とした美しい女性の声が響く。


「茉弓《まゆみ》、僕だよ。入っても大丈夫?」
「えぇ。どうぞ」

「茉弓、きたよ」
 相手の承諾を得た仁は、その言葉と共に個室の引き戸を開ける。


 天井が高い広い空間に大きな窓から見える綺麗な庭園と明るい日差しが差し込み、息がしやすい空間だった。
 部屋の中は介護用ベッドと机。アンティークの円形机の周りに三つの椅子が置かれ、傍には冷蔵庫が設置されている。
 十畳ほどの洋室には、お風呂やトイレはもちろん、簡易的なキッチンも完備されていた。


「仁さん」
 脇下まで伸ばされたブラックコーヒーより薄く、艶やかな色合いに染め上げられた髪。顔周りから左へ流れるレイヤーに、大きくあてたデジタルパーマが品のある女性を演出している。


 茉弓と言われた女性は仁を見て、嬉しそうに微笑む。しまったシャープな顔つきと猫目がキツイ印象を与えているが、その微笑みが柔らかな印象へと変化させる。


「……その子が?」
 茉弓は仁の後ろに隠れていた慶を見つけると、慈悲深き笑みを溢して瞳を潤ませる。


「うん、そう。この子だよ」
 仁は自身の後ろで固まっている慶の肩をそっと抱き寄せ、自身の一歩前へと出す。

 上半身を起こしたベッドで横になっていた茉弓は、慶に優しく微笑む。その瞳から一筋の涙が零れ落ちる。


「こ、こんにちは……」
 見知らぬ女性に珍しく人見知りを発動させる慶は、控えめに挨拶をする。


「こんにちは。……慶」
「‼」
 今日初めて出会った女性が何故、白が名乗れと言われた名を知っているのかと、慶は瞠目する。黒樹が言ったのかと、仁の顔を見上げる。


「ん?」
「な、名前……」
 慶は、どうして? というような表情で仁を見つめ続ける。


「あぁ、僕は茉弓に君の名前は言っていないよ。もちろん、どちらの名もね」
「じゃぁ、どうして……」
 ますます不安気に視線を彷徨わせる。


「元々知っていたんだよ。というには少し語弊があるかな。慶という名は、茉弓がつけたんだよ。君が喜びの多い人生になることを願ってね」

「……ぇ? だって、この名前は……」
 仁の言葉に慶は動揺する。それもそのはずだ。


──その名前を捨ててもらう。

──碧海聖花は三年前、この世から消えた。にも拘わらず、同姓同名を突き通すのか?

──なければ作ればいいだけのこと。

──碧海聖花。今後は、藍凪慶と名乗り、生きていてもらう。


 そう言われて契約を交わした記憶は、まだ新しい。


 慶にとって今の名の名付け親は、恭稲白なのだ。それを、見知らぬ女性が名付けたといきなり言われれば、驚愕して戸惑うのも無理はない。


「茉弓は、君の実のお母さんだよ」
「ぇ?」
 慶は慄然と困惑で言葉失う。


「大丈夫。茉弓も僕達も生きているよ。この場所は天国でもない」
 仁は慶の心中を悟ったように、補足で言葉を付け足す。その声音はとても優しかった。


「側に行ってあげてくれないか?」
 仁にそっと背中を押された慶は、どこかおぼつかない足取りで茉弓に歩み寄った。


「慶……」
 茉弓はぽろぽろと涙をこぼしながら微笑む。


「……ほ、ほんまに? ほんまに、私の実の、おかあさん?」
 一歩、また一歩と、覚束ない足取りで茉弓に歩み寄りながら、慶は震える声で問う。


 茉弓はコクリと頷く。

「慶……ッ。ごめんなさい」

「ぇ?」
 いきなり謝罪されたことに、慶は更に困惑する。


「貴方を守り切ることが出来なくて、ごめんなさい。これまでいっぱい辛い思いをさせてしまって、ごめんなさい。
 貴方は、両親に捨てられた自分には価値がない、愛されない存在だと思った時があるかも知れない、私達を恨んだ夜も、せめた夜もあったかも知れない……。
 だけど、私達はずっと、貴方を愛していた。私達はずっと、貴方と平和な日々を穏やかに暮らしていたかった。今でもその気持ちは変わらないわ。それは紛れもない真実なのよ。それだけは信じていて欲しい。
 貴方が許してくれるのなら、また私達と一緒に同じ時間を過ごしてほしい──駄目かしら?」
 滂沱する涙を拭うこともせず、茉弓は自身の思いを言葉にした。


「ぇ、えっと、その……肉親の両親が生きていたこと、また再会できたこと、また私に笑いかけてくれたこと、また手を差し伸べてくれたことをとても嬉しく思います。
 で、ですが、正直話すのなら、どうすべきか分かりません。すぐに一緒に暮らすとか考えられなくて、かと言って、今まで育ててくれていた両親の元へ戻ることにも気が引けてしまい──しばらくは、親友の家で過ごさせてもらおうと思っています」
 喜びよりも戸惑いが勝る慶は、胸の前で両手を祈るように組んで視線をさ迷わせながら、言葉を選び、伝えていった。


「えぇ。貴方の中で貴方の答えが出るまで待つわ。私達は貴方が生きていてくれていたことが嬉しいのよ。多くは望まない。ただ、貴方が穏やかに貴方らしく生きていてくれたらいいの。今まで生きていてくれて、本当に、本当にありがとう」
 その優しい言葉と優しい微笑みに慶の心がじんわりと温かくなり、慶の瞳からも涙が溢れ落ちる。


「……慶」
 側にいた仁は優しく寄り添うように肩を抱き寄せ、あやすように慶の腕をさすった。
 それを皮切りに。今まで起きた怒涛の日々が、慶の脳裏で走馬灯の如く駆け巡る。


「ッ……」
 慶は嗚咽を押し殺すように下唇を噛み締め、感情が爆発したように涙をぽろぽろと涙を流し続けた。


「慶ッ」
 感極まった茉弓は慶を抱きしめる。


 仁は慶と茉弓を両腕の中に包み込むように抱きしめ、今ある幸せと平穏を噛み締めるのだった──。




 六階にあるカフェレストランの二人掛けテーブル席で、仁と慶は二人で話し込んでいた。


「ここは、一体?」
 慶は物珍しげに、無人レストランに視線を彷徨わせる。


「元々廃墟だった病院を僕が妖術で作り変えたんだ。人間界にある病院を参考にしてね」

「妖術でそんなことも出来るんですか⁉」
 慶はオウム返しのように問うて驚く。


「うん。一階は、受付や会計などの場所で二階は診察や検査する場所。三階は入院患者が過ごせる階で、四階は治療室。
 五階には、ココに住み込みで働いている妖弧達が暮らせる部屋があって、今は僕もそこで暮らしているんだ。
 六階は二十四時間使える無人コンビニと、今僕らがいるカフェレストラン。妖弧達が学びたい学科を学べる学室がある。
 まぁ、見目は良いけど従業員がいないから、ほぼ運営は成り立っていないようなものだけど」
 と苦笑いを浮かべる仁に、慶は感心したように瞳を輝かせる。


「凄いです……色々と」
「君に感心されると嬉しいよ」
「ぁ、あの、聞いてもいいですか?」
「なんなりと」
 仁は全てを受けとめるように、優しく微笑みながら頷く。


「茉弓さんが私の名付け親だと仰いましたよね?」
「うん」
 仁はブラック缶コーヒーを飲み、相槌を打つ。


 慶は血縁のある両親のことを、すぐに受け入れ、お母さんやお父さんと呼ぶことは出来なかった。

 話し合った末に、母親のことは茉弓さん、父親のことは仁さんと呼ぶことになった。

 仁達も焦ることや、呼び名を強要することはなく、時間をかけて関係性を育めていけたらいいと言う考えを持っていたため、慶の想いを優しく受容した。


「茉弓さんは今でも恭稲さんと関わりがあるんですか?」
「どうして?」
 仁は小首を傾げる。何故ここで、白が出てくるのか不思議なのかも知れない。


「ご存知かと思いますが、私は元々、碧海聖花として生きてきました。ですが三年前に偽装の死をとげ、恭稲さんから藍凪慶と言う名で生活するようにと言われたんです。なので私は藍凪慶と言う名は、恭稲さんがつけたのだと思っていました。ですが、違ったんですね?」


「恭稲君が茉弓と現在も関りがあるとは思えないよ。恭稲君はこの場所を知らないはずだ。ただ、恭稲君から茉弓の匂いも気配も感じなかったしね。茉弓からも恭稲君の話を聞いていない」


「じゃぁ、恭稲さんはどうしてこの名を?」
 慶は前のめりで問う。

「きっと、調べたんだろうね」
「ぇ?」

「碧海聖花が偽装の死を遂げたということは、碧海夫妻は君の死亡届を出しているはずだ。そうなれば、きっと君は人間界で普通に生活することすらままならない。人間界は契約関係がごちゃごちゃしていて厳しいからね。
 ただ、君は孤児院の出。本人を筆頭者とする新しい戸籍が制作されている。だが僕達を藍凪慶の死亡届は出していない。
 恭稲君が茉弓のフルネームを知っていたとしたら、出生届など容易に調べられるはず。恭稲君をサポートするモノ達も凄いからね」


「私が人間界で生活できるように?」
「だと思うよ。あの恭稲君だし」


【一 私は今これより、碧海聖花としての命を終え、今後は[藍凪慶]として生きてゆきます。

 二 それに伴い、私は金輪際、碧海聖花の名を名乗りません。

 四 己はもちろんのこと、他者が碧海聖花の名を口にした場合、連隊責任として、藍凪慶とその者は腕立て五十回+スクワット五十回いたします】

 いつの日か、白と交わした契約書の内容が、ふと慶の脳裏に過る。


 あの時は、訳の分からない契約内容だと内心感じていたが、藍凪慶として生きていく為の基盤作りをするためのものだったのかもしれない。沁みついた碧海聖花という名から、碧海慶という名に移行するために。


「……」
 慶はチョーカーに指先を当てて、そっと微笑む。


「なんだか、ヤケちゃうなぁ」
「ぇ?」
 訳の分からない呟きに、慶はきょとんとして首を傾げる。


「いや、こっちの話しだよ。気にしないでくれ」
「そう、ですか?」
 慶は控えめに首を左右に振ってそういう仁に対し、それ以上踏み入ることはしなかった。


「うん。他には何か聞きたいことはない?」

「ぁ、恭稲さんは茉弓さんをこの世にいないと思っているのでしょうか? 死体を見たのでは……」

「ん~、どうだろう? 多分、恭稲君が見たのは僕が作り出した幻術の茉弓だから、気づいていたかもね」
 左手で頬杖をつく仁は、穏やかな口調で質問に答え続ける。


「どういうことですか?」

「恭稲君としばらく共に過ごしていた茉弓は本物だよ。正真正銘のね。ただあの日、事務所を出て行った以降の茉弓は違う。茉弓が依頼者と接触する前に、僕が傀儡の茉弓と本物の茉弓をすり替えたから。だから、恭稲君が見た最後の茉弓の姿は傀儡だよ。血液は茉弓の匂いがしていただろうけど」


「血液の匂いも幻術で?」


「ううん。藍凪茉弓として採血していた血液をココで保存していたんだ。消費期限状、人体に使うことは出来ないけど、僕の用途には十分だった。妖弧が茉弓の血の匂いを感じ取れればよかったからね」


「……なるほど」
 慶は仁の説明で白姫が魅黒に使用した傀儡と同じようなものだと理解する。


「茉弓さんを撃った妖弧は今何を?」
「ん~……スパイ?」
「スパイ?」
 慶は思いもしない返答に、オウム返しをしてしまう。


「うん」
 仁は一つ頷き、親指と人差し指を擦り合わせてパチン! と指を鳴らす。コンマ数秒で赤妖弧をした九尾が飛んできた。白達のように大きくはなく、人間界にいる狐達と同じくらいの大きさだった。


 赤妖弧は人間に姿を変え、「お呼びでしょうか? 黒桂《つづら》様」と、騎士のように片膝をつく。パンツスーツスタイルの女性のようだが、綺麗な赤毛で顔が隠れ、その全貌や表情はわからない。


「大きな用はないんだけどね。良かったら、この子に挨拶して?」
「分かりました」
 スッと立ち上がった赤妖弧は慶と向き合う。


 ガーネット色の両眼が慶を映す。
 切れ長の一重の目元にスッと鼻筋の通った高い鼻がアジアンビューティーを感じさせている赤妖弧は、レッドオレンジ色のリップが濡れられた薄い唇が開く。

「黒桂、この子が例の?」
「うん。可愛いだろ?」
 黄琉は何故かドヤ顔で問うてくる仁に冷ややかな視線を向けながら、口を開く。


「否定はしないが、親馬鹿も互いにしたほうが良い。思春期の娘に嫌われる痛手はデカいぞ」
「嫌なことを言うなよ」
 仁は青年の言い草に、苦笑いを浮かべた。


「えっと……こんにちは。藍凪慶です」

「あぁ、挨拶が遅れてすまない。俺の名は、黄《き》琉《る》。数百年前に里から出た、純血黄妖弧だ」
 凛としていながらも色気が含まれ、どこかアナウンサーのような声質を持つ青年は、軽い自己紹介をする。


「黄琉は君が預けられた孤児院の責任者だよ」

「今はもう、責任者ではないがな」
 黄琉は言葉足らずな仁の説明に補足を付け足す。


「どういうことですか?」
 全くもって話が見えてこないとばかりに小首を傾げる慶に、黄琉が答えを与える。


「君が孤児院に預けられる一ヵ月前、俺はそこの責任者に扮し、君が預けられるのを待った。もし君が預けられたとしても、誰かに引き取ってもらえるか、君を引き取ってくれる人間がどんな人物なのかを調べる必要性があった。君には時が満ちるまで生き続けてもらわなければ、全ての計画が失敗に終わるからな」


「慶の里親を碧海夫妻に決めたのは、黄琉だよ」
 仁が穏やかな笑みと口調で、慶にまた一つ真実を伝える。


「碧海夫妻は、信頼のできる者達であると感じたからな。あの二人はとても真摯に君と向き合っていたし、君を家に招き入れるために最善を尽くしていた。まだ里親になれるかどうかの保証もない時から、諦めることなく何年も君と制度に向き合い、愛を注ぎ続けることは容易ではない。君はあの家に迎え入れられる前から、あの二人に随分と愛されていたんだ」


「……そう、でしたか」
 黄琉の言葉に慶の瞳が涙で滲む。


「あぁー黄琉! ちょっと~ッ! 僕の大切な娘を泣かせないでくれる?」
 勢いよく椅子から立ち上がった仁は、黄琉の右肩を掴む。


「は? 知るかよ! 俺は何もしていない! お前の娘が勝手に感極まっているだけじゃねーかよ、人聞き悪いことを言うな」
 黄琉は勘弁してくれ、とでも言うように言って小さな溜息をつく。


「慶が情緒不安定とでも? 感受性が豊かなんだ」
「はいはい。物は言いようですね」
 黄琉は、突っかかっててくる仁を軽くあしらうように言った。

 そんな二人のやり取りは、どこか男子学生同士のようであり、慶はクスクスと小さな笑みを見せる。


「……。お二人共、いい加減になさっては如何ですか? 慶様が呆れていらっしゃいますよ」
 赤胡にとってこの光景は慣れっこなのか、冷めた目で二人を見ながら、淡々とそう言った。


「あ、呆れているなんて、そんなことありません」
 慶は顔の前で両掌を左右に振りながら、慌てて否定する。


「では、何故お笑いに?」
「お二人の姿が微笑ましくて──。……私も、大切な友人に会いたくなりました」

「あの二人が微笑ましい……。時期に見飽きますよ。毎日あんな感じなんですから」
 赤胡はありえないとばかりにそう言って、二人を冷めた目で見る。


「赤胡って僕を慕ってくれているようで冷たいよね? なんか時折ディスってくるし」

「主としての貫禄がないんじゃねーの? 舐められてんだよ」

「舐めていません。黒桂様を舐めても美味しくありません」

「言葉のあやだろ? ほんっとにかったい奴だなぁ」
 黄琉はげんなりしたように両肩を下げる。


「まぁまぁ、仲良くしようよ」
 言い争いになりそうになる二人を鎮めるように、仁が割って入る。なんだかんだで、いい関係性なのかも知れない。


「──よかった」
「「「?」」」
 唐突な慶の言葉に、仁達は不思議そうな顔をする。言葉の真意が読み解けないのだろう。
「私、仁さんの娘で良かったです。黒妖狐の話を聞いた時、そんな恐ろしいモノ達の血が私にも流れていると思ったら、少し恐ろしかったんです。
 いったい、どんな人が父親なんやろう? 非道な方やったらどうしよう? とか。でも、全ていらない心配や不安でした。仁さんは、私が想像していた黒妖狐の方と全く違う」


「そうですね。黒桂様は全くもって、黒妖狐らしくありません」

「だな。すっげぇー強いくせして、その力を誇示したりしねーしな」
 仁が何か口にする前に、赤胡と黄流が口を開く。


「力づくで誰かを従わせることもありません。私が犯してしまったミスも受け入れ、一緒に解決して下さる度量の深さをお持ちです」

「のわりに、すっげぇ子供ぽいけどな」
 赤胡の言葉にそう付け足す黄琉は。にししというような笑みを浮かべる。


「それには、私も同意いたします。黒桂様はすぐ拗ねますし、寂しがりやな性格をしているだけでなく、味覚までもがお子様です。辛い物は食べられませんし、スナック菓子と甘い物が大好きです」


「蝉の死骸を土に返そうとしたら、その蝉がまだ生きていて黒桂に飛んでいったこともあったな」

「その時の悲鳴と驚く顔はコメディーでしたね」


「……ねぇねぇ、君達〜。それは貶しているのかなぁ? それとも、褒めてくれているの?」
 仁は仲間達の散々な言いように苦笑を浮かべる。


「まぁ……大半、褒めてつもりだ」
「そうですね」
「……だといいんだけど」


「ふふふっ」
 慶は仁達の関係性が微笑ましくて、穏やかな笑い声を溢す。


 慶は、仁が父親で本当に良かった、茉弓のことについてはまだ深く知り得ないが、きっと素晴らしい人に違いない。

 これからゆっくりと二人との絆を深めていければいいなぁ、など色々なことを胸の内で思う。と同時に、碧海夫妻への愛と感謝を今までよりも、より深く感じていた。


 慶は自分の存在や生い立ちを苦しく思うことがあった。逃げたくなる時も、嘆くことも多々あった。だが折れそうになる心を、いつだって碧海夫妻や愛梨が支えてくれていたのだ。


 人間界を離れれば、白達が手を差し伸べ続けてくれていたし、仁達は水面下で自分を守ってくれていた。実感していた愛と、水面下の愛を知った慶は、自分の全てに感謝した。


 半黒妖狐として生まれたからこその出会いと別れ、大きな経験と学びと愛を感じ、知ることが出来たのだ。人間として生まれただけでは、黒妖狐として生まれただけでは、知りえ感じ取れないもの達ばかりだ。


 慶はそんな自分と自分の生い立ち、今まで繋がった縁の全てに、深く深く感謝した。と同時に、自身の道を見つけるのだった──。

 五年後──。

「慶さん。私、慶さんのおかげで、ずいぶんと心が軽くなったようです」
 少し目の下のクマが気になる女性が微笑む。その唇は春を感じさせるリップグロスが塗られていた。それは、女性の気持ちが前向きになってきた証拠だろう。


「少しでもお役にたてたようで良かったです」
 シースルーバングのボブカットの黒髪に、スペサルタイト色の瞳を持つ女性が微笑む。落ち着いた女性に成長した藍凪慶だ。


「本当にありがとうございます」
「いえ。こちらこそ、私を頼って下さりありがとうございます」
 心理カウンセラーの資格を取った慶は、茉弓達が暮らしていた病院に、聖•ノイモーントクリニックと改名し、病院を運営していた。


「失礼します」
「はい」
 女性は笑顔で会釈をすると、カフェを後にした。



「慶、お疲れさま」
 ゆるふわパーマを当てた甘栗色の髪を後ろで一まとめに結った小柄な女性は、ビー玉のように大きな目元をくしゃりと細めて優しい笑みを浮かべ、慶に歩み寄る。大学を無事に卒業して教員免許を習得した守里愛莉だった。


「愛莉! 遊びに来てくれたん?」
 慶は勢いよく立ち上がり、満面の笑みを見せる。


「うん。そっちはどない?」
 愛莉はカフェで買ったカプチーノを慶の前に置き、慶の正面の椅子に腰を下ろす。自身は冷たいカフェオレを手にしていた。


「まずまず、って感じやなぁ。ありがとう。ここのカプチーノ美味しくて好きなんよ。そっちは?」
 と言った慶はカプチーノを一口飲み、満足そうな笑みを浮かべた。


「高校の教員免許を無事に取れたから、一様教員をやらせてもらえているけど、百合泉乃中高等学園では働かれへんかったショックは大きいなぁ」

「ずっとあの学園の教員になりたがってたもんな~。まぁ、またご縁があったら導かれるかもしれへんから」


「うん。でも、もうええわ」
「ぇ⁉ なんでッ?」
 珍しく投げやりな心友の言葉に目を見開く慶は、前のめりで理由を聞く。


「うちな、新たな夢を夢つみけたんや」
「何の夢? 全力で応援するで」


「ココ、院内の中に学校あるけど、稼働はしてへんねんやろ?」

「うん。院内学級とは名ばかり。妖弧達に人間世界の教育をしてくれる教員が中々見つからんのよね──って、まさか……」
 慶はそう説明している段階で愛莉の考えていることを予測し、口元を引くつかせる。


「せや! うち、ここで働くわ!」
 したり顔の愛莉は大きく頷き、そう宣言した。


「やっぱりぃ⁉」
 慶はムンクの叫びのごとく両掌で両頬を挟み、そう叫ぶ。


「……ぁ、あんた、リアクションでかなったなぁ。まぁ、感情を出せるのはええことやけど」
 愛莉は心友の表現力に口元を引くつかせる。


「いや、だって、誰でも驚くやろ? なんでココなん? 私が言うのもなんやけど、ここは安全地帯ではないんよ? クリニックに訪れてくる妖弧は基本的に優しいけど、精神が爆発してもーたらえらいことなるし。覚醒する妖弧もおる。覚醒してもうたら、私でも手を付けられへんのよ」


「うん。全部わかってる。けど、慶達がうちのこと守ってくれるんやろ?」
 早口で捲くし立てるかのようにペラペラ話す慶の言葉に涼しい顔をする愛莉は、右手で頬杖をついてそう言って微笑む。


「そ、そりゃ~全力で守るし、全力でサポートするけど……」
 その言葉通り、慶は戦闘のオールラウンダーである赤胡に、戦闘技術向上してもらっていた。
 おかげで、女性妖弧を容易に倒すことが可能となり、呪符や守護札を使いこなすことが出来るようになっていた。
 それだけでなく、黄琉の修行のおかげで、五分間だけ変化することも可能となった。
 白衣の内ポケットには、仁から渡された妖弧専用麻酔銃も所持している。もう誰かに守られてばかりの子供ではない。


「ほなええやん! 決りや決り!」
 愛莉は顔の前で両掌通しを一つ叩き、満面の笑みを見せる。


「勝手に決めなやぁ」
「まぁまぁ、ええから、ええから。人間世界の教育はうちに任せとき! っていっても、うちは今、高校生を教えられる教員免許しか持ってへんから、小学校の教員免許習得まで待ってもらわなあかんけど」
 項垂れる慶に対して愛莉は、右手を上下させたり、拳を胸に手を当てたりと、多種多様なアクションを織り交ぜながら言った。


「教員免許はいらないよ」
「!」
 背後から聞きなれた声音が響き、慶は肩を震わせる。

「ぁ!」
 愛莉は嬉しそうに声を上げ、口元に両掌で包み込むように隠す。


「相変わらずのイケメン……」
 変わらずイケメン好きの愛莉は、仁の姿に歓喜する。


「嬉しいこと言ってくれるね。こんにちは」
「そして声もいい」
 愛莉は指先を口元に当てて、ときめき続ける。

「ありがとう」
 仁はニコニコと嬉しそうに微笑む。とても黒妖弧の時期当主などとは思えぬ穏やかさだ。


「仁お父さん!」
 慶は五年前と変わらぬ姿をした父親である仁、またの名は黒桂を見上げる。


 五年の月日により、慶と両親の関係は着実に縮んだ。その証拠に、慶は両親のことを、“茉弓お母さん”“仁お父さん”と呼ぶようになっていた。

 碧海夫妻のことは、響子ママ、雅博パパと呼び、付かず離れずのほどよい距離感でいた。


「やぁ」
「やぁ、ってなによ」
 慶はどこかズレている仁に眉根を下げる。


「慶の訪問者が医院長室でお待ちだよ」
「誰ですか?」
 わざわざ医院長室で待つような知り合いはいないはずだ。滅多なことではこないが、白姫や白樹なら普通に会いに来る。
 白と智白はあれ以来会っていないし、わざわざあちらから出向いてくるとは考えにくい。
 愛莉ならもう目の前にいる。
 碧海夫妻はこの場所を知らない。となれば、一体誰が訪問してくるのだと、慶は怪訝な顔をする。


「行けばわかるよ。はい、どいたどいた~」
 仁は慶を椅子から離れるように手の甲で右肩を押す。


「ちょっ!」
 半ば押しのけられる形で椅子からどかされた慶は、不服気な顔をする。


「教員免許が必要ないというのは、どういうことなんですか?」

「高校の教員免許を所得しているなら十分だよ。人間界の学びは勉学の方ではなく、人間界の生活に必要な知恵を与えて欲しいんだ。一人暮らしの方法だとか、色々な契約方法。ガス水道などの支払い方。お買い物の仕方。とか人間力? みたいなものをね」
 仁は空いた席に腰を下ろし、両肘を机に置いて、ニコニコと微笑みながら説明する。


「それなら、今のままでも充分にお教えさせて頂けそうです」

「でしょ? 君の数年と僕等の数年は大きく異なる。教員免許を取っている間に結婚したくなったり、新たな人生を歩みたくなるかもしれない。それなら、今やりたいと思ったことを今やるほうが良いんじゃない?」

「はい。そうですね」
 愛莉は激しく同感するとばかりに、力強く頷いて見せる。


「じゃぁ、一応契約書にサインくれるかな? 役員の個人情報を把握する必要があるんだ。命に関わるものはないし、変わった条件もないから安心して」

「はい」
「あの~……」
 自分を置いてどんどん話を進める二人に割って入るように、慶は恐る恐る声を上げる。


「あれ? 慶、まだいたの?」
「まだいたのって」
 慶は仁の言い草に苦笑いを浮かべる。


「早く行った方が身のためだと思うよ?」
 手の甲の指先に頬杖をつく仁は、ニヤニヤと意味深な笑みを浮かべる。


「どうしてですか?」
「行けば分るよ~」
「……分かりましたよ」
 仁のどこか楽しそうな笑みに不穏を覚えながらも、慶はこの場を後にした。残された仁と愛莉は、契約を進めるのだった。

♪コンコンコン。

「失礼します」
 慶は一言断りを入れてから、部屋の扉を開ける。


 医院長専用のチェアに腰を下ろし、こちらに背を向けている白髪の青年がいた。


「……く、とうさん?」
「遅い!」
 そう言ってチェア事振り向く青年は、ギロリと慶を睨む。
 意志の強さが乗り移ったかのような瞳は、青色の変色で発色するバイオレットカラーが美しいタンザナイトを彷彿とさせた。
 五年前と変わらぬあどけなさが残る顔立ちに、少し幼さを感じる少年のような声を発する薄い唇からは、チラチラと八重歯が見え隠れしている青年。
──白雨だ。


「す、すみません」
 ちょっとでも恭稲白かと期待してしまった慶は、落胆したように両肩を落とし、感情のない謝罪の言葉を口にした。


「全く心が籠ってねー!」
 白雨は、しゃぁー! と、猫が威嚇してくるように突っ込む。


「すみません」
 相変わらず口の悪い白雨に苦笑いを浮かべながら、再度謝り、白雨に歩み寄る。


「何故、そこに座っているんですか? お客様はあちらのソファでお待ちするのが、一般的であると思うのですが」
 慶はそう言って、右掌で三人掛けソファへ誘うように指す。慶が掌がさした先は、長方形のブラウンカラーのアンティーク机を真ん中に、前後に三人掛けソファが置かれていた。


「俺にはココが良く似合う。それに、一般論を突きつけるなんてナンセンスだ」
 まるで白の真似事をするように、長い足を組み直し、背もたれに深く背を預ける。


「……失礼ですが、一体何をしにきたんですか?」
「ほんっとに失礼だな奴だな」
 慶の言い草に、白雨は顔を顰める。


「すみません。心の声がつい」
「ったく!」
 白雨は気分が悪いとばかりに、不機嫌さを全面に出す。まるで子供だ。


「……用件がないのなら、私は行きますが? これでも暇ではないんです」

「重ね重ね失礼な奴だな。俺だって忙しいに決まってんだろ! 暇じゃねーんだよ」
 どこか冷めた態度で白雨をあしらおうとする慶に対し、白雨は再び猫が威嚇するかのように言い返す。まるで話が前に進まない。


「なら早く用件を済ませてご帰宅なさったらよいのでは?」

「そうだな。用件をスマートに済まそう」
 白雨はまた足を組み直し、膝の上で組んだ手を重ねる。その美しいヴィジュアルから様にはなってはいるが、白を見ていただけに、慶の心は一ミリもときめかない。



「ここと業務提供を結びたい」
「どういうことですか?」

「白妖弧の里では、人間界で暮らしたいモノ達もいる。だがその知識や、コネクションがない。
 そこで、ココのクリニックと手を組み、望むモノ達をここへ送り込みたい。心の癒しが必要なモノには、お前の力を貸してやって欲しい。

 癒しの家系のモノ達は物理的な癒しは得意とするが、心の傷を癒やすことについては、まだ学んでいる途中。そこには、人間界と人間と関りを持ったモノが少ないことに要因がある。

 白妖弧の里と手を組んだ証には、白妖弧の里が得て来た知恵を、そちらへ授ける。そちらには、妖弧に心惹かれたモノ達が、妖弧の世界を深く知りたいモノ達が幾人かいると白姫から聞いている。

 黒妖弧との知恵や時代背景と、白妖弧の知恵や時代背景はまた違う。お互いが必要だと思ったときに、手を貸し合える関係性を求めたい」


「……わ、分かりました」
 予想に大きく反し、真面目過ぎる要件を提示してきた白雨に目を見張る慶は、返答に間が出来てしまう。


「分かったという割には、乗り気じゃなくね?」
 不機嫌な声音で疑心の目を向けてくる白雨に、慶は慌てて「いえ」と、首を左右に振る。


「乗り気ですよ。とても。ただ、ちゃんとした考えの元に訪れてきてくれたことへ驚いたんです。やっぱり、白雨さんは時期総長なんですね」

「……ほ、褒めても兄上の居場所は教えねーぞ」
 白雨は照れ隠しのように呟く。


「居場所、知っているんですか?」
「当たり前だろッ。俺は兄上の弟だぞ」
 白雨は腕を組んでふんぞり返る。本当に個性が全く異なる色を持つ兄弟である。


「では、業務提携に辺り、契約書にサインを頂けますか?」
「何事もなかったかのように話し進めんなよ」
「失礼。どう返して言いか分からなかったもので」
 慶は一つ咳ばらいをして、そう言った。


「ったく。変な契約ねーだろうな?」

「基本的な個人情報及び、業務提携を結んだものの名前と責任者の名前。契約内容は、短期契約、中期契約、長期契約の三パターンから選択して頂きます。契約期間中に、そちらの個人的な理由で契約キャンセルなされる場合は、罰金をお支払い頂きます。それでもよろしいですか?」


「人間界の金なんて持ってねーんだけど」
「なら、人間界でアルバイトでもなさいますか? そもそも、契約期間終了まで手を結び続けてくれれば良いだけのお話しでは?」

「……お前、性格変わったな。あれだけビクビクしてたチキンだったくせに。今や俺に脅しでもかけるようじゃねーか」
「成長したと言って下さい」
 慶は微笑む。

 過去、白から聞いたワンネスの話や、かけてもらった数々の言葉により、慶は相手が誰であっても、自分の気持ちや思考を表に出せるようになっていた。あれ以来、白とは会えていないし、声も聴いていないが、白が慶に残したものは大きい。



「物は言いようだな」
 白雨は呆れ口調交じりにそう言って、小さな息を溢す。


「で、何処にサインすれば言いわけ?」
「少し席を譲って頂けますか? 契約書を作成したいので」
「仕方ねーな」
 白雨はそう言って立ち上がる。


「「ん?」」
 二人の声のおとぼけ声が重なる。


「白雨さん、身長縮みましたか?」
 白雨に高身長のイメージを持っていた慶だが、今の白雨の身長はずいぶんと小さく見える。

「ヤッベ」
 白雨は小さく呟き、机の下で足元をばたつかせた。
「ぁ、伸びた」
「今見たことは誰にも言うなよ」
「……はい」
 慶は笑いを押し殺しながら頷く。

「んっだよ、笑いたきゃ笑えよ」
 靴にずいぶんと高いインソールを入れていたことがバレた白雨は、耳を色づかせて慶を睨む。


「まぁまぁ、身長の高い低いなんていいじゃないですか」
「はぁ?」
 白雨は眉間に皺を寄せる。


「身長が低くてもカッコいい方はたくさんいらっしゃいますし、白雨さんは充分カッコイイです。一歩人間界にでれば、芸能界からスカウトされまくりだと思いますよ」


「カッコイイカッコ悪いの問題じゃねーよ。これは威厳の問題だ! ちっせぇと威厳はないし舐められるだろうが」


「誰も舐めませんよ。舐めても美味しくありません」


「お前はふざけてんのかよ!」
 キィー! っとばかりに苛立ちを募らせる白雨に、慶はまぁまぁとばかりに、両掌を顔の前に出して前後させる。


「恭稲さんも仰っていらしたじゃないですか。『総長は絶対的に強くなければいけないのか? 誰よりも利口でなければいけないのか?
 今は権力などを振りかざすリーダーも、一匹オオカミのようなリーダーも古いように思う。今の時代、誰かが強いだけでは意味がない。
 力が足りぬのなら、力の持つ者に助けを求めればいい。知恵が足りるなら知恵を頼る。なんでも一人でしなければならない! と思うから駄目なのだ。其方が得意なことは他の者にとっては苦手なこと。その逆もある。
 今は、力を貸して欲しいときに声を上げた時、その者を助けたくなる者こそリーダーなのだ。時代は変わる。だから白雨。まずは私が声を上げよう。この里を守り、里の皆を収め、調和してくれぬか?』と。
 確かに、恭稲さんには威厳がありましたし、その威厳は信頼感や安心感に繋がっていました。ですが、それは恭稲さんの色です。白雨さんは威厳ではなく、親近感という色があるのではないでしょうか? まさにそれこそ、調和の色では?
 親近感と信頼感。そして、強さと優しさと愛があれば、身長だけで作る威厳は必要なくなるのでは? あくまで、私と言う一個人の意見ですけど」
「……本当に、成長したな。ムカつくほど」
 どこか感心と腹正しさが入り混じる声音でそう言った白雨は、優しい笑みを口元に浮かべる。それは、白雨が初めて慶に向けた微笑みだった。


「ぇ?」
 慶の心がドキリと跳ねたのも束の間、「ほら、どいてやったぞ。早く取れよ」といつもの口調で言われ、穏やかな波が過ぎ去ってしまう。


「はいはい」
「はいはいぃ? お前、絶対俺を舐めてんだろ? 兄上にでもそんな態度だったのかよ⁉ もしそうなら首絞めるぞ」

「んっなわけないじゃないですか。物騒なことを言わないで下さいよ。白姫に言いつけますよ?」
 慶は呆れ口調でそう言いながら、ノートパソコンで契約書を作成し始める。


「白姫なんざ恐くねーし。一から制作すんのかよ」


「甘いですね。白姫に言いつければ、実質智白さんに言いつけたのも同じこと。今回の場合は、あらかじめ用意してある依頼書を使えないので」


「小賢しい奴め。変な条件つけんなよ。人間界でバイトなんてしねーからな」


「分かりましたよ」
 かくして慶は、左横でギャーギャー言う白雨に手を焼きながら契約書を作成し、白雨にサインをもらうのだった。



【業務提携の契約書

〈業務提携の目的〉

一 人間界での生活を求める白妖弧が、人間界で生活できるように、聖・ノイモーンクリニック及び、その従業員がサポートいたします。

二 心理的癒しを求める白妖弧に対し、聖・ノイモーンクリニックの藍凪慶がサポートいたします。

以上の二つが、聖・ノイモーンクリニックと藍凪慶が白妖弧に対する働き掛けとなります。



以下が、白妖弧の里が聖・ノイモーンクリニックに対する働き掛けとなります。

一 聖・ノイモーンクリニックが求めた際、白妖弧の里が得て来た知恵を授けて頂きます。

二 白妖弧の智慧家系の天狐を、聖・ノイモーンクリニックにある院内学級の教員として、平日に赴任いたします。

☆お互いが必要だと感じた時は双方の話し合いの末、手を貸し合える関係性で在り続けること。お互いがお互いに対する働き掛けを守ることを依頼契約とします。業務提携の目的から外れた場合を違反とし、こちらの願いを二つ聞き入れること。

 以上の契約を、三年契約と致します。
 これらの契約書をご理解の上、サインの記入をお願いいたします。


 業務依頼責任者名。   恭稲白雨

 業務依頼責任者住所。 白妖弧の里                                 】


「ふぅ。これで契約成立です」
 やっと、ことが纏まったと、慶は安堵の溜息と共にそう言った。


「あぁ。助かった。じゃぁー、俺は帰る」
「はい。お気をつけて。また何かあれば」
「……つれねーやつ」
 あっさりと帰されることに不服さを示す白雨は口を尖らかせる。


「だって、お忙しんですよね」
「ったりめーだろ」
「なら、私が引き止めることもないでしょう?」
 慶は白雨と仲良く雑談を交わす間柄ではない。正直、何を話せばいいかも分からないし、口を開けば牙を剥かれるのでは疲弊するのだろう。


「なんかムカつく」
「ムカつくのは勝手です。私の知ったこっちゃありません。自分の機嫌はご自分で問って下さい」
「兄上みたいなこと言うなよ。兄上の真似をするなんぞ百万年早ぇーわ」
 けっ! っとばかりに捨て台詞を吐いた白雨は、じゃぁーなと言って、姿を消した。里に戻ったのだろう。

 騒がしかった部屋は一瞬で静まり返る。


「な、なんなんよ、一体……」
 白雨にエネルギーを消費した慶は、がくりと両肩を落とし、小さな溜息を吐く。


「私も戻らんと」
 一つ呟く慶は部屋を後にした。


 先程までいた場所に戻れば、愛莉は急用ができたと先に帰宅しており、仁しか残っていなかった。

 愛莉がいなくてはつまらないと、本格的に仕事に戻った娘に構ってもらえない仁は、捨てられた子犬のようにしょんぼりするのだった──。





 二年後――。

 聖・ノイモーンクリニック、一階。


「キャーッ!」
 ミルクチョコレート色の髪を後ろでお団子にした女性受付スタッフが、悲鳴を上げる。


 受付で何かトラブルが起きたのか、覚醒した天狐が暴れていた。仁は黒妖弧に呼ばれて不在だ。

 その場にいた人間や半妖弧達が散って逃げる。


「なんで今なんだよッ」
 受付にいた黄琉が守護札をバラまき結界をはるが、数人の子供達に守護札を貼り付けることが出来なかった。すでに広げた守護札の結界貼りながら、新たな場所へ結界を貼るのは困難を要す。


 覚醒した黒妖弧を止めることが一番の解決策だが、戦闘力に長けていない黄琉には厳しい。

 自我を無くした半黒妖弧は九尾の妖弧の姿に変化すると、近くにいた子供に目をつける。


「うわ~ん」
 ブロンドの髪と濁りのある琥珀色の瞳を持つ五歳程の子供は、大きな泣き声を上げる。恐怖で一歩も動くことが出来ない。

 半黒妖弧は自我と戦っているのか、威嚇するような唸り声と、悲し気な鳴き声を交互にあげ続けている。


「夢莉ッ!」
 父親と思しき男性が助けに入ろうとするが、九尾の赤妖弧が前に出ることを妨げる。

 半黒妖弧は自身の爪を鋭利な刃物にさせて、子供を引き裂こうと腕を上げる。振り下ろす寸前の所でピタリと動きが止まる。半黒妖弧の身体に呪詛が張り付いていることが原因だろう。

 半黒妖弧に呪詛を貼り付けた慶は子供を抱き上げ、飛び跳ねるように半妖弧と距離を取る。


「慶!」
 黄琉は慶の名を呼ぶ。慶はコクリと頷き、子供を黄琉が守護する結界の中へと入らせた。


「ここにいれば大丈夫やから。大人しくしといてな。怖い思いをさせてごめんやで」
 と子供の頭を一撫ですると、再び半黒妖弧の元に戻る。その入れ違いで、父親を背に乗せた九尾の妖弧の姿をした赤胡が結界の中へ入る。結界の中にいた幾人かの人が悲鳴を上げる。


「私は貴方達に危害は及ぼしません。さぁ、下りてください」

「ぁ、ああ」
 父親はどもりながら頷き、九尾の赤胡の背中から飛び降り、「パパ~!」と泣き叫んでかけてくる我が子を抱き締めた。


「貴方達はココにいて下さい。すぐにことは収束いたします」
 九尾の赤胡に怯えて悲鳴を上げるものたちに冷静な声音で言って、慶の元へ飛んでいった。


 覚醒した半黒妖弧は無理やり身体を振り乱すことで、自ら縛りの呪詛を解き放ち、再び慶に向かう。


 慶は例の拳銃を半黒妖弧に向けて撃った。


「ぇ?」
 普段であれば、銃弾が内放たれたあと、麻酔貼りが相手を眠らせるのだが、今回に至っては銃口から何も出てこなかった。


「弾切れ⁉」
 襲い掛かってくる慶を銜えて攻撃を避けた九尾の赤胡は、「予備の銃弾は?」と問う。

 地に下ろされた慶は再び縛りの呪詛を半黒妖弧にかけ、「診察室の机。ロックナンバーをかけた引き出しの中」と答えた。再び呪詛をかけられた半黒妖弧は力が弱まったのか、二十代前半程の青年の姿へと戻る。


「番号は変わりなく?」
「はい」
「私が取りに行きます」
「ありがとう」
 九尾の赤胡は地を蹴り上げて二階に上がると、人間の姿に戻り、飛び歩くようにして銃弾を取りに行く。


 残された慶は、四角形の角を取るようにして、床に呪符を貼り付ける。


「手荒なことをしてごめんなさい」
 慶は一言謝り、勢いよく地を蹴ると、膝を青年にクリーンヒットさせ、怯んだところを空手の投げ技の要領で床につける。


「汝、地に眠りし者をこの地へ留めたし」
 慶がそう呪文を唱えると、先程の呪符から飛び出した黒色の鎖が、青年をXの形で縛り付けた。縛りの呪詛力が解け、青年は再び暴れ出すが、黒色の鎖はビクともしなかった。


「お兄ちゃんをイジメるなー!」
「ぇ?」
 安堵する慶はその声に振り向くと、黒色の球体が二つ接近していた。ただ、コントロールが悪く一つは病院の柱へ、もう一つは慶と向っている。慶が避ければ、青年が危ない。柱を守らねば病院自体が危ういかもしれない。


 刹那の迷いに陥る慶を守るように、何処からともなく飛んできた白色の球体が黒色の球体を包み込み、一瞬にして黒色の水に変化させ、床に水玉を作った。


「……な、ん……で?」
 慶は掠れた声音で独り言のように呟き、しばし惚ける。
 慶の視線の先には、一人の青年の姿があった。


 粉雪のようにキメ細い色白の肌。スッと鼻筋が通り綺麗なEラインを持つ横顔。形の良い薄い唇は、どこか怪しげに弧を描いている。
 右目の下にある黒子が印象的な切れ長のアーモンドアイ。その額縁には、バイオレット・サファイアのような透明感のある瞳が収められている。
 質のいいスタイリッシュなスリムスーツに身を包む身体は、百八十センチ以上あるであろう長身の八頭身。そこには余分な脂肪など微塵もついていない。
 耳が隠れるくらいの少し長めな白髪ストレートミディアムマッシュヘアーは左に八割程サイドへ、左サイドに流れた前髪は、眉毛を隠すくらいの長さでスッキリしており、より小顔が強調されている。アンニュイな表情が似合う、より大人の色気がプラスされた青年、恭稲白はカツカツと靴の音を響かせ、慶の元へ歩み寄る。



「慶ッ!」
 九尾の赤胡は白から慶を隠すように飛び降り、人の姿へと変わる。

「ほぉ。赤妖弧までいるとは」
「慶、コレを!」
 赤胡はスーツの内ポケットから銃弾が入った専用ケースと、水晶の十字架型チャームが中央についた黒色のチョーカーを投げるようにして、慶に手渡した。


「ありがとう!」
 それらを受け取った慶は慣れた手つきで銃弾をセットしたあと、半黒妖弧に銃弾を撃ち込んで眠らせたあと、チョーカーをつけて呪文を唱える。


「汝、荒れ狂う心を宝玉へ収めたし」
 その呪文が合図のように、水晶だった十字架がオニキスの色へと変化した。青年の荒れ狂う心が収められた証拠だ。次に目を覚ました時は、普段の青年に戻っていることだろう。

 その光景を見ていた白は、密やかな微笑みを口元へ浮かばせる。それは本当に一瞬のことで、誰も気が付くことはなかった。


「恭稲白様ですよね?」
「嗚呼」
 白は赤胡の問いに頷く。 


 結界を解いた黄琉は患者や保護者達を、スタッフ達と落ち着かせていた。
 慶は先程攻撃を仕掛けてきた子供に、状況を話している。


「何故ここへ? 本日、黒桂様は不在です」
「かまわぬ。用があるのは黒桂ではなく、藍凪慶だ」
 冷静に問いかけてくる赤胡に対し、白もまた冷静に答える。その声音も口調も、数年前と変わらぬものだった。


「ぇ?」
 白の言葉に慶は振り向く。
「どういうことですか?」
 慶の変わり、赤胡は怪訝な顔をしながら問う。白を敵とは見做してはいないが、要件によって話しは変わってくる。
 黒桂がいない間は、慶を保護することを仰せ使われているのだ。


「慶、そいつを」
 ひと段落した黄琉は慶の元に歩み寄り、眠っている青年を指差す。


「ぁ、うん。お願い。空室はスタッフと相談して下さい」
「了解」
 黄琉はコクリと頷き、青年をお姫様抱っこしてストレッチャ―に乗せ、病室に連れて行こうとする。黄琉の正面には、後ろで白髪を一つに結った癒し家系の白妖弧の女性がいた。


 聖・ノイモーンクリニックは二年前、白雨と業務提携契約を行ったことにより、白妖弧のスタッフが増えていた。


「おにぃーちゃんをどこに、つれていくきなの?」
 先程の男の子は、黄琉を睨むように問う。弟ながら、兄を守らなければ! という心が強いのだろう。


「休ませるんだ。悪いようにはしない。ついてこい」
「?」
 黄琉の言葉にどうすればいいか分からない男の子は、不安気に慶を見る。


「大丈夫。口は悪いしぶっきらぼうだけど、とても優しくていい方だから。安心して」
 しゃがみ込んで男の子と視線を合わせる慶は、とても穏やかな口調でそう伝え、安心感を与えるような優しい笑みを浮かべた。


「うん!」
 男の子は大きく頷き、黄琉の後をついていった。
 慶は黄琉達を見届けた後、スッと立ち上がり、白と向き合う。


「ご無沙汰しています。お元気でしたか?」
「嗚呼」
 白は一つ頷き、多くは話さない。


「先程は助けて下さり、ありがとうございました。何故、この場所が?」
「この場所のことも、其方のことも、黒桂からよく聞いている。といっても、黒桂が一人で話しているだけだがな」
 その言葉に、赤胡は右手で頭を抱えた。


「そうなんですね」
「立ち話もなんですので、応接室へ。目立ちすぎます」
 赤胡はそう言って、応接室のある二階を見上げる。


「ねぇ、あの方って恭稲白様?」
「慶さんと恭稲白様ってお知り合いだったの?」
「あの人誰? めっちゃイケメンなんだけど」
「足なっが! 顔ちっさ! 綺麗すぎ! 慶ちゃんが小さく見える」

 あやかしの世界を知るモノたちは、恭稲白の存在に驚き、あやかしの世界をよく知らぬ者たちは、白の美しすぎる見目に驚きを見せる。どちらにしても目立っていることには変わりない。


「そうやね。赤胡、恭稲さんを案内していてもらえる? 二階のスタッフに時間調整してもらってくるから」
「分かりました」
「すみません、恭稲さん。すぐ戻ります。お茶でも紅茶でも飲んでお待ち下さい」
 慶はペコリと頭を下げ、ドタバタとこの場を後にした。


「恭稲白様、こちらへ」
「嗚呼」
 赤胡は背後にある白の気配に内心緊張しつつ、白を応接室へ案内した後、紅茶セットを置いて部屋を後にした。







 三人掛けソファーに腰を下ろしていた白は、内ポケットから取り出す。


「随分と成長したものだな」
 白は手帳に挟んでいた例の写真に写る赤子の慶を眺めながらポツリと呟き、長い足を弄ぶように組み替える。

 白が待つこと三分──。

「お待たせしましたー!」
 応接室の扉が勢いよく開かれる。


「……ノックの一つでもしたらどうだ? 騒がしい」

「す、すみません。お待たせしてはいけないという思いが先行してしまいました」
 呆れ口調で冷ややかな視線を向けられる慶は、飼い主に叱られた子犬のようにしょんぼりしながら歩み寄る。


「どうして、あの椅子に座っていないんですか?」
 レザーチェアーに座って話している白のイメージが強い慶は、背の低いソファに腰掛ける白の姿に落ちつかなかった。


「あそこは来客の席なのか?」
「ち、違いますけど……。白雨さんは座られていましたよ」
 どもりながらそう答える慶は、白の正面の席に浅く腰を下ろす。


「アイツはアイツだ」
「まぁ……そうですけど」
「藍凪慶としての暮らしは、随分と慣れたようだな」
「はい。おかげさまで。……恭稲さんは、私の本当の名前が藍凪慶だと知っていたんですか、それとも、調べたんですか?」
「さぁな」
 白は慶に答えを与えない。


「んっと……。し、白雨さんとお話したりされるんですか?」
 慶は何を話せばいいか分からなくとも、何かを話したい気持ちから、思いつくままに質問していく。落ち着かないのか、揃えた膝の上で手もみをしていた。



「嗚呼。ここと業務提携を結んだと聞いている。黒桂からは、ここが半妖弧専門クリニックになっているということもな」


「そうなれたのは、白雨さんと業務提携を結んだおかげです。それまではスタッフも少なくて、孤島病院のようでした。ですが、ここで働きたいと言って下さる白妖弧の方達が幾人か集まってくれたおかげで、院内はどんどんと活性化していったんです」
 慶は穏やかな口調でそう説明しながら、嬉しそうな笑みを浮かべる。


「人間界で暮らしたい白妖弧達と、従業員を求めていた双方の受容と供給が上手く行ったと言う訳か」
「はい。ところで、私に御用と言うのは?」
「再び、契約を結びに来た」
「……ぇ?」
「成長したと思ったが、間抜け面を晒すのは変わらぬようだな」
 白は慶の反応にほくそ笑む。


「なっ! 今のは、ちょっと驚いただけですから。普段は間抜け面なんてしていませんし、ましてや、うじうじ虫にもなってませんからっ」
 早口でそう言い返す慶に微苦笑を浮かべる白は、「そうか」とだけ言って頷く。慶は全く相手にされていないように感じ、冷静さを取り戻す。


「契約と言うは、どういうことですか?」

「半妖弧の里を設立して五年。里には人種所属問わず、色々なモノ達が集まり出している。そこで、長になるモノを集めている。現在、半白妖弧の長を白樹に努めてもらっている。半赤妖弧の長は黒桂に紹介してもらった。半黄妖弧の長は急を要さぬ。実質、一人しかおらぬからな。だが、半黒妖弧の長が必要だ」
「えっと……まさか……」
 慶は白の言わんとしていることを汲み取ったのか、視線をさ迷わせながら次の言葉を待つ。


「嗚呼。半黒妖弧の長を其方に努めてもらいたいと考えている。人間界のこともよくよく理解しているうえ、黒桂の娘だと言えば反論出来るモノなどおらぬだろうからな」

「半妖弧の里で暮らせと?」
「暮らさなくともよい。そもそも、我が里で暮らすモノはごく僅かだ」
 小首を傾げる慶に、白はすぐに答えを与える。


「暮らさなくても良いならありがたいですけど……。恭稲さんの里で暮らすモノが少ないと言うのは、それだけ半妖弧が少ないということですか?」


「それも一理あるが、我が里はあくまで田舎のような扱いだ。人間界で暮らしたければ暮らせばよい。人間と暮らしたくないのならば、我が里で暮らせばよい。私はあくまでも、選択肢の一つを増やしたに過ぎない。
 だが半弧狩りがなくなり、白妖弧と黒妖弧が手を組んだことによって、今後は半弧が増えてゆくだろう。里が本格的に拡大してゆく前に、柱をちゃんとしておきたい。
 人間界で暮らす半妖弧を取り仕切る長と、半妖弧の里で暮らすモノ達を仕切る長が必要だ。其方には、人間界で暮らすモノ達の長を務めてもらいたいと思っている」


「なるほど……。えっと、お断りします」
 慶は納得したように一つ頷いたかと思えば、少し躊躇しながらもきっぱりと断った。
「何故故?」
「だって、契約を結んだものとは馴れ合わない主義なんですよね?」
 依頼主と依頼者として契約を交わしていた過去を持つ慶は、白と一定の距離感が必要であった。だが今は違う。やっとなんの契約もないフラットな関係性になれたのだ。


「馴れ合えなくなるのが嫌だと?」
「私は、主あるじの恭稲さんとではなく、恭稲白さんとの関係性を築いてみたいんです」

「例えば?」
「た、例えば?」
 慶は小首を傾げてオウム返しをする。


「また間抜け面を……。脳みそまで間抜けになったのか」
 不憫な子を見るかのような視線で慶を見る白は、嘆くように小さな息を一つ吐き出す。


「なっ!」
「一体私とどんな関係性を築こうというのだ」
「あぁ~……う~ん」
 慶は思案するように右拳を顎先に当てる。


「主と飼い狗。師匠と弟子。兄と妹。知人。友人。心友、仲間。戦友──色々あるだろう?」

「ひ、左腕!」
 慶は言葉詰まりを起こしながら、前のめり気味に言う。


「……また訳の分からぬことを」
 白は左手を額に当て、控えめに首を左右に振った。

「だ、だって……。右腕は智白さんですよね? 私はどう足掻いても智白さん以上の右腕にはなれません」

「まぁ、そうだな。其方が千年以上足掻いたとて、智白のようにはなれぬだろうな」
「うっ」
 慶は耳と胸が痛いとばかりに、小さな呻き声を上げると、気を取り直したように顔を上げて口を開く。


「右腕になれないのなら、私は恭稲さんの左腕になりたいです。左隣でサポートできる人、役にたてる人に」

「その言葉の意味、よくよく理解しているのか?」
「ぇ?」

「ポーンだった駒はポーションすれば、駒の姿を変化させることが出来る。その変化の先がクイーンだと?」
「?」
「白盤面に置いてキングの左隣はクイーンが立っている。この言葉の意味くらい、理解できるだろう?」
 白は蠱惑的な笑みを浮かべる。


「‼」
 意味を理解した慶は目を見開き、顔を真っ赤にさせた。


「ぁ。あのの、そ、でで、はっ」
 狼狽する頭がパンクした慶は、言語能力を失った。


「ふっ」
 そんな慶が可笑しいのか、白は短く失笑すると、スッと立ち上がる。

「ぇ、ぁ!」
 訳が分からぬまま、慌てて慶も立ち上がった。


「私のクイーンにしては不甲斐ないが、まぁ百年も経てば成長するだろう」
 白はそう言って右ポケットから取り出したバイオレット・サファイアのカラーストーンが埋め込まれたクロスのチャームを、慶のチョーカーにつけた。それは、貼るピアスのチャームバージョンのようなものだった。


「ッ!」
 いきなり急接近された白の破壊力に、慶は硬直する。


「……先が思いやられるな」
 呆れ口調でそう呟く白は苦笑いを浮かべ、「また連絡する」と、その場を後にした。


 慶はしばしのあいだ、呆然と突っ立っていることしか出来なかった──。
【屋上である方がお待ちです】
 白が応接室を出てすぐ、プラカード替わりのスケッチブックを持った赤胡が立っていた。


【すぐに屋上へ向って頂けますか?】
 赤胡はスケッチブックの二ページ目を捲り、白に用件を伝える。慶に話し声を聞かれたくないようだ。


 白は微かに頷き、屋上へと足を向けた。


  †


 カチャ。
 予め鍵が開けられていた屋上の扉を開けると、春風が白の頬を撫でる。


 白はコツコツと靴の音を鳴らし、歩みを進める。
 背の高い黒色のフェンスに背を預けた女性が白を見つけ、目を丸くさせた。


「!」
 珍しく白が目を見開く。だがそれは刹那のことで、すぐにいつもの白へと戻る。


「やはり、生きていたか」

「ふふッ。見た目だけじゃなくて、声も話し方も可愛くないのね。磨白」
 脇下まで伸ばされたブラックコーヒーより薄く、艶やかな色合いに染め上げられた髪。顔周りから左へ流れるレイヤーに、大きくあてたデジタルパーマが品のある女性は穏やかな口調でそう言って微笑む。キツイ印象を与えていた猫目は癒し猫となっている女性、藍凪茉弓は数歩、白に歩み寄る。


「もう磨白ではない」
「恭稲白君でしょ? 仁から聞いているわ」
 という女性の腕には、少し褐色した健康的な肌と、慶より少し色素の薄さを感じさせるスぺサルタイトガーネット色の瞳を持つ赤子が抱かれていた。


「その赤子」
「……せめて赤ん坊って言ってちょうだいよ。赤子っていつの時代よ。まぁ、いいわ」
 茉弓は白に遠慮することも臆することもなく、自分らしくあるがままに話す。


「どうせ仁さんがペラペラ話したんでしょうけど、お察しの通り、この子は慶の弟よ。可愛いでしょう?」
「そうだな。名は、黒優《こくゆう》と言ったか」
「あら、名前まで知っているのね。ほんっと、仁さんってお喋りね。親馬鹿だし」
 茉弓は少しつまらなそうに首を竦めて見せる。


「……似たもの同士だと思うがな」
「何か言った?」
「いや、何も」
 白は何事の無かったかのように、控えめに首を左右に振った。


「そう? ならいいけど」
「で、何故私を呼びつけた?」
「呼びつけたって言い方はなんだか物騒ね。慶のついでに、私の所にも顔を出してもらおうと思っただけじゃない」
「あんなやり方でか?」
 どの口が言っているんだとばかりに、口端を上げる白は控えめに首をかしげて見せた。


「まぁね。慶に焼きもちを焼かれたり、変な誤解をされたら面倒だもの」
 茉弓は小さな息を溢して首を竦めると、ここからが本題とばかりに、急に真摯な顔つきになる。

「磨白──じゃなかったわね。慶を守り続けてくれて、本当にありがとう。私達の元へ、慶を連れてきてくれて、本当にありがとう。命だけじゃない。
 あの子の心も成長へと導き、どういった世界でも生きていけるようにしてくれて、本当にありがとう。感謝しきれないほど、感謝しているわ」


「……藍凪慶を守ってきたのは、其方達も同じのはず。それに、私だけが守ってきたわけではない。私がいくら言葉で導いたとて、本人が答えを弾き出して前に進まねば成長はせぬ。

 今の藍凪慶があるのは、今まであの者と縁《えにし》を紡ぎ、あの者を守ってきたもの達の力もあるだろうが、あの者が最後まで自分の命を投げ出さなかったからだ。

 今いる世界を選んだのは、あの者自身だ。どんなに他者が守り導こうとも、命を生かすも殺すも、どの世界でどう生きていくのかも、最後に決めるのはその者にしか出来ぬ。私達は、誰かに変わることも、誰かの人生を歩むことも出来ぬ。

 だが、世界中にある縁《えにし》は全て繋がっていて、共鳴し合っている。あの者の心に、我々が動かされてきただけなのかも知れぬな」


「──貴方、精神年齢高すぎて仙人みたいね。一体、どれだけ人生を歩んできたの? 仁さんの方が年下に見えてくるわ」
 どこか感心したように白の話を聞いていた茉弓は、微苦笑を浮かべる。


「黒桂は笑顔の裏に多くのものを隠している。見た目や表面上の会話だけではわからぬ。其方が生きていることが、何よりの証拠ではないのか?」


「……まぁ、そうかもしれないけど」
「あの時、其方を救えなくてすまなかった」
「──」
 茉弓はぽかーんとおとぼけ顔を晒す。


「……遺伝か」
 茉弓のおとぼけ顔を見た白は、一人納得したように呟く。


「ぇ? 遺伝? なんのこと?」
「いや、こちらの話だ」
 白は、気にするなとばかりに、しとやかに首を左右に振った。


「じゃぁ、私はもう行く」
「ぁ、あの子のこと、幸せにしてあげてね」
 茉弓は背を向ける白に、慌てて叫ぶように伝える。


「あの者が幸せになるかどうかは、あの者次第だ。幸せとは自分で気づき、築き上げてゆくものだからな」

「そこは素直に『分かりました』とか『任せて下さい』とか言いなさいよね」
 茉弓は白の返答に不服さを出す。


「月並みな言葉を言えと?」
 白は肩越しに振り向いて問う。

「そうは言っていないでしょ? 気持ちの問題よ」
「そうか」
「まぁいいわ。早く孫の顔を見せてちょうだいね。貴方達は長生きするのでしょうけど、人間の私は命が短いのよ。おいそれと待っていられないんですからね」


「ふっ」
 白は茉弓の言葉に短く吹き出し、「馬鹿なことを……」と独り言のように呟いて、その場を後にした。



 春風が吹き、病院の庭園に生えている桜の木から、桜の花びらをいくつか屋上に連れてくる。



 残された茉弓は、マリア様のような微笑みを浮かべ、穏やかな春の息吹を感じるのだった──。





〈完〉

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