僕は『絵描き』だった。
田舎の生まれで、代々続く農業の傍ら趣味で絵を描くような、知名度もなければお金を稼ぐことも出来ない、完全に自称の絵描き。
けれど近所からはそこそこ評判で、描き溜めた絵と作物の物々交換を申し出てくれる人も居た。
小さく貧しい村で、こうして道楽趣味を受け入れて貰えるのは、とても有り難いことだった。
「アルトー、お客さんだよ!」
「……僕にかい?」
ある日、秋の収穫を終えて、冬支度も済んだ頃。近所の子供達が連れてきたのは、細身で小柄な人物だった。
ぼろの薄汚れた布をローブのように纏い、フードを目深に被る様子は魔女のようにも見える。顔はよく見えないものの、その下に着ている服はよく見れば上質で、この村では見たことのない装い。
もう少しすれば雪に閉ざされ冬籠もりをするしかなくなるこの村に、外からの客人は珍しい。
「……、どういったご用件で?」
「あのね。このお姉ちゃん、アルトの絵を見たんだって!」
「ああ、確かに村中に何枚か飾って貰ってるけれど……でも、それにしたって他所のお嬢さんが何故僕に?」
「……」
子供がお姉ちゃんと言うからには、若い女性なのだろう。顔の見えない少女はフードを被ったまま、僕の問いに少し口籠ったようにした。
「……まあ、立ち話もなんですから、お話は中で。ちび達も、お客さんを連れてきてくれてありがとうな」
「どういたしまして!」
「お姉ちゃん、アルト、またねー」
元気に駆けていく子供達を見送ってから、少女を母屋とは別の小屋へと案内する。少し歩いた先にある、小さな木造の古びた建物が、僕のアトリエだ。
春から秋にかけては気が向いた時に立ち寄る程度のその場所も、農作業のない冬の間だけは、大半の時間を過ごす憩いの空間だった。
収穫期にはめっきり訪れることもなかったから、少し埃っぽいのはしかたない。
「散らかっていますが、どうぞ」
「……」
申し訳程度に換気と掃除をして、少女に椅子を勧める。昔絵との物々交換で手に入れた、近所の爺さんの手作りの品だ。生憎と、ソファーなんて上質なものはここには置いていない。
恐る恐る腰かけた木の椅子が小さく軋む音を立て、その座り心地を確かめるようにした後、少女はややあってそのフードを外した。
「……、綺麗だ……」
思わず口をついた一言は、心からの本音だった。
フードの下に隠されていたのは、これから来る冬の雪原のような白い肌と、まばゆく煌めく傷みのない長い髪。それからまるで人形のような、美しい顔立ち。
ようやく見ることのできたその大きな瞳はひどく凪いで、向かい合っているのに、どこか遠くを見据えているようだった。
「……あなたに、わたしの絵を描いて欲しいの」
ぽつりと告げられた初めての言葉は、願ってもないことだった。こんなにも美しい人をモデルに描けるなんて、絵描き冥利に尽きる。
けれど、改めて見ても、着衣から立ち振舞いまでこの辺鄙な田舎に不釣り合いな少女に、疑問は尽きない。
「絵を描くのは、構わない。けれど、完成までには時間がかかるんだ」
「……どれくらい?」
「描いてみなければわからないな。それに、この村はもうすぐ雪で覆われてしまうんだ。外から通うとなると大変だろう」
「……なら、絵が出来るまで、ここに置いて欲しい」
予想外の要求に、思わず瞬きをする。育ちの良さそうな少女を、こんなぼろ小屋に住まわせるのもどうなのか。そもそも、未成年であろう彼女は外泊の了承を家族から得ているのだろうか。
様々な問題は浮かぶけれど、久しぶりに訪れたアトリエで嗅ぐ画材の匂いと、今まで見たこともない最高の被写体を前に、胸の奥に燻っていた創作意欲が止まらなくなる。
「いろいろと確認することはあるけれど……そうだね、描きながら、きみのことを教えてくれるかい?」
「……わかった。よろしく、画家先生」
「ああ、僕のことはアルトで構わない。きみの名前は?」
「……、レイ……」
「そうか。よろしく、レイ」
こうして、僕と彼女の冬のアトリエでの生活が始まった。
*******
「レ
イ、きみはどこから来たんだい?」
「ここからずっと、遠くの町から」
「一人でここまで?」
「ええ。田舎に憧れていたの」
「はは、確かにここは何にもない田舎だね」
「広々としていて、長閑で、とてもいいと思うわ」
「気に入ってくれたなら何よりだ。……けれどきみのご家族は、きみがこんな田舎に居ることを知っているのかい?」
「……」
数日と経たず冬を迎え、雪が田畑一面を覆う様は、真新しいキャンバスのようだ。
僕にとって、冬はしんしんと降り積もる雪の音を聴きながら一人小屋に籠り描く、孤独の季節だった。
「レイ。好きな色はあるかい?」
「好きな……?」
「ああ。絵はね、自由なんだ。きみが今白い服を着ていたとして、絵の中では赤い服を着せることだって出来る」
「……自由……そう、素敵ね」
彼女とぽつりぽつりと会話をしながら描く時間は、とても新鮮だった。
彼女は多くを語ろうとはせず、その美しい顔は作り物のように表情を浮かべることも少ない。
それでも、声をかければ真っ直ぐにこちらを見据えるその瞳は、絵への期待からか少しずつ熱を帯びているように思えた。
「レイ、きみは……この絵が完成したら、どうするんだい?」
「……空に、還るわ」
「えっ」
「……なんてね」
らしくもない冗談めかした言動に、思わず心臓が跳ねる。
絵を描きはじめてから既に一週間。毎日数時間、退屈であろう絵のモデルに何の文句も言わず、ただ美しく在り続ける彼女はもしかすると本当に天使で、絵が完成すれば幻のように天へと帰ってしまう気がした。
「……きみは、やっぱり瞳が綺麗だね。森の湖のように凪いでいるのに、その奥には力強い意思を感じる」
「意思……?」
「所作にも品があるし、肌も日焼け知らずの白さだ。きみは育ちも良さそうだし、何か目的があって、こんな片田舎まで来たんだろう?」
「……ええ。わたし、自由が欲しかったの」
「自由……? 今までは、自由ではなかったのかい?」
「そうね……でも、あなたの絵の中では、自由で居させてくれるんでしょう?」
「ああ、勿論」
自由を求める彼女は、何もない冬のアトリエで過ごす日々をどう感じているのだろうか。
モデルをしている間以外も、あまり小屋から出ている様子はない。
夜は僕が持ち込んだ簡素な寝具で過ごし、昼間は時折子供達が遊びに来て、彼女は遠くの町の子供が好むという絵本のような物語の話をする。
村人達もはじめの数日は外からの客をもてなすように食料を分けてくれたけれど、冬の間の備蓄は限られている。今では僕の用意した質素な食事しか与えられていない。
朝から夕方の数時間、話をしながら絵のモデルをして、あとはこの埃っぽい小さな部屋で何をするでもなく、僕が昔描いた絵や、窓からただ真っ白な外を見て過ごす。
ただそれだけの代わり映えのない日々は、彼女にとって鳥籠の中と変わりないのではないか。
早く絵を完成させて、彼女を本当の意味で自由にさせてあげたい。
そう思うのに、何もない窓の外に焦がれるような視線を送る彼女が、キャンバス越しの届きそうで届かない距離が、心地好くももどかしく感じるようになった。
「……レイ」
「なに?」
「きみは、今まで見た何よりも完璧で、何よりも欠けている」
「……」
「その全てを描くのに、僕は一生かかるかも知れない」
何か訳ありなことはわかっていた。ほとんど外に出ないのも、質問に対して核心的な答えを返さないのも、何かを警戒してのことだろう。
それならば、ずっとここに居ればいい。冬に咲かない花でも、きみが望むなら描いてみせる。好む服も、宝石も、絵の中の自由ならいくらでも僕が与えると、そんな欲が、つい口から溢れる。
彼女は少し驚いたようにしてから、僅かに眉を下げて笑った。いつも作り物のような美しさを帯びた彼女の、初めて目にする笑顔だった。
「……わたしね。もうすぐ死んでしまうのよ」
*******
アトリエの窓から差し込む仄かな明かりに照らされて、彼女の髪は美しく光を纏う。それまで持っていた画材では表しきれずに、僕は新しく絵の具を買い足した。
その時、偶然村の外から来た商人の話を耳にした。
山の向こうの遠くの町で、とある令嬢が行方知れずになったのだと。
令嬢は生まれつき病弱で、過保護な両親に命じられ、一度も屋敷を出たことがなかったという。
けれど主治医に余命を聞いた翌朝に、ベッドはもぬけの殻だったらしい。
外に出られなかったのは、何かを警戒してのことだけではない。寒さで身体を壊しては、本当の意味で命取りだったからだ。
「レイ。きみのご両親が、もうじき迎えに来るそうだ」
「……!?」
「大丈夫。きみが町へ戻っても、絵は描き続けるよ。もうほとんど完成なんだ」
「嫌よ……帰らない。わたしは、自由になりたいの……一生ベッドの上で過ごすなんてうんざり!」
家から持ち出した宝石や金を売ってこの村までの路銀にしたらしい彼女の足取りは、とうに割れていた。雪に閉ざされていなければ、とっくに連れ戻されていただろう。
雪道に慣れた商人が、道中豪華な馬車を追い抜いたと話していた。迎えが来るなら、きっともうすぐだ。
「それでも……帰るんだ。きみの身体に、冬の寒さはこたえるだろう」
「わたしは、平気……どうせ春まで生きられないもの」
「いいや、まだだ。だって、絵はまだ完成していない。きみは僕の絵が出来るまで、何としても生き延びるんだ」
彼女の瞳に帯びた熱は、薄く色づいた頬は、絵への期待ではない。ましてや、僕に向けられた熱なんかではない。実際に、体調を崩して熱を出していたのだろう。
ずっと彼女を見てきたのに、ずっとこの時間が続けばいいと、身勝手に気付かぬふりをしてきたのだ。
そんな愚かさに自分を殴りたくなる気持ちを抑えて、僕は彼女を説得する。
「無理よ。だからわたし、あなたにわたしを描いて欲しかったの……わたしが死んでも、あなたの絵の中で生き続けられるように」
「……どうして、僕の絵だったんだ? 画家なら町にだっていくらでも居ただろう」
「……昔、商人があなたの絵を持ってきたことがあったの。何の変哲もない、田舎の村の風景画。……そうね、きっと雪がなければ、ちょうどこの窓から見える景色」
「……」
「無名の画家の、何の価値もないとされた絵……でもわたし、その広々とした自由な世界に、一目惚れしたのよ」
度々訪れた商人に、何度もこの村の話を聞いたという。屋敷に閉じ籠り、絵本ばかり読んで暮らしてきた令嬢には、広大な田畑も、何もない田舎道もきっと別世界のように映ったのだろう。
「……何もない、つまらない世界だろう?」
「ええ、でも。その分自由だわ。真っ白なキャンバスには、何だって描けるもの」
彼女はそう言って、子供のように無邪気な笑みを浮かべた。
*******
「家に帰って、栄養のある食事をして、薬を飲んで……春になって体調が良くなったら、完成した絵を見てくれ。今度は僕が届けに行くから」
「……春まで、頑張らないといけないのね」
「屋敷から抜け出して、こんな辺鄙な場所まで来られる勇気も意思もあるんだ。レイなら大丈夫だよ」
「さあ、レイチェル。帰るわよ」
「画家さん、娘が世話になったね」
「いいえ……大したおもてなしも出来ずすみません。娘さんにも、不自由をさせたと思います」
「いいや、この極寒の地で娘が生きて無事見付かったんだ。君が保護してくれたお陰だよ」
「……ねえアルト、約束よ。春になったら、絵を見せに来て」
「ああ。約束だよ、レイ」
こうして迎えに来た身なりのいい両親に連れられて、彼女はアトリエを去った。
彼女の両親からは、娘を保護してくれた謝礼金と絵の前払いとして、少なくない金銭を受け取り、僕はそれを画材の足しにした。
冬の間、僕は買い足した画材でレイの絵を描き続けた。
真っ白なキャンバスには、自由がある。泣き出しそうなほどの孤独と静寂すら、理想を描く糧となった。
目の前に彼女が居なくても、瞳の奥の深い色も、髪の毛一本一本の艶も、叶わぬ自由に焦がれる切ない表情も、最後に見せた年相応な笑顔も、全てが脳裏に焼き付いていた。
僕は寝食も忘れ、見たままを描いた最初の一枚だけではなく、何枚もの彼女を描き出す。
一目惚れしたという窓からの景色、その中心で微笑むレイ。
春の花々に囲まれて、夏の海辺を裸足で歩いて、秋の実りを頬張って、冬の雪原で踊る彼女。
約束の春に、ありとあらゆる自由を彼女に贈りたかったのだ。
*******
「……田舎の農夫であり、とある貴族のお抱え画家でもあった、特異な経歴を持つ男『アルト・ブランシュ』の作品……彼の初期の作品は保存状態も悪く、良くも悪くも平凡な風景画や村民と思われる人物画が中心。けれど晩年数多く残された一人の少女をモデルとした肖像画は、亡くなったその貴族の娘であるとされ、大切に保管されていた……」
美術館の一角に展示された、美しい少女の肖像画。まるで生きているかのような熱を感じさせるその作品達は、『レイチェル』という名の連作として展示されていた。
卒業制作に行き詰まり偶々訪れた美術館で、僕はその少女の絵の前で立ち止まり、解説を読み上げる。
「……」
一枚目に飾られた、暗い室内に居る彼女の瞳は、窓枠に見立てた額の外の景色に焦がれているのか、それとも、僕を見てくれているのか。
「……また会えたね。レイ」
間に合わなかった、春の約束。
その後も命を削るように少女を描き続け、三年後の冬に眠った一人の画家。
彼が生涯をかけて描いた自由は、こうして後世の人々に評価されるまでになった。お陰で、彼女の絵は旅でもするように、国内外問わずあらゆる土地で飾られている。
「あら……浮気?」
「……わ!? 何だ、きみも来てたのか」
不意に下の方から声がして、僕は慌てて視線を向ける。そこには、見慣れた彼女の姿があった。
「ええ。割引もあるし良く来るの。……ふふ、約束はしない方が、案外会えたりするのよね」
「……違いない。……ちょうどよかった。卒業制作のテーマ、思い付いたんだ。今から付き合ってくれないか?」
「わたしから言おうと思ってたのに……『あなたに、わたしの絵を描いて欲しいの』って」
「ああ……きっと素敵な絵を描くよ。絵は自由だからね」
僕はかつて、『絵描き』だった。
けれど今世でもきっと、真っ白なキャンバスに描き続けるのだろう。
冬を越えたその先で、今度こそ彼女が望むすべての自由を、僕が叶えられるように。