座り込む来光くんの前に仁王立ちした慶賀くんは、少し困ったようにガシガシと頭をかいた。
「……悪かったよ。引っ張ったのは謝る。でもそうしないとお前、一生俺らと喋る気なさそうな気がしたんだよ」
図星だったのか来光くんが体を小さくしてより俯く。
「あのさ、"僕がどれだけ"って言ってたよな? 来光は仮病使って引きこもってる間、色々考えてたんだろうけど、そんなん俺は知らねぇ。つかどーでもいい」
頬を引っぱたかれたように傷付いた顔をした来光くんは震える唇を噛み締めて、何かをこらえるように眉を寄せる。
「……どうでも、いいんだ」
「おう! クソほどどーでもいい!」
ふ、と乾いた笑みを浮かべた瞬間、その瞳に影が落ちた。
違う、そうじゃないの来光くん。私たちが言いたいのは────。
一歩前に出た瞬間、隣に立っていた嘉正くんが私の手首を掴んだ。小さく首を振った嘉正くんは「見守ろう」と小声で囁く。
もどかしい気持ちで唇を噛み締める。
「……どうでもいいなら、何で構うんだよ」
絞り出した声は切ない。
私まで泣きそうな気持ちになった。
「バーカ! どうでもいいから構うんだよ」
困惑した表情の来光くんが顔を上げた。
「お前がなにか悩んでてもどうでもいい。昔何かがあったとしてもどうでもいい。死神だろうと悪魔だろうと閻魔だろうと妖だろうと、どうでもいい。だって何があっても何を考えててもお前はお前だろ? 来光」
涙で濡れた目が見開かれる。
「俺は来光と遊びに出かけたいし、馬鹿やって叱られるならお前と泰紀と三人じゃなきゃ物足りねぇよ」
慶賀くんが人差し指で鼻を擦りながら、唇を尖らせてそう言った。
「そうだぞ、来光」
赤くなった顎を撫でた泰紀くんが笑う。
「お前はその退屈な脳ミソであーだこーだ考えて閉じこもってたみてぇだけど、そんなん知るかってんだ。お前の悩みなんて俺らにとっちゃ、その程度の事なんだよ! 夕飯の献立の方がよっぽど重要だつーの!」
来光くんがくしゃりと顔を歪めた。手の甲で頬を何度も拭う。
「来光が何に悩んでるのか俺達には分かんないけどさ、俺らが友達になったのは今ここにいる松山来光だよ」
来光くんの隣にかがんだ嘉正くんが勢いよく背中を叩いた。
痛いよ、と来光くんが呟く。泣きながら笑っている。大粒の涙がボロボロと溢れていた。
「────嫌われるのが、怖かったんだ」
ポツリと呟いた声はしっかりと皆にも届いていた。
苦しそうに言葉を紡ぎ始めた来光くんに、皆は黙ってそばに座る。
「……僕ね、小学生の頃、クラスメイトを呪ったことがある」
震える拳にそっと手を重ねれば、来光くんの肩の力が僅かに抜けた。不安げに顔を上げた来光くんは泣きそうな顔で微笑んだ。
「書宿の明」
授力。
銀行勤めの厳格な父と結婚前は高校教師だった母。誰がどう見てもお堅い職業に就いていた両親は絵に描いたような学歴主義人間だった。
三歳で大学までエスカレーター式の幼稚園にお受験して合格、両親の望むとおりに入学した僕。しかし入学してたったの半年で父の転勤が決まってしまい、両親はそれはそれは大喧嘩をしたらしい。
それでも父の転勤先に付き添うことに決めた母は幼い自分を連れて地方へ引越し、散々文句を言いながら公立の幼稚園へ通わせた。
幼稚園が終わって昼過ぎに家へ帰ってくるとすぐさま習い事教室に放り込まれた。ピアノ、そろばん、プールに英会話、小学校受験用の学習塾。
もちろん帰宅すれば父が買ったドリルが待っていて、決められたページを終わらせない限り夕飯も風呂も寝ることも許されなかった。
母は「私立の子達は幼稚園で学ぶ事なの! 同い年なのに遅れをとって恥ずかしくないの!?」とよく叱っていた。
その頃は言葉の意味が理解出来ていなかったからただ叱られたことが悲しくて泣いていたのだけれど、今思えば幼稚園児に遅れるものにもないだろと冷静に思う。
とにかく両親は僕が他よりも劣っていることが許せなくて先を進んでいることが当たり前で、ほかと少しでも違うことがあれば狂ったように声を荒らげた。
そんな環境にいたせいからか、心の内をノートに綴るようになったのは割と早い段階からだった。恐らくそれを日記と呼ぶんだと知る前から何かしらノートに綴っていた気がする。
とにかく夜に机に向かって入れば両親の機嫌が良くて、でも勉強するのは嫌だったからノートに色な事を綴るようになっていた。
日記を書くようになった理由は、もう一つ心当たりがある。
小さい頃から自分にだけ見えていた"怖くて恐ろしいものの"せいだ。
小さい子供が暗闇や人気のない場所を怖がるのはよくある事だと考えていた両親は自分のことを"怖がりで臆病な繊細な子供"だと思ったらしい。
だからか、根性を叩き直すためと空手道場の体験に連れていかれた事もあった。幸いな事に僕があまりにも向いていなかったので、監督が「息子さんは他のスポーツの方が向いてますよ」と言ってくれて習い事が増えることはなかった。
まぁとにかく未就学児は自分以外の人には見えないイマジナリーフレンドがいるものだし、僕もその類だと思われたようだ。
怖いと泣けば呆れた顔で手を引いてくれたのを何となく覚えている。その頃はまだ良かった。まだ、幸せな記憶があった。けれど小学校へ入学した年に両親は態度を変えた。
小学校受験は父の3度目の転勤と被ってしまい、引越し先の公立の小学校に進学した入学式の日だった。
小学校は公立ながらに創立100年を超える伝統ある学校で、僕が見てきた"怖くて恐ろしいもの"が至る所に住み着いていた。
恐ろしさのあまり校舎の中へ入ることも出来ず、先生に宥められても頑なに入ろうとしない自分に、母は顔を真っ赤にして「いい加減にしなさい!」と高い声で怒鳴りつけ僕の頬を叩いた。
その日を境に僕が"怖くて恐ろしいもの"の話をすると、両親は僕を叩くようになった。そうして僕は"怖くて恐ろしいもの"は口にしてはいけないと学んだ。
けれどその記憶をただ自分の心の中や頭の中に留めておくのは恐ろしくて、恐ろしい記憶を頭の中から移そう必死にノートに綴っていたんだろう。
毎朝、登校班の六年生に手を引かれて泣きながら通ったその小学校は二年生の三学期で転校する事になった。
両親から転校の話をされた時は、もうあの学校へいかないでいいという事に飛び跳ねて喜んだ気がする。三年生に進級するタイミングで、今度は愛媛にある小学校へ入学した。
進学先の学校は前に比べると小綺麗で、創立されてからまだ十数年という事で怖いものはあまり住み着いていなかった。恐らくこの頃から、自分に見えていないそれが妖怪と呼ばれるものなのだと理解していたはずだ。
帰宅して習い事に行くまでの間の許された時間で見ていた妖怪アニメに登場する妖怪に何となく似ていたからだ。
妖怪を上手くスルーする方法も編み出した。
まず目を合わせないこと、目が合ってしまっても見えていないフリをすること、あからさまに怖がらないこと。あからさまに怖がれば奴らは近付いてきて、もっと怖がらせようとしてくるからだ。
そしてどうしても怖くて仕方ない時は「あっち行け!」と大きな声で叫べば、奴らは鉄板に落ちた水滴みたいにジュワッと弾けて消えてしまう。
そうやって独自の対応術を編み出した僕は、新しい学校で新しい友達にも恵まれ、それなりに楽しく過ごしていた。
事件が起きたのはその年の二学期、社会科見学で訪れた郷土史資料館でだった。
電車に乗ってやってきた町外れの郷土史資料館は五十年前からそこにあるらしく、入る前から何となく嫌な感じを感じていた。
嫌な感じ、というのはその場所やその建物、たまに人間なんかにもまとわりついている紫暗の靄のことだ。
まだ約八年程度しか生きていないけれど、これまでの経験からその禍々しい色をした靄がまとわりついている所には必ず妖怪がいるか悪いことが起きる。
前の小学校がそうだった。
入口で立ち止まっていれば先生から「松山くん、ちゃんと列に並んで」と注意を受けた。その隣には怖いと有名な学年主任の先生もいて、ぎゅっと掌を握る。
「松山くんどうしたの? 先行っちゃうよ?」
クラスの最後尾の女の子が不思議そうな顔をしながら通り過ぎた。
それでもその場から動こうとしない自分に困ったように眉を下げた担任は助けを求めるように学年主任へ視線を送り、その視線はやがて「さっさと歩け松山!」という学年主任の怒鳴り声に変換された。
怒鳴られたことで帰って弾みがついたのか、ぎゅっと目を瞑り中へ駆け込む。
恐る恐る目を開けると、そこには何の変哲もないよくある少し寂れた公民館のような施設が広がっているだけだった。
「あれ……?」
もっとおどろおどろしい光景を覚悟していたのに紫暗の靄は外に広がっていただけで、施設の中は埃臭い乾いた空気が広がっているだけだった。
確かに空気は重苦しいけれど、こういう施設は何処もこんな感じなんだろう。
少し拍子抜けしながらも用心深く周りを見渡せば、確かに影やすみに小さな妖がいる。けれどこちらには目もくれず、こそこそと影から影へ移っては物陰に身を潜めている。
彼らは自分たちに興味がないらしい。むしろ自分たちから隠れるように隅へ隅へと逃げていく。
どういうこと?と不思議に思いながらも、ちょっかいをかけてこないなら好都合だ。
何度か深呼吸をして自分を落ち着けて、いつものように知らないフリ見えないフリを決め込み歩き出した。