昔々、この国に雪女というあやかしがいました。雪女は人を凍らせて殺めてしまうあやかしとだと信じられていました。しかし、これは雪女のことを正しく言い表す名ではありませんでした。
 雪女は、その美しさと巧みな言葉で男を惑わし、交わりのさなかに男の精気を全て吸い取って殺めてしまうというあやかしでした。雪女に殺められた男は、髪が全て白髪になり、体中が枯れ木のようにやせ細り、青白く朽ち果ててしまいました。
 雪女のこの行いは、人々の口を経るうちに、更には時が経つうちに、形を変えて伝えられていったのです。こうして、このあやかしは雪女と呼ばれるようになったのでした。
 
 戦国の世も遠い昔になり、世の中がすっかり落ち着いた頃、武蔵の国に茂蔵と伊之吉という親子が住んでいました。茂蔵は女房を早くに失くし、一人息子の伊之吉と二人暮らしでした。茂蔵は村はずれに小屋を構えて炭焼きを生業としていました。
 茂蔵はたいそう顔立ちが良く、亡くなった女房も美しい娘でした。二人の息子である伊之吉も、とても可愛らしい男の子に育ち、少し前に十二歳になったばかりでした。
 
 雪女は、そんな茂蔵に目をつけました。ある雪の夜、伊之吉が寝付いた後に、雪女は茂蔵の小屋の戸を叩きました。旅の途中に道に迷った、雪も降ってきて途方に暮れている、どうか一晩ここに泊めてはくれまいかと巧みな嘘をつきました。心根の優しい茂蔵は、雪女を小屋に招き入れ、温かい食べ物も振舞ってやりました。
 夜も更けて、茂蔵が行燈の明かりと落とそうとすると、雪女はお礼がしたいと言って、茂蔵の胸に体を預けてきました。正しい心を持った茂蔵は、一度は雪女の申し出を断りました。しかし、茂蔵も、女房を早くに失くした若い男でした。美しいあやかしの巧みな惑わしに敵う訳もなく、とうとう雪女の手の内に落ちてしまいました。そうして、茂蔵は雪女との交わりのさなかに精気を全て吸い取られ、枯れ木のように朽ち果ててしまいました。
 
 その後、雪女はすぐに小屋を去ろうとしましたが、ふと伊之吉の姿が目につきました。雪女は伊之吉の寝ている所に行くと、その上にかがみこみました。さっきまでは気にも留めていませんでしたが、伊之吉は、それはそれは可愛らしい男の子だとわかりました。ついでにこの子の精気も頂こうかと雪女は思いました。触れてみると、伊之吉の体はもう大人になっているのが分かりました。
 雪女に触れられて目を開いた伊之吉は、雪女がそれまで見たこともないような、とても澄んだ目で雪女のことをみつめました。
 その美しい瞳を見た時、雪女はとてもずるいことを思いつきました。まだ、子供のうちに、この子の育ち切っていない精気を奪ってしまうのはもったいない。立派な大人になってからもらいに来ようと思ったのです。そして、雪女は伊之吉にこう言いました。
「なんて美しい男の子なんだろう。お前はまだ若いから父親のようにはしないよ」
 そう言い残して雪女は小屋から姿を消しました。

 翌朝、小屋を尋ねてきた商人が、茂蔵の亡骸と、熱にうなされた伊之吉をみつけました。その後、伊之吉は親戚の家に預けられました。
 伊之吉は元気になった後、色々な人に、父親が亡くなった時のことを尋ねられました。しかし、伊之吉は、自分は寝ていて何も知らないと言うばかりで、雪女のことは口にしませんでした。
 
 それから六年の時が経ちました。十八になった伊之吉は、親戚の家を出て、父と暮らした小屋に戻り、炭焼きの仕事を始めました。
 父親が惨たらしい死をとげた小屋に、どうして一人で住めるのかと、いぶかしく思うものもいましたが、伊之吉は気にかけていないようでした。
 父母に似てたいそう顔立ちの良い伊之吉に思いを寄せる娘が村には何人もいました。しかし、伊之吉はそんな娘たちには目もくれず、黙々と働き続けました。
 更に四年が経ち、伊之吉も嫁を迎えても良い年頃になりました。しかし、伊之吉は相変わらず、村の娘たちに目が行く様子は有りませんでした。村の人たちがどんなに良い縁談を持ち込んでも、伊之吉は首を縦に振りませんでした。伊之吉が余りにも頑ななので、誰か思う人があるのかと尋ねても、伊之吉は答えをはぐらかすばかりでした。
 
 そんなある冬の日、雪女が伊之吉の所に戻ってきました。すっかり大人になった伊之吉に、とうとう手をつけようとしたからでした。
 雪女は伊之吉に怪しまれぬよう、小屋を尋ねるのではなく、道でたまたま出会った振りをすることにしました。伊之吉が村から帰る道をゆっくりと歩き、伊之吉が追いつくのを待ちました。
「旅のお方ですか?どちらまで行かれるのですか?」
 後ろから声を掛られ、振り向いた雪女は、今まで感じたことのない不思議な気分を味わいました。伊之吉は雪女が思っていたよりも遥かに顔立ちの良い男に育っていたのです。
「あ、はい、江戸まで親戚を頼って行くところでございます。あの、ええと、途中、道を間違えて街道を外れてしまいました」
 人を惑わすことに長けていたはずの自分が、慌てているのに雪女は気がつきました。それほど雪女は、伊之吉の美しさに心を奪われていたのでした。
「そうでしたか、それはお困りでしょう。街道に戻れるように、道案内をして差し上げましょう」
「ありがとうございます。助かります」
 礼を言いながら、雪女は、なぜか本当に嬉しいと思っていました。
 それから二人は話をしながら歩いていきました。人と長く話をしたことなど殆どなかった雪女でしたが、伊之吉と話すのは何故か楽しく思えました。
 小屋が近づいた頃、空も少し暗くなり始め、雪がちらついてきました。
「このままだと宿場にたどりつくまでに日が落ちてしまいますね。雪もちらついてきました。よろしければ、今夜一晩、わしの小屋に泊まっていかれてはいかがですか?むさくるしい所ですが」
「ありがとうございます。そうさせて頂きます」
 雪女は伊之吉が優しい言葉を掛けてくれたことを嬉しく思いました。男を惑わすことなど数限りなくしてきたはずなのに、どうしてそう思えたのか雪女にも良く分かりませんでした。

 その夜、雪女は伊之吉に優しく求められました。雪女にとって、伊之吉は今まで殺めてきた男たちとは違っていました。今までの男たちは、あやかしかも知れないと疑いながらも、雪女に惑わされた挙句、男の欲をむき出しにしてくるものばかりでした。
 しかし、伊之吉の体からは雪女を愛おしむ気持ちが伝わってきました。そして、雪女は、今まで一度も感じたことのない悦びが体に満ちてくるのを感じました。
 この心地よさにいつまでも浸っていたい。そう思った雪女はいつしか伊之吉の精気を吸い取ることを忘れていました。

 翌朝、伊之吉より先に目覚めた雪女は朝ご飯の支度を始めました。
 目が覚めて雪女の顔を見た伊之吉は、ひどく驚いているように見えました。
「お早うございます。何をそんなに驚いているのですか?」
「いや、まだ、いてくれたんだね」
 伊之吉は、まだ不思議そうな顔をしていました。
「当り前です。こんなにお世話になっておきながら、黙って出て行く訳がないじゃありませんか」
 雪女がそう言うと、伊之吉の顔は嬉しそうな顔に変わりました。
「さあ、一緒に朝ご飯を食べましょう」
「ああ」
 そう答えた伊之吉は、とても優しそうな目で雪女を見ていました。
 
 それから二人は夫婦になりました。二人の暮らしはたいそう幸せなものでした。菜の花の咲く春、蛍の舞う夏、紅葉の彩る秋を一緒に眺めました。
 しかし、冬が来て初雪が降る頃になると、伊之吉の体はにわかに衰えていきました。手足もすっかり細くなり、ついには立って歩くことも辛くなってしまいました。
 雪女は医者を呼びました。しかし、医者も自分の手には負えないと匙を投げてしまいました。冬は越せないかもしれないと医者は言いました。雪女はかいがいしく伊之吉の世話をしましたが、伊之吉の体は弱ってゆくばかりで、とうとう歩くこともできなくなってしまいました。
 
 そんなある雪の夜、行燈の光の中で雪女が針仕事をしていると、床に臥せった伊之吉が声を掛けてきました。
「お前がそうして行燈の明かりを受けて針仕事をしているところを見ると、わしは十一年前のことを思い出すんだ。お前はあの時と全く変わっていないね」
 雪女は変だなと思いました。
「何を言っているんです。私があなたに初めて会ったのは一年前じゃありませんか」
「いや、十一年前だ」
 伊之吉の言葉を聞いて雪女は心の中がざわつきました。
「いったい何を言っているのです?」
 言いながら雪女は慌ててしまい、縫物が床に落ちました。
「もう、隠さなくても良いんだ。お前は、十一年前の雪の夜、わしの父を殺めたあやかしであろう」
 雪女は言葉を失いました。狼狽える雪女を伊之吉は優しい目で見つめていました。自分の父を殺めた相手に、伊之吉が、どうしてそんなに優しい目を向けられるのか、雪女にはわかりませんでした。
 それから、伊之吉はゆっくりと話し始めました。
「あの少し前、わしは自分の体が変わったことに気づき、父に話をしたのだ。父はわしの体が大人になったのだと教えてくれた。そして、良い折だからと、男と女の交わりについても話を聞かせてくれたのだ。そして、あの夜、わしは初めて男と女が交わるところを目にしたのだ。お前は気づかなかっただろうが、わしはお前が父と交わるところをずっと見ていたのだ。少しも目が離せなかった。あの夜のお前は本当に美しかった。父が朽ち果てるのを見ても、私は少しも恐ろしいとは思わなかった。むしろ、わしも父と同じようにお前に殺めてほしいと思ったのだ」
 伊之吉が少し咳き込み、言葉が一度途切れました。
「わしは寝たふりをしていたが、お前がわしの上にかがみこみ、体に触れた時、目を開けた。お前がわしを欲しがっているのが分かった。わしは自分も殺めてもらえるものと思い嬉しかった。しかし、お前はわしを置き去りにして行ってしまった。悲しかった。本当に悲しかった。しかし、わしはお前の言葉に望みを見出した。『まだ若いから、父のようにはしない』とお前は言った。ならば、いつの日か、お前はわし所に戻って来てくれるに違いないと信じた、いや、信じようと思った」
 そこで、また伊之吉は咳き込みましたが、すぐに話を続けました。
「それから、わしには女はお前一人になった。他の女などまるで目に入らなかった。わしは、ただお前だけを待ち続けた。わしは、あの夜から、お前と交わって一夜で朽ち果てるためだけに生きてきたのだ」
 伊之吉の言葉が途切れたところで雪女は尋ねました。
「お父様を殺めた私を、憎いとは思わなかったのですか?」
「憎いと思わなかったわけではない。だが、お前を憎いと思う心よりも、愛しいと思う気持ちの方が勝ったのだ。自分でも、どうしてそうなったのか良く分かっていない。人とは不思議なものだな」
「そうですね」
 雪女もまた、人の心は分かりにくいものだと思いました。
 一呼吸おいて、伊之吉は、また話し始めました。
「一年前のあの夜、お前はわしを殺めなかった。しかし、お前は自分でも気づかぬうちに少しずつわしの精気を吸い取っていたのだ。わしの体がこうなったのはそのせいだが、お前が気に病むことはない」
 伊之吉の体が弱っていったのは自分のせいだと聞かされ、雪女はひどく慌てました。取り返しのつかないことをしてしまったと悔やみました。
「それが分かっていたのなら、どうして、私から逃げようとしなかったのですか?」
 雪女の言葉は半ば叫びになっていました。
「逃げる?どうしてそんなことができよう。言っただろう。わしはお前と交わって一夜で朽ち果てるためだけに生きてきたのだと。一年前のあの夜、わしはようやく長年の願いが叶うものと思い幸せだった。それどころか、お前があの夜、わしを殺めなかったおかげで、一夜どころか一年もお前と過ごすことができた。そんな幸せを、どうしたら自ら捨て去ることができよう」
「お父様を殺め、あなたの命まで奪おうとしている私といて、なぜ幸せなどと言えるのですか?」
 雪女は伊之吉の気持ちがまるで分りませんでした。
「言ったではないか、わしはお前に殺められるためだけに生きてきたのだと」
 そう言われても、やはり雪女は、伊之吉の思いはいびつなものとしか思えませんでした。
 雪女が何も言えずにいると、伊之吉がまた声を掛けてきました。
「さて、そこでお前に最後の頼みがあるのだ。わしにまだ力が有るうちに、お前の手でわしを天に送って欲しいのだ」
「とんでもない、どうしてそんな恐ろしいことができましょう。確かに私は己の欲のままに、数えきれないほどの人の命を奪ってきました。しかし、私はあなたに会って初めて本当の喜びを知りました。私は長い長い間生きてきましたが、この一年が一番幸せでした。だから、あなたの命を奪うなんて、決してできるものではありません」
 雪女の目に次々と涙が溢れてきました。それは雪女が初めて流した涙でした。
「お前に辛いことをさせて申し訳ないが、それがわしの望みなのだ。もし、お前がわし命を奪わなくても、わしの命は遠からず絶えるであろう。だからせめて、長年わしが望んできた通り、私はお前に殺められたいのだ。どうか、わしの最後の頼みを聞いてはくれまいか」
 伊之吉の言葉は更に涙を誘い、とうとう雪女は声をあげて泣き出してしまいました。
「できません。私にはできません」
 雪女は伊之吉の願いを、なんとしても撥ね付けようと思いました。
「お願いだ。わしの望みを叶えてくれ」
 伊之吉はまるで最後の力を振り絞るようにして訴えました。その言葉の力強さは、とうとう雪女の心を動かしました。
「わかりました、あなたの望みを叶えて差し上げましょう」
「ありがとう」
 伊之吉はとても優しい声でそう言いました。涙で滲んだ目で伊之吉の方を見ると、伊之吉はとても嬉しそうな顔で雪女のことを見ていました。その顔を見た時、雪女はお釈迦様のお顔を拝んだような気がしました。

 翌朝、目が覚めて伊之吉はたいそう驚きました。二度と目が覚めることはないと思っていたので当たり前です。更に驚いたことに、あれほどやせ細っていた手足が元に戻り、体中に力が満ち溢れていました。いったい何が起こったのだろうと思いながら、ふと横を見た時、伊之吉は息が止まりそうになりました。
 伊之吉の隣には、変わり果てた雪女の亡骸が横たわっていました。美しかった黒髪は全て白髪になり、生き生きとして白く奇麗だった肌も皴が寄り青白く色褪せていました。そして手足は枯れ木のようにやせ細っていました。雪女はその精気の全てを伊之吉に注ぎ込んで息絶えていました。
 伊之吉は、雪女の亡骸にすがりついて泣きました。涙が枯れ果てるまで泣くと、自分も雪女の後を追おうと思いました。雪女がいなくなってしまったら、もう生きていても仕方がないと思ったのです。
 伊之吉は小屋の中だけでなく、外にも丁寧に油をまいてゆきました。小屋も、自分も、雪女の亡骸も全て燃やしてしまおうと思ったのです。
 いよいよ火をつけようかという段になり、伊之吉は雪女の亡骸の傍に腰を下ろし、もう一度雪女の顔を見ました。先ほどは心が落ち着かず気が付きませんでしたが、雪女は微かに笑みを浮かべ、まるで菩薩のように美しい顔をしていました。その顔を見て、伊之吉は心変わりを起こしました。雪女が与えてくれた命を投げ捨ててしまうのは、こんなにも美しい雪女の笑顔を泥足で踏みつける行いのように思えたのです。
 伊之吉は外に出てから小屋に火を放ちました。火はあっという間に燃え広がり、小屋は炎に包まれ、黒い煙が空に登ってゆきました。伊之吉はその煙の行方を見送りました。多くの人を殺めてきた雪女でしたが、今なら天も、雪女の魂を温かく迎えてくれそうな気がしました。
 雪女と出会い、雪女と暮らした小屋をしばらく見つめた後、伊之吉は小屋に背を向けました。そうして、二度と振り向くことなく、雪女のいない世界に歩いてゆきました。

おしまい