「せーのっ!」
『あけおめ!』
テレビに映し出される時計が、零時零分を迎えた途端、私たちはそう叫んだ。暖房をつけていたからか、それとも私たちが興奮しすぎたせいなのか、とても暑かった。大晦日の早朝から友人の沙織と柚葉の三人で私の家で準備をしていた。お陰で部屋の中はパーティ状態だ。
「いやぁ、明けちゃったね」
「だね。来年、いや、今年か。遂に私達も受験生か」
「実感無さすぎじゃない?」
私がそう言うと、どっとみんなで笑う。
「初日の出でも見に行く?このまま寝れる気がしない」
「だよね。行く?」
「凄く寒いけどね」
出来ることなら、このまま家で温まっていたい。そう私は思っていたけれど、友人二人は行く気満々だ。
「え、麻衣も行くよね?」
「もちろん。寒いのは嫌だけど」
私は渋々ハンガーに掛かっているコートに腕を通した。
「さあ、初日の出見に行くぞー!」
「おー!」
ノリノリな2人について行くように、私は夜中に家を抜け出した。
「寒っ⋯」
「部屋の中であんなにテンションが上がっちゃえばこんなのヘッチャラだよ!ね、柚葉!」
「ね!麻衣は寒がりなんだよ」
寒がり云々の問題ではないのだが⋯⋯と私は言葉にしかけて、飲み込んだ。
「そういえば麻衣は事故に気をつけないとね!」
「そうだよ!最近麻衣事故り過ぎじゃない?神社でお守り買う?」
私は2人にそう言われて苦笑した。ごもっともだ、と。私は昔からなにかと運が悪かったが、結果として良い方向に向かっていくので不運なのか幸運なのか、曖昧なのだ。交通事故が起こりかけた時も、何故か車が私の直前で左に急カーブをして危機一髪で助かったことが何度もある。
「あ、もう屋台出てるかな?」
「出てるらしいよ、あそこの神社なら」
私は気持ちを切り替えあらかじめ調べておいた神社の写真を見せる。
「うわー!すごい賑やか。混んでそう」
「さすが麻衣!調べるの早いね」
大抵遊びに行く時の予約などは私が担当していて、今回も初詣に行こうとはなるが神社を調べるところから始まりそうだったので事前に私が調べておいたのだ。
「混むだろうけど、多分こっちの神社の方が混んでるから意外と空いてるんじゃない?」
そして私はもう一枚写真を見せた。その写真の中は、本当に夜かと疑うほど明るくライトアップされていて、参拝より屋台がメインにしか見えない。
「じゃあ空いてること祈って行きますか!どうやって行くの?歩き?」
「歩きでも一応行ける。どうする?」
「歩いて行こう。どうせ、ゆっくり行っても日が昇るのは決まった時刻だから」
柚葉がそう言い、私たちはゆっくり神社に向かって歩き出した。
「うわ、結構人いるね」
「でも空いてる方でしょ。去年なんて人多すぎて動けなかったからね」
沙織がそう言うと、私たちは去年の初詣を思い出す。あの時は確か神社など事前に調べずに人気そうな神社に突っ込んだ結果、人混みで屋台にすら寄れず腹ぺこのまま帰ったのだ。
「チョコバナナとか懐かしい⋯⋯私幼稚園の頃すごい好きだった」
階段をあがりながら、屋台を一つ一つみていく。
「ねえ、ヨーヨー釣りだって!みんなでやらない?」
「いいね、やろう」
私たちはヨーヨー釣りの屋台に行き、店主に三百円を払いヨーヨー釣りをする。
「手が震えちゃう⋯⋯」
「慎重に、ゆっくりだよ⋯⋯」
2人はプルプルと震える手を抑えつけながら真剣にヨーヨーを釣っていた。私はこのような屋台は比較的得意なので、ひとつ、ふたつと釣っていく。
「よし、1個ゲット」
そう呟いたのは柚葉だった。その隣で頭をがっくし下げているのは沙織。
「沙織、これ一つあげるよ」
私は手に持っていたヨーヨーをひとつ渡した。
「いいよ、麻衣のが無くなるよ⋯⋯」
「私は沢山あるからいいの」
そう言って、手に持っていた三つのヨーヨーを見せる。
「ふふ、そういえば麻衣はヨーヨー釣りが得意だったね」
「器用って言って。次どうする?」
周りを見渡すと、まだ奥に屋台がある。
「もう少し進んでみよう。」
沙織の意見で、私たちはヨーヨーをパタパタ突きながら歩いていく。
「ねえ麻衣、チーズボールって知ってる?」
「流石に知ってるよ、丸い形したパンみたいなやつでしょ?」
この2人に時代遅れの人間と思われているのか、そんな質問ばかり投げかけてくる。
「屋台もいいけど、参拝しよ?じゃないとバチが当たりそう」
「確かにね、神様も怒っちゃう」
私たちはそれぞれ財布の中から五円玉を出すと、大鳥居へ向かう。
階段を少し上がったところで、私たちは絶望の声を漏らした。そこには、参拝目当ての人で行列だった。
「まだ年だって明けてないのに、並ぶの早すぎじゃない?」
「そりゃまぁ、年明けて直ぐに参拝したらいいこと起こりそうじゃん?」
やはりみんな思っていることは一緒なのか、ざわめいた声も聞こえてくる。階段を上がってから参道まで少し距離があるため、そこにも屋台がしきりと並んでいる。そこ目当てで階段を上下する人達で階段はぎゅうぎゅうだ。
「でも今並んでないと後々後悔しそう」
「じゃあ大人しく並んでよう。もしお腹すいたら交代でご飯買ってこよう」
柚葉の意見にみんな賛成し、寒い中参拝するための行列に並んだ。
「すみません、通らせて」
「えっ」
突然私の横を通りかかったのは、少しガタイのいい男性。私は精一杯横に避けた。
「あ⋯⋯」
しかし、狭い階段ではどうすることも出来ず。私は男性の肩が激しくぶつかりよろけた拍子に、足は宙を浮いていた。
「麻衣!!」
沙織がこちらに手を伸ばすが、届かず。
私は通路用に避けられた誰もいない階段からふわりと落ちる。
「危ない!」
来る衝撃に耐えようと強く瞑った目は、青年の叫び声で目を開いた。
「え⋯⋯」
あろうことか、青年は私を抱き抱えていた。
否、私が驚いたのはそこではない。
「神、様⋯⋯?」
思わず、そう言葉に出てしまった。
「そうだよ。本当は姿を現す心算は無かったんだけどね」
神様と名乗る青年は、そう言った。
「神様にしては、若いですね」
「でしょ。今は若く見せてるだけだけどね」
「⋯⋯と言うと?」
意外にも普通に会話できている自分に驚くが、なにより一番不思議なのが顔にかけられた布だ。顔を隠すためか、否か。
「実際は千を超えてるよ。千を超えてから数えるの辞めたけどね」
思っていたより先輩のようだ。私は警戒しつつも会話を進める。
「その、顔にかけられた布は?」
「嗚呼、之?之は顔を隠す為だよ。一般の人に僕の顔は見せられないからね」
「なんで?老けてるから?」
「莫迦な事云わないの。僕は超イケメンなんだから」
更に怪しくなった。が、私を助けてくれたのは事実だったので礼を伝えて直ぐ逃げようと思った。
「あの、ありがとうございました。正直死ぬと思ったので、本当に助かりました」
「うん、どういたしまして。」
⋯⋯で?
「え、出させてくれないんですか?」
「出すって、何処に?」
私の推測が合っていれば、ここは間違いなく神様の結界内だ。なんらかの力が働いて結界が張られたに違いない。
「現実の世界に⋯⋯ですよ」
「此処、現実の世界だけど?」
お互い何を言っているんだ、と言う顔になる。
「嗚呼、解った!君、自分が今何処にいるか解らないから出してって云ってるんでしょう」
「そう言う事なんだけど⋯⋯出してくれない?」
「其れは一寸聞けない約束だなぁ」
神様はそう言ってケラケラと笑った。私はついていけず疑問の声を漏らす。
「大丈夫です、誰かに言いふらしたりしないので」
「僕が心配してるのは其の事じゃ無くて、君のことだよ」
「私?」
思ってもいない返事に、私は素っ頓狂な声を漏らす。
「そう。君は此処から出ると全ての記憶を失ってしまう」
「そんな⋯⋯!」
全て、と言われて直ぐに思いついたのは友人二人だった。2人が私のことを忘れてまうのはまだ耐えられるが、私が2人のことを忘れてしまうのはどうしても耐えられない。私はどうにか解決策はないのかと探る。
「どうにか⋯⋯どうにか出来ないの?!」
「どうにか⋯⋯か。まぁ、方法は無いわけではない」
神様はそう言って少し俯いた。何故だろう、と思ったが方法が有ると言われた方が嬉しくて私はそちらに意識が向いてしまった。
「方法あるの?」
「有るよ。でも其れは、今直ぐには実行できない」
「なんで?」
「僕と君の友好関係がないから」
そう言われて更に悩んだ。ここから脱出するのに、神様と私の友好関係なんて必要なのだろうか?
「ふふ、何で必要なの?って考えてるでしょ」
「え、ええ⋯⋯まぁ」
「話しちゃうと、僕を犠牲に君を此の結界から出す」
え、と声になったかは分からなかった。ただ、何も言えない気持ちが心を揺さぶる。
「大丈夫、大丈夫。君が思っているより深刻な話じゃないよ」
神様はそう言って優しく笑った。でも何故か、見えていないのに笑顔の雰囲気が私の心をえぐる。
「そんなことまでして⋯⋯」
やらなくていいよ、とは言えなかった。私だって友達がいて、神様と言えど見ず知らずの人を救うために友人を捨てることは出来ない。
「迷っているんでしょ?なら、友達を取りなさい。僕は守ってくれなくて大丈夫」
神様はそう言うと、私の手を引っ張った。
「あ、其の前に」
突然私の手を引っ張るのをやめて、こちらに振り返った。
「名前聞いてなかった。なんて云うの?」
「麻衣⋯⋯雪山麻衣です」
「麻衣⋯⋯ね。なんて呼んで欲しい?麻衣ちゃん?麻衣?」
「何でもいいです。貴方の名前は?」
「僕?僕の名前⋯⋯忘れちゃったなぁ。決めていいよ」
え、とはっきり声に出た。千年生きていようと、名前を忘れることはあるのだろうか。実際千年も生きたことがないので分からない。
「なんか無いの?逆に今までなんて呼ばれてたの?」
「今迄⋯⋯先ず、名前で呼ばれたことなんてないよ。なんたって僕は神様だからね!」
「じゃあ神様呼びじゃダメなの?」
「なんか其れじゃ他人行儀じゃん?もっと友達っぽい」
「⋯⋯春蘭」
「春蘭?いいね、其れにしよう」
私はふと思いついた言葉を呟いてみる。すると、神様はその名前が気に入ったようで、神様の名前は春蘭に決定した。春蘭は再び私の手を取って走り出した。
少し走ると、木と草しか無かった空間から一気に変わり城という言葉がぴったりな場所に案内される。
「麻衣は之から此の部屋で暮らしてもらうからね」
そう言って案内されたのは、城内の一部の部屋。与えられた部屋は随分広いが、一人で過ごすには少し寂しい気もする。
「大丈夫、直ぐ慣れるよ」
私の考えを読み取ったように、春蘭はそう言った。私は本当に慣れるだろうか、と思いながらも部屋を見渡す。
「若し欲しい家具が有ったら遠慮なく云ってね。出来る限りなら用意して上げる」
神様なのだから、財力など関係ないのだろうか。
「嗚呼、早速やって欲しい事が有るんだけど」
「な、何⋯⋯?」
「そんなに警戒しなくても、僕は神様だから悪い事はしないよ」
ふふ、と笑う彼の雰囲気は優しげだ。確かに、警戒し過ぎるのも失礼かもしれない。私は固まっていた体を解すように深呼吸をした。
「それで、やることって?」
「いいね、其のやる気。じゃあ早速伝えるけど。此処の掃除をして欲しいんだ」
なるほど、と納得した。私は春蘭から渡されたほうきを受け取り、ぱっぱとはらっていく。
「じゃあ僕は向こうで休んでるから、解らない事が有ったら何でも云ってね〜」
なんとも呑気な神様だ。私は横目で神様を見ながらそう心の中で呟いた。
「掃除、終わりましたよ」
「おお、流石若者!仕事が早いね」
春蘭はそう云って私の頭を撫でる。私は咄嗟の出来事に慌ててその手を振り払う。
「子供扱いしないでください⋯⋯!」
「何で?僕からしたら君は十分子供だよ」
嫌味を込めたのか、否か。どちらにせよ私からしたらただの煽りにしか聞こえない。
「あ、あとひとつ。君に伝えたいことが──」
春蘭がそう言い切る前。林の向こうか地鳴りがする。地震かと思い、少し身構える。
「嗚呼、だから早く云いたかったのに⋯⋯」
春蘭はそう謎のセリフを吐いて、どこからか大幣を取り出した。
「え⋯⋯」
「麻衣は隠れてて。必ず僕が守るから」
シャン、と大幣の掠れる音が鳴る。私は言われた通りに部屋の片隅に逃げ込む。春蘭はそんな私の様子を確認すると、軽く頷いて外は出ていってしまった。
その瞬間、突如大きな揺れが私を襲った。
「うそ⋯⋯!」
天井がぐらつき、木の板がパキッと割れた。私はそれを見てから咄嗟に外へ出た。
「麻衣⋯⋯?!」
外へ出ると、まるでアクションドラマに出てくるような大きな黒い生物が、春蘭を襲っている。私は驚きのあまり体が固まる。
「ダメじゃないか!何で外に⋯⋯」
私はそう言われて、静かに家の方に顔を向けた。それにつられて春蘭も家の方を向く。
「嗚呼⋯⋯御免、此方の方が危険だったね」
春蘭は私がここに来た理由を瞬時に理解すると、数秒無言になる。
「春蘭?危ないよ、早く離れよう⋯⋯?」
私がそう言うと、春蘭はうん、と返事をした。
「来て」
短くそう言われ、私は彼に手を引かれ慌てて走り出した。
「えっと、ここは?」
「此処から、絶対動かないで」
春蘭はそう言って私に向かって何かを放った。
「これは?」
「小さな結界。外からは入れないけど、内からは出れちゃうから絶対動かないで」
私は何度も頷くと、春蘭はシャン、と大幣を鳴らして結界を完成させた。そして春蘭は振り向いて近付いてきた黒い靄に向かっていく。振り向きざまに、面布がひらりと揺れた。
内から外の様子はほんの少ししか見えないが、春蘭は白い服を纏っているのですぐわかる。春蘭は大きく跳躍すると、大幣を靄に向かって振りかざす。
「お前だろう、麻衣に結界を張ったのは!」
春蘭は、靄に向かってそう叫んだ。私は理解が追いつかず、小さな結界に手を触れた。手は結界をすり抜け、外の空気に触れる。私は慌てて手を引っ込め、戦闘を見届ける。
大きな靄では、春蘭の持っている大幣なんてなんの力にもならない、と思っていた。しかし、彼の持つ大幣は小さいながら威力を放っており、一撃が重そうに見える。
「結界を解いて呉れれば、見逃してやろう。然し、解かないと云うならば⋯⋯解っているな?」
さっきより信じられないほどの低い声で春蘭は言い放った。この生物がなにか分からない以上、私は無闇に突っ込んで行けない。
「嗚呼、もう!」
少し苛立ちを見せた春蘭の奥にいる黒い靄は、先程よりも大きく成長し続けている。
「麻衣ー!!」
突然大きな声で呼ばれ、思わず結界から顔を出す。
「俺から離れて!!」
「え⋯⋯?」
靄からの攻撃を全て受けて、春蘭はそう叫んだ。
「早く!!」
切羽詰まったようにそう叫ぶので、私は結界から飛び出す。離れろと言われても、どうやって離れたら良いのか。私はとにかく春蘭から距離をとるように離れる。
「この辺でいいのかな⋯⋯」
私は壊れた家の付近まで戻ってきて、そう呟いた。
ドンッ。
鈍い音が来た道から聞こえて、私は来た道を振り返る。目を凝らしても春蘭の姿はなく、余計に心配になる。一瞬来た道を戻ろうかと思ったが、流石に辞めた。
「春蘭⋯⋯?!」
少し奥の方を見ると、真っ白だったはずの袴が赤に染まっている。
「春蘭!!」
思わず、そう叫ぶ。春蘭は大きく大幣を振りかざすと、そのまま靄に向かって振り下ろした。
靄は切り口に沿ってふわっと消えていく。同時に、春蘭の体も地面に伏せる。
「春蘭、春蘭!!」
何度か、体を揺さぶってみる。
「⋯⋯麻衣?良かった、無事そうで」
面布が、ひらりとズレて春蘭の顔が晒される。初めて見る春蘭の顔は、優しく微笑んでいた。
「そんな顔しないで。どう?周りの景色、変わった?」
そう言われて、私は周りを見渡す。
「え、神社⋯⋯?」
「そう。君が居た結界は、僕の結界じゃなくて彼奴の結界だったんだよ。」
春蘭はそうやってゆっくり語り出す。
「僕と君の友好関係、って云ったけど⋯⋯駄目だった。君が大切すぎる」
「え⋯⋯?」
最後にそう言った言葉は、掠れていてあまり聞こえなかった。
「はぁ、らしくない⋯⋯」
春蘭はそう呟き上半身を起こした。
「まだ寝てた方が⋯⋯」
「大丈夫。ほら、彼処はもう出口だ。」
春蘭はそう言った後に激しく咳き込んだ。私は心配で堪らなかったけど、春蘭が早く出ろと急かすので思いがグチャグチャに混ざる。
「大丈夫、今はこんなんだけど直ぐ治るから。」
「でも、もう春蘭には会えないんでしょう?」
「そうだね⋯⋯先ず、君の今の状態が一生に一度でも有ったらラッキー程度の状態だからね」
神様に会えることなんて生涯においてある方が珍しいよ、なんて春蘭は軽口を叩く。しかし呼吸がだんだん上がっているのを感じ、背中を摩る。
「神様をこんな風に心配して呉れるのも、君くらいだ」
自嘲気味にそう笑う春蘭を見て、どうしても耐えられない気持ちがふつふつと湧いてくる。
「覚えているかい?あの時、君を階段から落とした人物」
「覚えてるよ」
「あれが、先刻僕が戦ってた黒い靄の擬人姿」
「え、あれが?!」
でもなぜ、と考える。
「ふふ、なんでか知りたい?」
私は意地悪そうにそう聞いてくる春蘭に向かって何度も頷いた。
「簡単に言うと、僕が君を守り続けてたから」
「え?」
そう聞いて、ぞわっと寒気がした。
「君は危なっかしいからね、交通事故や通り魔とか⋯⋯上げだしたらキリがない」
そこでやっと私は自覚した。私は本物の不運者なんだと。それが良い方向に行くのは、全て春蘭のおかげだったこと。
「でも、僕が君に執着しすぎたせいか運では済まされない程の不幸が訪れるようになった。今回がいい例だよね」
一体春蘭は、いつから私のことを守ってくれていたのだろう。
「ほら、時間が無い。僕が此処迄してあげたんだから、結界から出ないって云う選択肢はないからね」
春蘭はそう言って結界の出口を指した。出口は刻々と狭くなっている。
「春蘭⋯⋯」
「大丈夫、僕は未だ君を守り続けるよ」
私は握っていた春蘭の手を、ゆっくり離す。
「嗚呼、あとひとつ。」
私が立ち上がった時に、彼はそう呟いた。私は振り向いて、再びしゃがんで彼の口元に耳を寄せる。
「紅月」
「紅月?」
私がオウム返しをすると、春蘭は愛おしそうに微笑んだ。
「僕の名前」
「名前⋯⋯?思い出したの?」
「いいや。君に名前を付けて欲しかったんだ。君が選んだ名前を」
紅月、紅月。心の中で何度も唱える。
「麻衣、また来て呉れるよね?」
「勿論、当たり前だよ!また春蘭⋯⋯いや、紅月に会えるなら」
私は最後に、紅月を力いっぱい抱きしめた。
「今まで、守ってくれてありがとう」
「どういたしまして。」
私は今度こそ立ち上がり、出口を向いた。紅月も、なにも言ってこない。
私はゆっくり、1歩ずつ歩いていく。結界の出口に触れると、眩しい光が私を襲う。
「麻衣!!」
「⋯⋯柚葉?」
眩しい光から解放され、私は目を開ける。そこには、心配そうに私を見つめる柚葉と沙織の姿が。
「私、どうしてた?」
「階段から落ちたけど、地面に着く寸前に一瞬浮いたんだよ。きっと、神様の御加護のおかげだよ」
ああ、紅月。
「待って⋯⋯」
たった今、通りすがった青年の背中を私は知っている。
「待って!」
大きく叫んでみる。
「僕?」
ゆっくりと、穏やかに微笑んで振り向く姿を私は知っている。
「⋯⋯あの、なんでもないです。すみません」
もし、可能なら。私はもう一度君に会いたい。そして、私も伝えたいことがふたつある。
守ってくれてありがとう、それと───
大切にしてくれて、ありがとう。
『あけおめ!』
テレビに映し出される時計が、零時零分を迎えた途端、私たちはそう叫んだ。暖房をつけていたからか、それとも私たちが興奮しすぎたせいなのか、とても暑かった。大晦日の早朝から友人の沙織と柚葉の三人で私の家で準備をしていた。お陰で部屋の中はパーティ状態だ。
「いやぁ、明けちゃったね」
「だね。来年、いや、今年か。遂に私達も受験生か」
「実感無さすぎじゃない?」
私がそう言うと、どっとみんなで笑う。
「初日の出でも見に行く?このまま寝れる気がしない」
「だよね。行く?」
「凄く寒いけどね」
出来ることなら、このまま家で温まっていたい。そう私は思っていたけれど、友人二人は行く気満々だ。
「え、麻衣も行くよね?」
「もちろん。寒いのは嫌だけど」
私は渋々ハンガーに掛かっているコートに腕を通した。
「さあ、初日の出見に行くぞー!」
「おー!」
ノリノリな2人について行くように、私は夜中に家を抜け出した。
「寒っ⋯」
「部屋の中であんなにテンションが上がっちゃえばこんなのヘッチャラだよ!ね、柚葉!」
「ね!麻衣は寒がりなんだよ」
寒がり云々の問題ではないのだが⋯⋯と私は言葉にしかけて、飲み込んだ。
「そういえば麻衣は事故に気をつけないとね!」
「そうだよ!最近麻衣事故り過ぎじゃない?神社でお守り買う?」
私は2人にそう言われて苦笑した。ごもっともだ、と。私は昔からなにかと運が悪かったが、結果として良い方向に向かっていくので不運なのか幸運なのか、曖昧なのだ。交通事故が起こりかけた時も、何故か車が私の直前で左に急カーブをして危機一髪で助かったことが何度もある。
「あ、もう屋台出てるかな?」
「出てるらしいよ、あそこの神社なら」
私は気持ちを切り替えあらかじめ調べておいた神社の写真を見せる。
「うわー!すごい賑やか。混んでそう」
「さすが麻衣!調べるの早いね」
大抵遊びに行く時の予約などは私が担当していて、今回も初詣に行こうとはなるが神社を調べるところから始まりそうだったので事前に私が調べておいたのだ。
「混むだろうけど、多分こっちの神社の方が混んでるから意外と空いてるんじゃない?」
そして私はもう一枚写真を見せた。その写真の中は、本当に夜かと疑うほど明るくライトアップされていて、参拝より屋台がメインにしか見えない。
「じゃあ空いてること祈って行きますか!どうやって行くの?歩き?」
「歩きでも一応行ける。どうする?」
「歩いて行こう。どうせ、ゆっくり行っても日が昇るのは決まった時刻だから」
柚葉がそう言い、私たちはゆっくり神社に向かって歩き出した。
「うわ、結構人いるね」
「でも空いてる方でしょ。去年なんて人多すぎて動けなかったからね」
沙織がそう言うと、私たちは去年の初詣を思い出す。あの時は確か神社など事前に調べずに人気そうな神社に突っ込んだ結果、人混みで屋台にすら寄れず腹ぺこのまま帰ったのだ。
「チョコバナナとか懐かしい⋯⋯私幼稚園の頃すごい好きだった」
階段をあがりながら、屋台を一つ一つみていく。
「ねえ、ヨーヨー釣りだって!みんなでやらない?」
「いいね、やろう」
私たちはヨーヨー釣りの屋台に行き、店主に三百円を払いヨーヨー釣りをする。
「手が震えちゃう⋯⋯」
「慎重に、ゆっくりだよ⋯⋯」
2人はプルプルと震える手を抑えつけながら真剣にヨーヨーを釣っていた。私はこのような屋台は比較的得意なので、ひとつ、ふたつと釣っていく。
「よし、1個ゲット」
そう呟いたのは柚葉だった。その隣で頭をがっくし下げているのは沙織。
「沙織、これ一つあげるよ」
私は手に持っていたヨーヨーをひとつ渡した。
「いいよ、麻衣のが無くなるよ⋯⋯」
「私は沢山あるからいいの」
そう言って、手に持っていた三つのヨーヨーを見せる。
「ふふ、そういえば麻衣はヨーヨー釣りが得意だったね」
「器用って言って。次どうする?」
周りを見渡すと、まだ奥に屋台がある。
「もう少し進んでみよう。」
沙織の意見で、私たちはヨーヨーをパタパタ突きながら歩いていく。
「ねえ麻衣、チーズボールって知ってる?」
「流石に知ってるよ、丸い形したパンみたいなやつでしょ?」
この2人に時代遅れの人間と思われているのか、そんな質問ばかり投げかけてくる。
「屋台もいいけど、参拝しよ?じゃないとバチが当たりそう」
「確かにね、神様も怒っちゃう」
私たちはそれぞれ財布の中から五円玉を出すと、大鳥居へ向かう。
階段を少し上がったところで、私たちは絶望の声を漏らした。そこには、参拝目当ての人で行列だった。
「まだ年だって明けてないのに、並ぶの早すぎじゃない?」
「そりゃまぁ、年明けて直ぐに参拝したらいいこと起こりそうじゃん?」
やはりみんな思っていることは一緒なのか、ざわめいた声も聞こえてくる。階段を上がってから参道まで少し距離があるため、そこにも屋台がしきりと並んでいる。そこ目当てで階段を上下する人達で階段はぎゅうぎゅうだ。
「でも今並んでないと後々後悔しそう」
「じゃあ大人しく並んでよう。もしお腹すいたら交代でご飯買ってこよう」
柚葉の意見にみんな賛成し、寒い中参拝するための行列に並んだ。
「すみません、通らせて」
「えっ」
突然私の横を通りかかったのは、少しガタイのいい男性。私は精一杯横に避けた。
「あ⋯⋯」
しかし、狭い階段ではどうすることも出来ず。私は男性の肩が激しくぶつかりよろけた拍子に、足は宙を浮いていた。
「麻衣!!」
沙織がこちらに手を伸ばすが、届かず。
私は通路用に避けられた誰もいない階段からふわりと落ちる。
「危ない!」
来る衝撃に耐えようと強く瞑った目は、青年の叫び声で目を開いた。
「え⋯⋯」
あろうことか、青年は私を抱き抱えていた。
否、私が驚いたのはそこではない。
「神、様⋯⋯?」
思わず、そう言葉に出てしまった。
「そうだよ。本当は姿を現す心算は無かったんだけどね」
神様と名乗る青年は、そう言った。
「神様にしては、若いですね」
「でしょ。今は若く見せてるだけだけどね」
「⋯⋯と言うと?」
意外にも普通に会話できている自分に驚くが、なにより一番不思議なのが顔にかけられた布だ。顔を隠すためか、否か。
「実際は千を超えてるよ。千を超えてから数えるの辞めたけどね」
思っていたより先輩のようだ。私は警戒しつつも会話を進める。
「その、顔にかけられた布は?」
「嗚呼、之?之は顔を隠す為だよ。一般の人に僕の顔は見せられないからね」
「なんで?老けてるから?」
「莫迦な事云わないの。僕は超イケメンなんだから」
更に怪しくなった。が、私を助けてくれたのは事実だったので礼を伝えて直ぐ逃げようと思った。
「あの、ありがとうございました。正直死ぬと思ったので、本当に助かりました」
「うん、どういたしまして。」
⋯⋯で?
「え、出させてくれないんですか?」
「出すって、何処に?」
私の推測が合っていれば、ここは間違いなく神様の結界内だ。なんらかの力が働いて結界が張られたに違いない。
「現実の世界に⋯⋯ですよ」
「此処、現実の世界だけど?」
お互い何を言っているんだ、と言う顔になる。
「嗚呼、解った!君、自分が今何処にいるか解らないから出してって云ってるんでしょう」
「そう言う事なんだけど⋯⋯出してくれない?」
「其れは一寸聞けない約束だなぁ」
神様はそう言ってケラケラと笑った。私はついていけず疑問の声を漏らす。
「大丈夫です、誰かに言いふらしたりしないので」
「僕が心配してるのは其の事じゃ無くて、君のことだよ」
「私?」
思ってもいない返事に、私は素っ頓狂な声を漏らす。
「そう。君は此処から出ると全ての記憶を失ってしまう」
「そんな⋯⋯!」
全て、と言われて直ぐに思いついたのは友人二人だった。2人が私のことを忘れてまうのはまだ耐えられるが、私が2人のことを忘れてしまうのはどうしても耐えられない。私はどうにか解決策はないのかと探る。
「どうにか⋯⋯どうにか出来ないの?!」
「どうにか⋯⋯か。まぁ、方法は無いわけではない」
神様はそう言って少し俯いた。何故だろう、と思ったが方法が有ると言われた方が嬉しくて私はそちらに意識が向いてしまった。
「方法あるの?」
「有るよ。でも其れは、今直ぐには実行できない」
「なんで?」
「僕と君の友好関係がないから」
そう言われて更に悩んだ。ここから脱出するのに、神様と私の友好関係なんて必要なのだろうか?
「ふふ、何で必要なの?って考えてるでしょ」
「え、ええ⋯⋯まぁ」
「話しちゃうと、僕を犠牲に君を此の結界から出す」
え、と声になったかは分からなかった。ただ、何も言えない気持ちが心を揺さぶる。
「大丈夫、大丈夫。君が思っているより深刻な話じゃないよ」
神様はそう言って優しく笑った。でも何故か、見えていないのに笑顔の雰囲気が私の心をえぐる。
「そんなことまでして⋯⋯」
やらなくていいよ、とは言えなかった。私だって友達がいて、神様と言えど見ず知らずの人を救うために友人を捨てることは出来ない。
「迷っているんでしょ?なら、友達を取りなさい。僕は守ってくれなくて大丈夫」
神様はそう言うと、私の手を引っ張った。
「あ、其の前に」
突然私の手を引っ張るのをやめて、こちらに振り返った。
「名前聞いてなかった。なんて云うの?」
「麻衣⋯⋯雪山麻衣です」
「麻衣⋯⋯ね。なんて呼んで欲しい?麻衣ちゃん?麻衣?」
「何でもいいです。貴方の名前は?」
「僕?僕の名前⋯⋯忘れちゃったなぁ。決めていいよ」
え、とはっきり声に出た。千年生きていようと、名前を忘れることはあるのだろうか。実際千年も生きたことがないので分からない。
「なんか無いの?逆に今までなんて呼ばれてたの?」
「今迄⋯⋯先ず、名前で呼ばれたことなんてないよ。なんたって僕は神様だからね!」
「じゃあ神様呼びじゃダメなの?」
「なんか其れじゃ他人行儀じゃん?もっと友達っぽい」
「⋯⋯春蘭」
「春蘭?いいね、其れにしよう」
私はふと思いついた言葉を呟いてみる。すると、神様はその名前が気に入ったようで、神様の名前は春蘭に決定した。春蘭は再び私の手を取って走り出した。
少し走ると、木と草しか無かった空間から一気に変わり城という言葉がぴったりな場所に案内される。
「麻衣は之から此の部屋で暮らしてもらうからね」
そう言って案内されたのは、城内の一部の部屋。与えられた部屋は随分広いが、一人で過ごすには少し寂しい気もする。
「大丈夫、直ぐ慣れるよ」
私の考えを読み取ったように、春蘭はそう言った。私は本当に慣れるだろうか、と思いながらも部屋を見渡す。
「若し欲しい家具が有ったら遠慮なく云ってね。出来る限りなら用意して上げる」
神様なのだから、財力など関係ないのだろうか。
「嗚呼、早速やって欲しい事が有るんだけど」
「な、何⋯⋯?」
「そんなに警戒しなくても、僕は神様だから悪い事はしないよ」
ふふ、と笑う彼の雰囲気は優しげだ。確かに、警戒し過ぎるのも失礼かもしれない。私は固まっていた体を解すように深呼吸をした。
「それで、やることって?」
「いいね、其のやる気。じゃあ早速伝えるけど。此処の掃除をして欲しいんだ」
なるほど、と納得した。私は春蘭から渡されたほうきを受け取り、ぱっぱとはらっていく。
「じゃあ僕は向こうで休んでるから、解らない事が有ったら何でも云ってね〜」
なんとも呑気な神様だ。私は横目で神様を見ながらそう心の中で呟いた。
「掃除、終わりましたよ」
「おお、流石若者!仕事が早いね」
春蘭はそう云って私の頭を撫でる。私は咄嗟の出来事に慌ててその手を振り払う。
「子供扱いしないでください⋯⋯!」
「何で?僕からしたら君は十分子供だよ」
嫌味を込めたのか、否か。どちらにせよ私からしたらただの煽りにしか聞こえない。
「あ、あとひとつ。君に伝えたいことが──」
春蘭がそう言い切る前。林の向こうか地鳴りがする。地震かと思い、少し身構える。
「嗚呼、だから早く云いたかったのに⋯⋯」
春蘭はそう謎のセリフを吐いて、どこからか大幣を取り出した。
「え⋯⋯」
「麻衣は隠れてて。必ず僕が守るから」
シャン、と大幣の掠れる音が鳴る。私は言われた通りに部屋の片隅に逃げ込む。春蘭はそんな私の様子を確認すると、軽く頷いて外は出ていってしまった。
その瞬間、突如大きな揺れが私を襲った。
「うそ⋯⋯!」
天井がぐらつき、木の板がパキッと割れた。私はそれを見てから咄嗟に外へ出た。
「麻衣⋯⋯?!」
外へ出ると、まるでアクションドラマに出てくるような大きな黒い生物が、春蘭を襲っている。私は驚きのあまり体が固まる。
「ダメじゃないか!何で外に⋯⋯」
私はそう言われて、静かに家の方に顔を向けた。それにつられて春蘭も家の方を向く。
「嗚呼⋯⋯御免、此方の方が危険だったね」
春蘭は私がここに来た理由を瞬時に理解すると、数秒無言になる。
「春蘭?危ないよ、早く離れよう⋯⋯?」
私がそう言うと、春蘭はうん、と返事をした。
「来て」
短くそう言われ、私は彼に手を引かれ慌てて走り出した。
「えっと、ここは?」
「此処から、絶対動かないで」
春蘭はそう言って私に向かって何かを放った。
「これは?」
「小さな結界。外からは入れないけど、内からは出れちゃうから絶対動かないで」
私は何度も頷くと、春蘭はシャン、と大幣を鳴らして結界を完成させた。そして春蘭は振り向いて近付いてきた黒い靄に向かっていく。振り向きざまに、面布がひらりと揺れた。
内から外の様子はほんの少ししか見えないが、春蘭は白い服を纏っているのですぐわかる。春蘭は大きく跳躍すると、大幣を靄に向かって振りかざす。
「お前だろう、麻衣に結界を張ったのは!」
春蘭は、靄に向かってそう叫んだ。私は理解が追いつかず、小さな結界に手を触れた。手は結界をすり抜け、外の空気に触れる。私は慌てて手を引っ込め、戦闘を見届ける。
大きな靄では、春蘭の持っている大幣なんてなんの力にもならない、と思っていた。しかし、彼の持つ大幣は小さいながら威力を放っており、一撃が重そうに見える。
「結界を解いて呉れれば、見逃してやろう。然し、解かないと云うならば⋯⋯解っているな?」
さっきより信じられないほどの低い声で春蘭は言い放った。この生物がなにか分からない以上、私は無闇に突っ込んで行けない。
「嗚呼、もう!」
少し苛立ちを見せた春蘭の奥にいる黒い靄は、先程よりも大きく成長し続けている。
「麻衣ー!!」
突然大きな声で呼ばれ、思わず結界から顔を出す。
「俺から離れて!!」
「え⋯⋯?」
靄からの攻撃を全て受けて、春蘭はそう叫んだ。
「早く!!」
切羽詰まったようにそう叫ぶので、私は結界から飛び出す。離れろと言われても、どうやって離れたら良いのか。私はとにかく春蘭から距離をとるように離れる。
「この辺でいいのかな⋯⋯」
私は壊れた家の付近まで戻ってきて、そう呟いた。
ドンッ。
鈍い音が来た道から聞こえて、私は来た道を振り返る。目を凝らしても春蘭の姿はなく、余計に心配になる。一瞬来た道を戻ろうかと思ったが、流石に辞めた。
「春蘭⋯⋯?!」
少し奥の方を見ると、真っ白だったはずの袴が赤に染まっている。
「春蘭!!」
思わず、そう叫ぶ。春蘭は大きく大幣を振りかざすと、そのまま靄に向かって振り下ろした。
靄は切り口に沿ってふわっと消えていく。同時に、春蘭の体も地面に伏せる。
「春蘭、春蘭!!」
何度か、体を揺さぶってみる。
「⋯⋯麻衣?良かった、無事そうで」
面布が、ひらりとズレて春蘭の顔が晒される。初めて見る春蘭の顔は、優しく微笑んでいた。
「そんな顔しないで。どう?周りの景色、変わった?」
そう言われて、私は周りを見渡す。
「え、神社⋯⋯?」
「そう。君が居た結界は、僕の結界じゃなくて彼奴の結界だったんだよ。」
春蘭はそうやってゆっくり語り出す。
「僕と君の友好関係、って云ったけど⋯⋯駄目だった。君が大切すぎる」
「え⋯⋯?」
最後にそう言った言葉は、掠れていてあまり聞こえなかった。
「はぁ、らしくない⋯⋯」
春蘭はそう呟き上半身を起こした。
「まだ寝てた方が⋯⋯」
「大丈夫。ほら、彼処はもう出口だ。」
春蘭はそう言った後に激しく咳き込んだ。私は心配で堪らなかったけど、春蘭が早く出ろと急かすので思いがグチャグチャに混ざる。
「大丈夫、今はこんなんだけど直ぐ治るから。」
「でも、もう春蘭には会えないんでしょう?」
「そうだね⋯⋯先ず、君の今の状態が一生に一度でも有ったらラッキー程度の状態だからね」
神様に会えることなんて生涯においてある方が珍しいよ、なんて春蘭は軽口を叩く。しかし呼吸がだんだん上がっているのを感じ、背中を摩る。
「神様をこんな風に心配して呉れるのも、君くらいだ」
自嘲気味にそう笑う春蘭を見て、どうしても耐えられない気持ちがふつふつと湧いてくる。
「覚えているかい?あの時、君を階段から落とした人物」
「覚えてるよ」
「あれが、先刻僕が戦ってた黒い靄の擬人姿」
「え、あれが?!」
でもなぜ、と考える。
「ふふ、なんでか知りたい?」
私は意地悪そうにそう聞いてくる春蘭に向かって何度も頷いた。
「簡単に言うと、僕が君を守り続けてたから」
「え?」
そう聞いて、ぞわっと寒気がした。
「君は危なっかしいからね、交通事故や通り魔とか⋯⋯上げだしたらキリがない」
そこでやっと私は自覚した。私は本物の不運者なんだと。それが良い方向に行くのは、全て春蘭のおかげだったこと。
「でも、僕が君に執着しすぎたせいか運では済まされない程の不幸が訪れるようになった。今回がいい例だよね」
一体春蘭は、いつから私のことを守ってくれていたのだろう。
「ほら、時間が無い。僕が此処迄してあげたんだから、結界から出ないって云う選択肢はないからね」
春蘭はそう言って結界の出口を指した。出口は刻々と狭くなっている。
「春蘭⋯⋯」
「大丈夫、僕は未だ君を守り続けるよ」
私は握っていた春蘭の手を、ゆっくり離す。
「嗚呼、あとひとつ。」
私が立ち上がった時に、彼はそう呟いた。私は振り向いて、再びしゃがんで彼の口元に耳を寄せる。
「紅月」
「紅月?」
私がオウム返しをすると、春蘭は愛おしそうに微笑んだ。
「僕の名前」
「名前⋯⋯?思い出したの?」
「いいや。君に名前を付けて欲しかったんだ。君が選んだ名前を」
紅月、紅月。心の中で何度も唱える。
「麻衣、また来て呉れるよね?」
「勿論、当たり前だよ!また春蘭⋯⋯いや、紅月に会えるなら」
私は最後に、紅月を力いっぱい抱きしめた。
「今まで、守ってくれてありがとう」
「どういたしまして。」
私は今度こそ立ち上がり、出口を向いた。紅月も、なにも言ってこない。
私はゆっくり、1歩ずつ歩いていく。結界の出口に触れると、眩しい光が私を襲う。
「麻衣!!」
「⋯⋯柚葉?」
眩しい光から解放され、私は目を開ける。そこには、心配そうに私を見つめる柚葉と沙織の姿が。
「私、どうしてた?」
「階段から落ちたけど、地面に着く寸前に一瞬浮いたんだよ。きっと、神様の御加護のおかげだよ」
ああ、紅月。
「待って⋯⋯」
たった今、通りすがった青年の背中を私は知っている。
「待って!」
大きく叫んでみる。
「僕?」
ゆっくりと、穏やかに微笑んで振り向く姿を私は知っている。
「⋯⋯あの、なんでもないです。すみません」
もし、可能なら。私はもう一度君に会いたい。そして、私も伝えたいことがふたつある。
守ってくれてありがとう、それと───
大切にしてくれて、ありがとう。