遠くで誰かが呼ぶ声が聞こえた。すごく安心する声色は、だんだん小さくなっていく。
 その反対の方向から、重い身体を強引に引っ張られている感覚がした。されるがまま目を覚ますと、真っ白な天井と、泣きそうな顔の母が目に飛び込んできた。
「……お、かあさん……?」
「美織!? ああ、よかった……! 目を覚ましたのね!」
 周りを見渡せば病院の病室のようで、母の手を借りながら上体を起こした。
 視界の端に見えた指先には、高校生の自分にはなかったピンク系のネイルが施されており、黒髪からこげ茶色に変わっている。元の姿に戻っている。
 茫然とする私に、母がカーディガンを肩にかけながら言う。
「覚えてない? あなた、朝一で帰ってきたけど、駅に着いた途端に倒れるんだもの。びっくりしちゃったわ! お医者様の話だと、ストレスと疲労が溜まっていたんじゃないかっていうけど、ちゃんと寝ているの?」
「え……?」
 ベッドサイドに置かれたデジタル時計に目をやると、訃報をもらった翌日の昼間だった。駅に到着したときはすぐに母の車に飛び乗ったはずだ。むしろ病院に行ってひとりで帰るときに車に……?
 困惑する中、ふと右の手のひらが何か握っていることに気付く。母曰く、ずっと握って離さなかったそうだ。開くとそこには赤いスタッドピアスが一つ、ころんと転がった。裕の左耳に付けたものの片割れだ。五年前に戻ったときに握らされたのは覚えているけど、本当にタイムリープしていたってこと?
 夢じゃなかった――だとしたら?
「そうだ……裕は? どこにいるの?」
「裕は、同じ階のフロアの個室にいるわ。五年も行方をくらませていたけど、昨日、公園のベンチで眠っているところを警察の人が見つけてくれてね、意識は取り戻したけど、合併症を引き起こしているみたいで、肺炎で苦しんでいるわ。それに記憶もほとんど覚えていないから、誰が来たかもわかっていないみたい。晶子おばさんの顔も忘れてしまったみたい。それよりも深刻なのは合併症のほう……正直、もう時間がないって」
 母は時折言葉を詰まらせながら、裕が見つかった経緯も教えてくれた。所々私が知っている未来とは異なっている。
「……危篤って言った?」
「そうよ。だから美織も戻ってきたんでしょう?」
「裕は……まだ、生きてる?」
「……さっきから、美織の名前を、呼んでいるの」
 未来が、動いた。
 私はずっと握っていたピアスを自分の右耳に付けると、母の制止を聞かずに病室を飛び出した。自分の病室が同じフロアで良かった。周囲の人の目を気にする間もなく、裕のいる病室へ足を速める。
 裕が生きていると知って、心臓が今にも張り裂けそうだ。
 会いたい。一目でもいい、裕に会いたい。
 名前を忘れていても、いくらだって伝えるから。
 声を忘れたなら、何度だって話しかけるから。
 顔を忘れてしまったら、もう一度「初めまして」から始めるから。
 ずっと言えなかったこの想いを――
「裕!」