昼休み。今日もあのベンチでご飯を食べている。
今朝はお母さんが仕事だったから、一人だった。いつもより早めに起きて弁当を作った。こういうのって、前日は憂鬱なのに朝になると結構楽しいから不思議だ。
でも、朝から揚げ物を揚げるような余裕はなくて、四角い弁当箱に卵焼きやらウィンナーやら、レンジで温めてかつお節を振っただけのブロッコリーやらを詰めた。
昨日より強めの風が吹いていて、外でお弁当を食べるには不向きな天気だ。スカートがゆらゆらして膝の辺りがくすぐったい。
ローファーを交差させながら、昨日の放課後を思い出す。なんだか新鮮な放課後だった。
日野と、話すことになるとは思っていなかった。永遠に話すことはないと予想していた。隣の席にずっといた人──今までもこれからも。そういう認識のはずだった。
日野を知ったのは、高校に入ってから最初の春。五月に実施された中間考査の後だった。
記念すべき最初のテストということもあり、クラスメイトが賑やかに話し込んでいる中、成績表が返却されていく。
日野は、成績表を受け取って、立ったままそれを眺めていた。興味が湧いたのか、周りにいた数人の男子が日野に近づいた。
「やばっ、日野一位じゃん」
成績表を見せてもらった一人の男子がそう口にしたことで、日野は一気に注目の的になった。苦笑いをする日野の顔をよく覚えている。
それから期末考査を挟んで二学期の中間期末、最後の学年末考査と計四回の定期考査を終えたが、そのどれにおいても日野は一位を譲らなかった。
そんな日野をただ傍観していた私の、最初の中間考査の成績は、たしか六位だった。その後、現在に至るまで五位と六位を行ったり来たりしている。一度だけ三位を取れたときは素直に嬉しかった。
ただ、日野からすれば凡才の域だ。日野は「国語が苦手だから数学や理科で補っている」と口にするものの、国語も一位だから説得力がない。絶え間ない努力を積み重ねた結果なのだろうが、私からすれば、所謂天才というやつだ。
悔しさや嫉妬みたいな感情は、全く湧かなかった。勝てる訳ないと思っていた。それに、根本的に頭の構造が違うのだろうと思っていた。
だからかもしれない、日野と話してみたら、結構私と似てるところもあるんだな、と意外に感じることが多かった。
例えば、日野にゲームをするイメージはなかった。こう言っては失礼だけど、ガリ勉のイメージだった。机と鉛筆がお友達! みたいな。
そして何より私を驚かせたのは、日野が「友だち」という概念について悩んでいたということ。
クラスの男子と話しているところをよく見かけるし、普通に友だちは沢山いるというイメージだった。
でも、違った。友だちって、普段話すだけの仲だったら、それは友だちとは呼べなくて。日野は、ご飯を一緒に食べるような友だちが欲しいんだ。
人を避け続けてきたが故に、当然気づくことの出来ない盲点だった。
「寒くない?」
「んへっ!?」
頭上から突然声をかけられ、みっともない声を出してしまった。恐らく最も聞かれたくない声だった。最悪。
「そんなに驚かなくてもいいのに、八幡さん」
「日野……か」
誰かに話しかけられるという行為に慣れていないせいか、もしくは一人のはずの空間に別の人間がいたという驚きのせいか、私は思わず箸を落としそうになった。
「見たことない顔してたね」
「誰のせいよ」
日野の奴、少し話して仲良くなったつもりなのか、昨日よりも随分と砕けた話し方になっている。
「あはは、ごめんごめん」
言いながら日野が、私の隣のスペースを見つめてきた。座っていい? と聞いてくる。無言で頷いた。
「八幡さん、こんなに風強くてもここにいるんだ」
「まあね」
「なんでなの?」
なんで──理由を聞かれると難しい。ただ、ぼんやりと思い浮かぶことはある。
「昨日、日野が言ったように、私は人を避けてる。そういうことなんじゃない?」
ほぉ、と日野は興味があるのかないのかよくわからない返事をした。
「皆が嫌いだから、ここに来てると?」
「んー……嫌い、とまでは思わないけど、でもくっついてご飯食べるのは、私には出来ないかも」
そういう場面を見るのを潜在的に忌避しているのかもしれない。得体の知れない気持ち悪さ、胸焼け──そういった類いの波が、押し寄せてくる気もする。だとしたら、やっぱり「嫌い」なのだろうか。実際に見てはいないから、わからないけれど。
「ねえ、八幡さん」
日野がこっちを見つめてきた。ゆっくりとした動作ではあるが、確実に。はっきりとわかった。
だから、瞼は弁当の方向に落ちる。
日野を見るのが、なんだか少し怖かった。
「いい人も、いるかもしれないよ」
そんなに真っ直ぐ見ないでほしい。今日は夕焼けじゃないから、眩しくてそっちを見れないという言い訳も出来ない。
居場所を探るように口の中で転がしていた金平ごぼうを嚥下してから、仕方なく日野を見つめ返した。
その瞳はまっすぐ私を捉えていた。過去も未来も見据えていない。ありありとした「今」が映し出されていた。
今なら、話せるかもしれない。日野になら、話していいのかもしれない。
「中学二年の話なんだけど」
私は日野に、ベンチの下で死んだ蝉のように忌まわしいかつてを、話すことにした。
*
もう遡ること四年前の話だ。たしか、あのときは国語の授業中だった。
先生はつらつらと教科書の本文を黒板に書き写している。
現在隣の席にいるのは日野だが、当時そこに座っていたのは親友だと思っていた子だった。
私たちの席は一番後ろ。近くに座っている大半の生徒は寝ていた。
「はっちー」
今ではもう誰にも呼ばれなくなったあだ名を、彼女が口にした。
「耳、貸してよ」
何を言うつもりだろう。不思議に思って私は彼女に右耳を貸した。
「好きな人、教え合おう」
聞き間違いか? 彼女はたしかにそう囁いた。私は彼女の正気を疑った。
「だめ? 二人だけの秘密だから」
「ううん」
「そうこなくっちゃ!」
授業中に恋バナをするという背徳感から押し寄せる誘惑に負けて、私は彼女の提案を承諾してしまった。彼女の好きな人を知れるという好奇心もあった。
「秘密の共有だね」
「共有?」
「そう。私とはっちーの」
そう言って彼女は微笑み、カバンから取り出したルーズリーフを手早く折っていく。
はいこれ、と言って小さく折られたルーズリーフを渡された。
私よりも右斜め前の少し離れたところに座っている男の子をちらりと見据えながら、その子の名前の一文字目を書いた。
何も書かれていない紙に好きな人の名前が記されていく。もう後戻りはできないという覚悟を決めた一方、確かな興奮を感じていたのも事実だった。
私をにやにやと楽しそうに見つめる彼女に、元の形に折った紙を渡す。
誰にも言ったことのなかった秘密。それが、あの紙の中に封印されている。
彼女は、いい? と私に目だけで聞いた。無言でこくんと頷くと、入試の結果を確かめるかの如く、恐る恐る紙が開かれた。
彼女は私が書いた文字を見て、釘付けになった。前方に座る男の子を目で指しながら、口を両手で覆った。
「ねえちょっと待って」
口を覆ったまま、彼女は、囁き声に近いけれど下手すれば起きている生徒には聞こえてしまうような声を出した。
「同じなんだけど」
「へ!?」
私は彼女から飛び出た衝撃発言に、かなりの大声を出してしまった。周囲の視線が一気に私を迎える。今度は私が口を覆う番になった。ぺこぺこと頭を下げるしかない。
「私も好きなんだよね」
親友と好きな人が被るという予想外の展開。仲が良すぎる証明なのだろうか。シチュエーションとしては、最悪かもしれなかった。
「そんな……どうする?」
何の意図があったのか分からないが、私は彼女に聞いていた。今思い返してみれば、意味のわからない質問だ。
「どうするもなにも、勝負するしかないでしょ」
「どっちが恋を実らせるか、ってこと?」
「そうよ」
この頃の私は、まだ友だちや恋人という概念を信じていた。もちろん、親友である彼女のことも。
「やってやろうじゃない」
このような馬鹿みたいな返答をするくらいには子どもだった。彼女と好きな人が被ったことには不思議と嫌な気はせず、むしろ私の意思は燃え上がっていた。秘密の共有、という言葉に唆されたのだ。
「じゃあ、はっちーは今日から恋のライバルね」
「ええ」
ふふん、と自信ありげに彼女は紙を指でいじって遊んでいる。
そのときだった。換気のために窓を開けていたせいで、外からいきなり風が吹き込んできた。その拍子に持っていかれた髪を抑えるために、彼女は誤って紙を手放してしまった。そっちのカミは絶対手放すなよ……。
紙はひらひらと舞いながら確実に前の方向へと進んでゆく。
あの子のところに落ちないで──。
そう、願ったのに。
神は私を味方してはくれなかった。最悪なことに、名前を書いた男の子の机の下で、導かれるようにそれは止まった。
もう終わりかもしれない。海にでも沈めてほしい。
彼は足元に飛んできた紙を、当然のように拾った。
折られた紙はその状態を保持していた。つまり、彼が紙を開くのは当然の帰結だった。書かれた自分の名前を訝しげに見つめ続ける。すぐに、周りに落とした人がいないか目で探し始めた。
このままだと、彼が周りの生徒に紙を見せながら「これ、誰の?」と聞き始めかねない。そうなったら、最悪だ。全てがバレる。
隣で口を半開きにしながら焦っていた彼女も同じことを思ったらしい。授業中であるため腰を低くしながら、彼女は急いで彼のところへと近づいた。
「ごめんごめん、飛んで行っちゃった。拾ってくれてありがとう」
彼は疑うように彼女を見つめる。彼女は自然な笑みを崩さない。なぜなのだろうか、取りに行く前まではしきりに解決策を考えているように見えた彼女の表情に、今は余裕すら浮かんでいるように感じた。
「これ、どういうこと?」
海に一隻だけ浮かぶ船のようにぽつんとそこに存在している自分の名前を指して、彼は眉を顰めた。
「あぁ、それね」
彼女はふっとほくそ笑み、私を指さした。
「八幡が、好きなんだってさ」
あろうことか、彼女は何の迷いもなくそのように発言した。私は狼狽える他なかった。目の前で今起きていることに思考回路が追いつかず、頭が真っ白になった。
「ちがう!」
私は授業中ということも関係なしに、大声を出して首を振った。何回も、振った。
「ちがくないよ、さっき話してたじゃん」
「話してないし」
「はっちーうそついてるぅ」
先生が板書をやめた。みんなも何が起こったのか分からないという顔で、私たちを交互に見ている。クラスの空気がぴりぴりする。痛い。
こういうとき、結局勝つのはクラスのヒエラルキーにおいて上位に位置する人間だ。私は彼女より、頭も運動神経も、加えて容姿も、良くなかった。彼女以外との交流関係は、狭かった。
彼は彼女の言葉を信じたらしかった。普段からクラスの男子と頻繁に話している彼女は、もちろん彼とも仲が良かった。さっき、勝負をする話になったとき、正直負ける気がして仕方がなかったのは秘密。意思が燃え上がる、なんてただの強がりだ。
「信じて! ほんとに違うの!」
私は恐らく彼に、今の段階で友だちとしてすら認知されていない。今好きなことがバレたら、全てが終わってしまう。だから、声を張り上げたのに。
「静かにしなさい! 私語をするなら外でやりなさい!」
普段は優しい先生も、さすがに私たちの応酬は耳に障ったらしい。室内に先生の声が鳴り響く。
彼女は彼の席から離れ、隣に戻ってきた。だが、今更何かを言う気にはなれなかった。声を発せば今度こそ廊下に連れ出される。それに、もう彼女と話す気はなかった。彼女という存在それ自体に興味をなくした。
人っていうのは、結局自分の都合の言いように物事を歪曲する生き物だ。そう、思った。
今朝はお母さんが仕事だったから、一人だった。いつもより早めに起きて弁当を作った。こういうのって、前日は憂鬱なのに朝になると結構楽しいから不思議だ。
でも、朝から揚げ物を揚げるような余裕はなくて、四角い弁当箱に卵焼きやらウィンナーやら、レンジで温めてかつお節を振っただけのブロッコリーやらを詰めた。
昨日より強めの風が吹いていて、外でお弁当を食べるには不向きな天気だ。スカートがゆらゆらして膝の辺りがくすぐったい。
ローファーを交差させながら、昨日の放課後を思い出す。なんだか新鮮な放課後だった。
日野と、話すことになるとは思っていなかった。永遠に話すことはないと予想していた。隣の席にずっといた人──今までもこれからも。そういう認識のはずだった。
日野を知ったのは、高校に入ってから最初の春。五月に実施された中間考査の後だった。
記念すべき最初のテストということもあり、クラスメイトが賑やかに話し込んでいる中、成績表が返却されていく。
日野は、成績表を受け取って、立ったままそれを眺めていた。興味が湧いたのか、周りにいた数人の男子が日野に近づいた。
「やばっ、日野一位じゃん」
成績表を見せてもらった一人の男子がそう口にしたことで、日野は一気に注目の的になった。苦笑いをする日野の顔をよく覚えている。
それから期末考査を挟んで二学期の中間期末、最後の学年末考査と計四回の定期考査を終えたが、そのどれにおいても日野は一位を譲らなかった。
そんな日野をただ傍観していた私の、最初の中間考査の成績は、たしか六位だった。その後、現在に至るまで五位と六位を行ったり来たりしている。一度だけ三位を取れたときは素直に嬉しかった。
ただ、日野からすれば凡才の域だ。日野は「国語が苦手だから数学や理科で補っている」と口にするものの、国語も一位だから説得力がない。絶え間ない努力を積み重ねた結果なのだろうが、私からすれば、所謂天才というやつだ。
悔しさや嫉妬みたいな感情は、全く湧かなかった。勝てる訳ないと思っていた。それに、根本的に頭の構造が違うのだろうと思っていた。
だからかもしれない、日野と話してみたら、結構私と似てるところもあるんだな、と意外に感じることが多かった。
例えば、日野にゲームをするイメージはなかった。こう言っては失礼だけど、ガリ勉のイメージだった。机と鉛筆がお友達! みたいな。
そして何より私を驚かせたのは、日野が「友だち」という概念について悩んでいたということ。
クラスの男子と話しているところをよく見かけるし、普通に友だちは沢山いるというイメージだった。
でも、違った。友だちって、普段話すだけの仲だったら、それは友だちとは呼べなくて。日野は、ご飯を一緒に食べるような友だちが欲しいんだ。
人を避け続けてきたが故に、当然気づくことの出来ない盲点だった。
「寒くない?」
「んへっ!?」
頭上から突然声をかけられ、みっともない声を出してしまった。恐らく最も聞かれたくない声だった。最悪。
「そんなに驚かなくてもいいのに、八幡さん」
「日野……か」
誰かに話しかけられるという行為に慣れていないせいか、もしくは一人のはずの空間に別の人間がいたという驚きのせいか、私は思わず箸を落としそうになった。
「見たことない顔してたね」
「誰のせいよ」
日野の奴、少し話して仲良くなったつもりなのか、昨日よりも随分と砕けた話し方になっている。
「あはは、ごめんごめん」
言いながら日野が、私の隣のスペースを見つめてきた。座っていい? と聞いてくる。無言で頷いた。
「八幡さん、こんなに風強くてもここにいるんだ」
「まあね」
「なんでなの?」
なんで──理由を聞かれると難しい。ただ、ぼんやりと思い浮かぶことはある。
「昨日、日野が言ったように、私は人を避けてる。そういうことなんじゃない?」
ほぉ、と日野は興味があるのかないのかよくわからない返事をした。
「皆が嫌いだから、ここに来てると?」
「んー……嫌い、とまでは思わないけど、でもくっついてご飯食べるのは、私には出来ないかも」
そういう場面を見るのを潜在的に忌避しているのかもしれない。得体の知れない気持ち悪さ、胸焼け──そういった類いの波が、押し寄せてくる気もする。だとしたら、やっぱり「嫌い」なのだろうか。実際に見てはいないから、わからないけれど。
「ねえ、八幡さん」
日野がこっちを見つめてきた。ゆっくりとした動作ではあるが、確実に。はっきりとわかった。
だから、瞼は弁当の方向に落ちる。
日野を見るのが、なんだか少し怖かった。
「いい人も、いるかもしれないよ」
そんなに真っ直ぐ見ないでほしい。今日は夕焼けじゃないから、眩しくてそっちを見れないという言い訳も出来ない。
居場所を探るように口の中で転がしていた金平ごぼうを嚥下してから、仕方なく日野を見つめ返した。
その瞳はまっすぐ私を捉えていた。過去も未来も見据えていない。ありありとした「今」が映し出されていた。
今なら、話せるかもしれない。日野になら、話していいのかもしれない。
「中学二年の話なんだけど」
私は日野に、ベンチの下で死んだ蝉のように忌まわしいかつてを、話すことにした。
*
もう遡ること四年前の話だ。たしか、あのときは国語の授業中だった。
先生はつらつらと教科書の本文を黒板に書き写している。
現在隣の席にいるのは日野だが、当時そこに座っていたのは親友だと思っていた子だった。
私たちの席は一番後ろ。近くに座っている大半の生徒は寝ていた。
「はっちー」
今ではもう誰にも呼ばれなくなったあだ名を、彼女が口にした。
「耳、貸してよ」
何を言うつもりだろう。不思議に思って私は彼女に右耳を貸した。
「好きな人、教え合おう」
聞き間違いか? 彼女はたしかにそう囁いた。私は彼女の正気を疑った。
「だめ? 二人だけの秘密だから」
「ううん」
「そうこなくっちゃ!」
授業中に恋バナをするという背徳感から押し寄せる誘惑に負けて、私は彼女の提案を承諾してしまった。彼女の好きな人を知れるという好奇心もあった。
「秘密の共有だね」
「共有?」
「そう。私とはっちーの」
そう言って彼女は微笑み、カバンから取り出したルーズリーフを手早く折っていく。
はいこれ、と言って小さく折られたルーズリーフを渡された。
私よりも右斜め前の少し離れたところに座っている男の子をちらりと見据えながら、その子の名前の一文字目を書いた。
何も書かれていない紙に好きな人の名前が記されていく。もう後戻りはできないという覚悟を決めた一方、確かな興奮を感じていたのも事実だった。
私をにやにやと楽しそうに見つめる彼女に、元の形に折った紙を渡す。
誰にも言ったことのなかった秘密。それが、あの紙の中に封印されている。
彼女は、いい? と私に目だけで聞いた。無言でこくんと頷くと、入試の結果を確かめるかの如く、恐る恐る紙が開かれた。
彼女は私が書いた文字を見て、釘付けになった。前方に座る男の子を目で指しながら、口を両手で覆った。
「ねえちょっと待って」
口を覆ったまま、彼女は、囁き声に近いけれど下手すれば起きている生徒には聞こえてしまうような声を出した。
「同じなんだけど」
「へ!?」
私は彼女から飛び出た衝撃発言に、かなりの大声を出してしまった。周囲の視線が一気に私を迎える。今度は私が口を覆う番になった。ぺこぺこと頭を下げるしかない。
「私も好きなんだよね」
親友と好きな人が被るという予想外の展開。仲が良すぎる証明なのだろうか。シチュエーションとしては、最悪かもしれなかった。
「そんな……どうする?」
何の意図があったのか分からないが、私は彼女に聞いていた。今思い返してみれば、意味のわからない質問だ。
「どうするもなにも、勝負するしかないでしょ」
「どっちが恋を実らせるか、ってこと?」
「そうよ」
この頃の私は、まだ友だちや恋人という概念を信じていた。もちろん、親友である彼女のことも。
「やってやろうじゃない」
このような馬鹿みたいな返答をするくらいには子どもだった。彼女と好きな人が被ったことには不思議と嫌な気はせず、むしろ私の意思は燃え上がっていた。秘密の共有、という言葉に唆されたのだ。
「じゃあ、はっちーは今日から恋のライバルね」
「ええ」
ふふん、と自信ありげに彼女は紙を指でいじって遊んでいる。
そのときだった。換気のために窓を開けていたせいで、外からいきなり風が吹き込んできた。その拍子に持っていかれた髪を抑えるために、彼女は誤って紙を手放してしまった。そっちのカミは絶対手放すなよ……。
紙はひらひらと舞いながら確実に前の方向へと進んでゆく。
あの子のところに落ちないで──。
そう、願ったのに。
神は私を味方してはくれなかった。最悪なことに、名前を書いた男の子の机の下で、導かれるようにそれは止まった。
もう終わりかもしれない。海にでも沈めてほしい。
彼は足元に飛んできた紙を、当然のように拾った。
折られた紙はその状態を保持していた。つまり、彼が紙を開くのは当然の帰結だった。書かれた自分の名前を訝しげに見つめ続ける。すぐに、周りに落とした人がいないか目で探し始めた。
このままだと、彼が周りの生徒に紙を見せながら「これ、誰の?」と聞き始めかねない。そうなったら、最悪だ。全てがバレる。
隣で口を半開きにしながら焦っていた彼女も同じことを思ったらしい。授業中であるため腰を低くしながら、彼女は急いで彼のところへと近づいた。
「ごめんごめん、飛んで行っちゃった。拾ってくれてありがとう」
彼は疑うように彼女を見つめる。彼女は自然な笑みを崩さない。なぜなのだろうか、取りに行く前まではしきりに解決策を考えているように見えた彼女の表情に、今は余裕すら浮かんでいるように感じた。
「これ、どういうこと?」
海に一隻だけ浮かぶ船のようにぽつんとそこに存在している自分の名前を指して、彼は眉を顰めた。
「あぁ、それね」
彼女はふっとほくそ笑み、私を指さした。
「八幡が、好きなんだってさ」
あろうことか、彼女は何の迷いもなくそのように発言した。私は狼狽える他なかった。目の前で今起きていることに思考回路が追いつかず、頭が真っ白になった。
「ちがう!」
私は授業中ということも関係なしに、大声を出して首を振った。何回も、振った。
「ちがくないよ、さっき話してたじゃん」
「話してないし」
「はっちーうそついてるぅ」
先生が板書をやめた。みんなも何が起こったのか分からないという顔で、私たちを交互に見ている。クラスの空気がぴりぴりする。痛い。
こういうとき、結局勝つのはクラスのヒエラルキーにおいて上位に位置する人間だ。私は彼女より、頭も運動神経も、加えて容姿も、良くなかった。彼女以外との交流関係は、狭かった。
彼は彼女の言葉を信じたらしかった。普段からクラスの男子と頻繁に話している彼女は、もちろん彼とも仲が良かった。さっき、勝負をする話になったとき、正直負ける気がして仕方がなかったのは秘密。意思が燃え上がる、なんてただの強がりだ。
「信じて! ほんとに違うの!」
私は恐らく彼に、今の段階で友だちとしてすら認知されていない。今好きなことがバレたら、全てが終わってしまう。だから、声を張り上げたのに。
「静かにしなさい! 私語をするなら外でやりなさい!」
普段は優しい先生も、さすがに私たちの応酬は耳に障ったらしい。室内に先生の声が鳴り響く。
彼女は彼の席から離れ、隣に戻ってきた。だが、今更何かを言う気にはなれなかった。声を発せば今度こそ廊下に連れ出される。それに、もう彼女と話す気はなかった。彼女という存在それ自体に興味をなくした。
人っていうのは、結局自分の都合の言いように物事を歪曲する生き物だ。そう、思った。