卒業、名前のない夏

 授業中なのに後ろの席でおしゃべりをする男子に、呆れている。正直、ばかだと思う。
 私は視力が悪くて、もうずっと前から席を一番前にしてもらっている。それなのに、周りのことを考えていない男子の声は、意識しないようにすればするほど、私の耳に突き刺さる。
 でも、口に出してないだけ私ってえらいんじゃないか。口に出さなくてもほんとはだめなんだろうけど、それでも高校生にもなって人を馬鹿にする発言をするのはやっぱりおかしいし。
 周りには人を見下すことで生きがいを得ていますみたいなよく分からない女子たちが沢山いる。私が男子にばかって思うのは、別にそういうことじゃなくて。なんというか、うん、ほんとにただ「ばかだなぁ」って。クラスの女子たちがよくやってるマウント云々とかそういうのはどうでもいい。この二文字に優劣の意味を含ませてないし、自分に酔ってもいない。でも私はひねくれているから、人をばかだなって思うことはあるし、人なんてそもそも信頼してないし、友だちなんていない。
 彼女たちには友だちがいる。仲の良さを誇張するように、教室の壁に貼られた「私の目標」コーナーには、五人ほどが固まって「友だちと笑い合い、助け合う青春」と書いていた。
 そんな彼女たちと私のちがいは、人に向ける「ばか」をどこで発信してるか。
 彼女たちは人に聞こえるように話したり、もしくは聞こえない距離でもあからさまに耳を貸し合ったりする。
 私にはそんなことをする倫理観はないし、まず友だちがいない。
 じゃあどこに吐き出してるかって言われたら、
「八幡さん……」
 不意に名前を呼ばれた。一瞬びくっとしてしまう。高校に入ってからは、授業中の名指し以外で名前を呼ばれることがなかった。
 誰かと思って声のしたドアの方を見たら、立っていたのはクラスメイトの日野だった。私と同じ理由により、隣の席で授業を受けている人だ。
 反射的に窓の外を見る。夕焼けが薄らと街を灼いていた。
 腕時計を確認すれば、ちょうど、五時。授業が終わってから三十分以上経っていた。
「えっと、そろそろ、帰る?」
 なぜか半歩下がってから、日野が聞いてきた。そんなに私が恐ろしく映っているのだろうか。
「あ、うん」
 それだけ言って、私は机の上に広げてあったノートやらシャープペンシルやら、持っていた携帯やらをカバンにしまった。
 日野の手に鍵が見えた。教室を閉めるつもりなんだろう。野洲先生に頼まれたのか。
 がたがたになっていた机をさっと直して、小走りで日野の元へ向かう。ついでに冷房を消した。
 教室を出ると、むわっと暖かい空気に包まれて、心なしかさっきより蝉の声が大きくなった気がした。
「八幡さん、遅いんだね」
 日野が、少しずれた丸メガネを直し、苦笑いをしながら言う。
「なにが?」
「いや、その、時間……」
 笑みが崩れた。もしかして、私と同じく人と話すのに慣れていないのだろうか。あまり、知らないけれど。もしくは、私が原因か? 日野の微妙に引きつった口を見て、なんだか申し訳ないなと思った。
「わりと、いつもこういう感じ」
 今日は日野に声をかけられたため、むしろ早めの帰宅かもしれない。集中していると時間を忘れてしまう。
「そうなんだ……先生の手伝い終わったから僕も帰るし、鍵、職員室に返しておくよ」
 日野は教室を閉め、鍵をちらつかせる。
「私って、そんなに緊張する?」
「え?」
 何気にプライベートで日野と話すのは初めてな気がした。もう三年生なのに、しかも隣の席なのに初めてというのは、おかしいかもしれない。でも、私は基本的にクラスメイトと話さないから、隣の席にいても日野と話すことはなかった。
「いや、怒ってるとかじゃないんだけど。日野って、そんな感じなんだ」
 日野の少し弱気な雰囲気が意外だった。
「そんな感じって?」
「そんな感じはそんな感じだよ」
 こういうところで具体的な言葉が出てこない辺り、受験生としては致命的かもしれない。
 日野は私と鍵を交互に見つめている。
「そうだったね。鍵、私が返すよ」
 教室を最後まで使っていたのは私だし、野洲先生の手伝いで疲弊しているであろう日野に申し訳なかった。
「え、いいの」
「いいよ」
「ありがとう……」
 日野がゆっくりと鍵を差し出す。夕陽を受けてぎらついたそれを受け取った。少し、眩しかった。
 私たちは、自然とそろって歩き始めた。日野も玄関までは一緒の道だから、自然というより必然のような気もする。気まずいとかは、なかった。
「あとさ、」
 階段を下りながら、本当は私より頭一つ分くらいは高いであろう日野を見つめて、言った。
「猫背すぎ。もっとしゃきっとしなよ」
 やっと言えた。最初に話したときからずっと気持ち悪かった。日野の猫背が気持ち悪いんじゃなくて、それを指摘できない蟠りが、もやもやと気持ち悪かった。
 日野は、はっとしたように目を大きく見開いて立ち止まり、胸を張る。恥ずかしいのか、戸惑っているのか、口が変な形をしていた。
「そうそう。そっちのほうがいい」
「よく、言われる」
「猫背?」
「そう」
 やっぱりさっきより高くなった。私の目線が上がった。
「いつからなの?」
「小学生からかも」
「ふーん。勉強の影響?」
「わからない。ゲームかも」
 日野が、ゲーム?
「日野もゲームするんだ」
「まあ……」
 放課後に理科の教師と実験を嗜んでいる日野が?
「へえー意外。ちょっと親近感」
「八幡さんもするの?」
「それなりに好きよ」
「そうだったんだ」
 ゲームもそれなりにするし、アニメもそれなりに見るし、アニメイトにもそれなりに行く。って考えたらアニメは「それなり」のレベルに収まらないか。
 日野は特に話を掘ってこなかった。そのまま無言の状態で、私たちは職員室の前に着いた。
「じゃあ、返してくる。先に帰ってくれていいよ。またね」
「うん、また」
 職員室には、担任の野洲先生がいた。授業中の雑談によると、日野と不定期で放課後に実験を楽しんでいるらしい。良い先生だ。
 私はぼーっと野洲先生を見ていた。すると、当然野洲先生は私に気がついた。しまった、と思った。
「おお、八幡じゃないか」
 腰に手を当てて話しかけてきた。少し出たお腹が強調される。白衣は薄く汚れていた。
「あ、どうも……」
 野州先生は私の左手に握られた鍵に視線をやって聞いた。
「あれっ? 戸締りしてくれたのか。日野に言ったんだけどな」
「私が最後まで残っていたので」
「そうか」
「はい」
 振り返っていつもの位置に鍵を掛けた。放課後、頻繁に教室に残っている私としては、慣れたものだ。
「日野とよく話すのか?」
 よく話すかと問われれば、そもそもプライベートでは、今日初めて話した。日野の、ちょっと弱気な感じは、知らなかった。名前は知っていた。それくらいの仲だ。
「いえ、まあ」
 誤魔化すしかない。もっと深掘りされて友だちがいないなんて悟られたら、優しい野洲先生は何をしてくるかわからない。
「仲良くしてやってくれよ? 良い奴だから」
「あ、はい」
 周りに沢山の教師がいるせいで、言いようのない恥ずかしさが私を襲った。
「人見知りだけど、良い奴なんだ」
「はい」
 完全に先生に好かれているではないか。まあでも、日野はそういうタイプではあるかもしれない。媚びを売っている訳ではないけど、教師たちに好かれる。そういうタイプ。
「もう少しで日が落ちるから、気をつけて帰れよぉ」
「ありがとうございます」
 日野と実験をした後だからか、野洲先生は機嫌がよさそうだった。授業に興味を示してくれる生徒というのは、教師から見て貴重なのだろう。
 お辞儀をして、職員室を出た。
「あ、八幡さん」
「あれっ、日野」
 日野がいた。猫背だった。そこにずっといたということは、野洲先生と話している間、待たせていたということだ。申し訳なさを感じた。
「先に帰っていいって言ったのに」
「なんとなく、先に帰るの嫌で」
「待ったでしょ。ありがとね」
「ううん」
 日野に、伝えておこう。
「野洲先生と話したよ」
「あ、そうなの」
 私は、こういうのは伝えるべきだと考えている。
「日野のこと褒めてた。いい奴って」
「そんな。ど、どうも……?」
 日野は、照れくさいような、むずがゆいような表情をした。視線が泳いでいる。ちょっと楽しかった。
「なんか、よく話すのかって聞かれたよ」
「え」
「私と、日野」
「んー……日直が一緒のときくらい?」
「そうね」
 八幡と日野。ハ行同士、日直はよく一緒になる。でも、話すのはそういうときだけ。日々の業務連絡だ。
「なんて答えたの?」
「テキトーに濁したよ」
 日野はふっ、と微笑んだ。そういえば、普段の高校生活でも、日野が笑うのを見たことはあまりなかった気がする。
「話したことほとんどなかったのに、よく名前覚えてたね」
「だって日野は……学年首席だし」
 そう。日野は、頭がいい。校内でも有名で、たしか高校一年の頃からずっと首席だ。
 日野の猫背を指摘したとき、私が勉強の影響を問うたのは、そのせいだった。
 でも、しっかり首席なところは、日野らしいと思う。野洲先生と放課後に実験を楽しんでいることは知っていたし、勉強が好きなんだなと、話したことがない私でもわかっていた。授業中に携帯を出す奴らとは大違い。ほんと、日野はすごい。
 俯いて項を掻くから、余計に猫背になった。
「日野が私を覚えてるほうが、すごくない?」
 私は、別に有名でもなんでもなくて。クラスメイトの一人のはずで。
「そんなことないよ」
 軽い気持ちで聞いた。だから、日野がぱっと見せてきた携帯の画面を見て、私は。
「これって、八幡さんの小説だよね」
 言葉を、失った。
「……え」
 空いた口が塞がらなかった。日野は、特に表情を変えずに淡々と、ただ事実として、薄く光った液晶を見せつけてくる。
 ずらりと並んだ言葉の数々。インターネット上に公開されている無機質な文章。
 日々抱いていた不満を小説に変え、不特定多数に向けて投げ出していたのは、どこの誰だろう?
 目を背けたかったけれど、携帯の明るさが最小限に抑えられていてもわかる。自分の書いた文章を見返すと、気持ちが抉られた。
「そうなんでしょ?」
 もうやめてくれと引きつった顔で訴える私を無視して、日野はさらに問いかけてくる。
「うん」
 否定したところで、意味はないだろう。日野が私の書いたウェブ小説をなぜ知っているのかは謎だが、どこかに原因や証拠があったということは間違いない。もう取り返しはつかない。
 日野はやっぱり、と言って携帯をポケットにしまった。何が、やっぱり、なんだろう。
「どうして」
 口をついて出た言葉はたったの四文字だった。隣の席の生徒に自分の小説の存在がバレているという恥を突きつけられた人間は、もはや驚きすぎて唖然とする他ないのかもしれない。
「ん?」
「どうして知ってるの」
 真っ先に思い出されたのは、私の教室内での行動だった。昼休みを除いた休憩時間は教室に居るから、その少ない時間を使って、執筆を進めていた。どうせ誰も私に話しかけないため、執筆をしている携帯の画面を見られる心配は無用だった……はず。まさか、執筆に夢中になっている私にバレないように、こっそり上から覗いていたのだろうか?
「だって、めちゃくちゃ八幡さんなんだもん」
「は」
「いや、その、内容」
 急に意味のわからないことを言い出した。隣の席に座っているだけで、一度もプライベートな会話はしていないはず。
 私が何も返さないでいると、日野が口火を切った。
「目標コーナーの内容が完全に同じだったし、それに、目が悪いから前で授業受けてる人なんて八幡さんしかいないよ」
「あ」
 そうだった。所詮無名ユーザーが書いた小説なんて、読みに来てくれる人がいてもせいぜい数人だろうし、まさか私を知る人が読みに来ることはないと思って、ああいう描写の仕方をした。
 だが、いた、目の前に。根本的なミスだ。
「それ以外で知る方法があるの?」
 日野は不思議そうな目で聞いてくる。むかつく。
 小説を書いているところを教室で見られた訳ではないのが、不幸中の幸いだ。そんなことがあっては羞恥で死んでしまう。
「ないね、うん」
「でしょ」
 ただ、緊急事態であることには変わりない。日野に自作の小説の存在を知られた以上、それが周囲にバラされては困る。
「日野さ、この後時間ある?」
 このまま家に帰ると、日野の猫背を指摘する前のようなもやもやが、また訪れてしまう。それは避けたかった。
「あるけど」
「外でちょっと話さない?」
 思いもよらない事件。同級生。隣の席。自作小説。
「いいよ」
「ありがとう」
 私は話したこともなかった優等生に弱みを握られている。

 *

「八幡さんの小説、好きだよ」
 赤と紫だった。赤と紫が溶け合って、空を染めあげ、雲の狭間に筋を作っている。異世界に作られた線路みたいだ。
 視線を右に向けて道を辿れば、正門が見える。駐輪場が横にあって、自転車通学の人たちはそこを使う。
 正門を数十メートル真っ直ぐ進んだところに、木製のベンチがあり、今私たちはそこに座っている。目の前に敷いてあるタータンは、普段は体育で五十メートル走のタイムを測る際に使う。放課後は陸上部が練習をしているはずだが、今日は休みらしい。
「本気で言ってんの」
 空を見上げながら私の小説を好きと零した日野に、私は正気を疑い、思わず聞いてしまう。
「本気」
 正直、読者のことなんてどうでもよかった。私の小説を好んで読んでくれる人がいなくても、別によかった。
 例えば、夏の暑さでいらいらしているときに脳裏を掠める不満だとか、蛇口から垂れる雫を眺めながら湯船に浸かっているときに胸を刺してくる寂しさ。そういうものを、小説に起こしてきた。
 自己防衛なのかは分からない。けれど、友だちのいない私にとって、小説だけが身の置き所だった。だから、私の小説を好きと言える日野が、不思議だった。
「いつから読んでくれてたの?」
「わりと最近。八幡さんの小説、好きで、こっそり読んでた」
 面と向かって言われると、なんだかくすぐったい。くすぐったいから、夕陽が眩しくてよかった。ほっぺたがちょっと暖かかった。
「どこが好きなの?」
「色々考えさせられるところかな」
「なるほど?」
「あ、別に彼らをばかって思ってるわけじゃないよ」
 彼ら、とはつまり教室の後ろに座っている男子たちだろう。首席の日野からしたら、彼らのことなどどうでもいいのかもしれない。先生の授業を聞かずに後ろでおしゃべりをする人を嫌そうに見ているのは、実は一番の人ではなく、中の上の人だ。
「日野は、そんな気がする」
「共感、とかじゃないのかも。なんていうか……読んでると、友だちってなんなんだろって、漠然と考えたりする」
 日野にも、そういう経験があるのだろうか。彼のことは、詳しく知らない。
「なんなんだろうね」
「僕には友だちはいないような、そんな気もしたんだ」
「え、日野に?」
 普段の生活ではわからなかった。私が携帯とにらめっこをしていて知らないだけかもしれないけれど、日野はクラスのだいたいの人と仲良くやれている気がしていた。
「そう。例えば、昼休み。八幡さんは、毎日ここに来てるから分からないと思うけど」
「なんで知ってるの? こわ」
 どういうことだ。ここは私だけの場所だったのに。私がこっそり、昼休みに抜け出して来ている場所なのに。日野が知っていたのは小説のことだけではなかったのか?
「こわがらないでよ。もしかして僕やばい人みたいになってるんじゃ……」
「なってる」
「えぇっ」
「日野って、私のストーカー?」
 冗談半分のつもりで言ったのに、日野が、そんなわけないじゃん! と全力で否定してきたので少し面白かった。
「前、四時間目の終わりに早退して、そのときに見かけたんだ」
「うそ……誰にもバレてないと思ってた」
「僕以外にはバレてないんじゃないかな」
「良かった」
 ほっとして、足をぶらぶらさせた。教室の椅子や外のベンチに座っているとき、足が着かないと、気持ちが悪い。でも、今は不思議とそんなにつらくはなかった。
「で、昼休みに何があるの?」
「あぁ、そうそう。昼休みさ、大体の男子は友だちと食べてるんだけどね」
「うん」
「僕、一人で食べてるの」
「それが嫌なの?」
 私はここまで歩いてきて一人で食べてますよ。
「嫌っていうか……うーん」
 言葉を探す日野を見る。丸メガネが下がっていた。いつもメガネがずれている。日野は、猫背だし痩せているしで覇気を感じない一方、シャツには皺一つなくて、几帳面なのかなと思った。
「うらやましい、かな。彼らには昼休みに一緒にご飯を食べる友だちがいる。僕にはそういう友だちはいない。本当の友情を感じないんだ」
 私はかつて裏切られてから人を避けるように過ごしてきたから、あまりそういうことを思ったことはなかった。
「いいんじゃない」
 夕空を眺めながら言うと、日野が眉毛をぴくりと動かしながらこちらを向いてきた。
「それで、いいんじゃない」
 別に一緒にご飯を食べなくても、いいと思った。もちろん誰かと食べる方が良いのかもしれないけれど、そう、思った。
 日野が目をまん丸にして私を見つめ続けるから、なによ、と言いそうになった。
「ありがとう」
 目を合わせて言ってくれた。けど、その後すぐに逸らされた。項を掻く。猫背が強調される。角度が、考える人みたいだ。
「猫背」
「あっ」
 指摘されて、ぴしっとした。ぐんと背が伸びる。
 日野は、座っていても地面に足が着いていて、うらやましい。
「僕、痩せてるから猫背なのかな」
 自分で痩せていることは自覚しているらしい。てっきりやばいダイエットでもしているのかと思っていた。
「ちゃんとご飯は食べてる?」
「食べてるよ」
「そっか」
 なら、大して問題はないのだろう。
「そういえば、八幡さん知ってた? 野洲先生、昔はがりがりだったらしい」
「あの野州先生が?」
「そう。今度授業でそのこと話すって。歳取ったら太るから気をつけろよぉって言われた」
「野洲先生が、がりがり……衝撃だわ」
「ね」
 歳って、恐ろしい。
 若いときに信じていたこと──例えば、俺は太らない体質なんだ! みたいなことが、ほんの数年で、一瞬にして崩壊する。
 誰も、未来なんて分からない。だから、今を信じるしかない。
 でも、それが正しいと思う。先が見えたら結局は最悪の結末を迎えるというのは、ホラー小説の定番だし。「未来が見える能力と時間を止める能力、どっちがほしい?」みたいな質問が、私は好きじゃない。
「なんか、八幡さん相手だと、気軽に色んなこと話せるよ」
 なぜだろう。考えてみたら、自分の中で出た答えは簡単なものだった。
「普段話さないからじゃない?」
「あぁー、話したことないから話題に困らないってことか」
「ちがう」
 こういうところはよくわかっていないのか。首席のくせに。
「仮に私たちが既に友だちだったら、色々問題も生じるじゃない。ほら、話した内容をお互いの友だちに話されたりさ。秘密をバラされたり」
「たしかに?」
「でも、今はクラスの誰も、私たちがお互いを認識しあっていることを知らないから、私たちは誰かにお互いの秘密を言ったりしないはず。それで多感な高校生たちに変に勘違いされるのは嫌でしょ?」
「そうだね」
 彼らは恋に敏感だ。他人の恋愛を聞いたり見たりして楽しむ意味が、私にはとんとわからない。個人の自由だから、やめろ、と否定はしないのだけど。
「八幡さんはなんでそんなに人を避けるの? 勘違いだったらごめん」
 日野から出た予想外の発言に、肩が震えた。足先の指が、きゅっと丸まる。
「避けてるよ。人なんて信頼してないし」
 表では褒めちぎってくるくせに裏で悪口を言う人がいる。目の前で人の失敗を笑ったり馬鹿にしたりするような、笑いのツボが根本的に論外みたいな種類もいる。
 わからない。私にはわからない。私がずれているのだろうか。結局、正義の定義なんて存在しない。
 ベンチにもたれながら日野を流し目で見たら、日野も背を預けながら空を見上げていた。それ以上、何も聞いてこなかった。
 日が、暮れてきている。
「信頼してた人に裏切られるって、つらいね」
 陽に照らされた靴下を見つめながら頷き、日野の言葉を頭の中で反芻する。
 裏切り……?
 私は忘れていた本題を思い出した。日野が私の小説を好きとか言うから、すっかり頭から抜けてしまっていた。
「そうそう、小説のことは誰にも言わないでね。というか、ここに来た本題それだし」
「まさか。言うわけないよ」
「助かる」
「え、僕言いそうに見えた……?」
「ううん。一応だよ。万が一言われたら私死んじゃうもん」
「そ、そんな」
 顎で自転車置き場を指す。
「あそこに自転車とまってるでしょ? あそこの白い小さいの」
 中学一年のときから六年間使っている自転車。籠が大きいところが好きだ。
「あれでどこかの海まで行ってやる」
「海?」
「今の季節だったら、海が綺麗でしょ。どうせなら綺麗なところで死にたくない?」
「死なせないから安心して」
「せんきゅー」
 まあ、日野も私とそういう関係みたいに噂されるのは避けたいだろうし、自作小説の存在が知れ渡ることはなさそうだ。
「八幡さんって、自転車で来てたんだね」
「そうだよ」
「近いの?」
 遠いのか、近いのか。意識したことがなかったから、ピンとこなかった。
「んー自転車で二十分くらいかな」
「バスは使わないの?」
 田舎ではあるものの、この街は市バスが行き交っている。私の高校の前にもバス停があり、今朝もごった返していた。
「交通機関が嫌いなんだ。バスとか電車とか。方向音痴でさ」
 自転車で六年間学校に通っていたせいで、交通機関を利用する機会はまるでなかった。市バスは、乗ったら乗ったで目的地の反対方向へ逆走する始末。
「意外かも」
「そう?」
「あんまりイメージなかった」
 ゆったりとした風が吹いている。近くに植えてある向日葵が揺れた。
「実は、朝も早くに来てる」
「そうなの?」
「自転車漕いでるところをクラスの人に見られるの、好きじゃないんだよね」
 見られるのに嫌悪感があった。それに、人がいると、スカートが舞い上がったときに抑えるのがめんどうくさい。スピードを出せないのがもどかしい。
「じゃあ、誰もいないような時間に来てるんだね」
「そんな感じ」
「朝は何してるの?」
「図書館で本読んでる」
「さすが小説家だなあ」
「はぁー?」
 じっと睨むと、日野は何がおかしいのか、くすくすと笑った。変なの。
「暗くなってきたね」
 空を見ながら日野が言う。
 赤が消えた。僅かに残っていた赤を紫が覆った。
「そうね。そろそろ帰る?」
「帰ろっか」
 腕時計をちらりと確認すると、鍵を返してから、かなりの時間が経っていた。駐輪場にはもうほとんど自転車が残っていない。
 日野は駐輪場まで着いてきてくれて、そこからわかれた。バスらしい。
 ヘルメットをかぶる。頭よりサイズが大きくてむずむずする。
 携帯を取り出すと、小説の執筆画面が表示された。さっき書いていたはずの文章が、なぜかなくなっていた。急いで教室を出たから、恐らくそのときに保存し忘れたんだろう。
 暑かったけど、いらいらはしなかった。頬を撫でる夏風が気持ちよかった。
 昼休み。今日もあのベンチでご飯を食べている。
 今朝はお母さんが仕事だったから、一人だった。いつもより早めに起きて弁当を作った。こういうのって、前日は憂鬱なのに朝になると結構楽しいから不思議だ。
 でも、朝から揚げ物を揚げるような余裕はなくて、四角い弁当箱に卵焼きやらウィンナーやら、レンジで温めてかつお節を振っただけのブロッコリーやらを詰めた。
 昨日より強めの風が吹いていて、外でお弁当を食べるには不向きな天気だ。スカートがゆらゆらして膝の辺りがくすぐったい。
 ローファーを交差させながら、昨日の放課後を思い出す。なんだか新鮮な放課後だった。
 日野と、話すことになるとは思っていなかった。永遠に話すことはないと予想していた。隣の席にずっといた人──今までもこれからも。そういう認識のはずだった。
 日野を知ったのは、高校に入ってから最初の春。五月に実施された中間考査の後だった。
 記念すべき最初のテストということもあり、クラスメイトが賑やかに話し込んでいる中、成績表が返却されていく。
 日野は、成績表を受け取って、立ったままそれを眺めていた。興味が湧いたのか、周りにいた数人の男子が日野に近づいた。
「やばっ、日野一位じゃん」
 成績表を見せてもらった一人の男子がそう口にしたことで、日野は一気に注目の的になった。苦笑いをする日野の顔をよく覚えている。
 それから期末考査を挟んで二学期の中間期末、最後の学年末考査と計四回の定期考査を終えたが、そのどれにおいても日野は一位を譲らなかった。
 そんな日野をただ傍観していた私の、最初の中間考査の成績は、たしか六位だった。その後、現在に至るまで五位と六位を行ったり来たりしている。一度だけ三位を取れたときは素直に嬉しかった。
 ただ、日野からすれば凡才の域だ。日野は「国語が苦手だから数学や理科で補っている」と口にするものの、国語も一位だから説得力がない。絶え間ない努力を積み重ねた結果なのだろうが、私からすれば、所謂天才というやつだ。
 悔しさや嫉妬みたいな感情は、全く湧かなかった。勝てる訳ないと思っていた。それに、根本的に頭の構造が違うのだろうと思っていた。
 だからかもしれない、日野と話してみたら、結構私と似てるところもあるんだな、と意外に感じることが多かった。
 例えば、日野にゲームをするイメージはなかった。こう言っては失礼だけど、ガリ勉のイメージだった。机と鉛筆がお友達! みたいな。
 そして何より私を驚かせたのは、日野が「友だち」という概念について悩んでいたということ。
 クラスの男子と話しているところをよく見かけるし、普通に友だちは沢山いるというイメージだった。
 でも、違った。友だちって、普段話すだけの仲だったら、それは友だちとは呼べなくて。日野は、ご飯を一緒に食べるような友だちが欲しいんだ。
 人を避け続けてきたが故に、当然気づくことの出来ない盲点だった。
「寒くない?」
「んへっ!?」
 頭上から突然声をかけられ、みっともない声を出してしまった。恐らく最も聞かれたくない声だった。最悪。
「そんなに驚かなくてもいいのに、八幡さん」
「日野……か」
 誰かに話しかけられるという行為に慣れていないせいか、もしくは一人のはずの空間に別の人間がいたという驚きのせいか、私は思わず箸を落としそうになった。
「見たことない顔してたね」
「誰のせいよ」
 日野の奴、少し話して仲良くなったつもりなのか、昨日よりも随分と砕けた話し方になっている。
「あはは、ごめんごめん」
 言いながら日野が、私の隣のスペースを見つめてきた。座っていい? と聞いてくる。無言で頷いた。
「八幡さん、こんなに風強くてもここにいるんだ」
「まあね」
「なんでなの?」
 なんで──理由を聞かれると難しい。ただ、ぼんやりと思い浮かぶことはある。
「昨日、日野が言ったように、私は人を避けてる。そういうことなんじゃない?」
 ほぉ、と日野は興味があるのかないのかよくわからない返事をした。
「皆が嫌いだから、ここに来てると?」
「んー……嫌い、とまでは思わないけど、でもくっついてご飯食べるのは、私には出来ないかも」
 そういう場面を見るのを潜在的に忌避しているのかもしれない。得体の知れない気持ち悪さ、胸焼け──そういった類いの波が、押し寄せてくる気もする。だとしたら、やっぱり「嫌い」なのだろうか。実際に見てはいないから、わからないけれど。
「ねえ、八幡さん」
 日野がこっちを見つめてきた。ゆっくりとした動作ではあるが、確実に。はっきりとわかった。
 だから、瞼は弁当の方向に落ちる。
 日野を見るのが、なんだか少し怖かった。
「いい人も、いるかもしれないよ」
 そんなに真っ直ぐ見ないでほしい。今日は夕焼けじゃないから、眩しくてそっちを見れないという言い訳も出来ない。
 居場所を探るように口の中で転がしていた金平ごぼうを嚥下してから、仕方なく日野を見つめ返した。
 その瞳はまっすぐ私を捉えていた。過去も未来も見据えていない。ありありとした「今」が映し出されていた。
 今なら、話せるかもしれない。日野になら、話していいのかもしれない。
「中学二年の話なんだけど」
 私は日野に、ベンチの下で死んだ蝉のように忌まわしいかつてを、話すことにした。

 *

 もう遡ること四年前の話だ。たしか、あのときは国語の授業中だった。
 先生はつらつらと教科書の本文を黒板に書き写している。
 現在隣の席にいるのは日野だが、当時そこに座っていたのは親友だと思っていた子だった。
 私たちの席は一番後ろ。近くに座っている大半の生徒は寝ていた。
「はっちー」
 今ではもう誰にも呼ばれなくなったあだ名を、彼女が口にした。
「耳、貸してよ」
 何を言うつもりだろう。不思議に思って私は彼女に右耳を貸した。
「好きな人、教え合おう」
 聞き間違いか? 彼女はたしかにそう囁いた。私は彼女の正気を疑った。
「だめ? 二人だけの秘密だから」
「ううん」
「そうこなくっちゃ!」
 授業中に恋バナをするという背徳感から押し寄せる誘惑に負けて、私は彼女の提案を承諾してしまった。彼女の好きな人を知れるという好奇心もあった。
「秘密の共有だね」
「共有?」
「そう。私とはっちーの」
 そう言って彼女は微笑み、カバンから取り出したルーズリーフを手早く折っていく。
 はいこれ、と言って小さく折られたルーズリーフを渡された。
 私よりも右斜め前の少し離れたところに座っている男の子をちらりと見据えながら、その子の名前の一文字目を書いた。
 何も書かれていない紙に好きな人の名前が記されていく。もう後戻りはできないという覚悟を決めた一方、確かな興奮を感じていたのも事実だった。
 私をにやにやと楽しそうに見つめる彼女に、元の形に折った紙を渡す。
 誰にも言ったことのなかった秘密。それが、あの紙の中に封印されている。
 彼女は、いい? と私に目だけで聞いた。無言でこくんと頷くと、入試の結果を確かめるかの如く、恐る恐る紙が開かれた。
 彼女は私が書いた文字を見て、釘付けになった。前方に座る男の子を目で指しながら、口を両手で覆った。
「ねえちょっと待って」
 口を覆ったまま、彼女は、囁き声に近いけれど下手すれば起きている生徒には聞こえてしまうような声を出した。
「同じなんだけど」
「へ!?」
 私は彼女から飛び出た衝撃発言に、かなりの大声を出してしまった。周囲の視線が一気に私を迎える。今度は私が口を覆う番になった。ぺこぺこと頭を下げるしかない。
「私も好きなんだよね」
 親友と好きな人が被るという予想外の展開。仲が良すぎる証明なのだろうか。シチュエーションとしては、最悪かもしれなかった。
「そんな……どうする?」
 何の意図があったのか分からないが、私は彼女に聞いていた。今思い返してみれば、意味のわからない質問だ。
「どうするもなにも、勝負するしかないでしょ」
「どっちが恋を実らせるか、ってこと?」
「そうよ」
 この頃の私は、まだ友だちや恋人という概念を信じていた。もちろん、親友である彼女のことも。
「やってやろうじゃない」
 このような馬鹿みたいな返答をするくらいには子どもだった。彼女と好きな人が被ったことには不思議と嫌な気はせず、むしろ私の意思は燃え上がっていた。秘密の共有、という言葉に唆されたのだ。
「じゃあ、はっちーは今日から恋のライバルね」
「ええ」
 ふふん、と自信ありげに彼女は紙を指でいじって遊んでいる。
 そのときだった。換気のために窓を開けていたせいで、外からいきなり風が吹き込んできた。その拍子に持っていかれた髪を抑えるために、彼女は誤って紙を手放してしまった。そっちのカミは絶対手放すなよ……。
 紙はひらひらと舞いながら確実に前の方向へと進んでゆく。
 あの子のところに落ちないで──。
 そう、願ったのに。
 神は私を味方してはくれなかった。最悪なことに、名前を書いた男の子の机の下で、導かれるようにそれは止まった。
 もう終わりかもしれない。海にでも沈めてほしい。
 彼は足元に飛んできた紙を、当然のように拾った。
 折られた紙はその状態を保持していた。つまり、彼が紙を開くのは当然の帰結だった。書かれた自分の名前を訝しげに見つめ続ける。すぐに、周りに落とした人がいないか目で探し始めた。
 このままだと、彼が周りの生徒に紙を見せながら「これ、誰の?」と聞き始めかねない。そうなったら、最悪だ。全てがバレる。
 隣で口を半開きにしながら焦っていた彼女も同じことを思ったらしい。授業中であるため腰を低くしながら、彼女は急いで彼のところへと近づいた。
「ごめんごめん、飛んで行っちゃった。拾ってくれてありがとう」
 彼は疑うように彼女を見つめる。彼女は自然な笑みを崩さない。なぜなのだろうか、取りに行く前まではしきりに解決策を考えているように見えた彼女の表情に、今は余裕すら浮かんでいるように感じた。
「これ、どういうこと?」
 海に一隻だけ浮かぶ船のようにぽつんとそこに存在している自分の名前を指して、彼は眉を顰めた。
「あぁ、それね」
 彼女はふっとほくそ笑み、私を指さした。
「八幡が、好きなんだってさ」
 あろうことか、彼女は何の迷いもなくそのように発言した。私は狼狽える他なかった。目の前で今起きていることに思考回路が追いつかず、頭が真っ白になった。
「ちがう!」
 私は授業中ということも関係なしに、大声を出して首を振った。何回も、振った。
「ちがくないよ、さっき話してたじゃん」
「話してないし」
「はっちーうそついてるぅ」
 先生が板書をやめた。みんなも何が起こったのか分からないという顔で、私たちを交互に見ている。クラスの空気がぴりぴりする。痛い。
 こういうとき、結局勝つのはクラスのヒエラルキーにおいて上位に位置する人間だ。私は彼女より、頭も運動神経も、加えて容姿も、良くなかった。彼女以外との交流関係は、狭かった。
 彼は彼女の言葉を信じたらしかった。普段からクラスの男子と頻繁に話している彼女は、もちろん彼とも仲が良かった。さっき、勝負をする話になったとき、正直負ける気がして仕方がなかったのは秘密。意思が燃え上がる、なんてただの強がりだ。
「信じて! ほんとに違うの!」
 私は恐らく彼に、今の段階で友だちとしてすら認知されていない。今好きなことがバレたら、全てが終わってしまう。だから、声を張り上げたのに。
「静かにしなさい! 私語をするなら外でやりなさい!」
 普段は優しい先生も、さすがに私たちの応酬は耳に障ったらしい。室内に先生の声が鳴り響く。
 彼女は彼の席から離れ、隣に戻ってきた。だが、今更何かを言う気にはなれなかった。声を発せば今度こそ廊下に連れ出される。それに、もう彼女と話す気はなかった。彼女という存在それ自体に興味をなくした。
 人っていうのは、結局自分の都合の言いように物事を歪曲する生き物だ。そう、思った。
 思い出すだけで胸の奥が焼けて吐き気がするような話を、なんとか日野に伝えた。日野は、うんうんと頷きながら聞いてくれた。
「そんなことが、あったんだね」
「もう昔の話だけどね」
 長時間話し込んでしまったのではないかと不安になり、時計を確認する。昼休みが終わるまで、あと十分くらいだった。
「話してくれてありがとう」
「感謝されるようなことでもないよ」
「いや、その話、八幡さんは絶対他の人に言ってないだろうなと思って」
「それはたしかにそうだけど……」
 こんな話、家族にも言う気にならない。日野に言えたのは、日野との関係が深すぎず、でも昨日のことがあって浅いとも言えなくなったからかもしれない。
「でしょ? だから、僕に話してくれてありがとうって意味」
「話したらなんかすっきりしたかも」
「それは良かった」
 今までは、話しても解決しないと思って誰にも話してこなかった。言ったところで迷惑にしかならないと思っていた。だから、今、少し胸が暖かくなったのが、妙にくすぐったかった。
「ねえ八幡さん」
「ん?」
「昼休み、もう少しで終わるね」
「そうだね」
 遠くを見て相槌を打つ。髪が風で靡いても、私は直さない。
「抜け出そうよ。一緒に」
 え、と視線を上げて日野を見た。
 抜け出す? って?
「どういうこと?」
「昼休み、伸ばそうよ」
「ど、どうやって」
「外に抜け出すの。校舎の外に」
 私の暗すぎる過去を聞いて頭がおかしくなったのだろうか。それとも、天才は時折こうやってネジを外しているのだろうか。真顔で話す日野を見るに、冗談とは思えなかった。
「本気で言ってる?」
「もちろん」
「えっと、たしかあなた首席ですよね」
「うん」
 学年で天下一を取った日野。初めて話した際にゲーム好きなのを知ってから薄々気になってはいたが、もしかして日野は結構普通の人間か? テストの点が異常に高いだけで、なんというか、うん、普通に人生を楽しんでいるというか。
「大丈夫なの?」
「なにが?」
「授業」
「後で野洲先生に二人で怒られよう」
「ええ……」
 怒られること前提って……ほんとに首席か?
 ただ、日野の提案にすぐに反対しない時点で、私がそれを肯定的に捉えているのは事実だった。
「八幡さんはこのまま授業に戻りたい?」
「い、いや……」
 そう聞かれると困る。そもそも昼休み後の授業はあまり好きではない。
「僕は、もっと八幡さんのことを知りたいと思ったよ」
「私を?」
 日野は無言で首を縦に振った。私を知りたいという人間が目の前にいるという現実に違和感を覚えて仕方がなかったが、それでも日野は本気らしかった。
「まあ、五限は眠くて好きじゃないし、いいよ」
「お、助かる」
 私は覚悟を決めて聞く。
「どこに行くの?」
「駅のゲーセンに行こう」
 随分と遠出じゃん。というかそっちのゲームも好きなんだ。
 ツッコミどころが多くあったけれど、今は言わないことにした。まだまだ私たちの昼休みは終わらなそうだ。

 *

 平日の昼間だからか、駅は空いていた。でも、私たちが住んでいるところは正体不明の鳥が家の近くでうっうーと鳴いているような田舎だ。最寄りの駅にゲーセンがあるわけがない。
 だから、わざわざ電車で片道一時間もかけて、県を出た。
 駅は入り組んでおり、どの改札が正しいのかよくわからない。一方、日野は迷うことなく進んでいく。私はただ横に並んでついていくだけだった。
 制服姿の人間なんて私たち以外にほとんど居なくて、主婦や大学生らしき若者が集っている。そのせいで、すれ違うときに変な目で見られた。絶対変な勘違いをされている。補導されるのではないかという心配もあったが、幸い警察は見当たらなかった。
 背筋が反り気味の私に釣られるように、頑張って猫背を直して歩く日野におかしさを感じながら歩いていると、あっという間にゲーセンに着いた。
「ここだよ」
 立ち止まって汗を拭う。教科書が詰められた制カバンが、重たかった。
「ありがとう」
「うん。入ろうか」
「そうね」
 店内は白を基調とした光を放っていた。手前から奥に向かってずらーっとクレーンゲームが並んでいる。とにかく明るい。
 右側には沢山のガチャガチャがあった。そこで目をきらきらさせる子どもを見ていると、懐かしくなると同時にもう戻れない過去をぼんやりと回想してしまった。こんな私でも、幼稚園や小学校に通っていた頃は、とにかく平和だった。
「とりあえず座りたいね。あっち行こ」
 私は無言で頷いて日野に従う。ちょっと動いただけでこの汗だ。自転車通学はどうやら効果がないらしい。普段から家で冷房の冷たい空気にさらされながら漫画を読んでいる習慣が露呈した。
 私たちは店内の左中央に設置された機械のところに来た。メダルを交換出来る機械だ。
「メダルゲームするの?」
 財布を探す日野に問いかける。
「メダルゲームだったら座って休憩もできるから」
「そういうことね」
 財布を覗くと、運良く五百円玉が入っていたので割り勘をし、私たちはメダルを手に入れた。
 日野が奥を指さす。店の最奥にあるらしかった。
「他の場所でも良かったんだけど、ここの方が若干静かだからさ。人も来ないし」
「そっか」
 それは某有名ゲームがモチーフになったメダルゲームだった。中にある穴にメダルを落とすことが出来れば、キャラクターがマス目を移動してくれる。キャラクターをゴールまで導くのが最終目標だ。
「やったことある?」
「うん、まあ」
 最後にメダルゲームをしたのはいつだっただろう。小学生だった気がしなくもない。何年かぶりに目の前に拡がる光量に、興奮した。
「良かった。じゃあ、メダル入れてこ」
 ばらしたメダルを投入していく。日常では聞くことの出来ない独特の効果音が楽しい。入れるところは二つあるから、わざわざそうする必要はないのに、なぜか私たちは交互にメダルを入れていた。
「八幡さんとゲーセンで遊ぶ日が来るなんて思いもしなかったな」
 狙いを定めてメダルを入れる隙を窺いながら、日野が言った。
「日野が誘ったんじゃん」
「言われてみれば」
「忘れてたの?」
「それくらい斬新なんだ、僕にとっては」
 変なの。自分から誘ったくせに斬新ってどういうことだ?
 そんな日野は喋りながらでもどんどんメダルを落としていく。抜群に上手い。
「上手いね」
「ありがとう」
「よく来るの?」
「んー。週に一回とか」
「週一!?」
 いや来すぎだろ。いよいよ怪しくなってきた。本当に首席なのか。いや、それでも日野は首席なんだ。
「そんな驚く?」
「てっきり勉強詰めなのかと……」
「テスト前はね。普段からそんなに詰めてたらおかしくなっちゃうよ」
「たしかに息抜きも大切よね」
 そのとき不意に日野はこちらを見てきた。機械に戻るタイミングじゃなくて、向かってくるタイミングで入れるんだよ、と教えてくれた。原理を考えればわかる話なんだろう。私はマルチタスクが苦手だ。
 店内に人はいるのかなと思い、ふと周囲を見回してみる。けれど、平日の昼間だからか、そこまで人は居ないようだった。誰でも入ってこられる空間なのに、誰も入ってこない。店内で最も奥に位置するここは、やけに静かだった。居心地が良い。平日の昼間のゲーセンってこんな感じなんだ、と謎に感心した。
「さっきの、話なんだけど」
 メダルが少しずつ減り始めたとき、日野が口を開いた。
「嘘ついてるのあっちもじゃんって、思った」
「ん?」
「ほら、さっきの話」
「あー」
 久しぶりにメダルゲームをして勝手に気分が盛り上がっていたけれど、そういえば私は日野にとてつもなく陰鬱な話を聞かせていたのだった。
「親友さんも、嘘つきだよ」
 独り言のように、自分に言い聞かせているかのように、日野は言った。
 私は、メダルをごそっと沢山掴んで、狙いなんて定めず適当に入れていく。一気にメダルが、減っていく。
「だって、秘密にするって、約束だったんでしょ?」
 視界に、靄がかかった。滲んで、掠れて、身体がじんわりと熱を持ち始める。目を、開けたくなかった。
「あ、八幡さん、そんなつもりじゃ……」
 よくわからなかった。日野が味方してくれたことも、自分が思っていたことを日野も思っていたということも、全部。わからない。でも、きっと嬉しい涙なんだ、ってことだけがわかった。
 そのとき、背中にぽっと暖かい感触がふれた。じわじわと拡がっていく。夏なのに、その温もりはとても心地よかった。
 日野の手だ。
 勉強をして、ペンだこが出来ているであろう指。でも少し骨ばった繊細な手。それが、私の背中を撫でてくれていた。
 その動作はちょっと不器用で、時折震えるような危うさを保っていたけれど、とても優しい感触がした。
 ひっくひっくと声を漏らして泣いてしまって、優しくされるからもっと泣いてしまう。
 けれど、ゆっくりと背中を撫でられる度、次第に涙も穏やかになり、やがて止まった。
 鼻水をたくさん垂らした。そしたら鼻が詰まった。ここまでいったら、もう顔面なんて気にしてられない。
「八幡さん、これ」
 日野がティッシュを出して渡してくれた。かろうじて、ありがとう、と言うと自分の声が変わっていた。
「ごめんね。泣かせるつもりじゃなかったんだ。つらい話をまた出してしまった」
 ティッシュで目や鼻を拭いながら答える。
「ううん、大丈夫」
 日野は私が泣いたところを見たことがないからか、心配そうだった。
「嬉しかったから」
「うん」
 友だちって、なんなのだろう。やっぱり、よくわからない。ついさっきまでは仲良しだったのに、自分の都合が悪くなったら嘘をついて、騙し合って。
 日野の優しさに甘えて、口数が増えてしまう。
「私、友だちって大事だよね理論が嫌いだった」
 無機質な空間に私の声だけが響く。日野は、声に出して相槌を打たずに、無言で聞いてくれた。
「友だちなんて、所詮は他人で、その間にある信頼なんて簡単に崩れちゃうと思ってたから」
 でも、多分違うんだと思う。だって、ならこの関係は何なの。私と日野の関係って、何なの。もう友だちなんて出来ないと思っていたけれど、私は日野のことを友だちだ、って──。
 それから日野は、多分私の言葉をずっと待っていた。メダルを投げる手は止まっていた。もう私が話すのをやめたと判断したらしく、沈黙を破ってくれる。
「八幡さんらしいね」
 驚いて日野を見る。視界はくっきりしていた。
「やっぱりあの小説は八幡さんのだよ」
 日野にだけ、読まれている。クラスの中で、日野だけが、知っている。私の、小説のこと。
「うん」
 秘密を知っているのが、日野でよかった。そう、思った。
「僕は言わないよ」
「え?」
「僕だけが知ってたいもん」
 なんだか気恥ずかしかった。でも、私もそうだ。
「私も、日野にだけ知られてたいよ」
 久しぶりにした秘密の共有は、最初こそ焦りを感じていたけれど、今はむしろこれで良いと思えている。
 私の発言に戸惑ったのか、日野は手元を狂わせてメダルを落とした。
 日野はメダルを拾いながら小さく、そっか、と零した。
 気づけばメダルはあと数枚になっていて、ゲームは終盤に近づいていた。目の前のキャラクターの進捗なんて、どうでもよかった。
 夏休みに入った。蝉の鳴き声が一層大きくなって、雨がちらつくことも増えた。
 ゲーセンで遊んで以来、日野と話すことはなかった。嘘みたいに、なかった。あの後野洲先生にこっぴどく叱られたのは良い思い出だ。
 教室では相変わらず隣にいたのだけれど、目を合わせることもしなかった。私たちは、授業中は真剣に先生の話を聞くような人間だ。中学二年の自分はとっくに消失している。
 連絡先も知らなかったから、裏でも話さなかった。私たちはふんわりとした関係を保っていたし、案外そんなものなのかもしれない。
 今朝は、普段の登校時刻より少し遅めに起きて、学校に来た。夏休みだけど、お盆ではないから学校は開いている。無性に来たくなったのだ。久しぶりに自転車を漕いだ。
 目の前を、陸上部が使い古して剥がれたタータンが横断している。
 流れてくるのは、あの日と一緒の風。朝だから夕焼けは見れないけど、懐かしい風が私を撫でていた。
 小説を書こうと思った。何でもいいから、物語を書こうと思った。
 たしか、このベンチに座って小説を書いたことは一度もなかった。でも、書くならここかなって感じがした。駐輪場には自転車が一台だけ、寂しく佇んでいる。
 誰もいない。私しかいない。いつも上の階の空いた窓から聞こえてくる喧騒も、今は聞こえない。
 手が走る。森の泉の前であぐらをかきながらあくびをしているような、そんな感覚。安らかな気持ちになって、落ち着く。現代人は便利を手に入れた代わりに色んなモノに囲まれるようになってしまって、だからこういう安らぎを忘れてしまったんだろうなと、ふと考えた。
 そういう平和の海にどっぷりと浸かっていた私は、当然人の足音なんかに気づけるはずもなかった。
「久しぶり、八幡さん」
「うぇ! え、ちょ!」
 なんなんだ。何で彼は気づけばいつも私の区域に侵入しているんだ?
「あはは、びっくりさせてごめん」
「あはは、じゃないよ」
 私は慌てて携帯をポケットにしまう。
「まさか八幡さんがいるなんてね」
「絶対知ってたでしょ」
「いや、ほんとに知らないって。ストーカー扱いはもう勘弁だよ」
 なんでこんな絶妙なタイミングで被るのだろう。でも、私は小説を書いているところを見られたくなかっただけで、日野が来たことに関しては別に嫌な気はしなかった。
「今日はまだ夏休みだよ? わかってる? 首席くん」
「八幡さんもね」
 日野は疑うような目を私に向けながら、隣に腰かけた。
「私は来たかったから来ただけ」
「へぇー」
「なによ」
「いや、何してたのかなーって」
 びくっ、と肩が震える。たしかに、何もないのに夏休みに学校を訪れるような生徒は珍しい。
「別に何もしてないよ」
「ほんとに?」
 初めて話したときの、あのおどおど感はどこに行ったんだろう。日野ってこんなに鋭かっただろうか。私が黙っていると、日野がにやっと笑った。
「書いてたの、見えちゃった」
「は」
 おい。まじか。海に行くか。
「ごめん。でも内容までは見えてない」
「ならギリセーフ」
 人生で最も危ない瞬間だった。小説の内容をクラスメイトに──それも面識のない人ならまだしも、日野に見られるなら、人生終了だ。
「新作公開待ってるよ、八幡先生」
「たまにいじってくるね」
「いじってる訳じゃないよ! 本当に好きだし尊敬してるし」
 ありがたいけど、恥ずかしいからそこまでの返答は求めていなかった。あーわかったわかった、と返すと、日野はなぜか満足そうだった。それにしても初対面の頃よりかなり会話か弾むようになったな、と感じた。
「随分と私と話すことに慣れたみたいね」
「え?」
「最初の緊張ぶりは何だったのかしら」
 んー、と日野は悩んでいる。未だ変わらない猫背を見て、安心した。ずれたメガネをくいっと直すまでがワンセットだ。
「八幡さんが教室で話してるのを見たことがなかったから、どう話そう、って戸惑ってたのかも」
「それもそうか」
 たしかに、孤独貫いてます! みたいな格好してる私が、警戒されないはずもなかった。
「八幡さんの私服って、新鮮だね」
「制服を見慣れてるからかな」
「多分そう」
 日野は、なんかもう予想どおりみたいな感じで、無地の黒Tシャツにジーパンを合わせているだけだった。誰も居ないであろう学校に来る際にオシャレをするほうがおかしいのかもしれないけれど。
「それ、いいね」
 そう言って日野が指したのはカバンだった。小さく見えて結構な量が入るところが好きだ。
「ありがと」
「がま口なんて持ってたんだ」
「イメージと違う?」
「いや、意外と一致してるかも」
 緑色をしたがま口のカバン。緑が好きなのと、縁がゴールドになっているのを気に入って買った。誕プレをくれるような友だちは私にはいない。かと言って家族が買ってくれた訳でもなく、自腹。誰かに貰ったと見せかけて自腹。
「どういうところが?」
 答えにくそうな質問をしてみる。仕返し。
 案の定、日野はすぐに答えず、んーと悩み始めた。
「なんか、八幡さんって、緑っぽい」
「なにそれ」
「わかんない。でも似合ってると思う」
 人間に対して緑っぽいってほんとにどういうことなんだ。もしかして私って芋虫か何か? 野菜全般が好きなのは事実ではあるが。意味不明な日野の褒め言葉に私はありがとうと返すしかなかった。
「日野は、なんで学校に来たの?」
 そういえば聞いてなかったことを思い出して、日野を覗いてみる。あんまり意識してなかったけれど、奇跡みたいな再会だ。
「学校っていうより、ここに来たかったんだ」
 ぽかんと首を傾げた私に構わず、日野は深呼吸をして、空気が綺麗だなあ、と呟いた。
「なんで?」
 猫背を強調させながら、日野は考え始めた。言われてみれば、たしかにここの空気は綺麗かもしれなかった。
「考えを整理したかったんだと思う」
 私は日野の言葉を待った。余計な相槌はいらないと思った。
「八幡さんと話してから、色んなことを考えるようになって、寝る前の夜なんかは頭がぐるぐるしてることもあった」
「何を考えてたの?」
「例えば、八幡さんの昔の話を聞いて、すごく嘘っていうものについて考えさせられたよ」
 空が青い。風が柔らかい。ベンチの下で、どういう訳か色がお揃いの黒スニーカーが並んでいる。
「聞かせてほしいな」
 日野の足は地に着いている。私の足は地に着いていない。日野のスニーカーは綺麗に手入れされている。私のスニーカーは薄汚れている。
「世の中嘘だらけだなって、感じたよ。一つ挙げるなら、恋人は友だちの延長っていうのも、きっと嘘だ」
 私が黙ったまま視線を預けていると、日野はそのまま話を続けた。
「最近は出会い系やマッチングアプリみたいなものが若者の間で流行っているでしょ?」
「たしかに、大学生とか若い社会人のイメージだね」
「そう。彼らはもはや友だちなんて関係をすっ飛ばそうとしている人も多いような気がしたんだ」
 システム的には、そうなんだろう。確実に下心から始まる出会いだし、恋人になることを目標に接するのだから。しかし、友だちという関係を挟むことも有り得るのではないか?
「友だちからでもお願いします、とかよく言うけどね」
「それも嘘だよ」
「そうなの?」
「結局その先に求めるのは恋人関係だからね。友だちという軽いワードを入れることで安心させてるんじゃないかな」
 友だちと恋人の間にあるのは一本の線ではないのかもしれない。日野は、多分そう捉えている。
「友だちと恋人は延長線にある訳ではなくて、むしろ相反するものだと考えてるってことね」
「まあ、そんな感じかな」
 でも、嘘だらけの世の中なんて嫌だ。平和な関係があっても良いじゃないか。経験者のくせに私はそう思ってしまった。
「私の話を聞いて、この世界を汚いものだと思っちゃった?」
 日野を悪い方向に導いてしまった気がして、つい確認してしまう。
「ううん」
「あ、良かった」
 否定をしてくれて安心した。もう私たちは肯定し合うだけの関係じゃない。
「欺瞞に満ちた世の中でも、たった一つの真実を確かめ合える仲を築ければ、それはすごく幸せなことなんじゃないかと、そう思えたよ」
 たった一つの真実。つまりそれは愛だろうか。いや、友情だろうか。
「じゃあ、私たちの関係って、なんなんだろうね」
 日野はそこで初めて黙りこくってしまって、何も答えなかった。
「まあ、名前なんて、つけなくてもいいよね」
 後ろに咲いている向日葵をちらりと見て、夏を感じた。
 近所にかき氷屋さんが出来たらしい。今朝、漫画を片手にソファで寝転んでいたら、母が教えてくれた。
 家でごろごろしてないでたまには外に出るのもいいんじゃない、と母はため息混じりに言った。
 要するに、かき氷を食べに行け、ということだ。漫画を置いて起き上がり、居間を出た。廊下に漂う生暖かい熱気が、容赦無く私の肌にへばりついた。
 階段をあがり、自室のクローゼットをあける。こんなに暑いのだから、ショートパンツでも履ければ涼しくて良いのだろう。しかし、生憎そのような持ち合わせはなく、一番近くにあったレースのスカートを手に取った。汗をかくと気持ち悪そうだけど、近場だから気にしないことにした。
 パジャマを脱ぎ、よく分からない英語がアーチ上に描かれたTシャツを着て、暑さ対策のキャップを被った。髪もメイクもめんどうくさくてやってられない。
 下に降りると、母が待ってましたと言わんばかりの顔でリビングに立っていた。そして千円札をくれた。お釣りは後で返してね、ということらしい。優しい。
 もらったお金を財布に忍ばせて、水筒を用意して、がま口のカバンを肩にかけた。少しの外出でもお茶がないと落ち着かない。
 玄関には、仲が良さそうに白サンダルと白スニーカーが顔を揃えていた。バランスを考えると、なんとなくスニーカーの方が合う気がしたけれど、私はそこで靴下を履いていないことに気づいた。履きに行くのが手間なのと、少しでも涼しい方が良いという安直な理由で、サンダルに足を伸ばした。行ってらっしゃい、という母のよく通った声が背中にかかった。行ってきますを言うために振り向いた。この一連の流れが、私は好きだった。
 満を持して外に出た。久しぶりな気がした。
 夏を誇張するようなアブラゼミの鳴き声。少し湿ったアスファルト。果てしなく拡がる青。身体が芯から灼かれていくようなむわっとした風の香り。私はどこか懐かしさを感じるこの季節が、嫌いではなかった。
 家から真っ直ぐに五分ほど歩くと、すぐにかき氷屋さんに着いた。あまり汗はかかなかった。
 メニュー表を見ると、イチゴ、メロン、レモン、グレープ、ピーチ、ブルーハワイなど、様々な種類のかき氷が並んでいた。
 私はなんとなくでブルーハワイを注文した。毎回どんな味か忘れてしまうけれど、行く度に味が変わっているような、そんなブルーハワイに私は惹かれていた。
「あちらにベンチがございますので、よろしければご利用くださいね」
 若いお姉さんが、店の左側を指して言った。肌は綺麗に焼かれていた。健康と美の象徴のような色黒の肌が、少し羨ましかった。
 かき氷を持ちながら、ベンチに移動した。屋根があって、日向よりは涼しそうだ。
 ベンチには青年が腰掛けていた。その青年を見て、危うく私はかき氷を落としそうになった。
「日野じゃん」
 声をかけられた日野は、顔を上げた。でも、一瞬目を丸くしただけで、以前の私のような反応はしなかった。なんか悔しい。
「八幡さん」
 日野のかき氷はレモンだった。何の悪も混じらない優しい黄色は、日野によく似合っていた。
「隣座るね?」
「いいよ」
 他に人はいないようだった。青と黄色だけが、屋根の下に佇んでいた。クラスメイトに会うならベースメイクくらいしてくれば良かったと後悔した。
「レモンにしたんだ」
 私はブルーハワイのかき氷を口に運びながら言った。
「うん。レモンの酸っぱさが好きなんだよね」
「かき氷のレモンって酸っぱくなくない?」
「まあまあかな」
 かき氷を食べていると、ここだけが夏から開放された場所のように感じた。喉がきんと冷えて、気持ちよかった。
「酸っぱいのが好きなの、知らなかった」
 酸っぱいのが好きというのは、あまり遭遇したことがないタイプだったから、私は日野の食の好みに興味を持った。
「梅干しの酸っぱさは駄目なんだけど、レモンの酸っぱさは好きかな」
「へぇー。私は梅干しの方が好き」
「八幡さんらしいね」
「だからなんなのそれ」
 半分呆れながら笑った。前も、私のことを緑っぽいとか言っていたけど、訳が分からない。訳は分からないけど、私は日野のそういう発言がわりと気に入っている。さあ、と日野は他人事のように流した。
「あらっ、お二人は知り合い? デートですか?」
 さっきのお姉さんが、中から出てきて私たちを見つけるなり、そう口にした。
 知り合い、と言うには私たちの関係は深くなりすぎていたけれど、間違ってはいなかった。ただ、断じてデートではなかった。待ち合わせもしていない。
「違います」
 日野はかき氷に口を塞がれていたので、私が否定した。
「そうなんですか。とんだ勘違いを……失礼しました」
「いえいえ、大丈夫です」
 私は努めて冷静に応えた。私たちはカップルでもなければ恋人でもない。しかし、男女が並んでかき氷を食べていたら、そのように勘違いされても仕方ないのだろう。日野はあまり気にしていないようだった。
「このあと、ご予定はあるんですか?」
 日野と顔を合わせる。数秒間の沈黙があった。予定などなかった。
「もし時間がありましたら、海へ行かれてはどうですか。電車ですぐに着きますよ」
 海。それは私が最初に日野と話したときに、小説を見られたら行く先として伝えた場所だった。ここで海へ行けば、まさかの伏線回収だ。私たちが黙っていると、お姉さんは続けた。
「海は、見るだけでも心が落ち着きます。心なしか、暑さも和らぐような気がします」
 いい夏を、と言い残してお姉さんは店の中へ戻った。ついでに空になったカップを預かってくれた。言葉遣いが綺麗なお姉さんだった。
「どうする?」
 お姉さんがしてくれた提案は、多少の交通費こそかかるものの、私にはとても魅力的に映った。だから、こうして日野に訊ねた。
「海?」
「そう」
「海って、なかなか行かないし、この機会に行ってみるのもありかも」
 きっかけを持たずに行くからこそ意味があるみたいな、エモーショナルな思考や行動力は、私にはない。その考え自体は好きではあるが。
「八幡さん、死なないでね?」
「死なないよ」
「ほんとに?」
「ほんと」
 世界が嘘で満ち溢れていても、ここで嘘をつく意味はない。
「じゃあ、行こうか。見るだけになると思うけど」
「うん」
 私たちは、水着を用意していなくても海に行けるくらいには、大人の年齢だ。
 スカートを履いてこなければ良かった。デニムのようにたくし上げることが出来ないから。

 *

 日野と駅に来るのは二回目だった。授業をさぼってゲーセンに行った日が懐かしい。今は制服じゃなくて私服だから、補導される心配はない。
 なぜなのか分からないが、私たちはなんの約束もせずに偶然落ち合って、そこから一緒に出掛けることが多い気がする。事実、日野と携帯を使って話したいとは思わないし、私はこの平和な関係が心地よかった。
 水筒が入っているせいで、バッグは少し重たかった。でも、電車を使ってまで海に行くならそれなりの時間はかかるため、結局水分は必要だ。普段の癖が功を奏した。
 交通系ICカードなんか持ってきているはずもなく、私たちは切符を買いに列に並んだ。
「お金、大丈夫?」
 日野が心配して聞いてきた。そういえば、母からお金は借りていたけど、自分のお金はどれくらいあるか見ていなかった。財布を開けると、切符を買うくらいのお金は入っていた。
「大丈夫そう」
「よかった」
 お姉さんは電車ですぐと言っていた。方向音痴な私は電車なんて久しぶりで、何分かかるかも分からない。
「ねえ日野、何分くらいかかるの?」
 日野に聞くしかなかった。
「んー三十分くらいじゃない?」
「おー、まあまあかかるね」
「田舎だから」
「たしかに」
 そこで日野は何かに気づいたのか、あっ、と零した。
「八幡さんって方向音痴って言ってたっけな」
「あ、うん」
 自転車一筋でやらせてもらってますので。
「だからわかんないんだね」
「むかつく」
 私たちは笑い合った。むかつくけど、日野がいたら安心できるのも事実だった。
「普段は一人で乗れるの?」
「乗れない」
「そっか」
「交通機関を利用するときは、慣れた人と一緒の方が良い。日野が一緒で助かるよ」
 久しぶりに日野は照れていた。

 *

 電車の中は、かなり混んでいた。乗ってからしばらくは立ったままだった。
 途中で大きな駅に止まったから、そこで一気に人が降りた。座席が空き始めたけど、同時に、すぐに埋まり始めた。
 日野が、座りな、と言って私を座らせてくれた。日野は私の前で吊り革を握って立ったままだった。
 それから私たちは特に何かを話すこともなかった。私はぼーっと日野の淡いデニムを見つめ続け、日野は体幹がないのか大きく揺られ続けていた。
 案外すぐに、電車は海を迎えた。
 改札を抜けるとそこはまさしく青だった。
 太陽の光が綺麗に海を照らしていて、きらきらと輝いているのがわかった。
「行こっか」
 日野が言った。
「行こう」
 私たちは海を目指して歩き始めた。遠のいていく電車の音が、どこか涼しかった。
 砂浜には、遠目で見ても疎らに人がいた。家族連れやカップル、男子だけの友人グループなどだ。大抵の人間が水着を着ている中、水着も着替えもない私たちは少々場違いに感じた。
 歩道を少し歩いて、砂浜に着いた。少し厚底のサンダルだから、砂はあまり入ってこなかった。やっぱりスニーカーよりサンダルの方が海っぽいな、と思った。
「日野、どうする?」
 特に何も思いつかなかったので、海を眺めながら私は聞いた。やっぱり海は綺麗だった。
「とりあえずここに座ろう。それか、もっと海の近くがいい?」
「ううん、大丈夫」
 目の前には階段があった。そこに腰を下ろした。
 ここの階段は駅から少し離れているからか、人は近くにいなかった。
 私はついて行くだけだったが、日野がわざわざここを目指して歩いてきてくれたのかもしれなかった。人混みが苦手なんて、教えていなかったのに。
「八幡さんはここ、来たことある?」
「幼稚園くらいのときに家族と来たかも。わかんないけど」
 正直覚えていない。母がそんなことを言っていた気がするから、こう答えた。
「随分と前だね」
「うん。日野は?」
「たまに来るよ」
 わざわざ海に何をしに来るのだろう。首席の日野には余暇なんてないはず。でも、ゲーセンにも週一で行くくらいだからやっぱり普通の男子高校生なんだろうなあ、と謎の親近感を覚えた。
「ここに来て何してるの?」
 学校のベンチに座っているときに吹く風より、少し生温い風が吹いていた。鼻の奥がくすぐったい。
「何もしてない。気づいたら着いてる」
「どういうこと?」
「バスと電車で学校まで行ってるんだ。だから、帰りも電車に乗る」
 初耳だった。どおりで歩き方に迷いがない訳だ。
「学校からの帰り道、ふと家に帰りたくなくなるときがあってさ。そしたら海に着いてる」
 電車に揺られていたらここに着いていて、だから寄り道感覚で降りるということだろうか。
「ちょっと、わかるかも」
「何が?」
「帰り道、家に帰りたくないっていうの」
 私も何度かそういうことがあった。自転車だからさすがに海までは行けないし、寄り道もしない。けれど、家族と喧嘩をしたとか、宿題をしたくないとか、そういう理由らしい理由も持っていないのに、なぜか家の扉が重く感じることがあった。
「海は自由だよ」
 日野は、遠くで穏やかに行ったり来たりを繰り返している漣を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「自由?」
「そう。好きな方向に揺れて、好きな時に落ち着いて、たまに怒る。そんな海を、見たくなるんだ」
 たしかに、そこには何の軋轢も諍いも存在しない。最も遠く離れた地平線は、深い藍に染まっていた。
「八幡さん、初めて話したとき、死ぬなら海に行くって言ってたじゃん?」
「言った」
 自作小説の存在が周囲に知られたら、私は死ぬと言った。それくらい避けなければならない問題ということだ。
「今、理解出来たよ」
 私は何も返さない。日焼け止めを塗っていないから肌が痛かったけど、そんなことは構わないと思った。
「僕は今まで気がつかなかったよ。海は全てを飲み込んでくれるんだね」
 全てから解放されたくなった人間は、それでも希望を求めてしまうのかもしれない。優しくて寛容で自由な海は、そんな人間さえも飲み飲んでくれる。日野の言いたいことが、何となくだけどわかった気がした。
「そうね。人は誰しも、何かに溺れているのかもね」
 溺れたいんだ。何かに溺れないと生きていけないのが人間なんだ。それはきっと小さなことでも大きなことでも良くて、縋りつけるものであれば、何だっていい。
 そして何もなくなったら最後は海で溺れたくなる。けど、今を生きる私たちには、まだ海は必要ない。
 だから、二人で海を離れた。
 コンクリートの階段から立ち上がると、スカートが薄くベージュに染まっていた。不思議と嫌悪感は抱かなかった。サンダルに入り込んだ砂も、スカートに張り付いた砂も、全部忘れたくない。
 スカートを履いてきて、良かった。
 夏休みにたまたま学校のベンチで会ったとき、日野は頭をぐるぐるさせていると言っていた。日野と同じく私も寝る前に頭を酷使していたら、気づいたときには夏休みが終わっていた。
 四時間目が終わって、昼休み。
 私はあの日以来、外のベンチに行くことはやめた。日野から風邪をひくと心配されたからだ。
 教室で昼ご飯を食べるのは何年ぶりだろう。あまりに久しぶりだったので、その空気感に居心地の悪さを感じ、箸を握る手が少し震えていた。
 でも、隣で黙々と食べる日野を見つめていたらそんな気分もどこかへと消えた。隣に日野がいるという安心感が、私を満たしてくれた。
「日野」
 話さない方が不自然だったから、日野を呼んだ。
「なに? 八幡さん」
「良かったらこれ、食べてよ。ベーコンレタス」
「え、くれるの?」
「うん。お腹いっぱいだから」
 私は弁当を日野に渡した。名付けて、タンパク質を与えて日野を太らせよう計画、だ。
「わっ、めっちゃ美味しい。ありがとう」
「良かった」
 日野から弁当を受け取る。
「美味しそうな弁当だね」
「自分で作った」
「えー、すご」
 大体が冷凍だ。誰でも作れる弁当に、なぜか日野は目をきらきらさせていた。
「八幡さんって自分で弁当作ってたんだ」
「毎日じゃないけどね」
「へぇー」
「あれっ、まさか意外とか思ってる?」
 早起きしてる時点でまあまあしっかりしてるのは伝わってたはずなのに、え、ズボラ女認定されてた?
「違う違う。僕料理出来ないから本当にすごいなって」
「あ、そういう」
「意外なんて、そんな失礼なこと思わないよ」
「そっか、ありがと」
 そこで会話はぷつんと途切れた。箸をご飯に向かわせたとき、しまった、と思った。
 忘れていた。ここは教室だ。
 後ろで固まって弁当を食べている女子たちや、日野とよくつるんでいる男子たちが、ざわざわと話し始める。勘違いをされたに違いない。
 でも、なぜか私はそれが気にならなかった。最も避けていた事態なのに、いざ目の前にすると、案外冷静でいられた。
 理由を語れば、それは多分、簡単な話じゃない。
 寝る前の夜に頭をぐるぐるさせていたときに気づいたことがある。
 私は、日野と「小説」という秘密を共有しているだけと思っていたけれど、そもそも私たちの関係自体、秘密の関係だった。友だちとも恋人とも言えないあの関係は、名前なんてつけられない関係だった。
 それに、私は日野との秘密の共有がわりと嫌いじゃなかった。小説を書いていることを知られたのは、最初はもちろん嫌だったけれど、最近は特に何も思っていない。日野は私の熱狂的なファンである故、秘密をばらしたりしないから。私は日野を信頼している。もうありえないと思っていたけれど、信頼できる人を見つけてしまった。日野なら、信頼していいと、思った。
 秘密と嘘は違う。本当は言いたいけど言えないのが秘密で、自分の都合のいいように誤魔化しているのが嘘だ。
 考えを巡らせていたら、弁当箱は空になっていた。
 手早く弁当を片付け、携帯を出す。夏休みにあのベンチで書いていた小説の続きを書くことにした。
 さっきからずっと、皆の声が鳴り止まない。何を話しているのかは、微妙に聞き取れない。私たちのこと、だろうか。私と、日野。
 別に話してくれていい。好きなだけ噂したらいいさ。
 隣を見れば、日野もたった今食べ終わったらしい。日野はどう思っているだろう。聞こえているのだろうか。聞こえていないのだろうか。
 弁当をバンダナで結んだ日野と、目が合った。反射的に逸らしてしまう。
 私が携帯を握り締めていることに気づいて、日野が近づいてくる。
「何書いてるの?」
 皆に聞こえないような小声で、日野が訊ねてきた。
「え」
「小説書いてたんでしょ?」
「まあ、うん」
 事ある毎に日野は私のことを見抜いてくるなぁ、と思った。
「指の動き見たらわかる」
「バレてたか」
「バレバレ」
 たしかに、私は迷うことなく指を動かしていた。この小説は、書くのが楽しい。
 外のベンチで昼ご飯を食べなくなったこと以外に変わったことがあるとすれば、これかもしれない。
 自他ともに認めるように、私には友だちがいない。それは今も昔も変わらない。
 だから、小説を書いてきた。誰ともカラオケに行かないし、愚痴を言い合うこともないし、慰め合うこともない。蝉が鳴き始める時間まで起き続けて、ぐちゃぐちゃになった頭を酷使して、炎天下に晒され続けたチョコレートのように苦くどろりと溶けた感情を紡いできた。私にとって小説を書くことは、ある種の救いだった。
 でも最近は、もう書かなくてもいいのかな、ということを考えるようになった。
 隣にいる日野が原因になっていたのは明らかだった。
 日野とは、なにかと一緒に出掛けることが多い。そういう時間の使い方をしていると、小説を書く時間など、なくなったのだ。
 吐きそうになりながら吐き出すような感情も、近頃はすっかり私の中から消失していた。その根源を言語化しようとすると、私と日野の関係や、今までの出来事、その他諸々が形骸化されてしまうような予感がする。それが嫌で、私は、ずっと嘘をつき続けてきた。無意識のうちに、この関係を保とうと必死になっていたのかもしれない。
 でも、この際、気持ちを整理してみるのもいいんじゃないか。私の内情をしっかり見破って上機嫌になった日野を見ていると、そんな誘惑が、暖かい湯けむりのように緩やかに立ち上ってきた。
「ねえ日野。まだ日野に教えてないこと、教えてあげようか」
 共有なんてことは出来ないから、ずっと隠してた秘密。そんなの、山ほどある。
 暴露してやろう。
 夏休みに私の頭をぐるぐるさせていた内容とは、日野のことである。
 私は日野との関係についてあれこれと考えを整理しようとした。でも出来なかった。整理なんてことが出来るほど、私は落ち着いてはいなかった。
 そして、私の小説を介した秘密の共有について、最近は特に何も思っていないなんて嘘。
 嬉しかった。褒めてもらえて、素直な気持ちを伝えてくれることが嬉しかった。日野に私の小説が読まれていることが。日野が私の小説を読んでくれていることが。とても嬉しかった。
 ゲーセンに誘ってくれた昼休みは、今も鮮明に覚えている。私はあのとき、昼休み後の五限の授業は好きではないことを理由にした。けど、本当は。本当は、五限なんてどうでもよかった。五限が嫌だから抜け出したんじゃなかった。
 ゲーセンに着いたあとは、結局メダルゲームしかやらなかった。一番奥の位置だったから、静かで居心地が良いって思ったけど。居心地が良かったのはゲーセンが静かだったからじゃない。
 かき氷屋さんで、日野の意外な食の好みを知った。酸っぱいのが好きな人が珍しいというのを理由にして訊いたけれど、本当の理由はそうじゃなかった。
 海にも行った。普通に過ごしてたら海に行くことがないからって理由を話した。でも違った。日野と同じ時間をもっと共有していたかった。方向音痴な私は、電車に慣れている日野が一緒だと助かるって言った。でも、それも、ほんとはそうじゃない。隣にいるのは日野が良かった。
 こんな私を見て、後ろで噂をされてる。日野と付き合ってるんじゃないかとか、両思いなんじゃないかとか。
 もう噂されてもいいって、思っちゃってる。ううん。噂してほしいって、思っちゃってる。
 日野は立ったまま、猫背のままで、私を見下ろしている。
 その猫背なところも好き。眼鏡がずれているところも好き。
 もう教えちゃおうか、日野。
 ゲーセンで、日野のことを友だちだ、って思おうとした。やっと友だちが出来た、って。
 でも、想いが募れば募るほど、友だちという名前をつけたくなくなった。友だちじゃだめだった。私はこの関係に違う名前をつけたくなってしまった。
 今までは、話せる相手がいないせいで溜まりまくった、どうしようもない感情を、小説に書き起こしてた。それはとてつもなくつらかった。でも、変わった。日野と出会ってから、小説を書くのが、好きになった。もう書かなくても生きていけるって思って、やめることも考えたけど、そうじゃなかった。書きたかった。
 私はこの関係を文字に起こしたかったんだ、って、気づいた。
「大丈夫だよ」
 またそうやって優しくするから。唇が変な形になってしまう。
「何を言われても大丈夫だよ」
 日野が好きなんだ。
 恋愛なんてよくわからないと思っていたけれど、それでも。
 この気持ちだけは、嘘じゃない。
「日野」
 君が何も言わずに私の言葉を待っていてくれるから。たった一つの真実を、確かめ合いたいから。
「実はね、この小説──」
 私は今日、名前のないこの関係を、卒業する。

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