あやかし白狐~恭稲探偵事務所、真実の事件ファイル~III

 二〇××年 一月月 十九日――。


 深夜二時。
 恭稲探偵事務所に訪れていた来客は一人、立腹していた。
「なんで分ってくれないんだよッ」
 話しが平行線を辿っているのか、一人掛けチェアに腰掛けていた来客がデスク前まで、勢い勇んで歩み寄る。その声音は少年のような幼さの中にも、どこか色香が含まれていた。
「理解はしている。だが、いつ何時も理解と行動が同時に動くとは限らない」
 事務所に灯りはついておらず、窓ガラスのウッドブラインドは閉め切られているため、両者の顔がよく見えない。
 だが、一人の影はオフィスデスク前にあるチェアに腰掛けられていることと、その独特な声音からして、この探偵事務所のオーナーである恭稲《くとう》白《つぐも》だろう。


「じゃぁ、その理解と行動が一致するのは、一体いつになるんだよ⁉ もう時間がないんだ」
「さぁな。時間軸など人によって違う。一概には言えない」
 優しく響く低音の中に重厚感のあるアンティークのような深く切ない色香を持つ声音は、一人冷静だった。バイオリンのD線+威圧感が含まれるような音や言葉にはブレがなく、来客の感情に飲み込まれることが全くない。


「そりゃそうだ。俺にとってこの数年間は、何十年と経過しているようだよ。一体いつになったら方が付くんだか」
 不貞腐れた来客は、どこか吐き捨てるように言った。


「歯車はすでに動き出している」
「それって、あそこに隠している“何か”のこと?」
 来客は視線を動かし、智白の部屋の右隣を指す。そこには部屋はなく、ただの白壁があるだけだが、来客は何かを感じ取っているらしい。

「フッ」
 白は何も答えず鼻で笑う。心なしかその音は明るい。


「……何を隠しているかは知らないですけど、この世界で妖力が弱まっているんじゃないんですか? 俺にも分かるだなんて」
 一度感情を表に出して幾分か落ち着きを取り戻したのか、来客の口調に冷静さが戻る。
「うつけものよ」
 白は小馬鹿にしたように鼻で笑う。刹那、来客とその場所に視線を移す。
 来客が感じ取った“何か”と言うのは、依頼契約を交わしている碧海《あおうみ》聖花《きよか》という少女のことだろう。と言っても、ただの少女ではない。


 半黒妖《はんこくよう》狐《こ》であり、現在黒妖狐達に命を狙われている少女――ココに匿われてから幾分かの年月が経ち、少女と言うには少し違うかもしれない。
 全ての事の始まりは、今から四年前のこと――。


  †

 命を狙われて途方にくれていた碧海聖花に対し白は、恭稲探偵事務所へと誘う動画を聖花に送った。
 聖花は自らの力で恭稲探偵事務所へと訪れ、白と契約を交わした。
 聖花の瞳と脅迫状の内容からして、聖花が黒妖弧との繋がりを持つモノだと悟った白は、犯人を泳がせ深く暴こうとした。
 と同時に、自己犠牲的だった碧海聖花の心の成長を促しながらも、聖花と聖花の大切な人達の命を守り、脅迫状を差し出してきた犯人である黒崎玄音を捕まえ、ひとまずは事件を一件落着させた。
 だが聖花は契約違反を犯してしまい、白の監視下に置かれることとなる。と言っても、聖花に大きな負担がかかることはなかった。
 聖花に課されたことは、両耳にピアスをつけて日々を過ごす事だけだったのだから。もちろん、そのピアスはただのアクセサリーではない。
 大振りのスワロフスキーがゴールドの丸い枠に埋め込まれている貼るピアスの左耳は、白と連絡が取れるトランシーバーの役割を果たし、右耳のピアスは監視カメラ+人の体温が目視できるサーモグラフィ機能がついている。
 白はそのピアスから送られてくる情報データーを監視していただけで、再び契約を交わす日まで、聖花と一切の接触をしなかった。


 その後再び契約を交わしたのは、今から三年前のこと。

 あの事件が終焉を迎えた一年間は平穏に過ごしていた聖花であったが、再び黒妖狐側のモノ達から命を狙われだした。誰かが聖花をホームに突き落としたことが幕開けコール音となった。
 先手を打っていた白は、西条春香扮する白姫と、智白の腹違いである弟である白樹《はくじゅ》を聖花の護衛に付かせ、聖花と周りの者達の身の安全を守らせた。

 人の言葉を話す鴉が聖花の前に現れ、聖花の感情を揺さぶり、碧海家をチョコレートを使い毒殺しようと試みた。

 だが聖花は黒崎の事件で白から与えられた知恵と、アーモンド種を嗅ぎ取るという強い嗅覚を使い、聖花は危機を未然に防ぐことに成功した。

 あやかし鴉からの危機を智白が救い、聖花を再び恭稲探偵事務所に訪れさせた。そして、聖花は新たなる契約を交わすこととなる。
 但し、一度目の契約の際に黒崎に騙されていた聖花は、親友の愛莉を助けるために第五の条件、【これらの条件を罰した場合、恭稲探偵事務所なりの対処をさせてもらう。そこに対し、依頼者の命の保証はない。求める鍵の受け取りを放棄したとみなし、鍵を与えるも与えないも恭稲探偵事務所側の権利とみなす】というものを破っていたため、一度目の契約内容とは少し異なるものとなった。


[碧海聖花は契約終了までのあいだ、恭稲白の駒となる]
 という条件が追加されたのだ。
 その後、聖花は自身と両親が義理の両親であったこと。自身が黒妖狐と人間のあいだに産まれた半黒妖弧であること。半妖狐狩りがある限り、聖花は今後も命を狙われ続けるだけでなく、周りの者達にも危害が及ぶと、数々の真実を視ることとなった。
 聖花は自身と大切な人達の身を守るため、白の提示する案を全て飲み込むことによって、恭稲探偵事務所側のモノ達によって守られることとなった。


【依頼者である碧海聖花の命を狙う主犯が見つかり、安全に生活出来るまでのあいだ、碧海聖花と碧海聖花が大切に思う者達を守ろう。
 それと並行して碧海聖花の本当の両親についての調査を行う。
 その期間は、主犯が見つかり、根本を削除するまでの間とする】
 この契約を果たすため、白は聖花を自身がいる恭稲探偵事務所へ招き入れた。


[ 一 碧海聖花と周りの者達を守護するため、本日より二日間白姫が碧海家に同居する。
 二 二日後に碧海聖花は何者かの手によって殺害されたことにする。碧海聖花の死体を傀儡にし、碧海聖花は白姫と共にこの場所に戻ってこい。
 三 碧海聖花の儀埋葬が終了次第、契約終了するまでの期間、碧海聖花が大切に思う者達には守護者をつける。
 四 碧海聖花は恭稲探偵事務所に再び訪れた瞬間から三年間、恭稲探偵事務所から一歩も外へは出さない]
 という形で依頼を遂行するため――。



  †



「?」
 そんなことになっているなど、露をも知らぬ来客は、頭の上にクエスチョンマークを浮かべるばかりだった。
「この私の妖力が易々と弱まるとでも、本気で思っているのか?」
 いつもよりも半音下がる声音に、来客のシルエットが硬直する。
「ぃ、いえ」
 畏怖しているのか、来客の声音が裏返る。
「故意だ」
「どういうことですか?」
 来客は意味が分からぬのか、怪訝な顔で問う。
「まだ知らなくともよい。時は満ちていない」
「先程は時間軸がないと仰っていたように思いますが?」
 来客は少しムッとしたように反論する。


「故意に産み出された外側の時間と、内側の時間は似て非なるもの」
「……はぁ。取り合えず今日の所は帰りますけど、本気で考えていて下さいね。もう俺達には時間がないんですから」
 白の言葉の真意を理解できないとばかりに小さな溜息を溢す来客は、白に背を向けた。
「……何故、自ら声を上げようとは思わない」
 白は来客の背に向かい、ゆっくりとそう問いかける。
「俺がお呼びじゃないことくらい、知っているはずですよね? それに、それが古来からの仕来りなんですよ」
 背を向けたままそう答える来客は、恭稲探偵事務所を後にした。



「相も変わらず、古臭く固いことを」
 一人残された白は、恭稲探偵事務所の出入り口扉を見つめ、呆れの滲む溜息を溢す。
 白は仕事デスクの左隣りにある赤いベアロ素材の背もたれが高貴な印象を与えているアンティークチェアに移り、長い足を組み座る。
「――」
 何かを思案するように、白はゆっくりと瞼を閉じる。
 閉じていた瞼を静かに開けた白は、目の前にあるミディアムロースト色をした円形サイドテーブルに置いてあるチェス盤を、ほんのしばし見つめた。
 チェス盤上で繰り広げられていた試合展開は、三年前と全くもって変化していなかった。
 両者キングは変わらず、元の配置に置かれている。
 白板のチェス。
 キングの左隣に白のルークがついている。
 二のdに白のクイーン。その隣にはクリスタルのポーン。二のfに白のルーク。
 三のaに白のポーン。その隣にライトローストのポーン。
 三のdに白のナイト。その隣に白のビショップ。三のgにライトロースト色のナイト。三のhにライトローストのビショップ。四のhに白のポーン。
 そして何故か、二のcに、フレンチロースト色をしたポーンが倒れていた。
 黒板のチェスも、変わらず不思議な配置を見せている。
 八のeに黒のクイーン。七のfに黒のルーク。七のeに黒のビショップ。七のaに黒のナイトが倒れ、五のcにも黒のポーンが倒れていた。
 他の駒はチェス盤上には置かれていない。チェス盤の傍に、他の駒が置かれているわけでもない。
「これが、新たなる物語が始まりを告げるコールとなるか」
 一人そう呟き、Cの3にいたルークを、CとDの真ん中に置いた。本来のチェスの試合ならあり得ない動きだ。
 その後、恭稲探偵事務所に来客や依頼が訪れることはなく、朝を迎えることとなった――。
 二十××年 一月月 二十日――。



 深夜一時。
 英国調で統一された家具達はベッドが二つと各サイドテーブル。壁に付けている勉強机セットが二つ設置されているシンプルな八畳の洋室。ここは碧海聖花が丸三年間身を隠していた恭稲探偵事務所にある一室。
 その一室で暮らしている聖花は真夜中にも関わらず、ご機嫌なバレリーナのように回転をして、部屋の中で遊んでいた。
 鎖骨下で切り揃えられていた黒髪は胸下辺りまで伸び、まだあどけなさが残っていた顔立ちは大人びている。
 三年前と雰囲気が変わってはいるが、そのハリと潤いのある少し褐色した健康的な肌や、大きなアーモンド型の目元。濃いオレンジ色に赤黒い血液を混ぜたような瞳は健在だった。
「たのしみ~」
 聖花はスぺサルタイトガーネット色の瞳をキラキラと輝かせ続ける。
 けして気が狂ったわけではない。
 今日は三年振りに聖花が外の世界に出る日なのだ。
「ご機嫌ですね~」
 部屋をシェアしている白(しら)姫(き)は、自身専用の机の上で頬杖をしながら聖花を見つめ、優しく微笑む。
 シースルーバングの前髪。いつもは大き目のウェーブがかかった白髪をツインテールに結っているが、今は下ろしていて普段と印象が変わる。
 大きな瞳にくっきり二重とぷっくりした涙袋。綺麗なEラインを持つ鼻は小鼻が小さく、ぷっくりした唇と小顔がどこかあどけなさを感じさせる。
 完全なる左右対称の顔を持つ可愛らしくも美しいお人形のような少女の瞳は、珍しい濃い赤紫色をしており、パープライトを彷彿とさせる。その姿は三年前の姿と変わりはない。
当たり前だ。この女性は人ではない。二十五歳程の見目をしていながら、一〇七五才の純血白妖(はくよう)狐(こ)なのだから。
「そりゃ~、三年振りやもん。不謹慎かも知らへんけど、外出できるんが嬉しいんよ」
「ううん。聖花はあの日から三年間もの間、この一室でよく耐えたよ」
 あの日から。というのは、聖花が恭稲探偵事務所で暮らし始めた日のことだろう。
 黒妖(こくよう)狐(こ)のモノに命を狙われ続ける聖花を、実体する恭稲探偵事務所へと運んできたのは、白姫だった。
 聖花の人生は、ここに訪れた日から大きく破壊された。


  †

 今から三年前のこと。

――碧海聖花は数日後、何者かの手によって殺害される。
――ど、どういうことですかッ? 分かるように説明して下さい。
 聖花は白から告げられた唐突な殺害予言に焦り、慌てて説明を求めた。
―― 一 碧海聖花と周りの者達を守護するため、本日より二日間白姫が碧海家に同居する。
 二 二日後に碧海聖花は何者かの手によって殺害されたことにする。碧海聖花の死体を傀儡にし、碧海聖花は白姫と共にこの場所に戻ってこい。
 三 碧海聖花の儀埋葬が終了次第、契約終了するまでの期間、碧海聖花が大切に思う者達には守護者をつける。
 四 碧海聖花は恭稲探偵事務所に再び訪れた瞬間から三年間、恭稲探偵事務所から一歩も外へは出さない。
 ざっとこのような感じだ。理解できたか?
――話は分かりましたが、理解しがたいです。どうして私を死亡したことにするんですか? そんなの、二人が悲しむ。愛莉だって……。
――なら、このままずっと大切な者達に命の危機を晒し続けるのか。もしくは、その者達の目の前で自身の正体が晒されることや、黒妖弧に八つ裂きにされた姿をさらすのか? どちらが酷になるか考えれば分かるはずだ。あちら側の手で本当に死別するか、こちら側の手で義死別するか――どちらに光を見出せる?
 白は蠱惑的な笑みを浮かべ、小首を傾げて見せる。聞かなくとも聖花の答えは分かっていた。
――こ、後者でお願いします。その後のことは、恭稲さんに従います。今の私が手に負える問題ではありません。
――賢明な選択だな。後はこちら側が動く。
 そんなやり取りがあった後《のち》、今に至っている聖花だ。
 崩壊した後の長い夜が今日で終わりを迎え、止まっていた聖花の時間が再び動き出そうとしているのだ。
♪コンコンコン――。
 部屋にノック音が響く。聖花は姿勢を正して部屋の出入り口扉に向き直り、白姫はスッと立ち上がって視線を扉に移す。


「時間です」
 ヴァイオリンのⅮ戦からA線のような柔らかな色香と共に、どこか熱を感じる声音が二人の耳に届く。
「な~んだ。パパか」
 白姫はその声の主が自身の父である智白だと気がつき、期待損だとばかりに、また背もたれのついたアンティーク調の椅子に座り直す。
 聖花も聖花で、ほっと胸を撫で下ろしていた。
「入ってもよろしいですか?」
「どうぞ」
 聖花が智白の声に応える。
 白姫はつまらなそうに、人差し指で自身の毛先をクルクル巻いて遊んでいる。


 カチャ。
 ふわふわと柔らかなパーマをかけている甘栗色の髪型。シャープなフェイスライン。目尻などに皺があるものの、白に負けず劣らずな美顔にヘーゼル色の瞳を持つ長身の男性が、ドアノブ音と共に姿を現す。
「ま~た変な変装してる」
 白姫は自身の父である智白をからかうように言った。
「貴方も変装していたでしょう」
 四年前に聖花の護衛を兼ね、西条春香として高校に潜入していたことを諭すように、智白は溜息交じりに言った。
「それが白様のご要望だったからね。中々似合っていたでしょ?」
 西条春香は、聖花が通っていた百合泉乃中高等学園に転校してきた生徒であり、聖花の一つ後輩にあたる。
 その姿は、まつ毛にかかるギリギリの前髪の内巻きミディアムヘアーに小柄で色白の肌。ビー玉のように丸い瞳。透明感のある肌。やや充血した白目が少し気になる瞳は、ブラウンの色味が強い黒目――というように、白姫本来の姿とは全く異なっていた。


「そうですね。中々の変装具合だったんじゃないんですか」
「そうでしょうそうでしょう。クラスメイトや聖花達から一年以上ものあいだ、本当の姿を知られなかったんだもの」
「知られたら一大事ですよ」
「まぁね。でもその時は、パパ達が守ってくれるんでしょう?」
「頼り過ぎるのは良くありませんよ。全校生徒の記憶操作は手間がかかるんです」
「……あの~」
 完全に蚊帳の外となってしまっていた聖花は、恐る恐る声をあげる。
「嗚呼、失礼」
 智白は目的を思い出したとばかりに声を上げ、軽い咳ばらいを一つ溢し、聖花に歩み寄る。
「いえ」
 聖花は問題がないことを、小さく首を左右に振って示した。
「三年振りに外の世界に出ますが、調子はいかがですか?」
「元気もりもりです」
 聖花は顔の前で両手でガッツポーズを作り、調子の良さをアピールした。
「それはよかったです。それにしても……相変わらずの語彙力なさですね」
「そちらも、相変わらずの辛口ですね」
「そちらは、反抗的になってしまいましたね。遅れてやってきた反抗期ですか?」
「まさか」
 聖花は小さく首を竦め、くすくすと笑顔を見せる。

 この三年間、聖花の保護者代わりとして多くのコミュニケーションを取ってきた智白だ。二人の関係性は以前より友好的となり、智白に対する聖花の緊張感は和らいでいた。と言っても、敬語や標準語は変わっていないが。
 白との関係性や距離感に至っては、相も変わらない。当たり前だ。聖花と白は三年前の二十××年 四月 七日以降、一度も顔を合わせていないのだから。


「まぁ、元気ならそれで結構。白様よりこれを――」
 智白はそう言って、スーツの内ポケットから例の白狐ストラップを聖花に差し出す。丁度女性の片手に納まるちびキャラ風な作りをしていた。
「うわぁ。懐かしい……」
 聖花は小さな歓声を上げながら、白狐ストラップを両手でそっと包み込むように受け取った。
 耳と尻尾の先が赤く彩られ、尻尾はモフモフと太く、麿は麻は~。とでも言いだしそうな眉毛。まん丸い瞳と、ほんのり桃色に色づいた頬がなんとも愛くるしい。
 素材は縮緬で出来ており、中には綿かなにか柔らかいモノが入っているのか、触り心地のよいモフモフさが安心感を与えてくれるぬいぐるみ白狐ストラップは、ただ可愛いだけでない。
 依頼者の身が危ぶまれた場合のみ、恭稲白の姿に変化して、依頼者を守ってくれると言う心強いアイテムだ。
「……やっぱり、私が外に出ることは危険なんですね」
「そんなに心配なさらなくとも大丈夫です。特に今日においては、なんの問題もないでしょう。こちらのアイテムも万が一に備えてのものです。用心棒代わりにでも思っておきなさい」
 先程までのご機嫌な雰囲気から一転して、がくりと両肩を落として不安げにする聖花を励ますように、そう言葉をかける智白の声は何処か優しい。
「そうそう。なんてたって私がついているからね。私の戦闘能力、パパより強いんだから」
 白姫は得意げに胸を張り、ふふっふと笑う。
「戦闘能力だけでは、どうにもならないこともあるかと思いますけどね」
「だからパパが行くんでしょ? 保護者兼護衛として」
「よく分かっているじゃありませんか」
 智白はわざとらしく目を見開いて見せる。
「やなかんじ~。ところで、白様はご一緒しないの?」
「しませんよ」
「まぁ、そりゃそうよね。一応、お仕事のお時間だし」
「一応とはなんですか、一応とは」
 智白は娘の言い草を咎めるように睨む。
「あぁ~。せっかく白様と夜のデートが出来ると思ったのになぁ」
 そんな父の咎めや睨みなどなんとも思っていなそうな白姫は、どこか子供ぽい口調でそう言って口を尖らせる。白への愛は子まで受け継がれているようだ。
「そんなことあるわけがないでしょう。寝言は眠ってから言いなさい」
「昔はよく遊んでくれていたじゃない」
「そんな大昔のことを持ち出さないで下さい」
「良いじゃない別に。ほんの一〇七〇年前のことじゃない」
 白姫の言葉に聖花は思わずぎょっとする。
「どこがほんの前のことなんですか」
 智白は首を竦め、目の前で驚く聖花には、「貴方も貴方で、何故そんなに驚く必要があるのですか。前にお伝えしたはずですけど……もう忘れてしまったんですか?」と、呆れ口調で言う。
「ぉ、覚えていますよ。あんな衝撃的な話を、そんな簡単に忘れらるわけないじゃないですか」
 聖花はそう食い気味で答え、智白から色々なことを教えてもらった時の記憶を脳内で思い起させる。

――私達の年齢ですが、人間年齢×三六年と計算して下さい。私であれば、五十三×三十六で千九百八歳となります。白様であれば、二十八×三十六で一〇〇八歳となります。

――私達は百歳を超えたあたりから年々妖力が増し、出来ることが増えてゆきます。ただし、全ての妖子の戦闘力が上がるわけではありません。個が持つ能力が開花されていくというイメージです。妖力が強ければ強い者にほど、右腕となる妖子が傍にいることが多いです。また、妖弧は千歳になると天狐というものなり、莫大な妖力を得ます。それにより、私達はずっと人間として生活することが可能になります。

――半妖弧は見た目年齢×十八歳となります。半妖弧は元より人間の姿で産まれ、一生人間の姿で過ごすことが出来ます。その代わり、妖子としての力は乏しいです。
 人間として並外れた身体能力か学の力に特化した力を持つか、なんらかの才能に恵まれています。人間の世界で言う“天才”や“神童”と言われる方々に多く見受けられているようです。ただ違うのは瞳の色。
 人間世界に紛れている半妖狐達は、その瞳を隠し生活をしています。そうしなければ、人間世界に馴染めないからです。

 そう智白から教えられたのは、今から三年前のこと。
 聖花は他にも、半妖弧狩りのことも教えられていた。

 本当の自分のことについては何も知らずに暮らしていた聖花の世界と、本当の自分が何者であるかを知った聖花の世界とでは、ずいぶんと様変わりしてしまった。
 聖花はもうどんなに願っても、何も知らずに笑って平穏に暮らしていた日々や、何も知らずにいた時の自分には戻れない。一度でも知恵を入れてしまえば、ソレを知らなかった自分は消える。だからこそ、自身に取り入れる知恵を軽視してはならないのだろう。


「覚えていたようで何よりです。今後は更なる知恵を入れ込むことになるでしょうから、脳内記憶の容量を上げ、情報処理を的確に行なって頂きたいものです」
「他にはどんな知恵を?」
「それは、また追々。では、私は先に行って待っていますので。また後ほど」
 智白はそう言うだけ言うと、二人に背を向け部屋を後にした。
 聖花は困り眉で小さな息を吐く。
「面倒臭いパパでごめんね。今伝えないということは、タイミングが来ていないってことだと思うから、あまり気にしないでいて」
 白姫はそう言いながら聖花に歩み寄る。
「面倒な方とは思ってへんよ」
 聖花は首を左右に振って否定する。
「そう? ならいいけど……。大体パパって口悪いし、毒舌だし、面倒だし、白様命だし、いつも白様を独り占めしているし、厳しいし、堅物だし、人間界の素敵な物達に目もくれ――ぁ」
「!」
 苦笑いを浮かべながら耳を傾けている聖花に気づいた白姫は、小さく声を上げる。
「聖花。今なんか失礼なこと思っていたでしょ?」
「いや……まぁ。ちょっと――」
 白姫も父に負けず劣らずな散々な物言いだと感じた聖花であるが、そっと言葉を呑み込む。
「きよか~。言葉は飲み込むための飲料じゃなくて、人とコミュニケーションを取る溜めのものだよ。もっと思ったことを口にしてくれたらいいのに。愛莉先輩相手みたいにさ。こぉ~さ、リズムとテンポを大切にさ~あ。愛の漫才を繰り広げましょうよ」
「……私、別に愛莉と漫才していた覚えはあらへんけど?」
「そうなの?」
 白姫は意外そうにきょとんとする。
「うん」
「な、なるほど。あれは自然漫才がなされていたのね。関西のコミュニケーションは奥深いわ」
 白姫は左拳を口元に当てながら、ブツブツと勝手な解釈を始める。
「いや、うちは別に漫才していたつもりもあらへんけど。そう見えていた一旦は、愛莉の個性が光っていただけやと思う。うち一人だけやったら、誰も笑かさられへんと思うねん」
「愛莉先輩は色々別角だったと思うけど、聖花は人を笑顔に出来ていると思う。少なくとも、私は聖花と一緒にいられて、毎日話せて、笑顔になれているよ」
 そう言って聖花に微笑む白姫は、掌の指先を二時の方角に向けながら突き出し、何かを握るように七時の方向に掌を下ろす。その瞬間、いつの間にか白姫の手中に例の薙刀が握られていた。
 白姫にとって薙刀は相棒だ。武器にもなるし盾にもなる。
「ありがとう、白姫。私も白姫のおかげで、毎日笑顔になれているし、寂しくあらへんよ」
「少しでも聖花の笑顔の元になれているならよかった。聖花、手を」
 と微笑む白姫は、薙刀を持っていない右手の平を聖花に見せる。
「はい」
 聖花は差し出された手の平にそっと自身の左手を乗せた。
 白姫は聖花の手を握ったまま、薙刀で宙に円を描く。
「汝、我が望みの地へと送り届けたし」
 白姫がそう唱えた瞬間、二人は光の柱に包まれ、その場から姿を消した。
 二十××年 一月月 二十日――。



 深夜一時。
 英国調で統一された家具達はベッドが二つと各サイドテーブル。壁に付けている勉強机セットが二つ設置されているシンプルな八畳の洋室。ここは碧海聖花が丸三年間身を隠していた恭稲探偵事務所にある一室。
 その一室で暮らしている聖花は真夜中にも関わらず、ご機嫌なバレリーナのように回転をして、部屋の中で遊んでいた。
 鎖骨下で切り揃えられていた黒髪は胸下辺りまで伸び、まだあどけなさが残っていた顔立ちは大人びている。
 三年前と雰囲気が変わってはいるが、そのハリと潤いのある少し褐色した健康的な肌や、大きなアーモンド型の目元。濃いオレンジ色に赤黒い血液を混ぜたような瞳は健在だった。
「たのしみ~」
 聖花はスぺサルタイトガーネット色の瞳をキラキラと輝かせ続ける。
 けして気が狂ったわけではない。
 今日は三年振りに聖花が外の世界に出る日なのだ。
「ご機嫌ですね~」
 部屋をシェアしている白(しら)姫(き)は、自身専用の机の上で頬杖をしながら聖花を見つめ、優しく微笑む。
 シースルーバングの前髪。いつもは大き目のウェーブがかかった白髪をツインテールに結っているが、今は下ろしていて普段と印象が変わる。
 大きな瞳にくっきり二重とぷっくりした涙袋。綺麗なEラインを持つ鼻は小鼻が小さく、ぷっくりした唇と小顔がどこかあどけなさを感じさせる。
 完全なる左右対称の顔を持つ可愛らしくも美しいお人形のような少女の瞳は、珍しい濃い赤紫色をしており、パープライトを彷彿とさせる。その姿は三年前の姿と変わりはない。
当たり前だ。この女性は人ではない。二十五歳程の見目をしていながら、一〇七五才の純血白妖(はくよう)狐(こ)なのだから。
「そりゃ~、三年振りやもん。不謹慎かも知らへんけど、外出できるんが嬉しいんよ」
「ううん。聖花はあの日から三年間もの間、この一室でよく耐えたよ」
 あの日から。というのは、聖花が恭稲探偵事務所で暮らし始めた日のことだろう。
 黒妖(こくよう)狐(こ)のモノに命を狙われ続ける聖花を、実体する恭稲探偵事務所へと運んできたのは、白姫だった。
 聖花の人生は、ここに訪れた日から大きく破壊された。


  †

 今から三年前のこと。

――碧海聖花は数日後、何者かの手によって殺害される。
――ど、どういうことですかッ? 分かるように説明して下さい。
 聖花は白から告げられた唐突な殺害予言に焦り、慌てて説明を求めた。
―― 一 碧海聖花と周りの者達を守護するため、本日より二日間白姫が碧海家に同居する。
 二 二日後に碧海聖花は何者かの手によって殺害されたことにする。碧海聖花の死体を傀儡にし、碧海聖花は白姫と共にこの場所に戻ってこい。
 三 碧海聖花の儀埋葬が終了次第、契約終了するまでの期間、碧海聖花が大切に思う者達には守護者をつける。
 四 碧海聖花は恭稲探偵事務所に再び訪れた瞬間から三年間、恭稲探偵事務所から一歩も外へは出さない。
 ざっとこのような感じだ。理解できたか?


――話は分かりましたが、理解しがたいです。どうして私を死亡したことにするんですか? そんなの、二人が悲しむ。愛莉だって……。


――なら、このままずっと大切な者達に命の危機を晒し続けるのか。もしくは、その者達の目の前で自身の正体が晒されることや、黒妖弧に八つ裂きにされた姿をさらすのか? どちらが酷になるか考えれば分かるはずだ。あちら側の手で本当に死別するか、こちら側の手で義死別するか――どちらに光を見出せる?
 白は蠱惑的な笑みを浮かべ、小首を傾げて見せる。聞かなくとも聖花の答えは分かっていた。


――こ、後者でお願いします。その後のことは、恭稲さんに従います。今の私が手に負える問題ではありません。

――賢明な選択だな。後はこちら側が動く。


 そんなやり取りがあった後《のち》、今に至っている聖花だ。
 崩壊した後の長い夜が今日で終わりを迎え、止まっていた聖花の時間が再び動き出そうとしているのだ。
♪コンコンコン――。
 部屋にノック音が響く。聖花は姿勢を正して部屋の出入り口扉に向き直り、白姫はスッと立ち上がって視線を扉に移す。


「時間です」
 ヴァイオリンのⅮ戦からA線のような柔らかな色香と共に、どこか熱を感じる声音が二人の耳に届く。
「な~んだ。パパか」
 白姫はその声の主が自身の父である智白だと気がつき、期待損だとばかりに、また背もたれのついたアンティーク調の椅子に座り直す。
 聖花も聖花で、ほっと胸を撫で下ろしていた。
「入ってもよろしいですか?」
「どうぞ」
 聖花が智白の声に応える。
 白姫はつまらなそうに、人差し指で自身の毛先をクルクル巻いて遊んでいる。


 カチャ。
 ふわふわと柔らかなパーマをかけている甘栗色の髪型。シャープなフェイスライン。目尻などに皺があるものの、白に負けず劣らずな美顔にヘーゼル色の瞳を持つ長身の男性が、ドアノブ音と共に姿を現す。
「ま~た変な変装してる」
 白姫は自身の父である智白をからかうように言った。
「貴方も変装していたでしょう」
 四年前に聖花の護衛を兼ね、西条春香として高校に潜入していたことを諭すように、智白は溜息交じりに言った。
「それが白様のご要望だったからね。中々似合っていたでしょ?」
 西条春香は、聖花が通っていた百合泉乃中高等学園に転校してきた生徒であり、聖花の一つ後輩にあたる。
 その姿は、まつ毛にかかるギリギリの前髪の内巻きミディアムヘアーに小柄で色白の肌。ビー玉のように丸い瞳。透明感のある肌。やや充血した白目が少し気になる瞳は、ブラウンの色味が強い黒目――というように、白姫本来の姿とは全く異なっていた。


「そうですね。中々の変装具合だったんじゃないんですか」
「そうでしょうそうでしょう。クラスメイトや聖花達から一年以上ものあいだ、本当の姿を知られなかったんだもの」
「知られたら一大事ですよ」
「まぁね。でもその時は、パパ達が守ってくれるんでしょう?」
「頼り過ぎるのは良くありませんよ。全校生徒の記憶操作は手間がかかるんです」
「……あの~」
 完全に蚊帳の外となってしまっていた聖花は、恐る恐る声をあげる。
「嗚呼、失礼」
 智白は目的を思い出したとばかりに声を上げ、軽い咳ばらいを一つ溢し、聖花に歩み寄る。
「いえ」
 聖花は問題がないことを、小さく首を左右に振って示した。
「三年振りに外の世界に出ますが、調子はいかがですか?」
「元気もりもりです」
 聖花は顔の前で両手でガッツポーズを作り、調子の良さをアピールした。
「それはよかったです。それにしても……相変わらずの語彙力なさですね」
「そちらも、相変わらずの辛口ですね」
「そちらは、反抗的になってしまいましたね。遅れてやってきた反抗期ですか?」
「まさか」
 聖花は小さく首を竦め、くすくすと笑顔を見せる。

 この三年間、聖花の保護者代わりとして多くのコミュニケーションを取ってきた智白だ。二人の関係性は以前より友好的となり、智白に対する聖花の緊張感は和らいでいた。と言っても、敬語や標準語は変わっていないが。
 白との関係性や距離感に至っては、相も変わらない。当たり前だ。聖花と白は三年前の二十××年 四月 七日以降、一度も顔を合わせていないのだから。


「まぁ、元気ならそれで結構。白様よりこれを――」
 智白はそう言って、スーツの内ポケットから例の白狐ストラップを聖花に差し出す。丁度女性の片手に納まるちびキャラ風な作りをしていた。
「うわぁ。懐かしい……」
 聖花は小さな歓声を上げながら、白狐ストラップを両手でそっと包み込むように受け取った。
 耳と尻尾の先が赤く彩られ、尻尾はモフモフと太く、麿は麻は~。とでも言いだしそうな眉毛。まん丸い瞳と、ほんのり桃色に色づいた頬がなんとも愛くるしい。
 素材は縮緬で出来ており、中には綿かなにか柔らかいモノが入っているのか、触り心地のよいモフモフさが安心感を与えてくれるぬいぐるみ白狐ストラップは、ただ可愛いだけでない。
 依頼者の身が危ぶまれた場合のみ、恭稲白の姿に変化して、依頼者を守ってくれると言う心強いアイテムだ。
「……やっぱり、私が外に出ることは危険なんですね」
「そんなに心配なさらなくとも大丈夫です。特に今日においては、なんの問題もないでしょう。こちらのアイテムも万が一に備えてのものです。用心棒代わりにでも思っておきなさい」
 先程までのご機嫌な雰囲気から一転して、がくりと両肩を落として不安げにする聖花を励ますように、そう言葉をかける智白の声は何処か優しい。
「そうそう。なんてたって私がついているからね。私の戦闘能力、パパより強いんだから」
 白姫は得意げに胸を張り、ふふっふと笑う。
「戦闘能力だけでは、どうにもならないこともあるかと思いますけどね」
「だからパパが行くんでしょ? 保護者兼護衛として」
「よく分かっているじゃありませんか」
 智白はわざとらしく目を見開いて見せる。
「やなかんじ~。ところで、白様はご一緒しないの?」
「しませんよ」
「まぁ、そりゃそうよね。一応、お仕事のお時間だし」
「一応とはなんですか、一応とは」
 智白は娘の言い草を咎めるように睨む。
「あぁ~。せっかく白様と夜のデートが出来ると思ったのになぁ」
 そんな父の咎めや睨みなどなんとも思っていなそうな白姫は、どこか子供ぽい口調でそう言って口を尖らせる。白への愛は子まで受け継がれているようだ。
「そんなことあるわけがないでしょう。寝言は眠ってから言いなさい」
「昔はよく遊んでくれていたじゃない」
「そんな大昔のことを持ち出さないで下さい」
「良いじゃない別に。ほんの一〇七〇年前のことじゃない」
 白姫の言葉に聖花は思わずぎょっとする。
「どこがほんの前のことなんですか」
 智白は首を竦め、目の前で驚く聖花には、「貴方も貴方で、何故そんなに驚く必要があるのですか。前にお伝えしたはずですけど……もう忘れてしまったんですか?」と、呆れ口調で言う。
「ぉ、覚えていますよ。あんな衝撃的な話を、そんな簡単に忘れらるわけないじゃないですか」
 聖花はそう食い気味で答え、智白から色々なことを教えてもらった時の記憶を脳内で思い起させる。

――私達の年齢ですが、人間年齢×三六年と計算して下さい。私であれば、五十三×三十六で千九百八歳となります。白様であれば、二十八×三十六で一〇〇八歳となります。

――私達は百歳を超えたあたりから年々妖力が増し、出来ることが増えてゆきます。ただし、全ての妖子の戦闘力が上がるわけではありません。個が持つ能力が開花されていくというイメージです。妖力が強ければ強い者にほど、右腕となる妖子が傍にいることが多いです。また、妖弧は千歳になると天狐というものなり、莫大な妖力を得ます。それにより、私達はずっと人間として生活することが可能になります。

――半妖弧は見た目年齢×十八歳となります。半妖弧は元より人間の姿で産まれ、一生人間の姿で過ごすことが出来ます。その代わり、妖子としての力は乏しいです。
 人間として並外れた身体能力か学の力に特化した力を持つか、なんらかの才能に恵まれています。人間の世界で言う“天才”や“神童”と言われる方々に多く見受けられているようです。ただ違うのは瞳の色。
 人間世界に紛れている半妖狐達は、その瞳を隠し生活をしています。そうしなければ、人間世界に馴染めないからです。

 そう智白から教えられたのは、今から三年前のこと。
 聖花は他にも、半妖弧狩りのことも教えられていた。

 本当の自分のことについては何も知らずに暮らしていた聖花の世界と、本当の自分が何者であるかを知った聖花の世界とでは、ずいぶんと様変わりしてしまった。
 聖花はもうどんなに願っても、何も知らずに笑って平穏に暮らしていた日々や、何も知らずにいた時の自分には戻れない。一度でも知恵を入れてしまえば、ソレを知らなかった自分は消える。だからこそ、自身に取り入れる知恵を軽視してはならないのだろう。


「覚えていたようで何よりです。今後は更なる知恵を入れ込むことになるでしょうから、脳内記憶の容量を上げ、情報処理を的確に行なって頂きたいものです」
「他にはどんな知恵を?」
「それは、また追々。では、私は先に行って待っていますので。また後ほど」
 智白はそう言うだけ言うと、二人に背を向け部屋を後にした。
 聖花は困り眉で小さな息を吐く。
「面倒臭いパパでごめんね。今伝えないということは、タイミングが来ていないってことだと思うから、あまり気にしないでいて」
 白姫はそう言いながら聖花に歩み寄る。
「面倒な方とは思ってへんよ」
 聖花は首を左右に振って否定する。
「そう? ならいいけど……。大体パパって口悪いし、毒舌だし、面倒だし、白様命だし、いつも白様を独り占めしているし、厳しいし、堅物だし、人間界の素敵な物達に目もくれ――ぁ」
「!」
 苦笑いを浮かべながら耳を傾けている聖花に気づいた白姫は、小さく声を上げる。
「聖花。今なんか失礼なこと思っていたでしょ?」
「いや……まぁ。ちょっと――」
 白姫も父に負けず劣らずな散々な物言いだと感じた聖花であるが、そっと言葉を呑み込む。
「きよか~。言葉は飲み込むための飲料じゃなくて、人とコミュニケーションを取る溜めのものだよ。もっと思ったことを口にしてくれたらいいのに。愛莉先輩相手みたいにさ。こぉ~さ、リズムとテンポを大切にさ~あ。愛の漫才を繰り広げましょうよ」
「……私、別に愛莉と漫才していた覚えはあらへんけど?」
「そうなの?」
 白姫は意外そうにきょとんとする。
「うん」
「な、なるほど。あれは自然漫才がなされていたのね。関西のコミュニケーションは奥深いわ」
 白姫は左拳を口元に当てながら、ブツブツと勝手な解釈を始める。
「いや、うちは別に漫才していたつもりもあらへんけど。そう見えていた一旦は、愛莉の個性が光っていただけやと思う。うち一人だけやったら、誰も笑かさられへんと思うねん」
「愛莉先輩は色々別角だったと思うけど、聖花は人を笑顔に出来ていると思う。少なくとも、私は聖花と一緒にいられて、毎日話せて、笑顔になれているよ」
 そう言って聖花に微笑む白姫は、掌の指先を二時の方角に向けながら突き出し、何かを握るように七時の方向に掌を下ろす。その瞬間、いつの間にか白姫の手中に例の薙刀が握られていた。
 白姫にとって薙刀は相棒だ。武器にもなるし盾にもなる。
「ありがとう、白姫。私も白姫のおかげで、毎日笑顔になれているし、寂しくあらへんよ」
「少しでも聖花の笑顔の元になれているならよかった。聖花、手を」
 と微笑む白姫は、薙刀を持っていない右手の平を聖花に見せる。
「はい」
 聖花は差し出された手の平にそっと自身の左手を乗せた。
 白姫は聖花の手を握ったまま、薙刀で宙に円を描く。
「汝、我が望みの地へと送り届けたし」
 白姫がそう唱えた瞬間、二人は光の柱に包まれ、その場から姿を消した。
「さっむ!」
 無事にワープを終え、外の世界に飛び出してきた聖花の第一声はそれだった。
 季節は真冬。真冬のコートやマフラーを着用しているとはいえ、煖房のきいた心地良い部屋で過ごしてきた聖花にとっては、この気温や寒風は応えるだろう。


「聖花、大丈夫?」
 白姫はカタカタと身体を震わせる聖花の手を握りしめたまま問う。
「だ、大丈夫。平気」
 そう笑顔を浮かべる聖花だが、左手の指先で何度も両頬を交互に擦るという、可笑しな行動を繰り返していた。
「どうしたの? さっきから頬を擦っているようだけど。痛いの?」
 白姫はそう問いながら、心配そうに聖花の顔を覗き込む。
「痛いというか、なんか、こそばゆいんよ」
 聖花はそう答えながら白姫の手から自身の手を離し、両手で顔全体を撫でるように掻く。その姿はまるで小動物のようだった。


♪ジャリ。
 小石を踏むような音が辺りに響く。
 その場から一歩も動いていない聖花と白姫が出した音ではない。
「⁉」
 ビクリと両肩を震わせる聖花は、勢いよく身体全体で振り向く。
 聖花は音を鳴らした主が良く知る人物であることが分かると、ほっと胸を撫で下ろした。
「パパ、気配を殺して近づいてこないでよ。驚くじゃない」
 音の正体に気づいていたような余裕を見せる白姫は、首を竦めながらそう言って、身体全体で振り向く。
「これくらいで驚いていては騎士失格です。背中にも目をつけなさい、と教えられてきたはずですよ」
「観えているわよ。しっかりと」
 白姫は遠方の夜空を見上げる。白姫には何かが観え、何かを感じているようだった。

「それなら結構。で、貴方の方はどうですか? 三年振りの外の世界。何か感じ方が変わっていたりしますか? 些細な音に気がつくようにはなっているようですけど」
「はい。聴覚は恭稲探偵事務所で暮らすようになってから、どんどん敏感になって言っている気がしていました。それと、外に出てから肌がこそばゆいです」
「音に溢れた世界から数年ものあいだ離れていたからですね。事務所ではバイクや車一台走る音さへ届きませんし、BGMをかけているわけでもありません。貴方もスマートフォンを自由に使用できるわけではなかった。きっと交通音が今まで以上に大きく感じることでしょう。肌については、三年振りに外気の風に晒されたため、肌が驚いているのでしょう。他には何かありますか?」
 智白は冷静な口調でそう言って、聖花の感覚を知るため、質問を続ける。


「……匂い」
 聖花は左拳を口元に当ててしばらく考え、ぽそりと呟く。
「匂い?」
 智白はより深い答えを求めるように問い返す。
「木々や土、風や水、三年前には感じきれていなかった自然の香りを色濃く感じるように思います」
 聖花はどこか自身への関心が含まれる口調で答える。
「そうですか」
 智白は一人納得したように頷き、それ以上は何も問うことはなかった。


「……ところで、ここは伏見稲荷大社内ですか?」
 聖花が白姫に連れられた場所は、奥社奉拝所付近だった。右を向けば懐かしの千本鳥居の鳥居がいくつか見えている。
「えぇ。起き上がりの松の道です。ついて来て下さい。貴方に与えたい智恵があります」
 そう言って、智白は道の先を歩む。
「ま、待って下さい」
 聖花は慌ててついて行こうとするも、その足取りは何処か覚束ない。なんの障害物もない平坦な部屋をスリッパで過ごす日々の感覚と、重量感のある靴を履いた足を上下させて踏みしめるアスファルトや、砂利道や小石が転がる道の上を歩むのは、普段より勝手が違うのだろう。
 今まで普通に過ごしていた日々を失った三年間の感覚を取り戻すのには、まだ少し時間がかかりそうだ。
 聖花がこけそうになってもすぐに支えられるように、白姫が聖花の左横に寄り添って歩く。



  †


 ほどなくして、智白が能鷹社付近にある新池の前で足を止める。


「智白さん?」
 聖花は足を止めた意味を求めるように、智白の名を呼ぶ。
「あの池を見て下さい」
 智白は視線で目の前に広がる池を指し、自身は新池の前にあるフェンス柱に右腰を軽く預けた。
「この池が何か?」
 聖花はより深い説明を求めながら、池に歩み寄った。
 池の前方を囲むように生えている木々から枝垂れる草木達が、冬の風に踊らされている。


「ココをただの池だと思わぬことです」
「どういうことですか?」
 聖花が智白の話に耳を傾けているあいだ、白姫は薙刀を握り直して戦闘態勢に入る。いついかなる時も、気は抜けないのだろう。


「この池は、探し物や探し人の居場所を教えてくれる。と言う謂《いわ》れがあります」
「そんな話し、初めて聞きましたけど」
「知っている人は知っています。貴方が知らないのは、貴方が今まで知ろうとしなかっただけ。調べればいくらでも知りえることです」
「……えっと、無知で面目ないです」
 聖花は智白の言葉に、しょんぼりと身を縮こませる。
「無知なことは恥じることでも、申し訳なく思うことでもないと思いますけど」
「?」
「無知と言うのは、ある意味完璧な状態です。0は無限の数字であり、宇宙数。無知だからこそ、無敵になれることもあります。知らぬが仏と言うこともあります。この世の叡智を自身に取り込めるだけ取り込んだ後に、崩壊することもあります。自身に必要な知恵は、その者が本当に必要とするタイミングで知り得られるようになっています。貴方が自身のことを知った時のように。全ての事柄は、完璧なタイミングで動いているのですよ」
「……全てが、完璧なタイミングだったと?」
「えぇ。それに、貴方が無知で記憶力が乏しいことは皆(みな)が知っています。今さら恥じることではありません」
 智白はそう言って微苦笑する。
 聖花は智白の相も変わらずな失礼な物言いに対し、ムッとする。

「よいではありませんか。貴方には私がついているのです。必要な知識であるならば、私がいくらでも知恵を授け、覚え込ませてあげますよ」
 智白はそう言って口元に弧を描く。
「えっと、ぁ、ありがとうございます」
 聖花はその何処か戦々恐々を感じさせる智白の笑みに怯え、半歩後ずさりながらお礼を言った。
「さて、話を戻しましょう」
「はい」
 聖花は智白の言葉に頷き、また耳を傾ける。
「新池は別名、谺(こだま)ケ(け)池(いけ)とも言われています。行方知らずになった人や物の居場所を探す際、谺ケ池の前で両手を重ね、その物や人を心に想いながら二回手を鳴らし、音(こだま)が返ってきた方角に手がかりや、その物や者がいる。という言い伝えがあります」
「だから、谺ケ池と言われているのでしょうか?」
「そうでしょうね。昔は警察警備もなかった時代です。神に縋るしか方法がなかったのでしょう。また、誰にも言えぬ物や者のことを問うたとしても、誰にも知られることがありません」
「ということは、あやかしにも?」
 いい着眼点の元に問う聖花の瞳は好奇心で輝いていた。
「かもしれませんね」
「へぇ~。なんだか凄いですね。だけど、私にはもうそんな者も人もいません。両親の名前を教えてくれたらいいんですけど。こぉ~、池に文字が浮かび上がって衝撃的! みたいな感じ――ん?」
 池を覗き込んだ聖花は言葉の途中で言葉を止める。


「どうされましたか? またおとぼけ顔を晒して」
「そんな顔晒していません~!」
 聖花は智白の物言いにムッとし、子供のように言い返す。
「そうですか? ならどういう顔だったんですか?」
「……ふ、不思議な顔?」
 小首を傾げながら答える聖花の顔は、やはりどこか抜けていた。
「何か不思議な事でも?」
「いや……なんか今、変な匂いしませんでしたか?」
「と、言いますと?」
「なんか獣ぽい」
「ぇ⁈ 私?」
 今まで黙っていた白姫は、焦ったように自身の腕を左右交互に嗅ぐ。
「ぇ⁈ ち、ちゃうで! 白姫はいつもいい香りやもん」
 聖花は慌ててフォローする。
「そう? ならいいんだけど。じゃあ、パパの年齢からくる例の……」
「違いますよ。失礼ですね」
 急に鉾先を自身に向けられた智白は瞬時に否定した。

「智白さんでもあらへん」
「じゃぁ、どこから?」
「ん〜…私の気のせいかもしれん。可笑しなこと言ってごめん」
 白姫から深く問われて自身の感覚に自信を無くした聖花は、すぐに自分の言葉を撤回した。
「貴方が感じた違和感を大切にしなさい。五感だけではなく、第六感、第七感と使えるようにしなさい。それと、自身が感じ取ったことを周りや左脳の言葉によって、直ぐに気のせいだと片付けないことです。今後は貴方の感覚が貴方の助けとなり、自身を救う力となるでしょうから」
「……はい」
 聖花は自信なさげに頷く。


「さぁ、二人はもう帰りなさい」
「ぇ、もう?」
 白姫は今来たばかりじゃない! とでも言いたげに目を見開く。
「いきなり長時間の外出はよろしくありませんし、時間も時間です。帰って早く寝なさい。今後は幾度となく外の世界に出られるのですから」
「分かりました」
 聖花は素直に頷き、白姫は少し不服気に頷く。
「じゃあ聖花、今日のところは帰ろうか」
「うん」
 聖花は差し出された白姫の手に、自身の右手をそっと添えた。
 白姫は聖花の右手をぎゅっと握り、薙刀で宙に円を描き、呪文を唱える。
「汝、我が望みの地へと送り届けたし」
 白姫が呪文を唱え終えた瞬間、二人は白の光に包まれ、その場から姿を消した。


 一人その場に残った智白は、スーツの内ポケットから一枚の呪符を取り出す。口元に呪符を微かに当てながら、淀みなく呪文を唱える。


「汝、我らが残し痕跡を水に流し、葬りたし」

 智白は想いを呪符に込めると、持っていた呪符を空高く飛ばす。


 その後、人差し指と中指だけ宙に突き出した右手で“雨”という文字を走り書きするように描き、指を一つ鳴らす。
 その音が合図のように、辺りに白光している浄化の雨が降り注ぐ。


「さて、と……。これから忙しくなりますね。私も早く帰って、ひと時の睡眠でも取るとしましょうか」
 智白は溜息混じりにそう言って歩き出す。
 智白は白姫のようにワープの力を多様しない。
 本殿奥の鳥居前に稲荷の銅像が二体いる場所まで、自らの足で出向く。


 その二体の銅像の左側。巻物を咥えるお稲荷様の巻物には願い人に対し、どんな願いも叶えるという稲荷の秘法や知恵が収められている。そしてその銅像は、智白の仕事場とも言えるだろう。


 本殿奥の鳥居前にお稲荷様の銅像が二体いる場所までやってきた智白は、浄化の雨によってずぶ濡れだ。


 雨に濡れて額に張り付くウィッグを鬱陶し気に右手で払う智白は、巻物を咥えるお稲荷様の前に立つ。


「我、ここの主人なり。我が身を今いるべき場所に戻らせたし」

 智白がそう唱え終えた瞬間、銅像と智白は白光に包まれる。ほどなくして、智白は目の前の銅像に吸い込まれてしまった。
 その後、浄化の雨は太陽が昇るまで振り続けるのであった。



  †


「白様」
 ヴァイオリンのD線からA線のような柔らかな色香と共に、どこか熱を感じる声音が、深夜三時の恭稲探偵事務所に響く。
 本革と天然木が融合される高級感溢れるダークブラウン色のレザーチェアに、持て余すように長い足を組み、凛とした姿勢のままパソコンを操作していた二十代後半程の青年、恭稲白が顔を上げる。
 真ん中分けセミロングにセットされた白髪、目尻や口元にほんのりと年齢を感じるも人間離れした整った顔立ちを持つ男性の姿を白の瞳が捉える。
 浄化の雨によりずぶ濡れとなっていた智白だったが、一度シャワーを浴びて身なりを整え終えていたため、いつもの姿に戻っていた。


「二人は?」
「眠っています」
「そうか。碧海聖花に何か変化は?」
「三年間外の世界から遮断されていた分、ずいぶんと五感が発達したようですね。その分、筋力と体力の衰えを感じます」
 智白は現在聖花が持つ身体機能を調べるために歩かせた、起き上がりの松の道での聖花の歩みを脳裏に浮かべ、そう答える。


「五感が発達しているならそれでいい。後者は後からどうとでもなる」
「白様の読み通り、碧海聖花はよく鼻が聞くようですね」
「だろうな。まだ未発達の状態から、例のチョコレートに混入されていた毒薬の匂いを嗅ぎ分けたのだから」
 例のチョコレートというのは、碧海雅博のいとこである津田に扮するモノが、碧海家へのお土産として渡したチョコレートのことだろう。
 但し、そのチョコレートの正体は美味しいモノではなく、恐怖の対象でしかなかった。ほとんどの人間が気がつくことが出来ない、青酸カリが含まれていたのだから。
 聖花がそのアーモンド臭に気がつくことがなければ、碧海家は全員毒殺されていたことだろう。


「それで、これからどうするおつもりですか?」
 智白は少し煌めきが薄れたパープルスピネルを彷彿とさせる瞳で、白の考えを汲み取るようにじっと見つめる。

「碧海聖花で誘き寄せろ」
「餌に使えと?」
 智白は白の言葉に、右眉尻をピクリと上げる。
「あちらを動かすには格好の餌となるからな。それと、白姫に碧海聖花の戦闘能力をつけさせておけ。どういった家系であったとしても、黒妖狐の血が流れている以上はある程度の戦闘能力があるはずだろうからな。必要とあらば、智慧を授けろ。いつまでも温室に咲く蘭状態で過ごしていては、この先生きては行けない」
「承知いたしました。では、その様に手配してまいります」
 智白は白の言葉に動揺することもなく、白の指示を飲む。
「嗚呼」
 白は一つ頷き、パソコンモニターに視線を戻した。
 恭稲探偵事務所へ誘導する例の動画を送るため、新たなる依頼者を吟味しているのだろう。
 そんな白の様子を暫し見つめていた智白は、高さ174cm、横幅95cm、奥行き50cmほどの英国クラシックなブックシェルフの前に歩み寄る。

 必要な物を取り出すため、スーツの左ポケットから鍵を取り出し、ガラス引き戸書庫を開ける。
 下段には、ワインレッド色のシステム手帳が十冊収納されており、上段には、牛革で作られたA五サイズのほどの白色が印象的なシステム手帳が三冊収納されていた。

 智白はそこから三冊目にあたる手帳を手に取り、またガラス引き戸書庫に鍵をかけ、その場を後にした。


 一人残された白は、引き続き、新たなる依頼者を吟味し続けるのであった。
 翌日、午後二十一時。

 ♪コンコンコンコン。
 聖花の部屋の扉がノックされる。
 白姫とリラックスして話していた聖花の肩に、一瞬で力が入る。


「はーい」
 白姫が間伸びした返事をしながら薙刀を手に持ち、聖花を自身の後ろに隠すようにしながら、扉の数歩後ろに立つ。白や智白がいるとはいえ、油断は禁物なのだろう。


「開けても構いませんか?」
「どうぞ」
 キィ……という少し錆れた音を立てながら、部屋の扉を開けたのは智白だった。


「やっぱりパパだけか」
「やっぱりとは何ですか」
 智白は落胆する娘の声に溜息交じりに言った。


「たまには白様も顔を出してくれたらいいのに」
「白様がわざわざ顔を出すとお思いですか?」
「そんなのあるわけないじゃない」
「よくお分かりですね」
「ちぇ」
 智白は幼子のように口元を尖らかせる娘を放置し、聖花と向き直る。


「碧海聖花、白様がお呼びです。来なさい」
「ぇ⁈」
 思わぬ要請に対し、聖花は目を見開く。


「聞こえませんでしたか?」
「き、聞こえていますっ」
「ならば、さっさと動きなさい」
「は、はい!」
 聖花はどもりながら返事をすると、ポケットに忍ばせてあるコンパクトミラーで髪を整え、顔に変なゴミなどがついていないかと確認する。


「ねぇ、呼ばれたのは聖花だけなの?」
「今の所は」
「つれなーい」
「白姫がいては騒がしくて、進む話も進まないのではないですか?」
 智白は我が娘にも手厳しい。


「失礼しちゃうわね」
 白姫は腕組みをして、両頬を膨らませる。


「碧海聖花、来なさい」
 智白はそう言って二人に背を向け、事務所の主軸場所に戻る。


「はい」
 聖花は慌てて後をついてゆき、一人取り残された白姫は閉じられた扉に耳を当てて、聞き耳を立てるのだった。



  †


 横幅130、奥行き90、高さ80センチ程の英国クラシックデザインの対面式デスクは、深煎りさせたフレンチローストのコーヒー豆のような色合いが、何とも言えない上質かつ優雅さを感じさせる。そのデスクの真ん中に、主体となるノートパソコン。左にノートパソコン、右にタブレットが卓上スタンドによって宙に浮いている。


 タブレットの下にはスマートフォンがスタンドに立てかけられており、宙に浮いているノートパソコンの下には、高さ22センチほどある白の陶器キャンディーポットが置かれていた。


 それら端末の他、デスクの上にはキャンディーポットと、純喫茶などにある呼び鈴が置かれているスッキリとしたデスクで書類に目を通していた白に、「白様」と、智白が呼びかける。

 一歩後ろに立つ聖花は緊張のあまり、身体全体の筋肉が硬直しているようだった。


「嗚呼」
 今となっては耳馴染み深き声の響きと共に、白は品よく顔を上げる。


「……っ」
 三年振りに体面する恭稲白に、聖花は思わず息を飲む。


 粉雪のような肌。美しいEラインを作っている綺麗な鼻。形の良い薄い唇。脇下まで伸ばされたハイレイヤーのウルフスタイルをベースの白髪の長さは変わらず、三年前と全く変わっていない。

 右目の下にある黒子が印象的な切れ長のアーモンドアイ。バイオレット・サファイアを彷彿とさせる瞳。相も変わらず余分な脂肪が何処にもない八頭身を、質のいいスタイリッシュなスリムスーツが包み込む。

 いつ何時、何処で会ったとしても、その高貴さと威厳さ、独特の色香が消えることのない恭稲白は、本革と天然木が融合される高級感溢れるダークブラウン色のレザーチェアに、長い足を持て余すように組み、深く腰掛けていた。

 白を表現する全てが、三年前と変わらないものだった。

 ただ一つ違ったのは、聖花の顔を見た刹那、白が目を見張ったことだ。それは余りにも刹那な時間で、それに気がついたのは長年共にしてきた智白だけだった。


「碧海聖花」
 白はいつもの口調で聖花を呼ぶ。契約を交わしている限り、白が聖花を親しく呼ぶことも、慣れ合うこともないのだろう。


「はい。な、なんでしょうか?」
 聖花は少しどもりながらも返事をする。


「三年の月日が流れ、外界から遮断される期間が終わりを告げた」
「はい」
「久々の外はどうだ?」
「かじかむような寒さで驚きました。昔より随分と寒さが増したようです。鼻から吸う空気が喉を通り過ぎるとき、かき氷を食べたときのように、冷たく感じました」
「そうか。残念ながら、ここ三年間は、冬の気温に大きな変化はないがな。変化があるとしたら、碧海聖花の身体と感覚だけだ」
「そ、そうですか」
 聖花は白の物言いに思わず苦笑いを溢す。


「他に何か変わりは?」
「自然の匂いを強く感じました。三年前よりも嗅覚が上がったようです。それと、暗闇でも視力が頼りになってくれるように感じました。視力も上がっているように感じます」
「そうか。味覚に変わりは?」
「……味覚? 例えばどういう……」
「何も感じないならばそれでいい」
「そ、そうですか」
 聖花はどこかスッキリしないながらも、それ以上深く問うことはしなかった。


「碧海聖花、止まり続ける時間は終わりだ」
「どういうことですか?」
「碧海聖花はこのまま命尽きるまでのあいだ、今の暮らしを続けるつもりでいたのか?」
 小首を傾げている聖花に、白は新たに問う。


「外の世界では、碧海聖花はもういません。今更戻ったら大変なことになります。愛梨達の命も危ぶまれてしまう。かと言って、黒妖狐の元に迎え入れてもらえることもない。そんな私に、一体どうしろと?」
 聖花はどこかムッとしたように答える。手も足も出せない今の聖花にとって、なす術はないだろう。だがそれは、聖花独りであるのならば、の話だ。


「どうもこうもない。生きとし生かされるものは、まずは置かれた場所で生きて、咲くしかないのだ」
「ココで生きて咲けと?」
「嗚呼。碧海聖花は本日より、私の助手として働いてもらう。助手と言ったとて、今の碧海聖花は戦力外。ただの駒でしかない。しかも動けぬ駒だ」
 白はそう言って、チェスのポーンを一つ、聖花の前に置く。


「戦力外なら、何も出来ることはないんじゃないんですか? そんなただのお荷物を助手にして、どうするんですか?」
「ほぉ、お荷物であると理解しているのか?」
 白は何処か感心したように息を溢す。

「理解も何も、実際そうやないですか? 多くの人の力を借り、今も大切な人達を守ってもらい、私はこうして生かしてもらっている」
 聖花の感情が波立ち、方言が前に出る。

「その状態から抜け出したいか?」
「それが出来るなら」
 聖花は凛とした声で即答する。

「ならば、戦え」
 白はボディに百合と蔦のゴールドの刻印が彫り込まれた、アンティーク調の白い銃を一丁、デスクの上にスッと置いた。


「ど、どういうことですか? 物騒なものまで出してきて」
 予想外の物が差し出され、聖花は動揺する。

「言葉のままの意味だ」
「どういう事ですか? そもそも私、銃なんて使えませんし、使いたくもありません。人を傷つけるどころか、殺めるなんて」
「誰が殺めろと言った?」
 地団太を踏む勢いで拒絶する聖花に、早とちりも大概にしろとばかりに、そう溜息交じりに言った白は呆れ顔だ。


「?」
「そもそも、これは盾にしかならぬ」
「どういうことですか?」
 聖花は白が何を言っているのかが分からず、困惑する一方だった。


「智白」
 白は智白を呼び、視線を白姫が一人残る部屋に移す。
「承知致しました」
 白の意図を汲み取った智白は、白姫を呼びに部屋に戻る。


「この銃を発泡出来るチャンスは八回」
「ぃ、いや、だから、私はそないな物騒なもん使いたくありま――」

「白さまぁ♡」
 呼び出しを受けた白姫は、聖花の言葉をかき消すように白の名を呼び、白の元へかけて来る。
 白は何も言わず、チェアに座ったまま銃口を白姫の腹部に向けた。


「ぇ⁉」
 白は聖花が止める間もなく、そのまま白姫の腹部に銃を撃ち込んだ。


「ひっ!」
 聖花は銃声音に顔を歪ませながら、恐怖で首を竦める。


「ッ⁉」
 白姫は一瞬目を見開き、そのままうつ伏せの状態で倒れ込む。

「し、白姫ッ!」
 血相を変えた聖花は慌てて白姫の元に駆け寄る。
 聖花が白姫を抱き起こすと、白姫の腹部からは、血液が流れ出していた。


「ッ⁈」
 青ざめる聖花は勢いよく白を見る。その瞳には軽蔑の色が滲んでいた。

「な、なんでですかっ⁉︎」
 白は口端を上げて何も答えない。
「智白さんもどうして黙ってはるんですか? 娘が撃たれたんですよッ⁉︎ ち、血だってこないに……ッ」
 娘が撃たれて流血しているのにも関わらず、智白は聖花達の部屋の出入り口前で、何事もないように平然と立っていた。顔色一つ変えない。


「相も変わらず、盛大に騙されてくれますね」
「へ?」
 智白の言葉に素っ頓狂な声を出す。
「白姫を良く観ろ」
「よ、良く観ろと言われても……」
 聖花は今一度、白姫に視線を戻す。
 瞼は閉じられており、腹部からは、洋服に滲み溢れるほどの流血している。指一本動かない状態だ。その状態を見れば見るほど、聖花から冷静さは失われ、当惑するしか出来ない。


「顔色は?」
 そんな聖花を誘導するように、白は長い足を組み直し、聖花に問うてゆく。
「……いつもと変わりません」
「体温は?」
「あったかいです」
「頸動脈に触れてみろ」
 聖花は白に言われるがまま、白姫の頸動脈に親指以外の指をほんの少し押さえつけるように置いた。指から伝わるのは脈の鼓動。メトロノーム六十八~七十ほどのテンポで、音を刻んでいた。

「――白姫の平均心拍数は知りませんが、正常だと思います。穏やかです」
「呼吸は?」
「と、とても、穏やかです。まるで眠っているよう……ぇ? 眠ってる⁈」
 聖花は目を点にして、事態を呑み込もうと、倒れて動かぬ状態のままでいる流血する白姫と、白の顔を交互に見る。


「手についたものを嗅いでみろ。それは、本当に血液だと思うのか?」
「ぇ……だって、血液の色していて、少しとろみもあるし……」
 と言いながら、右掌を鼻先に持ってゆき、その臭いを嗅ぐ。
「甘い……です。まるで苺チョコレートみたいな香り。これ、血液じゃ、ない?」
「嗚呼。やっと気がついたか」
「それは白姫が腹部に隠していた血糊入り風船が破裂してついた物です」
 智白は補足の説明を伝えながら、聖花の元に歩み寄る。


「じゃぁ、白姫は、ほんまに眠っているだけっ⁉」
「嗚呼。真実に気がつくまで随分と時間がかかったことだ。探偵としての素質は底辺だな」
 と不憫そうに、放心状態の聖花を見る白は、どうしようもないなとばかりに、小さく首を左右に振った。


「そないなことゆーたって、こんなん見たら誰だって……」
 安堵で涙が滲む瞳で白を見る聖花は、反論しようとするも、すぐに白の言葉に上乗せされる。

「誰だって――そうなると?」
 白は左肘をデスクに付き、指先に自身の顎を乗せる。
「……私、だけですか?」
「さぁな。ただ分かっていることは、三年前と判断力も冷静さも、変わり映えはしない。まぬけ面も変わらず晒している」
「じゃぁ、どうするのが正解やったんですか?」
 騙されたうえ、散々な言われように、聖花は少し逆切れするような口調で問う。
 智白は事は成されたとばかりに、白姫を抱きかかえ、聖花達の部屋に戻って行った。


「何かの判断に対し、絶対的正解などはない。蓋を開けて見ないと分からぬことも、死の間際まで答えが見えぬこともある。ただ、裏社会で生きていく者の言動としては、零点になり得るだろうな」
「零点になり得る? どうすれば零点を防げたと?」
「相手に見せつける迫真の演技だという名目で在れば、中々に使える。但し、演技する本人まで騙されていなければの話だがな」
「貴方に足りないのは知識、経験、戦闘能力、それを的確に使うことが出来る冷静さと判断力、対応りょ――」
「ちょ、ちょっと待って下さい。全部じゃないですか! 何か一つくらい足りているものはないんですか?」
 戻ってきた智白から淡々と告げられる言葉達に、聖花は思わず待ったをかけた。


「残念ながら、こちら側で生きていくうえでは、無いに等しいですね」
 智白は冷静な口調で現実を叩きつける。
「そんなぁ。全然ダメやないですか」
 がくりと両肩を落とす聖花を横目で見ていた白は、不憫そうに鼻で笑う。

「そんなに自身を哀れむことはない。碧海聖花には一番大切の物が備わっている」
「な、なんですか⁉」
 聖花は白の言葉に瞳を輝かせる。


「命だ」
「?」
 聖花は白の前後のない答えに、きょとんとしながら小首を傾げる。


「例え今がどんなに底辺中の底辺だとしても、底なしの奈落に落ちていたとしても、生きている限り、いつからでも大逆転は可能だ。しかも、碧海聖花。今現在、碧海聖花の健康状態は良好。記憶力や理解力の無さは悲惨だが、叩きこめばいくらでも成長する脳がある。五体満足。何一つ欠落していない五感。自身にそれだけ揃っていて、何を哀れみ恐れることがある。今・ココを見続けろ。身体だけがそこで生きていたとしても、心が負の感情に喰われ続けていては、いつまでも、自身の感情が作り出した闇の中で暮らすことになるぞ」


「――」
 聖花は何も言うことなく、ただただ、白の言葉を噛み締める。


「自身の過去を思い起せば、後悔や悲しみが押し寄せる日もあっただろう。未来を思えば不安や恐怖感に苛まれる日もあっただろう。自分の選択が正しかったのか、間違いだったのではないかと、思い悩む日もあっただろう。もう未来など絶望的だと思う日も、自分を疎ましく思う日もあっただろう。嗚咽も流さず、一人枕を涙で濡らした日もあっただろう。
 だが、どんなに闇しかないと思えることも、【今・ココ】の道の上にしっかり立ち、自身や周りを今一度見て見れば、全てが妄想であったと思えるだろう。事実は事実として受け取って処理してゆき、負の感情は受け流してゆけばいい。碧海聖花は【今・ココ】に生きており、【今・ココ】だけにしか生きられないのだから」
 聖花は白の言葉に瞳を潤ませる。


「それと、碧海聖花が今現在置かれている場所はココ、恭稲探偵事務所。そして、後ろには我々がついている。贅沢すぎる咲き場所とは思わぬか?」
 白は蠱惑的な微笑を浮かべ、ん? とでも言うように首を傾ける。
「……た、確かに」
 聖花は白の言葉に激しく納得する。
 白を筆頭に、智白、白姫、白樹が味方であり続けてくれるのならば、こんなにも心強く、頼もしいことはない。


「私は、これから、どうして行けば良いんですか?」
「碧海聖花にはまず、動けぬポーンから、ナイトになってもらう」
 白はそう言って、日本刀の持ち手の部分とされる茎と、刃と茎を繋ぐ巾木がシルバーの金属で捻じられたようなデザインネックレスを、銃の上に重ね置く。

 刃の部分には“4000”という数字が刻印されており、峰の部分には、大振りのシルバーストーンが一つ装飾されている。その隣、しのぎの部分にもまた、大振りの真珠の半球が埋め込まれており、その隣には大振りのシルバーストーンが一つ埋め込まれている、ホワイトゴールドで作られた長刀のデザインは、細部までこっていた。
 切先が下になるようにホワイトゴールドチェーンがついた大振りのネックレスは、どちらかというと男性向きだ。
 もちろん、このアイテムもただのネックレスではない。
 ネックレスの刀先を床に向け、峰を掴んだまま“解”と唱えることで、金属だったネックレスが、本物の長刀のように変化するのだ。


「どういうことですか? 物騒なものまで出してきて。このネックレスって、例の時の物ですよね?」
 聖花は怪訝な顔で問う。このアイテムには苦い思い出がある聖花だ。

「言葉のままの意味だ。銃はひと時の盾にしかならぬからな」
「どういうことですか? そういえば、この銃はなんなんですか? 」
「それは特注の拳銃です」
 智白が説明を引き受ける。
「その銃に入っている弾丸は、誰も殺めることはありません」
「じゃぁ、何が入っているんですか?」
「一応、弾丸が入っています。ですがその弾丸は、銃口から噴射された瞬間、弾丸の中に入った麻酔針だけどなり、撃たれた相手は先ほどの白姫のように、深い眠りにつきます。それで相手が命を落とすことはありません」
「麻酔銃、ということですか?」
「えぇ」
 智白は一つ頷き、説明を続けるために、口を開く。
「但し、その麻酔針は純血の妖狐にしか効力を発揮いたしません」
「どうしてですか?」
「碧海聖花がヘマを犯し、相手に拳銃を奪われ自ら撃たれることになろうとも、碧海聖花に何一つ害を及さぬように作り替えたからだ」
「……なんと言えばいいか」
 聖花は白の失礼な話しに、確かにヘマをしてしまいそうだと同感する心と、失礼しちゃう! という拗ねた気持ちが混同して、上手い言葉を見つけられない。

「ウーパールーパーみたいな顔だな」
「はい?」
「可笑しな顔をしている暇があったら、さっさと特訓することだ」
 白はもう話は終わったとばかりに、視線パソコンモニター画面に戻した。
「ちょっ……」
「そうと決まれば特訓よ〜」
 聖花の言葉をかき消すように、薙刀持った白姫が声を高らかにして、勢いよく部屋から飛び出してきた。
 その姿は、いつもと変わらない姿だ。血糊で汚れていた洋服もすでに着替えられている。


「白姫! めっちゃピンピンしてるッ!」
 当分は眠っているのであろうと思っていたため、聖花は瞠目する。
「き、効き目短すぎません?」
「本来であれば、半日から丸一日眠り続けます。ですが今回は私が解毒し、起こしました」
 聖花の呟きに反応した智白が応える。
「そ、そうなんですね」
 聖花は納得したように、小さく頷く。
「聖花〜。さっきは驚かしてごめんね。怖かったでしょう」
 白姫は聖花に駆け寄り、労わり寄り添うように、聖花の右肩を擦る。
「いや、私が勝手に勘違いしただけやから。白姫が元気に生きていてくれたら、それでええんよ。ところで、特訓って?」
「特訓は特訓よ。今日から私が特訓相手になるから」
 白姫は自身の右手を胸元に当てて、えっへんポーズを取る。その姿を横目で見ていた智白は、気合が空回りしないことを密やかに願った。
「そういうことだ。嗚呼、ちなみに銃弾は残り七発だ。使いきれば後はない。よく考えて使え」
「いや、そういうことってどういうことですか? 行くって何処に?」
「特訓場に決まっているじゃない! さっ! 早くそのネックレスと銃を持ってちょうだい」
「は、はいッ」
 聖花は慌てて返事をして、「えっと、ありがとうございます」と一言口にしてから、白がデスクの上に置いたアイテム達を手に取った。


「よっし! じゃぁ行くわよ」
 白姫は聖花がネックレスを身につける前に、空いていた聖花の左手を握る。
「ぇ? ちょ、待っ」
 白姫は聖花の制止を気にも止めず、「汝、我が望みの地へと送り届けたし」と、呪文を唱える。
 二人は例の如く光の柱へ包まれ、その場から姿を消した。


 恭稲探偵事務所に静けさが戻り、二人は小さく息を吐いた。
 その後、二人は静けさの中、それぞれの業務を果たすのだった――。
 二〇××年 十二月 二十一日。
 深夜二時。

 恭稲探偵事務所には月明かりのかわりに、保安灯がついていた。

 本革と天然木が融合される高級感溢れるレザーチェアに、長い足を持て余すように組み、余裕のある作りをした背もたれに深く背を預ける恭稲白は、目の前のパソコンモニターから、聖花達の部屋から出てきた智白に視線を移す。


「二人の様子は?」
「よく眠っています。碧海聖花については、戦闘能力云々の前に、暫くは基礎能力向上に時間を費やすかもしれません。今日は小石で足をぐねていました。実践なら即お陀仏です」
「先が思いやられるな」
 白は微苦笑を浮かべる。


「それと、碧海聖花は白姫に遠慮して手も足も出せませんでした」
「それで?」
「幾度かチャレンジしたとのことですが、白姫は早々にお手上げ状態となり、基礎体力と戦闘の型や知恵を入れ込むとのことです。実践については、私にどうにかしろと」
「やはりな。守里愛莉の時と変わらぬか」
 こうなることは予測済みだったのか、白は従容《しょうよう》としていて、けして動じることがない。


「その精神面もいかがいたしましょう?」
「感覚を磨かせ、自信をつかせるしかないだろうな。碧海聖花のことについては、そちらに任せる」
 白は視線を智白から、目の前のパソコンモニターに移す。


「承知いたしました」
 智白は掌を胸元に当て、執事のように頭を下げる。


「それと、もう一つ」
「なんなりと」
「新たな依頼者を見つけた」
「次はどのような?」
「依頼者は恋人の浮気相手がナニモノなのか。浮気相手がどこにいて、なにをしているのかを知りたがっている」
「目的は、そのナニモノかですか?」
「嗚呼」
「どう動くおつもりですか?」
「まず依頼者に――」
 こうして二人は、依頼者についてどう働きかけてゆくのかを話し合うのだった。



  †


 一週間後。
 浮気相手を炙り出し、居場所を突き止めた白が、依頼者に全ての真実を告げたのは、今朝のこと。


「それで、依頼者はどうなりましたか?」
 例のレザーチェアに凛と腰掛け、依頼者の両耳に付けられているピアスから送られてくるデーター処理をしながら、必要な情報を確認していた白に、智白が声をかける。


「やはり、こちら側の情報を得るために利用されたようだ。恋人と浮気相手は純血黒妖狐。依頼者は純血赤妖狐だった」
「よくある話しですね」
 智白は納得したように小さな息を吐く。


「嗚呼。赤妖狐は黒妖狐に順応だからな。純粋な愛が成り立つことは、ほぼないだろう」
「パワーバランスが悪いですからね。それで、依頼者はどうされたんですか?」
「浮気相手の元に乗り込み殺されかけるも、恋人である黒妖狐に救われている」
「愛ですか?」
「と思うか?」
 白は憫笑をほのかに浮かべ問う。

「いえ、全く。血も涙もない輩達です。そもそも、黒妖狐は純粋の黒妖狐としか愛を育もうとしません。それが里の決まりごと。それを破れば、それに関わったモノ達の命はありません。どうせ長の命令でしょう」
 純血黒妖狐達を嫌悪している智白の口調はいつもよりも強い。


「嗚呼。恋人役をかった黒妖狐に課された長からの命令には、依頼者の命を奪うことは含まれていない。依頼者の持つ恭稲探偵事務所の情報記憶を奪い、依頼者の記憶を五年分を全て抹消したのち、二人は姿を消した。恭稲探偵事務所の存在と居場所を得た故、次の一手を思案するのだろう」

「良かったのですか? こちら側の居場所を晒して」

「嗚呼。いつまでも雲隠れしている気は毛頭ない。得るものを得た以上、如何様にも動くことが出来る」

「その得たものと共に穏やかな時を過ごすことも出来そうですが――。次は一体、何をするおつもりですか?」

「何もしない。今は――」
「さようですか。またなにかありましたらお呼び付けを。私は白様がどう動こうとも、最後の最後までお供いたしますので。白樹や白姫も同等に」


「嗚呼。感謝している」
「それは私どもの台詞です」
 智白の言葉に白はそっと微笑んだ。それは智白にしか分からない。とても細やかな笑みだった――。
 一ヵ月後。

「白さま〜」
 静かだった恭稲探偵事務所に、白姫の声が響く。
「騒がしいですよ。白様はお仕事中なのですから、少しは配慮なさい」
「はーい」
 白姫は父の言葉などさして気にする様子もなく、左手に聖花の手首を握ったまま、白の正面に立つ。
 自身を横切ってゆく娘に連れられる聖花の姿を見た智白は、ぎょっとする。


「白様〜。見て見て~」
「嗚呼。整ったか」
 白はデジタルデーターから視線を上げ、二人を見る。刹那、小さく目を開いた。そして、呆れ果てる。
「お前たちはふざけているのか?」
「ふざけていないもん。すっごく苦労したんだから」
「いったいどこに苦労かけたと言う。私は、目立たないようにしろと言ったのだが」
「斬新でオシャレじゃない」
 一人ノリノリの白姫に対し、聖花は苦笑いを浮かべる。
 本格的に外に出る日々や、探偵事務所の手伝いをするにあたり、本来の聖花の姿では危険だ。過去の聖花の姿を知るものが見たら面倒なことになる。
 それに聖花の瞳は目立ちすぎてしまう。その瞳の意味を知るモノ達は、聖花がそうであるとすぐに分かってしまう。それでは、危険を及ぼす。
 少しでも危険を回避するため、姿を目立たぬものに変化させたほうがいいと、白は助言したのだ。
 それを楽しんだのは白姫だった。どんな髪型にするのか、どんな髪色にするのか、どんな服装にするのか、それはそれは楽しんだ。楽しみすぎて、斜め上を行ってしまったのだ。
 その結果、今の聖花の姿は、ボブショートカットのインディゴ色をした髪色のウィッグ、アクアマリンを彷彿とさせる瞳。それに合わせるように、眉色をシティロースト色に変化させていた。
 ミニスカートのスーツ。左太腿には白から与えられた銃が差し込まれたホルスターがつけられている。第二ボタンまで開いた白いワイシャツから見えるデコルテには、例のネックレスが輝いている。
 その姿はまるで、コスプレイヤーのような仕上がりだった。


「まさか! 白様を驚かせたかっただけよ。最近の白様は、昔のように笑ってくれないから」
「人も妖もずっと同じと限らない。一秒ごとに変化する生きモノだからな。よく昔の私を引き合いに出してくるが……今の私では満足出来ないのか?」
 白はその綺麗な指先を伸ばし、故意に爪を細長い刃先のように伸ばして、白姫の顎先にそっと当てた。


「ッ⁉︎」
「!」
 白姫は息を飲み込み、聖花は目を見開く。
「ま、満足とか満足してないとか、そういうんじゃない。私はただ、白様に笑っていて欲しいだけ。また里の皆と仲良くしたい。本当は里に戻って来て欲しい。昔みたいに、パパや白樹や白様や白雨と一緒に遊びたい。純血だとか半妖狐だとか、長《おさ》の――ッ」
「白姫!」
 今までの想いを外にだす娘を、智白が静止する。

「白姫! 口が過ぎますよ」
「何さ二人して! 私はただ、皆と笑い合って、平和に生きて行きたいだけなのに! 私で役に立つことがあるならなんでもする。その為に技術も磨いてきた。だから、早く里に――ッ」
「悪いが、まだ時が満ちていない」
 もうそれ以上は言うな、とばかりに、白はその爪を白姫の唇にそっと当て、続く言葉を静止した。
「っ」
 白姫は涙ぐみながら、自室に逃げ込んでしまう。
 取り残された聖花は、どうしたらいいのか分からず、その場で固まることしか出来なかった。



「何か、言いたそうだな」
 白は必然的な上目遣いで聖花を見る。立っているのは聖花の方だが、まるで見下ろされている感覚に陥る聖花だった。
「き、聞いたら、答えてくれるんですか?」
「内容によりけりだな」
「恭稲さんは、どうして自分の世界ではなく、ここにいるんですか? どうして、探偵事務所をしているんですか? なぜ白姫のいう里というもので、暮らしていないんですか?」
「質問が多いな」
 白は苦笑いを浮かべる。
「す、すみません」
 聖花は今までの疑問を投げかけ過ぎてしまったと反省する。
「一度口から出た言葉はもう二度と元には戻らない。言葉に、自分の選択に責任を持て」
「……はい」
 聖花はしょぼくれた姿勢をピンと戻す。

「全ての質問に間接的に答えるのならば、私は私が決めたことを真っ当するまで、里に戻り暮らすつもりはない。何故、探偵事務所をしているかについてだが、色々便利だからだ。特別詳しい事情はない」
「そう、ですか……」
「時に碧海聖花」
「はい。なんでしょうか?」
 改めて名前を呼ばれ、聖花の身体に緊張が走る。
「本気でその姿で生きていくつもりなのか」
「……ぁ! いえ」
 聖花の反応が遅れたのは、自身の今の姿を忘れていたからだろう。
「ならば、さっさとどうにかすることだな。白姫の着せ替え人形になるのではなく、自分の姿は自分で選べ。自分が生きていく姿だ」
「はい。失礼しました」
 聖花は一度会釈をして、半ば逃げるように自室へ戻っていった。



「先程は、白姫が失礼いたしました」
 聖花が自室へと戻ったことを確認した智白は、すぐに娘の無礼に頭を下げた。
「いや、構わない。里や里のモノ達を捨てたように過ごしているのは事実。里のモノ達からは、私への信頼は日々薄まっていっていることだろう」
「そんなことは……ッ」
「無いと言えるか?」
「――」
「いいんだ。むしろ、私への信頼など失ってしまったほうが、後の未来のため」
「また、何を考えておいでですか? ここで暮らし続けているのは、他にも考えがおありなんですか?」
「かも、知れぬな」
 白は妖美な微笑を口端に浮かべると、成すべきことを終えるための作業に戻った。
 智白はそれ以上深く推し量ることも、問いただすこともなかった。


 †


「白姫大丈夫?」
 聖花は自身のベッドで突っ伏していた白姫を労わり寄り添うように、そっと白姫のベッドに腰掛けた。
「うん。取り乱してごめん」
 上半身を起こし、ベッドの上で女の子座りをして答える白姫の瞳は赤い。
「ううん」
「白様は昔からあーじゃなかったのよ」
「どういうこと?」
 今の白しか知らない聖花は首を傾げる。
「もっと笑顔を見せてくれていたし、里の皆を大切にしていたし、良く遊んでくれていた。だけどある日、里から姿を消したのよ。その理由は検討がついているけど、あくまで私の予想だし、あまり話すと怒られるから言えない。ごめんなさい」
「うん。大丈夫。話せる所だけでええよ」
 聖花は白姫を受け止めるように、優しく微笑む。
 元より無理強いも、パーソナルスペースに土足で踏み込んでゆくことをしない聖花だ。そこは弁えている。


「ありがとう。白様が里から姿を消してすぐ、パパが白様を捜索してたの。見つけるのに苦労したみたい。いや、見つけるのに苦労したと言うより、説得するのに苦労したとも言えそう。二人は一年後に里に戻って来たけれど、白様は天狐になれるようになってすぐ、また里から姿を消した。パパと共にね。
 それから半年後に、力を貸して欲しいと要請があって、恭稲探偵事務所の存在と、白様が何をしているのかを知ったの。白樹も同様よ。私も白樹も白様が大好きだし、恩人だから力になりたくて、恭稲事務所に居座ることにした。と言っても、白樹は元々、人間界のボロアパートで住んでいるのだけれど」
 白姫は首を竦める。
「白樹さんは、なんでココや里に住んではらへんの? ぁ、答えられるならでええよ」
「住めないのよ」
「?」
 聖花は意味が分からず、小首を傾げることしか出来ない。


「ここには強力な結界が貼られていて、人間達や妖狐達からはバレにくくなっているけれど、いつ侵入されるか分からない。白樹がその場にいては標的にされてしまう。里にいても同じこと。だから半妖狐達は危険が及ばぬように、人間に紛れて人間界で暮らす事がほとんどなのよ。人間界には色々な匂いに溢れているから、私たちの匂いも紛れやすい。と言っても、年齢や能力の高さによって、その匂いの強さは違うのだけれど」
「……だから、恭稲さんは香水を?」
 聖花は白から漂う香りを、鼻腔に思い起させながら言った。
「さぁ。それは分からない。けど誘惑力の高い香りよね。もし白様が人間界で人間をしていたら、変な虫がいっぱい寄ってきて、追い払うのに手を焼きそうだわ」
「……変な虫も強者そうやね。ほとんどの人が遠巻きで見るしか出来なさそうかも」
 聖花は人間界で生きる白の姿を思い浮かべ、苦笑いする。
「ふふふ。言われて見ると。白様は色々とレベルが高すぎるもの。逆ナンしようとか、話しかけようだなんて人がいたら、逆に拝んでみたいわ」
「ふふっ」
「ありがとう聖花。なんだか元気出た」
 白姫は顔の前で両拳を作り、ニコリと可愛らしい笑みを見せる。

「どういたしまして。って何もしてないけど」
「ううん。こうして寄り添って、お話ししてくれることが凄くありがたくて嬉しい。今だって、二人共放置よ! 手厳しすぎるでしょ」
 白姫はご立腹なのか、胸の前で腕を組み、左頬を膨らませる。
「二人は……いつも手厳しい。せやけど、二人の優しさは常に感じてる。それは全面的に外へ出る甘い優しさでも、凄くわかりやすい優しさでもあらへんけど」
「そうね、私もそう思う」
 二人は気が合うねとばかりに、微笑み合った。


 その後、聖花は二ヶ月間の間、白姫と共に基礎体力と体のバネを効率よく使うための柔軟性を鍛えながら、智白や、智白の作る傀儡相手に、空手や刀を混じり合わせ、射撃の腕を磨き続けるのだった。