眠りから覚めた生き物が辺りを見回すと、すぐそばに真っ白で可愛らしいクマのぬいぐるみがあった。
白くて可愛い。
とても気になる。
生き物はふわふわなそれに近付いた。
ぬいぐるみがヨチヨチと歩き、こっちに来る。
いや、違う。――鏡だ。
大変だ。白くてもこもこしている。
生き物は動揺を隠し、震える肉球を舐めた。
猫のようなお手々を添えた口元から、小さな呟きが漏れる。
「クマちゃん……」
考え事で忙しい生き物の耳に、自身の言葉は届かない。
(自分はこんなに可愛らしくもこもこしていただろうか)
生き物改めもこもこは昨日までの自分を思い浮かべようとした。
うむ。――なにも思い出せない。
つぶらな黒いビー玉のような瞳をキリッとさせ、小さな黒い鼻の上にシワを寄せ、己の記憶を引き出そうと一生懸命頑張ってみる。
約二分くらい頑張ってみたものの、本当に何一つ思い出せそうにない。
過去の自分は諦め、今の自分を観察する。
長くも短くもない、ふわふわの毛並み。
真っ白な体はクマのぬいぐるみのようだ。
身長はよくわからない。頭身は二・五頭身くらいに見える。
顔にはまるく潤んだ瞳。黒い小さな湿った鼻。
口は、犬みたいに長くない。猫と同じくらいだろうか。
若干頭がでかい気がするが、総合的に可愛らしい。
性別は――わからなくても問題ない。
もこもこが可愛らしい自分に満足していると、鏡の中のクマの頭上に〈クマちゃんLv.1〉という文字が浮かび上がってくる。
(クマちゃん)
もこもこ改めクマちゃんは可愛い自分にぴったりの名前に納得し、うむ、とひとつ頷いた。
名前の横の数字はクマちゃんの興味を引けなかったようだ。
知らない場所の匂いが気になる猫のようなクマちゃんが、室内の探索を始める。
もこもこな体にぴったりの、木製の家具。
木枠にガラスが塡められたテーブル。
その上に置かれた、意味ありげに三つ並んだ鉢植え。
しかしクマちゃんは植物には詳しくなかった。
窓から外を見ようとしたが、窓の外に絡んでいる蔦と葉が邪魔でよく見えない。
すると、だんだん隙間からかすかに見える木の実や花が気になってくる。
一度何かが気になると、それしか見えなくなる猫のようなところがあるクマちゃんは、室内を調べようと思ったことなど忘れ、猫のようなお手々でドアを開く。
家の外に、綺麗な森が広がっている。
クマちゃんはハッと思いついた。
――そうだ、おいしい木の実を探そう。
もこもこは早速素晴らしい計画を実行するため、安全確認せずに家を出た。
そのとき、ドアに填まった細長い何かが光る。
ヨチヨチと森を歩くもこもこ。
音も立てずに消えた、小さな家。
おいしい木の実の発見数、ゼロ。
消えた家、一戸。
早くも暗礁に乗り上げる、素晴らしい計画。
しかし、直後事件に巻き込まれた憐れなクマちゃんが、背後で起きた家屋消失事件に気付くことはなかった。
現在クマちゃんは強大な敵と戦闘中である。
おいしい木の実を発見する前に敵から発見されてしまったのだ。
◇
「リーダー、あの犬がくわえてるぬいぐるみ何か動いてない?」
鬱蒼とした森の中。
リーダーと呼ばれた精悍な顔立ちの黒い服を着た青年が、若干チャラそうな金髪の青年が見ている先に目を凝らすと、ここから少し離れた木々の間にたしかに犬にくわえられ藻掻いている白い何かが見える。
「……何だあれ」
低く色気のあるその声は抑揚が少なく、感情がわかりにくい。
普段は無表情な黒服の青年がめずらしく眉間に皺を寄せそれを見ていると、だんだん白い何かの動きが弱くなっていく。
彼は一瞬思考を巡らせ、一つためいきをつき――かわいそうな白い何かを救出すべく森の中を駆け出した。
今しがた犬から救出したそれの無事を確かめようと、黒服の青年は自身が抱えた白い何かに目を向ける。
まるでクマのぬいぐるみのようなそれは、つぶらな瞳を潤ませ、彼を見つめていた。
「リーダー……それ何の生き物?」
男性にしては少しだけ高く、かすれ気味の声が森の中に響く。
「……」
ぬいぐるみのような生き物など見たことも聞いたこともない。
聞かれたところで答えようもなかった。
本人に聞くしかないだろう。
人間の言葉が通じるようには見えないが。
とりあえず怪我の手当が先かと、犬の歯型が付いてしまった気の毒な白い何かの頭に回復薬をかけてやる。
黒服の青年は歯型が消え心なしか元気になったそれに、一応声をかけてみることにした。
「お前はクマなのか」
彼は質問がおかしい。
「クマちゃん」
もこもこは答えがおかしい。
クマのぬいぐるみにしか見えない生き物の口から、幼い子供のような声が聞こえた。
幻聴でないのなら、この生き物は人間と同じ言葉を話せるようだ。
黒服の青年は表情を変えず、感情が読み取れない。
彼は無表情のまま考えていた。
(クマとの違いがわからねぇ)
「えっ?! 話せるんだ……。ってゆうか違いがわかんないんだけど」
クマちゃんが話したことに驚いているチャラそうな金髪の青年にも、『クマ』と『クマちゃん』の違いは分からなかった。
「名前は」
「クマちゃん」
クマちゃんを救出した黒服の青年が名前を聞くも、こたえは先程と全く同じだった。
「えぇ……」
かすれ気味の声を漏らす金髪。
一人と一匹の妙な会話に情報収集を諦めたチャラそうな金髪の青年が、クマちゃんに声をかける。
「えーと、とりあえずクマちゃん? の名前? も聞いたし俺達の名前も一応教えておくね。俺がリオでこっちがリーダーの……」
「ルーク」
黒服の青年ルークは無駄に色気のある低い声で簡潔に名乗りながら、クマちゃんの怪我が他にもないか確かめている。
チャラそうな金髪の青年リオは誰にいうともなく「いつもはもう一人いるんだけど」と呟き、無表情な男と彼に撫でられるクマちゃんを見ていた。
(ああいうリーダー見たの俺、初めてかも。……なんか嫌な予感がする)
彼の予感は結構よく当たる。
現在クマちゃんは黒服の格好いい青年に抱えられ移動中である。
彼らが住む街へと連れて行ってくれるらしい。
◇
多少の問題はあったが、すでに森での目的を達成していた黒服と金髪の青年二人は街に戻った。
極大な森林のすぐ側に存在するその街は、常に大勢の冒険者と商人で賑わっている。
先程森から帰ってきた二人もまた、冒険者として依頼をこなしてきたばかりだ。
数百年前から存在するその街には大きな街にふさわしい名前があったはずなのだが、色々なことに大雑把な冒険者達が「森の街」と呼び続けたせいで元の名前を知るものはほとんど居ない。
因みに大森林も森林も、冒険者達はひとくくりに〝森〟と呼ぶ。
なにやら可愛らしい小物があふれる店内。
リーダーである青年の買い物が終わるのをうつろな瞳で待つ金髪の青年リオの視線の先には、先程森の中で出会ったばかりの謎の生き物〝クマちゃん〟がいる。
嫌な予感は的中した。
可愛らしさとは無縁の青年ルークの腕の中にいる、真っ白でふわふわな可愛らしいクマちゃん。
もこもこした生き物は街中で一際異彩を放っていた。
しかし残念ながらそれを気にしているのはチャラそうな外見のわりに真面目な男リオだけだった。
「リーダー……まさかそれ、クマちゃんに着ける気じゃないよね」
少しだけ高いかすれ気味の声は店の中でもよく通る。
クマのぬいぐるみを「クマちゃん」と呼んでいるように見える迂闊な男リオも、周囲の女性客から二度見されている。
――幸か不幸か、本人は気付いていないようだ。
顔は良いが黒い服に無表情の、現在この可愛い店の中で一番浮いているルークは、高い身長に見合った長い指を器用に動かし、クマちゃんの首元に彼がいま選んだばかりの赤いリボンを結んでいる。
綺麗な蝶々結びの幅の広い真っ赤なリボンは、クマちゃんの真っ白でふわふわな被毛にとてもよく似合っていた。
◇
真っ赤なリボンでおしゃれになったクマちゃんは、現在冒険者のルーク達が活動の拠点にしている街の酒場にいる。
剣や杖を持った者、何の武器かわからない物を持っている者、何故か書類と酒を持っている者など、様々な人間が出入りしているのが見える。
冒険者達に〝酒場〟と呼ばれるこの場所は、冒険者ギルドと酒場と宿が一つになったこの街の中でも最大級の施設だ。
正しくは酒場ではなく冒険者ギルドだが、そう呼ぶ者はいない。
壁と一体になって設置されている、魔石と呼ばれるものを利用し高い技術で造られた巨大な掲示板。
その周りには、依頼を確認する冒険者達。
酒場内にいる人間の数と比べて、多くはない。
いつもは賑わっているはずの、依頼の受注や報告に使用される大きなカウンターも、酒場内のほぼ全員が別のことに気を取られているせいか閑散としている。
夕暮れ時。
これから混み始めるであろう時間帯の酒場と、クマちゃん。
――不吉な組み合わせだ。
異様に目立つ謎の生き物に、酒場内はざわついている。
整った顔立ち、高い身長、無表情、黒い服。
見る人に威圧感を与えるルークが微かに目を細め、ギシリ、と椅子を鳴らす。
――周りが少しだけ静かになった。
「そりゃみんな騒ぐでしょ。俺でも見ちゃうって。しかもなんかケーキ食ってるし」
そのまま座ると椅子の高さが足りずテーブルから顔が出せないクマちゃんは、ルークの膝に乗り、先程注文してもらったブルーベリーと生クリームが添えられたケーキを食べている。
ぬいぐるみのような顔にある黒いつやつやの目をキリッとさせ、とても真剣な表情だ。
「なにあれかわいい~! もきゅもきゅしてるぅー!」
大きすぎて持ちにくそうなフォークを使い、白いもこもこの手で一生懸命ケーキを口に運ぶクマちゃんの姿を、可愛いもの好きの冒険者たちが興奮気味に見つめている。
冒険者の何人かが「クマだ!」と言いながら仲間を呼びに二階や外へ駆けていった。
「あれってなんかやべぇモンスターとかじゃねぇの?」
リオはざわめきの中からクマちゃんに対する暴言を聞き取った。
やはり誰も見たことがない生き物というのは警戒されてしまうのだろう。
クマちゃんがケーキの横に添えられていたブルーベリーを、持ちにくいフォークで刺そうとしている。
この時点で、リオはすでに嫌な予感がしていた。
力みすぎて激しく揺れ動くフォークに、側面を強くこすられ回転がかかったブルーベリーが、皿の上から消えた。
被害者らしき男性冒険者の周りから人々の話し声が聞こえてくる。
「なんかぁ目にブルーベリーが飛んできたんだってぇ」
「あの人さっきぬいぐるみの悪口いってた人じゃない?」
「ブルーベリーって目にいいんだっけ」
「直接いれても効果あるの?」
「勢い良くいれすぎでしょ」
リオは事件の一部始終を見ていたが、犯人がクマちゃんであることは伏せておいた。
怪我はしていないはずだ。
これ以上被害者が出る前にこの場から立ち去りたいリオは、クマちゃんが食べ終えるのを見守っていたルークの腕にクマちゃんを抱えさせると、すぐに一人と一匹を二階の部屋へ押し込んだ。
現在クマちゃんはルークに抱えられ、これからクマちゃんの住まいとなるお部屋へ到着したところである。
うむ。家具が足りないようだ。
クマちゃんのベッドはどこだろうか。
◇
二階の突き当りにある部屋に入った二人と一匹。
暗い色の木目の壁。
色味を合わせた、焦茶色の木製家具。
魔石を燃料にしたランプが壁やテーブルに飾られ、室内を黄色がかった光で照らしている。
クマちゃんを抱えたまま、ルークがベッドに腰掛けた。
やや疲れた表情で、彼らを見つめるリオ。
備え付けのテーブルへ近付くと、前に置かれた椅子を引き、浅く座る。
「リーダー、明日からどーすんの? 連れて歩くの?」
疲れのせいか、声はいつもより低く、かすれている。
見ようとせずとも勝手に視界に入ってくる一人と一匹が、同時に頷く。
どうやらクマちゃんも一緒に行動したいらしい。
まさか冒険者になりたいのだろうか。
チャラそうなわりに苦労性のリオは、クマちゃんが剣を持ち敵と戦う姿を想像しかけ――、
「いや、無理」
呟くと、だるそうに首の横に手をあて、下を向いた。
「一匹ぐらい増えてもいいだろ」
いつもと同じ、低く色気のある声は相変わらず抑揚がない。
彼の長い指は、クマちゃんのもふもふの手の先にある爪を摘んでいる。
戦闘力の確認だろうか。
爪は先が丸くなっており、攻撃には向かないようだ。
おそらく引っ掻かれても痕も残らない。
クマちゃんは二人の話を聞きながら考えていた。
初めに居た小さな家から出てすぐに憎らしいあいつに咥えられ、誘拐されてされてしまったのは痛手だった。
抵抗も虚しく、一方的にやられていたところを颯爽と助けてくれたルークという青年は、自分にとっての恩人だ。
服は黒かったが、太陽の光が当たった時の銀の髪は、クマちゃんの真っ白な毛皮とそっくりで親近感がわく。
道を覚えようと、街に着くまでルークの腕の中から景色を見ていた。
彼らにとっては短い時間でも、クマちゃんにとっては大移動だ。
自力ではとても街まで辿り着けなかっただろう。
ルークは街中で一人服を着ていないクマちゃんを気遣い、白い毛皮によく映える、赤いリボンまでプレゼントしてくれた。
クマちゃんが苦しくないように、丁寧に確認しながら結んでくれたリボンは、蝶々みたいな形で可愛らしい。
きっと皆がうらやましがるだろうが、このリボンはあげられない。
かわりに本物の蝶々を捕まえて酒場に放そう。
パタパタ飛んで綺麗だから、皆喜ぶはずだ。
目覚めてから初めて食べた、ケーキという食べ物もとても美味しかった。
折角ルークがクマちゃんの為に頼んでくれたのに、果物がうまくフォークに刺さらず飛んでいってしまったのが悲しい。
まだ出会ったばかりだが、ルークはいつも優しくクマちゃんを撫でてくれる。
多くない口数。
低く落ち着いた声。
聞いていると、とても安心する。
何もわからず途方に暮れていた自分に、優しくしてくれたルークに恩返しがしたい。
冒険者というのはよくわからないが、クマちゃんもそれになれば、一緒にいられるはずだ。
そういえば、先程酒場という場所で見た〝剣士〟や〝魔法使い〟と呼ばれている人たちは、長い棒を持っていた。
明日からクマちゃんも長い棒を持って歩こう。
最初にいたあの家に戻れば、何かすごい棒があるかもしれない。
クマちゃんがあの小さな家に戻れないかと考えた時、ふわふわの手の中に細長い何かが音もなく出現した。
ルーク達は空間の変化を感じ取り、会話を止めた。
クマちゃんの右手に素早く視線を向ける。
右手から感じる微かな魔力は、おそらくクマちゃんのものだ。
癒し系といえなくもないクマちゃんらしい、回復系の魔力。
しかし微か過ぎて擦り傷も治せそうにない。
さかむけでもあやしい。
「……杖か?」
それの近くにいたルークは、力を入れないようにふわふわの腕を持ち上げ確認する。
リオは軽い音を立て、椅子から立ち上がった。
一人と一匹のそばに寄り、それを観察する。
その細長い何かは真っ白で、よく見ると魔法使いが使う杖を小さくしたような形状だ。
先の方についているのは、家の模型だろうか?
持ち手の下の部分にはクマの顔がついている。
「クマちゃんて魔法使えるの?」
さらに疲れが増したリオが、気だるそうに尋ねた。
可愛らしいクマちゃん。
何も悪いことをしない。
だが何故か、リオは弱っていく。
「……魔力でも込めて振ったらいいんじゃねえか」
悪いものではないという判断を下したルークが、杖の使用を勧めた。
クマちゃんは手の中の杖の先に付いている家の模型を見ながら考えた。
この家はクマちゃんが最初にいた家なのかもしれない。
もし、ルークの言った方法であの家に行けるなら、皆で一緒に行きたい。
クマちゃんはもふもふの右手に杖を持ち、もふもふの左手でルークの服をつかみ、黒く小さな鼻の上にキュッと力を入れて杖を振った。
クマちゃんが願った通り、二人と一匹はあの小さな家の中にいた。
クマちゃんを腕に抱えたまま移動させられたルークはとっさに床に片膝を突き、腕の中のそれを守るように力を込めた。
一人と一匹のそばで杖を見ていたリオは、たまたま屈んでいたおかげで低すぎる天井の餌食にならずにすんだ。
「ここ何処? ていうかめちゃくちゃ狭いんだけど」
リオは急にどこかへ飛ばされた驚きが、部屋が狭すぎるせいでかき消されたようだ。
「お前の家か」
ルークは室内の様子と部屋の狭さから状況を把握している。
謎の杖の効果に驚かない訳では無い。
だが今まで彼が手に入れたアイテムの中には、離れた場所への移動が可能な物もいくつか存在する。
動くぬいぐるみよりは、めずらしくはない。
クマのぬいぐるみに持ち家があることを気にしないルークは、冒険者らしく大雑把だった。
ルークの膝から降りたクマちゃんは、鉢植えに入った謎の植物の存在を思い出す。
何故か、それが役に立つような気がした。
自分の手では一つしか持てないが仕方がない。
三つ並んだ鉢植えの真ん中の鉢を両手で持ったまま、室内を見回す。
ベッドの上に袋が置かれている。
あれに入れて運ぶのがいいだろう。
もふもふが動いている様子を眺めていたルークが、筋肉質だが長くすらりとした腕をベッドの方へ伸ばしクマちゃんが見ている袋を取ってやる。
袋の両側についている紐は腕を通せそうだ。
ルークが鉢を袋にいれ、クマちゃんに背負わせる。
ただの袋に見えたそれは、白いふわふわな体にぴったりのクマちゃん型リュックサックだった。
大きさはぴったりだが、クマちゃんは体の後ろに鉢があるせいで立ち上がれない。
「リュックサックまでクマの形なんだ? つーか一旦帰んない? 狭すぎてやばい」
リオは冒険者らしく、何かが起こっても戦闘態勢に入れない場所では落ち着かないようだ。
ルークはあまり気にしていない。
戦闘スタイルが違うのだろう。
家が狭いという失礼な理由でクマちゃんのお家は不評のようだが、探索は何も進んでいない。
宿に帰ろうと言われれば帰るしかない飼い猫のようなクマちゃんが、お宝を発見するのは難しそうだ。
先程と同じように、小さな黒い鼻にキュッと力を入れ、杖を振る。
動いているうちに興味がほかに移ってしまう猫のようなクマちゃんは、すごい棒のことはもう覚えていなかった。
「なんか、森で五日戦ってた時くらい疲れた……」
朝と比べ声の大きさが半分以下になってしまったリオが、空いていたベッドに転がっている。
かすれた声というよりささやきのようだ。
仰向けの顔を隠すように腕を乗せ、微動だにしない。
体力ゲージが目に見えるとしたら、リオのそれは後少しで無くなる。
酒場から二階に上がってから、まだ三十分も経っていない。
その内クマちゃんの実家での滞在時間は十分以下だ。
夕食、シャワー、明日の予定の確認、武器の手入れ――。
まだ、やらなければいけないことはある。
今日は指定のモンスターを討伐するだけの簡単な依頼だった。
ギルドカードを見せるだけの達成報告は、数分もかからずに終わっている。
自分は何故、こんなに疲れているのか。
「依頼の確認をしてくる。こいつは置いてく。なんかあったら呼べ」
この時、ぼーっとしすぎたリオは
(すげぇいい声。言ってることクソだけど)
普段であれば絶対に思わないような事を考え、ハッとなった。
危ない。
荒んでいたようだ。
しかし、自分一人で対処出来ない程の問題が起こりそうなものを置いていかないでほしい。
「何か変な音聞こえんだけど」
腕をずらし、ルークが出ていったドアへチラリと目を向けた。
飼い主を追いかける猫のようなクマちゃんが、ドアをカリカリしている。
「クマちゃん。リーダー多分マスターのとこ行くから、しばらく戻ってこないよ」
リオは、ニャーニャーと諦めの悪い猫のようなしつこいクマちゃんを止めるため、声をかけた。
音は止んだ。
クマちゃんはまだ、ドアの前でノブが動くのを待っている。
放って置けば又、カリカリしだすかもしれない。
「さっき取ってきた鉢植えってなんだったの?」
〝鉢植え〟これさえ言わなければ。
ルークに置いて行かれ寂しくてたまらないクマちゃんは、ドアが開くのを待っていた。
しかしリオはクマちゃんに相手をしてほしいらしい。
仕方がない。
今は忙しいのだが。
名残惜しそうにドアから離れ、先程持って帰ってきたリュックを開く。
鉢植えと杖、他にも色々入っている。
そういえば、水をやったほうがいいのではないだろうか。
テーブルの上の水差しを取ろうと、椅子へ近付く。
高すぎて乗れなかった。
横にある足置きからベッドによじ登りテーブルを眺めたが、遠くて届かない。
〈ベッド〉〈水〉〈クマちゃん〉という、良くない組み合わせが完成に近づいていく。
リオが横になっているベッドが、クマちゃんの重みで静かにへこむ。
リオは、うとうとしていて気付いていない。
腕はもう、顔の上に戻してしまっていた。
クマちゃんが、サイドボードの上の花瓶を見ている。
ジョロジョロジョロ……
「何なに?! なに! なんの音?! なんか冷たいんだけど!!」
ほぼ寝ていたリオは、クマちゃんが出す謎の音で跳ね起きた。
下着が濡れている。何故だ。何が起こった。
ベッドの良くない位置が広範囲で濡れている。
水がほしいクマちゃんが、重い花瓶を持ってベッドをウロウロしたせいだ。
コップに水を貰ったクマちゃんは、リュックの中のそれに水をかけていたが、リオはもう鉢植えの話はしなかった。
朝、目が覚めたクマちゃんは、ルークの腕から抜け出し部屋の中を見た。
床が大変なことになっている。
なんとなく、このままにしておいてはいけない気がする。
少しくらい部屋が汚くても気にしないタイプのクマちゃんが、ちょっと気になるくらいには大変なことになっていた。
ひとりではどうにか出来そうにない。
助けが必要だ。
クマちゃんに顔をふんふんされ、ルークは目を覚ました。
「くすぐってぇ」
やたらと色気のある低い声が部屋に響く。
寝起きでも全く眠そうには聞こえない。
クマちゃんがルークの意識を床に向けようと、もふもふの手で彼の長い指を引っ張っている。
視線をそちらに流したルークは、無言でクマちゃんを抱え、洗面所へ向かう。
そして、椅子に掛けてあった黒い上着を取りそれを羽織ると、しなやかな動作で部屋を出ていった。
ドアが閉まる音がする。
「いまなんじ……」
寝起きでさらにかすれた声でリオが呟く。
室内に自分以外の気配がない。
――もう朝食の時間だろうか。
普段は二度寝したくなるが、今日は意識がはっきりするのが早い。
何故か妙に体の調子がいい。
室内なのに澄んだ空気は、森の中のように爽やかだ。
いつもより軽く感じる体を起こすと――爽やかではない。
部屋が大変なことになっている。
「え、なにこれ」
床に木が倒れている。
よく見るとその周りに、割れた植木鉢、こぼれた土、そして転がったリュック、はみ出した杖。
間違いない。
犯人はクマちゃん。
「えー……めっちゃ木倒れてんじゃん」
室内に木。
しかも倒れている。
意味がわからない。
原因はあの謎の植木鉢だろう。
だが昨日クマちゃんにあげた水は、この部屋の水差しに入っていたものだ。
特別ではない、この宿で普段から飲料水に使われているただの水。
自分があげたのだから、間違いない。
考えてもわかるわけがない。
クマちゃんに聞くしかないだろう。
答えを知っているかは分からないが。
一人でこれを片付けるのは絶対に嫌なリオは、素早く身支度を整え、一人と一匹を探しに部屋を出た。