眠りから覚めた生き物が、迷子の猫のような顔で辺りを見回すと、すぐそばに、真っ白で可愛らしいクマのぬいぐるみがあった。 
 白くて可愛い。
 とても気になる。
 生き物は、ふわふわなそれに近づいてみた。
 ぬいぐるみがヨチヨチと歩き、こちらへ向かってくる。

 いや、違う。

 超一流の猫並みに足音がしないあんよがヨチ……と止まる。

 ふんふん……と小さくお鼻を鳴らす。
 濡れた部分にひやりと空気があたる。
 最高に健康な猫のようなそれに、はっと口を開けた。
 ふわふわな被毛で、やけにもこっとしている口を。
 そして理解する。
 これは、鏡だ、と。

 大変だ。白くてもこもこしている。

 生き物は動揺を隠し、震える肉球を舐めた。
 猫そのものといったお手々を添えた口元から、まさか動物の鳴き声、もしや赤ちゃん? といった、愛らしい声が漏れる。

「クマちゃん……」

 だが動揺するもこもこには聞こえなかった。

 自分はこんなに、可愛らしく、もこもこしていただろうか。

 生き物改めもこもこは、むむ、深くと考えこんだ。

 目をキリッと吊り上げ、鼻の上にきゅっとシワを寄せる。
 己の記憶を引き出そうと、減りゆく注意資源を過度に浪費する。

 しかし、何一つ思い出せそうにない。
 過去の自分を可及的速やかに諦め、じっと鏡を見る。

 中毛種の猫のごとく美しい毛並み。
 ふわふわなお耳の丸さが、クマのぬいぐるみっぽさを醸している。
 身長は分からない。
 頭身は、二・五頭身くらいに見える。

 黒いビー玉のように潤んだ瞳。
 ピチョッと濡れた、黒い小さなお鼻。
 口の長さは、猫と同じくらいだろうか。

 若干頭がおおきいような。
 いや、よく見ると最高のバランスで、総合的に可愛らしい。
 性別は――わからなくても問題ない。

 もこもこが、自分の美貌に大いに満足していたときだった。

 目の前の鏡の一部が、不思議な力と共に弱々しくゆらめいた。
 ふわり。
 ぬいぐるみの頭上に〈クマちゃんLv.1〉という文字が、『ご一読ください』とでもいうかのように浮かび上がってくる。

 心臓が跳ね、丸い手先をぎゅ、とかむ。
 体が、もこもこもこもこと震え、瞳がうるむ。
 緊張でふたたび鼻が鳴る。

 もこもこは心の中で呟いた。
 口元にサッと肉球を添え、クマちゃん……と。

 もこもこ改めクマちゃんは、可愛い自分にぴったりの名前に納得し、うむ、と深く頷いた。
 名前の横の小さな数字は、クマちゃんの琴線にはふれなかった。

 知らない場所の匂いが気になるクマちゃんが、室内の探索を始める。
 つぶらな瞳に、白を基調とした落ち着きのある部屋の様子が映る。

 もこもこした体にぴったりの、大きさも高さも丁度いい木製の家具。
 木枠にガラスが塡められた、自然でお洒落なテーブル。
 その上に置かれている、意味ありげに、三つ並んだ鉢植え。

 しかし、クマちゃんは植物には詳しくなかった。

 窓から外を見ようとしたが、窓の外に絡んでいる蔦と葉が邪魔でよく見えない。
 そうすると、だんだん隙間からかすかに見える、木の実や花が気になってくる。

 一度何かが気になると、それしか見えなくなってしまうクマちゃんは、室内を調べようと思ったことなど忘れ、猫手でむに……とドアを開いた。
 温度の高い肉球が、真鍮(しんちゅう)でほんのり冷まされ、すぐに戻る。

 湿ったお鼻に、濃密な緑の香りがふわっと届く。
 優しい風が吹き、心地好い葉擦れの音が、ふわふわな耳をくすぐる。

 家の外には木漏れ日が美しい、穏やかな森が広がっていた。

 お外の匂いがもこもこの煩悩を刺激する。
 クマちゃんはハッとした。
 素晴らしいことを思いついたのだ。

 そうだ、おいしい木の実を探そう。



 ぬるり――。
 ドアの隙間を滑らかにすり抜けたもこもこは、さっそく素晴らしい計画を実行するため、安全確認せずに家を出た。

 その時。
 ドアに填まった細長い何かが、まるで何かが起こる前兆のように、キラリと光った。

 短いあんよがヨチ……と草を踏む。
 もこもこの背に、カッ! と光が当たる。

 刹那――音も立てずに消える、白い家。

 おいしい木の実の発見数、ゼロ。
 消えた家、一戸。

 早くも暗礁に乗り上げる〝素晴らしい計画〟。

 しかし、直後事件に巻き込まれた憐れなクマちゃんが、背後で起きた家屋消失事件に気づくことはなかった。