白うさぎと呼ばれる娘、物の怪と呼ばれる荒神の贄になったら幸せな花嫁になりました

「子供の頃はもっと視えていた。大人になってそう視えなくなったけれど。……美月だって視えていたはずだ。ただ、女性は処女性が関係するから。……美月、お前、早いうちに生娘じゃなくなったな?あれだけ『怖いのがいる』と泣きわめいていたのに、途中から平然と暮らすようになった」

「だからお兄さまは嫌いなのよ……」
 美月が恨みがましそうに勇に吐き出した。

「慶悟、美月はともかく神の元へ嫁入りした妹は諦めろ。触れてはいけない相手だ」
 勇の言葉の中に「妹」とあって白花はくすぐったくなる。
 兄は少なくても自分を妹だと思っていてくれたらしい。関わりが少なすぎて知らなかった。

「――なら、尚更ほしくなるなあ」
 しかしそんな勇の言葉も、慶悟には響いていなかった。

 再び白花に近寄ると、今度は肩に抱えてしまう。
「きゃあ!? な、何を……?」
「連れて帰る。姿もそうだけれど、この子といるとなんだかどんなことも上手くいくような気持ちになるんだよね。それに、考え方もいい。一人の男に尽くして真っ直ぐな目で僕に反論してきた。こういう子、屈服させたくなる」
「慶悟! 止めておけ! 怖いもの知らずにもほどがあるぞ!」
「いやよ! うさぎと一緒に鷹司家に嫁ぐなんて! この疫病神!」

 勇と美月が慶悟を止めるが、止める理由が違うのは一目瞭然だ。
 しかも美月の方は、強引に慶悟の肩から白花を引きずり落とそうとしている。

 ――勇はどうしてか、白花に近寄らなかった。

「ちょっと! 美月を止めてよ、勇! 危ないって!」
「いやよ、いや! 売女の娘のくせに! 今まで宮司の情婦だったくせに! 慶悟様から離れなさいよ!」

「……無理だ、触れられない。お前たち、どうして妹に触れられるんだ……? 恐れ多くて触れられない……」

 冷や汗をかいて青ざめている勇に真っ先に気づいたのは勇蔵だった。
「勇、お前……そんなに力があったというのか?」

「すみません……僕は槙山家を継がなくてはならない。けれど父さんは神社の仕事と切り離そうとお考えだったので言えず……今まで黙っていました」

 汗を拭い続ける勇は、その場に座り込んでしまった。
「勇! おい誰か! 美月も慶悟様も、とにかく落ち着きなさい!」

 息子のただ事じゃない様子に勇蔵は慌てて使用人を呼ぶが、なかなかやってこない。
 先に運ばれた妻や宮司たちの介抱で手が空いていないのか?

「……きませんよ、父さん……もうここは、神が降りてくる空間です」
「神……が?」

「慶悟! 妹を下ろせ! すぐにだ! 膝をついて顔を上げるな! 父さんも!」
「――?」

 ただ事じゃない言い方に、父はすぐに膝を突く。
 勇の剣幕に慶悟もなんだと文句を言いながらも、白花を肩から下ろした。

 その時だった――

 目映い光が目の前に現れ、眩しさに皆目を瞑る。

 ようやく落ち着いた頃に目を開けると、そこには白花と彼女を抱き佇む男がいた。


「ほぉ、そこの槙山の(おのこ)に救われたな。そのまま我が妻を担いでいたら命など消えていたわ」


 傲然たる態度でそう告げた。





(なんて素敵な……なんて美しい(ひと)なの)

 何が何だかわからないまま、跪かされ頭を下げろと言われても、美月には全くわからない。
 ただただ不快で、他の者たちが勇に習って頭を下げている中、美月は一人顔を上げていた。

 そんな中で、目の前に突如現れた背の高い立派な成りをした青年に心を奪われてしまった。

 真っ直ぐに背中に流れる髪は金の色に輝いて、日の光のよう。
 瞳の色は瑠璃色で、なんとも不思議な色合いだ。
 整った鼻梁に、意志の強さを表すような真っ直ぐ引き結ばれた唇。
 瓜実顔の雅な輪郭。

 美月は幼い頃から自分の容姿に、かなりの自信を持っていた。
 自分の横に並ぶ相手は自分と同等か、それ以上の相手でないといけないと心に誓っていた。
 そのせいだろう。
 とにかく、顔のよい男に弱かった。

 最初に目を付けたのは庭師の息子。
 彼が初めての相手だった。
 身分差や簡単に操を差し出すことに抵抗がなかったわけではない。
 けれど良い顔の男に口説かれて悪い気分はしない。
 行為そのもののを知らなかったのもある。受け入れてしまった。

 ――それからだ。

 男と女の情を交わすという、この世の快楽というものを知ってしまった。

 見目良い男たちにちやほやされるのは心地好い。
 そして自らが選んだ男たちと過ごす触れ合いは、自分が女王になったようで痛快だった。

 世間ではまだまだ女性の地位は低い。
 男に従い、家族でも女は格下扱いだ。結婚してもそれは変わらない。
 夫が外に女を作ろうとなんだろうと、妻はジッと堪えなくてはならないのだ。

 それが美月の場合、逆転している。
 自分が村一番の長者で名士の娘だから、皆が逆らえない。たとえ父の威光だとしても。

 年頃になり、そろそろ村の顔の良い男たちをはべらすのに飽きた頃、縁談が持ち上がった。

 鷹司慶悟――帝国で貴族の爵位を持ち、政権にも睨みを利かせる一族の後継者。

 兄・勇と友情を育んでいたとは――心が躍った。

 そここそが、自分の場所だ。
 彼の妻になることが自分の使命だ。
 財力と権力があれば顔など二の次だと、淑やかな箱入り娘のふりをして見合いをして、慶悟容姿に一目惚れをした。

 田舎にいない洗練された物腰に、帝都の流行の服装に髪型。
 いかにも穏やかな御曹司で、話している言葉や内容は耳に入ってこなかったが『女は、はいはい言って従えば良い』という男尊女卑の染みこんでいる帝国の教えは都合がよかった。
 ニコニコしながら話を聞いていれば満足するのだから。

 向こうも気に入ってくれて婚約、結婚とトントン拍子に進んで。
 しかも厄介者だった異母妹まで消えてくれた。美月の人生で一番輝いた時間だった。

 ――なのに。

(あの女が消えても私を不安にさせてくれて……! こんなことになって! 慶悟様が私の過去を知っても妻になってもいいとか、いい加減な人でよかったけれど……でも……)

 突然現れた男の見目麗しさにポォッとしてしまう。

 こんないい男、見たことがない。
 しかも、なんともいいがたい高貴な雰囲気まで持っている。
 慶悟なんて霞んでしまう。
 体が熱くて胸がずっと早鐘を打っている。いつまでも見つめていたい。

(ああ……! この方こそ、私の夫となる人だわ……!)

 美月は強くそう思った。

 慶悟の時も、俊司の時もそう思ったことは、もうすっかり美月の頭から抜けていた。






「荒日佐彦様、どうしてここに?」

 白花が尋ねる。
 神界で禊ぎをし今日の夜に戻るはずの彼が、下界に降りて自分を抱いている。

「アカリから知らせがきたのだ。白花の危機だとな」
「けれど、禊ぎは……?」
「なあに、あらかた済んだ。あとは白花に浄化を頼めばいいところまでいっているのでな。……しかし、来てよかったぞ、これは」

 ずっと白花を抱き、彼女だけを追っていた瑠璃の瞳がこっちに向いた。

(わ、私を見つめている……! きっと私の美しさに見惚れたのだわ!)
 美月は都合よく思い込んだが、それは自惚れにすぎない。
 荒日佐彦が見つめていたのは美月だけでなく、この場に揃っている者たち全員だ。

 背中にこぼれ落ちた髪を整えながら美月は、数歩駆け出した。
 話しかけて、自分を見てもらわなくては。
 大丈夫、自分は美しい。
 声を掛けられたら、話さずにいられないはず。

 突然現れたこの人は、神かもしれない。
(なら尚更、私に相応しい)

「あ、あの……っ!?」
 美月は淑やかに楚々と近づく。

 だが、彼がその腕に抱いている女を見て、嫉妬の炎が一気に燃え上がった。

(――うさぎ! 慶悟様だけでなく、この人まで! どうしてお前だけ愛されるの!)

 許さない。お前の旦那を奪ってやる。
 そうよ、親しくなってうさぎの過去を暴露してやれば離れていくわ。

 男好きで誰であろうと足を開いたとか、宮司と男女の関係だったとか、嘘も盛り込めばそれさえも真実に聞こえるだろう。

 神だろうと人であろうと、身持ちの悪い女など嫌われる。

 美月は荒ぶる心を隠し愛想のよい笑顔で、荒日佐彦の胸に飛び込むように近づく。

「貴方様は妹の旦那様ですか? 初めまして姉の美月と申します。不出来な妹を可愛がっていただいて感謝いたしますわ」

 親しい距離よりも近くにきて体に触れようとする美月から、荒日佐彦は白花ごと後ろに下がる。
 内心ムッとした美月だが、諦めない。
 スス……と荒日佐彦に近寄ろうとした。

「美月様! おやめなさい! その方は人ではありませんぞ! 恐れ多くも御祭神であられる!」
 そんな美月を大声で止めたのは、宮司だった。

「宮司様! お怪我は?」
 白花が荒日佐彦から離れ、宮司に駆け寄る。

「大事ない。どういうわけか、儂も禰宜も巫女も痛みが治まっているどころか怪我も消えてしまっていたのだ」
 宮司はそう面食らった顔をしながら、自分の体のあちこちに触れた。
「よかった……きっと力を加減してくださったんだわ」
 
 安堵している白花を微笑ましく眺めている荒日佐彦に、ここぞと体を近づけてきた美月は、
「見てください。あの子はああやって村中の男たちにいい顔をしているのです。……お恥ずかしいことですが、宮司とあの子は大分前から男と女の関係でして……」
 と、困ったような表情で囁きながら溜め息を吐いてみせた。

 不愉快そうに眉を寄せた荒日佐彦を見て、美月は自分の話を真に受けたとほくそ笑む。

「あの子から進んで貴方様の『贄』となりましたけれど、お役にたってはいないようで……申し訳なく思います。それでいかがでしょう? 妾腹ではなく本家の正式な娘である私が交代して貴方様に嫁ぐというのは? あの子は男たらしですから……ほら、あそこにいる方は私の婚約者でしたのに、すっかりあの子に心を奪われてしまって……私よりあの子が良いと申しますの……あの子もそうしたい、と承諾してしまって……そうすると私の居場所がなくなってしまいます。どうか私を妻に迎えていただけませんか?」

 着物の袖で目頭を押さえ、涙を拭うフリをする。
 こうすれば大抵の男は自分に靡いて、思う通りに動いてくれた。
 もう片方の袖で笑いそうになる口元を押さえ、嗚咽をもしてみせる。
 これでもう彼は私のもの。

 うさぎなんて、うらぶれてしまえばいいのよ。
 自分よりもてて、自分よりいい衣装をきて、自分より美しい女などいてはいけないの。
 親の愛も男の愛も神の愛も、全て私のもの――





「これ以上我に近づくな、下がれ」

 しかし、美しい男から発せられた言葉は非情だった。

「それに『贄』だと? 我は最初から『贄』など求めておらん。我が『妻』となる『花嫁』を求めていた。……なのに、どこで意味を取り違えたのか『贄』などと……」

「まあ、それは大変な失礼を……っ! 父はわたくしめが大切だと、妾腹の妹を差し出しましたの。ご迷惑をおかけしました。でももうこうして誤解が解けたのですから、本来のやり方にしたがって本家のわたくしが貴男さまに嫁ぎます。正しい血筋で行わなければなりませんよね」

 美月も引き下がらない。
 ここで白花と交代してもらえれば、自分は『神の花嫁』だ。

 突然現れた上にこの世の者とは思えない容姿に纏う空気。
 たとえ『神』でなかろうとも『妖し者』でもどうでもいい。

(私はこの男がいい。ほしい……! この美しい人こそ、私の伴侶に相応しい)

 こうして戸惑った顔をしながら後ろに下がっていく姿も麗しい。
(女性に近づかれるだけで恥ずかしがるなんて――なんて可愛らしいところがあるのかしら)

 うっとりとしながら荒日佐彦に寄り添おうとする。
 あとは腕に絡みついて胸でも当てれば、どの男もあっという間に自分に夢中になった。

「――来るな、お前は臭うし邪気まで纏っている。しかも馴れ馴れしい、不愉快だ」

 しかし荒日佐彦に冷ややかに手を払われ、近づくことを拒絶されてしまう。
 それだけでも矜持が傷つけられたのに、続いた言葉に美月は更に傷つく。

「こっちが呆れるほど、ほらふきな女だな。しかも、自分の都合のいいように話すから、内容がコロコロ変わって支離滅裂だ。よくこれで人として生きてこられたものだ」

「……なっ! し、失礼な……っ!」
 体を震わせ涙目になって怒り始めた美月を、宮司と白花が荒日佐彦から引き離した。

 はっきり性分を否定されてこなかった美月にとって、最大級の屈辱な言葉だった。
 宮司と白花を振り払い、怒りを乗せて荒日佐彦に突っかかっていく。

「私を誰だと思っているの!? 私は槙山家の長女、美月よ! 帝国で高名な鷹司家に嫁にいくのよ!」
「先ほど、婚約解消をされたといっていなかったか?」
「まだよ! まだ! だからこうして私と妹の交換を提案しているのでしょう!」

 キーキーと甲高い声を上げ、腕を上下に振って荒ぶる美月を宮司と今度は勇が押さえ込んだ。
 こうなると、興奮して歯止めが利かなくなるのをよく知っているからだ。




「勇、美月を屋敷へ連れて行け。これから込み入った話をするというのに、自己中心的な横やりばかり入れて邪魔にしかならん」
 と勇蔵が言うも、勇も首を横に振る。

「こうなってしまっては僕一人では抑えきれません。――慶悟、手伝ってくれ」
 そう後ろでニヤニヤと様子を眺めていた友人に声をかける。
「僕もか? いやだなぁ、引っかかれたら困る」
「一ヶ月後に結婚するんだろう? 慣れろ」
「僕はやっぱり白人の妹の方がいい」

 様子を見ていて美月に不安を抱いたのか、それとも純粋に白花を気に入ったのか慶悟はぼやく。
 慶悟の言葉を聞いた美月はますます拗らせ、ヒステリックな声を上げた。

「どうしてよーーーー! 生娘じゃなくたっていいって言ったじゃないの! そのほうが扱いやすいって!」

「今の君を見て、どうしたら扱いやすいと思えるの? それに、突然現れた神様っぽい美青年の方がいいんでしょう? さっき、妹と『妻』を交換しましょうって提案していたじゃないか。言われた通り君、支離滅裂だよ。その場限りの言い訳ばかりしてすぐに辻褄が合わなくて、ハッキリ言ってそう賢くないし」

「慶悟様の馬鹿! ――ねえ、聞いたでしょう?こうしてみんなが私を馬鹿にして虐めるんです! こんな所にいたくないんです!」
 美月が体を大きく揺らしながら、勇の頬を引っ掻いた。

「――っ!」
 一瞬、力が弱まったのを美月は見逃さず、勇の腕から離れ荒日佐彦の元へ駆け足で向かう。

 着物姿とは思えない速さに全員、呆気に取られていた。
 それは荒日佐彦もだった。

「どうか貴方の傍に妻として……!」
「我に触れるな!」

 そう声を上げて下がったが、美月は荒日佐彦の胸に飛び込んでいく。
 それは白花の目からは無邪気な幼女とも、主人を慕う動物のようにも思える光景だった。

 上手く荒日佐彦の胸に飛び込んだ美月は「離さない」とばかりに彼に抱きつく。

「……愚かな女子(おなご)め」
 そう忌々しそうに告げる荒日佐彦の顔は、苦渋に満ちていた。
 その表情に、白花はいつもの荒日佐彦ではないことに気づく。

「荒日佐彦様……?」
「放せ」「いや」と繰り返す荒日佐彦と美月の間に歩みよろうとした白花だったが、彼に手で止められてしまう。

「いかん、白花。来るでない」
「荒日佐彦様?」

 白花から奪ったと思ったのか、ふふん、と得意げな顔を見せた美月だったが、次の荒日佐彦の言葉に自分は「間違った」と、ようやく気づいた。

「この女子は『禍』を生み、溜め込んでいる。……それから俺が禊ぎで落とすはずだった障りが、流れ込んでいく」

 ――流れ込んで? 美月に?

 そう白花が頭の中で繰り返した時だった。



 ざざざざざざざざざざざ



 と槙山家の方角から、地を這い急いで逃げていく『何か』に皆、体を硬直させる。

 あまりの速さに白花は残像しか見えなかった。
 美月、慶悟、勇蔵に関してはそれさえも見えず、ただ何かがものすごい速さで逃げ、揺れる草木を不思議な面持ちで見つめている。

 宮司と勇は白花と同じように残像は見えるらしい。
 けれど感覚的に『何か』なのかわかったらしい。蒼白な顔をしていた。

 それは白花もだ。『ここにいなくてはいけない、とても大事な何か』だったということは体が訴えている。

「あれは……、なんですか?」
 白花は震えながら荒日佐彦に尋ねる。

「……『サチ』だ。『槙山家』にいた『サチ』だ」

 荒日佐彦の言葉に勇は悔しそうに唇を噛み、勇蔵は驚愕した顔のまま硬直してしまった。

「……今までの美月様の身勝手な行動が積もり積もって、神に無作法に触れるという『禁為』を犯し、とうとう『幸』を司る精霊が逃げてしまわれた……」

 宮司が残念そうに呟いた。

 だが、それが終わりではなかった。




「きゃああああああああああ!? 何これ? 何よ、これ!」

 美月が自分の体に生えてきた黒い棘に叫び声を上げた。

「無闇に我に触れるからだ」
 荒日佐彦が感情の籠もっていない声で答える。

「我は『荒神』としてこの地を護る神として生まれた。それゆえ、この地にはびこる『厄』や『禍』『災』をこの身に取り込み、精霊や人に自然を護る役割がある。この娘は我に取り込んであった『禍』を吸い込んでしまったのだ」

 だから触れるな、と申したのにと荒日佐彦は呆れたように告げた。

「どうして!? どうしてもっと早く言ってくれなかったの? 痛い! 痛い痛い痛いいいいい!!」
 美月が身を捩り、叫びながら痛がる。
 その間にも急激に体から黒い針が生え先端を尖らせていく。
 その異様な光景に誰もが動けず、ただ見守るしかなかった。

「たすけてぇ……お願い……痛い、痛い、痛いよぉ……」
「美月……!」

 泣きながら助けを乞う美月に手を差し伸べたのは、白花だった。
「大丈夫よ、私ならきっと貴女を助けられる……!」

 荒日佐彦が吸収した『禍』であるなら、自分が浄化できる。
 白花が美月に生えた棘に触れようとしたときだった。

 後ろから抱きつかれ、胸にすっぽりとおさめられる――荒日佐彦だ。

「止めい、白花」
「!? どうしてです? 荒日佐彦様から渡った『禍』なら私が浄化できるはずです」

「神に触れるのは、心身ともに清らかな者ではないといけない。邪な考えを持つ物が欲望のまま触れると、本性が姿に現れた形になる……。しかも、もともとこの娘が発していた『禍』で、私の中で純度が上がっていたものだ。それが本人に戻っていったから想像以上に早かったのだ。……もう、手遅れだ」

「……そんな」

「この地域一帯を纏っていたのはこの娘の『欲求』だった。……さすが辻結神社を代々守りし一族の娘というべきか。多大な欲求の強さが『厄』や『禍』を生んで、堪えきれず『サチ』が逃げてしまった」

 荒日佐彦がそう説明してくれたが、どこか憐れみの声音が混じっていた。

「自業自得の罰とはいえ……今の時代に、このように姿を変えてしまうとは……」
「アアアア……いたい、イタイ……イタイ……ィィィィィ」

 声がいつもの美月の声でなくなっていく。
 くぐもっていて何を言っているのかわからないほど難解な言葉に。
 手足が細くなり、体も小さく縮まって、着ていた着物が大きくて脱げてしまった。
 艶やかで長い真っ直ぐな黒髪は抜け落ち、小さくなった体に見合わない大きな頭を短い首が支えている。
 支えきれないのか、顔を上げられないようでずっと俯いたままだ。
 眼球だけは大きいがへこんでいて瞳孔は小さくなっており白目が目立っていた。

「……美月」
 勇蔵が嗚咽しながら娘の名を呼ぶが、もう名前にも反応しない。

 黒い棘を体中に纏い腰を曲げて小さく座る美月は、鏡で見なくても変化した自分の姿の醜さに気づいたようで、更に大きな声で泣き喚いた。

「アアアアアアアアッ! ワアアアアアアア! ア、ア、シャヒ……ッ! イヤアアアアアアッ!」

 回らない呂律で叫ぶと、四つん這いになって山に向かって走って行ってしまった。



「美月はどうなるんですか? もう、元に戻らないのでしょうか?」

 震えの止まらない白花の手を荒日佐彦はしっかりと握る。
「清浄な山の気に当たり続けていればもしかしたら……しかし、それでもあの娘の心が変わらないと難しい。たとえ変わっても、すぐには元に戻らないだろう」

 ――改心する頃にはもう、山の気に溶けているかもしれぬ。

 声に乗らない荒日佐彦の言葉が、白花の頭に入ってくる。


 その事実に白花は静かに涙を流した。





「我々ももう、戻らねば」
 荒日佐彦がそう白花の手を引く。

 はい、と白花も返事をするものの残された父や兄、そして宮司が心配で堪らなかった。
 特に宮司はまた父たちに酷い扱いをされるかもしれない。

 白花は立ち止まり、荒日佐彦に頼む。
「荒日佐彦様、どうか少しお時間をください。これからのことを話さなくてはいけない方たちがいます」

 白花が荒日佐彦から宮司、勇蔵、それから慶悟たちに視線を向けた。
 それで荒日佐彦は理解したのだろう、首肯してみせた。

「そうだな、このままでは後味が悪い。これからのことを話すのも大事だろう」
「ありがとうございます」

「しかし、白花。そなたが人に姿を見せるのは今回限りと思いなさい。本来ならそなたの力では姿を見せることはできなかった。これから先の力を前借りしているのだ。……わかるか?」
「そうだったんですね……」

 人界と自分が住んでいる場所を隔てる結界は、今の自分では抜けることなどできなかったはずだったんだ。
 それが出来たのは、自分の『強い思い』があったからこそ、と考えていたが、実際は違った。

「白花は半分人で半分神。『半神』だ。これは白花がいずれ『神』となったときに使うべき力を潜在意識で前借りしたということだ」
「……はい、わかりました」

 白花は、にこりと荒日佐彦に微笑んでみせる。
 後悔はしない、そういう決意を荒日佐彦は受け取って白花を宮司たちの元へ連れて行く。

「うさぎ……いや、今は白花だったな」
 率先して白花に声をかけたのは勇だった。

 そして父勇蔵を促し、二人で膝を突く。
「いままで済まなかった。これからは僕が父の代わりに神職に就き、辻結神社を支えていく」
「……儂も、この村に残り発展を支援していく。……それが槙山家の役目だということを忘れていた」
 二人とも落ち着いた口調で話すのをみて、覚悟が出来ているのだと白花はホッとした。

 ――しかし、荒日佐彦がゆるりと首を横に振りながら告げた。

「槙山家の家長の代で神職を務めるのは終わりだ」
「やはりお怒りは解けませんか……」
 勇が肩を落としながら呟いた。

「我が白花を妻として迎えたことで、槙山家との契約は切れたのだ」
「? それは一体どういうことでしょうか?」

 勇が首を傾げるのはもっともだ。
 それは白花にとっても不可解な言葉で、もしやと荒日佐彦に尋ねる。

「荒日佐彦様、私は槙山の血を引いてはいないのですか?」
「ああ、そうだ。――そこの宮司の血を引く」




「――えっ!?」

 白花だけでなく、そこにいる全員が宮司に視線を向けた。

 宮司は決意したのか神妙な様子で佇んでいた。
「宮司様……貴方が? 私の本当の父……?」
「……御祭神様がそう仰るのであれば、そうなのでしょう」
 宮司は静かな口調に答える。

「お前……! 儂を謀ったのか?」
 勇蔵が怒りで顔を真っ赤にして、大声で宮司を責める。

「そうではございません。……私も御祭神様に言われるまでハッキリとわからなかったのです。流れ巫女であった鈴とこの村で出会ったのは、私が最初でした。酷く疲れ切った様子で足取りもおぼつかなく、今でも倒れそうなところを私が手を差し伸べました。それから体調が戻って『恩返し』と神社の手伝いをしてくれて、最初で最後の恋と申しましょうか。いつのまにか私と鈴は、心を通わす仲になっていったのです」
「き、貴様……神職にあるまじきことだぞ!」

「神職でも結婚は許されております。貴方様もそうでしょう? しかしながら、何も受け継ぐものを持っていない私に貴方様のように禁為だと騒ぐ者も出てくるだろうと、私はきっぱりと神職から離れ、鈴とこの村から去るつもりでおりました。……そこからは記憶にございましょう?」

 急に責めるような声音になった宮司に、勇蔵はバツが悪そうな表情になり、顔ごと逸らす。

「最後のお務めと、隣村の用事を済ませに一日留守をしている間、貴方様は神社にいた鈴を槙山家に無理矢理連れて行きになりました。……私が何度も訪問して彼女の安否を尋ねても『知らぬ存じぬ』と言い続けて、それから十ヶ月経ったある日に『槙山家に腹違いの娘が生まれた』と聞き、駆けつけた私にようやく貴方様はお話しになりましたよね? 『神社にいた流れ巫女に子を産ませた』と。『産後に出血が酷く亡くなった』と……!」

 堪えきれなくなったのか宮司は怒りを乗せ勇蔵を責める。
 涙を流しながら目を見開き、鬼気迫る姿だった。

「私と鈴は既に夫婦の契りを結んでおりましたが、妊娠の兆候はなかった。だから生まれた女児は勇蔵様のお子だと……。でも、『いや、あのとき妊娠の兆しが現われかっただけでは?』とも思いました。……鈴の生んだ娘は『白髪・赤目』と聞いてこの先、辛い目に遭うのはわかっているのに、ここを去るわけにはまいりませんでした。鈴の娘を見守るためにずっとずっと……こうして宮司を務めて……ぁあ……」

 宮司はここまで一気に喋ると、激しい息づかいを整えるように呼吸を繰り返し、すすり泣きながら白花を見つめた。

「私の……鈴と私の娘だったのですね……私の、娘……っ」

 涙を流す、目の前にいる好々爺は私の本当の父――





「幼い頃からずっとずっと私のことを気に掛けて、お優しくしてくださって……いつも『この人が私の父だったらよかったのに』と思っていました……本当に私の父なんですね……」

「いきなさい。これからの前借りの分だから」と、荒日佐彦が白花の背中を押す。

「お父さん……!」
 白花は躊躇いなく宮司の元へ駆け寄り、老体を抱きしめた。
 宮司も娘と判明した白花を受け止め、涙を流しながら抱きしめる。

 白花にとって極めて近しい相手なのに、こうして温もりを経験したのは初めてで、それなのにとても懐かしく感じるのは血のせいなのだろう。

「白花……! これからは幸せになりなさい。私はずっとお前の幸せを祈ろう。神を祀る者として。神の元へ嫁いだお前の幸せを祈ろう」
「はい……ありがとう、お父さん……。私もお父さんがこの村で幸せに暮らしていけるよういつまでも念っていきます」
「はは……お前はもう御祭神様の妻。私の幸せだけでなく、ここの村含む一帯の安全と幸福を祈らねばならないよ?」
「いやだわ……それならお父さんだってそうでしょう?」

 泣き笑いしながら互いに言い合い、また笑って――そうして名残惜しそうに離れる。

 荒日佐彦の腕の中に戻った白花を、宮司は眩しそうに見つめた。
 一呼吸置いたところで荒日佐彦が勇に告げる。

「そういうことだ。お前の父には最後まで務めを果たすことを命じるが、お前は帝都に出なくてはならない。……そこの風変わりな坊ちゃんのお目付役としてな。あれはお前を頼りにしている。付いた方が槙山家の運が上がる。なにせ『サチ』が逃げてしまったからな。鷹司の『サチ』を分けてもらえ。あの家は随分と育てておる」

 少し離れた場所で手持ち無沙汰にしている慶悟を、みなが一斉に視線を向けた。
 彼は突然注目を浴びたので驚きながらも愛想笑いをしている。

「……しかし、美月がいない今、鷹司家と縁はもう……」
 消沈している勇に慶悟が声を掛けた。

「僕と君の友情があるだろう? 僕はね、君のことを買っているんだ。父もそうだよ。何せ僕の暴走を止めることができる唯一の人間だからね。……冷静に助言してくれる君がいないとこれから先困るんだ、色々と。だって僕は今回のことのように、周りが見えなくなってしまって君の妹を交換するなんて言ってしまう人間だから」
「慶悟……」

「頼むよ。一緒に鷹司家を盛り立ててくれ。勿論、見返りはする」
 気安く肩を叩いてくる慶悟に勇は苦笑する。

「慶悟、君には本当に苦労させられる……」
「まぁ、勇が禿げないよう努力はするよ」

 軽口を叩く慶悟に勇はまた笑い、頷いた。