「なんのマネだ?」

 しかし天使化した勇者にとって、炎の下級精霊である【火トカゲ】の攻撃なんてものは、攻撃どころか目くらましにもなりはしない。
 勇者の身体を包んでいる薄い白銀の光の膜は、『神の祝福(ゴッド・ブレス)』と呼ばれる最高位の防御術式なのだから。

「なにしてる! 下がってくれ魔王さま!」

 だから俺は強く呼びかけたんだけど――、

「もうよいハルト。よいのじゃよ」
「え――?」
 俺に顔だけを向けて優しく笑ってそれだけ言うと、幼女魔王さまは勇者へと向き直った。

「勇者よ、(わらわ)は南部魔国の魔王である。お主の狙いは(わらわ)であろう?」
「お前が魔王だと?」
「いかにもじゃ。そして勇者よ。この戦が長引けばリーラシア帝国と南部魔国は全面戦争になるじゃろう。それだけは避けねばならぬ。よって(わらわ)はこの身を捧げよう。お主の好きにするがよい」

「ははっ、まさか魔王が戦わずして降伏とはな。(つの)のないへっぽこ鬼族だと話には聞いていたが、本当にどうしようもないへっぽこぶりだな。でもまあ、いい心がけだ南の魔王さま」

「魔王さま、やめろ! 俺はまだ戦える!」
 俺は痛みを堪えて無理やり立ち上がった。
 ジュウッ!
 【イフリート】で傷口を焼いて、強引に出血を止める。

「あぐぅ――――っ!!」

 絶妙の火加減のおかげでこれでも痛みはまだマシな方なんだだろうが、それでも痛みで目の前が一瞬、真っ白になる。
 俺は気合を総動員して痛みを堪えると、震える手で黒曜の精霊剣・プリズマノワールを構えた。
 戦闘を継続するべく必死に気張った俺だったんだけど、

「もう良いのじゃよハルト。お主に死なれてしまっては、(わらわ)はあの世で後悔してもしきれんからの」
 幼女魔王さまはそう小さくつぶやくと、勇者に向かって歩いていくのだ。

「待てって――うぐ……」

 傷口は塞いだものの、痛みと疲労で身体が重い……。
 まるで首元まで泥沼にはまってしまったみたいに、身体がうまく動いてくれない……。

 そして、俺が剣を構えるのにも四苦八苦している間に、幼女魔王さまはついに勇者の目の前までたどり着いてしまう。

「それで勇者よ。どうじゃ、(わらわ)の命では済まぬじゃろうか? 落としどころとしては悪くないと思うのじゃが」
「ま、実のところ僕も全面戦争だけは避けたいからね。南の魔王を討伐した実績が手に入れば、ここは良しとするさ」
「ならばよいのじゃ。では一思いにやるがよい」

「魔王さま、おい、待てって! 魔王さま――!」
「ったく、さっきからうるさい奴だな。ま、離れて()えるだけなら子犬でもできるか。おとなしくそこで見ていろハルト・カミカゼ。そして思い知れ、己の無力さというものをな」
「――くっ!」

 動け、動けよ俺の身体!
 頼むから動いてくれ!

「さようなら南の魔王。一応、礼は言っておこうかな。僕の輝かしい未来の(いしずえ)となってくれてありがとう、とね――死ね」

 無造作に振り下ろされた聖剣が、

「待て――待ってくれ――」
 無抵抗の幼女魔王さまの胸からお腹にかけてを、わずかの情け容赦もなく斬り裂いた。

「魔王さま――」
 どくどくと流れ落ちる鮮血で真っ赤に染まった幼女魔王さまは、糸の切れた操り人形のごとく、力なくその場に崩れ落ちる。
 血だまりに倒れる幼女魔王さまの姿を見せられて、俺の中で猛烈な怒りが爆発した。

「【イフリート】!! 【相手は死ぬ(ヘル・フレイム)】!!!」

 【イフリート】の最大火力を凝縮した精霊弾を、俺は勇者めがけて撃ち放った。
 獰猛(どうもう)な灼熱の軌跡を残し、一直線に勇者に向かって突き進む火炎弾を、

「ちぃ――っ! まだこんな力を残していたのか!」
 勇者が大きく飛びのいて回避する。
 チッ!
 勇者の前髪をわずかに焦がした怒りの炎を視界の隅でわずかにとらえながら、俺はすぐさま幼女魔王さまへと駆け寄った。

 体中が痛いが、今はもうそんなことは関係ない!

「魔王さま! おい、魔王さま!」
 俺の頭には、ただただ幼女魔王さまのことだけしか存在していなかったのだから!

 俺が倒れ伏す幼女魔王さまの状態を抱き起すと、
「ハルトか……無事でよかったのじゃ……」
 幼女魔王さまはわずかに目を開くと、力なくつぶやいた。

「なに言ってんだ! 無事かどうか問題なのは、魔王さまのほうだろうが!」
「問題ないのじゃ……(わらわ)はもうだめじゃからの……」
「縁起でもないこと言ってんじゃねぇ!」
「これが致命傷だということは……(わらわ)自身が一番、分かっておるのじゃよ……」
「そんなことない、まだ話せているしなんとかなる!」
「まったく……普段はへっぽこじゃというのに、変なところで鬼族のしぶとさが出ておるのう……もはや生きながらえるのが無理なのは明らかで……痛くて痛くてしょうがないというのに……鬼族の身体はそれでもなんとか(わらわ)を生き延びさせようと、あがくのじゃから……本当に、困ったものじゃ……」

「魔王さま……」
「のぅ、ハルト……頼みがあるのじゃ」
「なんだ、何でも言ってくれ!」
(わらわ)を……殺してはくれぬか?」

「なにを言って――」
(わらわ)はもう助からんのじゃ。元より助かってしまっては、勇者の手にかかった意味がないしの……。なのに鬼族の生命力は、わずかでも生き延びさせようと必死に身体を修復しよるのじゃから……」

 ゴホッっと幼女魔王さまが大きな血の塊を吐き出した。

「生きている限りは諦めるなっての!」
「お主ほどの歴戦の猛勇ならば、分かるであろう……」
「くっ……!」

 幼女魔王さまの言う通りだった。
 いくら強靭な鬼族であっても、これはもう致命傷だ。
 大切な臓器がいくつも破壊されている。
 しかしそれでも、鬼族の類まれなる生命力は、幼女魔王さまを一秒でも生き永らえさせようとあがいているのだ。

「それに最後、ハルトの手で今生(こんじょう)に幕を下ろしてもらえれば、(わらわ)は笑っていくことができるのじゃよ」
「魔王さま……」

「ハルトとミスティと過ごしたスローライフは、とても、とても楽しかったのじゃ……楽しかった思い出とともに、(わらわ)をハルトの手で(ほうむ)ってはくれぬか? (わらわ)の最後のお願いなのじゃ……」

 それっきり魔王さまは言葉を話さなくなった。
 ただ、喉から出るヒューヒューというかすれるような音が、俺の耳を強く打つ。
 瞳からは完全に生気が失われ、何もない虚空をただただ見つめていた。

「魔王さま……分かったよ」

 俺は立ち上がると、虫の息で横たわる幼女魔王さまの心臓の上に黒曜の精霊剣・プリズマノワールの切っ先を当てた。

 そしてわずかなためらいの後、俺は意を決して心臓めがけて黒曜の精霊剣・プリズマノワールを突き刺した。
 ブスリ、と嫌な感触が手に返ってくる。

「あり……が、とう……ハルト……あ、り……が……t――」

 幼女魔王さまは気力を振り絞りながら最期に俺への感謝の言葉を残すと、必死に笑おうとしながら笑えず、そっとその目を閉じた――