今夜、君の夢が見られますように

 歩道橋から真下を見下ろしたら、死にたいと思った。
 暗闇の底にいるようなこの人生を終わりにしたかった。
 春の温かい日差しは自分の汚さを思い知らされているみたいで最高に惨めな気持ちだ。この17年の人生で自分の運命を呪ったことは数えきれない。
 歩道橋から真下を見下ろすと、忙しなく車が行き交っている。あっけなく死なせてくれるだろうか。
 手すりに足をかけ、身を乗り出す――
「死ぬの?」
 急に声をかけられ、思わず動きを止めた。後ろを振り向くと、水色のワンピースを着た同い年くらいの女子がじっとこっちを見ていた。
「……ああ。だからあっちに行ってくれ。人が死ぬところなんて見たくないだろ」
 大体飛び降りようとしてるって分かってるのに、死ぬのかなんて普通聞かないだろ。かといって飛び降りるのを止めようとする感じもない。一体何がしたいんだ。
「いろんなことを経験しないまま死ぬの?」
「もう放っといてくれ」
「ねえ、君は誰かとデートしたことある?」
「は?」
 思いがけない言葉に一瞬思考が止まった。
「その反応だとないんでしょ。いいよ。私、君とデートしてあげる」
 そう言って彼女は微笑む。その態度にカチンときた。
 俺が……今までどんな思いをしてきたか……この女に何が分かる。
「どうせ死ぬわけないって馬鹿にしてるんだろ! 俺のことなんて何も知らないくせに!」
「うん、なんにも知らない。だからいいんじゃん」
 そう言って俺の腕を掴んだ。
「お互いの事情なんてなにも知らずに、デートだけ楽しもうよ。死ぬのなんてその後でもいいんだからさ」
 一体、何を言っているんだ。
「あんた、頭おかしいんじゃないか?」
「……うん、そうかも。ほら、行こうよ!」
 変な言動に飛び降りる気も失せてしまった。俺は仕方なく彼女に引きずられて歩き出した。

「デートって言ったら何かな。遊園地で観覧車? それとも湖でスワンボート?」
 国道沿いの並木道を歩きながら、隣の彼女を横目で窺う。茶色みがかった長い髪、色素の薄い綺麗な瞳、ワンピースからのぞく白い手足。一般的に見て彼女は美人な部類なんだろう。
 だけど、見知らぬ男と二人だというのに妙にハイテンションだったり、逃げ出さないようにか俺の腕をがっちりと掴んでいるところを見るとやっぱり普通ではない。
「ねえ、君はどう思う?」
「何が目的? 金か?」
 知らない男を捕まえて連れまわす理由なんて、後で「デート代だ」とか言って金を請求するくらいしか思いつかない。
「もう! 目的とかそんなんじゃないよ」
 そう言って頬を膨らませた。
「あえて言うならこのデート自体が目的、みたいな。私は今こうやって君と並んで歩いてるだけで楽しいよ。これから何が起こるんだろうって考えてワクワクするし!」
 金のためにここまで嘘をつけるのなら大したものだ。
 まあ別に金をとられても痛くはない。飛び降りようとする男にデートを吹っ掛けるくらいだ、金よりも彼女を振り切ることの方がよっぽど大変そうだ。
「別に何もする気はないから。腕を掴まれてるから仕方なくついて歩いてるだけ」
「えー? 遊園地は? スワンボートは?」
「意味が分からない」
「じゃあ、駅ビルでウィンドウショッピングとか……」
「やめてくれ!」
 俺の声に隣を歩く肩がビクンと跳ねた。その様子を見て少しだけ胸が痛んだ。
「……悪い。人混みは無理なんだ」
 他人が多ければ多いほど自分をコントロールするのは難しくなる。苦しい思いはしたくない。ただでさえ今日はこんなにおかしな奴と話してしまっているのに。
「私こそごめんね。そうだ、私達のルールを決めようか。お互いの事情は詮索しない。なにか他にある?」
 驚かせたのは少し悪いと思っているけど、俺に譲歩しようとしているなら都合がいい。
「この腕の拘束を解いてほしい」
「放したら君、逃げちゃうでしょ」
「歩きにくいから言ってるんだけど、この条件が飲めないなら俺は君をなぎ倒してでも逃げる」
 本当はすれ違う人の視線が痛くて限界だった。なんでこんな美人がこんな冴えない男とってじろじろ見られるのもそうだし、妬ましそうに睨んでくる男は何なら替わってやりたいくらいだ。
「分かった。じゃあ、ルール追加。私が満足したって言うまで帰らないこと」
「はぁ!?」
 一体いつまで連れまわすつもりだよ!?
「それが条件。ルールはちゃんと守ってよね」
 そう言ってパッと手を離した。
「君は……ってせっかくのデートなんだから君って言うのも味気ないね。本当の名前じゃなくていいから呼び方を決めてよ」
 呼び方……本名は嫌いだからそれは助かるけど。周りを見渡すと「冷凍食品専門店」と書かれた看板が目に入った。
「じゃあ、レイ」
「冷凍食品のレイ君ね、了解。それなら私のことはハルって呼んで」
 今の季節が春だからハルってことか。これくらい適当な方が気兼ねなくていい。

 ハルについて歩いていると川沿いの道に出た。繁華街から離れたのは俺に気を使ってくれたのか。
 川沿いの桜並木は満開になっていた。ずっと先まで桜のラインが続いている。このあたりもこんなに咲いているなんて知らなかった。
「わぁー! 桜すごいねぇ!」
 ハルは無邪気に駆け出す。
「こんなに近くで見たの、いつぶりだろ……」
 そう呟いて嬉しそうに桜を眺めている。俺も外に出るのを避けるようになってから、桜なんて久しく見ていない。青空に映える薄ピンク色の花が昔は好きだったような気がする。
「綺麗だな……」
 呟くように口を出た。
「レイ君もそう思う? それじゃあいい場所見つけちゃったね」
 俺の顔を覗き込んでハルはニイっと笑った。慣れない距離感に少し戸惑う。
「桜の下を散歩しよっか。それもデートっぽいね」

「こんなに桜が満開になってるのに、見に来る人は少ないんだねぇ。穴場なのかな?」
 隣を歩くハルが言う。並木道の先には老夫婦と子供を連れた母親がいるくらいだった。どうしてそんな当たり前のことを聞くのか。
「平日の昼間だからじゃないか?」
「ああ、そっか! すっかり忘れてたよ」
 ハルは照れたように笑った。
 同い年くらいなはずだから恐らく高校生。ハルにも学校へ行っていない何か事情があるんだろう。
「あ、今なに考えてるのか当ててあげよっか?」
 俺の表情で察したのか、そう言った。
「ズバリ! 『天然なところも可愛いな。推せる』でしょ!」
 なんでそんなことを自信満々に言えるんだ。
「……お前、人生楽しそうだな」
「えへへ。褒め言葉として受け取っておくよ」
 そこで話は途切れて、俺はぼんやりと桜を見上げながら歩いた。この景色、なんだか懐かしい感じがする。昔の記憶は曖昧だからいつのことかは思い出せない。それにここは俺の生まれた場所じゃないのに。
「ちょっと!」
 その声に振り向くとハルが膝に手をついて息を切らしていた。
「はぁ、はぁ……もう、歩くの早い!」
「悪い」
 一人で歩くときは早足になるのが癖になっていた。誰かと一緒に歩くなんて普段はめったにないから感覚が分からない。
「もう、そんなんじゃいいデートは出来ないぞ!」
「デートなんて一生することないから大丈夫」
「今がデートでしょうが!」
 そう言ってハルは俺の胸目がけてグーパンを突き出してくる。俺は手の平で受け止めた。
「おのれ、小癪な……」
 ハルは悔しそうな顔をすると、両手でパンチを繰り出す。
「当たれっ! 当たれぇ!」 
 腕の軌道はバレバレで、それを受け止めることはたやすい。
「そんなんじゃいつまでたっても当たらないと思うけど」
「この……唸れ私の右腕!」
 そう言って突き出した拳は、途中で急停止した。構えていた俺の手が空を切る。
「くふふ、かかったね」
 ハルは俺を見て嬉しそうに笑う。その様子が全部嘘には見えなくて、「金が目的じゃない」というのも本当なのかもしれないと思った。それならどうして俺に声をかけたのか……まあ、そんなことは何でもいいか。
 空気を掴んだ手には何かに触れた感触があった。そっと手を開くと、中には薄ピンク色の花びらが一枚入っていた。
「ええ!? いいなぁ!」
 俺の手を覗き込んでハルは目を輝かせた。
「私も掴みたい!」
 そう言うと、ハルは夢中になって花びらを追いかけ始めた。伸ばす手は空振りするばかりで、花びらにも触れられない。
「おい、もういいだろ……」
「レイ君は出来たからっていいけど、私は全然よくないんだから! 桜を掴めるまでやめないからね!」
「はぁ……!?」
 一向に花びらを掴めそうな気配はない。いつまで続けるつもりだよ。
 その時、ハルの追いかけていた花びらが風に吹かれて車道に飛ばされた。ハルも花びらの動きに夢中になって車道へ飛び出す―――

 轟音をあげて車は遠ざかっていった。
「おい! 死にたいのか!」
 咄嗟に腕を掴んで歩道へ引き寄せた勢いで、俺達は地面に尻もちをついていた。俺を見上げたハルはおかしそうに笑う。
「ふふっ、さっきまで死のうとしていた君に言われるなんてね」
 自分が傷つくのは何とも思わないけど、目の前で人が傷つくところは見たくなかった。それに、そんなこと絶対に知られなくないけど、ハルにはほんの少しだけ情が湧いてしまっていた。
「……なんだよ」
「ううん、助けてくれてありがとう。まだレイ君とのデートを楽しみたいからね」
 そう言ってハルは立ち上がると、服についた土を払う。
「桜を掴むのは諦めることにするよ。行こっか」
 ハルは俺に手を差し出した。白くて細い腕だ。ちょっと力をかけたら簡単に折れてしまいそう。女子っていうのはみんなこうなのか?
 断るのも違う気がして、差し出された手を軽く掴んで立ち上がった。

 歩いていると、桜並木の終わりにたどり着いた。
「桜もここまでかぁ」
 立ち止まったハルが悲しそうに言う。
「そうみたいだな」
 ここまでついてきたけど、これ以上付き合ってやる義理はない。
「じゃあ、俺はこの辺で……」
 歩いていこうとする俺の腕をハルが掴んだ。
「ちょっと! 私まだ『満足した』って言ってないよ!」
「……お前なぁ、よく出会って数十分の人間にそんな執着できるな。俺がどんな奴かなんて知らないだろ。ひどい目に遭わされていたかもしれないんだぞ」
 普通に考えて男の方が力も強いんだから、危ない目に遭う可能性が高いのはハルの方だ。ここまで危機感がないのは心配を通り越して呆れてくる。
 俺の言葉にハルは薄く笑った。
「君がどんな人かなんて関係ないよ。あの場で死のうとしていたっていう事が私にとっては君の全て。正直、どんな目に遭ってもよかったんだよ」
 ハルの瞳は冷たく闇を宿していて、今までとは別人みたいだった。
「それって、どういう……」
 ハルは申し訳なさそうな顔になった。。
「ごめん、ちょっと余計な事言っちゃったね。レイ君は私にひどい事なんてしなかったんだからそれでいいじゃん。もうちょっとだけ一緒にいてよ」
 一緒にいてほしい、なんてそんなことを言われたのは初めてかもしれない。俺の顔を見てハルは微笑む。
「ねえ、あっちに行ってみよう!」
 そう言うと、俺の手を取って走り出した。

 ハルに手を引かれて走る。他人と一緒にいるのは苦手だ。他人に余計な情を持ちたくない。そう思っているはずなのに、この手を振りほどけないのはどうしてだろう。力を出せば簡単にほどけるのに。本当は、俺もハルと一緒にいたいのか……?
 ハルが立ち止まったのは、こじんまりとした雑貨屋の前だった。店先にはネコ雑貨と書かれた看板がぶら下がっている。
「ネコ雑貨だって! ちょっと見て行こうよ」
 ハルに連れられて店に入る。店内は他に客が無く、オルゴール調のBGMがかすかに流れていた。
「わぁ……可愛いねぇ」
 棚に並んだ商品を見て、ハルは声を漏らす。猫をモチーフにしたアクセサリー、猫が描かれた食器、他にもいろいろ。猫関連の商品だけで店を埋めるほどよく集めたなと感心するほどだ。楽しそうに店内を見て回るハルの後ろを俺はついて歩いた。
「猫好きなのか?」
 何となく気になって聞いた。
「うん。昔から好きでいつか飼いたいなぁってずっと思っていたんだけどなかなか難しいよね。だからこういう猫のグッズとか、猫の動画を見て楽しんでるの」
「そうか……」
 まあ、生き物を飼うのは俺達みたいな子供が勝手に決められることじゃない。アパートがペット禁止とか、猫アレルギーとか、そもそも親が猫好きじゃないとか、色々あるんだろう。
「ねえ、これとこれだったらどっちがいいと思う?」
 そう言って見せてきたのは、猫の顔の形をしたポーチと、猫のシルエットをモチーフにしたシルバーネックレスだった。
「女子のそういう質問はもう答えが決まってるから、真面目に答えるだけ損だって本に書いてあった」
 俺の言葉にハルは頬を膨らませた。
「もう! そんな身も蓋もないこと言わないの。私はそんな女じゃないもん」
 まあ……そこまで言うならいいか。
「じゃあそっち」
 俺はネックレスを指差した。
「んふふ。私もこっちがいいと思ってた! じゃあ買ってくるね」
 そう言って機嫌よくレジへ歩いて行った。結局決まってたんじゃないか。

 買い物が終わって、俺達は近くに会った公園のベンチに腰掛けた。まだ夕方と言うには早く、子供の姿はない。
「いいものが買えてよかったよ。レイ君、付き合ってくれてありがとね。家族以外とお買い物なんて、憧れてたから楽しかったなぁ」
「女子ってそういうのよくやるんじゃないのか? 友達多そうだし」
 確かにちょっとおかしな奴だとは思うけど、人生楽しそうで、明るくて、行動力の塊みたいだから、きっと陽キャで女子グループの中心にいるんだろうと思った。それなら何で今日は学校をさぼっているのか疑問だけど。
 俺の言葉にハルは空を見上げた。
「残念ながら私に友達はいませーん。あと、これ以上は事情を詮索しないっていうルールに則り、追求禁止としまーす」
「えっと、なんかごめん……」
 ハルは俺の顔を指さした。
「謝るのも禁止! なんか私が可哀想みたいじゃん」
 そう言ってそっぽ向いた。
「安心しろ。俺も友達いないから別に可哀想とかは思ってない」
 俺の言葉にハルは吹き出した。
「ふふっ、私達ボッチ同盟だね」
「嫌な同盟だな」
「友達とカフェでお茶したり、彼氏と遊園地に行ったり、そういうのって憧れるけど私には無理な話だなって思っちゃう。諦めるなんて、周りからしたらまだ頑張りが足りないんだろうけど」
「頑張ってるかどうかは自分が決めることだろ」
「えっ?」
 驚いた顔で俺を見つめる。
「周りからどう思われるかなんて関係ない。自分が頑張ってると思うならそれでいいだろ。それでもとやかく口を出してくる奴のことなんて放っておけ」
 すると突然、ハルは声をあげて笑い始めた。
「あはは、放っておけって……レイ君、面白すぎ。でも、そうだよね。私は頑張ってる! だからそれでよし! なんだ、そんな簡単なことだったんだ」
 そしてハルは俯いて呟いた。
「やっぱり君を選んで正解だった」
 その言葉の意味が分からなくて、反応に困った。すると突然、ハルは立ち上がった。
「あ! 猫だ!」
 そう言って、公園の茂みの方に走って行く。
「おい、また道路に飛びだしたりするなよ!」
 俺の言葉にハルは足を止めて振り向いた。
「もしそうなったら、またレイ君が助けてくれるんでしょ?」
 そう言って笑う。あんなのはもうごめんだ。
 ハルは足音をひそめて茂みの側に近づいた。なんとなく放っておくのが心配で俺も後ろに続いた。茂みの陰を二人で覗き込むと、小さな三毛猫が丸くなっていた。
「可愛いねぇ」
 ハルが小声で言う。本当に嬉しそうな顔に思わず胸がウッとつっかえる。こんな感覚は知らない。
「……そうだな」
 その時、俺の電話が鳴った。その音で猫が逃げて行ってしまう。
「悪い」
 俺はすぐに電話を切った。
「猫のことは仕方ないよ。電話、出ないの?」
「ああ、もういいんだ」
 また電話が鳴り始めた。
「また鳴ってるよ?」
「ちょっと行ってくる」
 仕方なくその場を離れた。

 俺の電話番号を知ってるのは一人しかいない。電話に出ると、聞きなれた低い男の声がする。
『もうお前の家の前についてるぞ。居留守か?』
「仕事には行かない」
 それだけ言って電話を切った。

「よかった、ちゃんと戻って来てくれて」
 ハルはベンチに戻ってきた俺を見て言った。
「勝手に帰ったらさすがに後味が悪いからな」
 そう言って隣に座る。
「そっか、そうだよね。今日はすっごく楽しかったよ。もっと一緒にいたいけど、満足してあげる」
 変な言い方に思わず笑ってしまった。
「ははっ、何だよそれ」
 ハルは俺に手の平を差し出した。
「はい」
「なに、金か?」
 ほんの冗談のつもりだった。
「うん、そう」
 ハルは真面目な顔でそう言った。
「は……」
 予想外の返答に思わず声が漏れた。金目的じゃないって言ってたじゃないかよ……なんだ、結局人っていうのは金が全てなんだ。こいつは違うんじゃないかって、そう思ってたのに。
 ……まあ、いいや。金なんて別に必要ないんだから。
「いくら欲しいんだ」
「百円」
「は……?」
 俺の反応を見てハルは照れたように笑った。
「だって、このまま終わりにしたら、私達本当のデートをしたことになっちゃうでしょ? 今日はすっごく楽しかったけど、だからこそ、レイ君の初デートを私が奪っちゃうのはよくないなって思ったの。レイ君がお金で私を買ったってことにすれば、本当の初デートは好きな人とするときに取っておけるなって」
 本当のデートにしないために自分のことを金で買わせるって、どういう発想だよ。
「……あんた、本当に頭おかしいんじゃないか?」
 俺は財布から百円玉を取り出して、ハルの手に乗せた。
「これでいいか」
「うん! あと、せっかく私を買ってくれたハル君にはプレゼントがあります」
「買ってくれたって……」
 ハルは四つ折りになったメモ用紙を渡してきた。
「私からの手紙。恥ずかしいから家に帰ったら読んでね」
「手紙っていうより紙切れなんだけど」
「もう! だってちょうど持ってたのがそれしかなかったんだもん! 私のことを後から思い出してもらえるように書いたんだ。ちゃんと読んでよね」
 ハルは立ち上がった。そして俺の方を見る。
「じゃあ私は行くね。また会った時は、買われてあげてもいいよ」
「何だよそれ……」
「バイバイ」
 そう言ってハルは歩いて行った。

 ハルの背中が見えなくなるまで、ただぼんやりとその姿を目に映していた。突然現れて、俺の感情を引っ搔き回して去っていく。ほんと、嵐みたいな奴だった。俺は今日、死のうとしていたんだぞ。それなのに今日がこんな終わりを迎えるなんて、昨日の自分は思いもしなかった。
 
 気が付けば辺りは夕焼けに染まっていた。長い時間、ぼうっとしてしまっていたみたいだ。
「おい(あかね)、探したぞ」
 その声に顔を上げる。そこに立っていた男の顔を見て一気に現実へ引き戻された。茶色がかった長髪で歳は四十くらい。真っ黒なスーツを着込み、ほのかに煙草の匂いがする。
 黒瀬圭(くろせけい)。俺の書類上の保護者であり、雇い主。
「なんでここにいるんだよ」
 吐き捨てるように言う。
「なんでって、わざわざ迎えにきてやったのにそんな態度はないじゃないか。茜のそのスマホ、ちょっと細工がしてあって位置情報が俺のスマホに送られてくるようになってるんだよな」
 俺はスマホを振りかぶった。
「おっと、そのスマホ高かったんだよなぁ。弁償するにはもっと働いてもらわないとな?」
「クソッ……」
 仕方なく腕を下ろした。
「引きこもりの茜がこんな時間まで外に出てるなんて珍しいじゃないか。何かあったのか?」
「あんたに言う筋合いはない」
「そんなのひどいじゃないかよ。俺と茜の仲だろ?」
「雇用者と被雇用者の関係でしかないな」
「はあ、まあ茜が素直じゃないのは昔からだからな。世間話はこのくらいにしようか」
 そう言って一息つく。その瞬間、圭の纏う雰囲気が変わった。
「仕事の時間だ。車に乗れ」
 有無を言わせない威圧感。このピンと張り詰めたような空気感は仕事を始めて二年も経つのにまだ慣れない。
 嫌だなんて言えるはずもなく、近くに止められた真っ黒なバンの後部座席に乗り込んだ。

 車は静かに走り出す。いつの間にか日は完全に落ちて、街には夜の気配が漂っている。窓を流れる風景は郊外の国道沿いから、都心のチカチカと目を刺す繁華街へ移り変わった。
「必要なものはそのバッグに入ってるから支度しておけ。あと20分で今日の客との約束の時間だ」
 側に置いてあったボストンバッグを開けると、中には黒いスーツ一式とワックスが入っていた。車の窓ガラスは外から見えない仕様になっている。
「ああ、そうだ。今日の客の情報をスマホに送ってるから、一応目を通しておけ。今日は議員先生だとよ」
 そう言われて仕方なくスマホを開く。送られてきた資料には、ご立派な経歴と仏頂面の中年の男の写真が載っていた。
 スーツに着替え、ワックスで前髪を上げる。ここまで来たらもう逃げることは出来ない。

「着いたぞ」
 車が止まったのは、高級ホテルの裏だった。
「ホテルの裏口に案内役がいるから、そいつに連れて行ってもらえ。それじゃあ、明日の朝またここに迎えに来るから」
「……ああ」
 車を降りると、風が頬を撫でた。行きたくないと心は重いのに、足は勝手に歩みを進める。
 ホテルの明かりを頼りに進んでいくと、建物の前にスーツの男が立っていた。
「お待ちしておりました、アカネ様。ではご案内いたします」
 そう言って、ホテルの中へと入って行った。入るとそこは一般的なロビーではなく、エレベーターが一台あるだけの薄暗い空間だった。
「ここは専用のカードを持った人間のみが使用できるエレベーターホールになっております。止まる場所も専用フロアのみで、一般のお客様と顔を合わせることはないのでご安心ください」
 エレベーターの扉が開いて中へ乗りこむ。行き先階のボタンがあるはずの場所には代わりにカードリーダーがついていて、男がカードをかざすとエレベーターは滑らかに動き出した。
 数秒ほどでエレベーターが止まって再び扉が開く。煌びやかに照らされたフロアには一組のテーブルセットがあり、そこに中年の男が座っていた。
 俺と目が合うと、男は満面の笑みで立ち上がった。
「お待ちしておりました。さあさあ、どうぞこちらへ」
 資料の写真とは違う、わざとらしいほどにこやかな笑みを張り付けたこの男が今日の客だ。
 テーブルにつくと、男も向かいの席に腰掛けた。
「いやあ、お会いできて光栄です。私は議員の松沢勇作(まつざわゆうさく)と申します。先生、ぜひ握手を」
「……接触は禁止していると契約書にも記載があったと思いますが」
 仕事を始めたばかりの頃、媚を売るように俺に触ってくる客がいた。ただでさえ知らない大人に合って気持ちが悪いのに、触られたところからぞわぞわと悪寒が走った。気持ち悪さと腹立たしさに支配されることは仕事にも支障をきたし、接触禁止を誓約書に追加した。
「ああ、そうでしたね。これは失礼しました」
 そう言って手を戻した。
「それにしても、『任意の相手に直近で起こる不幸を夢で見ることが出来る』なんて俄かに信じがたいお力ですね」
「任意ではなく、眠るまでに強く印象に残った人間の夢です。信じられないのであれば、今からキャンセルいただいても一向に構いません」
 俺は昔から他人の不幸を夢で見ることが出来た。そのせいで親から見放され、こんな仕事まですることになった。まあ普通ならそんな話、信じられるはずもない。
 言葉に棘が入っても、松沢が笑顔を崩すことはなかった。
「いやいや、ご冗談を。信じられないほど素晴らしいお力だと言いたかったのです。先生のお力を借りれば、私の目的もすぐに達成できそうですよ。そうだ、これ」
 そう言って男はバッグからファイルを取り出して、写真を机の上に並べた。
「これが先生に見ていただきたい、扇田初一郎(せんだはついちろう)という男です」
 隠し撮りをしたようなその写真には、黒いメガネをかけた生真面目そうな中年の男が映っていた。
「扇田とはこれから始まる選挙で同じ選挙区を争うことになるのですよ。人間、叩けば埃は出てくるもの。先生には是非その埃を見つけてほしいのです。それが公になれば、扇田の票は私へ流れる。それで私の目的は果たされるということです」
 そう言って松沢は笑った。どうしてそんなことを言って笑える。俺に依頼してくるそうな奴は揃いもそろって下衆ばっかりだ。
「先生に夢を見てもらうために、扇田の話をしないといけませんね。話は夕食を取りながらにしましょう。料理人を呼んでいるので好きなものを頼んでください。なんでも用意しますよ」
「……じゃあ、カレーで」
 パッと思いついたものがそれだった。別になんだってよかった。
「そんなものでいいのですか? 先生のためなら、寿司でもステーキでも極上のものを用意しましたのに。それでは最高級のカレーをお出ししましょう」
 そう言って松崎がパンパンと手を叩くと、あの案内役の男が背後からやってきた。松沢が耳打ちすると、案内役の男は「かしこまりました」と言ってまたどこかへ消えていった。
  
 料理がやってくるまで、松沢は上機嫌でペラペラと話していた。自分がいかに優秀な人間で、いかに社会の役に立っているかという話だったと思うが、理解する気にもなれなかった。
 案内役の男は、松沢の前に寿司と徳利を、俺の前にはカレーライスを置いて去っていった。
「星を取ったレストランのシェフに作らせた最高のカレーですよ。どうぞお召し上がりください。いやぁ、扇田の悪口を言えるなんて今日は酒が美味いな」
 松崎はそう言うとお猪口に注いだ酒を飲み干した。
「扇田は私と同学年で、議員秘書になったのも同じ頃でね。あの頃から気にくわない奴だったんですよ。それから議員に初当選してからも何かと『扇田』の名前を目にすることが多くて、私の華麗なる出世街道を阻む、厄介な奴でした」
 目の前のカレーライスを一匙、口へ運ぶ。味のしないその塊を水で流し込んだ。
「扇田は真面目で誠実な人間だと世間では思われているようですが、本当は違う。ただの堅物ですよ、あれは。あんな融通の利かない男、どうせいつか頭打ちになるに決まっている。それならさっさと政界から引退させてやるのも、優しさってもんだよ。ハハッ」
 それから松沢は、嘘か本当か分からない扇田の悪口を延々と話した。会ったこともない人間の印象を強く持つには、よく知る人間から話を聞くしかない。どんなに口汚い暴言も、夢を見るためには必要なピースだ。仕事のためには一言も聞き漏らすことは許されない。そうすることが体に染みこまされていた。
「いやぁ、実に楽しい時間でした。先生にはこの階に部屋を取っていますから、そちらを使ってください。明日の朝はまたこの場所で会いましょう。朝食を取りながら、是非たっぷりと夢の話をお聞きしたい」
 松沢は酒で上気した顔で笑みを浮かべた。
「それでは先生、よろしくお願いしますね。ゆっくりとお休みください」

 用意された部屋には大きなベッドが二つ並んでいた。その一つに倒れこむ。
 大抵、仕事の時はホテルのVIPルームで客と会い、それが終わったらすぐにベッドのある部屋へ通される。客の話を聞いてから、他の人間に会って意識を逸らされないようにするためだ。こんな無駄に高い部屋を取らなくたって、金をもらっている分、不幸は見てやるのに。こんなところでもご機嫌取りをされているみたいで気分が悪かった。
 暴言を延々と聞かされて頭が痛い。最悪な気分なのに、瞼は重たく閉じる。
 ……本当は眠りたくない。また夢を見てしまう。
 瞼の裏には嬉々として扇田の悪口を話す松沢の姿が浮かんだ。

 翌朝、またあの場所で松沢と向き合っていた。テーブルには湯気が立ち昇るパンや色鮮やかなサラダが並んでいる。
「先生、昨晩はよく眠れましたかね」
 不幸の夢は翌朝もはっきりと記憶に残っている。そうじゃなければそもそも仕事にならないけど、昔から夢はよく覚えていた。俺が夢で見られるのは不幸の内容だけで、その不幸が実際にいつ起きるのかまでは分からない。偶然テレビのニュースが流れていたり、特定できるような要素があれば別だけどそんなことはそうそうない。それでも客は俺の夢で見た内容から情報をかき集めて、自分の私利私欲のために利用する。
「さあ、夢の話を聞かせてください」
 松沢は期待に満ちた目で俺を見てくる。その視線が嫌で顔を逸らした。
「……扇田は離婚の話し合いで揉めているようです。離婚の原因は扇田の亭主関白で、子供の親権や資産の分配で意見が対立しています。近々、家財が壊れるほどの大きな喧嘩が起こります」
 名前すら知らなかった他人の出来事なんて実際には俺が居合わせるはずもないけど、夢の中ではまるで自分もその場にいるような臨場感で展開される。目覚めていればそんな他人の不幸なんてどうだっていいと思えるのに、夢の中だけは勝手に共感して勝手に疲弊する。
「離婚か。ネタとしてはちょっと弱いけど、記者に張らせれば喧嘩の様子は記事に出来そうだな……ありがとうございます、先生」
 そう言って満足そうな笑顔を見せた。下衆め。
「あなたは愛人を作るのをやめておいた方がいいですよ。顔も忘れた昔の愛人に記事を売られてしまいますから」
 俺の言葉に松沢から笑顔が消えた。そして席を立つと、吐き捨てるように言った。
「気持ち悪」
 足音が遠ざかっていくのを背中で聞く。やがて足音は聞こえなくなった。
「……クソっ」
 俺は席を立った。

 ホテルから出ると、昨日と同じ場所に黒塗りの車が止まっていた。後ろの席に乗り込む。
「ご苦労だったな」
 車は朝の街をゆっくりと走りだした。
「今回の客はどうだったんだ? 常連になりそうか?」
「……もう、この仕事辞めたい」
 自然と言葉がこぼれた。
「お前、この仕事辞めてどうやって稼いで生きていくつもりだ?」
 運転席から苛立ったような声が飛んでくる。ああ、まただ。
「何度も言ってるけど、まともな学歴も才能もないお前に誰が金を払う? 俺はお前を養ってやるようなお人よしじゃねえぞ。この仕事を続けていれば一生金に困ることはない。何度も言わせるな」
 俺が辞めたいというたびに、「お前にはこの仕事しかないんだ」と否定される。自分でも分かっている。中学も高校も行っていないのにまともな仕事に就けるはずがない。それでも、あんな下衆から稼いだ金で生きている俺は、あいつよりもっと下衆じゃないのか?
 しばらくすると、ボロい一軒家の前で車が止まった。
「次の依頼は来週の金曜日だ。また迎えに来る」
 返事はせずに、車を降りた。

 俺が圭に引き取られたのは、四年前の母親の葬式の時だった。
 両親は一年前に離婚。母親が死んだ今、目の前では俺を誰が引き取るかという話し合いがされていた。
『あんたのところは子供がいないんだからいいじゃないの』
『馬鹿言わないでよ。毎日自分の不幸を聞かされるなんて、堪えられたもんじゃないわよ』
『菊子の死因は事故ってことになってるけど、本当は自分からホームに飛び込んだんじゃないか? ここ最近は様子がおかしかったし、それもあの子の影響なら納得できる』
『こっちまで不幸にされたらたまったもんじゃないな』
 離婚してから母は狂ってしまった。手を上げられはしないが、俺を恐れ、忌み嫌っていた。
 離婚を決定づけたのは俺の夢が原因だった。二人きりで暮らすのは初め苦痛だったが、最後の方はほとんど空気みたいだった。
 だからもう母親に愛情はなかった。家に親戚だという大人がやってきて母親が死んだと聞かされた時も、悲しいとは思わなかった。
 ここにいる大人たちは俺の存在が邪魔らしい。もう何も感じなかった。
 その時、葬式場の扉が勢いよく開いた。一斉に音の方を振り向く。
『不幸の夢を見るっていうガキはどこだ?』 
 ぼさぼさの髪に無精ひげ、Tシャツ姿の男は、明らかにこの場に不釣り合いだった。
『圭! お前が何でここにいるんだよ!』
 そう言って親戚の男は胸ぐらを掴んだ。
『昔に縁を切った弟が来たからって、そうカッカするなよ兄さん。俺はあんた達に用がある訳じゃないんだからさ』
『……チッ』
 そう言って手を離した。
 解放されたその男はゆっくりとあたりを見回す。そして、俺と目が合った。
『どうせ誰が引き取るかって揉めてたんだろ? それなら俺がもらって行ってもいいよな』
『おい、勝手に決めるんじゃ……』
『じゃあ、あんた達が引き取るのか?』 
 その言葉に辺りは静まり返った。男は俺に目を向ける。
『おい。こんなクソみたいな場所、さっさと帰るぞ』
 そう言って足早に去っていく。その背中を追いかけた。

 それから俺は圭と暮らすことになった。圭の家がある都心の街に引っ越す朝、俺はその身一つで圭の車に乗りこんだ。十年以上暮らした家を離れることに何の未練もなかった。
 圭は俺の父親ではなかった。自分の子供として愛されていると思ったことはないし、手料理を作ってくれたこともなかった。でも、俺のことを恐れたり、気持ち悪がったりしない圭との暮らしはそんなに悪くなかった。
 学校へは行かなかったけど、部屋にあったテレビや本からある程度の知識はつけることが出来た。だから、圭が電話で話している内容や夢で見る圭の不幸から「まっとうな仕事をしている人間ではない」と分かった。でもそんなことは俺には関係なかった。

 圭と暮らし始めて二年が経った。その頃には、本を読んで面白いと思えるようになっていた。
『茜、これからお前には仕事をしてもらう』
 突然、圭はそう言った。
『俺がお前を拾ったのは親切じゃない。お前が金になるからだ。今まで食わせてやった分、働いて返せ』
 そう言われた時、胸が少し痛んだのが不思議だった。圭は何もおかしなことを言っていない。働いて返すのは当たり前だ。
『分かった』
 それから俺は圭に言われるまま仕事を始めた。圭からはいろんなことを仕込まれた。客に舐められないように身だしなみには気を使え。歳が上だろうが偉い仕事をしていようが、毅然とした態度で接しろ。信用がなくなったら終わりだから仕事には必ず穴をあけるな。初めの頃は一件一件の依頼をやり遂げるのに精いっぱいだった。でも慣れて余裕が出てくると、自分が今どんな仕事をしているのか、頭で分かってしまった。
 客は決して安くない金を払って俺と会う。そして嬉々として誰かの悪口を話し、俺から不幸の内容を聞いて満足そうに帰っていく。俺は誰かにとっては疫病神で、別の誰かにとっては神様らしい。
 ずっと何も感じなければよかった。金のためだと割り切ることが出来ればよかった。
 でも、仕事をするたびに、金が入るたびに、心は暗く曇っていく。人の不幸で生かされている俺は、醜い存在なんだと思い知る。そのころから何を食べても味がしなくなった。
 圭と暮らすのも息苦しくなって、一人で住みたいと切り出した。初めは反対されたが、結局は人気の少ない場所に立つ、この古びた一軒家を用意してくれた。
 
 家に着いて、真っ先に風呂場へ向かう。この胸糞悪さを熱いシャワーで洗い流したかった。
 ズボンを脱ごうとすると、ポケットからクシャっと紙が折れる音が聞こえた。手を突っ込むと、くしゃくしゃになった紙切れが出てきた。
「これ……」
 あいつがデートだとか言って勝手に連れ出して、去り際に渡してきた紙切れ。そう言えばここに仕舞ったんだった。その紙を開く。そこには右肩上がりの、少し癖のある文字が並んでいた。

『レイ君へ

 今日は一緒にデートしてくれてありがとう。あの歩道橋でレイ君に思い切って声をかけてよかった。だってすっごく楽しかったから!
 
 川沿いの桜、綺麗だったね。一緒に見た雑貨屋さん、可愛かったね。ベンチで並んでおしゃべり、楽しかったね。

 私、今日がこんなに楽しい一日になるなんて思ってなかった。レイ君のおかげ。レイ君も私との時間を楽しいって思ってくれてたら嬉しいな。

 また会いたいな。

 レイ君に初めて買われたハルより』

「何だよ、これ……」
 胸の中がぐちゃぐちゃになって、その場に膝をついた。
 やめろよ。俺といて楽しかったなんて言うなよ。また会いたいなんて言うなよ……
「クソっ……」
 しばらくその場から動くことが出来なかった。

 ハルと会ったあの日からひと月が過ぎた。その間に俺は数回仕事をし、そのたびに最悪な気分になったが、歩道橋から飛び降りようとは思わなかった。状況がなにか良くなったわけではない。それなのに、あの時ほど思いつめることがなかったのは自分でも不思議なくらいだった。
 週に一回程度の仕事以外で外出することはほとんどない。必要なものは通販で頼めば済むし、とにかく人に会いたくないからだ。もし万が一、外で会った誰かのことを眠る直前に思い出してしまったらと思うと、人目を避けるようになっていた。
 ただし月に一度、例外があった。それは定期健診の日だ。一人暮らしを始めるときに、圭から義務付けられた。圭にとって俺は金を生む「商品」なわけだから、急に使えなくなったら困るんだろう。
 いつもの検診の帰り道、足は自然とあの歩道橋へと向かった。歩道橋の上から真下を見下ろすと、忙しなく車が行き交っている。
 あの日も検診の帰りだった。今夜は仕事だと思ったら嫌で嫌で仕方なくて、歩道橋の上に差し掛かった時に、「死のう」と唐突に思いついた。
 あの時ハルに会わなかったら、きっともうこの世に俺はいない。どちらの選択が正しかったのか、まだ俺には分からなかった。
「死ぬの?」
 急に後ろから声がして振り返る。そこにはハルの姿があった。
「また会えたね」
 そう言って微笑む。ドクンと心臓が跳ねた。
「……なんで、ここにいるんだよ」
「何でって……せっかく久しぶりに会えたのに、レイ君はそんなことが聞きたいの?」
 そう言われて言葉に詰まる。あの手紙を読んで言いたいことはたくさんあった。でも本当の名前も連絡先も知らないのに会えるはずがないと思って諦めていた。急に目の前に来られても、上手く言葉が出てくるはずがない。
「時間あるなら、また私のことを買ってくれてもいいよ。死ぬのなんて今度にしなよ」
 君は突然やってきて心をかき乱す。
「ほら、行こう!」
 ハルがくるっと背を向けると、黄緑色のロングスカートが風になびいた。

「なあ、今はどこに向かってるんだ?」
 ハルは住宅街の中を進んでいく。スマホで地図を確認する様子もないし、目的地への道のりは頭で分かっているんだろう。
「んー、ヒントはデートっぽいところかな」
 デートという言葉から連想される場所を、少ない知識からかき集める。
「……映画館、とか?」
「映画館もいいね。でも不正解。じゃあもう一つヒントをあげるね」
 そう言って自分の首元に手を伸ばし、服の中に隠れていたネックレスを取り出した。猫のシルエットが揺れる。
「これって、前の……」
「そう! 前のデートで茜君と選んだネックレス! 覚えててくれたんだ」
 ハルが嬉しそうに笑うから、なんだか恥ずかしくなる。
「まあ、な。俺と選んだというか、初めからハルの中で答えは決まってた気がするけど……」
 俺の言葉にハルはむくれた。
「そんなことないもんね。ほら、回答は?」
 さすがにそのままアクセサリーショップが答えってことはないだろう。それなら、モチーフになっている猫がヒントってことか。
「猫カフェ……いや、動物園か?」
「ピンポン! だいせいかーい」
 楽しそうなハルとは対照的に、俺は困ってしまった。
「正解はいいんだけど、前にも言ったように人の多いところは……」
「大丈夫。人のいない動物園だから」
 そう言って住宅街を抜けると、目の前には青々とした木々が生い茂っていた。
「この中にあるんだよ」
 ハルは木々の間にある舗装された小路を進んでいった。小路が終わると、目の前が開けた。
「この公園はね、広場や遊具はもちろん、おっきな池と動物園もあるんだ」
 目の前には左右に大きく広がる水面。真っ直ぐに伸びた橋の向こうには広場が見える。
 ハルに続いて橋を渡っていると、急に後ろを振り向かれた。
「なんか、橋の上ってワクワクしない?」
「いや、別に……」
「ええ? 水の上を歩いてるっていうか、水と近くにいられる感じがして私は好きなんだけどな」
 ハルは不満そうに言うと、俺の目を見つめた。
「じゃあ、レイ君は何が好き?」
 好きなものなんて、考えたこともなかった。いつもただ生きているだけで、何かを好きだと思えたことなんて一度もない。いや、遠い昔にはそう思えるものもあったような気がする。ただその感情を思い出すことは出来なかった。
「特にないな」
「そっか。じゃあ、これからたくさん見つかるといいね」
 面白みのない俺の答えにハルは優しく微笑んだ。

 公園の中にある動物園は閑散としていて、俺たち以外の客は見当たらなかった。
「ほら、ここならレイ君も安心でしょ?」
 ハルは得意そうな顔で笑った。
「よくこんな場所知ってたな。来たことあるのか?」
「まあ、ちょっとね。休みの日はもっと賑わってるみたいだけど、今日は月曜の昼間だから。あと、展示されてる動物がちょっと特殊でね」
 そう言って近くにあった園内マップの看板を指さす。
「鳥ばっかりだな……」
 インコ、オウム、フクロウ、フラミンゴ……一応、ニホンザルやリスなんかもいるみたいだけど、園内の端の方に追いやられている。
「まあそんなことで人は少ないから、ゆっくり見て回ろうよ。手でも繋いじゃう?」
 ハルは煽るように俺の顔を覗き込んだ。
「遠慮しておく」
「もう。せっかく可愛い女の子から誘ってるのに」
「誘いに乗った後に、『これは追加料金です』とか言うんだろ」
「ふふっ、何それ! ……じゃあ、そういうことにしておこっかな」
 そう言って顔を逸らした。

 順路に沿って園内を進むと、始めに出てきたのは鷹の檻だった。背の高い檻には二羽の鷹が木の枝に止まっているのが見えた。
「鷹ってかっこいいねぇ」
 ハルは檻のすぐそばまで近づいて、凛々しくたたずむその姿に目が離せなくなっていた。
「そうだな」
 動物園なんて、前に来たのは小学校の遠足だった気がする。その時のこともぼんやりとしか覚えていないけど、今になってこの風景を見ると思うところがあった。
「こんな檻の中じゃ、外に出たいって思うだろうな」
 思わずそう呟いた。
 悪夢と仕事に縛られてどこにも逃げることの出来ない自分の姿と重なって息が苦しくなった。嫌なことから全部解き放たれて自由になりたい。そんな淡い希望を持っているからこそ、天真爛漫に振る舞うハルは眩しくてつい引き寄せられてしまう。
「でも、外の世界じゃこの子達は生きていけないんだよ」
 そう話すハルの声はどこか寂しそうで、思わず隣に顔を向けた。たまに見せるハルのこんな空気は一体なんなんだろう。いつもの明るさとは程遠く、哀愁をまとっている。
 ハルは俺の視線に気づいてこっちを見ると、優しく笑った。そしてまた檻の中に視線を向ける。
「外に出られないとしても、この子達はこの場所で幸せに生きているんじゃないかな。動物ってストレスを感じると毛をむしったり異常行動を見せるんだけど、この子達にはそんな様子がないから。きっとここの飼育員さんたちに愛情をこめてお世話してもらっているんだよ。これは私の願望かもしれないけどね」
「……俺もそう思うことにするよ」
 俺とここの動物は違う。それなのに勝手に自分の姿を重ねて苦しくなって馬鹿みたいだ。ハルの持つ優しいレンズを通して見ると世界はこんなにも温かくなる。俺も見習いたいと思った。

「ねえ、せっかくだからゲームしない?」
 さらに園内を進んでいると、ハルがそう言いだした。
「ゲーム?」
「うん。一人が条件を出して、それが達成されたらもう一人に一つ質問が出来る。質問には必ず正直に答えること。ただし、その条件はここにいる生き物たちに関することで、極端に簡単なのは禁止とする。どう?」
「まあ、いいけど……」
「よし! じゃあまずは私からね」
 順路に沿って歩いていくと、目の前の檻にはフクロウが一羽、木に止まっていた。眠たいのか、ウトウトして瞬きを繰り返している。
 ハルは声を潜めた。
「それじゃあ条件は、『このフクロウがあと三十秒以内に眠ること』。いくよ? いち、に……」
 ハルが数字を数えているうちにも、フクロウは眠ってしまいそうだった。
「……にじゅうよん、ねえ、寝ちゃったみたい」
 フクロウの瞼は完全に閉じていた。
「条件を達成したということで、私からレイ君に質問です」
 質問って、ハルは何を聞きたいんだろう。
「昨日は何してたの?」
「え?」
「質問には必ず正直に答えること、だよ?」
 昨日は、仕事もなかったから一日家にいた。
「ずっと家にいたよ」
「家では何するの?」
「大した事してないけど、本を読んだりとか。知り合いが勝手に本を家に置いていくから、何となく読んでるだけで……これ、聞いてて楽しいか?」
「うん。とっても」
 ハルは満足そうだった。俺の本名とか、もっと個人情報に関わることを聞いてくるんだろうと身構えていたから拍子抜けだった。でもまあ、波瑠がそれでいいならいいか。
「次はレイ君の番だよ。どんな条件にする?」
 俺は手にしていた園内マップを広げた。園内の中央には円形の檻があり、ハシビロコウが展示されている。ここの目玉らしい。
「じゃあ、このハシビロコウが羽を広げることが条件」
 俺の言葉にハルは目を見開いた。
「レイ君、分かってる!? ハシビロコウって動かない鳥って言われてるんだよ? ……ははあ、さてはレイ君、私の更なる魅力を知るのが怖いんだね?」
「ほら、行くぞ」
「ちょっと! 乗ってくれないと私が変な子みたいじゃん!」
 ハルは怒ったように頬を膨らませた。
 きっと俺達は何も知らない関係の方がいい。でももし、君に質問するチャンスを得られたなら、その時は一歩踏み出してもいいのかもしれない。
 オウムのいる檻を曲がると、視線の先に目的の場所が見えた。
「え……え? だって、動かない鳥って言われてるんだよ? なんでそんな、羽ばっさばっさして動き回ってるの!?」
 ハルはハシビロコウを見つめて、興奮したように言った。
「すごいよハル君! きっと激レアだよ!」
 正直、俺も驚いた。背中を押されたような気がした。
「なあ、どうして手紙に『また会いたい』なんて書いたんだ」
 俺の言葉にハルは振り向く。
「理由をつけるなら、レイ君のことが好きだからだよ」
 ハルは世間話のように言った。
 この「好き」に深い意味なんてない。そう分かっているのに、ハルのことを真っ直ぐ見られなくて顔を逸らした。

 園内を一周して、俺達は出口へ向かった。進む先から、がやがやとした声が聞こえる。
 動物園の正門を出ると、広場にキッチンカーが止まっていて、そこに数人が並んでいた。
「レイ君、クレープ屋さんだって! 一緒に食べようよ」
 そう言ってキラキラした目で俺を見つめるハル。何を食べても味なんて感じないけど、それを説明して困らせたくはなかった。
「……分かった」
 俺はチョコバナナ、ハルはハムサラダクレープを注文した。商品を受け取ってベンチに腰掛ける。ハルは嬉しそうにクレープを頬張った。
「んー、美味しい!」
「甘くないクレープって邪道じゃないか?」
「ノンノン、分かってないなぁレイ君は。この甘じょっぱいがいいんじゃん。この良さを知らないなんてもったいないね」
 そう言うと、俺に食べかけのクレープを差し出した。
「ん」
「え?」
「食べる?」
「いや、いい……」
 この誘いはきっと罠だろ。まだ二回しか会ったことない男に食べかけのクレープなんて普通渡すか?
「ええ、つれないなぁ。というか、私が一口上げるからレイ君のも一口もらう作戦だったんだけどな」
「結局こっちも食べたいんじゃないかよ」
「えへへ、まあね」
 俺はハルにクレープを差し出した。
「ほら」
 ハルは食べようと身を乗り出して、途中でやめた。
「あれ、レイ君まだ一口も食べてないじゃん。最初の一口をもらうのは何か悪いよ」
 なんだその遠慮かよく分からない心情は。
「いや、別に……」
「ほら、食べて食べて」
ハルに見られていると思うと無駄に緊張する。せめて不味そうな顔に見えなければいい。俺は一口齧った。
「……美味い」
 バナナの甘さ、チョコの濃厚さ、生地のバター風味。ずっと忘れていた味が鮮明に感じられる。
「うんうん、そうだよね! それじゃあ、遠慮なく」
 そう言って俺のクレープに噛みつく。
「んんー、やっぱりチョコバナナもいいよね!」
 能天気そうに笑う顔。何かを食べて美味しいと感じられることが俺にとってどれだけすごい事かなんて、君に分かるはずがない。でもそれでいい。
「ありがとう、レイ君」
「……ああ」
 今日は自分が普通の人間になったような気がした。

 クレープを食べ終わると、ハルは立ち上がって大きく伸びをした。
「んー……はぁー、満足満足、ってあれ!?」
「ん? どうした?」
 俺の方を向いたハルは真っ青な顔で首元を押さえた。
「ネックレスが……ない」
 そう言われて首元を確認すると、確かにあのシルバーネックレスがなくなっていた。
「どうしよう……せっかく一緒に選んだのに……」
 ハルは肩を落とした。俺はベンチから立ち上がって、そのしょんぼりとした肩に手を置く。
「分かったから、探しに行くぞ」
「え……いいの?」
 ためらいがちに俺を見上げた。
「あれは俺が選んだネックレスでもあるからな」
「……素直じゃないなぁ。でも、ありがと」
 そう言って笑って見せた。

 ハルが俺にネックレスを見せた公園の手前のあの場所から、今日の道順を二人でなぞって歩く。ネックレス一本なんて、茂みや池に入っていたらきっと見つけられない。そう思ってはいるけど、探さずにはいられなかった。

「見つからなかったね……」
「そうだな……」
 俺達は橋の手すりに寄りかかってため息をついた。動物園も広場もくまなく探したけど、結局見つけることは出来なかった。
「うん、まあ、仕方ないよね。あのお店に行けばきっと同じものが売ってるだろうし」
 ハルは無理に明るい声を出した。そのことに胸が痛む。でも今はこの雰囲気に乗ってあげるのが最適手なんだろうか。
「ああ、俺がいくつでも買ってやるよ」
「わぁ、レイ君お金持ち。でもさ、もしこれがおとぎ話だったら、この池の鯉が『あなたが落としたのはこの金のネックレスですか。銀のネックレスですか。それとも普通のネックレスですか』って出てきてくれるんだろうなぁ」
 ハルは真下の池を優雅に泳ぐ錦鯉を見て言った。俺もつられて見下ろす。
「ふっ……いや、鯉は喋らないだろ」
「おとぎ話にリアルを求めるのはナンセンスじゃないですか?」
「それは確かにそう……」 
 その時、視界の端に光を反射する何かを見つけた。
「ああ!」
「え? なに、鯉?」
 手すりの向こう側、橋の床板のぎりぎりのところにあのネックレスがかろうじて引っ掛かっていた。
 ハルも俺の視線をたどって気づいたのか、ネックレスを指さした。
「あ、ああ!?」
 俺はその場にしゃがみ込んで、手すりの隙間から手を伸ばした。つかみ損ねて池に落としでもしたら……それだけは絶対に避けたい。
 慎重にネックレスに触れ、ぎゅっと掴んで拾い上げた。そしてハルの方を向く。
「見つかってよかった、な……!?」
 ハルは目元を潤ませてこっちを見つめていた。俺の手からネックレスを受け取って、大事そうに胸に抱く。
「本当に……見つかってよかった……ありがとう……もう失くさないように、ちゃんとしまっておくから……」
 そんなにこのネックレスはハルにとって大切だったのか。それならなおのこと、見つけられてよかった。
 ハルが落ち着くまで、黙って鯉を眺めていた。

「レイ君のおかげでネックレスも見つかったことだし、名残惜しいけどそろそろお別れの時間かな」
 しばらくして、ハルはそう言った。
「分かった」
 俺は財布から取り出した百円玉をハルに渡した。
「うん。確かに」
 ハルはニッと笑った。
「じゃあまたね、レイ君」
 ここで別れたら、もうきっとハルに会うことなんてできない。本当の名前も事情も知らないからこそ気兼ねなく隣にいられるはずなのに、そのせいでこれ以上の関係にはなれない。
「また、なんてないだろ」
 思いがけなく出た言葉は、棘を含んでいた。でも、止めることが出来ない。
「お互いのことを何も知らないのに、また会えるわけがない。今日の偶然が奇跡みたいなもので……」
「ああ、レイ君はまた私と会いたいって思ってくれてるんだね? 嬉しいなぁ」
 ハルは余裕そうに微笑んだ。言わずに隠しておいたところを突かれて居心地が悪くなる。
「そういうわけじゃ……俺は確率の話をしてるだけで」
「うんうん。それじゃあ私がレイ君に会いたいから、連絡先、交換しよっか。レイ君、手出して」
 そう言われて遠慮がちに手を出すと、ハルがそっと手を取った。そしてバッグから取り出したボールペンで、俺の手の平に数字を書く。
「ごめんね。私、電話番号しか持ってないんだ。いつでも電話に出られるわけじゃないんだけど、掛けてくれたら嬉しいな」
 柔らかい手の感覚に意識が取られてしまう。この妙にむず痒い空気から逃げたいくらいなのに、ずっと続けばいいとも思った。
 書き終わると、今度は俺に手を差し出す。
「今度はレイ君の番号を教えてよ。電話番号を聞くのはルール違反かな?」
 俺はハルの手を取って番号を書いた。
「ふふっ、ちょっとくすぐったいんだね」
 ハルはそう言っておかしそうに笑った。

 家に帰ると、いつものように風呂場へ向かった。髪を濡らし、シャンプーを手にのせたところで、手のひらの上の消えかかった黒い文字が目に入った。
「ああ!?」
 慌ててシャンプーを洗い流し、雑に体を拭いて風呂場を出る。居間のテーブルの上に放置していたチラシを裏返して、引き出しからボールペンを取り出す。
「090……これは8か? それとも6……?」
 手のひらを顔に近づけてよく見るが、数字は既にいくつか判別できなくなっていた。ハルと繋がる唯一の手掛かりだったのに。手に数字を書かれた時、それ以外のことに気を取られて覚えていなかったことが悔やまれる。
 いっそのこと、判別できない数字を予想して電話をかけてみるか? いや、間違った番号で誰かに繋がってしまったら、今夜はきっとその人の夢を見てしまうだろう。
 俺はペンを机に置いた。
「はあ……何やってるんだろ、俺」
 そもそも、仕事以外で他人と関わるのなんて面倒を増やすだけだ。本当の名前も知らないんだから、さっさと忘れてしまった方がいい。
 殴り書きしたチラシはぐしゃっと丸めてゴミ箱に捨てた。

 風呂と食事を済ませ、ベッドの上で本を読んでいるとスマホが鳴った。
 仕事の変更連絡か? 急ぎじゃないならメールにしてくれればいいのに。
「もしもし」
「もしもし、レイ君?」
 耳元で声が鳴って、息が止まりそうになった。
「ちゃんと繋がってよかった。今、大丈夫?」
「あ、ああ……」
 そうだ、ハルだって俺の番号を知ってるんだから向こうからかけてくる可能性もあった。電話の相手が圭だと思い込んで油断していた。
「今日は楽しかったね」
 耳元で聞こえる声はいつもより囁くみたいで、胸がくすぐったくなった。
「そう、だな」
「レイ君も楽しかった? そう言ってもらえるとかなり嬉しいなぁ」
 電話の向こうで笑っているハルの様子が頭に浮かぶ。
「レイ君が見つけてくれたネックレスは、帰ってからちゃんと綺麗にして元の入れ物にしまっておいたからもう大丈夫。これからは観賞用にするって決めたんだ」
 ネックレスなのに観賞用って……でも失くしてあんなに悲しそうな顔をするならその方がいいのかもしれない。
「まあ、それは好きにすればいいけど……見つかってよかったよ」
「うん、見つけてくれてありがとね。今日はきっとネックレスのことと、あの元気いっぱいなハシビロコウを夢に見るんだろなぁ」
「……あれは驚いたな」
 まさか動いているはずないと思って条件に出した。その姿に背中を押されて一歩踏み出したら、想像以上の答えが返ってきた。
「電話でもレイ君と話せるなんて楽しいね。次のデートの予約、してくれてもいいんだよ?」
「ふっ、何だよそれ」
「指名はもちろんハル一択ですよね? ……ふふっ。なんか今日がこんなに楽しくていいのかなぁ」
「別にいいんじゃないか」
「えへへ、そうかな。今日は気分がいいから、特別にもう一つ質問してもいいよ。何でも答えちゃうよ?」
 そう言われて、彼女にもっと近づいてみたくなった。
「じゃあ、本当の名前は何て言うんだ?」
「……君と今話しているのはハルだよ」
 困ったようなその声が神経を逆なでした。
「嘘つき」
 それだけ言って電話を切った。
 近づいたら線を引かれた。これ以上踏み込むなと。どんなに仲良くなったように思わせたって、結局俺には本名すら教えてくれないんだ。
 むしゃくしゃしてベッドに倒れこむ。瞼がぼんやりと重たくなってきた。どんなに起きていたくても、時間になると勝手に眠りに落ちてしまう。不幸な夢を見る性質と最高に相性が悪い。
 頭には母親のことを思い出していた。仕事以外で誰かの不幸は見たくない。その点、死人はいい。それ以上不幸が更新されることがないから。

 それから数回着信があったが、全部無視した。そのうち電話もかかってこなくなって、季節は夏になった。
 客との待ち合わせ場所へ車は進む。俺は手元の資料に視線を落とした。
「今日の客は井坂誠(いさかまこと)。舞台を中心に活動する俳優で、その界隈では有名なんだと」
 圭が言う。
 資料に乗った顔写真の男は優しそうに微笑んでいた。外面なんて信用できない。この仕事を始めてそのことは痛いほど思い知らされた。俺に仕事を頼むくらいだから、腹の中は真っ黒なんだろう。
「今日指定された場所は会員制のバーなんだ。大丈夫だとは思うが、もし変だと思ったら連絡しろ。何かあったら困る」
 「商品に」何かあったら困る、ね。
「……分かった」

 車を降り、裏路地の中に指定された店はあった。地下へと続く階段を下りて扉を開けると、カウンター席に座った女と目が合う。派手な化粧に背中がざっくり空いた濃紺のドレス。みるからに一般人ではない。
「待っていたわよ」
 店内を見回すが、カウンターに立つバーテンとその女しかいない。指定された場所は確かにここで合っているはず。
「アカネ君ね。さあ、隣へ座って」
「依頼者は男だと聞いていましたが」
 俺の言葉に女はおかしそうに笑った。
「ああ、ごめんね。あれは夫の名前なのよ。アカネ君は女からの依頼を受けないって、噂で聞いてね。怒って帰るかしら? もしこのまま受けてくれたら、もちろんチップは弾むわよ」
 ここで帰るのも癪な気がして、隣の椅子に腰かけた。
「仕事ですから」
「ふふっ、ありがとうね。私は不知火美貴(しらぬいみき)。芸名じゃなくて本名なのよ」
 不知火は短い髪を耳に掛けた。指には高そうな宝石のついた指輪をしている。
「芸名というのは?」
「ここまで言っても分からない? 残念。一応映画やドラマで主役をやっているんだけど、まだ知名度が足りなかったみたいね」
 そう言って薄ピンク色のカクテルに口をつけた。初めはただの金持ちかと思ったけど、ふとした仕草に自然と目が引き寄せられてしまうのは、確かに女優なんだと思った。
「マスター、彼にジュースを」
「かしこまりました」
 ほどなくして俺に目の前に小洒落たグラスに入ったオレンジ色の液体が置かれた。一応口をつけてみる。きっと高級なオレンジジュースなんだろう。
「飲み物も来たところで、早速本題に入ろうかしら。アカネ君に夢を見てもらいたい男がいるの」
 そう言われて、資料に乗ったあの優しそうに微笑む男が浮かんだ。
「井坂誠ですか」
「いいえ、違うわ。今日夢を見てもらいたいのはこっち」
 そう言うと、不知火は一枚の写真をカウンターに滑らせた。挑発的な表情でポーズを決める若い男が写真に写っている。
「彼ね、高橋叶夢君。今売り出し中の若手俳優なのよ。この鋭い眼光も、シャープな顎のラインも素敵でしょう?」
「何か勘違いしていませんか? 俺の夢は不幸しか見れませんが」
「もちろん。そのつもりよ」
 そう言うと、俺の目の前から写真をつまみ取った。
「起こる不幸を先に知っておけば、悲しみに暮れる叶夢君に私が手を差し伸べることが出来るでしょう? 不幸は大きければ大きい方がいいわ。そうね……例えば、出演の決まっていた作品が企画立ち消えになるとか、近しい人間が事故に遭う、とか。そんな時にこの私が優しく手を差し伸べたら、それはもう女神にでも見えるでしょうね。そうなれば彼が私の手の内に落ちるのは時間の問題だわ」
 不知火は写真の男に口づけた。こいつは何を言っているんだろう。感情を抑えるようにカウンターの下で拳を握りしめた。
「あなたは結婚しているんじゃないですか」
 俺の言葉に不知火は嫌そうな顔をした。
「あんな腑抜けて面白みのない男のことなんてどうだっていいでしょ。あとは誠が離婚届に判を押して、役所に提出するだけの関係よ。そんなことより、今は叶夢君の話を聞いてよ」
 そう言って不知火はその男との出会いを話し始めた。いかにその男は魅力的で、自分たちは運命に引かれ合った関係なんだと。
 どうして俺はこんなにイライラしているんだろう。下衆な大人なんて何十人も見てきた。クズだとは思っても、苛立つことはほとんどない。依頼者から聞かされる悪口や不幸の使い道は、結局他人事だからだ。怒りなんてカロリーの高い感情、持つだけで疲れる。
「彼には私との運命を確信してもらわないといけないから、アカネ君の活躍はとっても重要なのよ」
「……こんなの、運命でもなんでもないですよね」
 自分でも知らない低い声が出た。
「相手の不幸を金で買って、不幸に落ちたところで手を差し伸べることのどこが運命なんですか。相手を騙して繋いだ関係が何になるんですか」
 俺は目の前のこの女に苛立っているんじゃない。自分に苛立っているんだ。
 ハルに本当の名前をはぐらかされて、電話を切ったあの日。自分のことは棚に上げて「噓つき」だと罵った。俺だって、本当の名前も、この汚れた仕事も、何一つ言えないじゃないか。
 本当の名前なんて聞かなければよかった。偽りだらけだとしても、目の前にいるハルだけを信じていればよかった。そうすればきっと今もハルといられた。でも、嘘を吐きあって繋がった俺達の関係はそれ以上先へ進めない。もしも自分からさらけ出すことが出来ていたら、俺達は上手くいっていたのだろうか。
「アカネ君はロマンチストね。恋は打算よ」
 そう言うと、俺の方に体を寄せた。化粧の匂いがして、勝手に体が強張る。
「スレた子供かと思ってたけど、可愛いところもあるのね。気に入ったわ。続きは場所を変えましょうよ」
 化粧の匂いは苦手だ。母親の、まだ優しかった頃を思い出すから。
 
 母は綺麗な人だった、と思う。歯切れが悪いのは、顔にモザイクがかかったみたいに思い出すことが出来ないからだ。家族写真なんて手元に一枚も残っていない。「二十代の頃には『地元のミス何とか』にも選ばれて雑誌にも載ったんだ」と父が母のことを自慢げに話していたことは覚えている。
 俺が小学校高学年に上がるくらいまで、俺達家族は上手く行っていた。父は仕事が忙しくて中々会えなかったけど、たまの休みには俺と母を遊びに連れて行ってくれた。車で二十分ほどのところに城跡があって、春には満開の桜を家族で見に行ったことを思い出した。三人で出かける日は母がいつもより綺麗にしていて、俺はそれが好きだった。
 父が家にいることが少ない分、専業主婦だった母とはよく話をした。授業で習ったことの話、友達と遊んだ話、今日見た夢の話。母は俺の話を楽しそうに聞いてくれた。
 きっかけは小5の時の俺の言葉だった。その日のことはよく覚えている。朝起きると、台所からは俺の好きなカレーの匂いがしていた。それが嬉しくて、急いで母の元へ行った。
『おはよう、茜。今日は朝から元気ね』
 台所に立つ母はそう言って微笑んだ。
『だってカレーなんでしょ。お腹空いたよ』
『ふふっ、本当に茜はカレーが好きね。もう少しで用意できるわよ』
『あっ、そうだ。今日は夢に父さんが出てきたよ。家に父さんと女の人が一緒にいて、そこに母さんも入ってきて、みんなでクッションとかを投げて遊んでたよ』
 俺の言葉に母の顔つきが変わった。
『やっぱり浮気してたのね……』
 それからは積み木が崩れるみたいに、俺達家族が崩壊するのはあっという間だった。
 学校から家に帰ると、友達と旅行に行っているはずの母がリビングの床に座り込んでいた。部屋は誰かに荒らされたみたいに物が散らかっている。俺は母に駆け寄った。
『お母さん大丈夫!? 何があったの!?』
『来ないで!』
 そう言って振り向いた母はまるで化け物を見るような目で俺を見ていた。
『全部茜が言っていた通りだった……茜の夢は他人の不幸を見る。茜は不幸を呼び寄せる。怖い怖い怖いこわい……』
 その時はまだ母が何を言っているのか、理解できなかった。
 それから俺の生活は一変した。父は一度も家に帰ってくることはなく、その話題を口にすると母はヒステリーを起こすようになった。
 母は寝室に引きこもって、俺と同じ部屋にいることを拒んだ。宅配で月に数回、レトルト食品やカップ麺が大量に届いたから、食事には困らなかった。でも、何を食べても味はしなかった。俺は母が眠ってからこっそり寝室を覗きに行っていた。日に日に生気が無くなり、あんなに綺麗だった母の面影はもうどこにもなかった。
 毎晩母の夢を見た。部屋で母と顔を合わせる夢を見た翌日、文化祭の代休で家にいた俺と母は久しぶりに顔を合わせた。俺の顔を見るや、母は急いで寝室へ戻っていった。夢で見たのと全く同じ光景。その時やっと、俺は状況を理解した。
 朝起きるとなぜか泣いていることがよくあった。昔、母が料理中に包丁で指を切る夢を見た次の日に、「茜の夢が正夢になっちゃったね」と照れて笑う母の指には絆創膏が巻かれていた。母は知っていたんだ。俺が見た夢は本当に起こるって。
 後から思い出せば、母が父の浮気現場に乗り込んだあの日、母の手にはボイスレコーダーらしきものが握られていた。きっと浮気の証拠を掴んで離婚の時に慰謝料を請求したんだろう。
 化粧の匂いは昔の優しかった母と、幸せだった家族の記憶を思い出させる。そして勝手にその後の顛末を頭でなぞって、胸が千切れそうになる。だから意図的にその匂いを避けてきた。

 手に触れる感触があって、現実に引き戻される。女は俺の手を握っていた。
「さっき呼んだ車がもう着くって。行くわよ」
 くいっと手を引っ張られて、俺の身体は勝手に椅子から立ち上がった。女は俺の手を引いたまま店を出る。
 やっと状況を理解して、触れられたところから悪寒が全身に走った。
「嫌……嫌だ。行きたくない」
「もう。そんな興が冷めること言わないでよ。さっきまではうっとりした顔で私を見つめていたじゃない」
「そんな顔してない!」
「こら、あんまり大きい声出さないの」
「い、いや……!」
「レイ君!?」
 その声に振り返る。そこにいたのはハルだった。
 ハルはこっちに駆け寄ってくると、手を振りかぶった。そして、
「えい!」
 俺の手を掴む女の腕に手刀を決めた。女の手が離れる。
「行こう!」 
 そう言ってハルは俺の手を掴んで走り出した。悪寒は止まっていた。

 ハルは河川敷で足を止めた。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……」
 苦しそうに地面にしゃがみ込んで荒い息を吐く。
「大丈夫、か……?」
 声をかけると、ハルは俺の方を見上げて申し訳なさそうに笑った。
「困ってるみたいだったから、引っ張ってきちゃった。迷惑だったかな?」
「いや……助かった。ありがとう」
「そっか。よかったぁ」
 そう言ってハルは安心したように笑った。
 ハルの顔を見て、走ったからではない鼓動の高まりを感じた。せっかくまた会えたんだ。今度は正直に伝えないと。
「ハル、前に『嘘つき』なんて言ってごめん」
「いいよ。私もちょっと言葉が足りなかったと思うから」
 ハルはそう言うと、立ち上がって俺の両手を握った。
「ねえ、レイ君。私の本当の名前は」
「いいよ、それはもう……」
「私が聞いてほしいの。私の本当の名前は佐伯波瑠(さえきはる)。波に瑠璃色の瑠で波瑠だよ」
「本当にハルだったんだ……」
 それなら俺が本名を聞いたあの時、波瑠は嘘をついていなかったんだ。
「うん。レイ君に本当の名前で呼んでほしくて、嘘ついちゃった」
 そう言って照れたように笑う。
「俺はレイじゃなくて茜。小湊茜(こみなとあかね)
「茜君かぁ。素敵な名前だね」
「俺は自分の名前が嫌いだけど」
「どうして?」
「話すと長くなるんだけど、聞いてくれるか?」
 本当のことを話したら嫌われるかもしれない。気持ち悪いって思われるかもしれない。でも波瑠とここから先へ進んでいきたかった。
 波瑠はふふっと笑った。
「もちろん。夏の夜はまだ長いよ」

 俺達は河川敷に腰掛けた。穏やかに流れる川には月がゆらゆらと滲んでいる。
「夕暮れ時の空を茜色の空って言うだろ。そんな空を見ると、もうすぐ仕事の時間ってことを思い出すから嫌いなんだ」
「仕事って?」
「俺は昔から他人のこれから起こる不幸を夢に見るんだ。離婚して片親だったから、母親が死んで身寄りが無くなった時、俺を引き取ったのが今の雇い主。誰かの不幸が知りたい金持ちに依頼されて、他人の不幸を売って稼いでいるんだ。そんなんだからもう何年も学校なんて行ってない」
 波瑠は何も言わずに俺の話を聞いていた。
「不倫がバレる夢とか、事故に遭う夢とか、いろんな夢を見てきた。夢に出てくるのは眠る直前に強く印象に残った人物。仕事の夜は依頼人から見知らぬ他人の悪口を浴びるほど聞いて、そのまま眠りについた」
 仕事がある日はそれでよかった。不幸を見るべき相手がいるから。
「でも仕事じゃない日も、眠ると誰かの不幸を見てしまう。それが嫌で嫌で、さんざんいろんなことを試してきたんだ」
 まずは寝ないことを試みた。でも夜十時になると気絶するように眠ってしまうせいで、すぐに断念した。
 次に自分のことを考えて眠ることにした。自分の不幸なら見てもどうってことはない。だけどそれは見られないらしく、過去に面識のある誰かがランダムに出てきて毎朝吐きそうになった。
 歴史上の人物もダメ。人間以外の動物もダメ。俺を縛る呪いはどうしても他人の不幸を見せたいらしい。
「それでようやく、死んだ母親の夢を見れば誰にも迷惑をかけずに済むって分かったんだ。近い人間なら死人でも許してもらえるらしい。それに死ぬとき以上の不幸が更新されることもない。その方法を見つけてから、少しはマシに生きられるようになったよ。ああ、波瑠のことは一度も夢に見ていないからそこは安心してくれ」
 もし波瑠の不幸を見てしまったら。面識があるだけの人間の不幸でさえも苦しいのに、そんなのはもう想像もできない。
「親戚も仕事を依頼してくる金持ちも、俺のことは疫病神みたいに扱ってた。まあそれはそうだよな。俺と関わると不幸になるんだから」
「その話、ちょっと変だよ」
「え?」
「だって、茜君の夢は予知夢ってことでしょ? 別に不幸を呼び寄せてるわけじゃないじゃん」
 気持ち悪い、関わりたくない……今まで浴びせられてきた罵倒の言葉が頭に浮かぶ。俺のせいでその人が不幸になる訳じゃない。いつから混同していたんだろう。
「……そう、かな」
「そうだよ。他人を傷つけたりとか、もちろんやっちゃいけないことはあるけど、それ以外のちょっとした罪悪感とか甘えは自分を許してあげないと息が詰まっちゃうよ。ハッピーに生きるコツ」
 ハッピーに生きるコツ、か……俺も幸せになろうとしていいって認められたみたいだ。
「ありがとう。少し楽になった気がする」
「それならよかった。ちなみに私も学校はしばらく行ってないんだ。茜君と事情は全然違うけどね。でも、そっかぁ……」
 そう言うと、波瑠は突然俺の身体を優しく抱きしめた。
「え……?」
「今までずっと辛い思いをしてきたんだね。もっと早く言ってあげられたらよかったのにな」
 その言葉に、伝わる温もりに、初めて心が満たされるのを感じた。
 ああ……俺はずっとこうしてほしかったのか。
 目頭が熱くなって、上を見上げる。繁華街から離れたこの場所では星が良く見えた。星に引力があるように、なんの接点もなかった俺達が出会えたのは何か見えない力で引きつけられているのだろうか。
 波瑠は俺からゆっくり体を離した。
「なあ、波瑠は運命ってあると思うか?」
 俺の言葉に波瑠は笑った。
「急だね? じゃあ私の返事を聞く前に、茜君の考えを聞かせてもらおうかな」
「俺は運命があると思う。いい事も、悪いことも、そうなるように初めから決まっている。そうじゃなかったら、世の中、偶然で済ませるには出来過ぎていることが多い」
 俺の悪夢を見る体質が何か外的な要因によって生まれたものだったら、たまったもんじゃない。運命によって生まれる前から決まっていたとか、そんなんじゃないと耐えられる気がしなかった。
 それに俺と波瑠があの日、あの場所で出会えたことだって出来すぎている。運命の相手だなんて夢見がちなことを言うつもりはないけど、決められた出会いのおかげで今があるんだと思う。
「ふぅん、なるほどね。いいと思う」
「それで、波瑠は?」
「ふふっ、まだ内緒」
 そう言って波瑠はいたずらっ子のような表情で口元に人差し指を当てた。そんな彼女に視線が引きつけられる。
「っていうのは半分冗談で、本当はまだ考えがまとまってないんだ。自分の中で答えが決まったら、その時に聞いてもらうっていうのでどうかな」
「それでいいよ」
 俺は芝生の上に横になった。波瑠の側はひどく心地がいい。
「ああ! 茜君ズルい! 私も横になっちゃお」
 そう言うと、波瑠は俺の隣に並んだ。
「はぁ、気持ちいい。夜の河川敷で寝転がって、なんだか悪いことしてるみたい」
「こういう日があってもいいだろ」
「うん。楽しいね」
「そうだな」
 ずっとこの時間が続けばいいのに。
「ずっとこの時間が続いたらいいのにね……」 
 波瑠の呟く声が聞こえた。
 瞼が重くなって、意識が遠のいていった。

「茜君、起きて」
 声がして目を開けると、波瑠が俺を覗き込んでいた。
「もう朝になっちゃったよ。二人とも、よく寝たね」
 そう言って照れたように笑う。そして立ち上がると、河川敷を上っていった。
「さて、そろそろ帰らないと。帰り道はどっちかな?」
 眩しそうに日光を手で遮る。朝陽に照らされた彼女の横顔はとても綺麗だった。その彼女に近づきたくて、俺は体を起こす。
 その時、突然やってきた自転車に彼女ははねられた。

「茜君、起きて」
 その声に俺は飛び起きた。冷汗が背中を伝う。
 目の前の波瑠は驚いたように目を丸く見開いた後、優しく微笑んだ。
「もう朝になっちゃったよ。二人とも、よく寝たね」
 そう言って、さっき見たのと同じように照れて笑った。そして立ち上がると、河川敷を上っていく。
 心臓がバクバクと早鐘をうつ。
「さて、そろそろ帰らないと。帰り道はどっちかな?」
 眩しそうに日光を手で遮る。俺は必死になって、波瑠の背中を追いかけた。
「波瑠……!」
「え?」
 振り向いた彼女の腕を強引に引っ張って、バランスの崩れた体を全身で受け止める。目の前を自転車が通り過ぎていった。
「ごめんね、周りが見えてなくって。茜君、大丈夫?」
 呼吸が荒くなって、視界にもやがかかる。俺は馬鹿だ……あんなに気を付けていたのに、波瑠の夢を見てしまった。今回はたまたま回避できたからよかったけど、目の前で波瑠が事故に遭っていたらと思うと怖くて仕方ない。俺のせいで波瑠が……
「茜君!」
 強引に手で顔を持ち上げられる。真っ直ぐな瞳が俺を見つめていた。
「私を見て。今思ってること、全部言って」
 その視線から逃れることは出来ない。ぽつぽつと言葉が出てくる。
「……波瑠の夢を見た。波瑠が自転車にはねられる夢。身近な人の不幸を夢に見るのも、不幸に遭う現実を変えられなかった時も怖い」
「でも、茜君は私を助けてくれたでしょ?」
「今回は運がよかっただけで! もしまた夢を見てしまったら、その時は……!」
「茜君、目、閉じて」
「え……?」
「私が、怖くなくなるおまじないをかけてあげるから」
 そう言われて、俺は目を閉じた。瞼の裏には今朝見た夢の光景が浮かぶ。彼女が自転車にはねられるのを、俺はなすすべもなく見つめていた。波瑠が傷つく未来なんてもう二度と見たくない。
 その時、額に柔らかな感触があった。キスされた、と理解するのに数秒かかった。
 目を開けると、波瑠は満足そうに笑っていた。
「ほら、もう私のことで頭がいっぱいになったでしょ。唇にするのは本当に好きな人のために取っておいてあげるね」
 波瑠に触れられた場所からむず痒いような感覚が体に広がる。初めての刺激に体が熱くなった。
「もし怖い思いに押しつぶされそうになったら、このキスを思い出してよ……私もそうするから」
 そう言うと、波瑠は俺から一歩距離を取った。
「それじゃあ、本当にもう帰らないと。また連絡するね」
「……ああ、俺も連絡する」
「ふふっ、じゃあ楽しみにしてる。またね」
 波瑠は笑顔を見せて、その場を去った。

 東京は連日のように真夏日を記録し、外ではセミがうるさく鳴いている。
 俺はスマホを握りしめて、もう二時間以上が経とうとしていた。波瑠に次会う予定を話そうと思ったものの、電話を掛ける勇気が出なくて数日が経過した。今日こそは必ず電話を掛けると決めたのに、「発信」のボタンが押せない。
 ああ、もう……いっそ誰かが押してくれればいいのに。
 その時、玄関の扉が開く音がして、驚いた勢いでスマホをぶん投げた。
「おい、今すごい音したけど大丈夫か?」
 怪訝そうな顔で部屋に入ってきた圭は言った。
「突然家に来るな。いつも言ってるだろ」
「まあ今さらじゃないか」
 圭は台所のごみ箱を一瞥した。
「お前またカップラーメンばっかり食ってるだろ。ある程度の金は渡してるんだから、寿司とかピザとか出前でもなんでも頼めよ」
「いいだろ、別に」
 仕事で依頼人からもらう報酬から、圭の仲介料を天引きした分が俺の取り分になる。8割、9割差し引かれたって、生活には十分困らない金が手に入った。食事はまとめ買いできるカップラーメンが便利だし、服は破れたらまた同じものを買えばいい。特別に金を使うあてもなく、持て余す一方だった。前に「こんなに必要ない」と圭に言ったら、「それくらいはもらっておけ」と断られた。
「はいはい、茜君は偏食でしたね……ほら、お土産だぞ」
 そう言って両手に持った大きな紙袋を机に置いた。
「また本かよ」
「仕事で貰うんだよ」
「新品なんだからどっかで売ればいいだろ」
「こんな大量の本、売るのも捨てるのも面倒なんだよ。だけど放置してたら事務所が本で埋まっちまうからな」
「代わりに俺の家を埋める気か」
「もう一つの紙袋の中身は本じゃないぞ」
「おい、俺の話を聞け」
 圭が紙袋から取り出したのは、でかいスイカだった。
「これも貰い物でな。どうだ、なかなか立派だろ?」
 そう言って自慢げにスイカを撫でた。
「まさかそれも丸々ひと玉置いていくつもりじゃないだろうな?」
 邪魔なものは何でもうちに置き逃げする圭のことだから、十分やりかねない。
「そんな言い方はないじゃないか。まともな食生活をしていない茜の健康状態を考えて……」
「体よく押し付けようとするな。こんなでかいスイカ、いつまで食べ続けることになるか」
「……チッ、仕方ない。半分俺が食うから、お前も半分引き受けろ」
 圭はスイカを手にして、ほとんど使っていない台所へ立った。贈答用の良いやつだろうに、ノルマ扱いされるなんて不本意だろうよ。
 圭は俺の方を振り向いた。
「せっかくだし、スイカ割りでもするか?」
「誰がするか」

 圭が切り分けた不揃いなスイカを齧る。スイカを食べるのも、圭と一緒に食事をとるのもかなり久しぶりだった。
「最近調子はどうだ?」
「別に。いつも通り」
「前回の仕事の後、待ち合わせ場所に来なかったな」
 その言葉でスイカを持つ手が止まった。
 前回の仕事、それは波瑠と途中で逃げ出した時のことだ。波瑠とのことで頭がいっぱいで、圭から何も連絡がこないことに違和感を抱いていなかった。
 仕事を途中で投げ出したのは初めてだ。仕事に対して厳しい圭からどんなことを言われるか。想像しただけで体がすくむ。
「それは……」
「別に責めている訳じゃない。後日、依頼者から追加の入金と依頼者情報詐称についての謝罪があった。仕事の信用に支障がないのなら、俺から言うことはない」
 圭は俺に目もくれず、スイカを齧った。
「ただな、一言くらい連絡入れろ。心配するだろ」
 心配とか……そんな普通の感情、普通じゃない俺達の関係にある訳ないだろ。
「ああ、食った食った」
 そう言って圭はティッシュで指と口元を拭う。
「残りは適当に食べてくれ。ああそうだ、これ……」 
 本の入っている紙袋から、茶封筒を取り出した。既に封が切られている。
「何だよ、それ」
「俺はもう必要ないから茜にやるよ。佐伯波瑠の身辺調査結果」
「……は?」
 思いもよらない単語に頭が真っ白になった。
「茜が仕事以外で他人と関わることなんて今までなかったからな。探偵を雇ってちょっと調べさせてもらったけど、なかなか興味深い経歴を持ってるんだな。今は……」
「やめろ!」
 腹の底から声が出た。波瑠のことを波瑠以外の人間から知るなんて我慢できなかった。
 圭はその封筒を俺の目の前に落として、立ち上がった。
「ソレは見るなり処分するなり好きにしてくれ。また次の仕事の時に迎えに来る」
 それだけ言い残して圭は去っていった。

『もしもし、茜君?』
『最近変な男が声をかけてくることはなかったか!?』
『え、変な男……? 特になかったけど、どういう事?』
『いや、何もないならいいんだ。忘れてくれ』 
 圭は波瑠に直接接触してはいないみたいだ。ひとまず安心した。
『それにしても、茜君から電話くれるなんて嬉しいなぁ』
 そう言われて、ぐっと言葉に詰まる。圭の言動から慌てて波瑠に電話したはいいけど、その先の心の準備はまだできていなかった。
『茜君?』
『何でもない……その、次のことなんだけど……いつ会える?』
 どうしてこう、さらっと言えないんだ。
『うん。それじゃあ、明々後日はどうかな』

 次の待ち合わせを決め、少しだけ話して電話を切った。ドサッとベッドに倒れこむと、謎の達成感があった。

「やあ、茜君。この前ぶりだね」
 待ち合わせ場所の公園にやってきた波瑠はそう言って笑った。
「そうだな。今日はどこ行くんだ?」
「たまには茜君が決めてよ」
「え……」
「茜君が決めるデートプラン、興味あるなぁ」
 そう言って波瑠は期待に満ちた瞳を向けてくる。
 そんな風に振られるとかえって頭が回転しない。デートという単語だけが頭を空回りしている。
「こういう時は思いついたものをパッと言わないと、余計にハードル上がっちゃうよ?」
 思いついたものを、パッと……
「じゃあ、家……?」
「わお、大胆」
「今の発言は忘れてくれ……!」
 自分の言葉にいたたまれなくなって顔を手で隠そうとすると、その手を波瑠が掴んだ。
「じゃあ今日も私が連れまわしちゃおっかな。いいよね?」
 そう言って彼女は俺の顔を覗き込む。そしてニッと笑うと、背を向けて歩き出した

「私ね、茜君とやりたいことがあるんだ。でもそれにはまず買わないといけないものがあって。平日の昼間とはいえ他にお客さんはいるだろうし、茜君はちょっとここで待っててくれる?」
「いや、俺も行くよ」
「本当に大丈夫?」
 波瑠が心配そうに首を傾げる。
「ああ。もう克服したんだ」
 本当は全然そんなことなかったけど、今日は少しでも波瑠と一緒にいたい。
「そっか、分かった。怖くなったら私の手、握ってもいいよ?」
「そんなことするか」
 軽口を叩きながら歩いていく。周囲の景色は住宅街から繁華街へと変わっていった。平日の昼間だからそこまで人は多くないけど、反射的に体がすくみそうになる。
「こっちだよ」
 そう言って急に波瑠は俺の手を握った。その温かさで緊張が解ける。
「ここ、入るね」
 波瑠がそう言って入ったのは、某有名ディスカウントストアだった。店内には社名を繰り返す音楽が流れ、特徴的で派手なPOPが棚を飾る。どんな店かはテレビで見て知っていたけど、実際に入ったのはこれが初めてだった。
「んー……多分三階かな」
 エスカレーター付近の案内表示とにらめっこして、波瑠が呟く。三階へ移動すると、そのフロアには子供向けのおもちゃやら何かのアニメのグッズやら、とりわけカオスな空間が広がっていた。
「波瑠、ここで何を買うんだ?」
「ふふん、よくぞ聞いてくれました」
 波瑠は上機嫌に振り向く。
「私達って、学校に行ってないでしょ。だから青春ごっこ、しようよ」
「青春ごっこ?」
 波瑠は棚の間をすり抜けていく。そして、ある商品を手に取った。
「青春と言えばまずはこれじゃない?」
 そう言って見せてきたのは、ブレザーの制服だった。
「私、ブレザーって憧れだったんだよね。中学は一応、セーラー服だったし。高校は可愛いブレザーのところにするぞーって決めてたんだけど、まあ、色々あってね」
 そう言って悲しそうに顔を逸らした。自分の過去に触れるとき、波瑠はそんな顔をする。だから詮索しないと決めた。
 波瑠はパッと俺の方に顔を上げた。
「だからね、今日は憧れの制服を着て、なんちゃって放課後デートをしたいなぁって。いいかな……?」
「好きにすればいいんじゃないか」
「やったぁ、ありがとう! それで、こっちなんだけど……」
 波瑠はラックから取り出した商品を遠慮がちに見せた。
「茜君はブレザーと学ラン、どっちがいい?」
「って俺も着るのかよ?」
「だって一人だけじゃ寂しいじゃん! 茜君も一緒に着ようよ! ……それとも、本当に嫌?」
 波瑠は不安そうに俺の顔を覗き込む。いつもは強引なのに、そうやって引いてくるのはズルいと思う。
「しょうがないな」
「えへへ、ありがとう」
 そう言って満面の笑顔を見せた。

 俺達はトイレでそれぞれ制服に着替えることになった。俺は波瑠の希望で学ランを買った。
 今まで制服には縁がなかった。かといって特に憧れもなかった訳だけど、まさかこんなタイミングで着ることになるなんてな。
 ただこんな真夏に学ランの上着を着る訳もなく、白シャツに黒のズボンじゃいつもと変わり映えはしなかった。
 着替えて外で待っていると、パタパタと足音が聞こえた。そっちを振り向く。
「お待たせー! ちょっと手こずっちゃった」
 その姿に目を奪われる。白いシャツと赤いリボンのコントラスト。シャツの襟口からは鎖骨が覗く。
「えへへ、髪も縛ってみたんだ。どうかな?」
 いつもの長い髪を一つに束ねて、首のラインもよく見えた。でも、それ以上に……
 視線を下に向けると、膝上でチェックのスカートが揺れる。白く伸びる足が眩しくて、目のやり場に困る。いつもはもっと丈の長いスカートで隠しているから、今日はなんか……
「茜君? あ、もしかして、私に見とれてた? なんちゃって……」
「……悪いかよ」
「え?」
「ほら、着替えたんだし行こうぜ」
「あ……うん! 案内するね」

 隣を歩く波瑠は、突然くるっと一回転した。
「ねえねえ、私達、ちゃんと高校生に見えてるかな?」
「学校をさぼってる不良には見えてるかもな」
「ええー、茜君のイジワル」
 そう言って不満そうに頬を膨らませた。
「じゃあ、一緒に学校をさぼってるカップルには見えてるかな?」
「カップルじゃないだろ」
「茜君は今好きな人、いる?」
「いないよ」
「それなら、気になる人は? 一緒にいたいなって思う人」
 いないって言えばいいのに、言葉に詰まった。
「ああ! その反応はいるんでしょ! ねえ、どんな子?」
 無邪気に体を寄せてきた波瑠と目が合う。俺は顔を逸らした。
「俺と違って、明るくて人生楽しそうな奴」
「へぇ、そういう子が好みなんだ。歳は? どうやって知り合ったの?」
「俺ばっかりは不公平だろ。波瑠も答えろよ」
 俺の言葉に波瑠は口元に手を当てて考える素振りを見せた。
「んー、私の好きな人は、優しくって一緒にいて楽しい人だよ」
 そう答える波瑠は相手を思い出して顔が赤くなっているように見えた。
 波瑠は「気になる人」じゃなくて「好きな人」と言った。俺とは全然違うソイツが羨ましくて胸が焼けそうになる。それはそうだ。もし俺が女だったら、俺みたいな陰気な奴、彼氏になんて絶対したくない。
 波瑠がどうして俺と一緒にいるのか、自信はない。でも隣にいることが許されるなら、「もっと近づきたい」と欲を出してもいいのだろうか。

 波瑠が立ち止まったのは、一部がガラス張りになった、楕円形の大きな建物だった。
「ここで青春っぽいことをしたいんだ」
 そう言って波瑠は建物の中へと入って行く。後に続くと、広い空間の中に本棚がずらりと並んでいた。
「ここって図書館?」
 小声で波瑠に尋ねる。
「正解。それでね、目的は二階にあるの」
 波瑠は階段を上っていく。二階の本棚の間を抜けていくと、ガラス張りになったいくつかの小部屋が並んでいた。それぞれの部屋には長机と、壁にはホワイトボードが用意されている。
 利用者はまばらで、一人でパソコン作業をしている人や、ホワイトボードで会議をしている人達がいた。波瑠は一番奥の空いた部屋に入る。
「ここはフリースペースになっていてね、会議とか勉強とか自由に使えるの」
 そう言って椅子に着く。俺も向かいに座った。
「放課後に一緒に勉強するのってちょっと憧れだったんだよね。『ここ教えてー!』とか言って、分からないところ教えあって勉強するのって、一人でやるより絶対楽しいよね。茜君は高校の勉強してる?」
「しないな」
「そっか。やってみると結構面白いんだよ。例えば生物だと、私達の体はたくさんの細胞が集まってできてるんだけど、その細胞の中にはいろんな役割をする細胞内小器官っていうのがあってね。その中でもミトコンドリアっていうのが、エネルギーを作り出す役割をしてるんだ。エネルギーを取り出す過程が分かると、私達の体ではこんなに難しいことをやってるのかって感心しちゃった」
「そうだな。あとは、ミトコンドリアにはDNAがあって、それは母親由来のものしか遺伝子しないとかな」
 俺の言葉に波瑠は目を丸くした。
「え、そうなの!? というか、茜君よくそんなこと知ってたね」
「まあ、最近ちょっと読んで……」
 圭が持ってきた本はいつもジャンルがばらばらで、この前ちょうど生物学系の新書を読んだばっかりだった。
「せっかく私が茜君に教えようと思ってたのに、悔しいなぁ」
「これはたまたまだよ。勉強してる波瑠の方がよっぽどすごい」
「勉強してるのは高校受験の時の癖っていうか、何となくやめられなくてね。まあ結局高校には通えなかったんだけど。実際、新しいことを知って面白いなぁとは思ってるんだよ。それに、妹にも教えてあげられるし」
「妹がいるのか?」
「うん。3つ年下でね、明るくて可愛くて人付き合いも得意なんだよ」
「それなら姉に似たのかもな」
「……そう、かな」
 波瑠は顔を逸らして、少し笑ったように見えた。
「でも、やっぱり茜君に負けてばっかりは悔しい!」
「別に勝ち負けじゃないし、負けてばっかりってほどじゃ……」
「桜の時! あの時も茜君だけ花びらを掴んで、私は出来なかったから」
 桜並木を歩く波瑠の後ろ姿が頭に浮かぶ。あの日の出会いから全てが始まったんだ。
「じゃあ数学は? 『虚数』っていうのを最近勉強したんだけど、茜君知ってる?」
「いや、知らないな」
「よし! それなら波瑠先生が教えてあげましょう」
 そう言って波瑠は機嫌がよさそうに立ち上がった。そして置いてあったホワイトボードマーカーを手に取る。
「虚数単位iっていうのがあってね、i×iはマイナス1になるんだ。でも同じ数を掛け算したら、答えはマイナス1になんてならないはずだよね。つまり、そんな数は現実に存在しないの」
 波瑠はホワイトボードに筆記体のiを書いた。
「じゃあどうして虚数なんてものが必要なのか。それは虚数を使うことで計算できる範囲が広がるからなんだ」
 それから波瑠は虚数を使った計算をホワイトボードが一杯になるまで書いて説明してくれたけど、予備知識が足りない俺の頭ではついていけなかった。ただ、上機嫌で数式を書いていく波瑠が可愛くて、ずっと見ていられた。
 区切りがついたのか、波瑠はマーカーにキャップを付けた。そして俺と目を合わせる。
「アイは想像上のものだとしても、その存在が私達の世界を広げるって何だか神秘的じゃない?」
 そう言って微笑む波瑠とその言葉が頭に残った。
 波瑠へ向けたこの感情は愛と呼べるものかまだ分からない。自分とは無縁だった恋愛感情なんてものは、想像上のものでしかない。でもこの感情のせいで、俺は苦手な繁華街を歩いて、制服のコスプレをして、一緒にいたいと思える人の側で笑っていられる。知らない世界を見ることが出来た。
 分からないのなら、分かるまでこの感情を握りしめていればいい。
「波瑠、色々教えてくれてありがとう」
「えへへ、どういたしまして。じゃあそろそろ帰る支度をしよっか」
 波瑠は俺に背を向けて、ホワイトボードに書いた数式を消し始めた。立ち上がって波瑠の後ろまで近づくと、忙しなく動くその手首を掴む。
「え?」
 波瑠は驚いたように振り向いた。
「ホワイトボードを掃除するのも、青春ごっこの相手役をするのも、全部俺がやるよ。波瑠のやりたいことは何でも俺が叶えるから、これからも側にいさせてくれないか」
 波瑠が優しい男を望むなら、全力で優しくする。波瑠を楽しませられるかは全く自信がないけど。今はこんなダサい事しか言えない。波瑠に本命の男がいるとしても、俺は側にいたい。
 波瑠は驚いた顔からふっと笑顔を見せて言った。
「私にとって茜君は特別な人だよ。私の方こそ、側にいさせてよ」
 この言葉がただの社交辞令だったとしても、今はそれでもいいと思えた。

 片付けをして図書館を出ると、空には灰色の雲が立ち込めていた。
「雨、降りそうだね」
 波瑠の言葉の通り、街を歩いているとぽつぽつと雨が降り始めた。近くのシャッターが閉まった店先に急いで避難する。
「ちょっと濡れちゃったね。シャツが張り付くのってなんか嫌な感じ」
 そう言われて無意識に波瑠の方を向いた。白いシャツから肌色が透けて見えるのが生々して、慌てて顔を逸らす。
「か、傘買ってくるよ」
 雨の中に出て行こうとすると、波瑠が俺のシャツの袖口をくいっと引っ張った。
「茜君がもっと濡れちゃうよ。雨が止むまで一緒に待っていよう?」
「分かった……」
 波瑠の方を見ないように、雨の降る街を眺める。それなのに、波瑠のいる右側に意識が向いて落ち着かない感じがした。呼吸が浅くなる。
「ねえ、この前『運命があるか』って話したの、覚えてる?」
「あ……ああ、覚えてるよ」
「保留にしてた私の考えなんだけどね、運命はもしかしたらあるのかもしれないけど、あんまり信じてないかな」
「どうして?」
「私ね、病気のせいで学校に行けてないの」
「え……?」
 波瑠が……病気?
「安心して、今は体調大丈夫だから。部屋で横になっているよりも、外に出たほうがよっぽど調子いい気がするし。それで、私の病気がこの先どうなるかがもし運命で決まっているとしても、そんなのを信じる気はさらさらない。だから好き勝手に眩しく生きようと思うの」
 そう言うと波瑠は俺の腕を掴んで引き寄せた。目が合うと波瑠はニッと笑った。
「私がいま茜君といるのは私の意思。だって私達がニセモノの制服を買って街を歩くなんて運命、神様が決めてたらユニーク過ぎない?」
 その言葉に思わず吹き出した。
「ふはっ、それはとんだ変態だな」
 俺につられて波瑠も笑いだす。
「でしょ? だからきっと私達の未来はこれから好きに出来るんだよ」
 波瑠がそう言うから本当にそんな気がした。波瑠の言葉には惹きつける力がある。
「もしさ、私達がクラスメイトとして出会ってたらどうだったんだろうね。こんな風に一緒に雨宿りしたかな」
「接点ないし、ただのクラスメイトAだったんじゃないか?」
 波瑠は明るくて可愛くて、きっとクラスの人気者になっていただろう。それに比べて俺は人付き合いが苦手な暗い奴で、そんな俺達が関わるはずない。
「ええ、そうかな? 小湊と佐伯だから、名簿順で前後の席になってそれがきっかけで話す様になったかも」
 明るい日差しが差し込む教室。がやがやと話をするクラスメイト達。ふと後ろの席を振り向くと制服姿の波瑠が俺に笑いかける、そんな都合のいい妄想が頭に浮かんで、慌ててかき消した。
「波瑠は初対面でも構わずに距離詰めてくるからな。俺のことが好きなんだと勘違いした男達が被害者の会を作りそうだな」
「もう! 別にそんなことしないもん」
 そう言って抗議するように肩で小突いた。
「茜君は本が好きだから図書委員とかやってそうだよね。お昼休みは図書室のカウンターで難しい本読んでそう」
 架空の学校生活でも俺はボッチなのかよ。まあ、男友達が出来るのなんて想像もできないけど。
「それで、暇そうだから私が遊びに行ってあげるの。今日は何読んでるのーって」
「波瑠がいたら毎日退屈しなさそうだな」
「それ、褒めてるんだよね? ……ふふっ」
 波瑠は楽しそうに笑った。
「まあ、退屈しないのは今もそうか。お金を渡してデートするなんて聞いたことないからな」
 そう言って俺は財布から百円玉を取り出した。
「ほら、今日の分」
 波瑠は百円玉に手を伸ばして、途中で止めた。
「これを私が受け取らなかったら、今日は本当のデートをしたってことになっちゃうね」
 そんな言葉に心臓が跳ねた。波瑠は試すみたいに俺を見つめている。波瑠は他に気になるやつがいるわけで、それなのに俺はなんて言ったらいいんだろう……
「それは……」
「あ、雨が上がったみたい」
 そう言われて空を見上げる。いつも間にか雨は上がり、青空が見えた。
 その時、手のひらからお金を拾い上げる感触があった。
「残念。帰らなくちゃ」
 波瑠は大人っぽい笑みを浮かべると、先を歩いて行った。

 その日は本当に珍しく、「買い物に行こう」と思い立った。
 家から一番近い商業施設で適当な服屋に入り、店員に適当に見繕ってもらった。白いTシャツに水色のシャツ。試着すると、顔はいつもと同じなのに体だけは爽やかな男に見えた。
 無駄にデカい紙袋を持って玄関のドアを開ける。今日はさすがに疲れた。ただでさえ仕事以外で他人と話すことはないし、それに全く興味のない「服」について店員に好みを聞かれるのも苦痛だった。さっさと風呂に入って、ゆっくりしよう……
「よう、茜」
「は……?」
 居間に入ると、何故かそこには圭が座っていた。
「今日は検診でもないだろうに外に出るなんて珍しいなぁ」
「おい、勝手に人の家に上がるな。鍵を返せ」
「んなこと言ってもここは俺の名義で借りてるんだから、仕方ないよな。その袋……」
 そう言って俺が手に持った紙袋に視線を向ける。背中の後ろに慌てて隠した。
「それ、まあまあいい服屋のじゃねぇか。茜が自分で服を買いに行くなんてな。女か?」
「うるさい。用事がないなら帰れよ。俺は疲れてるんだ」
 床に紙袋をドサッと置いて、俺はベッドに腰掛けた。
「まあそう言わずにさ。用事はあるんだよ。顧客のリストを前にここに忘れていったと思うんだけど、見てないか?」
「顧客のリスト? そんなの見てないけど」
「事務所の隅まで探したけどないんだよ。そういうわけで、これから家捜しさせてもらうから茜は好きにしてていいぞ」
 そう言って勝手に引き出しを開け始める。
「いや、ちょっと勝手に開けるなって!」
「なんだよ。見られて困るもんでもあるのか?」
 めんどくさそうな顔で俺の方を振り向く。
「……いや、ないけど」
 本当はある。圭が開けている引き出しの隣。無地の段ボールの中に、この前買った学ランのセットが入っている。
 圭がそれを見つけでもしたら、面白がっていじってくるに決まってる。そんな爆弾だと分かっていたのに、何となく捨てることは出来なくて箱に仕舞ったままになっていた。
「その辺は物が多いから俺が探すよ。圭はあっちから探してくれ」
「おう、助かる」
 圭は反対にある本棚に向かっていった。はぁ、なんとか助かった。

「いやぁ、手伝わせて悪かったな」
「ほんとだよ」
 結局、顧客のリストは前回圭が本を入れて持ってきた紙袋の中に紛れていた。本当に人騒がせな奴だ。
「そう言えば、もうすぐ母親の命日だろ。今年はどうするんだ」
 ああ、そう言えばそんな時期か。でも答えは決まっている。
「行くわけないだろ」
 母親の命日には親戚が集まって坊さんにお経を読んでもらうんだと昔、圭が言っていた。俺を毛嫌いしている人たちのところにわざわざ行く意味が分からない。それに向こうも俺が来ることを望んではいないだろう。
「そうか、分かった」
「なんで毎年聞いてくるんだよ。どうせ行かないのに」
 どうせ俺が行かないって言うに決まってるのに、圭は毎年同じことを聞いてくる。その意図はよく分からなかった。
「俺は家族の縁を切られてるからどうしようもないけど、お前にとっては母親だろ? あんな親戚連中が何て言ってもお前には命日に会いに行く権利があるからな」
 そう言って煙草に火をつけてふかした。
「おい、家の中でタバコ吸うなよ」
「ああ、悪い」
 圭は素直にタバコを携帯灰皿にいれた。思えば、一緒に暮らしていた時は圭がタバコを吸っているところを見たことがなかった。
「圭はどうして縁を切られたんだ」
 俺の言葉に圭はちらっと視線を向ける。
「知りたいか?」
「まあ……」
 そう言えば一度も聞いたことがなかったと思った。
「別に大した訳じゃないんだ。俺が茜くらいの歳の頃、それはもう悪ガキでよく警察の世話になってな。それで裏社会の人間ともつるむようになって、いよいよ縁を切られたってわけ」
「後悔してないのか?」
「あ? 後悔なんてしてないさ。遅かれ早かれ俺は裏社会の人間になっていた。真っ当な人生なんて俺には無理な話だったんだよ」
 そう話す圭は、どこか寂しそうにも見えた。圭は膝に手をついて立ち上がる。
「それじゃ、目的のものも見つかったことだし俺は帰るわ。また次の仕事の時に迎えに来るからな」
「あ、ああ……分かった」
 圭の弱さを初めて見た気がした。そんなことは知り合って何年も経つけど初めてだった。

 波瑠との待ち合わせには十分も早くついてしまった。いつもと違う恰好をしているだけでそわそわして何だか落ち着かなかった。
「お待たせー!」
 その声に振り向くと、向こうから波瑠が走って来ていた。会えただけで嬉しくて、勝手に鼓動が早くなる。
「待った?」
「いや、今来たところ」
「そっか、よかったぁ……」
 そう言ってふわっと笑った。そんな無防備な顔はやめてくれよ。俺がどれだけ平然を保とうと努力してるかも知らないくせに。
「今日は特に行き先決めてないんだ。だから、おしゃべりしながらお散歩しようよ。知らない道に入っちゃったりしてさ、新しい発見があるかもしれないし」
「分かった」
「じゃあ、とりあえず駅と反対方向に歩いて行って、突き当ったらじゃんけんして右と左どっちに行くか決めようよ。何回曲がったかは茜君覚えておいてね?」
「最後は人任せかよ」
 駅と反対方向に歩きだす。日向を歩いていても、前回のデートの時みたいに肌を焼く様な暑さは感じられない。最近は段々と気温が下がって過ごしやすくなってきた。もうすぐ夏も終わりなのかもしれない。
「あれ、今日の茜君はいつもと雰囲気違うね」
 その話題に触れられてギクッと肩が跳ねた。
「そう、かな……」
「うんうん。いつもの恰好よりも爽やかでいいと思う。もしかして、例の『気になる人』の影響かな?」
「それは……」
 俺は言葉に詰まった。
「ううん、やっぱり聞かないでおく。だってあんまり聞いちゃうのもよくないもん。でもとにかく私が言いたかったのは、その服素敵だねってこと」
「ありがとう」
 大変な思いをしたけど、それなら買ってよかった。
「そう言えば茜君、この前のデートで買った制服はどうした?」
「タンスの奥に厳重に保管した」
 この前圭が勝手にやってきた時の反省を踏まえて、簡単に見つかれないようなタンスの奥の奥へ仕舞った。
「ふふっ、気持ちわかるなぁ。私も中身の見えない袋に入れて引き出しにしまったよ。見つかったら色々言われそうだもんね」
「絶対面倒なことになるな」
「だよね。これからもっと涼しくなったら、冬服も着てみたいな」
「そうだな」
 紺色のブレザーを着て、袖口からはベージュ色のカーディガンが覗く。そんな波瑠の姿を勝手に妄想してしまう自分は脳内を侵されているんだろう。
「ねえ、こんなところに神社があるって知ってた?」
 そう言われてふっと現実に思考を戻すと、右側にある細い路地の先に小さな神社があった。
「いや、知らなかった」
「せっかくだからお参りしていこうよ」
 石畳を歩いていくと、鳥居と本殿が近づく。ここに入っただけでなんだか神聖な気持ちがした。
「別にすごく神様を信じてるってわけじゃないんだけど、昔から神社ってちょっと好きなんだよね。空気が澄んでる感じがするし、お参りすると『いいことした』って気分になるし」
 そう言うと波瑠はあたりを見回した。
「どうした?」
「うん。ここにはないみたいだけどおみくじ引くのも好き。大吉とか凶とかで一喜一憂しちゃうんだけど、そういうのも楽しいよね」
「悪いのが出るかもしれないのに楽しいのか?」
「凶が出たらその時は『ああー、凶かー』って思うけど、凶ってことはこれからは上がるしかないってことでしょ? それにおみくじに書いてあるのはいい事だけ信じてればいいの。そうしたら嫌なことなんて一つもないよ」
 そう言って笑った。
 波瑠は本当にいつも前向きですごいと思う。波瑠だって病気で学校に行けなくてつらい思いをしてるだろうに、俺みたいに卑屈にならないで明るく過ごしている。俺もそんな風になれたらよかった。
「確かに、そうかもな」
 そんなことを言っていると本殿の目の前までついた。波瑠はバッグから小さなポーチを取り出す。
「いいご縁がありますようにって、いつでも五円玉はポーチに入れてるんだ」
「準備がいいな」
 財布の中を探すと五円玉はなく、五十円玉があったからそれを掴んだ。どうせなら金額が高いに越したことはないだろ。まあ、もうこれ以上の縁なんて望まないけど。
 お賽銭を投げ入れ、手を合わせた。何を願うかは特に決めていなかった。あんまり長くしても波瑠を待たせるだけだ。

 もしも願いが叶うなら、波瑠の一番近い存在になれますように。

 そう咄嗟に願って、これが俺の一番の願いなんだと自覚した。不幸の夢を見なくなることより、あの仕事を辞められることより、波瑠の一番近くにいられることが俺にとって最も大切なことだったんだ。
 目を開けると、隣で微笑む波瑠と目が合う。
「茜君が何をお願いしたのか気になるな」
「言わないよ」
「うん、私も言わない。これはトップシークレットだからね」
 おかしな言い方に思わず笑ってしまう。うん、これは一番の秘密だ。そんな不相応なことを神様に祈ったなんて絶対に言わない。

 俺達は神社を出て、さっきまで歩いていた道に戻った。
「ちょっと小腹が空いてきたよね」
「まあそうだな」
「茜君は甘いのとしょっぱいのどっちの気分?」
「腹に入ればどっちでもいいけど」
「あえて言うならだよ。さあ、どっち?」
「じゃあ甘いの」
「うんうん、私も甘いのが食べたい! ちょうど突き当たりだし、曲がったらいいお店あるといいね」
 そう言って波瑠は手を出す。じゃんけんをして、俺が勝ったから右に曲がることになった。
「茜君!」
 波瑠が嬉しそうに俺の方を振り向く。
「ああ」
 曲がったその先には、たい焼きの看板をぶら下げた店が見えた。
 近くまで行くとその店は年季の入った佇まいで、ガラス張りの中では店主のおばさんが慣れた手つきでたい焼きを作っているところだった。
「見てみて! 今作ってるところだよ!」
 ガラスの前で波瑠がはしゃぎだす。その子供みたいな無邪気さが可愛くて口元が緩みそうになる。
「見てるのもいいけど、今のうちに注文決めておこうぜ」
「うん! そうだね」
 レジの隣にはメニュー表が置いてあった。開業三十周年記念の特別価格で全てのメニューが百円になっている。
「定番のあんことクリームもいいし……黒ゴマも美味しそう……ああでも、季節限定の冷やしたい焼きも捨てがたい……」
 今度はメニュー表に釘付けになっている。
「せっかく特別価格なんだし、好きなだけ買えばいいだろ」
 俺の言葉に、頬を膨らませてこっちを振り向いた。
「もう! そんな惑わせるようなこと言わないでよ! ほんとはそうしたいけど、全部食べたら太っちゃうからダメなの!」
 そう言われて、波瑠の細くて白い腕が目に入った。
「もっと太っても問題ないと思うんだけど」
「男の子はすぐそんなこと言う! 女の子には女の子の事情ってものがあるんだからね」
 よく分からないけど、これ以上つっこんでもいい事がなさそうだから口をつぐんだ。
 レジに店主がやってきて、俺はクリーム、波瑠はあんこを注文した。財布から百円を取り出したとき、隣からガサゴソと音がして目を向ける。波瑠は必死にバッグの中を漁っていた。
「どうした?」
 その声に顔を上げた波瑠は顔をひきつらせた。
「どうしよう。財布置いてきちゃった……」
 俺は財布から百円をもう一枚取り出して、店主に渡した。
「え、いいの……?」
「どうせ今日も百円払うんだから、ここで出すのと変わんないだろ」
 俺は店主から二つのたい焼きを受け取った。まだ温かい。
 その時、メニュー表の下の方に書いてあった「夏季限定」の文字が目に入った。
「すいません、これも二つください」

「温かいたい焼きとキンキンに冷えたラムネなんて最高だよ! 茜君ありがとう!」
 波瑠は満面の笑顔をみせた。
「それはよかったな」
 温かいたい焼きだけじゃ喉が渇くだろうと思って買い足したラムネは、波瑠の心に刺さったらしい。
 たい焼き屋からさらに進んでいくと、ブランコと水飲み場しかない小さな公園があったからそこに避難する。
 波瑠はたい焼きを俺の方に差し出した。
「ラムネ開けるから、ちょっとたい焼き預かってて」
「おう」
 そうして片手を自由にすると、ラムネの口に手を思いっきり押し当てた。
「ふぅ……っ! ふぅぅ!」
 全力なのが伝わってくるくらい顔まで赤くなっているが、ビー玉はびくともしない。
「はぁはぁはぁ……もうむり……茜君開けて……」
 そう言って疲れ切った様子でラムネを渡してくるから、持ち物を交換する。ふっと力を籠めると、カランと軽い音が鳴ってビー玉が中へ落ちた。
「わぁ、すごい!」
「ほら、波瑠……」
 そうやってラムネを差し出すと、ラムネの口から泡があふれ出してきた。
「うわ!?」
「わぁ!?」
 ラムネを持った方の手は吹き出した泡でびしょ濡れになる。
「ふっ……あはは! 茜君せっかく開けてくれたのにラムネまみれ!」
「いやちゃんと開けたんだからそんな笑うなよ……くっ、ははっ」
 なんかツボにはまってしばらく二人で笑っていた。
 水飲み場でラムネを洗い流し、ブランコに腰掛けた。二本目のラムネは泡が出てこないように、ビー玉を落としてからしばらく手を押し当てていたらうまくいった。
「それじゃあ、いただきまーす」
「いただきます」
 ラムネに口をつけると、独特の甘さと炭酸の刺激が喉を通っていった。次にたい焼きの頭に齧りつく。中にはこってりとしたカスタードクリームが一杯に入っていた。
「あ、茜君は頭から食べる派なんだね。私と一緒」
「普通は頭からじゃないのか?」
「尻尾派もいるんだよ。尻尾はあんまりあんこが入ってないから、最後にいっぱいあんこが入ってる方がいい人はそっち派なんじゃないかな。ちなみに私は尻尾のカリカリが好きだから、好きなものは最後に取っておく派」
「へぇ……色々あるんだな」
 そう言ってまた一口齧った。
 たい焼きをどっちから食べるかなんて考えたこともなかった。そんな取るに足らないような話、本には書いていない。でも、波瑠の話は面白くてもっと聞いていたいと思えた。
「茜君、ちょっと」
「え?」
 波瑠は俺の顔に手を伸ばした。そして俺の口元を指で拭う。
「クリームついてたよ。子供みたい」
 そう言っておかしそうに笑う。その表情から目が離せなくなって、心音がうるさくなる。
 ……これはきっとそうだ。この叫びだしたくなるくらいの感情が「好き」ってことなんだろう?
「どうしたの?」
「いや……何でもない」
 認めてしまったら今まで以上に波瑠が眩しく見えて、顔を逸らした。

 たい焼きを食べ終えて、俺達は再び歩き始めた。
「……でね、待ち合わせ場所に着くまでに3匹も猫を見かけたんだよ。みんな可愛かったなぁ」
「そうか……」
 隣を歩く波瑠が気になって話が頭に入ってこない。波瑠と手を繋ぎたい。その綺麗な髪に触れたい。小さな体を抱きしめたい。波瑠との距離はほんの少しだけで、ちょっと手を伸ばせば柔らかいその手に触れることが出来るほどだ。でもそんなことが出来る関係なはずもなく、このじれったい気持ちが胸を焼く。俺はこんなにも欲深い人間だったのか。
 前に波瑠が言っていた「好きな人」は彼氏じゃないんだよな……? 彼氏がいるなら俺と二人で会ったりしないだろ。そいつともこんな風に二人で会ったりしてるのか……
「ねえ、茜君聞いてる?」
 突然目の前に波瑠の顔がグイっと現れて、思わず反応が出来なくなった。透き通った瞳が俺を映していて、一気に顔が熱くなる。
「ごめん、聞いてなかった……」
「しょうがないなぁ。また突き当りになったから、右と左、どっちに進むかじゃんけんしようよ」
「そうだな……」
 手を出したその時、スマホの着信音が鳴った。
「ごめん、ちょっと出てくるね」
 そう言って俺に背を向けると、少し離れたところまで走って行った。振り向きざまに見えた波瑠の表情が少し暗くなっていたことが引っ掛かった。

『もしもし……うん、元気だよ……』
 聞き耳を立てているつもりはないが、波瑠の声が聞こえてしまう。
『分かった、明日の十五時ね。……うん、私も会うの楽しみにしてる。またね』
 「会うのを楽しみにしてる」って……声の調子も明るい。さっき暗く見えたのは気のせいだったんだろう。もしかして電話の相手はその「好きな人」なんじゃないか? 
「ごめん、お待たせ」
「今の電話って、前に言ってた好きな奴からか?」
 考えるよりも先に口から出ていた。
 俺の言葉に波瑠は苦しいのを隠すみたいに笑った。
「好きな人がいるなんて本当は嘘なの。つい見栄を張っちゃった」
 この言葉が嘘だなんて俺にも分かる。でもそんなことをさせたのは俺のせいだ。
 どうしてそんな嘘を吐いたのか、なんて聞けない。ここからどう取り繕っても波瑠を傷つける気がした。俺は取り返しのつかないことをしてしまったのかもしれない。
「このあと用事があったのを思い出したの。今日はここでお開きにしよっか」
「分かった。また連絡する」
 いくら強引に別れを切り出されたって、引き留めることは出来ない。でもせめてそれだけは言いたかった。
「うん、バイバイ」
 波瑠は「また」とは言ってくれなかった。

 その翌々日、思い切って波瑠に電話をかけた。出てくれなかったらどうしようかと思ったけど、波瑠は電話に出てくれた。
『この前はごめんね……』
 波瑠は開口一番にそう言った。
『いや、俺の方こそ無神経なこと言ってごめん。もう聞かないから』
『ううん、私の方こそ……』
 重たい空気が電話越しに流れる。ただでさえ顔が見えないのに、こんな調子じゃダメだろ。せめて、波瑠を明るい気分にしてやりたい。
『そう言えば、今朝テレビのCMで猫の特番やるって言ってたな。そういうのは興味ないか?』
『え、本当!?』
 波瑠のテンションが急上昇して、ホッと胸を撫でおろす。
『明日の夜8時からって言ってたかな』
『ありがとう! 絶対観るよ!』
 よかった、いつもの明るい波瑠だ。今なら聞きたかったことも聞けるかもしれない。
『なあ、次はいつ会える?』
 思い切って口にした。たったそれを聞くだけで心臓がバクバクと鳴る。こんなに緊張しているのが電話越しにばれないといい。
 波瑠はすぐに返事をしなかった。これは予定を考えてくれているのか、それとも断る口実を探しているのか……
『……ごめん、これからはちょっと忙しくて。しばらく会えそうにないんだ』
 その返答にショックで膝をつきそうになる。申し訳なさそうな声色がせめての救いだった。

 次の電話も、その次も、波瑠は次の会う予定の話をしなかった。段々と電話の頻度も少なくなっていって、ついに「縁を切られたんだ」と悟った。
 最後に会ったあの日、やっぱり不用意に足を踏み入れるんじゃなかった。きっと波瑠は「好きな人」となにかあったんだろう。それなのに俺がその傷口をつついてしまった。波瑠に近づこうとすると、ぐっと距離が離れる。傷つけない訳じゃ決してないのに上手く行かない。それは俺が今までいい加減な人づきあいをしてきたツケなんだろうか。
 人生で一番大切にしたいと思える人を失ってしまった。好きという感情を手にした途端に零れ落ちていった。俺からもう電話なんて掛けられない。波瑠に「電話をかけてこないで」と言い出されるのが怖い。そんなことを言われたらもう立ち直れる自信がなかった。
 心が絶望の真っ黒な闇に染まっても、無常に時間は過ぎる。味がしなくても食べなくては腹が減るし、仕事を逃げ出すこともできない。波瑠を失った日々は、また希望も何もないただ生かされているだけの毎日に逆戻りした。

 そんな風だから、「今日会える?」と朝一で電話が来た時、叫び出したくなるほど嬉しかった。
「茜君、久しぶり」
 そう言って微笑む波瑠から目が離せなくなった。前に会ったのは日差しの差す夏で、今は涼しい秋風が髪を揺らしている。久しぶりに見る彼女はやっぱりどうしようもなく綺麗で、でもどこか寂しそうな気配があった。
「久しぶり……」
「今日は急に呼び出してごめんね。しばらく忙しくて連絡もできなかったんだけど、やっと時間が出来たんだ。会えてよかったよ」
 波瑠の言葉の通り、忙しかったから時間が取れなかったんだ。嫌われたんじゃなくてよかった。きっといつも通りの波瑠だ。
「今日は行きたいところがあるの」
 
 波瑠が向かったのは地下鉄の駅だった。構内に入ると利用者はまばらで一つ安心した。先を歩く人達に続いて改札を通ろうとすると、ピーという警告音と共にゲートが閉められた。
「え?」
「茜君! こっち!」
 そう言って波瑠に手を引かれる。壁際まで連れて行くと、パッと手を離した。
「茜君どうしたの? 何もしないと改札入れないよ?」
「でも他の人は切符が無くても普通に改札通れてて……」
「みんなは交通系のICカードを使ってるんだよ。切符を入れる代わりにスマホやパスケースをタッチしてるでしょ?」
 そう言われて改札に目を向けると、確かにそんなようなことをしている。そもそも外に出ないし、仕方なく出るとしても徒歩圏内か圭の車だし、今どきは切符も何もなくても電車に乗れるんだって関心したよクソっ……!
「あ、顔赤くなってる。可愛い」
「ほんとに恥ずかしいんだからあんまからかうな……」
「えへへ、茜君の新しい一面知っちゃったな」
 波瑠はそう言って笑った。

 駅のホームはコンクリートむき出しのトンネルのような作りになっていて、壁面を水が伝っていた。トンネルの奥は真っ暗で何も見えない。人工的な蛍光灯の明かりだけが空間を照らす。
「世界に異変が起こって人類は地下に住むことを余儀なくされた、みたいなSF映画に出てきそうな場所だな」
 思ったことを口に出すと波瑠は小さく噴き出した。
「ふふっ、茜君は面白いこと言うね。地下鉄っていうのは大体暗くてじめっとして冷たい感じがするものだよ」
「そうなのか?」
「んー、それはちょっと言い過ぎたかも」
「何だよ」
「ねえ、茜君はもしこの世界を終わらせることが出来るとしたら、そうする? それともしない?」
 突然そんなことを聞かれて、反応が出来なかった。
 もしこの世界を自分の手で終わらせることが出来るとしたら。数カ月前の自分だったら、きっと終わらせることを選んだだろう。でも今は波瑠がいるから。波瑠と出会う前と比べて俺の置かれた状況は何も変わっていない。相変わらず毎晩悪夢を見て、他人の不幸を売って仕事し、そしてそのたびに惨めさで一杯になる。そんな毎日。それでも波瑠と一緒にいるときは、自分が普通の人間みたいに錯覚できた。
 クレープを食べて美味しいと思えた。他人と話して楽しいと思えた。隣で過ごす時間が心地いいと思えた。
 だからもし何の苦痛もなく簡単にこの人生を終わらせることが出来たとしても、知ってしまった幸福ごと手放すことは出来ないだろう。
「しない、かな」
 やっとそれだけ答えた。波瑠はどうしてそんなことを聞いたんだろう。
「そっか。私は……終わらせちゃうかもしれない。だって今の時間がとっても大切でキラキラしてて、それで永遠じゃないって分かってるから。それならいっそ、この最高の瞬間のままアクアリウムみたいに閉じ込められたら、それでもう幸せかなって」
 そう言って微笑む横顔はやっぱりどこか寂しそうに見えた。
「波瑠、何か……」
 そう言いかけた時、電車がホームに滑り込んできた轟音で言葉はかき消された。

 電車の中は誰も会話している人はなく、声を出すのははばかられた。波瑠も何も言わずにただ窓の外をコンクリートの壁が流れていくのをぼんやり眺めているみたいだった。
 
 地下鉄を降りて外へ出る。街からは少し離れたみたいだった。
「茜君、こっちだよ」
 そう言って、小さなお店が並ぶ道沿いを歩いていく。前を歩く背中に声をかけた。
「波瑠、何かあったのか?」
「何かって、どうして?」
 そう聞かれて言葉に詰まった。ふと見せる表情が寂しそうに見える。いつもより目が合わない気がする。だけど、そう思うのは全部俺の気のせいなのかもしれない。残念なことに、人の些細な変化に気が付く様な繊細な人間ではないと自負している。だから思ったことを口にしたら、的外れなことを言っていると首を傾げられてしまうかもしれないと思った。
「いや、やっぱり何でもない……」
「ふふっ、心配しなくたって大丈夫だよ。今日、久しぶりに茜君とデートが出来て、私はとってもハッピーなんだから」
 そう言って波瑠は振り向いて、笑顔を見せた。大丈夫、だよな……きっと俺の思い過ごしなんだ。
「着いたよ。このお店が最初の目的地」
 波瑠が立ち止まったのは、白い木目調の外観のお店だった。店先にはヤシの木が真っ直ぐに伸び、サーフボードが飾られている。メニューボードにロコモコやパンケーキの写真が貼ってあるから、きっとハワイアンカフェなんだろう。
 中に入って案内されて席に座る。波瑠はテーブルに置かれたメニューを開くのではなく、近くにいた店員を呼んだ。
「すいません、『スウィートラブパッションパフェ』ってまだありますか?」
 店員はちらと俺に視線を向けた。そして波瑠に微笑む。
「ええ、ございますよ」
「じゃあそれを一つ、お願いします」
 店員が離れて行ってから、俺は声を潜めて言った。
「なんかすごい名前のやつ頼んでたな」
 それに店員にもなんか見られたし。
「あのパフェはね、カップル限定のメニューなんだよ。前にテレビで見て、いつか来てみたかったんだ」
「カ……!?」
 あの店員の視線はそういう意味だったのか。
 
 やってきたパフェは、ハート形のアイシングクッキーや飾り切りされたフルーツでデコレーションされていて、なかなかな見た目だった。
「うん! 美味しい!」
 頂点のストロベリーアイスを一口食べた波瑠は、嬉しそうに頬に手を当てた。
「ほら、茜君も食べなよ。美味しいよ?」
「あ、ああ……」
 世の男女はこんなすごい見た目のものを好き好んで食べに行くのか。驚きを通り越して、感心するまである。
「ラブラブな私達にピッタリのパフェだよね。ね、ダーリン?」
 戸惑っている俺をからかうように波瑠は微笑んだ。
「何だよダーリンって」
「ほら、あーんしてあげよっか?」
 波瑠はアイスを一匙すくって目の前に差し出した。面白がって。
 俺はそれを口にした。
「ああ、見た目ほど味は甘ったるくないんだな」
 動揺してみせたら負けだ。ずっとからかわれてたまるか。
「……まさか、本当に食べるとは思わなかった」
 自分から仕掛けてきたくせに、スプーンをひっこめた波瑠は少し顔が赤くなったみたいだった。その表情を見て、俺まで顔が熱くなった。

 波瑠が半分以上食べてくれたおかげもあって、グラスは空になった。甘さ控えめのクリームや、底に入ったコーヒーゼリーのおかげで、思ったより食べやすかった。
 食後の紅茶を口にして、ふうと一息を吐く。波瑠もカップを置いた。
「パフェ美味しかったね。もうお腹いっぱいだよ」
「まああれだけ食べたらな」
「ウエスト、大丈夫かな……」
 そう言って波瑠はお腹をさする。
「次は服を買いに行きたいの。前にネットで見つけてほしいのがあってね。ちゃんと着られるといいけど……」
「大丈夫だろ。たった一食くらい」
 波瑠の表情はパッと明るくなった。
「そう……そうだよね! じゃあ紅茶飲んだら行こうか」
 コロコロと表情が変わる波瑠はとても可愛くて、愛しく思った。

 店にはパステルカラーのふわふわしたような服が並んでいて、女子の空間に俺はひどく落ち着かなかった。
「俺は適当に他の店見てるから、用事が済んだら連絡して……」
 回れ右しようとする俺の腕を波瑠は掴んだ。
「ダメだよ。だって今日はスマホ持ってきてないもん」
「え、忘れてきたのか?」
「忘れてきたっていうか、必要ないから置いてきたの。だからほら、一緒についてきて」
 そう言われて仕方なく波瑠の後に続く。店の奥まで進んでいくと、波瑠はあるマネキンの前で足を止めた。
「一生に一度は着てみたいって思ってたの」
 パステルブルーのワンピース。袖口やスカートには同系色のフリルがついている。街を歩くには装飾が派手で、言ってしまえばコスプレみたいな。でも波瑠が着たらきっと似合うんだろう。
「ちょっと試着してくるね」
 そう言うと店員を呼び、試着室に入っていった。

 カーテンで仕切られたブースから衣擦れの音が聞こえる。この仕切り一枚隔てた向こうで波瑠が着替えてるんだと思うと、ここにいることが悪いような気がしてきた。
「波瑠、やっぱり俺は店の外で待ってるから、用事が済んだら……」
「待って!」
 そう言って勢いよくカーテンが開かれる。
「もう、着替えたから……」
 恥ずかしそうにスカートの裾を掴む。ワンピースの淡い色合いが色素の薄い波瑠の肌と相まって、可憐で儚い印象を際立てていた。
「ちょっと可愛すぎた、かな?」
 そう言って不安そうに俺を見上げた。
「……いいんじゃないか」
 こういう時に素直に「可愛い」なんて言える人間じゃない。
「えへへ……よかった」
 それでも、波瑠は嬉しそうに笑った。
 
 波瑠は「このまま着ていく」と言って、元々着てきた服とバッグを手にした。ブーツを履こうと屈んだ時に、空いた首元に光るネックレスに目が留まった。
「そのネックレス……」
「あ、気が付いた?」
 猫をモチーフにしたシルバーネックレス。初めてのデートの時に波瑠が買ったものだ。でも、二回目のデートの時に公園で失くして大変だった。半泣きで「もう着けないでしまっておく」なんて言ってたのに。
「今日は特別な日だからね」
 そう言って、猫を指先で揺らした。

 波瑠が財布からお金を取り出していると、レジの店員は波瑠が手にした元の服に目を向けた。
「お客様が着てこられた服は袋に入れてご用意しますね」
「いえ、処分していただけませんか」
 そう言って服を差し出す。思わず口を挟んだ。
「おい、いいのかよ」
「うん。私にはもう必要ないから」
 どうしてだろう。また寂しそうな気配を感じた。

 服屋を出ると、日は傾き始めていた。もうこんなに日が短くなっていたのか。
「寒くないか?」
 隣を歩く波瑠に目を向ける。薄い生地のワンピースは今の季節では肌寒そうに見えた。
「ありがとう。でも大丈夫だよ」
「そうか、ならいいけど」
 今度は地上の電車に乗った。電車を降り、駅の出口に近づくにつれて懐かしいような匂いがした。
「ここだよ。今日はここに来たかったの」
 駅を出ると、目の前には夕焼けに染まる海が広がっていた。
 波瑠は弾むように階段で砂浜へ降りる。俺も後に続いた。秋の海には俺達の他に誰もいなかった。
「海、好きなんだよね。でも実際に来たのはもう何年ぶりかな」
 そう言って穏やかな表情で海を見つめていた。秋の海は夏のような活気も眩しさもなく、ただ寄せては返す波音が物悲しくも感じた。
「俺も前来たのは思い出せないくらい昔だな」
 その時、波瑠は突然ブーツを脱ぎ始めた。
「おい、何して……」
「せっかくここまで来たんだもん、入らないと損だよ」
 そう言いながらも靴下を脱いで、水際へ向かっていく。スカートの裾をたくし上げて、パシャパシャと海に入った。
「やっぱり結構冷たいんだね」
 そう言って波打ち際を跳ねまわる波瑠は、服装も相まって人魚姫のように見えた。そんなことを思いつくなんて、俺の思考は案外メルヘンなのかもしれない。
 波瑠は俺の方を振り向いた。
「茜君もこっちに来る?」
 もうカーディガンを着るような季節だ。入りたい気持ちは分からなくもないけど、後で「やっぱり寒い」って言うに決まってる。俺はすぐ動けるようにここで待っていたほうがいいだろう。
「いや、いい」
 俺の言葉に波瑠は少し俯いた。
「そっか、まあそうだよね……これで茜君と行きたかったところは全部行けたよ。ありがとう」
「おう、それはよかった」
「私はもう少しここで遊んでから帰るから、茜君は先に帰ってていいよ」
「は……?」
 言っている意味が分からなくて体が固まった。
「心配しなくても大丈夫。ここまで茜君を連れてきたのは私なんだから、ちゃんと一人で帰れるよ。じゃあね」
 そう言って波瑠は俺に背を向けると、更に海を進んでいく。その様子にいつもの無邪気さとは違う、簡単に崩れてしまうような危うさを感じた。このまま目を離したら、海の中に消えていってしまう気がした。
「波瑠!」
 やっと動いた足を必死に動かして波瑠の背中を追う。服が濡れるのも無視して、膝上まで水に浸かった波瑠の腕を掴んだ。振り向いた波瑠は苦しそうな顔をしていた。
「何してるんだよ!」
 波瑠は目を逸らした。
「何って、私はただ遊んでるだけだよ」
「だったら、なんでそんな辛そうな顔してんだよ!」
 俺の言葉に波瑠は俯いた。強引に浜辺まで引っ張る。抵抗はしなかった。
 浜辺まで引き上げても、波瑠は俯いたままだった。
「なあ、やっぱり今日の波瑠はおかしいよ。なんかあったんなら話して……」
「話したって何にも変わんないよ。だってそうでしょ? 何の力もない子供の私達には何も変えられない」
 そう吐き捨てるように言った。自暴自棄になった波瑠の様子が苦しくて胸が痛んだ。
「それはそうかもしれないけど! 俺は波瑠の力になりたいんだよ!」
 どうにかしてやりたい。俺に出来ることならなんだってしたい。
 俺の言葉に波瑠は顔を上げた。そして俺の方に一歩近づく。
「それなら私とキスしようよ。嫌なこと全部忘れられるようなやつ」
 目の前で俺を見据える波瑠は知らない人みたいだった。
 なんだか怖くなって一歩下がると、枝につまづいて尻もちをついた。波瑠は俺の上に馬乗りになる。
「大丈夫。じっとしてて」
 そう言って俺の顔の横に手をつき、段々と体を寄せる。
「だめだ!」
 俺は波瑠の肩を掴んで動きを止めた。いま俺が流されてしまったら、きっとこのキスを波瑠は後悔する。そんなのは耐えられない。
 波瑠は驚いたように目を開いた後、また苦しそうな顔になった。
「どうしてダメなの!? 私のしたいこと、何でも叶えてくれるって言ったのに!」
「……ごめん」
「もう私、どうしたらいいのか、分かんないよ……」
 波瑠の瞳から大粒の涙が溢れて、ぽたぽたと俺の服を濡らした。こんな風に弱々しい波瑠を見たのは初めてだった。
 俺は起き上がって、その小さな体を抱きしめた。
「波瑠、大丈夫だから」
「うっ……ぐぅ……っ!」
 腕の中でその体は震えていた。一人きりでこんなに張り詰めるまで抱え込んでいたなんて分からなかった。俺がもっと早く気が付いていればこんなに苦しまなくて済んだのかもしれないのに。
 俺は波瑠が泣き止むまで背中をさすっていた。
「なあ、やっぱり何があったのか話してくれよ。波瑠の本当の望みは何でも叶えたいって、それは嘘じゃないから」
「……うん」
 波瑠は俺の身体から降りて、隣に座った。
「前に病気だって話したでしょ。前例がまだ数件しかない脳の病気なの」
「え……」
「小学生の頃から急に熱を出して倒れたりしてて、その時は小児がかかるような別の病気じゃないかって言われてたんだ。でも中学生になっても同じ症状が出るから都会の大きな病院で見てもらうことになって、そこで初めて本当の病名が分かったの」
 
 病名が判明して、波瑠は入院することになった。波瑠を診てくれる病院へ通えるように、家族は田舎から引っ越したのだという。体は周りの子と同じように動くのに、いつ起こるか分からない発作のせいで学校に通うことが出来ない。数少ない症例を見ると、歳を重ねるごとに発作の頻度は上がり、症状も重くなっていくらしい。
 初めは治療に前向きだった。まだ効果的な治療法は見つかっていないけど、効果がありそうなことは全て試した。頑張っていればいつか病気が治るかもしれない。そうしたらまたみんなと同じように学校へ行ける。そう思って学校の勉強も続けていた。
 でも、一年、二年と経っても病気は良くならなかった。症例と同じように年々発作が重くなっている。それでもまだ前と同じように暮らすことを諦めてはいなかった。だから憧れの可愛いブレザーが着られる進学校を目指して受験勉強にも力を入れた。
 模試ではA判定を取れるようになった。でも、本番の試験を受けることは出来なかった。発作後の朦朧とする頭で思った、「もうずっとこのままなんじゃないか」と。
 一度折れてしまった心はとても脆かった。両親が手を握って「頑張って」と励ましてくれることも、妹が入院している波瑠を楽しませようと学校であった面白い話を聞かせてくれるのも、全部辛くなってしまった。
 だから病院を抜け出すようになった。検査のない日を見計らって、回診と家族のお見舞いの時間には戻ってくるようにして。

「実はね、半年くらい前にこの病気に対する新しい手術を受けないかって話があったの。前例はないし、失敗して手術中に命を落とすかもしれない。でも病気が完治する可能性のある唯一の希望。私は断ったの。生きる希望なんてもうなかったし、今までの治療費以上に高額な費用が掛かるからね。家族のみんなは私の耳に入らないようにしてたけど、妹が留学したいと思ってるの、私はとっくに分かってた。私のせいで家族が会社や学校を変えたのだって苦しかったのに、これ以上、みんなの負担に足りたくなかったの」
 波瑠は俯いた。
「それなのにね、最近ダメなの。そんな博打みたいな手術でも受けたいって思ってきた。病院を抜け出すんじゃなくって、普通に外を歩きたい。普通の女の子みたいに好きな人とデートしたい。もっとずっと先の未来も一緒にいたい。でもね、この前のデートで妹から電話がかかってきて、この夢みたいに幸せな時間は本当に夢なんだって気づいちゃった。茜君がいないと息が詰まって苦しいのに、茜君といると生きたくて仕方ないの。でも私は、そんなこと思ったらだめなんだよ……」
 そう言うと、波瑠は俺の方を向いた。綺麗な瞳は悲しく揺れている。
「だからもう全部終わりにしたかったの。最後に最っ高のデートをして、それでもう満足したってするつもりだったの。これで分かったでしょ。茜君と会うのはこれで終わり。私のことは忘れて。私も忘れるようにするから……もうこれ以上、苦しい思いをしたくないの」
 俺が知らなかった波瑠の話は思った以上に重く苦しいものだった。波瑠が言っていた通り、ガキの俺には病気を治すような技術も、波瑠の心を癒す包容力もなくて、俺自身にはどうしてやることもできない。
 でも、そんな話の中にも希望は見えた。波瑠のためにたった一つだけ、俺が出来ること。
「そうか、分かった」
 俺の言葉に波瑠は傷ついたような顔をした。ごめん、今の俺にはこれしか言えない。まだ出来るかどうか不確定な状態で、安易な言葉を使いたくはなかった。
 波瑠は体に付いた砂を払い落として立ち上がった。そして悲しそうに微笑む。
「今までありがとう。バイバイ。幸せに……」
「だめだ」
「え……?」
 俺は着ていたカーディガンを脱いで、波瑠の肩にかけた。
「俺達はまだデートの途中だろ。最後まで送らせろよ」
「でも、その……」
 波瑠は困ったように目を泳がせた。
「嫌って言うなら、抱きかかえてでも連れて帰る」
「……わ、分かった」
 波瑠は渋々といった様子で後ろをついてきた。

 浜辺から移動して電車に乗っても、波瑠はずっと黙ったままだった。話すことを拒絶するような空気さえ感じた。地下鉄に乗り換えると、隣に座る波瑠の頭はゆらゆらと揺れ始め、俺の肩にもたれて眠っていた。
 波瑠のことを「人生楽しそうなやつ」だなんて思っていた自分は本当に馬鹿みたいだ。苦しい思いを抱えたまま、波瑠はあんなに眩しい笑顔を見せていたなんて……
 もうすぐ待ち合わせた駅に着く。起こしてやろうと手を伸ばしたとき、波瑠は眠たそうに目を開いた。
「あれ、私……寝てたの?」
「ああ。もう駅に着くぞ」
「……そっか」
 電車は緩やかに駅に止まった。先に降りた波瑠は、くるっと俺の方を振り向いた。
「それじゃあ本当にここでお別れしよう」
「病院に戻るんだろ? それならそこまで……」
「ごめん。茜君には見られたくないの」
「……分かった」
 そう言ってバッグの中を漁る。そして目的のものを手の中に握って、波瑠に差し出した。
「ほら、これ」
「何?」
 開いた手の上に乗ったソレを見て、波瑠は悲しそうに笑った。
「最後くらい、本当のデートにしてくれたっていいのに」
 波瑠は百円玉を受け取ると、俺に背を向けて歩いて行った。

 波瑠の背中が見えなくなって、スマホに手をかけた。二つしか登録されていない電話番号のうちの一つに発信する。自分から電話を掛けるのは初めてだ。
『茜から電話をかけてくるなんて珍しいな。どうした?』
『話があるんだ。うちに来てくれないか』
 電話の向こうでは考えるような空気があった。
『分かった。これから向かう』

 家に帰って目的の本を探していると、本を引き抜いた拍子にカサッと何かが落ちた。
「これ……」
 拾い上げたそれは、波瑠の身辺調査結果が入った封筒だった。
 ベッドに腰掛けて中の紙を取り出す。そこには、両親と妹の四人家族であることや、病気のこと、入院歴などが書かれていた。さっき波瑠から聞いた内容と同じだ。
 入院先の病院の名前を見て、一瞬息が止まった。そこは俺が毎月通っている健診センターの隣に立つ大学病院だったからだ。そんな偶然があるのだろうか。もしかすると、知らず知らずにうちに俺達はすれ違っていたのかもしれない。
 一枚紙をめくると、「補足事項」という項目に手術のことが書かれていた。そこに俺の知りたいこともあった。
 その時、玄関の扉が開く音がした。咄嗟に調査結果をベッドの中に隠した。
「よお、茜」
 やってきた圭は居間にドカッと座った。
「何だよ、今日は急に改まって」
「圭に頼みがあるんだ……俺に金を貸してほしい」
「いくら必要なんだ?」
「えっと……」
 口にしたこともない金額に思わず言い淀んだ。調査結果の補足事項に書かれていた波瑠の手術費用は普段目にするような数字とは桁がいくつも違っていた。俺が波瑠のためにしてやれることは手術費用を肩代わりするくらいだ。圭ならこんな桁外れな金額でも用意できるようなツテがあると踏んでいた。金を借りて波瑠が手術を受けることが出来るなら、その後俺がどうなっても構わなかった。
「まあ、いい。ただな茜、俺から金を借りるってことは分かってるんだろうな? 返せる算段はあるのか?」
 圭の鋭い眼光に怯みそうになる。でも今日だけはダメだ。拳を握りしめた。
「今の仕事の受ける件数を増やす。それに加えて昼間の仕事もしようと思ってる。俺の学歴じゃ雇ってもらえないだろうから、まずは勉強をして一年後に高卒認定を取ろうと思う」
 圭が持ってきた本の中に、高校の参考書や就業関係の本があったはずだ。大変だとは思うけど、無謀ではないと信じたい。
「それで普通の仕事に就けたら、今の仕事は辞めたい」
 これはいつもと同じ言葉なんかじゃない。口を挟まれる前に言葉を続けた。
「今の仕事より稼げないのは分かってる。きっと借りた金を返すまでに何十年もかかると思う。自分勝手なことを言ってるのも分かってる。でも! 俺は太陽の下で胸を張って歩いていけるような生き方をしたいんだよ!」

 俺も綺麗な人間になりたかった。宝石みたいに綺麗で眩しい君の側に見合う人間になりたい。
 
 言い切って心臓がバクバクと鳴る。ここまで圭に言いたいことを言ったのは初めてだった。
「……そうか」
 それだけ言うと、圭はバッグの中を漁って何かをこっちに投げてきた。
「うわ!?」
 慌ててキャッチすると、それは名前を聞いたことのある銀行の通帳だった。
「その口座、お前の稼ぎから仲介料で天引きした分が入ってるんだ。茜がいつかもっとデカい仕事をするときの活動資金にしようと思ってたんだが、仕事辞めるつもりならもういらねぇな」
 中をめくると、見たこともないような桁の数字が書かれていた。
「やる気ないならさっさとやめちまえよ。これは手切れ金だ。勝手にしろ」
 これだけあれば、波瑠の手術費を払っても俺が高卒認定試験を受けるまで生活していくには十分すぎるほどだ。
 圭は立ち上がって、背を向けた。
「この家は俺の名義で借りてるから、早いうちに引っ越した方がいい」
 そう言って部屋を出て行く。その背中を見て、急に昔のことを思い出した。

 葬儀場を出ると、外の眩しさに目がくらんだ。その間にも、前を歩く背中は遠ざかっていく。
『おじさん、あの……』
 俺の声に振り向いたその人は顔をしかめた。
『おじさんって……いいか、俺のことは圭って呼べ。分かったな』
『分かった……けい、ありがとう』
『礼なんていらねえよ』

「圭……今までありがとう」
 圭とはもう会えない予感がした。歪な関係だったけど、もしかすると俺は大切にされていたのかもしれないと、そう思った。
圭の背中は廊下の暗闇に溶けた。
「……二度とその面、見せんじゃねえぞ」
 それだけ言い残して、玄関を出て行く音が聞こえた。

 翌日、いつもの検診センターの隣に立つ大きな大学病院へ向かった。
 目的の病室の扉を開く。水色の病衣に身を包み、ベッドの上で起き上がる彼女は、とてもか弱い存在に映った。俺と目が合った波瑠は驚いたように目を見開いた後、悲しそうな顔で目を逸らした。
「見られたく、なかったな」
 ベッド脇に寄せてあった丸椅子に腰かける。
「どうしても波瑠に話したいことがあるんだ。昨日話してた手術のことだけど……」
 その時、波瑠は近くに置いていた時計にふっと目を向けた。そして慌てたように俺の方を向く。
「茜君! ベッドの後ろに隠れて!」
 必死な様子に訳も分からないまま、窓際の壁とベッドの間に身をかがめた。
 その時、カラカラと扉の開く音がした。
「お姉ちゃん、おはよう!」
「おはよう、璃子」
 この子が言っていた妹、か。
「あれ。椅子が出てるなんて、さっき誰か来てた?」
 その言葉にドキッと心臓が跳ねる。
「さっきまでそこに問題集を置いていたの。椅子をしまうのを忘れてたよ」
「勉強もできて、やっぱりお姉ちゃんはすごいなぁ。私なんてこの前のテスト、赤点スレスレだったのに」
「また時間のあるとき、勉強みてあげるね」
「お姉ちゃん、ありがとう!」
 椅子をカタッと引き寄せる音が聞こえた。
「璃子はこの後部活?」
「うん! もう少しでコンクールがあるから、いつもより早く集まって練習しようってことになったの。最近トランペット上手になったって、先輩にも褒められたんだ」
「そっか。すごいね、璃子は」
「えへへ。もっと上手になったらお姉ちゃんにも聴いてもらいたいな」
 二人のやり取りを聞いていて、胸がツキンと痛んだ。波瑠が憧れてそれでも手に出来なかった青春は、こんなにも青くて痛い。
「うん、楽しみにしてるね。ああ、そうだ。璃子がこの前持ってきてくれた漫画、すごく面白かったよ」
 ガタッと椅子から立ち上がるような音が聞こえた。
「ほんと!? よかった! きっとお姉ちゃんも気に入ってくれるって思ってたんだ」
 ベッドがギシっと軋む音が聞こえる。
「4巻に鮫島って元カレ出てきたでしょ。クラスの速水って男に何となく似てて苦手だったんだけど、5巻から一気に印象変わるんだよ! 早く続きも読んでほしいから、すぐ持ってくるね!」
「うん、ありがとう。でも、無理して急がなくてもいいからね」
「大丈夫だよ。お姉ちゃんを楽しませるのは私の楽しみでもあるんだから」
「璃子のおかげでいつも楽しいよ」
「えへへ、そう言ってもらえると嬉しいな」
 それから少し話をして、波瑠の妹は病室を出て行った。
「もういいよ。ありがとう」
 そう言われて、ベッドの陰から立ち上がった。妹が片付けていった椅子を引き出して座る。
「痛々しいって思ったでしょ」
 波瑠は言った。
「妹の前で必死に余裕ぶって、平気なふりしてるの」
「それは波瑠の優しさだろ」
「違うの!」
 波瑠の声は今にも泣き出しそうなくらいだった。
「優秀な姉を演じていないと、劣等感で押しつぶされそうになるの。本当は、自分の憧れているものをみんな持っている妹が羨ましくて仕方ない。だけどその醜い感情を取り繕って、同じく充実した日々を送っているふりをしているの。滑稽でしょ?」
「そんなこと……」
「そうだ、ついでだから秘密にしていたことを教えてあげる。私と茜君が初めて歩道橋の上で話したとき、あれは偶然じゃなかったの」
「え……?」
 波瑠は窓の方を向いた。
「この窓から検診センターに向かう人達が見えるの。検診に来るのって、おじいちゃんおばあちゃんとか、会社の健康診断で来た大人ばっかりで、同い年ぐらいの人ってほとんどいないんだよ。だから猫背で、真っ黒い服を着て、陰気臭い顔をした君はよく覚えていたんだ」
 波瑠と出会うもっと前から、この病院で波瑠は俺を見つけていたんだ。
「そんな君に興味が湧いて、あの日、君の後を追いかけたんだよ」
 そう言ってふっと微笑む波瑠の横顔は、楽しかった昔を思い出すような、そんな儚さがあった。
「そうしたら突然歩道橋の上で立ち止まって、手すりに足を掛けたからびっくりしたよ。でもそれを見て確信したの。やっぱり君は私と同じなんだって。デートしようなんて言ったのは、もちろん君に興味があったからだけど、それで逆上されてひどい目に遭ったとしてもこの日々が終わるならそれでよかったんだ」
 どんな人間かも知らない俺に対して、妙に距離が近かったり、意味深な言葉を言っていた訳がようやく理解できた。
「二回目にまた歩道橋の上で会ったのも、私が後を付けたから。初めて夜に病院を抜け出したら、路地で言い争う君を見つけた時は流石に驚いたよ。とまあ、こんな風に運命的に出会った私達じゃないんだよ。どう、がっかりした?」
 そう言って、波瑠は俺の方を向いた。そんな程度で引くなんて、見くびらないでくれよ。
「もちろん驚いたけど、そんな上手く出来た話はないよなって納得もできた。それ以上に、波瑠が俺に会おうとしてくれていたことが聞けて嬉しいかな」
 俺の言葉に波瑠の顔はほのかに赤く染まった。
「今の話はそういう話じゃなくって! 運命なんかじゃなかったってがっかりするところでしょ?」
「運命じゃなくたっていいよ、俺は」
 たとえ離れる未来だとしても、力づくで側にいてみせるから。
 俺はバッグから通帳を取り出して、波瑠に手渡した。
「今日は話が合って来たんだよ。この口座に入ってる金を受け取ってほしい」
 恐る恐る通帳を開いた波瑠はその数字を見て固まった。そして俺の方を向く。
「どうして、こんな大金……!」
「これは俺が他人の不幸を売って稼いだ汚い金なんだ。もうあんな仕事は辞めてきた。これからは勉強をして普通の仕事に就こうと思っていて、当面の生活費を差し引いてもこんな大金は持て余す。それに、あの仕事に関係する物は全部手放してしまいたいんだ」
 あの仕事に関する全てのものを捨てたいという気持ちは本当だ。もう真っ黒いスーツも、革靴も、仕事を連想させるものはみんな捨ててしまった。ただそれ以上に、そうでも言わないと波瑠は遠慮して金を受け取ってはくれないだろうと思った。
 俺は波瑠を真っ直ぐに見据えた。
「これは取引だ。俺の過去を清算するために、この金を使ってくれないか?」
「……本当に、いいの?」
 波瑠は遠慮がちに俺を窺う。
「ああ。金を使ってくれるなら、ギャンブルにつぎ込むでも、ブランド品を買い漁るでも、何でも構わないよ」
 波瑠は口元に手を当てて笑った。
「ふふっ……しないよ、そんなこと」
 そして俺の方を向いた。やっと表情に明るさが戻った。
「私、手術を受けるよ。それで茜君の過去も、私の過去も清算してみせる」
「ああ、全部綺麗に消し去ってくれよ」
 あの仕事は最低で最悪だったけど、大切な人の役に立つことが出来たのなら少しは価値のある時間だったのかもしれないと思った。
 病院の廊下は少し寒くて、身を縮めた。
「波瑠の親からは一発くらいぶん殴られるかと思ってたよ」
 隣を歩く波瑠にそうこぼした。
「えっ、どうして?」
 さっき俺は病院内のカフェスペースで波瑠の親と初めて対面した。未成年の波瑠が手術を受けるには保護者の同意が必要で、金のことも含めて一度話をしないといけなかった。 
 波瑠の親は明るく物を言う、誠実そうな人たちだった。波瑠が持つ無邪気なほどの明るさや共感性を伴った優しさは、この両親に育てられたからこそなんだろうと思った。
「だって娘が知らない男をいきなり連れてきて、しかも手術費用を全額支払うとか言い出したら、新手の詐欺とか、とにかく胡散臭くて仕方ないだろ?」
「そういうものかな……?」
 波瑠はピンと来ていない様子だった。
「でもお父さん達、茜君にすっごく感謝してたでしょ。それはそうだよ。だって茜君は私たち家族の恩人だもん」
 そんなことを言われると照れ臭くなる。俺はただ波瑠の苦しむ顔が見たくなくてやっただけで、そんなに大層な志なんかじゃない。
 俺は話を逸らした。
「俺のことは説明しなくてよかったのか? 仕事のこととか、金の出どころとか……」
「だって茜君、話したくなかったでしょ? もしお父さんたちに何か聞かれたら、私がうまく言っておくから安心して」
 そう言って波瑠はウインクしてみせた。
 あの仕事は人に胸を張って話せるようなものじゃない。波瑠は俺の話を聞いても変わらずに接してくれたけど、普通は軽蔑されても仕方ないくらいだ。波瑠の親にはなおさら秘密にしておきたかった。
「ありがとう……助かるよ」
「このくらい、なんてことないよ」
「それにしても、俺達が出会ったきっかけを『病院で見かけて声をかけた』っていうのはあまりにも強引過ぎはしないか……?」
 この病院に来たのはこの前が初めてだし、詳しく聞かれでもしたら簡単にボロが出そうだ。
「でも、茜君が歩いている姿を『病院』の窓から『見かけて』、あの歩道橋の上で『声をかけた』んだもん、嘘はついてないよね?」
「嘘じゃなくても確信犯だろ」
「だって、病院をこっそり抜け出して会ってたなんて言えないよ。そういうことにしておいて、ね?」
 波瑠はそう言って俺の顔を覗き込む。
「……分かったよ」
 人に言えないことが多いのは俺も同じだ。そこはなんとか協力しようと思った。

 病室に戻って、波瑠はベッドに横になった。側の椅子に腰かける。
「手術ね、前に聞いた話だと二日に分けてやるんだって。骨を削ったりとか色々やらないといけないことがあって、何時間もかかるんだってね」
 波瑠の言葉にぞっとした。
「その……怖くないのか?」
「怖くない、って言ったら噓になるかな」
 返事を聞いて、馬鹿なことを言ってしまったと思った。そんなこと、怖くないはずがないのに。
「でもね、怖いとかそれ以上に手術を受けることになって嬉しいって思ってる。自分の人生に絶望していい加減に生きていたあの頃よりも、生きることに執着して苦しんでいたあの頃よりも、ただ真っ直ぐ、生きるために心を向けられる今が一番だよ。もちろん手術が必ずうまくいくとは限らないし、何が起こるかなんて分からない。それでも今が一番、私自身の人生を前向きに考えられている気がするんだ」
 正直、俺は心の片隅で引っ掛かっていることがあった。本当に手術を受けることが波瑠にとって最善なのか、と。
 波瑠は手術を望んでいた。手術を受けられない理由がただ金のためなら、俺がどうにかしたいと思った。それに手術が成功して波瑠が自由に動き回れることは、俺にとっても魅力的だった。
 しかし、その手術は前例がなくて失敗して命を落とすかもしれないと前に波瑠が言っていた。そんな危険性のある手術に波瑠を後押しして本当によかったんだろうか。そんな危険を冒さないで今まで通りの生活をしていた方が長く波瑠と一緒にいられたんじゃないか。そんな考えが浮かんでは頭を抱えたくなった。
 それでも、波瑠は今が一番幸せだと言ってくれた。その言葉を聞いて、ここまで突き進んできた自分をやっと認められる気がした。
 また波瑠に心を救われてしまった。
「それにね、色々準備もしてるところなんだよ。あれこれ忙しくやってたら、怖さも紛れてちょうどいいよね」
「準備?」
「んふふ、茜君にはまだ秘密だよ」
 そう言って波瑠はいたずらっ子のように笑って見せた。そんな些細な仕草で、どれだけ俺が心をかき乱されているかなんてまだ君に伝えるつもりはないけど。
 俺は立ち上がった。
「じゃあそろそろ俺は帰るよ。また明日来る」
「もう帰っちゃうの? 何か用事?」
「ああ。今日から勉強を教わることになってるんだ」
 あの仕事を辞めたからには、必死にならないと次の仕事に就くこともままならない。まず、第一の関門である高卒認定を取るために試験勉強を始めた。今日は隣町のコミュニティセンターで開かれる高卒認定試験受験者向けのセミナーに参加する。相変わらず他人と会うのは苦手だけど、これから一人で生きていくにはそんなわがままも言っていられない。わざわざセミナーに参加することを決めたのは、色んな他人と接触して苦手をなくす意味もあった。
「勉強なら私が教えてあげるのに」
 波瑠は拗ねたような顔をした。
「それなら今度お願いしようかな」
 俺の言葉に波瑠の顔がパッと明るくなる。
「うん! 楽しみにしてるね」
 波瑠に手を振って、病室を後にした。

 病院を出ると、冷たい風が首筋を通り抜けた。もう少しで冬がやってくるような、そんな気配がした。
「茜君」
 声をかけられて振り向く。そこには波瑠の両親が立っていた。
「少しだけ、時間いいかな?」
「もちろんです」 
 病院入り口の脇に移動すると、父親が口を開いた。
「待ち伏せするような形になってすまないね。さっきの話し合いの後、波瑠が君と話したそうにしていたから、邪魔しないように待っていたんだ」
 父親の言葉にいまいち納得がいかなかった。
「そんな風に見えましたか……?」
「ずっと波瑠の親をしてきたからそれくらいのことは分かるさ。ただね、波瑠は自分の気持ちを隠すのも得意なんだ。君は波瑠が強い子だと思うかい?」
 そう言われて言葉に詰まった。確かに波瑠はいつも前向きで、俺を引っ張ってくれて、笑顔で照らしてくれる。でも頭に浮かんだのは、誰もいない砂浜で俺の上にまたがって大粒の涙を流す波瑠の姿だった。
「……強い一面もあると思います。でも一人で抱え込むから、限界に達した時にとても危うくて脆い」
 父親は少し寂しそうに微笑んだ。
「君はそんな波瑠を知っているんだね。波瑠は私達家族の前で一度も弱音を吐いたことがないんだよ」
「一度も、ですか?」
「ああ。だから波瑠がどれだけ苦しんでいるのか、どうして手術を受けたくないのか、色々と分からないことが多かったんだ。でも急に波瑠は手術を受けると言い出した。それは茜君、君のおかげだろう?」
「俺はお金を用意しただけで……」
「別にお金のことだけを言っているんじゃないよ。私達もお金のことは心配しなくていいと波瑠に話したことがあったが、あっさり断られてしまってね。君が波瑠の心の隙間を埋めてくれたおかげで手術を受ける気になってくれたんだと思うんだよ。だから改めて礼を言わせてくれ……娘の力になってくれて、どうもありがとう」
 そう言って、波瑠の両親は頭を下げた。どうしてこの人たちは俺にそんなことが言える。
「俺のことは何も聞かないんですか?」
 言いたくないくせに、ひねくれた心が働いてそんな言葉が口を出た。
 波瑠は「何か聞かれたらうまくいっておく」なんて言ってくれたけど、この人たちにはそれを聞く権利がある。それを聞いてこないのはあまりに不自然だと思った。
 両親は頭を上げた。そして父親が口を開く。
「さっきもわざと言わなかったんだろう? 勝手に聞きだしたら、後で波瑠に叱られてしまうよ」
 そう言って父親は笑った。
「私達は波瑠が信じるあなたを信じるよ」
 その言葉を聞いて、本当に絆で結ばれた家族なんだと思った。
 波瑠の親とは少し話して別れた。俺も波瑠や、波瑠の親に信じてもらえるにふさわしい人間になりたい。体に力がみなぎるような感じがして、セミナー会場へと走って向かった。

 そして、手術本番の日を迎えた。
「わぁ……ひんやりして、もうすっかり冬の空気だね」
 病院の屋上に出た波瑠は言った。
「……そうだな」
 俺達は医者に許可をもらって、手術当日の朝に二人で会うことができた。波瑠は昨日から手術に向けた投薬が始まっているため、万が一に備えて車いすに座っている。
 車いすを柵の手前につけると、広く続く街の景色が良く見えた。
「波瑠、寒くないか?」
 病衣にコートを羽織った姿の波瑠に声をかける。
「うん、大丈夫だよ。ありがとう」
 振り向いて俺に微笑む顔を見て、胸がざわつく。
 これから波瑠は二日間にわたって大掛かりな手術を受けることになる。もしかしたら、波瑠と話すのはこれが最後になってしまうかもしれない……いや、そんなことは考えるな。波瑠を不安にさせるなよ。
「春に出会ってから、随分といろんなことがあったよな」
 始まりは歩道橋の上。不意に飛び降りたくなった俺に波瑠が声をかけた。「デートしよう」とか言って強引に俺の手を引く。その手を振りほどかなくて、本当によかった。
「最初の頃は冷凍食品のレイ君だったもんね。ふふっ、懐かしいなぁ……」
「ハルっていうのが本当の名前だなんて騙されたよ。季節が春だからって、俺と同じくらい安直な理由だと思ってた」
「騙されるように言ったんだもん。それはそうだよ」
「波瑠って策士なところがあるよな」
「ふふっ、誉め言葉として受け取っておくよ」
「それに、本当のデートにならないように金を払えっていうのも、なかなかすごい提案だよな」
「茜君、最初はびっくりしてたけど、思ったよりもよりすんなり受け入れてくれたよね?」
「まあ、そうかもな……」
 それは波瑠が金目的なんじゃないかってがっかりしていたところにそんな提案をされて拍子抜けしたから。初めて会ったあの日から、波瑠の言動に一喜一憂していたなんてそんなことは言えない。
「あーあ、今日のデートは高くつくなぁ。なんたって、私を好きに連れまわしたんだからね」
 わざとらしい言い方に思わず吹き出した。
「ふふっ、何だよそれ」
「だからね、今日は百円なんかよりもーっと価値のあるものが欲しいの」
「おう、何でもくれてやるよ」
 君の欲しいものなら、何でも。
「えへへ、じゃあ、今夜の君の夢を私にちょうだい」
「え……?」
 思いもしない提案に言葉が詰まった。
「今夜、私の夢を見てほしいの。夢の中でも私のことを見ててくれたら、すっごく幸せだろうなって」
 俺だって、毎晩好きな人のことを想って眠りにつきたい。夢でも好きな人に会いたい。でも、それが出来ないことは波瑠も知っているはずだ。
「……分かってるよな、俺は他人の不幸しか見ないって」
「もちろん分かってるよ。誰かの不幸を見るのはやっぱり怖い?」
「……怖いよ」
 誰かの不幸なんかじゃなくて、人生で一番大切な人の不幸を見るのが怖い。夏の河川敷で波瑠の夢を見た時だって、息が詰まりそうなほど苦しかった。
 俺が夢で見た出来事は必ず起こる。もし波瑠が手術中に死ぬ夢を見てしまったら? 今度は、自転車に轢かれるのを回避できた時みたいにはいかない。波瑠がこれから死ぬ未来が分かっているのに、二日目の手術に向かうのを黙って見ていることしかできない。そんなの、想像しただけで吐きそうになる。きっと身体が千切れるほど苦しくて、一生その夢を思い出すんだろう。
「大丈夫だよ」
 波瑠の言葉で吐き気が止まった。
「きっと大丈夫。茜君は私の些細な失敗を夢に見て、明日の手術が終わったら『馬鹿だな』って笑いに来るんだよ」
 波瑠がそう言うと、本当にそうなるような気がして困る。取るに足らないほどの不幸を夢に見て、一緒に笑いあう未来があるんじゃないかと錯覚する。実際はどんな波瑠の不幸を見てしまうかも分からないのに。
「馬鹿だななんて、言わないよ……」
「茜君は優しいからそんなこと言わないか。それでね、もし私が二度と目を覚まさなくなる夢を見たら……」
 その言葉に息が止まりそうになった。
「その時は、本当なら見られるはずじゃなかった私の死に際を、茜君に見守ってもらえたってことにならないかな。そうは思わない?」
 ずっと呪ってきたこの体質を、君はそんな風に言ってくれるのか。まるでこの体質のおかげで、君と深く繋がっていられるみたいな。波瑠と出会ってから、もう何度も俺は救われてしまった。
「波瑠は強くて格好良くて、ほんと憧れるよ」
「茜君には格好悪いところもたくさん見せちゃったと思うんだけど」 
 波瑠は拗ねたように言った。
「そんなことないよ。波瑠が自分で格好悪いと思っているところも全部、波瑠が眩しく生きている証だよ」
 浜辺で泣いていたのも、病室での姿も、周囲への思いやりと自分の気持ちの狭間で苦しんだ結果だ。そんな風に一生懸命に生きている波瑠が格好悪いはずがない。
 だから俺も覚悟を決めようと思った。
「望み通り、デート代はちゃんと払うよ。後でやっぱり支払いが足りないとか文句言うなよ」
 波瑠の望みは全て叶えると言ったんだ。どんな夢を見たとしても、受け止めてみせる。
 俺の言葉に波瑠は振り向いて笑った。
「私にとってはこれ以上ない価値があるんだよ。文句なんてあるはずない」
 そう言うと、波瑠はコートのポケットに手を突っ込んだ。
「じゃあ支払いも成立したということで、私を買ってくれた茜君にはプレゼントがあります」
 波瑠が俺に差し出したのは水色の封筒だった。これが前に言っていた「準備」なんだろうか。
「今夜、寝る前に読んでね」
「ああ、そうするよ」
 封筒は大切にバッグへしまった。
 波瑠は再び街の景色の方へ頭を戻す。会話が途切れる時間も惜しくて、明るい話題を探した。
「病気が治ったら、やりたいことはあるか?」
「それはもういっぱいあるよ」
「例えば?」
「まずは日本で一番の桜の名所に行きたい!」
「日本で一番って、調べたらいろんな場所が出てきそうだな」
「じゃあ出てきたところ全部行こうよ」
「全部?」
「うん。桜前線と一緒に私達も移動するの」
「それはまた大がかりな」
「でも楽しそうでしょ?」
「まあそうだな」
「それで、夏は水着を新しく買って海に行きたい」
「海で泳いだのなんて遠い昔だな」
「茜君の分も私が選んであげるよ」
「ならそうしてもらおうか」
「秋は紅葉を見ながら一緒に本を読むの」
「家で読むのと違って面白いかもな」
「冬は雪山に行ってスノーボードをしてみたい。ね、一緒に習おうよ」
「それも楽しそうだな」
 四季を通して波瑠と一緒に過ごす光景が自然に想像できた。きっとそれは今までの人生で一番幸せで、輝きにあふれた日々になるんだろう。
「やりたいことは言い尽くせないくらいたっくさんあるんだよ。でもね、一番は茜君とずっと一緒にいたい。茜君が隣にいれば、きっとなんだって楽しいよ」
 波瑠は振り向いて俺を見上げた。
「毎晩私の夢を見てよ。その瞳に私をたくさん映して。寝ても覚めても、私が君を幸せにしてみせるから」
 その言葉は「愛してる」なんかより俺にとってはずっと価値のあるものだった。
「俺の方こそ、波瑠を幸せにするよ」
「えへへ、私達ってやっぱり似たもの同士なんだね」
 俺は腕時計にちらっと目をやった。医者に許された時間はあと少し。
「そろそろ病室に戻ろう。遅刻するわけにはいかないからな」
 車いすに手をかけて、ゆっくりと半回転させる。病室に着いてしまったらもう波瑠とは手術が終わるまで会えない。
 波瑠の両親からは病院内で一緒に待機することを提案されたが、それは断った。強い絆で結ばれた家族の空気を俺が邪魔することはさすがに悪いと思った。不安がないわけじゃない。明日の手術終了まできっと生きた心地がしないんだろう。それでも俺は待つことしかできない。もし俺に名医の技術があったらなんて身の丈に合わないことを思ったりもしたけど、そうだったとしてもきっと波瑠の体にメスを入れるなんてできるわけがない。どのみち俺は手術成功の連絡が来るのを待つしかないんだ。
 波瑠が車いすでよかった。椅子を押す俺の顔がどんなに不細工になっていても、波瑠には気づかれずに済むから。
「ねえ、茜君」
 屋上の出口の手前で波瑠は言った。
「どうした?」
 車いすを止めると、波瑠の口からためらうような息がもれる。
「あのね……大丈夫って、言って」
 その掠れた声に胸が張り裂けそうになった。
 波瑠の隣にしゃがみ込んで、膝の上でゆるく握られたその手を包む。触れた手は冷たくなっていた。
「大丈夫、大丈夫……うまくいくよ。明日、手術が終わって目が覚めたら、さっき言ってたやりたいこと、全部できるから」
 うつむいていた波瑠はゆっくりと俺の方を向いた。目元は赤くなって、今にも泣きだしてしまいそうだ。そんな顔のまま俺に笑って見せた。
「ごめんね……急に不安になっちゃって。茜君にそう言ってもらえると、本当に大丈夫な気がしてくるよ」
「波瑠が安心できるまで、何回でも言ってやるから」
 波瑠に触れる手に少し力を籠める。少しでも早く俺の体温が波瑠を温めるといい。
別に神様なんて信じていないけど、今だけはどうか神様、彼女に幸せで明るい未来をください。俺なら何でもしますから。
「うん、ありがとう……もう大丈夫。行こう」
「分かった」
 俺は再び車いすを押した。

 医者と家族が待つ病室に戻る頃には、波瑠はいつもの明るい表情に戻っていた。病室の扉を開ける前に一度立ち止まる。この扉を開けたら、もう波瑠とは会えない。
 ここからは家族との時間だ。俺は邪魔してはいけない。最後に波瑠を独り占めする時間をもらえただけ幸せなことだ。
 波瑠は俺の方を振り向いた。俺を映す綺麗な瞳を、花が咲いたようなその微笑みを、頭に焼き付ける。
「じゃあ茜君、行ってくるね」
「ああ、また明日な」
「うん。おやすみなさい」
「おやすみ……波瑠」
 波瑠は扉を開けて病室に入って行く。俺は背を向けた。

 家に帰っても、風呂に入っても、心が張り詰めて落ち着かなかった。食事は喉を通るはずもなく、何も手につかない。時計の秒針がすすむのをただじっと見ていることしかできなかった。
 手術終了予定時間から二時間が過ぎた頃、波瑠の父親から「今日の手術は成功した」と連絡があった。それを聞いて、緊張の糸が切れたようにベッドに倒れこむ。
 首を回して、もう一度時計を確認した。あと一時間で俺は眠りについてしまう。体を起こし、バッグの中から取り出した封筒をハサミで丁寧に開けた。
 折りたたまれた便箋を開く。初めてもらった時と同じ、右肩上がりの少し癖のある文字が並んでいた。

『茜君へ

 君に想いを伝えようと筆を執ったものの、何から伝えればいいのか、たくさんありすぎてまとまりません。だから、思いつくままに書くことを許してください。

 茜君を病室の窓から見ていた頃、私の心はもう死んでいるみたいでした。何のために自分が息をしているのかも分からなくて、明日なんて来なくていいとさえ思っていました。そんな毎日の中で、茜君の存在は「人生に失望した同志」みたいでした。名前もまだ知らない君の姿を見られた日は、少しだけ心が軽くなりました。

 茜君の後を追いかけて病室を飛び出したのは、自分の体のどこにそんな活力があったのかと疑問に思うくらい、思いがけない事でした。君と出会うことでこんな毎日が変わってしまうような、そんな予感が体を巡っていたことをよく覚えています。

 予感は大当たり。茜君に出会ってからの毎日は色鮮やかに私の心を震わせてくれました。たくさん連れまわして、わがままを言ってごめんなさい。茜君といるときだけが、本当にそうありたいと思う自分でいられました。

 私は失ってしまった、未来への希望を再び握りしめました。生きたい。君と生きたい。その想いと家族との間で揺れ動いていた私を掬い上げてくれたのも、また君でした。

 私は茜君に何を返したらいいんだろうって、ずっと考えていました。それでやっと思いついたんです。

 夜、私の夢を見てください。

 前に「誰かの夢を見なくて済むように、亡くなったお母さんの夢を毎晩見ている」と言っていたのを覚えていました。家族の最期を毎晩夢に見るのは苦しいでしょう。それならその役は私にやらせてくれませんか。

 君が毎晩苦しまなくて済むように、私の最期は綺麗なものにしてみせる。眠っているみたいに、安らかな顔で、君と出会えて幸せだったと信じてもらえるような、そんな最期。
 
 でも君に夢を見てもらうことは、私の望みでもあるの。私のことを覚えていてほしい。頭の片隅に私を置いてほしい。自分がこんな風に面倒な女だって、初めて知ったよ。

 手術の日にちゃんと口で伝えられる自信がないから、ここに書いておくね。

 茜君、好きです。大好きです。

 私と一緒にいてくれてありがとう。私を救ってくれてありがとう。不器用だけど優しくて、ずっと側にいたいと思える君のことが大好き。私の世界が終わるその瞬間まで、君のことを想っていさせて。

 どうか君が、穏やかな眠りにつけますように。

 波瑠より』

 途中から目の前が滲んで読めなくなった。目元を拭って何度も読み返す。
 これは波瑠の遺書だと分かった。どうなるか分からない手術の結果を見越して、俺に最期の言葉を残そうとしてくれていた。
 出会えて幸せだったのも、救われたのも、俺の方がきっとそうだよ。好きだって、言い逃げはやめてくれよ。どうして俺はちゃんと言葉にして伝えなかったんだろう。
 手紙をテーブルの上に置いて、俺はベッドに横になった。電気を消し、瞼を閉じると笑顔の波瑠が浮かぶ。明日会ったら言いたいことが山ほどあるよ。今度は俺が伝える番だから、最後まで聞いてほしい。不思議なくらい、不安はひとかけらもなかった。
 
 今夜、君の夢が見られますように。

 そのことだけを祈って眠りについた。
 翌日、病院から連絡があって急いで家を飛び出した。病室の前には波瑠の家族が立っていて、中へと通された。

「おはよう、茜君……昨夜はよく眠れた?」
 
 そう言ってベッドに横たわる彼女と目が合った。
「波瑠……」
 そばに駆け寄ると、波瑠は照れたように笑った。
「えへへ……手術は成功。経過観察はしばらく必要だけど、もうこれからは入院しなくていいんだって」
「よかった……」
 波瑠の手に触れるとちゃんと温かい。これは夢じゃないんだって実感する。
「お父さんたちがね、茜君が来たらしばらく外で時間を潰してくるって。三十分くらい帰ってこないと思うよ」
「それは気を使わせてしまったな」
 そう言って俺は姿勢を正した。
「波瑠、今日会ったら伝えたいことがあったんだ」
「うん、聞かせて」
 暗闇のような日々に君が光を照らしてくれた。遠い昔に忘れてきた、生きる楽しさも、人を愛する気持ちも、全部君が教えてくれたんだ。
「波瑠のことが好きです。俺と付き合ってください」
「もちろん。喜んで」
 そう言って微笑むと、波瑠は体を寄せた。顔が近づく。
 至近距離に目を瞑ると、唇に固い感触があった。
 目を開けると、赤い顔をした波瑠がいた。
「歯、当たっちゃった……」
 俺は波瑠の頭の後ろに手を回し、顔を近づける。今度は柔らかい感触があった。手を離すと、波瑠の顔はさらに真っ赤に染まっていた。
「夢で見た以上に可愛いな」
 俺の言葉に初めはきょとんとしていたが、意味を理解したのか頬を膨らませた。
「もう! 茜君のバカ! ……ふふっ」
 波瑠が笑うから俺もつられて笑った。

 錯覚なんかじゃない未来が、そこにはあった。
「小湊先輩、今日もお弁当ですか?」
 その声に後ろを振り向くと、俺よりずっと体格のいいスーツの男が興味津々といった顔で立っていた。
 高卒認定と少しでも役に立てばと思って取ったパソコン関係の資格だけを持って就職に臨んだのだが、現実はそう甘くなかった。30社以上落ちて、それからはもう数えることをやめた。そんな中でも、面接を担当した人事部長が俺のことをなぜか気に入ってくれて、この小さな食品企業の営業部に雇ってもらえた。
 仕事なんて金を稼ぐための手段くらいに考えていて大して期待なんてなかった。でも実際に働いてみると、売り上げを取る楽しさややりがいなんてものを感じるようになった。俺の知っていた「仕事」というものとは全く違っていた。それにうちの同期や上司たちはどうにも酒や宴会が好きらしく、新入社員の頃、仕事でミスをしてもすぐに「飯だ」「飲み会だ」と連れまわされて沈んだ心も忘れさせられた。
 先方の担当者と会って商談をすることはどうやら俺に向いていたらしい。上司も「若いのに肝が据わっている」と言ってくれた。昔、社会の上位層とも言える偉そうな人達と一対一で会っていたから、その辺は慣れていたんだろう。ただ取引先相手以外には愛想が悪いと、飲み会の席で周りから愚痴られたりもした。
 三年目になって、ついに新入社員の教育係を任されることになった。それで担当することになったのが、よりにもよって俺とは正反対なこの安達という男。大学でラグビーをやっていたから俺より一回りも図体がでかく、そのくせ小型犬みたいに俺の周りをじゃれついてくるから接し方に困る。向こうは大学に行っていたから俺とは同い年なのに、その辺はわきまえているのか一線までは超えてこない。こいつなりに敬意は払ってくれているんだろう。仕事もまあ頑張ってついていこうとしているのは伝わるし、愛想がよくて社内外を問わずウケがいい。こいつを俺につけたのは俺にとっても教育の側面があったんじゃないかと、部長の采配を疑った。
「そのお弁当って、まさか先輩が作ってるんじゃないですよね?」
 まさかっていう言い方に若干の偏見を感じる。まるで俺が見るからに料理できないみたいじゃないか。
「まさかとはひどいだろ」
「えっ、本当ですか!?」
 安達は目を丸くした。
「冗談だ」
 俺の言葉にほっと胸を押さえた。
「なんだぁ……でも、そうですよね。だって先輩、新入社員研修の飲み会の時、部長たちに酔い潰されて『俺はカップラーメンしか作れません』って宣言してましたからね」
 思わず頭を押さえるが、そんな記憶は全くない。こんな後輩にまで醜態を晒すくらいだ、これから飲み会の酒はもう少し控えよう。
「それなら、彼女さんですか?」
 そう言って目をランランと輝かせる。その手の話が好きなのは年頃の女子の特権かと思っていたが、どうやらそうではないらしい。
「だったらどうなんだ」
 俺の返事に安達は一層目を輝かせた。
「やっぱり彼女さんいるんですね! どんな人なんですか?」
 グイグイと話を詰めてきて、話を巻くのも骨が折れそうだ。そう思うのにこいつのことを嫌いになれないのは、初めて話した俺に「デートしよう」だなんて言ってきたやつと少し似ているからかもしれない。
「強くて明るくて、ちょっとそそっかしいやつだよ」
 彼女の顔が頭に浮かぶ。思い出すのはいつも、楽しそうに俺に笑いかける表情だ。

 手術が成功し、退院した波瑠は数年ぶりに実家で家族と暮らすことになった……そう思ったのもつかの間、一か月ほどで俺に「一緒に暮らそう」と切り出した。

『一緒に暮らそうって……波瑠の両親はそんなの納得しないだろ』
 波瑠の提案はもちろん嬉しかった。でもそれ以上に、「せっかくまた家族と一緒に暮らせたのにそれを手放してもいいのか」という心配の方が大きかった。
 あの手術の後も波瑠の両親は俺に優しくしてくれた。家に呼んでご飯を食べさせてくれたり、熱を出したときには薬や食料を届けてくれた。家族のいない俺にとっては貴重な存在だった。だからこそ、あの家族から波瑠を取ってしまうのは罪悪感があった。
『それがね、話したらすぐに認めてくれたよ。いずれそうなるだろうと思って諦めていたみたい。家を出るって言ってもすごく遠くに住むわけじゃないし、一か月は親孝行出来たかなって』
『いや、でも……』
『茜君、新しく住む場所探してるって言ってたよね。それとも、私と一緒に住むのは嫌?』
 そう言って俺の顔を覗き込んで微笑んだ。俺が嫌なわけないって分かっているだろうに、その聞き方はズルい。
 こうして半ば押し切られるように、俺達の同棲は始まった。

 波瑠の両親にも相談に乗ってもらい、俺達は8畳のワンルームを新居に選んだ。玄関から部屋の奥まで見渡せるようなこの狭い部屋では家に帰るたびに波瑠の甘い匂いがして、慣れるまでは困った。
 波瑠は「私もやりたい」と言って、高卒認定試験の勉強を一緒にやり始めた。ずっと勉強をしてきただけあって、波瑠はとても優秀だった。高卒認定試験受験者向けの指導講座に通い、家で波瑠にも勉強を見てもらうことで、短い受験期間ながらも勉強は順調。十八歳の秋、俺達は高卒認定試験を合格した。
 それから俺はコンビニのバイトをしながら就職活動を始めた。波瑠はその頃から料理に興味を持っていて、カフェでバイトをしながら調理師免許取得の通信教育を受けていた。

『ねえ、茜はどんな仕事がしたいの?』
 パソコンで就職サイトを眺める俺に、波瑠が後ろから抱きつく。その頃には「君」が取れて、恋人らしい距離感にも慣れてきた。
『何でもいいよ。そこそこのお金がもらえて、後ろ暗くない仕事なら、何でも』
『えー、そんなの夢がないよ。なんかもうちょっと希望はないの?』
 全くないと言ったら噓になる。出来れば波瑠の隣に立つのにふさわしいと思える仕事がいいし、残業ばっかりで波瑠と過ごす時間が取れなくなるのも嫌だ。でもそんなことを言えるような人間じゃない。
『私は茜にもっと美味しいご飯を作ってあげたいから、いろんなお店で働いてみたいなぁ。和食も、洋食も、中華も、エスニックも、みーんな作れるようになったら楽しいと思わない?』
 そう言って俺の隣に座る。
『私の方が先に仕事から帰ってきて、ご飯を作って茜の帰りを待つの。それで茜が帰ってきたら一緒にご飯を食べて、今日の仕事がどうだったーとかそんな話をするの。夜は毎日一緒に寝たいな。朝は美味しいお弁当を用意してあげる』
『今とあんまり変わらなくないか?』
 今だって料理が全くできない俺に変わって波瑠がご飯を用意してくれる。帰る時間は二人のバイトのシフトによってまちまちだけど、合わせられる日は一緒に食べて、今日あった話をする。
 俺の言葉に波瑠は笑い出した。
『ふふっ、確かにそうかも。でも、こんな毎日があと何年も続いていったらいいなって思うんだよ』
 ……よかった、波瑠も同じ気持ちだった。
『そうだな』

 俺はこの会社に就職し、波瑠はお洒落なレストランのキッチンスタッフとして働き始めた。あの頃波瑠が言っていた理想の未来は今、現実になっている。

「先輩、本当に彼女さんのことが好きなんですね。顔、緩んでましたよ」
 安達は面白がってニヤニヤと笑った。顔なんて緩ませたつもりはない。
 これ以上からかわれるのはごめんだ。俺は強引に話を変えた。
「そうだ、安達。午後の営業回りだけど……」
 そう言いながら、弁当箱の蓋を開ける。いつもの彩りのあるおかずの隣、白米のスペースを見て一瞬動きが止まった。
「先輩! 見てください、大好きって書いてありますよ!? ラブラブですね!」
 安達のテンションが更に上がって、「しまった」と思った。白米の上には、桜でんぶのハートマークと海苔の「大好き」という文字が描かれていた。まさかこんなことが描いてあるなんて誰が予想できるか。
 その時、ちょうどスマホが鳴った。安達を巻くのにはちょうどいい。
「悪い、電話だから席を外す」
 そう言って廊下へ移動した。

『もしもし、茜!?』
 電話越しに慌てた声が聞こえる。
『もしもし』
『あの、今日のお弁当……もう見た?』
『ああ。今さっき』
『ああー、もう! 今日は練習で作って自分で食べるつもりだったのに、違う方のお弁当をカバンに入れちゃったよ』
 本当はおとといの夜、波瑠が俺の弁当を入れ忘れる夢を見て、キッチンに置いてあった弁当箱を掴んで持ってきた。弁当箱が二個あったなんて、急いでいて気が付かなかった。
 それにしても練習ってなんだ……?
『もう見られちゃったから言うけど、もうすぐ私達があの歩道橋の上で出会って4年目の記念日でしょ? だからサプラーイズ!みたいなね』
 考えることが波瑠らしくてちょっと笑えた。サプライズというなら、今日はまさにその通りだった。
『そう言えばこんな時期だったか……』
 段々と外は暖かくなって、近くの小学校には桜の花が咲き始めた。あの春に出会ってから、季節がもうこんなに過ぎたのか。毎日があまりにも楽しくてあっという間の日々だった。
 この春には、暗く濁った俺も、儚くて脆い彼女も、もういない。
『男の子って、そういうところあんまり頓着しないよね。まあ、いいけど。午後もお仕事頑張ってね。大好きだよ』
 そう言って電話は切れた。

 同棲を切り出したのも波瑠から。好きだなんて、告白をしたあの日以来まともに言った記憶がない。それでも波瑠は俺に大好きだと言ってくれる。
 だからせめて今夜くらいは勇気を出して君に伝えたい。

 一緒に飲みに行こうと言う安達を振り切って、さっさと会社を出た。今日飲みにでも行ったら、波瑠のことを馴れ初めからあれこれと突かれるに決まっている。そうじゃなくても今日はやると決めていることがあった。
 仕事終わりのスーツのまま、煌びやかなその店に足を踏み入れた。見覚えのある店員がすぐに近くへやってくる。
「いらっしゃいませ、小湊様」
「あの、サイズを測ってきたので、今日買います」
 俺の言葉に店員は嬉しそうに微笑んだ。
「では、ご案内いたしますね」
 サイズがあるなんてことも知らなくて、この店員にはいろいろと世話になった。教えてもらった通り、眠っている波瑠の左手の薬指に糸を巻き付けてサイズを調べてきた。波瑠がぐっすりと寝ていてよかった。本当は正確に調べるために「二人でジュエリーショップに立ち寄ってサイズを調べる」ことを薦められたが、自然な流れで誘うことは俺にはハードルが高かった。
 初めてこの店を見に来た時から、どれにするかは決めていた。ダイアモンドの左右に小さなラピスラズリがあしらわれたデザイン。この深い青色の宝石は「幸運を招く石」とも言われているらしい。その意味を知って波瑠にピッタリだと思った。
「ありがとうございました」
 店を出るとすっかり暗くなっている。昼間は暖かくなってきたけど、夜はまだ寒さが残っているみたいだ。でもその冷たい風が、緊張で火照った体にちょうどよかった。
 普通は給料三か月分って聞くけど、それで本当によかったのか自信はない。
 それに、こんな何もない平日でよかったのか、オシャレなレストランを予約しなくてもよかったのか、くたびれた仕事帰りのままでよかったのか、考え始めたらキリがない。そんな周到な準備をする余裕なんてなかった。バッグに仕舞われているその物を用意できた今を逃したら、きっとまたズルズルと先延ばしにしてしまいそうだ。でもきっと君は、手慣れていない俺のことも笑って許してくれる気がする。
 俺に幸せな夢を見せてくれてありがとう。手に入れられるはずがないと思っていた幸せを現実にしてくれてありがとう。君がくれたこの平々凡々な毎日をずっと守ってみせる。
 今日家に帰ったら、その華奢な手を取って一生分の愛を誓うよ。
 世界はそれぞれの事情を抱えながらも、まるで何事もないかのように進んでいる。
 茜君と一緒に暮らし始めて一か月が過ぎた。大切な人と同じ家で過ごせるなんて、病室の窓からぼんやりと外を眺めていたあの頃の自分ではちっとも想像できなかった。
 小さなこの部屋が私達だけのお城。引っ越す前だってネット通販を見ながら家具や家電を選ぶのは本当に楽しかった。もうこれ以上はないんじゃないかってくらい幸せな気持ちだった。
それでも、一緒に暮らし始めてからは想像もしなかったような幸せがいっぱいにあふれていた。茜君が帰りに私の分のシュークリームも買って来てくれること、二人で並んで歯磨きをすること、降り出した雪を窓から眺めて「綺麗だね」って言えること。そんな小さな幸せが私の心に降り積もっていく。
 
「デミグラスか、トマトソースか……それとも煮込み?」
 商品棚に並んだデミグラス缶とトマト缶を両手に見比べる。茜君はどれが好きなんだろう。ハンバーグが何派なんて話、したことなかったよなぁ。今日は茜君の「講座」の日だから、たくさん頭を使ってくる分、美味しいものを食べてほしい。
 私はデミグラス缶をカゴに入れて、トマト缶を棚に戻した。今日はデミグラスソースにしよう。次は違うのを作ればいい。これから何度だって作る機会はあるんだから。

「流石に買いすぎちゃったな……」
 両手持ったいっぱいの買い物袋を見て少し反省した。お野菜が安かったのと、新作のお菓子が美味しそうだったのが今日の敗因だ。次の買い物はちょっと自粛しよう。
「あら、波瑠ちゃん?」
 声をかけられて後ろを振り向くと、近所に住む高木さんが立っていた。
「こんばんは、高木さん」
 高木さんはこのスーパーでよく会って話すようになったおばあちゃんだ。このスーパーは何曜日がまとめ買いにいいとか、美味しいお野菜の見分け方とか、いろんなことを教えてもらった。
「最近は寒いわねぇ」
「明日はまた雪が降るみたいですよ」
「あら、それは大変」
 高木さんは私の手にした荷物を見て微笑んだ。
「今日はたくさん買ったのね」
「はい。ちょっと買いすぎちゃいました」
「ふふっ、そんなにたくさん荷物を持てるなんて細いのに力持ちなのね」
「えへへ、体は丈夫なんです」
 そう言って両手の袋を持ち上げてみせた。
 
 家に向かって歩いていると、この街に来た時のことを思い出した。実家からは電車で二十分くらいしか離れていないし、この街には昔何度か来たこともある。それでも、目に映る景色は全部が新しく思えた。
 新しく知ったスーパー、野良猫がよくいる空き地。早くいろんな場所を見たくて、たくさん歩き回って茜君を困らせたっけ。入院していた頃は人目を避けてこっそり抜け出していたから、いつでも好きな時に、というわけではなかった。行きたいところへ好きな時に行けるってこんなにも自由なんだって、そう思った。
 たった一ヶ月でこの街の景色にも茜君との思い出のある場所が出来た。あっちの公園は子供がいない時間を見計らって、雪の上に足跡を付けに行った。そこのカフェはいつも豆を焙煎するいい匂いがしていて、店の前を通るたびに「一緒に行きたいね」って話をする。そしてこの帰り道は初めて手を繋いで歩いた。
 ああ……思い出したら、早く会いたくなってきた。

 角を曲がると、駅の方から見慣れた猫背の背中が見えた。考えるよりも先に足が駆け出す。
「あ、か、ね、君っ!」
 後ろからぶつかると、驚いたようにこっちを振り向いた。
「波瑠!?」
「お疲れさま。今日の講座はどうだった?」
 茜君は高卒認定試験に向けて講座に通い始めた。今時オンライン講座や通信教育だってあるのにわざわざ対面式を選んだのは、茜君なりに自分の苦手をなくそうと頑張っているからなんだと思う。そのおかげか、この前の休みの日には茜君から買い物に行こうと誘ってくれた。私が新しい靴が欲しいって言ってたのを覚えていてくれたことも嬉しかった。
「結構よかったよ。やっぱり英語は苦手だから、疑問に思ったことをすぐに聞けると理解が早いな」
 そう言いながら、私の両手に持った袋を取り上げる。
「茜君、心配しなくたって私はもう元気なんだからこのくらい大丈夫だよ? ほら、こんなに筋肉もついたんだから」
 空いた腕で力こぶを作ってアピールしてみたけど、分厚いコートのせいで見た目には何も見せつけられなかった。
 退院してか一週間に一回病院へ通っているけど、どこにも異常は見つからない。これからは通院の頻度を減らしてもいいってお墨付きももらえた。
「そういう事じゃなくて。重そうだから持つのは普通のことだろ」
 なんてこともなさげに言う。君のそういうところだよ。ほらまた、心に幸せが積もった。
 私は荷物の片方を強引に奪い取った。
「嬉しいけど、今日は半分こしようよ。そうしたらさ」
 空いたほうの手を握る。
「手を繋いで帰れるでしょ?」
「……そうだな」
 横顔を見ると、マフラーから覗く耳が赤くなっていた。

「私はご飯作ってるから、茜君は先にお風呂入ってきてもいいよ」
「ありがとう。じゃあそうさせてもらうよ」
 茜君をお風呂に送り出して、私はキッチンに立つ。さあ、ここからが本番だ。
 一緒に暮らすことになって、家事は二人で分担すると決めた。洗濯や掃除は一人暮らしをしていた茜君の方が慣れていて、始めは色々と教えてもらった。でも料理に関して茜君は全くで、カップラーメンしか作れないと自信たっぷりに豪語していた。そんな風だから、料理だけは私が出来るだけやろうと思った。もう何年も入院していたから、最後に包丁を握ったのも思い出せないくらい。それでも料理番組や料理本を見て、少しずつ練習していった。
 最初に作ったのは卵焼き。味は濃いし、焦げ目は付きすぎるしで散々だった。それでも茜君は文句を言わずに食べてくれた。だから次はもっと頑張ろうと思えた。
 涙を流しながら切った玉ねぎは飴色に。肉だねにはナツメグを少し。せっかくだから形はハートにしようかな。
「おまたせ。出来たよ」
 湯気の立つデミグラスハンバーグをテーブルに並べた。うん、なかなかいい出来じゃないか。
「ありがとう。……いただきます」
 そう言って茜君はハンバーグを口にした。さて、私も一口。
 その瞬間、固まってしまった。お肉が……お肉が硬い! どうして!? ハンバーグというか、ぎゅっと詰まったお肉の塊を食べているみたいな。見た目はこんなに美味しそうなのに!
 恐る恐る茜君の方を見ると、何も言わずに黙々とカチコチのハンバーグを口に運んでいる。
「ああ……ごめん! ハンバーグ失敗しちゃった。無理して食べなくていいから、ね?」
 私の言葉に、茜君は顔を上げた。
「確かにちょっと硬めだけど、普通に美味いぞ? 波瑠が作ってくれたものは何でも美味いと思うけど」
 そう言ってまた食べ始めた。
 正直私の料理は下手くそで、ちゃんと煮えてなかったり、味が薄かったり、失敗ばかりだ。それなのに茜君は美味しいと言っていつも食べてくれる。これは優しさというより、ちょっと茜君の味覚が変なんじゃないかって最近は疑っている。だからもっと上手くなって、本当に美味しい料理で茜君のお腹をいっぱいにしたい。
「ありがとう。また頑張って作るね」

「波瑠は明日の病院、十時からだっけ?」
 並んで食後のお茶を飲んでいると、茜君が言った。
「うん。茜君は十二時から講座だったよね。私は六時に出るから朝ごはんは一緒に食べられないけど、冷蔵庫におにぎり用意しておくね」
 そうだ、今のうちに明日の朝ご飯と茜君のお弁当を作らないと。ご飯を早炊きでセットして、お弁当は冷凍してあるお米でオムライスにして……ご飯が炊けたら、おにぎりの具は梅干しと鮭フレークにしよう。
 立ち上がってキッチンに向かおうとすると、背中に声が掛かった。
「なあ、前から思ってたんだけどさ。病院行くとき、家を出るの早すぎないか? 確かに実家にいた頃よりはちょっと離れたけど、せいぜい電車で4駅だろ? 歩く時間を考えたとしても一時間もかからないのに、いつもどこかに寄ってるのか」
 振り向くと、茜君もこっちを振り向いていた。まあ、確かにそう思うよね。
「朝の散歩って結構気持ちがいいんだよ。そんなに朝強いわけでもないから、午前中の用事でもないと早く起きられないし。前に病院の帰りにクロワッサン買ってきた時があったでしょ? それだって、散歩の途中でたまたま見つけたんだよ」
「……そうか。なら、いいけど」
 納得してくれたのか、茜君は体の向きを戻した。もちろん今言ったことに嘘はない。でも、本当の理由は茜君には教えてあげないけどね。

 支度をして、小さなベッドに二人で入る。茜君のぬくもりをすぐ隣に感じて胸がいっぱいになった。
 こうやって寝る前に真っ暗な部屋で話をする時間が私は結構好きだ。
「茜君はハンバーグ、デミグラス派? トマトソース派? それとも煮込み派?」
「え……煮込みなんてあるのか?」
「あるよー。それなら今度は煮込みハンバーグにチャレンジしよっかな」
「へえ、じゃあ楽しみにしてる」
「卵焼きは甘い派? しょっぱい派?」
「甘い方、かな」
「目玉焼きは? 醤油派? ソース派?」
「醤油」
「ゆで卵は、塩派? マヨネーズ派?」
「塩……っていうか、卵ばっかりだな」
「ふふっ、確かに」
「別に俺の好みなんて合わせなくていいんだぞ。波瑠の食べたい方を俺も食べるし」
 まあ、茜君はそう言ってくれるような気がしてたよ。
「そんなに深い意味はないんだけど、ちょっと気になったから聞いてみたの。私達ってまだ出会って一年も経ってないんだよ? その間にいろんなことがあり過ぎて、そんな感じもしないけど。だからもっと茜君のいろんなこと知りたいなって」
 初めの頃は本当の名前すら知らなかった。それから段々会話を重ねて、名前を、痛みを、優しさを知った。でももっともっと知りたいって欲張りになる。
 横向きになって茜君の腕をぎゅっと抱きしめると、その体が強張るのが分かった。
 君がどうしたら喜んでくれるのか。どうしたら私にドキドキしてくれるのか。どうしたら不幸な夢を見る怖さから解放してあげられるのか。
 ねえ、教えてよ。私は上手くできてる?
「今朝、茜君が『凍った地面に気を付けて』って言ってたから、滑り止めのついたブーツを買ったよ。でも買いに行く道中で転んじゃった」
「あ、ああ……それは、大変だったな……」
「これでもうきっと転んだりしないよ。また不幸が一つ減ったね」
 茜君は毎朝、夢に見た私の不幸を教えてくれる。それは私がそう望んだからだ。
 夢の内容を聞いても、その不幸は避けられたり、避けられなかったり。茜君が夢を見た次の日に必ず起こる訳でもないから、忘れた頃に起こったりもする。
 ここ最近の夢は、凍った道で転ぶ夢、タンスの角に小指をぶつける夢、間違えて歯磨きを二回しちゃう夢。茜君の様子を見るに、自転車にひかれる夢みたいな大きな不幸はまだ見ていないみたい。
 不幸とは、幸福でないこと、ふしあわせ。それなら私から不幸が無くなったら、茜君はどんな夢を見るんだろう。
 転ばないように滑り止めのついたブーツを買った。通勤ラッシュの事故や事件を避けるためにその時間の電車に乗らないようになった。他にも思いつく限りのことは何でもやった。きっとそれを全部話したら、君は気に病みそうだからこれから先も言うつもりはないし、それを「辛い」なんて思ったことは一度もない。全ては君がこれから先、私の夢で苦しまないように私が勝手にやっていることだ。
 手術の日に渡した手紙に書いたことは、別に手術で死んでしまう事だけを思っていた訳じゃない。私の命が尽きるのが数年後でも、数十年後でもずっと変わらない。私の最期を夢に見て君が怖い思いをしないように。最期のその瞬間まで、君に幸せを残せる私でありたい。
「ねえ、茜君」
「なんだよ」

 この部屋に引っ越してきたその日の夜、君はずっと暗い顔をしていた。
『どうしたの?』
『本当に一緒に寝るのか?』
 不安そうに私を窺う表情。私は笑顔を見せた。
『もちろん。今日からは毎日一緒に寝るんだよ』
『やっぱり、嫌じゃないのか? その、俺と同じ部屋で寝るのは……』
『それは茜君だからってこと? それとも夢を見るからってこと?』
 私の言葉に茜君は言葉を詰まらせた。
『……それは、どっちも』
『分かった。最初の方については私が茜君のことを大好きだから何も問題ないよ。好きな人と一緒に寝られるなんて、女の子の憧れなんじゃない? それでもう一つの方も問題ないよ。だって今までも茜君は私の夢を見てくれてたでしょ?』
 手術の日のデートの支払いだと言って強引に約束を取り付けた。その約束を茜君はちゃんと守ってくれた。そして毎晩私の夢を見てほしいと言ったことも、律儀に叶えてくれていることだって知っている。
『でも、それは俺が一人で夢を見ていただけで、こんな風に隣で不幸を見られるなんて……』
『大丈夫だって』
 茜君の両手を握る。自分のことになると君は随分臆病みたいだ。私もそうだったからよく分かるよ。
『私、茜君に見られて困ることなんてないし、前にも言った通り、茜君が不幸を呼び寄せてるわけじゃないもん。でも、さすがにちょっと気になるから翌朝、見た夢を教えてくれないかな?』
『自分の不幸を聞きたいって……波瑠は変わってるよな』
 そう言って困ったように私を見た。でも、さっきみたいに不安で暗い表情じゃない。
『ふふっ、いいじゃんいいじゃん。どんな夢が聞けるのか毎朝面白そうだよ』

 いつか私のドジくらいしか夢に見なくなって、私が「ニュースの星座占いみたいだね」って言ったら、君は「そうだな」って笑ってくれるといい。

「今日も私のことを想って眠りについてね」

 世界はそれぞれの事情を抱えながらも、まるで何事もないかのように進んでいる。近所の高木さんも、お隣の山野さんも、今日すれ違っただけの人も。そして、私達も。
 君のその夢は私が一生一緒に向き合っていくから心配しないで。君が私の病気に向き合ってくれたみたいに。手術の日の朝に二人で話した「やりたいこと」は引っ越しの準備や新生活でまだできていないけど、そう遠くない未来に実現するって信じてる。一緒ならこの先どんなことがあってもきっと明るく乗り越えていけるよ。他のどんなカップルや夫婦にも負けないくらい、最高に幸せに満ちた二人になろう。

 今夜も君が穏やかな不幸を見られますように。

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