病院の廊下は少し寒くて、身を縮めた。
「波瑠の親からは一発くらいぶん殴られるかと思ってたよ」
 隣を歩く波瑠にそうこぼした。
「えっ、どうして?」
 さっき俺は病院内のカフェスペースで波瑠の親と初めて対面した。未成年の波瑠が手術を受けるには保護者の同意が必要で、金のことも含めて一度話をしないといけなかった。 
 波瑠の親は明るく物を言う、誠実そうな人たちだった。波瑠が持つ無邪気なほどの明るさや共感性を伴った優しさは、この両親に育てられたからこそなんだろうと思った。
「だって娘が知らない男をいきなり連れてきて、しかも手術費用を全額支払うとか言い出したら、新手の詐欺とか、とにかく胡散臭くて仕方ないだろ?」
「そういうものかな……?」
 波瑠はピンと来ていない様子だった。
「でもお父さん達、茜君にすっごく感謝してたでしょ。それはそうだよ。だって茜君は私たち家族の恩人だもん」
 そんなことを言われると照れ臭くなる。俺はただ波瑠の苦しむ顔が見たくなくてやっただけで、そんなに大層な志なんかじゃない。
 俺は話を逸らした。
「俺のことは説明しなくてよかったのか? 仕事のこととか、金の出どころとか……」
「だって茜君、話したくなかったでしょ? もしお父さんたちに何か聞かれたら、私がうまく言っておくから安心して」
 そう言って波瑠はウインクしてみせた。
 あの仕事は人に胸を張って話せるようなものじゃない。波瑠は俺の話を聞いても変わらずに接してくれたけど、普通は軽蔑されても仕方ないくらいだ。波瑠の親にはなおさら秘密にしておきたかった。
「ありがとう……助かるよ」
「このくらい、なんてことないよ」
「それにしても、俺達が出会ったきっかけを『病院で見かけて声をかけた』っていうのはあまりにも強引過ぎはしないか……?」
 この病院に来たのはこの前が初めてだし、詳しく聞かれでもしたら簡単にボロが出そうだ。
「でも、茜君が歩いている姿を『病院』の窓から『見かけて』、あの歩道橋の上で『声をかけた』んだもん、嘘はついてないよね?」
「嘘じゃなくても確信犯だろ」
「だって、病院をこっそり抜け出して会ってたなんて言えないよ。そういうことにしておいて、ね?」
 波瑠はそう言って俺の顔を覗き込む。
「……分かったよ」
 人に言えないことが多いのは俺も同じだ。そこはなんとか協力しようと思った。

 病室に戻って、波瑠はベッドに横になった。側の椅子に腰かける。
「手術ね、前に聞いた話だと二日に分けてやるんだって。骨を削ったりとか色々やらないといけないことがあって、何時間もかかるんだってね」
 波瑠の言葉にぞっとした。
「その……怖くないのか?」
「怖くない、って言ったら噓になるかな」
 返事を聞いて、馬鹿なことを言ってしまったと思った。そんなこと、怖くないはずがないのに。
「でもね、怖いとかそれ以上に手術を受けることになって嬉しいって思ってる。自分の人生に絶望していい加減に生きていたあの頃よりも、生きることに執着して苦しんでいたあの頃よりも、ただ真っ直ぐ、生きるために心を向けられる今が一番だよ。もちろん手術が必ずうまくいくとは限らないし、何が起こるかなんて分からない。それでも今が一番、私自身の人生を前向きに考えられている気がするんだ」
 正直、俺は心の片隅で引っ掛かっていることがあった。本当に手術を受けることが波瑠にとって最善なのか、と。
 波瑠は手術を望んでいた。手術を受けられない理由がただ金のためなら、俺がどうにかしたいと思った。それに手術が成功して波瑠が自由に動き回れることは、俺にとっても魅力的だった。
 しかし、その手術は前例がなくて失敗して命を落とすかもしれないと前に波瑠が言っていた。そんな危険性のある手術に波瑠を後押しして本当によかったんだろうか。そんな危険を冒さないで今まで通りの生活をしていた方が長く波瑠と一緒にいられたんじゃないか。そんな考えが浮かんでは頭を抱えたくなった。
 それでも、波瑠は今が一番幸せだと言ってくれた。その言葉を聞いて、ここまで突き進んできた自分をやっと認められる気がした。
 また波瑠に心を救われてしまった。
「それにね、色々準備もしてるところなんだよ。あれこれ忙しくやってたら、怖さも紛れてちょうどいいよね」
「準備?」
「んふふ、茜君にはまだ秘密だよ」
 そう言って波瑠はいたずらっ子のように笑って見せた。そんな些細な仕草で、どれだけ俺が心をかき乱されているかなんてまだ君に伝えるつもりはないけど。
 俺は立ち上がった。
「じゃあそろそろ俺は帰るよ。また明日来る」
「もう帰っちゃうの? 何か用事?」
「ああ。今日から勉強を教わることになってるんだ」
 あの仕事を辞めたからには、必死にならないと次の仕事に就くこともままならない。まず、第一の関門である高卒認定を取るために試験勉強を始めた。今日は隣町のコミュニティセンターで開かれる高卒認定試験受験者向けのセミナーに参加する。相変わらず他人と会うのは苦手だけど、これから一人で生きていくにはそんなわがままも言っていられない。わざわざセミナーに参加することを決めたのは、色んな他人と接触して苦手をなくす意味もあった。
「勉強なら私が教えてあげるのに」
 波瑠は拗ねたような顔をした。
「それなら今度お願いしようかな」
 俺の言葉に波瑠の顔がパッと明るくなる。
「うん! 楽しみにしてるね」
 波瑠に手を振って、病室を後にした。

 病院を出ると、冷たい風が首筋を通り抜けた。もう少しで冬がやってくるような、そんな気配がした。
「茜君」
 声をかけられて振り向く。そこには波瑠の両親が立っていた。
「少しだけ、時間いいかな?」
「もちろんです」 
 病院入り口の脇に移動すると、父親が口を開いた。
「待ち伏せするような形になってすまないね。さっきの話し合いの後、波瑠が君と話したそうにしていたから、邪魔しないように待っていたんだ」
 父親の言葉にいまいち納得がいかなかった。
「そんな風に見えましたか……?」
「ずっと波瑠の親をしてきたからそれくらいのことは分かるさ。ただね、波瑠は自分の気持ちを隠すのも得意なんだ。君は波瑠が強い子だと思うかい?」
 そう言われて言葉に詰まった。確かに波瑠はいつも前向きで、俺を引っ張ってくれて、笑顔で照らしてくれる。でも頭に浮かんだのは、誰もいない砂浜で俺の上にまたがって大粒の涙を流す波瑠の姿だった。
「……強い一面もあると思います。でも一人で抱え込むから、限界に達した時にとても危うくて脆い」
 父親は少し寂しそうに微笑んだ。
「君はそんな波瑠を知っているんだね。波瑠は私達家族の前で一度も弱音を吐いたことがないんだよ」
「一度も、ですか?」
「ああ。だから波瑠がどれだけ苦しんでいるのか、どうして手術を受けたくないのか、色々と分からないことが多かったんだ。でも急に波瑠は手術を受けると言い出した。それは茜君、君のおかげだろう?」
「俺はお金を用意しただけで……」
「別にお金のことだけを言っているんじゃないよ。私達もお金のことは心配しなくていいと波瑠に話したことがあったが、あっさり断られてしまってね。君が波瑠の心の隙間を埋めてくれたおかげで手術を受ける気になってくれたんだと思うんだよ。だから改めて礼を言わせてくれ……娘の力になってくれて、どうもありがとう」
 そう言って、波瑠の両親は頭を下げた。どうしてこの人たちは俺にそんなことが言える。
「俺のことは何も聞かないんですか?」
 言いたくないくせに、ひねくれた心が働いてそんな言葉が口を出た。
 波瑠は「何か聞かれたらうまくいっておく」なんて言ってくれたけど、この人たちにはそれを聞く権利がある。それを聞いてこないのはあまりに不自然だと思った。
 両親は頭を上げた。そして父親が口を開く。
「さっきもわざと言わなかったんだろう? 勝手に聞きだしたら、後で波瑠に叱られてしまうよ」
 そう言って父親は笑った。
「私達は波瑠が信じるあなたを信じるよ」
 その言葉を聞いて、本当に絆で結ばれた家族なんだと思った。
 波瑠の親とは少し話して別れた。俺も波瑠や、波瑠の親に信じてもらえるにふさわしい人間になりたい。体に力がみなぎるような感じがして、セミナー会場へと走って向かった。

 そして、手術本番の日を迎えた。
「わぁ……ひんやりして、もうすっかり冬の空気だね」
 病院の屋上に出た波瑠は言った。
「……そうだな」
 俺達は医者に許可をもらって、手術当日の朝に二人で会うことができた。波瑠は昨日から手術に向けた投薬が始まっているため、万が一に備えて車いすに座っている。
 車いすを柵の手前につけると、広く続く街の景色が良く見えた。
「波瑠、寒くないか?」
 病衣にコートを羽織った姿の波瑠に声をかける。
「うん、大丈夫だよ。ありがとう」
 振り向いて俺に微笑む顔を見て、胸がざわつく。
 これから波瑠は二日間にわたって大掛かりな手術を受けることになる。もしかしたら、波瑠と話すのはこれが最後になってしまうかもしれない……いや、そんなことは考えるな。波瑠を不安にさせるなよ。
「春に出会ってから、随分といろんなことがあったよな」
 始まりは歩道橋の上。不意に飛び降りたくなった俺に波瑠が声をかけた。「デートしよう」とか言って強引に俺の手を引く。その手を振りほどかなくて、本当によかった。
「最初の頃は冷凍食品のレイ君だったもんね。ふふっ、懐かしいなぁ……」
「ハルっていうのが本当の名前だなんて騙されたよ。季節が春だからって、俺と同じくらい安直な理由だと思ってた」
「騙されるように言ったんだもん。それはそうだよ」
「波瑠って策士なところがあるよな」
「ふふっ、誉め言葉として受け取っておくよ」
「それに、本当のデートにならないように金を払えっていうのも、なかなかすごい提案だよな」
「茜君、最初はびっくりしてたけど、思ったよりもよりすんなり受け入れてくれたよね?」
「まあ、そうかもな……」
 それは波瑠が金目的なんじゃないかってがっかりしていたところにそんな提案をされて拍子抜けしたから。初めて会ったあの日から、波瑠の言動に一喜一憂していたなんてそんなことは言えない。
「あーあ、今日のデートは高くつくなぁ。なんたって、私を好きに連れまわしたんだからね」
 わざとらしい言い方に思わず吹き出した。
「ふふっ、何だよそれ」
「だからね、今日は百円なんかよりもーっと価値のあるものが欲しいの」
「おう、何でもくれてやるよ」
 君の欲しいものなら、何でも。
「えへへ、じゃあ、今夜の君の夢を私にちょうだい」
「え……?」
 思いもしない提案に言葉が詰まった。
「今夜、私の夢を見てほしいの。夢の中でも私のことを見ててくれたら、すっごく幸せだろうなって」
 俺だって、毎晩好きな人のことを想って眠りにつきたい。夢でも好きな人に会いたい。でも、それが出来ないことは波瑠も知っているはずだ。
「……分かってるよな、俺は他人の不幸しか見ないって」
「もちろん分かってるよ。誰かの不幸を見るのはやっぱり怖い?」
「……怖いよ」
 誰かの不幸なんかじゃなくて、人生で一番大切な人の不幸を見るのが怖い。夏の河川敷で波瑠の夢を見た時だって、息が詰まりそうなほど苦しかった。
 俺が夢で見た出来事は必ず起こる。もし波瑠が手術中に死ぬ夢を見てしまったら? 今度は、自転車に轢かれるのを回避できた時みたいにはいかない。波瑠がこれから死ぬ未来が分かっているのに、二日目の手術に向かうのを黙って見ていることしかできない。そんなの、想像しただけで吐きそうになる。きっと身体が千切れるほど苦しくて、一生その夢を思い出すんだろう。
「大丈夫だよ」
 波瑠の言葉で吐き気が止まった。
「きっと大丈夫。茜君は私の些細な失敗を夢に見て、明日の手術が終わったら『馬鹿だな』って笑いに来るんだよ」
 波瑠がそう言うと、本当にそうなるような気がして困る。取るに足らないほどの不幸を夢に見て、一緒に笑いあう未来があるんじゃないかと錯覚する。実際はどんな波瑠の不幸を見てしまうかも分からないのに。
「馬鹿だななんて、言わないよ……」
「茜君は優しいからそんなこと言わないか。それでね、もし私が二度と目を覚まさなくなる夢を見たら……」
 その言葉に息が止まりそうになった。
「その時は、本当なら見られるはずじゃなかった私の死に際を、茜君に見守ってもらえたってことにならないかな。そうは思わない?」
 ずっと呪ってきたこの体質を、君はそんな風に言ってくれるのか。まるでこの体質のおかげで、君と深く繋がっていられるみたいな。波瑠と出会ってから、もう何度も俺は救われてしまった。
「波瑠は強くて格好良くて、ほんと憧れるよ」
「茜君には格好悪いところもたくさん見せちゃったと思うんだけど」 
 波瑠は拗ねたように言った。
「そんなことないよ。波瑠が自分で格好悪いと思っているところも全部、波瑠が眩しく生きている証だよ」
 浜辺で泣いていたのも、病室での姿も、周囲への思いやりと自分の気持ちの狭間で苦しんだ結果だ。そんな風に一生懸命に生きている波瑠が格好悪いはずがない。
 だから俺も覚悟を決めようと思った。
「望み通り、デート代はちゃんと払うよ。後でやっぱり支払いが足りないとか文句言うなよ」
 波瑠の望みは全て叶えると言ったんだ。どんな夢を見たとしても、受け止めてみせる。
 俺の言葉に波瑠は振り向いて笑った。
「私にとってはこれ以上ない価値があるんだよ。文句なんてあるはずない」
 そう言うと、波瑠はコートのポケットに手を突っ込んだ。
「じゃあ支払いも成立したということで、私を買ってくれた茜君にはプレゼントがあります」
 波瑠が俺に差し出したのは水色の封筒だった。これが前に言っていた「準備」なんだろうか。
「今夜、寝る前に読んでね」
「ああ、そうするよ」
 封筒は大切にバッグへしまった。
 波瑠は再び街の景色の方へ頭を戻す。会話が途切れる時間も惜しくて、明るい話題を探した。
「病気が治ったら、やりたいことはあるか?」
「それはもういっぱいあるよ」
「例えば?」
「まずは日本で一番の桜の名所に行きたい!」
「日本で一番って、調べたらいろんな場所が出てきそうだな」
「じゃあ出てきたところ全部行こうよ」
「全部?」
「うん。桜前線と一緒に私達も移動するの」
「それはまた大がかりな」
「でも楽しそうでしょ?」
「まあそうだな」
「それで、夏は水着を新しく買って海に行きたい」
「海で泳いだのなんて遠い昔だな」
「茜君の分も私が選んであげるよ」
「ならそうしてもらおうか」
「秋は紅葉を見ながら一緒に本を読むの」
「家で読むのと違って面白いかもな」
「冬は雪山に行ってスノーボードをしてみたい。ね、一緒に習おうよ」
「それも楽しそうだな」
 四季を通して波瑠と一緒に過ごす光景が自然に想像できた。きっとそれは今までの人生で一番幸せで、輝きにあふれた日々になるんだろう。
「やりたいことは言い尽くせないくらいたっくさんあるんだよ。でもね、一番は茜君とずっと一緒にいたい。茜君が隣にいれば、きっとなんだって楽しいよ」
 波瑠は振り向いて俺を見上げた。
「毎晩私の夢を見てよ。その瞳に私をたくさん映して。寝ても覚めても、私が君を幸せにしてみせるから」
 その言葉は「愛してる」なんかより俺にとってはずっと価値のあるものだった。
「俺の方こそ、波瑠を幸せにするよ」
「えへへ、私達ってやっぱり似たもの同士なんだね」
 俺は腕時計にちらっと目をやった。医者に許された時間はあと少し。
「そろそろ病室に戻ろう。遅刻するわけにはいかないからな」
 車いすに手をかけて、ゆっくりと半回転させる。病室に着いてしまったらもう波瑠とは手術が終わるまで会えない。
 波瑠の両親からは病院内で一緒に待機することを提案されたが、それは断った。強い絆で結ばれた家族の空気を俺が邪魔することはさすがに悪いと思った。不安がないわけじゃない。明日の手術終了まできっと生きた心地がしないんだろう。それでも俺は待つことしかできない。もし俺に名医の技術があったらなんて身の丈に合わないことを思ったりもしたけど、そうだったとしてもきっと波瑠の体にメスを入れるなんてできるわけがない。どのみち俺は手術成功の連絡が来るのを待つしかないんだ。
 波瑠が車いすでよかった。椅子を押す俺の顔がどんなに不細工になっていても、波瑠には気づかれずに済むから。
「ねえ、茜君」
 屋上の出口の手前で波瑠は言った。
「どうした?」
 車いすを止めると、波瑠の口からためらうような息がもれる。
「あのね……大丈夫って、言って」
 その掠れた声に胸が張り裂けそうになった。
 波瑠の隣にしゃがみ込んで、膝の上でゆるく握られたその手を包む。触れた手は冷たくなっていた。
「大丈夫、大丈夫……うまくいくよ。明日、手術が終わって目が覚めたら、さっき言ってたやりたいこと、全部できるから」
 うつむいていた波瑠はゆっくりと俺の方を向いた。目元は赤くなって、今にも泣きだしてしまいそうだ。そんな顔のまま俺に笑って見せた。
「ごめんね……急に不安になっちゃって。茜君にそう言ってもらえると、本当に大丈夫な気がしてくるよ」
「波瑠が安心できるまで、何回でも言ってやるから」
 波瑠に触れる手に少し力を籠める。少しでも早く俺の体温が波瑠を温めるといい。
別に神様なんて信じていないけど、今だけはどうか神様、彼女に幸せで明るい未来をください。俺なら何でもしますから。
「うん、ありがとう……もう大丈夫。行こう」
「分かった」
 俺は再び車いすを押した。

 医者と家族が待つ病室に戻る頃には、波瑠はいつもの明るい表情に戻っていた。病室の扉を開ける前に一度立ち止まる。この扉を開けたら、もう波瑠とは会えない。
 ここからは家族との時間だ。俺は邪魔してはいけない。最後に波瑠を独り占めする時間をもらえただけ幸せなことだ。
 波瑠は俺の方を振り向いた。俺を映す綺麗な瞳を、花が咲いたようなその微笑みを、頭に焼き付ける。
「じゃあ茜君、行ってくるね」
「ああ、また明日な」
「うん。おやすみなさい」
「おやすみ……波瑠」
 波瑠は扉を開けて病室に入って行く。俺は背を向けた。

 家に帰っても、風呂に入っても、心が張り詰めて落ち着かなかった。食事は喉を通るはずもなく、何も手につかない。時計の秒針がすすむのをただじっと見ていることしかできなかった。
 手術終了予定時間から二時間が過ぎた頃、波瑠の父親から「今日の手術は成功した」と連絡があった。それを聞いて、緊張の糸が切れたようにベッドに倒れこむ。
 首を回して、もう一度時計を確認した。あと一時間で俺は眠りについてしまう。体を起こし、バッグの中から取り出した封筒をハサミで丁寧に開けた。
 折りたたまれた便箋を開く。初めてもらった時と同じ、右肩上がりの少し癖のある文字が並んでいた。

『茜君へ

 君に想いを伝えようと筆を執ったものの、何から伝えればいいのか、たくさんありすぎてまとまりません。だから、思いつくままに書くことを許してください。

 茜君を病室の窓から見ていた頃、私の心はもう死んでいるみたいでした。何のために自分が息をしているのかも分からなくて、明日なんて来なくていいとさえ思っていました。そんな毎日の中で、茜君の存在は「人生に失望した同志」みたいでした。名前もまだ知らない君の姿を見られた日は、少しだけ心が軽くなりました。

 茜君の後を追いかけて病室を飛び出したのは、自分の体のどこにそんな活力があったのかと疑問に思うくらい、思いがけない事でした。君と出会うことでこんな毎日が変わってしまうような、そんな予感が体を巡っていたことをよく覚えています。

 予感は大当たり。茜君に出会ってからの毎日は色鮮やかに私の心を震わせてくれました。たくさん連れまわして、わがままを言ってごめんなさい。茜君といるときだけが、本当にそうありたいと思う自分でいられました。

 私は失ってしまった、未来への希望を再び握りしめました。生きたい。君と生きたい。その想いと家族との間で揺れ動いていた私を掬い上げてくれたのも、また君でした。

 私は茜君に何を返したらいいんだろうって、ずっと考えていました。それでやっと思いついたんです。

 夜、私の夢を見てください。

 前に「誰かの夢を見なくて済むように、亡くなったお母さんの夢を毎晩見ている」と言っていたのを覚えていました。家族の最期を毎晩夢に見るのは苦しいでしょう。それならその役は私にやらせてくれませんか。

 君が毎晩苦しまなくて済むように、私の最期は綺麗なものにしてみせる。眠っているみたいに、安らかな顔で、君と出会えて幸せだったと信じてもらえるような、そんな最期。
 
 でも君に夢を見てもらうことは、私の望みでもあるの。私のことを覚えていてほしい。頭の片隅に私を置いてほしい。自分がこんな風に面倒な女だって、初めて知ったよ。

 手術の日にちゃんと口で伝えられる自信がないから、ここに書いておくね。

 茜君、好きです。大好きです。

 私と一緒にいてくれてありがとう。私を救ってくれてありがとう。不器用だけど優しくて、ずっと側にいたいと思える君のことが大好き。私の世界が終わるその瞬間まで、君のことを想っていさせて。

 どうか君が、穏やかな眠りにつけますように。

 波瑠より』

 途中から目の前が滲んで読めなくなった。目元を拭って何度も読み返す。
 これは波瑠の遺書だと分かった。どうなるか分からない手術の結果を見越して、俺に最期の言葉を残そうとしてくれていた。
 出会えて幸せだったのも、救われたのも、俺の方がきっとそうだよ。好きだって、言い逃げはやめてくれよ。どうして俺はちゃんと言葉にして伝えなかったんだろう。
 手紙をテーブルの上に置いて、俺はベッドに横になった。電気を消し、瞼を閉じると笑顔の波瑠が浮かぶ。明日会ったら言いたいことが山ほどあるよ。今度は俺が伝える番だから、最後まで聞いてほしい。不思議なくらい、不安はひとかけらもなかった。
 
 今夜、君の夢が見られますように。

 そのことだけを祈って眠りについた。