「暑い、暑すぎるわ……」
休日にもかかわらず、強烈な日差しが照り付ける屋外を避けて自分の部屋にこもっていた私は、あまりの暑さに机に突っ伏してしまった。
「も、申し訳ありません!」
パタパタパタパタ!
専属メイドのアイリーンが必死に大うちわで扇いでくれるものの、もはやうちわで扇ぐ程度では焼け石に水だった。
「今年はいつになく暑いわね……はぁ、汗が止まらないわ……なんかもう溶けてバターになっちゃいそうな気分……」
「も、申し訳ありません!」
パタパタパタパタ!
私の呟きを耳にしたアイリーンが、さらに必死な様子で扇ぎはじめた。
「別にいいわよ。さすがの私も、この異常な暑さをたかがメイドのあんたにどうにかできるなんて思ってないし……ああ、暑い……ひたすらに暑いわ……」
「気象台が今年は近年でもトップクラスの猛暑になると予想していましたが、私もまさかこれほどの暑さになるとは思ってもみませんでした」
「ほんとね。もうこれ猛暑を通り越して激暑でしょ。マジクッソ暑いんですけど……」
「マリア様、お言葉が少々乱れすぎておりますよ」
「暑いから仕方ないでしょ」
もはやあんたをイジメる気力すら湧いてこないわ……。
はぁ、暑い……暑すぎる……。
「ああっ! 命の輝きを体現されているかのような活力に満ち溢れたマリア様が、こんなにもお元気をなくしてしまうなんて!」
アイリーン、こんな暑さだっていうのにあんたはほんと元気ね……。
私よりもあんたの方がよっぽど命の輝きを体現しているでしょ……。
「はぁ……ねぇアイリーン。お父さまと避暑地に行くのはいつの予定だったかしら?」
「王国北部のアリメア高原にあるセレシア家の別荘に行くのは、ちょうど来週の今日のご予定ですね」
「この暑さをあと1週間も我慢しないといけないの? はぁ、死んじゃうよぉ……」
おとぎ話で聞く灼熱地獄ってこんななのかなぁ……。
はぁ……。
あまりの暑さにほんとため息しか出てこないわ……。
なんてことを思っていると、
「ではマリア様、冷たいスイーツなど召し上がりませんか?」
アイリーンが大うちわで扇ぎながらそんなことを提案してきた。
「冷たいスイーツ?」
私は机に突っ伏したまま、お行儀悪く顔だけをアイリーンへと向けた。
お父さまが見たら卒倒すること間違いなしの無作法だけど、あいにくとこの部屋には私とアイリーンしかいない。
「セレシア侯爵邸内を流れる小川に、スイカを沈めて冷やしてあるんですよ。ここの水は地下から湧き出る湧水を使っているので夏でも冷たいんです」
「へー、知らなかったわ」
「スイカは身体を冷やしてくれる食べ物ですし、少しは涼しくなるのではと思いまして準備しておいたんです」
「あらありがとう。なかなか気が利くじゃないの」
「それはもう、栄えあるマリア様の専属メイドを言いつかっておりますから♪」
「……まぁそうよね、私の専属メイドなんだからそれくらいして当然よね。ありがとうなんて言って損したわ。いやだわー、暑くてぼーっとしちゃってたみたい。前言撤回。しゃべってる暇があったらとっとと用意しなさいな、このグズ」
「かしこまりました」
グズと言われてもなぜかちょっと嬉しそうなアイリーンが、部屋の外で待機している控えメイドにスイカを持ってくるように指示を出した。
すぐにしっかりと芯まで冷えたスイカが運ばれてきた。
もちろん食べやすいように一口大サイズにカットされていて、種も全て取ってある。
庶民はスイカの種を口から飛ばして遊んだりするそうだけど、私はそんなエンガチョなことをしはしない。
「じゃあ早速いただこうかしら」
一口サイズにカットされたスイカをフォークで一刺し、口に入れる。
すぐに口の中に冷たい甘みが広がっていった。
「ん~~、よく冷えていて美味しいわね! なんだか元気が湧いてくる感じ!」
「それはようございましたね」
「すごく甘いし、冷たいし。まるで冷たいジュースを食べているみたいだわ」
「スイカは95%が水分なんだそうですよ」
「なるほどねー。でもほんと、これならいくらでも食べれそうだわ」
「どうぞ心行くまでご堪能下さいませ」
笑顔で答えるアイリーンの顔を私はまじまじと見つめた。
額にうっすらと汗をかいているのが見て取れる。
異常な鋼メンタルを持つこいつは発汗までをもコントロールできるのか、汗をかいているのを私はほとんど見たことがない。
つまりさしものアイリーンも、この暑さには耐えられなかったわけね。
「……ま、あれね」
「はい?」
「せっかくだしあんたもスイカを食べなさい。特別に許可してあげるわ」
「と、とんでもございません! 私は見ているだけで十分ですので、どうぞマリア様が心行くまでお食べ下さいませ」
「こんな量を1人で食べれるわけないでしょ。いいから食べなさい」
「ですが――」
「あんた汗かいてるでしょ? あんたは腹を切ろうとしたりと時々ちょっと頭がおかしいところもあるけど、それでも人間なんだから暑いのは同じなわけでしょ?」
「それなりには暑くはありますが、ですが私はマリア様の専属メイドですのでこれくらいは――」
「それよ。もしあんたに熱中症で倒れられて、別の専属メイドを用意しないといけなくなったら手間なのよね。あんたは私にそんな無駄な手間をかけさせたいわけ?」
「と、とんでもございません!」
「ならとっとと食べなさいな」
私は予備のフォークをアイリーンに手渡した。
「で、ではお言葉に甘えて頂きます……あふぅ、冷たくて美味しいです!」
「でしょう? ほら、もっと食べなさい。今日は遠慮はいらないわよ」
「本当にジュースを食べているみたいです」
「好きなだけ食べていいわよ。その代わりに食べ終わったらまた馬車馬のごとく私に尽くしなさい」
「かしこまりました♪」
スイカを食べて少しは身体も冷えたのか。
今日のアイリーンはいつにも増して精力的に私に尽くしてくれたのだった。
あ、一応言っておくけどね?
この信じられない暑さの中、ひたすら大きなうちわで扇ぎ続けてくれたアイリーンがちょっと可哀そう、とかなんとか思ったわけじゃないんだからね?
気が利いて何でも言うことを聞くこの便利メイドの代わりを用意する手間を考えたら、少し労わってやった方が私にとって得だからってだけなんだからね?
ほんとなんだからね?
そこんとこ勘違いしないでよね?
それは何の変哲もない休日の昼下がりだった。
「ま、まままマリア様! 大変です! 事件です! 一大事です!」
専属メイドのアイリーンが、ノックもせずに私の部屋に入ってきやがったのは!!
イラァッ!!
「お気に入りのロマンス小説の最新刊を読むから2時間ほど一人にするようにって言ったあったでしょ、このグズっ! しかもノックもしないで入ってくるなんて!」
もちろん私はキレッキレにブチ切れた。
しかもちょうど想い合う二人が困難を乗り越えて今まさに結ばれる、超いいシーンだったのだ。
その甘い気持ちをぶち壊しやがってこの駄メイドめが……!
ヒロインに思いっきり感情移入していたところから、いきなり現実に引き戻されてしまった虚無感と喪失感。
私の心に巻き起こる怒りときたら、怒髪天を衝くほどだった。
「も、申し訳ありません! ですが一大事なんです!」
「あらそう、いいわよ? 私は心がとっっっっても広いから、一応あんたの一大事とかいうクソみたいな言い訳だけは聞いてあげるわよ? でも聞くだけね。どんな理由でもこの場でただちにクビを宣告するから」
「クビでも何でも構いません! それでは申し上げます! どうか心を落ち着けてお聞きくださいませ」
「あっそ。で? とっとと言って?」
「先ほど空に巨大な隕石が観測されました。天文占星省の見立てによると、どうやらその巨大隕石が、このお屋敷めがけて落下しているようなのです」
「……はぁ? なに言ってんのあんた? 気でも触れたの?」
私は無料炊き出しの列に並ぶ哀れな貧乏人を見るかのような、冷めきった目でアイリーンを見つめた。
あまりにアホな言い訳すぎて、どうにも怒りがすっ飛んじゃったわ。
これが目的だったとしたら、なるほど。
なかなか冴えたやり方ね。
「ですから、巨大隕石がこのお屋敷めがけて落下しているようなのです」
「巨大隕石がこの屋敷めがけて落下しているですって?」
「左様にございます」
いやマジで、なに言ってんのこいつ。
あたおかってレベルじゃないんだけど。
「さっきからそれ、本気で言ってるの? ……うーん、いい出来」
なんかもうあほらしくなった私は、新しく専属で雇った王都ナンバーワンのネイリストに綺麗にネイルしてもらった爪を、ご満悦で眺めはじめた。
なんて綺麗なネイリングなのかしら。
惚れ惚れしちゃう。
見てるだけで楽しくなってくるわ。
「マリア様に嘘など申し上げません。本当に巨大隕石が今、このセレシア侯爵家のお屋敷に向かって一直線で落下しているんです」
「まぁたしかにあんたは忠誠心の塊みたいなメイドだからね。死んでも嘘は言わないわよね」
それくらいには、私はこのアイリーンという専属メイドを信頼している。
「はい。ですので、マリア様は一刻も早くこの場を離れる必要があるんです」
「ふーん、そうなのね。つまり巨大な隕石がこのお屋敷に向かって落ちてるわけね」
「左様にございます」
「ふーん……隕石がお屋敷にね……隕石……直撃……お屋敷に…………はぁぁっっ!!?? ちょ、ちょちょ、ちょっとどういうことよそれ!?」
「ですから巨大隕石がこのお屋敷に向かって――」
「それはもう分かったから、もっと詳しく! 早く詳しい説明しなさいなこのグズっ! ほら早く!」
だって巨大隕石がこのお屋敷に向かって落下してるとか、いきなり言われても困るんだけど!?
「天文占星省の専門家によれば、巨大隕石は1時間後にセレシア侯爵家に直撃。この屋敷を中心に半径20キロは爆風で跡形もなく消し飛ぶそうです」
「半径20キロ……? は……? え……?」
セレシア侯爵家は王城のすぐそば、王都のほぼ中央に位置している。
だからここを中心に半径20キロってことは、つまり王都の端から端まで綺麗さっぱり更地になっちゃうってこと!?
「その外側も甚大な被害が予想され……つまりここ王都は1時間後に壊滅します」
「じょ、冗談よね……?」
「冗談かどうかは、どうぞマリア様ご自身の目でご確認くださいませ。既に空に、飛来する巨大隕石の姿を見ることができますので」
アイリーンを従えて慌てて中庭に出た私は、手でひさしを作りながらおそるおそる空を見上げた。
すると――、
「な――っ!! なんて大きさなの!?」
悠然と空に浮かんだ巨大な隕石を目の当たりにして、私の喉がゴクリと鳴った。
あんな巨大なものが空から落ちてくるなんて――!
「先ほど見た時よりもかなり大きく見えますね……かなり近づいているようです」
アイリーンが感情を押し殺しながら呟いた。
「あれが今からここに落ちてくるのよね……?」
「左様にございます」
「嘘でしょ……?」
「残念ながら本当です」
「…………」
「…………」
私とアイリーンが中庭で言葉を失っていると、セバスチャンがやってきた。
「マリア様、そのご様子ですと既にアイリーンから詳細はお聞きしておられるようですな」
「セバスチャン……ええ、聞いたわ」
「では話は早うございますな。王都で一番足の速い馬車を用意いたしました。一刻も早くこの場からお逃げください。1時間で進める距離程度では気休め程度にしかならないでしょうが、落下予想地点であるこの場所にいるよりははるかにマシなはずですから」
「……」
「どうされましたマリア様? 事態は一刻を争います。もはや猶予はありません。どうかすぐに馬車にお乗り下さい」
「この私が……セレシア侯爵家令嬢マリア=セレシアが、たかが石ころ一つに右往左往して逃げ惑うなんて、なんて屈辱なの……!」
「マリア様、今はそんなことを言っている場合では――」
「そうよ、なぜ私が逃げないといけないのよ!」
「お気持ちは分かります。ですが今は1メートルでも距離を取ることが先決なのです。どうかお聞き入れ下さいませ」
深く首を垂れ、必死に私に逃げるように言葉を尽くしてくるセバスチャン。
だがしかし私は逃げたくなかった。
たかが石ころ一つで無様に逃げ惑うなんてことは、王国で最も権勢あるセレシア侯爵家の令嬢たる私には、到底受け入れられなかった――!
すると突然、私の中に猛烈な闘気が巻き起こってきた。
それとともに、かつて封印した古の記憶が鮮やかによみがえってきたのだ――!!
「いいえ逃げないわ。全て私に任せなさい。この聖天使マリアにね!」
私はアイリーンとセバスチャンに向かって高らかに宣言した――!
「なにをおっしゃっているんですか! いくらマリア様がパーフェクトな令嬢であられても、巨大隕石の落下を止めるのは無理ですよぉ!」
アイリーンが涙声で叫び、
「僭越ながらわたくしめもそのように考えます。どうか今すぐお逃げくださいませ」
セバスチャンはさらに深々と頭を下げてくる。
だけど私は譲らなかった。
「安心して2人とも。たかが石ころ一つ、聖天使パワーで粉砕してあげるから」
「馬鹿なことはやめてください! 隕石の落下は始まっているんですよ!?」
「聖天使マリアは伊達じゃないわ! 顕現せよ、エンジェル・ウイング!」
私が発したその言霊に呼応するように、淡い光が私の背中に集まりはじめ、そしてその直後。
真っ白な天使の翼が顕現した!
美しくも力強いエンジェル・ウイングを羽ばたかせながら、私は力強く地面を蹴る!
そして勢いそのままに、聖天使エンジェル・マリアとなった私は巨大な隕石に向かって猛烈なスピードで飛翔した!
私は鳥のように、風を切ってぐんぐんと高度を上げていく。
軽く地面に視線を向けると、アイリーンとセバスチャンがアリのように小さくなっていた。
2人とも目をまんまるに見開いた驚いた顔をしている。
「そう言えば2人とも聖天使エンジェル・マリアになった私を見るのは初めてだったわね」
そして再び視線を上に向けると、
「ふんっ。セレシア侯爵家のお屋敷めがけて落ちてくるなんて、石ころの分際のくせにいい度胸をしてるじゃない」
もうすぐ目の前に、迫りくる巨大隕石があった。
はっきりと目視できるごつごつとした岩肌は、まるで手入れのされていない貧民の年寄りの肌のようだ。
「でも残念だったわね、私は聖天使エンジェル・マリアなの。この私に楯突いた蛮勇という名の向こう見ずな度胸ごと、今からあんたを粉々に粉砕してあげるわ――!」
私はエンジェル・ウイングで飛翔を続けながら、かつてセレシア家専属の老子ライブラから授けられた「天地開闢の呼吸」を開始する。
「全力集中! スー、ハー……スー、ハー……」
「天地開闢の呼吸」によって私は世界と一体となり、世界化した私の身体の中には世界創生と同等のスーパーパワーが高まっていく――!
「灰は灰に、塵は塵に……世界は終わり、そして始まる!」
破壊の祝詞を唱えながら、私は右拳を強く握り込んだ。
その右手は既に溢れんばかりの黄金色が煌々と輝いている――!
「天地開闢の呼吸・滅ノ型――!! 《天地開闢セシ創世ノ黄金拳》!!!!!!!」
天地開闢と同等の究極パワーで私が殴りつけると、巨大隕石は塵も残さずに消えてなくなった。
「ここに私がいたことがあんたの敗因よ。アディオス!」
こうして巨大隕石の王都落下は、聖天使エンジェル・マリアの活躍によってギリギリのところで防がれたのだった。
めでたしめでたし。
………………
…………
……
…
「――なんかすっごく変な夢を見たわ。変っていうか不思議っていうか」
朝目覚めて早々。
私はぬるい紅茶を音もなくスッと差し出したアイリーンの顔を見上げながら呟いた。
「どのような夢をご覧になったのですか?」
寝起きの私を不快にさせないように少し声のトーンを下げつつも、いつものようににっこりと微笑むアイリーン。
「なんかね、巨大な…………あれ、なんだっけ? 今の今まで覚えてたのに忘れちゃったわ」
ほんとついさっきまで覚えていた夢が、今はもう頭の中で完全に霧散してしまっていた。
「そういうこと、よくありますよね」
「ま、別に大したことじゃないでしょ。うーん、今日もいい天気ね。いい一日になりそう」
窓の外は明るい太陽の日差しがさんさんと差し込んでいる。
何も憂いはなかった。
こうしてスーパーセレブな私の一日は、今日も変わらずに幕を開ける――
「うーん、いい朝! ちょっと寒いけど、こんな日は優雅に朝のお散歩でもしてみようかしら?」
私はいつもよりかなり早めに目を覚ますと、すぐに部屋を出て庭園を散歩することに決めた。
朝が早いのでまだ少し肌寒い。
私は豪奢なシルクの寝間着の上に、シロクマと呼ばれる北の極地に住まうらしい真っ白なクマの毛皮を羽織った(もちろん簡単には手に入らないのでメチャクチャ高い)。
ドアを出たところで、
「おはようございます、マリア様。本日は大変お早くお目覚めになられたのですね」
アイリーンが突然ニュっと視界に入って来た。
なにかしら朝の準備をしていたのだろう、アイリーンは物音ひとつ立てずに歩いてくる。
「アイリーン、あんた今どっから出てきたのよアンタ」
「歩いてきましたよ?」
「なにも気配を感じなかったんだけど」
「私ごときの足音でマリア様の安眠を妨げることがないように、朝の早い時間は気配を断っておりますので」
「ああそう……」
アイリーンが、もはや理解する気すら起こらないようなことを言った。
「専属メイドのたしなみとして、セバスチャン様に教えてもらったんです」
「セバスチャンに?」
「はい、セバスチャン様は戦闘のスペシャリストですので、気配を殺すテクニックにも長けているですよ」
妙に誇らしく言ってるけど、メイドにそんな特殊な技術は必要ないわよね?
「でもいきなりニュっと視界に出てくるのは心臓に悪いから、私が起きてるときは止めなさい」
「かしこまりました」
アイリーンが恭しく頭を下げた。
私が歩き出すと、アイリーンが少し後ろで随伴を始める。
「適当に庭を散歩するだけだから、イチイチついてこなくていいわよ。うっとうしいから」
「私はマリア様の専属メイドですので、常にお側におりますよ」
「ああそう。っていうか、あんたまだ仕事前でしょ? こんな早い朝の仕事は与えていなかったはずだけど? なのになんでもうバッチリメイド服を着て仕事してるのよ?」
専属メイドは1日中私に付きっきりになる代わりに、朝夕の雑用からは解放されているはずだ。
というか我がセレシア侯爵家は、その辺の平凡な貴族とはわけが違う、超お金持ちなキング・オブ・上級貴族なので、メイドも執事もそれぞれの専門分野に、有り余るほどたくさん配置されているのだ。
なので細々した雑用を専属メイドがする必要は全くない。
「マリア様の専属メイドたるもの、マリア様が早起きしそうなときは察して早起きするのが当然の務めですので」
「あらそう、殊勝な心掛けね。じゃあ邪魔しない程度についてきなさい」
「かしこまりました」
一体どうやって察するのかは聞かないことにした。
世の中、知らなくてもいいことは多々あるのだ。
ま、アイリーンの高い忠誠心には、私もそれなりの信頼を感じているからね。
クビにしようとしたら自害しようとしたり、馬車の中が汚れないようにと大雨が降っても馬車の外にいたりとと、ちょっと病的なところがあるのが怖いけど……。
庭園に出ると、庭を掃き清めていた庭師が少し訛った言葉で、けれど大変にかしこまった様子で挨拶をしてくる。
私は軽く視線だけ向けてその前を素通りしかけて――しかしその手元にあるものに目を奪われてしまった。
「ちょ、ちょっとあんた……ええっと」
「マリア様、彼は使用人では一番の古株の、庭師のアルベルトさんです。かつては王宮で庭師長をされていたそうですよ」
とっさに名前が出てこなかった私に、アイリーンが小声で進言する。
ま、一介の使用人の名前なんぞ、私が覚える必要はないからね。
専属メイドはこういう時のためにいるわけで。
ともあれ、私は込み上げてくる興奮に急かされるようにしてアルベルトに尋ねた。
「アルベルト、その手に持った花はなにかしら?」
「へぇ、マリア様。これは知り合いの花の研究家から、研究中の青いバラの株を譲り受けたものでして」
「研究中の青いバラですって?」
「へぇ、左様にございます」
「バラなのに青いの?」
「へぇ」
ビビビッ!
私の中の令嬢マウントセンサーが、ものすごい勢いで反応していた。
青いバラですって?
こんなものがあるだなんて!
これがあれば、パーリーで私は話題の的じゃない!!
「アルベルト。その話をもっと詳しく聞かせてちょうだい」
私はいますぐ飛び上がりそうになるほどの興奮を必死に抑えながら、アルベルトに問いかけた。
「へぇ、かしこまりました。この青いバラは交配やらなんやらをしてやっとこさ数株できたそうなんですが、まだまだ安定しないそうでして」
「具体的には?」
「交配するとすぐに元の色に戻ったり、そもそも花を付けなかったりするそうです」
「なるほどね。まだまだ研究途中なのね? でもそんな研究がされているなんて、今の今まで知らなかったんだけど」
アイリーンに「あんたはどうなの?」って視線を向けると、
「花といえば王立文化庁の管轄ですよね? でも私もそんな話は聞いたことはありません。アルベルトさん、そこのところも説明していただけますか?」
アイリーンは色々察して追加の質問までしてくれた。
さすが私の専属メイド、出来がいいわ。
さすが私。
「へぇ、これはあっしの古い友人が、個人で細々と研究しておりまして。この株も、彼が食費も削って研究費に費やす貧乏姿を見るに見かねて、前にいくらか金子を融通してやったんですが。そのお礼ということでもらったものでして」
「その貧乏研究家ってのを、今すぐ私に紹介しなさい! 今すぐよ! 今日の仕事はそれ以外しなくていいわ!」
「へ、へぇ。それはもちろん構いやせんが……」
「アイリーン、馬車を用意しなさい! ASAP(考えられうる最速で)!」
「かしこまりました!」
私はアルベルトの案内で、馬車を飛ばして貧乏研究家の住む小さな農園に会いに向かった。
そして顔を合わせるや否や言った。
「あんたの貧乏暮しは今日この時点で終わりよ。すぐに支度をして、今日からはセレシア侯爵家の専属庭師として、青いバラの開発に励みなさい。研究費はいくらいるの? 他に必要なものは? あなたが必要とするものは、私が全て用立ててあげるわ。全てね」
貧乏人らしく、たかだか500万ほどのはした金を、実に申し訳なさそうに用意してもらえないでしょうかと言われたので、私はその10倍の5000万の研究資金を用立ててやることにした。
さらに広大なセレシア侯爵家の庭園に、バラ開発専用の温室付きの研究ラボを用意してあげることも約束する。
「マリア様をお疑いするわけではありませんが、どうしてこれほどの莫大な援助をしていただけるのでしょうか?」
貧乏研究家が恐縮しきりといった様子で、恐るおそる尋ねてくる。
私はいつも通り端的に答えた。
「青いバラ(が持つ令嬢マウント力)に魅入られたから。ただそれだけよ」
「なんと!! 実は私も青いバラ(というロマン)に魅入られたのです! ありがとうございます、マリア様。私はこれより全ての時間を費やして、なんとしてでも青いバラを完成させてみせましょう!」
貧乏研究家は涙を流しながらこうべを垂れた。
「ただし条件が一つあるわ。青いバラが完成したら、その株の使用権は私だけに使わせなさい」
「私は青いバラを完成させることだけが、唯一の目的です。完成さえすれば、後はマリア様のお好きなようにしていただいて、何の問題もございません。それにマリア様なら、きっと素晴らしい使い方をしてくれることでしょうから」
や、やったー!
やったわ!!
これで青いバラは私だけのものよ!
さぁさぁ、さっさと青いバラを完成させて私に献上しなさいな!
こうして莫大な研究資金と豪華な開発ラボを手にした貧乏研究家は、研究を一気に加速させた。
その過程で様々な新種のバラを次々と開発しながら、見事に青いバラの開発を成し遂げてみせたのだ。
「よくやったわ!」
「それもこれもマリア様に、多大なるご支援をしていただいたおかげです。感謝の気持ちを込めて、この青いバラには『ブルー・マリア』の名を贈らせてはもらえませんか?」
「実にいい心掛けね!」
私は満足顔でうなずいた。
こうして新種の青いバラ『ブルー・マリア』を手に入れた私は、すぐにそれを身につけてパーリーに出席した。
もちろん私は青いバラ『ブルー・マリア』を、ドレスの胸元にこれみよがしにつけてアピールする。
「ま、マリア様!? この青いバラはいったいなんですの!?」
「このような不思議なバラが、この世の中に存在するだなんて……!」
「もっと近くで見せていただけませんか!?」
「わたくしにも!」
「マリア様!」
「マリア様!」
すると始まってすぐに、パーリーに参加する令嬢という令嬢が、私のもとへと集ってきた。
仲のいいお友達だけではなく、普段は激しくライバル視しあっている令嬢たちまでもが、青いバラを見たさに私のもとへと、愛想笑いをしながらへーこらと挨拶にやって来るのだ。
「ええどうぞ。いくらでも見ていってくださいな」
もちろん私は、それに満面の笑みを返した。
「青いバラなんて初めてですわ。こんな素敵なものを、いったいどこで手に入れられましたの?」
ライバル令嬢の一人がさりげなく出所を探ろうとしてくる。
ぷー、クスクス!
必死だね(笑)
でも全部お見通しだから。
プゲラw
「私は最近バラを愛でることにハマっておりますの。ちょうどセレシア家専属の庭師に品種改良に長けた者がおりましたので、いろいろと私好みのバラを作ってもらっているんですのよ。この青いバラももその一つでして」
「そ、そうでしたのね。さすがはセレシア侯爵家ですわね……」
くくく……!
アーハハハハッ!
なんとも悔しそうに言うじゃないの!
そうよ、その顔が見たかったのよ!
どれだけ羨ましがっても、青いバラはあんたには手に入れられないもんねー!
私だけしか持ってないもんねー!
挿し木をする時の台木に適したバラの種類とか、温度管理やら肥料のやり方やらアレヤコレヤの栽培のコツとか。
そういう秘伝のレシピは、絶対に口外しないように厳命しているんだもんね~!!
んー?
欲しい?
欲しいよね~?
でも、あーげない!
ざまぁ!
残念!!
くふふぅ、超気持ちいいわ。
今日の私は完全に、完膚なきまでに、令嬢カーストの頂上にいる――!
だがしかし。
私の青いバラ・マウントは長くは続かなかった――というか即座に終了した。
後日。
「マリア様。『ブルーマリア』及び、新種のバラの輸出体制が整ったそうですな。今後は我が国の新しい産業として、おおいに外貨を稼いでくれることでしょう」
セバスチャンが私の部屋のテーブルに置かれた分厚い資料にチラリと目をやりながら、感慨深げにつぶやいた。
「らしいわね……」
たいして私はどこまでもローテンションだった。
鏡を見たら目が死んでいると思う。
もう見なくても分かる。
「それもこれも、マリア様が『ブルー・マリア』開発に莫大な資金を投入したことがきっかけ。御館様(お父さまのことね)もまたいっそう、お忙しくなることでしょうな。なにせ国を挙げての大事業の、陣頭指揮を任されているのですから」
そう。
私が手に入れた青いバラ『ブルー・マリア』。
私は当然のごとくこの株を独占することで、令嬢カーストのトップに立ち続けようとしたのだが――。
しかしパーリーの翌日に、興奮気味のお父さまからこう言われてしまったのだ。
~以下、回想~
「マリア、最近園芸に興味があるというのは本当かい? 新しい庭師を雇い入れて、新種のバラをいくつも開発したと聞いたのだが」
「はい、お父さま。バラの開発に非常に長けた庭師を雇いまして、様々なバラを作ってもらっておりますわ」
「じゃあ新種の中に、青いバラができたというのは本当かい?」
「はい。まだ数は多くはありませんが、開発自体はほぼ完了しておりますわ。これから数を増やしていく予定で――」
「……でかしたぞマリア!」
お父さまが子供のように目を輝かせながら、それはもう嬉しそうな顔で私の手を握った。
「え、あ、はい?」
「ほんとうにでかした!」
「は、はぁ」
こんなにもはしゃいだお父さまの姿を見るのは生まれて初めてだったので、困惑する私。
お父さまはいついかなる時もクールで紳士な、世界で一番素敵な大人の男性なのだ。
そのお父さまが、こんなにもはしゃいだ様子を見せるだなんて、珍しいこともあるものね。
「青いバラはね、私がまだ若い頃に研究に没頭した、人生の夢だったんだよ」
「あら、そうだったのですね」
「話すと長くなるのだが――」
お父さまがいつになく情熱的に語られたことを要約すると、つまりこういうことだった。
お父さまは今でも盆栽を愛でるほどに植物が好きで、もちろん花の女王とまで呼ばれるバラも大好きだったらしい。
そしておとぎ話に出てくる不思議な青いバラに憧れて、なんとか青いバラを作れないものかと、侯爵家の跡取りとしての忙しい日常の傍ら、研究にいそしんでいたそうな。
しかし若くしてセレシア侯爵家の家督を継いだことで、研究をする暇はなくなってしまい、叶わぬ夢として心の中に封印したのだという。
「青いバラの花言葉は『不可能』。誰も作ることができないという意味が込められた花言葉だ。当時の私は、不可能を可能にするべく情熱を捧げていたのだが、残念ながら私には成し得ることができなかった。不可能を可能にはできなかったのだ。私の人生で最大の挫折。それが青いバラだった」
「お父さまでも、できないことはあるのですね」
自慢じゃないが、お父さまは何でもこなすスーパーマンだ。
政治や経済・外交から、庶民や異国の文化までに精通した、まさに貴族の中の貴族。
国を背負って立つにふさわしい大貴族だった。
そんなお父さまが、まさか若い頃に青いバラを研究していて、そして挫折していたなんて。
「私の夢をかなえてくれたのが、他の誰でもないマリアだったことに、私は人生最大の幸福を感じているよ。叶わぬ夢を、私に代わって叶えてくれて本当にありがとう」
「こうまで喜んでいただけて、私も嬉しいですわ」
「それでなのだがね。マリア、私からたってのお願いがあるのだが」
「はい、なんでしょう?」
ちょ、ちょっと待って!?
この流れで『お願い』だなんて、なんだか嫌な予感がしてきたわよ……?
「この青いバラを、父に託してくれないか?」
「えっと、あの、それはどういう意味でしょうか……?」
「この青いバラを世に広めたいのだ。この世に不可能などないのだと、世界に知らしめたいのだ。諦めなければ夢が叶うということを、他でもない、マリアが作ってくれたこの青いバラで、私は世界に伝えたいのだ」
「あの、えっと……」
「どうだろうかマリア? お前の作った青いバラを、どうか父に託しては貰えないだろうか?」
まるで愛の告白をするかのように、目をキラキラさせながら私を見つめるお父さま。
「よ、喜んでお父さまにお託しいたしますわ……」
大好きなお父さまにそんなことを言われてしまったら、嫌だなんて言えるわけないでしょ!!
その後、部屋に戻った私が、心の底から号泣したのは言うまでもなかった。
~~回想終了~~
こうして青いバラ『ブルー・マリア』は、お父さまが直々に、かつ超本気で陣頭指揮をとったことで、それはもう驚くべき速さで量産体制が確立した。
そして晴れて我が国の特級の特産品として、他の新種のバラとともに各国に輸出されることになったのだ。
こうして青いバラによる私の覇権は、超速攻で終わってしまった。
「どうしてこうなった……? まぁお父さまの若い頃の夢を叶えられたから、それだけは良かったんだけど……」
私は自室に飾られた『ブルー・マリア』を力なく見つめながら、がっくりと肩を落とした。
気持ちがブルーに滅入ってくる。
「はぁ、今日の私はまさにブルー・マリアだわ……」