夏の海辺、奇跡の桜

 後に双子の母親から電話がかかり、文也は約束を取り付けることに成功した。場所は、文也の住む橘町と、双子の住む杉ヶ裏町の中間地点にあるファミリーレストランで、午後の一時。「楽しみだね」と桜も乗り気になっている。
 八月十日の水曜日、少し早めに到着し、店に入った。うだるような外の暑さが嘘のように、空調が冷たい風をがんがんと吐き出し、汗が一気に冷えていく。平日の店内は空いていて、ぱっと中を見渡すが、それらしき少女たちの姿はなかった。
 ボックス席を選びアイスティーを飲みつつ、桜と他愛のない話をしていると、いつの間にか時刻は一時十分。ただの遅刻だろうか、それともなにか事故でもあったのか。少し不安に思い始めた頃、二人の少女が息せき切って店に入ってきた。彼女たちで間違いない。
 文也が手を振ると、二人は駆け寄ってきた。
「ごめん! 電車の時刻表、見間違えて」
 ポニーテールの女の子が両手を合わせる。
「いいよ、そんなに待ってないから」文也も立ち上がった。「こっちこそ、夏休みなのに時間取らせてごめん」
「わー、文也、背え伸びてる!」
 ショートヘアの女の子が文也を見上げて嬉しそうに言った。「なんか雰囲気変わったなー」そうだろうかと不思議に思う。
 取り合えず、ボックス席の向かいに二人を座らせた。
 文也から見て左側にポニーテールの女の子、妹の葉澄。右側にショートヘアの女の子、姉の夏澄が並ぶ。一卵性双生児らしく、二人の顔形はそっくりで、くっきりとした二重瞼にくりくりの大きな瞳。笑うと右側にだけえくぼが出る。もし髪型を揃えれば、見分けはつかないだろう。平均的な身長も、ぱっと見に変わらない。
 取り合えず何か頼むように言うと、姉の夏澄がメニュー表を開いた。
「なんにしよー。葉澄どうするん?」
「ええと。どうしようかな。あっ、ミックスジュースがいい」
「えー。あたしもそれにしようと思ったのに」
 結局じゃんけんをし、三回続けてあいこを出した末、勝った葉澄がミックスジュース、負けた夏澄がオレンジジュースを頼んだ。同じものを頼めばいいのに、と思うが、そこは双子特有の問題があるのかもしれない。一人っ子の文也は黙っておく。
「すっごい懐かしいねー。何年ぶり? 六年だっけ」
「文也、もう高校生なんよね。大人やんか」
「どう、高校ってやっぱ楽しい?」
「そういえば、転校してからどうしてたん。今どこに住んでんの」
 双子は少女らしくぺらぺらと喋り続ける。それは、文也のおぼろな記憶にある双子の姿と全く同じものだった。元気で明るくよく喋る。しかし一つだけ気がかりなことがある。
「夏澄って、そんな話し方だったっけ」
 なんだか変な訛り言葉を使うのを指摘すると、「ほらね」とばかりに妹の葉澄が鼻を鳴らした。
「やっぱ変なんだよ。夏澄、ちゃんと喋りなってば」
「別に変じゃないし。あたしの個性、否定せんとってや」
「この子ね、なんかドラマとか映画とかいろいろ見て、変な喋り方が移っちゃったの。やめてって言ってるのに」
「だから変とか言わんとってくれる?」
 たちまち言い争いを始めるのに、「ちょっと気になっただけだから」と文也が口を挟み、タイミング良く店員がそれぞれのジュースを持ってきた。それを飲んでいる間だけ、双子は大人しくなる。
 自分が今は橘町に住んでいること、地元の高校に通っていることを手短に話し、「昔一緒に遊んでた時のこと、二人は覚えてるか」とさっさと本題を切り出した。
「覚えてる、と思うよ」
「毎日遊び惚けてたわ」
 彼女たちにとって、それはまさに楽しい記憶であるらしい。思い返して、嬉しそうな顔をする。
「そういえば、文也、桜ちゃんが大好きやったよね。桜ちゃんが引っ越した時、めっちゃ落ち込んでたん覚えてる」
「そうそう。私らもニコイチだけど、文也たちもいっつも一緒だったよね」
「せっかくやし、桜ちゃんも呼べたらよかったのに」
「どこに引っ越しちゃったんだろね」
 桜は、杉ヶ裏の誰にも行き先を告げずに引っ越した。それは文也も例外ではなく、桜に二度と会えない悲しみに、何日も泣いて過ごしたのを覚えている。
 だから双子は、桜のことを今も何も知らない。
「桜さ、死んだんだよ」
 夏澄と葉澄は同じ表情で驚愕し、ぴたりと動きを止めた。
「俺、中学で再会して、同じ高校に入ったんだ。けど、先月に病気で亡くなった」
「……嘘やん」夏澄が目をぱちくりさせた。
「嘘じゃない。俺はこんな嘘、吐かないよ」
 二人は最初信じられない顔をしていたが、それを伝えたのが文也だったからだろう。悪い冗談ではないと理解したらしい。
 葉澄が目元を拭い、夏澄が鼻をすするのに、文也はしまったと思う。
「ごめん、ショックだよな」彼女たちはまだ十四歳の女の子だ。自分たちが仲良くしていた友人の死を知って、大人な対応を取れる年齢ではない。
「でも、桜は近くにいるんだ」
「……どういう意味」目を潤ませる葉澄が不思議そうな表情をする。
 文也は自分のスマートフォンを取り出し、リンクを立ち上げ、自分と桜のやり取りを見せる。今どきの中学生である二人は、その日付が最近のものだと知り、あり得ないことだとすぐに理解した。
「なんこれ、どういうこと」夏澄が目を擦って画面を見つめる。
「桜は死んだけど、まだ近くにいる。それで、俺とやり取りしてるんだ。向こうにいけていないんだ」
 少しずつ、これまでのことを文也は噛み砕いて説明する。きっと桜には心残りがあること、それを探してムギを見つけたこと、タイムカプセルのこと。双子は神妙な面持ちで聞き入っている。
「それやったら、今も桜ちゃんは近くにおるの」
「俺の隣にいるはず。話しかけてくれたら、わかると思う」
 双子は驚いて文也の横、窓側の席を凝視する。文也から見れば、颯介と薫子に相談した時と同じ光景だ。ただあの時とは、随分状況は変わった。もう少しだ、もう少しで先に進める。
「えーっと、桜ちゃん、ほんとにいるの?」
 おずおずと葉澄が様子を覗う。テーブルの上で、スマートフォンが短く振動した。
 saku:いるよ。二人とも、久しぶり。
 桜からの返事に、夏澄と葉澄は画面と空席を幾度も交互に見つめた。「どういうこと?」夏澄が困惑する。「桜からの返事だよ」と文也は言うが、目をぱちくりさせている。
 その後も二人は順番に桜に声をかけ、すぐに表示される返事に唖然とした。通っていた小学校の名前も、杉ヶ裏で遊んだ川の名前も、桜は正確に答える。
「文也が、なんか、こういう機能作ったんかと思ったけど、そんなわけないしなあ」
 saku:ふーはそんなに器用じゃないよ。
 メッセージを見て、二人は思わず笑う。
「文也が、桜ちゃんのことで騙したりするわけないしね」
「それこそ信じられへんもん」
 文也のことを信じると、やがて双子は口をそろえて言った。
「確かに遊んだなあ、あの小屋があるとこやろ」
「かくれんぼ楽しかったのにね。壊されたの知らなかった」
 四人で遊んだことを双子は懐かしそうに思い返す。
「でも、イチョウの木かあ……。覚えてはいるけど、場所はどうだろ」
 葉澄の言葉に夏澄も難しい顔をする。
「秋にイチョウの葉っぱ集めて、布団みたいにしたん覚えとる。どこやったかなあ」
「やっぱりどの木かっていうのは、わからないよな」
 文也も懸命に当時のことを思いだす。すると、「あっ」と葉澄が顔を明るくした。
「私たちさ、いっつも喧嘩してたじゃん。どっちが背高いかとか。それで、ハサミで木に印付けたよね」
 夏澄もぱちんと手を叩く。
「そやった! 家の柱につけたらめっちゃ怒られるから、ハサミ持ってってやったなあ」
「木に傷つけてたのか」
 双子は頷いた。重三の「悪ガキたち」という言葉を思い出す。自分たちはやはり悪ガキだったみたいだ。
「だから、傷のある木を探せばいいと思う」
 葉澄は目を輝かせた。しかし夏澄はオレンジジュースを一口飲み、「でも」と眉をひそめた。
「木って、やっぱ成長するやん。もう見えんぐらい高いとこなんやないかな」
「言ってたな。二年で一メートル伸びるって」
「そんなに?」葉澄が素っ頓狂な声を上げた。「じゃあ、もう見えなくなってるじゃん」
「あの頃のまま、傷が残っとるとも限らんしね」
 双子はため息をつき、文也も腕を組んで考える。いい線だと思ったのだが、やはりそこには無理がある。三人は黙り込んでしまう。
「……でも、見つけんと、桜ちゃん可哀想やもんなあ」
 夏澄がぽつりと言い、葉澄も頷いた。
「それにしても二人だけでタイムカプセルなんて、青春じゃん、文也」青春真っ只中の葉澄は羨ましそうな顔をする。
「それって、どっちから言いだしたん?」
「確か、桜からだったはず」
「桜ちゃん、引っ越すのわかってて、文也と約束したかったんだろうね」
 桜と母の律子は、引っ越すというより、家から逃げた。夫は気に入らないことがあれば物にあたり、妻にあたり、遂に病弱な娘にまで暴力をふるった。可愛い桜の頬の痣を見て、文也は幼いながらに猛烈な怒りを感じたものだ。家に帰りたくないと泣きじゃくる桜を慰める時は、心が痛んで一緒に泣いた。
 そしてタイムカプセルを埋めた翌日、桜は母親と共にいなくなった。
 夫は怒り狂い、妻子の居所を吐けと杉ヶ裏中の住人に問い詰めたが、そもそも誰も行き先を知らなかった。律子は近隣への迷惑よりも、娘の無事を優先した。それは当然だと誰もが思ったから、母娘を責める者は現れなかった。
 すぐに夫も姿を消し、あの家は無人となった。
「可哀想やったけど……どうしてもまた会いたかったんやなあ」
 タイムカプセルがあれば、必ずまた会える。桜の思いの丈を知り、改めて文也も苦しくなる。桜は今、何も言わない。恥ずかしがっているのだろうか。
「きっと桜の心残りはこれだから、どうしても見つけたいんだ」
「そうだね」
「でも、どうしたらええんやろ。片っ端から掘り起こすしかないんかなあ」
 三人のグラスの氷はすっかり溶けた。水っぽいドリンクをそれぞれ少しずつ飲みながら、当時のことをぽつりぽつりと語り合う。少し湿っぽくなった空気も、当時を思い出せば笑い声も出てくる。当時からいたずら好きで明るい双子は、けらけらと笑う。
「まさか、文也から連絡が来るなんて、思わんかったわ」
「そうじゃないと、忘れてく一方だったかもね」
 彼女たちによれば、当時一緒に遊んだ子どもたちは、ほとんどが既に杉ヶ裏を出て行ったそうだ。もう連絡先もわからないという。
「スマホなんかなくても、遊べてたからな」
 機械が無くても無限に時間を潰せていた。すごいことだなと改めて思う。
「でももったいないよね。連絡先どころか写真も残せないんだもん。スマホがあればパシャってすぐに撮って見返せるのに」両手の指で四角形を作り、葉澄は写真を撮る真似事をする。
「あっ!」
 唐突に夏澄が声を上げた。その顔はぱっと輝いている。
「そうや、写真や!」
「夏澄、うるさいよ」
「うちら、おもちゃのカメラ持っとったやん。トイカメラってやつ!」
 はてな、という顔をしていた葉澄も思い出したのか、「ピンクの?」と声を弾ませた。
「そうそう、そんで一台しか買ってもらえんかったから、いっつも取り合いしてたやん」
「してたしてた! すぐ飽きちゃったけど」
 盛り上がる双子に「カメラ?」と文也は呟いた。
「文也、覚えてない? うちら、首から下げてたやん」
「言われれば、そんな気もするけど……」記憶の中でカメラを下げる少女が、どっちだったのかも思い出せない。「あれって、おもちゃだろ」
「ただのおもちゃじゃないねん。ちゃんとSDにデータ残せるやつ」
「そんないいものだったのか」
「だから一台しか買ってもらえなかったの。高いし、いつ壊すかわからないって言われて」
 なるほど、写真か。それなら手がかりになるかもしれない。
「それ、今も家にあるのか」
「捨てた覚えないから、探せば出てくると思う。なんの写真撮ってたか全然覚えてないけど」
「うわー、懐かし! ほんま、すぐ飽きたから思い出せんかったけど」
「飽きっぽいから一台だけだったんだね」
 彼女たちがはしゃぐ様子に、それが最後の望みのように文也にも思えた。もし、桜との約束の場所が写っていれば、それを手がかりに探すことができる。
「悪いけど、探してもらってもいいか」
「うん、データ残ってるって約束は出来ないけど」
「それは仕方ないよ。ただ見つかったらすごく助かる」
「ほんなら、さっさと帰って探そや、葉澄!」夏澄は水っぽいジュースを全て飲み干した。「見つかったら送るから、文也、連絡先教えてや」
 連絡先を交換すると、善は急げとばかりに二人は帰り支度を始める。
 店から出て、夏の日差しに負けず生き生きとした彼女たちを、文也は駅まで見送った。
「それじゃあ、ありがとな。気を付けて帰れよ」
「文也も桜ちゃんも、気を付けてねー」
「ほんなら、ばいばーい」
 改札を抜けると、双子は元気よく手を振った。階段を上る後ろ姿が見えなくなると、文也も反対方面のホームに向かう。
「めちゃくちゃ元気だな、あの子ら」
 saku:嵐みたいだったね。
 saku:でも、変わってなくてよかった。
 まさか苗字も忘れていた泉姉妹との縁が復活するだなんて、これまで微塵も思わなかった。それでもみんなが、桜の思い残しのために協力してくれている。あと少し、もう少しだ。文也も階段を上った。
 翌日には、さっそく夏澄から連絡があった。
 夏澄:それっぽい写真、何枚かみつけたから送るわー。思い当たるのがあったらええけど。
 待っていると、リンクを通して三枚の画像が送信されてくる。
 一枚目の正面には、赤く大きな花を咲かせる木。おそらくこの花を撮ろうとしたのだろう。その向こうには、葉を黄金色に染めたイチョウの木々がある。
 二枚目は、一本の木の幹を随分間近で撮っている。太い木の幹には真横に一本の線が走っていて、これが恐らく彼女たちがつけた傷だろうと窺われる。だがあまりに近すぎて周囲の様子が分からない。
 そして三枚目。思わず文也は息を呑んだ。
 わざわざ集めたのだろう、大量のイチョウの葉の上で、三人の子どもたちが川の字になって眠っている。右側に文也、真ん中に桜。左端は、当時は髪型が同じだったせいでわからないが、双子のどちらかが目を閉じている。三人は一本の木の根元に頭を向けていた。そして黄色い絨毯は写真の一面に敷き詰められているが、左奥には、一枚目で見たのと同じ、赤い花を咲かせた木がある。
「この枕にしてるの、探してるイチョウの木かな」
 saku:きっとそうだよ。よく見て、幹に傷がある。
 目を凝らすと、桜の言う通り、頭を向けている木の幹には一本の傷がある。ズームしてみて、それが二枚目の写真と近しい傷であることがわかった。
「これだ」確信する声が震える。「この木の下に、桜の思い残しがある」
 急いで電話をかけた。すぐに夏澄が出る。
「わかった、この三枚目の場所で間違いない」
「ほんま? よかったー」
「ありがとう、助かったよ」
 会話をしていると、向こうの方で、夏澄によく似た声が「私にも喋らせてよ」と抗議しているのが聞こえた。「もー、うるさいな」文句を言いつつ夏澄が葉澄と交代する。
「葉澄も、ありがとう。見つけてくれて」
「押し入れひっくり返した甲斐があったよ。それで、探しに行くの」
「うん。一応、他のみんなにも伝えてから探しに行く」
「それなら、私も行きたい! ねえ、夏澄」
「行く行く! 文也と桜ちゃんのタイムカプセル見たい!」
「手伝うから、行ってもいい?」
「そりゃあ、手伝ってくれたら助かるけど……」
 彼女たちは随分と手助けをしてくれた。この上更に手伝わせるのは気が引ける。「本当に、いいのか。せっかくの休み潰して」
「こんな面白いことあらへんもん! 行かしてや」
「杉ヶ裏まで来るんでしょー。すぐそこなんだし、手伝わせてよ」
 それならばと、了承した。双子が歓声を上げてハイタッチする音が聞こえる。どこまでも明るい二人だ。
「あたしらいつでも空いとるから。決まったらゆうてね」
 返事をして二言三言会話をし、電話を切る。急いで颯介と虎太郎にも連絡をする。二人とも朗報を喜び、それぞれ薫子と重三に知らせてくれるとのことだった。
 そしてみんな、掘り返すときは誘ってくれと口をそろえたのに文也は驚いた。ここまで自分たちの思い出を気にする相手がいるとは思わなかった。こうなれば最後まで見届けたい、全員がそう思っている雰囲気で、文也にも断る理由などどこにもない。日程を調整し、三日後の日曜日に約束を取り付けた。
 saku:ありがたいね。ふーだけだったらどうにもならなかったよね。
「そうだな。どうしようもなかった」
 各々に連絡を終えて一息ついた文也は、桜の言葉に素直に頷いた。これでやっと、桜は向こうにいける。それが願うべき、彼女の幸福。
 土曜の夜、早めに床に就いたが、少々興奮気味なのか寝つけられない。寝返りを打ち、横を向いて、手探りでスマートフォンを探し、その先のお守りを指ですくう。すっかり手に馴染んだ感触。
 桜は忘れたといった思い出。幼い頃のプロポーズ。あれも、タイムカプセルを埋めた木の下だった。大人になったら、けっこんしよう。そう言うと、桜は嬉しそうに笑って大きく頷いた。

 わたし、ふーちゃんとけっこんする。

 その左手の薬指に、指輪をはめた。おもちゃだったが、自分にとっては立派な約束の指輪だった。桜の細く小さな指にはまだ少しだけ大きく、二人で顔を見合わせて笑い合った。
 それを桜が外してしまったのは、悲しかった。しかし学校で怒られるなら仕方がないと納得した。
「ふーちゃん、ごめんね」
 そう言って涙を流して謝る桜。彼女が庭先でずぶ濡れになっていたのは、そのほんの数日前のこと。
 引っかかりを覚える文也の耳に、電子音が届く。
 saku:ふー、寝られないの?
「桜は寝ないのか」
 saku:意地悪言わないでよ。私は寝られないもん。
「ごめんって。拗ねるなよ」
 彼女の体温を感じる。存在しないはずの温もりが、背中に触れている。小さな桜の背がくっついているのを感じる。彼女は今、すぐ隣にいる。
 だから、振り向けない。見えない事実を、見たくない。
「楽しかったよ。本当に」
 saku:うん。とっても楽しかった。
「俺のところに来てくれて、ありがとうな」
 画面越しでしか話せない桜。死んでしまった桜。この世にいるはずのない桜。
 saku:私のこと、忘れないでね。
「忘れるわけないだろ。変なこと言うなよ」
 楽しそうな笑い声が、聞こえる、気がする。振り向きたい、振り向けない。
 saku:ふーと出会えてよかった。
 saku:私は、そばにいるから。
「桜……!」
 思わず振り向いた先には、誰もいない。なのに、背中の温もりだけがほんのりと残っている。
 その温みが消えないうちに眠ってしまおう。文也は瞼を閉じた。
 颯介と薫子と待ち合わせ、昼前には杉ヶ裏の駅に着いた。そこでは夏澄と葉澄の双子が待っていた。
 五人揃ったところで宗像家に向かう。お盆を迎えた田舎道、家々の玄関先ではナスやキュウリの精霊馬が風情を謳っている。入道雲の湧く空は底抜けに青く、蝉の鳴き声に交じり時折どこかで風鈴の鳴る音が聞こえる。
「おー、なかなか大所帯になったなあ」
 出迎えてくれた虎太郎に続き、宗像家に上がった。縁側に前足をかけ、何ごとかと興奮するムギの姿が庭先にある。
「これ、二人が写真を撮ってたのを、送ってくれて……」
 画面では見づらいので、拡大してプリントアウトした写真を文也は取り出し、座卓に置いた。双子は自分たちの功績に胸を張っている。
「これは、フミと桜ちゃんと……」
「私だよ。葉澄」一緒に写っているのは葉澄で、撮影したのが夏澄のようだ。
「みんな小さいね。すごく可愛い」薫子が写真を見て声を弾ませ、颯介も頷いた。
「フミってこんな感じの子どもだったんだ」
「文也って無邪気だったんだな」
「俺のことはいいんだよ」感心する三人の言葉を遮り、写真に写るイチョウの木を指さす。「ここに傷があるだろ」もう一枚を取り出した。傷のついた幹の写真。「これ、夏澄たちがつけた傷なんだけど、形が同じだから、ここで間違いないと思う」
「木に傷をつけおって」
 重三に睨まれ、双子はそろってぺろりと舌を出した。
 文也は自分たちの写る写真を手に取る。「だから、この風景を辿れば見つけられると思う」
「なにか目印になるものはないかな」颯介が文也の隣で身を乗り出した。
「周りも、ほとんどイチョウの木みたいだね」薫子も写真を覗き込む。「夏澄ちゃん、撮った時のことは覚えてないの」
「流石に覚えてへんなー。いっぱい撮ってたもん」
「ねえ、この花は?」葉澄が写真の隅を指さした。イチョウとは異なる木に、綺麗な赤い花が咲いている。
「サザンカだな」重三が言った。「秋の花だ」
「じゃあ、サザンカがこの角度に見えるイチョウの木を見つけたらいいんだな」虎太郎が嬉しそうな顔をする。「取り合えず、探しに行こうよ」
 虎太郎と重三を含め、さっそく七人で山に向かうことにした。子どもでも上れる小さな山には木漏れ日が差し込み、傾斜も緩やかで穏やかだ。
「空き家があったのは、このあたりだ」
 少し開けた場所で重三が言った。草が生い茂る中を歩きながら、向こうを指さす。「すぐそこが傾斜になってるからな、気をつけろ」
 言葉の通り、小屋から少し西に歩くと、急な下りの斜面が姿を現した。下方の隣町を右に見ながら、緩やかな坂を南に上ると、すぐにイチョウの木が並び始めた。
「これのどれかやなー」
「文也、紙見せて」
 双子が寄ってくるのに、文也は写真を広げる。一本を正面に見て、左手奥にサザンカの木。
「サザンカを探した方が早いかもね」
「この写真、秋みたいだけど。今はサザンカの花って咲いてるの?」
「まだ咲いてないと思うよー。秋の花だから。でも葉っぱを見たらわかると思う、ツバキみたいなやつ」
 颯介と薫子に、容易く虎太郎は回答する。「鞍馬、良く知ってるな」文也が感心すると、彼は満足げな顔をした。「よく爺ちゃんのとこに遊びに行って、聞いてるから」
「気いつけろよ、葉の裏に毛虫がいるかもしれん」
 重三の言葉に、双子は「げー」と嫌な顔をした。「あたし、毛虫嫌いや」「手袋持ってきたらよかった」そう口をそろえる。
 皆で手分けをしてサザンカの木を探す。もともとイチョウの木が多いせいか、「あった!」とすぐに葉澄が声を上げた。
 三メートルを越える木には、パリッとした濃緑色の葉が茂っている。「これだな」と木を見上げて重三も頷いた。
「じゃあ、これを左手に見て……」颯介が文也の持つ写真を覗き込む。後ずさりし、少し斜面を上りながら、文也は一本ずつ写真と照らし合わせていく。腕を伸ばして写真を見て、視線をずらして実際の風景を見て。
 やがてそれらは限りなく一致した。
「これだ……!」幹に手を当て、文也は声を漏らした。
 立派な一本のイチョウの木。当然、双子がつけた傷は見当たらないが、間違いないだろう。当時から大きな木だったが、それは身長が小さかったからだと思っていた。しかしその存在感は今も変わらず、どっしりと八年ぶりの再会を迎えていた。
 今度こそ絶対に見失わないよう、色のついたロープを幹に巻いておく。それから一度山を下りることにした。これからが本番だ。重三の案内で、駅の近くにある定食屋で昼食を摂る。
「なあ、文也。タイムカプセルに何入れたか覚えてんの?」
 隣でうどんをすすりながら虎太郎が話しかける。親子丼を食べる手を止め、文也は眉を寄せて考える。
「確か、手紙だったかな。将来の自分に」
「へー、なんかかっこいいな。なんて書いた?」
「さあ。よく覚えてないけど……」
「でも、もうすぐわかるよ」薫子が言い、文也も頷く。
「そうだなー。楽しみだな」人の良い虎太郎は今日も楽しそうに笑った。

 昼食を終えて少し休憩した後、再び山に向かった。目印をつけていた木を見つけ、文也は持ってきていた鞄からシャベルを取り出す。夏澄と葉澄、虎太郎は家から持ってきていたから、颯介と薫子の分を合わせて三つ。
「なかなか硬いな」颯介が靴先で地面をつつく。乾いた地面は易々とは掘れなさそうだ。「それで、どこから進めたらいいんだ」
「思い出したんだ」
 あの日の記憶が鮮明に浮かぶ。
 桜とは、これからも毎日一緒に遊べるものだと思っていた。だが彼女は違った。明日には母と杉ヶ裏の家を捨てて逃げる。文也とは今生の別れになるかもしれない。幼い彼女は、その運命に抗うべくタイムカプセルを提案し、逃亡の前日に埋めた。その心を考えると苦しくなる。
 夕刻の山の中、楽しい会話をしながらシャベルで穴を掘り、箱を埋め、しっかり土をかけて。二十歳になったら掘り起こそうと約束し、指切りをした。文也は二十歳になるまでの間も、自分たちは一緒にいるものと信じて疑わなかった。しかし「ふーちゃん」と桜は呼んだ。
「わたしのこと、わすれないでね」
 決して泣いてはいなかった。それでも泣きそうな顔で、桜は笑っていた。その頬を西日が朱に染めていた。綺麗な笑顔にただ見惚れた。
 そう、桜はまさにここにいた。
「並んで埋めた後に、隣の桜の方を向いたんだ。俺から見て右側に斜面があって、正面の桜の右頬に夕陽が当たってた」
 文也は顔を右に向ける。下りの斜面の向こうに、陽は沈んでいった。
「だから丁度、西日が当たる位置。だいたいこのあたりだと思う」
 イチョウの木の西側に立った。きっとすぐそばに、タイムカプセルは埋まっている。
「ここまでわかれば、見つかるかもな」
「必ず見つける」虎太郎の言葉に文也は大きく頷く。「それじゃあ、掘るか!」声を上げると、皆の歓声が被さった。
 陽を浴びて乾燥した土を掘り進むのには力が必要だった。
 木を中心に半円を描いて並び、全員でシャベルを地面に突き立てる。熱中症に気を付け、疲れたら交代して水を飲み、再び作業に加わる。
「ミミズ、ミミズが出たー!」
 並んでスコップを握る双子が悲鳴を上げ、「地元だろー」と虎太郎が呆れ声をかけた。
「苦手なものは苦手なの!」
「そんなら虎太郎が追い払ってやー」
 わいわいと賑やかに地面を掘り続けるが、いくら葉が茂っていても真夏の山の中、小さなシャベルで穴を掘り続けると体力を奪われる。柄を握る手が痛くなり、地面につける膝に石ころが食い込む。
「虎太郎くん、そういえばお爺さんは」
 汗を拭って顔を上げた颯介に、虎太郎はそういえばと辺りを見渡した。少し前から重三の姿が見当たらない。
「えー、爺ちゃん逃げた?」
 こんなところで逃げるかよとぶつくさ文句を垂れる孫の虎太郎。「暑いし、しょうがないかもね」と颯介がカバーする。
 しかし、少しすると聞き慣れた犬の声が近づいてきた。ムギを連れた重三が山を登ってくる。
「おまえら、男どもはこれ使って働け」
 持ってきたのは、文也が持ってきたような折り畳みの小さなシャベルではなく、穴を掘るのに本格的な大型のシャベルだった。これを使えば足に体重をかけて掘ることができる。礼を言って、文也と颯介と虎太郎はそれを手に取った。ごめん、と祖父を疑った虎太郎は小さく呟いた。
「まあこいつも、足手まといにはならんだろ」
 長いリードの先を木の枝に引っ掛ける。ムギは思わぬ散歩にはしゃぎ、地面のにおいを嗅ぎ、前足で土を掘っている。
「ムギ、わかっとるみたいやん」夏澄がそれを見て笑う。「案外、ムギが掘り当てたりして」葉澄もくすくすと笑った。
 それから七人で、ひたすら掘り続けた。汗をぬぐい、水を飲み、木陰で休憩し、再びシャベルを地面に突き刺す。
「フミ、ちょっとは休憩しろよ」
「わかってる」
 颯介の心配に頷きながら、文也はほとんど休憩を取らずに穴を掘り続けた。硬い地面は十分に力を入れないと掘り起こせない。汗がこめかみを伝い、頬を流れ、首筋を垂れていく。今日で決着をつける。その思いで、文也は身体を動かし続けた。

 ふーちゃん、タイムカプセルをうめよう。

 桜はどんな気持ちで、誘ってくれたのか。幼い彼女の愛情が痛いほどに胸を刺す。おとなになったら、あけようね。あの日に見た彼女の頬には痣があった。杉ヶ裏での毎日は、桜にとって幸福な思い出だけではなかっただろう。
 ただ、隣に居る桜はよく笑っていた。ふーちゃん、ふーちゃん。いつだってそばにいた。ふーちゃん、だいすき。躊躇わずに、そう口にしてくれた。桜の声で、言葉で言ってくれていた。
 桜は、大切なものをここに置いてきた。ふーちゃんという仲良しとの思い出を、幸せな記憶の欠片を埋めた。誰にも告げずに去らねばならなかった彼女は、大きなヒントを文也だけに教えてくれたのだ。
「今、見つけるから」
 文也は、さくちゃんに伝える。だいすきなさくちゃん。そして、大切な桜。彼女たちを結びつける最後の破片が、ここに埋まっている。
 座り込んだのは、双子だった。諦めるとは決して言わないが、最も年少の彼女たちが疲弊してしまうのは仕方のないことだった。
 次第に陽は傾き、西日が全員の背や頬を照らす。犬のムギも疲れたのか、虎太郎がペットボトルから垂らした水を飲み、地面に伏せて舌を出している。
 薫子を心配し、颯介が手を止めた。彼女は一つ年上なだけの女の子だし、そんな彼女は颯介の大切な人だ。説得して休ませ、颯介がタオルを手渡している。
 イチョウの木の周りには、いまやぽこぽこと穴が空いていた。その中から石が出てくる度に落胆は大きくなった。
 ここだ、ここにあるはず。文也は信じて掘り続ける。
 重三が手を休めて汗をぬぐい、最後に残った虎太郎の動きも重くなっている。誰一人、もうやめようとは言わないが、もしかしたらという疑心は膨れていた。この木の下ではないのでは。なにかが間違っているのでは。こんなに見つからないことがあるだろうか。夏の熱気は、確実に体力を奪い、精神力を削っていた。
 遂に、虎太郎も手を止めた。豆のできた手をペットボトルの水で洗う。「ちょっと休憩」と座り込む。
 文也が地面にシャベルを立てる音が響く。いつの間にかヒグラシが鳴き出していた。強い夕陽が彼の背中をじりじりと焼いていく。文也も焦っていた。今日を逃せばもう機会はない。しかし陽は確実に落ちている。暗くなれば作業はできない。もう少し、あと少しなのに。

 桜はもう、向こうにいかなければならない。いつまでも幽霊として、言葉だけを送る存在にしたくない。

 それだけを胸に思い切りシャベルの先を土に埋めた時、ムギが吠えた。腹の底を震わせる大声で、わんと鳴く。シャベルの先に硬いものが触れるのを感じた。土とは異なるものが埋まっている。
 シャベルを放り、地面に膝をつき、素手で土をかき分ける。指先に、硬くすべすべした感触。現れた銀色は、汚れているが光沢がある。
 爪の隙間に土が入り込み、豆がつぶれ、手に血が滲む。ひりつく痛みに奥歯を噛んで耐えながら、文也は両手で地面を掘った。わんわんと一層、ムギが吠えている。その力強さに勇気づけられるように手を動かす。
 やがて、両手に収まるほどの缶が一つだけ出てきた。側面にイラストが描かれたクッキーの缶。
「フミ……」
 颯介の声に、一度だけ頷く。
「これだ」
 ムギも吠えるのを止め、全員が集まる。「ほんまに出てきた……」と夏澄が驚きの声を零した。これが確かに、桜と文也が八年前に埋めたタイムカプセル。
「文也くん、ここで開ける?」薫子が尋ね、文也はもう一度頷いた。
 指でなぞり、少しだけ土を落として缶の蓋に手をかける。固く閉ざされたそれはなかなか開かない。僅かずつ隙間をつくり、ゆっくりと開く。
 中には水色の封筒が二枚入っていた。
 薄い封筒を一枚取り出す。右下には「つきしろふみや」と書いてある。
「文也が、自分に書いた手紙だ」
「中、なんて書いてあるの」
 虎太郎と葉澄が身を乗り出す。手の土をシャツで拭うと、そっと封筒を開け、中から一枚の便箋を取り出した。
「……おとなのぼくへ。ぼくは、さくちゃんと、いまもなかよしですか」
 文也は手紙を声に出して読む。それは、いつまでも桜と仲良しでいたいという、幼い自分の願いだった。
「ぼくは、さくちゃんがだいすきです。だから、おとなのぼくも、さくちゃんをだいじにしてください」
 幼い文也は、心の底から桜を愛していた。いつまでも一緒にいるのだと信じてやまなかった。身体の弱い桜を大切にして、明日も明後日も来年も十年後も百年後も、いつまでだって隣に居られるものだと思っていた。
 明日には桜との別れが待っているのだとも知らずに。
「ぼくはもう、おとなだとおもいます。だから、さくちゃんとけっこんしてください。ずっとずっと、さくちゃんといっしょにいたいです」
 たどたどしい字で書かれた手紙には、最初から最後まで「さくちゃん」が綴られていた。
「子どものフミも、桜ちゃんが大好きだったんだな」
 颯介が呟き、皆が頷く。文也は手紙を畳んで封筒にしまい、箱に戻した。残るのは、もう一枚の封筒。
「桜、開けてもいいか」
 口に出して尋ね、ポケットからスマートフォンを取り出し、地面に置いた缶の蓋の上に乗せる。全員が固唾を飲んで見守る中、「いいよ」と桜から返事があった。
 saku:ふーに、見て欲しい。
 わかったと返事をして、文也は手を伸ばした。疲労か緊張のせいか、指先が震えているのに気づき、一度強くこぶしに固める。覚悟を決めて手を開き、その右手で封筒を取り出した。
 封筒は少しだけ膨れていた。入っているのは手紙だけではないらしい。下の方には、「しいなさくら」の名前。
 封筒を傾けると、手のひらに小さな箱が転がり出た。それを一度缶の中に入れ、手紙を取り出す。
 拙いが丁寧な桜の文字。わたしへ、から始まっていた。
「わたしは、おとなになれていますか。びょうきは、なおっていますか。ふーちゃんに、またあえましたか」
 桜は自分が大人になるまで生きられない可能性を理解していた。それは、この頃も同じだったようだ。
「このてがみをみつけたのは、ふーちゃんとまたあえたからだと、おもいます。いまも、なかよしですか。けんかは、してないですか」
 自分の声が、桜の声と被って聞こえる。
「わたしは、ふーちゃんが、だいすきです。だから、さよならしたくないです」
 私のこと、忘れないでね。そう言った桜は、心から文也を愛していた。
「もしおとなになれてたら、ふーちゃんとけっこんしてください。ずっと、いっしょにいたいです」
 手紙の見せ合いなどしていない。けれど同じ内容を、かつての二人は手紙に書いている。
「ちゃんと、ごめんなさいしてね。みらいのわたし、げんきでね」
 声が震え、文也の声は掠れて消える。桜は大人になれなかった。二十歳まで生きられなかった。必死に涙を堪える。
「……桜」それでも今、隣にいる。彼女は同じ手紙を読んでいる。腕で目元をぬぐい、文也は問いかけた。「ごめんなさいって、なんのことだよ……」
 正面に置いている画面が点灯し、文字が並ぶ。
 saku:嘘ついてて、ごめんなさい。
「嘘って、なにが……」
 saku:その箱、開けて。
 手紙を入れた封筒を缶に戻し、代わりに小さな箱を手に出した。おもちゃの箱には、鍵穴がある。
 はっとして、文也はスマートフォンから桜のお守りを外した。桜貝がきらきらと光るお守りには、鍵が結び付いている。
 何の鍵なのか聞いたことがあった。しかし彼女はアクセサリーだよと言っていたから、あまり深く考えたことはなかった。
 桜が肌身離さず大事に持っていた鍵を、鍵穴にさす。カチリと小さな音が聞こえた。そっと箱を開ける。
 胸に熱いものがこみ上げて、文也は何も言えなかった。
 中には、指輪が入っていた。
 saku:学校で怒られるからだなんて、嘘ついててごめんなさい。
 saku:本当は、絶対に失くしたくなかったからなの。
 誰かが、「この指輪……」と口にする。その声に文也は、「ああ」と呻いた。
「俺が、桜にプロポーズして、指にはめた指輪だよ」
 saku:お父さんに捨てられて、なんとか見つけたけど、また捨てられるかもって思って。でも、ふーに言えなくて、嘘をついてたの。
 雨の降る庭で、桜は指輪を探していた。父親に捨てられた大事な指輪を探し、病弱な身体も顧みず、涙を隠して探していた。

 かえって。ふーちゃん。

 文也に協力を頼むわけにはいかなかった。大好きなふーちゃんからの指輪が見つからなければ。もしそれをふーちゃんに知られたら。そう思うと、文也に助けて欲しいなどと言えるはずがなかった。
 ばかだよ。さくら。それで俺が、さくちゃんを嫌いになるはずがないのに。
 saku:だから、ここに隠せば、結婚するまで守れると思ったの。
 我慢できない嗚咽が、文也の喉から漏れる。目元を汚れた腕で拭い、懸命に桜からの言葉を見つめる。
 saku:大人になって、私がまだ生きていて、ふーと再会できてたら。この指輪を、また指にはめて欲しかった。もう合わないねって、笑いたかった。
 桜は本気で、文也と一緒になりたかったのだ。だからタイムカプセルを提案し、手紙を書き、こっそり指輪を隠した。ふーちゃんとの未来を信じていた。
 桜はこんなにも自分を愛してくれていた。
 熱い涙がぼろぼろと頬を伝う。指輪を強く握りしめる。そんな将来があれば、どんなによかっただろうか。この指輪を桜の指にもう一度はめる未来があれば、どれほど幸せだっただろうか。
 saku:でも、私はまたふーと一緒にここにいる。
 saku:見つけてくれて、ありがとう。
 それでも、桜とさくちゃんは繋がった。優しくて明るくて前向きな少女は、今も隣にいる。求める未来を得られなくても、いつだって全力で咲き誇っている。
 まるで、満開の桜のような女の子。
「桜に会えてよかったよ」文也も涙を拭って笑った。「今まで本当にありがとう」
 saku:ありがとう、ふーちゃん。
 これが桜からの、最後のメッセージ。
 saku:私と、結婚してください。
 saku:ふー、さっさと宿題しないと、間に合わないよー。
「わかってるって」
 saku:わかってない。昨日も寝落ちしてたじゃんか。不真面目だなあ。
 はいはいと返事をして、渋々学習机の前に座る。文句を口にすれば延々と説教されそうな雰囲気に、だらだらと数学の教科書を開く。
 桜は消えなかった。タイムカプセルを掘り出した翌日の朝、気まずそうに「おはよう」と言った。あれだけのことをしてまだ向こうにいけないなんて、最早心残りの問題ではない気がしてくる。
「お祓いかなあ」シャープペンシルを走らせながらぼそっと呟くと「やだー!」とすぐさま返事がある。
 saku:ふーひどいよ。私、祟ってるわけじゃないのに。
「冗談だって。そんなことしねえよ」
 変わらない様子の桜は、変わらず近くにいる。彼女自身も、あれ以上の未練はなにも思い浮かばないそうだ。それなら本当に、修学旅行や七夕祭りだのといったイベントを全てこなさなければいけないのか。あまりに道のりが遠い。
「そろそろ行くか」
 教科書を閉じて立ち上がり、出かける準備をする。後半の補習授業が始まったが、今日は日曜日だ。
 saku:結局三十分しかしてないね。
「帰ったらやるよ」
 信憑性のない言葉を口にし、文也は家を後にした。
 午前中の部活を終えた颯介に会い、駅前の本屋に立ち寄り、ぶらぶらとさ迷い歩く。小腹が空いた頃、ファストフード店に流れ着いた。それぞれジュースを頼み、ひとパックのフライドポテトを両側からつまむ。
「そういえば、あの指輪、どうしたんだ」
 正面の席で颯介が言うのに、ポテトをかじりながら文也は答える。
「あれな、桜の家に行って供えたよ」
「そっか。それが一番かもね」
 結婚してくれと桜に渡した指輪を、文也が後生大事に持っていてもしょうがない。先日桜の家を訪れた時、自分たちが幼い頃に埋めたタイムカプセルを思い出して、それを掘り起こしてきたのだと律子に話した。おもちゃの指輪を差し出すと、彼女は目を潤ませて礼を言い、可愛らしいと笑った。それでも、流石に手紙は恥ずかしいから見せないでくれと桜に頼まれ、二通の封筒は押し入れの奥に一緒に隠している。
 ただあのお守りは、今もスマートフォンにつけている。桜がふーに渡して欲しいと直接母親に伝えたお守りだ。これは一生大切に持っていようと思う。昔のプロポーズなど忘れたといった桜は、タイムカプセルの鍵を肌身離さず、お守りとして大事にしていた。その桜の想いが詰まった鍵は、今度は自分が大切にする番だと誓った。
 学生や親子連れで賑わう騒がしい店内。ストローでオレンジジュースを飲み、「それにしても」と颯介は首をひねった。
「桜ちゃんは、一体なにが気になってるんだろうね」
「だよなー。もう検討つかねえよ」
「まだ忘れてることがあるんじゃないのか」
「流石にもうないと思うけどな」
「タイムカプセル以上なんて、想像つかないけどね。……それにしても、あの日は楽しかったな」
 タイムカプセルを掘った後、すっかり日が暮れてしまったから、慰労会もかねて重三の家にみんなで泊まった。久々に食べた出前のピザは、やたらと美味しく感じられた。
「俺、あんまり記憶ねえんだけど」ずずずと音を立ててジュースを飲む。
「まあ、フミはすぐに寝ちゃったからな」
「だって酒なんか飲ませねえだろ、普通」
「自分だって興味津々で飲んでたくせに」
 一番頑張ったからと、重三は文也のコップに酒を注いだ。これまで酒と縁がなかった文也も、興味を示したのは事実だった。それでも初めて摂取するには度数の高い酒に、疲れ切った頭と体は簡単に侵食され、気絶するように眠ってしまった。だから皆がどんな話で盛り上がっていたのかよく知らないまま、朝を迎えたのだ。その後、帰りの電車で一人になった時に「おはよう」と桜のメッセージを受信して目を疑ったのが、忘れられないあの日の一部始終だ。
「まあ、何ごとも経験だよ、経験」
「フミの口から出たとは思えないな」
「ふりだしに戻って悪いけど、またなんかあったら頼むよ」
「それはいいんだけど……本当に思いつかないな」
 ポテトを食べ終わり、紙ナプキンで指を拭いて、颯介は文也の手元に目をやった。「それ、桜ちゃん?」
「ああ、いや、違う」
 リンクの画面が見えていたらしい。相手は桜かと尋ねるのに、文也はチャットを彼に見せた。「夏澄と葉澄だよ。なんか、また皆で遊ばないかって。あの子ら、割と楽しんでたみたいだな」
 あの出来事を遊びとしてとらえるなんて、なんとも陽気な双子だ。もしくは、打ち上げがよほど楽しかったのか。「次いつ来るん?」と画面は夏澄の台詞を受信している。
「流石だなあ。フミはどうするんだ」
「楽しみにしてるんなら、行こうかと思ってるけど。そういえば、俺、自分の家がどうなったか見てないし」
「確かに、桜ちゃんの家には行ったけど、フミが住んでたとこも気になるな」
「だろ。それなら、颯介たちも行こうぜ」
 人数を増やそうと提案すると、是非にとすぐさま返事がある。再度繋がった双子との縁は、今しばらく続きそうだ。
「そうだ、薫子さんも、今度フミに会いたいって言ってたよ」
「俺に?」
「この前のこと話したいし、桜ちゃんのことも気になるし。それに、仕上がった作品、出来たら読んでもらえないかって」
「作品って、小説だよな。俺が読んでいいのか」
「彼女、あんまり周囲に公開するタイプじゃなくって、普段は部活繋がりの人にしか見せてないんだけど。新人賞に送る予定だし、部活の外の人に、意見を聞いてみたいって」
「そんでも、俺、大した意見言えないけど」
 読書感想文も苦手な自分が、まともな感想を伝えられるとは思えない。しかし颯介は笑って否定した。
「その方がいいんだよ。僕たちだと、どうしても作る側というか、偏った意見になりがちだし。それが正しいとも限らないからさ。読んで純粋にどう思ったかが知りたいんだ」
「そんなもんなのか」気張らなくていいのなら、その作品にも興味が出る。「俺でいいなら、全然構わないけど」
「そしたら、伝えておくよ」
 颯介たちも、各々の青春を邁進しているようだ。
「フミもなにか書いてみたら」
「冗談言うなよ。俺は読むだけでやっとだよ」
 顔を見合わせて、文也と颯介は笑う。彼らの努力がいつか実を結べばいい。文也は心の底からそう思う。