気づけば、朝になっていた。
電気を点けたまま、知らないうちに眠っていたらしい。布団の上で伸びをして、大きく欠伸をする。そして文也は、思い出した。
頭の横に転がっていたスマートフォンを見つける。昨夜のことは、夢だったに違いない。桜に会いたいと望んでいたから、理想的な夢を見ていたのだ。死んだ人間が機械を使って話しかけてくるなんて、そんな話あるわけがない。
妥当な理屈を肯定するために、リンクから桜のアイコンに触れた。
数時間前までのやり取りが、全て残っていた。
saku:起きた?
電車に乗っていると、そんなメッセージが届いた。家を出る前、文也は自室で何度か桜の名前を呼んでみた。キッチンの母に聞かれるとついに頭がおかしくなったと思われそうだから、声を潜めて。しかしその時、返事はなかった。
だが今現在、通学途中の電車内で、機械は新たな文言を受信する。
saku:もう学校に行ってるかな。遅刻しちゃだめだよ。
ふー:今、どこにいるんだ。
saku:私の家。お母さんが心配で、帰ってみたの。けど、私のこと、お母さんはわからないみたい。
この桜は手元に自分のスマートフォンだけを持っていて、その中にはリンクしか入っておらず、更に文也の名前しか登録されていないという。夕べはいろいろと話をしたが、相手は本物の桜だとしか、文也には思えなくなっていた。猫のココの記憶をはじめ、そうでなければ辻褄の合わない話がいくらでも出てくるのだ。
それとも遂に、自分の頭はおかしくなったのか。桜が死んでしまった現実を受け入れられず、架空の桜を作って話をしている。この画面も幻なのかもしれない。
確かめなければならない。これは桜のふりをした偽物か、それとも桜の幽霊か、はたまた作り上げた幻か。
あのお守りは、スマートフォンにしっかり結び付けている。それを指先ですくい、強く握りしめた。
昨日は散々泣いたうえに夜更かしをしたおかげで、授業中もうっかり眠ってしまいそうになる。あれは本当に、桜の幽霊なのか。もしそうなら、彼女は今どこにいるのか、スマホは新たにメッセージを受け取っているのではないか。考えるのも、そういったことばかりで、気が気ではない。
ふー:今、どこにいる?
試しに、昼休みに朝と同じ文言を送信してみる。相手はすぐに返信する。
saku:通学路、散歩してるよ。この時間に外を歩けるのって、なんか新鮮だね。
平日の昼間の散歩を楽しんでいるらしい。そんな無邪気なところが、いっそう桜を感じさせる。
混乱して思考があやふやなせいか、文也はうっかり口走ってしまった。
「桜って、本当に死んだよな」
正面で購買のパンにかぶりついていた虎太郎は、口を半開きにしたまま目をぱちくりさせている。それを飲み込むと、気まずそうに言った。
「……文也、大丈夫?」
その顔を見て、しまったと思う。「いや、その……」器用な言い訳が思いつかない。
桜を知らない虎太郎に、彼女の幽霊から連絡があったなどと話すのは気が引ける。変な気を遣わせて困らせるのは本意ではないし、第一そこまで親しい仲ではない。
「疲れてんだって」虎太郎は苦笑した。「もうすぐ夏休みだし、ちゃんと休んどけよ」
曖昧に文也は頷いた。季節はすっかり夏になっていた。
週の終わり、終業式によって一学期は終わりを告げた。御浜高校の夏休みには、前半と後半にしばらく午前のみの補習授業が組み込まれている。終日の休暇はその間だけというわけだ。とはいえ一学期が無事に終わったことに、学校中がどこか浮足立っていた。
この日の夕方、文也は颯介と薫子に会う約束をしていた。桜の幽霊の話が出来るのは、彼らしかいない。最初は颯介だけに電話をかけたのだが、彼は薫子も交えて話がしたいと言った。
「薫子さん、そういうのに詳しいはずだから」
信じられない話に戸惑いながらも、神妙な口ぶりで彼は金曜の夕方に会おうと約束した。彼女は以前に幽霊が出てくる作品を書き、その時にいくらか調べていたから、自分たちよりも知識があるだろうとのことだ。文也も、二人よりも三人の方が解決の糸口が掴めるだろうと同意した。
この日は三人とも高校の終業式の日だったが、颯介と薫子は放課後にそれぞれ文芸部の活動があった。時折、他の高校や中学とも交流があり、二人はそうした活動で出会った。読書感想文ですら億劫な文也にしてみれば、授業以外で文章を書きたがるとはなんて真面目な趣味だろうと思う。だが、「絵を描いたり音楽を作るのと同じだよ」と颯介は言った。自分で作品を作り上げる楽しみは、変わらないそうだ。小説は書くものでなく読むものとしている文也は、それでも感心する。
午前中に終業式を終えた文也は、買ってきた弁当を食べた後に約束の時間まで図書室で時間を潰した。
saku:ふー、意外と真面目じゃん。
最中、そんな軽口が届く。桜は今も近くにいるらしい。静かな図書室に相変わらず姿は見えないが、不思議な気持ちになる。
陽が傾き始めた頃に学校を出て、電車に乗り、互いの中間地点の駅で降りた。夏の午後四時半の熱気に汗をぬぐいながら、駅ナカのファミリーレストランを訪れる。席を案内されて五分も経たないうちに、二人も店にやって来た。約束の十分前。相変わらず真面目なカップルだ。
「文也くん、待った?」
「ううん。全然」
「今日も暑いね。すっかり夏だな」
それぞれ声を掛け合う。ボックス席の窓側に薫子が座り、その横に颯介。彼の向かいに文也の位置取り。飲み物を注文し、それが届いた頃、文也は本題を切り出した。
「確認したいんだけど、桜は本当に死んだよな」
向かいの二人は顔を見合わせる。「そうだよ。桜ちゃんは、亡くなった」きっぱりと颯介が言うのに、文也も頷いた。
「フミ、電話で言ってたけど。桜ちゃんから連絡があったって」
期待通り、颯介は馬鹿にするでもからかうでもなく、真剣な表情をしている。だから文也は、彼と何年も友人でいるし、これからもそうでありたいと願っている。
「この前の日曜、線香あげに行ったんだ」
颯介には電話で伝えていたが、改めて二人に事情を説明した。彼らは神妙な面持ちで聞いているが、やはり幽霊話は鵜呑みには出来ない。
「その画面、見てもいいかな」
薫子の言葉に、文也は操作したスマートフォンをテーブルの上に乗せた。画面には、桜との会話の履歴。彼らは顔を突き合わせてそれを覗き込み、指先でスクロールする。約六日間のやりとりがずらりと並ぶ。
「これ、存在してるよな。俺の幻覚じゃないよな」
「うん。幻覚じゃないよ」颯介の台詞に、文也はほっとする。「正直、最初に聞いた時は、フミの幻覚とか妄想とか、そういうのかと思ったけど」
「桜ちゃんの姿は、視えたりしないんだよね」
「視えないし、話しかけてるらしいんだけど、声も聞こえない。向こうには、こっちが見えてるし声も聞こえてるっていうけど」
「今は、桜ちゃんがどこにいるのかわかる?」
薫子の質問に、文也はスマートフォンの画面に指を滑らせた。
ふー:今、どこにいる?
送信ボタンを押す。三人が固唾を飲んで見守る中、返事が来た。
saku:ふーの隣。
仰天し、颯介と薫子は文也の横を見つめた。誰もいない空席。だがそこに、桜はいるという。
「な。ほんとに返事が来るだろ」
文也の言葉に、二人は画面と空席を交互に何度も見やり、信じられない事象に目を丸くしている。
saku:二人とも、久しぶり。ふーに付き合ってくれてありがとう。
その間にも、新たなメッセージを受信する。颯介はきょろきょろと店内を見回す。
「俺も思ったよ、誰かが桜の真似をしてるんじゃないかって。でも、そんなやつどこにもいないんだ」
「文也くんが、私たちを驚かそうとするわけないしね……」困惑しながらも冷静に努める薫子。
それから文也は直接隣に話しかけたが、その度に相手は機械を使って返事をした。その様子に、腕を組む颯介は「じゃあ」と切り出す。
「僕らの声も、聞こえてるの」
saku:聞こえてるし、見えてるよ。
「それなら、質問させてね。中学時代に、フミがテストで取った最低点は」
saku:英語の十四点。
「やめろ!」
思わず文也は声を上げた。桜と颯介しか知らないテストの点数。あれは折り畳んで部屋に隠し、親にも見せていないから、三人だけの秘密だった。「本当に、桜ちゃんだ」颯介は感心している。
「でもどうして、桜ちゃんはここにいるんだろう」薫子が不思議そうに首を傾げる。
「俺も見当つかなくてさ、なんでだと思う」
うーん、と二人は考え込む。「桜ちゃん、なにか思い当たることはある?」颯介は、誰もいない席に問いかけた。なんとも不可解な光景だが、テーブルの中央に置いたスマートフォンには返事がくる。
saku:私にも、わからない。途方に暮れてたら、ふーがお線香あげに来てくれて、その時、スマホがポケットに入ってるのに気が付いたの。
「俺、桜の家に行って、その時やっと桜が死んだってことに気づいたんだ。なんていうか、知ってたけど、心の底から理解したんだ」
「薫子さん、どう思う」放置していたアイスコーヒーを一口飲み、颯介は難しい顔で問いかけた。
「亡くなった人は、しばらく、あの世とこの世の境にいるんだって。四十九日が経ったら、次の世界に行くの。そして、仏様になるんだって」
でも、と彼女は続ける。「亡くなった人が四十九日までこうして連絡ができるなんて、そうそうあることじゃないと思うから。桜ちゃんには、なにか思い残しがあるんじゃないかな」
「思い残し……」文也は呟く。
「だからこっちの世界に引っ張られて、こうして私たちの近くにいて、思いを伝えてるんじゃないかな」
「思い残しって、何かあるのか」
saku:いーっぱいあるよ。
彼の問いかけに、すぐさま桜は返事をした。
saku:七夕祭り行きたかったし、夏休みも楽しみだったし、修学旅行とかも行ってみたかったし。
saku:病気治して、遠出とかもしたかったな。果物食べたりして。お母さんとも出かけたかったし、部活なんかも興味あるし、友だちとも遊びたかったし。
「わかったわかった」
取り留めない桜の思い残しを遮り、ストローを咥えると冷えたカルピスに口をつける。「でもちょっと違うと思うぜ」
「やりたいこと、たくさんあったろうけど。現世に留まるぐらいに名残惜しいことが、なにかあるんだろうね」
「文也くんにだけ連絡ができるってことは、そこに関係があるのかも」
颯介たちの言葉に、ピンときた文也は手を打った。
「俺と結婚できなかったことだろ」
堂々とした台詞に正面の二人は目を丸くし、桜の返事も一瞬途絶える。
「俺と結婚するって言ってただろ。それができなくて後悔してんじゃないのか」
文也は真理だと思ったが、桜は「ばーか」と軽くあしらった。
saku:全然心残りじゃないし。
「だって、そう言ってたじゃんか」
saku:それぐらいの覚悟してってこと。今生き返ってもすぐに結婚なんて出来ないんだし、心残りなんかじゃないよ。
「桜ちゃんだなあ」颯介がしみじみと頷く。
「俺に関係あるんだったら、その話しかないだろ」
「もしかしたら、二人の波長が合って、それで繋がれてるのかもしれないね。桜ちゃんは信号を出してたけど、文也くんはそれに気づかなくて。でも桜ちゃんが亡くなったことを理解して、その信号を受け止められたのかも」
年上らしく場を取りなす薫子に、文也も文句をつぐんだ。「二人は、仲良しだから」そうもおまけして、ミルクを入れたアイスティーをストローで混ぜる。氷がグラスにぶつかり、カラカラと音を立てる。
「フミと桜ちゃんは、どうしたいの」
颯介が尋ねるのに、グラスを傾けかけた手を止めた。それは、相手が本当に桜の幽霊なら、放置しておきたい問題でもあった。
しかし、そういうわけにもいかない。
「……向こうに、いくべきなんだろうな」答えて、ストローを使わず、喉に直接カルピスを流し込む。「いつまでもあちこちさ迷ってるのは、きっと良くないと思う」自分と連絡を取り合えても、桜がいつまでもそんな浮遊霊のような存在でいるのは、心苦しい。
「桜ちゃんは」
少しして、桜も同じことを言った。
saku:私も、本当は、さよならしないといけないんだと思う。
saku:それで生まれ変わって、またみんなと会って生きるんだ!
桜は、幽霊になっても前向きでかっこいい。もはやこの相手が天方桜であることは、誰一人疑っていなかった。
「じゃあ、探さないとね。桜ちゃんの心残り」
薫子の台詞に、颯介も頷く。
「なんか、ごめん、巻き込んで」
「気にするなって。それに、フミのためっていうより、桜ちゃんのためだよ。僕らだって、彼女のことは大事なんだ」
文也は謝ったが、颯介は笑い、薫子も賛成した。天方桜を現世に留まらせる心残りを見つける。四人は今一度、約束を交わした。
桜が現世に留まる心残り。それを探すと決めたが、一体それがなんなのか、彼女にも思いつかないようだった。
「なー、やっぱり俺と……」
saku:分かんないなー、なんだろうねー。
隣に居るらしい桜は、やっぱり桜だ。電車に乗り、隅に立ったまま、ふと思い立って尋ねてみる。
ふー:今も近くにいるんだろ。もし触ったらどうなるんだ。
saku:触れないよ。隣に居るから、手伸ばしてみて。
saku:そっちじゃない、左。
右側に伸ばしかけた手を、左に伸ばす。しかし触覚はなんの感覚も伝えてはこない。
saku:今、私の腕に当たってる。けどすり抜けちゃってる。
前方に座る乗客が奇異の目で見てくるが、構わずに腕を握る仕草をする。それでも手は空を掴むばかりで、温度の変化すら感じられない。
saku:私も、今、ふーの肩に触ってるよ。でもわからないでしょ。
言われなければわからない。少しぐらいひんやりするかと思ったが、そういうわけでもないらしい。
ふー:全然わからん。
saku:だよね。私もいろいろ試したけど、人に触れることは出来ないみたい。
文也はなんとなく残念な気持ちになる。せっかく桜が近くにいるのに、その体温すら感じられないなんて。彼女は暑さや寒さも分からないし、食欲もなければ眠くもならないという。まるで幽霊だなと思い、そういえば幽霊だったと思い出す。
家に帰り、夕飯と風呂を済ませて落ち着いた頃、桜は「そうだ!」といった。
saku:あの子犬のこと、ずっと気になってたんだ!
「犬?」
リビングのソファーで眉根を寄せて呟く。犬ってなんだと打ち込もうとすると、母親の声が被さった。
「文也、あんた最近ケータイばっかいじって。目悪くなるわよ」
はいはいと適当に返事をして、文也はその場をさっさと退散した。母親の小言からは逃げるのが吉だ。自室に引っ込む。夏の熱気がこもっているのに、窓を開けて扇風機をつけた。
「犬なんか飼ってたっけ」
扇風機の前に座り、近くにいるはずの桜に話しかける。やはり彼女は部屋にいるらしく、返事が来る。
saku:私は飼ってないよ。
saku:でも、小さい頃に拾ったの、ふーは覚えてない?
「杉ヶ裏の頃だよな。……確か、学校の帰りに桜が見つけたんだっけ」
幼い頃、小さな小学校に入学した二人は、毎日一緒に登校し、一緒に下校していた。そんな七歳の時、帰り道に捨て犬を見つけたことがあった。
saku:そう。ふーは飼えないし怒られるって言ってたから、私が連れて帰ったの。
「あー、なんか、覚えてるかも」ふわふわした茶色の塊を見た記憶がおぼろげながら蘇る。「あの犬、結局どうしたんだ。桜が飼ってたわけじゃないだろ」
saku:お母さんが里親見つけてくれて、そこに渡したんだ。でも知り合いとかじゃなくて、私も次の年には引っ越したから、あの子がその後どうなったか気になってたの。
「なるほどなー」
自分が拾った子犬がどうなったのか、それが桜は気になるという。思い残しと呼ぶに値するか文也には判然としないが、優しい桜はそれがきっかけで留まっているのかもしれない。
「それなら、犬がどうなったか確かめたらいいんだな」
saku:たぶん。ずっと前のことだから、いろいろあったかもしれないけど。
「どこに貰われていったかわからないのか」
saku:杉ヶ裏の人のはずだけど、詳しい住所とか名前はわからないんだ。お母さんが全部やってくれたから。
そうか、と文也は頷いた。「それなら、桜の母さんに聞けばわかるってことか」
saku:それしかないと思う。その人が引っ越してたりしたら、もうわからないけど。
桜は言うが、やってみなければわからない。文也はさっそく電話をかけた。
二日後の休日、文也は桜の家を訪ねた。桜のことを忘れられず、もう一度だけ線香をあげさせてくれと頼むと、律子は快諾してくれた。
「あの、これ……」文也が母親から預かったクッキーの箱を手渡すと、「気なんて遣わなくていいのに」と恐縮する。
「うちの母さん、今日は仕事だけど、また今度挨拶しに来たいって言ってました」
「ありがとう。いつでも来てくれて構わないから。桜は本当に幸せものね」
遺影の前でそう言う彼女に、まさに今、同じ部屋に桜がいることを伝えたくてたまらない。だが桜は、母親には自分のことを教えない方がいいと言った。会いたいのはやまやまだが、そう簡単に信じてはもらえないだろう。文也に対してあらぬ疑惑を立てられたくないし、仮に信じたとして、連絡を取れるのが母親である自分ではないといって悲しんで欲しくない。そんな桜の思いには、文也も納得した。
線香をあげ、鈴を鳴らし、遺影の前で手を合わせるが、一体誰に挨拶をしているのか少し不思議な気がする。桜はこの中にはいない。同じ部屋で、自分の写真に手を合わせる文也を見て、くすくす笑っているのかもしれない。
手を下ろし、視線を下げて気が付いた。そばには変わらず、桜が使っていた物が並べられている。その中には、彼女が生前使っていたスマートフォンもある。
「あの、このスマホ……」
話しかけると、後ろの座卓で茶を入れていた律子が「ああ、桜の」と微笑んだ。
「これ、まだ使えるんですか」
「使おうと思えば使えるはずだけど……桜が使ってた形跡を残しておきたいから、そのままにしておこうと思って。解約して電話が出来なくなっても、データは残しておくつもり」
それは正しい判断である気がして、文也は頷いた。こうして家に保管しているならば、桜のスマートフォンを使って赤の他人がいたずらしているという線はゼロになる。その確信が持てる。通信機能を失くしても、中にある写真や動画はそのまま残るはずだから、それを残して彼女の生きた証とするのだろう。
そう思ったところで、文也は急に恥ずかしくなった。恐らく桜も、薫子から送られてきた自分たちの記念写真を保存しているはず。その一枚で、自分たちはキスをしている。恋人同士だから不自然なことではなくとも、写真として彼女の肉親に見られていると思うと、むず痒くて恥ずかしい。
促されるままに移動して、渡したばかりのクッキーを二人で食む。世間話の最中、それとなく話題を出すことにした。
「そういえば、小一の頃、犬を拾ったことがあったんですけど」
思い出した風に、文也は律子に切り出した。九年も前のことだが、律子は懐かしそうに思い出にふける。
「懐かしいわね。桜が拾ってきた柴犬のことでしょ」
「確か、そうだったと思います」あのふわふわは、きっと柴犬。「あの犬って、どこに貰われてったんですか」
「ええとね……うちから役場に行く途中の、宗像さんってお家だったかしら」
その名前は初耳だった。たとえ田舎の小さな町であっても、子どもの立場では全ての家を把握し、記憶することはできない。
「むなかたって、どういう字ですか」
「少し珍しいかしら、宗教の宗に、銅像の像で、むなかたって読むの」律子は指先で、宗像という文字を座卓の天板になぞる。それを文也は覚え込む。
「その宗像さんって、おばさんの知り合いだったんですか」
「ううん。犬の里親を探してて、知り合いの伝手で教えてもらっただけ。杉ヶ裏でも、それまで全然交流のない方だったの」
「その人、今も連絡とったりとかは」
「あの子犬を譲ってから、一度も連絡してないわね。電話番号もメモしてたはずだけど、二回も引っ越したからもう見つからないし。……どうして気になるの」
連絡先はわからない。そのことへの落胆を隠し、文也は少しだけ嘘を吐く。
「そういえば、桜が気にしてたなって思い出して」まるで生前のことのように。「また帰ることがあったら行ってみようって、話してたんですけど」
「そう。桜が」
「それで、出来れば俺だけでも行けたらって思って」
「文也くんには、いろんなこと、話してたのね」律子はすまなさそうに眉尻を下げた。「でも、ごめんね。これ以上はわからないの」
「いえ、その……すみません」
文也の謝罪に首を横に振り、彼女は座卓の隅にあるティッシュ箱から一枚取り出し、目元に当てる。大事な一人娘が亡くなってまだひと月も経っていない。その名を口にして涙が出てしまうのは当然だろう。
「あの子が死んじゃったのはね、わかってるの。この目で見たんだから」
涙を拭い、彼女は微笑んだ。
「でも、なんでかしらね。まだ近くにいる気がするの。優しい子だから、心配させてるのかしらね」
零れる涙を目にし、文也は何も言えなかった。
帰り道、文也は何度か「桜」と口にした。だが彼女から返事はなかった。
夜になっても変化はなく、もう寝ようと横になった時分、「今日はおつかれ」と桜のメッセージが届いた。彼女は今、母親のそばにいるそうだ。
ふー:おばさん、大丈夫か。
saku:うん。少し寂しくなっただけみたい。でも今晩はここにいるよ。
律子にとって桜はただ一人の家族で、それは桜にとっても同じことだ。たった一人の母親が心配なのだろう。
ふー:やっぱり母親には、桜の気配がわかるんだな。
saku:どうかな。もしそうなら、姿が見えてもいいのにね。悲しいなあ。
可愛く絵文字をくっつけ、桜は続ける。
saku:みんな私に心配かけて。こんなんじゃ、私、いつまでたっても浮かばれないよ。
思わず文也は笑ってしまった。本当は桜が一番寂しがり屋のくせに。そんな彼女はやっぱり可愛くて仕方が無い。
おやすみと送って、おやすみと帰ってくる幸せ。それを噛み締めて、文也は瞼を閉じた。
土曜日、文也は颯介と駅で待ち合わせた。普段遊ぶときの待ち合わせより少し早かったが、杉ヶ裏までは距離がある。朝の九時には電車に乗った。
「悪いな。休みなのに」
「だから気にするなってば。桜ちゃんのためだよ」
ボックス席の文也の横で、「でも」と颯介は腕を組む。「名字しかわからなくて、探せるかな」
「引っ越してたらどうしようもねえけど。桜が住んでた家から、町役場に行く途中らしいんだ。その道をたどって探すしかない」
どうにもふんわりとした情報だが、これ以上は調べようがなかった。不安はあるが、あとは実際に歩いて探すしかない。
現状を文也から電話で聞くと、颯介は自分も一緒に探すと言ってくれた。一人より二人の方が、きっと視界も広がる。いや、桜もいるから三人だ。また三人で行動できることが、文也にはむしょうに嬉しい。
「フミと桜ちゃんの故郷か」
「そうなるな。桜は小二で引っ越したけど」椅子の肘掛けに肘をつく。「なんもない、ただの田舎だよ」
「それでも、二人には思い出がたくさんあるだろ」
颯介の言葉に、少しだけ考える。「……そうだな」やがて文也は頷いた。
杉ヶ裏ですごした十年間。その記憶のほとんどに、桜がいる。覚えていないほど幼い頃から一緒に遊び、学校に通った。夏休みも冬休みも、毎日飽きずに駆け回った。病気がちな桜はしばしば体調を崩したが、そんな日は担任から預かったプリントを手に見舞いに行った。ひと学年ひとクラスしかない学校でも、常にそばに居た。数えきれない思い出が溢れてくる。桜はそこで八歳まで過ごし、文也は十歳で引っ越した。そして二人は、転入先の小学校は違えど、同じ中学校に入学することになったのだ。
「だいぶ離れてたのに、再会するなんてすごいな。フミは親の転勤だったんだろ」
「うん。まあ、あれだよ。運命ってやつ」文也は当然の顔をする。これを奇跡だの運命だのと言わずして何と言おう。
「運命とか言ってるけど、桜ちゃん」
颯介が苦笑すると、文也のポケットから短い電子音が鳴った。
saku:運命じゃなくて偶然。
桜は今、二人の正面の席に座っているらしい。へそを曲げかけた文也だが、颯介が笑い、桜も笑っているのを想像すると、自然と頬が緩むのを感じるのだった。
電車を降り、バスに乗り、再び電車に乗る。杉ヶ裏駅で下りた乗客は、文也と颯介だけだった。時刻は既に十二時を回っていた。
木造の古い駅舎の売店で昼食代わりのパンを買い、外のベンチで食べる。中身の多いクリームパンは柔らかくて美味しい。周囲では蝉が大合唱し、青空にはむくむくと入道雲が広がる、まさに夏の気候。それでも日陰に居ればときおり涼しい風を感じられ、耐えられないほどではない。
まずは桜が住んでいた家を目指して歩く。山に囲まれた小さな町に高い建物はなく、民家や背の低いアパートが建つ中に、畑や水田が点在していた。町並みは静かで、人影は少ない。狭く緩やかな坂道を歩きながら、街中育ちの颯介は興味深そうにあちこちを見渡していた。
「確か、あの郵便局を右に曲がるんだ」
駅から二十分ほど歩き、文也は道の先を指さす。赤いポストを備えた、小ぢんまりとした郵便局。それは二人が幼い頃と変わりのない建物だった。
ポストの前を右に曲がり、細い道に入り、少しして文也は立ち止まる。その横で颯介も足を止めて見上げる。
「ここが、桜ちゃんが住んでたところ?」
「うん。間違いない」
古い二階建ての、桜が住んでいた家。門から中が覗けるが、今や人が住んでいる気配はなかった。庭には草がぼうぼうと生い茂り、家は扉も窓もきっちり閉め切っている。壁には蜘蛛が巣を張り、表札は外されたままだ。
「ここだよな、桜」
問いかけ、文也はスマートフォンに目をやる。晴天の真下、照度を目一杯上げた画面に返事がくる。
saku:ここだよ、懐かしいなあ。
saku:人が住まないと、こんなに荒れちゃうんだね。
桜も、感慨深く自分の住んでいた家の様子を窺っているようだ。あの頃はまさか、八年も経ってから幽霊の桜と共に再訪することになるだなんて、夢にも思わなかった。
saku:中、やっぱり誰もいないみたいだね。
文也と颯介は、流石に敷地に入るのはためらわれたが、桜は窓から部屋の中を覗いているらしい。自分の住んでいた家が廃れているのを見るのは、どんな気分なんだろう。
思い出に浸る彼女につられそうになるが、しばらくして文也は家から視線を剥がした。
「それじゃ、役場まで行くか」
「その途中に、宗像さんの家があるって話だよね」
「引っ越してなかったらな」
田舎道を再び歩き始める。六年ぶりの杉ヶ裏は、想像していたよりも変わっていなかった。中に住む人は自分たちのように変化しているだろうし、現に一軒家のあった場所がアパートになっているのも見かけた。それでもこの町は、桜と二人で遊びまわった昔の風景を容易に思い起こさせた。
颯介に昔のことを語りつつ、町役場に向けて注意深く表札を辿って歩く。山本、五十嵐、墨田……。きょろきょろして歩く二人の横を、虫かごと虫取り網を持った小学生たちが走り去っていく。
記憶が確かなら、役場まであと百メートル程度。もしかして道が違うのかもと若干不安に思い始めた文也は、思わず声を上げた。
「あった!」
一軒家の門に、確かに「宗像」の表札がかかっていた。それを見た颯介もほっとしている。
二人でそっと門の中を覗く。庭にはプランターや鉢植えが所狭しと並び、多くの植物が青い葉を茂らせている。それを見て疑問が湧く。こんな庭で犬を飼えば、下手をすれば鉢をひっくり返しかねない。リードを引っかけるかもしれない。赤いミニトマトを食べるかも。犬は注意深くしつけられているのか、それとも家の中で飼われているのか。想像はしたくないが、実はもう飼われていないのか。
様々な可能性を考えていると、ポケットのスマートフォンが振動した。
saku:こっちも宗像さんだよ。後ろのお家。
桜の言葉に二人は同時に振り返る。向かい合う家の表札も「宗像」だ。
「もしかして、親戚なのかな」
颯介が呟く。見つからないどころか、複数の「宗像」が見つかるとは。門の奥、玄関先には名前らしき表札もかかっているが、それではわかるはずがない。一体どちらが探している宗像なんだ。
「フミ、こっちも」
更に隣の家を颯介は指さす。少し大きなその家にも同じ表札。親戚同士、固まって住んでいるのか。
「マジか……」
困ったな、と口にしながら文也は颯介に近寄り、その家を覗き込む。立派な御影石の表札には白字で宗像の文字。引き戸の上部には、「宗像重三」と名前付きの表札。厳格そうだとイメージを抱きつつ、庭を見渡す。
途端、犬の吠える声が耳を打ち、文也と颯介はびくりと身体を震わせた。縁の下から出てきた犬が、軒下に繋がれたままわんわんと大声で吠えている。茶色の毛皮を持つ立派な柴犬。こいつだ、と直感した。
番犬は怪しい人物に向けて大きな声で吠え続けている。文也は堪らず、唇に人差し指を立てて「しー!」と合図をするが、犬にそんなものが通じるはずがない。このままでは騒ぎになりかねないと焦る。近隣住民に説明を求められると厄介だ。
二人で「しー!」と繰り返していると、がらりと引き戸が開き、中から老人が姿を現した。「うるさいぞ、ムギ」飼い主らしき老人が言うと、犬は吠えるのを止めた。しかし興奮しているのか、ふさふさの尻尾を振っている。
「なんだ、おまえらは」
年の頃は七十を過ぎているだろう、文也と颯介よりも少し身長があり、がっしりとした体つきの色黒の老人。農業を営んでいるのかもしれない。眉間には深く皺が寄り、白いひげを生やしている。
「あっと、その」
じろりと睨まれ咄嗟に台詞が出てこない文也に代わり、颯介が返事をした。
「僕、小戸森颯介っていいます。驚かせてしまってごめんなさい。犬を探しに杉ヶ裏に来たんです」
「犬?」
「多分、そちらの犬です」やっと文也も言葉を返す。「知り合いが昔、犬を譲ったって言ってて、その里親を探してて。……あ、俺、月城文也です」
「確かにムギは、貰いもんだが……」
この老人が宗像重三だろう。彼はムギというらしい犬をちらりと見、再び文也たちに視線をやる。「おまえたち、その話は本当か」
「本当です。椎名さんから聞きました……今は天方さんですが」椎名は、杉ヶ裏に住んでいた頃の桜の名字だ。「俺、子どもの頃に杉ヶ裏に住んでで、そこの娘の桜ともよく遊んでたんです」
椎名という苗字を覚えていたのだろう。重三は顎に手をやる。
「今更何と言われようと、ムギは返せんぞ」
「いえ、返して欲しいとかじゃなくて、元気にしてるのかが気になって……。桜が、引っ越した後も子犬のことを気にしてて、それで代わりに調べようと思って」
「本人は来ていないのか」
まさにそばにいる、などとは言えない。予め打ち合わせていた話を颯介が説明する。
「桜ちゃん、今は病気で入院してて。元気になったら一緒に探しに行こうって言ってたんです。でも、退院の目途が立たなくて。それで代わりに、写真の一枚でも撮って来れたらって話になったんです」
桜が死んで、その幽霊から話を聞いて……だなんて真実を話せば、確実に信用してもらえない。門前払いかもしれない。だから心苦しくとも、生きている桜から託された体にしようと話し合っていた。
「椎名さんの家の子か……確かに、病気がちだとは聞いたことがあるな」
半信半疑でも思い当たるふしがあるせいか、信の方に心を傾けてくれたらしい。「家には上げられんぞ」と、門を開けてくれた。
安堵しながら、文也と颯介は、短く刈られた芝生を歩いて犬のそばに近寄った。ムギという名がぴったりの、綺麗な小麦色の柴犬だ。人懐こく尻尾を振り、二人を見上げている。
「噛まないですか」
「知らん。ムギに聞け」
重三の台詞に少々恐れながらも、文也は膝を折り、そっとムギの頭に触れた。嫌がる素振りもなくムギはしきりににおいを嗅いでいる。隣にしゃがんで背に触れる颯介にも尻尾を振って、人懐こく愛想を振りまいている。なんとも可愛らしい。
膝に身体を押し付けてくるので、文也はその顔を両手でわしゃわしゃといじくってやる。ムギはいっそう喜んでその手をぺろぺろと舐めた。犬の毛皮はほんのりと草のにおいがする。
その濡れた鼻がズボンのポケットをつつくのに気づき、右手を入れてスマートフォンを取り出す。ムギは機械本体ではなく、その先のにおいに尻尾を振っているらしい。
「覚えてるのか」
驚いて、問いかけてしまう。揺れる尻尾が何よりの答えに思えた。
「それはなんだ」
「これは、桜から……」貰ったと言いかけて、咄嗟に言葉を変える。「預かってるお守りです」
ほう、と思わず重三も感心したようだった。ムギは間違いなく、桜のお守りに反応している。九年も前に自分を拾った恩人のことを、今も律儀に覚えているらしい。
「犬は三日の恩を三年忘れんと言うが、ムギはその通りだな」
「賢いね。きみは、桜ちゃんのことをずっと覚えてたんだ」
颯介もムギを褒め、その頭を撫でてやる。ムギが舐めないよう、手でそっとお守りを包みながら、「すごいな」と文也も口にした。
二人の台詞よりも、飼い犬の様子を見て、老人は信用してくれたようだった。ムギが下に隠れていた縁側に座ることを許し、冷えた麦茶を出してくれた。
縁側で、ムギは貰ってきてから病気一つしていないという話を聞いた。大きく体調を崩すこともなく、この九年間元気に成長したそうだ。
「残り物には福があるというが、ムギは福だったんだろう」
重三は感慨深げに言う。その様子から、桜が拾った子犬は随分可愛がられて育ったのだと知る。その犬は今まさに、地面に伏せて舌を出し、軒先から蝉が飛んでいくのを見つめている。綺麗な瞳だ。
軽く世間話をしていると、「今は天方というのか……娘さんは、あまり良くないのか」と重三が切り出した。
「会う機会がなかったからよう知らんが、小さい頃から病弱だったそうだな。入院はもう長いのか」
「入院は……」咄嗟に様々な感情が混ぜこぜになるが、なんとか文也は台詞を続ける。「短くはないけど、きっと良くなります。外泊の時に、みんなで遊びに行ったし」
なあ、と颯介の方を見る。察した彼も頷いてくれた。
「そんならすぐに良くなる。大人になって身体が丈夫になれば、自然と病気も治るだろ」
嘘をついている罪悪感が、文也の心に突き刺さる。それを堪えてなんとか頷く。
「引っ越した後に聞いたんだが、天方さんのところも大変だったそうだからな。これからは良い方向に向かうはずだ」
伏せていたムギが立ち上がった。縁側に前足をかけ、文也の隣の空を見つめて尻尾を振る。重三は訝しげだが、文也と颯介は、そこに桜がいるのだと気が付く。ムギには見えているのかもしれない。きっと桜は頭を撫でているのだろう、だから嬉しそうに尾を揺らしている。
しばらくしてから最初に言った通り、ムギの写真を撮ると宗像家を後にすることにした。
「気いつけて帰れ」
門先の老人に一礼し、尾を振る犬に手を振って、文也と颯介は日中の日差しの中、駅に向かった。一時間に一本しか来ない電車を二人で待つ。
「いい所だな」
小さなホームの向こうに、ナスやキュウリが実る畑を見ながら颯介が感慨深げに言った。
「何もないし不便だぜ」
「夏休みだけでも過ごしてみたいよ」
「それぐらいがちょうどいいかもなー」
ベンチで話しながら、撮ったばかりのムギの写真を共有する。庭先で賢くお座りをしている一枚。欲しいと言ったから桜にも送信する。
saku:可愛かったね。私のこと覚えてたの、感動しちゃった!
文也の横に座る桜は、嬉しそうにはしゃいでいる。ムギを見つけることが出来てよかったと、文也は心の底から思う。ようやくやって来た電車に乗り、一息ついた。
「これで、桜ちゃんの心残りも解消できたかな」
隣に座る颯介の台詞に、文也はすぐに返事ができなかった。
心残りがなくなれば、桜は向こうにいってしまう。二度と連絡は出来なくなる。寂しくて仕方がない。
「……そうかもな」
だが、今の状態はきっと良いものじゃない。自分の寂しい気持ちだけで、桜をこの場に縛り付けるわけにはいかない。だから今日、こうして杉ヶ裏まで足を運んだのだ。
分かってはいるものの、文也はため息を堪えるほかなかった。
「またな、フミ」駅で颯介は片手をあげる。「桜ちゃんも、元気でね」
彼も思うことが山ほどあるのだろう。少し辛そうな表情で、それでもなんとか笑っている。颯介と桜も、互いに大切な友人同士なのだ。
saku:颯介くん、助けてくれてありがとう。
saku:これからも元気でいてね。
文也が画面を見せると大きく頷き、「それじゃあ」と名残惜しそうに背を向けて去っていった。一度遠くで振り返るのに、文也は大きく右手を振った。
颯介と別れ、夕刻の橘町を歩く。
saku:もう、お別れだね。
そうだな、と呟いた。胸が締め付けられてたまらない。二度も桜と別れなければならないのが辛くてしょうがない。
saku:ありがとう。ムギくんが元気なのを見られてよかった。
saku:颯介くんと薫子さんにも、もう一度お礼言っておいてね。
「わかった」
ふとすれば泣いてしまいそうで、文也は懸命にそれを我慢する。もう声を出すのもやっとだ。息をするのさえ辛い。
saku:じゃあね、ふー。元気でね。
それを最後に、桜のメッセージは途絶えた。堪らずに「桜」と何度か呼んでみたが返事はない。消えてしまったのだろう。いくべきところに、いってしまったのだ。
これでよかった。よかったんだ。
何度も自分に言い聞かせ、それでも文也は少しだけ泣いた。
最近はしょっちゅう桜とやり取りをしていたから、久々に静かな夜だった。夕飯を共にする母には、「ぼーっとしてるけど、夏バテ?」と聞かれるほどには心ここにあらずの状態だった。
途方もない喪失感に襲われながら、静かな部屋で眠りについた文也は、やがて変わらない朝を迎える。ああ、そういえば、桜はもういないんだ。起き抜けから重い気持ちになる。これが当たり前だ、死んだ人間と意思疎通が図れていた日常の方が、特別だったのだ。言い聞かせながら少しぼんやりした後に、充電中のスマートフォンのライトが点滅しているのに気づいた。手に取ってスイッチを押す。「新着メッセージがあります」。
saku:おはよう。
変わらない言葉が、そこにあった。