「おーい、雨宮」
間延びした声に呼び留められて、雨宮律は後ろを振り返る。
薄ぶちの眼鏡をした40半ばほど男が用紙を片手に小走りで向かってくる。担任の先生だということに気が付いた律は足を止めた。
「すまんな、帰り際に」
「いえ」
「これ、この前お前が休んだ時に配ったプリントだ」
差し出されたプリントに目をやると、そこには『進路希望調査』とタイトルが太字で書かれている。
「お前は成績もいいし、今の成績キープすれば大丈夫だろ。高2でまだ早いと思うかもしれんが、志望校選びは重要なことだからしっかり考えとけよ」
「……はい」
ぽん、と軽く肩を叩かれ、担任は去っていった。
渡された用紙をじっと見つめ、軽く息をつく。大人の言う大事な将来とは、大概相場が決まっている。
たった1枚の用紙で自分の未来が左右されているかと思うと、うんざりした。
さっきまで考えていた曲のフレーズを台無しにされた気さえして、律は手にした用紙を鞄の奥底に無造作に押し込んだ。
初めて動画サイトに曲を投稿したのは高校1年の3月5日のことだ。
律にとって初めてのその曲は満足のいくようなものではなかった。伝えたい気持ちの1パーセントも歌詞として当てはめられなかった。
それでも動画を投稿することにした。世界に何十、何万、星の数ほどある音楽の中に埋もれて誰の心に残らずともいいと本気で思っていた。むしろそのほうがよかったのかもしれない。
あのコメントが来るまでは。
『ほんの少しだけ、自分を許そうと思えました』
ずるい、と律はそのコメントを読んで思った。
自分の作った音楽が画面の向こう側の顔も知らない誰かにとって、ほんの少しでも意味を持ったことが。
それだけのことが……死ぬほど嬉しいだなんて、知りたくはなかった。
律のバイト先は律の母方の叔父が経営するジャズバー『Midnight blue』だ。
高校から家まで間を途中下車して、雑踏としたネオン街の外れにそれはある。
律は叔父から預かっている鍵で裏口のドアを開け、店の中へ入った。店内はお客用のテーブルとイスが数組程度あり、淡いライトで照らされた小ステージには窮屈そうにグランドピアノが鎮座している。
「やるか」
律は制服のジャケットを脱ぎ、深呼吸をした。ウィスキーのつんとした香りが鼻を掠める。
仕事の内容は簡単な雑務だ。掃除と洗い物ほどであとは自由にしていいと叔父から言われている。
まずは床掃除から始めるか、と律はモップを取りにスタッフルームへ向かった。
音楽に限らず、創作というものは厄介なものだ。
一度行き詰まるととことん進まなくなる。ひねり出そうとすればするほど暗雲立ち込める。まるで出口のない帰路を延々と歩かされているような気分だ。
「ああああ、びっくりするぐらいなんも思い浮かばない……」
律は目の前にあるPCのピアノロール画面を睨みつけ、思いっきり頭を掻きまわした。昨日と全く変わらない画面を見るのすら嫌になってきて、天井を見上げた。
この部屋は元々リハーサル室として用意されていた部屋だ。が、ほとんど使われず物置と化していた。無造作に積まれたレコードやら使われていない楽器やらが山積みになった部屋の一角に無理やりPCと電子ピアノを置いている。二畳ほどのスペースが律の作業部屋だ。
スマホを確認すると、作業を開始してからすでに3時間は経っている。
「はあ……休憩するか」
肩を回しながら立ち上がった。
耳心地のいい落ち着いたピアノの旋律が聞こえる。
店内へ顔をのぞかせると、見知った常連客達がグラスを傾けながら各々演奏に耳を傾けていた。バーカウンターには律もよく顔を合わせる常連の老年男性がいた。その男性と話に花を咲かせていたバーテンダーの男が律に気付く。
「おっ、律。精が出るな」
「……叔父さん」
今年で50とは思えない人懐っこい笑顔のバーテンダーの男は、律の母方の叔父であり、このジャズバーを経営する店長の朝川和久だ。
「どうよ、順調か?」
「……まあ。割と」
「うはは、嘘こけ。調子いい時の顔じゃねえだろ、お前」
「うるさい」
「はいはい、そういうことにしといてやるよ」
軽くあしらわれてむっとするが、あえて口にすることはしなかった。
「ちょっとコンビニ行ってくる」
「まだ寒いからなんか羽織って行けよ」
「はいはい」
「あと歯磨き粉も買ってきてくれ。一番すーすーするやつ」
「手数料取るけど?」
「バイト代減らすぞコラ」
叔父との軽口もそこそこに老年男性に軽く会釈して立ち去ろうとして、呼び止められる。振り返ると老年男性が柔らかく笑みを浮かべた。
「音楽は楽しいかい?」
「……」
律は口を噤んだ。そして、ぎこちない曖昧な笑みを返してその場を後にした。
春の夜が律は一番好きだった。
コンビニまでの道沿い、桜並木には一面桜の花びらが落ちて桜色の絨毯が広がっている。
まだ背筋をなぞるような寒さに思わず背を丸めながら、たどり着いたコンビニに入って眠気覚ましのコーヒーを購入する。店内は店員と律以外は誰もいない。
律はイートインスペースでひと休みすることにした。
スマホで自分の動画サイトのチャンネルを開いて、投稿した曲をタップする。相変わらず再生回数は100回にも満たない。コメントも律のものを抜けば一件だけ。
『ほんの少しだけ、自分を許そうと思えました』
何度も読み返した。たった20文字の感想を、行き詰るたび読み返した。
初めて投稿した曲から今日まで約1か月程度たったが、次回作はいまだに完成していない。
この人は、俺の曲が投稿されるのを待っていてくれるだろうか。期待して待っていてくれているだろうか。
何気なく、その人のアイコンをタップしてアカウントを見てみる。
アカウント名は『透』。
想像通りなにも投稿していないROM専用のアカウントだった。ただ、紹介文にURLのリンクが貼ってある。そこをタップし、しばらくダウンロードが終わるのを待っているとSNSのサイトに繋がった。
フォロー数もフォロワー数も30人ほどしかいないアカウントだ。同じく名前は『透』。
あまり更新していないようだ。ぽつりと一言程度の投稿が続いている。読み飛ばしながらスクロールして、律は指を止めた。
文章はない。ただ画像が一枚投稿されているつぶやきがあった。律はその画像をタップして拡大させる。
「あ」
思わず声が出た。
その画像の投稿日は3月9日。
薄花色を真っ暗な夜に上から数滴溶かしたような背景に一人の少女を頼りない月光が照らしている。胸元を握りしめ、息すら吸えない世界でそれでも歌おうとする少女。そんなイラストだった。
直感した。これは、律が作曲した歌詞のワンフレーズを切り取ったものだ。
心臓が早鐘を打っている。律の頭の中で空中分解していた音たちが一斉に整列し始める。
頭の中に音たちを書き写さなければ手のひらから溢れて零れてしまいそうだ。
律は慌てて残りのコーヒーをあおった。熱すぎて少しだけ咽る。しかしその熱さを忘れるほどの高揚感が律を支配していた。
早く。早く、鍵盤を叩かなければ!
この音たちが逃げてしまわないように。ひと音も逃してしまわないように。律は飲み干したコーヒーカップをゴミ箱に放り投げて店内を出る。
次第に足が駆けていく。息苦しくなるほどの早さで春の夜を走り抜ける。
律の夜はまだ始まったばかりだった。
「玉手箱でも開けたんか?」
店内でモップ掛けする律を見るなり、和久からの第一声がそれだった。
あの日から一週間が経とうとしている。この一週間が律の人生の中で一番PCに齧り付いた期間だった。病的ともいえるほどに。その証拠に律の顔は寝不足による濃い隈によって、別人のようにげっそりとしている。
PCの前にいた時間以外の記憶がほぼない。今日学校からバイト先までどうやって来たのかも曖昧なくらいだ。
和久は軽く律の頭を叩いた。
「お前もう家帰って寝ろ」
「は? やだよ」
「律く~ん? おじさんは可愛い可愛い甥っ子を思って言ってるんですけど?」
「大丈夫だよ、俺若いから。おじさんと違って」
「年齢マウントはやめろ」
「だって」
「だってもくそもありませ~ん」
「……あとちょっとなんだ」
あと少しで完成する。今を逃したらもう二度とこの曲は完成しないような気がして、律は取り憑かれたように曲作りに熱中していた。
彷徨える子羊みたいな背中を前にして、和久は言葉を詰まらせた。こういうとこ、本当に姉さん譲りだよ、ほんと。そんなことをごちて、両手を挙げた。
「あーはいはい、分かった。俺の負けだ」
律の顔つきが明るくなる。すっかりなくなったと思っていた可愛げが垣間見えて、和久は少しだけ笑いそうになる。だから甘やかしたくなってしまうのだ。
「ただ条件付きな。とりあえず飯買ってきてやるから、その間スタッフルームのソファで仮眠取れ」
「……分かった」
珍しく聞き分けよく、律はスタッフルームへ姿を消していった。その背中を見送って和久は薄く笑う。
「まったく手のかかる甥っ子だな」
尻ポケットに財布をしまい込んで、甥っ子の好きな鮭のおにぎりでも買ってきてやろうと店内を後にした。
人間というものは睡眠の臨界点に達するともはや眠くならないらしい。
身体は睡眠と休息を欲しているのに、アドレナリンが噴き出して動けと命令しているようだ。ソファの上で何度目かの寝返りを打って、律は眠気を待つのを諦めた。
気を紛らわせるためにスマホを取り出して、SNSを開く。検索履歴から『透』のアカウントを見つけ、タップする。
我ながら気持ち悪いなと自覚しつつも、そのアカウントを見ることが律のお決まりだった。
『透』は早くて3日に1回、遅いと1週間に1回ほどしか更新がない。それでも過去のつぶやきから『透』が学生であること、猫が好きなこと、午後の授業が眠いこと、お気に入りのアクリル絵の具があること。そんな些細な日常を知ることが出来た。
もし自分に思い切りの良さがあるならば、すぐにでも『透』に聞いてみたかった。
あの絵は俺の曲ですか? と。DMで送ってみようかと文字を打ち込んで、やはり送信ボタンを押すことを躊躇する。消してはまた書いて消してを繰り返す。
「あーだめだ……」
気を紛らわせるために無理やり目を瞑る。瞼の裏側の星の数でも数えているうち、律の意識は落ちていく。ほんの少しスマホ画面に親指が触れたタップ音にすら気が付かずに。
「……い、おー……おーい、律。律起きろ!」
乱暴に大きく揺さぶられ、律の意識が徐々に覚醒していく。極めつけに耳心地の良いとは言い難いおっさんの声が耳元で爆発した。
「飯だぞ起きろ!」
「だあっ!」
条件反射で律の身体が勝手に飛び跳ねた。きょろきょろ回りを見渡すと、腹を抱えながら豪快に笑う叔父の姿をとらえる。
「……もっと起こし方あったでしょ」
「あっはっは、悪いな。あんまりにすやすや寝てるもんで、つい」
すやすやと寝てる甥っ子を爆発音で起こす叔父ってなんだよ、と律は心の中で悪態をつくがあえて口に出すまい。こちらがムキになればなるほど喜ぶ男だから。
「で、何」
「飯買ってきてやったぞ、感謝しろ~?」
差し出されたコンビニの袋の底を両手で受け取ると、じんわりと温かい。袋を開いてみれば律の好物の鮭のおにぎりも入っている。
「……ありがと」
「それ食って頑張れ」
「ん、がんばる」
和久が律の頭をぐしゃぐしゃと景気よく撫でる。高校2年にもなって叔父に撫でなれるのは妙に落ち着かなくて、律は逃げるように手を払いのけた。視線をずらした先で、スマホが床に転がっていた。どうやら寝ている間に律の手からすり抜けて落ちてしまったらしい。落ちたスマホを拾い上げ、電源ボタンを押した。
「あ、あ……ああああ!?」
「だあっ、びくりした!? な、なんだよ!?」
目を丸くする叔父のとこなど構わず、画面を凝視した。そこには眠りに落ちる直前に開いていた『透』とのDM画面が映し出されていた。問題は、消し忘れた文面が誤って『透』に送られてしまっていたことだ。
しかし、律にとってそれはもうどうでもよいことだった。
『あの絵は、俺の曲ですか?』
そのメッセージの続きはこうだった。
───未読メッセージが一件あります。
『どうして分かったのですか?』
律は週に1回、作業を早めに切り上げてバイト先から自宅までの道すがら、花屋に寄る。春一色に染まる店先で売られていた薄桜色のつぼみに惹かれて、桜の切り花を一輪買った。イヤホンで音楽を聴きながら歩いていると、見慣れたマンションがもうすぐそこだ。いつも通り、律の住む部屋に明かりはなかった。
自宅のドアを開け、律はリビングの電気をつける。そうして、リビングのテーブルの片隅に置かれた写真立てに律は声をかけた。
「ただいま、母さん」
一輪挿しの陶器に桜の切り花を挿した。
「いいでしょ、桜の花。外はもうすっかり春になったんだよ」
話しかけた写真から、当然返事は返ってこない。構わずに続ける。
「俺さ、今春の曲を作ってるんだ。きっと母さんも気に入るよ。……完成したら、母さんより先に聴いてほしいひとがいるって言ったら、怒る?」
ゆっくりと目を閉じる。薄花色の淡さだけが、今も瞼の裏側に焼き付いて離れない。
「あの人がこの曲を聴いたら、どう描いてくれるのか、知りたいんだ」
たった3分19秒の音に乗せた、523文字の言の葉を、4000ピクセルの枠組みにすべてを描きだしてくれたように。いつか律の心の中だけで描いた光景をあの青で描いてくれると確信していた。
スマホを取り出す。結局返信できなかったメッセージの続きを送る準備はすでに出来ていた。今度は事故なんかではなく自分の意志で、送信ボタンを押す。
『俺と音楽ユニットを組みませんか。あなたに俺の曲を描いてほしいんです』
数分後に既読が付いたメッセージへ、『透』から返信が返ってきたのはその日から約1週間後のことだった。たった、一文だった。
『ごめんなさい、』
我ながら単純だと笑いたくなるが、律は久々に熱を出して3日ほど寝込んだ。
*
好きな色は何色か、と問われたらさんざん悩んだ末、青色だと答えるだろう。
限りなく透明な青が笹原透花の一番好きな色だった。
「透花せんせー!」
絵画教室『アリスの家』は今日も学校帰りの小学生たちの声で賑わっている。透花はセーラー服の上からグレーのエプロンを羽織り、肩ではねる黒髪をゴムで一つにまとめる。
呼び声に急かされながら、教室のドアを開けた。油絵のつんとした残香が透花の鼻を擽る。壁に掛けられたいくつもの絵画と、ビニールシートを引いた床に置かれたパステルカラーの机とイーゼル。ちびっ子たちが自由気ままに真っ白な紙に色をのせている。
「とーかせんせー! こっち!」
「はいはーい」
手招きする生徒のもとへ透花は小走りで駆け寄る。ほくほくと頬を紅潮させた男の子がどうだと言わんばかりに腰に手を当てた。この数日手掛けていた作品が彼の満足のいく出来になったのだろう。どれどれと見てみれば、昨日までは五部咲きほどだった川沿いの桜並木が満開に花咲いている。
「どうだ!」
「うん、すごくよく描けてるよ」
「でしょ~!?」
透花は小さな拍手を送った。そうして男の子にもう少しだけアドバイスをしている透花の背中に向かって、落ち着いた男性の声が聞こえてくる。
「透花ちゃん、いらっしゃい」
「優一先生」
おっとりした優しい笑みを浮かべる眼鏡の男性は、この絵画教室『アリスの家』の先生である、有栖川優一だ。
透花が小学生の時からの付き合いになる。そして『アリスの家』は今や透花のバイト先だ。小学生たちが来る夕方のうちは『透花先生』としてバイトし、日が落ちる時間からはこの教室の一生徒としてキャンパスに向き合うのが日常だった。
「ごめんね。高校入って早々だし、忙しいだろう?」
「いえ、わたし部活入ってないので大丈夫ですよ。それにここに来ないとなんだか落ち着かないし」
春から透花は高校一年生になり、セーラー服が可愛いことで有名な女子高に進学した。地元からそれほど遠くない高校だから、中学校からの友人も何人か進学しているおかげで今のところ高校生活は順調だ。
他愛ない会話を弾ませていると、透花は伝言を頼まれていたことを思い出した。
「あ、そういえば今日は佐都子は休みだそうです」
「そうなのかい?」
「委員会が長引いているらしくて。急ですいませんって佐都子から」
緒方佐都子は、この教室に通う透花の友人だ。同い年の佐都子とは、中学から別々の高校に進学してからもまめに連絡を取り合う仲だった。透花と同じく、バイトとして定期的にこのアトリエに通っているが、ここ最近は高校の方が忙しいらしくあまり顔を出していない。
「いいよいいよ。そっか、じゃあ今日は透花ちゃんの貸し切りになるね」
「……いいですか?」
「もちろん。でもあんまり遅くならないようにね」
「っ、分かりました!」
静かなアトリエを独り占めできる機会はあまりない。透花はほんの少し胸を弾ませながら、優一に元気よく返事をする。
「とーか先生! こっちきてー!」
「はーい」
呼びかけられた透花の足取りが、さっきよりも上機嫌に軽やかな足を音を立てながら向かっていくのを見て、優一は穏やかにほほ笑んだ。
アクリル絵の具や油絵の具でキャンパスを彩るのも好きだが、最近はデジタルイラストの練習もしている。しかし、構図や背景の配色を考えるときはスケッチブックに鉛筆を走らせるほうが好きだった。いくつもパターンを考えて、鉛筆を走らせてラフ画を描くと胸が躍り出す。どんな色をのせよう。どんな線で描くのがいいだろう。ついつい時間を忘れて夢中になってしまう。
透花は机にスケッチブックを広げお気に入りの鉛筆で描く。耳にはイヤホンをつけて、あの曲を聴きながら。そうしていると、どんどん描きたい光景が浮かんでくるのだ。
透花はあの曲にすっかり心を鷲掴みされていた。
だから、イラストを描こうと思った。曲を投稿した人がもしかしたら見てくれるだろうか。そんな淡い期待を持ちながら、普段はあまり更新しないSNSに完成したイラストを載せた。当然のことながら都合のいいことは起こらず、透花にその人から連絡はなかったが。
イヤホンから流れる曲に耳を澄ませたときだった。
「──熱心だね、透花」
「っ、わあっ!?」
唐突に、透花の顔を覗き込むように乗り出してきた。思わずスケッチブックの上に身体を覆いかぶせて、見られないようガードする透花を、猫のような双眸がじっと見つめている。
「び、びっくりさせないでよ、纏くん」
「驚かしてないよ、透花が集中してたからじゃん」
全く悪びれないすまし顔で言う学ラン姿の男の子は、今年中学二年生になる有栖川纏だ。有栖川優一の息子でり、透花とはこの『アリスの家』に通い始めたころからの付き合いになる。妙に現実主義なところがあって、どこかおっとりした優一とは正反対の性格をしている。
そして、纏が透花を呼びにやってくるということは、19時を回っているということだ。優一の計らいで、遅くまで開けてもらっているアトリエを閉めにやってくるのが纏の役目だから。透花は広げたスケッチブックと筆箱を鞄に押し込んですぐに立ち上がった。
「ごめん時間忘れてて。すぐ出るよ」
「そんな慌てなくていいよ。忘れ物ない?」
「大丈夫!」
二人でアトリエから出ると、纏は鍵を閉めて透花を振り返る。
「送ってく」
「えっ」
さらりと言ってのける纏を透花は驚嘆の声とともに凝視した。穴が開くほど見つめられて、耐え切れなくなったのか、纏が眉をへにゃりと寄せる。ほんの数か月前までは高かったはずの目線が、今や同じくらいの目線になっていることに透花は気が付いた。
「纏くん大人になったねえ、今ちょっとときめいた」
「はあ!?」
「姉さんは嬉しいよ、うちの子が順調に好青年に育ってるんだもん」
「あー頭撫でんな! いい加減やめろその子ども扱い!」
纏が透花の手を払いのける。透花は乱れた髪を直す纏を見て、昔は照れながら黙って撫でられていたころの幼い纏を思い出して、少しだけ寂しく思うが言葉に出すのはやめておくことにした。
「じゃあ折角だし送ってもらおうかな」
「……最初からそう言ってよ、もう」
しまらないじゃん、とつぶやいた纏の声は春の夜風に攫われて、透花の耳に届くことはなかった。
透花の家は『アリスの家』から徒歩15分程度の場所にある一軒家だ。
門戸の前まで到着し、お礼を言うべく透花は振り返った。
「そういえばこれ、お母さんから。おばさんにお礼で渡せって言われてた」
纏は思い出したように手にしてた紙袋を透花に差し出した。上等そうな和紙の紙袋だ。
「えっいいの?」
「まるふくの大福だって」
「まじ? ……でも急になんで?」
「……夕爾の制服のお古貰ったんだ。だからそのお礼」
紙袋を受け取る手がピクリと震えるのを、纏は見逃さなかった。しかし、固まったのはほんの一瞬で、次に瞬きをする頃にはいつも通りの透花がそこにはいた。
「纏くん急に身長伸び始めたからね。成長期?」
「……うん、最近は寝てると節々痛いかも」
「あーあ、そのうちわたし抜かされるよ」
「姉貴面する日も残りわずかかもね?」
「あー生意気! ぱんち!」
「いたっ」
他愛もない冗談を何往復かしてひとしきり笑いあった後、纏はじゃあまた、と軽く手を振って来た道を引き返していく。その後ろ姿に手を振り返し、遠ざかっていくのを見守ってから透花はようやく手を止めた。
『もー、意見がまとまらなさ過ぎて最悪だったの!』
「あはは、それは災難だったね」
友人である佐都子から電話がかかってきたのは、透花がお風呂から上がって髪を乾かし終わるころだった。
電話口からでも分かるほど怒り心頭のようだ。透花は冷蔵庫から水のペットボトルを取り出して、2階にある自室へ向かう。
『それに先輩もいなかったし』
「先輩?」
『そそ。その先輩目当てに委員会入った女子がちらほらいて、今日出席してないと知るや否やよ。表立って人気ってわけじゃないけど、水面下で人気あるの』
「さすが共学。バチバチしてるわ」
『当ったり前よ。こちとら血気盛んなお年頃なんだからさ。で、そっちはどう?』
「まあ、あんまり変わんないよ。顔見知りばっかだし」
作業机のPCの電源を押して、イスに腰掛ける。鞄からスケッチブックを取り出し、今日書いた下書きの一ページを抜き取った。その一ページをスキャナーで下書きをスキャンし、PCにデータを取り込む。
『ふうん? 纏から聞いた話となーんか違うな』
「……纏くんから?」
『なんか急にやる気になった、連日連夜まで作業してるって。どうしたの? 急にスイッチが入った理由は?』
今まさに透花の手にペンが握られていることもお見通しなのか、と疑いたくなる鋭い突っ込みだ。
素直にその理由を答えてもよかったはずだ。しかし、透花の口からあの曲のことを言うのはどうしてか憚られた。
「んー、まあ、なんとなくだよ」
『なんとなく? 透花がぁ?』
「……あーまって、なんかメッセ来たみたい!」
誤魔化すには絶妙なタイミングで透花のスマホにメッセージが入る。スマホのロック画面に見慣れないアカウントからメッセージが一件入っていた。
どうやらDMで送られたものらしい。スパムか何かだろうか? と思いながらメッセージを読む。
「あ、あ、あ、ああああああ!?」
『へっ、な何!?』
透花の大絶叫に呼応するように佐都子も声をあげる。
謝る余裕すらなく、透花はその画面を凝視した。
───未読メッセージが一件あります。
『あの絵は、俺の曲ですか?』
あの絵とは、透花の思い浮かべている通りなら、あの曲を描いたイラストのことだろうか? それを俺の曲、というのなら。このメッセージを送ってきたのはまさしくあの曲を作った本人ということだ。
……見つけてくれたんだ、この人は。私の絵を見つけてくれた。
『……とーか? おーい、透花? 大丈夫?』
「ごめん、佐都子。今日はもう通話切るね」
『へっ? せめて状況の説明を、』
しんと静まり返った部屋で大きく息を吐きながら天井を見上げる。
透花はスマホに向き合い、文字を打つ。指先がほんの少し震えた。そうしてたった一言あの人にメッセージを送った。
メッセージが送信されたのを確認して、机の上にスマホを置く。緊張で力が入っていたのか、頭を使いすぎたのか、急に瞼が重くなるのを感じた。机に突っ伏して、夢の淵を微睡むうち透花の意識はだんだんと沈んでいった。
メッセージの着信音が再び鳴り響いたのにも気が付かずに。
その日、久々に夢を見た。
浮足立つ気分すら粉々に打ち砕く程の悪夢を。
紙吹雪が舞っている。
息を吹き込まれるはずだった物語たちは切り裂かれ、真っ黒に塗りつぶされ、無残に床に落下していった。
まるで地獄だ。耳を塞ぎたくなるような咆哮が鳴り響いている。二本の足がその無残に散った物語の死体の上で立ち尽くしていた。真っ黒な水溜まりが裸足に滲んでいく。足から徐々に視線が上がっていくほど、胸を激しく打ち付けるような鼓動が身体を支配する。
「なあ」
息が苦しい。酸素が奪われていく。暗闇より深い奥底を映したような二つの眼がこちらをじっと見つめていいる。それは、呪いの言葉だ。
一生染みついてとれない呪いの言葉。
「お前も俺に──死ねっていうのか?」
桜の花は連日の雨ですっかり落ちてしまったようだ。
最寄り駅を降りて、改札を通ると人々は一様に傘を開いて去っていく。透花もまた、手に持ったパステルカラーの傘を差して『アリスの家』に向かう。ローファーが雨の水を吸って歩き辛い。
雨の日は、『アリスの家』も閑散としている。小学生たちの賑わいが遠い昔のことのようだ。アトリエに顔を覗かせると、窓の外を眺めていた優一が透花に気付いた。
「今日はみんなお休みだって」
「……そうですか」
「うん。よかったら透花ちゃんが使って」
「……はい」
透花の肩をぽんと優しく叩いた後、優一はアトリエから出ていった。
一人残された透花は、イーゼルと描きかけのキャンパスを用意して席に腰を下した。座ったところで、絵の具を混ぜる気も続きを描く気も微塵も起きなかった。
創作とは厄介なものだ。一度行き詰まるととことん進まない。
線をなぞる様に描いていたころはどう描いていたのかすら思い出せない。粗を見つけるとどれもこれもが正解でないような気がして、一からすべてやり直したい気持ちになってしまう。スイッチが切れたようだ。そして、その理由を透花は分かっていた。
『俺と音楽ユニットを組みませんか。あなたに俺の曲を描いてほしいんです』
自分を見つけてくれたあの人。
透花の絵に価値を見出してくれたとするなら、これほど嬉しいことはなかった。
けれど。
けれど、透花は知っている。自分の創作が他者に評価される恐ろしさを。たかだか創作で、人の心がいとも簡単に砕けることを。
スマホの源ボタンを押してロックを解除すれば、何日も返せないままでいたDMが表示される。
最初から答えは出ていたはずだ。それを引き延ばし続けたのは、単なる自分のエゴだ。捨てきれなかったちっぽけなエゴ。
『ごめんなさい、』
一歩を踏み出す勇気はもう、無いんです。
*
3日ぶりの学校はうんざりするほど変っていなかった。
律は息苦しくなって、顔を覆うマスクを指でつまんで呼吸をする。治りかけの喉に春の乾燥した空気を送り込まれる。グラウンドから聞こえてくる野球部の声援をBGMに律は校庭の花壇に水撒きをしていた。
あれほど掻き立てられていた創作意欲はどこへ行ってしまったのか、無気力が頭を支配していた。むしろ今は音楽から遠ざかりたかった。花に無心で水をかけているほうが何も考えなくて済む。
『ごめんなさい、』
……ああもう、ほら、気が抜けるとすぐ思い出す。
大きく頭を振った。そのまま視線を下に向けると、いつの間にかホースの水の勢いがなくなっていることに気が付いた。どこかでホースがねじれたか、蛇口からホースが外れてしまったのだろう。律は重い足取りで手洗い場に向かう。
手洗い場には人影がった。蛇口を何度も捻りながら「もーなんで出ないんよ……やばいやばいバイト遅れる」とつぶやいている。手にじょうろを持っているところを見ると、律と同じ委員会の当番の最中のようだ。
「水でないの?」
「あーそうなん、で……ぎゃっ!! あ、あまみやせんぱい……」
後ろから唐突に声をかけたせいか、振り返った茶髪の女子は悲鳴を上げると律からすぐさま距離をとった。
「水やり当番の子?」
「ひゃっ、は、はい」
「あーほんとだ。水出ないね」
試しに律も蛇口をひねるが水は出ない。
「先生に言いに行かないとダメか」
「……ですよね」
「俺があとやっとくから、帰ってもいいよ」
「えっ、それはさすがに……」
茶髪の女子は目を見開いて、申し訳なさそうに眉を下げた。
「バイトあるんでしょ? 俺、この後も暇だから残りの仕事もやっとく」
「き、聞いてたんですか」
「じゃ、バイト頑張れ」
「……あ、あのっ、本当にすいません。ありがとうございます!」
茶髪の女子は律に頭を下げると踵を返した。手を拭くためか、スカートのポケットに手を入れてハンカチを取り出した時、一緒に何かが滑り落ちて地面に落ちる。
スマホだ。落とした本人はまだ気が付いていない。律は「ちょっと待って」と彼女を呼び留め、そのスマホを拾い上げた。
そして、固まった。
「す、すいません。ありがと……ひゃ!?」
スマホを受け取ろうと伸ばした手を律は咄嗟に掴んだ。目を白黒させて混乱する彼女を他所に、律はそのスマホから目が離せなくなっていた。
「雨宮……先輩?」
「……これ」
律はスマホの画面を彼女の眼前に持っていく。そこに映し出されたのは、ロック画面だ。律が何度も目にした、薄花色と月光のイラストが画面の中にあった。
どうかそうあってくれ、と縋るような気持ちで、目の前の少女に問いかける。
「きみが『透』?」
「……とおるって?」
現実は御伽噺のようにはいかなかった。見つめ返してくる無垢な瞳が律の淡い期待を無残にへし折る。
「ごめん。人違いだった」
薄く笑って、律は掴んだその腕を離す。
スマホを彼女の手に握らせた。そりゃそうだ。そんなうまい話があるわけもない。一刻も早くこの場から立ち去りたかった。
「それじゃあ、」
顔を伏せたまま彼女に背を向けたその時だった。
「あの!」
今度は逆に彼女が律の腕を掴んで引き留めた。無気力に振り返ると、目が合う。彼女は肩を跳ね上げて、掴んだ手を離した。そしてしばらく視線を泳がせた後、意を決したように口を開いた。
「雨宮先輩、このイラストの作者探してるんですか?」
心臓が口から出るのかというほど大きく脈を打っている。
「……知ってるの?」
燃え尽きた期待が、途端に膨れ上がっていく。
「私の友人です。名前は透花って言うんですけど……」
「本当に!?」
「きゃっ、」
少女の両肩を掴んで、律は目を見開いた。
「『透』を知ってるの!?」
「顔近っ、え、とあ、あの、『透』は透花のSNSのハンネなんですぅ……!」
「じゃあ!」
今からでも会って……、会って……何を言うんだ?
すんでのところで出しかけた言葉が喉の奥に引っ込んだ。
「……先輩?」
深く息を吐いて、律は『透』の友人の肩から両手を離した。血が上り切った頭に酸素を送り込み、いくらか冷静さを取り戻した。急いていた気持ちが先行しないよう努めながら、口を開いた。
「名前、教えてくれる?」
「私ですか?」
「うん」
「……佐都子です。緒方佐都子」
「緒方さん。明日、緒方さんに渡したいものがあるんだ」
「渡したいものですか?」
「そう。それを『透』に渡してほしい」
「まあ渡すだけなら……分かりました」
「ごめん、ありがとう」
律はその日、『Midnight blue』で久々にPCを立ち上げた。まだ歌詞すらのせていない未完成の曲をUSBに取り込む。ファイル名は『未成年失格.mp3』。そして、音声データとともに、メッセージを残した。返事を待ってる、と。
次の日、律はそのUSBを佐都子に手渡した。
みっともないと笑われても可笑しくないほど、最後の悪あがきだった。
*
パチンと、花火のように音が弾けた。
ワンテンポ遅れて、沈み込んでいた意識がぱっと蘇る。透花は何度か瞬きをした後、目の前で両手を翳している纏を見た。
「また透花どっか行ってたよ」
「……ごめん」
「別にいいけど。最近ずっと心ここにあらず、って感じだね」
「いやーはは、最近寝不足で。面目ない」
笑って誤魔化してみるものの、聡い纏は納得のいっていない様子で「ふーん」とだけ相槌を打った。
『アリスの家』は本日は休業である。
不定期開催の勉強会がアトリエで行われていた。透花の向かいの席に座る纏は、問題集とノートに目線を落としたまま、平坦な口調で透花へ質問を投げかけてくる。
「何かあった?」
「……へ?」
「急に絵、描かなくなったから」
「んースランプでね」
「うそ」
纏は滑らかにペンを走らせていた手を止め、顔を上げた。
「透花はスランプで描かなくなったりしないじゃん。むしろ一心不乱に描き続けるタイプのくせに」
よく分かっていらっしゃる、と透花は苦笑いを嚙み締めた。
「僕に言えないこと?」
「言えないかなぁ」
「だろうね。透花がスケッチブックに描いてた下絵と関係あるでしょ」
「……目敏いね、纏くん」
「まあね。いつも見てるから、透花のこと」
「こらこら。年上をからかうんじゃありません」
「ちっとも動揺してないくせに。よく言うよ」
通過儀礼のように軽口の応酬を終わらせると、ほんの少し、気詰まりした間が開く。
「──もう、終わったことだから」
その間を切り裂くように透花は呟いた。
終わったこと、正確に言えば透花が終わらせたことだ。彼からメッセージが送られてくることは、無いだろう。そして透花もまた、彼の曲を描くことはない。
「久々に描くのが楽しい、とかガラにもなく思っちゃった。でも、もうおしまい。……うん、大丈夫だよ。すぐまた元通りいつものわたしに戻るから」
熱に浮かされたような高揚感は、ほんの一瞬だけ透花の罪を忘れさせてくれた。けれど、ひと時の夢でしかない。夢は夢のまま、所詮現実には追い付けない。
にへらと透花が笑うと、険しい顔で纏は握りしめたペンを机に叩きつけた。激しい音に透花の肩が小さく跳ねる。……これは本当に怒っているときの纏だ。
「透花のそういうとこ、本当に大っ嫌いだ」
透花は苦笑する。だってわたしも、と同意しそうになったから。
「つまんないことばっか考えて、悪い方にばっか自己完結して、嫌になったらもう全部終わりにしちゃおうとか、描き続ける価値は自分にはないとか、そういうとこ全部! あいつが──」
「とーーおーーかーー!!!」
纏が勢いよく立ち上がった反動で転げた椅子の音と、破り倒さんばかりに開いたドアの音が重なった。押しつぶされるような沈黙が2秒ほど続く。
唐突な来訪者は焦ったように顔を傾げた。
「……え? 何この雰囲気。地獄?」
「佐都子」
来訪者の正体は、透花の親友の緒方佐都子だった。乱れた前髪の様子から、学校からここまで急ぎ駆けてきたことが伺える。
「どうしたのよ? 喧嘩?」
「あーはは」
透花は横眼で纏を見やるが、当の本人は不貞腐れたように顎を逸らすだけだった。これはしばらく口は聞いてもらえなさそうだ。
「佐都子の方こそどうしたの?」
「ああ、そうそう! そうなのよ!!」
「え? な、何? 近、近いよ?」
佐都子は机から身を乗り出して、透花の顔にまで急接近してくる。その様子はさながら不祥事を起こした政治家へマイクを突き付ける記者のようだ。
「透花、いつから雨宮先輩と知り合いになったの!?」
「……誰?」
「え?」
「ん?」
お互いの顔を見やる。
「いやいや、雨宮先輩よ?」
「うん、え? 誰?」
「だーかーら、雨宮先輩だってば! この前電話で言ってた!」
「あっ、思い出した! あの、密かに人気ある先輩だっけ?」
その人がなんだというのか、と透花は首を傾げた。残念ながら透花の高校は女子高であり、佐都子とは別の高校である。つまり、その雨宮先輩という人物は透花の知人の検索履歴には一件も引っかからないのだ。
「知り合いなんでしょ?」
「全く存じ上げないですけど……」
「ええ? じゃあ人違い? でもなぁ、『透』って言ってたし」
とおる。その単語に透花は耳を疑った。『透』は透花がSNSで使っているハンドルネームだ。リアルで知っている人なんて佐都子ぐらいなのに。
「透花のイラスト見て、急に態度が変わったからさ」
「わたしの?」
「うん。私のスマホのロック画面にしてるじゃん? それ見て急に、きみが透ですかって」
ありえない。そんなわけない、否定する言葉の数と同じくらい胸の奥底で期待が膨らんでいく。
「その人から、これを渡してくれって、頼まれたんだけど」
佐都子はスカートのポケットから取り出したのはUSBだった。手のひらに乗せられたそれを透花は握り閉める。
確たる証拠は、ない。しかし、透花はどこか確信していた。彼の最後の悪あがきであると。
「っ、纏くん!」
纏が怪訝な顔で片眉をぴくりとあげた。
「事務所のパソコン貸して!」
「……いいけど、」
纏の言葉は最後まで聞き取れなかった。否、聞く余裕は透花になかった。
立ち上げたPCにUSBを差し込んだ。
保存されていたのはmp3ファイルとテキストデータのふたつだった。Mp3ファイルのタイトルは『消せない春で染めてくれ.mp3』。
透花は直感した。彼の新しい曲だ。彼が透花に描いてほしいと言ってくれた曲だ。
そのファイルをクリックする。数秒のタイムラグの後、機械音でない、知らない男の人のハミング音が、ピアノの音とともに合わさって奏でられていく。
すべてを聴き終えた透花は、静かに息を吐く。いつの間にか、マウスを握る手に力が入っている。大きく開いていた穴が、たった4分にも満たない音楽でいとも簡単に掌握されていた。
「……ずるい」
透花の口から彼への悪態が漏れる。
ずるいよ、こんなの。こんな音楽を聴かされたら、もう、どうしようもない。
残るデータは、テキストデータのみ。そのデータを開くと、ただ一言『返事を待ってる』とだけ書かれていた。
*
───未読メッセージが一件あります。
『明日18時、○○駅前の公園でお会いできませんか』
そのDMが『透』から送られてきたのは、『Midnight blue』のバイトの真っ最中だった。律はそのメッセージを何度も読み直した。どうやら、見間違いではない。それでもまだ信じられなくて、ちょうどトイレから出てきた和久に頬をつねるよう頼むと、気味悪がりながら思いっきりつねられた。普通に痛かった。
夢じゃない。律は口を覆った手のひらの中でだけ「よっしゃあ!」と小さく歓喜の声を上げる。すぐさま気を取り直して、緩み切った自分の両頬を叩く。
スマホに文字を打ち込む。
返事の内容はもう、決まっている。
指定された駅は、学生や仕事帰りのサラリーマンやOLが乗り換えでごった返すターミナル駅だった。
律は人混みに押されながら、改札を通り駅を出る。目的地である公園に向かって歩き出した。心臓の音が反芻して耳に挿したイヤホンの音楽が全く入ってこない。
足元には連日の雨で落ちた桜の花の絨毯で一面埋め尽くされていた。すれ違う人々はみな、春風で振り落とされる花びらを見上げながら、惚けたように歩いている。
ただひとりだけ──律の視線の先で、足元を見たまま俯く人影を除いて。
彼女だ、と律は直感した。ここら辺では見かけない、セーラー服に身を包んだ小さな背中が不安そうに縮こまっている。肩上まで伸びた黒髪の隙間から、桜色の唇が固く結ばれているのが見えて、律の胸はさらに張り裂けそうになった。
春の甘い空気を胸いっぱいに吸い込んで、その背に律は声をかける。
「透さん、ですか」
細い肩が揺れて、伏せられていた顔が緩慢な動作で律を見上げる。
空の青さを数多にも重ね合わせたような深い色の瞳がこちらを見ていた。
ああ、このひとだ。彼女の瞳を通して映し出された世界から、あの透明な青が産み落とされたのだ。
彼女は胸の中で抱えたスケッチブックを強く両手で抱き締めて、意を決したように言う。
「あなたが、イツカさん……ですか?」
「うん、はじめまして。俺の本名は、律。雨宮律。きみは?」
「わたしは……、透花といいます。笹原透花」
とうか。律は口の中で転がすように復唱すると、すんと馴染む。彼女の名前にぴったりだと思った。
「あの、」
「えっと、」
ふたりの声が重なる。お互いぱちくりと目を合わせて、先に笑ったのは透花の方だった。笑い声に合わせて、黒い髪の先が緩やかに靡く。
「ご、ごめんなさい。すごく緊張してたから、今のでが肩の力が抜けてしまって」
「ああ、うん。それは俺も。昨日、全然寝られなかったし」
「わたしも全然寝られませんでした」
「俺だけじゃなかったんだ。ちょっと嬉しい」
透花は少しだけ目を見開いて、「ちょ、直球だ……」とさらに頬を赤く染めて、眉を下げた。
「えっと、あの、ですね」
「うん」
「まずは、これを返したくて」
律の前に何かを握りしめた手が差し出される。開いた手のひらにあったのは、USBだった。
え、と腑抜けた声が律の口から洩れる。
「ごめんなさい、」
その一言が重く、ただ重く、律に圧し掛かった。
「……って、言うつもりでした」
「へ?」
思わず表を上げると、透花は苦笑いをしながら続ける。
「わたしは絵しか描けません。それもすごく中途半端で、すぐスランプになるし、誰かに自分の絵を評価されることが怖くて仕方なくて、満足のいくものなんて何一つ描けなくて、自信もなくて、全部嫌になってもう描きたくないって投げ出すような弱い人間で、あなたが期待しているほどの才能も実力もないと思います」
「それは……違うよ」
「違うくない、です。わたしよりずっと、上手く描ける人はいっぱいいます。……けど、もう、どうしようもないじゃないですか。あんなの、聴かされて」
深い青の瞳の奥で、雨上がりに差し込む太陽の光のように輝いている。
「あんなの聴かされて、描きたくならないやつなんか、いませんよ」
「は、」
……なんていう、殺し文句だそれは。
「あの、雨宮さん? ど、どうかしましたか?」
「……いや」
「はい」
「……なんか、告白みたいだなって」
「なっ、」
言葉を詰まらせた透花は、ぽぽぽと効果音をつけたくなるほどm顔を真っ赤に染めた。そして、動揺のあまり、力が抜けて今まで両腕で抱えていたスケッチブックを地面に落としてしまう。そのタイミングを見計らったように、花嵐が吹き荒れる。風に攫われてスケッチブックから幾枚もの紙が一斉に舞い上がった。
──それは、透花が描いた世界のすべてだった。
はらり、と律の足元に落ちた一枚の紙を拾い上げる。
鼓動が激しく波打っている。恥ずかしさと、嬉しさと、言いようのない期待感。
「やっぱり、きみがいいよ」
本能が叫んでいた。彼女しかいない、と。律は透花に拾い上げた一枚の紙を差し出す。
「きみに、俺の曲を描いてほしい」
透花は春の陽光より淡く笑いながら、震える手でその紙を受け取った。
それが降参の合図だった。
*
「先生、すいません」
律の呼びかけに、よれた白いシャツの男が振り返った。薄ぶち眼鏡に律の顔が反射している。
「雨宮か、どうした?」
「遅くなりましたけど、これ、提出しようと思って」
鞄の奥底にしまい込んだまま、しわのついたA4用紙を律は担任に差し出した。その紙を受け取った担任はそこに綴られた文字を追って、顎を擦りながら頷く。
「あーはいはい、進路希望な。雨宮はー、大学進学希望、で大丈夫だな」
「はい」
「3年からは受験で忙しくなるからな。2年のうちに青春を謳歌しておけよ~?」
軽く律の肩を叩いて、担任は去っていった。
「……青春、ね」
しばらくその背中が遠ざかるのを眺めていると、ポケットの中でスマホが震えた。手に取って確認してみると、連絡先は『透花』と表示されている。きっと、新曲の最終確認のために連絡をしてきたのだろう。
電話口の向こうから興奮冷めやらぬ透花の声が聞こえてきて、思わず口元が緩む。なぜなら、律も同じように舞い上がっていたから。
猶予は、残り1年。
『音楽なんかで世界が救えない』ことを証明するために、律は音楽をする。
間延びした声に呼び留められて、雨宮律は後ろを振り返る。
薄ぶちの眼鏡をした40半ばほど男が用紙を片手に小走りで向かってくる。担任の先生だということに気が付いた律は足を止めた。
「すまんな、帰り際に」
「いえ」
「これ、この前お前が休んだ時に配ったプリントだ」
差し出されたプリントに目をやると、そこには『進路希望調査』とタイトルが太字で書かれている。
「お前は成績もいいし、今の成績キープすれば大丈夫だろ。高2でまだ早いと思うかもしれんが、志望校選びは重要なことだからしっかり考えとけよ」
「……はい」
ぽん、と軽く肩を叩かれ、担任は去っていった。
渡された用紙をじっと見つめ、軽く息をつく。大人の言う大事な将来とは、大概相場が決まっている。
たった1枚の用紙で自分の未来が左右されているかと思うと、うんざりした。
さっきまで考えていた曲のフレーズを台無しにされた気さえして、律は手にした用紙を鞄の奥底に無造作に押し込んだ。
初めて動画サイトに曲を投稿したのは高校1年の3月5日のことだ。
律にとって初めてのその曲は満足のいくようなものではなかった。伝えたい気持ちの1パーセントも歌詞として当てはめられなかった。
それでも動画を投稿することにした。世界に何十、何万、星の数ほどある音楽の中に埋もれて誰の心に残らずともいいと本気で思っていた。むしろそのほうがよかったのかもしれない。
あのコメントが来るまでは。
『ほんの少しだけ、自分を許そうと思えました』
ずるい、と律はそのコメントを読んで思った。
自分の作った音楽が画面の向こう側の顔も知らない誰かにとって、ほんの少しでも意味を持ったことが。
それだけのことが……死ぬほど嬉しいだなんて、知りたくはなかった。
律のバイト先は律の母方の叔父が経営するジャズバー『Midnight blue』だ。
高校から家まで間を途中下車して、雑踏としたネオン街の外れにそれはある。
律は叔父から預かっている鍵で裏口のドアを開け、店の中へ入った。店内はお客用のテーブルとイスが数組程度あり、淡いライトで照らされた小ステージには窮屈そうにグランドピアノが鎮座している。
「やるか」
律は制服のジャケットを脱ぎ、深呼吸をした。ウィスキーのつんとした香りが鼻を掠める。
仕事の内容は簡単な雑務だ。掃除と洗い物ほどであとは自由にしていいと叔父から言われている。
まずは床掃除から始めるか、と律はモップを取りにスタッフルームへ向かった。
音楽に限らず、創作というものは厄介なものだ。
一度行き詰まるととことん進まなくなる。ひねり出そうとすればするほど暗雲立ち込める。まるで出口のない帰路を延々と歩かされているような気分だ。
「ああああ、びっくりするぐらいなんも思い浮かばない……」
律は目の前にあるPCのピアノロール画面を睨みつけ、思いっきり頭を掻きまわした。昨日と全く変わらない画面を見るのすら嫌になってきて、天井を見上げた。
この部屋は元々リハーサル室として用意されていた部屋だ。が、ほとんど使われず物置と化していた。無造作に積まれたレコードやら使われていない楽器やらが山積みになった部屋の一角に無理やりPCと電子ピアノを置いている。二畳ほどのスペースが律の作業部屋だ。
スマホを確認すると、作業を開始してからすでに3時間は経っている。
「はあ……休憩するか」
肩を回しながら立ち上がった。
耳心地のいい落ち着いたピアノの旋律が聞こえる。
店内へ顔をのぞかせると、見知った常連客達がグラスを傾けながら各々演奏に耳を傾けていた。バーカウンターには律もよく顔を合わせる常連の老年男性がいた。その男性と話に花を咲かせていたバーテンダーの男が律に気付く。
「おっ、律。精が出るな」
「……叔父さん」
今年で50とは思えない人懐っこい笑顔のバーテンダーの男は、律の母方の叔父であり、このジャズバーを経営する店長の朝川和久だ。
「どうよ、順調か?」
「……まあ。割と」
「うはは、嘘こけ。調子いい時の顔じゃねえだろ、お前」
「うるさい」
「はいはい、そういうことにしといてやるよ」
軽くあしらわれてむっとするが、あえて口にすることはしなかった。
「ちょっとコンビニ行ってくる」
「まだ寒いからなんか羽織って行けよ」
「はいはい」
「あと歯磨き粉も買ってきてくれ。一番すーすーするやつ」
「手数料取るけど?」
「バイト代減らすぞコラ」
叔父との軽口もそこそこに老年男性に軽く会釈して立ち去ろうとして、呼び止められる。振り返ると老年男性が柔らかく笑みを浮かべた。
「音楽は楽しいかい?」
「……」
律は口を噤んだ。そして、ぎこちない曖昧な笑みを返してその場を後にした。
春の夜が律は一番好きだった。
コンビニまでの道沿い、桜並木には一面桜の花びらが落ちて桜色の絨毯が広がっている。
まだ背筋をなぞるような寒さに思わず背を丸めながら、たどり着いたコンビニに入って眠気覚ましのコーヒーを購入する。店内は店員と律以外は誰もいない。
律はイートインスペースでひと休みすることにした。
スマホで自分の動画サイトのチャンネルを開いて、投稿した曲をタップする。相変わらず再生回数は100回にも満たない。コメントも律のものを抜けば一件だけ。
『ほんの少しだけ、自分を許そうと思えました』
何度も読み返した。たった20文字の感想を、行き詰るたび読み返した。
初めて投稿した曲から今日まで約1か月程度たったが、次回作はいまだに完成していない。
この人は、俺の曲が投稿されるのを待っていてくれるだろうか。期待して待っていてくれているだろうか。
何気なく、その人のアイコンをタップしてアカウントを見てみる。
アカウント名は『透』。
想像通りなにも投稿していないROM専用のアカウントだった。ただ、紹介文にURLのリンクが貼ってある。そこをタップし、しばらくダウンロードが終わるのを待っているとSNSのサイトに繋がった。
フォロー数もフォロワー数も30人ほどしかいないアカウントだ。同じく名前は『透』。
あまり更新していないようだ。ぽつりと一言程度の投稿が続いている。読み飛ばしながらスクロールして、律は指を止めた。
文章はない。ただ画像が一枚投稿されているつぶやきがあった。律はその画像をタップして拡大させる。
「あ」
思わず声が出た。
その画像の投稿日は3月9日。
薄花色を真っ暗な夜に上から数滴溶かしたような背景に一人の少女を頼りない月光が照らしている。胸元を握りしめ、息すら吸えない世界でそれでも歌おうとする少女。そんなイラストだった。
直感した。これは、律が作曲した歌詞のワンフレーズを切り取ったものだ。
心臓が早鐘を打っている。律の頭の中で空中分解していた音たちが一斉に整列し始める。
頭の中に音たちを書き写さなければ手のひらから溢れて零れてしまいそうだ。
律は慌てて残りのコーヒーをあおった。熱すぎて少しだけ咽る。しかしその熱さを忘れるほどの高揚感が律を支配していた。
早く。早く、鍵盤を叩かなければ!
この音たちが逃げてしまわないように。ひと音も逃してしまわないように。律は飲み干したコーヒーカップをゴミ箱に放り投げて店内を出る。
次第に足が駆けていく。息苦しくなるほどの早さで春の夜を走り抜ける。
律の夜はまだ始まったばかりだった。
「玉手箱でも開けたんか?」
店内でモップ掛けする律を見るなり、和久からの第一声がそれだった。
あの日から一週間が経とうとしている。この一週間が律の人生の中で一番PCに齧り付いた期間だった。病的ともいえるほどに。その証拠に律の顔は寝不足による濃い隈によって、別人のようにげっそりとしている。
PCの前にいた時間以外の記憶がほぼない。今日学校からバイト先までどうやって来たのかも曖昧なくらいだ。
和久は軽く律の頭を叩いた。
「お前もう家帰って寝ろ」
「は? やだよ」
「律く~ん? おじさんは可愛い可愛い甥っ子を思って言ってるんですけど?」
「大丈夫だよ、俺若いから。おじさんと違って」
「年齢マウントはやめろ」
「だって」
「だってもくそもありませ~ん」
「……あとちょっとなんだ」
あと少しで完成する。今を逃したらもう二度とこの曲は完成しないような気がして、律は取り憑かれたように曲作りに熱中していた。
彷徨える子羊みたいな背中を前にして、和久は言葉を詰まらせた。こういうとこ、本当に姉さん譲りだよ、ほんと。そんなことをごちて、両手を挙げた。
「あーはいはい、分かった。俺の負けだ」
律の顔つきが明るくなる。すっかりなくなったと思っていた可愛げが垣間見えて、和久は少しだけ笑いそうになる。だから甘やかしたくなってしまうのだ。
「ただ条件付きな。とりあえず飯買ってきてやるから、その間スタッフルームのソファで仮眠取れ」
「……分かった」
珍しく聞き分けよく、律はスタッフルームへ姿を消していった。その背中を見送って和久は薄く笑う。
「まったく手のかかる甥っ子だな」
尻ポケットに財布をしまい込んで、甥っ子の好きな鮭のおにぎりでも買ってきてやろうと店内を後にした。
人間というものは睡眠の臨界点に達するともはや眠くならないらしい。
身体は睡眠と休息を欲しているのに、アドレナリンが噴き出して動けと命令しているようだ。ソファの上で何度目かの寝返りを打って、律は眠気を待つのを諦めた。
気を紛らわせるためにスマホを取り出して、SNSを開く。検索履歴から『透』のアカウントを見つけ、タップする。
我ながら気持ち悪いなと自覚しつつも、そのアカウントを見ることが律のお決まりだった。
『透』は早くて3日に1回、遅いと1週間に1回ほどしか更新がない。それでも過去のつぶやきから『透』が学生であること、猫が好きなこと、午後の授業が眠いこと、お気に入りのアクリル絵の具があること。そんな些細な日常を知ることが出来た。
もし自分に思い切りの良さがあるならば、すぐにでも『透』に聞いてみたかった。
あの絵は俺の曲ですか? と。DMで送ってみようかと文字を打ち込んで、やはり送信ボタンを押すことを躊躇する。消してはまた書いて消してを繰り返す。
「あーだめだ……」
気を紛らわせるために無理やり目を瞑る。瞼の裏側の星の数でも数えているうち、律の意識は落ちていく。ほんの少しスマホ画面に親指が触れたタップ音にすら気が付かずに。
「……い、おー……おーい、律。律起きろ!」
乱暴に大きく揺さぶられ、律の意識が徐々に覚醒していく。極めつけに耳心地の良いとは言い難いおっさんの声が耳元で爆発した。
「飯だぞ起きろ!」
「だあっ!」
条件反射で律の身体が勝手に飛び跳ねた。きょろきょろ回りを見渡すと、腹を抱えながら豪快に笑う叔父の姿をとらえる。
「……もっと起こし方あったでしょ」
「あっはっは、悪いな。あんまりにすやすや寝てるもんで、つい」
すやすやと寝てる甥っ子を爆発音で起こす叔父ってなんだよ、と律は心の中で悪態をつくがあえて口に出すまい。こちらがムキになればなるほど喜ぶ男だから。
「で、何」
「飯買ってきてやったぞ、感謝しろ~?」
差し出されたコンビニの袋の底を両手で受け取ると、じんわりと温かい。袋を開いてみれば律の好物の鮭のおにぎりも入っている。
「……ありがと」
「それ食って頑張れ」
「ん、がんばる」
和久が律の頭をぐしゃぐしゃと景気よく撫でる。高校2年にもなって叔父に撫でなれるのは妙に落ち着かなくて、律は逃げるように手を払いのけた。視線をずらした先で、スマホが床に転がっていた。どうやら寝ている間に律の手からすり抜けて落ちてしまったらしい。落ちたスマホを拾い上げ、電源ボタンを押した。
「あ、あ……ああああ!?」
「だあっ、びくりした!? な、なんだよ!?」
目を丸くする叔父のとこなど構わず、画面を凝視した。そこには眠りに落ちる直前に開いていた『透』とのDM画面が映し出されていた。問題は、消し忘れた文面が誤って『透』に送られてしまっていたことだ。
しかし、律にとってそれはもうどうでもよいことだった。
『あの絵は、俺の曲ですか?』
そのメッセージの続きはこうだった。
───未読メッセージが一件あります。
『どうして分かったのですか?』
律は週に1回、作業を早めに切り上げてバイト先から自宅までの道すがら、花屋に寄る。春一色に染まる店先で売られていた薄桜色のつぼみに惹かれて、桜の切り花を一輪買った。イヤホンで音楽を聴きながら歩いていると、見慣れたマンションがもうすぐそこだ。いつも通り、律の住む部屋に明かりはなかった。
自宅のドアを開け、律はリビングの電気をつける。そうして、リビングのテーブルの片隅に置かれた写真立てに律は声をかけた。
「ただいま、母さん」
一輪挿しの陶器に桜の切り花を挿した。
「いいでしょ、桜の花。外はもうすっかり春になったんだよ」
話しかけた写真から、当然返事は返ってこない。構わずに続ける。
「俺さ、今春の曲を作ってるんだ。きっと母さんも気に入るよ。……完成したら、母さんより先に聴いてほしいひとがいるって言ったら、怒る?」
ゆっくりと目を閉じる。薄花色の淡さだけが、今も瞼の裏側に焼き付いて離れない。
「あの人がこの曲を聴いたら、どう描いてくれるのか、知りたいんだ」
たった3分19秒の音に乗せた、523文字の言の葉を、4000ピクセルの枠組みにすべてを描きだしてくれたように。いつか律の心の中だけで描いた光景をあの青で描いてくれると確信していた。
スマホを取り出す。結局返信できなかったメッセージの続きを送る準備はすでに出来ていた。今度は事故なんかではなく自分の意志で、送信ボタンを押す。
『俺と音楽ユニットを組みませんか。あなたに俺の曲を描いてほしいんです』
数分後に既読が付いたメッセージへ、『透』から返信が返ってきたのはその日から約1週間後のことだった。たった、一文だった。
『ごめんなさい、』
我ながら単純だと笑いたくなるが、律は久々に熱を出して3日ほど寝込んだ。
*
好きな色は何色か、と問われたらさんざん悩んだ末、青色だと答えるだろう。
限りなく透明な青が笹原透花の一番好きな色だった。
「透花せんせー!」
絵画教室『アリスの家』は今日も学校帰りの小学生たちの声で賑わっている。透花はセーラー服の上からグレーのエプロンを羽織り、肩ではねる黒髪をゴムで一つにまとめる。
呼び声に急かされながら、教室のドアを開けた。油絵のつんとした残香が透花の鼻を擽る。壁に掛けられたいくつもの絵画と、ビニールシートを引いた床に置かれたパステルカラーの机とイーゼル。ちびっ子たちが自由気ままに真っ白な紙に色をのせている。
「とーかせんせー! こっち!」
「はいはーい」
手招きする生徒のもとへ透花は小走りで駆け寄る。ほくほくと頬を紅潮させた男の子がどうだと言わんばかりに腰に手を当てた。この数日手掛けていた作品が彼の満足のいく出来になったのだろう。どれどれと見てみれば、昨日までは五部咲きほどだった川沿いの桜並木が満開に花咲いている。
「どうだ!」
「うん、すごくよく描けてるよ」
「でしょ~!?」
透花は小さな拍手を送った。そうして男の子にもう少しだけアドバイスをしている透花の背中に向かって、落ち着いた男性の声が聞こえてくる。
「透花ちゃん、いらっしゃい」
「優一先生」
おっとりした優しい笑みを浮かべる眼鏡の男性は、この絵画教室『アリスの家』の先生である、有栖川優一だ。
透花が小学生の時からの付き合いになる。そして『アリスの家』は今や透花のバイト先だ。小学生たちが来る夕方のうちは『透花先生』としてバイトし、日が落ちる時間からはこの教室の一生徒としてキャンパスに向き合うのが日常だった。
「ごめんね。高校入って早々だし、忙しいだろう?」
「いえ、わたし部活入ってないので大丈夫ですよ。それにここに来ないとなんだか落ち着かないし」
春から透花は高校一年生になり、セーラー服が可愛いことで有名な女子高に進学した。地元からそれほど遠くない高校だから、中学校からの友人も何人か進学しているおかげで今のところ高校生活は順調だ。
他愛ない会話を弾ませていると、透花は伝言を頼まれていたことを思い出した。
「あ、そういえば今日は佐都子は休みだそうです」
「そうなのかい?」
「委員会が長引いているらしくて。急ですいませんって佐都子から」
緒方佐都子は、この教室に通う透花の友人だ。同い年の佐都子とは、中学から別々の高校に進学してからもまめに連絡を取り合う仲だった。透花と同じく、バイトとして定期的にこのアトリエに通っているが、ここ最近は高校の方が忙しいらしくあまり顔を出していない。
「いいよいいよ。そっか、じゃあ今日は透花ちゃんの貸し切りになるね」
「……いいですか?」
「もちろん。でもあんまり遅くならないようにね」
「っ、分かりました!」
静かなアトリエを独り占めできる機会はあまりない。透花はほんの少し胸を弾ませながら、優一に元気よく返事をする。
「とーか先生! こっちきてー!」
「はーい」
呼びかけられた透花の足取りが、さっきよりも上機嫌に軽やかな足を音を立てながら向かっていくのを見て、優一は穏やかにほほ笑んだ。
アクリル絵の具や油絵の具でキャンパスを彩るのも好きだが、最近はデジタルイラストの練習もしている。しかし、構図や背景の配色を考えるときはスケッチブックに鉛筆を走らせるほうが好きだった。いくつもパターンを考えて、鉛筆を走らせてラフ画を描くと胸が躍り出す。どんな色をのせよう。どんな線で描くのがいいだろう。ついつい時間を忘れて夢中になってしまう。
透花は机にスケッチブックを広げお気に入りの鉛筆で描く。耳にはイヤホンをつけて、あの曲を聴きながら。そうしていると、どんどん描きたい光景が浮かんでくるのだ。
透花はあの曲にすっかり心を鷲掴みされていた。
だから、イラストを描こうと思った。曲を投稿した人がもしかしたら見てくれるだろうか。そんな淡い期待を持ちながら、普段はあまり更新しないSNSに完成したイラストを載せた。当然のことながら都合のいいことは起こらず、透花にその人から連絡はなかったが。
イヤホンから流れる曲に耳を澄ませたときだった。
「──熱心だね、透花」
「っ、わあっ!?」
唐突に、透花の顔を覗き込むように乗り出してきた。思わずスケッチブックの上に身体を覆いかぶせて、見られないようガードする透花を、猫のような双眸がじっと見つめている。
「び、びっくりさせないでよ、纏くん」
「驚かしてないよ、透花が集中してたからじゃん」
全く悪びれないすまし顔で言う学ラン姿の男の子は、今年中学二年生になる有栖川纏だ。有栖川優一の息子でり、透花とはこの『アリスの家』に通い始めたころからの付き合いになる。妙に現実主義なところがあって、どこかおっとりした優一とは正反対の性格をしている。
そして、纏が透花を呼びにやってくるということは、19時を回っているということだ。優一の計らいで、遅くまで開けてもらっているアトリエを閉めにやってくるのが纏の役目だから。透花は広げたスケッチブックと筆箱を鞄に押し込んですぐに立ち上がった。
「ごめん時間忘れてて。すぐ出るよ」
「そんな慌てなくていいよ。忘れ物ない?」
「大丈夫!」
二人でアトリエから出ると、纏は鍵を閉めて透花を振り返る。
「送ってく」
「えっ」
さらりと言ってのける纏を透花は驚嘆の声とともに凝視した。穴が開くほど見つめられて、耐え切れなくなったのか、纏が眉をへにゃりと寄せる。ほんの数か月前までは高かったはずの目線が、今や同じくらいの目線になっていることに透花は気が付いた。
「纏くん大人になったねえ、今ちょっとときめいた」
「はあ!?」
「姉さんは嬉しいよ、うちの子が順調に好青年に育ってるんだもん」
「あー頭撫でんな! いい加減やめろその子ども扱い!」
纏が透花の手を払いのける。透花は乱れた髪を直す纏を見て、昔は照れながら黙って撫でられていたころの幼い纏を思い出して、少しだけ寂しく思うが言葉に出すのはやめておくことにした。
「じゃあ折角だし送ってもらおうかな」
「……最初からそう言ってよ、もう」
しまらないじゃん、とつぶやいた纏の声は春の夜風に攫われて、透花の耳に届くことはなかった。
透花の家は『アリスの家』から徒歩15分程度の場所にある一軒家だ。
門戸の前まで到着し、お礼を言うべく透花は振り返った。
「そういえばこれ、お母さんから。おばさんにお礼で渡せって言われてた」
纏は思い出したように手にしてた紙袋を透花に差し出した。上等そうな和紙の紙袋だ。
「えっいいの?」
「まるふくの大福だって」
「まじ? ……でも急になんで?」
「……夕爾の制服のお古貰ったんだ。だからそのお礼」
紙袋を受け取る手がピクリと震えるのを、纏は見逃さなかった。しかし、固まったのはほんの一瞬で、次に瞬きをする頃にはいつも通りの透花がそこにはいた。
「纏くん急に身長伸び始めたからね。成長期?」
「……うん、最近は寝てると節々痛いかも」
「あーあ、そのうちわたし抜かされるよ」
「姉貴面する日も残りわずかかもね?」
「あー生意気! ぱんち!」
「いたっ」
他愛もない冗談を何往復かしてひとしきり笑いあった後、纏はじゃあまた、と軽く手を振って来た道を引き返していく。その後ろ姿に手を振り返し、遠ざかっていくのを見守ってから透花はようやく手を止めた。
『もー、意見がまとまらなさ過ぎて最悪だったの!』
「あはは、それは災難だったね」
友人である佐都子から電話がかかってきたのは、透花がお風呂から上がって髪を乾かし終わるころだった。
電話口からでも分かるほど怒り心頭のようだ。透花は冷蔵庫から水のペットボトルを取り出して、2階にある自室へ向かう。
『それに先輩もいなかったし』
「先輩?」
『そそ。その先輩目当てに委員会入った女子がちらほらいて、今日出席してないと知るや否やよ。表立って人気ってわけじゃないけど、水面下で人気あるの』
「さすが共学。バチバチしてるわ」
『当ったり前よ。こちとら血気盛んなお年頃なんだからさ。で、そっちはどう?』
「まあ、あんまり変わんないよ。顔見知りばっかだし」
作業机のPCの電源を押して、イスに腰掛ける。鞄からスケッチブックを取り出し、今日書いた下書きの一ページを抜き取った。その一ページをスキャナーで下書きをスキャンし、PCにデータを取り込む。
『ふうん? 纏から聞いた話となーんか違うな』
「……纏くんから?」
『なんか急にやる気になった、連日連夜まで作業してるって。どうしたの? 急にスイッチが入った理由は?』
今まさに透花の手にペンが握られていることもお見通しなのか、と疑いたくなる鋭い突っ込みだ。
素直にその理由を答えてもよかったはずだ。しかし、透花の口からあの曲のことを言うのはどうしてか憚られた。
「んー、まあ、なんとなくだよ」
『なんとなく? 透花がぁ?』
「……あーまって、なんかメッセ来たみたい!」
誤魔化すには絶妙なタイミングで透花のスマホにメッセージが入る。スマホのロック画面に見慣れないアカウントからメッセージが一件入っていた。
どうやらDMで送られたものらしい。スパムか何かだろうか? と思いながらメッセージを読む。
「あ、あ、あ、ああああああ!?」
『へっ、な何!?』
透花の大絶叫に呼応するように佐都子も声をあげる。
謝る余裕すらなく、透花はその画面を凝視した。
───未読メッセージが一件あります。
『あの絵は、俺の曲ですか?』
あの絵とは、透花の思い浮かべている通りなら、あの曲を描いたイラストのことだろうか? それを俺の曲、というのなら。このメッセージを送ってきたのはまさしくあの曲を作った本人ということだ。
……見つけてくれたんだ、この人は。私の絵を見つけてくれた。
『……とーか? おーい、透花? 大丈夫?』
「ごめん、佐都子。今日はもう通話切るね」
『へっ? せめて状況の説明を、』
しんと静まり返った部屋で大きく息を吐きながら天井を見上げる。
透花はスマホに向き合い、文字を打つ。指先がほんの少し震えた。そうしてたった一言あの人にメッセージを送った。
メッセージが送信されたのを確認して、机の上にスマホを置く。緊張で力が入っていたのか、頭を使いすぎたのか、急に瞼が重くなるのを感じた。机に突っ伏して、夢の淵を微睡むうち透花の意識はだんだんと沈んでいった。
メッセージの着信音が再び鳴り響いたのにも気が付かずに。
その日、久々に夢を見た。
浮足立つ気分すら粉々に打ち砕く程の悪夢を。
紙吹雪が舞っている。
息を吹き込まれるはずだった物語たちは切り裂かれ、真っ黒に塗りつぶされ、無残に床に落下していった。
まるで地獄だ。耳を塞ぎたくなるような咆哮が鳴り響いている。二本の足がその無残に散った物語の死体の上で立ち尽くしていた。真っ黒な水溜まりが裸足に滲んでいく。足から徐々に視線が上がっていくほど、胸を激しく打ち付けるような鼓動が身体を支配する。
「なあ」
息が苦しい。酸素が奪われていく。暗闇より深い奥底を映したような二つの眼がこちらをじっと見つめていいる。それは、呪いの言葉だ。
一生染みついてとれない呪いの言葉。
「お前も俺に──死ねっていうのか?」
桜の花は連日の雨ですっかり落ちてしまったようだ。
最寄り駅を降りて、改札を通ると人々は一様に傘を開いて去っていく。透花もまた、手に持ったパステルカラーの傘を差して『アリスの家』に向かう。ローファーが雨の水を吸って歩き辛い。
雨の日は、『アリスの家』も閑散としている。小学生たちの賑わいが遠い昔のことのようだ。アトリエに顔を覗かせると、窓の外を眺めていた優一が透花に気付いた。
「今日はみんなお休みだって」
「……そうですか」
「うん。よかったら透花ちゃんが使って」
「……はい」
透花の肩をぽんと優しく叩いた後、優一はアトリエから出ていった。
一人残された透花は、イーゼルと描きかけのキャンパスを用意して席に腰を下した。座ったところで、絵の具を混ぜる気も続きを描く気も微塵も起きなかった。
創作とは厄介なものだ。一度行き詰まるととことん進まない。
線をなぞる様に描いていたころはどう描いていたのかすら思い出せない。粗を見つけるとどれもこれもが正解でないような気がして、一からすべてやり直したい気持ちになってしまう。スイッチが切れたようだ。そして、その理由を透花は分かっていた。
『俺と音楽ユニットを組みませんか。あなたに俺の曲を描いてほしいんです』
自分を見つけてくれたあの人。
透花の絵に価値を見出してくれたとするなら、これほど嬉しいことはなかった。
けれど。
けれど、透花は知っている。自分の創作が他者に評価される恐ろしさを。たかだか創作で、人の心がいとも簡単に砕けることを。
スマホの源ボタンを押してロックを解除すれば、何日も返せないままでいたDMが表示される。
最初から答えは出ていたはずだ。それを引き延ばし続けたのは、単なる自分のエゴだ。捨てきれなかったちっぽけなエゴ。
『ごめんなさい、』
一歩を踏み出す勇気はもう、無いんです。
*
3日ぶりの学校はうんざりするほど変っていなかった。
律は息苦しくなって、顔を覆うマスクを指でつまんで呼吸をする。治りかけの喉に春の乾燥した空気を送り込まれる。グラウンドから聞こえてくる野球部の声援をBGMに律は校庭の花壇に水撒きをしていた。
あれほど掻き立てられていた創作意欲はどこへ行ってしまったのか、無気力が頭を支配していた。むしろ今は音楽から遠ざかりたかった。花に無心で水をかけているほうが何も考えなくて済む。
『ごめんなさい、』
……ああもう、ほら、気が抜けるとすぐ思い出す。
大きく頭を振った。そのまま視線を下に向けると、いつの間にかホースの水の勢いがなくなっていることに気が付いた。どこかでホースがねじれたか、蛇口からホースが外れてしまったのだろう。律は重い足取りで手洗い場に向かう。
手洗い場には人影がった。蛇口を何度も捻りながら「もーなんで出ないんよ……やばいやばいバイト遅れる」とつぶやいている。手にじょうろを持っているところを見ると、律と同じ委員会の当番の最中のようだ。
「水でないの?」
「あーそうなん、で……ぎゃっ!! あ、あまみやせんぱい……」
後ろから唐突に声をかけたせいか、振り返った茶髪の女子は悲鳴を上げると律からすぐさま距離をとった。
「水やり当番の子?」
「ひゃっ、は、はい」
「あーほんとだ。水出ないね」
試しに律も蛇口をひねるが水は出ない。
「先生に言いに行かないとダメか」
「……ですよね」
「俺があとやっとくから、帰ってもいいよ」
「えっ、それはさすがに……」
茶髪の女子は目を見開いて、申し訳なさそうに眉を下げた。
「バイトあるんでしょ? 俺、この後も暇だから残りの仕事もやっとく」
「き、聞いてたんですか」
「じゃ、バイト頑張れ」
「……あ、あのっ、本当にすいません。ありがとうございます!」
茶髪の女子は律に頭を下げると踵を返した。手を拭くためか、スカートのポケットに手を入れてハンカチを取り出した時、一緒に何かが滑り落ちて地面に落ちる。
スマホだ。落とした本人はまだ気が付いていない。律は「ちょっと待って」と彼女を呼び留め、そのスマホを拾い上げた。
そして、固まった。
「す、すいません。ありがと……ひゃ!?」
スマホを受け取ろうと伸ばした手を律は咄嗟に掴んだ。目を白黒させて混乱する彼女を他所に、律はそのスマホから目が離せなくなっていた。
「雨宮……先輩?」
「……これ」
律はスマホの画面を彼女の眼前に持っていく。そこに映し出されたのは、ロック画面だ。律が何度も目にした、薄花色と月光のイラストが画面の中にあった。
どうかそうあってくれ、と縋るような気持ちで、目の前の少女に問いかける。
「きみが『透』?」
「……とおるって?」
現実は御伽噺のようにはいかなかった。見つめ返してくる無垢な瞳が律の淡い期待を無残にへし折る。
「ごめん。人違いだった」
薄く笑って、律は掴んだその腕を離す。
スマホを彼女の手に握らせた。そりゃそうだ。そんなうまい話があるわけもない。一刻も早くこの場から立ち去りたかった。
「それじゃあ、」
顔を伏せたまま彼女に背を向けたその時だった。
「あの!」
今度は逆に彼女が律の腕を掴んで引き留めた。無気力に振り返ると、目が合う。彼女は肩を跳ね上げて、掴んだ手を離した。そしてしばらく視線を泳がせた後、意を決したように口を開いた。
「雨宮先輩、このイラストの作者探してるんですか?」
心臓が口から出るのかというほど大きく脈を打っている。
「……知ってるの?」
燃え尽きた期待が、途端に膨れ上がっていく。
「私の友人です。名前は透花って言うんですけど……」
「本当に!?」
「きゃっ、」
少女の両肩を掴んで、律は目を見開いた。
「『透』を知ってるの!?」
「顔近っ、え、とあ、あの、『透』は透花のSNSのハンネなんですぅ……!」
「じゃあ!」
今からでも会って……、会って……何を言うんだ?
すんでのところで出しかけた言葉が喉の奥に引っ込んだ。
「……先輩?」
深く息を吐いて、律は『透』の友人の肩から両手を離した。血が上り切った頭に酸素を送り込み、いくらか冷静さを取り戻した。急いていた気持ちが先行しないよう努めながら、口を開いた。
「名前、教えてくれる?」
「私ですか?」
「うん」
「……佐都子です。緒方佐都子」
「緒方さん。明日、緒方さんに渡したいものがあるんだ」
「渡したいものですか?」
「そう。それを『透』に渡してほしい」
「まあ渡すだけなら……分かりました」
「ごめん、ありがとう」
律はその日、『Midnight blue』で久々にPCを立ち上げた。まだ歌詞すらのせていない未完成の曲をUSBに取り込む。ファイル名は『未成年失格.mp3』。そして、音声データとともに、メッセージを残した。返事を待ってる、と。
次の日、律はそのUSBを佐都子に手渡した。
みっともないと笑われても可笑しくないほど、最後の悪あがきだった。
*
パチンと、花火のように音が弾けた。
ワンテンポ遅れて、沈み込んでいた意識がぱっと蘇る。透花は何度か瞬きをした後、目の前で両手を翳している纏を見た。
「また透花どっか行ってたよ」
「……ごめん」
「別にいいけど。最近ずっと心ここにあらず、って感じだね」
「いやーはは、最近寝不足で。面目ない」
笑って誤魔化してみるものの、聡い纏は納得のいっていない様子で「ふーん」とだけ相槌を打った。
『アリスの家』は本日は休業である。
不定期開催の勉強会がアトリエで行われていた。透花の向かいの席に座る纏は、問題集とノートに目線を落としたまま、平坦な口調で透花へ質問を投げかけてくる。
「何かあった?」
「……へ?」
「急に絵、描かなくなったから」
「んースランプでね」
「うそ」
纏は滑らかにペンを走らせていた手を止め、顔を上げた。
「透花はスランプで描かなくなったりしないじゃん。むしろ一心不乱に描き続けるタイプのくせに」
よく分かっていらっしゃる、と透花は苦笑いを嚙み締めた。
「僕に言えないこと?」
「言えないかなぁ」
「だろうね。透花がスケッチブックに描いてた下絵と関係あるでしょ」
「……目敏いね、纏くん」
「まあね。いつも見てるから、透花のこと」
「こらこら。年上をからかうんじゃありません」
「ちっとも動揺してないくせに。よく言うよ」
通過儀礼のように軽口の応酬を終わらせると、ほんの少し、気詰まりした間が開く。
「──もう、終わったことだから」
その間を切り裂くように透花は呟いた。
終わったこと、正確に言えば透花が終わらせたことだ。彼からメッセージが送られてくることは、無いだろう。そして透花もまた、彼の曲を描くことはない。
「久々に描くのが楽しい、とかガラにもなく思っちゃった。でも、もうおしまい。……うん、大丈夫だよ。すぐまた元通りいつものわたしに戻るから」
熱に浮かされたような高揚感は、ほんの一瞬だけ透花の罪を忘れさせてくれた。けれど、ひと時の夢でしかない。夢は夢のまま、所詮現実には追い付けない。
にへらと透花が笑うと、険しい顔で纏は握りしめたペンを机に叩きつけた。激しい音に透花の肩が小さく跳ねる。……これは本当に怒っているときの纏だ。
「透花のそういうとこ、本当に大っ嫌いだ」
透花は苦笑する。だってわたしも、と同意しそうになったから。
「つまんないことばっか考えて、悪い方にばっか自己完結して、嫌になったらもう全部終わりにしちゃおうとか、描き続ける価値は自分にはないとか、そういうとこ全部! あいつが──」
「とーーおーーかーー!!!」
纏が勢いよく立ち上がった反動で転げた椅子の音と、破り倒さんばかりに開いたドアの音が重なった。押しつぶされるような沈黙が2秒ほど続く。
唐突な来訪者は焦ったように顔を傾げた。
「……え? 何この雰囲気。地獄?」
「佐都子」
来訪者の正体は、透花の親友の緒方佐都子だった。乱れた前髪の様子から、学校からここまで急ぎ駆けてきたことが伺える。
「どうしたのよ? 喧嘩?」
「あーはは」
透花は横眼で纏を見やるが、当の本人は不貞腐れたように顎を逸らすだけだった。これはしばらく口は聞いてもらえなさそうだ。
「佐都子の方こそどうしたの?」
「ああ、そうそう! そうなのよ!!」
「え? な、何? 近、近いよ?」
佐都子は机から身を乗り出して、透花の顔にまで急接近してくる。その様子はさながら不祥事を起こした政治家へマイクを突き付ける記者のようだ。
「透花、いつから雨宮先輩と知り合いになったの!?」
「……誰?」
「え?」
「ん?」
お互いの顔を見やる。
「いやいや、雨宮先輩よ?」
「うん、え? 誰?」
「だーかーら、雨宮先輩だってば! この前電話で言ってた!」
「あっ、思い出した! あの、密かに人気ある先輩だっけ?」
その人がなんだというのか、と透花は首を傾げた。残念ながら透花の高校は女子高であり、佐都子とは別の高校である。つまり、その雨宮先輩という人物は透花の知人の検索履歴には一件も引っかからないのだ。
「知り合いなんでしょ?」
「全く存じ上げないですけど……」
「ええ? じゃあ人違い? でもなぁ、『透』って言ってたし」
とおる。その単語に透花は耳を疑った。『透』は透花がSNSで使っているハンドルネームだ。リアルで知っている人なんて佐都子ぐらいなのに。
「透花のイラスト見て、急に態度が変わったからさ」
「わたしの?」
「うん。私のスマホのロック画面にしてるじゃん? それ見て急に、きみが透ですかって」
ありえない。そんなわけない、否定する言葉の数と同じくらい胸の奥底で期待が膨らんでいく。
「その人から、これを渡してくれって、頼まれたんだけど」
佐都子はスカートのポケットから取り出したのはUSBだった。手のひらに乗せられたそれを透花は握り閉める。
確たる証拠は、ない。しかし、透花はどこか確信していた。彼の最後の悪あがきであると。
「っ、纏くん!」
纏が怪訝な顔で片眉をぴくりとあげた。
「事務所のパソコン貸して!」
「……いいけど、」
纏の言葉は最後まで聞き取れなかった。否、聞く余裕は透花になかった。
立ち上げたPCにUSBを差し込んだ。
保存されていたのはmp3ファイルとテキストデータのふたつだった。Mp3ファイルのタイトルは『消せない春で染めてくれ.mp3』。
透花は直感した。彼の新しい曲だ。彼が透花に描いてほしいと言ってくれた曲だ。
そのファイルをクリックする。数秒のタイムラグの後、機械音でない、知らない男の人のハミング音が、ピアノの音とともに合わさって奏でられていく。
すべてを聴き終えた透花は、静かに息を吐く。いつの間にか、マウスを握る手に力が入っている。大きく開いていた穴が、たった4分にも満たない音楽でいとも簡単に掌握されていた。
「……ずるい」
透花の口から彼への悪態が漏れる。
ずるいよ、こんなの。こんな音楽を聴かされたら、もう、どうしようもない。
残るデータは、テキストデータのみ。そのデータを開くと、ただ一言『返事を待ってる』とだけ書かれていた。
*
───未読メッセージが一件あります。
『明日18時、○○駅前の公園でお会いできませんか』
そのDMが『透』から送られてきたのは、『Midnight blue』のバイトの真っ最中だった。律はそのメッセージを何度も読み直した。どうやら、見間違いではない。それでもまだ信じられなくて、ちょうどトイレから出てきた和久に頬をつねるよう頼むと、気味悪がりながら思いっきりつねられた。普通に痛かった。
夢じゃない。律は口を覆った手のひらの中でだけ「よっしゃあ!」と小さく歓喜の声を上げる。すぐさま気を取り直して、緩み切った自分の両頬を叩く。
スマホに文字を打ち込む。
返事の内容はもう、決まっている。
指定された駅は、学生や仕事帰りのサラリーマンやOLが乗り換えでごった返すターミナル駅だった。
律は人混みに押されながら、改札を通り駅を出る。目的地である公園に向かって歩き出した。心臓の音が反芻して耳に挿したイヤホンの音楽が全く入ってこない。
足元には連日の雨で落ちた桜の花の絨毯で一面埋め尽くされていた。すれ違う人々はみな、春風で振り落とされる花びらを見上げながら、惚けたように歩いている。
ただひとりだけ──律の視線の先で、足元を見たまま俯く人影を除いて。
彼女だ、と律は直感した。ここら辺では見かけない、セーラー服に身を包んだ小さな背中が不安そうに縮こまっている。肩上まで伸びた黒髪の隙間から、桜色の唇が固く結ばれているのが見えて、律の胸はさらに張り裂けそうになった。
春の甘い空気を胸いっぱいに吸い込んで、その背に律は声をかける。
「透さん、ですか」
細い肩が揺れて、伏せられていた顔が緩慢な動作で律を見上げる。
空の青さを数多にも重ね合わせたような深い色の瞳がこちらを見ていた。
ああ、このひとだ。彼女の瞳を通して映し出された世界から、あの透明な青が産み落とされたのだ。
彼女は胸の中で抱えたスケッチブックを強く両手で抱き締めて、意を決したように言う。
「あなたが、イツカさん……ですか?」
「うん、はじめまして。俺の本名は、律。雨宮律。きみは?」
「わたしは……、透花といいます。笹原透花」
とうか。律は口の中で転がすように復唱すると、すんと馴染む。彼女の名前にぴったりだと思った。
「あの、」
「えっと、」
ふたりの声が重なる。お互いぱちくりと目を合わせて、先に笑ったのは透花の方だった。笑い声に合わせて、黒い髪の先が緩やかに靡く。
「ご、ごめんなさい。すごく緊張してたから、今のでが肩の力が抜けてしまって」
「ああ、うん。それは俺も。昨日、全然寝られなかったし」
「わたしも全然寝られませんでした」
「俺だけじゃなかったんだ。ちょっと嬉しい」
透花は少しだけ目を見開いて、「ちょ、直球だ……」とさらに頬を赤く染めて、眉を下げた。
「えっと、あの、ですね」
「うん」
「まずは、これを返したくて」
律の前に何かを握りしめた手が差し出される。開いた手のひらにあったのは、USBだった。
え、と腑抜けた声が律の口から洩れる。
「ごめんなさい、」
その一言が重く、ただ重く、律に圧し掛かった。
「……って、言うつもりでした」
「へ?」
思わず表を上げると、透花は苦笑いをしながら続ける。
「わたしは絵しか描けません。それもすごく中途半端で、すぐスランプになるし、誰かに自分の絵を評価されることが怖くて仕方なくて、満足のいくものなんて何一つ描けなくて、自信もなくて、全部嫌になってもう描きたくないって投げ出すような弱い人間で、あなたが期待しているほどの才能も実力もないと思います」
「それは……違うよ」
「違うくない、です。わたしよりずっと、上手く描ける人はいっぱいいます。……けど、もう、どうしようもないじゃないですか。あんなの、聴かされて」
深い青の瞳の奥で、雨上がりに差し込む太陽の光のように輝いている。
「あんなの聴かされて、描きたくならないやつなんか、いませんよ」
「は、」
……なんていう、殺し文句だそれは。
「あの、雨宮さん? ど、どうかしましたか?」
「……いや」
「はい」
「……なんか、告白みたいだなって」
「なっ、」
言葉を詰まらせた透花は、ぽぽぽと効果音をつけたくなるほどm顔を真っ赤に染めた。そして、動揺のあまり、力が抜けて今まで両腕で抱えていたスケッチブックを地面に落としてしまう。そのタイミングを見計らったように、花嵐が吹き荒れる。風に攫われてスケッチブックから幾枚もの紙が一斉に舞い上がった。
──それは、透花が描いた世界のすべてだった。
はらり、と律の足元に落ちた一枚の紙を拾い上げる。
鼓動が激しく波打っている。恥ずかしさと、嬉しさと、言いようのない期待感。
「やっぱり、きみがいいよ」
本能が叫んでいた。彼女しかいない、と。律は透花に拾い上げた一枚の紙を差し出す。
「きみに、俺の曲を描いてほしい」
透花は春の陽光より淡く笑いながら、震える手でその紙を受け取った。
それが降参の合図だった。
*
「先生、すいません」
律の呼びかけに、よれた白いシャツの男が振り返った。薄ぶち眼鏡に律の顔が反射している。
「雨宮か、どうした?」
「遅くなりましたけど、これ、提出しようと思って」
鞄の奥底にしまい込んだまま、しわのついたA4用紙を律は担任に差し出した。その紙を受け取った担任はそこに綴られた文字を追って、顎を擦りながら頷く。
「あーはいはい、進路希望な。雨宮はー、大学進学希望、で大丈夫だな」
「はい」
「3年からは受験で忙しくなるからな。2年のうちに青春を謳歌しておけよ~?」
軽く律の肩を叩いて、担任は去っていった。
「……青春、ね」
しばらくその背中が遠ざかるのを眺めていると、ポケットの中でスマホが震えた。手に取って確認してみると、連絡先は『透花』と表示されている。きっと、新曲の最終確認のために連絡をしてきたのだろう。
電話口の向こうから興奮冷めやらぬ透花の声が聞こえてきて、思わず口元が緩む。なぜなら、律も同じように舞い上がっていたから。
猶予は、残り1年。
『音楽なんかで世界が救えない』ことを証明するために、律は音楽をする。